「夏葉……いや、夏葉さん。俺があなたを幸せにします」
きらびやかな夜景をバックにして、俺は意を決し、懐から用意していた小箱を取り出した。
都内某所の高層ビルにある高級レストランにて。まともに予約を取ろうとすれば何年待ちともいわれる席で、俺は元担当アイドルと向き合っていた。夜景の中心には、東京の顔となって久しい電波塔が据えられている。
彼女がアイドルだったのはつい三ヶ月前までのこと。九年のアイドル生活に円満な終止符を打ち、プロデューサーとアイドルという関係は既に解消されていた。この日は単なる知人として、しかし、単なる食事会ではないことを匂わせて彼女を呼び出していた。
社長に憧れて用意した一張羅の白スーツに身を包み、俺はなけなしの勇気を奮い立たせる。ひとつ小さく息をつき、手の中の小箱を開けた。ペリドットをあしらったダイヤモンドリングが姿を見せる。
「どうか、俺と結婚してくれませんか」
俺は彼女の目をみすえて迷いなく口にする。それと同時に、予定していた通り、電波塔のライトアップが色を変えた。通常の配色である紫から、放課後クライマックスガールズにちなんだ五色へとうつろっていく。赤に、黄に、青に、ピンクに、そして緑に染まって。
それで彼女は、きっと息をのんで――
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◇
実際のところ、夏葉がアイドルを引退したのは三週間ほど前のことだった。今月の頭――関東が梅雨入りする直前だったか――にユニットの解散ライブを行い、惜しまれつつも、約九年間のアイドル活動に幕を引いた。
俺と夏葉との関係は、いまだプロデューサーとアイドルのままだった。書類上の話だ。夏葉と事務所の契約は月末まで。この六月いっぱいは、形骸化したとはいえ、その関係が維持されることになっている。
「遅めのモラトリアムかしらね」
夏葉は現状を浮かない顔でそう評していた。俺はそれを「らしくない」とも思ったが同時に、「仕方がない」とも思っていた。
やれ『トップアイドル』だの『いま一番勢いのあるプロデューサー』だの、そう持て囃されていた三週間より以前ことが、もうずいぶんと昔のことのように感じられる。
夏葉がアイドルとしての活動を終えて、二人のスケジュール帳には空白が目立つようになった。端的に言えば、俺たちは急激な変化に戸惑っていたのだろう。慌ただしくも明確だった日常から放り出され、時間的なもの以上に、何か精力的なものを持て余していた。
そして、そういった変化に対するある種の必然として、俺は夏葉と出かけることが増えた。
夏葉は「六月の間は」と言って事務所に顔を出す。俺は一時的に仕事が減っている。夏葉は海を見るのが好きだ。俺は夏葉との時間が好きだ。だから、必然だ。
頻度にして三日に一回、さしたる目的もなく、俺と夏葉は海を見に行った。海に行く途中で、色んな寄り道をして、二人の時間を楽しんでいた。見ようによっては『デート』だと言えたかもしれない。
――今日だって、そういった日のひとつにすぎないはずだった。
いつも通りだった。昼前に事務所で待ち合わせて、二人で相談して目的地を決めて、ゆるりとドライブを楽しむ。何も変わらない。
脈絡もなかった。取り留めのない話をした。懐かしい話をした。二番目のアルバムのことだとか、メンバーの高校卒業を祝った時のことだとか。差し障りのない話を色々と。
それでいて唐突だった。話の切れ目に、夏葉の横顔がちらりと見えた時に、俺は言った。
「なあ、夏葉。結婚しないか」
俺は自分でわかるほどに目を丸くした。自身の口をついて出た言葉が信じられなかった。目をすぼめて、またたきを何度か繰り返す。対して、助手席に座っている夏葉はぴくりともしなかった。
あべこべだ、と思った。婚約を切り出した側が狼狽していて、切り出された側が平然としている。盗み見た夏葉の横顔は、神妙な面持ちで車の進行方向を見つめているだけだった。
もしかしたら聞こえなかったのかもしれない、と疑問が浮かぶ。今ならば発言をなかったことにできるのでは、と頭をよぎる。しかし首を軽く振って、その考えを打ち消した。夏葉に嘘をつきたくない。
「それも……いいかもしれないわね」
しばらくしてから、呟くように夏葉が言った。ちょうど車が赤信号に引っかかった時だった。
語調から否定的なニュアンスは感じ取れなかった。目元をよく見れば、わずかに緩んでいる。嫌がられてはいないようだった。だが、反応に乏しいというのはやはり不安になる。
「ひとつ確認していいか」
「ええ」
「その……結婚してもいいかもしれない、って言ってくれたよな。それはつまり、夏葉は俺のことを好いてくれている……ってことでいいんだよな?」
改めて言葉にすると、それは間抜けさを漂わせた問いになっていて、俺は無性に頬を掻きむしりたくなった。
「わざわざ確認することかしら。好きに決まっているじゃない。そうじゃなかったらすぐに断っているわよ」
「そ、そうか」
胸の内に薄っすらとした安堵が広がった。しかし、それで不安が消えてくれるわけではなかった。
正直なところ、夏葉の好意に関して自信があった。九年近く共に活動してきたのだ。好かれているという自負はあったし、好いているという自覚もある。それは夏葉も同じだろう。
こと好意に関しては、互いの気持ちを確信できている。それは間違いない。だからこそ、夏葉の態度が腑に落ちなかった。
そういう解せない感情を察したのか、俺が訊ねるより先に夏葉が口を開いた。
「想像できないのよ」
「……想像?」
「アナタとの生活が、どういうものになるのかわからなくて」
信号が赤から青に変わる。なるべく静かな発進になるよう心がけて、じわりとアクセルペダルを踏み込んだ。
「別に、結婚するのが嫌なわけじゃないの。そんなはずない。好きな人と一緒になれるのだから、嬉しいことに決まっているわ」
「なら何が引っかかってるんだ?」
「見えてこないのよ。その生活の中で、私は何をしていて、何を目指しているのか……それが、見えてこないの」
夏葉の声には抑揚がなくて、まるで自分自身に言い含めているようでもあった。
「……夏葉が、アイドルじゃなくなるからか」
「そう……ね。そういうことだと思うわ。アイドルじゃない自分なんて、今まで想像もしてこなかったもの」
夏葉が目を伏せた。俺は外れて欲しかった推測が当たっていたことを痛感した。夏葉の戸惑いは、俺の想像よりもはるかに大きく、根深そうだった。
逆の立場で、もし俺が明日にでもプロデューサーを辞めなくてはならない、となったらどうだろう。当面の金はある。住む場所もある。友人だっている。それでも、胸にぽっかりと穴が空いたような気分になるのは、避けられないのではないだろうか。
「想像、か」
夏葉の言葉を反芻した。
俺と夏葉の今後も想像が難しかった。今まではアイドルとプロデューサーでよかった。志を共にし、同じ高みを求め、手を取り合い支え合って進んできた。それだけでよかった。
しかし、その関係は終わった。あるいは終わろうとしている。ゴールにたどり着いてしまったからだ。無機質な言い方をすれば、関係の賞味期限切れだ。
「ねえ、プロデューサー」
「なんだ?」
大人しく夏葉の言葉を待った。俺は先の婚約の暴発を悔いていた。告白をしたこと自体に後悔はないが、気持ちが先走っていたのは疑いようがない。
夏葉が口を開く。
「次の信号、右よ」
「……え?」
「再確認になるけど、曲がったところすぐに駐車場の入り口があるわ」
「あ、ああ……了解だ」
運転に集中できていないことを見抜かれていたらしい。思考が切り替わる。漠然とした未来の想像を止め、現実的な運転における諸注意に集中する。
俺は今更のように安全運転を肝に銘じ、道路を右折して駐車場に入った。入口に立つ守衛さんに許可証を見せて、それと引き換えに駐車許可のステッカーをもらう。ステッカーには大きく大学の名前が書かれていた。
「来るのは卒業以来かしらね」
「駐車場に止めたことは全然なかったなあ。路駐ばっかりだった」
「送迎、いつも助かってたわよ」
車を停めて言葉を交わす。
今日まわろうとしている場所は三つだ。最後の目的地は海で、最初の目的地はこの場所。夏葉が七年前に卒業した大学だ。
この『デート』もどきでは、思い出の場所を巡るのがすっかり定番になっていた。
普段持ち歩いている手提げカバンは置いていくことにした。同様に夏葉も手ぶらで車を降りる。貴重品だけをポケットにしまって、俺たちは駐車場を後にした。
それは暗黙の了解であるような気がした。結婚、将来、幸福……そういった直ぐには答えが出ない問いを、取りあえず車内に置いていこうという同意だ。どうせ一時間とかからずに車に戻るのだから、と。
「こっちよ」
夏葉が一歩前に出て先導する。車で通って来た道を引き返していたので、行き先はすぐにわかった。
「わざわざ正門に回るのか?」
「昔はいつも正門で待ち合わせていたじゃない」
「それもそうか。……順序は大切だ」
歩いて五分とかからずに正門に到着する。七年前までは夏葉を迎えによく訪れた場所だ。目の前の光景に対して、「あまり変わってないな」と感想を抱けるくらいには記憶が残っていた。
平日の昼間なだけあって人通りは多い。学生や教員とおぼしき人たちが、思い思いに歩いている。能天気そうに空をボケっと見上げている人もいれば、何かに悩んでブツブツと呟いている人もいた。
「夏葉に気づかれて騒ぎにならないといいんだが」
「大丈夫よ。変装に抜かりはないわ。人も多いし、そんなに心配することないと思うけど」
夏葉がリネンの白地の中折れ帽子を目深に被りなおすと、薄茶色のサングラスが暗く光った。
「人気がある場所だと、むしろ気付かれにくいのは確かだが……いざそうなった時に騒ぎが大きくなるじゃないか」
「それも問題ないわ。アナタは私を誰だと思っているのかしら」
「対応には自信あり、か。夏葉らしいな。頼もしい」
「ふふっ、どういたしまして! それに実際もう慣れっこなのよ」
その言葉からは貫禄が滲み出ていた。俺は安心して辺りを見回す。思い出話のネタ探しだ。
「おっ」
「何かあった?」
「懐かしい物を見つけた。ほら、そこの掲示板だ。サークル勧誘のチラシが張ってある。……『アイドル研究会』のもあるぞ」
かつて夏葉を迎えに来た時のことだ。早めに着いた俺は掲示板を眺めて時間を潰していて、後から来た夏葉と、掲示された勧誘チラシについて会話に花を咲かせたことがある。その時に話題に上がったサークルの名前が『アイドル研究会』だった。
「あら、本当に懐かしいわ。チラシのレイアウトとかはさすがに変わっているみたいね」
「レイアウトなんてよく覚えてるな。俺はさっぱりだ」
「大切な思い出の一部だもの。アナタだって全部忘れたわけじゃないでしょう。ここにあるチラシを見て、アナタが私に言ったことは覚えてる?」
夏葉が指をさした。掲示板の上では、テニス、ラグビー、ワンダーフォーゲル、旅行……といった様々なチラシが、楽し気に青春の風情を醸し出している。今見ても心惹かれるものばかりで、当時の自分の言葉を思い出すのは容易だった。
「たしか『サークル、やりたいか』って聞いたと思う」
「それで、その後は?」
「夏葉に低い声で『どうして?』って聞き返された」
「……アナタも、よく覚えているじゃない」
夏葉はサークルに入っていなかった。大学の勉強とアイドル活動に手一杯で、そんな時間はなかった。それで俺は心配になったのだ。休むとか遊ぶとか、そういう『やりたいこと』が自由に出来ていないんじゃないのか、と。
「まあ結局、俺の独り相撲だったんだけどな」
夏葉にとってはアイドル活動こそが『やりたいこと』だったという落ちだ。俺にとってそれは失言をした思い出でしかなくて、だから、その後の夏葉の言葉は意外だった。
「でも、今ならアナタがそう言いたくなる気持ちもわかるのよ」
「夏葉?」
「なんて言えばいいのかしら。多分……私とアナタって、努力に対するスタンスが違うのよ。あの時はそんなこと考えもしなかったけど」
夏葉は掲示板を離れて歩き出した。俺もその後に続く。
「そうね。アナタは努力を『手段』と割り切れてしまうタイプだわ。必要だと思ったらどこまでも努力ができてしまう」
夏葉が人差し指を立てた。
その言葉の一部には思い当たる節があった。逆説的だが、いつかの夏葉が口にした、『これが努力の楽しいところよね!』というセリフに感銘を受けたのを思い出した。
「なら夏葉は努力そのものを楽しめるタイプだな。何に対しても真摯で、全力で……情熱的だった」
「別にアナタに情熱がなかったと言いたいわけじゃないのよ? むしろ逆だわ。アナタには誰にも負けないくらいの情熱があった。そうじゃなきゃ十数人、数ユニットを同時にプロデュースできたりしないはずだもの。ただ……」
「……ただ?」
「情熱とかいたわりとか、そういう感情が自分に向いてないんじゃないか、って思うことはあったわ。自分に対する割り切りがよすぎるのよ、アナタって」
そう言った夏葉の目は確信の色を帯びていた。俺は首をかしげる。自分はそんな殊勝な人間ではない。少なくとも仕事は楽しんでやれていたはずだ。
「そんなことないだろ。買い被りすぎだ」
「そんなことあるわよ。アナタはなんでも私たちに付き合ってくれたじゃない。買い物でも学校のことでも。本来仕事には関係ないことまで」
「必要なコミュニケーションだ」
「それに自分をいたわれる人は、自発的に過労で倒れるまで働いたりはしないわ」
「……それは、そうかもしれないが」
「『俺が怪我したって誰も困らないさ』。これ、アナタの言葉よ?」
「……い、言ったかな、そんなことも」
しどろもどろになり目を反らすと、夏葉が困ったように笑った。
「そういうアナタがたまに心配だったわ。気持ちがわかる、ってそういうことよ。きっと私たちは、お互いのずれた部分を意識し合っていたんじゃないかしら」
「ずれた部分、か」
「だからこそ噛み合っていたとも言えるわね。少しのずれが在るおかげで私たちは噛み合っていた。アナタの黙々とした努力を見て、私だってまだまだ頑張れるはずよ、っていつも自分を鼓舞していたわ」
脳裏にかっちりとした蒸気機関の歯車が浮かんだ。
たしかに夏葉の言う通りかもしれない。俺も同じだ。夏葉の情熱にあてられて、それに見合う人間にならねばと自分を奮起させてきた。夏葉の論は的を得ている気がした。
ならば夏葉の自分に対する評も、案外客観的な真実なのかもしれない。すなわち自分に対して頓着しない人間。努力を手段と割り切れてしまう人間。
「そういえば……」
ふと、どこかで似たような評価を受けたことがある気がした。「おまえは現状に対して割り切りがよすぎる」と誰かに言われたのだ。あれはいつのことだったか。視線をさまよわせて記憶をまさぐる。
壁に貼られている就職説明会のビラが目に入ったところで記憶が繋がった。
「『男というのは結果主義に囚われやすいものだ』……って言われたことがある」
「誰によ?」
「社長だ。天井社長。283プロダクションに入る時に」
夏葉と出会う半年前に、俺は天井社長に拾われて今の事務所に入った。もう九年半前ということになるのか。ぴしゃりとした言葉を投げかけられた記憶が蘇ってきた。
「……そういうアナタの昔話って、あまり聞いたことないわね」
「そりゃ俺の昔話なんて面白いことないからなあ」
「なら、いい機会じゃない?」
夏葉は足を止める。ちょうどよく隣の建物には学食が入っていた。興味津々と言った夏葉の目が俺を見つめている。
「いや、しかし……」
断ろうと言葉を濁す。改まっての自分の昔語りなど気恥ずかしくてしょうがない。そう考えると同時に、俺の腹の虫が鳴る。「決まりね」と夏葉が満足げに頷いた。
学食は活気ある賑わいと彩りを見せていた。変わらずの懸念事項であるのは目立つことだが、それも杞憂に終わりそうだ。冴えないスーツ男とサングラスの美女が混じっていても奇妙ではない程には多種多様な人がいる。
ぶかぶかのリクルートスーツを着た男女に、髪の天辺から爪先まで派手な色に染めている女性、よれよれの白衣に眠そうな目をした壮年の男性などなど。他にも一括りにできぬ人々が集団を成している。そして姿格好以上に、学食にいる各々が自分自身のことに手一杯であるという印象を受けた。無論、良い意味で。
俺はカツ丼を、夏葉はサンドウィッチを注文して席に着いた。
「先に断っておくが、俺の昔話なんか面白くないぞ。別につまらない人生を送ってきたわけじゃないが……普通すぎて話にする分にはつまらない」
嫌味を言うつもりは無かったのだが、暗に「君とは違って」というニュアンスが混じってしまったのは否めなかった。夏葉が可愛らしくむっとした。
「私だって面白おかしい人生を送ってきたわけじゃないわ。有栖川家に生まれて、親の期待にそって進学して、二十歳でトップアイドルを夢見て、九年間それに邁進して今に至る。話にすればこれくらいのものじゃない」
「それは色々と端折りすぎじゃないか?」
「話の愉快さは期待していないってこと。私のアナタに対する興味の問題よ」
夏葉は卵サンドに口をつけると、うつむきがちに瞳を揺らして「下世話だったかしら」と付け加えた。俺は「いや嬉しいよ」と答えて、割ったばかりの木箸を置いた。
「生まれは……いわゆる中流階級ってことになるのかな。中学までは地元で過ごして、高校大学は成績に見合ったところに進んだよ。卒業と同時に一般企業に就職した。そこに二年間勤めた後に、283プロに転職して今に至る」
こんな感じでいいのだろうか、と心の中で疑問符を浮かべた。人生の要約というのは案外難しい。
「成績はよかったの?」
「まあ、そうだな。トップクラスではなかったけど。要領だけは良かったから」
「目に浮かぶ気がするわ」
学年一位を目指す、といったタイプではなかったが、勉学に対しては真面目な生徒だったように思う。厳密に言えば通知表の数字の方に真摯であった。数学の公式の美しさを理解することよりも、成績のための『ちゃんとした』努力に心血を注いでいたのだろう。おそらく周囲の大多数と同じように。
自分にとっての通知表とは、五段階評価なら『5』を、優良可なら『優』を、ただ集めるだけのものにすぎなかった。
俺は再度割り箸を手に取って、閉じ卵を切り裂くように二つに割った。
「学生の頃から趣味はマフィン作りとアイドルだった」
「それは相変わらずなのね」
「どっちも不思議としっくりときたんだ。昔から妙に波長の合う趣味だった」
「……じゃあ、283プロに転職したのも?」
夏葉の声色が微妙に変化した。彼女の興味は最たる部分はここに在るらしい。俺は少し考えてから言った。
「アイドルというものに憧れて転職した、という意味なら……どうかな。違う気がする。憧れがあったのは間違いじゃないし、それが無関係というわけでもないんだけど……」
歯切れの悪い物言いになった。自分でも上手く転職当時のことをかみ砕けていないせいだ。夏葉も困惑の表情を浮かべている。いっそのこと事実をまとめずに話してしまった方がよさそうだ。
「前の職場は追い出されたんだ。世話になった上司に。勤務態度で」
「勤務態度? アナタが?」
夏葉はますます困惑の色を深めた。
「理由は働きすぎだ。休日返上、残業は当たり前で……周囲には過労死まっしぐらに見えていたらしい。それで『どうせ死ぬなら好きな仕事で死になさい』って諭されて、天井社長に紹介された」
その上司は俺がアイドルの世界に興味があることを知っていた。何かと目をかけてくれた人だった。
「それで社長に会って……その時に言われたのが、さっきの『結果主義に囚われやすいものだ』って言葉だ。他にも厳しい言葉や難解な言葉をかけられたよ」
「例えば?」
「『視野は広いくせに盲点が大きい』とか『心の器は大きいのに穴が空いている』とか。極めつけは『今のままじゃお前が幸せになるのは難しい』だったかな。散々な言われようだった」
天井社長と会ったのは貸し切りのバーだった。はづきさんもいたはずだ。社長は初対面でいきなり俺をトランプゲームに誘った。そして、俺という人間を値踏みし、底にある思考回路を見切り、あっさりと下した。それからプロデューサーをやらないかと名刺を渡してきたのだった。
「そういう言葉をかけられても、アナタは天井社長を尊敬しているわよね」
「それだけ真剣に向き合ってくれた人だからな。納得いかないことや、理解できない言葉もあったけど……それでも社長が甘い言葉を吐くだけの第三者じゃないのは確かだった。そうだな、一番印象に残っているのは……」
初めて会った時、幸せになるのは難しい、と言われて俺は食い下がった。それなら人は変われるのか、あなたの言う幸せとは変化することなのか、と若者染みた問いをぶつけた。それに老練の男はこう答えた。
「『変わるものもあれば、変わらないものもある。それでいい』かな。未だにわかるような、わからないような言葉だ」
「何だか禅問答みたいだわ」
「禅問答か。……ははっ、確かにそんな感じだ」
カツを口に運ぶ。噛み締めると肉汁があふれる。出先での食事は濃い味付けのものが多いが、このカツ丼は上品な味付けだった。俺はよくよく味わって飲み込み、納得した。
おそらく彼女の言う通りだ。俺は結果を求める人間だった。努力や過程など単なる手段としか思えず、自分を磨き、顧みることに興味が持てなかった。
だから『ちゃんと』を求めたのだろう。自分の感性を判断基準にできないなら、せめて、自分の結果と過程の中に客観的な『ちゃんと』が欲しかったのだ。
『ちゃんと』があれば、どんな激務にも苦を感じることはなかった。
「……マフィンの話になるんだが」
「ええ」
「マフィンってお菓子の中では簡単に作れる方でさ。手軽なんだ。だけど生地を混ぜるときだけは注意が必要で、そこを『ちゃんと』できてないと全てが駄目になってしまう」
「そうなの」
「大事なのは薄力粉を入れた後の混ぜ具合なんだよ。混ぜ方が甘いと粉がだまになってパサパサとした出来上がりになる。けど混ぜすぎると生地の粘りが強くなりすぎて、今度は焼いた時に膨らまなくなる。その加減が難しくて……なんというか、混ぜているときは不安でしょうがない」
「そういう不安はわかる気がするわ」
「誰だってそうなんじゃないか。自分のしていることが正しいのかどうか、そんな不安はいつだってつきまとう。どんな趣味でも、どんな仕事をしていても、何もしていなくても。……その点がマフィンはよくてさ。焼けばわかるんだ。『ちゃんと』していたかどうか、はっきりと」
上手にふんわりと焼きあがれば『ちゃんと』できた。そうでなければ『ちゃんと』できていない。単純明快な判断機構だ。
マフィン作りの『ちゃんと』は状況によって様々だ。薄力粉の保存状態、気温と湿度、作る生地の量などで、混ぜ加減の正解はころころと移り変わる。『ちゃんと』という言葉は曖昧だ。それはマフィン作り以外でも同じこと。ケースバイケース。霧の中にしかないもの。
それを感じつつも俺は『ちゃんと』を求めた。求めていた。自身の行動の正しさを『ちゃんと』に帰着させようとしていた。彼女のように、『過程を楽しむ』ということができなかったから。
「俺は『ちゃんと』して……そうやって、漠然とした不安から逃れたかった」
俺は静かに箸に力を込めて、どんぶりの中に在るものを二つに割る。最後のカツ一切れが二切れになった。
「アイドルに憧れたのは、彼らに『ちゃんと』がなかったからだ」
誤解を恐れずに口にした。アイドルに定まった正解はない。夢を叶えるために道なき道を進もうとする勇者だと、若い時分にはそう思えたのだ。夏葉は「わかるわ」と頷いた。
どんぶりの最後の一口をすくって、俺は懐かしむように笑った。
「……まあ、昔話だな。思い返してみれば、俺も青年らしく葛藤していたらしい。新発見だ」
努めて笑ったつもりだった。思いのほか暗い話になったので空気を和ませようとした。だがそんなことを考える必要はなかった。自然と笑えている。「そんな頃もあったなあ」と肯定できるくらいに葛藤は過去のものになっていた。
「でも今は違うよ。上手く言えないけど」
先のプロポーズ妄想を思い出していた。高級レストランでドラマチックに告白をする。あれは実際妄想であったが、近い未来における予定であり、準備された計画でもあった。
社長に頼み込んでレストランの席は確保した。白のスーツも新しく仕立てた。彼女の誕生石をあしらった婚約指輪を用意した。電波塔の管理会社にはあくまでイベントとして話をつけた。
然るべき交際期間、ドラマチックな告白、給料三ヶ月分の婚約指輪。そういった『ちゃんと』をすっ飛ばして婚約が暴発してしまった。彼女の横顔に何か言い知れない感情が突き動かされた。そう考えると、あの婚約暴発も肯定できる気がした。
俺は、ほとんど無意識的に右の頬を手でなぞった。
「アナタ、それ。右手」
「へ、右手?」
「そうやって右頬に触れるの。アナタのクセよね」
「……え、そうなのか?」
二度驚いた。触れていたこと、クセになっていること。特に後者はまるで認識していなかった。はたから見ればなんとも奇妙なクセだろう。
「最初に会った頃は、そんなクセ無かったわよね。……そのクセ、二年くらい前からかしら」
「二年前」
そう言われて強烈に思い当たる節があった。二年前、有栖川夏葉に心底惚れ直す出来事があったのを思い出した。その時の強い印象が、知らず知らずのうちにクセを作っていたに違いない。
夏葉に「覚えていないのか」と聞こうとした。だがそれは藪蛇だと思い直した。自分の青春語り以上に恥ずかしい思い出だ。そして何より綺麗な思い出だ。可能ならば大切に胸の内にしまっておきたい。
誤魔化そう、と決意した。
「……それで、学生の頃から、かれこれ二十年近くアイドルというものを見てきたわけだが」
慎重に夏葉の顔をうかがう。無理のある話の切り替えかと思ったが、夏葉は気にしていないようだった。
「やっぱりさ。贔屓目かもしれないけど」
狙うは話題反らし作戦の王道、褒め殺しだ。褒めて、褒めちぎって、話題を放課後クライマックスガールズのことに持っていこう。俺は「夏葉たちが一番だったよ」と口にしようとした。
……余談だが夏葉を褒めるのは難しい。いい加減に褒めていると思われると、たいてい夏葉は怒るか不機嫌になる。その反面、素直に伝われば彼女はとびきりの笑顔を見せてくれる。伝え方が難しい。それでも最初の頃に比べれば素直に受け取ってくれることは増えたか。
夏葉はこちらに期待の眼差しを向けた。
「その……」
そこで邪な考えが浮かんだ。少し上目遣いな視線を向けられて、むくむくといたずら心が鎌首をもたげてきた。要するに魔が差したのだ。
「学生の頃は日高舞が一押しだったんだ」
さも当然のように言い放った。夏葉は腕を組み、その視線はたちまち凍てついた。上目遣いだったはずなのに、見下ろされているかのような重圧を覚える。
「……へえ、そうなのね、ふぅん」
声色も随分と低くなっていた。しかし賽は投げられている。
「俺が学生の頃はとっくに引退していたけど、それでも作品とかは結構残っててさ。曲も名曲ぞろいなんだ。特に惹かれたのは、あの型破りなキャラクター性で………」
「あのね、プロデューサー」
無理にまくしたてるような自分の語りを、夏葉は重くゆっくりとした声で阻んだ。視線は鋭かったが、頬はほんのり赤く染まっていた。
「知らないようだから言っておくけど、私だってする時はするんだからね?」
「何を」
「嫉妬よ」
夏葉は「呆れてます」と主張するかのように鼻から小さく息を吐いた。
「もう。アナタってたまに子供っぽくなるんだから」
俺たちは並んで学食を後にした。
車に戻りエンジンキーを回すと、夏葉の顔が強張った。
カーナビの液晶ディスプレイには次の目的地が表示されている。事務所を出発する前に設定しておいたものだ。すなわちそれは、俺が「結婚しないか」と口にする前に設定された目的地ということになる。
「……あー、行き先変えるか? この近くならショッピングモールとかあるけど」
「いいえ、行くわ。一度決めたことだもの」
夏葉は毅然として言った。
二番目の目的地は海辺の教会だった。かつて仕事で訪れた場所であり、夏葉が初めてウェディングドレスを着た場所でもある。仕事の内容は雑誌に使う写真の撮影で、結婚式をイメージしてのものだった。
夏葉のウェディングドレス姿は鮮明に思い出せた。夏葉にとっても印象深い仕事であっただろう。あの教会に着いてしまえば、俺も夏葉も『結婚』というものを意識せずにはいられなくなる。
「出してちょうだい」
夏葉はそう言って窓の外に目をやった。遠くを見ていた。いつのことを思い出しているのかは予想がつかなかったが、邪魔すべきでないことはわかった。
俺は黙って車を発進させる。大学の敷地を抜けた。
その教会に着いたのは午後三時をまわった頃だった。
結局、到着するまで夏葉は一言も発さなかった。一時間ほど車に揺られて、その途中の十五分ほどの間に強い通り雨もあったのだが、それでも彼女は沈黙を貫いていた。
「着いたぞ」
俺がそう言うと、夏葉は我に返ったかのようにはっとした。短く礼を言って夏葉も車を降りる。駐車場には小さな水たまりができていた。
真っ先に海が見えた。教会は海に面した高台の角地に建っていて、否応なしに洋上の景観が目に入ってくる。裏手から付設の庭園に回れば、記憶の通りカリヨンの鐘があった。立地も景色も変わっていない。ここもまた当時から変わっていない場所だった。
礼拝堂に入ると、少ないながらも先客がいた。歩きまわりながら感想を言い合っている若いカップルが一組と、杖を立てかけて長椅子に座り込む老人の男性が一人。撮影も結婚式も行われていない。
「下調べが無駄にならなくてよかったな」
夏葉に声をかける。この教会は式場として名が知られていて、平日の昼間には定期的に一般開放がなされていた。もちろんその開放日を調べて今日ここを訪ねたのだが、ホームページに書かれた「開放日は都合により告知なく変更される場合があります」という一文がただただ不穏だった。
夏葉は無言で頷き返すと、教会の奥手にある窓に寄った。海と鐘が見える窓だ。そこで夏葉が振り返ると、俺は彼女のウェディングドレス姿を幻視した。
『――結婚しなくても、きっと幸せでいられるわ。今だって、すごく幸せだもの』
当時の夏葉は穏やかな笑顔でそう言った。あの時、あの瞬間を、彼女は鮮やかに肯定してみせた。俺はそれに『……うん』と返すことしかできなかった。
陽が差し込み、まばたきをすると、純白のドレスは立ち消えていた。夏葉が「ねえ、プロデューサー」と俺を呼んだ。
「『どうして結婚式で鐘を鳴らすか、知っているかしら』」
それは同じ質問だった。かつては答えられなかった質問だ。あの当時は、鐘に込められた意味など、考えたこともなかった。だけど、
「……不幸を追い払って、幸福を呼ぶために。そして遠くの人にも想いが届くように。そういう平和の鐘だ」
「憶えていてくれたのね」
「まあ、な」
忘れられるわけがない。その後に続く彼女の言葉だって、その一字一句を憶えている。
『だからね、プロデューサー。私――……』
『……』
『今は……あの鐘みたいに、幸せを海の向こう側まで届けられるような』
『……そんな、アイドルでいたいわ』
それほど彼女の言葉に惹かれていた。アイドルとして確固たる理想を持つ彼女に、それを迷いながらも笑顔で語れる彼女に、俺は焦がれていた。今にして思えば、俺にとって有栖川夏葉は誰よりも『アイドル』だった。
「……私は……」
目の前の夏葉の顔が曇る。
「私は、幸せの鐘でいられたのかしら」
「……夏葉自身は、どう思っているんだ」
「私は……上手くやれたと思っているわ。理想を遂げられたと信じてる。でも……この気持ちは……この気持ちを、感じてしまう以上は……」
夏葉は自分の身体を抱きかかえるように腕を組んだ。
「引退してからずっと、穴が空いてしまったような気持ちが消えないのよ。燃え尽き症候群というものなのかしらね。……私らしくないと、アナタは思うのかしら」
「迷うことは悪いことじゃない。それに今までだって何度も迷ってきただろ。最初の頃は他のアイドルの歌い方を真似ようとしたこともあった」
「……懐かしいわ」
「迷うのも、満たされないように感じるのも……結局のところ、夏葉が誰よりもアイドルだった自分を大切にしてきたってことじゃないか」
俺は心からの言葉を口にした。
「夏葉はよくやったよ。今の苦しみも虚しさも、決して悪い物じゃない。むしろ成し遂げたからこそあるものだ」
しかし、俺の言葉は空回りするおもちゃのようだった。夏葉の目から鈍い光が消えることはない。夏葉の成功を肯定することはできても、虚しさを生み出す根本のスキマを埋めることはできなかった。
言葉に意味と説得力を与えるのは行動だ。だから、今必要なのは行動なのだ。何かをしてあげたかった。俺が二年前の夏葉の行動で救いを得たように、今の夏葉の痛みを軽くする何かをしたかった。
「俺、は……」
だが思いつかない。言葉ならいくらでも重ねられる。それらに確かな輪郭を与える一つの最適な行動ひとつが出てこないのだ。俺は自分の無力さに深く辟易した。
もし彼女がまだアイドルで、俺がプロデューサーとしての立場に甘んじられるのなら、きっと息を吸うように最適解を出すことができるのだ。
ただ一言、『夏葉が答えを出すのを待ってるよ』と告げるだけでいい。今までのように夏葉を信じて待っていればいい。
だけど、もうその手は使えない。この六月が終われば夏葉は事務所に来なくなる。夏葉に迎えの車を寄こすこともなくなる。
俺は、夏葉を待つことができる場所を、永遠に失ってしまう。そうしたら――
「……あ、あのー」
ふと背後から声が掛けられた。聞き覚えのない声だ。振り向くと、先ほどまで礼拝堂内を歩き回っていた若いカップルが立っていた。
人気のある場所は気づかれにくい、と俺は大学内で口にした。対して礼拝堂内は、大学に比べればはるかに閑散としている。考えてみれば誰かに気づかれるのも道理だった。
「もしかして何ですけど、有栖川夏葉さんだったりします?」
女性が訊いた。その目はらんらんと輝いていた。
「わぁー! 本当に夏葉さんなんですね! わぁ! わわぁ! わわわわあっ!」
「喜んでもらえて嬉しいわ」
夏葉が手を差し出すと、小柄なその女性は飛び跳ねでもするように、せわしなく握手に応じた。
「あの、そちらの方は……」
カップルの男性が俺を不思議そうに見た。敵意の類は感じない。
「夏葉のプロデューサーです」
「ああ、成る程です」
男性の方も落ち着かない様子で、夏葉をちらちらと見ては溜め息をもらしていた。
カップルの男女を観察する。年の頃は夏葉の五つか六つほど下だろうか。似た系統のカットシャツを着ている。手首には揃いのブレスレッドがあり、二人の親密さがうかがえた。ちなみに俺は黒いスーツで、夏葉は白のブラウスに薄いベージュ色のカーディガンだ。
男性の方も、うやうやしい手付きで夏葉と握手を交わした。
「そ、それにしてもすっごい偶然だよね。――くん。そう思うよね?」
「そうだなぁ……こんなことあるんだな。宝くじが当たるよりビックリかも」
女性が男性を名前で呼んだ。俺は二人の態度に違和感を覚えた。あまりにも驚きすぎている気がする。
「あ! え、えっと……! わたしたち、これを見て、今日ここに来たんです!」
女性が手提げカバンから雑誌を取り出した。その古ぼけた雑誌を見て、その疑問は氷解した。
「あら……」
女性が雑誌を開く。夏葉が感嘆の息を漏らした。そこには夏葉のウェディングドレス姿があった。もう九年も前の写真になる。
女性が身を乗り出すように肩をいからせ、早口でまくし立てた。
「わ、わたし……! あの、中学生の頃から夏葉さんの大ファンなんですけど、というか、この写真を見てファンになったというか……あ、それでその、そのですね。この前に彼に結婚を申し込まれて、この雑誌のこと思い出したら……そしたら、本物の夏葉さんがいて、びっくりしちゃって、サイン欲しくなっちゃって……えっと、だからその、そういうわけで……あ、あれ……?」
男性が半歩前に出た。女性と俺たちの間に入り、やや横向きに立つ。
「どうどう」
「あ……ごめんなさい」
男子が間を取り持つように半笑いをして、こちらに軽く頭を下げた。
「あー、俺たち結婚するんです。そしたら彼女が『結婚するなら夏葉さんみたいがいい』とこの雑誌を出してきまして。それで、いざここに来てみれば本物の夏葉ちゃんがいて、俺たちもびっくり仰天と言いますか」
「……サ、サインも」
「サインも欲しいそうです。お願いできますか?」
男性がふたたび頭を下げた。釣られるようにして女性がオーバーなほどに深く頭を下げる。
「あ、でも、パッと何か書くものが……」
「大丈夫、持っているから」
夏葉は雑誌を受け取ると、何処からともなくサインペンを取り出して、軽やかに自身の名前をアートにして書き入れた。
「ありがとうございます! 一生の宝物にしますっ!」
「ふふっ、どういたしまして」
「お、俺はこの手帳にいいですか?」
「もちろんよ」
同じく夏葉は崩した字で『Natsuha Arisugawa』と手帳に書く。手帳を返されると、カップルの二人は無言と視線で喜びを分かち合っていた。二者の間だけにある浮いた気持ちを、微塵も隠そうとしていない。俺はそれを内心「若いな」と羨んでいた。
ひとしきりサインを堪能した後、女性のほうがおずおずと俺と夏葉を見比べた。
「どうしたの?」
「……こんなこと訊いていいのかな、ってホントは思うんですけど」
女性はどこか熱っぽい様子だった。
「なにかしら」
「ここに来てるってことは、夏葉さんとプロデューサーさんも結婚されたりするんですか?」
「それ、は……」
夏葉は答えに窮した。俺は唾を飲み込んだ。ファンを前にして『結婚するつもりだ』と言うことを恐れてはいない。夏葉は既に引退をした身だ。そういったことを、とやかく言われる立場ではない。
ほんの一瞬、夏葉がファンを前に険しい顔になった。ほんの一瞬だけ。
「……そうなるかもしれないわ。彼は誰より信のおける人だから」
「わぁ! 夏葉さん、結婚するかもだって! ねえ、聞いた、――くん? 聞いた?」
「聞いてる聞いてる」
「……その、私からも、アナタに一つ訊いていいかしら?」
「え……わたしにですか? はい、構いませんけど……」
女性はきょとんとしていた。まさか自分なんかに憧れの人が何かを訊ねてくるなんて、といった顔だ。夏葉は普段通りの微笑だ。だが俺にはわかる。夏葉は自分の声が震えてしまわぬように、笑顔の下で神経を張り詰めていた。
「――アナタは、なぜ結婚しようと思ったの?」
夏葉が訊く。その問いかけに、女性は申し訳なさそうに縮こまった。
「え、えっと……どういうこと、でしょうか……?」
「さっきの話だと、彼の方から婚約を申し込まれたみたいだけど……それを受けた理由を教えて欲しいの」
「あ、そういうことですか」
彼女は頷いた。そして隣の男性の裾をちょこんとつかみ、赤面した。
「わたし、昔からそそっかしくて。それでいっつも、――くんに助けられてて。だから……彼が望むことなら、なんでも応えてあげたいなって、そう思ったんです」
「……なんでも、なのね」
「はいっ! わたしにできることなら、なんでもです!」
咲くような笑顔で女性が答え、男性はそっぽを向いた。それはまるっきり少年少女のようだった。微笑ましくて、とても遠い。
男性は照れ臭そうに頭を掻いた後、女性の手を取った。
「そろそろ行こう。バスが来ちまうよ」
「え、もう? まだ夏葉さんとお話してたいよ。それにバスの時間はまだ……」
「いいから。これ以上、お二人の邪魔をしても悪いだろ」
「……あ、うん。それもそうだね」
ひそひそ話を終えて、みたび二人は頭を下げた。やはり女性の方のお辞儀は深々としていた。
「じゃあ、俺たちもう行きます。夏葉ちゃんに会えて本当に嬉しかったです」
「私も久しぶりにファンと交流できて楽しかったわ。また何処かで会えるといいわね」
「そ、その時は、なにとぞ宜しく……お願い致し……そ、そうろ……?」
「ほら行くぞ」
女性の手を引き数歩進んだところで、男性は立ち止まりこちらに向きなおった。
「あの、俺からもひとつ訊いていいですか。俺、『ロミオとジュリエット』の頃から夏葉ちゃんと樹里ちゃんのファンなんですけど……」
男性の方はかなり古参のファンだった。
「結婚された後、女優として復帰とかはありえます?」
純粋な期待を込めた視線に、夏葉は首を横に振った。
「ごめんなさい。まだそこまで先のことは考えてないの」
「そうですか。じゃあ今度こそ、俺たちはこれで」
最後にばっちり揃った会釈をして、カップルの二人は礼拝堂を後にする。礼拝堂の扉が閉じるまで、夏葉はその姿をじっと見つめていた。礼拝堂内に木戸のきしむ音が響いた。
教会のある高台を降りて、海岸にある砂浜に出た。二人で並んで海を見ている。
ここが最後の目的地だ。この『デート』の目的地はいつも、どこかしらかの海と決めている。夏葉にとって海という場所は特別な場所だ。そして、同時に俺自身にとっても。
「……青いな」
「それは海のこと?」
「いや、あの若いカップルの二人だよ。海の方は見ての通りだ」
海は黒々としていた。梅雨の海だ。降り続く雨で濁りきっていて、波打ち際ですら水底を見通すことはできなかった。
「ああいうのを若さって言うのかな。少し羨ましいと思ったよ。五年くらい前の俺は……」
「夢を追っていたわね。私たちと」
「そうだな。わき目も振らなかった。たぶん彼らみたいに。それこそ、好きだの恋だのを置き去りにするくらいには」
夏葉のことはずっと好きだったのだと思う。だが恋愛感情を取りざたする暇もないほど、夢を追う日々は楽しく満ち足りていた。そして気づけば『勢いに任せて』なんていう情動を失ってしまった。
「……もし、私がアイドルにならなかったとして」
夏葉が呟くように言った。
「アナタもプロデューサーにならなかったとして。それでいて、私たちが街中でふと出会えたとして」
「それで好きあったとしたら、か?」
「ええ……それなら、私たちは結婚していたのかしら?」
「……想像できないな」
俺は首を横に振る。
大学に向かう車の中で、夏葉は言った。『アイドルじゃない自分など想像もしてこなかった』と。同じだ。俺もプロデューサーにならなかった自分を想像したことはなかった。
「ならディティールを詰めましょうか。そうね……アナタは社長と出会わなかった。私はあの日、ライブに行かなかった。代わりに、朝早くから特別講義に出ようとして、寝惚けていたせいでアナタとぶつかった」
「智代子の少女漫画みたいだな」
「そうかもね。……私とぶつかったアナタは心配して、車で私を大学まで送ってくれようとする」
「車はどこから出てきたんだ。それに、夏葉は見知らぬ他人の車には乗らないだろ」
「アナタはコンビニでいつものお弁当を買おうと車を停めていた。私はもちろん警戒して車には乗らないと言う。そしたらアナタは『なら一メートル前を俺が歩く。道だけ教えてくれ』と言うわ」
「そんな傍から見たら完全に不審者みたいなこと言うかな。……ああでも、当事者だと言うかもなあ。細かいこと考えずに」
「アナタなら絶対に言うわ。それで道すがら話をして、私は代わりにアナタに憧れて、アナタと同じ会社に入って……アナタと肩を並べて同じ仕事をして、同じ夢を見る」
「あんまり変わらなくないか? それだと」
「でも、アイドルとプロデューサーではないわ」
俺はじっと考え込む。
やはり真っ先に考えたのは何ひとつ変わらない今現在だ。しかし、アイドルとプロデューサーでなければ、ふとしたきっかけで一線を越えて、結婚まで漕ぎ着けてしまう可能性。そんなものだってあるような気がしてくる。
だが無意味な夢想だ。俺はそう結論づけた。
「俺たちはアイドルとプロデューサーだよ。そうじゃない道はありえないし、その道こそが最良の道だったと……俺は信じている」
そう。ありえないのだ。俺は俺であるかぎりアイドルに憧れるし、夏葉も夏葉である限りアイドルを夢見ることになる。そうでなくては、もはやそれは別人たちの話だ。
俺はようやく先の夏葉の問いに答えられる気がした。
「夏葉は間違いなく、幸せの鐘でいられてたよ」
「……え……」
「あのファンのカップルさ、幸せそうだっただろ。もう何年も昔の仕事で、今の彼らが笑っていられる。それが夏葉の成したことだよ。夏葉の行動や想いは、みんなの中に残ってくれている」
俺は黒い海の先を見通そうとした。この太平洋を越えて、放課後クライマックスガールズの歌を届けに行ったこともある。
「夏葉が歩いてきた道は、紛れもなくかけがえのない物だった。だから、その空虚さを過去に求めるべきじゃない」
――燃え尽き症候群、と夏葉は自身を評していた。それは少し違うように思う。彼女は道に迷っているのだ。たとえば山の頂に登りきったなら、そこからたどれる道は下り坂しかない。ただひたすらに登ってきた彼女が迷うのも、仕方のないことなのかもしれない。
道に迷って、不安に駆られて、迷っていなかった過去を顧みる。それは誰しもがする行いであり、この九年間ついぞ夏葉がしなかったことでもある。
有栖川夏葉は普通の人間だ。自身の振る舞いに悩み、時に感情的に感傷的になり、当たり前のように痛みや辛さを感じている。
有栖川夏葉は特別な人間だ。努力の為に人目を憚らず、時に完膚なきまでに自分の非を認め、当たり前のように笑っていられる。
その二面性を造っているものを俺は知っていた。それは彼女が心より焦がれる『夢』だ。『夢』に対する真摯さこそが、夏葉を普通で特別な存在にしていた。
「……夏葉に必要なのは、『こうなりたい』っていう未来だよ」
俺がそれを口にすると、夏葉が弱く自分の拳を握り込んだ。
堂々巡りして同じ問題に戻ってきた。それはわかっている。大学に向かう車の中で、夏葉が『未来を想像できない』と言った地点から一切進んでいない。
夏葉は細い指を口に当てた。
「……初めてファンの子に嫉妬したわ」
「あの女性にか」
夏葉は無言で頷く。頷いて、俺の服の袖を取り、下から覗き込むように視線をぶつけてきた。
「私は、アナタが好きよ」
「ああ」
「アナタはどんな時も隣にいてくれた。気持ちに応えてくれた。欲しい言葉をくれた。私の望みを、叶えてくれた」
「……ああ」
「だったら、アナタが私に望むものはなに?」
夏葉は右手を俺の胸に、左手を自身の胸に手を当てた。
「アナタは私の望みを叶えてくれたから。私はアナタが好きだから。アナタが何かを望んでくれるなら……私はそのために……」
「……夏葉」
「……その、ために……」
夏葉の言葉は途切れて消えた。その体は震えている。俺は夏葉が何を言おうとしたのか理解していた。ひょっとすれば、最初に婚約を切り出した時に、彼女はその未来を思い描けていたのかもしれない。
『アナタの為に生きてもいい』。それが夏葉の言おうとしたことだ。
誰かの為に生きる。俺の為に生きてくれる。それを新しい夏葉自身の『夢』にする。その考えを彼女は口にしなかった。今も言葉にしようとして、最後の一線でそれを躊躇している。
――俺はそのことが、たまらなく嬉しかった。
「俺も、夏葉が好きだよ」
夏葉が好きだ。夢を真っ直ぐに追いかける彼女が好きだ。自分自身を信じられる彼女が好きだ。どこまで行っても、自分の在り方を誰にも譲り渡さない彼女に、俺は淡い恋をした。
「俺が夏葉に望むものは……」
だからあえて言おう。俺の望みを。彼女に伝えよう。
俺は一度目を閉じて、開き、右頬をぬぐった。
「夏葉。どうか、幸せなままでいてくれ」
◇
「穴の開いたバケツに水をためるには、一体どうすればいいでしょう?」
智代子がクイズ本を片手にそう言うと、果穂と樹里が眉間にしわを寄せ、凛世が首をかしげた。
俺は事務所のソファを中心に固まっている四人をぼんやりと見つめていた。グラスを片手に持ち、ソファを挟んで窓と反対側にある、デスク近くの壁際に立つ。すぐ隣にいる夏葉も同じようにしていた。ここにいる全員が、ほんのりと顔が上気している。大なり小なり皆に酒が入っていた。
――これは二年前の記憶だ。果穂の成人を祝った時のことだ。まだうっすらと寒さが残っていた、三月の末のことだったかと思う。ユニット一同、果穂を猫かわいがりしていたためか、妙に浮かれていたのを覚えている。もちろん、俺もその浮かれた人間の一人だった。
「んー……なんつーか、アバウトな問題だな……」
樹里がうなった。
「えっと……なぞなぞみたいな感じですか?」
「ちょっと確認してみるね。……あ、ううん、物理的に水でいっぱいにできるみたいだよ」
果穂の質問を受けて、智代子はパラパラと本をめくった。答えのページを見つけて、智代子はひとり、「あー」とも「えー」ともつかない表情をした。
凛世が手を挙げる。
「はい、凛世ちゃん」
「浴槽などの……より大きな水たまりに……バケツごと沈めてしまうのはいかかでしょう……?」
「あ、正解! 凛世ちゃんすごい! 他の答えだと、こぼれる量より多く水を注ぎ続ける、とかだって」
智代子が答えのページを、他の三人によく見えるように開いた。果穂は「あー」という表情をつくり、樹里は「えー」という表情をつくった。
「ち、ちからわざです……っ!」
「ち、ちからわざじゃねーか……」
二人の相似した反応に凛世は「ふふ……」と微笑を浮かべて、それから、クイズ本を受け取った。一度本を閉じて、無作為にいずれかのページを開く。一題ごとに出題者の役をまわしているらしい。
「よし、今度こそ正解してやるからな」
樹里が意気込んだ。
……ああ、微笑ましい。
俺は素直にそう思った。それは樹里に限った感想ではない。四人が何か一つのものに興じる様子それ自体が、とても愉快に感じられた。
なぜクイズの出し合いになったのかはわからない。成人をむかえた女性四人が興じるものとしては、いささか幼いとも思う。しかし、浮かれた人間がなにかに熱中することに、大きな理由などない。ただ娯楽本がそこに転がっていたというだけの話だ。
「夏葉は混ざらないのか?」
ちょうどグラスを空にしたタイミングを見計らって声をかけた。夏葉は軽くなったグラスを、所在なげに、ほんのわずかに揺らす。その横顔はやはり赤かった。
「私は……いいわ。眺めているだけで楽しいもの」
「そうか」
顔の紅潮具合で言えば、一番は夏葉だった。俺もたいがい顔を赤くしていたが、空のグラスに映りこむ自分の顔は、彼女ほどではなかった。この時、最も酒を愉しんでいたのは間違いなく夏葉だった。
別に悪い酔い方をしているわけではない。ただ明らかに、普段に比べて飲む量は多かった。ひょっとすれば、果穂の成人にもっとも浮かれていたのは夏葉だったのかもしれない。
「アナタこそ、いいの?」
「夏葉と同じ意見だ。見ているだけで楽しいよ」
「……そう」
優しげな口調だった。穏やかな空気が流れていた。俺もなぜか夢心地な気分になって、まだなみなみと中身の入ったグラスを、軽く揺すってみたりする。
デスクのすぐ横には臨時のアルミ製の折りたたみテーブルが配置されていて、数点の酒類とソフトドリンクがのせられていた。夏葉はそこからワインボトルを一つ取り、封を開ける。
「あ……これ、美味しいわ」
新たに注がれた深紫色の液体を口に含むと、夏葉はそう呟いた。グラスの縁に薄く口紅の痕が残る。
「そんなにか?」
「ええ。アナタも飲んでみるといいわ」
夏葉がグラスを俺に差し出す。空いていた左手で受け取って、それを口元まで運ぶ。かぐわしいぶどうの香りが鼻をついた。口に含み、十秒ほど舌の上で液体を転がしてみる。
「うん、確かにうまいな。口当たりもいい。だけど個人的には……」
「もう少し苦みがある方が好み?」
「ああ、そんな感じだ」
好みから少し外れるとはいえ、質の良いワインだった。社長がこっそり秘蔵のボトルを提供してくれていたらしいので、恐らく今のがそれだったのだろう。
満足して、グラスを夏葉に返そうとする。夏葉もそれに気づいて右手を伸ばす。お互いがグラスに触れて、指先がかすかに触れ合った。
そこでパシャリと、耳慣れた音がした。
これみよがしなシャッター音だった。前を向くと、デジカメを構えたはづきさんが立っている。もう一度シャッター音が鳴った。
「ふふふ~、ナイスショットです~」
「……急に撮らないでくださいよ、はづきさん」
恥ずかしさを誤魔化そうと、つい責めるような視線をぶつけてしまう。はづきさんもそれをわかっているのか、笑みを崩すことはしない。夏葉は元より気にしていない様子だった。急な写真撮影など、もうすっかり慣れてしまっているのだろう。
俺も気を取り直す。
「アルバム用の写真ですか?」
はづきさんは毎年、アイドルごとにフォトアルバムを制作している。それが彼女の趣味によるものなのか会社の指示によるものなのかは知らないが、ともかく、定期的にはづきさんは事務所の風景を写真に収めていた。俺も気づいた時には写真を撮って、微力ながら貢献させてもらっている。
「はい~。見てみますか、プロデューサーさん」
「ええ。じゃあ、せっかくなので」
はづきさんは「わかりました~」と気の抜ける返事をして、自身のデスクへと向かう。カメラは手にしたままだ。俺は眉をひそめる。
質問の意図が食い違っていたらしい。「見てみますか」という問いの目的語を、俺は「たった今撮った写真を」だと解釈したが、はづきさんは「アルバムを」のつもりで言っていたらしい。その齟齬を解消する間もなく、折りたたみテーブルの上には七冊のアルバムが積みあがった。七冊もの。
「はづき、七冊あるわよ?」
「はい~、七冊ですよ~」
……七冊のアルバムというのは計算が合わない。
一番上に積まれたアルバムの表紙には「放課後クライマックスガールズ」と書かれている。順当に考えれば、その下には各メンバーごとの個人アルバムが続くはずで、つまり、冊数は六でないとおかしい。間違えて誰かのアルバムを余分に持ってきたのかと思ったが、はづきさんの口ぶりだと数はあっているようだった。
「ふふっ、そういうことね」
夏葉が確信めいた所作で一番下のグレーのアルバムを引き抜いて、俺に渡した。その表紙を見て目を疑う。題名はずばり『社長・プロデューサーさん・一応七草はづき』。
「お、俺たちのですか!?」
「一冊増えるくらい、あんまり手間は変わりませんから」
アルバムの中腹あたりを開き、数ページほどめくってみる。一ページに三、四枚の写真が収められていた。三人で居酒屋飲み会をしている写真、はづきさんが堂々と居眠りをしている写真、俺が会見直前で緊張している写真……などなど、様々な写真が時系列順で並んでいた。
写真ごとに薄い色合いの紙を長方形に切り取ったメモが同封されている。アイドルたちのアルバムのように可愛らしいコメントはないが、そこには日時・場所・出来事が詳細に記されていて、読めば写真を撮った時の情景がありありと思い出せた。これで「手間が変わらない」は嘘だろう。
「やっぱり思い出は残しておきたいじゃないですか。お嫌でしたか~?」
「そんなわけないじゃないですか。すごく嬉しいですよ」
もちろんアイドルたちと映っている写真もある。ウィスキーボンボンを猛烈な勢いで口に運ぶ智代子に、それを止めようとする樹里と夏葉、その隅っこの方で酔い覚まし用の麦茶を用意している俺と凛世と果穂。たしか、智代子と樹里の成人祝の時の写真だ。
「おー、懐かしいな、これ」
「樹里、みんなも」
クイズに興じていた四人が、昔話の匂いを嗅ぎつけたのか、こちらに来ていた。
「プロデューサーさんの、ちょっぴり恥ずかしい写真があると聞いて」
「プロデューサーさまの……まばゆし写真が……」
「まあ、そういうのもあるだろうな。結構な年数分のアルバムだし」
興味津々といった様子の彼女らに持っていたグレーのアルバムを手渡す。
今度は夏葉も混ざって、五人で一つのアルバムの検分をはじめた。それで思い出話に花が咲くのなら、俺の恥ずかしい写真なども浮かばれるというものだ。
「あ、でも、最初の方のページは刺激が強いかもしれませんね~」
はづきさんが妙なことを言った。
「刺激、ですか?」
「半年早いアルバムなんですよ~」
どういうことなのだろう。
半年早い、というのは、おそらく制作時期か写真の収録時期の話だ。社長と俺とはづきさんは、放課後クライマックスガールズの発足より数か月早く事務所にそろっていたわけで。それは、つまり……
「ひゃっ!」
智代子が素っ頓狂な声を上げた。
「プ、プロデューサーさんの目が! 目が死んでるっ! 死んだ魚みたいにっ!」
「チョコ、それだと例えになってな……うわっ」
「プロデューサーさま……これは……」
智代子たちが、アルバムの写真と俺の顔を何度か見比べた。明らかな困惑が見て取れる。
「……ああ、そうか。半年早いってそういうことか」
俺がアイドルのみんなと出会う約半年前の、283プロに入ったばかりの写真もあるのだ。あの頃は切羽詰まっていて、行き場のない焦燥感に駆られていて、精神のギリギリの所をなんとか取り繕っている状態だった。それはもう酷い顔をしていたに違いない。
あの当時はじっくりと鏡を見る余裕すらなかったので、その酷さを具体的に想像できないが、はづきさんが「刺激が強い」と評したということは、つまりそういうことなのだろう。
「あー、前の職場で色々あってな。変に気負って無理をしてたんだ」
「前の、ってことは……」
「ああ。283プロに移ってからは、そういう無理はしてないよ」
心配そうな智代子に、つとめて優しく言う。嘘はない。283プロは働き甲斐のある職場だった。
凛世がやや怪訝な眼差しをこちらに向けた。
「最初の一年……プロデューサーさまは二度ほど……過労でお倒れになったかと……」
「え」
「そういや、あの頃はプロデューサーっていつも事務所にいたな。自主的に休んでるところなんて、ほとんど見たことなかった気がする」
「あ、いや、それはだな……」
「樹里ちゃん、凛世さん、もう少し見てみましょう。プロデューサーさん、自分のことになると発言がテキトーになりますから」
「お、果穂も言うようになったねぇ。……付き合い、長くなったもんねえ」
「はいっ! みなさんのことなら、もうなんでもわかりますっ!」
彼女たちのアルバムをめくる手に、より一層熱が入る。イタズラをたしなめられたようなバツの悪さがあって、しかし心地よさも確かにあって、俺は苦笑いをするほかなかった。
一歩引いて壁に寄りかかる。
「ふふっ、信用されてますけど、信用されていませんね~」
「ですねえ」
社長の秘蔵ワインを一口含んでから、彼女たちに目をやった。
「これ、最初の合同ライブの時のやつだ。疲労困憊で今にも死にそうな顔してるけど」
「ですが……目元は、微笑んでいるようにも……」
「たしかに。あ、そういえば私、このライブの時にさ……」
「こいつは? えっと、この日付だと……なんのお祝いをした時だ?」
「凛世ちゃんの高校卒業じゃないかな。笑ってるね。というか、定期的にお祝いしてるね、私たち」
「だなぁ。そういやさ、お祝いと言えばなんだけど……」
「あっ! これは比較的最近の写真です。二年くらい前に社長さんが……」
「めちゃめちゃ満面の笑みっ!!」
「でも、相変わらず疲労の色が浮かんでますっ!」
……
彼女たちは一枚、また一枚と、アルバムをめくりながら、やいのやいのと感想を言いあっている。一応の話の主題は「俺が楽しそうかどうか、無理をしてないかどうか」であるようだったが、話は何度も脱線していた。その時のライブのちょっとした失敗話であるとか、その年の流行のことであるとか、会話の種は尽きる様子がない。
ただ、夏葉がどこか神妙な面持ちで写真を見つめていたのが少し気になった。しかしわざわざ彼女たちの歓談に水を差すほどの深刻さは、そこからは読み取れなかった。
「うむむ……」
どうにも落ち着かない気分になってしまった。
彼女たちから見た俺自身の働きぶり。その沙汰が下ると思うと、腹の底がむずむずとしてくる。さっきまでの浮かれた気分とは違う。期待と緊張がせめぎ合っていて、わずかに期待感が勝っている。そんな判然としない高揚感を胸の内に感じていた。
「プロデューサーさん、なんだか小学生みたいですね~」
はづきさんが言った。
「成績表が帰ってくる前の、そわそわした子みたいな~」
言い得て妙だと思った。小学校の成績表、たしかにそうかもしれない。無邪気に、気負いもせず、成績表が渡されるのを待っていたのは小学生の時ぐらいではなかったか。
「それじゃあプロデューサーさん、おでこを出してください。あっ! あと、少しかがんでくれるとありがたいです」
昔のことに思いを馳せているうちに、彼女たちの審議は終わっていた。代表して智代子が俺の前に立っていた。後ろ手で何かを隠していた。
「構わないが……何をするんだ?」
「さっきのお話は聞かせてもらいました。ちょうどいいので、プロデューサーさんには、これを差し上げます!」
智代子は自分の口で「じゃじゃん!」と効果音を入れて、スタンプケースを掲げた。蓋は既に開いていて、中にあるスタンプが見える。順序良く並んだそれらは、右から『たいへんよくできました』『よくがんばりました』『もうすこしがんばりましょう』……などと書かれていた。文字を囲むフレームは桜をかたどった形になっている。
「智代子、よくこんなの持ってたな」
「放課後クライマックスガールズですからね。学校イメージの小物は色々と準備してるんですよ。ツイスタにアップするときに便利なんです」
えへん、と智代子が胸を張った。スタンプケースの左端には、同じフレームで文字が『チョコレート!』のスタンプもある。明らかに特注品で、思わず笑みがこぼれた。同時にその勤勉さに舌を巻く。
「これでいいか?」
前傾姿勢をとり、前髪を掻き上げた。
「はい! プロデューサーさんに押すのはこれです! 『たいへんよくできました』っ!」
額に短く弱い圧迫感を感じた。智代子が満足そうな顔を浮かべる。どうやら綺麗に押せたらしい。
「はい、樹里ちゃん」
「それじゃあアタシも遠慮なく……えいやっ。ま、やつれた顔が多かったのは気になったけどな。よし、はい果穂」
「えへへっ! 隠れ笑顔一等賞ですっ、プロデューサーさん! ……どうぞ、凛世さん!」
「では……」
あっという間に『たいへんよくできました』が四つ、俺の額に押し込まれた。額にはまだ圧迫感がほんのりと残っていて、それが少し誇らしかった。誇らしくて、幸福にさえ感じた。だけれども――
「お次は、夏葉さんに……夏葉さん?」
思考が途切れる。凛世の声につられるように、彼女と同じ方向に視線を向けた。
折りたたみテーブルの横に一脚だけ置かれた木製の椅子。そこに夏葉は座っていた。背筋を立てて、左手の拳を右手でくるみ膝の上に置いて、小首をかしげるようにして、微動だにしない。
「夏葉?」
目を閉じていた。グレーのアルバムを開いて、彼女は静かに眠っていた。
開かれたアルバムから、死んだ魚の目がこちらを傍観していた。それに夏葉がうつむいているように見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。
夏葉が目を覚ましたのは、それから二時間後のことだった。
彼女は自然と目を覚まし、寝惚けまなこをこすりながら周囲を見渡した。俺を除いて、既に事務所には誰もいない。お祝いの料理なども一通り片付いていた。
「智代子を連れて、樹里と凛世は寮に戻った。果穂は、はづきさんが車で家まで送ってる」
状況をかいつまんで説明しつつ、紙コップを夏葉の前に置く。入っているのは酔い覚ましのただの水だ。夏葉は逡巡してから、紙コップに口をつけた。
「……ソファまで運んでくれたのね」
「椅子の上だと寝心地が悪いかと思って」
「ありがとう。でも……起こしてくれても良かったのに」
倒れて椅子から落ちたら危険だという判断のもと、ユニットメンバーの四人が彼女を動かした。最初は俺が直接抱えて運ぼうとしたが、それは樹里と智代子に止められている。
起こす気にはなれなかった。深く眠っていたから、という理由もあったが、それ以上に話をしたかった。一対一で話せる状況を作りたかったのだ。
夏葉の斜め向かいのソファに座る。
「珍しいな。というより初めて見たよ」
その一言で、夏葉はこちらの意図を察したようだ。紙コップが置かれ、視線が合わさった。
夏葉の顔は変わらず赤いままだ。まだアルコールは抜けていないようだ。目じりが下がっていて、おぼろげな印象を受ける。
「何かあったのか?」
単刀直入に訊くことにした。
夏葉は自分の立ち振る舞いを大切にしている人間だ。常に周囲に遠慮しているという意味ではない。夏葉はどんな時も善く在ろうとする心がけを持っている。だから、酔いつぶれたところなど見たことがなかった。
とはいえ、夏葉も完璧な人間じゃない。そんな人間はどこにもいない。彼女が疲れ果てて眠っている姿など、これまで何度も目にしてきている。
つまり知りたいのは理由だ。浮かれた気分だった、それで酒がすすんだ。それも間違いではないだろう。だがそれだけではないと、今日までの経験がささやいていた。
「ああ、いや、別に夏葉を責めたいわけじゃないんだ。俺も似たようなもんだしな」
俺だって結構な量を飲んでいた。酔いは未だに覚めきっていない。
「だけど、その……心配なんだよ」
嘘偽りない本心だった。それで、夏葉の瞳が揺れた……ような気がした。
夏葉が天井を見上げた。そのまま二、三度またたきをする。しばらく目をつむって、それから、夏葉は観念したかのように笑った。
「ひょっとしたら、不安を感じていたのかもしれないわね」
それはまるで他人事のような口調だった。
「あと何回あるんだろう、って数えていたの」
「何回って?」
「お祝いの回数よ。果穂も、あと二年で大学を卒業するわ」
言葉の意味がわかるより先に、ゾクリとした感覚が背筋を走った。遅れて思い至る。お祝いの回数とは、すなわち節目の回数だ。
放課後クライマックスガールズで、これまで何度もお祝いをしてきた。アイドルのことなら、大きなライブの成功だったり、オリコンで新記録を達成したりした時に。それ以外のことなら、今日のような成人の時や、学校の卒業の時などに、何度も。
そして、節目とは時間の経過の上にある。時間の経過は否応がなく、来たるべき終わりを意識させる。アイドルという夢の終わりを。
その時、俺はどんな顔をしていたのだろうか。怯えた表情を浮かべていたのだろうか。夏葉は俺の顔を覗き込んで、励ますように微笑み、断言した。
「私は今が幸せよ」
虚ろ気な雰囲気とは逆に、力強い口調だった。
「だから、ぜいたくな不安ね」
もう一度、観念するかのように夏葉は笑った。愁いを帯びながらも、どこか楽しげだった。
幸福だからこそ、それが終わってしまうことに恐怖を感じる。夏葉が言いたいのはそういうことなのだろう。ある意味では仕方のない不安だ。だから逃れようもないし、「ぜいたく」でさえある。
「それで……えっと……」
夏葉が机の上に視線を這わせた。何かを探している。
「アルバムか」
「ええ。もうしまっちゃったかしら……?」
「ちょっと待っててくれ」
立ち上がり、ソファから離れて、反対側の壁際に向かう。
アルバムを見ていた場所は壁際の折りたたみテーブルの方だ。当然ソファ周辺にあるわけがない。夏葉の思考能力は、まだ十全には戻っていないようだった。
「……あれ」
折りたたみテーブルには、アルバムのほかに忘れ物も置かれていた。智代子のスタンプケースだ。俺はグレーのアルバムと共に、その忘れ物も一緒に手に取った。
手に取った理由は……よくわからない。上手く頭の中で理由が形になってくれなかった。自身の思考能力が低下しているのを感じる。やっぱり夏葉のことをどうこう言えないな、と自嘲した。
「取ってきたぞ」
戻ってアルバムを夏葉に手渡し、スタンプケースはソファ前の机のはじに置いておく。夏葉は短く礼を言って、半身分ほどソファの右側に体をずらした。人間ひとりが余裕を持て座れるスペースが空いた。
アルバムが机の上に広げて置かれる。隣り合って座っているので、向ける方向に苦慮しなくて済んだのはありがたかった。
「プロデューサー、この写真なんだけど」
「俺が入社した時の写真だな。智代子の言う通り、死んだ魚の目をしてる」
「それの……ここよ」
夏葉が同封された長方形の色紙を指差した。日付の記されたメモだ。夏葉たちと出会う約半年前の日付が入っている。
「この日、私は私が何をしていたのかを、よく覚えているわ。その時の空気と熱量まで、目を閉じればくっきりと思い出せる」
夏葉は日付の入ったメモ用紙を、ファイルの透明膜の上から愛おしそう指先でなぞった。
「私は生まれて初めて、ライブというものに行ったの」
「……夏葉、それって」
「この日は、私のアイドルとしての始まりの日なのよ」
アイドルを目指したきっかけ。夏葉のそれを、俺は断片的に聞いていた。
当時、夏葉は何も知らないまま、なんとなくアイドルというもの軽視していた。それが友人に誘われて行ったライブで百八十度回転した。そのスケール感に圧倒されて、自身もアイドルを目指したのだと、そう聞いている。
「あの日、私は私自身に期待をしたの。『私なら大きなことを成せる』って、そう思ったの。そしたら、世界がもっと明るく光って見えた。でも……」
夏葉の指が、写真の中の俺に触れた。
「私にとっては素晴らしい日でも、誰かにとってはそうじゃない。それはわかっていたわ。当たり前のことだもの。だけど、その誰かがアナタだと思うと、なぜか悔しくて、哀しくなって……そう感じてしまった理由を考えると、もっとわからなくなってきて……」
とうとうと夏葉が語る。語り口に合わせて、次第に彼女の目の焦点が合わなくなってきていた。
「……それで、考えがまとまらなくなって……寂しくなって……」
「いつの間にか、眠っていた?」
「……え、ええ……そうね。答えが出なくて眠ってしまうなんて、学生の頃に戻ったみたい」
「そうかもな」
俺はなるべく自然にアルバムを閉じた。また夏葉が眠りに落ちてしまうのではないかと危惧したからだ。
「ねえ」
不意に夏葉がこちらに体を寄せてきた。身をよじり向き合って、彼女が俺の首元に手を伸ばす。喉仏の上部あたりに手が触れた。夏葉の瞳が俺を見上げている。
「な、夏葉、何を……」
「アナタは今が幸せ?」
ほっそりとした白い指が、俺の首元を撫でた。
「……感情は伝わるものだわ。こうしてあげると気持ちって伝わるのよ」
それは丸っきり飼い犬にするような動作だった。思わず「俺は犬じゃないぞ」と言いたくなる。
だけど止めておく。夏葉は「あの子が」とも「カトレアが」とも言っていない。ならば俺が否定する必要はない。それに夏葉の指は心地がよくて、俺も犬みたいなものなのかもしれないと、そんな気がしてくる。
「俺は……」
口ごもってしまった。言おうとした言葉を止めたせいか、他に何を言うべきなのかわからなくなっていた。自分が今、幸せなのかどうかも分からない。不幸ではないという後ろ向きな確信だけがある。
思考は相変わらず胡乱なままで、だから、俺は思ったままに行動することにした。
「なあ。夏葉もこれ、押してくれないか」
智代子の忘れ物、スタンプケースを手元に引き寄せて蓋を開ける。中からスタンプを一つ取りだして、そっと夏葉の手に握らせた。
「これでいいの?」
「それがいいんだ。夏葉に押してもらうなら、それがいい」
選んだのは『よくがんばりました』のスタンプだ。最高評価の『たいへんよくできました』ではなく、上から二番目の『よくがんばりました』だ。
「わかったわ。じゃあ……目をつぶって」
「ああ」
右頬に圧がかかる。それも少しの間のこと。数秒ほどで触れている感覚は消え失せた。
目を開けると、また夏葉と目が合った。夏葉は俺の顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。『よくがんばりました』が押されているであろう右頬を、熱っぽい視線で見上げている。
「ねえ、プロデューサー」
今度は夏葉が、俺の手にスタンプを握りこませた。
「……私にも、ちょうだい」
夏葉の視線の意図は読めなかった。単に酔いによるものなのか、それとも他の感情が成すものなのか。だが、どうでもよかった。そんなことより夏葉の願いを叶えてやりたい。
「どこに押せばいい?」
「アナタと同じでいいわ」
「わかった。それじゃあ、目をつぶってくれ」
「ええ」
夏葉が目をつぶり、俺は息をのんだ。
久しぶりに間近で見た彼女の顔は美しかった。改めてそのことを実感した。整った顔立ち、きめ細やかな肌、手入れの行き届いた毛髪。自分とはまるで違う。こんなものを押してしまっていいのかと、躊躇さえ覚える。
それでも、最初に思ったようにしようと決めた。
息を止める。これ以上、手が震えてしまわないように。そして彼女の右頬に触れる。道具越しのはずなのに、その柔らかさが伝わってくるような気がした。触れた肌はふわりと沈んで、元に戻る。
「……どう?」
薄目を開けて、夏葉が問うた。うまく押せたかどうかの確認だ。それは読み取れていた。
文字のかすれはない。インクのムラもない。紅いインクと赤みを帯びた肌色のグラデーションがいまひとつで、境界が曖昧になっているのが気になるくらいだ。
だから、特に失敗がないことを伝えようとして、それなのに、出てきたのは違うセリフだった。
「よく似合ってる」
夏葉の顔に浮かぶ『よくがんばりました』がきらりと光った。
そんなふうに見えたから、そう言ってしまった。
「……え……」
「あ……」
すぐに後悔した。
顔がかあっと熱くなる。客観的に見れば似合っているはずがない。彫刻のように大人びた顔立ちに、学童が喜ぶような紅い文字。ミスマッチもいいところだ。服装だってそう。白のカジュアルドレスに、ダイヤを数珠に繋げたネックレス。それらに対して『たいへんよくできました』だ。やはり噛み合うはずもない。
酔いが一息に覚めていくのを感じた。自身の無軌道な行動に嫌気がさした。俺は何がしたかったのか。『よくがんばりました』を押し合ったのは単なるお遊びだ。間違っても「似合ってる」なんて言うものじゃない。それは……『たいへんよくできました』ではないのだから。
「い、いや……今のは……」
喜ばれるはずがない。
そう思って誤魔化そうとしたのに。
誤魔化すより先に、夏葉がにこりと笑った。
「ふふっ」
それは朗らかで、包み込むような笑みだった。
「ありがとう。当たり前じゃない」
――その時、俺の胸中に去来したものが何であったのか、今ならばよくわかる。
「夏……葉……」
手の震えが止まらなくなった。その手で自身の右頬に触れる。何も感じない。
インクはとっくに乾いていて、指に赤色が着くことはない。皮膚の細胞は忘れっぽくて、数秒前の弾力を覚えていてはくれない。俺ひとりでは、そこに『よくがんばりました』があることすらわからない。
「……俺にも、さ。……ってるのかな」
だから確かめたかった。確かめてもらいたかった。
「似合ってる……のかな。俺にも、これが……似合っているのかな」
夏葉が俺の右頬に手を添えた。
俺の右頬と右手と、夏葉の左手が触れあう。体温が伝わる。彼女の瞳に映る俺は、見たことのない顔をしていた。泣きそうなくせに、まるで陽だまりにいるようだった。
手が離れた。互いの息を感じられるかのような距離で彼女が言う。その言葉と表情を、俺はきっと、最期の時が来ても忘れない。
「ええ、とっても。――それも、当たり前のことじゃない」
◇
――二年前、俺は夏葉から何かを得た。
心に在るものが伝わることを知った。穴あきバケツを満たす方法が在るのだと知った。漠然としか感じられなかった影法師を、はじめて掴み取ることのできた夜があった。
夏葉は俺とは違う。夏葉は何かを目指す喜びを感じていられる。手に落ちてきた多くのものを肯定できる。だからこそ、『幸せを感じる力』が誰よりも強いのだ。
かつて、幸せを届けるカリヨンの鐘を前にして、夏葉はこう言った。
『あの鐘のように、幸せを海の向こう側まで届けられるような……』
『そんな、アイドルでいたいわ』
そう望んでいた彼女が、身近な人間ひとりを幸せにできないはずがない。だから、俺が夏葉に望むものはきっと、あの時に決まっていたのだ。
俺がアナタを幸せにします。なんて、そんな紋切り型はいらない。
俺を幸せにしてください。なんて、そんな変化球もいらない。
「夏葉」
彼女は夢を叶えたのだから、幸福な成功を掴み取ったのだから、俺はただその幸福が続くことを祈っていたい。
「どうか、幸せなままでいてくれ」
胸にあたる夏葉の手を、俺は握り返そうとした。
俺の意識は二年前の記憶から立ち返り、現実の黒い海の砂浜に戻ってきていた。
……ふと、風が吹いた。
突風だった。急な陸風だ。俺はぐらつき、言葉を噛み締めるように目を閉じていた夏葉もまた、その風に対応できなかった。夏葉の白い中折れ帽子が風にさらわれ宙を舞う。数秒ほど滞空して、帽子は海に落ちた。
俺は弾かれるように飛び出した。海に向かって着の身着のままで駆け出していた。夏葉が制止の声を飛ばす。それを俺は後ろ手で制した。
海に飛び込みたい気分だった。きっと帽子のことがなくても、俺はこの海をどうにかしてやろうと行動を起こしていただろう。それほど黒い海が気に入らなかった。海の黒さを恐ろしく思う自分に腹が立っていた。
海に踏み込む。
海水は冷たかった。靴に容赦なく水が入り、靴下と擦れてぐちょりと不快な音を出す。
ズボンに水が染み入り、ずしりと重くなった。腰に飛沫が当たり水が跳ねる。一波、二波と寄せるごとに体の芯が揺さぶられるようだった。
鳩尾のあたりまで水につかった。ネクタイとジャケットくらいは外すべきだったと後悔しそうになる。せめてもの幸運は浜が遠浅になっていて、これ以上沈み込まずに済むことぐらいだろうか。
そして、寒さに体が震えた。海の嫌な臭いが鼻をつく。波に靴の片方が絡めとられ、海のどこかへと消えた。服の下に空気が残り、気持ちの悪い浮遊感に襲われる。腕の動きはみるみる鈍くなって、俺の心から熱を奪っていく。
それでも、もがいた。
俺は叫び出したかった。
俺は叫び出したかったのだ。
――こんな、こんな浅瀬がなんだ。
――俺達は太平洋だって越えられたんだぞ。
――だから、越えられる。また、越えられる。何度だって何度だって、越えていける。
――俺たちが望めばなんだって越えられる! 叶えられるんだ!
「……っ!」
今度こそ足がとられた。体のバランスが崩れて前につんのめる。顔が海水をなめた。
「プロデューサー!」
夏葉が叫ぶ。
すんでの所で転ぶのをこらえた。また一歩と足を前に出す。割くように水を手で掻き分ける。俺は止まらない。止まってなどやるものか。
そして、感情の発露も止まってはくれなかった。俺の身体は高らかに声をあげる。
「夏葉ぁ……っ! 俺は……今が幸せだ……っ!」
進む。帽子までもう2メートルもない。
「俺たちは叶えた! 夢を、叶えたんだっ! 夏葉はアイドルとして! 俺はプロデューサーとして! 最高のゴールを迎えられたっ! これで幸せじゃないはずがないだろっ!」
帽子まで手が届く距離に入った。
「だけど……っ! だけどさぁ……っ!」
懸命に手を伸ばす。
「俺は……っ! 夢が叶うまで九年間だって幸せだった! 夢が叶わなくても、途中で終わってしまっても、きっと俺は幸せだったっ! 夏葉がいてくれたから! 夏葉と一緒に同じ夢を目指せたからっ……!」
手に、触れる。
「夏葉が……っ! 『これが幸せだよ』って……っ! 俺に笑いかけてくれたからっ……!」
――ああ、そうだ。
――夏葉が夏葉のまま笑っていてくれれば、俺はきっと幸せでいられる。
俺は、夏葉の帽子を確かに掴み取った。
岸に戻る。進むときにと比べて随分と楽に感じた。まだ引き波より寄せ波のほうが強い時間帯だ。波に逆らわずに動くだけでいい。
辛いのは眼だった。顔に着いた海水と髪に跳ねた海水が滴ってきて、目に染み込もうとする。痛みで薄目を開けるのがせいぜいだった。
それでも夏葉の場所はわかる。彼女の目の前に行き、帽子を手渡した。
「……俺は、夏葉の夢にはなってやれそうもない」
帽子が俺の手を離れる。
「俺は夏葉に新しい夢を示してもやれない。……でも、夏葉なら大丈夫だ。夏葉が望めばまたすぐに見つけられる。色褪せることのない夢を、また見ることができる。幸せなままでいられる」
夏葉がどんな顔をしているのかわからない。だが笑っていてくれればいいと思う。
「夏葉は、何を選んでもいいんだ。その夢がどんなものであっても、この先がどんな未来になっても、俺は、ちゃんと……」
だから俺はまた宣誓をする。
「……そばに、いるから……」
伝えたい想いは伝えられた。告げて、俺は夏葉の横を通り過ぎる。
着替えを取りに車に戻ろうと思っていた。だけどそこで、もうひとつ言っておかなければいけないことがあるのを思い出した。
「婚約の、ことだけどさ」
少しだけ声が震えた。
「忘れてくれとは言わない。だけど、一時保留にしておいてくれ。まだ考えるべき時期じゃなかった」
……これでいい。結婚はしたい。夏葉のことを強く抱きしめていたいし、その唇を奪ってしまいたいと思っている。だけどそれは、俺にとって一番大切なことではなかった。
とんだマッチポンプだな、と自嘲した。結婚を申し込んで夏葉の心を揺さぶった挙句、答えを示せず夏葉なら大丈夫と太鼓判を押しただけ。あの婚約暴発は、対極的に見れば余計な藪蛇以外の何物でもない。ちっとも『ちゃんと』してはいなかった。
でも、その行為にわずかな救いがあるとすれば、あの行いが夏葉の弱った心に付け込もうとした何かではなくて、一人の人間が心に従った結果の、恥じても胸を張るべき失敗だったことだろう。
俺は顔についた海水をぬぐった。その時、
――ちゃぷりと、水の音がした。
「待って」
足を止める。ようやく目を開けられた。夏葉が海に入り、くるぶしまでを水にひたしていた。夏葉は屈んで海の中から何かを拾い上げる。
俺の靴だ。波にもまれて戻ってきたらしい。それを受け取るために夏葉の方に歩き出す。
「海って、こんなに冷たかったのね」
「わざわざ拾ってもらって悪いな」
「いいえ、いいのよ。気持ちいい冷たさだから」
夏葉の目の前まで近づいて、その靴を受け取った。夏葉は優しく微笑んでいた。
「ねえ、プロデューサー」
夏葉がいつものように俺を呼ぶ。
「……私と結婚してくれる?」
それは不意打ちだった。情けないことに、俺は呆然として何の反応も示せなかった。
「違うわね。ごめんなさい、やり直させてちょうだい」
その夏葉の笑顔を、俺はどこかで見たことがあった。あの教会だ。記憶が溢れかえってきた。あの時の言葉がまたも再生されてくる。
『――結婚しなくても、きっと幸せでいられるわ。今だって、すごく幸せだもの』
『それでも、そうしたいって思うことがもしあるなら……』
教会の彼女と目があった気がした。荘厳な礼拝堂の、木材と空気の匂いを錯覚する。
「ねえ、――」
彼女が俺の名を呼んだ。下の名前、俺の本名だ。
『そうしたいって、思える人に出会えたら……』
『その時は、私……』
夏葉が手を差し出す。
「どうか私と、結婚してくれませんか?」
……胸が、詰まる。
夏葉のその言葉と同時に、丁度よく風が吹き抜けたりはしなかった。高台の上から教会から鐘の音が聞こえたりもしない。そんなものがなくとも、俺には十分に特別に思えた。
俺はまだ何も言えなくて、彼女の手を取り、ただ頷くことしかできない。夏葉の笑顔から涙がこぼれる。
「私、世界一幸せな花嫁になるわ。トップアイドルになれたんだもの。そういうものにも、きっとなれるわ」
俺は、彼女の肩を抱きしめた。
それからどのくらい語らっていたのだろう。気がつけば水平線に陽が沈もうとしていた。
「そろそろ行きましょうか。色々と決めないといけないわよね。住むところとか、結婚式場のことだとか……できればあの教会がいいのだけれど」
夏葉は高台を見上げると踵を返し、砂浜をふらつくことなく歩いていく。ダークサーモンの髪が、海風になびいて揺れた。そこで俺は、夏葉の海に来るたび、最後には同じ光景を見ていることに思い至った。海に向かって「私は有栖川夏葉」と海に叫んだ、かつての夏葉の姿が脳裏をかすめる。
「変わらないな。……本当に、変わらない」
「どうしたの? 何か言ったかしら?」
「いや、気にしないでくれ。当たり前のことだった」
「そう?」
急ぎ足で、よろめきながら追いつく。横に並ぶと夏葉は満足そうに眼を細めた。どちらが言葉にするでもなく、自然と手が触れあい、固く結ばれる。
「私は変わらないわ」
いつもの夏葉らしい、力強さと柔らかさが同居した口調だった。
さっきの独り言が、本当は聞こえていたのではないだろうかと思った。しかし、それで何が変わるということもない。同じことを感じられたというだけの、それだけの、ほんの些細で喜ばしいことだ。
「二十年、同じ生き方をして来たのだもの。今さら変われないし、変わろうとも思わない。それでいいの。……それでいいって、アナタのおかげでそう思えるのよ」
さっきから夏葉は感謝の言葉を並べ続けていた。俺は気恥ずかしくなって、答える代わりに彼女の手をさらに強く握った。少しでも力強さが伝わるように、しっかりと。
「ふふっ、ありがとう。私はこれからも幸せでいられるわ。幸せなままでいてくれ、って言ってくれる人が隣にいてくれるなら、それはきっと、絶対に。だって……」
そこで、夏葉が婚約を受け入れた理由が今になってわかった。俺は『』をしていたのだ。たったの漢字二文字。夏葉が時折口にする二文字の言葉を、俺は彼女にしていたのだ。
二人で最初に海を眺めた時も、ファン感謝祭の時も、それから幾度も幾度も、今までの長い道のりの中で、夏葉はその言葉を口にしていたはずだ。その言葉を聞くたびに、俺の心は温かくなる。
夏葉は笑って、そして、口にする。俺は耳をそばだてる。
「私、期待に応えるのは得意なのよ」
夏葉の未来と幸福を、俺は『期待』していたのだった。
時は巡る。
「ブ、ブライダルフェアって、こんなにやってるのか!?」
「都内だけでも式場はたくさんあるもの。第一候補はあの場所としても、色々見て回って損はないはずよ」
「それもそうだが」
「大丈夫よ。私は時間があるから。ちゃんと精査してくるわ」
「いや極力都合をつけるよ。一緒に行った方が得るものは多いし、それに楽しいだろ」
「ありがとう。すっごく楽しみになったわ!」
俺は夏葉と歩いていく。寄り添いあって歩んでいく。
「サムシング・フォーを集めてみようと思うの」
「ああ、あっちのおまじないだっけか。集めると幸せな結婚ができるっていうアイテム」
「何か新しいもの、何か古いもの、何か借りたもの、何か青いもの。その四つと六ペンス銀貨よ」
「たしか『何か新しいもの』は白い物がよくて、『何か借りたもの』は友人からがいいんだっけか。どれから集める?」
「六ペンス銀貨からね。入手難易度的に」
「……そ、そこからなのか。まあ理にはかなってるけどさ」
今は『世界一の花嫁』を目指して研究中だ。いつかこの目指すものが『世界一の妻』になり『世界一の母』へと変わっていくのだろうか。それとも、あのファンが言ったように、芸能界に復帰して、『世界一の女優』を目指したりもするのだろうか。
「ああ、そうだ。プロポーズはやり直させてもらうからな。せっかく準備したんだし……」
「準備?」
「え、あー……いや何でもないぞ。うん、何も企んでないからな」
「そう? でも無理だけはしないでちょうだいよ」
「……無理も楽しむさ。一生に一度の大一番なんだから」
「ふふっ、それもそうね」
未来はわからない。だけど変わらないものはある。これから先、仲睦まじく、でも時に喧嘩もして、苦難を乗り越えて。俺はどんな時も夏葉を支え、肯定し、期待をするだろう。夏葉はそれに応えて笑っていてくれるだろう。
ああ――
――たぷりと、水の溢れる音がした。
ブライダルフェアに向かう途中の道、男は水音に立ち止まった。不可思議だった。あたりを見回しても大きな水場はない。あるのは焼けたコンクリート道路と、子供が遊びまわっている公園だけだ。男は首をひねる。
男の数歩先を歩く女性が振り向いた。男の妻となる女性だ。楽し気に「置いて行っちゃうわよ」とはしゃぐ女性に、男は右手をあげて応える。そして歩き出した。
――再び水の溢れる音がした。
今度は立ち止まらなかった。男はそれが幻聴だと理解したからだ。幻聴だと理解した上で、男は水音の鳴る方に手を伸ばす。
男は思う。気怠さを感じるほど暑い太陽と、膨らんでいくような湿気った夏の空気と、その中を軽やかに歩く最愛の女性を見て思う。男は自身の胸に手を当てていた。
――ああ、
――ああ、俺の幸せは、ここにある。
終わりです。お目汚し失礼しました。
二日遅れとなりましたが夏葉さん誕生日おめでとうございます
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