芹沢あさひ「この雨がいつか止んだなら」 (153)


・アイドルマスターシャイニーカラーズ、芹沢あさひがメインのSSです。よろしくお願いします。
・芹沢ハピバ。




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「何者かになりたいと思ったことってある?」


 通い慣れたレッスン場からの帰り道での出来事だった。
 
 その声が果たしてどんな色を帯びていたのか、いまとなってはもう思い出せない。
 かろうじて呼び起こすことのできるものといえば、車体を激しく打ちつける雨の音と錆びついたような耳鳴りばかりで、交わした言葉のほとんどが、喩えるなら古い映像作品の字幕みたいに、単なる記号としか記憶されていなかった。

 あの日は朝からずっと酷い雨が降り続いていた。
 私の淡い期待はどうやら空まで届かなかったようで、終業のベルが鳴りレッスン場へと向かう時間になってもなお、依然として雨脚が弱まる気配はなかった。
 濡れたら嫌だな、と思いつつビニール傘を片手に校門をくぐると、向かいの歩道に、同じく傘を片手にして立っているその姿を見つけた。
 曰く、ちょうど近くに来る用事があったから、そのついでに。
 華奢な右腕に支えられた黒傘は不格好に大きくて、なのにスーツの裾が少し濡れていた。



「それが関係あるんすか?」

 どこかで交通規制でも起きているのか、いつもより混雑した四車線の左端を、車はゆっくりと進んでいく。
 ガードレールの向こうを歩く人達は、こっそりと示し合わせたように黒かビニールの傘ばかりを差している。
 そのことがなんだか面白くて、だけど、すぐ脇に立てかけられた私の傘も窓の外にあるそれらと違わないことに気がついて、それは何となく楽しくないなと思った。

「その『何者か』っていうのは――」

 緩慢に過ぎ去っていく風景を眺めながら私は言う。

「たとえば、あの女の子みたいな感じっすか?」

 窓の外、前方から歩道の上を、小学生くらいの女の子が、恐らくは父親と思われるスーツ姿の男性と一緒に歩いてくる。
 少女の隣で穏やかに笑う男性の手には大きめのレジ袋、その中にはいかにもホールケーキでも入っていそうな角張った箱がみえる。
 誕生日のお祝いか何かだろうか。
 あてもなく、そんなことを考える。
 
 水を編んだように青く透明な生地でできた傘を、少女は楽しそうにくるりと回す。
 たったの一瞬の光景は、だけど、とても鮮やかで、眩しくて、まるで映画のワンシーンみたいに私の目に焼き付いた。
 肝心のカメラがどこにも見当たらないことが不思議だった。



「ん。誰のこと?」

 暗がりに声が響く。
 視線は横に向けたまま、私は答えた。

「青い傘の女の子っす。もう通りすぎたっすけど」
「青い傘?」

 私は軽く頷いて、それ以上なにも言わなかった。
 言えなかった、というほうが正しいかもしれない。
 どうしてその少女のことに言及したのか、自分自身よく分かっていなかった。
 
 それでも、何かが伝わったのか、

「ああ、なるほど」

 さらに数秒ほど経って、どうだろう、と続く。



「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「何なんすか、それ」
「正しくは、そうであってもいいし、そうでなくてもいい、かな。それはこちら側が決めていいことじゃない」
「言い出したのはそっちじゃないっすか」
「でも、答えるのはあさひだ」
「それは、まあ」

 たしかにそうだ。私は小さく頷いた。

 雨雲のせいだろう、午後八時の街明かりはやけに心許ない。
 助手席の小さな窓は鏡のように私の姿を反射していた。
 さっきからずっと前ばかりを向いている運転手の姿もまた、その狭い枠の内側に映し出されている。
 
 風に煽られる雨粒、左右を往復するワイパー、先行車のナンバープレート、遠くで火山でも噴火したのかと疑うほど沈んだ色の雲。
 車内から見えるものなんておおよそそれくらいのものだ。
 でも、それにしたってすぐに慣れてしまう。面白くない。
 だから、かく言う私も、さっきからずっと歩道ばかりを眺めている。
 こちらは飽きない。何にせよ、すぐに過ぎ去ってしまうから。

「あさひは」

 不意に私の名前が呼ばれる。穏やかな声だった。



「たとえば、その女の子みたいになりたい?」
「その女の子みたいになりたい、っすか」

 投げかけられた言葉をそのままに繰り返してみる。私に届いたのと同じくらいの速度で。
 その行為に意味があるとすれば、それはきっと質問の意図を咀嚼するためだろうけれど、でも、意味なんてない。
 何となくそうした。

「どうなんすかね」

 そのことについては、尋ねられるよりも先に考えを巡らせていた。
 青い傘を差した少女の存在に言及したその瞬間から、ずっと。
 
 何者か、に付随させるイメージとして、どうして私は彼女をあてがったのだろう?
 あの少女があの瞬間に特別だった理由なんて、あの青い傘一つしかないのに。
 どうして?



「よく分かんないっす」

 結局のところ、私はそう答えるしかなかった。
 分からないものは分からない。こんなことで嘘をついても仕方がない。

 私は相変わらず助手席の窓に向かっていた。
 なのに、その向こう側で運転席の影とどういうわけか目が合って、そうして初めて、外に賑わった街の流れが止まっていることに気がついた。

 赤信号だ。

 運転手の両手から解放されたハンドルは、少し休ませてくれとでも言いたげな様子でピタリとも動かない。
 車体を揺らすエンジン音もまた、幾分か穏やかな調子を刻んでいるように思えた。
 行ったり来たりのワイパーを何となく目で追いながら、私は続ける。


「もしかしたら適当に言っただけかもしれないっすね」
「あまりそういう風には思えないけれど」
「それはわたしも同じっす」

 私は軽く頷いて、それから一呼吸置く。

「だけど、うまく言葉にできないっていうか。近いとこまでは来てる気がするんすけど、こう、あとちょっとのところでふっとすり抜けていくんす」
「なるほど。分かりやすい」
「分かりやすいっすか?」
「比較的」

 ぴたりと止まったまま、代わり映えのしない景色はやはり酷く窮屈で、私は運転席のほうを振り返る。
 だけど、私たちの目は合わなかった。
 窓の外へ向けられた表情を、綺麗に整った後ろ髪が教えてくれるわけでもなくて、私は拗ねたみたいにぷいと視線を元に戻した。

「これは勝手な印象だけれど」

 雨音に飽和した車内を、まるで秘密の内緒話をするときみたいに潜んだ声が走る。

「あさひと一緒にいると、感情に理解が追いついていない風にみえる場面が割と多いんだ。そういう瞬間は誰にだって多かれ少なかれあるものだろうけれど」


 私は考える。どうだろう。
 上手く言葉にできなくてもやもやするなんてことは、たしかに、ほとんど日常と言ってしまって構わないほどには――当たり前すぎて、最早気にも留めなくなるほどには――ありふれているような気がするけれど、だけど、その絶対量を相対的に評価できるほどの客観的な道具を私は持ち合わせていない。
 
 だからというわけでもないけれど。
 
 私、芹沢あさひという人格が普通か普通でないのかなんて、考えたことがない。
 考えたいとか考えたくないとか、そういう問題じゃなくて、そんな発想がそもそもない――なかった。
 以前まで、少なくともアイドルとしての活動を始めるまでは。
 
 だから、と私たちの内緒話は続く。
 
「珍しいんだ、そうやって『よく分からない』ものを強いて言葉に直そうとするのは。全くってわけじゃ勿論ないけれど」
 
 緑色の光が正面から差し込んだ。
 ハンドルには再び両手が添えられる。
 しばらくして、微かな揺れを伴った景色は流れを取り戻し、緩やかな力が私の全身を後方へ深く沈み込ませていく。

 言われた通りなのかもしれないと思った。
 だけど同時に、その指摘は全くの的外れだとも思った。
 
 どっちだろう? わからない。



「『何者か』」

 私は、やはり窓の外を眺めながら言う。

「わたしは何者でもないのかな」

 雨粒が窓の表面を斜めに走っていく。
 その跡を目で追うわけでもなく、私の視界はただぼんやりと中空を捉えていた。
 向こう側の景色なんて、そんなもの、もうどうだっていい。

 青い傘の少女が踊っている。

 雨の中を、楽しそうに、くるくると、ゆらゆらと、まるで青い灯火みたいに、誰の手も届かない場所で、少女が踊っている。
 ずっと。ずっと。

 ――ああ、駄目だ。忘れられない。


「それを決めるのだって」
「わたしの役目、っすか」
「うん。あさひの好きなように決めたらいい」
「そんな適当でいいんすか」
「適当? まさか。自分の定義する自分こそが、他の何物よりずっと本物だよ」

 雨が降る街の上を、私たちはただ真っ直ぐに進んでいく。

 でも、だけど、それはきっと逆だ。
 街のほうが私たちを置いて先へ進んでいっている。
 私たちは、少なくとも私は、たったの一歩だって動いていない。

 私は、ずっとここにいる。
 あの雨の日も。
 そしていまも。


「高校生活はどう? 楽しい?」

 交差点を右に折れる。身体は自ずと左に傾斜する。
 車はもう、事務所前の見慣れた通りに差し掛かっていた。

「別に。普通っすよ」

 目を閉じる。
 透明な暗闇の中に、私は一人きりで立っている。そんな光景を想像する。

 雨が降っている。
 私はその青色に打たれながら、傘も持たずに、空っぽの空をただ見上げている。
 雲なんてどこにもなくて、それなのに雨が降っている。
 肌に触れた冷ややかなノイズは耳を伝って、私という空っぽの器をいっぱいに満たし、それ以外のあらゆる音と一緒に、私の意識をもどこか遠くへ攫っていく。

 だから。

「プロデューサーさんは」

 だから、私は尋ねたんだ。
 あの日、酷い雨の夜、助手席から。

「わたしに、何者であってほしいっすか?」


 ふと気がつけば、私の右手には傘がある。
 さっきの少女が持っていたものと同じ、水を編んだように青く透明な傘が、望んだわけでもないのに握られている。

 こんなもの、と思った。
 どうして、なんて疑問よりも先に、要らない、という感情がぱっと沸き立った。
 だったら投げ捨ててしまえばいいのに、だけど結局、私は空に向けて傘を開く。
 雨に打たれるのが嫌だったから?
 本当はこの傘が欲しかったから?
 分からない。知らない。知りたくもない。
 理由なんて何だっていい。
 俯いたまま、私は囁く。
 
 ――わたしに、何者であってほしいっすか?



「――」

 翳した傘を叩きつける雨の音は、その勢いを一層増したように思えた。
 あんなにも穏やかに落下していた雨粒は、水色の傘に触れた瞬間、鮮やかに爆ぜ、火花が散るみたいに細かい破裂音をけたたましく耳元で響かせる。

 その雨は、あるいは半透明の壁のようにも思えた。
 私が望んだ答えはその壁を越えた先にあって、そして、だから届くことは決して叶わない。
 右手に握られた傘は、私を雨の向こう側へまで連れて行ってはくれない。

 思い出せない。
 思い出せないんだ。
 あのとき、プロデューサーは何て言った?


「着いたよ」

 そんな声が遠くに聞こえて、私は徐に目を開く。
 外の景色は既に流れを止めている。窓の外にはペットショップ、その上が私たちの事務所。
 私はシートベルトを外して、それから扉に立てかけられたビニールの傘に手を伸ばす。

 そして、それが最後だった。

 瞬間、世界の秒針が、私たち二人を刻みつける速度を急激に落とす。
 幾度となく巻き返してきた記憶のフィルムは、音も、光も、何もかもを巻き込んで、いつもこの手が届くよりも前にぴたりと止まる。
 だって、いつかの私にとって重要だったのは、あの日、あのとき、車の中で交わしたあの会話だけだったから、いまになって思い起こされる映像風景はどうしたところでここまでが全部だ。

 だから。

 思い出の螺子をもう一度巻き直して、私は記憶の海に潜りこむ。
 その言葉を思い出せるまで、たとえ意味なんてないとしても、それでも繰り返す。
 何度も、何度も、何度でも。

「――」

 雨音は未だ止まない。


  *

 そしてすべての音が消える。文字通りにあらゆる音が、世界の秒針さえも巻き添えにして、ちょうど三小節分だけ消える。
 ちゃんと覚えている。その空白は言葉にすると短いようで、実際にはとても長く感じられる。
 無音の後で最初に聞こえてくるのは、ボーカルが入る予定のメロディを鳴らすシンプルな電子音だ。
 でも、それで反応してたんじゃとても間に合わない。全身をぴたりと静止させたまま、だから頭の中でリズムを刻む。

 ――さん、に、さん、し。

 再び動き始めるのは四拍目。
 下げていた右手を顎のあたりまで引き上げて、次の小節に入るまでに胸の前へ持ってくる。
 事前に指示されている動作はもうそれまでで、残りは全部アドリブだった。


 それほど派手に動くような曲じゃない。だけど、これはきっと、感情を込めて表現すべき曲だった。
 エレキギターのカッティングと一瞬の空白を挟んで、いよいよ最後のサビへと流れ込む。
 メロディラインの起伏をなぞるようにして、私の手足は好き勝手な軌道を描いていく。
 いまの私はきっと操られている。この曲が宿した透明な想いの糸に結ばれて、喩えるならマリオネットみたいな感じで、音符の羅列が望んだようにだけ動いている。
 そこに私の意思はない。でも、悪い気はしなかった。むしろ心地がいい。
 私自身のことなんてどうでもいい。私が表現するべきは、自分の感情じゃなくて、楽曲の感情だ。

 弾かれた弦の残響だけを余韻に残して、音楽は穏やかに終わりを迎える。
 身体の中心に逸る鼓動でさえ耳障りに感じるほどの静寂だった。

「お疲れ様」

 そんな声が聞こえたような気がして、ふっと顔を上げる。

 壁一面に取り付けられた大きな姿見の一番奥、私の背後、レッスンルームの壁際。
 紺色のスーツをラフに着崩した、いつものプロデューサーさんが立っている。
 身体を繋ぎとめていた無数の糸がぷつりと切れたような、そんな感覚がした。


「もう、そんな時間っすか?」

 額から伝う汗を手の甲で拭いながら、部屋の隅に掛けられているはずの時計を探す。
 時計の針は一二時を四分の一ほど過ぎた辺りを指していた。
 今日の練習は一二時までの三時間で終える予定だったから、もう十分すぎるくらいにタイムオーバーだ。

「相変わらずの集中力だな」

 ほら、と手渡された白いハンドタオルを、そのままの勢いで首に引っかける。思いのほかふわふわで肌触りがいい。
 次いで受け取ったペットボトルの冷気を両手に感じながら、彼の目をみた。

「どのくらい前からいたんすか」
「三〇分ほど」

 指先にぐっと力を込めて蓋を開ける。
 中はただのミネラルウォーターだ。私がそうお願いしているから、プロデューサーさんは毎回同じものを、すぐそこの自販機で買ってきてくれる。

 中身をぐっと喉の奥へ流し込む。
 しばらくして、じんわりとした新鮮な温度が、鳩尾の少し上を中心に、辺りへ浸透するようにして広がっていく。
 それに合わせて呼吸のリズムも本来の調子に整えられていくみたいだった。


「時間を過ぎたら止めてくれて構わないって、いつも言ってるのに」

 自分のちょうど真正面、鏡の両側に設置された小型のスピーカーから、さっきまでと同じ曲がまた最初から流れている。
 もう既に何百回と聴き込んでしまったそれは、世間にはまだ公表されていない、私だけの唄だ。

 独り言のつもりで呟いた言葉は、しかしそんな音符たちの隙間を難なく掻い潜って、プロデューサーさんのもとまで届いたようだった。
 彼は小さく肩を竦めるようにして笑う。

「勿体ないだろ。せっかくあさひのダンスが観られるのに、それをわざわざ止めるなんて」
「そんなの、毎週観てるじゃないっすか」
「つまり、それだけ観ていても全く飽きないってことだ」
「半年も?」
「もちろん。俺はあさひのプロデューサーであると同時に、ファンでもあるからな」
「ものは言いようっすね」


 靴底が擦れるたびに、キュッ、とスタッカートの効いた音が鳴る。
 
 その音はここ以外だと、たとえば学校の体育館くらいでしか聞くことのできない、かなり珍しい類のものだけれど、私はこの摩擦音が身体に染み込んでいく感覚をそれなりに気に入っていた。
 ステップを一つ刻むたび、その音一つ分だけの質量が自分から欠け落ちるような、窓明かりに染まったこの部屋と同じ色に近づけるような、そんな気がするから。

「時間、大丈夫なんすか?」

 いち、に、さん、と足元が刻むスタッカートを頭の中で数えながら言った。

「大丈夫だ。いつも通り、一二時半まで借りてある」
「いつも通りに大丈夫じゃないっすね」

 鏡の前、いつもの立ち位置から扉脇に設置されたミキサーの前まではちょうど一五歩分。
 どうだっていいことだけれど、こうして何度も数えるうちに覚えてしまった。

 ミキサーを操作して、スピーカーの音量をゼロにする。
 それから繋いでいた音楽プレイヤーを取り外し、ジャージの右ポケットに滑り込ませた。

 最後に後ろを振り返って、部屋全体をぐるりと見渡してみる。
 窓際、ベンチの上、鏡の前。
 大丈夫。忘れものなんかは特になさそうだ。



 私が確認を終えるのとほとんど同時に、ギィ、とやけに年季の入ったような唸り声が後方から、静まりかえった部屋の中央へ転がっていく。
 その音を合図に私は無人のレッスンルームに背を向けて、それからプロデューサーさんの後を追いかけた。
 空調の電源はすでに彼が切ってくれていた。
 
 夏の陽気に照らされた廊下を進みながら、ずっと気になってたんすけど、と私は言う。

「あの扉、見た目は真新しそうなのに、妙に軋んだ音がするのは何なんすかね?」
「油が切れてるんじゃないのか」
「油?」
「潤滑油だよ。ほら、自転車とかのチェーンとかに差すだろ」
「あれって扉にも使うんすか」
「いや、知らない。でも、使うんじゃないかな。どっちも金属だし、多分同じようなものだろう」
「なるほど。言われてみれば、たしかにそうっすね」

 話題の扉と全く同じ造りのそれらを横目に、私たちは道なりに歩いていく。
 左手の壁を切り取った窓の先には、何階か建ての建物に忙しなく行き交う車の影、それから正午の空が映されている。
 雲は遠く向こうのほうに薄らと見えるだけで、笑顔でいることを強制するみたいに、清々しいまでの快晴だった。



 他愛もない会話を交わしているうちに、いつの間にか扉の列はふっと途切れ、幅の広い折り返し階段に行き当たる。
 このフロアは四階で、かつ最上階でもあった。
 私は特に気にしていないけれど、一方のプロデューサーさんはここを通るたびに、エレベーターがあればいいのにな、と口癖のように言う。
 たしかにあれば便利だろうとは思うけれど、あってもどうせ使わないだろうなとも思う。
 エレベーターでの移動は、そのための待ち時間をどうにも勿体なく感じてしまう。
 少なくとも私には向いていない。

 階段を二階まで下りると、三階や四階とは少し違った場所に出る。
 その空間に強いて名前をつけるのなら休憩室とでもいうのだろうか、そんな風のだだっ広いスペースが二階には設けられている。
 そして、ここを少し進んだ先には個室のシャワールームがあった。
 プロデューサーさんとはここで一旦お別れだ。

「一〇分くらいで戻るっす」
「ああ、待ってる」

 私は軽く手を振って、閑散としたラウンジの中を案内板の示すほうへと向かう。

 シャワーを浴びながら、そういえば、とふと考えた。こうして私を待っている間の彼は、いったい何をしているのだろう?
 大したものは何も見えない窓の外をぼうっと眺めているか、案外、設置されたテレビが映すバラエティ番組を観ているのかもしれない。
 あるいは、彼は飲み物を持っていなかったから、自販機まで買いに行っていてもおかしくはない。
 あとは、煙草とか。まあ、プロデューサーさんは煙草なんて吸っていなさそうだけれど。

 そうやってあれやこれやと頭を悩ませた後で、結局何よりもしっくりときた想像は、休憩室にもかかわらず生真面目に手帳を捲っているスーツ姿で、もし本当にそうだったなら面白いなと小さく笑った。


 午後にも車での移動が控えていたけれど、私たちは一旦事務所へ戻ることにした。
 
 事務所に着いたのは午後一時頃。といっても、特別な準備が必要というわけではなかった。
 私のしたことといえば今後の予定には不要な荷物を、主には先ほどまで使用していたレッスンウェアの類を事務所に移動させて、それから帰りにコンビニで買ってきたおにぎりを二つほど口へ運んだくらいだ。
 プロデューサーさんはその間、はづきさんと何やら話をしていたようだけれど、そこにどのようなやり取りがあったのかは私の知るところじゃない。



「傘は?」

 事務所を出る直前、扉の前で彼はそう言った。
 私はわざとらしく首を傾げてみせる。

「傘? 何に使うんすか、そんなの」
「傘の用途なんておおよそ一つしかないだろう」

 彼の言葉を聞き流しながら、一時間ほど前に焼き付けたばかりの空の青さを思い起こす。
 群青色のペンキで一面を塗装された天井みたいな、それでいてどこまでも突き抜けたような、そんな空。
 脳裏で再現されていく情景に、馴染みの傘を一つ放り込んでみた。
 だけど、それはやっぱり景色にうまく馴染めなくて、不機嫌そうな表情でぽつりと宙に浮いている。


「雨が降るって言いたいんすか」
「それ以外にいったいどんな可能性があるんだ」
「外、あんなにも晴れてたのに」
「でも、降るらしいぞ」

 天気予報を信じるならな、とプロデューサーさんは下駄箱横の傘立てから黒色の傘を一つ抜き取りながら言った。

 曰く、提示された降水確率は四割ほどらしい。
 絶対というわけでもないけれど、だからといって平然と無視できるほどの値でもない。微妙なところだった。

「傘なんて持って来てないっすよ」
「だろうと思った」

 彼は傘立てを指さしながら言う。

「事務所のやつ、使うか? ビニール傘だけど」

 私は少しだけ考えて、しかし首を振る。
 そのまま歩を進めて、それから靴を履いた。

「いや、いいっす。なんだか馬鹿らしいっすから」
「あさひらしい」

 プロデューサーさんはため息交じりにそう呟いて、それっきりだった。


 押し開けられた扉の内側を、やはり彼の背中を追うようにしてくぐる。
 直前、素直に傘を持って出かけたほうがいいだろうかと一瞬だけ考え直して、しかし結局、私は何も持たずに事務所を後にした。

 仄暗い階段を駆け足で下って、いまは駐車場に停められているだろう車がやってくるのをしばらく待つ。

 ふと空を見上げる。
 黒の平行線の上に小鳥の影、背景はわずかに日の傾いた空。
 なるほどたしかに、一時間前の空模様に比べると灰色の切れ端が幾分か目立つように思える。

 だけど、それだけだ。

 これから雨が降るなんて、やっぱり信じられない。傘は要らない。


 そうして空を眺めながら、雲は案外すごい速さで動いているのだという事実に思いを馳せ始めた頃、見慣れた藍色のセダンが事務所前に到着した。

 歩道と車道の間には一〇センチ程度の段差がある。
 こうして助手席の扉を開くたびに、もしかしてぶつかったりしないかなあ、と不安に思うけれど、いまのところは掠ったことさえ一度もない。
 きっと扉のほうがもう何センチか高いのだろう。
 だけど、そう分かってはいても気になってしまうのだから、こればっかりはどうしようもない。

 身体を屈めながら車内に潜りこむ。芳香剤の薄いバニラの香りが仄かに漂っていた。

「オッケー?」

 運転席のプロデューサーさんが言う。

「オッケーっす」

 私はシートベルトを締めながら答えた。

 直後、窓の外側が緩やかに流れ始める。
 身体は勝手にシートへ沈んでいく。大型の乗物が動き始める瞬間のこの感覚が、私は割と好きだったりする。
 慣性力、という名前だったっけ、たしか。一年生のときに授業でやったはずだ。
 物理は一応得意科目のつもりだけれど、現象そのものの名称にはあまり興味がない。
 ためしにプロデューサーさんに尋ねてみたら、慣性力で合ってるよ、との答えが返ってきた。


 四車線の道を、車は真っ直ぐに南下していく。
 そのまま二〇分ほど下道を走り続け、それから高速道路へと乗り込んだ。
 一般道の風景も高速道路の風景も、昼間のうちは同じくらいにありきたりで、要するに退屈だった。
 通行料金を告げる無機質な音声が止んで、私は言った。

「この道は何て名前なんすか?」

 私の記憶が正しければ、ここを通るのは初めてのことじゃない。
 それほど多くもないけれど、仕事の関係で何度か使ったことがあるように思う。
 でも、私はこの道路の名称を知らなかった。

 彼は一瞬だけこちらを見て、だけど、すぐに視線を前方に戻した。


「東名高速道路。東京と名古屋を繋いでるから、その頭文字をとって東名」

 トウメイ、と私は何とか反復してみる。
 トウメイ、東名、トウメイ。

「いい響きっすね」
「俺もそう思うよ。頭文字を取っただけにしては、上手くまとまってる」

 私とプロデューサーさんとでは、きっと話が噛み合っていなかっただろうと思う。
 少なくとも私は、彼の言ったような理由でその名前をいいと思ったわけじゃない。

 それでも、私は頷いた。
 だって私たちは立っている場所が違うだけで、だけど同じ結果を共有することが出来ていて、だからその程度の差異をわざわざ気にする必要なんてどこにもない。

 それで、と私は続ける。

「茅ヶ崎、っすよね。目的地は」


「ああ。それは事前に説明した通りだ」
「わたし、それまで知らなかったんすよ。プロデューサーの出身がどこなのか」
「あれ、そうだったのか。てっきり知ってるものだと」
「神奈川だったんすね。その茅ヶ崎って町はどんなところなんすか?」
「特徴らしい特徴といえば、太平洋に面していることくらいかな。サザンビーチって名前の海水浴場が有名だ」
「海っすか」

 夕焼けに照らされた砂浜の上で佇むスーツ姿を想像してみた。
 だけど、それが面白いくらいに似合わなくて、思わず声を上げて笑ってしまう。

「なんだよ」

 怪訝そうな声が運転席から聞こえる。
 私は一度深く息を吸って、呼吸を整えた。

「プロデューサーにはまったく似合わないなと思って」
「失礼だろ」
「失礼っすけど、いやあ、あはは」


 想像上の場面を色々と切り替えてみる。
 照り付ける太陽と青空の下。あるいは真夜中、下弦の月を反射する水面。
 それから、しとしとと降り続く雨を呑み込む広大な黒。
 だけど、いずれにしたって、その姿はまるで不自然な合成写真みたく風景に浮いていた。
 海ではしゃいでいる様も、海を遠く眺めて黄昏る様も、同じくらいに似合わない。

 笑いながら、私は言う。

「わたし、プロデューサーの私服姿がどんななのか知らないし、だから候補が見慣れたスーツ姿しかなくて、そのせいで面白おかしい感じになってるような気がするっす」
「なるほど。間違いなくそれだな」

 彼は納得したように頷いた。

「今度、写真見せてやろうか? 何枚かあるぞ」
「えっ、何でそんなの持ってるんすか」
「勘違いするな。はづきさんとか社長とか、社員のみんなで飲みに行った時に撮った写真だ」
「びっくりしたっす」

 私はわざとらしく安堵の息を吐いて、それから続ける。


「プロデューサーって、お酒飲む人だったんすね」
「意外か?」
「意外といえば意外っすね。そんなイメージがあまりないっていうか」
「その感覚は正しいよ。大学にいた頃は、たしかに飲み会なんかは敬遠してた」
「それにまあ、普通に持ってるって言われてもあんまり違和感ないっすけど」
「何を?」
「写真を」
「どういう意味だよ、そりゃ」
「いやあ、別に。大人の事情ってやつがあるのかなあ、と思って」
「からかうなって」

 言いながら、彼は浅いため息を零した。

 こんな冗談を言いあえる今が嬉しかったのか、それとも悲しかったのか、分からないけれど、分からないままで私はまた笑った。
 今度は彼もいっしょに笑ってくれた。


 高速道路でしか見かけないような警告色の看板が、前方からフロントガラスの上部へと消えていく。
 白色の文字で何やら書かれていたが、それ以上のことは何も分からなかった。まあ、私がそれを読む必要はあまりない。

 差し当って重要な情報であるところの目的地までの概算距離は、備え付けられたカーナビの左下あたりに表示されている。
 曰く、ちょうどこの辺りが折り返し地点のようで、目的地まではあと二〇キロメートルちょっと、事務所を出発した時点での半分ほどだ。
 ここまでに三〇分が経過したかどうかというくらいだから、車を使えば事務所からは一時間程度で来られるという計算になる。
 思いのほか遠くないらしい。

 看板の消えた空をぼんやりと眺める。

 街路灯さえ設けられていない一本道は、どこまでも自由に、ありのままの空を映し出す。
 だから、目を逸らせない。

「雲、本当に出てきたっすね」


「だから言ったろ」

 プロデューサーさんは呆れた様子で、視線をわずかに上へ動かす。

「この様子じゃ、向こうに着いた頃には降り出すんじゃないかなあ」

 私も同じことを考えていた。
 まるでいまにも溶け落ちてしまいそうな色の空だ。

「おあつらえ向きっすね。笑えるくらいに」

 投げやりに放った私の言葉に彼は、何が、と言った。
 鈍色の雲を追いながら、私は続ける。

「こういう日には雨が降るって、それはもうお約束じゃないっすか」

 そう、お約束だ。
 影に青空、傘に曇天。生は純白、死は漆黒。出会いが朝なら、別れは夜。夢が夜明けなら、思い出は雨模様。
 心象風景、因果の逆転、舞台装置、お約束。


 今日の午後から雨が降り始めるという天気予報は、そう考えてみるとなんだか妙に説得力があるように思えた。
 たとえばそれこそ神様のような誰かがいて、いたとして、その誰かが書いた台本の上ですべて決まっていたのでは、という気さえする。

 今日の天気も、私たちの行動も。傘も、死も、別れも、思い出も。

 私は彼のほうをみた。
 彼はわずかに首を傾けながら、薄く笑った。

「嫌だなあ、そんなお約束。今日くらい晴れてくれてもよかったのに」

 全くだと思った。だけど、私は言う。

「梅雨だから仕方ないっすよ。それに、わたしは運命的なものを感じるっす」
「運命? それはまたどうして」
「わたしの中で、プロデューサーといえば雨っすから」

 私の言葉に、しかし彼は何も答えなかった。
 その沈黙は肯定と否定のいずれでもないように思えて、だから私も同じように口を閉ざすしかなかった。


 前方から再び緑色の看板が流れてくる。
 
 白色の文字で、茅ヶ崎、と書かれているのが見えた。
 彼は多分、その看板自体は一瞥した程度だっただろうと思う。それでも車は分かれ道の右側へと正しく進む。
 私はここから先の景色を知らないけれど、きっと彼にとっては通い慣れた道なのだろう。

 そのまま大きく緩やかなカーブを経由して、私たちの進行方向はほとんど直角に南へ折れる。
 合流地点を過ぎて一本道に戻るのを待ってから、私はもう一度口を開いた。



「『何者かになりたいと思ったことってある?』」

 運転席が小さく息を呑んだような気がした。
 きっと私の勘違いだろうけれど、でも、たしかにそう感じられるような一瞬の隙があった。

 プロデューサーさんは、やっぱり笑って応える。

「あったな、そんなことも」
「あったっすね、そんなことも」

 中央を断続的に走る白線の左側を、私たちを閉じ込めた箱は真っ直ぐに進んでいく。
 
 窓の外、高速道路の下には、平坦な地形の上を幅の広い河川が南北に流れている。
 水流の勢いはさほど強くないようで、ぴたりと凪いだ水面はまるで鏡のように空の色を反射し、それは、だから酷く濁っているようにみえた。

 次の言葉は、私よりも彼のほうが早かった。



「あさひは、答えを見つけられたのか?」
「答えっすか。まあ、それなりには」
「そっか。そりゃよかった」

 彼はどこか気の抜けた声でそう言った。
 その物言いが、ともすれば話題を切り上げるためのもののようにも思えて、私は思わず尋ねかえす。

「訊かないんすか?」
「何を?」
「わたしの答えを」
「訊かないよ」
「どうして?」
「どうしてって、言わなきゃ分からないか?」
「そういうわけじゃないっすけど、でも、訊かないんだなあ、と思って」
「それはそうだろ」
「一応、わたしは話してもいいと思ってるんすけど」
「だとしても、俺は二人目でいい」
「なるほど。らしいっすね」


 最後に零したその言葉が、どうやら合図だったらしい。

 次の瞬間、ぽつり、とフロントガラスの真ん中あたりに砂粒みたいな水滴が一つ分だけ落ちてきた。
 それが二つ、三つと続いて、数秒足らずのうちに視界は無数の雨粒で覆われる。
 光の屈折のせいか、仄かに白い輝きをまとった水玉模様はまるで真冬の星空みたいだった。

 見慣れたワイパーが水色の跡を綺麗に拭い去る。
 すると、その先端に押し溜められた水分が、湾曲した表面上を風に煽られて斜め下に引っ掻いていく。
 そうして伸びた透明な直線が一つ、二つ、三つと、流れ星みたいに次々と灰色の星空を横切っていった。

 雨だ。


「懐かしいなあ」

 ほとんど無意識のうちに、私は呟いていた。

「雨の音がするんすよ。去年のあの日から、ずっと。こんな風に、何かを叩きつけるような――傘を叩きつけるような、雨の音がいつまでも止まなくて」

 瞼の奥、真っ暗闇の向こう側に、いつかの光景がフラッシュバックする。
 何もない、雲さえない、空っぽの、なのに大雨を降らせる、どこまでも黒く透明な空。

 それに、水色の傘も。


「いつ止むんだろうな、この雨」

 私たちのやりとりを真っ白に上書きしていくように、無数の雨粒たちが一斉に車体を鳴らしている。
 私は徐に目を見開いた。

「もしかしたらずっとこのままかもしれないっすね」

 そう笑いかけた私に、彼は呆れたようなため息を一つ吐いた。

「それは嫌だな」
「どうしてっすか?」
「誰だって、雨は止んでくれたほうが嬉しいだろ」

 乾いた色をした声だった。
 誰だって、という前置きにプロデューサーさんの語気が偏っていることに、私は気がついていた。
 あるいは、語気だけじゃないのかもしれない。
 どれほど複雑な言葉でも決して言い表せないような、だからこそ単純な言葉に任せるしかないようなどうしようもない想いが、その一言にはきっとこめられていた。

 だけど。


「まあ、そうっすね」

 だから、私はそれに気づかないふりをして適当に相槌を打った。
 欠伸をする真似をして、音が鳴りそうなくらい深く座り込み目を閉じる。わざとらしいくらいが丁度いい。

「着いたら起こすよ」

 プロデューサーさんがそう言った。
 私は、寝るつもりはないっすよ、と声には出さずに頭の中でだけ返事をする。
 だけど、穏やかに騒ぎ立てる雨音に耳を傾けているうちに、どうやら私の意識は水中へ溶けてしまっていたらしい。
 その後のことは、何も覚えていない。


  *

 プロデューサーさん、何やってるんすか?
 これ? 次の仕事に向けて企画書を書いているんだ。
 キカクショ、っすか! 強そうっすね!
 強そうかな。
 強そうっていうか、なんかこう、全体的にトゲトゲしてる感じがないっすか?
 なるほど。それは語感の問題だね。――あさひはブーバキキ効果って知ってる?
 ブー、キ……? 何すか、それ。
 たとえば、漫画で使われる尖ったフキダシがあるじゃない。あれと、あの棘をぐにゃぐにゃの曲線に書き換えたもの、二つの図形を左右に並べるんだ。
 ふむふむ。それで?


 被験者にこう尋ねる。――片方はブーバ、もう片方はキキという名前です。貴方はどちらがブーバでどちらがキキだと思いますか? ってね。あさひはどう思う?
 トゲトゲとぐにゃぐにゃっすよね。うーん。それならトゲトゲのほうがキキっぽくないっすか? 理由は、うまく説明できないっすけど。
 そうだね。実際、むかしの心理学者が実験してみたところ、あさひと同じように答えた人が全体のほとんどを占めたらしい。
 へえー! 面白いっすね!
 言語音と視覚情報とに強い相関があることを示した心理実験、それがブーバキキ効果。企画書がトゲトゲして聞こえるというあさひの主張は、まさしくブーバキキ効果そのものだよね。
 なるほど……。いつも思うっすけど、プロデューサーさんって本当に色んなことを知ってるっすよね。経験の差を感じるっす。
 大袈裟だな。それに、これでも大学では心理学専攻だったからね。これは話したことがあったっけ?
 冬優子ちゃんたちのプロデューサーさんから聞いたことあるっすよ。同じ研究室だったって。
 そうか。そういえば、あさひは彼とも随分仲がいいらしいね。そう、彼は大学時代からの後輩だ。
 まあ、それはそれとして、なんすけど。
 それはそれとして?
 何のキカクショを書いてるんすか?


 ああ、訊かれるだろうなとは思っていたけれど、残念ながらいまは教えられない。
 えー! なんでっすか!
 まだ正式には決まっていないからね。これはあくまで案の段階なんだ。もしかしたら没になるかもしれないし、なのに憶測の噂だけが飛び交っても困るでしょう。
 誰にも言わないっすから!
 駄目なものは駄目。
 えー。プロデューサーさんの意地悪。
 このまま順調に進めば二週間ほどで告知できるはずだから、それまでの辛抱だよ。
 仕方がないっすね……。それじゃあ、待つことにするっす。
 うん、いい子だ。あさひはなんだかんだ手がかからなくていいな。
 そうっすかね? ――あっ、そういえばわたし、プロデューサーさんに訊きたいことがあってここに来たんす。いまのいままで忘れてたっすけど。
 どうしたの?
 プロデューサーさん、今日のレッスンは観に来てくれるっすか?
 ああ、その話か。どうしよう、スケジュール的にはどちらでもいいけれど。
 それなら来てほしいっす! わたし、プロデューサーさんがいてくれたほうが調子いいみたいなんで!
 そっか。じゃあ一緒に行こうかな。準備して待ってて。
 やった! ありがとっす、プロデューサーさん!


  *

 私が目を覚ましたとき、車のエンジン音は完全に止んでいて、雨粒の跳ねる音だけが相も変わらずに空気を劈いていた。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしいことを認識すると同時に、窓の外に目を向ける。
 もしかしたらもう目的地に着いてしまったのかと思ったけれど、しかしどうやらそうではないらしい。
 見た感じ、ここはホームセンターかどこかの駐車場だ。


「おはよう」

 すぐ隣からプロデューサーさんの声がした。私は目を擦りながら応える。

「おはようっす。どこっすか、ここ」
「見ての通り、ホームセンターだ」
「なにか用事でもあったんすか?」

 思うように思考がはたらかず、まるで上の空みたいな声しか出てこない。
 ついさっきまで眠っていたはずなのに、気を抜けば欠伸が出そうになる。
 寝起きはいつもこうだ。なんだか全身の神経がうまく繋がっていないような、そんな感覚。
 ホームセンターに来る理由なんてあっただろうか?


 運転席に腰かけたプロデューサーさんはなにやら携帯端末を操作していた。
 指先は忙しなく液晶を叩いている。
 はづきさん辺りに連絡を回しているのかもしれない。

「花だよ」

 とプロデューサーさんが言った。
 水溜まりに落ちる小雨みたいに、小さく潜んだ声だった。

 ほら、と彼が後部座席を指す。
 つられて振り返ると、大きめのレジ袋で包まれたそれが二人掛けのチェアの上にポツンと置かれていた。


「なるほど」

 私は頷いた。それはどちらかといえば感嘆に近かった。

 彼の答えは、あまりにもっともすぎるものだった。
 たしかに、今日という一日に花は不可欠なのかもしれなかった。
 いや、きっとそうなのだろう、多分。
 個人的な感覚からすれば、それはさして重要な要素ではないように思えてしまうけれど、一般的にはそうでないことくらい流石の私でも知っている。
 思い至らなかった。

 といっても、もしかすると彼も私と同じような考えなのかもしれなかった。
 ホームセンターで手に入るものなんてたかが知れているだろうし、ここで最後の準備を整えたというのなら、それはつまりそういうことなのだろう。


「らしくないよな。花なんて」

 彼がいつも通りの様子で笑う。
 その言葉の意味が私にはうまく掴めなくて、だから私は何も答えずに黙っていた。

 私の沈黙を彼は返事と受け取ったようで、そのまま続ける。

「あさひだって知ってるだろ。こういう形式的なことをすごく嫌うんだよ、あの人。意味がないって言って」
「そうっすね。私も同じような考えだから、よく覚えてるっす」
「だからいつも迷うんだけど、でも結局、毎回買っていくんだ」
「その場所にホームセンターを選んでいるのは、つまりそういうことなんすよね」
「うん。言い訳だよ」
「あはは、たしかに。それならまだ許してくれそうっすよね」

 その光景は、面白いくらい容易に想像できた。

 プロデューサーはその内側に様々な基準線を幾つも引いていたようだけれど、それでも他人の好意を無碍にするような人では決してなかった。
 こんなの要らないのに、なんて口を尖らせながらも受け取ってくれる。
 誰よりも素直なくせに、素直じゃない。
 そういう人だ。


 両腕に残った痺れを振り払うように、自分の頬をぺちと叩く。

 話しているうちに目が冴えてきた。
 できれば一度思いきり身体を伸ばしたかったけれど、狭い助手席の上じゃどうしようもない。
 アスファルトを黒く染める雨脚は、しかし降り始めた頃に比べると随分弱まったようにみえる。
 それにしたって、わざわざ濡れてまで目的を果たしたいとも思わない。

 視界の端で、プロデューサーさんが端末をスーツに仕舞うのがみえた。

「もういいんすか?」
「ああ。終わった」


 ハンドル脇に差し込まれていた鍵を、彼の右手がぐいと回す。
 すると、いったいどういう構造になっているのだろう、まるで息を吹き返したように唸り声をあげたエンジンの振動が、車体を大きく揺らし始めた。

 車体が身体、エンジンが心臓。だったらこの揺れは鼓動そのものだ。
 ならば、タンクいっぱいに溜められたガソリンは血液、いや、燃やして走るのだから酸素のほうがイメージは近いのかもしれない。
 この場合、そもそもの起動に使った鍵はいったい何に置き換えることができるだろう?
 絶え間なく続く心拍を自由自在に扱う機能なんて、私たち人間には備わっていない。
 止まってしまったときが最初で最後だ。

「じゃ、出すぞ」

 プロデューサーさんが言った。
 私は考えるのを一旦やめて、シートベルトがついたままになっていることを確認する。
 それから彼にも見えるよう首を振った。


 彼曰く、あと数分ほどで目的地に到着するらしい。
 実際、カーナビが示す目的地までの直線距離も、もうほとんどわずかだった。

 向こうに着いたとき、はじめに掛ける言葉はいったい何がいいだろうかと考える。

 そんなものは多分、何だっていいのだろう。
 その瞬間に相応しい言葉なんて、きっとどれだけ考えたところで見つからない。
 だから私は、途中からはずっと遠くの空を眺めていた。

 おあつらえ向けの雨だなんて、口を衝いて零れ落ちた言葉のことを思い出す。
 でも、私はこの雨が止むことを心のどこかで願う自分の存在に気がついていた。
 傘を持っていないからじゃない。それはむしろ逆だ。
 たとえ雨が降るとしたって、それでもいつかは止んでほしかったから、だから私は傘を持ってこなかった。


 ――誰だって、雨は止んでくれたほうが嬉しいだろ。

 本当にその通りだ、と私は思う。
 私だって、プロデューサーだって、誰だって。
 雨は止んでくれたほうが嬉しいんだ。


 目的の場所は思いのほか日常風景に溶け込んでいた。

 ここはちょうど街の中心部と市街地の中間域にあたるようで、辺りには田畑や森林の緑が随分と目立つ。
 境界線上を大動脈みたく走る二車線からは不規則に細道が伸びていて、それに沿うようにして古ぼけた民家が点在していた。
 都会に馴染んでしまった自分からすると、この町での生活がいったいどのような形態になっているのか、あまりうまく想像できなかった。

 プロデューサーさんが再び車を停めたのは、その二車線に面して設けられた狭い駐車場の一角だった。
 無骨な送電塔がすぐ近くに見える。エンジンは切られていた。


 運転席の彼が、ぴんと張った両腕をハンドルに添えたまま、ぐっと身体を震わせる。
 まるで猫の伸びみたいだと思った。彼は普段からよくこの姿勢で伸びをする。

「一人で行くか?」

 背もたれに身体を預けながら、首だけをこちらへ回して彼はそう言った。
 私は少しだけ驚いて答える。

「いいんすか?」
「うん。というか、そうするのがいいと思う。俺がいたら邪魔だろうし」

 プロデューサーさんと知り合ってからもう三年ほど経つけれど、そのとき彼が浮かべていたのはこれまでのどれとも一致しない類の表情だった。
 笑っているのか、泣いているのか。あるいは嬉しいのか、悲しいのか。
 そのどちらとも取れるし、だけどどちらとも取れないような、そんな風に私には見えた。

「邪魔だとは言わないっすけど」

 私はそこで一度言葉を区切る。一息吐いて、それから続けた。


「でも、そうっすね。一人で行かせてもらえるのなら、それがいいっす」

 私の言葉に彼は頷いて、いま地図を描くよ、と小さく笑った。

 空は未だ相変わらずの曇天だけれど、ここへ到着するのとほとんど同じ頃合いに雨は上がった。
 この時間帯に後方の二車線を通る車両はさほど多くもないようで、彼がペンを走らせる真っ直ぐで乾いた音だけが、そのせいで一段と際立って感じられた。

 彼にとってはやはり通い慣れた場所のようで、彼は一分も経たないうちにそれを描き終える。

 ほら、と手渡された一枚のメモ用紙を受け取った。
 上空からみた平面図が黒のインクで、その中を辿る矢印が赤のインクでそれぞれ記されていた。


「ここがいまいる駐車場。まずは真っ直ぐに坂を上って、あとは地図の通りに曲がればいい」
「なるほど。ありがとっす」

 もらった地図を折りたたんでポケットに仕舞う。
 すると、プロデューサーさんが思い出したように言った。

「名字は分かるのか?」

 私は、知っている、と答えようとして、しかしすぐに気づく。

「そういえば、漢字でどう書くのかは知らないっす」
「だろうと思ったよ」

 彼はため息を一つ零して、さっきのメモ用紙を出すように言った。
 再び彼の手にわたった紙の上に、新たな文字がボールペンで書き込まれていく。
 そして私のもとに戻ってきたとき、そこに書かれていたのは全く馴染みのない文字列だった。

 全部で四文字ある。
 名字と名前とがそれぞれ二字ずつ。

 私はそれをもう一度ポケットに仕舞いながら言う。

「こんな漢字書くんすね」


 プロデューサーの名前はもちろん以前から知っていた。
 しかし一方で、少なくとも私にとってのプロデューサーはプロデューサーでしかないというのもまた事実だ。
 たった四文字で表現されてしまったその個人は、だから、私ともプロデューサーとも全く縁のない他人を指しているのだと、そういう風にしか私には思えない。
 名前なんて、正体なんて、どうでもよかった。

 だけど、そんなあれこれをいちいち言葉に直す必要性も感じられなくて、結局、私は適当に笑って誤魔化す。


「危うく別の家を間違えて訪ねるところだったっすね。助かったっす」
「同姓のなんて近くにはなかったと思うけどな。念のためだ」

 念のため、と私は意味もなく彼の言葉を繰り返した。

 私は助手席の扉に手をかける。
 やけにひんやりとした金属の感触が手のひらに伝った。

「プロデューサーさんはどうするんすか?」
「頃合いを見計らって行くよ」
「花は?」
「そのときに一緒に持っていくつもりだったけれど、あさひが持っていくか?」
「ああ、いや、遠慮するっす。怒られたくないっすから」
「俺は怒られてもいいのかよ」
「いやあ、あはは」


 扉を開くと、まるで芳香剤の残滓を絡めとるみたいに、雨上がりに特有のむんとした匂いが鼻を突いた。
 頬を掠めていく風は、まるで薄い水膜を通した布のように冷たく湿っていた。

 身体を若干屈めて外へ出る。

「何かあったら連絡してくれ」

 私は頷いて、なるべく大きな音を立てないように、ゆっくりと扉を閉めた。

 足元の水溜まりに透明の空が反射している。
 このままここに留まっている理由は何もない。私はとりあえず駐車場の外へ向けて足を進めた。


 樹木の陰に隠れた白いアスファルトの坂を上っていく。
 私以外には他に誰もいないようで、木々のさざめきと小鳥のさえずりだけが濡れた大気に揺れている。
 経路を切り取るように組まれた石垣は、まるで何百年も前に建てられたもののようだ。
 異世界にでもやってきたみたいだと思った。
 少なくとも、ここは私が普段生きているような世界では到底ない。

 足場が黒のアスファルトに変わる。
 私はポケットに押し込んでいたメモ用紙を取り出した。
 このまま真っ直ぐに進んで、左手に階段が見えたらそこで折れる。
 進行方向が大きく変わるのはその一カ所だけだった。あとは道なりに歩いていけばどうにでもなりそうだ。


 飽和した空の下、雨の残り香がそこら中に満ち満ちていた。

 以前、プロデューサーに教えてもらったことがある。
 この匂いには名前が与えられていて、たしか、ペトリコールといったはずだ。
 それがいったいどこの国で生まれた言葉なのかは知らないけれど、私はその名称を、実のところかなり気に入っていた。

 当のプロデューサーは、珍しいよね、と言っていた。
 ただの普通名詞に私が関心を寄せたという事実が、どうやら随分と興味深い事象だったらしい。
 言われてみればたしかに、それは当時の私自身からしてもかなり不思議なことだった。
 だけど、いまにして思えばその理由は明々白々で、きっと、結局はプロデューサーのせいということになるのだろう。
 あの人と行動を共にした二年間で、私は当然それなりの影響を受けていた。
 あんなにも私に寄り添ってくれたのは、多分、プロデューサーが初めてだったから。


 三段ほどの小さな階段を上り、左へ折れる。
 腕と同じくらいの太さの丸木が等間隔に打ち立てられている。
 それらにロープを括りつけて繋げただけの簡素な柵に沿って、私はなおも前に進む。

 雨の匂いはプロデューサーのことを否応なく私に連想させる。
 あの人のいる場所へ近づくにつれて、その深度がより強まっていくのを感じた。

 私は考える。
 もう何度も繰り返してきた自問自答を、もう一回。

 たとえば、恋と依存の違いは何だろう? 愛と独占欲との境界線はどこにある?


 ――その二つに大した違いなんてない。

 古びた記憶のどこかにいるプロデューサーが答えた。

 もしそれが本当だとしたら、恋とはいったい何なのだろう。
 互いを縛りあう恋人という関係はどこまでも崇高で、それ以外の一切の依存関係は悪とされる。
 その二つに大した違いなんてないだろうに、どうして?

 ――前者の場合、そう錯覚せずには満足に生きられないからだね。分かるだろ? 恋だとか愛だとか、そんなのは必要以上に縛られる理不尽に耐えきれない人間が使う綺麗事だ。本当はどちらも同じくらいに綺麗で、同じくらいに歪んでいる。


 私にはその言葉の意味が分からなかった。分からなくて、それでも尋ねた。

 どうしても知りたかったんだ。内側に抱えてしまった感情の正体を。

 プロデューサーはとても頭のいい人だったから、自分という存在に少しずつ依存し始めている私の様子にきっと気がついていたのだろう。
 恐らくは、私が自覚するよりもずっと早くに。
 だからプロデューサーは、ともすれば唐突に、だけど至極真っ当な流れで、私にこう尋ねた。


 ――何者かになりたいと思ったことってある?


 あれから色々と考えた。

 もっともらしい答えのようなものを手にしては、やっぱり違うだなんて言って手放して、そんなことを何度も繰り返した。
 その中には、もしかしたら正解があったのかもしれないし、あるいは全部間違っていたのかもしれない。
 いまとなってはもう分からないし、確かめようもない。

 それでも。

 いま私の手の中には、たった一つだけ、手放したくない言葉がある。
 綺麗なのか汚れているのかもわからない、でも絶対に見失うことのできない言葉がある。

 果たしてそれは、プロデューサーに答えを委ねたあの日の私への手向けに足るものだろうか?
 分からない。分からないけれど、私はこの言葉を伝えなくてはならない。

 プロデューサーに。

 そして、他ならぬあの日の私自身に。


「もっと早くに見つけられていたらな」

 目の前に高く聳え立った送電塔に向かって零す。
 過ぎたことを嘆いても仕方がない。小さく首を横に振って、私は手元の地図に目を落とした。

 送電塔の下まで来たら、右へ曲がってすぐのところに第二区と書かれた看板が設置されている。
 あとはその表示に従えばいい、とのことだった。


 視界の開けた傾斜を上る。
 左後方から右へ向かって斜めに送電線が全部で八本架かっている。それ以外に空を遮るものは何もない。
 一面の灰に塗れた空は、あるいは悪趣味な色をした天井のようにもみえる。
 なのに、息が詰まるような閉塞感は不思議となくて、そのことがちょっとだけ癪だった。

 目当ての看板はすぐに見つかった。
 ざっと一覧しただけでも百以上の名前が書かれている。私はそこに先ほど教わったばかりの文字列を探した。
 如何せん情報量が多くて少し手間取ったけれど、何とか見つけられた。かなり奥のほうだ。


 第二区と称された空間に一歩足を踏み入れる。
 ここだけは丁寧に石畳が敷かれていて、私は濡れた足元に注意を払いながら歩いた。
 普段より足早になっていることにはちゃんと気がついていた。

 最後の角に差し掛かる。ここを曲がってすぐのところが、それだ。

 一度立ち止まって、大きく息を吸う。

「よし」

 意を決して、直角に折れる。
 私の探していた名前は、果たしてそこに見つかった。


 見慣れない名字が楷書体で深々と刻まれている。
 こうして実際に目の当たりにしてみると、現実味なんて思っていた以上にどこにもない。
 やっぱり縁も所縁もない赤の他人を訪ねているような気分になってくる。

 ――でも、これが現実なんだ。受け入れろ。

 自分に言い聞かせるようにして。
 なるべくいつも通りの声で、私は言った。

「久しぶりっすね、プロデューサーさん」

 いつかの答えを、伝えにきたっすよ。


  *

 ところであさひ、作詞に興味はない?
 サクシ? 二本の矢印を並べて、どっちが長いか短いか、ってやつっすか?
 違う。
 じゃあ、あっちっすかね。策に溺れるほう。
 それも違う。
 ……?
 なんだよ、その『他のサクシなんてあったっけ』みたいな顔は。あと一つだ。
 まだあるっすか? うーん。
 詞を作る。作詞。


 ああ、そういえばそれもサクシっすね!
 その二つが出てきてこれが出てこないのも、なんというかおかしな話だけれどね。
 たしかにそうっすね。
 単語の意味が音だけで一意に定まらないのは、日本語の難しいところだよね。その解決に文脈が一役買うわけだけれど、いまのはいきなりだったからな。こっちが悪かった。
 そんなの、別に気にしないっすよ。それで、作詞がどうしたんすか?
 興味ないかなあ、と思って。
 うーん、どうなんすかね。
 微妙な反応だね。そうでもない?
 興味があるかといわれれば、ないっすね。というか、考えたことがないっす。
 なるほど。じゃあ、できるとしたらやってみたい?
 できるんすか!
 できるとしたら。
 やりたいっす! やったことないっすから!


 実はこういう話がある。
 ……何すか、これ?
 以前に言っていた次の仕事の企画書を起こしたもの。
 あの話っすか。無事に通ったんすね。
 おかげさまでね。勝手に読み進めてくれたらいいけれど、中央少し上辺りに概略を書いてある。要約すると、近いうちにあさひ個人でのシングルを出そうという話があった。
 えっ! 初耳っすよ。
 そりゃあ、一度も言ってなかったからね。まあ、それ自体は大分前から決まっていて、担当していただく作曲家の先生も既に目星がついているのだけれど、問題は詞のほうだ。
 それをわたしが書くって話っすか?
 うん。あさひがよければ、だけど。
 やってみたいっす!
 そう言ってくれるだろうと思っていたよ。一安心だ。


 ん。でも、どうしてそんな話になったんすか? 他のみんなは普通に作詞家の人に書いてもらってるっすよね?
 ああ、そうだね。それについては別の人が担当していたりするから何とも言えないけれど、今回の一件に関して言えば、個人的な希望だ。
 プロデューサーさんの?
 そう。個人的に読んでみたかったから、こうしてお願いしているというわけ。
 なるほど。よく分かんないっすけど、なんか嬉しいっすね。
 だから、あさひの好きなように書いてほしい。勿論、どこかのタイミングで誰かしら作詞家の先生の目を通すことにはなるとは思うけれど、こちらから何かを指示するということは基本的にしないつもりだ。
 好きなように、っすか。ちゃんと書けるっすかね。
 あさひなら心配ない。そう考えたから、こうやって実際に企画として通した。
 つまり、期待されてるってわけっすね!
 どうだろう。これは信頼じゃないかな? いや、どちらでもいいか。
 わたしは、とりあえず現状は待機でいいんすか?
 ああ、それは渡した用紙に書いてある通りだ。もう直にいくつかデモ音源が上がってくるはずだから、その中からあさひが気に入ったものを選んで、その曲に当てる詞を書いてほしい。
 おおー! なんだかワクワクしてきたっす!
 そうだね。どんな結果になるのか、楽しみだ。


 ……。
 どうしたの?
 あっ、いや、プロデューサーさんもわたしと同じ気持ちなんだなあ、と思って、それが、少しだけ……。珍しいじゃないっすか、プロデューサーさんがそんなこと言うの。
 珍しい? そうかな。割と頻繁に言っている気もするけれど、まあ、あさひがそう言うのならそうなんだろうね。
 よーし、この企画、絶対に成功させてみせるっすよ!
 ……分かりやすいな、あさひは。
 べっ、別に、プロデューサーさんの言葉が嬉しくて照れてたわけじゃないっすから!
 唐突にツンデレキャラを確立しようとしないで。戸惑う。
 一度は言ってみたかったんす、こんな感じの台詞。
 たまに突っ込んでくるよね、そのシリーズ。
 ふっふっふ。よく来たっすね、プロデューサーさん! 罠とも知らずに!
 それは、あれだね。たしか、ストレイライトの迎えでテレビ局に呼ばれたときのやつだ。
 おお~、よく覚えてるっすね!
 そりゃあ、まあね。印象的だったし。


 わたしの詞が最後まで書きあがったら、最初にそれを読むのはプロデューサーさんってことになるんすか?
 そうなるだろうね。あさひが他の誰かに先に見せない限り。
 誰にも見せないっすよ! プロデューサーさんが、えっと、わたしを信じて? こうして持ってきてくれた仕事っすから、最後までちゃんとやりきってみせるっす! これは本当っす!
 うん。あさひの言葉が届く日を楽しみしているよ。これも本当だ。
 そうと決まったら、さっそく書き始めるっすよ!
 いや、だから現状はまだ待機だって……、聞いちゃいないな。


  *

 それから、どれくらいの時間が経過しただろう。
 二〇分ほどか、もっと長くか、あるいは短くか、何の意味もなしに、ただ茫然と私はその場に立ち尽くしていた。

 何も感じなかった。
 まるで誰かが世界中の時計から秒針を取り去ってしまったみたいに、空も、町も、遠くの海も、風も、小鳥も、草葉も、いまこの間だけは静かに息を止めて、やがて訪れる次の瞬間を待っているみたいだった。


 ここへ来れば何かが変わるだろうかと思って、でもそれはあり得ないということもやはりどこかでは解っていた。
 それでも私はここまでやってきて、その想像がただの想像でしかなかったということをわざわざ証明したのだった。

 ずっと言葉を探していた。本当のことは何もみつけられなかった。
 だけど、それはきっと当たり前のことなんだと思う。
 だって、それを伝えるべき相手がもうどこにもいないのだから、いまさら他の何かに手が届くことなんて、気づくことさえあるはずがない。
 本当のことなんて、もしかしたらそのくらいのものなのかもしれない。

 灰色の空から一滴の雫、たったそれだけのことで世界はいとも容易く呼吸を取り返す。
 海の底みたいに濁ったざわめきが、辺りの暗がりを埋め尽くしていく。
 それでも動けずにいたのは、あの日だって、いまだって、きっと私一人だけだった。

 耳鳴りがする。


「――あさひっ!」

 突如、私の名前を叫ぶ声とともに上半身を激しい揺れが伝った。

 耳元で響いた声に私は思わず顔をしかめて、後方を振り返る。
 すると、手を伸ばさなくとも届いてしまうほど近くに、見慣れたスーツ姿のプロデューサーさんが立っていた。
 呼吸は荒く乱れていて、動悸の速さがそのまま両肩の揺れとして表れているようだった。

 肌を打ちつけていた雨がぴたりと止む。頭上には黒の傘。

 私は言った。

「プロデューサーさん、じゃないっすか」


 すぐに考えた。いまこの場で何が起こっているのか。それは想像に難くない。

 彼はあらかじめ宣言していた通り、ある程度したら車を出てこちらに来るつもりだったのだろう。
 でも、それよりも先に、あるいは車を出てしばらくしたところかもしれないが、さきほど止んだはずの雨がまた降り始めたことに気がついた。
 私が傘を持っていないことを彼は知っていたから、だから自分の傘を片手に、それから雨を拭うためのタオルも持って、そうして急いでここまで走ってきた。

 多分、こんな具合だ。
 相当焦っていたのだろう。彼は折角買っていた花を車内に置いてきたようだった。


「じゃないっすか、じゃあないだろ。ほら」

 彼は呼吸を整えようともせずに、左手を差し出した。
 私はそれを受け取って、酷く濡れている髪の上にとりあえず乗せる。

 二〇秒ほどの間、彼の様子が落ち着くのをそのままじっと待っていた。
 傘を叩きつける雨粒の破裂音がパラパラと、相も変わらず耳障りだった。

 ようやく肩を下げたプロデューサーさんが言う。

「何か見つかったか?」

 その問いかけに私は少しだけ驚いて、ゆっくりと首を横に振る。

「思ってた通りっすね。なんにもなかったっす」


 もう一度振り返って、私の視界は再びそれを捉える。

 ――ここにあるのは、だから、たったこれだけだ。

 鏡のように白く反射する光沢を帯びた石、それを積み上げて造られた見てくれだけのがらんどう。
 そして呪いみたいな黒で刻まれた、知らない誰かの名前。

 それだけ。

 他には何もない。

 濡れた前髪を伝って零れた雫が、ぽつり、と音を立てて石畳を叩く。
 聞こえるはずのないその音を、聞こえはしなかったその音を、私は合図にして言う。

「なんか、実感ないっすね、やっぱり」

 彼の表情はみえない。彼は返事を探しているみたいだった。
 私は彼の答えを静かに待った。何かを切に訴えるような物悲しい鳴き声が、ずっと遠くのほうに聞こえた気がした。


 すぅ、と小さく息を吸いこむ音がした。
 そのあとを追いかけるようにして、でも、とやけに掠れた声が雨脚の隙を縫って私の背を叩く。

「でも、本当のことなんだ」

 彼がその言葉を口にするのにどれほどの時間を要したのか、その言葉を他ならぬ私に伝えるのにどれほどの勇気を要したのか、私なんかにはとても想像がつかなかった。
 だから、せめて私はそれに本心から頷いて、それから答える。

「そうっすね。全部、本当のことっす」

 そう。
 全部が本当のことだ。

 傘も、死も、別れも、思い出も。

「全部、今更どうにもなるはずがない、過去の話っすよ」


 それっきり私は何も言わなかった。そして、それは彼も同じだった。

 私たち二人が抱えたどうしようもない沈黙を、予定調和の夕立が綺麗に流し去っていく。
 薄い耳鳴りのような雨音は酷く心地がよくて、とても拭いきれないその感覚が、だけど、だから、堪らなく嫌だった。


 ――ずっと雨が降っている。
 その始まりは、最早思い出すことが出来ない。
 いつの日からかずっと、今日に至るまで、私の空には雨が降り続いている。
 いつかの私は雨の冷たさを嫌って、だから傘を欲しがって、だけどいまはもうその感情の行方さえ不確かで曖昧だ。
 私の右手には、左手にも勿論、傘なんて初めから影も形もなかった。
 気の遠くなるほど長い間、私はずっと雨に打たれていて、打たれすぎていて、だからその冷たさにだってもう慣れてしまった。

 何も思い出せない。
 何もかもが嘘みたいで、何もかもが疑わしい。

 ――ああ、まただ。

 また、この繰り返しだ。

 私は本当に――


「あさひ」


 と、不意に。
 彼が私の名前を呼ぶ。

 無理に沈めたような調子で響いた声は、沈黙を破るためのものではなく、むしろこの雨音から沈黙を取り返すためのものみたいだった。

「辛くないか?」


 そう尋ねる彼の言葉がなんだかひどく的外れに思えて、私はつい笑う。

「プロデューサーさんにはそうみえるっすか」

 私は尋ね返した。

「みえる」

 しかし、彼は力のこもった語調で即答する。
 そんな些細なことに私はまた笑った。

「そうっすか。わたしとしては別に辛いことなんて何もないんすけど」


「強がるなよ」
「強がってなんかないっすよ」
「強がってるだろ」
「違うんす。本当に、覚えがなくて」
「だったら、それは」


 プロデューサーさんはそこで一旦言葉を区切る。
 踏み出すことを躊躇うような途切れ方だった。

 彼の表情はいまも見えないままだ。
 もしかしたら怒っているのかもしれないな、と思う。
 事実、彼が私に語りかける言葉はどことなく尖っているように感じられた。
 だけど、それはきっと私の思い過ごしなのだ。彼はきっとただ単純に、言葉の通りに、悲しんでいるだけなのだろう。


 不自然に空いた私たち二人の隙間を、通りすぎる雨の音がいっぱいに満たしていく。

 胸が苦しかった。
 まるで深い海の底へ沈んでいくみたいで、上手に息ができなくなる。


「それは、気づいていないだけだ。あさひだったら分かるだろ」

 彼はそう言った。
 私は首を縦にも横にも振らなかった。

「辛くないなんて、そんなはずがないだろう――ないんだよ。なあ、あさひ。半年前、俺があさひの担当になったあの日からずっと、俺の目にはまるであさひが泣いているようにみえて仕方がないんだ」
「泣いたことなんてないっすよ、わたし。これまでに一度だって」
「それは知ってるよ。一緒にいたこの半年間、あさひだけが何も変わらずに笑っていて、いつも通りで、だからそれが泣いているようにみえるんだ」

 胸の奥につっかえる重たい息を吐き出すような声で、彼は続ける。


「あさひは本当に強いよ。俺は、あの人だって、そのことを痛いほどに知っている。だけどさ、あさひ。この世界には、道の途中に置いていったって構わないものが幾つもあるんだ。全部を背負って生きていくなんて、普通は出来ることじゃない」
「プロデューサーさんの言いたいことは分かるっすよ。ちゃんと分かってるつもりっす。でも、そんなの、仕方がないじゃないっすか。わたしだって、望んでこうなったわけじゃない」

 捨ててしまえば楽になるなんて、そんなことは分かりきっている。
 だけど、こんなのは捨てようと思って捨てられるものじゃない。
 多くの人はそれを無意識的にこなせるのだろうけれど、でも私はそうじゃないから、だからずっと抱えたままでいるしかない。

 こんなことをいちいち説明するのはきっと無駄なことだ。
 理解できるとかできないとかの話じゃない。理解しようと思われることさえないような類の感情だ。
 私のそう短くもない人生が、何よりも強くそのことを証明している。

 だけど、息が苦しくて、胸が詰まりそうで、思わず私は声に出した。


「時々、分からなくなるんす。何が本当で、何が嘘なのか。こう表現するのが正確なのかは分からないっすけど、わたし、多分プロデューサーのことが好きだったんす。それについては、どうみえてたっすか?」
「俺も同じように考えていたよ」
「そうっすよね、よかったっす。でも、なんだか、いまとなってはそれも全部嘘みたいで。いつかの自分は、全く別の感情のことを好意と錯覚していたんじゃないかなって」
「それは、きっと自然なことだと思う」
「自然なこと?」
「人間には忘却という能力が備わっている。だから記憶は薄れていく。それは感情だって同じだ。分かるだろ?」

 私は小さく頷いて、だけど彼の言葉を否定する。

「わたし、あの人がいなくなったときでさえ泣けなかったんすよ。だから多分、そういう話じゃないんす」

 昔から、泣くのが下手だったのだと思う。
 まるで元栓を締められているみたいに、あるいは蓋をされているみたいに、感情と涙とを結ぶ回路が内側のどこかで完全に切れてしまっている。
 そんな感覚が以前からずっとあった。

 そして、あの日もそうだった。


 冬優子ちゃんが泣いていた。普段は明るく振る舞う愛依ちゃんも、あのときだけは涙を浮かべながら、私のことを強く抱きしめてくれた。
 事務所にいる他のみんなも共通の何かを悲しんで、私のことをまるで憐れんでいるようだった。
 プロデューサーさんは泣いてこそいなかったけれど目元が若干赤くて、それに酷く疲労困憊した様子で、私にすべての事情を話してくれた。

 プロデューサーがもういないこと。
 そして、これからは自分が私の担当を引き継ぐということ。

 あの日の私が何を考えていたのか、もう覚えてはいない。だけど確かなことが一つだけある。
 それは、あの日、あの場所で、泣いていなかったのは、きっと私一人だけだったということだ。


「いろんな人に言われたっす。辛かったよね、とか、無理して笑わなくたっていいんだよ、とか。でも、そんなこと言われたって、わたし、本当に分からないんすよ。辛いとか、苦しいとか、悲しいとか。自分がいま手にしているどの感情がそれにあたるものなのか、考えても考えても、分からなくて」

 それがきっとどこかにはあるのだと信じて、私は雨の中を必死に探し回った。
 だけど、結局、何一つも見つけることなんてできなくて、むしろ雨に打たれるたびに何かを見失っていくような気さえした。

 プロデューサーさんは黙り込んでいた。

 辺りをくまなく覆った雨が、彼の気配を、その息遣いさえも隠してしまっていた。
 頭上の空を半分だけ遮った黒色の傘だけが、彼がいまもそこに立っていることを私に教えてくれていた。

 それでも怖くなって、私は尋ねる。


「プロデューサーさんは、どうだったんすか」

 私の問いかけに応じるみたいに、雨傘が小さく傾いた。

「どうって、何が?」
「わたしはそういうのよく分からないっすけど、プロデューサーさん、あの人と仲良かったんすよね。それは、いわゆる恋愛関係って意味なんすけど」

 彼は一瞬だけ答えに詰まったようだった。しかしすぐに、今更隠すこともないか、と呟いた。

「そうだよ。知ってたんだな」
「あの人のことをずっと見ていれば、誰だって分かるっすよ。プロデューサーさんのこと、すごく楽しそうに話すんすもん」
「それは、知らなかった。俺の前だといつもの鉄仮面だったよ」

 彼はまるで本当に驚いたみたいに声を洩らした。


 一方で、やっぱりそうだったんだ、と私は思った。
 あの人は他の誰かに易々と笑顔を覗かせるような人では決してなかった。
 あくまで私の観測していた範囲では、という話だけれど、相手が彼だったとしてもそれは同様だったのだろう。
 そのことは想像に難くない。

 それに、楽しそうに話していたといっても、そのことが必ずしも表情として表れていたというわけではなかった。
 どこか不満そうな声色で彼の名前を挙げることや、心底どうでもよさそうな様子で彼をやり過ごしている光景のほうが、むしろ真っ先に思い出されるというくらいだ。
 だけど。

 あの人はそんな何気ない全部をどこかで楽しんでいるように、私の目からはそうみえていた。
 そういう話だ。


「プロデューサー、あまり笑う人じゃなかったっすもんね」

 だからこそ、私の記憶には、あの一瞬が何よりも強く鮮明に焼き付いている。
 意識を霞ませる雨音の中、まるでそれ一つだけが傘の下にあるみたいに、いつまで経っても色褪せないまま、忘れられないままで、何度も何度も繰り返し浮かび上がる。

「わたし、ずっと覚えてることがあるんすよ」


 こんなのは今更どうにもならないことだ。
 これまでのすべてが触れようのない過去の話だ。
 誰が正しかったとか、誰が間違えたとか、そういう次元の話じゃない。
 何もかもがどうしようもないことなんだ。
 分かってるんだ、そんなことは。

「訊いたんす、あの人に。何者になりたいかって、あの質問を受けたとき」

 あの日、酷い雨の夜、助手席に座っていた私もきっと同じだった。

 どうしようもなくて、どうにもならなくて、だけど何かになりたくて。
 だから、私は尋ねたんだ。


「『わたしに、何者であってほしいっすか?』って。そしたらプロデューサー、これまでに見たことがないくらい楽しそうに笑ってて。たったそれだけのことなんすけど、なんというか、あの一瞬が今でも忘れられないんすよね」

 すっかり濡れた上着の上から手を当てて確かめる。
 あのときのプロデューサーの笑顔が、心の奥のほうに深く突き刺さったまま抜けないでいる。
 私とあの人とをいまも不自然に結びつけているそれは、あるいはいびつに捻じれた楔のようでもあった。

 恐らく彼は、あとに続く私の言葉を待ってくれていたのだろうと思う。

 雨粒が一〇秒ほど頭上を叩いて、しかしやがて息苦しさに耐えられなくなったのか、まるで空気に喘ぐみたいに擦り切れた声で彼は言った。

「あの人は、何て答えたんだ?」


 それは、私がずっと思い出せずにいたことだった。
 何度も何度も繰り返して、それでも思い出せなかった何かだ。

 ――それが、思い出せないんす。理由は分からないんすけど、あのプロデューサーが笑ったってのがあまりに衝撃的だったせいなんすかね。肝心の答えが思い出せなくて、わたしもずっと困ってるんす。

 実際、私にはそう答えることができた。
 彼もまた、その答えの先へ踏み込むようなことはきっとしなかっただろう。
 別にそれでもよかった。そうしたところで何かが変わるわけじゃない。


 しかしどういうわけか、いまだけは何かを誤魔化そうという気にはなれなかった。

 私にとって、それはとても不思議なことだった。
 だって、ずっと目を逸らし続けてきた言葉なのに、こんなにも容易くこの右手が触れてしまいそうだったから。

 思い出せなかったんじゃない。
 思い出したくなかっただけだ。

 あのとき、プロデューサーが何て言ったのかなんて、私は最初から知っていた。

 私は小さく息を吸って、心の深くに手を伸ばすようにして言った。


「『何者にもならなくていい』」


 それが、あの日、プロデューサーが私に告げた言葉だった。

 私の後ろで彼は浅いため息を一つ吐いた。
 もしかしたらそれは安堵の表れだったのかもしれない。
 事実、続いた彼の声はこれまでのどの瞬間よりも和らいで聞こえた。

「あの人らしいな」
「わたしもそう思うっす」

 私は頷いた。
 それから、遠くの雨音に攫われてしまわないうちに次の言葉を探した。

「でも、わたしの答えは真逆なんすよ」


 手に掴んだ言葉はあまりにも唐突で、なのにこれ以上ないほど滑らかに声へと変わる。

 その答えを、あるいはもっと綺麗に伝える方法があったのかもしれないと思う。
 たとえば階段を一段ずつ丁寧にのぼるみたいに、もっと自然な過程を経て、そうしてここまで辿りつく方法が他にもあったのかもしれないと思う。
 少なくとも、こんな状況を想像してなんていなかった。

 だけど。

 いまの私にとってはこれが十分だ。
 だって、こんなにも簡単に手が届きそうだから。
 届くわけなんてないけれど、それでも届いてしまいそうだから。


「答えなんて、本当は何でもよかったんす」

 それは今日ここまで運んできた言葉の一つだった。

「あの人の答えが何であれ、できることなら、わたしはそれになりたいと思ってたんすよ。なんだか嘘みたいっすけど、多分本気で」
「それはいまも?」

 彼の言葉に、しかし私は首を振った。

「いつかのわたしがなりたかったのは、あの人にとっての何かでしかなかった。本当のことを言えば、そのままでもいいっていまも思ってるんすけど、でも、プロデューサーはもういないっすから」

 だから、わざわざこんなところまで来たんすよ、と私は言った。
 彼は黙ったまま、何とも答えなかった。


 傘を叩きつけていた雨の音は、ふと気がつけばぴたりと止んでいた。
 それまでは空を遮っていた黒色の傘が視界の外に消えていく。
 そのかわりに顔を覗かせた空は依然として曇っていた。
 天気予報がどう言っていたかは知らないけれど、でもなんとなく、もう一度降り出すということはないんじゃないかという気がした。

「あの人が危惧していたのは、結局、それなんだろうな」

 頭の上に乗せたままだったタオルで濡れた髪を拭いていると、プロデューサーさんが何かを思い出したような口調でそう言った。

 私はその場でくるりと回って、後ろを振り返る。
 彼はどこか遠くを眺めるような表情を浮かべていた。


「よく言ってたよ。自分が隣にいるせいで、あさひの人格を傷つけたくないって」
「どういう意味っすか?」
「さあ。俺はあの人じゃないから分からないけれど、多分、そのままの意味なんじゃないかな。自分の色に染まっていくあさひの様子を、あの人はあまり良しとはしていないようだった」
「まあ、そうっすね。あのときの答え自体がそういう意思表示だったんだと、いまでは思うっす」

 ――何者にもならなくていい。

「あまりにも分かりやすい否定っすよね、本当に。わたしのことを全部見透かした上でそう言ってるんすから、なおさら酷いっす」

 私はそう続けた。
 プロデューサーさんが何かを言おうとしたようだったけれど、不意に辺りを吹き抜けた強風が、私たちから言葉を奪っていった。
 乱れる前髪に私は思わず顔を伏せて、そのまま風が止むのをじっと待った。
 雨に降られた町を擦りつける温く湿った風は、全身が酷く濡れているせいか、やけに肌寒く感じられた。


 しばらくして風が止み、ぎゅっと結んでいた目を開くと、辺りの空気は微かな熱を孕んだ光に薄らと染め上げられていた。
 あんなにも重たく塞いでいた曇天はついに解けて、その隙間からは白くぼやけた青色が幕のように降り注いでいた。
 コントラストの効いた空だった。

 私が再び視線を下ろすのを、もしかすると彼は待っていたのかもしれない。
 私が空から目を離したのとほとんど同時に彼は言った。

「あの人のこと、いまでも好きか?」


 私は目を閉じて、深く息を吸う。それから、彼の言葉を内側で繰り返した。

 私はプロデューサーのことをいまでも好きだろうか?
 いつかの私は本当にプロデューサーのことが好きだったのだろうか?
 あの日から何度も繰り返し考えた、内側に抱えてしまった感情の正体は、いったい何だ?

 思考を前に進めることを思わず躊躇った。雨が止んだから。
 雨音を拡散する水色の傘も、視界を遮る半透明の壁も、いまはどこにも見当たらない。
 この両手はきっといとも容易く答えに触れてしまえる。
 たったそれだけのことが、ただ怖かった。


 雨音みたいな耳鳴りが、いまもまだ胸の奥でたしかに響いている。
 それは、空っぽで何もなかったいつかの私を深く満たしていたノイズの残滓だ。
 それに代わる何かを、しかし私は未だに見つけられていない。
 だから、怖かった。
 一歩でも足を踏み入れてしまえば、この先はきっと後戻りなんてできないから。
 この愛しい残響を失ってしまったらと想像するだけで、まるで月明かりさえない真夜中の海を前にしたときみたいに、こんなにも足は竦む。

 それでも。


 出来る限りの力で思いっきり手を伸ばした。
 すぐ目の前に見えていた、たった一つの答えに向かって。
 圧し掛かる恐怖を振り払う必要なんてなかった。

 だって、私は知っていたから。
 この雨がいつか止んだなら、それがプロデューサーにさよならを告げる時なのだと、ちゃんと解っていたから。

 指先が触れる。静電気みたいな熱が右腕の芯に伝う。
 それは心を経由せずに、そのまま私の喉を強く震わせて、声になる。


「好きっす」

 口を衝いたように飛び出したそれは、だけど間違いなく私の言葉だった。


「言いたい文句なんてもちろん色々とあるっすけど、でもやっぱり、私はプロデューサーのことが好きっす。これまでも、そしていまも、嘘偽りなく」

 そう言いながら、自分でも驚いていた。
 いつかの私はその感情を言葉にしてしまうことに酷く怯えていたはずなのに、いまは吸い込んだ息を吐き出すのと同じくらいに自然と口にすることができる。

 どうしてだろう?

 分からない。

 分からないけれど、でも、心に突き刺さったままだったあの日の笑顔がなんだか不意に痛くなって、苦しくなって、そのことがただ嬉しかった。
 私がプロデューサーに向けていた感情の、胸の奥に抱えていた感情の、その正体は純然たる恋だったのだと、そう叫ぶことをようやく許されたような気がしたから。


「よかったよ」

 すっかり濡れてしまった傘を片手に、彼はようやく笑った。
 雨上がりの空みたいに暖かく透き通った笑顔だった。

「もしかしたら、これが悲しいってことなんすかね」

 私は自分の内側を確かめるようにして言う。

「心の奥のほうがじんわりと痛むような、そんな感覚。思い出そうとするだけでぎゅっと息が詰まって、思わず何かを叫びたくなるような、そんな感覚。これが悲しいってことなんすかね」


 雨が止んでからというもの、胸がズキズキと痛んで仕方がなかった。
 何かがあったわけじゃない。だけど、何もないわけでもない。
 そこにあるのは捻じれた楔だ。
 あの人の笑顔は温かくて、優しくて、だからこそ何よりも痛かった。
 この痛みこそが悲しいという感情そのものだというのなら、彼の言っていた通り、やはり私はずっと泣いていたのかもしれない。
 降ってもいない雨のせいで、自分の涙に気がついていなかっただけなのかもしれない。

 ふと、そんな気がした。


 麓の町は青みがかった影にすっぽりと覆われている。
 遠くの海も、送電塔も、きっと私自身さえも、ここにある全部がいまこの瞬間だけは等しく同じ色をしている。
 それはとても穏やかな光景で、できることならずっと眺めていたいと思った。

「俺には分からない」

 その声に、私は背後を振り返る。

 目が合うと、彼は自然な流れで微かな笑みを口元に浮かべた。
 彼もまた、私と同じ色をしていた。

「だから、あさひの好きなように決めたらいい」

 どこかで聞いたことのあるようなその台詞に、私は思わず笑う。
 その微笑みにいつかのプロデューサーが重なってみえた。
 あの人が彼には心を許していた理由も、いまなら何となく分かりそうな気がした。


「じゃあ、これが悲しいってことにしておくっす」

 そうして私は、この痛みに名前をつけた。
 心の奥に深く刺さったままで抜けない楔を、私は悲しさと呼ぶことに決めた。
 そのことに意味があるかどうかなんて分からない。だけど、不思議と悪い気分じゃなかった。
 こんなにも強く意識に訴えかけてくる感情を、たとえ一時の錯覚だとしても、それでも愛していけそうだと思えた。

 あさひは本当に強いな、と彼は独り言のように呟いた。
 私は、そうっすかね、とだけ笑って、またもくるりと振り返った。

 そうして私の視界は再びそれを捉える。

 高台の隅でひっそりと佇んでいるそれは、ただの空っぽだ。
 ここには何もない。あの人が眠っているわけでもない。私の言葉なんて今更どこにも届かない。
 だけど。


「プロデューサー」

 もしあの人の目にも私が泣いているように映っているのだとしたら、それはとても悲しい。
 私たちを染め上げる青の色が、誰の目にも悲しい色としては映っていてほしくない。
 だから私は、多分、生まれて初めて意識的に笑った。
 いまの私はどうみえているだろう? 
 上手く笑えている自信はあまりないけれど、いつも通りの私がそこにいたらいいなと思った。

 一度大きく息を吸って、そのままゆっくりと吐き出す。
 そんなことをするまでもなく、心はもう十分に落ち着いている。酸素だって足りていた。
 だけど、もう少しだけ時間が欲しくって、私はそれを何度か繰り返した。



 その最中、私は不意に思い出す。あの日、酷い雨の夜、歩道を歩いていた水色の傘の少女のことを。

 いまにして思えば、私はあのとき既にすべての答えと出会っていた。
 いつかの私は、あの少女のことがただ純粋に羨ましかったのだ。
 何者でもないままで、だけど誰よりも特別だった、あの少女のことが。
 水色の傘の下で楽しそうに笑う少女は、どこまでも綺麗で透明だった。
 私は結局、その透明になりたかったんだ。

 ならばあのとき、私の答えは、もしかするとプロデューサーに届いていたのかもしれない。
 そう考えるのはいくらなんでも希望的観測が過ぎるだろうか?
 でも、あの人は本当に頭が良かったから。それに、いつだって私と同じものを見ようとしてくれていた。
 ならばこそ、ほんの短いやり取りだけで私と全く同じ結論に至っていたとしても、大して不思議なことじゃないという気がした。


 随分と西に傾いた太陽が、近くの水溜まりに反射して眩しかった。
 あんなにも重く沈んでいた空はもう十分な高度を取り戻している。
 それは絵に描いたような夏空だった。
 澄んだ青は千切れた雲で部分的に隠されていて、だからこそ、その間を縫って、どこまでも飛んでいくことができそうな空だった。

 右手をぎゅっと握りしめる。
 本当はまだ怖かった。ずっとこのままでいたかった。
 空の青さなんて綺麗に忘れてしまって、降り続く雨の冷たさに溺れたままでいたかった。
 どこかへ向かって歩き出す勇気を、私はいまも手に入れられていない。
 耳鳴りの消えてしまった世界は、こんなにも真っ暗で、不安定で、前も後ろも分からない。

 ――だけど。


 雨は止んだ。

 だから、また歩き出すんだ。
 傘なんかなくたって、どっちが前なのか分からなくたって、それでもその一歩の正しさを信じて歩いていくんだ。

 大丈夫。こんなにもいびつに捻じれた痛みだって、こんなにも強く胸を締め付ける悲しみだって、きっと愛していける。
 私は私のままで歩いていけるから、だから、もう大丈夫だ。

 心の一番奥のほう、たしかな熱と質量をもってなおも残る、青い灯火みたいな笑顔を思い浮かべて、私は言った。


「さよなら」

 微かな熱を帯びた何かが、頬に伝う。
 それは多分、あの日、空っぽだった私を満たしていった雨雫の、最後の一滴だった。


  *

 お疲れ様。……どうしたの?
 どうしたって、何がっすか?
 いつもと比べて元気がないな、と思って。気のせいならいいのだけれど。
 うーん。雨のせいじゃないっすかね。
 なるほど。朝からずっとこの調子だしね。気が滅入るのも頷ける。
 できれば止んでほしかったんすけどね。


 雨は嫌い?
 嫌いってわけじゃないんすけど、わたしは晴れてるほうがいいっす。プロデューサーさんは違うっすか?
 どうだろう。気分次第であるところは否定できないけれど、でも晴れの日と同じくらい雨の日も好きかな。
 なんでっすか?
 理由なんて特にない。強いて言うなら、嫌いになる理由が何もないからだ。
 嫌いじゃないってことと好きってことは、また別の話っすよね?
 勿論、別だ。でも、嫌いになる理由のないものなら、それを好きなんだと思って過ごすほうが楽しい。
 そんなもんっすかね。
 こういうのは人それぞれだと思う。だけど、あさひは割と似通った考え方をしているように思うけどな。
 そうっすか?
 たとえば、見たことのない何かが目の前にあるとしよう。
 見たことのない何か。
 まあそれは別に何だって構わない。食べ物でも生き物でも。あさひがいつも通りに事務所にやってくると、その何かが机に置かれていた。そういう場面を想像してみてほしい。
 ふむ。
 どうする?


 場合によるっす。無機物ならとりあえず手に取ってみると思うっす。
 あさひはそうだろうね。でも、普通はしない。場合にもよるけれど、自分がよく知らないものというのは恐怖の対象だ。大体の人間は自分が知っている世界の中でだけ生きている。その中でしか生きられない。だから、触れずに放置しておく。
 それがさっきの話とどう繋がるんすか?
 あさひは自分の知らないものを一先ず善と決めて知ろうとする。一方で私は自分の嫌いでないものを一先ず善と決めて好きでいようとする。少し脱線したけれど、そういう話。
 なるほど?
 いまひとつ分かっていなさそうだね。
 そっすね。よく分かんないっす。
 まあ、いまはそれでいいさ。……そういえば、これは個人的な興味だけれど、あさひにとっての好きがいったい何を指しているのか、少し気になるんだよね。
 それはどういう?
 さっきあさひが言っていたけれど、晴れているほうがいいというだけで、別に雨が嫌いなわけじゃないだろう?
 まあ、そうっすね。
 それと同じだ。たとえどんなに苦手なものだって、あさひはきっとそれを嫌いになりきれないんだろうという気がする。
 うーん、どうっすかね。言われてみれば、そうかもしれないって気がするっす。
 だったら逆も然りだ。あさひが本当に好きなものは何なのだろうということになる。
 そっすか? 嫌いの反対が好きなんすか?


 好きと無関心が反対になることもある。だけど、それは視点の問題だ。嫌いなものがあるから好きなものがあって、好きなものがあるから嫌いなものがある。そういう意味で、この二つは反対だ。
 わたしには好きも嫌いも同じものに思えるっす。
 なるほど。それは詳しく聞きたいな。
 たとえばなんすけど、プロデューサーさんは恋と依存の違いって何だと思うっすか?
 その二つに大した違いなんてない。
 わたしもそう思うっす。でも、一般的に言えば、恋と依存とは明確に区別されてるっすよね。本質的には同じことなのに。そっちはどういうことだと思うっすか?
 前者の場合、そう錯覚せずには満足に生きられないからだね。分かるだろ? 恋だとか愛だとか、そんなのは必要以上に縛られる理不尽に耐えきれない人間が使う綺麗事だ。本当はどちらも同じくらいに綺麗で、同じくらいに歪んでいる。
 歪んでいる?
 たった一つの何かを最上位に据えるということ自体が歪みだ。
 でも、それが普通っすよね?
 うん、それが普通だ。いまのが好きと嫌いの話に関係しているのかな。


 関係している、というより、好き嫌いの話はいまさっきの疑問から派生した考えの一つっすね。
 恋と依存のほうが先にあったわけだ。
 はいっす。もっといえばそれより前に、その、何か一つだけを選ぶ、みたいなことについてあれこれ考えてたってのがあるんすけど。恋も依存も、結局、その点では同じことじゃないっすか。
 そうだね。
 なんか、わたしはそういうのがよく分かんなくて。だから、最近よく考えてるんす、こういうこと。別に何があったってわけじゃないんすけど。
 ふうん。そっか。そういえば私にもあったな、そういうことで悩んでいた時期が。
 プロデューサーさんも? なんだか意外っすね。
 そりゃあね。社会人になるまで生きていたら、それくらいのことを考える機会なんて、嫌になるくらい転がっている。
 プロデューサーさんは答えを見つけられたんすか?
 まあ、一応ね。納得はした。だけど、私の答えは私だけのものだよ。こんなのは他の誰にだって通用しない。
 わたしにもっすか?
 勿論。誰の答えだって、それを見つけた誰か一人だけのものだ。だから、もしそれが欲しいのなら、あさひも自分自身で見つけないといけない。
 本当に見つけられるっすかね。ヒントとかがあればいいんすけど。
 ヒントねえ。


 プロデューサーさん、何かないっすか?
 そうだな。あさひには以前から一度訊いておきたかったことがあるんだ。せっかくの機会だし、ヒントというわけでも特別ないけれど、それを尋ねておいてもいいかな。
 何でも答えるっすよ。
 ありがとう。じゃあ訊くけれど、あさひはさ――。


  *

 次の日、私はいつもより少し早くに家を出た。
 辺りをぐるりと見渡してみるけれど、昨日の雨はどこへやら、硬いアスファルトの道には水溜まり一つさえ残っていない。
 早朝の冷気を孕んだ風が、微弱ながらも前髪をふわりと揺らす。
 それがなんだか心地よくて、風の流れに身を委ねるように全身の力をふっと抜いた。
 そうして見上げた空には、爽やかな水色と焼き付けるような白を背景に、綿菓子みたいな雲が二つ、三つと浮かんでいた。
 まるで夏の始まりを告げるような朝だ。今日はきっと何かいいことがあるに違いない。


 透明な暗闇が空を太陽ごと覆い隠して、夜明けがそのヴェールを静かに攫っていく。
 たったそれだけのことで、昨日の出来事が全部、遠い昔のことのように思えてくるから不思議だ。
 実際、あんなにも長いと感じた一日だって、それをたとえば日記帳なんかに書き起こしたとして、四桁にも満たない文字数で案外書き切ってしまえるのではないかという気がする。
 
 午前中はレッスンに費やし、昼頃からプロデューサーのお墓参りに行って、傘を持っていなかったせいでずぶ濡れになり、一度戻った事務所で洗濯と乾燥とを済ませてもらって、家に着いたのは二一時を回りそうな頃、疲れていたからシャワーだけさっと浴びてそのままベッドに飛び込んだ。

 いまのでいったいどのくらいの字数だろう。三桁はありそうだけど、二〇〇には足りない?
 まあ正確な数字はどうだっていい。ともかく、昨日起きたことなんて結局はその程度でまとめてしまえる話だった、ということだ。
 ただ表面をなぞるというだけなら、だけれど。



 歩き始めて最初に行き当たった横断歩道は赤信号だった。
 比較的、車の往来が激しい道だった。手持ち無沙汰に通学鞄の中身を確かめる。
 今日は諸事情で遅刻することになっている上に体育と音楽とが重なっているから、教科書の類はかなり少なめだ。
 それらの間に青色のクリアファイルが挟まっていることを確認して、それからまた両肩に引っかける。
 昨夜に今朝に、これでかれこれ三度目のことだが、しかし念を入れるに越したことはない。
 勉強道具はともかくとして、今日に限ってこれを忘れるわけにはいかなかった。

 横断歩道を渡って、いつもなら右に折れる道を真っ直ぐに進む。
 当面の目的地は最寄り駅、さらにいえば、そこから特急で三駅行った先にある事務所だ。
 先ほど確認したばかりの青いクリアファイル、実際に必要なのはその中身だが、それをプロデューサーさんのところまで届けるのが、今日の私が第一にこなさなくてはならない仕事だった。
 遅刻せざるを得ない事情というのはこのことだ。

 それは取り立てて急を要するというものでもなかった。
 というより、これは私一人の都合だけれど、その仕事というのは、実を言うと、この半年間ずっと先送りにされ続けてきたものだった。
 だから、早く済ませたほうがいいのは当たり前のことにせよ、急ぎだとか急ぎじゃないだとか、そんなのは今更気にしても仕方のないことでもあった。
 さて、ともすると、学生の本分であるところの学業を後回しにしてまで事務所へ向かう必要性はどこにあるのかという話になるだろうけれど、こればっかりは私のエゴだ。
 一刻も早くプロデューサーさんに届けたいという、ただそれだけの理由だった。


 改札を潜り、ホームに並ぶ。人影は疎らだ。
 いつもより出発時間を早めて正解だった。
 人混み自体はそれほどでもないけれど、狭くて窮屈な場所、具体的に言えば朝七時半過ぎの駅のホームなんかはかなり苦手だ。
 まるで海の底を歩いているような気持ちになるから。

 列車は特に慌てた様子も見せず、悠々と定刻通りに滑り込んできた。
 七人掛けのシートは、それそのものが一種の法則であるかのように揃って隅のほうから順に埋まっている。
 一〇分ほどで着くのだから、と私は向かい側の扉に背中を預けることに決めた。
 外の景色を眺めたいのなら、ここが一番良いポジションなのだ。


 見慣れた景色の中を列車は走っていく。
 途轍もない速度で移動しているはずなのに、しかし遠くに張りついた町並みはほとんど静止しているようにみえるという現象が、不思議で不思議で仕方がなかった時期があったことをふと思い出す。
 いまはそうじゃない。
 いまの私はこの現象の理屈を分かっているし、完全ではないにせよ、聞き齧った物理の知識を使えばある程度なら説明できる。
 私たち人間よりも雲のほうがずっと速く歩いていることだって知っている。
 だけど、それはただ知っているだけで、つまり、この世界が宿していた素敵な魔法の一つを徒に紐解いただけだ。

 ――プロデューサーなら。

 あの人なら、このいたって平凡な風景をどんな風にみるだろう? そんなことを車窓の向こうに考える。


 私とあの人は多分、ほとんど同じような世界を眺めながら一緒にいた。
 勿論、完全に一致していたわけじゃない。
 むしろ食い違っている部分のほうが圧倒的に多かっただろう。
 それでも、私たちはきっと同じ世界をみているのだと信じられるほどには似通っていた。
 私があの人のことをこんなにも好きになれたのは、たったそれだけのことが理由だったのだろう。

 だったら、と私は思う。

 だったら、魔法みたいな不思議が失われてしまった空の色だって、私は好きになれそうだ。
 あの人が最後に残していった胸の痛みが、心の奥のほうでいまも強く響いている。
 これから先、新しい何かに出会う度に私はあの人のことを考えるのだろう。
 そして、その度にこの息が詰まるような感覚を思い出すのだろう。

 だから、これはつまり、いまの私にかけられている魔法の一つだ。
 悲しみは透明の空をどんな色にでも塗り替える。
 思わず目を細めてしまう茜色にも、遥か遠い夏を思わせる水色にも、いまにも崩れ落ちてしまいそうな赤色にも、宇宙を丸ごと敷き詰めたような黒色にも、あるいは、懐かしい耳鳴りが聞こえてきそうな灰色にだって。
 こんなにも温かくて、優しくて、寂しい痛みがあるから、たとえばあの人のことを好きになれたように、あの人のいなくなった今だってきっと好きになれる。
 そんな気がした。


 次に停まる駅の名前を告げるアナウンスが車内に流れる。
 架橋を越えて最初の駅、私はそこで列車を降りた。
 エスカレーターで一階まで下りて、改札を潜り、西口から出て徒歩数分。
 こうしてみると、事務所は意外と近くにある。

 ペットショップを横目に角の階段を上った。鍵は既に開いていた。

「おはようっす。誰かいるんすか?」

 誰もいないなんてはずはない。しかし返事はなかった。

 廊下と部屋とを遮るための扉は開かれていた。
 そのまま奥へ進むと、部屋の窓が半開きになっていることにまず気がついた。
 それから、なんだか変な匂いがどこからともなく漂ってくることにも。

 なんだろう、これは。


「おはよう」

 すると、私からみて右側、キッチンのほうから、白いマグカップと一緒にスーツ姿のプロデューサーさんがふらりと現れた。
 右手に持った小さな器からはこれでもかとばかりに湯気が立ち上っている。

「それ何すか?」

 私は尋ねる。

「珈琲」

 彼はそう答えて、手元のカップに一口つけた。


「プロデューサーさん、珈琲なんか飲むんすね。知らなかったっす」
「まあ、基本的に朝にしか飲まないからな」
「美味しいっすか?」
「いや、別に。一口飲んでみるか?」
「うーん。じゃあ、いただくっす」
「熱いから気をつけろよ」

 受け取ったマグカップをそのままそっと口元へ運んだ。
 白く曇った湯気が覗き込んだ顔に直撃する。たしかにかなり熱い。
 無駄な抵抗とは思いつつ、ないよりはましだろうと何度か息を吹きかけて、それからゆっくりと口に含む。

 珈琲は苦いものだという固定観念があったけれど、どうなのだろう。
 たしかに苦いといえば苦い気はするけれど、飲めないほどかといわれればそうでもない。
 詳しくないけれど、もしかしたらなにかシュガーやシロップのような、苦みを緩和するものが足されているのかもしれない。
 分からない。とにかく熱くて熱くて、美味い不味いどころじゃなかった。

「よく分かんないっすね」

 私は手元のそれをプロデューサーさんにそっと返す。
 対する彼は、実は俺もよく分からないんだ、と笑っていた。


 窓際に置かれている直角型のソファの一番端に彼は腰かけた。
 私は同じソファのもう一方の端っこにぺたりと座り込む。
 ちょうど私たち二人は対角線上で向かい合っている形だ。
 その間には小さくて使い勝手のよさそうなテーブルが、しかしお互いになんとか手が届きそうというくらいの絶妙に離れた場所にあった。

 脇に置いていた通学鞄から、私は青色のクリアファイルを取り出した。
 彼がわずかに首を傾ける。

「それが例の」

 私は頷いて、そのまま彼に手渡す。

「随分と時間掛けちゃったっすけど、これで完成のつもりっす」

 この半年間ずっと滞っていた仕事、それはあの人が、プロデューサーが私のもとに持ってきた最後の仕事だった。


 その内容とは、いずれ発売する予定だった私の曲の歌詞を、他でもない私自身が書くというものだ。
 あの人が置いていった仕事は他にも幾つかあったけれど、私とは直接関係のないものを全部合わせても、最後の最後まで残ったのはこれだった。

 作詞なんてやったことは、遊びでさえ一度もなかったけれど、いざ書き始めてみれば思いのほかスラスラと言葉は並んでいった。
 自分の考えているあれこれを様々な表現を交えて書き下すという行為は、自分が想像していたよりもずっと楽しかった。
 だから、それなりに書けたという段階にはそれなりに早いタイミングで至っていた。
 しかし、すべてが順調に進んでいたのもあの日までだった。
 それはプロデューサーの訃報が届いた日のことだ。


 詳しいことは何も知らない。知りたくもなかったから、そもそも訊かなかった。
 ただプロデューサーがいなくなったということだけが絶対的な事実だった。
 あの日を境に、私の中で無意識のうちに確かだと信じきっていた何かが崩れてしまったのだと思う。
 そんな感覚が何となくあった。
 家に帰っていつものノートを開いてみても、それまでに書き並べた言葉の全部が嘘みたいだった。
 本当に自分が書いたものなのかも怪しかった。
 ノートのページはその日のうちに破いて捨てた。

 それからずっと、私は言葉を探し続けた。
 何度もペンを走らせて、その上から消しゴムで強く擦りつけて、そんなことを何度も繰り返した。
 そして、その度にプロデューサーのことを思い出した。
 あの人は何を思ってこの仕事を私に持ってきたのだろう?
 私の言葉を楽しみにしているとあの人は笑ったけれど、だけどもうどこにもいない。
 決して届くはずのない言葉を今更みつけるなんて、こんなの、ほとんど地獄みたいなものだ。
 そんなことを何度も考えて、だけど私は探し続けた。
 何もかもが遅すぎるほどに手遅れだとしても、それでもたった一つの言葉に届きたくて。

 私がその詞をついに書き終えたのは、いまからちょうど一週間前のことだった。


「結局、あれから何か変えたのか?」

 青色のクリアファイルを手に持ったまま、彼はそう言った。
 私は首を振る。

「全然。何も変える必要なかったっす」

 彼が話しているのは昨日の出来事についてだ。
 そもそもの話、あの人のお墓参りに行くのは、私が歌詞を書き終えるまでなしだということになっていた。
 なっていた、というより、私がそうお願いしていた。
 それを完成させるよりも先にあの人のもとを訪ねてしまったら、そこですべてが終わってしまいそうな気がしていたから、だからずっと先延ばしにしていた。

 一週間前、私がそれをようやっと書き切った旨を伝えると、彼はすぐにスケジュールの調整をしてくれた。
 色々と迷惑をかけてしまっただろうと思う。
 彼は勿論のこと、それ以外のみんなや、直接の面識はないような誰かにもきっと。
 そういった全ての先にあったのが、昨日という一日だった。


「訪ねてみるまでは、何かが変わってしまうかも、って思ってたっすけどね」

 何かが変わってしまったのなら、その結果に従って全部書き直そうと思っていた。
 だけど結局、何も変わらなかった。
 だから、クリアファイルの中に仕舞われた言葉たちは一週間前の、あるいはそれよりもずっと以前の姿のままだ。

 本当にそれでよかったと思う。
 そこに綴られている言葉の全部を、いつかの私は何よりもずっと本物なのだと信じたかったから。
 そして、それこそが本物なのだといまは知っているから。


「読まないんすか?」

 私はわざとらしく首を傾げて言った。
 彼はクリアファイルを手にしたままで、ずっと何かを躊躇っているようにみえた。

「いやさ」

 彼は言う。

「まだ迷ってるんだよ。自分なんかが最初にこれを読んでもいいのかなあ、って」


「どうせプロデューサーさんは目を通さなきゃいけないじゃないっすか」
「そうだけどさ。それはそれとして、こう、あるだろ何か」

 何を表しているのかも分からない妙なジェスチャーを交えて彼は答えた。
 その様子がなんだか可笑しくて、私は小さく笑う。

「じゃあ、プロデューサーさん以外に誰が最初に読むんすか」
「それも、まあそうだけどさ」
「せっかくこうして持ってきたんすから、読んでくださいよ」

 私がそう言うと、彼はあらゆる逃げ道を塞がれたというような顔をした。
 あまり見かけない、彼にしては珍しく面白い表情だった。


 彼の右手がクリアファイルの中から一枚の紙を取り出す。
 それは何の変哲もない、ただのコピー用紙だ。
 存分に書き散らかしたノート一冊をそのまま見せるのも何だかという気がしたから、別の紙になるべく丁寧な字で清書したものを今日は持ってきていた。

 そう短くもなければ長くもない言葉の列を、彼は真剣に目で追っているようだった。
 そこに綴られた幾つもの文字が、果たして彼の目にはどんな風に映っているのだろうと考える。

 できることならどこまでも純粋な、透明な色のままで届いていればいいと思う。
 そして、彼が求めた通りの鮮やかな色に染まっていればいいと思う。

 それこそ魔法が消えた後の空みたいに。
 そんな大層なものを書いたというつもりは全くないけれど、だけどもしそうであってくれたなら、私はとても嬉しい。
 あの人が私に望んでいたのは、きっとそういうことだったんだといまでは思うから。


 開いた窓からすっと忍び込んだ弱気な風が、彼の手元を控えめに揺らした。
 いつしか遠くに消えてしまっていた街の喧騒が、差し込んだ明かりの暖かさが、仄かに漂う珈琲の香りが、夏風に連れられて私たち二人の間にまた帰ってくる。

 いつも通りの朝が呼吸を始める。

「どうだったっすか?」

 私は訊いた。

 あの日、酷い雨の夜、助手席から、いつかの私がそうしたように。
 朝日に色付いた事務所の中、どこか楽しげな笑みを浮かべた彼の口元に、いったいどんな答えが返ってくるだろうかと想像しながら。


終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
以下、過去作です。

芹沢あさひ「青空の水槽」
芹沢あさひ「青空の水槽」 - SSまとめ速報
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