・アイドルマスターシンデレラガールズ及びスターライトステージの二次創作です
・ト書き形式ではないです
・いわゆるアイドルのクラスメイト(モブ)視点一人称です
・オリジナルのキャラ、独自設定要素を含みます
・依田芳乃さんがメインですが顔出しは全体の三割くらいになります
・約25000字、書き溜め済みです。60レス行かない程度の量になります
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――わたあめみたいな声だな、と最初は思った。
■1
高校生になって初めての夏季休暇が呆気なく終わり、長めの残暑もようやく落ち着いてきた頃、自分が通う学校に転校生が来るらしいという話を噂で聞いた。
まあその時はこんな中途半端な時期になんだか珍しいな程度のことしか考えてなかったけど、件の転校生がうちのクラスに転入してくるとなると、完全に他人事というわけにもいかなくなる。
できればおとなしい人でありますようにというぼくの祈りは、半分当たって半分外れていた。
迎えた転入当日、朝のホームルームで現れたのは女の子だった。
担任教師が呼ぶ声に合わせてゆっくり引き戸を開け、しずしずと歩いてくる姿はどことなく上品さが窺えるもので、なのに外見は中学生と見紛うくらいに幼い。
身長だけ見れば決して低過ぎるというわけでもないけれど、面立ちがそう感じさせるんだろう。
「わたくし、依田は芳乃と申しましてー」
黒板にやたら達筆な字で名前を書いて、彼女はそう名乗った。間延びした、独特なテンポの喋り。
ぼくはそれを、わたあめみたいな声だな、と最初は思った。
ふわふわして柔らかくて、甘やかで……けれど中心には結構しっかりした芯がありそうな、そういう声。
その印象が間違ってなかったと知るのは、もうしばらく後の話だ。
■2
担任の言うところによると、彼女――依田さんは『アイドル』らしい。だから学校を仕事で休むこともあるんだと。
ホームルーム後、授業を挟んだ最初の休み時間に興味津々なクラスメイトがいっぱい彼女の席に集まって、あれやこれやと質問を投げかけていた。
「テレビに出て、ライブとかするあのアイドル?」と誰かが聞いて「まだテレビには出られておりませんがー、まさしくそのアイドルでしてー」と彼女が返す。
それをぼくは背中で聞きながら、貝のように唇を閉ざしていた。
何の因果か、依田さんの席はぼくの真後ろになった。
いや、窓際のこの列だけ一人分スペース空いてたからなんだけど、おかげで静かだった席周りが大変賑わしい。
きゃいきゃいがやがや、主に女子の高い声が容赦なく後頭部を叩いてくる。
その中で穏やかな依田さんの声は、姦しさに混ざっていてもするりと耳に入り込んできた。
あまりアイドルに詳しくない、どころか胸を張って疎いと言えるぼくだけど、彼女たちの仕事が主に歌ったり踊ったりすることだってくらいは知っている。
たまにテレビで見かけるし、さっきそうだと頷いてたのも聞いてたし。だとすれば依田さんの歌声は、きっと優しいんだろうな、とぼんやり考える。
授業中の彼女は基本的に大人しくて、でも少しだけひとりごとが多かった。
つらつら黒板に要点を書きながら、教科書の中身を要約する先生の挙動に合わせて「ふむー」とか「なるほどー」とか、小声で相槌を打つんだけど、たぶん教室のみんなに聞こえてる。当然先生にも。
どの相槌も見計らったように綺麗なタイミングで来るものだから、先生は気を良くして、授業の語りにも熱が入る。
結局それは、他の科目でも同様だった。気難しいと評判の数学教師でさえ、ご機嫌な様子で帰っていったくらいだ。
転校初日でひとつ、わかったことがある。
依田さんは、天性の聞き上手だ。
■3
彼女はクラスにもあっという間に溶け込んだ。馴染んだといった方がいいのかもしれない。
男子にも女子にも分け隔てなく接するし、質問責めにも全く嫌がらず笑顔で答えてくれる。
度量が広いというか、おおらかというか……それでいて見た目の幼さからか、時折見せる小動物的な仕草に庇護欲をそそられるのか、転校二日目には友達という名の女子バリアが築かれ、下心ありありの男子はすげなく弾かれるようになった。
そのノリは当然のように昼休みも継続するので、ぼくは依田さんと一緒にお昼を食べたがる女子に、自分の席を譲る日が増えた。
毎日じゃないのは、彼女が学校をちょくちょく休むのと、他のクラスだったり中庭や屋上だったりに連れ出されることがあるからだ。
そんなわけで自席にいられない時は、人の行き来が少ない場所を探して、そこで昼食を済ませることにしている。
正直、騒がしいのは苦手だった。だからクラスメイトとの交流も最低限だ。
ぼくはおそらくクラス内だと『無口でぼっちな目立たない男子』程度にしか思われていないだろう。
そういう風に立ち回ってきたし、これからもそういう扱いで構わない。
けれど、例えば授業の途中だとか、帰り際だとか……背後から、視線を感じることがある。何となく。何となくだ。
見られてるように感じるけど、それがどういう意味なのかまではわからない。
真後ろの席に座ってるんだから、視界にぼくの背中が入っても不自然じゃないし、自意識過剰と言われればそうかもしれない。
ただ、もし彼女にとって興味を惹かれるような何がしかがぼくにあるんだとしたら……それはいったい、何なんだろう。
■4
ノートに板書を写すふりをして、無地の紙に鉛筆を走らせる。
背を丸めて、左手と筆箱で小さな塀を作りながら、時折左側……窓の外に視線を向ける。
よく晴れた青空と秋らしいいわし雲。
眼下の校庭では他クラスの生徒たちが体育教師に走らされてるけど、ぼくはそれより遠い、なんてことない街並みの方を目に焼きつける。
勉強はそれなりにできるし、自分で言うのも何だけど地頭も悪くない。
ある程度授業を聞いて、家でそこそこの復習をしておけば充分ついていける。
だから余裕がある時とか、授業自体が横道に逸れて退屈な時、ぼくは暇潰しを兼ねてよく絵を描く。
先に街の当たりをつけ、大雑把な輪郭を作り、そこから細部を詰めていく。
鉛筆はすぐ線が太くなってしまうから、こまめに削って先端を尖らせる。
微かな手と指の動きだけで細かい部分を書き込み、目が疲れてきたところで空へ。
黒だけで描く鉛筆画では、濃淡と空白だけで疑似的に明暗を作る必要がある。
重要なのは影だ。昼の空は明るいけど、そこに浮かぶ雲にも、陽射しが落ちる街並みにも確かに暗がりはある。
その中途半端な影の色を塗る作業が、ぼくは結構好きだった。
教壇の前に立つ世界史の教師が、どう考えても授業内容から外れた豆知識を披露している。
歴史に興味のある人なら楽しく聞けるかもしれないけど、ぼくにとっては退屈な話。
しかも一度熱が入ると、誰が寝てても注意しないから、クラス内ではボーナスタイムとか言われてたりする。
ただし、試験が近くなると一気にノルマ分の内容を早口で詰め込んでくるから、痛し痒しって感じだ。
担当教科に対して変な熱意があるのは結構だけど、少なくともいい先生ではないだろう。
そんなことを考えながらも、癖づいた手は半ば自動的に空を描き終える。
教室の窓際から見る昼の街並み。若干上の空になっちゃってたから、完成度はお世辞にも高くない。
まあ、それでも軽い練習にはなったかな、とノートを閉じかけて、ふと後ろから「ふむー」という声を聞いた。
授業中にもよく耳にする声。
だけどいつもと少しだけ違う響きだったように思えて、ぼくは右斜め前に置いていた筆箱のフタをぱかりと開く。
小学校時代から使い続けているそれには、フタの裏側に小さな鏡がついている。
昔は辛うじていた友人と授業中に、幼いながらも指だけで組める暗号とか考えて、無言のやりとりをしていたものだ。
あまり行儀良くはないけれど、フタの角度を調整し、右肩を心持ち下げ、こっそり後ろの席――依田さんの様子を窺う。
彼女は前を向いていた。すごく綺麗に真っ直ぐ背筋を伸ばして、ぼくの背中か、その先にある黒板か、今も喋り続ける先生を静かに見つめている。
改めて見ても、整った顔だった。なるほどアイドルと言われてみれば納得してしまえるくらいには美人というか、かわいいというか……そういうのに疎い自分でもわかる。だからどうってわけでもないけれど――。
「……っ!?」
一瞬、確かに目が合った。
向こうからはほとんど豆粒程度にしか見えないだろう鏡越しに、にこりと彼女に笑いかけられた気がして、ぼくは慌てて筆箱のフタを閉める。
ぱたん、と乾いた音がして、それがやけに教室に響き渡って、雑談モード真っ最中の先生がぴくりと眉をひそめる。
その直後、授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、室内の空気がわかりやすく弛緩した。
結構露骨に「あ、ヤバい」みたいな表情をした先生が、続きは明日なと捨て台詞めいた言葉を残し、荷物を持って足早に去っていく。
待ってましたとばかりに数人の女子が、背後の依田さんの席を囲み始めた。
何事もなく。それから彼女に話しかけられるようなこともなく。
だからぼくはさっきの出来事を、ただの気のせいだと思った。
■5
依田さんが転校してきてから二週間も経つと、放課後、同じクラスだけでなく他のクラス、どころか違う学年からも生徒が集まって、彼女の席の前に並ぶ光景が繰り広げられるようになった。
曰く、どんな些細な相談事にも親身になって聞いてくれるとか。
落としたり失くしたものについて尋ねると、百発百中で見つけてくれるとか。
最初はクラスの女子が困ってるところに現れて「何か失せものをお探しでしてー?」と聞いてきたことが始まりらしい。
それで彼女に言われた場所を探したら、何日も見つからなかったものがあっさり見つかって、じゃあ俺も私も、という感じでみんなが相談する流れができて、そのうち噂になって学校中に広まって――結果が現状だ。
しかも、よほど急ぎの用事がない限り、彼女は断らない。相談しに来た人を絶対に追い払わない。
時間がかかっても全部聞いてくれる。それはまあ、人気になるのも当然だろう。
もっとも、一つ前の席のぼくからすれば、ちょっと面倒な状況でもある。
ホームルーム終了五分後くらいにはもう、彼女の席の近くに列ができる。
そうするとなんていうか、みんな机を挟んで落ち着いて話せる状況を作りたいらしく、つまり並ぶ人たちはみんなぼくの椅子を使いたがる。
幸いぼく自身も教室に長居する理由はないので、鞄を持って速やかに席を立つのが日課になった。
向かうのは美術室だ。ぼくが絵を描くのは趣味だけど、それで生計を立てたいとか、もっと技術を磨きたいとか、そんな思いもないわけじゃない。
独学でやるには限度があるし、画材も全部自分で揃えようとすると結構出費が馬鹿にならないから、入学して早々、美術部に入ることを決めた。
引き戸を開けてみれば、既に何人かが自分の作品に取りかかっていた。
部には明確な方針がなくて、良く言えば自由裁量、悪く言えば放任主義が貫かれている。
顧問の先生はちゃんとした美術科目担当の教師だけど、指導は請われなければ最低限、当人の根城でもある美術準備室で自分の作品に集中してる時間の方が多い。こ
れで部の予算はきっちり取ってくるし、教える時は真面目かつ的確にやってくれるので、部員からの評判は概ね高かった。
イーゼルの角度を調整していた部長が、ぼくに気づいて「お疲れー」と挨拶してくる。
お疲れ様です、と小さくお辞儀し、いつものポジションについてぼくもイーゼルを立てかける。
部員はぼくを含めて六人。部が成立するには結構ギリギリの人数だ。
各人お決まりのスペースを確保していて競合もなし。全員が揃うことは稀だけど、誰がいてもいなくてもお互いに気にしない。
そういう距離感は、入学から半年の間で自然とできている。
程良い高さと角度で固定したイーゼルに、画版を敷いてからスケッチブックを乗せて固定する。
美術部備えつけの背もたれがない木椅子に座り、鉛筆を片手にぼくも集中する。
傍らには参考用の写真が数枚。どれも自然の景色を切り取ったもので、人間は写り込んでない。
ジャンルで言えば、写実寄りの風景画だろうか。
人物画中心の部長には「風景画ばっかりじゃ飽きない?」「人間も描こうよー」なんて事ある毎に突っつかれてるけど、ずっと断り続けている。
人間を描くのが難しいとか、そういうわけじゃない。確かに複雑だし面倒だけど技術的には問題なく描ける。
どちらかといえば、好みの問題だ。苦手……と言っても、いいのかもしれない。
「今日も風景画かー。相変わらず影の描き方に深みがあるなあ」
「……ありがとうございます。部長は休憩ですか?」
「うん。ちょいと集中力切れちゃって、一息ついてるところ」
苦笑しながら、部長がぼくの隣で描きかけの絵を再び見つめる。
それから小さく息を吐き、惜しむような声色で言った。
「……やっぱ人は描かないんだ」
「はい。しっくり来なくて」
「むむっ、そっか。しっくり来ないんじゃしょうがないなぁ」
絵を描くこと自体は技術的、論理的な行為だけど、絵を通して描き込むのは自分の感性だ。
良くも悪くも、芸術には心が反映される。上手いとか下手とかそういうことじゃなくて、もう少し深い何かが、スケッチブックなりキャンバスなりには確かに刻まれる。
それをぼくも部長も、他の部員も顧問の先生もみんな理解している。
ぼくたちの「しっくり来ない」「しょうがない」は、つまりそういうことだ。
あっさり説得を諦めた部長が自分のイーゼルに戻るのを見てから、再びぼくはスケッチブックと向き合う。
少し前、教室で半分手慰みに描いたのと同じ、黒だけを用いた鉛筆画。
写真の中の風景を写し取るように、けれどそこに自分が感じた雰囲気を組み込むように、何十、何百も線を重ねていく。
ざらついたスケッチブックの画用紙と鉛筆の芯がシャッシャッと擦れ合う音だけが聞こえる。
そうして目の前の世界にずっと没頭していたぼくは、引き戸がノックされたことにも、その後開けられたことにも、複数の足音が美術室に入ってきたことにもすぐには気づかなかった。
だから、はっと振り向いたのは。
「お邪魔いたしましてー」
場違いに柔らかい、わたあめみたいな声を耳にしたからだ。
依田さんと、見知った顔の女子たちがいた。
来客を見た部長が「ひょっとして、部活の見学かな?」と問えば、依田さんが「その通りでしてー」とゆったり頷く。
話を横から聞く限りでは、一週間くらい前から少しずつ、クラスの女子に案内してもらいながら色々なところに顔を出しているらしい。
「ってことは、まだ入るところを決めてないんだ」
「部活動なるものは初めてでしてー、今は己が道を見定めている最中なればー」
「え? 部活が初めて? 中学とかは帰宅部だったの?」
「いえー、島の学校は生徒も少なくー、そういった集まりもなかったのでしてー」
……島?
そんな疑問が顔に出ていたのか、ぼくを見た彼女は、続けて言う。
「わたくしー鹿児島は奄美の島にて先日まで暮らしておりましてー。アイドルとなるため、こちらへ来た次第ですー」
「島って……人口どれくらいなの?」
「確か、百と五〇ほどだったかとー」
「少なっ!? ここの生徒数より少ないじゃん!」
「東京はびっくりするほど人が多いのでしてー」
ぽややんとした口調のまま彼女はそう言ってるけど、生まれも育ちも東京のぼくからすれば、何とも想像し難い環境だ。
というか、島人口が百五〇前後だったら、そもそも小学校とか中学校とかの括りも曖昧だったんじゃなかろうか。
学年辺りの生徒数だって下手すれば一人二人みたいな感じだったのかもしれない。
身の周りの環境もがらりと変わって、きっと知ってる人も全然いなくて……そんなところにいきなり放り出されたら。
例えばぼくは、どんなふうに感じるだろう。
「……こっちに来て、心細くはなかった?」
そんなことを考えていたら、自然と彼女に問いかけていた。
おや珍しい、という顔で部長が振り向く。そして依田さんは、少しだけ目を細くして。
「出会いと別れは表裏一体でしてー。寂しくはあれど、心細くはありませぬー」
それから彼女は「ほー、ほー」と興味深げに部活の光景を満足するまで眺めて、礼儀正しく「失礼いたしましてー」と去っていった。
「あれが噂のアイドル転校生か。なんだかちっちゃい子どもみたいな目で見てたねー」
「そういうところもかわいいって評判らしいですよ、部長」
「うんうん、わかる気がするわー」
なんて部長と部員の会話を聞きながら、ぼくはすっかり止まった手を下ろし、スケッチブックを畳む。
集中力が切れてしまって、もう続ける気にはなれなかった。
いつもよりちょっとだけ早いけど、切り上げる旨を伝えて帰路に就く。
――寂しいのに、心細くはない。
謎かけめいたその言葉が、ずっと頭から離れなかった。
■6
自宅への帰り道から逸れると、途中に踏切がある。あまり道路は広くないし、車の通りも少ない。
最寄りの駅へ向かうには静かでいいルートだけど少し遠回りになる。
周辺は特に何もない住宅街な上、駅を目指すならちょっと迂回して地下道を抜けた方が早いから、ここを渡るのは近場の住人がほとんどだ。
わざわざ踏切を渡る物好きな同じ学校の生徒と出会ったことは、今まで一度もなかった。
ちょうど目の前まで来たところで、カンカンカン、と警報を鳴らしながら遮断機が下りる。
やがて右手から走ってきた電車がガタンガタンと音を立て、向かいの光景を覆い隠すようにぼくの視界を流れていく。
銀色の車体が、背後から来る茜色の光を反射していた。秋の季節、今くらいの時間だと夕焼けが眩しい。こっち側だと夕陽を背負う形になるけど、戻ってくる頃にはもう陽も落ちているはずだ。
電車が通り過ぎて、のっそりと遮断機が上がる。警報の音が消えると、この辺りは怖いほどに静かだった。背中にちりちりとした太陽の熱を感じつつ、ぼくは先を歩く。
目的地までは一〇分もかからなかった。目の前にあるのは古い一軒家だ。
微かに削れたブロック塀。かすれた表札。玄関扉は固く閉ざされ、人の気配も全くない。
中庭の方へ踏み入る。雨戸も錆混じりのシャッターが下りて、こうして訪れたぼくを拒んでいるようにも思えた。
錯覚だ。
鞄の奥にあるポケットへ手を入れる。小さな金属の感触。
高校に入学してからそこにずっと仕舞い続けて、もう半年以上取り出してない、この家の合鍵。
――三年前、祖母が亡くなった。
以来、この家は時折掃除のために両親が訪れるだけで、ずっと無人のままだ。
今の名義は父だけど、住む人はなく、土地や家屋の扱いについては保留されている。
それでも放置しっぱなしだと色々と問題があるから、一応ある程度は保たれている。
家具も、もっと昔に亡くなった祖父の仏壇も、全部当時から変わってない。
ぼくはいわゆるおばあちゃんっ子で、実家から近いのもあり、よくここに遊びに来ていた。
両親が二人とも夜まで仕事で家を空けてた……ってのもあるけど、いつでも来ていいからねって言ってくれて、こっそりおやつを出してくれて、話し相手にもなってくれる。そんな祖母のことが大好きだった。
絵を描くようになったきっかけも祖母だ。
学校の授業で描いたものを持って帰ってきた時、最初に見せた相手が祖母だった。
今にして思えば技術もセンスもない下手な絵だったけど、代わりに子どもらしい自由さだけはあった。
優しく笑いながら広げた画用紙いっぱいの絵を眺めて、祖母は「よく描けたねえ」と嬉しそうに言っていた。
だからまた褒めてほしくて。喜ばせたくて。
両親にスケッチブックと色鉛筆をねだって、それからほとんど毎日絵を描いた。
街の景色。空模様。面白そうな建物やオブジェ。学校で遊ぶ同級生。
いろんな題材に挑戦して、少しずつ、少しずつ上達していくのがまた楽しくて――。
あの頃はまだ、人を描くことにも抵抗はなかった。
最後に手をつけた人物画は、祖母だ。
米寿の誕生日を控えて、おばあちゃんにぼくの絵をプレゼントする、なんて意気込んで。
すごく喜んでくれていた。その日が待ち遠しいねって、そう言っていたのに。
季節の変わり目に風邪をひいて、悪化して肺炎になって、そうして呆気なく亡くなってしまった。
プレゼントの絵は未完成のまま、病院で冷たくなった手を握りしめて、泣いて、心の整理もろくにできないまま葬式を迎えて。
死の間際であっという間に痩せ細った、棺の中に小さく収まる別人みたいな祖母の姿に別れを告げてから――今になってもまだ、頭の中で歯車が噛み合っていないような感覚がある。
認め難い、納得できない現実と向き合うのが怖くて、三年間、一度も祖母の家の鍵を開けられていない。
あの日の約束は果たされずに、描きかけの絵も机の引出しに仕舞い込んで、固く閉め続けている。
人物画を描けなくなったのもそれからだ。
「…………」
ポケットの鍵を指でつまむ。取り出そうとするけれど、急に指先が震えて中で落としてしまう。
二度。三度。繰り返しても同じ。
結局今日も諦めて振り返り、かつての祖母の家を後にする。何もできることはないと理解していて、それでもここに足を運びたくなるのは、どうしてなんだろうか。
見上げた空はもう暗い。気づけば夕陽は街から去っていた。
■7
依田さんが学校を休むと、ぼくの席周りは途端に静かになる。昼休みや放課後は顕著だ。
少し前はそれが当たり前だったのに、なんだかちょっとだけ物足りないような気になるのは、彼女のいる状況に馴染んできた証拠なのかもしれない。
いつも依田さんを囲んで喋り倒している女子たちは、彼女がいなければそれはそれでという感じで、普通に別の話し相手と盛り上がっている。
傍目には結構ドライに見えるけど、まあ大抵の女子はそういうものだ。
ぼくとしては、変に巻き込まれなければそれでいい。
二人いれば争うし、四人もいれば派閥ができるのは人間の性らしいけど、依田さんは不思議なほどに誰からも好かれている。
学校では概ねぼっちな自分なので正確性に欠けるところだけど、少なくとも耳に入る限りでは、彼女を嫌いだという人の話を聞いたことがない。
理由は色々あるだろう。
まず、彼女は一切怒らない。声を荒げたり、ネガティブな感情を露わにするようなことも、今まで一度もなかった。
鷹揚というか、懐が広いというか……例えば悪いことを見かければ咎めるし注意もするけれど、大人が子どもに言い聞かせるみたいな、でもそれが全然嫌味にならない雰囲気がある。
じゃあ精神年齢が高いのかというとそういうわけでもなくて、ちょっとしたことで目を輝かせたり、羨ましそうにしたり……見た目通りというと失礼だろうけど、やけに子どもっぽく見える時もある。
かと思えば、放課後、ほとんど定例になった相談の席で、みんなの話を聞いて助言する様は堂に入っていて、やっぱりずっと年上……どころか、老成した人のように感じたりもする。
どうにもちぐはぐな印象だ。
ひとつ後ろの席に座る彼女のことを、ぼくは未だに掴みかねている。
■8
昨日まで、四日連続で依田さんが欠席をした。ここまで長い休みは初めてだ。
どうも地方かつ交通の便がかなり悪いところで仕事があったらしく、東京に戻ってきたのも昨夜だったとのこと。
当然ながらその間にも授業は進行していて、今日は一科目ごとに女子たちが彼女へ代わる代わるノートを貸す光景が見られた。
礼儀正しく「ありがとうございましてー、後ほど必ずお返しいたしますー」と依田さんは頭を下げていたけれど、内容を四日分、きっちり全部自分のノートに写すとしたら、相当な時間が必要になるだろう。
帰るにしろ居残るにしろ、放課後の相談タイムは中止になるかもな、とぼんやり考える。
今は古文の時間だった。二日前に題材が変わって、中盤の解釈に差しかかっている。
こういうのは最初から追えてないと厳しい。
案の定、後ろから「むー……?」と困ったような声が聞こえてくる。
彼女はお世辞にも、勉強に関して要領がいいとは言えないタイプらしかった。
ただ、授業への姿勢自体は超がつくほどに真面目だ。
ノートはきちんと取る。わからないことは周りに聞く。自習をどうしてるかはわからないけど、仕事で欠席しがちなハンデを埋めるために、少なからず努力してるんだろうとは思う。
……だから、まあ。
一応、今聞いてるところは多少予習もしてたし。
若干先生の話も横に逸れかけてるし。
自分の中で言い訳をつらつらと並べながら、こっそり鞄から習作用のスケッチノートを抜き取る。
それから静かに、古文のノートを後ろ手で彼女に差し出して。
「こっちはノートなくても平気だから……よかったら、使って」
見えないけど、小さく息を飲む気配があった。
彼女は背後に伸ばしたぼくの左手から、そっとノートを受け取った。
そして。
「感謝いたしましてー」
一瞬だけ。
手を握られる。
ぎょっとして思わず振り向きかけて、けれど先生にバレるのは困るから、慌てて身体を正面に戻す。
澄んだ空が見える教室の窓に、ぼくの背を見る彼女の横顔が映っていた。
陳腐な表現だろうけど――ぱあっと花が咲くような、笑顔。
左手に残った、ほのかなあたたかさ。
……授業の終わりまで、ぼくは手を動かせなかった。誰も彼もから目を逸らすように、ずっと小さく俯いていた。
馬鹿みたいだって自分でも思う。けど。
たぶん、人生で初めて……女の子を意識してしまった。
■9
古文のノートは、昼休みの始め頃に返ってきた。
返却は明日以降になると考えていたから、びっくりするほどの早さに驚く。
「ありがとうございましたー。大変助かりましてー」
「いや、別に……本当に全部写せた?」
「多少走り書きにはなりましたがー本日の復習には充分かとー」
相当急いでやってくれたんだろう。ぼくを気遣ってのことに違いなかった。
「そっか」
まださっきの、あの笑みを見た時のことを引きずっていて、つい返答を素っ気なくしてしまう。
けれど依田さんはぼくの態度を全く気にしないまま、再び感謝の言葉を口にして、マイペースに鞄から弁当箱を取り出した。
あんまりにも流れるような動きだったから、会話の切りどころを見失う。
小さくて細い手が、ぱかりと丁寧にフタを開ける。冷めているはずなのに、微かに漂うおいしそうな匂い。
かなり和に寄ってはいるものの、彩り豊かな見た目の昼食だ。
「……自分で作ってきたの?」
「昨夜は遅い帰りでしたゆえー、下準備の時間が足りずー若干簡易なものですがー」
これで簡易?
だとしたらまともなサラダすらない総菜屋の格安弁当で毎回済ませている自分の昼食は、手抜きを通り越して壊滅的だろう。
「……わたくしのお弁当が、どうかしましてー?」
「あ、いや、その……料理、できるんだなって」
「実家ではかかさまやばばさまと共に作っていたものでしてー」
「今は作ってくれる人とか、いないんだ」
「目覚めはみなより早いのでー、寮ではむしろ朝餉を振る舞う側ですねー」
「寮? ……親戚の家とかじゃなくて、寮住まい?」
「はいー。同じ事務所のみなと共にー」
当たり前のように言う彼女に、ぼくはショックを感じていた。
家族と離れて一人上京してきて、アイドルの仕事をしながら学校にもきちんと通って、勉強だって真面目に取り組んでいて、ご飯も自分で作っていて……。
「こんな、ふわふわした雰囲気なのに」
まるで自立した大人のようだ、と思いながら。
つい口走って、すぐに失言をしたと気づく。
けれど彼女はきょとんとした表情で首を傾げ、
「ふわふわとはー?」
「……なんか、浮世離れした感じ……かな」
純粋に聞き返され、ぎこちなく誤魔化すようにぼくは答える。
前後の席。距離だけで言えばこんなに近いのに。
埋め難い断絶が、ぼくと彼女の間に横たわっているようにも思えた。
「なるほどー。それは確かにー、その通りかもしれませぬー」
依田さんはそう言って微笑んだ。
柔らかい声色の中に、何故かほんの少しだけ、寂しさが混じっていたような気がした。
「お、話終わったー? よしのん、そろそろあたしたちともおしゃべりしよっ」
不意の横槍で、ぼくは一瞬だけ上げかけた手を人知れず下げる。
昨日も依田さんとお昼を一緒していた女子たちが、こっちの番だとばかりに彼女を囲み始める。
それが普段の風景だ。今日だけはたまたまノートを貸す機会があって、その流れで会話をしていたに過ぎない。
後ろに向けていた身体を机の側に戻す。
いつもなら席を譲るところだけど、素直に退くのがどうにも癪で、だから微妙な居心地の悪さを我慢しながら昼食に取りかかる。
後ろの方から来る、複数の何かを訴えかけるような視線は無視。
自分の席だ、空ける空けないはぼくの自由だろう。
もそもそと弁当を食べる。付け合わせのきんぴらごぼう。量は少ないし塩気が強い。
そういえばさっき見た依田さんの弁当に、同じものがあったなと思い出す。
昔、祖母がおやつ代わりに出してくれていた。あれはもっと薄味で、でもおいしかった。
彼女のきんぴらごぼうも、優しい味なんだろうか。
似ても似つかないはずなのに、依田さんと祖母がどこか重なって見えた。
■10
彼女が転校してきて一ヶ月が過ぎた。
十月にもなると、学校全体が十一月末の文化祭に向けて動き出す。
実際はもっと前から、例えば生徒会や実行委員、教師陣は準備をしているんだろうけど、本格的に話が出てくるのは毎年このくらいの時期らしい。
クラスごとに出し物をする必要があるけれど、大抵何をするにしろお金が絡んでくるので、おおよその見積もりを立てて実行委員に書類を提出しなければいけない。
そのためにもまず最初に、クラス代表を選出することから始まる。
考えるまでもなく面倒な仕事だ。
部活によってはそっちでも出し物があるし、特に放課後は忙しくなる。
場合によっては家に帰ってもやることが出てくる。
代表がいなければ立ち行かないといっても、当然ながらみんな避けたがる。
その中で依田さんは、そわそわと手を上げたそうにしていた。
けれど何か理由があるのか、珍しくちょっと不満げに唇をもごもごさせている。
左手の窓越しに彼女の様子を窺いながら、仕事絡みの事情があるんだろうなと思う。
どこかの学校の文化祭にお呼ばれしてるとか、アイドルなら普通にありそうな話だ。
ぼくはもちろん、スルーするつもりだった。何せぼっちだ、コミュ力というものに欠けている。
騒がしいのも目立つのも苦手だ。
それに美術部でも毎年の恒例で展示物を一点出さなきゃいけないけど、まだどんな風にするかさえ決めてない。
やらない理由は山ほどあった。逆にやる理由はどこにもなかった。
考えるまでもない。
なのに。
黒板には、ぼくの名前が書かれている。担任に呼ばれ、前に出る。
自分でも理解できなかった。ふっと気を抜いた時、右手が控えめに上がっていた。
冗談だとは到底言えるような状況じゃない。くらくらする。どうして。どうしてだろう。こんな自分らしくない、馬鹿みたいなこと――。
教壇の側に立つ。好奇の視線を全身に感じる。当たり前だ。
ここで手を上げるような人間だと、きっと誰も思ってなかったはずだ。
そういう奴じゃないだろう、なんで手なんか上げたんだよ、って。
被害妄想だろうか。わからない。でも息苦しい。
依田さんは、ぼくを見ていた。微かに驚いたような顔をして、それからすっと目を細めた。
もう一人のクラス代表は、依田さんと仲が良い女子の中でもリーダー格の子になった。
周りにつっつかれて、半ば推薦めいた形で立候補した結果。
ぼくと違って、それはほとんど予定調和みたいなものだった。
担任の号令で雑な拍手を浴びる。
これから一ヶ月ほど、相方にならざるを得ない女子に「ま、お互いがんばろっ」と明るく言われ、ぎこちなく頷いて応える。
自席に戻ると、腰を浮かせた依田さんが何故か右手を掲げていた。何をしたいんだろうか。
しばらく困惑して、恐る恐る椅子に座る。ぽん、と頭頂部に何かが乗った。彼女の手のひらだった。
「よき行いかとー」
子どもみたいに頭を撫でられた。振り払えない。恥ずかしくて、でも、どうしようもなく嬉しかった。
■11
後日、ホームルームの時間にクラスの出し物を決める。各自投票、後に多数決。
だいたいありがちな意見が一通り出揃い、結局うちのクラスは和装喫茶ということになった。
誰がどうとは言わなかったけど、依田さんの影響は少なくないだろう。
以前女子たちが彼女の私服は着物だと聞き出していたし、それを抜きにしても似合いそうなのは否定できない。
ぼくも、おそらくクラスのみんなも。
いわゆるホール、配膳役の人数分でいいとはいえ、どこで衣装を調達するかが課題だった。
最初に懸念点として挙がったけれど、何人かが自宅から持ってくるということで話がついた。
一応依田さんにも確認すると、普段使いのものであればと許可が得られる。
もっとも、彼女と同じ体型の女子は二人程度。
衣装合わせの問題で、自動的にホール担当に割り振られた。
もちろん依田さんもホール側だ。
一日目なら大丈夫という話なので、来客が増えるだろう午後に入ってもらうことにする。
他にも考えるべきことは多かった。
メニューの内容、ドリンクだけにするか食事も出すか。後者の場合は調理器具の届け出も要る。
テーブル代わりの机にかけるクロス、クラス前に飾る看板、宣伝用のチラシ。
全員で要点を考え出し合って、申請用の書類に落とし込んでいく。
アイドルの仕事がない日は、依田さんも放課後夜遅くまで積極的に加わってくれた。
こういうイベントに関われることが楽しいんだという。
文化祭なる催しも初めての経験でしてー。
そう語る彼女は笑っていた。
面倒だと思う。
大変で、忙しくて、しんどくて、騒がしいのは苦手だし他人と会話しても上手く話を続けられない。
ぼくは静かな方が好きだった。
けれど現状は平穏と程遠い。
自分で選んだことだとわかっていても、どうしてあの時手を挙げてしまったんだろうなんて後悔し続けている。
それでも辞めないのは。
逃げ出したくないのは、ちっぽけな男の意地みたいなものだ。
クラス代表になりたそうで、でもならなかった……なれなかった彼女の、依田さんの代わりに。
ぼくが頑張って、喜んでほしくて――いいところを見せたいって。
誰にも言えないような、ささやかな下心。
■12
一週間のうち半分は、進行を相方に任せ美術部に顔を出す。
元々部活とかけ持ちになってしまう旨はクラスのみんなにも伝えていた。
なるべく自分がいなくても支障が出ないようにしているつもりだけど、まあ、元々そんな役に立っているとは思えないし、ぼく一人不在になったところでどうにでもなるはずだ。
だから今日も小さく謝罪をして、クラスの輪から抜け出した。
去り際、一瞬依田さんと視線が合う。透明で澄んだ瞳。気恥ずかしくてぼくは目を逸らす。
四階、一年の教室から階段を下りる。
クラスの出し物は順調だし、あまり心配していない。むしろ問題はこっちの方だった。
がらりと引き戸を開けて室内に踏み入ると、既に他の部員たちが各々自分の作品にかじりついていた。
元からそうだったけどジャンルはバラバラ、見事なまでに統一感ゼロ。
とはいえ同じようなものばかりだと来客も見てて飽きるだろうし、バリエーション豊かでいいだろうと顧問の先生も今のままでゴーサインを出していた。
普段の定位置に移動し、近くで集中している部長に無言で軽く会釈する。
イーゼルを取り出して立てかけ、いつもより大判の画版と画用紙を乗せる。
まっさらだ。何も描けていない。
鉛筆画で行くことは決めていた。ただ、いつもはほとんどが白黒の単色画だ。
今回は不特定多数に展示するということもあり、色が欲しいと言われた。
単色画は地味だし、来客の大半は技術に疎い。
わかりやすい派手さを求めるのも、理由としては納得できる。
詰まっているのは、タイトルとテーマだった。
一番最初に考えるべき骨子。
題材をどうするかが未だに決まらない。
気負いはあるのかもしれなかった。
慣れないクラス代表なんか引き受けて、ペースを崩している可能性は否定できない。
だけどそれにしたって、本当にびっくりするほど何も思い浮かばない。手も動かない。
こんなの、初めてだった。
今までは感性に任せれば、自然と描きたいものと向き合えたのに。
白い画用紙とにらめっこするだけで、無駄に時間が過ぎていく。
そのうち一人、また一人と部員が帰っていって、気づけば部長も画材を片づけていた。
「ありゃ、今日もダメそうかー」
「……はい、すみません」
「謝んなくていいって。そっちはクラスの方も忙しそうだし、そんなに焦んなさんな」
「でも、期限まではもう一ヶ月切ってますし……やっぱ、ちゃんと仕上げて出したいですから」
「ん、そっか。あたしは帰るけど、どうする?」
「もう少し残ります」
「りょーかい。今日は先生も帰っちゃってるし、鍵だけ職員室に返却お願いね」
ひょい、と軽く投げ渡された鍵を受け取り、ひらひら手を振って退室する部長を見送る。
そうして一人になると、平時とは違う賑やかさが校舎全体に満ちていることに気づく。
騒がしい、とは思わなかった。今だけはそれが尊いもののように思えた。
だからこそ余計に感じる。
こんなところで、手を止めて……ぼくはいったい何をしてるんだろう。
焦燥感から逃げるように俯いて、溜め息と共に目を閉じる。
真っ暗な中、不意にがらりと引き戸の開く音が聞こえた。
「お邪魔いたしましてー」
穏やかに、礼儀正しく。
以前見学に来た時と全く同じ文言で。
あのわたあめみたいな声で。
「……依田さん?」
「はいー。まさしくわたくしでしてー」
振り向いた先に彼女がいた。
え? どうして?
頭が混乱していて、そう尋ねる言葉も出てこない。
彼女はそのまま真っ直ぐ、ぼくの目の前まで歩いてくる。
間近に端正な顔が入ってきてようやく、強張っていた口が動いた。
「な……何か、美術部に用でも……?」
「そうではなくー。そなたの様子を窺いに来たのでしてー」
「ぼくの様子を? ……な、なんで?」
問いかける声は震えていた。
いきなり過ぎる状況に対する驚きとか、曲がりなりにも意識してる女の子に対する緊張とか、勝手にふつふつ湧いてくる喜びとか、いろんな感情が絡み合って混ざり合ってぐちゃぐちゃになって、ちっぽけな自分の心の器から溢れてしまいそうだった。
依田さんは、イーゼルの上の真っ白な紙を一瞥した。
それからまたぼくの顔を見て、頷き、
「胸の内に悩みを抱えているのでしょうー?」
「…………」
言い当ててくる。
ほんの少し……畏敬のような念が、滲むように湧き上がる。
「人前では話し難いこともー、こうして二人きりなら口にしやすいものでー。よければ、わたくしに話してみてくださいませー」
じっと見つめられ、ぼくは耐えきれず視線を外し、俯く。
だってもう、いっぱいいっぱいだったんだ。
間近で目にする彼女はやっぱりかわいくて、ドキドキして……だけど今の状況はあまり見せたくないものだから、情けなくて、気恥ずかしくて……。
いっそ「何でもない」って突っぱねられればよかったのに、そんな度胸もない。
結局大した考えも思いつかず、こわごわと顔を上げる。
「……その感情は、恥ずかしいものではありませぬー。そなたを笑うようなことはないとー約束いたしましょうー」
彼女はぼくに微笑みかけた。目を細め、頬を緩めたその表情に、記憶の箱を揺さぶられる。
まただ。依田さんと祖母の姿が、ふっと重なって見えた。
歳も、背丈も、格好も、性格も……似ているところの方が少ないはずなのに。
だけどそう感じた時から、すうっと気持ちは落ち着いてくれた。
依田さんになら、打ち明けてもいいかって思えた。
椅子を近くから引き寄せ、座ってもらってから、ぼくはゆっくりと話し始める。
まだ上手く頭の中でも整理できていなくて、順序も何もないような散らかった説明だったのに、依田さんは嫌な顔ひとつせず聞き手に回ってくれた。
前にも思ったけど、とにかく人から話を引き出すのが上手い。
雑な相槌は打たず、要所要所で自然に続きを促してくる。
それでいてこっちの心情に寄り添うみたいに、心のざらついたところを優しい声で撫でてくれる。
彼女との対話は心地良かった。
正直、こんなつまらない私情を話すつもりはなかったのに……美術部で展示用の作品の期限が近いこと、その進捗が一切進んでいないこと、そもそも何を描けばいいかわからなくなっていることも、洗いざらい吐いてしまっていた。
「なるほどー。そなたはそなたの心が見えなくなっているのですねー」
「心って、そんな曖昧な……」
「すけっちぶっく、見せてもらってもー? 授業の合間に使っているものですー」
……ときどきサボって絵を描いてること、気づいてたんだ。
後ろの席からちょくちょく感じていた視線は、やっぱり勘違いじゃなかったらしい。
お願いされ、鞄から出したスケッチブックを彼女に渡す。
律儀に「拝見いたしましてー」と言いながら、彼女は一枚一枚を丁寧にめくり、そこに描かれたぼくの風景画を真剣な目で見る。
ひとしきり使用済みのページを確認し、表紙をぱたんと閉じて、依田さんはスケッチブックを膝に置いた。
「わたくしには絵画の心得がなくー難しいことは言えませぬー。ですがー、ここにはそなたの心そのものが描かれているように思うのですー」
「……かもしれない。芸術は心を映すものだっていうから」
「黒と白のみの風景であってもー、とても豊かな色合いを感じましてー。これが己の映し身であるならばー、そなたの心が繊細ながら良きものであるとわたくしは感じましたー。だからこそ、惜しいとも思うのでしてー」
言って、彼女が立ち上がる。
ぼくが描かなければいけない、イーゼルに乗ったまっさらで手つかずの画用紙に触れて。
振り返る。
「そなたはー、なにゆえに絵を描くのですかー」
根源的な問いだった。
好きだから――そう答えかけて口を噤む。
間違いではない。ないけど、違う気がした。
だって、上手く描けない今はこんなに苦しい。その先に例え難い喜びがあるのかもわからない。
達成感とか、自己主張とか、そんな理由を求めているわけでもない。
もがくように右手が浮いた。
どこに伸ばすのかもはっきりしないまま宙を掻いて、力なく落ちる。
依田さんがぼくを見ていた。改めて、綺麗な目だと思った。
後ろで結んだ長い髪と同じ、澄んだ茶色の瞳。
水面のように輝いて、どうしようもないぼくの心さえ見透かしているのかもしれなかった。
静かに座して待つ彼女は鏡だった。穏やかに、波を立てず、ぼくを映し出している。
繰り返し光が反射するみたいに、何度も何度も際限なく行き来するみたいに、ぼくは自分の中へ沈んでいく。遡っていく。
『――じゃあ、完成するまで頑張って生きなきゃね。あんたの絵、好きだもの』
思い出の奥底から声がした。弱ってしわがれた声。懐かしい声。
亡くなる数日前の、祖母の声だった。
誕生日プレゼントの絵。完成させたかった。見てほしかった。褒めてほしかった。
骨張ったしわくちゃの手で撫でられるのが好きだった。上手いね、よく描けたね、頑張ったねって、そう言ってほしかった。
あの時、葬儀の日。
親戚一同が手向けとして棺に思い出の品を入れる中、ぼくは未完成の絵を入れようとした。
そうしたらどうかって両親には提案された。二人ともぼくが祖母のために描いていたことを知っていたから。
でもできなかった。未練だった。
そんなものを祖母に見せるわけにはいかないと、約束が守れなくなると思ったから、一度は持ってきたそれを結局家に持ち帰った。
でも、本当は、ずっと。
「おばあちゃんに、できたよって見せて、ちゃんと喜んでもらいたかったんだ……」
「そなたのばばさまはー」
「……三年前に、亡くなってる」
「だとしてもー……届くものは、確かにあるのでしてー」
そうなんだろうか。
「そなたの中のばばさまに、届くようにと願えばよいでしょうー。さすれば約束は、果たせると思いましてー」
少なくとも依田さんは、確信しているみたいだった。
だからぼくも、そうかもしれないと思った。
胸の奥でずっと燻っていたものが、光を浴びて、熱を得て、はっきりと燃え始めているのを感じた。
嘘でもいい。慰めでもいい。騙されてたって構わない。
これからしたいことが、ようやくちゃんと見えたから。
「……ありがとう、依田さん」
「どういたしましてー」
「ぼくはもう帰るけど……依田さんはどうする?」
「わたくしはこの後寄るところがありましてー」
一緒に帰ろうなんて言えるはずもなく、後片づけだけ手伝ってもらって、美術室前でそのまま別れた。
「……じゃあ、また明日」
「ええー、また明日にー」
一人で歩き出す。
ちりちりと頭の隅に焼きついていた焦燥感は、もうどこにもなかった。
■13
文化祭の準備もいよいよ本格化してきて、放課後も校舎に居残る時間が増えてくる。
教室の後ろには作りかけの看板や小物が積み上げられ、着々と完成に近づいていた。
食材の買い出しはまだ先になるけれど、それだって見積もりはできてるし、お店にも話を通してある。
クラス代表としてぼくや相方の女子がいなければいけない状況は、もうほとんどなかった。あとは当日まで頑張るだけだ。
クラスのみんなはやる気があった。依田さんのおかげだろう。
放課後相談に乗ってもらった人たちや、彼女のかわいさに当てられた人たちが、初めての文化祭を楽しんでもらいたいと張り切っている。
もちろん彼女自身も、時間が許す限りクラスの一員として作業に加わってくれていた。
ぼくはクラス代表と美術部で二足のわらじを履いているような状況だったけど、その慌ただしさも今は嫌じゃなかった。
頼まれて看板に絵を描いたり、釘打ちや木材の組み立てに混ざったり。
絵を描く日にはごめんと謝って、でも快く送り出される。
展示物を楽しみにしてる、なんて言われたりもして、その度にくすぐったいような、温かな気持ちになる。
あの日……依田さんに背中を押された日の帰り、ぼくは祖母の家に寄った。
ずっと鞄に仕舞い続けていた玄関の鍵は、拍子抜けするくらい呆気なくするりとポケットから取り出せた。
暗い廊下を歩き、雨戸のシャッターを上げ、かつての祖母の部屋を、居間を、祖父の仏壇をゆっくり見て回った。
人気はなく、空気も死んでいたけれど。
それでも懐かしい、忘れられるはずもない、思い出の景色が変わらずそこにあった。
状態を元に戻し立ち去って、夜、自宅の机の引出しに仕舞い続けていた絵も引っ張り出した。
同じ紙でなくてもいい。ただ、完成させたいと心から思った。
そうしないとぼくはいつまで経っても、過去の別れに決着をつけられないんだと気づいたから。
部長には既に声をかけた。
しばらく来られないと思います。短くそう伝えると「首をながーくして待ってるからねー」なんて肩を荒く叩かれた。
間に合わないとは全く考えていないような声色だった。
自分で感じていたよりずっと、人間関係に恵まれていたのかもしれなかった。
それからクラスの準備と並行して、週の半分以上は祖母の家に足を運んだ。
雨戸を開け、窓際に陣取り、時には庭でしゃがみ込みながら、陽が暮れるまでひたすら画材と向き合う。
線を引く。繋げる。輪郭を描き、小さな庭と縁側の風景を切り出し、白地に写し取っていく。
刻々と変わる世界の鮮やかさに振り回される必要はない。
乗せる色はぼくのイメージに頼ればよかった。
少しずつ、少しずつ、紙の上に心を込める。
一緒に笑った幼い日々。優しくも厳しくもされた記憶。こうして絵を描くようになった原風景。
かつてと同じように、そこまでは描き上がる。けれどまだ足りない。最後のパーツ。中心に佇む、祖母の姿がこの絵には入る。
最初の線を引くことには、勇気が必要だった。
息を吸い、ぼくは失われたものと改めて向き合う。
たった三年経っただけでも、思い返せる祖母の姿には微かな靄がかかっていた。
普段無自覚に過ぎていく時間がこんなに残酷だと感じたのは初めてだ。
前は描けなかった。今はどうだろうか。
ぼくが一番好きだったあの笑顔を、ちゃんと描けるだろうか。
胸を張って手向けられるだろうか。
常に恐怖が頭の片隅に居座っていた。
もう祖母はどこにもいないんだって、当たり前のことをまざまざと見せつけられているような気がして、指先が何度も震える。
そのたびに手を止め、心を落ち着ける。
しわくちゃの顔、優しい笑み。
記憶の中でぼやけたその表情を思い出そうとして、上手くできずに焦る。
そんな時、何故かふっと脳裏に浮かぶのは、依田さんの姿だった。
祖母と彼女が、全然似てないはずなのに重なって見えた。
そう気づいた時から、嘘みたいにすらすらと描く速度が上がった。
あとは時間との勝負だ。
学業と文化祭の準備にかかる時間以外のほぼ全てを絵に費やした。
描いて、描いて、描いて――。
文化祭本番の、二日前。ぼくは美術部に完成した展示物を持っていった。
デッドラインが明日だから本当にギリギリだ。
提出順はぶっちぎりの最下位。部長や他の部員がどう作品を並べるか話し合っていたくらいだったので、下手すればハブられるところだった。
それでも、できた。できたんだ。
画用紙を部長に引き渡す。顧問の先生が調達してきた額縁に入れ、みんなの作品が並ぶテーブルの空きスペースにぼくの絵を置く。
「……人物画、描く気になったんだ」
「はい。モデルは、亡くなった祖母です」
「ふふ……うん、いい絵じゃん。悔しいけどめっちゃいい。待った甲斐あったね」
ストレートな部長の褒め言葉に他の部員も追従して、全員から称賛される。
間違いなく、ぼくが今まで描いた中で最高の出来だ。自信を持ってそう言える。
肩をばしばし叩かれながら囲まれて、そのまま話し合いに混ざる。
しばらくああだこうだと意見を出し、最後は部長の一声で展示の方向性も決まり、解散して、ぼくは少しだけ早く帰路に就く。
思えばいつも俯いて、道路を見下ろすように歩いていた。
騒がしいのが苦手なのも、一人の方が好きなのも嘘じゃない。
ただ、ぼくはずっと人を避けていた。誰の目にも留まりたくなくて、関わるのが怖くて、前を見ないようにしていた。
大事なものをまた作るのが怖かったから。
祖母が亡くなった時の強烈な喪失感を、二度と味わいたくなかったんだ。
今もまだ、怖くはある。それでも、もう以前のように俯こうとは思わない。
『出会いと別れは表裏一体でしてー。寂しくはあれど、心細くはありませぬー』
以前、東京に出てきて心細くないかと依田さんに聞いた時、彼女はそう答えてくれた。
もしかしたらと思う。あの時から、ぼくが抱えていたものに気づいていたのかもしれない、と。
そんなわけはないけど……ないと思うけど、依田さんなら、なんて。
考えながらの足取りは、明らかに普段より軽い。
帰り道の途中で自宅へのルートから逸れ、電車にかち当たることもなくあっさり踏切を渡り、さらに歩き、祖母の家に着く。
玄関の鍵を開け、仏壇で祈りを捧げ、雨戸を静かに上げる。
縁側に腰を下ろしてから、ぼくは目を閉じた。
遠い車の排気。頬を叩く秋の冷たい風。庭先で枯れかけた木が鳴らす葉擦れの音。
「おばあちゃん。ごめん、随分待たせちゃったけど……絵、完成したよ」
ひとりごとだ。言い聞かせる相手もいない。誰に届くわけでもない。
「明後日、文化祭で展示するんだ。いろんな人に見られるって知ったら、おばあちゃん、ちょっと怒りそうだけど……今回だけだから許してほしいな」
わかってるけど、ぼくは続ける。
「だから……いつでもいいから。終わったら持って帰って部屋に飾るし、何年経ってもいいから。ちゃんと、見に来てね」
届けばいいと祈って、ぼくだけが救われるんじゃなくて……本当に、伝わってほしいと思いながら。
ゆっくりと立ち上がる。雨戸を下ろし、動かしたものを元に戻し、誰もいない家を後にする。
祖母との約束を、ようやく果たせた気がした。
そこからの帰り道は、茜色の光に染められていた。
住宅や塀の影を踏みつつ、ぼくは踏切まで来て立ち止まる。
ちょうど遮断機が目の前で下り始めたし、急いで渡る必要もなかったからだ。
正面から来る西陽が眩しくて目を逸らす。
息を吐き、そのまま流れで横に視線をやると、こんな閑静な住宅街には珍しいスーツ姿の男性がいた。
サラリーマンだろうか。にしては鞄を持ってないし、雰囲気がちょっと違う気もする。
首を軽く傾げていたところで、強い風圧が男性の服と髪をはためかせた。
電車が駆け抜けていく。ぼくと男性、二人だけが夕陽から重たい車体を盾にして隠れる。
風と音が共に止み、再び光がぼくらを照らした。
こっちの視線に気づいたのか、男性がちらりとぼくを見る。
けれど別に用があるわけじゃない。ただの興味本位だ。
それで変に絡まれたりでもしたら困るから、慌てて視線を踏切の向かい側に戻した。
そこに、依田さんがいた。
後光のように、沈みかけた夕陽の茜色を彼女は背負っていた。
鞄を持つ両手でスカートの前面を押さえ、後ろで結った長い髪――ポニーテールが電車の名残めいた風で浮き、ふわりと舞う。
女子の制服だけにある胸元のタイも、頭頂部を飾る赤いリボンも、儚く、飛んで消えてしまいそうに揺れていた。
奇跡みたいな姿だった。
淡く微笑みながら佇む彼女と、目が合った。そう思った。
だから手を上げようとした。なんて言うのかも考えないまま、口を開きかけて、
「そちらにいるのはそなたでしてー?」
――依田さんは、ぼくを見ていなかった。
横にいたスーツ姿のあの男性が返事をする。
会話が始まる。ぼくが知らない声色(こえ)で、知らない表情(かお)で、まるで世界に二人だけみたいに。
遮断機がぎこちなく上がる。
踏切という境を越えて、黄昏を背負う彼女が歩き出す。
呆然と立ち尽くすぼくじゃなく、彼女が知る誰かと並んで、ぼくがさっき来た道を……おそらくは駅の方へと、去っていく。
やがて遠ざかる足音と気配。二人が消え、ぼくだけが残される。
微かに伸ばしかけた手を、静かに落とした。
警報が鳴り、また遮断機が道を隔てる。
彼女が背負い、そして置き去りにした光に、この瞬間は焼き尽くされてもいいとさえ思った。
電車が通る。境界は取り払われ、帰り道が繋がる。
ぼくは今度こそ踏切を渡った。正面は見られなかった。
眩しくて、痛くて、泣きたくなりそうだったから。
「そうか。……そう、だよね」
この気持ちは、何だったんだろう。
意識していた。かわいいと思った。救われた。感謝していた。
好きだったのかもしれない。あるいはもっと違った気持ちだったのかもしれない。
彼女に祖母と同じような懐かしい雰囲気を見出して、それを愛とか恋とか、思春期の学生が如何にも大仰に抱えそうな何かと勘違いしただけだったのかもしれない。
ぼくは臆病だ。祖母とちゃんとお別れするだけで三年かかった。
誰かを好きになったり、大事に思うことが怖くて仕方ないような人間だ。
知っていた。知っていたはずなのに。
自分の心だってちゃんとわからない。感情を言葉で表せない。
ただ胸が痛くて、きゅうっと締めつけられて息苦しくて、叫び出したくてたまらなくて。
それでも人並みの分別は持っているから、子どものようには振る舞えない。
だからせめて、さっきはもうしないって決めたけど、今日だけは。
俯いて、顔を伏せて歩きたかった。
こんなぼくでも、男だから――情けない姿を誰にも見せたくはなかったんだ。
たぶん、この日。
ぼくは人生で初めて失恋した。
恋とも言えないような、恋だった。
■14
文化祭当日、クラスの和装喫茶は、まあそれなりに上手く行っていたと思う。
外装も内装も宣伝文句も、特別目を惹くようなものではなかったけれど、無名に近いながらも現役のアイドルが接客してくれるという話は充分過ぎるほどに広まっていた。
噂では依田さんと同じ事務所の先輩アイドルもお客さんとして来ていたらしいけど、ぼくはその時ちょうど外回りで宣伝をしていたので、どんな人だったのかを目にすることもなかった。
大きな騒ぎにはなっていなかったから、実行委員やクラスメイトが上手くやってくれたんだろう。
午後からは彼女も和服に着替え、かなり積極的に働いてくれていた。
事前に来ている姿はクラスでお披露目してもらったけど、なるほど普段から私服で着ているだけあって異様に似合っていた。
一度そっちを見慣れると、逆に制服姿がちょっとコスプレみたいに思えるほどだ。正真正銘高校生なのに。
……もちろんそんな感想は口に出さないけど。
注文された品物を、仕切りで遮ったキッチン側に取りに来る時、ふっと依田さんと目が合う。
そうするとお疲れ様というように彼女は微笑み、あくせく動き回っているみんなを和ませる。
どんな声も、表情も、ぼくにだけ向けられるものじゃない。
一昨日に踏切ですれ違ったことを、彼女は一切ぼくに言及しなかった。
わかっていたことだけど、あの時ぼくがいたと認識してなかったんだろう。
依田さんは優しい。けれどそれはほとんど誰に対しても同じで、自分も数いるクラスメイトの一人でしかない。
……きっと特別なのは、あの男の人だ。
けれど誰なのかなんて当人に聞けるはずもなく、結局ぼくは口を閉ざす他ない。
そうやってうじうじ考え事をしていて、危うく注ぎかけのジュースを引っ繰り返しそうになり、クラス代表の相方に「しっかりしろーっ!」と背中を叩かれる羽目になった。
そんな感じで些細な問題もあったけど一日目は無事終わり、二日目に突入する。
といっても、依田さんがいないからか来客はいくらか減って、正直ちょっと拍子抜けするくらいだった。
それでも結構な人が来たし、大変なことに変わりなかったけど。
午後になってようやく、ぼくもクラスから解放される。
美術部の展示は特に受付も要らないから完全にフリーだ。
パンフレット片手にぶらぶら回り、適度に文化祭の空気を満喫する。
そういえば依田さんは、どうしてるんだろうか。
元々彼女は二日目が忙しいという話だったから、一日目の接客に割り当てられた。
昨日の午前中にクラスの女子たちと目ぼしいところは回ったらしいけど、そうなると今日はアイドルの仕事なのかもしれない。
なんてぼんやり考えていたところで、校庭の方がざわついているのに気づいた。
パンフレットで今の時間のイベントを確認する。
校庭であるのは……野外ライブ。
特に興味もなかったから真面目に見ていなかったけど、今更ながら疑問に思う。
音楽系の部なら体育館で演奏するはずだ。わざわざ校庭でやる必要はないはず。ならどうして?
他に行きたい場所もない。何となく気になる程度の理由でぼくは外に出る。
即席で用意された舞台は、間近で見ると思った以上に本格的だった。
校舎の二階に届きそうな骨組みと、ステージに向けられたいくつもの照明。
正直、文化祭で使うような設備じゃない。
無人の舞台に集まった人は、おそらく百人近くいる。
もしかして誰か有名人でも出るんだろうか。
大半がぼくと同じ興味本位らしいけど、みんながそわそわして、ざわついていた。
校舎の時計が、予定の時刻を指す。そしてステージに現れた人影に、ぼくは目を見開いた。
依田さんだった。
制服じゃない、和服でもない衣装を身にまとって、両手でマイクを持って、堂々と立っている。
周囲のざわつきは一層増した。彼女を知ってる人、知らない人の声が入り混じる。
その中でも依田さんは淡い笑みを保ったまま、観客をじっと見ている。
「みなみなさま、ようこそお越しくださいましてー」
決して大きくはない声だった。けれど耳にすっと滑り込んでくるような、澄んだ声だった。
喧騒が嘘みたいに静まる。その一瞬、ステージに全員の目が行く。
「わたくし依田は芳乃と申しましてー。こたびは学び舎の祭り事にてー、舞台に立つ大役をいただけたこと、有り難く思いますー」
ぼくの後ろで誰かが立ち止まる。ステージを指差し、声を上げかけて口を閉ざす。
奇妙な静寂の中で、彼女だけが言葉を紡いでいく。
「願わくばー、わたくしの歌と踊りでーみなが良き時間を過ごせますようにー」
マイクを片手に持ち直し、唇を寄せる。微かに息を吸う音が、拡張されて響き渡る。
そして始まったのは、祈りのような歌だった。
アイドルの曲というのはもっと、ポップで大振りなダンスをするものだと思っていた。
けれど依田さんのそれは、厳かで、ダンスというよりは神様に捧げる舞だ。
ひらひらと手が動く。風が流れるみたいに、軽やかに彼女は舞う。
囁きに近い歌声なのに、こんなにも響く。響いて、安らいで、泣きそうになる。
いつしかぼくは呼吸を忘れていた。
曲がフェードアウトしても、しばらく誰も物音ひとつ立てなかった。
ステージの上で、依田さんが小さく頭を下げる。
最初に拍手が聞こえた。一人が手を叩き、すぐに周りが追従して、あっという間に大きなうねりになる。
彼女を神前の巫女ではなく、アイドルだと思い出したように。
ぼくは周りに釣られて拍手しながら、溢れそうな感情を必死に飲み込んでいた。
ひどい。ひどい勘違いだ。
依田さんはアイドルで、ぼくはただのクラスメイト。
キラキラした光に当てられて、目が眩んで、手を伸ばせば届くのかもしれないなんて思ってしまった。
そんなはずはないのに。誰だってすぐわかるほど――こんなにも遠くて、届くわけないのに。
舞台からここまでの距離は、そのままぼくと依田さんの関係性だった。
離れた場所から、一等輝く星を見る。
特別なものに手を伸ばそうと、ぼくはもう考えない。
短くも濃かった野外ライブの終わり。満足げに解散する観客に混じって、ぼくもまたその場を離れた。
■15
それから間もなく、二日にわたる文化祭が幕を閉じた。
実行委員の放送をクラスで聞き、お疲れ様を言い合う。
男子がハイタッチをし始め、ぼくも流れで手を掲げた。ばちんと強めに叩かれる。痛い。
クラス代表を労うつもりなのか、何故かそのまま胴上げに発展して死にかける。やめて。本当にやめてほしい。
教室の片づけには依田さんも合流した。衣装は制服に戻っていた。
あれがステージ衣装なら、汚すわけにもいかないんだろう。
ライブをすることはクラスメイトにも秘密だったらしく、何人かがちゃんと見に行けなかったことを悔やんでいた。
さすがに実行委員や教師には伝えてあったはずだけど、クラス代表であるぼくや相方にも知らせてなかったのは、驚かせたかったからだそうだ。
ふわふわしてるけど、彼女には結構お茶目なところがある。
一般の来客が捌けてからは、教師陣と生徒だけが参加する後夜祭が待っている。
けれど依田さんはこれから別の仕事があるので参加できないという。
えー、と残念そうにするクラスメイトたちをなだめ、それからふっとぼくの方に近づいてきた。
「そなたの絵、拝見いたしましたー」
「……え?」
「ばばさまのことー、本当に好きだったのですねー。きっとそなたの祈りはーはるかかくりよにまで届くでしょうー」
善行をした子どもを褒めるみたいに。
ぼくの頭に手を乗せ、よしよし、と撫でて。
「よき絵、よき想いでしたー」
情けなくても、振り払えなかった。
誰かが「おばあちゃんか!」とからかう。
依田さんが「ばばさまと呼ばれる歳ではないのでしてー」と頬を膨らませる。
あたたかな手のひらが離れて、熱の名残は室内の空気にほどけて消える。
クラス代表の相方に「ごめん、ちょっと席外す」と言って、ぼくは教室を出た。
出て、走る。他のクラスが看板を片づけている横を通り過ぎ、階段を下り、足がもつれて転びかけて、それでも何とか姿勢を保って、走って、走って、逃げて、誰もいない校舎裏まで辿り着く。
嬉しかった。けれどそれ以上に、どうしようもなく、辛かった。
声は上げない。叫べない。
だから口を塞いで、うずくまって、喉の奥から来る感情を押し殺しながら泣いた。
依田さんのことでそんな風にするのは、今だけだと思いながら。
次に顔を合わせる時にはちゃんと、いつものように向き合うんだと思いながら。
■EP
そのフロアで飾られているのは、小規模なコンクールに出展された絵画たちだった。
まばらな客が順繰りに展示物を眺め、最後に大賞として選ばれた一枚を目にする。
ありふれた街並みの中、踏切の前に立ち、茜色の光を背負う少女の絵。
『黄昏の映し人』と題された絵画に描かれた人物を、来客の誰かが「この子、どこかで見たことあるような……」と指差していた。
けれどすぐに手を下ろし、興味深げに全体をじっと見つめる。
そんな様子をひとしきり眺めて、ぼくは会場を後にする。
歩きつつ、ポケットからひょこんと飛び出しかけていたイヤホンを引き抜き、両耳に着けた。
プレイヤーの再生ボタンを手探りで押せば、和風バラードとも言うべき歌が流れ出す。
祈りの花。
そう名づけられた歌を、ぼくは繰り返し聴き続ける。
穏やかで、なんてことのない景色――だけど今は少しだけ、滲んで見えた。
以上です。
踏切のシーン及び文化祭ライブのシーンは『黄昏の写し人』がイメージ元ですが、一枚絵では持っていない鞄を持っていたり、描写の流れ的に違和感がない程度のアレンジをしています。
クラスメイトの一人であるところの「ぼく」について、ここまでキャラ作らなくてもいいんじゃないのと思われる方も多いでしょうが、すれ違う一瞬の無力感や諦念を最大限に描写するためにはどうしても必要でした。
よしのんはあの時本当にプロデューサーしか見えていなかったし、彼女の世界の中で「ぼく」は特別でも何でもなかった、そういう話です。
私自身、プロデューサーというより一介のファンに過ぎない存在ですが、彼女たちアイドルがこれからも輝き続けることを心から願っています。
複数回チェックして投稿中も直したので、誤字脱字はほぼないはずですが、もしまだ残っていたらごめんなさい。
あまり明るい物語ではありませんが、それでも読んだ方の心に何かしら残ればいいな、と思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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