スタートダッシュ (26)

供養

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 近頃のわたしは馬鹿なことばかり考えていると思う。

 考えても仕方ないことだと頭では分かっているのに、それを意識したときにはもうふわふわとどこかに飛ばされてしまっている。
 その飛ばされた先にはわたしじゃないわたしが立っていて、やり場のない思考がブーメランのように横をすり抜け周り、現実のわたしのもとに戻ってくる。

 いつ考えているんだろうか。いつもというと大袈裟かもしれない。
 けど、最近は本当にそんな感じなのかもとは思う。認識としてはそうなる。
 なくしたものを数える感覚に似ている。似ているってどう似ているんだろう。分からない。

 たとえば、と少しだけ今日のことを振り返ってみる。
 朝スマホのアラームを止めるとき、制服に着替えるとき、お昼に購買で買ったパンをもそもそしているとき、
 午後の退屈な授業でうとうとしているとき、友達と昇降口の掃除をしているとき、放課後に教室でぼーっとしているとき……これは今か。

 いつもでもないけどいつもでもある。
 どうでもいいわけでもないけどどうでもいい。


 放課後の教室はいやに暑い。
 季節はまだ春先だというのに気温が高く、おまけに湿度も高い。ここの地方の梅雨はもっと先のはずなのに。
 教室にはクーラーがない。勝手に扇風機をブンブンすると先生に怒られる。となると、まあ窓を開けるしかないよなあ、となる。

 椅子から立ち上がり、ふうと一息。座っていただけで足がしびれている。
 くるくると足首をまわし、ふーともう一息。靴紐が解けていた。

 近くの小窓を開けても風をまったく感じず、ベランダに出る。
 そして、忘れないうちに靴紐を結んでおく。あとで何もないところで躓いたら恥ずかしいし。

 ふっと顔を上げると、当然のように外の景色が目に入る。
 遅れて、声が耳に入ってくる。校庭でやっている部活のかけ声だ。

 空は青く、広い。校庭もそれなりには広い。まっすぐ見れば新幹線が走っている。
 いくらでも目移りしそうなくらい情報量が多いけれど、なぜかわたしはある一点を見つめてしまう。



 ぞわり、と。
 火照っていた身体に、少しばかりの寒気がさしこむ。
 気付いたら、ではなくかなり意識的に、ベランダの手すりに指を掛ける。近付きたい気持ちなのだろうか。
 そうしても、なおも、目を細める。それ以外のものを視界から完全にシャットアウトするように。

 魅了されるというのは、こういうことを言うのだろうか。

 規則正しい腕の振り、前へ前へと進んでいくしなやかな脚、揺れる後ろ髪。
 ぐんぐんとスピードを増して駆け抜ける彼女は、ほかのものとは明らかに違っている。

 どうしてだろう。一緒に走っている人と比べて、一番速いからなのだろうか。
 いやいや、と頭を振る。それはそうだけど、そうではない。
 ただ速いだけなら、こんなにも目を奪われない。

 そのうち、決められた距離を走り終えた彼女はゆるゆると流すように脚を緩める。
 我に返ったわたしは、自分の息が止まっていたのに気付いた。慌てて呼吸をすると、はあ、と重い吐息が空に溶けていく。

 手すりにかける力を緩めようとして、でも、それが出来ないことをわたしは知っていた。
 彼女がまた全速力で走り出す。さっきと同じスピードで──いや、さらに速く、誰にも追いつけないような速さで。



 わたしの意思とは無関係に動き出してしまいそうな脚を手で押さえる。
 手すりから片腕が離れる。普通逆だろうけど、意識としてはそんな感じで、あれ? となる。
 もう片方の手を胸元に持ってきて、そっと押し当てる。

 どくん、どくん、と。
 脈が激しく乱れていた。

 いけないいけないと思いながら振り向く。
 でも、窓越しに見る教室の風景はどこか別世界のもののように思えて、身体の向きを戻す。
 なにやってんだろ、ばかみたい。ぺしぺしと顔を叩いてから、もう一度手すりをつかむ。

 走りたいなあ、なんて。
 ……なんて、そんなことを思ってるのかなあ。
 ほんとうは思ってなくて、とは言い切れない。思ってはいる。でも言葉にすると意味が変わるように思える。

 言葉は外に出してしまえば意味が固定されるし、吐いたぶんだけ軽くなる。
 けどまあ、心の中でくらい言葉にしたっていいんじゃないだろうか。

 誰も聞いていないし、という何の意味もない納得をして、一応、流れ出さないように口元に手をやる。

 多分。多分と言いたい。多分と言わないといけない気がする。
 まあいいや、ぜんぜんよくないけど──多分わたしは彼女のことを考えると、走りたいと思ってしまう。

 じゃあ走ればいいじゃん、というとそういうことでもない。
 って、誰に対しての反論なのか。紛れもなく自分自身だけど。これは一昨日の夜に歯を磨きながら考えた。



 わたしは、
 彼女と、
 彼女のとなりを、もしくは少し前、少し後ろを、走りたい。

 でもやっぱりそんなの無理だよなあ、と口をもごもごさせる。
 見ているくらいがちょうどいいのだ。なんというか、遠くにいるものには迂闊に触れたくないし。

 たとえそれが昔は近くにあったものだったとしても。
 時間が経てば、何もかもが変わる。いつまでも取り残されてていいわけじゃない。

 だとすれば、何がわたしをこうさせているんだろうか。
 彼女に向く気持ちは、どこから湧いてくるのだろうか。

 この気持ちは、憧憬か、それとも。

 わたしの頭に浮かぶ彼女の表情と、今の彼女の表情。
 そこが一番変わったところかもしれない。速さとか、それ以前に。

 後ろを振り返り窓に映る自分の顔をのぞきこむと、変なことに気付く。
 高鳴る胸の鼓動とは逆に、わたしはひどくつまらなそうな顔をしていた。




 幼い頃からわたしは足が速かった。

 幼稚園のかけっこも、小学校の徒競走も、男女問わず敵はいなかった。
 理由は単純で、周りと比べて成長が早かったから。
 息切れせずにいつまでも走れたし、準備運動なんてしなくても脚は痛まなかった。

 一歩目でぐいんと地面を蹴り出して、二歩目で前に出る。
 三歩目を踏むときにはもうわたしの前には誰にもいなくなる。

 最初が一番楽しいから、スタートダッシュだけは頑張っていた。
 ちょっと前傾気味に、つま先の少し前にお金が落ちているみたいな、そんな感覚で走り続ける。

 途中からは少しずつ飽きてくる。
 五十メートルも持たないほどで、あれれーと気勢がそがれてくる。
 体力とかそういうものじゃなく、単にやる気の問題なのだろうと昔は不思議で仕方がなかったけれど今はそう思う。

 でも、初めに付けた差はかなり大きいもので、わたしがスピードを緩めたとしても、わたしよりも前に来る人はいない。
 そのやる気がなくなってくる前にゴールを迎えるようなかけっこや徒競走なんて速いに決まっている。

 適性はあった。
 けれど、わたしは走ることが好きでも得意でもなかったのだと思う。



 好きは主観的なもので得意は客観的なものだ、とそんなことを昔どこかで聞いた。

 主観的に見るのは簡単だ。わたしは走ることが好きでも嫌いでもない。さっきの通りスタートとゴールがある競技的な短距離でさえ途中で冷める。
 だからマラソンなんてもってのほかだ。でもそんなに嫌いではない。根本的に好きとか嫌いとかそういうものじゃないんだと思う。走ることって。
 客観的に見ればそりゃ得意は得意なんだろうけど、わたしの意識の中では得意も他者を通して見た結局は主観的なものであって。
 誰かと比べて優位で、価値があって、それは得意で、つまりわたし自身が誰かより優位で、価値がある?

 違う。わたしは自己肯定をするために走っているわけじゃない。
 誰かと比べて足の速い自分に存在価値を見出すとしたら、誰かを上回ることはわたしにとって無くて困ることなのだろうか。
 ただ走っているだけじゃダメなのか。こだわらなきゃダメなのか。好きか嫌いかではなく、得手不得手でもなく、ただ走るのはダメなのか。

 やりたいことがない。部活は全員強制入部。親は陸上部に入れとうるさい。それについて会話をするのが面倒くさい。
 そんなこんなで中学は陸上部に入部した。大抵のことはわたしが従えばなんとかなるらしかった。

 まだマシだったのは、親が部活に介入してこなかったこと。中学はゆるい雰囲気だったからいくらでもサボれた。
 大会でそれなりであれば親は誇らしげにしていた。ええどうぞ、どうぞどうぞ的な、そんなことを思っていた。

 歳を重ねるにつれて、わたしよりも速くフィニッシュする人がぽつぽつと出てきた。
 スタートして半分ほどまでは変わらず一番だったけど、なにやらペース配分というものがあるらしかった。
 つまんないからわたしはしなかった。そんなことをしていたら楽しいことがひとつもなくなる気がしてならなかった。

 走ること以外について何も言われないために部活を続けていた。
 わたしは誰かに自分についての何かを指摘されることが一番いやなことだった。

 取り立てることのない成績も、可もなく不可もなくの人間関係も、出来ることなら関わり合いたくない親との付き合い方も、走っていれば、部活に入っていさえすればある程度は表面化しなかった。
 わたしは半径三メートルくらいの自由を手にするために、いろいろなことから逃げるために走っていた。



 昼休みはたいていひとりでふらふらのそのそと、購買にパンを買いにいく。

 適当に目に付いたのを二つ手に取って、ついでに冷ケースから飲み物を取る。
 それが半ばルーティン化しているから、購買のお姉さんに顔を覚えられているらしく、小銭を出すときにいつも目が合う。
 あら今日も豆乳ね的な笑みに、あははなんてったって安いですからね的な笑みで返す。

 これおまけね、とお姉さんは何かを袋に入れた。
 多分豆乳だろうと思った。いつだか売れない売れないってぼやいてたから。

 雨だからなのかわからないけれど、購買と学食の人の出入りがいつもより盛んだった。
 わたしは教室に戻って食べるから関係ないけど、帰るのに一苦労しそうで辟易する。

 うげーめんどくせーと思いながら人混みに逆行して出入口を目指す。

 二秒で諦めた。
 ちょっと待ってから出た方が楽そうだ。

 軽く袋をぷらんぷらんさせて、はよはよーなんて口の中で呟きながら出入口に目をやる。
 まだ混雑していたから、袋の中身を覗いてみる。

 やっぱり売れ残りの豆乳だった。お姉さんはいつだって期待を裏切らない。
 まともに話したことないのに、なんだろう、在庫処分に付き合わされている。



 近頃のわたしはちょっと変だから、そんな大して面白くもなんともないことに口元が緩む。
 で、数秒経って、何もないところで笑ってるのってやばくないかわたしよ、と真顔になる。
 あたりを見回す。友達にでも見られていたらだいぶ変な人としてわたしの認識がアップデートされかねない。

 左よーし、正面よーし、み……ううっ。

 何やら視線を感じたから、わたしの右、つまり出入口に背を向ける。
 残像、シルエット、それがいつも見てるものっぽくて、ちらりと首をめぐらせる。

 てっきり睨まれたりしているのだろうと思っていたけど、彼女の表情からは何の熱も感じない。
 どちらかというと、観察? されて……はないか。目を開けながら寝てるみたいな感じだ。

 たまにこういうことがある。
 上から見ていても綺麗なのだから、正面から見据えればめっちゃ綺麗だなあって思うのは当然。
 見惚れかける。顔じゃなくて、脚とか腕とかに、なぜだ。

 まあ冗談はよそう。完全に向き直ると、彼女の目もまっすぐになる。
 何をやっているのか。愛想の欠片も感じないまなざしと表情。わたしは眉毛をへの字に曲げながら腕組みをした。

 へんなの。
 彼女に向けて、ってわけでもなく、出入口に向けて歩き出す。いつのまにやら潮が引いたみたいだ。
 そしたら彼女までそっちに歩き出してしまった。なんだこれ、等速直線運動的な?



 自動販売機を通り過ぎ、階段をスルーして、渡り廊下に差し掛かったところで彼女がこちらを振り向く。
 今度はじとっとした目だ。こういう目は何度も見たことがあって、また勝手に口の端が緩む。

 彼女はわたしの頭からつま先までをつーっと見渡して、ため息をこぼした。
 そして、わたしから目を外して、すたすたと歩いてきて、通り過ぎていった。

 向こうが振り向いてる気はしなくて、わたしは振り向かなかった。
 ふらふらとよろめきそうになりつつも、二本の足でしっかり立ち続ける。

 彼女はわたしに言うことがないし、わたしも彼女に言うことはない。
 前から何も変わってないし、これからもきっと変わらないことなのだ。

 そう思っても、なぜか、わたしはどうしようもない熱に浮かされている。



 彼女と出会ったのは、高校に入学してすぐのことだった。

 特にこれという波も乱れもなく中学を卒業したわたしは、それなりに勉強をしていたのもあって、それなりに名の通った高校に進学した。
 推薦は何個か来ていたけれど、すべて断った。親は不満そうにしていて、でも無視した。
 具体的に何かを話したというわけでもなくて、気が付けば親は折れてくれていた。勝手に納得してくれたみたいだった。

 陸上部はどこにでもある普通校のゆるさと聞いていたが、いざ入ってみるとまったく違った。
 新しく赴任した顧問が有名な人らしかった。小さい頃に見たことがあるような気がした。

 入部したばかり、新入生だけで何本か走らされたときに、となりを走っていたのが彼女だった。
 三歩目を踏んだときに、彼女の姿がまだ見えた。四、五、六歩目くらいで突き放したけど、目と鼻の先でのそれは慣れていないもので。
 何度走っても、わたしが一着で、彼女が二着で。
 それ以来、わたしたちはなんとなく比べられることが多くなった。

 真面目で一生懸命な彼女と、真面目でもなく一生懸命でもないわたし。
 走るフォームが綺麗な彼女と、適当にぐちゃぐちゃな姿勢で走っているわたし。
 社交性皆無で一匹狼な彼女と、なにかとへらへらしてるわたし。
 顧問に褒められる彼女と、小言を言われるわたし。

 こういくつか挙げただけでも仲が悪くなりそうなのに、彼女は何かにつけてわたしに張り合おうとしてきた。



 いつものように事務室で部室の鍵を借りようとしたら、もう貸したよと言われて、部室に行ってみたら彼女のバッグがあったり。
 朝練の前にバランスボールで遊んでいるのを見られたら、その次の日からは彼女が先にトレーニングルームにいたり。
 練習後にお互い帰る方向が同じで、のほほんと自転車を漕いでいたら無言でスピードを上げて追い抜いてきたり。

 謎だった。かなり。
 顔を合わせても話すどころか睨まれるくらいなのに。
 同じ部活の同じ種目なのに話すのは月に一度あるかないか、周りからのライバル扱いもこれじゃ仕方ない。

 でも一番謎だったのは、負けたときに彼女が笑っていることだった。
 普通は勝ってわたしに対して笑うものなのだと思うけど、ちょっと意図的にミスったりしてみたらすんごい顔で睨まれた。

 思い出すだけでむず痒い。だけ。つまりさして嫌ではなかったのだ。不思議と。
 当時もなんなのーなかよくしようぜぇーとは思いながら、わたしも少しは楽しんでいた。
 まったく話さないのに。話しかけようとも思わないのに。

 で。で、どうだったっけな。
 そんなこんなで、蚊に刺されを気にしたり落ち葉で滑って転んでたりインターバル練習を頑張る彼女を見ていたりしていたら。
 次の春には、楽しみがそこまでの楽しみじゃなくなった。

 理由はただ一つだけで、彼女がこれまでとペース配分を変えたこと。
 わたしと同じ前半に比重をかける走り方から、後半にかける走り方に変えた。
 だから、あの走り始めの一瞬に彼女は現れなくなった。

 終盤で彼女に抜かれるようになったことよりも、わたしと彼女の間で共有していると思っていた部分がただの幻だったと思い知らされたことが悲しかった。
 やりきれない気持ちで最後まで真面目に、ほぼ全てヤケだったけど、必死に走ったら彼女をなんとか抜いた。
 当たり前なことに楽しくはなかった。でも、彼女に合っているのがそういう走り方だというのは、近くにいたわたしが一番分かっていた。



 来月に地区、県、地方と続く大会を控えたある日の練習後に、ほぼ初めて彼女から話しかけられた。

『ねえ、走るのってそんなにつまらない? 楽しくない?』

 開口一番にそう言われたものだから、多少は怪訝な目で彼女を見た。
 殊更に真剣な表情もフェイクかもしれない。でも何のための? だいいち彼女はそういう人じゃないな、と言えるほど彼女の内面についてよく知らない。

『ふつう。楽しいといえば楽しいし、つまんないといえばつまんない』

 だから、素直に答えた。
 彼女は首を横にふるふる振った。

『どっちかにして』

『どうして?』

『どうしても』

 目が泳ぐ。
 私が答える前に、彼女は勝手に話を始める。



『私は、楽しいよ』

『え?』

『あなたを倒すことを考えると、走るのが楽しい』

『……』

『だから、』

 何を言われているのだろうと思ったけど、とりあえず頷く。
 すると彼女は目をぱちくりさせて、『いや』とめちゃくちゃ細い声を上げた。
 僅かの沈黙。つくったのは彼女。破ったのも彼女。

『……負けないから』

 それだけ言い残して、彼女は行ってしまった。

 楽しいのか聞かれたと思ったら、私は楽しいと言われて、負けないと宣言されて。
 なんなのだ、なにが言いたかったのだ。追いかけようかとも思って、でもそうはしなかった。

 わたしに全力で来いと、そう言っているのだけは伝わってきたから。



 あの出来事から一年と一月が経過しても、わたしは変わらず彼女のことを考えて、トラックを走る彼女を眺めていた。
 購買ですれ違って以降、彼女と正面から顔を合わせる機会は一度もなかった。クラスが違うし、あまり校内を出歩かなければ当然。
 変わったことと言えば、購買のお姉さんと話すようになったことくらい。今までよりも豆乳が売れるようになったらしい。

 彼女のことは、自分から積極的に調べようとしなくても耳に入ってくる。
 友達はわたしとそういう話をするのを避けているっぽいけれど、朝に配られるようなプリントに書いてあるから目にもつく。

 てなわけで、彼女は地区と県を勝ち上がって明日は地方大会らしい。
 県内で二年連続は多分彼女だけだ。昨年は三年ばかりだったし、聞いたことのある名前が彼女のもの以外になかった。

 もしかしたら今日で見納めかもしれないな、と思うと少しだけ寂しい。部活を引退してまで朝や放課後に走ったりするのかな。
 ああでも、それで大学に行くとすれば部活には出続けるかもか。その可能性は高いし、彼女はどこででも走ってそうな感じがする。

 もし見られなくなったら、わたしはどんな気持ちになるのだろうか。
 寂しい、は今思った。今想像しただけでそう思っているとしたら、現実になったらどうなるのか。
 いっそのことわたしのために目の前で走ってくれとでも言ってみようか。絶対やな顔される。もしくは別のことを言われる。
 だから彼女と話すとなると結構億劫になる。負い目とかそういうものではないけど、もともと話さなかったのもあるし。

 そんなわたしの考えていることに呼応するように、彼女が前から歩いてくる。
 練習後のジャージ姿で、つまんなそうに欠伸なんかして。余裕か、明日なんて余裕なのか。



 彼女はわたしの姿を捉えてまた何か言いたげに口をぽかんと開けたけれど、この前みたいに足を止めることはなかった。
 でも、わたしが振り向くと彼女もこっちを振り向いていた。目が合うと、なぜかそっぽを向かれる。

「あのさ」

 とりあえず何でもいいやと思いながら近付く。
 勝手に口が開いてしまったんじゃ仕方がない。めんどくさがるなわたし。

「明日大会なんでしょ?」

「そうだけど」

 だからなに? とでも言いたげな鋭い目が飛んできた。
 久しぶりに話したせいもあって、思わず身じろぎをすると彼女も同じように身じろぎをしていた。お互い居心地は最悪らしい。

「がんばってね」

 わたしが伝えたいことはそれだけだ。
 だから、それ以上を重ねない。過ぎたるはなんとやらだ。

「なにそれ」

「そのままの意味。別に他の意味なんてないない」



「本気で言ってる?」

 彼女は本当に困惑したように表情を硬くする。間髪入れずに頷きを返すと、彼女は見て分かるくらいに狼狽えた。
 ゆらゆらと、短い髪が揺れる。その拍子に見えた耳元と、首筋が、ほのかに朱色に染まっていた。

「それだけ、じゃあね」

 予想外の反応にこっちもなんか気恥ずかしくなりそうで、言葉とともに手を振っておいた。
 彼女の目がぐるぐる回っているのが見える。別れの挨拶をしといてなんだけど、なんとなくもう少し近付いてみた。
 疲れてるのだろうか。指摘したい気持ちでウズウズしかける。結局どうせしないのに。

 もう一歩詰めると彼女は三歩後ずさりする。
 距離が遠ざかる。案外恥ずかしがりやさんなところでもあるのか。

「じゃあ、……うん、じゃあね。が、がんばる」

 しばらくじっと見てたらそんなことをぼそぼそ言って握りこぶしをつくってくる。
 で、ぷらぷらおどおど控えめに手を振り返してきながら、挙動不信感満載のかに歩きで校舎の方へと歩いていった。



 もっともらしい理由が一つでもあれば、多少は自分を偽ったりもできるのだろうと思う。

 そうすることが選べてそうするのと、そうせざるを得ないからそうするとではまるっきり違う。
 自分のことは自分が一番に分かっていて、だからこそ周囲には隠して、がんばって取り繕おうとしていた部分もあった。大抵わたしが我慢したり黙っていれば済むことなのだから、わざわざ他者の手を煩わせるわけにはいかない。自分のことには自分で責任を負いたい。この程度のことなのだから。
 でも、わたしはあのときたしかに、彼女の思いに応えようと思った。考える間もなく、ほぼ一瞬で。

 スピードを落とさずに走っていた。それで、先の二つはなんとかなった。違和感はほとんどなくて、なんだもう大丈夫だろうと思っていた。
 だからその日だって、彼女の望み通りスピードを落とさずに走ろうとした。
 ここに照準を合わせてきてるのだろうと、なんとなく感じていたから。

 中盤に至るまでのリードはほんの少し、自分も彼女もいつもより調子が良いと思った。
 ぐいぐい追いついてくる彼女を終盤にかけて引き離そうとしたときに、かかとにスタートでかけるのと同じくらいの力をかけて。
 それで、それで──。

 ──ブチッと、まあ、あっけなく切れてしまった。

 フィニッシュ後に、身体を支えきれなくなって倒れ込んだ。
 どっちが速かったんだっけ、多分わたしの方が速かった。どうして最後まで走れたんだろう。

 すぐに顧問と病院に行って、どうせそうだろうと思っていた診断をされた。
 また走れるようになるさ、と顧問は言った。そのときの時点でもう走る気はなかった。



 足を痛めるような走り方を直していこう。これで学んだだろう、もっと速くなれるよ。がんばろう。
 一度伸びたものはもとには戻らないと知っていた。その場で、部活を辞めることを顧問に告げた。

 少し経ったときに、親はわたしに「まだよかったじゃない」と言った。
 その意味は続きや真意を聞かずとも分かっていた。わたしは怒りとかそういう感情も湧かずにただただ呆れた。
 ご機嫌取りか何なのか、わたしを元気づけようと一方的に考えたのか、親はわたしをいろいろなところに連れて行こうとした。

 壊れたおもちゃは継ぎ接ぎしたって意味ないのに。
 一度強く拒否すると、その後にそういう話をしてくることはなかった。
 わたしは完全な自由を手に入れ、親は大好きな走ることを失った可哀想な娘を手に入れた。
 本質的には何も変わってない気がした。でも、わたしはそれで良かった。続くことがもう耐えきれなかったのだと思う。

 走ることから遠ざかったけれど、わたしはそのことを欠落だとは思わなかった。
 結局のところ、わたしにとっての走ることは習慣であって呼吸ではなかった。ないならないでなんとかなるものだった。

 数ヶ月後に、走っている彼女を遠くから見て、その走り方の綺麗さに目を奪われた。
 もともとそうだとは思っていたけど、離れてみると思っていた以上で、近くにいたら恐らく一生気付けなかったことだった。

 彼女をいつも目で追ってしまう自分がいた。
 何となく家に居づらくて、放課後に教室に残っていたことがそれを加速させた。
 わたしの中で彼女の占める割合が大きくなっていった。
 時間が経って治っても前までのようなスタートが切れるわけがなかった。嘘でしょ、と思ったけれどそれが現実だった。



「となり、いい?」

 ベランダの手すりに顎を乗せてうとうとしていると、放課後に似合わない制服姿の彼女がそう声をかけてきた。
 なんで違う教室の、と思って固まる。すると、彼女はうんうん唸って目の前に何かを差し出してくる。

「どっち飲む? コーラ? カルピス?」

「え、なんで」

「引退したから、今からジュース解禁するの」

 数日前のわたしのように、彼女は一歩距離を詰めてくる。反射的に後ずさりしかける。
 彼女もそうだったのだろうか。そうだろう。めっちゃ怖いなこれ。
 不意打ちは頭が働かなくなる。

「カルピスでお願いします」

「敬語?」

「カルピスが飲みたいなー」

「どうぞどうぞ」

 彼女から缶を受け取って、プルタブ上げて、乾杯。
 変な感じだ。お互いの頭の上にはてなマークが浮かんでいるのはたしか。



 ……ていうかあれ、引退したからって言ってなかったかさっき。
 それって、まさか。まさかのまさかなのか。去年より絶対速いのに?

「負けたの?」

「うん、負けたよ」

「なんで、え、どうして? 引退ってことは決勝行けなかったの?」

「そうそう」

 顎を大きく動かして頷く姿は誇らしげで、悔しそうな顔を一切してない。
 あの負けず嫌いな彼女のイメージがかなりブレる。彼女はわたしの顔を見て苦笑する。

「これで私の陸上は終わり。もう部活では走らない」

「大学で続けないの?」

「うん」

「もったいなくない?」

 驚きの連続で、ついつい質問攻めをしてしまう。



「あなたってどこの大学受けるの?」

 質問に質問が返ってくる。
 ええなにそのしつもん……と思いつつも返答する。近所の大学。

「成績いいのね」

「まあ、華の帰宅部ですし」

「そっか。私もそこ受けるっていま決めたから」

「えっ」

「走ってるときのあなたみたいに受験までに失速したりしないでよ」

「……えぇと」

「あなたが前か横にいてくれないとつまらないの。走るのも、何もかも」

 なにを言われてるんだ。
 景色がふわふわしている。夢なのかこれは、と頬をつねる。「なにやってんの」と言われる。
 うおおめっちゃリアルっぽいなあ。痛いからリアルそのものだけど、痛覚の方が遅いってやっぱ夢なのでは?



「ねえ、これから時間ある?」

 腕時計を指差して、彼女は穏やかに首を傾げる。
 反応にひどく困る。暇は暇だけど。

「暇だよ」

 心の中では悩んでる気がしたけど口が勝手に動いていた。

「そう、なら何か食べに行かない? ファストフードでもレストランでもなんでも」

「どうして」

「引退したし女子高生やってみようかなって」

「……あの、そうじゃなくて、なんでわたしと」

「……駄目?」

 そんな目で見られたら。

「駄目じゃないっす、おっけーす」

「じゃあ決まりね」



 地面に下ろしていた鞄を手に取って、彼女はわたしに笑顔を向けてくる。
 初めて見たような、かわいい顔。こういう顔を常に見せてくれれば、わたしももっと何かあったかもしれないのに。

 ていうかいろいろとすっ飛ばしてるし、こんだけ話してるのまだ信じられないし。
 友達……なのか? 友達感全くないけど。や、二人でごはんなんて行ったらそれもう友達か。つまりこれから友達になるってわけだ。
 そんで、友達だったら一緒に走ろうってお願いを聞いてくれるかもしれないわけか。
 っていう論理の飛躍。なんだかにやける。今まで考えるのを避けてきたことに結論が出る。

 楽しければそれが一番じゃないか。
 そして、楽しめる状況をつくるのはわたし自身じゃないか。

 彼女と、もっと仲良くなってから言うことにしよう。
 今この瞬間からなのだ。新しいスタートを切るのは。

「ね、あのさ──」

 流れに身を任せ、彼女の方へと一歩踏み出した。


おわり
読んでくれてありがとうございました~

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