樋口円香「本日快晴」 (11)
煌びやかなドレッサーの前に、ぽつんと取り残されて、もうどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
仰け反る形でやや横着に壁に掛かっている時計を見やる。
前回に時刻を確認した際より、長針が目盛り二つ分だけ移動していた。
誰もいないのを良いことに盛大な溜息を吐いて、自身の両手を伸ばし眼前で掲げる。
十本余すことなく空色に染め上げられた指先は、どこか自分のものでないような気がしてしまった。
「…………暇」
ぼそりと呟いた独り言は無音の室内に妙に響いて、いっそう退屈さを加速させる。
私は今、ネイルが乾くのをひたすらに待つだけ、という虚しい時間を過ごしていた。
アイドルとなってからもう何度か経験していることではあるけれど、やはり他人にやってもらうネイルというのは慣れない。
何より両手を同時に彩られてしまうと、その間は何もすることができないのが辛い。
もう何度目になるかもわからない嘆息を漏らし、備え付けられたテレビから垂れ流されているバラエティ番組を見るでもなく眺めた。
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「あれ? 一人?」
不意に声がして、その方向へ視線を移す。
むかつく顔で笑う、スーツ姿の男がそこにいた。つまりは私の担当プロデューサーだ。
「……それがどうかしましたか」
「いや、ネイリストさんはどうしたのかな、って思っただけだけど」
「ああ、そういうことでしたら、私はもう大丈夫です、と丁重にお礼を言って一人にしてもらいました。私のネイルが乾くまで拘束するのも申し訳がないので」
私が言うと、彼は「そっか」と返し「じゃあ、俺が乾くまで話し相手になろう」と笑う。
「……そんなこと、頼んだ覚えはないんですが」
「だって、退屈してたでしょ。そういう顔、してた」
「……してません」
「してたよ」
「してません」
退屈をしていたのは事実であるけれど、それを悟られることも、そのとおりであると肯定を返すのも癪で、反射的に否定してしまう。
それがかえってこの男を喜ばせてしまうことは理解しているが、残念ながら「はい。退屈でした」と言えるような素直さは持ち合わせていないのだから仕方がない。
「ちなみに、あとどれくらいで乾くんだ?」
「どうしてあなたがそんなことを聞くんですか」
「どうして、ってそりゃあ」
「まさか、乾くまで一緒にいる、だなんて言いませんよね」
「……だめか?」
相変わらず、小賢しい聞き方だ。
「聞くまでもありませんよね」
「円香は優しいな」
「………………はぁ」
「何か嫌なことあった?」
「ええ、はい。すごく」
「いつ」
「丁度、今です」
「円香を悲しませるなんて、許しがたいな」
「そこだけは、同感です」
わかりやすく悪態をついて見せても、プロデューサーは面白がるばかりで、最悪なことに今日も絶好調らしかった。
「でも、ごめんな。隙間の時間にねじ込む形でネイル入れちゃったから、今日慌ただしかっただろ」
「……別にこれくらい、普通です。もっと忙しくされてる方なんて、他にいくらでもいるじゃないですか」
「それはそうかもしれないけど、普通ってすごいんだよ」
「また、わけのわからないことを」
「いやいや、これは真面目な話。普通に生きるのって、大変なんだよ」
ああ、それは、わかる気がした。
それなりの学力であったり、それなりに綺麗な部屋であったり、何にしても“それなり”を維持するのは、それなりにカロリーを要する。
「でも、普通じゃ評価されませんよね」
「普通は、な」
「上手いこと言ったつもりですか?」
「笑ってんじゃん」
「笑ってません」
真面目な話、などと言うからまともに取り合ってやったというのに、この男はいつもこうだ。
この男も私を担当し始めた頃は、こちらの顔色を窺いながらおっかなびっくりコミュニケーションを取ろうとするような可愛げあったはずなのだが、今ではすっかり調子に乗っている。
お灸をすえてやらねば。
そう思って、ローファーの爪先を彼のすねへお見舞いしてやる。
「いったぁ」
「どうかしましたか」
「暴力に訴えるのはよくないんだぞ」
「はい」
「はい、って。でも、ほんとにお外でそういうのはダメだからな。樋口円香、担当プロデューサーにパワハラ! みたいな記事書かれでもしたら大変だから」
「まるで、見られていなければいいかのような言い方ですね」
「まぁ究極的にはそう」
「……はぁ」
「溜息、吐くと幸せ逃げるらしいぞ」
「では、捕まえて来てください。たった今逃がしてしまったので。捕まえてくるまで帰ってこなくていいですから」
「まぁ、お腹空いたら帰ってくるよ」
「小さい子の家出みたいに言わないでください」
私の隣で、依然としてアルミの丸椅子を楽しそうに揺らしているプロデューサーは、唐突に「あ、そうだ」と立ち上がった。
そして、がさごそと自身の鞄を漁り、何やら取り出して再び私の隣へと帰って来る。
帰って来なくてもいいのだけれど、帰って来た。
「円香、このあとも撮影だから」
プロデューサーはそう言って、棒状の菓子のようなものを差し出しながら「小腹満たせるもの一応持ってきたんだ。俺もあんまり時間なかったから、買いに行く余裕なくてこんなものしかなかったんだけど」と付け加える。
「なんですか。これ」
「プロテインバー。脂質とか、少ないから気にせず食べられるかな、って」
ふぅん、と鼻を鳴らし差し出してくる包みを見る。
そこで私は、はたとあることに気が付く。
「……今、両手使えないのわかってます?」
「あ」
「…………はぁ」
たまには気が利くな、と内心で少し褒めかけていたのだが、やはりこの男はだめだ。
「はい。あーん」
「……絶対、嫌」
「誰も見てない誰も見てない。このあとすぐ移動なんだから、食べときなって」
「…………」
「ほら、はい」
「……………………ん」
私が口をつけるまで、諦めてくれそうになかったので、もう観念して口を開く。
ほどよい辺りで口を閉じれば、さくりとした軽やかな触感と共に優しい甘さが舌の上に漂う。
「…………満足?」
ごくりと飲み込んで、当てつけのように彼を睨みつけ、言う。
「ああ、うん。なんか……」
「なんか?」
「…………えっちだな、って」
「芸能プロダクション社員、担当アイドルにセクハラ! って記事、書いてもらいますね。善村さんに」
「許してください」
差し出されたままの残り半分を、ひといきに頬張って、良く噛んで飲み下す。
当然と言えば当然だが、口内の水分のほとんどをプロテインバーにもっていかれてしまい、無性に飲み物が欲しくなった。
「水、欲しいんですが」
「あー」
「ないんですか?」
「…………すぐに用意します」
「本当に無能ですね。せめて全力疾走で買ってきてください」
「勿論です」
「戻ってきたときに肩で息、してなかったらもう一度行ってもらいますのでそのつもりで」
「なんで……?」
「必死なあなたを見るのは、普通に愉快なので」
「普通に」
「早く行ったらどうですか」
「はい」
歯切れ良く返事をしたあとで彼はジャケットを脱ぎ無造作に机上へ放ると、財布片手に部屋を飛び出して行った。
しばらくぶりに一人になった室内で、また自身の両手で晴れ渡っている指先を眺める。
これからも、ずっと、あんなのが私の担当プロデューサーだというのだから、頭が痛い。
「これからもずっと……だなんて」
思い浮かべた言葉を、声にも出してみる。
「最低」
弾む独り言は、指先の空へ溶ける。
おわり
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