樋口円香「心地よく」 (26)

事務所の窓辺には、いつも季節の草花が飾られています。

丹精込めて育てられた草花たちは、皆を癒してくれると同時に見守ってくれている存在でもあるのです。

うららかな陽気に包まれたある一日。

この日は、ヒヤシンスが朝から甘い香りを漂わせていました。


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「……いい香り」と、円香は囁くように言いました。

円香は、ヒヤシンスに近づくと、反り返った花びらにそっと触れました。

青い花びらが揺れるその様は、どこか喜んでいるようにも見えたのです。

円香は窓を少しだけ開けると、深呼吸をしながら大きく背伸びをしました。

「綺麗かろ~」

「……!?」

突然、後ろから響いた朗らかな声に、円香は思わず固まりました。

「……あ、ごめん円香。びっくりさせるつもりはなかったとやけど……」

「いえ、おはようございます。恋鐘さん」

円香はフッと息を吐いてから恋鐘の方へ向き直りました。

「おはよ~!そのヒヤシンス綺麗かよね~」と、恋鐘は言うと、鉢の高さまで身体を屈めました。

「はい。もしかして、恋鐘さんがお世話されているんですか?」

「ん~~、うちも水あげたりすることはあるけど、一番見とるのは霧子やね!」

「霧子さん……」と、円香は言いながら、霧子がお世話をする様子を思い浮かべました。

「話せるときがあるとよかね!」と、恋鐘は笑顔で言いました。

「ええ…、それより恋鐘さん、そろそろ出ないとレッスンに遅れますよ」と、円香は時計を指差しながら言いました。

「ふぇ~~、急がんと今日の先生はばり厳しか先生やった……!」

恋鐘は、バタバタと音を立てながら大慌てでレッスン室へ向かいました。

「そんなに急がなくてもいいのに……」と、円香は呟き、雲一つない空を見上げました。

窓から入ってくる風は、円香の心をそっと支えてくれるような優しい風でした。

さて、ボイストレーニングが始まりました。

レッスンスタジオには、円香と恋鐘、トレーナーが揃って張り詰めた空気が流れていました。

入念にストレッチをすると、順番に指導を受けます。

室内には、恋鐘の伸びやかな歌声が響いていました。

円香は、少し離れた場所で歌詞に目を通していました。

すると、トレーナーがピアノを弾く手を止めて言いました。

「月岡、ちょっとストップ」

「今日の歌い方、ずいぶん力んでいるように見えるがどうかしたのか?」と、続けます。

「ん~~、やっぱり先生には隠せんもんやね。うち、この前オーディション受けたやろ?そん時、あんま調子が出らんで……」と、恋鐘は頬を触りながら言いました。

「悔しい時は練習!って思っとったんやけど、力入るんもいかんね~……」

トレーナーは、しばし考えたのちパチンと手を叩きました。

「よし。月岡は一旦基礎をしよう。樋口も手伝ってやってくれ」と、言うと円香の方に視線を送りました。

その時、円香は髪の毛をクルクルと指に巻きながら様子を眺めていました。

しかし、すぐさま手を離し、少し早歩きで恋鐘のもとへと向かいました。

それから、トレーナーは身振り手振りを交えながら指示を出しました。

「月岡の身体の使い方、声の出し方は参考になるはずだから、ただサポートするだけではダメだよ」

「~♪~♪」

時計の針が一回りしたころ、室内には、恋鐘と円香の歌声が響き渡りました。

「うん。月岡も大丈夫そうだな」と、トレーナーは安どの表情を浮かべました。

そして、円香へ身体を向けるとこう続けました。

「それから、樋口。初心者とは思えないくらい飲み込みが早いな。その調子だ」

「ありがとうございました」と、二人は揃ってお礼を言いました。

「あの先生からあげなふうに褒められるとか、円香はすごか~」

着替えも終わった廊下で、恋鐘は身を乗り出すように円香に言いました。

「いえ……、ありがとうございます」と、円香は返事をしました。

「うちなんて、怒られることの方が多かとに……」

「期待、されてるってことなんじゃないですか?」と、円香は努めて冷静に言いました。

「そいやったら嬉しかけど……でも、円香はやっぱりすごかよ!」と、恋鐘は笑いながら言いました。

「褒めても何も出ませんよ」

「ん~~、あんま嬉しくなかと?」

「いえ、そういうわけでは……」と、円香は息を吐き出すように言いました。

恋鐘は、スマホに目をやりながら少し考えてから言いました。

「ねぇ円香。このあと結華とお茶するとやけど、よかったら一緒にどげん?」

「いえ、このあとは少し予定があるので……。すみません」と、円香は言いました。

「では、お先に失礼します」

円香は恋鐘に一礼するとレッスンスタジオを後にしました。

一人残されてしまった恋鐘は、手を顎に当て、その後ろ姿を見ていました。

その夜、円香は薄明かりの自室で日誌を書いていました。

幼馴染が始めたと聞いた日誌。

試しに書いてみると、その日の出来事や課題が明確になり、それ以来続けています。

もちろん、誰かに見せるということはありません。

「はぁ、何やってんだろ……」と、円香は呟きました。

つい数週間前までは、こんな日々が訪れるだなんて思ってもみなかったでしょう。

瞬く間に日常は塗り替えられ、余計なものを次々と背負わされ、……。

これが降ろせるものならどれほど良かったでしょうか。

円香は、机の端に置いてあるスタンドミラーを手に取り、表情筋のストレッチを始めました。

ベッドに置いてあるスマホは、通知のランプが点滅し続けていました。

それに気づいたのは、30分後。

円香は、既に消灯された幼馴染の部屋を見ながら、水を口にしました。

あくる日、事務所では幼馴染の隣人こと浅倉透がプロデューサーと営業に出かける準備を進めていました。

「そろそろ出るよ。準備できた?」と、プロデューサーが声をかけました。

「うん。大丈夫」

「よし、じゃあ降りるか」

「あっ、待って、プロデューサー」

「ん?どうかしたか?」

「あ、ううん……今日の樋口、眠そうな顔してると思う」

「え?」

「あんまり眠れなかったみたいだから」

「そうなのか。あとでレッスンのときに見とくよ。ありがとう」

その頃、円香は一人で河原を歩いていました。

自宅と事務所の間にあるこの場所には、幼馴染や、その家族との思い出が詰まっていました。

季節ごとに様々な景色を見せてくれて、幼かった円香たちにとって遊園地のようでした。

今日も風が時折ビュウと吹き、河川がサラサラと穏やかな返事を返します。

いつも隣にいる誰かも、今日はいません。

円香は、橋のたもとにある一面に緑が広がる場所に着くと、思いっきり背伸びをしました。

「ふふっ、いいかな……」と、円香は穏やかな表情をしながら言いました。

「円香~~!!」

突然、円香の後ろから聞き覚えのある声が響きました。

円香は、思わず苦笑いを浮かべそうになりながら振り返りました。

「あ、やっぱり円香やったね~」と、恋鐘は言いながら円香の傍へやってきました。

「こんなところにおるんやもん。びっくりした~」と、恋鐘は息を整えながら言いました。

「それはこっちのセリフです」

「んふふ~」

「恋鐘さんと霧子さんは、買い出しか何かですか?」と、円香は二人の手にある手提げ袋を見ながら言いました。

「うん……レッスンで使う備品……少なくなってきちゃってたから……」と、霧子は袋を持ち直しながら言いました。

「そいで、帰りに寄り道したら、円香がおったとよ」

「円香ちゃんは……休憩……?」

「そんなところです」

円香が少し困ったような表情を浮かべると、霧子がそっと近づいてきて言いました。

「この前……恋鐘ちゃんから聞いてね……ヒヤシンスさんのこと、好きになってくれたって……」

「えぇ……、とても綺麗で……」

「きっと……ヒヤシンスさんも……円香ちゃんに好きになってもらったこと……喜んでる」

霧子はふんわりとした笑顔をして言いました。

円香はつられるようにして微笑みを浮かべました。

恋鐘も、そんな二人を見つめながら笑顔です。

「ここは……この季節になるといろんなお花が咲いていて……たまに見にくるんだ……」

霧子は足下を気にしながら少しずつ歩きます。

「あっ!これ!つくしが生えとるばい」と、恋鐘は立ち止まって声をあげました。

三人は草むらに隠れた四本のつくしを見つけました。

「おてんとさんに向かって、一生懸命伸びとるね~」

「うん……冬の間、我慢してた分……とっても嬉しそう……」

円香は何も言わず、つくしの先端部分にそっと触れました。

「つくしさんは……一本一本は離れていても……根っこで繋がってるの……」と、霧子は言いました。

「繋がってる……」

円香はその言葉を聞くと、少しだけ安心したように微笑みました。

「んふふ~、円香の笑顔、見れたばい」と、恋鐘がズイと近づいて言いました。

「は?……」

円香は反射的に出た言葉を咳き込んでごまかそうとしました。

「ふふっ……」と、霧子も円香の方を向きながら笑っています。

「円香……あんね」と、恋鐘が切り出しました。

「うち、円香ともいっぱい話したか。それに、うちら同じ事務所の仲間やけん、困ったことがあったら何でも言ってよ」

「はぁ……ほんとにもう……」と、円香はため息交じりに言いました。

「ふぇ?」

恋鐘は不思議そうな顔をしています。

その時、陽気な風が草むらを揺らしました。

「ありがとうございます」と、円香は初めて恋鐘の顔を見ながら言いました。

三人でひとしきり春を探し終えるころ、恋鐘が言いました。

「これから、事務所に飾る花も買いに行くとやけど一緒にどげん?」

「ヒヤシンスさんの……言葉に……気づいてくれたように……円香ちゃんとお話したいお花もいると思う……」と、霧子も続きます。

「えぇ……」

円香は、スマホを取り出して時間を確認し、二人と共に行くことにしました。

数日後、事務所にスイートピーが加わりました。

霧子が育てている花の隣に、添えられていたのです。

「綺麗だな。そのスイートピー。円香が買ってきたのか?」と、プロデューサーが言いました。

「はい」と、円香は短く答えました。

「きれいなピンクで、窓辺がもっと華やかになったな。香りもその花から?」

「そうです。それにしても、あなたにも花を慈しむ心があったんですね」

「みんなのおかげで少しずつな。えっと、スイートピーの分類は……」

「はい。御託を並べている暇がおありでしたら、自分の仕事に集中してください」

「分かったよ。じゃあ仕事の話だ」

「趣味の欄、植物観賞とか入れてみる?」

円香の脳裏に二人の笑顔が浮かびました。

「……保留で」

「了解」

円香は、その後足早にレッスン室へと向かいました。

しかし、その足取りは、これまでよりも少しだけ軽やかでした。

おしまい

拙い作文にお付き合いいただいた方、本当にありがとうございました
読んでくださった方の中にあるメンバーのイメージと遠くないと嬉しいです

妄想の種は、円香さんの朝コミュやSDのモーションからです
河原は、透さんのダンスレッスン(約束)をすっぽかすと河原に行くのでそこから妄想しました

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