ロード・エルメロイⅡ世「最初からそれがお望みだろう、レディ?」 (22)

「夜分に失礼。我が兄よ」
「……何の用だ」

魔術で気配と足音を消して義兄の執務室を訪れるのはもはや癖のようなもので、どれだけ迷惑がられてもやめるつもりはない。

「いや、なに。珍しい逸品を手に入れたので晩酌に付き合って貰おうと思ってね」

手に下げた酒瓶が見えるように持ち上げると、ようやく机上のレポートから視線を上げた義兄の目が見開かれた。

「それは、貴腐ワインか?」
「そうとも。我が兄も興味があると思ってね。その反応を見るに、どうやら私の推察は正しかったようだ。ようやく私も義妹として義兄の好みがわかるようになって嬉しいよ」
「別に好みというわけではないが……レディの誘いを断るのは礼儀に反する。今、グラスを用意する。そこにかけて待っていろ」
「ふふ。ああ、待つとも。酒瓶を持って消えたりしないからそう慌てることはないよ」

魔術講師として如何なる時にも沈着冷静たれと日頃から生徒に教えている彼は口調こそいつも通りではあるものの、グラスが仕舞ってある戸棚を開ける仕草は忙しなかった。

そんな義兄の慌てふためきぶりに満足しつつ、執務室に備えつけられたソファに腰を下ろして、私は自らの嗜虐心を満たした。

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「では、乾杯」
「有り難く、頂こう」

控え目に杯を掲げて、まずはひとくち。
豊潤な甘みが貴腐ワインの特徴である。
灰色カビ病にかかった葡萄が腐ることで、こうして糖分が凝縮し、香り高くなるのだ。
はちみつのようなとろける甘みが舌先の味蕾を通じて脳に幸福をもらたらしてくれる。

「ぷはーっ! マジで美味いな! これは!」
「こら、はしたないぞ」

おっと。ついはしゃいでしまった。
しかしながら、この場に敵はいない。
講師としては一流でも魔術師としては二流以下である義兄の前で取り繕う必要などない。

「ほら、我が兄よ。どんどん飲みたまえ」
「こういうものはもっと味わってだな……」
「いーから! 義妹の酒が飲めないのか!?」
「で、では、遠慮なく……」

注がれるがまま、義兄が飲み干す。
あまり酒に強くない我が兄はすぐ赤くなる。
それが面白くて、どんどん飲ませた。

すっかり酔っ払った義兄たる、ロード・エルメロイII世がくだを巻いて講義を始める。

「いいか、レディ。そも、魔術師とは……」
「根源を目指す者だろう?」
「たしかにそれが本質だ。しかしながら、それだけが存在理由ではない。でなければ根源に至るだけの才覚のない者、つまりボクみたいな落ちこぼれに存在理由はなくなる」
「では、我が兄は何を目指していると?」

酔っ払って義兄が面白くて戯言に付き合ってやると、彼は酒臭い息を吐きながら言った。

「それはつまり、ぷはぁー……覇道だ」
「ほほう? 覇道とは、大きく出たな」
「ああ、大きく出たとも。ボクは成るんだ! いずれあの征服王のような偉大な覇者に!」

まるで少年のように目を輝かせながら、覇道を語る義兄は愚かで、可愛らしかった。

「しかし、我が兄よ」
「む。なんだね、レディ」
「我が兄は些か欲が無さすぎる」

気持ち良さげに講義を続ける酔っ払いロード・エルメロイII世に付き合うのも義妹の役目かも知れないが、私はサディストである。
今度はこちらの番と言わんばかりに、義兄の至らないところを指摘してやる。

「話を聞くところによると、我が兄が極東の冬木の地にて召喚した征服王は強欲の塊のような男であったのだろう?」
「たしかに、あいつは欲望の塊だったな」
「それを目指すというのならば、義兄もそれ相応の欲を持つべきではないかな?」
「ふむ、一理ある。だが、それ相応の欲とはなんだ? 何を望めば奴のように成れる?」
「たとえば、時計塔の女を1人残らず抱く、とか。そんな野望は如何かな、ロード?」
「ぶほっ!?」

吹き出した義兄を見て私は歓喜する。
素晴らしい反応だ。これが見たかった。
苦虫を噛み潰したような義兄の顔を見ながら、貴腐ワインを嗜む。まさに至福である。

この瞬間のために、高価な酒を仕入れた。
少しばかり借金は嵩んだが、それを返済するのは私ではなく、この義兄の役目だ。

私は義妹らしくお兄様に甘えるのみである。

「またそのようなことを……」
「おや、我が兄よ。酔いが醒めてしまったのではないか? ほら、もっとぐっといけ」
「そうはいくか! これ以上酔わされて好きにされてたまるか! そろそろ帰りたまえ!!」

流石に警戒されてしまったようで、グラスに手で蓋をしつつ帰宅を促す義兄に私は。

「もう飲めないのか?」
「そ、そんなことは……」
「少ない小遣いを頑張ってやりくりして、我が兄のために用意した酒が飲めないのか?」
「うっ……な、泣くな、レディ」

目薬を涙に見せかけて一芝居打った。
すると我が兄は盛大に狼狽えてくれる。
これで征服王を目指すとは、笑わせる。

「もういい。今日のところはこれで……」
「待て! わかった! わかったよ!!」
「何がわかったのだ、我が兄よ」
「こうなったらとことん付き合ってやる!」
「うむ! それでこそ、征服王の臣下だ! 努、その在り方を損なうでないぞ!」
「おい! さっきの涙はどこにいった!?」

にっこり笑ってたっぷり杯に酒を注ぐと、義兄は激怒しつつもそれを飲み干してくれた。

「こうなったらヤケだ! じゃんじゃん持ってこい! いくらでも飲んでやる!!」
「よし、わかった。酒の貯蔵は充分だ」

ついに屈服した義兄にたらふく飲ませる。
先述した通り、ロード・エルメロイII世はあまり酒が強くないのですぐに酔い潰れた。

「くそっ! ボクはいつだってダメだ!!」
「我が兄はダメじゃないとも」
「しかし、レディ! ボクは臣下として王を勝たせてやることが出来なかったんだ!!」
「かの王が聖杯戦争に勝利していれば世界地図が大幅に書き換えられていたに違いない。それを世界が望まなかったのだ。仮にもロードであるならば、根源に至る道を阻む最大の障害については知っているだろう?」
「……抑止力か」

ついには泣き出してしまった義兄を慰めるのはひとえに私が義理とはいえ妹だからだ。
そして優しくされると、人は無防備になる。

「だから、征服王が敗北したのは我が兄のせいではない。かの王は世界に敗れたのだ」
「あいつは……イスカンダルはそんな弱い男じゃない。世界にだって負けやしない、そんな強い王だった。だからやっぱりあいつが負けたのはボクが未熟だからで……」
「我が兄よ、顔を上げたまえ」

項垂れた義兄は既にロード・エルメロイII世ではなく、聖杯戦争時の情けないウェイバー・ベルベットに戻っていて、そんな彼に諭す。

「君はたしかに未熟だったかも知れないが、君の王は自らの敗北を臣下のせいにするようなみっともない男だったのかい?」
「ちがっ……そんなつもりは……!」
「ならば、君が責任を感じる必要はない。君は君自身の戦いに勝つことを目指せばいい」
「ロード・エルメロイ……先生」

ロード・エルメロイII世ではなく幼いウェイバーくんを感服させるのはいとも簡単である。

「先生はやめてくれ。それは君だろう?」
「あ、ああ……すまない。つい、君にケイネス先生を重ねてしまって……」
「ウェイバー・ベルベットと先代エルメロイは不仲だったと聞いているが?」
「それでも私はたくさんのことを教わった。だから、恩師であることには変わりない」

先代エルメロイは聖杯戦争にて戦死した。
ウェイバー・ベルベットは先代が用意したイスカンダルの聖遺物を盗み、その召喚を妨害したことに今でも責任を感じている。

「後悔しているのかね?」
「いいや。後悔はしていない。それがどんな悲劇を生んだとしても、私はあの時の自分の暴走を否定したりはしない。あの時の私には……ボクには、そうやって周りに自分の力を示すこと以外考えられなかった」
「うん、そうだね。そうだろうとも」
「それがどんなに愚かだったとしても、私は……ボクだけはそんな自分を肯定したい」

それは開き直りではなく、懺悔であった。
誰にだって間違いはある。過ちがある。
それは私にも共感可能な感情だったから。

一雫の涙が、私の頬を伝い、流れ落ちた。

「レディ……どうして泣いている?」
「愛しい義兄を想って義妹が涙を流すのはそんなにおかしいことかね?」
「どうせまた嘘泣きだろう?」
「どうしてそう思いたいんだい?」
「もしそうでないのなら、愚かな私は優しい義妹を放っておけなくなるからだ」

我が兄は愚かで、お人好しだ。
だからこうして、優しく抱擁してくれる。
まったく。貴腐ワインよりも、よほど甘い。

「ふふふ。本当に甘いな、我が兄は」
「ふん。なんとでも言え」
「私はエルメロイの次期当主だぞ? これが罠であると、どうして気づけない?」
「やはりそうか。だが、たとえ罠であったとしても泣いている義妹を放ってはおけない」

罠と告げても義兄は抱擁を続ける。
もしも私が懐にナイフを忍ばせていれば、仮にもロードを名乗る義兄は容易く落命する。
無論、そんなつもりはさらさらないが。

「ふふ。つくづく愚かだな、我が兄よ」
「ああ、私はどうしようもない愚か者だ」
「気付いているか? 身動きが取れないことに。私の礼装に絡め取られていることに」
「ああ、気付いているとも」

私の礼装は水銀。
先代エルメロイの魔術礼装である月霊髄液に手を加え、普段はメイドの姿で付き従えているトリムマウを霧状に形態変化させて、ロード・エルメロイⅡ世を捕縛した。

「レディ。いや、 ライネス。聞かせてくれ。これはいったい、何のつもりなのかを」
「ようやく名前を呼んでくれて嬉しいよ。私の目的はシンプルだ。美味い酒を飲み、義妹に優しくされて気分が良くなった義兄の絶望する顔が見たかった。ただ、それだけさ」
「ふむ。で、具体的には?」

伊達に死地から生還してはいない。
ロード・エルメロイⅡは取り乱さない。
次のひとことを耳にするまでは。

「あれほどワインを飲んだのだ。そろそろ小用に行きたいのではないかね?」
「まさか、それが狙いか!?」
「フハッ!」

ついに明かした目的。
衝撃的なその事実に目を見開く義兄。
待ち望んだその反応に思わず愉悦が漏れた。

「いいねえその顔! その顔が見たかった!」
「レディ……君は、歪んでいる」
「フハハッ! そうとも! 私は歪んでいる! ああ、我が兄よ。私の愛しい愛しい、愚かなお兄様。お顔が青いですよ? 私はそのお顔が狂おしいほどに、見たかった……!!」

そう、全てはこの時のため。
種明かしをするこの瞬間のために。
正気を疑われることに、悦びを抱く。
そんな義妹に義兄は吐き捨てる。

「狂っている……!」
「最高の褒め言葉だね」

私はサディストであるが、マゾヒズムについて理解がないわけではない。
義兄に蔑まれることにすら快楽を覚える。

「我が兄よ……いや、お兄様、私を叱って」
「君はエルメロイの名をを継ぐ者だろう?」
「ああ、そうだとも。しかし今はひとりの女の子だ。義兄のお漏らしに興奮する、年相応な、ただの愚かなライネスに過ぎない」
「では、私はそんな愚かな義妹を持つ兄として、君にお仕置きせねばなるまい」

義兄のお仕置き。興奮する。罰して欲しい。

「お兄様。愚かなライネスに早く罰を……」
「本当ならば張り手のひとつでも振るい矯正するべきなのかも知れんが、それは私の性分ではない。君はそれを甘さと呼ぶだろうが、時と場合によってはそれが武器にもなる」

義兄は私を抱擁したまま離さない。
むしろより強く、抱きしめてきた。
すぐにその意図を察して驚愕する。

「我が兄よ、まさか……!」
「時にレディ。君もそろそろ花摘みに行きたいのではないかね? まあ、行かせないが」

動けない。礼装を解除しても、もう遅い。
目には目を。歯には歯を。尿意には尿意を。
それはなんとも、魔術師らしい対抗手段。
間近の義兄の顔にうっすらと愉悦が浮かぶ。

「くっ……ふふふ。参ったね。やられたよ」
「最初からそれがお望みだろう、レディ?」
「そこまでお見通しとは……我が兄ながら恐れ入る。ああ、そうとも。私がおしっこをしている姿を、愛しいお兄様に見て欲しい」

我が兄は普段は頭が固い癖に実戦となると柔軟に物事を考え、判断することが出来る。
そしてあらゆる難題を受け入れる大きな器も兼ね揃える、まさに理想のお兄様であった。

「まったく、君には本当に手を焼かされる」
「ふふふ。困った教え子のほうが愛着が湧くだろう? 我が兄の好みは熟知しているとも」
「私の胃を少しは労りたまえ、レディ」

労われと言われたので、義兄の腹を撫でた。

「ふむ? 少々張っているようだが?」
「気のせいだ」

義兄の筋肉質な腹筋に張りがある。
そのことを指摘するとウザがられた。
そんな風に邪険にされると嬉しくなる。

「ふふ。我が兄はかわいいなあ」
「君には負ける」
「ほほう? と、仰いますと?」

珍しく失言したロード・エルメロイⅡ世を追求すると、彼はおずおずと手を伸ばして。

「レディ。髪に触れても?」
「ああ、いいとも。遠慮するな」

まるで触れるのを恐れているかのようなロードの手を、私は自らの髪へと導いてやった。

「君の金髪は……美しい」
「っ……そうかね。まあ、よく言われる」

この金髪はエルメロイの象徴。
故に、誰もが私の髪を褒め称える。
しかしながら義兄にそのことを褒められたのは初めてであり、存外、嬉しすぎた。

「初めて会った頃より、随分伸びたな」
「我が兄はおかっぱ頭のほうが好みかね?」
「正直、めちゃくちゃ可愛かった」
「そ、そうか……じゃあ、切ろうかな」
「何故だ? 勿体ない。魔術師の髪は魔力を宿す優れた触媒だ。なるべく大切にしたまえ」
「むぅ……ふん。君に言われなくともそうするさ。いずれエルメロイの当主の座に着いた時に相応しいよう、私なりに努力している」

ロード・エルメロイⅡ世はあくまで繋ぎ。
成人した暁には、私がロードを名乗る。
その際に侮られぬよう、自分を磨いている。

「君はきっと、偉大なロードになるだろう」
「その根拠は?」
「君は先代のケイネス先生よりも、他者に共感出来る人間だ。私はそれが人の上に立つ君主に必要不可欠な資質であると考えている」

私の髪を撫でながら、義兄は在り方を諭す。

「王とは、孤高にあらず」
「イスカンダルの言葉かね?」
「ああ、あいつはそう言っていた」

征服王、イスカンダル。
その昔、ほぼ世界全てを侵略した覇王。
短い生涯の中で戦わぬ日はほとんどなく。
かの王は、誰よりも戦列に生きた。

「私が自らに課した役目は、君をあいつに匹敵するほどの君主に育てあげることだ」
「私を? 自分自身ではなく?」
「私は王の器ではない」

そんなことはないと思う。
ロード・エルメロイⅡ世は時計塔随一の教師であり、彼を慕う優秀な教え子が大勢居る。
組織化すれば勢力図を塗り替えるほどの派閥となるだろう。それなのに野望を持たない。

「つくづく征服王のマスターとは思えない発言だな、ウェイバー・ベルベットよ」
「奴の臣下だからこその発言だ。ボクは決して、その在り方を損なわないと決めている」

あくまでも自分は王の臣下。
そう、彼は自らを位置付けているらしい。
そんな風にはっきり言われると、嫉妬する。

「我が兄よ。君は義妹である私よりも、かの王に忠誠を捧げるのか?」
「ふっ」
「なっ!? 何故笑う!?」
「失礼。レディのヤキモチが珍しくてな」

あやすように頭を撫でらて立腹する。
この義兄はいつもそうやって子供扱いする。
魔術も二流な上に女の扱いまで二流なのだ。

「君とあいつを比べるつもりはない」
「比べるまでもないと?」
「ある意味、そう言うことだ」
「やはり、そうか……」

そこまで明言されると何も言えなくなる。
たしかに私は魔術師としては不出来だ。
いずれ地位や名誉は手に入れるかも知れないが、肝心の実力が追いつく自信はない。

そう考えて、意気消沈していると義兄が。

「わざわざあいつの悪いところを真似る必要はない。君は思いやりのある君主となれ」

暗がりで道筋を示されれば、誰だって縋る。

「ロード・エルメロイⅡ世」
「なんだね、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。私は君の問いに答える義務がある」
「私はそんな君主になれるだろうか」
「なれるとも。私がきっと君を成らせる」
「我が兄は、私のことを見捨てないか?」
「見捨てないとも。どれだけ不出来な教え子だろうが、学ぶ気概さえあれば見捨てない」

魔術師とは生涯を魔術に捧げる学徒である。
そして生きることはそのものが勉強なのだ。
つまり、私が生きる限り義兄は見捨てない。

「もしも私が堕落したらどうする?」
「この私が叩き直して矯正してくれる」
「それは恐いが、同時に愉しみだな」
「レディ。君は被虐心を封印したまえ」

嗜めつつも義兄は穏やかで、甘えたくなる。

「ロード・エルメロイⅡ世。いや、お兄様」
「今度は何かね、ライネス」
「どうか、私を導いて欲しい」

義兄の胸に縋り付きただのライネスとして。

「貴方こそ、私の師だ」

声が震える。胸が熱い。瞳が、赤く染まる。

「貴方に従う。貴方を敬う。だからどうか、私を貴方が夢見る偉大な君主にして欲しい」

すると、ロード・エルメロイⅡ世は気恥ずかしそうに目を逸らしつつ、ぽつりと呟く。

「参ったな。まるで、あの時のボクだな」

苦笑しながらも、義兄はしっかりと頷いた。

「ああ、約束する。君を偉大な君主に……」

ぎゅるるるるるるるるるるるるるるぅ~っ!

1番良いところでやはり義兄は間に合わない。

「我が兄よ、やはり……」
「それ以上は言わないでくれ」

大事な場面を台無しにした義兄の顔色は青ざめており、大量の冷や汗が眉間の皺を伝う。
その雫を指先で拭い、ひと舐めしてから。

「ふふふふ。どぉしたぁ? お兄様?」
「別に、どうもしないとも……!」
「それにしては、顔色が悪いようだが?」
「レディ、私の膝から退いてくれ」

おや。私としたことがはしたない。
気づけば義兄の膝に横座りしていた。
汗ばんだ首筋に手を回して、拒否する。

「断る。義兄の膝の上は義妹の領地なのだ」
「早くどけ! でないと、ボクは……!」
「おやおや、ロードともあろう者がこうも狼狽えるとは。修行が足りないのでは?」
「君にこの苦しみがわかってたまるか!?」
「わかるさ。わかるとも。苦悶の種類は違えど、私も催していることには違いない」

実際、もう膀胱がパンパンだ。
たぶん、押されたらピュッと出る。
ちょっと押してみて貰いたいくらいだ。

「なあ、お兄様」
「なんだ!?」
「この際だから、一緒に漏らさないか?」
「はあっ!?」

ああ、その顔。その絶望。愉悦が湧き出す。

「いいか、我が兄よ。冷静に聞いて欲しい」
「そんな余裕はないんだよ、こっちは!?」
「恐らく、我々はもう間に合わない。トイレは遥か彼方であり、手を伸ばすだけ無駄だ」

そう断じると、義兄は驚くべき行動に出た。

「いいから、黙って掴まっていろ!」
「わっ! お、お兄様? なにを……?」
「ボクは最後まで足掻いてみせる! トイレがどれだけ遠い彼方にあったとしても、だからこそ、手を伸ばすんだッ!!」

なんと、義兄は私を抱えて歩き出した。
鬼気迫る形相で、一歩一歩、前進する。
それは往生際の悪い、悪足掻きである。

しかしだからこそ義兄は価値があると言う。

「彼方にこそ、栄えあり!」

気づけば、部屋の扉まであと数歩の距離だ。

「届かぬからこそ、目指すのだッ!!」

下から見上げる義兄に征服王の面影を見る。
ドアノブに手をかけて、廊下へと進軍する。
そこから数メートル先にはトイレという名のオアシス、いやオケアノスがある。

最果ての海を目指す義兄は素敵だった。
思わず、同じ夢を追いたくなるほどに。
けれど、私の目的地はそこではない。故に。

「はむっ」
「んあっ!?」

廊下に出る前に義兄の耳を噛み、阻止した。

ぶりゅっ!

「ああっ!?」
「フハッ!」

これが所謂、抑止力というものだ。
故に義兄は漏らした。仕方ないのである。
わざわざオケアノスを目指す必要はない。
ここが、この地こそが、最果ての海である。

ぶりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅぅ~っ!

「あ、あああっ!? あああああっ!?!?」
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

ちょろろろろろろろろろろろろろろんっ!

糞を漏らす義兄と、尿を漏らす義妹。
これこそが、最果てに相応しい。
床へと盛大に滴る尿のシャワーが奏でる水音がこそがオケアノスの潮騒であり、義兄の糞の香りこそが、磯の香りであった。

「ふぅ。此度の遠征も心躍ったな我が兄よ」
「うう、こんなのあんまりだ……」
「泣くな、ウェイバー。余の臣下が泣きべそなどかくでない。ほれ、しゃんとせんか!」

情けない義兄をイスカンダルを真似て叱咤すると、彼は袖口でいそいそと涙を拭って。

「わかったよ、ライダー。もう泣かない」
「うむ! それでこそ征服王たる余の……」
「ライネス。調子に乗るな。この未熟者が」
「ひっ」

義兄は大層お怒りであった。不覚である。
二流とは言え、死地を潜り抜けた魔術師だ。
巷で囁かれる『グレート・ビッグ便・ロンドンスター』の異名は伊達ではない。

「よくもまあ、やってくれたものだな」
「み、見捨てないで……?」
「黙れ。師に糞をさせるとは何事だッ!?」
「ひえっ!?」
「性根から叩き直してやる!!」

マジで怖かった。でも見捨てられなかった。

「ささ、お兄様。お口直しにどうぞ一杯」
「まったく、調子の良い奴め」

お互いにお色直しをしてから気を取り直して貴腐ワインを飲み直す。やっぱり美味しい。

「うむ……やはり、実に良いワインだ」
「どうかね、機嫌は直ったかい?」
「ワインに免じて許してやらんでもない」

そんなこんなで上機嫌に戻った義兄がふと。

「ライネスの尿もきっと甘かっただろうな」
「えっ?」
「……何でもない」

今日の義兄は失言が多くて、嬉しくなる。

「ふふふ。我が兄よ」
「……なんだ?」
「もし良ければ、今度飲んでみるかね?」
「謹んで多い断りする! まったく、こんな妄言をもしグレイに聞かれでもしたら……」

丁度良い。ここでゲストに登場して貰おう。

「グレイ。師匠がお呼びだぞ」
「は?」

手を叩くと手筈通り本棚の影からフードを目深に被った灰色の少女が現れた。仕込みだ。

「グ、グレイ、何故そんなところに……?」
「ラ、ライネスさんに良いものを見せてやると言われて、その……ごめんなさいっ!」
「ヒャッハァーッ!! 最初から最後までかぶりつきで愉しませて貰ったぜェッ!! 良い趣味してんな、エルメロイ派は!!」
「アッド、黙って……!」

顔を真っ赤にして深々と頭を下げるグレイと、ここぞとばかりに騒ぎ立てるアッドを尻目に、私は悠々と退室させて貰う。

「では、私はこの辺りで失礼するよ」
「ちょっと待て! どうすんだこの状況!?」
「内弟子の貴腐ワインでも飲んでみてはどうかね? きっと、とろけるほどに甘美だろう」

そんな冗談を間に受けて、ごくりと喉を鳴らした師匠から、慌てて距離を取るグレイ。

「いや、そんなつもりはないからな!?」
「せ、拙は、拙は……師匠が望むなら……」

健気にも師の嗜好に順応しようとする内弟子はいじましくも可愛らしく弄り甲斐がある。

「ほほう!? 流石は征服王のマスター! 嫌がる内弟子の尿を無理にでも欲するとは!!」
「いい加減にしろぉーっ!!!!」

その後。
『グレート・ビッグ便・ロンドンスター』こと、ロード・エルメロイⅡ世と内弟子の関係がしばらくギクシャクしたことは言うまでもなく、そんな微笑ましい2人を眺めてつつ、義兄の熱烈な口説き文句を思い返しながら私は悦に浸った。


【グレート・ビッグ便・ロンドンスター先生の事件簿】


FIN

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