月の裏を見たことがあるか。
多くの人たちにとって、その質問自体が意味不明だと思うけれど、ある程度の趣旨はわかる。
月は自転と公転周期が同期しているーー要するに常に同じ面を地球に向けているので、地球上では肉眼で月の裏側を観測することが出来ないことから質問として成り立っている。
無論、科学や工業が進歩を遂げた現代ならば、探査機やら有人ロケットを打ち上げて月の裏側を観測することか容易なのは言うまでもない。
それらの手段を用いて撮影された画像は現代人ならばインターネットなどですぐに見つけられるのだけど、それを実際に肉眼で見た者は宇宙飛行士に限られ、極々少数であると言えよう。
興味がある者はそれを見てみたいという理由だけで宇宙飛行士を目指しても良いくらいロマン溢れる話ではあるけど、興味のない者にとってはネットで画像検索するだけで済む話である。
この物語はそんな理屈で私、羽川翼が観測したーーいや、希望的観測を基に綴ったーー阿良々木暦の裏側にまつわる物語なので、やはり興味のある者だけが読むべきものだと、そう思う。
「どうか、私の血を吸ってください」
あの日。高校2年の最悪で最低で最高の春休み。
吸血鬼となった阿良々木くんに自らの首筋を差し出したその瞬間から、物語は幕を開ける。
阿良々木暦の裏側。裏の顔。夜の王の、素顔。
私はそんな物語を望んで、彼の眷属となった。
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「うっ……」
「目が覚めたようだな、羽川」
その覚醒は摩訶不思議な初めての感覚だった。
阿良々木くんに血を吸われた私は、目覚めた。
それはただの目覚めではなく、生まれ変わり。
覚醒したその瞬間から、別の存在へと成った。
「阿良々木くん、私は……?」
「大丈夫。ちゃんと成功したみたいだ」
ほっと安堵の表情を浮かべる、男の子。
彼は私立直江津高校に所属する問題児ーーと、私が位置付けている同い年の男子生徒だ。
名前は阿良々木暦。大丈夫。忘れていない。
「そっか。じゃあ今日からは阿良々木くんのことはご主人様って呼ばないといけないね」
「羽川、頼むからそれだけは勘弁してくれ」
「どうして? 私は阿良々木くんの眷属になったんだよ? ちゃんと主人は敬わないと」
「いいから、今まで通りに接してくれよ」
頑なにご主人様と呼ばれることを拒否する阿良々木くんはどうも照れているらしく、顔が赤かった。そんな反応をされると満更でもない。
「阿良々木くんは私に傅かれるのは迷惑?」
「め、迷惑って言うか、困る」
「ほう? どうして困るの?」
彼のことだからきっと従僕となった私にえっちな命令をする妄想をしているのかと思ったら。
「だって俺たちは、その……友達、だろ?」
自信が無さそうにそんな確認をしてくる阿良々木くんを見て、私は友達として放っておけず。
「うん。友達だよ。私は阿良々木くんの友達」
「そうか……それなら、良かった」
そう言って太鼓判を押してあげると、阿良々木くんは嬉しそうに笑い、不覚にもときめいた。
「おや? おやおや?」
「ん? どうかしたか、羽川?」
「危ない、危ない。虜になるところだったよ」
「トリコ? ちょっと前まで週刊少年ジャンプに連載されてた美食家がどうかしたのか?」
「んーん。なんでもないよ」
私のご主人様はすごく鈍感で、困りものだ。
「目が覚めたようじゃな」
私と阿良々木くんがいちゃついていると、時代がかった口調の美しい声の持ち主が現れた。
その瞬間、形容し難い感覚に襲われ、跪いた。
「キスショット、上手くいったよ」
「うむ。残念ながら、な」
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。600年の時を生きる絶世の美女。
彼女は鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼。
阿良々木くんの主人であり、私にとっては。
「うぬは今日から儂の娘のようなものじゃ」
「娘……」
「なんじゃ、不満か?」
不満ではないが、浮かんだ疑問を口にした。
「いえ、この場合は孫かと……」
「儂を年寄り扱いするでない!」
「し、失礼いたしましたっ!?」
烈火の如く激怒されて、私は見た。目撃した。
神速の手刀で貫かれ、取り出された臓器を。
ドクドクと脈打つ、己の新鮮な、心臓を。
「キ、キスショット、何をするんだ!?」
「うぬは黙っておれ、従僕」
「んぐっ!?」
主人の命令は絶対。眷属の口は封じられた。
「あ、あがっ……ぐっ」
「かかっ。苦しいか?」
心臓を抜かれた私は無様にのたうち回る。
それでも吸血鬼は死なない。不死だから。
ただひたすら苦しく、呼吸もままならない。
「その苦しみは人間であった頃の名残じゃ。人間は心臓と呼吸が密接に結びついておるからの。儂のように何百年も吸血鬼をやっておればたとえ心臓を抜かれたとしても平然としていられるが、昨日今日で吸血鬼となったうぬにはさぞ息苦しいことじゃろうよ」
心臓の鼓動と呼吸はセットだ。
人間の身体はそのように作られている。
心臓が止まれば呼吸も止まる。それが常識。
ならば、その常識を塗り替えなければ。
「かひゅっ……すぅ……はぁ」
「んん? なんじゃ、もうコツを掴んだのか。揶揄い甲斐のない従僕の従僕じゃのう」
意識的に呼吸を整えた私を見て、さもつまらなそうに見下して、主人の主人は心臓を握る。
「あがっ!?」
「ハッ「ハハッ「ハハハッ「ハハハハッ「ハハハハハハッ」ハァーッハハハハハッ!!!!」
私の心臓に長い爪を食い込ませながら、鉄血にして熱血して冷血の吸血鬼は凄絶に哄笑した。
「そこまでだ、キスショット」
「ん?」
このまま心臓が握り潰されるのではないかと思われたその時、阿良々木くんが割って入った。
「ほう、大したものじゃ。自力で呪縛から逃れたか。流石は我が従僕じゃ。褒めて遣わすぞ」
「キスショット、羽川の心臓を返せ」
吸血鬼の主従関係は絶対。それが摂理だ。
私だってきっと阿良々木くんに逆らえない。
しかし、それを彼はやってのけた。
声が出ない喉を掻き毟り、首が血だらけだ。
今も口は閉じたまま。腹話術だろうか。
なんにせよ、彼の強い意志が感じられた。
「もう一度言うぞ、キスショット。羽川の……僕の従僕の心臓を返せ。羽川は、僕の従僕だ」
「従僕の従僕の心臓は主人たる儂のものじゃ」
「どこのジャイアンなんだよ、お前は」
そんなやり取りで緊張感が一瞬緩み、ハートアンダーブレードさんは私の心臓をポイっと投げ捨てた。
「わっ! 捨てるなよ! もっと丁重に扱え!」
「ふん。うぬも主人となったならばきちんと従僕を躾けろ。次はないと肝に銘じておけ」
地面に落ちる前に吸血鬼の身体能力で辛くも私の心臓をキャッチした阿良々木くんにそう告げて、ハートアンダーブレードさんは悠々と立ち去った。
「ほら、羽川。心臓を取り返してやったぜ」
「あり、がと……阿良々木、くん」
取り戻した心臓を掲げる阿良々木くんはなかなか凄惨な絵面ではあったが、それでも有難い。
「ところでコレ、どうすりゃいいんだ?」
「どう、するって……?」
「いや、元の位置に戻せば良いのかなって」
処置に困る彼に、思いついた手段を伝える。
「たぶん、食べればいいんだと思う」
「ああ、そっか」
ハートアンダーブレードさんが四肢を奪われた際、それを口にすることで復活したという彼の話からそう推測して、心臓を受け取った私は試してみた。
「あむっ」
「おお……なかなか、すごい絵面だな」
「もう、食事中に見ないでよ」
自らの心臓にかぶりつく姿を見られるのはなんだか恥ずかしかったので、そう嗜めると。
「おっと、そうだったな。んじゃあ、僕はキスショットの様子を見てくるよ。あいつも悪い奴じゃないんだけど……悪かったな、羽川」
「ううん。さっきのは私が悪いから。ハートアンダーブレードさんにも改めて謝っておいてくれる?」
「ああ、わかった」
頷いて退室しようとする彼に、頭を下げる。
「阿良々木くん、さっきはありがとう」
「気にすんな。友達なんだからさ」
「ううん。従僕として、嬉しかった」
『僕の従僕』。彼のその言葉が、嬉しかった。
「さあ、キスショット。羽川に謝るんだ」
「嫌じゃ! 儂は絶対に謝らんぞ!」
しばらくして阿良々木くんがハートアンダーブレードさんを引き連れて戻ってきた。何やら揉めている。
謝罪を強要する阿良々木くんとそれを頑なに拒むキスショットさんはまるで兄妹みたいだ。
とはいえ、あまり背が高いとは言えない阿良々木くんよりもハートアンダーブレードさんはずっと背が高く、そんな2人のやり取りは違和感しかない。
「あの、阿良々木くん」
「ちょっと待ってろ、羽川。今から僕がこの手癖の悪い吸血鬼を調教して更生させるから」
「嫌ったら嫌なのじゃ!」
「尻を出して歯ァ食いしばれキスショット!」
「ストップ! ストーップ、阿良々木くん!」
このままでは目の前で金髪美女のお尻ペンペンを見せつけられることになると察した私は、今にもお尻目掛けて振り下ろしそうな阿良々木くんの腕を掴んで、必死に宥めた。
「止めないでくれ、羽川! 僕は何がなんでもこの見目麗しい生尻をぶっ叩きたいんだ!!」
「そうじゃ止めてくれるな、従僕の従僕よ!」
「ハートアンダーブレードさんまで何言ってるんですか!? とにかく、早くお尻を仕舞ってください!!」
完全に悪ノリしている主人の主人にまた失礼な物言いをしてしまったが、今回は自らに非があると自覚しているようで、お咎めはなかった。
「まったくもう、阿良々木くんったら」
「わ、悪い。僕はどうも羽川のこととなると、ついつい見境がなくなってしまうんだ」
「私にはどう見てもただハートアンダーブレードさんのお尻を叩きたかっただけのように見えたけど?」
「おいおい、羽川。見損なうなよ。僕はお前の尻だっていつでも叩きたいと思ってるぜ?」
「見損なわせないで、私のご主人様」
軽蔑の眼差しで見境のない主人を黙らせてから、ふてくされている主人の主人に向き合う。
「あの、ハートアンダーブレードさん」
「ふん。儂はぜぇーったい、謝らんぞ」
「先程は大変失礼いたしました」
「お、おい、羽川……」
「いいの、阿良々木くん。私が悪いから」
すかさず口を挟もうとしてくる阿良々木くんを引き留め、頭を下げたまま私は許しを乞うた。
「どうか、お許しください」
「かかっ。よかろう、許してやる」
「はっ。寛大なお沙汰、痛み入ります」
「よいよい。面をあげよ」
「はっ。失礼します」
ゆっくりと頭を上げると、金眼と目が合った。
「従僕の従僕よ。うぬの望みを今一度、儂に聞かせてくれんかの。認識を共有したい」
「私は吸血鬼になりたいと望みました」
「それは何故じゃ?」
「人間よりも上位の存在に成るためです」
人間よりも上位の存在である吸血鬼に成った。
「それは結果であって理由ではない。理由を述べよ。吸血鬼になりたいと望んだそのわけを」
「はっ。私のような弱者を救済するためです」
「かかっ。吸血鬼が弱き者に救いの手を述べようとは……頭がおかしいとしか思えんな」
弱者の救済。
我ながら抽象的な表現だとは思う。
しかし、それが私の望みだった。
「吸血鬼の能力があれば、可能かと」
「具体的にはどうするつもりじゃ?」
「私のように、夜、家に帰りたくない少年少女達を保護したいと思っております」
「保護じゃと? 眷属にでもする気か?」
「本人がそう望むならば」
「たわけものめ」
叱責されても、私は怯まずに続ける。
「この世界の闇は深い。数百年の長きに渡って放浪したあなたならば、よくわかる筈です」
「然り。その闇こそが我らが生きる場所」
「そこに王国を築きたいと考えております」
「吸血鬼の王国か。随分と大層な野望じゃのう。うぬはその国の女王になりたいのか?」
「いえ、私は我が主人こそが王に相応しいと確信しております。その手助けがしたいのです」
吸血鬼の王国を創り阿良々木くんを王にする。
「儂の従僕を王に? 正気か?」
「はい。誰よりも相応しい逸材かと」
「ハッ「ハハッ「ハハハッ「ハハハハッ「ハハハハハハッ」ハァーッハハハハハッ!!!!」
主人の主人は上機嫌に高笑いを響かせて、迸る絶対的な強者の波動に当てられた私は、崩れ落ちるように跪いた。すごく、すごく怖かった。
「この甘ったれた従僕が逸材とはな」
「甘ったれで悪かったな」
ひとしきり嘲笑われて、所在なさげに立ち竦む阿良々木くんの黒髪をハートアンダーブレードさんはわしゃわしゃとかき回してから、私に尋ねた。
「この男が王の器たる根拠を述べよ」
「彼は優しいです」
「ああ。甘ったれじゃからな」
「彼は人類の敵に対しても、甘い」
「ああ。何せこの儂に首を差し出しおった」
「だからこそ、夜の王に相応しい」
この世界は、厳しい。とても、とても厳しい。
光に当たる世界が厳しいのならば、闇に満ちた世界だけは甘くあって欲しいと、私は思う。
「阿良々木くんならきっと、誰よりも優しくて甘い、人類の敵になれると信じています」
人類の敵。すなわち、悪。
悪党の親玉。巨悪の根源。
そして優しい、悪の温床。
私たちの温かい寝床に、彼はきっと成れる。
「しかし、此奴が悪党に成れるとは思わん」
「はい。それについては私も同感です」
「ではどうする? 洗脳でも施すか?」
ハートアンダーブレードさんほどの吸血鬼ならばそれも可能なのだろうけど、主人の主人の力はなるべく借りずに、従僕の私は主人を王にしたかった。
「私が代わりに手を汚す所存です」
「ほう? うぬが?」
「私が阿良々木くんの影となります」
深い深い闇の中で、彼の影に潜む。
そうして世界を掌握して、支配する。
どんな手を使っても。何度手を汚しても。
私は阿良々木くんを、王にする。
「見上げた忠誠心じゃな。大儀と言えよう」
「勿体なきお言葉」
「そうして、我が従僕は綺麗な手のまま、優しい王様となるわけか。実にくだらん戯言じゃ」
戯言と酷評しつつも、主人の主人は上機嫌だ。
「地味で大人しい非常食じゃとばかり思っておったが、うぬは儂がこれまで見てきた人間の中でもとびきり拗らせておるようじゃの」
「私は、幼い頃から虐待を受けて育ちました」
「つまり、拗らせたのは両親のせいじゃと?」
「いえ、その暮らしの中で、気付いたのです」
「何に気付いた?」
「この綺麗で汚い世界を変革する必要性に」
辛い虐待生活の中で、私は世界を変えようと決意した。それは、私が見つけ出した答えだ。
「うぬが虐待されて育たなければ、そんな拗らせた極論には至らぬと思うが、違うかの?」
「恐らく幸せな家庭に育っていたとしても、いずれ現実を知り、行動に移していたでしょう」
「自らが聡いことを自慢しておるのか?」
「いいえ。私は愚かなので、自分が知っている解決策しか思いつかなかっただけです」
何でもは知らない。
知っていることだけ。
世界の変え方を、他には知らない。
「真っ当にNGO団体にでも入って恵まれない子供を救ってやろうとは思わんかったのか?」
「それよりも人外の吸血鬼となって行動した方がより早く、効率的だと判断しました」
「ま、そうじゃろうな。ところで、従僕の従僕よ……そろそろ、腹は減ってはおらんかの?」
そこで追求を一旦やめて、不意にハートアンダーブレードさんは核心に触れた。心臓が飛び跳ねた。
「いえ、今のところは……」
「そうか。儂は小腹が空いてきた。聡いうぬには、この意味がわかっておるじゃろう?」
「はい……承知、しております」
この先はまだ、主人である阿良々木くんとも話し合っていない、棚上げした問題だ。
彼は黙って、私達のやり取りを聞いている。
彼が私の望み通り、夜の王になってくれるかどうかは、この問答次第だと言える。
この問題さえなんとかすれば王道は拓ける。
「儂と同じく、従僕にも食事が必要だ。無論、断食しても死なんがいずれは正気を失う。さあ、どうするつかもりかの? 従僕の従僕よ」
楽しげに問いかける吸血鬼。悪意が伝わる。
「私が食料を見繕います」
「ほう? どのようにして選別する?」
「人類の敵を私が見つけ……主人に捧げます」
覚悟を以って宣言すると、これまで沈黙を保っていた主人が重々しく牙の生えた口を開いた。
「僕の眼には、お前こそが人類の敵に見える」
その瞬間、私は怯え、竦みあがり、歓喜した。
「あはっ。阿良々木くん、怒った?」
「怒りというよりも、失望に近いな」
主人から失望される。それは悲しくも光栄だ。
「私はこれから沢山沢山、手を汚すよ。どれだけ阿良々木くんに失望されても、軽蔑されてもへっちゃら。私が堕ちれば堕ちるほど、闇に染まれば染まるほどに、私の主人の威光は増す」
「羽川……僕はそんなお前を見たくない」
「私は見て欲しい。汚れていく自分を阿良々木くんに見て欲しい。いえ。見せつけてあげる」
「っ……羽川っ!」
主人の拒絶が伝わる。立ってられず屈服する。
「お前を眷属にしたのは……間違いだった」
「間違い、なんかじゃないよ……」
額を地面に擦りつけながら、涙を流して笑う。
「阿良々木くんは優しいから……その優しさは正しくはないけど美しいから……だから私があなたを、我が主人を、王にする。してみせるっ!」
顔を上げ、主人の憐みの眼差しを真っ直ぐ見返して、私は微笑む。彼は目を逸らさなかった。
「なあ、羽川」
わざわざ下僕に目線を合わせるように跪き、優しい優しい私のご主人さまは甘い言葉を紡ぐ。
「僕は別に王になんかなれなくたって、お前と一緒に穏やかに死んでいければそれで良かったんだ。そのために、お前を眷属にしたんだよ」
知ってる。私に血を吸わせ私の血を吸う。
それはきっと甘く美しい、至高の安楽死。
主人の望みは従僕の望み。添い遂げたい。
「でも、阿良々木くんは優しいから……」
考えるまでもない。その時、彼がどうするか。
「最期の一滴まで飲み干せないでしょう?」
そう言った瞬間の彼の苦い顔が、私は愛しい。
「あなたが居ない世界なんて私はいらない」
彼が死に、私が生き残る。そんな世界ならば。
「そんな残酷な世界は存続する意味がない」
「かかっ。初めてうぬと意見が合ったのう」
ハートアンダーブレードさんの同意を得て確信を深める。
「結局はどっちが早いかだよ。阿良々木くんが正気を失って、自ら命を絶って世界が滅ぶのか、それとも滅し尽くした後に一緒に死ぬか」
極論を持ち出すと、彼は呆れたように笑った。
「究極の2択だな」
「無理強いはしないよ」
「じゃあ、第3の選択肢として、正気を保ったまま悠久の時を過ごすってのはどうだ? 僕たち3人、それぞれ死ぬ寸前まで血を吸い合って、誰にも迷惑をかけずひっそりと生き続けるんだ」
「それが……我が主人のお望みとあらば」
「決まりだな」
阿良々木くんなら、きっとそう言うと思った。
「かかっ。とんだ茶番じゃな」
「せっかく完全体になれたハートアンダーブレードさんには申し訳ないですけど……よろしいですか?」
「是非もないわ。所詮は余生。良きに計らえ」
「ははっ」
こうして私たちは、"計画通り"、互いに血を吸い合って、人間もどきの吸血鬼として暮らす。
食料は必要ない。互いに互いがご馳走だ。
3人で完結する関係性。私たちの王国だ。
「しかし小国に甘んじるうぬではなかろう?」
「もちろん。すぐに国民を増やしてみせます」
人間は弱い。優しい主人は手を差し伸べる。
私はそんな彼の影として、ハートアンダーブレードさんはそんな彼の剣となり盾となり、建国するのだ。
満月を背に、我が主人は私に尋ねる。
「羽川、僕は間違っているか?」
「違うよ、阿良々木くん。間違っているのは、この世界のほうだよ。世直しをしなくちゃ」
「それはもはやテロリストじゃないのか?」
「そうとも言うね。むしろ望むところだよ」
「僕はお前を優等生だと思ってたんだけどな」
「たとえばたったひとりの優等生以外、みんな不良のクラスがあったとしたら、その優等生こそがもっともクラスの和を乱していることになるでしょう? それと似たようなものだよ」
「かかっ。我が従僕よ。従僕の従僕の言うことは一理ある。うぬの負けじゃ。観念せい」
「ああ、もう! わかったよ! 羽川、僕は」
月が裏返る。真っ暗で常に日陰の王国の誕生。
「お前のーー我が従僕の望み通り……王になる」
我が主人はこうして偉大な一歩を踏み出した。
「はっはー! どうやら丸く収まったみたいだね、阿良々木くん。これで晴れて君は人類の敵……つまりこの僕と敵対する道を歩むわけだ」
いつからそこに居たのだろう。忽然と現れた。
振り返るとあの春休みに知り合ったアロハシャツの中年男性が居て、主人の行く手を塞いだ。
「忍野……忍野、メメ」
「おやおや、これはこれは。僕みたいな下賤な一般庶民の名前を覚えてくれているとは光栄だね。てっきり君は僕のことなんてすっかり忘れて、襲いかかってくるんじゃないかとヒヤヒヤしていたよ。今日は随分、機嫌が良いんだね」
「お前を襲ったりするかよ。お前は羽川をどう扱うべきか困った僕にアドバイスをくれただろう? その助言のおかげで今の僕たちは在る」
「助言なんてしてないよ。言葉のひとつで助かる事象はこの世に存在しない。君たちが助かったと感じるのは自由だけど、そう甘くはない」
どうやら忍野さんは従僕となった私と阿良々木くんの間に立って、口添えをしてくれた様子。
今思えばたしかに、3人で完結する関係性は妙案で、キスショットさんならともかく私と同じく吸血鬼に成りたての阿良々木が考えたにしては出来すぎた話だった。全て忍野さんの図らい。
「忠告痛み入るよ。ところで忍野。お前は何をしに来たんだ? そこを退いてくれないか?」
「なんだい、阿良々木くん。せっかくこうして顔を合わせたのにさっさと退いてくれなんて、随分なご挨拶じゃないか。もう王様気取りとは恐れ入るよ。やっぱり機嫌が良いみたいだね。もしかして何か良いことでもあったのかい?」
困惑する主人に代わって、私が質問に答える。
「あの、忍野さん……」
「気安く話しかけるなよ、人類の敵が」
ゾッとした。豹変した忍野メメ。彼は、敵だ。
「おい、忍野。そんな言い方はないだろう」
「いや、あるね。僕はこの元・委員長ちゃんのような『害悪』は、もともと大嫌いなんだよ」
「害悪って……羽川をそんな風に言うなよ!」
「はっはー! 怒るのは筋違いだぜ? 君だって持て余していたじゃないか、この害悪をさ。この子はきっと吸血鬼になって悪に染まらずとも人間のまま持ち前の正しさを振りかざし、最低限の必要悪すら認めず調和を崩して、結果的に世界に仇なす敵になっていたと、僕はそう確信しているよ」
「黙れよ、忍野っ!」
「よせっ、従僕っ!」
ハートアンダーブレードさんの静止虚しく、吸血鬼の身体能力で飛びかかる阿良々木くん。
忍野さんは奇妙な足運びでそれを躱して、すれ違い様に私の主人の心臓を、『抜いた』。
「たしかに、頂いたよ、阿良々木くん」
「忍野……最初からこれが目的で……?」
「これは保険さ。いや、担保と言うべきか。僕はね、阿良々木くん。首輪も付けずに放し飼いするほど、君たち吸血鬼に甘くはないんだよ」
抜かれても尚、脈打つ心臓。
その美しさに思わず見惚れて。
真っ赤に染まった視界で、怒りに気づく。
「私の主人の心臓を……返してっ!」
「馬鹿が。返すわけないだろう。その薄汚い手を僕に向けないでくれるかな、害悪ちゃん」
「ッ!?」
ただの手刀で袈裟斬りにされる。死を、視た。
「がふっ……は、羽川ぁ!?」
「チッ……手間のかかる従僕の従僕じゃ!」
血を吐き出しながら悲鳴をあげる主人と、倒れ伏した私にハートアンダーブレードさんが自分の血をふりかけるのは、ほぼ同時。その間に忍野さんは。
「じゃあね、阿良々木くん。これに懲りたら世直しなんて馬鹿げた寝言はちゃんと棺桶の中でぼざきなよ? この心臓は僕が預かっておく」
そうして忍野さんは去り、手負いの私と血を流したハートアンダーブレードさん、そして心臓を抜かれて王としての力を失った阿良々木くんが残った。
「ぐっ……くそっ……忍野のやつ……!」
「ああ、従僕……我が従僕よ。大丈夫じゃ。心臓を抜かれたくらいで吸血鬼は死なん。儂とて、そうじゃ。ああ、ようやく気づいた。どうやら儂も、あの小僧に心臓を抜かれとったらしい」
喘ぐ阿良々木くんを膝に乗せ、ハートアンダーブレードさんは悔しそうに備忘を歪ませて自らの不覚を告げた。彼女もまた、心臓を抜かれていたのだ。
「ハートアンダーブレードさんまで……」
「今の今まで気づかんかったが、従僕と苦しみを共有して思い出した。心臓を失う切なさを」
長く吸血鬼をやってきたハートアンダーブレードさんはきっと、生の実感が薄くなっているのだろう。
従僕である阿良々木くんを通してその苦しみが伝わり、思い出したらしい。何はともあれ。
「私が必ず、2人の心臓を取り戻すから」
「よ、よせ、羽川……!」
「このたわけ者が! 彼我の力量差がまだ身に染みておらんのか? あの小僧は臨戦態勢の従僕の心臓を真正面から抜いて見せ、返す刀でうぬを切り捨て、そしてどのような手品を使ったのかは知らんが、この儂に悟らせることなく心臓を盗んだ正真正銘の化け物じゃぞ? 成りたての吸血鬼に敵う相手ではないわ!」
そんなことは言われなくてもわかっている。
これは気持ちの問題だ。私の決意である。
今すぐには不可能だとしても、いつか、必ず。
「教えてください」
「む? なんじゃ、いきなり」
「私に吸血鬼の戦い方を教えてください!」
師事を乞うと、ハートアンダーブレードさんは冷たい金眼で私を見下ろして、現実を突きつけてきた。
「付け焼き刃であの小僧に挑み、無残にも敗れ、うぬが消滅すれば、それこそあの小僧の思う壺で、儂はこの先未来永劫、従僕から恨まれることになるじゃろう。それが奴の狙いじゃ」
「だったら負けない方法を伝授してください」
「戦に必勝法などは存在せん。いつの世もな」
大切な従僕との絆をむざむざ立ち切らせてなるものかと言わんばかりに、ハートアンダーブレードさんは阿良々木くんを大きな胸に掻き抱き、リスクを負うことを拒否した。私は信用されていない。
「復讐や仇討ちなどくだらん。そんなことよりも、うぬは自分の主人のために今するべきことがあるじゃろう。害悪ではないと証明せんか」
害悪ではない証明。自分の必要性を明示する。
「よいか、従僕の従僕よ。うぬは儂らの中で唯一血を送り出す心臓を持っておる。仮にも吸血鬼ならその意味くらい理解出来るじゃろう?」
「はい……わかりました」
私に出来ることは限られてる。食事の提供だ。
「阿良々木くん……私の血を吸って?」
「っ……でも、羽川だってさっきあんなに血を流していたじゃないか……僕のことはいいから」
「阿良々木くんは私の主人だから。飲んで?」
優しい主人に血を飲ませるのは、ひと苦労だ。
「僕は……平気だ。羽川の血をもう見たくない」
その言い方は傷つく。私の血が不味いみたい。
「じゃあ、血じゃないならいい?」
「えっ?」
「私のおしっこだったら、飲んでくれる?」
尿とは、血液を腎臓がろ過した際に作られる。
つまり、原料は血液である。血はおしっこだ。
だから、阿良々木くんにおしっこを飲ませる。
「ハッ「ハハッ「ハハハッ「ハハハハッ「ハハハハハハッ」ハァーッハハハハハッ!!!!」
私のはしたない申し出をハートアンダーブレードさんが嘲嗤う。うう。恥ずかしくてもう涙が出てきた。
「羽川、本気なのか……?」
「の、飲まないならいいの! 変なこと言ってごめんね? さすがに飲尿は無理だよね」
我に返って失言を詫びると、彼は首を振って。
「いいや。お前の気持ち、すげー嬉しいよ」
「へ?」
「なあ、キスショット。吸血鬼の先輩であるお前に、ひとつ聞きたいことがある」
「はあーお腹痛い。なんじゃ、我が従僕よ?」
「おしっこは吸血鬼の栄養になるのか?」
「さてな。いくら儂とてこの600年間、そんなことは試そうとすらせんかったからわからん。というかそもそも排泄は長いことしとらん。あれもまた、人間だった頃の名残りじゃからな。出そうと思えば吸血鬼の具現化能力で出せんこともないじゃろうが、出す必要に迫られることなどそうそうある筈もない」
飲尿はハートアンダーブレードさんも未知の領域らしい。
「なら、試してみる価値はあるか」
「従僕よ、正気か?」
「少なくとも、さっき目の前で散った羽川の血を飲むよりはいい。だから頼む、羽川」
「わかりました……主人のお望みとあらば」
なんだろうこれ。話の流れがおかしい。
阿良々木くんはどうしてこうも乗り気なの。
もしかすると、これが彼の裏の顔なのかも。
「どうする? コップに注げばいける?」
「いや、ここは直飲みでーー」
「これ、我が従僕よ。マナー違反じゃぞ」
グルメな吸血鬼の食事のマナーは厳しいのだ。
「じゃあ、間を取って下着越しで……」
「どこが間じゃ! どう考えても限りなく従僕の望み通りじゃろうが! 吸血鬼の面汚し!」
「まあまあ、ハートアンダーブレードさん。阿良々木くんは今、朦朧としてますから仕方ないですよ」
「うぬは黙っておれ! やむを得ん。こうなったら儂が主人として先に従僕に施しを……」
「いいえ。阿良々木におしっこを与えるのは彼の従僕である私の仕事です。お任せください」
「2人とも、僕は順番にどっちも飲むから」
ああ、どうしてこんなことに。理解に苦しむ。
いくら心臓を抜かれて意識が朦朧としているからと言って、こんな妄言をぬかす変態がご主人だなんて。夜の王が聞いて呆れちゃうなあ。
「とにかく、私が先です! いいですね?」
「チッ……心臓がないのに血を流し過ぎた。仕方ないから今回はうぬに役目を譲ってやろう」
「ははっ。有難き、幸せ」
「羽川、早くぅ~」
ハートアンダーブレードさんと話を付けた私は膝立ちのまま主人のもとへと向かう。ああ、嫌だ嫌だ。やだなぁ。なんで私がこんなことを。
阿良々木くんの顔を跨いで、私立直江津高校の制服のスカートの中に、彼の顔面を入れた。
「このまますれば飲める?」
「もっと擦り付けてくれなきゃ飲めないよ」
「もう……しょうがにゃいにぁ」
どうやら本当にこれが彼の裏の顔らしい。
意外でもなんでもない、阿良々木くんの素顔。
そんなどうしようもない変態である主人の顔面に、私は自らの股間を擦り付け、身悶えする。
「あ、阿良々木くん……どこ甘噛みしてるのっ」
「こうしたら出やすいかと思って。はむっ」
「出るものも出なくなるから、やめてっ!」
まったく。まったくまったくもう。困るなあ。
「こっちはいつでもいいぜ、羽川」
「わ、私にはまだ、心の準備が……」
「このたわけもの! 見ているこっちがイライラするじゃろうが! ほれ、さっさとせい!」
「うひゃあっ!?」
揉まれた。ハートアンダーブレードさんに背後から胸を。
ちょろりんっ!
「フハッ!」
瞬間、夜の王ならぬ、『尿の王』が吠えた。
主人の愉悦に、従僕たる私は奮え、歓喜する。
敗北した夜に相応しい、惨めな宴の始まりだ。
ちょろろろろろろろろろろろろろろろろんっ!
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
止まらない。止められない。最期の一滴まで。
「フハッ!「フハハッ「フハハハッ「フハハハハッ「フハァーッハハハハハハハッ!!!!」
ハートアンダーブレードさんの凄惨な哄笑が重なり、私はこれでようやく、彼女に彼の従僕として認めて貰えたような、そんな悦びを抱いた。嬉しい。
「はあ……はあ……全部、出たよ?」
「おかわり」
「あっ!? す、吸わないでっ!? んっ……だめだよ、阿良々木くん……もう出ないからぁっ」
「やめんか、この変態飲尿鬼!」
「ぐぎゃっ!?」
調子に乗った阿良々木くんの脇腹を、ハートアンダーブレードさんが鋭利な靴先で蹴飛ばし、ようやく彼は私の股間から口を離した。少しだけ寂しい。
「やれやれ。持ち直したようじゃな」
「はい。阿良々木くんが元気になってくれて、良かった。これで忍野さんに反撃できますね」
「どうしても、あの小僧を倒すつもりか?」
「忍野さんを倒さないと、彼は王になれない」
目的は変わらない。私は彼を、夜の王にする。
「そのためなら、私は何だってします」
「自らの尿を飲ませることも厭わんか」
厭わない。だって私は阿良々木くんのことが。
「いつの世も、女が戦う理由はひとつ、か」
「ハートアンダーブレードさんも?」
「さてな。いずれ、儂とも戦ってみるか?」
「今はひとまず、共闘を」
「かかっ……是非もない」
さあ、下着を取り替えたら、戦いを始めよう。
【裏物語】
FIN
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