宮本フレデリカは如何にしてこの世を去ったのか (61)

「にゃあお」

黒猫が鳴いている。
悲しげな鳴き声が一つ、また一つふわりと飛んで消えていく。

「にゃあお」

猫は鳴くのを止めない。
体の中に溜まっていき、抑えきれなくなったものを垂れ流すように。

「にゃあお」

壁にもたれかかる女性にしきりに頭をこすりつけ、
猫はただひたすらに鳴き続けた。
痛々しい血の赤に覆われながらも、彼女はどこか満足そうに微笑んでいた。
終わりを知らせる夕焼けが女性の髪を金色に照らす。
彼女の名前は「宮本フレデリカ」だった。

うだるような真夏の日光が容赦なく辺りに降り注ぐ。
黒猫は日陰ででろんと寝ころび暑さに耐えていたが、
不意に耳をピクリと立て、歩いてくる女性に跳びかかった。

「にゃはは、グッドモーニン♪」

女性は慌てる素振りもなく抱きかかえ、
「暑いねー今日も」と話しかけながらそのまま歩を進める。
猫は胸にもたれかかり、眠そうに青い目を細めた。


彼女は猫を抱きかかえたまま、『ペットとの入店大歓迎!』との立て看板が置いてある喫茶店に入った。
コロコロと鈴が鳴り、ウェイトレスらしき金髪の女性が振り返る。
彼女の胸には「宮本フレデリカ」と書かれた名札が付いていた。

「あ、シキちゃんいらっしゃーい♪キシちゃんもいらっしゃーい♪」

「やっほーフレちゃん♪」

フレデリカは志希に駆け寄り、猫と、なぜか志希の頭を優しく撫でた。
気持ちよさそうな顔が二つ並ぶのを楽しそうに見つめた彼女は、
一人と一匹をテーブル席へ案内した。

冷房の効いた店内は快適そのもので、ソファに座った猫は軽く伸びをすると
早々に丸くなり寝る体勢に入る。
志希は猫の背中を撫で、メニューを手に取ると少し遠くにいる例のウェイトレスを見つめた。


「お待たせいたしました、お嬢様~♪」

「ありがと~。んん~いい匂~い♪」

フレデリカは志希の席にパンケーキとオレンジジュースを運ぶと、そのまま志希の向かいに座った。
平日の昼間で客も少なく、店長が寛容ということもありフレデリカはよくこんな風に志希と談笑する。
志希はフレデリカと目線を合わせたまま、慣れた手つきでパンケーキにナイフを入れる。
丸いパンケーキを十字にカットし、その一切れをさらに小さく切り分けて猫の顔を模した小皿に移す。
やがて猫はパンケーキの香りで目を覚まし、テーブルに跳び乗る。
志希の差し出した小皿を見てスンスンと匂いを嗅ぐと、おもむろに齧りついた。
フレデリカはまるで我が子を見るかのようにその様子を見つめていた。

その黒猫、キシは志希の飼い猫というわけではない。
志希がきまぐれに野良のキシを連れ歩き、さらにキシもそれに乗っているだけである。
更に言うと志希とフレデリカに特別な交流はない。
志希はフレデリカがアルバイトしている店の一常連に過ぎない。
しかし志希はほぼフレデリカ目当てで店に通い、
フレデリカも志希とキシが来るのをバイト中随一の楽しみにしていた。

「へーっ、じゃあ何で辞めちゃったの?」

「んーっとね~、……なんとなく♪」

「なんとなくか~…じゃあ、仕方ないね」

宮本フレデリカはアイドルであった。
所属していたのは小さな事務所だったものの、そこそこ人気はあったらしい。
煌めくような金髪に、ハーフ故の整った顔立ちをした彼女は道を歩けば男女を問わず振り向かせ、
口を開けばその美しい容姿にそぐわない奇妙奇天烈な言葉をぽんぽん飛ばし場を和ませる。
アルバイト中のテキパキとした動きからして要領も悪くないのだろう。
何より人を喜ばせることが大好きな彼女に、
主に人を喜ばせる事を生業とするアイドルは天職だったろう。
志希は珍しく驚いた顔をしたが、すぐに普段通り口元を緩ませた。

「ふぅ~ん、そっかそっか」

志希はそう呟くと、ちゅーっとストローでジュースを吸い上げる。
フレデリカは愛おしそうにそんな志希を眺めて口を開いた。

「それとねー、フレちゃんこれから旅にでるんだー」

「へえ、何処行くの?」

「ふっふーん、あてのない一人旅!」

アチョーと下手な中国拳法ような構えをする。

「フレちゃんは山籠もりをして誰も手の届かない存在となるのだ!」

志希は目を少し大きく開くと、にゃははと笑いながら尋ねた。

「すっごーい!その一人旅、あたしもついて行っていい?」

同じくフレデリカも笑いながら答える。

「一人旅に二人…二人旅!?効果2倍じゃーん!もちろんいいよー!」

「ほんと?ありがとー!じゃあこの一ノ瀬改め二ノ瀬に何なりとお申し付けくださいませ~♪」

「頼もし~♪よろしくね、シキちゃん♪」

思いつきだけで言っているような二人の会話を猫は冷めた目で見つめ、
大きなあくびをすると再び目を閉じた。

その不可解な事件はメディアに取り上げられた。
怨恨からの殺人事件と考えたマスコミは、彼女の短期大学で取材をした。
彼女はとても人気のある女性だったという。
美しい金髪に整った目鼻立ちという外見はもちろん、
人の心に潜り込むようなフレンドリーな性格で男女問わず好かれ、嫉妬の対象にすらならなかった。
彼女の知人は皆目を潤ませながら、なぜ彼女が死ななければならなかったのかと
激しい怒り、そして悲しみの感情を噛みしめていた。
しかし親しい友人が多くいるにも関わらず、彼女の家庭環境を知る者は誰一人いなかった。

彼女の両親は事故により死亡していた。

「はぁっ……ふっ……」

薄暗い部屋で女性が喘ぐ。悪夢にうなされているようだ。
酸素を求め金魚のように口を動かし、額には脂汗が滲んでいる。

「はっ……!」

一際大きく声を出すと、彼女は大きく目を開いた。
呼吸を乱らせたまま周囲を見渡す。見慣れた光景。いつもの自室。
深呼吸をし、冷静さを取り戻していく。
安堵か、それとも諦観か、いずれともつかない溜息をつくと
彼女はゆっくりと体を起こす。
鳥の鳴き声が聞こえ、カーテンの隙間から弱弱しい光が差し込んでいた。

「朝……」

待ち合わせ場所は喫茶店最寄りの駅前。
約束の時間から数分遅れ、志希は到着した。

「おはよー、待ったー?」

彼女は大きなリュックサックを背負っている。
くるぶしまで届くジーンズに飾り気のないTシャツと、これからの旅に備えていた。

「んーん、今来たとこー♪」

反面、フレデリカは靴こそスニーカーだが、薄いピンクのワンピースに革のポシェットと
前日自分で言った「山」という単語を微塵も感じさせない格好だった。

和気藹々と話しながら二人は切符を買って電車に乗った。
平日の朝とはいえ、ラッシュを過ぎた絶妙な時間で二人は難なく席に座ることができた。
志希はリュックを抱え、隣に座るフレデリカを横目で見つめる。
彼女は窓の外で流れる景色を眺めていた。

「眠れなかったの?」

フレデリカの横顔が小さく跳ねた。

「え?うん、そうそう、今日が楽しみで~♪分かっちゃった?」

フレデリカは少し困った笑顔を見せて尋ねた。

「キュートなフレちゃんがクールになってたもん、分かるよ~♪」

志希は微笑んで答えるとフレデリカはぱあっと笑い、抱きついた。

「流石シキちゃん!フレデリカ検定1級あげちゃう!」

「やったー!」


「友達とお出かけなんていつぶりかなー?」

フレデリカは外に視線を戻す。

「アイドルと大学とバイトだもんねー。そりゃ忙しいよ」

志希はフレデリカの横顔を眺めながら続ける。

「でもこれからは時間がとれるんじゃない?」

それを聞くと、フレデリカは少し寂しそうに微笑んだ。

「そうだね」

ガタンと列車が揺れる。
窓の外を見つめたまま口を開く。

「ねえ」

「ん~?」

「これからも、一緒に遊んでくれる?」

列車がトンネルに入った。
車両内から光が消え、表情が見えなくなった。
一瞬の沈黙。闇の中ではその一瞬がとてつもなく永く感じた。
彼女は今どんな顔をしているのだろうか。
ついさっきまでは誰もがつられ笑いをするような優しい笑顔をしていた彼女は。
闇を照らす物は何もない。彼女を輝かせる美しい金髪も今だけは漆黒に染まっている。
いつも通り笑っているのか、それとも・・・

「もっちろーん!大歓迎!」

彼女がそう言うと同時に列車はトンネルを抜け、車内に光が広がった。
フレデリカは、トンネルに入る前と全く同じように微笑んでいたが、
その言葉を聞くとさらに頬を綻ばせ、嬉しそうに笑った。

「ほんとー?ありがとー!」

志希は優しく彼女の目を見つめると、ゆっくりと再び窓の外に視線を移した。

「あたしはこういうの初めてだよー」

「えっそうなの!?」

「そうだよ~フレちゃんが初めて♪」

「やったー!シキちゃんの初めて♪」

そう笑い合っていた時、志希のリュックがもぞもぞと動いた。
志希は「やば」と声を洩らすと、リュックの中から声が聞こえた。

「にゃあお」

周囲の目が集まる。志希は明後日の方向を向く。
ちなみにフレデリカは目を丸くして笑っていた。

『○○、○○。お出口は右側です。××線にお乗り換えの・・・』

タイミング良くアナウンスが響き、電車が止まる。

「あはは・・・降ります、降ります、アデュー・・・」

志希は気まずそうに笑い、フレデリカの手を引いて電車から降りた。

志希がリュックの口を開くと、黒猫がニュッと顔を出した。

「わー、キシちゃん!来てたんだー!」

キシはリュックから飛び出ると、座り込んで毛繕いを始める。
志希はしゃがみこんでキシの頭を撫でた。

「いやー、あたしも連れてくるつもりはなかったんだけどね」

子供のように優しい瞳で見つめ、喉を掻く。

「来たいって言ってたから」

「そうなんだー」

黒猫は志希の手を離れ、フレデリカの足に擦り寄った。

「フレちゃんも会いたかったから嬉しいなー♪」

フレデリカはキシの頭を撫でる。

猫は気持ちよさそうに目を瞑り、喉を鳴らした。

「でもリュックの中って暑くない?」

「んー、色々してるし多分大丈夫」

満足した猫は自らリュックの中に入った。

「ほら」

「ほんとだー♪」

駅を出た二人は、特に目的もなく歩き出す。
じりじりと蒸し焼くような暑さと鼓膜を劈くような蝉の鳴き声が二人に襲いかかる。
絶え間なく流れ出る汗を拭い、ぱたぱたと手で扇いでいると、神社の境内に露店を見つけた。
アイスクリームと水を買うと、リュックから猫を出して木陰で涼む。
しばらく休んだ後、鈴を鳴らして何処の何かも知らない神様を拝んだ。
他愛ない会話で盛り上がると、また何を言うでもなく
二人と一匹は何処かへと歩き出した。
退屈なようにも見えるが、彼女たちは暑さすらも楽しんでいるようで、
満ち足りた笑顔で前を向いていた。

しばらく歩き続けて太陽が真上に差し掛かった頃、彼女たちは近くにあった喫茶店に入ることにした。
個人経営の喫茶店のマスターは猫が入ってくるのを気にもせず、無愛想に席に案内し、注文を受けた。
アイスティーとアイスコーヒー、そしてパンケーキが運ばれてくる。
パンケーキの皿を置くと、マスターは太い指で猫の顎を掻いた。
いつものようにパンケーキを切り分けると、皆で一緒に食べた。
フレデリカの作ったものに比べると少しパサついていたが、それでもとても美味しく感じた。

志希は丸まって眠る猫を眺めて視線を前に移すと、
フレデリカもこくりこくりと船を漕いでいた。
寝不足に歩き疲れだと仕方ないだろう。
志希は上下に揺れる彼女の顔を微笑みながら見つめていた。

とある雨の日の事だった。
彼女の家に、遠い親戚を名乗る男が一晩泊めて欲しいと訪ねてきた。
急な来客にも関わらず、彼女たちは雨に濡れた男を嫌な顔一つせず招き入れた。
男は深く感謝し、翌日にはお礼として一家に手料理を振る舞った。

その日、彼女の両親は運転中の居眠りで死亡した。
葬儀でその男は、彼女を養子として迎える事を提案した。
彼女は笑ってそれを受け入れた。

フレデリカはビクンと体を震わせると、
「いけないいけない」とつぶやき口元のよだれをナプキンで拭う。

「いいよー、あたしも疲れたししばらくゆっくりしていこ」

志希がそう言うと、フレデリカは申し訳なさそうに笑った。

「そう?ありがとー♪」

ぬるくなったアイスティーをくいっと飲み干すと、マスターに追加注文をした。
運ばれてきたカフェオレを両手で持ち、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。

「フレちゃんは優しいね」

「え?どうしたの急に」

「ううん」

志希が笑うと、フレデリカは照れたように笑い返した。

「んー、そうだ」

志希は指を立てて続ける。

「目覚まし代わりに、あたしの昔の話聞いてくれない?」

「え、ホント?聞きたい聞きたい!」

「作り話だけどね~」

「やったー!」

「あたしが小学生だった頃の話なんだけどね、やんちゃな男子がいたんだよ」

「って言うと?」

「女子のスカートをめくったり、オッパイ触ったりして」

「エッチだね~。シキちゃんは狙われなかったの?」

「狙われたよ。でもあたしは隙を見せなかったから。
しつこく狙ってきたけどね~一度も見られなかったよ」

志希はため息をつき、思い出すように語る。

「そしたらスカートは諦めたみたいだけど、目をつけられたみたい。
ことあるごとに言いがかりつけてきたりして・・・子供だよねえ」

「実際子供だもんねー」

そうだったそうだったと呟き、続ける。

「まあ特に何にも無かったんだけど・・・ほら、夏休みの自由研究・・・だっけ?」

「うんうん」

「その子があたしのを見て、嫉妬しちゃったみたいでね。
あたしの自由研究を盗んで自分のものとして発表しようとしたんだ」

「えー!ひどーい!!・・・それで、どうなったの?」

んふふ、と笑い、口を開いた。

「こんなこともあろうかと、盗られる前に中身をエッチな本にすり替えたんだ」

フレデリカが吹き出し、顔を真っ赤にしてプルプルと震える。

「いやー傑作だったなー。クラス全員の前でエッチ本を朗読したあの子は」

志希は追い打ちをかけるように話を続ける。

「アハ、アハハ!!やめてー!お腹痛い!!」

「以上、即興の作り話でしたー♪」

「はー、はー・・・エヘン、ありがとーございましたー♪」

笑いすぎて溢れてきた涙を拭うと、ぱちぱちと拍手して讃える。
志希は満足そうな顔をして、氷の溶けきったアイスコーヒーを吸い上げる。
そのまま一気に飲み干すと、彼女はお代わりを注文した。
マスターは事前に準備をしていたのか間もなくアイスコーヒーを持ってくると、
椅子で丸まる猫をがしがしと撫でた。

「でもフレちゃん、作り話なのにちゃんと聞いてくれるんだね」

「だって、作り話でもシキちゃんがシキちゃんの話してくれるの珍しいもん」

志希はそれを聞くと、驚いたような顔をして笑った。

「にゃはは、ホント?ホントだね、気付かなかったよ」

「ホントだよ~この機にシキちゃんのこともっと知りたいな♪」

不意にキリッとした顔をして尋ねた。

「お嬢さん、ご趣味は何ですか?」

「趣味か~実験と、し・・・おっと」

歯に物が詰まったように言い淀むと、少し考えて答えた。

「どうでもいい事を考えることかな」

「どうでもいい事?」

「うん、例えば・・・」

志希は、眉ひとつ動かさず言った。

「あたし、人間じゃないんだ」

「ワオ」

フレデリカは志希を見つめる。

穴が開くほど、じっと、ぐりぐりと見つめ続けた。

「見た目は人間と同じだよ」

「そうなの?じゃあどこが違うの?」

「全部同じだよ」

「ワオ」

理解できないといった顔をした。

「皆と同じようにタンパク質でできてるし、ナイフで刺されたら死ぬし、指からビームも出ない」

椅子の手すりに腕を乗せ、天を仰ぐように呟いた。

「でもあたしは他の人間とは違う」

フレデリカは親指と人差し指を伸ばし顎に手をやる。

「ふむふむ・・・他の人と同じだけど、人間ではない・・・」

目を瞑ってうんうんと唸り続けると、尋ねた。

「それって人間って事でいいんじゃないの?」

志希は頷き、嬉しそうに語り出す。

「うん、見た目も構造も何もかも同じなら、それは同族と定義していい。

自分を人間と思い込み、人間として扱われる何者かだったとしても・・・」

指をくるくると回し、続ける。

「自分がゲームや小説の登場人物でないと証明できないように、あたしが人間だって事も証明できない。
なら、そんな事を考えても意味は無い。プロセスなんて投げ捨てるのが最適解」

「ううん、そうじゃなくて」

寂しそうに空笑いを浮かべる彼女に、フレデリカが口を挟む。

「そうじゃないの、どうでもいいって事じゃなくて・・・」

やがて絞り出した一言を口に出した。

「アタシも、他の人と違うもん!」

フレデリカは身を乗り出す。

「キレイな金髪!大きな瞳!産地直送おフランス!」

「宮本フレデリカはただ一人!」

志希は虚を突かれたような顔をした。

「皆何かしら違うもん。シキちゃんの顔も、匂いも、ふわふわでツヤツヤな髪も、同じ人なんていないよ」

「違ってるのがフツーなんだよ」

優しく微笑みかける。
志希は間を置いて口を開き、大きく声を出して笑った。

「あ、ヒドい!笑わないでよー!」

「ゴメンゴメン、真剣に考えてくれたのが嬉しくて」

お腹を押さえ、志希は語る。

「要は今みたいに、答えのない事を延々と考えるの。

穴を掘っては埋めるみたいな不毛な事だけど暇つぶしにはなるよ」

「なるほど、なるほど~?」

フレデリカは首を傾げ、腕を組んだ。
むむむと眉間にしわを寄せて考えるが、ため息をつき諦めたように呟いた。

「シキちゃんの趣味なら一緒に楽しみたいんだけどな~…」

志希は微笑むと、口を開いた。

「そうだね、ちょっと方向性を変えてみよっか」

「ん?」

「別にこれはクイズでも思考実験でもなんでもない。ただの事実として、ボーっと聞いてみて」

彼女は頷いた。


「ある哲学者がね、こんな事を言ったらしいよ」

志希はどこか遠いところを見て語り出した。

「『世界は五分前に始まった』ってね」

静かな店内に、彼女の声が響く。
フレデリカは黙って耳を傾ける。
グラスの中の氷が崩れ、涼やかな音がした。

「五分より前の物事は、『そういうもの』として周囲に記憶されて生み出されたに過ぎない」

「この傷の入ったグラスだって五分前に既に傷付いた状態で生まれたんだ」

「へ~…なんだかすごい話だね」

「でしょでしょ♪でもこんなバカげた話を誰も否定できない」

「理論上否定のしようがないから、例えば…」

「あたし達は…だいたい40分前にこの店に入ったよね」

フレデリカは腕時計を見て頷く。

「実際は35分前に入ったという記憶をもってるだけで、五分前に入店したばかりのお客様なんだよ」

「アハハ、なるほどー!」

フレデリカは大きく口を開けて笑う。

「じゃあもうちょっとゆっくりしなきゃね!」

「そうそう、五分で出たら店に失礼~♪」

二人は椅子に深く座り直す。
マスターは彼女達を呆れた目で見つめながら、足下に擦り寄ってきたキシを撫でていた。

二人は飲み物に口をつける。
ストローをくわえたまま、フレデリカはふと窓の外からの音に興味を持った。
グラスを置き、窓の鍵を開け、窓を開く。

「あっ」

「おっ?」

ふわりと磯の香りが鼻を通る。
ニャアニャアと野鳥が鳴いている。
二人は身を乗り出し窓から顔を出す。
窓の外では海が広がり、大勢の男女が騒いでいた。

「水着持ってくればよかったなー」

背もたれに体重をかけ、志希は残念そうに呟いた。
フレデリカは頬杖をついて窓の外を眺める。

「今日は来てくれてありがとー」

フレデリカは窓の外を見つめたまま、のんびりとした声で呟く。

「んーん、あたしが勝手に付いてきただけだよ」

志希がそう言うと、フレデリカは小さく笑う。

「そっかー、そういえば一人で来るつもりだったんだ」

ふと、辺りが暗くなる。雨雲が太陽を包んだのだ。
スプーンでコーヒーをかき混ぜる。
フレデリカはコーヒーに口をつける。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
数時間前までは焼けつくような快晴だったというのに。
彼女は諦めたような笑顔を浮かべた。

「シキちゃんが来てくれて、本当に楽しかった」

薄暗い店内に昇った湯気が音もなく消えていく。

「ねえフレちゃん」

微笑みながら彼女は尋ねた。

「明日はどうする?」

フレデリカは目を見開いた。
少し間を置いて、彼女は答えた。

「ん~水着を買って、海で遊ぶ?」

「うんうん♪じゃあ、明後日は?」

「遊園地に行って、朝から晩までジェットコースター!」

「お~!いいねいいね!じゃあ明明後日は?」

「海外に行って、世界一高いバンジージャンプ!!」

「にゃはは!サイコー!!」

その時、窓の外が真っ白に光る。
彼女たちが窓を見ると、大きく雷鳴が響き渡った。
知らぬうちに雨雲は空を覆い尽くし、激しい雷雨が降り注いでいた。
二人は顔を見合わせると、同時に窓から海を覗いた。
雷が落ちた事で観光客が慌てて避難を始めていた。
さっきまで海を埋めつくさんとしていた人がみるみるうちに消えていく。
二人は再び顔を見合わせると、何も言わずに笑い合った。

「あははははははははははは!!」

「あははははははははははは!!」

叩きつけるような豪雨、のたうち回るような雷。
それらを一身に受け止める海に、二人は文字通り何も身に着けず飛び込んだ。

「あはっげほっがぶっはっははははははは!!!」

「がはっひぃっぶふっあはっはははははは!!!」

波飛沫が大きく開いた口に入り咳き込む。
だが口を閉じる事ができない。
腹の底から湧き上がってくる何か熱いものが二人の理性を吹き飛ばしていた。
咳き込んだまま二人は水をかけ合う。
この巨きな海には二人以外誰もいない。
誰に見られる事も、指を指される事もない。
二人だけの世界で、全ての抑圧から解放される。

「あははははっあーははははははは!!!!」

「あははあはははあはっあはははは!!!!」

溺れるように泳ぎ、泣くように笑う。
全能感と背徳感が二人を満たし、もう止まる事ができない。
体力が尽きるまでの一時間弱、荒れ狂う海の中で
二人はこの世の誰よりも暴れ続けた。

「くしゅん」

ロッカーを開けながら、フレデリカは小さくくしゃみをした。

「風邪引いちゃったかな」

ロッカーの中の猫を撫でていた志希は、
鼻を擦るフレデリカを見て鞄から小さな袋を取り出した。

「これ飲んで。あたし特製の風邪薬」

「え、すごーい!」

袋からカプセルを出すと、フレデリカは驚き笑った。

「シキちゃんが作ったんだったらどんな風邪も一発で!」

「・・・ねえ、知ってる?」

志希は静かに語りかける。

「風邪、水虫、癌」

「どれか一つでも特効薬を作れたらノーベル賞は確実なんだってさ、漫画に書いてた」

「へえー。意外」

そう軽く返すとフレデリカはカプセルを水で流し込む。

「本当にね」

志希は溜息をつくように、小さく呟いた。

「意外にちょろいよねえ」

雨音は彼女の小さな声を掻き消した。

「この辺の宿泊施設は~・・・」

志希はスマートフォンをぐりぐりと弄る。
体調を崩したフレデリカを休ませるため、今日は早めに切り上げる事になったのだ。

「本当にもう泊まるの~?大丈夫だよー!シキちゃんがくれた薬も効いてるし!」

構わず検索を続ける志希のリュックサックが、不意にもぞもぞと動いた。

「んー?どうしたのかな」

リュックサックの口を開くと、キシが勢いよく飛び出た。

「窮屈だった?」

差し出された志希の手をスンスンと嗅ぐと、チロッと舐めた。
猫は志希とフレデリカの顔を見る。フレデリカの脚に頭をこすりつけた。

「どうしたの?」

言葉に反応したのかどうか、猫は一度だけ「にゃあお」と鳴いた。

そして。

「あっ!キシちゃん!?」

猫は何処かへ駆け出した。
二人は追いかけたが、猫には追いつけない。
あっという間に何処かへ消えてしまった。

「キシちゃん・・・どうしたんだろ・・・」

「ここが気に入ったのかもね」

心配そうな顔をするフレデリカとは裏腹に、志希は平然としていた。

「野良猫は自由気ままなものだし、そっとしてあげよう」

「・・・・・・うん」

志希は、自分の胸元を見た。
Tシャツに付いた猫の毛を摘まみ、まじまじと見つめた。
猫の毛は風に煽られ、志希の手を離れ空に舞った。
志希は、諦めたように微笑んだ。

「またね」

海の近くには古びたビジネスホテルがあり、二人はチェックインした。
志希はベッドに座り、半ば無理矢理眠らせたフレデリカの頭を優しく撫でる。
フレデリカの目元をよく見ると隈が出来ている。
慈しむように志希は彼女の寝顔を眺めていた。
彼女は、今日のフレデリカとの出来事を思い出す。

喫茶店でうたた寝した際、ゆっくりしていこうと言われたにも関わらず
カフェインを摂取し、自分を退屈させないようにした彼女。
自分が悩みを持っていると察するや否や、
すぐさま不安を和らげてくれようとした彼女。
客観的に見てお世辞にも面白いとは言えない話にできる限り理解を寄せようとしてくれていた彼女。
体調を崩したにも関わらず、自分を気遣い遊ぼうとしていた彼女。
自分で選んだとはいえ、見知らぬ地で逃げ出した猫を案じた彼女。
ついさっきだって、悪夢を見て起きた彼女は・・・・・・

その時、トントンと部屋の扉が鳴った。
志希は気にもせずフレデリカを眺めていたが、
ノックの音にピクリと反応したフレデリカを見て不満そうに振り返った。
トントン、トントンと立て続けにノック音が響く。
彼女は布団をフレデリカの頭まで被せると、気怠げに立ち上がる。

「はいはい」

トントン、トントン、絶え間なく響くノックに急かされ、志希はドアを開けた。

その瞬間。

どんっ

ドアの外にいた男が志希の体にぶつかった。
志希はよろめくも壁にもたれる。
体勢を整えようとしたが、なぜだか力が入らずずりずりと崩れ落ちた。
男は激しく息を切らし、体を震わせている。
明らかに様子がおかしいその男は、志希に詰め寄り部屋に入ると後ろ手で扉を閉めて鍵をかけた。
志希は男にぶつかられた自分の体に違和感を覚えた。
痺れるような、熱いような。
ふと、その部分に手を触れてみる。

ねちゃりとしたような感触がした。

自分の体に無いはずのもの。
腹部から何かが生えている?
いや、生えているというより・・・
志希は、そこに触れた手を見る。

「な、ん・・・っ」

手は、真っ赤に染まっていた。
痺れるような感覚が、気が狂うような『痛み』だという事に気付いた時、
辺りに野太い笑い声が響き渡った。
だらしなく伸びた前髪から覗いた瞳が、月のように輝いた。

男はにやりと下品な笑みを浮かべると、志希に向かって口を開いた。

「一ノ瀬志希、俺の事を覚えているか?」

腹部を押さえ蹲る志希を見下ろし男は一方的に語りかける。

「忘れたか?それもあるかもな。お前にとって俺はその他大勢の一人。
人生を潰したところで印象にも残らないか」

「ああ、アリだ。最高だ。孤高の天才が歯牙にもかけなかった一人の凡夫に殺される。
名前も知らない男に自慢の頭脳を使う間もなく殺されるんだ」

「長かった。この時を迎える為にどれだけ苦労したか。俺の勝ちだ。お前は確かに俺の手によって死ぬ。
俺はお前を殺し、なお生き続ける。これを勝利と言わずして何と言うんだ」

志希はゆっくりと顔を上げ、息を切らしながら呟いた。

「きょう、じゅ」

男は目を丸くすると、大きく笑った。

「これはこれは、光栄だ。一ノ瀬サマほどの方が俺を覚えていてくれるとは」

両手を広げわざとらしく喜ぶようなポーズをとると、男は呟いた。

「良かったな。納得はせずとも理解してあの世に逝ける」

一人の大学教授がいた。
彼は女学生の弱味を握っては性行為を強要し、
それを写真に収め脅迫するという手口を繰り返していた。
彼は性行為自体よりも女性を手玉に取る事に至上の悦びを感じ、
多くの女学生を自身の欲望の為に陥れていた。

ある日男はとある女性をターゲットに定め、終日彼女の周りを探り回った。
しかし彼女は成績優秀で、私生活にも問題は見つからない。
そもそも嗅ぎ回ろうにも、気付かれているのかいつの間にか捲かれてしまう。
時間の無駄だと諦めかけたその時、彼女の私用ノートパソコンを発見した。
彼は周りに人がいない事を確認し、それを開いた。
PCはスリープ状態ですぐに起動した。パスワード等のロックはかかっていない。
画面にはデスクトップを埋め尽くすような数のフォルダがひしめいていた。
その中から『EXPERIMENT』という名前のフォルダを見つけると
もう一度周囲を見渡し、タッチパッドを叩いた。
男は中のデータを見て愕然とする。

PCデータの中には「風邪を完全に治療する薬」や「完全に吸収され体内から検出されない睡眠薬」といった
医学界、薬学界を飛躍的に向上させるほどの論文データ、実験データがいくつも入っていた。
男は高鳴る心臓を押さえつけその中の一つを自らのUSBメモリに収める。
PCの方のデータを念入りに削除し、足早にその場を立ち去った。
後日、彼は自分名義に書き換えたその論文を持ち、学会に臨んだ。
多くの研究者の注目を一身に受け止め、彼は自信満々に笑う。
プロジェクターをPCに接続し、スクリーンに映写した。

画面に映った映像に、聴衆はどよめいた。
映し出されたものは、論文や実験映像などではなく……
中年男性と若い女性の情事であった。
男は赤らんだ顔を青くし、キーボードを叩く。
だがどういった事か変化はない。
ざわめきや悲鳴がどんどん大きくなる。
PCの電源を落とし、接続を切り、プロジェクターのコンセントを引き抜いた。
だが映像が止まることはなかった。
エアコンの効いた室内で、男は体中の毛穴から冷や汗を流す。
やがて映像が終わったのかスクリーンが暗転し、男は手遅れを承知で胸をなでおろす。

だが、次に移るものに再び目を見張った。
暗い画面に一つの写真がスライドインする。
男の写真、この大学教授の男の写真だ。
そして、彼を取り巻くように何枚もの写真が映し出された。
それは女学生の写真。彼が手を出した女学生が、一人残らず。
ぐるぐると男の周りを回る。そして点滅するように先ほどの性交の映像が映り込む。
写真、映像、写真、映像、写真、映像。
『それ』の意図は、もはや口にするまでもなく──

やがて女性の甲高い嗤い声が響き、今度こそ映像は終了した。
その声はもはや呆然と画面を見るしかなかった男の脳に深く、深く刻みついた。

男は証拠写真を完璧に隠していた。口止めも抜かりはなかった。
実刑判決を受けることはなかったが、当然職を辞する事となった。
ある日の夜、男は元勤務先の大学に忍び込んだ。
目的は当然、自分を陥れたに違いない『彼女』に復讐する為、個人情報を得る為だった。
男は大学に入り込む事には成功した。だが肝心の彼女のデータが見つからない。
成績や住所はおろか、大学に籍すら入っていない。
まるで最初から入学していなかったような、
まるでこの世から概念ごと消え去ったような。

男の頭に例の嗤い声が響く。何度も、何度も。
彼女の笑顔を思い出す。それは自身を嘲る顔となって浮かんだ。
彼女の声を思い出す。それは自身を罵る言葉となって響いた。
彼女の人間関係を思い出す。それは自身を盗み見るネットワークだと察した。
彼女の体は、瞳は、髪は、爪は、服は、挙動は、表情は、癖は、発言は、
私物は、思考の一つにおいてまで、
彼は、全てが自分を陥れる為のものだと認識した。

その時、男の頭の中でキーンと音がした。
男は彼女以外の事は一切考えていなかった。
なのに、どういう訳か、全く違う女性の顔が思い浮かんだ。
以前東京へ行った時、イベントか何かでちらりと見かけた女性の顔を。
女性はアイドルだった。端正な顔立ちだったため印象には残っていたが、
当時は彼女を籠絡する事だけを考えていたのでそれ以上の興味を持たなかった。
男は脳髄の隅に残る記憶を掻き寄せ、その女性の名前を思い出した。
彼は自らの情報網全てを駆使し、女性を調べ上げた。
その行動の理由は彼自身も分からなかった。
だが、その女性と自らの関係性を知ると、男は愕然とした。
一種の運命を感じた。天からの意思を感じた。
その女性と彼女に一切の繋がりは見つからなかった。
『これ』を行うという事は、自らの知性の否定を意味する。
だが、男は思った。世界が彼女を『殺せ』と言っている。
人類史のオーパーツ、あの天才を排除しろと言っている。
逃げ回る女性は、磁石のように彼女を惹き付けるだろう。
男は知性もプライドも、全てを投げ捨てた。
自身を否定した彼女に復讐する為に。
自分の人生の意味を取り戻す為に。

「どうやって見つけ出したか、か?」

男は志希を見下ろし、語りかけた。

「さあな、理屈は分からない。難問を前に、『解』だけを渡されたんだ」

「これに従うという事は、思考の放棄。自分の知性の否定」

男は志希の前にしゃがみ込み、顔に唾を吐きかけた。

「知性の塊のようなお前には、予想もできなかっただろう?」

「知性、どころか…品性も……」

志希は眼前の男を見返して嘲笑う。

「・・・・・・最初っから、なかったか」

男は僅かに眉を動かし、ナイフを押し込んだ。

「いぎィっ!?」

志希の悲鳴を聞き、満足そうに笑う。

「はは、ハハハ!いぎー、だってよ!天下の!大天才が!いぎー!!ハハハハ!!」

髪を掴み、ボタボタと涙と涎を垂らす志希の顔を男は乱暴に上向かせる。

「笑わせてもらった礼だ、一つ教えてやるよ」

「・・・・・・その『解』はな、お前のオトモダチだ」

「──っ!」

志希は息を呑んだ。

「アイツから見つけたんだよ。そして、理解しているだろう?」

「お前を殺す為にアイツに手を出したと言う事は、アイツの不幸はお前のために起きたんだ」

「両親を殺し、好き放題犯してやった。大好きだったアイドルも辞めたみたいだな。脆いやつだ」

青ざめた彼女の顔を見て、男はにやにやと笑う。

「全部、全部・・・・・・お前のせいだ」

彼女は僅かに顔を横に振る。
それを見て男は更に嬉しそうに語り続ける。

「違わない。お前が俺を陥れたからこうなったんだ」

「降りかかる火の粉を払っただけ?違うね」

「お前は大学から跡形もなく消えた。最初からそうすることもできたのに」

「玩具で遊ぶように、意味もなく、俺の人生をブッ壊したんだ!」

男は次第に興奮を抑えきれなくなり、語りは叫びとなっていった。

「お前さえ、お前さえ生まれてこなければ!誰もが幸せに暮らせたのに!!」

「アイツも今日まで家族と仲良くしょうもないアイドル人生を送れたのに!!」

「お前は人を絶望させる事しかできない疫病神、害獣だ!!だってそうだろ!?」

「たった一人のオトモダチを地獄に叩き落したんだもんな、お前は!!」

呪詛のような罵倒を受け続け、志希は身を捩る。
男はぶるりと体を震わせると、恍惚としたような表情で語りかけた。

「それにしても、宮本のバカさといったら今でも笑えるな」

志希がその言葉に反応するのを確認し、男はにやけながら続ける。

「俺がアイツを養子にするって言った時、アイツ笑ってたんだぜ?」

「信用した男が黒幕、そう気付いた時には全てが手遅れ」

「アイツは処女だったよ。大して気持ち良くもなかったがな」

息を荒げる志希を見下ろし、男は吐き捨てた。

「だからまあ、気にしなくていい」

「あんなバカ、どうせ誰かに騙されて人生終わってたさ」

志希は俯き倒れこみ、溢れ出る感情に表情を歪ませる。

そして彼女は、ゆっくりと目を閉じた。

彼女は男の養子になる事を笑って承諾した。
その時彼女の胸にあった感情はなんだろうか。
安堵ではない。不安とも違う。感謝、焦燥、恐怖いずれでもない。
絶望だった。深い深い絶望に彼女は包まれていた。
生まれて初めてのその感情に視界は灰色に歪み、手足は震え、頭はまるで動かない。
耳が塞がったように周囲の音が鈍く響き、なのに心臓の音がいやに大きくはっきりと聞こえ、
胸の奥から酸っぱいものがせりあがってくる。
それでも彼女は何事も無かったかのように、口元を猫のように緩ませた。

彼の提案、その意味を理解していなかったわけではない。
むしろ、全てに気付いていた。
彼が自分の両親を殺したこと。自分に手を出すこと。
彼が何かに狂っていること。
そして、そんな彼からの提案を拒否したら、何が起こるか分からない事。
仮に他の家庭に入ったとしたら間違いなくそこも悲劇に見舞われるだろう。
養子に入ること自体を止めて独り立ちしたところで、どの道男は一人の自分を襲うだろう。
むしろそれはまだマシな方で──
体を震わせる。

彼女は誰をも愛し、誰からも愛される人だから。
誰よりも優しくて、誰よりも人の事を考えて…
誰よりも、楽しそうに笑っている。

だから、彼女は一人で泣いていた。
シーツを掴んで苦痛に耐えるしかなかった。
タオルで擦って嫌悪感を洗い流すしかなかった。
便器を抱えて不満を吐き出すしかなかった。
誰からも愛される「宮本フレデリカ」だから、誰にも頼る事ができなかった。

彼女は常に、自分はいつ間違えたのだろうと自問する。
やはりあの雨の日の夜だろうか、幾度となくそう考えた。
あの日の選択で、彼女の人生は大きく狂った。
だがやり直したいかと問われれば、彼女は首を横に振るだろう。
彼女は、雨の日の来客を決して無碍にはしない。
100回やり直しても、彼女は男を受け入れるだろう。
なら、何が間違いだったと言うならば。
自らの人生が崩れ去るような出来事をを回避できず、しようとも思えないのならば。
もはや、「生まれてきた事自体が間違いだった」と言うほかない。

やがて疲れ果てた彼女は、昔は思いもしなかった事を願う事になる。
「この世から完全に消えてしまいたい」
そんな彼女が、あの女性と出会うのは必然だったのかもしれない。
いとも簡単に姿を消した、とある一人の女性との出会い。

蒸し暑い日の夕方、一人の女性が路地を歩く。
彼女の名前は「一ノ瀬志希」。そう呼ばれていた。
つまらなそうな顔で曇天を見上げてスンスンと鼻を鳴らし、
雨の匂いを感じた彼女はどこかの喫茶店にでも避難しようと考えていた。
ポケットに手を突っ込み、ぼーっと歩いていた時。
木陰に座る黒猫と目が合った。
数秒間見つめ合うと、彼女は猫を抱きかかえた。
それに意味などなく、猫もまた嫌がる様子もなく受け入れた。

「ズブ濡れ確定かな」

喫茶店に入るという選択肢がなくなった彼女はけだるげに呟き、路地を抜ける。
すれ違う通行人の視線を気にもせず、猫を撫でながら歩く。
やがてぽつりぽつりと降り出した雨に打たれながら、
彼女はただ目的も無く真っ直ぐに歩き続けた。
右手で猫の頭を雨粒からかばいながら街を進むと、
『ペットとの入店大歓迎!』との立て看板が置いてある小さな喫茶店が目に入った。
滴る雨を払いのけ店の扉を開くとコロコロと鈴が鳴り、
ウェイトレスらしき金髪の女性が振り返る。
彼女の胸には「宮本フレデリカ」と書かれた名札が付いていた。
彼女は志希を見ると驚いたように両手を挙げ、志希の前に駆け寄った。

「いらっしゃいませ~♪雨大丈夫?タオル持ってきますので少々お待ちくださいませ~♪」

「野良でも大丈夫ですか?」

それを聞くと彼女はまたも両手を挙げ、猫を見つめた。

「ワオ、野良ちゃん?」

じーっと猫と見つめ合うと、フレデリカは優しく微笑んだ。

「う~ん、この子なら大丈夫!たぶん!」

フレデリカは指を差し出すと、猫はチロッと舐めた。
彼女は嬉しそうに笑うと、タオルを取りにスタッフルームに入った。
戻ってきた彼女は志希にタオルを手渡し、猫を優しく拭く。
猫はされるがままに目を瞑っていた。

「いい子だね~」

フレデリカは無表情で髪を拭く志希を見る。

「名前はなんていうの?」

「んー・・・・・・キシ」

「ふんふん、キシちゃん・・・キミの名前は?」

「ん・・・一ノ瀬。一ノ瀬志希」

「シキちゃんとキシちゃん!?すごーい、運命かな?」

志希は思いつきだけで喋っているような彼女を冷めた目で見ると、
案内されたテーブル席に座った。

頬杖をつき、メニューを眺める。
店内には志希以外の客はいない。しとしとと雨音だけが響く。
それはまるで世界から遮断されたようで、彼女はどこか居心地の良いものを感じた。
やがて注文を決めて顔を上げると、
目の前でフレデリカが顔を覗き込んでいた。

「注文いいですか?」

驚きもせず空笑いを浮かべると、彼女はまたも大げさに驚いた仕草をした。

「わーお!ノーリアクション!何にしましょ~」

運ばれてきたパンケーキにナイフを入れる。
歪な形にカットしたその一片を口の中に入れる。
それまで面白くなさそうに仏頂面を浮かべていた志希だったが、
そのパンケーキの美味しさに思わず顔を綻ばせた。

「へえ・・・」

当然のように目の前に座っているフレデリカはその様子を見て
心の底から嬉しそうに尋ねる。

「どうどう?おいしい?アタシが作ったんだよ?」

「美味しい。今まで食べた中で一番美味しいよ」

「そんなにー?やったー!!」

両手を挙げて喜ぶ彼女を見る。
人形のように整った顔。誰もを和ませる声。美しい金髪。
そこから伸びる枝毛。目元の隈。首筋の絆創膏。
異様な親しみやすさ。時折見せる憂いを帯びた表情。
志希は何かを考えながらオレンジジュースをストローで吸い上げる。
フレデリカは自身を見つめる彼女を不思議そうに見返すと
不意に良い事を思いついたようにピンと人差し指を立て、パタパタと小走りで姿を消した。
志希は彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めると、最後の一切れを口の中に放り込み窓の外を眺めた。
窓の外では若木が顔を覗かせていた。
木の葉に溜まった雨水が、降ってきた滴とぶつかり弾ける。
吸い上げたオレンジジュースが空気と混ざり、ズゾゾと
厭な音を立てた時、急に店内が暗転した。

「レディー、エーン、キャーット!」

どこに用意してあったのか、小さな照明がフレデリカを照らす。
志希に向かって笑いかけると、マイクを持って口上を述べた。

「今日は足下の悪い中ご来店ありがとうございまーす!」

流れるようにウィンクをしてピースサインを決める。

「ここでお会いできたのも何かのご縁、心ゆくまでご堪能あそばせ♪」

足下のラジカセのスイッチを押し、軽快なメロディとともに彼女は踊り出した。
観客は志希と猫だけ。薄暗い雨の日のライブ。
だけれど彼女はとても楽しそうに笑っている。

何故なら──
志希が口元を押さえ笑っていたからだ。

「ン・・・フフフ・・・・・・」

たった一人と一匹の為に。無愛想で雨に濡れて迷惑な輩の為に。
彼女は最高の笑顔と歌と踊りを披露した。
自身も辛くて辛くて仕方がないはずなのに。

「人を喜ばせるのが大好きなんだなあ」

小さく小さく呟く。
パリ、恋の都を少女が歩く。
楽しく、優しくなれる・・・彼女らしい曲。
悲しい曲なんかではないのに、志希の目からはぽろぽろと涙が溢れ出た。

「ぐっ・・・うっ、はっ・・・あ」

志希は壁によりかかり、歯を食いしばる。
脚を震わせ、噴き出す血を押さえながら立ち上がった。
男は驚き目を見開く。

「あたしを・・・だれだ、と・・・思って・・・」

絞り出すように声を出す。

「キミなんかじゃ、どうにもならない、ギフテッド・・・」

「フレちゃんの友達の、一ノ瀬志希だ・・・!」

男は苛立たしげに口角を下げ、瞼をピクつかせる。

「本当にお前は・・・」

男が凄むと、志希は負けじと睨み返した。
その反応に男は思わず唾を飲む。
彼女の周りの空気が少し歪んだ気がした。
男を睨み付けたまま、志希は傷口から手を離す。
ナイフの隙間から溢れ出る血を気にもせず、口を開いた。

「それは、誰かが口にするまでもない客観的事実だったんだ」

「家族を殺され、自身を犯され、ナイフで刺され・・・」

「孤独の中、苦痛に染まり、絶望に顔を歪ませて死ぬ」

男は意味も分からず志希が淡々と語るのを聞いていた。
だが確信めいた予感があった。何かが起こる。この天才に勝手なことをさせてはならない。

「やめろ、一ノ瀬!何のつもりだ!!」

分かっているのに動けない。
志希の射殺すような眼光が男を貫く。
今にも倒れそうだというのに、地響きが聞こえるような気迫が彼女に宿っていた。
男は額から冷や汗を吹き出し、大きく息を切らす。

「だけど、本来存在しないはずのあたしが生まれて、世界が動いた」

「如何にしてこの世を去ったのか、分からなくなったんだ」

志希は真っ赤に染まった掌を見つめる。
小刻みに震える拳を握りしめ、腕をゆらりと持ち上げる。

「そして・・・今、やっと・・・・・・重なった」

人差し指と親指を伸ばす。
それは、タンパク質でできた彼女のピストル。
誰よりも優しかった彼女を、真っ黒な悪意で穢し尽くした男を撃ち殺す魔弾。
氷のように冷静に、血の滴る銃口を向けた。
男に、いや、この男だけではない。
彼女の優しさに気付くことのなかった、遍くすべての無能な凡百どもに知らしめるべく。
高らかに宣告するべく、ゆっくりと息を吸った。
その時、一瞬雨が遠ざかり、風が弱まった。

「宮本フレデリカは・・・」

この世全ての時計が止まり、赤子が泣き止んだ。
誰もが何かを感じて口をつぐみ、天を見上げた。
世界が彼女の発言の為に、一瞬だけ口を閉じた。
この世でたった一人、彼女だけが大きく口を開いた。



「キミにナイフで刺されてこの世を去ったんだ!」

海で遊び疲れた二人がチェックインしたビジネスホテル。
体調を崩したフレデリカは、ベッドの中で悪夢を見ていた。

「はぁっはぁっはぁっ・・・」

薄暗い部屋で彼女は喘ぐ。目に涙を浮かべ、シーツを強く掴む。

「だめ、やめ・・・」

「フレちゃん、フレちゃん」

志希がフレデリカの身体を揺さぶる。
やがて彼女は目を覚まし、身体を起こす。
滝のような汗を流して辺りを見回し、怯えたように志希を見る。

「大丈夫?変な夢見たの?」

志希は彼女の隣に座ると、ペットボトルの水を渡した。
フレデリカはペットボトルを受け取ると、いつものように笑う。

『ううん、何でもないよ♪』と。

いつものように。

「ううん、なんでも・・・」

いつものように。

「なん、でも・・・っ」

顔を志希から背け、俯く。
志希は彼女にもたれかかり、ただ、静かに震える身体を感じていた。
フレデリカはペットボトルの水を飲むと、ゆっくりと喋りだした。

「シキちゃんさ、昔の話してくれたよね」

「したねー。作り話だけど」

「そう、作り話の昔の話」

ゆっくり息を吸うと、口を開いた。

「お返しにね、アタシも作り話していいかな?」

志希は優しく笑う。

「ホント?聞きたい聞きたい!」

フレデリカは少し息を乱したが、ゆっくりと呼吸を整えた。

「ありがとう」

そう言って笑うと、静かに語りだす。

「アタシね、最近ずっと同じ夢を見るんだ」

「夢の中で、夜の廃墟で一人きり」

「でも夜は怖くないの。怖いのは…」

「大きな月が出てて、月明りが辺りを照らしてるの」

「月の光がアタシを照らして、それでできたアタシの影が…」

フレデリカは口元を抑える。深呼吸をして再び語り始める。

「アタシの影が、アタシに襲いかかってくるの」

「影だから、どれだけ逃げても追いかけてくる」

「アタシは月に照らされないように、朝まで物陰に潜むの」

「でも月もアタシを探すみたいにゆっくり動きまわって…」

吐き捨てるように、彼女は呟いた。

「月の光からは逃げられないの」

ペットボトルの蓋を震える手で弄ると、静かに口を開く。

「今見た夢なんだけどね」

そう言うと彼女はハッとして首を振る。

「ごめん、ちがった。この前見た夢なんだけどね」

「いつもの廃墟の町。だけどその日はね」

「友達が、一緒にいたんだ。大好きで、一緒にいたら凄く安心する」

「その子が一緒にいてくれたから、月もそんなに怖くなかった」

「月に見つからないように隠れていた時も、その子がいたから心細くなかった」

「だけど…アタシが物陰から出ようって言って…」

息を切らす。声が震える。目線がぶれる。
ペットボトルを握りしめ、絞り出すように言った。

「アタシのせいでその子は、死んじゃうの」

志希は暗い部屋で虚空を見つめながら、静かに話を聞いていた。

「起きてる時も、気付いたら月の事を考えちゃって」

「何をしてても、どんなに楽しくても、すぐに冷めちゃって」

「ブレーキが掛かったみたいに、・・・つらく、なって」

フレデリカは目を擦り、いつものような笑顔を浮かべた。

「シキちゃん、本当にありがとう」

「約束したけど、今日で終わりにしよう?」

雨の降る音が静かな部屋に響く。
志希は目を瞑り少し考える。

「ん~」

両手を前で組み、人差し指を動かす。
やがて目を開くとフレデリカを見つめ、子供をあやすように優しく語りかけた。

「フレちゃんはそれでいいの?」

フレデリカは驚いたように目を開くと、やはり笑って口を開く。

「アタシは・・・」

そこから先の言葉が出てこない。

唇を微かに動かすが、声となって出てくることはなかった。

「さっきの夢の話だけどさ」

志希はフレデリカの頭に手を置き話しかける。

「友達の子はフレちゃんのせいで死んだのかな?」

「え?」

「ウソのお返しのウソのお返しのウソのお返し」

志希はいたずらっぽく笑う。

「その友達は死ぬことを知ってて物陰から出たんだよ」

「どういう・・・」

頭に置いた手を首に回す。
フレデリカの頭を引き、抱き寄せる。
もう一つの手で彼女の顔を上に向かせ、

そして───

「ーっ!?」

志希はフレデリカに口づけをした。

驚きのあまり硬直するフレデリカを気にせず、舌を入れた。
うねる舌が口腔を通り、彼女の舌と絡め合う。
その時フレデリカはとある異変に気付き、志希の身体を押しのけようとした。
だが志希は彼女を強く抱きしめ、離さない。
彼女が入れた舌は唾液ではないものを運んでいた。

小さく、固い。まるで・・・
『カプセル』のようなものを。
口の奥に無理矢理押し込み、飲み込ませた。
志希は手を弛め、口を離す。

フレデリカは放心状態で口から伸びる唾液の糸を眺めると、辿るように志希の顔を見る。

「シキちゃん」

そう呟くように語り掛けると、彼女は顔を震わせた。
ぽろぽろと、大きな瞳から涙が零れ落ちた。
彼女が初めて人に見せた涙だった。

「いなく、ならないで…」

「うん」

そう返すと、志希は笑って両手を広げた。
フレデリカは下唇を噛み、同じように両手を広げた。
今度はフレデリカが志希を抱きしめた。
離さないように、離れないように、強く、強く。
お互いの体温を確かめるように、二人は抱き合った。

次第にフレデリカの指から力が抜けていく。

「シキ、ちゃん…」

震える声で、名前を呼ぶ。

「フレちゃん」

優しい声で、呼び返す。

やがてフレデリカの体から完全に力が抜けると、志希は労うように彼女の背中を叩いた。
自らの体に滑らせるように、静かにベッドに横たわらせると
志希は彼女の顔を愛しそうに見つめた。

「いなくならないよ」

部屋の扉の前で足音が、コツコツと響いた。

「一ノ瀬志希は生き続ける」

静かな部屋に、二度三度彼女の声が反響した。
志希は腕を下ろし、壁にもたれかかる。
男は汗を垂れ流し、息を切らす。

「何を、バカな事を」

周囲をキョロキョロと見渡すが、何も起きなかった。

「宮本だと?何を・・・」

汗を拭い、志希を見る。
ぐったりと顔を伏せ、動く事はない。
ブラフか、命惜しさの時間稼ぎか、
何が目的かは分からないが、男は彼女の行動に心底恐怖した。
その事実にふつふつと湧いてきた怒りで眉を吊り上げ、
怒号を上げ彼女に詰め寄る。

「この、クソアマ!」

志希に刺さったナイフを掴み、切り裂くように引き抜いた。

「さっさと死ね!!」

声にならない悲鳴とともに、噴水のように血が飛び出る。
志希は再び崩れ落ちた。
出血量は明らかに致死量を越えている。
もう、二度と立ち上がる事はないだろう。
男は息を荒げ、血溜まりの中の彼女を一瞥する。

「ついに、殺した・・・一ノ瀬志希を、あの天才を」

血でベタつくナイフを見つめた。

「ついに・・・」

しみじみと言葉を繰り返し呟いた時、妙な違和感が彼を取り巻いた。
とても小さいが確かな違和感。何か、取り返しのつかない事をしてしまったような。

「俺は・・・さっき、なんと言った?」

「『さっさと死ね』、だと?おかしいぞ」

「俺は、何年も何年も一ノ瀬を嬲り殺すことだけを考えていた」

「可能な限り苦しませる事を・・・」

男は顔を上げ志希を見た。

筈だった。

「なっ・・・!?」

血まみれで壁にもたれかかっていたのは、彼の知っている金髪の女性だった。
目を擦り、再び見ると女性は一ノ瀬志希に戻っていた。
彼女は夕日に照らされ、金色に輝いていた。

「ありえない、ありえるはずがない」

ぶつぶつと繰り返す。
見間違いなどではない。一ノ瀬は何かを仕込んだのか?
マインドコントロール、サブリミナル、様々な可能性を考えたが
圧倒的な確信の前に全て消し飛んだ。
それは確かに体験した記憶。
再び冷や汗を流す。

「一ノ瀬・・・お前、何をした!」

志希はピクリと動き、ゆっくりと口を開いた。

「何も・・・してないよ。したのは・・・キミだ」

「バカな!俺が刺したのはお前だけだ!」

唾を飛ばし叫ぶ。

「宮本など刺してはいない!」

「刺し、たんだよ。ここじゃ、ないけど」

ガタリと大きな音が聞こえた気がした。
巨きな歯車が組み込まれたような、大きな音が。
その時彼の脳裏にとある記憶が宿った。
女性を刺した。逃げようとする女性を。
金色に輝く頭髪は血に塗れ、
ハーフ故の美しい顔は苦痛に染まり、絶望に歪んでいる。
脳裏に浮かぶ彼女の名前は。
目の前にいる、彼女の名前は──

「あ、あああ・・・・・・」

この世界は、本来の世界から僅かにずれている。
本来、宮本フレデリカはここで刺殺されている。
男は彼女に遠い親戚という立場を利用して近付き、両親を殺し、監禁した。
そして陵辱の限りを尽くした後、耐えきれず逃げ出した彼女を見つけ出して手にかけた。

それが、本来の世界。本来の彼女。
なら何故ずれたのか。
バタフライ効果、この相違の根源を挙げるならば──

『一ノ瀬志希』

彼女の存在自体である。
本来の世界に彼女は存在しない。
ところが神様の気まぐれか、何らかの理由で一ノ瀬志希は誕生した。
両親はいない。完全な無から彼女は生まれた。
彼女の周囲の人間には、以前からいたという認識だけがある。

世界が五分前に生まれたように。
『18歳の飛び級大学生 一ノ瀬志希』が誕生したのだ。

彼女が生まれた事で、宇宙の歯車は微かに歪んだ。
大学教授を務めていた男は志希に手を出そうとしたが逆に嵌められ職を失い、復讐に燃える事になる。

とはいえ、人間の死という事象は変えられない。
男は志希を見つけ出す道具として彼女に近付き、
やはり両親を殺害する。何らかの形で宮本フレデリカもこの世を去るだろう。

ここでもう一度確認しておく。
『一ノ瀬志希』彼女は本来存在しない。
存在自体が異常なオーパーツなのである。
彼女は一つの仮説を立てた。
『本来存在しないはずの者が、死亡するはずの者が死亡するはずの場所で死亡したら』
金色に輝く後ろ髪を眺めながら、彼女は計画を練っていた。

かつて男は志希に敗北した。
復讐の方法を考えたが、正攻法では敵わないと心の奥底で分かっていた。
だから、殺そうとした。一般的な体格の彼女は成人男性に力で勝つことはできない。
彼女を殺し、自身は生きる。それが勝利だと、自分に言い聞かせた。
世界が教えてくれたから。運命が後押ししているから。
何も考えず、彼女を見つけ、彼女を殺す。それが勝利だ。

──こんな事が勝利な訳がない。分かっていた。
こんな方法を選ぶ事自体が、自らの完全なる敗北を表していた。
だが、勝たなければならない。勝利と思える何かを得なければならない。
女を利用してきた自分が、女にコケにされたまま終わる。
それだけは許されない。自分が自分でなくなってしまう。
自分を守る為に。何をしてでも、全てを捨ててでも、どんな形でも。

だが、だが、彼女は、それさえも、自身が彼女を殺す事さえ利用した。
全てを捧げた最後の手段さえ、彼女の利となり消えてしまった。
自分が信じ何もかもを賭けた運命は、ただ世界を正常に戻す為のものであり、味方などではなかった。
男は世界に、彼女に利用された。

男はどこまでも道化だった。

「すべてお前の計画通りだったと言うのか」

男は震えながら志希を見つめる。

「宮本の両親を殺した事も・・・」

「宮本からお前を探し出した事も・・・」

「今日、お前を刺し殺す事さえも・・・・・・」

「全て・・・全て予定通りだったというのかッ!!」

志希は何も言わず、ただにこやかに見つめ返した。
男は全身の毛が逆立つのを感じた。
目の前にいる瀕死の女が、とても、とてつもなく巨きく見えた。
自分には一生かけても、何をしても、何であってもこの女には勝てない。
後ずさりをする男に、志希は語りかけた。

「落ちこまなくて、いいよ」

ビクンと男の身体が跳ねる。

「キミは、確かに・・・あたしを、殺したんだ」

「たとえ・・・全てあたしの、掌の上だったと、してもね」

「誇ると・・・いいよ」

優しく、優しく、微笑んだ。

「天才、一ノ瀬志希を、殺したのは・・・キミだ」

男の口から声にならない声が漏れ出す。
その時男の胸にあった感情はなんだろうか。
怒りではない。悲しみとも違う。恐怖、焦燥、絶望いずれでもない。
喜びだった。深い深い喜びに彼は包まれていた。
自らを陥れ、絶望に閉じ込め、復讐の為に全てを捨てさせた彼女に
皮肉たっぷりに褒められ、あろうことか彼は喜んでしまったのだ。

「ち・・・が・・・う・・・ちがう・・・・・・!」

そしてその感情は、彼の怒りが、彼の絶望が・・・

「喜んでなどいない、俺は!!喜んでなど!!」

彼の復讐が、彼の努力が、彼の計画が、

「違う!!違う!!違う違う違う違う違う違う!!」

彼の人生が、彼の命が、彼を構成する全てがどうしようもなく、

どうしようもなく下らないものである事の証明となる。

「うぐああああああああああああああ!!!」

男は叫んだ。感情を上書きするように自身の頭髪を引きちぎり、壁に頭を叩きつけた。

「俺は、貴様を、殺す為に!だから、貴様を・・・」

「俺の、人生は、貴様を殺す為に!!なのに、なのに!!」

地団駄を踏み、舌を噛み、顔を掻きむしった。
やがて彼は蹲り嘔吐した。彼の吐瀉物は白く、何も含まれていなかった。
息を切らしながら顔を上げ、視界に彼女が映る。
力なく微笑む彼女の瞳が、月のように輝いた。

「う、ああ・・・うあああああああああ!!!」

彼は再び絶叫した。
彼女に背を向け、出口に走る。
足がもつれ、ドアノブに勢いよく口元をぶつけた。
口から血を垂れ流し、ガチャガチャと激しくドアノブを回すが開かない。
彼女とドアノブを交互に見つめ、何度も何度も回した。
やがて自らが掛けた鍵に気付くと、慌ただしくツマミを回す。
今度こそ扉を開けると、段差に躓きながら脇目も振らずに逃げた。

彼女の最後の言葉で、彼の世界からは彼女以外の全てが消え去った。
金髪の女性はもちろん、赤信号にも、道路を走る自動車にすら気付かないだろう。
彼女は走り去る男を虚ろな瞳で見つめていた。
視界は霞み、今にもこの世を去るだろう。
彼女はピクリと体を動かそうとした。
後ろを、ベッドを、彼女を、生まれてきた意味を、最期に見ようと。

だが・・・無理だった。
もはや指一本、動かす力も残っていなかった。
痛い、苦しいというより、少し寂しそうだった。
ぼんやりと、男が開け放ち、開いたままの扉を眺める。
ゆっくりと、ゆっくりと瞼が閉じていく。

その直前。

扉から入ってくる、黒い毛玉のような物が瞳に映った。

「にゃあお」

それは、黒猫のキシだった。
猫は血溜まりに足を漬け、彼女の元へ向かう。
彼女の真っ赤な手に自身の頭を持っていく。
しかし、彼女が猫を撫でる事はなかった。

「にゃあお」

彼女の顔をまじまじと見つめると、一度だけ頬をペロリと舐めた。
彼女は満足そうに微笑んでいた。
彼女の名前は「宮本フレデリカ」だった。

俺は、通勤路の駅前で彼女と出会った。
あの日、彼女は路上で唄っていた。
彼女の歌声は特別な技術があるようには思えない。
どこか力が抜けるような、独特な歌声が特徴的だった。
だが、その場所で彼女の歌声から感じたものはそんな単純なものではなかった。

彼女の声は、『世界』から祝福されているようだった。
それは結婚式のカリヨンよりも、何者か・・・大いなる者に、祝福されていた。
彼女の歌声に引き留められた人々が重なり、フラッシュモブのようで、
それがまた『世界』から祝福されているように思わせた。

歌声と周囲の状況に圧倒されながら、ふらりと人混みの中に入っていった。
この声の主はどんな人なんだろう。こんな声を出せる人は一体どんな人だろう。
それだけを考え、人の波を掻き分ける。
押して、押されて、ようやく前列までたどり着く。
人混みの中心に一人の女性が後ろを向いて立っていた。

女性の周囲を取り巻く人間は一定の距離をとっていて、
台風の目のように彼女の周りだけは歌声だけが響いていた。
美しい金髪がふわりと揺れる。細く長い指がしなやかに伸びる。
彼女の後ろ姿を呆然と眺めていると、ゆっくりとこちらへ振り返った。

風が吹いたようだった。周囲の喧噪が消え、彼女以外が視界から消え去った。
後光が差し、金髪が一層輝いて見えた。
その顔を見て、俺のこれからの人生が決まったんだと思う。
顔、と言っても造形ではない。
人形のように整った顔立ちをしていたが、それはもはや気にならなかった。
彼女の表情。
普段から気の抜けた顔をしている彼女だが、歌を唄っている時の表情は・・・
特に、その時の彼女の表情は・・・・・・
笑っているようで、泣いているようで、怒っているようで、楽しんでいるようで・・・・・・

唯一無二の親友と遊んでいるような、はぐれた母親を探しているような、
大好きな人に嘘をつかれたような、
それでも、生きていこうと決めたような・・・・・・
その表情を見て、脳裏に彼女の過去が浮かんだ。
言うまでもなく俺の妄想だ。彼女の事はそれまで知りもしなかった。
しかしただの妄想と言うにはあまりにも、あまりにも鮮明に映り・・・・・・

不意に涙が溢れ出した。

我に返り、慌てて涙を拭いながら周囲を見渡した。
辺りの人々も、平静を保っている者は誰一人いなかった。
口元を押さえ、嗚咽を堪えている者。
うずくまって慟哭する者。

まるで地獄のような光景だっただろう。
だが、あの場所は天国だった。彼女が作った楽園だった。
濡れた瞳を彼女に真っ直ぐ向ける。
こちらに顔を向けた彼女と目が合った。
彼女は唄うのを止め、優しく微笑んだ。
時間が止まったようだった。

人波の層を抜け、彼女へと歩いていく。
思う前に体が動いていた。
彼女の目の前に立つと、懐から名刺を取り出し、
彼女に差し出した。

「うちでアイドルをやらないか?」

始まりを知らせる朝日が女性の金髪を眩く照らす。

彼女の名前は「一ノ瀬志希」だった。


おわり

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