僕っ娘剣士「黙れ犬!僕を女扱いするな!」少年「でも、お嬢は女だし……」 (43)

剣と魔法が何よりも尊ばれるその世界では、学校の授業でそのどちらかを生徒本人が選択することが可能だった。

基本的に男の子は剣を、女の子は魔法を選択することが多いのだが、それは別段、男女における性格の相違からそのような傾向となっているわけではなく、身体的構造の違いからそれぞれ適した授業を選択しているに過ぎない。

無論、自在に魔法を操ることを夢見る男子や、そして剣の道を志す女子なども初等部低学年にはちらほら見受けられるが、成長していく中で諦める者がほとんどであった。

いかに器用な男子生徒でも女子生徒のように繊細に魔力を操ることは困難であり、そしていかに剣の筋の良い女子生徒でも男子生徒の筋力には敵わない。

それがこの世界の摂理である。

しかしながら、実のところ例外は存在する。

人類の敵である魔王が率いる悪魔で構成された魔王軍と交戦する最前線において、剣の姫と呼ばれる女性剣士はまさしく天下無双の強さを誇り、同じ戦場で地形を変えるほどの大規模魔法を涼しい顔で発動する魔法使いの性別が男だったりする。

「だから僕は剣の道を極める」

そんな英雄に憧れて、剣の道を極めんと息込むひとりの少女が剣の名門の中学に入学してきたことから、物語は幕を開ける。

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「ここが剣の名門と名高い中学か」

その少女は奇妙な出で立ちをしていた。

校則で定められた女生徒用の制服を着用せずに、代わりに男子用の制服を着ている。
右腰にはそりのある長い剣を下げていて、知識ある者が見ればそれが刀と呼ばれる代物だと理解は出来るが、この学校では両刃の直剣を使う生徒が大半であった。

黒髪は短く眼光は鋭い。目つきが悪いのだ。

まるで糊付けしたかのように固まった眉間のシワのせいで整った顔立ちが台無しだ。
おまけにその剣ダコだらけの片手には鎖が握られており、それは首輪に繋がっていて。

「いくぞ、犬。手始めに道場破りだ」

グイッと鎖を引いて、首輪に繋がれた少女と同じ黒髪の男の子をまさに犬のように従えるその様は、奇妙というよりも異端であった。

「ふん。ここがこの学校の鍛錬場か」
「お嬢、やめといたほうが……」
「黙れ犬!僕を女扱いするな!」
「でも、お嬢は女だし……」
「うるさい! ご飯抜きにするぞ!」

いかに忠犬とてエサ抜きに耐えられる筈もなく、正面から堂々と鍛錬場に入っていく主人の背に付き従うほかなかった。

「たのもー!」

中に入るや勇ましく声を張り上げる少女であったが、所詮は女の声であり、迫力はない。

「おやおや? どうしました。ここは女の子が来るような場所ではありませんよ」

気がついたら、そこにいた。
印象に残らない地味な顔立ちの青年。
いや、中年だろうか。年齢不詳である。
驚愕すべきは一切気配を感じなかった。
主人はもとより、傍に控える番犬ですら。

堪らず忠犬は冷や汗を垂らして忠告する。

「お嬢。この男は危険だ」
「わかっている。貴様に勝負を申し込む!」

当然とばかりに危険人物に勝負を申し込こんだ主人は全然これっぽっちも忠犬の心配を理解していなかったらしく、犬は悲しかった。

「ふふふ。元気の良いお嬢さんだ。あの子のことを思い出す。良いでしょう。もちろん、隣の少年もご一緒にお相手しますよ」
「なんだと!? 貴様など僕ひとりでーー」
「お嬢! ひとまず勝つことだけを考えろ!」

舐められたとみて激昂する主人の口を慌てて塞いでから耳打ちすると、それが正論であることは伝わったようで、小さく頷いた。

「ふむ。こうして挑発すれば単独でかかってくると思ったのですが、なかなか思慮深い良いパートナーをお持ちのようですね」
「これはただの僕の犬だ」

今度は忠犬が頷き、犬呼ばわりにも不満はないとばかりに主人の右隣に並び立つ。
左利きの主人と右利きの犬が左右の腰に下がった刀を抜いたのは、まったく同時だった。

「貰った!」

主人が自信満々に叫ぶのも無理はない。
この左右からの居合い抜きは無敵であり、これまで打ち破られたことはなかった。

右を防いでも左は防げない。逆もまた然り。

相手が二刀流ならば話は別であるが、両刃剣1本しか見当たらない。しかも抜いていない。
そう。未だ目の前の男は剣を抜いていない。

反応出来なかったのか。そうではなかった。

「うんうん。見事。なかなかの腕前だね」
「なっ!?」

主人が驚愕するのも無理はない。
男は素手で左右の居合いを止めてみせた。
両手の指の間で真剣白刃取りをしていた。

「ふっ……!」
「ん?」

目を見開いて固まるお嬢に代わって、すぐさま剣を引き、二の太刀を振り下ろす。
しかし、居合いと比較すればあまりに遅い。

「反応は素晴らしいけど、まだまだだね」

今度こそ男は剣を抜き、二の太刀を弾いた。
その隙を見逃す主人ではない。立ち直る。
ガラ空きの側面に踏み込もうとして気づく。

「足を、踏まれて……!?」
「おっと。これは失礼」

踏み込めない。男の剣が少女に迫る。
二の太刀を弾かれた犬の手は痺れている。
刀を手放し、首から伸びた鎖を引いた。

「きゃっ!?」

尻餅をつく主人。空を切る凶刃。間一髪だ。

「まだやりますか?」
「くっ……!」

眼前に切っ先を突きつけられて、少女は敗北を認めた。鋭い眼光で男を睨みつけながら。

「貴様、只者ではないな!?」

いや、だから言ったじゃんと。
犬は改めて忠告が無駄だったことを悲しみながら、主人に代わって頭を下げた。

「参った。俺たちの負けだ」
「素直でよろしい。負けた君たちには私の門下に入って貰います。よろしいですね?」
「この僕に軍門に降れと……?」
「お嬢。こいつは強い。強くなりたいなら、願ってもない話だろ? プライドは捨てろ」
「くっ……お前はもっとプライドを持て!」
「ふふふ。久しぶりに面白い弟子達ですね」

目の前で始まった口喧嘩を眺めながら得体の知れない微笑みを浮かべる男は強かった。
強くなりたい少女は仕方なく軍門に降った。

「くそっ……! こんな筈では!」
「どんな予定だったんだよ?」
「真っ先にこの学校で一番強い奴を倒してから他の学校に遠征しにいく予定だったの!」
「お嬢のその自信はどこからくるんだ?」
「お前はもっと自信を持て!」

敗者はとぼとぼ寄宿舎に帰宅した。
まだ荷解きもしていない部屋の中で口喧嘩の続きをしながら、少女はネクタイを解く。
しかし、怒りのせいで上手く解けなかった。

「犬、これ取って!」
「へいへい」

力任せに引っ張ったせいで余計に固く結ばれてしまったネクタイを器用にほぐしながら、犬は傷心の主人を慰めた。

「焦んなくても大丈夫だって。これから強くなればいいだけの話だろ? 幸い強い師匠も見つかったじゃねえか。な? ほら、解けたぜ」
「ん。ありがと……寝る」

くるりと背を向けて寝巻きに着替える主人の華奢な背中から犬は目を逸らして、自分も寝巻きに着替えた。少女と犬は相部屋なのだ。

「そんじゃ、おやすみ」

犬が部屋の灯りを消すと、小さな声で。

「犬……一緒に寝て」
「そろそろひとりで寝れるようになれよ」
「……今晩だけだから」

今晩だけだから。
その言葉をこれまで何度聞いただろう。
主人と犬は1人と1匹で一人前だった。
しかし、今日のように二体一で勝負出来る機会など滅多にない。故にひとりでは半人前。
半人前の主人が負けるたびに慰めてきた。

主人が眠るまで傍に居てそれから鍛錬する。

「次は、絶対、負けねえっ!」

今回は自分が隣に居たのに負けた。
その悔しさに、犬は涙を流す。
汗と混じって流れるその涙を、寄宿舎の中庭の物陰から見つめるふたつの視線があった。

ひとつは寝たふりをしていた主人の目。

もうひとつはこの学校に住み込みで給食を作っている豊かな栗毛を持つ魔女の目だった。

「おにぎりが食べたい」
「そりゃ俺も食いてぇけど……」
「作って!」

宿舎で出される食事はパンばかりで、魔王領に近い辺境出身の主人の口には合わない。
辺境での主食はもっぱらお米だったのだ。

「お米じゃないと力が出ないの!」
「気持ちはわかるけど、ないもんはないんだから仕方ないだろ? パンで我慢しろよ」
「食べたいのー!」

ここのところ、入学早々に軍門に降る羽目となった師匠の元で毎日毎日コテンパンにされている少女は日夜大層に不機嫌であった。
犬としてもなんとか力になってやりたい一心で、無い知恵を振り絞って考え、提案した。

「よしわかった。俺がこの辺りを探して米を手に入れてくる。それを学校の調理室に持ち込んで炊いて、握り飯を用意してやんよ」
「ほんと?」
「ああ。善処するけどあんま期待すんなよ」
「ふん……誰が犬なんかに期待するもんか」
「じゃ、行ってくる。師匠によろしくな」
「うん! 気をつけてね!」

口ではつれないことを言いつつも、期待にキラキラと目を輝かせる主人を失望させないように、犬は町へと米を探しに出かけた。

「お? あったあった」

米は思いの外、早く見つかった。
何軒か店を回って、目的の品を手に入れた。
あとは学校に戻って炊くだけなのだが。

「ここが調理室、だよな……?」

学校の調理室は校舎の離れに設置されており、もうすぐ昼食時だと言うのにまるで人の気配がしなかった。しかし中から音はする。

「誰か居るのか……?」

恐る恐る扉を開けて、犬は驚愕した。

「な、鍋が空を飛んで、包丁が勝手に野菜を切ってやがる! どうなってんだここは!?」

目の前の光景が信じられず立ち竦む犬の存在に、ようやくこの調理室の主人が気づいた。

「あら? どうなさいました? まだお昼前ですけど、お腹が空いちゃったんですか?」

調理室の住人は犬の主人に負けず劣らず奇妙な出で立ちをしていた。まず、帽子である。
煤けた茶色の帽子は所謂、山高帽であった。
豊かな栗色の髪がそこからはみ出ている。
そして長いローブの裾をずるずると引きずる彼女の手には、白くて細い杖が握られていた。

「もしかして、魔法を見るのは初めて?」
「い、いや……こんな魔法は初めて見る」

魔法。それで現象の全ての説明がつく。
彼女は魔法使いなのだ。魔法で料理をする。
いわば、『魔法調理師』なのであった。

「それで、何のご用でしょうか?」
「あ、実はこの米を炊きたくて……」
「コメ?」

キョトンと首を傾げる魔法調理師。
どうやら彼女は米を知らないらしい。
犬は説明するよりも実際に見せた方が早いと判断して、米の入った袋の口を広げた。

「これを水で煮炊きするんだ」
「へえ~! 美味なのですか?」
「ああ。すげー美味い」
「そうですか! でしたら、調理場をお貸しする代わりにひとくち食べさせてください!」
「もちろん、お安いご用だ!」

魔法調理師は未知の食材に興味津々らしく、そんな条件をつけて調理場を貸してくれた。
犬は鍋に米と水を入れて、念入りに研ぐ。

「お米を洗っているのですか?」
「似たようなもんだ」
「へえ~! 面白いですね!」

何が面白いのかさっぱりわからなかったが、ひとまず研げた。そして30分間、水に浸す。
その間、とりあえず自己紹介をすることに。

「えっと、俺はこの間この学校に来た……」
「わんちゃんさんですよね?」
「は?」
「その首輪、とても似合ってます!」
「はあ……どうも」

どうやら向こうは犬を知っている様子。
『わんちゃん』と呼ばれるほど愛くるしいつもりはないが、そんなことはさておき。

「あんたはここで料理を作ってんのか?」
「はい! 料理を作るのが私の仕事です!」
「ひとりで?」
「はい! それが私の誇りです!」

広い調理場には犬と魔法調理師しか居ない。
本当に彼女はひとりでこの学校の生徒の食事を作っているらしい。地味に凄いけれど。

「そんなに魔法が得意なら料理に拘らなくても、色々な仕事があるんじゃないか?」
「そうですね。でもいいんです。魔法をもっとも活かすことが出来るのは料理ですから」

本当にそうだろうかと、犬は疑問に思う。
もしも自分が魔法を自在に扱えたならば、もっと主人である少女の力になれるのにと。

「あ、そろそろ良い感じではないですか?」
「そうだな……んじゃ、火をくれ」
「はーい! それ! ファイアー!」

さも当然とばかりに杖先から勢いよく火炎を噴射する魔法調理師を見て、やはり魔法は便利で羨ましいと犬は素直に思った。

「よし。そろそろ火の勢いを弱めてくれ」
「がってんです!」

沸騰してきたので中火にして貰う。
微妙な火加減の調整もお手の物。
やはり、魔法とはすこぶる便利である。

「あとはもう火を止めていい」
「完成ですか?」
「いや、このまま余熱で蒸らすんだ」
「ほほう。なかなか手間がかかりますね」
「手間がかかる分、美味しくなるんだ」

犬の少年は知ったようなことを言う。
とはいえ、あとはただ待つだけである。
なので、魔法調理師は雑談を始めた。

「わんちゃんさんは剣士なのですか?」
「わんちゃんさんっておかしくない?」
「じゃあ、わんちゃんは剣士なんですか?」
「ああ。たしかに俺は剣士だ」

わんちゃん呼ばわりを意に介することなく、剣士の証である腰の刀を抜いて見せた。

「わあ! 綺麗な剣ですね!」
「だろう? これはカタナと言って……」
「興味ありません!」
「あ、そう……」

愛刀を褒められて気分を良くした犬は次の瞬間には落胆して、泣く泣く刀を鞘に収めた。

「あんたは魔法使いなんだよな?」
「はい! 魔法で料理を作ってます!」
「この目で見させて貰ったけど、あんな魔法の使い方があるなんて知らなかった。もしかして、実は凄腕の魔法使いとか?」
「はい! 実は私は凄腕なんですよ!」

気を取り直して魔法調理師に話題を振るも、どうも要領を得ない返事ばかりで困った。
ともあれ詮索する気はない犬は溜息を吐き。

「はあ……俺も魔法が使えたらなぁ」
「出来ますよ?」
「へ?」
「わんちゃんも魔法を使えるようになりますよ。他ならぬ凄腕のこの私が保証します」

魔法調理師に太鼓判を押されて面食らう。

「俺が、魔法を……?」
「ちょっとお手を拝借しますね」
「な、何を……?」
「ほら、私のここに心臓があって、魔力の元となる魔素が身体中に送られています」
「ふむふむ」

魔法調理師に右手を取られ、彼女の左胸に手を置くと、犬はたしかに鼓動を感じた。

「その流れを手に集中するイメージです」
「貧血になりそうだな」
「あはは。そうですね。慣れないうちは貧血や立ち眩みに似た症状が出るかもです」

やはり要領を得ない言葉ばかりではあるが、イメージはなんとなく伝わり、犬は早速言われた通りに実践してみた。

「こんな感じか?」
「そうそう! わんちゃんのおててがあったかくなってきました! その調子です!」

左胸に触れた手に意識を集中して身体に流れる魔素をかき集める。すると魔法調理師は。

「おお? これは、なるほど。わんちゃんはエンハンス系の魔法の才能があるようですね」
「エンハンス?」
「エンハンスとは、対象に何らかの力を付与することが出来る魔法です。たとえば……」

杖を振り、魔法調理師は犬に魔法をかけた。

「おお! なんか、急に目が冴えてきたぞ!」
「視覚強化だったり」
「おお! なんか遠くの物音が聞こえる!」
「聴覚強化なども付与出来ます」

強化された犬の耳に、何やら窓の付近から走り去る足音が聞こえた。いったい誰だろう。

「んん? 今、あそこの窓に誰か……?」
「さあ、わんちゃん! そろそろご飯が炊き上がったのではないですか? 良い時間です!」
「あ、そうだった! よし、上手く炊けた!」

犬が何分蒸らせば丁度良いのか伝えていないのに、魔法調理師はまるで炊き方を初めから知っていたかのようにジャストタイミングを知らせてきた。明らかに不自然である。

しかし犬は炊きたてのご飯に夢中でそのことには気づかず、鍋を抱えて大喜びだった。

「よーし! 早速これをおにぎりにしてお嬢に食べさせてやらないと! きっと喜ぶぞ!」
「さーて、それはどうでしょうかね?」
「え? 今、何か言った?」
「いえいえ。塩水はこちらにご用意しておきましたので、おにぎりに使ってください」
「ああ! 有り難く使わせて貰うよ!」

もはや完全におにぎりの作り方を知っているとしか思えない用意の良さであったが、やはり犬はおにぎり作りに夢中で気づかない。

「はい! これはあんたの分だ!」
「わあ! 約束、覚えていてくれたんですね! 嬉しいです! 美味しく味わって頂きますね」
「本当にありがとう! それじゃあ!」

作ったおにぎりをひとつ魔法調理師にお礼として手渡してから、犬は料理室を去ろうとして、ふと立ち止まって尋ねた。

「あのさ、また魔法を教えてくれるか?」
「はい! たぶん、すぐにわんちゃんはまたここに来ることになると思いますので、その時にじっくりと教えて差し上げます!」

別れ際、魔法調理師……いや、『魔女』は魔女らしく"予言"を告げて、犬を送り出した。

「ただいまー!」
「なぁにが、ただいまだ!」

犬が宿舎に帰ると主人が仁王立ちしていた。

「ど、どうしたんだよ、そんな怒って」
「怒るに決まってるだろう!?」
「な、なんで……?」
「自分の胸に聞いてみろよ!!」

何やら主人は相当にお冠らしく、有り体に言って激怒していた。しかし、理由は不明だ。

「また師匠に酷い目に遭わされたのか?」
「酷い目に遭わせたのはお前だ!!」
「お、俺? 俺が何したってんだよ?」
「犬、お前……今まで何をしていた?」
「何をって……お嬢に言われた通り、米を見つけて、おにぎりを作っていたぞ?」
「はっ! おにぎり? 何を握ってたんだか!」

何を握るも何も、米を握っていたわけで。

「どうしたんだよ、お嬢。なんか変だぞ?」
「変? 僕は普通さ! おかしいのはお前だ!」
「俺だって普通だっての。ほら、食えよ」

ひとまず出来たてのおにぎりを差し出すも。

「いらない!」
「い、いらないって、なんでだよ?」
「そんなもん食えるか! このバカ犬!!」

にべもなく払い退けられて、せっかく作ったおにぎりがコロコロと無残に床を転がった。

「せっかく、作ったのに……」

犬は純粋な少年である。怒りよりも悲しい。

「たいして美味くはないかも知れないけど、それでも俺は……お嬢に食べて欲しかった」

少年は純粋に少女の力になりたかった。
怒らせたかったわけではなく、ただ喜んだ顔が見たかったのに。それは叶わなかった。

「お嬢? どうして泣いてるんだ?」

喜んだ顔どころか、少女はポロポロと涙を流して、少年よりもずっと悲しそうだった。
何がなんだかわからないけれど、これだけはバカ犬でもわかる。泣かせたのは、自分だ。

「泣かせて、ごめん」
「……バカ犬」
「ごめんなさい」

素直に頭を下げて、静かに部屋を出た。
それ以外、どうすることも出来なかった。
少年は少女の涙を見たくなかったし、少年がそこに居る限り少女は泣きやまないだろう。

だから部屋を出て中庭でひたすら刀を振る。

「くそっ! くそっ! くそっ! くそぉっ!」

少年は少女に言われた通り賢くないので、主人が何を思い、何故泣いたのかわからない。
わからないことはいくら考えてもわからないので無心で刀を振った。すぐに夜になった。

「お腹、空いてませんか?」

時刻は真夜中。
疲れ果てた少年はその存在に気づいた。
いつからそこに居たのだろう。

「あんたは調理室の……」

魔法調理師が月光に照らされて佇んでいる。

「私のところに来てください」

疲労困憊で中庭に倒れ伏す少年に、魔女は魔の手を差し伸べる。困惑した犬は尋ねた。

「俺をどうするつもりだ?」
「ご飯を食べさせて、魔法を教えます」
「それであんたになんの得がある?」

少年の純粋な疑問を魔女はくすくすと笑い。

「私がこの学校で料理を作っているのは、あなたみたいにお腹を空かせた子にご飯を食べさせるためです。そのためにここに居ます」
「だから、それに何の意味がある?」
「それが私のお仕事ですから」

やはり、要領を得ない。問答は無意味だ。

「それがあんたの義務なら、仕方ないな」
「はい。仕方ないです。観念してください」

少年は観念して、魔女の施しを授かった。

「あの女……」

今まさに中庭で倒れ伏した犬の元に走り出そうとしていた主人は口惜しげに唇を噛んだ。
あれはきっと魔女だ。男を誑かす魔性の女。
調理室で少女は目撃した。魔女の大きな胸を掴む、犬の痴態を。スケベ。えっち。変態。
すっかり犬は籠絡されてしまった。悔しい。

「絶対に取り戻してみせる」

少女は負けん気だけは一人前だった。
そしてこの学校で師匠に負けて身の程を思い知っていた。自分はあの魔女には勝てない。

平坦な自分の胸をぺたぺた触る。更地だ。

「今に見てろよ……」

今まさに犬が攫われる。カーテンを閉めた。

「……バカ犬。寝れないじゃないか」

初めての独りぽっちの夜はとても長かった。

「おにぎり、とっても美味しかったよ……」

床に転がったおにぎりはちゃんと食べた。
またあのおにぎりが食べたい。今度こそ。
ちゃんとお礼を言えるように、なりたい。

「すぐに強くなって、連れ戻すから」

だから待って居て欲しいと、切実に願った。

「おや? ご自慢の飼い犬はどうしました?」
「どうでもいいだろ」
「ははあん。さては逃げられましたね?」
「黙れ! さっさと稽古をつけろ!!」
「ふふふ。これは相当荒れていますねえ」

その日から、少女は犬を引き連れずに道場へと通った。師匠は何もかもを見透かしたような顔をして、ひとしきり弟子を揶揄ってから、おもむろに手を打ち鳴らして人を呼んだ。

「さあ、弟くん。出番ですよ」
「師よ。何なりとお申し付け下さい」
「この子の新しいパートナーに任命します」

呼びつけたのは『白い』生徒だった。
白いとしか表現することが出来ない。
髪も肌も白くまつげや眉毛まで白い。
おまけに腰に下げた剣すら白かった。

「ご命令とあらば。しかし、師よ」
「はい。なんですか?」
「師はこの者が私の相方に相応しいと?」
「不満ですか?」
「…………………」

白い生徒は口では不満を漏らさなかったが、その表情はあからさまに嫌そうだった。

「ふふふ。もしも不満があるのでしたら、この子を自分に相応しい水準まで引き上げてみなさい。それもまた、修行の一環ですよ」
「……はっ」

不承不承に肯く白い生徒。不満は伝播する。

「さっきから黙って聞いていれば、好き放題言ってくれるな! おい、そこの白いの!」
「白いの、だと? 口を慎め妹弟子が!!」
「うわっ!?」

いつの間に剣を抜かれたのか。
白銀の切っ先が目と鼻の先にあった。
白い生徒はどうやら兄弟子らしい。

「抜け。言葉は不要だ」
「の、望むところだ!」

それから白い生徒との修行が始まった。
これまであの胡散臭い師匠はなんだかんだ言っても要所要所で理論を説明してくれた。
しかし、この白い兄弟子は感覚派らしく。

「どうして予測出来ない!?」
「そんなこと言っても無理だろ!?」
「この程度、私は10才で身につけたぞ!」

剣には型がありそれは決まった動作であり、そして流れが存在する。要するに連携だ。
下から上に。上から下に。突きから左右へ。
その流れを汲むにはひとえにセンスが必要不可欠で、兄弟子は抜群にセンスが良かった。

少女も師匠が言った通り筋は良いほうであるものの、所謂天賦の才は持ち合わせてない。
兄弟子は紛れもなく、天才の部類であった。

彼我の実力差は明らか。なのにも関わらず。

「はあ……はあ……ひとつ聞きたい」
「ならん。質問は許さん」
「そこまでの技がありながら、お前は……」
「口を塞げと言っている!」

わざと煽り、わかりやすい上段を受ける。

「やっぱり、お前の剣は軽すぎる!」

少女は初めから疑問だった。
何故、こうして受けられるのか。
センスも技も抜群なのに、何故。
兄弟子は手を抜いているのか。
それとも、少女と同じように。

「お前は、僕と同じ、女なのか……?」
「私は姉さんの弟だッ!!」

次の剣は、見えない。峰打ちされ気絶した。

「起きろ」
「うわっ!?」

顔面に冷水をかけられて覚醒した。
強かに打たれて、頭がガンガンする。
立てないでいるとバケツを片手に持った白い兄弟子……いや、『姉弟子』は隣に座った。

「だらしのない奴め。これだから女は」
「お、お前だって女だろう!?」

姉弟子は答えない。全く別なことを聞く。

「私の指導は理解出来ないか?」

理解など不可能だ。才能が、違いすぎる。
とはいえ、それを認めるのは癪に障る。
なので、返事の代わりに睨みつけると白い姉弟子には概ね伝わったらしく、溜息を吐き。

「そうか……恐らく、そこが私の剣に足りない部分なのだろう。この修行の要はそこだ」

ひとりで納得しているが、少女とてわかる。

「そのくらいは僕にでも理解できる」
「その僕というのはどうにかならんのか?」
「な、なんでさ」
「男らしく振る舞っているつもりだろうが、逆効果だ。眉間のシワも全然似合っとらん」
「そんなの僕の勝手だろう!?」
「ははっ。お前は本当にセンスがないな」

白い姉弟子がふと笑った。白薔薇のようだ。
ムカつくことに初めて見たその笑顔は少女の憧れである剣の姫の微笑みとよく似ていた。

「さて、わんちゃん。お勉強の時間です」
「ああ。よろしく頼む」

その頃、犬は調理室で勉学に励んでいた。
とはいえ、犬は無学どころかほとんど無知なので難しいことどころか常識すら知らない。

「魔法には想像力がもっとも重要なのです」
「ふむ。想像力か」
「ちなみにわんちゃんはいつもどんな妄想してますか? 洗いざらい話してください」
「妄想? いや、特には……」
「じゃあ、毎晩どんな夢を見てますか?」

犬は素直なので、ありのままを口にした。

「昨日はお嬢と仲直りする夢を見た」
「じゃあ、一昨日はどうでした?」
「一昨日も、その前の日も、同じ夢だ」
「ああ、そうですか。もういいですよーだ」

何故かあっかんべーをしてから、魔女は白い杖を振ってあらゆる現象を引き起こした。

天井付近にモクモクと雲が出来て雨となり、虹がかかって、すぐに雪に変わったかと思えば、稲妻が走り、ゴロゴロと雷鳴が響く。

それはまさしく、魔法であり、夢のようだ。

「あんたは本当にすごいんだな」
「あはは。何せ凄腕ですからね」

魔法調理師は本物の凄腕だった。故に乞う。

「今の魔法を俺に教えてくれ!」
「んー。今のはわんちゃんには無理ですね」
「そ、そんなぁ……」

がっかりする犬の頭を魔女はよしよし撫で。

「大丈夫ですよ。その代わり前に言った通り、エンハンスの魔法を伝授してあげます」
「エンハンス……様々な強化を施す魔法か」
「はい。地味ですけど、便利な魔法ですよ」

黒髪の少年は派手さを求めていない。
それが役に立つならば、なんでもいい。
ひとえに主人のために。役に立ちたいのだ。

「なんでもやるよ! だから教えてくれ!」
「じゃあ、私といちゃいちゃしましょう」
「い、いちゃいちゃ……?」
「手取り足取り、教えてあげますからね」

少年の純粋さにつけ込んで、調理室の魔女は若くて美味しい男の子の調理を始める。
素材の良さを活かしつつ、自分好みの味に仕上がるように、まずは下ごしらえから。

「とりあえず、服を脱いでください」
「ああ。わかった」
「おっと。ズボンは脱がなくて平気ですよ」

一切ね躊躇いもなくすっぽんぽんになろうとした少年を嗜めてから、じっくり検分する。

「ほうほう。良い感じに鍛えられた肉体ですね。まだ成長期なので骨格は完成していませんが、そこがまた何ともたまりませんねぇ」
「もっと筋肉が必要か?」
「いえ、これ以上は要りません。あまり筋肉をつけすぎると成長の妨げになりますから、今後はこの身体の維持に努めてください」
「わかった」

犬は基本的に全裸の生き物なので、少年にも肌を晒すことに対する羞恥心はない様子。
それをいいことに魔女は背後へと周り、背骨の並びを上から順に観察して、臀部へと行き着き、ズボンの上からその形を推し量る。

「素晴らしいですね。とても美しい形のお尻です。思わず叩きたく……もとい、かぶりつきたくなる良いお尻です。がぶりっ!」
「うわっ!? な、なにすんだ!?」
「フハッ!」

尻好きの魔女はちょっと頭がおかしかった。

「こほん。失礼しました。私としたことが」
「別にいいけど尻と魔法は関係あるのか?」
「いえ。全く関係ありません。趣味ですね」

こうも悪びれもせず開き直られると、少年としても怒るに怒れなかった。まさに魔女だ。

「たしかにお尻の形やその魅力は魔法には直接関係ありませんが、先程申し上げた通り魔法には想像力がもっとも重要です。つまり、ズボンの上からわんちゃんのお尻を眺めてその下に秘められた芸術を妄想することが大切なのです。ここまでは理解出来ましたか?」
「全然ちっともさっぱりわからない」

わからなくて正解だ。魔女は頭がおかしい。

「わからないのならば実践あるのみです。わんちゃんも服の上から私の身体を観察して想像力を養ってください。さあ、遠慮なく!」

遠慮なくと言いつつも自分は服を脱ぐ気が全くない魔女に対して一切の下心を持ち合わせていない犬は言われた通り服の上からその下に秘められた芸術とやらを想像しようとしたのだが、これがなかなか上手くいかない。

「ダメだ。ちっとも想像出来ない」
「わんちゃんは女の子の裸を見たことがないのですか? あのご主人さまの裸も?」
「小さい頃のお嬢の裸なら見たことあるけど、最近は見ていない。だからわからないんだ」
「なるほど。飢えてすらいないわけですか。ご主人さまに少し同情しちゃいますね」

やれやれと首を振り、魔女は犬の手を取る。

「特別に触れることを許可します」
「特別なのか?」
「はい。わんちゃんだけです」

魔女に触れる。魔女の身体は柔らかかった。

「お嬢とは違うな……」
「あはは。私は剣士ではありませんからね」

魔女は筋肉がほとんどなかった。
お嬢も細かったが、引き締まっていた。
違いすぎて、ますます想像が困難であった。

「うーむ……難しいな」
「発想を転換してみてください」
「発想を転換?」
「私とわんちゃんのご主人さまとの身体の違いに注目して観察してみてはどうですか?」

なるほど。それなら簡単だ。着眼点の変更。
最近のお嬢の身体を直接目にする機会は皆無であっても、魔女との違いは明白だった。

「あんたは柔らかくて、お嬢はしなやかだ」
「そうそう。その調子です」
「特にお嬢の足はとても綺麗で……」
「お尻はどうでしたか?」
「尻は……あんたよりもずっと小さかった」
「ふっ……私の勝ちですね」

魔女が張り合う場所は犬には理解出来ない。

「どうです? そろそろ、ご主人さまと私の身体の違いは理解出来ましたか?」
「それはわかったけど、こんなことに何の意味があるんだ? 俺は魔法を覚えたいんだ」

少年の逸る気持ちをわかった上で、魔女は優しくふわふわな黒髪を撫でて、諭した。

「何度も言っている通り、想像力が重要なのですよ。特にご主人さまの身体をちゃんと想像することが出来ないといけないのです」
「どうして俺の身体じゃなくて、お嬢の身体まで想像しなくちゃいけないんだ?」
「だぁって、わんちゃんはご主人さまのために魔法を覚えたいんでしょう? だからです」

反論は出来なかった。何もかもお見通しだ。

「今はひとまずご主人さまの身体の代わりに私の身体の構造を解析しましょう。それを踏まえてそれぞれの違いを理解してください」
「ああ! わかった! 頑張るよ!」
「はい。わんちゃんは良い子ですね」

ポンポン撫でる。頭ではなく少年のお尻を。

「あんたは俺の尻が好きなのか?」
「はい! 大好物……もとい、大好きです!」

魔女は嗤う。じゅるりとよだれを垂らして。

「ではこうしよう。私の真似をしろ」
「お前の真似を……?」
「そうだ。立ち居振る舞いから、そっくりそのままトレースしろ。立ち合い以外でもだ」

犬が変態魔女といちゃこらしていたその頃、少女と白い姉弟子は新たな修行法を模索して、懸命に試行錯誤を繰り返していた。

「目線が違う! どこを見ている!」
「そんな無茶な!?」

やれ指先の角度が違うやら、やれ歩幅が違うやら、あれこれ細かく指摘された挙句、とうとう目線にまで口を出されていい加減嫌になってきたが、これがもっとも重要であった。

「相手の足運びを見ることは重要だが、常に全景を視界に入れろ。景色が変わる筈だ」

言われてほんの僅か目線を上げる。
これまでは足運びばかり注視していた。
しかし、同作の起点は足だけではない。
腕の振り、身体の僅かな揺れ、呼吸。

景色が違ってきた。目から鱗が、取れた。

「よし! わかってきたようだな?」
「ふん! すぐに追いついてみせるさ!」
「抜かせ! 目の前しか見えてない小娘が!」

それでいい。望むところである。
目下の目標は飼い犬の奪還だった。
故に少女は手を伸ばす。その先を目指して。

それから数日が経過して調理室にて。

「さあ、わんちゃん。試してみてください」
「よし……これでどうだ!?」

充分魔素を集中してから放出する。しかし。

「ん……また失敗しちゃいましたね」
「ご、ごめん! 痛かったか……?」

魔法は上手くいかず、失敗した。
魔女の白い肌が鬱血して、青い痣となる。
かなりの激痛だろうに、魔女は一切そんな素振りを見せずに杖を振り、痣を消した。

「はい。もう一度です」
「も、もう一度って、これまで何度やっても成功した試しなんて……それなのに」
「成功するまでやるんです」

何度やっても上手くいない。自信を失う。
魔女は魔法はイメージが大切だと言った。
しかし成功するイメージが湧かなかった。
何度やっても失敗すると思っているのだ。
だから上手くいかない。だから失敗する。

「やっぱり俺には魔法なんて……」
「わんちゃんには出来ますよ」

挫けそうになる犬を、魔女はそっと支える。

「だってこんなに優しいじゃないですか」

失敗のたびに魔女を痛めつけてしまうことを忌避する。その思いやりの心が魔法使いの素質なのだ。
それが欠落している者は魔法使いではない。

「わんちゃんならきっと、誰よりも優しくて偉大な魔法使いになれますよ。他でもない、凄腕のこの私が保証します」

根も葉もなく、根拠もなく、そして相変わらず要領を得ない励ましの言葉を送る魔女は現在、半分露出した尻を少年に向けており、良いことを言っているのに全部台無しだった。

その日の晩、鍛錬場にて。

「白いの」
「ん? どうした。さっさと寝ろ」

夜遅く、少女は姉弟子の部屋を訪ねた。
姉弟子は書き物をしていたようで、机の上に開いたノートを閉じて少女を追い払う。

「お前、寝巻きは女物なんだな」
「黙れ。摘み出されたいのか?」

白い姉弟子は白い寝巻きを身につけていて、それは所謂ネグリジェであった。かわいい。
揶揄うと、姉弟子は実力行使しようとして。

「姉弟子。お願いだ」
「なんだ、藪から棒に」
「今夜、僕と寝てくれ」
「はあ?」

わけのわからないことを抜かす弟弟子……いや、妹弟子に困惑する。枕を持参している。

「枕まで持ち込んで、何のつもりだ?」
「僕はお前の寝顔を見たことがない」
「当たり前だ。修行中に居眠りなどするわけないだろう。お前は気絶してばかりだがな」
「不公平だ」

基本的に姉弟子は公正な人間だ。
その点も少女が憧れる英雄の姿と重なる。
故に公平さも重視すると思われた。

「不公平だと思うなら私から1本取ってみろ。私を気絶させて寝顔を見ればいいだろう」
「そのうちな。でも、今はまだ無理だ」
「鍛錬に励め」
「今見たいの!」

駄々を捏ねると、辟易として姉弟子は問う。

「何故そこまで私の寝顔を見たがる?」
「そうすれば、近づけると思って……」

ここ最近、少女は姉弟子の真似をしてきた。
稽古以外の時間も全て、所作を真似た。
しかし、唯一、寝顔だけは真似ていない。

「だから、寝顔を見せて欲しい」
「愚か者め。どの道お前も眠るのだから私の寝顔を真似ることなど出来はしまい」
「ぐっ……!」

正論だ。ぐうの音も出ないほどに。悔しい。

「なんて顔をしているんだ」

わからない。今自分がどんな顔をしてるか。

「ひとりでは上手く寝付けないのか?」
「ち、違うもん!」
「私はお前の犬ではないのだぞ」
「わ、わかってるさ! もう帰る!」

もういい。けちんぼ。踵を返そうとして。

「まったく……今晩だけだからな」

意外と、姉弟子は押しに弱いのだと知った。

場面は変わり、深夜の調理室。

「わんちゃん。大丈夫ですか?」
「はあ……はあ……そっちこそ、平気か?」

すっかり夜が更けた。
犬の魔力は枯渇寸前である。
対して魔女の尻はキレイなまま。
痣は杖のひと振りで治ってしまう。

「次で今日は最後ですね。集中しなさい」

わかってる。次の魔法で気絶する。最後だ。

「ところで訊きそびれていましたが、わんちゃんは私のお尻にどんなエンハンスをかけようとイメージしているのですか?」
「どんなって、ただ強くなれとしか……」
「アバウトですね。もっと具体的に想像しなさい。そうですね……たとえば私のお尻をご主人さまのお尻だと思ってやってみなさい」

お嬢の尻。小さくて引き締まった、臀部。

「ほら。わんちゃんの大好きなお尻ですよ」

犬は尻が好きなのではない。好きなのは。

「願わくば……」

犬は願いを言葉に代えて、想像力を高める。

「我が主人に天下無敵の祝福を」

万難を排する力を授け給え。尻が発光する。

「おおっ!? キタキタ! きましたよぉ!!」
「こ、これは……!?」
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

どうやら来てしまったようだ。その時間が。

場面は再び道場へと戻る。

「白いの。もっとそっち寄って」
「妹弟子のくせに図々しい奴め」

寝台を我が物顔で占領しようとする妹弟子に苦笑しつつ、姉弟子はスペースを空ける。

「お前のその無駄に自信満々なところだけは、私の姉さんにそっくりだ」
「白いのの姉ってどんな人なんだ?」
「私の姉はお前と違って本物の自信家で、それに見合う実力も備わった天才だよ」

どうやら白いのはシスコンらしい。揶揄う。

「お前はその姉とやらが大好きなんだな」
「尊敬はしている。しかし、現実は厳しい」
「どういう意味だ?」
「姉は確かに私の目標だが、あまりに高すぎる。決して追いつけない存在を目指すことは困難だ。たまに、諦めてしまいそうになる」

弱音など初めて聞いた。思わず、聞き入る。

「お前はいいな。現実が見えてなくて」
「悪かったな」
「褒めているんだ。お前はそれでいい」

褒め方が下手くそだ。しかし悪くなかった。

「今晩だけは特別に頭を撫でていいぞ」
「そういうところも、姉にそっくりだ」

どんな姉妹なんだと思いつつも腕まくらをされて頭を撫でられる。久しぶりの人肌の温もりに、少女がうとうとし始めた頃、先に寝てしまった姉弟子は寝言で姉の名を口にした。

それは聞き覚えのある、剣の姫の名だった。

薄々察していたその事実を聞かなかったことにして少女は姉弟子にぴったり身を寄せる。
頬に当たる膨らみが自分よりもあるのが癪だが、久しぶりの安眠と呼べる眠りであった。

翌朝。

「お嬢! 迎えに来たぜ! ……って」

待ちに待った再会の時がついにやって来た。
主人と犬。双方の努力が実を結ぶその時が。
しかし、師匠から道場に泊まり込みで修行していると聞いて向かった先で、犬は見た。

「お前の頭が重いから腕が痺れたぞ」
「それなら今日こそ一本取れるな!」
「抜かせ。返り討ちにしてやる。というか、寝癖くらい自分で直せないのか、お前は」

仲睦まじく部屋から出てくる男女、のように犬の目には映った。口喧嘩はしていても、甲斐甲斐しく少女の髪を手で梳くあれは誰だ。

「お、お嬢……?」
「い、犬……? お前、なんでここに?」

まるで不味いところを見られてしまったようにバツが悪そうにそそくさと身だしなみを整えるお嬢を見て犬は全てを悟った。

「ああ。そうか……なるほどな」
「ど、どうした? おーい、犬?」
「そいつがお嬢の新しい犬ってわけか」
「はあっ!?」

何やらひとりで事実誤認した犬。
この短期間で急速に発達した逞しい妄想力に主人はついていけず、姉弟子はむっとした。

「誰が誰の犬だって?」
「へっ。とぼけんなよ! あんたがお嬢の新しい犬だってことはもうわかってんだよ!!」

完全に暴走状態。もう誰にも止められない。

「ちょ、ちょっと待て! よく聞け、犬! お前は誤解している。こいつは僕の姉弟子……いや、兄弟子で、お前にとってもそうだ。だから、僕の犬はこれからもお前だけで……」
「お嬢は黙ってろ! これは犬同士の……いや、男と男の真剣な話なんだよ!」

男ではなく、女なのだが。思い込みは怖い。

「だから、それは誤解で……!」
「それで? 私に何の用だ、捨て犬」
「ちょっと! 話をややこしくすんなよ!?」

捨て犬呼ばわりとは。舐められたもんだぜ。

「どっちがお嬢の犬に相応しいか勝負だ!」
「ほう? 面白い。貴様が私に勝てると?」
「お前……完全に面白がってるな?」

売り言葉に買い言葉で話は進んでいく。
すっかり蚊帳の外に追いやられた主人のツッコミはもはや誰の耳にも届いていない。

「いや。あんたは強い。俺じゃ勝てねぇ」
「なんだ。捨て犬な上に、負け犬とはな」
「畜生……なんとでも言いやがれ! 今日までの俺の努力はひとえにお嬢のためのものだ! だからお前の相手は、お嬢にして貰う!!」
「どぇええっ!? ここで僕なの!?」

まさかの急展開。楽しげに眺めるのは師匠。

「おや? おやおや。これはこれは……思ったよりもずっと面白くなりそうですね」

その隣で相槌を打つのは尻好きの変態魔女。

「さすが私のわんちゃんですね。立派です」

師匠はともかく、魔女まで現れたのを見て、ようやく少女はこの状況が仕組まれたものだということに気づいたが、後の祭りだった。

「つーわけでお嬢、頼む!」
「あのね、犬。僕とお前は師匠と魔女に完全に騙されておもちゃにされてるんだよ?」
「騙されてなんかねぇ! この力は本物だ!」

犬の右手が光輝く。それに主人は瞠目した。

「お前、まさかその力は、魔法か……?」
「ああ、そうだ! これが俺の新しい力。お嬢のためだけに身につけた、強化魔法だ!」

実のところ主人には魔法の才能がなかった。
とはいえ、それは別段、珍しくもない。
この世界にはたとえ女であっても先天的に魔法を扱えない者が一定数存在している。
単純に、体内で魔力を生み出せないのだ。

「犬、お前は僕のためにその力を……?」
「俺はお嬢のためならなんだってしてやる! 握り飯が食いたかったらいつでもおにぎりを作るし、お嬢が強くなりたいなら、こうして魔法だって覚えて強くしてやる!」

口で言うほど簡単ではないだろうに。
犬はオスであり、つまりは男の子だ。
ただでさえ繊細な魔力の操作が難しく至難の技だったろうに、彼は成し遂げたのだ。

「わかった。僕は犬の思いと力で強くなる」

ならば主人として、その思い応えなければ。

「ふん。 見所があると思っていたが見当違いだったようだ。よもや魔法の力に頼るとは」
「僕の犬の力だ。文句なんて言わせない」

心底軽蔑したように吐き捨てる姉弟子。
正直、胸が痛む。けれど、無駄にはしない。
姉弟子との修行の成果と、そして犬の努力を合わせて、今日こそは勝利を掴むのだ。

「犬、やってくれ」
「ああ! 任せろ!」

エンハンスをかけるべく、犬は少女の背後に周る。そしておもむろに尻を鷲掴みにした。

「うひゃあんっ!?」
「な、なんだ!? お嬢、どうした!?」
「どうしたもこうしたもないよ!? どこ触ってんだよ、このバカ犬! えっち! 変態!」
「????」

犬にはさっぱりわからない。Why? 何故?
魔女はあんなに悦んでいたのに。
もしかしたらお嬢は慣れていないのかも。
ひとまず安心させる必要があった。

「お嬢、とにかく落ち着けって!」
「ふぐっ!?」

力一杯抱きしめるとすぐに大人しくなった。

「お嬢。大丈夫だ。俺を信じてくれ」
「し、信じてるよ。信じてるけどさ」
「深い訳があって俺は尻からしか強化魔法をかけられねぇんだ。驚かせて悪かった」
「な、なんでそんなことに……?」
「事情はあとで話す。今はひとまず、あの野郎に勝つことだけを考えろ。わかったか?」
「うん。わかった。僕、頑張るよ!」

久しぶりの犬の抱擁でエネルギーは満タン。
それこそ強力なエンハンスがかかったような万能感で、主人はこれから何が起ころうとも動じない自信があったのだけど。

「じゃあ、今から手を入れるぞ」
「は?」
「まだ直接尻を触らないと無理なんだ」
「いや、無理なのは僕なんだけど……?」

何を言ってるんだ、この犬は。頭おかしい。

「大丈夫だ。俺を信じろ」
「信じてるよ。信じてるけど無理」
「安心しろ。この時のためにお嬢の尻は完璧にイメージ出来ている。あとは実際の感触で僅かな誤差を埋めるだけで魔法は発動する」
「????」

犬が何を言ってるのかさっぱりわからない。

「具体的には産毛の生え方をだな……」
「う、産毛なんて生えてないよ!?」
「いや生えてる筈だ! そこが重要なんだ!」
「あ、姉弟子! 助けて!?」
「承知」

思わず助けを求めると白い剣士が肉薄した。

「私の妹弟子から離れろ犬畜生!」
「うわっ!? くそ! エンハンスをかける前に奇襲なんて卑怯だぞ!? 恥を知れぇっ!!」

恥を知るのはお前だ。主人として悲しいよ。

「あらあら? オイタはいけませんね」
「なにっ!?」

ひゅんと魔女が杖を振り姉弟子が膝をつく。

「さあ、わんちゃん! 今のうちです!」
「こらこら。手出しは無用ですよ?」

身内に甘い魔女と身内に厳しい師匠が教育方針の違いから、対立する。猶予は残り僅か。

「頼むお嬢! 俺はこの時のためにこれまで頑張ってきたんだ! 魔法をかけさせてくれ!」
「犬……魔法の修行はそんな辛かったの?」
「いや、俺は魔力切れで気を失う程度だったけど、魔法調理師のほうは何度も尻に青痣が出来て、見ていてすごく痛そうだった……」
「ふーん。へえ~。それは随分楽しそうだ」

犬に悪気はない。しかし、火に油を注いだ。

「別に楽しくはなかったけど、初めて魔法が成功した時は魔法調理師がすげえ悦んでさ」
「この浮気者!」
「うわっ!? 何すんだ、いきなり!?」

とうとう堪忍袋の緒が切れた。ふざけんな。

「そこに直れ、犬! この僕が切ってやる!」
「だから落ち着けっての!?」
「むぐぅっ!?」

また抱きしめられた。ムカつくけど落ち着く。やだなぁ……絶対に許したくないのに。

「わけのわからないタイミングでキレるのは勘弁してくれ! この前からおかしいぞ!?」

おかしくないもん。誰だってそうなるもん。

「キレるにしても理由を話してくれよ!」
「理由なんて……理由なんてないよ!」
「はあ? そんなの困るって!?」
「仕方ないだろ! お前だって僕に新しい犬が出来たと思ってキレたじゃないか!!」

そう言ってやると、犬はようやく理解した。

「たしかに……それなら、仕方ないな」
「バカ犬!」
「ごめんな、お嬢」
「お前は僕の犬なんだからな! 僕以外に尻尾を振ったらいけないんだからな!?」
「ああ……わかった」
「そんなにお尻が触りたいなら僕のお尻を好きなだけ触らせてやるから、だからどこにも行くな! お前は僕だけの、大切な犬だ!!」
「ああ……しかと心得た」

言った側からするりと、犬の手が侵入する。
このエロ犬め。どんだけお尻が好きなんだ。
でもこれで僕だけの犬になってくれるなら。

不思議と、安いものだと、思えてしまった。

「ようやく魔女の呪縛から解放されたぞ! 待ってろ、妹弟子! 今、私が助けて……」
「待ちくたびれたぞ、姉弟子」

呪縛から逃れた時、強化は完了していた。

「犬が言った通りこの僕が相手をしてやる」
「はあ……まったく、お前は聞き分けがなくて、頑固で、負けん気だけは一人前で、それなのに妙に寂しがり屋で、甘えん坊で……本当に私の姉とよく似ている」

強さ以外は。しかし、今は違う。豹変した。

「この感覚は姉との稽古と同じだな」
「白いの。お前はもう、僕には勝てない」
「そうかもな。いや、だからこそ!」

白剣の神速の突きが、矢のように直撃する。

「お前はこの私のパートナーに相応しい」
「悪いけど、僕のパートナーはもう居る」

そのパートナーの犬は、たった一度のエンハンスで魔力切れを起こしてくたばっていた。
右手に残る主人の臀部の感触と芸術的な産毛の生え方を忘れぬように薄れゆく意識の中でしっかり記憶しつつ、その祈りを呟く。

「我が主人に……天下無敵の、祝福を……!」

勝敗は決した。必ずや我が主人が勝利する。

「ようやく始まりましたか」
「すごいエンハンス適正ですね、あの子は」

茶番を終えて、師匠と魔女は観戦に戻った。

「うちのわんちゃんの魔力を全部吸い取っちゃうなんて、思いもしなかったですよ」
「それはそれは。あなたほどの魔女でもあの少女の素質の全容までは見通せませんでしたか」
「何せ体内に魔力がカケラも存在しませんからね。おまけに自分では生成が出来ないなんて」
「しかし器としてはもう既に英雄の域です」

白い剣士も善戦してるが一撃の重みが違う。

「技と身のこなし、あとは経験さえ積めば魔王とも互角に戦えるかも知れませんね」
「無論、育ててみせます。師匠ですから」
「それなら私も、せいぜいわんちゃんが干からびないように手を貸してあげましょう」
「ふふふ。随分とお気に入りなのですね」
「この私に一切の劣情を抱かない純粋さを持ち合わせている彼ならば、いずれきっと魔王をも超える偉大な魔法使いになれますよ!」
「魔女に目を付けられるとは彼もこの先大変だ。彼の純粋さにつけ込んでおかしな性壁を植え付けないでくださいよ?」
「フハハッ! もう既に手遅れです!」

そんな会話の果てに、戦いは終局を迎えた。

「もうやめろ、姉弟子。勝負はついた」
「ぐっ……わ、私はまだ、戦えるッ!!」

形勢は終始一方的であった。
技と身のこなしでは上であっても、一撃の重みが違い過ぎた。
全身がバラバラに砕け散りそうになるほどの衝撃を全て受け流すことは不可能だった。

白の剣士は倒れなかった。
もはや意識は朦朧としていても。
項垂れることすらないその姿勢は、まさに。

不 撓 不 屈。

「お前と犬のおかげで僕は強くなった」
「黙れッ……魔法頼りの、半人前が!」
「僕と犬は、1人と1匹で一人前だ」

一人前? 一騎当千……否、当万の間違いだ。

「だけど、技はまだ僕よりお前の方が上だ」

当たり前だ。私はずっと、姉を追ってきた。

「犬が拗ねるからパートナーは無理だけど、姉弟子として、これからも指導して欲しい」
「生意気なことを……」

何を今更。そんなこと、頼まれなくたって。

「ありがとう。姉弟子のおかげで僕はもっともっと強くなれる。いや、なってみせる!」

なって見せろ。私が辿り着けないその果て。

「果ての景色を……楽しみにしているぞ」

倒れる。寸前で、妹弟子に抱き留められた。

「ようやく……一本。僕たちの、勝ちだ!」

少女と飼い犬の戦いは今始まったばかりだ。
しかしようやく、先へ進む糸口を見出した。
果たしてその先に待つのは栄光かそれとも。

「天下無敵なのはいいけど、このお尻のムズムズだけはどうにかしてよ……犬のえっち」

ひとまずは犬の性癖を矯正するのが先決だ。


【剣と魔法と犬と僕】


FIN

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