長門有希に対して特別な感情を抱いているかと問われれば、答えは特に考えるまでもなく"YES"である。
とはいえ、それだけだと多大な語弊や誤解を招きかねないので、少々補足しておこう。
もはや今更言うまでもないが、俺にとって長門は恩人であり、それもただの恩人ではなく命の恩人である。
命の恩人。
そんな大層な存在がそんじょそこらに転がっている筈もなく、事実、俺は頭のイかれた優等生の朝倉涼子の凶刃から命を救われた。
つまり、長門は狂人の凶刃から身を呈して守ってくれたわけで、そう書けばなんだか笑い話や駄洒落のように聞こえるかも知れないが、当事者にとっては笑い話などでは済まされず、当然、洒落になっていなかった。
命の危機なんてものは普通に暮らしていればまず感じることはなく、無論、俺も生まれてこの方経験がなかったため、そんな絶対絶命の窮地を打破する術など持ち合わせてはいなかった。
そんな中、颯爽と現れた長門に救われた。
長門が居なかったら、俺はお陀仏だった。
今の俺がこうして呑気に息を吸い、そして吐いているのはひとえに、長門のおかげだ。
「頼みとやらを聞かせてくれ」
そんな恩人に頼まれ事をされたならば、ひと肌と言わずふた肌だって脱いでやりたいと思うのは人として当然の帰結だと、俺は思う。
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「飲んで」
頼みがあると呼び出されたのは例によって例の如く、長門の自宅マンションであり、相変わらず物が少なくて生活感のない室内で、俺はいつかのように出された茶を啜った。
「飲んで」
「いや、もう結構だ」
「そう」
このやりとりにもいい加減慣れたものだ。
きっぱり言ってやらないと長門はまるでお茶汲みロボか何かのように延々と茶を汲み続ける機械と化してしまう。
まあ、実際のところは"ロボット"じゃなく、宇宙人が作った"ヒューマノイド・インターフェース"とやらなのだが。
「そろそろ頼みとやらを聞かせてくれ」
部屋に招かれて開口一番に尋ねた問いかけを再び繰り返す。別に急かしてる訳じゃない。
こうしないと、長門は本題に入らないのだ。
「あなたに頼みがある」
「それはわかってる。知りたいのは内容だ」
手に持った栞をピラピラ振る。
そこには長門の達筆な筆跡で俺に頼みたいことがある旨が記されていた。
それを受けて、いま俺はここに居る。
「突然呼び出して申し訳なく思っている」
「いや、別に迷惑だと思ってるわけじゃないさ。ただよくわからないが、困っているんだろう? だったら、話してくれ。力になる」
何やら殊勝な長門の態度に思わず慌てつつ、なるべく穏やかな口調で話を促した。
「あなたに対する頼みはシンプル」
長門はゆっくりと目を閉じて、適切な言葉を選ぶように慎重な口調でこう続けた。
「あなたに私の頭部を洗って欲しい」
言われて惚ける。何を言ってんだこいつは。
「頭部って、髪をか? 何故だ?」
「ひとりでは上手く洗えない」
そんな馬鹿な。幼稚園児じゃあるまいし。
「上手く洗えないって、具体的には?」
「泡が目に入って染みる」
「ぶっふぉっ!?」
想像して、思わず吹き出した。非難の視線。
「笑わないで」
「す、すまん。つい、な」
謝りながら、自分の太ももをつねる。
未だに腹が捩れそうである。非常に愉快だ。
とはいえ、よく見ると長門の目が赤い。
まさか泡の影響が残っているわけでもあるまいし泣いているのだろうか。いやまさかな。
「目を閉じて洗えばいいじゃないか」
「ちゃんと洗えているか確認出来ない」
信じられない。長門がこんなに可愛いとは。
「それで、俺に洗って欲しいと?」
「そう」
ようやく、頼みとやらの内容を把握した。
先程自分で口にした通り、力になりたい。
とはいえこれは俺の役目ではないだろう。
「ハルヒや朝比奈さんに頼めばいいだろ」
「彼女たちはおしゃれ」
「それがどうかしたか?」
「……気が引ける」
なんとまあ、一丁前に恥じているらしい。
いや、この場合は照れているのだろうか。
まあ、たしかにおしゃれな奴に今更頭の洗い方を習うのは勇気が要ることかも知れない。
「気にする必要はないと思うぜ? 特にハルヒなら喜んで秘伝の髪の洗い方を伝授してくれるだろうさ」
「私はあなたの髪に惹かれた」
なんだそりゃ。髪なんて褒められても困る。
「実はこの日のためにあなたと同じシャンプーを用意した」
「同じシャンプーって、どうやって?」
「匂いを嗅いで」
お前は犬か。凄まじい嗅覚に正直、引いた。
「すごく良い香りがする」
そうだろうか。自分ではよくわからん。
そう言えば、妹がやたら拘っていたな。
それを勝手に使っているからかも知れん。
「俺と同じシャンプーを買ったなら、もう目的は達成したんじゃないか?」
「目に泡が入る問題が解決していない」
「だから目を閉じて洗えって」
「だから上手く洗えないと言っている」
これは参った。堂々巡りだ。ふと、閃いた。
「そうだ。シャンプー・ハットはどうだ?」
「馬鹿にしてる?」
「わ、悪い。一時の気の迷いってやつだ」
さも名案のように馬鹿なことを口にすると、悪意が伝わったようで長門に叱られた。
妹も同じように怒らせたっけ。やれやれ。
「しかし、髪を洗うとなると……」
「何か問題が?」
「いや、マズいだろう。常識的に考えて」
妹と一緒に風呂に入って髪を洗うならそれは微笑ましい光景かも知れないが、相手が同級生の女子となれば、そうも言ってられない。
「何がいけない?」
「何もかもだ」
考えるまでもない。それは出来ない相談だ。
「俺には無理だ」
「そう」
「悪いな。力になってやれなくて」
「いい」
長門は気落ちした様子もなく、あっさりと。
「コンピューター研究部の部長に依頼する」
それを聞いた瞬間、俺は無意識に怒鳴った。
「駄目だッ!!」
自分の声で我に返った。なんだ今のは。
俺らしくもない。怒鳴り散らすなんて。
取り乱した俺を、長門はじっと見つめ。
「嘘」
どうやら、冗談だったらしい。わかるかよ。
「……その手の冗談は勘弁してくれ」
「嬉しかった」
「何がだ?」
「あなたが知る必要は、ない」
やれやれ。宇宙人の考える事はさっぱりだ。
「……………………」
「……………………」
それから俺たちはしばらく無言だった。
長門はもともとあまり口数が多いほうではないので沈黙が苦にならないのかも知れないが、俺は先程怒鳴ってしまったこともあり、少々気まずかった。空気を変えたかった。
こんな空気にしたのは誰か。俺だ。
ならば、俺が空気を入れ替える義務がある。
そうだ。長門みたいに冗談を言おう。
目には目を、冗談には冗談を。いくぞ。
「一緒に風呂でも入るか?」
「……入る」
冗談にならなかった。どうしてこうなった。
「立って」
「ま、待てよ! 押すなって!?」
ぐいぐい背中を押されて俺は連行された。
自分から言い出した手前、今更冗談でしたとは言えず、脱衣所で立ち尽くす。
脱ぐべきか脱がざるべきか。悩んでいると。
「どうしたの?」
なんでもない顔をして、長門が脱いでいた。
即座に顔を逸らす。俺は何も見ちゃいない。
せいぜい、華奢な白い肩が見えたくらいだ。
「見ても平気」
「へ、平気なわけないだろう!?」
「水着、着てるから」
「へ?」
振り返ると、長門は白いスク水姿であった。
いろいろと言いたいことはあるがひとまず。
どうして白スクなのかを真っ先に尋ねると。
「あなたの好みは把握している」
俺はそんな特殊な趣味は持ち合わせてない。
「じゃあ、洗うぞ」
「わかった」
白スクはともかく、水着は正直ありがたい。
これならばある程度の健全さは確保され、そして俺もズボンをまくってTシャツで長門の髪を洗う大義名分を得た。脱ぐ必要はない。
「どうだ、長門?」
「素晴らしい」
俺の洗髪を長門は気に入ったらしい。
平坦な声音が少しだけ上擦っている。
念入りに頭皮をマッサージしてやる。
「あなたには才能がある」
「大袈裟だ」
「毎日マッサージして欲しい」
これでもちょっと前までは妹の専属頭皮マッサージャーとして勇名を馳せていた。
もっとも、最近はだいぶ腕が鈍っているが。
「髪、伸ばさないのか?」
「あなたはどうして欲しい?」
シャカシャカ長門の短い髪を洗いながらなんとなしに尋ねると、逆に聞かれてしまった。
しばらく脳内で髪が長い長門を想像して。
「別に今のままで構わないが、いつかはお前のポニーテール姿が見てみたいな」
「わかった。そのうち伸ばす」
そんな、わかっているのかわかっていないのかわからない返事を聞きながら髪を洗った。
「流すぞ」
「痛く……しないで」
いよいよその時は来た。いや、ようやくか。
まるでホイップクリームのようなきめ細かい泡に塗れて良い感じに仕上がった長門の頭にシャワーを向けると、完全に脳味噌が沸いているとしか思えない台詞を吐かれて白けた。
「お前な、ふざけてるのか?」
「私は至って真剣」
嘘をつけ。しかし、長門にしては悪くない。
「まさかお前がそんな冗句を言うなんてな」
「痛くしないで欲しいのは本当」
「ちゃんと目を閉じてれば痛くないだろう」
「あなたに背後から襲われる危険性が……」
「ほら、泡が口に入るぞ」
問答無用で洗い流す。長門は固く目を瞑る。
「よし。もう目を開けていいぞ」
「さっぱりした」
「そいつはなにより」
やれやれ。よもや宇宙人の洗髪をするとは。
「しかし、何の参考にもならなかった」
この期に及んでなんて言い草をしやがる。
こちとら恥を忍んで髪を洗ってやったというのに、これも自己中心的な地球人の影響かね。
「あなたの髪を洗う様子を観察したい」
こちらの憤りを知ってか知らずか、あくまでも自分本位な姿勢を貫き通す長門。
こいつがこんなにわがままな奴とはな。
そもそも最初から俺の洗い方を参考にすれば良かっただけの話じゃないか。徒労である。
「まあ、髪を洗うくらいならいいけどよ」
「シャンプーはいくらでも使って構わない」
別に髪が長いわけでもあるまいし適量で充分だ。ひとまず髪を濡らしてから泡立てる。
「すごい。目を開けたまま泡立てている」
「慣れだ。お前もそのうち出来るさ」
「コツを教えて欲しい」
「とりあえず、上を見ずに俯いておけ」
「なるほど」
本気で感心したように納得する長門を横目に、俺はそつなく洗髪を披露してやった。
Tシャツが泡塗れになったが、仕方ない。
「もういいか? 洗い流すぞ」
「流す際のポイントは?」
「特にない。目を閉じて泡を流すだけだ」
途中からなんだか阿呆らしくなってしまったのでさっさと洗い流すことに。目を閉じる。
そのままシャワーを頭に向けようとして、何者かにそれを妨げられた。長門の仕業だ。
「シャワーヘッドを離せ」
「それは出来ない」
「何をするつもりだ?」
「痛くするつもりはない」
やれやれ。痛くしないなら、いいけどさ。
「あなたの未来にはふたつの選択肢がある」
「なんだそれは」
目を閉じたまま、長門の言葉に耳を傾ける。
「ひとつは目を開けて痛い思いをする未来」
「それは出来れば避けたいな」
「もうひとつは、私に洗い流して貰う未来」
なるほど。今度は長門が俺の髪を流すと。
これはそういう趣向のイベントらしい。
とはいえ、選択の余地がない。不公平だ。
「どう考えても平等な選択肢じゃないな」
「そうでもない」
「どういう意味だ?」
聞いた印象だと、ひとつめの選択肢には苦痛が伴うのに対してふたつめの選択肢にデメリットは少ない。少々気恥ずかしいくらいだ。
しかし長門は否定して、条件を追加した。
「私があなたの頭部に付着した泡を洗い流す際に使うのがシャワーのお湯とは限らない」
なんだそりゃ。冷水で水責めしようってか。
「温かいことは間違いない。人肌の温度」
「人肌、か」
「そう。具体的には私の体温に準じている」
そこまで言われれば、鈍い俺でもわかるさ。
人肌というキーワードで俺は全てを悟った。
泡塗れのまま、長門に顔を向けて確認する。
「長門。まさか、お前は俺に……」
「そう。あなたの頭に尿をかける」
湧き上がる愉悦。それを理性でねじ伏せた。
「ま、待ってくれ」
「待てない。もう我慢の限界」
「は、話し合おう。話せばわかる」
「わからせてあげる」
待て待て。何をわからせるつもりだ。
まったく話が噛み合っていない。異星人め。
とにかく俺は窮地を逃れるべくあがいた。
「し、白スクが汚れちまうぜ?」
「ちょっと黄ばんだほうがあなたの好み」
「ひとの好みを勝手に作り上げるな!」
そもそも健全な男子高校生の代表格たる俺は黄ばんだ白スクなど一度もお目にかかったことはなく、その字面だけでワクワクする。
「あなたは今、期待している」
「な、何をおかしなことを……」
「私はあなたの期待に応えたい」
長門の言葉には使命感が感じられた。
こいつはいつもいつもどうしてそこまで。
身を呈してまで、俺なんかのために。
「その気持ちだけで充分だから……」
「私の気持ち、伝わった?」
「あ、ああ。よくわかった。だから……」
「それなら、かけていい?」
なんなんだこの会話は。無駄な抵抗だった。
「ど、どうして、そこまでかけたいんだ?」
「やはり、あなたは何もわかっていない」
長門の糾弾には明白な怒気が含まれており、俺は自分がわかったようなふりをして実は何ひとつわかっていなかったことにようやく気づいた。いや、気づかされた。長門有希に。
「私がどんなに、あなたを……」
「長門……」
懸命な長門の口調に、自問自答する。
もしも自分だとして。どんな心境なのか。
洗髪中の相手からシャワーを取り上げてまで尿をかけたいと思うその心理。真理とは。
「すまん。正直さっぱりわからん」
「だからわからせると言った」
俺にはわからないが、わかりたいとは思う。
「はあ……いいぜ」
「いいの……?」
「ああ。そうでもしないと俺にはわからん」
ため息をひとつ吐いて、俺は受け入れた。
戸惑う長門に笑ってみせる。口の中が苦い。
忘れられない出来事になりそうだと思った。
「床に、横になって」
「ああ……わかった」
俺だって男だ。覚悟は出来た。床に寝転ぶ。
「痛く、しないから」
「ああ……わかってる」
そのくらいは知っている。長門を信頼する。
「目を、閉じて」
「もう閉じてる」
気配でわかる。長門が頭上に跨った。今だ。
「悪いな、長門」
くわっと、目を見開く。刮目して仰ぎ見る。
「くぅ~泡が目に染みやがる」
「だ、だめ。見ないでっ」
「どぉしたぁ? なんだぁ? その染みはぁ?」
「ッ……私の……負け」
ちょろりんっ!
「フハッ!」
悪いな、長門。やられっぱなしは御免だ。
泡が入ろうとも尿が入ろうとも俺は見る。
長門の白スクから滴る、幻想的な放尿を。
ちょろろろろろろろろろろろろろろろんっ!
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「ううっ……悔しい」
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
愉悦をぶちまけながら、勝利の美酒に酔う。
勝った。そうだ、俺は勝ったのだ。勝者だ。
見ろ、あの悔しそうな長門の顔を。甘美だ。
そう、甘い。長門のおしっこは、甘かった。
「フハハハハハハッ……ゲホッ! ゴホッ!」
「調子に乗りすぎ」
気管に入ってむせる。我ながら情けないぜ。
「これで、わかった?」
どうだろう。俺はきちんと理解出来たのか。
いや宇宙人の考えてることなんてわからん。
ただわかろうと努力することが大切なのだ。
「また、わからせてくれるか?」
「私も、あなたにわからせて欲しい」
そんなよくわからないやり取りはまさに異星人との会話のようで、誰にも理解出来ないかも知れないが、洗髪を終えた俺と長門はどちらもわかったような、さっぱりした顔をして嗤い合った。
それが特別な感情とは互いに気づかぬまま。
【長門有希の洗髪】
FIN
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