七尾百合子の夢十夜 (35)
アイドルマスターミリオンライブ!のSSです。
夏目漱石『夢十夜』のパロディで、七尾百合子が不思議な夢を見るお話です。
ほぼ地の文です。文章が固くて長いです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1604094717
第一夜
こんな夢を見た。
指先が冷やりと露を撫でた。深海のように暗い深緑の芝が風で擦れる音が聞こえる。
私はその只中に腰を下ろし、肌を撫でる夜風によって自分の曖昧な輪郭を感じていた。秋虫の翅が立てる音も夜鳥の甲高い鳴き声も、湿った地面に吸い込まれていく。顔を持ち上げると傾いた地平線の上に、より深い黒が広がっている。その画紙にチラチラと、白い砂が撒かれていた。砂はペッタリと貼り付いて、紙と一体になっているようだ。
とても届かないな、と私は思った。夜空に向かって手を伸ばしてみる。手の平に透明な何かが触れた。指を曲げると、ぐにぐに、と水風船を握っているような感触がある。これは一体どういうことだろうと、指の曲げ伸ばしを続けているとやがて指の隙間から煙が漏れるように透明な何かは空気と変わり消えた。そのまま腕をパタパタと振ってみても、まるで感触の無いサラサラとした風が抜けるばかりだった。
なにか、大切なものだったような気がする。しかし、腰を持ち上げることは出来なかった。足に力を入れても冷たく重たい芝に沈みこむだけ。分厚い湿布の上に座っているようだ。足先にジンワリと広がる悴みに、靴を履いていないことに気が付いた。
なるほど、これでは立てる筈もない。どうして前もって靴を編んでいなかったのだろう。周りの草々を刈って乾かしておけば、足袋の一つでも拵えることが出来たハズなのに。後悔ばかりが先に立つ。どうしたものか。
指で傍の芝を撫でていると、音もなく指の先に星が落ちてきた。ちょうど手を伸ばしても届かない位置だった。星はまるで生きているかのように、小刻みに震えていた。光が煌々と輝いている。
星に手を伸ばすと、光によって照らされた自分の掌の影がスルリと目に吸い込まれていった。そうなると、自分の手が大きな影にしか見えなくなった。もしもこの光に触れてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。夜の影であるところの私は光に呑まれて消えてしまうのだろうか。
悩んでいると星は真鍮製のコップを箸で叩いた時のような音を鳴らして散ってしまった。小さな光を残している欠片を拾い集めれば、また元のような輝きを取り戻すだろうか。きっとそうではない。割れた星は、割れた星だ。一つの光には戻らない。
そうして、数個の星を見逃していった。星が弾けた数が十四を超えた頃、空に浮かぶ一つの星が目に入った。どうしてか分からないが、あの星を掴まなければ、と思った。どうすればあの星を掴めるだろう。いや、きっとあの星も自分の届かないところで散ってしまうのだろう。自分が掴まなくても星はまだ無数に空を飛んでいるし、誰か別の人の心を照らしてくれる。そういうものだ。この空は誰の物でもない。
だが、その星から目を離せなかった。じっ、と身じろぎもせずに見つめていた。やがてチラと星の輪郭がブレたと思ったら、透き通った音を響かせながら星が落ちてきた。きっと自分の近くには落ちてこないだろうと高を括っていたにも関わらず、どうしてか、諦めきれなかった。
流れ星は私の目の前で、宙に浮かんだまま停止した。足に力を込めると腰が浮き上がり、私は立ち上がることが出来た。胸の前で星が煌めいている。
包み込むように、決して零さないように、星に両手を伸ばした。
第二夜
こんな夢を見た。
土埃の匂いがするビル群の前に佇んでいた私は、子供が泣く声を聞いた。
えぇん、えぇんと駄々を捏ねるような声ではない、上質な悲劇のクライマックスシーンでヒロインが殺害されたような、痛覚を刺激される声だった。泣き声はそこかしこから聞こえる。耳を塞げど鳴り止むことは無い。ならばと、私は声が聞こえる方へと走り出した。最後の角を曲がるまで赤い裏地のマントが背を撫でることはなかった。
異形の怪物が子供を縊り殺そうとしていた。人の形を成そうとした泥のような姿に説得の余地なしと、私は雄叫びと共に右手に力を込め、大地を蹴った。身体の勢いを乗せたまま右手を怪物にめり込ませると、グチャアと嫌な感触と共に怪物の身体が抉り散った。
子供を持ち上げていた泥は力なくダラリと垂れ下がり、子供と共にボトリと音を立てて地面に転がった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
子供は一言だけ発すると、動じた様子もなく別の路地に消えていった。やけに無味乾燥なものに感じた。地面には泥に塗れた怪物の眼球が転がっている。酷い匂いがする。下水を窯で煮詰めたような匂いだ。堪らず鼻を袖口で覆う。足元の亡骸がブツブツと嫌な音を立てている。右手には腐りかけの魚の腹に手を突っ込んだような、生暖かい感触が残っていた。
とにかくこの場に居たくなかった。自分を動かすために誰に言うでもなく「行かなきゃ」と呟いた。地面に広がる泥状の物体に足を捕られ思うように進まない。重い。重い。苦しい。「苦しい」? 私は別に苦しくはない。誰かが苦しいと呻いているようだった。ただ、その声の主は終ぞ判明しなかったし、詮索する気にもならなかった。
路地を抜けると多少空が開けていた。明るい灰色の空だ。ビルの影の色よりはよっぽど気分が晴れる。明るく重い雲を網膜に擦り付けて視線を下げると、女が立っていた。黒い制服に赤いタイ、右手に倭刀を携えている。
嗚呼、戦わなきゃ。何故かそう感じた。私は右手に力を込める。女は構えない。私は膝を曲げ飛び掛かる構えを取る。女は構えない。私は吠えた。女は構えない。右手がどんどん女に近づいていく。女は構えない。右手が女の鼻先に触れる。女は最期まで構えなかった。
こんな夢を見た。
鼠色の雲が薄く青空に広がっているような、明るくて淡い水色の髪の少女が「見ていてください」と呟いた。
彼女がポンと胸の前で手を叩くと、手と手の間から小さな象が落ちてきた。軽やかに着地した象はパオン、パオンと小気味良い声をあげながら元気に走り回っている。私は賞賛を示すべく、両の手の指の腹をカチカチと鳴らした。
私は閃いた。その手から食べ物を出し続ければ、世界中の貧しい人々が救われるのではないか。出来ますよね? と私は半ば煽るような口調で少女に問うた。少女は腰に手を当てたまま顎をクイと持ち上げ、鼻で息を吹いた。仁王像もかくやという堂々とした風体である。少女は両の手の指を十分に解した後、胸の前でポンと叩いた。
手と手の間から、私の頭ほどの大きさのあるボウリングの球が落ちた来た。球は硬い床にぶつかりゴトンと大きな音を立てた。耳がジンと痛み、あまりの衝撃に私は思わず後ろに飛びのいた。これは一体どういうことか。床に転がる球から視線を持ち上げて少女を見ると、彼女は変わらず威風を堂々とさせていた。
「見ていてください、今に大きなパンに変わりますよ」
なるほど、そういうことか。なんとも茶目っ気に溢れた彼女らしい。二三の小言を吐いた後、二人とも膝を畳みこみ、球の傍に座り込んだ。この赤黒く艶々しい輝きを放つ球が如何にして香ばしいパンに変わるのか。心を躍らせながらこの硬く重い球を見つめた。
私は球を見つめ続けた。やがて日が暮れ、赤黒い色も一様に暗く見えてきてしまった。一向に球が変化する様子はない。これは一体どういうことか。
目の前の少女に改めて問おうと顔を上げると、彼女はもうそこにはいなかった。なるほど一杯食わされたらしい。仕方がないので、私は改めてボウリングの球を見つめ続けた。ただの黒く丸い輪郭だけが見える。
球と二人きりになった私は、思えば貴方も悲しい人ですね。と話しかけてみた。好き好んでこの硬い地面に落ちてきたわけでもないでしょうに。本来ならば今頃、痛快な音を響かせて、ピンを弾き飛ばしていたのでしょう。素晴らしい球だと称賛されたかもしれません。それが今はこうして、運命のいたずらでこの地面に縫い留められてしまっている。可愛そうな球。
誰に言うでもなく、ただ目の前の球にそう告げると、私は少し悲しい気分になった。もう動かない球を憐れんでいたハズなのに、球に憐れまれたようだった。喉の奥がググッと熱くなって、目から雫がジワジワと溢れてきた。どうしてこの球はここに落とされてしまったのだろう。パンに変わることも出来ずに、誰に美味しく食べられるでもなしに。いっそ、パンに変わってしまえばまた別の運命をたどっていたかもしれないのに。少女がいなくなった今では、きっとそれも叶わない。嗚呼、この球は今の私のようだ。
ポロポロと涙をこぼしていると、目の前にフワリと足が伸びてきた。長い髪もフワフワと棚引かせながら、彼女は泣いている私を見ると憐れむでもなくにっこりと微笑んだ。
「おや~、美味しそうなパンですね~」
少女はひょいと球を拾い上げると 、大きな口を開けて豪快に食んだ。サクッと何かが割れる音と、彼女の首の動きに合わせてミシリと繊維が引き裂かれる音がした。彼女はどうして球を食んでいるのか。気付くとこちらまでふわりと酵母の香りが漂ってきた。目を真ん丸に見開いて、球を噛み締めている様子を観察すると、泣いて乾いていた口の中がジワリジワリと湿ってきた。
ボウリングの球だと思っていたものは、最初からパンだったのだ。
>>7 に誤植がありましたので、もしまとめて頂ける際には差し替えて頂けると幸いです。
第三夜
こんな夢を見た。
鼠色の雲が薄く青空に広がっているような、明るくて淡い水色の髪の少女が「見ていてください」と呟いた。
彼女がポンと胸の前で手を叩くと、手と手の間から小さな象が落ちてきた。軽やかに着地した象はパオン、パオンと小気味良い声をあげながら元気に走り回っている。私は賞賛を示すべく、両の手の指の腹をカチカチと鳴らした。
私は閃いた。その手から食べ物を出し続ければ、世界中の貧しい人々が救われるのではないか。出来ますよね? と私は半ば煽るような口調で少女に問うた。少女は腰に手を当てたまま顎をクイと持ち上げ、鼻で息を吹いた。仁王像もかくやという堂々とした風体である。少女は両の手の指を十分に解した後、胸の前でポンと叩いた。
手と手の間から、私の頭ほどの大きさのあるボウリングの球が落ちた来た。球は硬い床にぶつかりゴトンと大きな音を立てた。耳がジンと痛み、あまりの衝撃に私は思わず後ろに飛びのいた。これは一体どういうことか。床に転がる球から視線を持ち上げて少女を見ると、彼女は変わらず威風を堂々とさせていた。
第四夜
こんな夢を見た。
古い木と紙の匂い。赤い西日に照らされて燃え盛る本棚。私は図書室のカウンターの中にいた。横を見ると私と同じ図書委員の菖ちゃんではなく、声も身体も大きな野球少年の柿下くんが立っていた。いつも窓から見下ろした時に着ているユニフォームのままだ。
図書室には似合わないなぁと思った。図書室には図書室の独特の空気がある。屋内の日陰を集めて、蝋燭の小さな橙色の明かりで鮮やかに照らしたような空気だ。白い太陽では到底作り出せない。今の柿下くんの見た目からは太陽の匂いがする。これを本人に伝えたら怒るだろうか。それとも理解されずに流されるだろうか。いずれも事態が好転するとは思えない。さて、どんな話を切り出せば良いだろう。
ところが私の心配は杞憂となった。柿下くんはピクリとも動かない。瞬きどころか、脈動の一つも起こしていないようだ。そういえば、いつもは司書の相馬さんが掃除をしている時間なのにホコリが舞っていない。西日に照らされたホコリがチラチラと輝く光景が好きだったのに、今日のホコリはただ一点に留まって胡坐をかいていた。
仕方ない。柿下くんの後ろを通ってカウンターの横の扉をキィと押す。キィと鳴ると思ったが、一切の音は立たなかった。そういえば、いつもは外で野球部の掛け声が聞こえているはずなのに今日は聞こえてこない。柿下くんがここにいるから当然か。気にせず本棚の奥に向かう。
本棚の影を覗くと相馬さんがハタキを持って固まっていた。いつもの草臥れた紙の束のようなハタキだ。あのハタキからホコリが出ているんじゃないかといつも訝しんでいたが、どうやらそのようだった。本棚に衝突した瞬間であろうハタキは大きな紫色の煙に包まれている。そのせいで図書室はいつも煙たかったのか、今度図書委員のみんなでお金を出し合って、新しいハタキをプレゼントしてあげようか。
改めて窓側の柱にある掛け時計を確認して、秒針が動いていないことを確認した。動こうとしている様子も見受けられない。いつも忙しない秒針は一切の乱れの無い氷のように清閑としていた。ならばやることはひとつだ。この世界には授業も宿題も無い。手近な本棚から、お気に入りの本を取り出す。表紙も背表紙も真っ白だけど、確かにこの本がお気に入りだと確信を持っていた。
普段ならばカウンターに本を持って行って図書委員の仕事をしながら本を読んでいるが、今日はそれも気にしなくて良い。いつもより少し幅の広い椅子にゆったりと座りながら、大きな長机を独り占めだ。私は夢中で頁を指で擦った。読めども読めども日は沈まない。誰も動かない。明日ももう来ない。
本を四分の三ほど読み進めたあたりだろうか、眠気がソロソロと忍び寄ってきた。しかしここでは眠っても時間が進まない。好きに寝て、また起きたら本を読めば良いのだ。
だが、どうしてか、寝てはならないような気がした。寝てしまったら何が起こるのかは分からない。何も起こらないかもしれない。永遠に進まない時の中で、自由に起きて自由に本の世界に没頭できるかもしれない。眠い。体温がぽんやり上がってくる。でも寝てはいけない。何かを失ってしまう。何故そう思うのかは分からないが、そう思った。私は寝てはいけない。今、惰眠を貪ると二度と身体が動かなくなる。そうだ、起きなきゃ。私は。
瞼が上から降りてきた。
第五夜
こんな夢を見た。
頭の上で手が縛り上げられている。今、この手が掴めるものは倦怠感だけだ。手を休めようと錠に手の重みを預けると幾分楽になるが、今度は血流が堰き止められて自分の脈が悲しいくらいに伝わってくる。冷たく重たい岩で囲まれた鬱屈とした牢の中では能天気な妄想の花を咲かせることも出来そうにない。
「あの、リリー、さん……」
私のことをリリーと呼ぶ少女も同じように縛られていた。表情には疲労の色が濃い。トロンと眠そうな瞼がその色をより強調している。元はと言えば私が後方の注意を怠ったため、こうして二人とも捕まってしまったのだ。正面から相対すれば決して負けるはずのない相手だった。不意を突かれた私が人質に捕られ、少女は抵抗すら出来なかった。
悔しい気持ちを喉の奥で磨り潰しながら、謝罪の言葉を紡いだ。少女は私の謝罪の言葉を聞き終える前に首をゆっくりと左右に往復させた。
「ん、大丈夫……です」
そうは言っても、武器は取り上げられているし魔力も封じられている。ただのか弱い二人の人間となり下がった私たちは、たった数センチの鉄の鎖ですら千切ることは出来ない。少女の身体は私よりも更に細い。平時は野原を風のように翔ける少女だが、それは能力や技術によるもので、本人は小動物のように可愛らしい。こうして薄暗い部屋の中では更に小さく見える。
少女はふぅと一息吐くと、背を石壁に預け、全身の力をダラリと抜いた。そのままズルズルと下がって行き、少女の身体が服の中に溶けていった。錠に繋がれていた手首も心太のようにヌルリと抜け落ち、やがて服だけが力なく床に寝転んだ。服の中では固体とも液体ともつかぬ弾力を有した物体が広がっている。
なるほど、そうすればいいのか。私も全身の力を抜いた。身体が重力に従ってズルリと垂れていく。しかし、私は完全に溶けることは出来なかった。骨まで溶けなければ錠から手を抜くことが出来ない。手を抜こうと力めば力むほど身体は固体に戻ってしまう。どうしたものかな。もう少し練習しておけばよかったなぁ。
液体となった少女は服から抜け出してこちらに近づいてくる。大丈夫だよ、と優しい声が牢の壁に反響する。未だ固体のままの私の足先に、少女の先端がピタリと触れた。柔らかくて温かい。触れている箇所は指先だけなのに、全身を包み込まれるような感触だった。じわりじわりと、私の表面を少女が這い上っていく。包み込まれている部分の力が抜けて、私と少女が混ざり合っていく。
腰まで少女に飲み込まれるころには、また一緒に冒険しようね、と響く声も私のものなのか、少女のものなのか分からなくなっていた。
私もしくは少女は、その声に対して元気に「うん」と答えた。錠から腕がスルリと滑り落ちた。
第六夜
こんな夢を見た。
コンコンと軽快な音が聞こえる。その音は私の腕から聞こえていた。
「百合子がさ、出てこないんだよ」
ナチュラルボブの快活な少女が私の腕に鑿の先端を当てがいながら、尾部を玄翁で打ちつけていた。鑿の先端は鈍く輝いていたが、私の表面は傷ひとつ無い。それでも少女は力を込めすぎることなく、マッサージをするように優しく玄翁を振った。音も振動も感じるにも関わらず、身体は指一本すら動かすことが出来ない。
「おっ」
それまでコンコンと響いていた音が、カツンッと何かを割るような音に変わった。そのままカッ、カッ、と隙間に鑿の先端を差し込んで叩いていくと、私の右腕には徐々に血が通っていった。
ありがとうございますと口を開こうとするも、口も動かない。そうか、顔はまだ割ってもらっていない。眼で訴えようとするも、眼球すら動かない。どうしたものかと悩んでいると、目の前の少女は動かない私の視線に、自身の顔の位置を持ってきてくれた。じっと瞳の底を覗き込まれる。まるで裸体を晒したかのようにむず痒い恥ずかしさを感じた。
「それくらいなら自分で動けるだろ」
そうは言っても、身体が石になったように動かないのである。石が動いているところは見たことが無い。石はどうすれば動けるのだろうか。石は動けるような構造にはなっていないではないか。
「石はこれまで動こうとしなかったから、動けなかったんだよ」
なるほど。思えば、石が動こうとしているところを見たことが無い。それならば、私が世界で初めての、動こうとする石になってみせよう。首を捻ろうと力を込めてみる。筋肉も無いので力を込めることは出来ないが、とにかく力を込めてみるのである。プルプルと首筋が震えたような気がする。変なところに力を入れ過ぎて下あごがピクピクしている気がする。
そんな私を見て少女はケラケラと笑っていた。
「あっ、しまった」
ふいに私の右腕が掴まれる。掴まれた感触は無い。私の腕は再び硬くなっていた。デコピンで弾かれるも、爪がカンカンと甲高い音を鳴らしながら跳ね返った。
あちゃ~、やっちまった、と反省の色を見せる少女。申し訳なさそうに私の腕を擦っている。
「そういえばオレ、花屋を目指すことにするよ」
そうですかと答えた。いつのまにか口は動くようになっていたらしい。
そうですかと答えたつもりだったが、口からは「イヤです」という言葉が発された。なぜか分からないけれど、私はとても悔しい気分になった。感情を口から取り出して、右手でよく練り固めてから少女にぶつけた。気付けば右手も動いていた。
「オレはやりたいことをやるからさ、百合子の早く動けよな」
そうですねと答えた。今度は思っている通りに口が動いた。私に背を向けて歩き出す少女に向けて、私も一歩を踏み出すと、全身に温かい血がドッと駆け巡った。
第七夜
こんな夢を見た。
暗い、深海のようなステージだった。スポットライトは点いているが、光が途中で波にかき消され、青白く不揃いな光しか届いていない。
必死に手足を動かそうとするも、高い水圧のかかった空気はいつも以上に重たくて腕を持ち上げるだけでも一苦労だ。足なんか数センチしか上がらないし、息を吸いこんでも肺に塩辛くて冷たい水が流れ込んでくる。
0番のポジションでは本日のセンターが三歩分前に出て軽快なダンスを披露している。その様子を受けて、客席で揺れるサイリウムの藻場が波打つ。海の底で踊っていたのは私だけだったような。こんなに身体が熱くなるほどに圧迫されて、バチャバチャと音を立てて、まるで溺れているみたい。
あぁ、次は私の番だ。歌詞もダンスも何も分からないが、皆の視線で気付くことが出来た。気付かされてしまった。普段よりも白さが目立つ数千の瞳が私を縛り付ける。
前に出ることが出来ずにいると、私以外の全員がズルルッと後ろに下がって気付けば私が中央に立っていた。音楽は途切れない。視線も途切れない。必死になって手足を振り回そうとする。折角覚えたステップが踏めない。手振りが思い出せない。それでも手足を振う。動かしているだけだ。徐々に眼前で揺れていた海原が凪いでいく。
動いているのは私だけ。手を振ると水流が周囲に広がるが、乱れないまま壁に跳ね返って 私の下へ。客席のサイリウムがポツリ、ポツリと消えていき、どんどん水深が深くなっていく。沈めば沈むほど音は遠くなっていくし、水温は下がっていく。こんなに必死に身体を動かしているはずなのに、ブルリとした底冷えが襲いかかってきた。
腕と太腿に乳酸が溜まっていき、やがて関節を曲げるのが辛くなってきた。海底に身体が引っ張られる。海砂に足を取られる。いつの間にか私以外のアイドルはステージに立っておらず、サイリウムの光も両手で数えられるほどしか残っていない。スポットライトは光っているが私には届かない。
いよいよ足が地面から離れなくなった。その瞬間に、しまった、と思った。気付いた時には足がズブズブとステージに沈みこんで抜けなくなってしまっている。思いっきり力を込めてもびくともせず、動けば動くほど深みに嵌っていく。
前からも後ろからも白い目が向けられる。腰までステージに沈んだ時に手をついたら、手も柔らかくて重たいステージにめり込んで外れない。音楽はもう聞こえない。
アイドルは、アイドルという人間は、常に動き続けないといけなかった。例えダンスを忘れようと、誰からも応援されなくとも、動き続けないと、手と足を縛られてしまうのだ。
ステージに顎が付いた。湿った砂の重みが全身を絞り上げる。あぁ、今度はもっと上手くやらないと。重くても、痛くても、動き続けなければならない。
もうすぐ息が出来なくなるだろう。身体が沈む。沈む。沈む。ゆっくりと私はステージの一部になっていった。
第八夜
こんな夢を見た。
水銀灯の冷たい明かりが照らす静かな部屋で、テルテル坊主のような恰好をした自分を鏡の中に見ていた。
私の後ろには明るくボリューミーな髪を二つに結んだ少女が立っていて、金属製の鋏をシャキシャキと動かしていた。部屋全体の色温度が高いため、本来ならば明るいであろう髪色は鈍色に見えていた。
首の後ろで金属が擦れる音が聞こえる。それと同時に細い線が刻まれ、頭から垂れるものが軽くなっていく。
一定のリズムで軽い音を聞くのは心地良かった。時々側頭部に触れる掌すら、温かみを感じる。
「ユリコの髪はウェットで綺麗ですね」
少女が髪を持ち上げ、指の間からさらりと流してゆく。滑らかでありながら軽い感触が少しこそばゆい。さら、さら、シャキ、シャキ。鼻歌でも歌っているかのような、軽やかなリズムだ。自然と瞼が下がり、口角が上がる。
鋏を動かす少女も上機嫌のようだ。小さな頭と大きな髪束が左右に揺れている。いつまでもこの音を聞いていたいなと思った。どうやら私の頭髪は切ったそばから伸びているようだ。都合が良い。このままのカットのペースなら永遠に切り続けられることだろう。
唐突に、背後から音が聞こえなくなった。
「終わりましたよ。とってもコケティッシュになりました」
鏡に映る私はいつもの髪型で、いつもの顔をしていた。むしろ、いつもより気の抜けた顔をしているように見えた。
「プリティで、ゴージャスで、とってもセクシーです」
そう言われてみると、確かにいつもより可愛らしいかもしれない。首を振って、襟足の揺れ方を確認してみる。うん、確かに、心なしか周りの照明も明るくなっているような気がする。ありがとう。
「これが今日カットしたユリコのヘアーです」
身体を捻って座っている椅子の後ろに目を向けると、少女の腰付近まで青色の髪が積みあがっていた。こんなに沢山切ってくれたんだなぁ。少女がズボズボと髪の山から体を抜き出す。あぁ、服に沢山わたしの髪がついてしまっている。はやく払わなきゃ、と私が立ち上がろうとすると少女は「ノープロブレムです」と言いながら全ての髪を吸い込んだ。
ゴクンと喉を鳴らした瞬間に、明るい黄色だった彼女の髪は鮮やかな青色に変わった。
お腹壊さないでね、と私は笑った。
第九夜
こんな夢を見た。
水分をたっぷり吸い込んだ濃い樹木の香りのする長机の上に、文庫を広げている。頁を捲ると滑らかな手触りと、微かな紙の香り。円形の本棚に囲まれた中央で、私は夢中になって文字列を目で追っていた。
「お姉ちゃん」と、長机の奥から声が聞こえたと思ったら、机に小さな手がかかり、「うんしょ」という可愛らしい声と共に向かいの椅子に女の子がよじ登ってきた。セミロングの青い直毛が無造作に揺れる。
五歳くらいだろうか。黒いハードカバーの分厚い本を片手と胸でバランスを取りながら必死に支えている。私と同じように長机にハードカバーの本をドンと置いて中央付近をバサッと広げて「ふむふむ」と覗き込む。
栞も栞紐も挟んでいないというのに、途中から何を読むというのか。それにしても楽しそうに本を読む女の子だ。大きな瞳がキラキラと輝いている。
私も自分の本を読み進めようと視線を手元に落とすと「ねぇ」と声をかけられた。幼い子供特有の、遠慮も駆け引きも何もない、元気のよい掛け声だ。どうしたの、読めない漢字でもあった?と出来るだけ優しい声色で応える。
「アイドルって、楽しい?」
そうだね、楽しいよ。と反射的に答えてしまった。「ほんとに?」と自分自身から聞こえてきた。アイドルは確かに楽しい。けれど楽しいことばかりではない。まだまだダンスは苦手だし、人前で喋った時はいつも反省ばかりだ。うんうん唸っている間も女の子はこちらをじっと眺めていた。
「そっか」
一言だけ言葉を発すると、再び目の前のハードカバーの書籍に目線が落ちた。変わらず楽しそうに頁を捲っている。十秒に一度のペースで進められているが、そんな速度で本当に読めているのだろうか。ペラ、ペラ、と二人が本を読み進める音だけが響く。どうやら私たち以外は誰もいないようで、本を捲る音は円形の本棚で跳ね返って昇っていき、そのまま天井で跳ね返って返ってくる。
「ねぇ、アイドルって楽しい?」
顔を上げると、いつの間にか女の子の背筋はピンと伸びていて、指もスラリと伸びていた。自分で編んだであろう編みこみは締まりが悪く、ぼわっと広がってしまっている。思わずふふっと笑ってしまった。その笑いをそのままに「楽しいよ」と答えた。その様子を見て、女の子も笑った。
二言も会話を続けずに、二人とも同じタイミングで本に目を落とす。視界には入っていなかったけど、たぶんお互い笑っているんだろうな。
無言でただ頁を進める。机の対岸でも紙と指を擦り合わせる音だけが聞こえる。特に気には留めていないつもりだったけど、段々と読み進めるタイミングが合ってくる。
そろそろ話しかけてくるかな、と顔を上げた。
そこには、私と同じ目線の高さになった私がいた。
「アイドルって、楽しいね」
「そうだね」
第十夜
こんな夢を見た。
「選びなさい」
湖から聖母が競り上がってきた。
水音を伴いながら水面から上がってきたはずなのに、薄いシルクの白い記事は一滴も濡れていない。聖母が両手を肩と水平に掲げると、真下の水面が大きく波打ち、ピンクの子豚と金色の子豚が現れた。
「あなたが「落としていません」
落としていなかった。断じて豚を湖に落としてなどいなかった。片方の肺を賭けても良い。ちょっと言い過ぎた。肺は惜しい。いくら自信があったからといって私も酸素が惜しいのだ。
おそらく湖から頭を出す前から考えていた言葉だったのだろう。口上を遮られた聖母は露骨に怪訝な顔をした。聖母の両翼の子豚も心なしか悲しそうな顔をしている。
ふぅー、と長い息を吐くと、聖母は左手を胸元に差し込み何か長いものを取り出した。子豚はその様子を見て一度だけ小さく震えた。
聖母が左手を鋭く振うと、腕と連動して黒く長いものが滑らかに撓り、金色の子豚の分厚い皮に当たって鋭く重い音を立てた。
「ぶひぃぃーー」
妙に人間じみた鳴き声を上げながら、金色の子豚は等速直線運動で仰角四十五度を保った美しい軌跡を描いた。
金色に輝く姿も声も霞む程に遠くに飛んで行った彼を見届けていると、いつの間にか私の手には先ほど聖母が振るっていた黒い鞭が握られていた。
ピンクの子豚が震えている。しかしこちらからは決して目を離さない。どうしたものかと聖母に目を遣ると静かな優しい声で「やりなさい」と告げられた。
えいやっ、と情けない声と共に硬い鞭を振うと、聖母と同じように気持ちよく撓った。そのままピンクの子豚の肌はビシッと気持ちいい音を立てた。
「うぅっ……」
妙に人間らしい鳴き声と共に、ピンクの子豚がその場に倒れた。そのままピクピクと二回痙攣してから、白い煙を上げて消えていった。
罪悪感を感じかけたが、聖母曰く彼は救われたとのことだったので、なるほどと納得した。
「来ますよ、百合子さん」
聖母が顎で示した方向に目を凝らすと、数えきれないほどのピンクの子豚が押し寄せてきていた。鞭を握る手に力を込める。
接近してきた子豚たちを片っ端から鞭で叩いてゆく。聖母に叩かれた子豚は軽やかに吹き飛んでいくのに対して、私が叩いた子豚は呻き声を上げて転がって消えた。
そのまま数千、数万もの子豚を鞭で絞り上げているうちに日が暮れてきてしまった。半ば単純作業と化していて若干の飽きを感じてきた。暗くなる前に家に帰らないといけないのになぁ。
腕も疲れてきた。シャツがじんわりと汗で滲む。鞭が当たる音が徐々に小さくなってきて、叩かれた豚が呻きながら消えるまでに時間もかかるようになってきた。それでも豚の波は途切れない。
聖母は変わらず、綺麗な軌跡を描いて子豚を吹き飛ばし続けていた。
その姿をみてギョツとした。私の数倍は汗を滴らせている。息も絶え絶えで、いつでもその場に倒れこみそうだ。
それでも聖母が振るう鞭は美しかった。ピュンと軽やかな音を鳴らしながら撓らせていた。
その瞬間、隙を見せた私に子豚が衝突した。私に触れた途端に子豚は嬉しいような悲しいような、なんとも言えない表情をして消えていった。その様子を見て、他の子豚はピタリと動きを止めた。
「今日はここまでですね」
肩で息をしながら、聖母はこの作業の終了を告げた。
私たちに背を向けて夕日に向けて引いていく子豚たちの波を眺めながら、明日はもっと頑張ろうと心に決めた。
「百合子さん、百合子さん」
「んっ……?」
優しい声に包まれて、徐々に意識が覚醒していく。腕枕から顔を上げると朋花さんが私をゆすっていた。
「こんなところで寝ていては身体を痛めますよ~?」
「あれっ、寝てた……?」
劇場の事務室のソファで宿題でも片付けようとしていたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。
膝の上に抱えていた子豚のぬいぐるみがいつもよりも上がった体温によって蒸されている。
「宿題ですか~? きちんと計画的に進めなくてはいけませんよ~」
「あっ、朋花さんって数学出来るよね?」
「勉学は自分のものにしてこそですよ?」
「はい、スミマセン」
「私が出来ることと言えば」
朋花さんは私の横にスッと腰を下ろした。
いつの間にか、朋花さんの前にはマグカップが二つ置かれていた。カカオの甘い匂いが湯気と共に漂っている。そのうちの一つが私の前に差し出される。
「百合子さんがまた寝てしまわないように、見守ってあげるくらいですね~♪」
そう言いながら、朋花さんは私の膝の上の温まった子豚のぬいぐるみを優しく撫でた。
朋花さんの手は慈愛に満ちていた。私も真似をして子豚ちゃんを撫でてみるが、どこか堅苦しい。細く長い指が滑らかに動く朋花さんに対して、私の指は嵐の日のワイパーを彷彿とさせた。
長年に渡ってどの子豚ちゃんにも平等に愛を分け与えてきた者だけが到達できる志向の領域なのだろう。一切の無駄がなく、一切の妥協が無かった。
ふと、私ももっと頑張ろうと思った。朋花さんのように真摯に、愛を持って、出来ることからやっていこう。
「聖母が直々に見守ってあげるのですから、励んでくださいね~」
「うん、ありがとう朋花さん。頑張るね」
まずは目の前の宿題からかな。
おわり
おわりました。HTML依頼出してきます。
よく分からないお話ですみません。百合子がどんな夢を見るのかなと妄想するのが楽しかったです。
確かに夏目漱石の夢十夜を呼んだ時のような不思議な感じの話だな
乙です
七尾百合子(15) Vi/Pr
http://i.imgur.com/Fq8bPO7.png
http://i.imgur.com/Jj9SzYq.png
>>32
天空橋朋花(15) Vo/Fa
http://i.imgur.com/NvUyjO3.png
http://i.imgur.com/OMOwHOF.png
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