傘を忘れた金曜日には. (824)
傘を忘れた金曜日には
傘を忘れた金曜日には - SSまとめ速報
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のつづき
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「……後輩くん、あのね。何を言ってるのかわからないけど」
「……はい」
「きみとはぐれたあと、わたしがきみを探さなかったと思う?」
「……え?」
「わたしは、ふたりを無事に家に送ってから、もう一度あの森に向かった。
そこできみを探したんだよ。見つけるまで、時間はかかったけど」
「……」
「二週間かかった。でもちゃんと見つけ出したよ。
きみに帰るときの記憶がないのは、当たり前。きみは、眠っていたからね」
「……」
「後輩くん、わたしはね、眠るきみを背負って、森を出たんだよ」
「……」
「だから、あんまり、変なことを考えないほうがいいよ。
きみは少し、疲れてるんだと思う」
でも、そんな単純な問題じゃないんです、と、俺は言えなかった。
◇
電話を切って、俺はまた夜の散歩に出かけた。
行き先は、公園。木立の奥の、噴水。
今日もまだ、水が溜まったままになっている。
月が、静かに水面に浮かんでいる。
考えてみれば、嘘と偽物とまがいものにまみれていた。
俺が書いた作文は、俺が書いたわけじゃない。偽物だ。
俺と真中は、付き合ってなんかいない。嘘だ。
俺の書いた小説は、瀬尾の書いた小説のまがいものだ。
俺が、三枝隼ではなく、三枝隼の偽物だったとしたら?
だとしたら、説明がつく。
……もちろん、違う可能性もあるのかもしれない。
事実は逆で、森の中で夜を眺めているあちらこそが、スワンプマンなのかもしれない。
だから、説明がつく、というのとは、違うかもしれない。
納得がいくのだ。
俺のものではない。
俺のための場所ではない。
俺のための景色ではない。
そう思うと、心がすっと楽になるのだ。
誰のことも求められない自分自身。
なにひとつ目指せない、自分自身。
何も得ようと思えない、俺自身のことが、すとんと胸に落ちるように、納得がいく。
偽物だから。
この場にいるはずのない存在だから。
俺は三枝隼ではなく、
両親や純佳の優しさも、ちどりや怜の親愛も、真中の好意も、
大野や市川との関係も、ちせの信頼も、瀬尾の視線も、
クラスメイトと交わすバカな会話も、けだるい朝に部屋にさしこむ日差しも、
あの、雨に濡れた金曜日の記憶も、ちどりを好きだったことでさえ、
全部、俺のものではない。俺のためのものではない。
ましろ先輩は間違えて連れて帰って来てしまったのだ。
本物の三枝隼と、偽物の三枝隼を、取り違えてしまったのだ。
俺は本来、この場にいるべき人間じゃない。
誰のことも好きになるべきじゃない。
誰のことも愛せない。
誰からも何も受け取るべきじゃない。
俺は不当な簒奪者だ。
だからこんなに、こんなにも……忘れるなと言うみたいに、葉擦れの音が耳元で騒ぐ。
でも、じゃあ俺はどうすればいい?
空席の王座を掠め取った俺は、どうすればいい?
……不意に、
簡単なことですよ、とカレハが言った。
明け渡せばいいんです。
彼女は笑う。
景色に彼女が映っている。
雑音のなか、いま、俺は涸れた噴水の水面を眺めている。
その景色が、徐々に薄らいでいく。
暗い森の景色のほうが、本当になっていく。
覗き込んでください、と、カレハは笑う。
俺は、涸れた噴水の水面を眺めている。
そこには、俺が、俺自身が映っている。
『鏡を覗くものは、まず自分自身と出会う』
明け渡せ、と声が聞こえた。
水面に映る、俺の口が動いている。
明け渡せ、と、動いている。
水面に映る俺の姿が、誰か別の人間のように感じられる。
「おまえが過ごすのを、ずっと見ていた」
と、彼は言う。
「俺が求めて得られないものを、おまえが拒んでいるさまを、俺はまざまざと見せつけられていた」
その声は地底深くから轟くように俺の足元から響いてくる。
存在の足場が崩れる。
「おまえは不当な簒奪者だ。奪い取ったものを、不要なもののように粗雑に扱っている」
俺は不当な簒奪者だ。
「おまえは俺の偽物だ」と声は言った。
カレハが嗤っている。いよいよですね、と彼女は言う。
頭を、顔がよぎる。
純佳の、ちどりの、瀬尾の、市川の、さくらの、ましろ先輩の、ちせの、怜の、大野の、
たくさんの、顔。
顔。顔。顔。顔。顔。顔がよぎる。
「──さあ、"返せ"」
光が。
光が。
引きずりこんでいく。
俺の意識は森の中に飲まれていき、
二重の風景が逆さになる。
森のなかが俺にとっての現実になり、
水鏡を覗く景色は"俺"のものではなくなる。
いま、二重の視界に、涸れ噴水の水面には、俺が映っている。
それはもう、ほかの誰かではない。俺という、意識が、水面のなかに映っている。
怯えきった、俺の顔が映っている。
そして、それまで俺だった身体は俺のものではなくなった。
"俺"は、噴水を見つめるのをやめ、静かにひとつ伸びをして、身体の感覚をたしかめるように、自分自身の腕を撫でた。
その光景を俺は、"二重の風景"として、眺めている。
「ああ……」と、"俺"は声をあげる。
「帰ってきた」と"俺"は言う。
「俺だ」と、"彼"は言う。
「俺が、三枝隼だ」
その声を聞いた瞬間、既に俺は葉擦れの森にいる。
眼の前に、カレハがいる。
彼女が嗤っている。
楽しげに嗤っている。
その様子を、俺は、もうなにひとつ考えられなくなったまま、眺めている。
つづく
学校に着いて、校門をくぐったとき、そう、こんな感じだったと思い出した。
昇降口から下駄箱で靴を履き替え、廊下を歩く。
同じように階段を昇っていく生徒たちを眺めながら、そう、こんな感じだったと思う。
「ごきげんですね?」
そりゃあそうだろ、と頭の中だけで返事をする。
口笛吹いてスキップしたい気分ですらある。
心配しなくても気をつけるよ、と言いながら、俺は階段を上り、自分のクラスへと向かう。
扉を開いて一言、
「やあ、諸君、おはよう!」
と声をかけた。
ざわめいていた周囲が一瞬ほんの少しだけ戸惑った風に揺れる。
それも一瞬、しかも入り口近くのわずかなスペースのみ。
ところどころから、「おはよー」と返事が来る。
挨拶ができるのはよいことだ。返事があるとなお嬉しい。
はあ、とカレハが溜め息をつくのが分かる。
どうした、溜め息なんてついて。
「だからですね、なるべく変な振る舞いはしないほうがいいんです」
変? 挨拶のどこが変なんだ?
「……しばらくは、まあ、目を瞑ってあげます」
カレハのことを無視して、俺は自分の席へと向かう。
少しの違和感はあるが、それもじきに慣れるだろう。
とりあえず、鞄の中身を確認する。
……そういえば、今朝は荷物の確認をしていない。
昨日までは、どうしていたっけか?
ちょっと、考えるのが面倒だな。
まだ夢の中にいるような気分だ。
そうこうしているうちに、「おう」と声をかけられ、肩を叩かれて、その感覚にびくりとする。
「おはよう」
……こいつの名前は、大野辰巳とか言ったか。
感覚を共有しているとは言っても、いつもはっきりと見えたり聞こえたりしていたわけでもない。
なんとなくのイメージは分かるが、どういう会話をしていたか。
そもそもこいつは、コピーの友人であって、俺の友人ではない。
かといって、ないがしろにして俺の居心地が悪くなるのも嫌だ。
なんとも面倒な話だ。
「おはよう」
とうなずきを返す。それはべつとしても、人と話せるのは喜ばしいことだ。
「昨日の話だけど……牛乳プリンって、なんのことだ?」
「昨日?」
「送ってきただろ?」と大野は不思議そうな顔をする。
「牛乳プリンって」
「ああ……美味しいよな」
「いや、美味しいが」
「昔はよく食べたものだ」
「……そうか。が、それを何のために送ってきたんだ?」
「送ったっけか?」
「……」
大野と俺はたっぷり三秒くらい目を合わせた。
「いや、わかった。なんでもない」
「ああ、そうか?」
納得したふうではなかったが、大野はそれで話を一旦やめにして、話を変えた。
「……悪いな」
「なにが?」
突然謝られても、うまく反応できない。
「べつに、おまえたちの言っていることを疑っているわけでもないんだ」
「ふむ」
気まずそうに鼻の頭を指先でかきながら、彼は続けた。
「ただ、自分の目で見ないことには、納得できそうもない話だからな」
何の話だと思う? とカレハに訊ねると、「むこうのことでしょう」とそっけなく返事がかえってくる。
「ああ、まあそうだろうな」と俺は適当に返事をした。
「まるっきり信じてないわけじゃない。ただ、どうしてこんなふうに、行けたり行けなくなったりするんだろうな」
そこのところどうなんだ、と俺はカレハに訊ねてみる。
「簡単に行き来できるような場所なら、最初から誰もが知る場所になっていたことでしょう」
それもそうだ、と俺は頷いた。
「とはいえ、そんなに難しい条件でもないと思いますが」
というと?
「状況を思い返してみれば簡単なことです」
簡単、と言われたところで、実のところ俺はそんなに興味もないし覚えてもいない。
なるほどね、と一応頭の中だけでうなずきを返す。
「まあ、いろいろ試してみるしかないんだろうな」
俺が何も答えずにいると、大野はそう言って去っていった。
最初から前途多難だという気がするが、仕方ない。
所詮あいつは俺の友達ではない。
◇
授業を受けるのも新鮮な感じだった。
何よりもなつかしいのが眠気だ。
あちらにいるときは、意識があるのかないのか判然としないような生活を送っていた。
おかげでひさしぶりに「眠気」というものを我が物として体験できている。
昨日だって、戻ってきてすぐに何もせずに眠りにつけたのはそのおかげだ。
実際、昨日まで偽物が身体を使っていたときは、よく眠れていなかったのだろう、身体が無性に重かった。
人の身体をあんなふうに酷使するなんて、ひどい奴もいたものだ。
とはいえ、それもたぶん終わりだ。実に気分がいい。
そんな気分のよさのせいか、はたまた窓の外からの明るい日差しのせいか、コントラストとしての教室の薄暗さのせいか、
異様に瞼が重くなって、とうとう授業中に居眠りまでしてしまった。
と、頭を教科書でぽんと叩かれる。
数学教諭は呆れた顔で俺を見ていた。
「ずいぶん眠そうだな、三枝」
「ええ、まあ、どうも眠くて」
「珍しいな、居眠りは」
「ええ、まあ、俺のせいじゃないんです」
「何のせいだ?」
「ありとあらゆるしがらみですかね……」
「軽口を叩く元気があるなら起きてろ。次からは起こさないからな」
「そうしてくれると助かります」
宣言通り、数学教諭は二度目の居眠りは無視してくれた。おかげで俺はたっぷり眠れた。
◇
そして昼休み、待ちに待った弁当だ。
部室に近寄るのもなんだという気がしたし、屋上というのも昨日までの偽物に影響されているようでいただけない。
教室で食べようかとも思ったが、周囲をグループで固められては居心地も悪い。
そんなわけで、二階の渡り廊下のベンチを使うことにした。
通路だけあって居心地が良いとは言えないが、ベンチがある以上はどう使おうが人の勝手というものだ。
弁当の巾着を開くと、空腹にそそる景色が広がっていた。
「おお……」
「感動してますね」とカレハが隣から不思議そうに弁当を覗き込んでくる。
「うむ。夢にまで見ていた」
「はあ。お弁当をですか」
「見ろ、この卵焼きのきつね色の焼き目を」
「きつね色ですね」
「見ろ、この……これはなんだ?」
「磯辺揚げですね。冷凍食品でしょうか」
「とにかく見ろ。ここに愛が詰まっている」
「愛ですか」
「愛だ」
「いただきます」
「どうぞ召し上がってください」
「おまえに言ったんじゃない。純佳に言ったんだ」
「はあ。それは失礼しました」
実のところ、森に居た六年の間、俺には味覚や嗅覚と言ったものが存在しなかった。
見えるし聞こえる。けれど、偽物が食べているものの味や、感じている匂いまでは伝わってこなかった。
むこうでは身体を動かせなかったし、ものも食べられなかった。水さえ飲めなかった。
それで六年間もどうして生き延びられたのかは不思議ではあるが、結論としてはどうでもいい。
そんなのいま俺が生きていることが結論だ。変な解説はワイドショーかなにかの仕事だろう。
箸でつまみ上げ、卵焼きを口に含む。
絶妙な卵の風味と砂糖の甘みが伝わってくる。
俺は舌先でその味を堪能する。
今朝のハムエッグも涙が出そうな絶品だったが、さすが純佳、手強い。
「生きていてよかった……」
「あなたはすごいですね」
「なにがだ?」
「美味しいものを食べて、たっぷり眠って、それで幸せそうですから」
「当たり前だ。これ以上の幸せがどこにある。俺は贅沢な人間じゃないぞ」
「ええ、あなたみたいな人は、嫌いではないですよ」
好きでもない、とでも言いたげなカレハの言い方が妙に気にかかったが、今は目の前の食事に集中する。
「美味しいですか?」
「絶品だ」
と答えたところで、誰かが近付いてくる気配がする。
とはいえ、通路だ。気にしたところで仕方ない。
「精神年齢が小学生で止まってますね」
皮肉げなカレハの声に、うなずきを返す。そのとおりだ。否定はできまい。
次はこの磯辺揚げをいただこう、と箸で標的をとらえた途端、
「せんぱい?」
と聞き慣れた声がする。
見上げると、見慣れた顔がある。といっても、俺の認識では初対面もいいところだが。
「なんだ真中か」
「なんだ」と真中は繰り返した。背後にもまた見覚えのある顔ぶれだ。
ちせと、ついこないだ見た、コマツナとかいう奴だったか。
「なんだってなに?」
真中は顔をカッと赤くした。怒っているように見える。
というか、怒っているらしい。
「いや、なんだは語弊があった。謝る」
「語弊……?」
「食事に集中してたんだ」
俺は箸から落としかけた磯辺揚げを口に含んだ。
「なんでこんなところでおべんと食べてるの?」
まだちょっと眉を釣り上がらせたまま、真中が訊ねてくる。
うしろのちせとコマツナは、いかにも気まずそうだった。
「他に場所が思いつかなくてな」
「屋上は?」
「屋上?」と首をかしげたのはコマツナとちせだった。
俺は少し考えてから、制服のポケットから鍵を取り出して真中に渡す。
「……なに?」
「使う?」
「なんで?」
「や、使いたいのかと思って」
真中は口を開けてこっちを見ている。なんでかわからないけど、びっくりして開いた口が塞がらないという感じだ。
やがて頭痛をこらえるように、彼女は額を指で抑える。
「ええと、いつにもまして何を言ってるかわかんないんだけど」
真中が言いかけたところで、俺は後ろに立つちせが手に持っているものに気付いた。
「ちせ! それ!」
「は、はい?」
「それ! 購買の! 一日十食の!」
「あ、これですか……?」
一日十食限定のホイップクリームパン。粉砂糖がまぶされた白く柔らかそうなパン生地。
眺めるだけの一年ちょっとの高校生活の中で、誰かが話しているのを聞き、食べているのを見た。
しかし偽物はまったく興味を抱かなかったらしく、一度も食べているところは見たことがない。
というか、偽物が食べたところで俺に味覚は伝わらないのだが。
俺は"音"と"景色"が繋がっているだけなので、当然、偽物が注意を払っていない他人同士の会話を意識的に聞くこともできた。
そうすることが、退屈な偽物の視界のなかでは格好の暇つぶしだったということもある。
「いいなあ……ホイップクリームパン……」
「せんぱいが卑しい……」
「えと。隼さん、食べますか?」
「いや、いや悪いよさすがに……それは罪だよ。ちせが食べろよ」
「そうですか? でも……」
「大丈夫、機会はまだある。今はそれが無限にすら思える」
「……せんぱい、今日変だよ?」
真中がいかにも不服げにベンチに座る俺を見下ろした。
「変? どこが?」
「えっと……受け答え」
むっとした顔のまま、真中は俺をじっと見ている。
「……なに拗ねてるんだ?」
「すね、拗ねてない! せんぱい、やっぱ今日変だ!」
地団駄をふむみたいに、真中は手をばたばたさせた。
「変じゃないよ」と俺は笑った。「昨日までが変だったんだ」
「……変だ。どうしたの、いったい」
そんな会話をしているうちに、「よお」と声をかけられる。
誰だかわからなかったが、たぶんそんなに仲のよくないクラスメイトだろう。
通りがかっただけみたいだ。
「どうした、女子に囲まれて」
「修羅場なんだ」
「おお、そうか。羨ましいことだ」
彼はそのまま楽しげに東校舎の方へと歩いていく。たぶん文化部の生徒なんだろう。
「せ、せんぱい……」
唖然とした様子で、真中が俺を見ている。
「ちせ、せんぱい、変だよ?」
「えっと……うん」
「やかましい。俺は弁当を味わってるところだから、ひとまず放っておいてくれ」
真中はいかにも納得のいっていない様子で口をもごもごさせていた。
「昨日、様子が変だったから、心配してたのに」
「昨日?」
あ、そうだ。好きとか言われてたんだった。
「さすがに無神経だと思いますよ」とカレハが言ったが、俺はすっかり忘れていた。
「いや、うん。なんだ。俺は大丈夫だ」
「えと、隼さん。さしでがましいようですけど、あんまりそうは見えませんよ」
ちせにまで言われてしまう。そんなに違うだろうか。
「違うと思いますよ」
そりゃまあ、偽物よりも俺のほうが知的でクールには見えるだろうが……。
「あ、はい。そうですね」
カレハの受け答えは雑だ。
「……もういいや。せんぱい、今日の放課後はどうするの?」
「放課後? なにかあったっけ?」
「部室、行くの? それともバイト?」
「あ、どうだったかな」
「……」
真中はいよいよ怪訝そうな顔つきになる。
「あとで考える」
「……わかった。ちせ、行こう」
そう言って、真中はスタスタと歩き出した。
「あ、うん。それじゃあ、隼さん。おじゃましました」
「うん。じゃあな」
「それにしても」とカレハは言う。
「いくら精神年齢が小学生だったとはいえ、昔のあなたって、そういうキャラだったんですか?」
キャラとか言われると、なんとも言いがたいが……。
まあ、六年も誰とも会話もない幽閉生活では、もとの性格なんて思い出せなくもなるだろう。
今はふうけいのすべてが祝福に満ちているのだ。
「先輩」
と呼ばれて、コマツナがまだそこにいることに気付く。
「行かないのか、コマツナは」
「コマツナってゆうな。……なんか、ほんとに昨日とは別の人みたいですね」
「そう、別人なんだ」
「ふうん?」
事実だったが、コマツナは比喩とでも受け取ったのかもしれない。なんでもなさそうな顔をしていた。
「先輩。昨日はありがとうございました」
「昨日? なにかしたっけ?」
「……あ、ううん。えっと、先輩は何もしてないかも」
「じゃあ、お礼を言うのは変だろ」
「それでも、なんか言わなきゃって思ったんです。それじゃ、わたしも行きますね」
「ああ。ハバナイスデイ」
「ハバナイスデイ」とコマツナはおかしそうに笑った。
「……六年間幽閉されていたとは思えないくらい、会話慣れしてますね」
「人に飢えてたからな」
誰もいなくなった渡り廊下でそう呟いたあと、俺は昼食を堪能した。
よい昼だ。太陽があるだけで素晴らしい。
つづく
部室につくと、既に俺と市川を除く全員が居た。
ドアを開けて中に入ると同時に、大野と真中、それからちせが、揃って俺たちを見る。
というより、俺を見る。
「なんだ、どうした」と訊ねると、三人はおんなじ動作で首を横に振った。
「……なんだよ」
「べつになんでもない」と大野は言う。間を置かずに真中が、
「せんぱいの様子が変だって話をしてたの」
と言った。統率のとれない奴らだ。
「そんなにへんかな」と俺はとぼけた。「うん。変」と真中は間髪おかずに頷く。
なるほど、と俺も頷く。変らしい。
「まあ、それはいいだろう」と話題を変えた。
「それでどうだ今日は」
真中も大野も、「こういうところがまさしくだ」というふうに顔を見合わせる。
そのくらいの感情の動きくらいは俺にだって分かる。
「どうだって?」
「行けそうか?」
とりあえず、この場にいる人間の目的が"むこう"に行くことだということは、俺にも分かる。
正直、何を好き好んであんな場所に行きたいのかはわからない。
瀬尾青葉のことなんて、放っておけばいいじゃないか。
「わからないよ」と大野は戸惑ったみたいに言う。
俺は黙って、昨日の偽物がそうしていたみたいに、例の絵に触れてみる。
見れば見るほど、奇妙な絵だ。
主が去ったあとの空席、あるいは、
新たな主を待つ空席。
上には空が、下には水面がある。
ピアノだけが、何かを待つように、何かを惜しむように、そこにある。
そこに旋律はない。
主の不在が静寂を浮き立たせる。
「……無理みたいだな」
お手上げのポーズをした。久々にしたにしてはなかなかさまになっていたと思う。
「今日のところはよしておこう」
「でも……」とちせが口を挟んだ。
「でも?」
「……いえ、でも」
続く言葉はないみたいだ。俺は溜め息をついて言葉を続ける。
「ここで頭を突き合わせて相談してどうなるんだ?」
それは素朴な質問だ。
「なにか条件があるんだろう。それがわからない以上、ここに集まってたってどうしようもない」
大野が、不服そうな顔で俺を睨んだ。かまわない。
「違うか?」と俺は訊ねてみる。
「……打つ手がないのは確かだが」
「だろ。じゃあ無駄な消耗だ」
「……」
全員、顔を見合わせた。……いや、違う。
市川だけが、俺を見ている。こいつはいったい、なんなんだ?
「でも、せんぱい。青葉先輩……」
俺は記憶を手繰って、どうにか自分に都合のよさそうな言葉を探す。
「瀬尾はべつに迎えに来てほしいなんて言ってないだろ。
大野や真中は実際に信じられないと言うが、よく考えたらべつに証明する必要や義務なんて俺にはない」
そう、その調子だ。
「だって瀬尾はおまえらがなんて言おうとあっちに居るんだから」
そう言うと、大野があっけにとられたような顔をした。
「……そりゃ、おまえからしたら、そうなるだろうし、瀬尾も、俺達に来てほしいとは、考えてないかもしれないが」
「そうだろ。だったら頭を抱えてる必要もない」
ええと、そうだな。
「瀬尾の現状が心配なら『伝奇集』が使える。それでいいんじゃないか?」
俺がそこまで言ってあたりを見回すと、みんながぽかんとした顔でこちらを見ている。
「なにいってるの、せんぱい」
「俺、そんなにおかしなこと言ってるか?」
「青葉先輩のこと、心配じゃないの?」
べつに、と答えそうになって、さすがにこらえる。
嫌いなわけじゃない。
でもあいつも偽物だ。だったらどうでもいい。帰っただけじゃないか。
「俺の立場からすると、心配は必要ないからな」
真中は、なにか反論したいのだが言葉にならないというふうに口を動かして、あげく、
「そんなの、せんぱいらしくない」と言った。
「……俺らしくないってなんだ?」
計算を忘れて、口から言葉が出ていた。
「俺らしくないってなんだよ? 俺らしいってなんだ? おまえの気に入らない振る舞いをする俺は俺らしくないのか?」
「そうじゃないけど、でも」
「なあ真中。そうじゃなくないんだよ。俺は俺だよ。俺が俺なんだ。その俺の行動や態度が俺らしくないわけがない。違うか?」
真中は怯えたみたいな顔をした。それはちゃんと分かる。
「俺の取る態度が俺らしくないと思うなら、そんなのおまえが思う『俺らしさ』が間違ってるだけじゃないか?
俺の振る舞いが全部おまえの想定内に収まるくらいおまえは俺のことを知っているのか?」
真中は悔しそうにうつむいてから、「ごめんなさい」と言った。なんで俺は謝られてるんだろう。
「いい子だ。ちょっとかわいいからって調子に乗るのはよくないぞ」
「かわ」と鳴き声みたいに真中が何かを言いかけて口を閉ざす。そこに、
「……ねえ、隼くん」
口を挟んだのは、市川だった。
思わず身構えた俺のその警戒よりも早く、
「何を焦ってるの?」と、市川はそう言った。
ちせも、真中も、大野も、みんな市川に注目していた。
「焦ってる? 俺が?」
見当違いだと思った。俺はなにひとつ焦ってなんかいない。
むしろ、満ち足りている。俺はもう何にも怯えなくてもいい、はずだ。
「焦ってるんじゃないなら、恐れてるのほうが近いかな」
「……当て推量で適当なことを言うなよ」
「ううん、当て推量じゃなくてね。うん、ちょっと、わたしの考えを聞いてもらおうかな」
そう言って市川は、俺の目の前に歩いてくる。いつのまにか囲まれるようにみんなに見られていた俺の目の前に。
自然、輪の中心に、俺と市川が向かい合うような形になる。
「瀬尾さんがいなくなって、ついこのあいだ、隼くんとちせさんが一緒に“むこう”に行った。
その存在を、わたしたちはべつに疑ってない。戻ってくるところを見たから」
「……」
そう、そういう記憶がある。
「でも、だから“心配いらない”ということにはならない」
「どうしてだ? 俺が瀬尾に会ったのが嘘だと思ってるのか?」
市川は首を横に振った。
「隼くんが見せてくれたよね。瀬尾さんからの手紙」
「……」
内容はなんだったか。たしか、
“昨日はありがとうございました。次来る時は牛乳プリンを忘れずに”。
そんなところだったか。
「筆跡は今までの瀬尾さんの手紙と同じだった。ということは、瀬尾さんからの手紙。
仮にこれが隼くんの仕込みで、瀬尾さんとグルになってわたしたちをからかってるとしても、瀬尾さんはやっぱり無事」
「じゃあ何が引っかかるんだ」
市川は、少し戸惑うみたいな顔をした。
「その可能性に隼くんが気付かないことのほうが、わたしには不自然なんだけど……」
まどろっこしい前置きのあと、諦めたみたいに溜め息をついて、市川は続ける。
「“むこう”にも、瀬尾さんの手紙にも、理外の力が働いている。
隼くんが、そんなようなことを言ってたね」
「言ったかもしれない。それが?」
「だとしたら、瀬尾さんの言葉だけでどうして安心できるの?」
市川はそう言った。
「隼くんと会って、瀬尾さんはたしかに戻ってくる気がないと言ったかもしれない。
でも、隼くんとちせさんはむこうに行けたよね。それなのに今は行けない」
みんなが市川に注目していた。俺は、なにかまずいことをしたような気分になっている。
「条件が必要なのかもしれないとみんなは言ってたけど、わたしは違うことを考えてた。
その理外の力が、いつまでも働いてくれるとは限らないんじゃない?
たとえば、この絵と“むこう”とのアクセスが途絶えてしまったとしたら?」
「……アクセス?」
俺の反復に、市川は頷く。
「こっちからあっちに行くことができなくなったみたいに、あっちからこっちに戻ってくることもできなくなっているとしたら?」
真中が、息を呑んだ。
「だとしたら、瀬尾さんは、戻ってきたくても戻ってこられなくなる。
わたしたちはむこうに行けないから、確かめようはない。でも仮に、アクセスが途絶えていたとしたら……
瀬尾さんは、“むこう”に、絵のなかの国に閉じ込められてしまったのかもしれない」
みんながみんな、黙り込んでしまった。
俺は少なくとも、その可能性を想定していなかった。扉はいつでも開け放たれている。そう思い込んでいた。
「でも、そんなの想像だろ?」
「うん。でも、“繋がったままで、瀬尾さんが帰ってこられる状態にある”と考えるのも想像だよね」
俺は返す言葉をなくした。これ以上何も反論できない。
「わたしの知っている隼くんは、いろんな可能性を考えて、決して断言はしない人だった。
こうかもしれない、こうかもしれないと、そういうふうに話をする人だった。
だから、きみがいま、その可能性を考慮していないのが不思議でならないんだ」
「……買いかぶりだよ」
「うん。そうかもしれない。でも、わたしが今話したことで、きみはその可能性を理解したはずだよね。
それなのに、きみは“その可能性を排除しようとしている”。少なくとも、わたしにはそう見える。
第一、きみが言ったとおり『伝奇集』が使えるからって、あのやりとりにタイムラグがないってどうして言い切れるの?」
……偽物は、タイムラグがないことを一度確認していたはずだ。
だが、それがいつでもそうだとは、言い切れない。
「言いすぎだろ。瀬尾のことは普通に心配してるって」
「……そうだといいけど」
尚もなにか引っかかるみたいに、市川は俺を見た。
……厄介だ。面倒ごとを避けようとして早めに引き上げようとしたのが裏目に出てしまった。
こうなってしまうと困る。
何が困るって、あからさまに疑念を抱かれてしまっているのが困る。
三枝隼がおかしいと、そう思われるだけならいい。いずれみんな慣れる。たしかにそのはずだ。
けれど、俺はいまさら、この状況の危険性に気付いてしまった。
こいつらは“むこう”のことを知ってしまっている。
こいつらが、“むこう”を探り、立ち入り、今後も調べようとしたら、いずれあの森が引き起こす怪奇にも出会うかもしれない。
いや、そうならないにしても、瀬尾青葉が仮になにかに勘付き、こちらに帰ってきたとしたら。
そして、スワンプマンの話をこいつらにしたとしたら。
そのとき、“昨日まで”と“今日から”でまったく違う三枝隼の存在が、こいつらには意味ありげに見えるだろう。
そうしたらどうなる?
こいつらは間違いなく、“昨日までの三枝隼”こそが本物であり、“この俺”が偽物だと言い出すだろう。
そうしたらあの暗い森に取り残された“偽物”を、もう一度陽の当たる場所に連れ出そうとするかもしれない。
……冗談じゃない。
こんなことなら、カレハの忠告をもっと聞いておくんだった。
本物は俺だ。俺が本物なんだ。
厄介なことになった。
なにか、対策を打たなければならない。
そうしないと俺は、もう一度“俺”であることを失ってしまうかもしれない。
「……悪い、体調が悪いみたいだ」
そう言って、俺は鞄を肩にかけ直す。
「今日は帰るよ」
真中もちせも、困ったみたいな顔で俺を見ている。
疑われている、のだろう、おそらく。少なくとも、怪訝に思われているのは間違いない。
「大丈夫か」と大野が言う。ああ、と俺は頷く。
俺の頭は、いろんな考え事で埋め尽くされはじめた。
理外の力が働くあの森。カレハの力でこちらに来られたとはいえ、なるほどたしかに、まだ安全ではないのかもしれない。
仮にこいつらが何かを働きかけ、カレハの力に近いなにかで、俺とあいつを入れ替えようとしたら……それもまたありえる。
俺はこの場所を守らなければならない。
あの森に帰るのだけは嫌だ。
厄介だ。本当に、厄介だ。
この俺を守るために、俺は俺じゃない人間のふりをしなくちゃいけない。
こうなってしまうと、取り戻したと思っていた俺の景色が、途端に他人のもののように思えてくる。
ここは俺のための場所なのに、かすめ取られていたせいで、俺のためのものなんてひとつもないのだという気がした。
「またね」と、市川だけが平気な顔をしていた。
どうにか、しなくちゃいけない。
俺は俺でいたい。俺こそが俺なんだ。
ドアを閉める直前、壁にかけられた絵が視界に入る。
……いよいよとなったら。考えておくのも、いいだろう。
それにしても、忌々しい絵だ。
つづく
◇
「体調が悪い」と言って隼さんが部室を出ていったあと、残されたわたしたちは少しのあいだ途方に暮れました。
さっきまで鋭い口調で隼さんを問い詰めるようにしていた市川先輩は、今は口を閉ざしてしまっています。
大野先輩も、柚子も、そうです。
こういうとき、わたしはこの部内の人間関係の"危うさ"のようなものを見つけた気持ちになります。
柚子から聞いた話だと、この部のオリジナルメンバーはそもそも、青葉さんと隼さんだけだったと言います。
厳密には市川先輩は幽霊部員であり、大野先輩は隼さんの友達でしかなかったのだと。
そして柚子が入部したのは、本来隼さんがこの部に居たからでしょう。
わたしに至っては、関係者と言えなくはないかもしれませんが、部にはまったく無関係の人間です。
青葉さんがいなくなってしまう前、この部がどんな雰囲気だったのか、わたしにはわかりません。
それでも部誌まで発行したと言うのだから、少なくとも今のようではなかったのだと思います。
話をさっきまで牽引していた市川さんが、「どうしたもんだろうね」と呟きました。
誰もその言葉に続きを投げかける人はいませんでした。
それもさして不思議とは思えません。この場にいる人たちは、みんなそういう人たちなのです。
仕方なく、というわけでもなく、わたしは口を開きました。
「隼さん、どうしたんでしょうか」
わたしの問いかけに、市川さんは肩をすくめました。
「様子が変なのは、たしかだけどね」
返事をしたのは柚子でした。
「そう、変なんです、せんぱい。今朝からずっと。昨日までもおかしかったけど、そういうのとはまた別に」
「……なにかあったのかもね」
他人事のような調子で、市川先輩が呟きました。
「なにかって、なんだと思いますか」
「さあ。少なくとも、"むこう"に行くことには、消極的になってるようには見えたけどね」
「……無理もないのかもしれないな」と、今度は大野先輩。
「"むこう"のことを俺たちに説明したとき、あいつは言ってただろ。
以前行ったときには、『二週間取り残された』って。怯える気持ちも、当たり前といえば当たり前だ」
「でも」と今度は柚子が言いました。
「そこに青葉先輩がいるなら、せんぱいはそれでも行くって言うはずです。
さっき鈴音先輩が言ったとおり、青葉先輩はひょっとしたら、帰ってこられなくなってるのかもしれない。
そう聞いて、あんなふうな態度になるのは、やっぱり……」
せんぱいらしくない、と、柚子は続けたかったのだと思います。
それを言えなかったのは、きっと柚子なりに、さっき隼さんに言われた言葉を気にしているからでしょう。
「たしかに、あいつらしくない」
と、大野先輩が続きを引き受けました。
実のところ、わたしもそう考えてはいました。
今日の隼さんの振る舞いは変だったのです。
昼休みに会ったとき、あんなふうに柚子のことをからかったり、購買のクリームパンを羨ましがったり……。
そんなふるまいは、わたしの知っている隼さんとは、かけ離れているように思えたのです。
けれどわたしは、それと"らしくない"と思えるほど、隼さんのことを知っていたわけでもないのですが、
付き合いの長い大野先輩や柚子がいうのなら、きっと、本当に、いつもとはどこか違ったのでしょう。
「……聞いても、教えてくれないだろうな」
そう、それもきっとそのとおりなのでしょう。
短い付き合いですが、隼さんが韜晦ばかりの人だということは、わたしにもわかります。
わたしはそのとき、昨夜、ましろ姉さんと話したことを思い出しました。
姉さんは昨夜、とつぜんわたしの部屋にやってきて、とつぜん、
「さいきん、隼くんの様子はどう?」
と訊ねてきたのでした。
「どうって?」とわたしが聞き返すと、姉さんは何かを言いあぐねるような顔をしました。
「……さっき、電話したんだけどね。なんか、変なこと言ってたから。
さいきん、どんな調子なのかと思って」
わたしはそのとき、ちょっといろんなことを考えました。
少なくとも昨日の段階では、隼さんは、様子が"変じゃなかった"とまでは言えないまでも、目に見えておかしいところはなかったのです。
ですから、
「特にそういう感じはしなかったけど……」
と答えました。
姉さんは、「そっか」と短く答えてから、なにか考え込むような顔つきになりました。
「どうかしたの?」
「ううん。……なにかおかしいところがあったら、わたしに知らせてくれる?」
そう、姉さんはそう言っていました。
昨夜、姉さんは隼さんとお話していたのです。
「……」
わたしはそこで考えました。
姉さんは、隼さんの、こう言ってよければ、変化について、なにか心当たりがあるのではないのでしょうか。
いえ、なかったとしても、姉さんならきっと、なにかこのタイミングで必要になる言葉をくれるかもしれません。
そういった、いわば、「虫の知らせ」のような直感を、姉さんはときどき発揮します。
ほとんど超能力のようだと、妹のわたしは思っていました。
「少し、席を外しますね」
わたしがそう声をかけると、先輩たちも柚子も、不思議そうな顔をしました。
「すぐに戻ります」とだけ言って、わたしは部室を後にしました。
文化部部室棟である東校舎には、あまり人通りがありません。
とはいえ、なかには部室に顧問の先生がいる部もあるでしょうから、廊下で堂々と携帯を使うのは考えものです。
わたしは屋上に繋がる階段を昇りきると、扉に背をもたれさせて電話を取り出しました。
三コールほどで、姉さんは電話に出てくれます。
「もしもし?」と声をかけると、「ただいま留守にしております」と返事がかえってきます。
三コールで留守電に繋がる携帯電話というのもないものです。
ていうか、携帯電話なのに「留守」という表現がそもそもおもしろいんだよね、とわたしは思うのですが。
「姉さん、少し聞きたいことがあるんだけど」
「留守電だよ」
「あのね、隼さんの様子が、ちょっと変だったの」
「……変って?」
こういった種類の対応にも、慣れたものです。
「なんだか、昨日までとぜんぜん様子が違ってて。みんなで、変だねって話をしてたんだけど……。
姉さん、昨日電話したんだよね?」
「……変って、どんなふうに?」
「えっと」
わたしは少し考え込みました。言語化するのは、少しむずかしいことに思えたのです。
でも、わたしが最初にへんだなと思ったのは、あの昼休み。
「なんだか、妙に元気で、テンションが高くて……」
「ふむ」
「かと思うと、急に声を荒げたり……口調も態度も、いつもより落ち着かない感じだったかも」
そう、そういう言い方をしてしまうと、ただ虫の居所が悪かっただけなのかもしれません。
けれど、市川先輩の推測通り、隼さんが、青葉さんを探すことに消極的になっているという点に関しては、わたしもそういうふうに見えました。
「なるほど。……」
実のところ、わたしは、青葉さんがいなくなったということも、自分がむこうに言ったということも、姉さんには話していませんでした。
姉さんが信じてくれるかわからなかったし、うまく説明できる自信もなかったからです。
「ねえ、ちせ」
「うん?」
「青葉ちゃんがいなくなったって、ホントなんだよね?」
わたしは、隼さんがそのことを話したんだな、と納得しました。
「……うん」
なんとなく、そのことを黙っていたのを咎められたような気がして、返事をするまで時間がかかってしまいました。
けれど、その言葉のとおりです。青葉さんは、いなくなってしまいました。
「ちせ、あのね」
そこで、なにかに気付いたみたいな声を、姉さんはあげました。
「ちせ、"むこう"について、知ってる?」
「……」
わたしは、さすがに息を呑みました。
「姉さん、知ってるの?」
「……なるほど。ふむ」
姉さんは、また考え込むような沈黙を置き、やがて、
「隼くんはどうしてる?」
と訊いてきました。
「体調が悪いって言って、今日は帰ったけど」
「そっか。やっぱり様子はおかしかったんだね?」
「少なくとも、昨日までとは、違うと思う」
「どんなふうに?」
わたしは、さっきの市川先輩の指摘を思い出しました。
「……なんだか、わたしたちのことを、避けたがってるみたいに見えたかな」
「ちせ、嫌われちゃったのかな」
「……」
「あ、あー。うそだよ、うそ」
「ばか」
「ごめんって」
ふう、とわたしは溜め息をつきました。
「一度、お互いが知ってることについて、詳しく話をしてみるべきかもしれないね」
「……うん。いま、文芸部の先輩たちと一緒にいるんだけど、どうしよう」
「うーん……」と姉さんは考え込むような顔をしました。
「ね、ところで、なんだけど」
「うん?」
「ちせは、ひょっとして、むこうに行ったの?」
「……」
行ったよ、ととっさにうまく返事ができなかったのはどうしてでしょう。
いえ、自分でも理由はわかります。
もし“むこう”に行った言えば、姉さんは、「なにか変なことはなかったか」というようなことを訊いてくるかもしれません。
わたしはその質問に答えたくありません。
というより、答えたくないのでなにもなかったというつもりでいます。
もちろん、絵に触れただけであんな場所に入り込んでしまうなんて思ってもみませんでした。
でも、それ以上に、おかしなことはやっぱりあって、できたらわたしはそれを人に話したくないと思っています。
思い出すと顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
なにが恥ずかしいって、やっぱり最悪なのは、電話を切ることができなかったことです。
いま考えてみても、隼さんになにか“気付かれていたのではないか”と思うと冷や汗が出そうになります。
いや、ひょっとして、隼さんは気付いたうえで気付かないふりをしてくれているのではないでしょうか。
そうだとしても、おかしいとは言えません。あのときのわたしの行動は、かなり怪しかったはずですから。
……ううん、だからといって、まさか本当に“そんなことをしていた”なんて、一般常識で考えればありえないわけですから……
思いついたとしても、真剣に検討することはないかもしれません。
深く考えずにいてほしいと願うばかりです。
いずれにしても、やはりあの場所には不思議な力が働いている、とわたしは感じました。
というか、不思議な力が働いていてほしい。
まったく心当たりがないとは、遺憾ながらわたしも言いませんが、それでも、
あの場所であんなことをしてしまったのは、あくまでも森のもつ「へんなちから」のせいであって、わたしの性向のせいではないはずなのです。
そんなわけでわたしは、あの森に不思議な影響力があるという仮説を積極的に信じたいと思っています。
ないと思いたくない。あると信じたい。でないと、わたしがあの森で“ああなった”ことが、ひとえに“わたしが変だから”ということになってしまうのです。
「うう……」
思い出しても頭を抱えてしまう。ううん、やっぱり何を置いても最悪だったのは、電話を切れなかったことです。
いえ、まあ、とはいえ、べつに“悪かった”というわけでもないのが悲しいことなのですが。
「ちせ?」と声をかけられて、わたしはハッとしました。そうです。今はその隼さんの様子が変なのでした。
「あ、えっと。なんだっけ?」
「……ちせ。また変なこと考えてたでしょ」
「へ、へんなことってなに! ていうか、またってなに!」
「お姉ちゃんはお見通しなんだからな?」
「見当違いだよ」
わたしは泣きたい気分でした。
姉のデリカシーのなさ(わたしに対してだけ)はなかなかのものがあります。
いいかげん、わたしの部屋に入るときにドアをノックする習慣くらい覚えてほしい。
じゃないといつか本当にまずい場面が見つかりそうです。
というより、まあ、それについては、何かに夢中になると周囲のことがおろそかになるわたしの問題でもあるのですが……。
「それで? ちせ、もう一度訊くけど……ちせは、“むこう”に行ったの?」
「……うん」
「そっか」とましろ姉さんは真剣な声でうなずきました。
……とっさに気分を切り替えられていないわたしは、なんだか自分が無性に恥ずかしい人間だという気がしてきました。
姉さんとの電話を終えて、わたしは部室に戻りました。
さっきまでと同じように、文芸部の面々は、打つ手なしと言った様子で黙り込んでいます。
そこでわたしは、姉からの提案を伝えることにしました。
「あの、皆さん、少しお聞きしたいんですけど、このあとの予定って、なにかありますか?」
「予定?」
怪訝気な顔をしたのは大野さんでした。
「どうして?」
そうです。まずは目的を伝えるべきでしょう。
「姉が、一度、皆さんにお話を聞きたいそうなんです」
「……ましろ先輩が?」
このなかでましろ姉さんのことを知っているのは、大野先輩だけです。
以前、そんな話をしていたはずですから、確かなのでしょう。
「姉は、“むこう”について何かを知っているみたいなんです」
「ましろ先輩が……?」
「はい。それで、一度相談してみるのもいいかもしれないと思うんですが……」
「だけど今日は……あいつ、帰っちまったしな」
「……これは、おそらくなんですけど」
わたしは、あくまでも想像である、とことわったうえで、言葉を続けました。
「隼さんは、ましろ姉さんに、今回のことについて相談していたんだと思います」
大野先輩は、わたしの言葉にすっと息をのみました。
姉さんは青葉さんがいなくなったことを知っていました。
そのうえ、“むこう”のことも知っていたのだから、そうなのでしょう。
大野先輩は苛立ったように髪をかきあげて、
「……あいつは本当に秘密主義者だな」
と呟きます。
「それと、姉はどうやら、昨日の夜、隼さんと電話したらしいんです。もしかしたら、隼さんの様子についても、なにか知っているかもしれません」
「……電話」
そう繰り返したのは、今度は柚子でした。
まだ、出会ってから日が浅く、一緒に行動するようになったのもつい最近のことですが、こういうときの柚子はとてもわかりやすくていじらしいくらいです。
それだけに、心配になるのは、仕方ないことでしょう。
「どうでしょうか。わたしだけでも、とにかく姉さんと話したい、とは思っているんですけど……」
三人は、それぞれに視線を重ね合って窺い合うようにしていましたが、やがて、全員が頷いてくれました。
つづく
◇
姉さんとの待ち合わせ場所は、学校のすぐそばの公園でした。
距離の関係で、きっと姉さんのほうが遅れてくると思ったのに、わたしたちがついた頃には既に、
姉さんはすべり台のてっぺんに腰掛けて、おだんごを食べていました。
こちらに気付くと姉さんは、
「や、早かったね」
と言って、串を持った手を軽やかに振りました。
「お久しぶりです」と大野先輩が声をかけます。
こんな突飛なことをしても、慣れた様子で驚かない大野先輩に、普段の姉さんの振る舞いを考えてしまいます。
きっと、学校でもいつもの調子なのでしょう。
わたしたちが滑り台に近づくと、姉さんはするすると滑り台から滑り落ちてきました。
それからスカートの裾をパンパンと払います。
そういうことにあれこれ言うことは、この人には無駄なのです。
「文芸部の皆さんだね。……って、あれ? 大野くん、文芸部なんだっけ?」
「あれ、聞いてませんでしたか?」
「ん、んん。どうかな、聞いてないと思うけど。隼くん、部員が揃ったっては言ってたけどね」
こうしていろいろと話してみると、やはり、隼さんは秘密主義、とまではいかないまでも、言葉が足りないところがあるように思います。
とはいえ、わたしもわたしで、姉さんに学校での話をわざわざするようなことはしていませんでしたが。
「えっと、ちせを含めて四人……ってことは、隼くんと青葉ちゃんを除く部員全員だね」
「そうなります」
「姉さん、どうするの?」
「……どしたの、ちせ。とつぜん『姉さん』だなんて」
「……」
「いつもみたいに『お姉ちゃん』って呼んだら?」
姉さんにはやはりデリカシーに欠けたところがあります。
「……いいでしょ、べつに」
「うん。いいんだけどね」
だったら言わないでほしい。それはまあ、呼び方にこだわるなんてそっちのほうが子供っぽいとは思います。
それでもわたしにだって、多少友達や先輩たちの前で見栄をはったり背伸びしたりする気持ちがあるのです。
いえ、呼びかたが背伸びになっているかどうかは、怪しいところですが。
「……とりあえず、落ち着いて話したいね。どこかに入ろうか」
そう言って、姉さんはおだんごの最後のひとつをもぐもぐと食べきりました。
◇
高校のそばには、うちの学校の生徒がよく利用するファミレスがあります。
料理は安価でドリンクバーもありますし、席数も豊富なので学生にはもってこいなのです。
何年か前の世代だと、連日通いつめて席を占領したあげくに大騒ぎをしたというので、学校に連絡が行ったこともあるそうです。
そのときにうちの学校の生徒は出入り禁止になったのだと聞きましたが、いまはそれもなくなったそうです。
何年か前の世代というか、ましろ姉さんが一年の頃の出来事だったそうですが。
とりあえずそんなわけで、わたしたちは入店の際、店員さんに止められることもなく入店できました。
テーブル席に座る際、少し迷いましたが、わたしは結局ましろ姉さんの隣に座りました。
大野先輩と市川先輩、それから柚子が対面になる形です。
柚子は少し居心地が悪そうでした。
「まあひとまず、ポテトでも頼もうね」
「姉さん」
「ん。ポテトいや?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……」
「でもほら、店に入ったからには、とりあえず注文しとかないとね」
それもそうです。席だけ借りるわけにもいかないですから。
とはいえ、姉さんの態度は、青葉さんがいなくなったと聞いてからも、落ち着き払ったものです。
わたしはそもそも、姉さんが慌てふためいたりした姿をあまり見たことがありません。
怒ったり、取り乱したり、思い切り泣きわめいたりする姿も。
「……まあでも、あんまり食べるとみんな夕食が入らなくなるか。
ピザとか、みんなでつまめるものと、ドリンクバーくらいにしとこう」
姉さんはメニュースタンドのそばにあった呼び出しボタンをさっと押すと、やってきた店員さんにぱぱっと注文を済ませました。
それからテーブルのむこうに座る三人を順番に見て、
「それじゃあ、お話しようか」
と、ふわりと笑いました。
いつも思うのですが、姉さんと話していると、重苦しい話も、ふっと緊張がとれてゆるやかに空気が流れ出すような気がします。
「話が聞きたいってことでしたけど……何を話せばいいんですか?」
大野先輩が、みんなを代表して、姉さんに声をかけました。
身内であるわたしでは話が進みませんし、他のふたりは面識がないわけですから、自然な帰結でしょう。
「ん」
姉さんはテーブルに肘をついて、頬杖をつきました。
どこから話したもんかな、というふうに、思案しているように見えます。
「……えっと、飲み物をとってきます」
「あ、わたしも」
わたしが立ち上がると、向かいの席の端に腰掛けていた柚子も立ち上がりました。
「先輩たちは何にしますか?」
「ああ、悪い。お茶で」
「わたしも」
「ちせ、わたしオレンジジュースね。今日の気分は柑橘類です」
「はいはい」
ドリンクバーに向かう途中で、柚子が、
「不思議な人だね」
とわたしを見て笑いました。
「変って言ってもいいよ」
「ん。思ってたよりいい人そう」
「……そうかな」
「考えてたの。ましろ先輩ってどんな人なんだろうって。せんぱい、よく名前出してたから」
「……うん」
「ああいう人、せんぱいは好きだろうね」
困ったみたいに笑う柚子を見て、わたしはきゅっと胸のあたりが締め付けられるような気持ちになりました。
「どうかな。隼さんのこと、一方的に困らせてばっかりみたいだったけど」
と、そんなことを言ってみましたが、柚子は「そうなのかな」と短く言っただけで、それ以上言葉を続けませんでした。
五人分のコップを運んで戻ると、「ご苦労」と姉さんが偉そうな顔をしました。
「はい、お姉ちゃんの分」
「……ちせ、これはオレンジジュースじゃないよ?」
「ごめんね、なかったの。グレープジュースで我慢してね」
「ええ……」
「もう。仕方ないでしょ? そんなことより、話があるんでしょう?」
「ちぇー」とわざとらしくふてくされた声を出してから、姉さんはストローの紙袋を子供みたいな仕草でちぎりました。
「ところで、蜜柑やオレンジのことは柑橘類って言うけど、ぶどうなんかは何類って言うんだろうね?」
「お姉ちゃん」
「はいはい、分かってるって」
「こちらから質問してもいいですか?」
埒が明かないと思ったのでしょうか、口火を切ったのは市川先輩でした。
「どうぞ」
「さっき、ちせちゃんから聞いたんですけど、先輩は……」
「ましろ、でいいよ」
「ましろさんは、"むこう"を知ってるんですよね?」
「ん」
あっさりと、姉さんは頷きました。
「どうして教えてくれなかったの?」
「ちせが知ってると思わなかったもの」
それは、そうです。
あまり話の骨を折るのもどうかと思ったので、わたしはそれ以上何も言わないことにしました。
「どの程度知ってるんですか?」
「ん。そうだなあ。わたしは昔から"むこう"に通ってたんだ」
「通っていた、っていうと、出入りしていた、ってことですか」
「うん。隼くんから聞いたかな? あっちへの出入り口は、たくさんあるんだ」
隼さんはたしかに言っていました。入り口は、あちこちにあると。
「わたしはなんでか、昔から"むこう"に行くことができたんだ。
隼くんはあそこを……"神様の庭"って呼んでたかな」
「神様の庭、ですか」
「うん。その呼び方は隼くんらしいって思うな。ひとまずそう呼ぼうか」
「じゃあ、あの絵がその、神様の庭、に、繋がってることも?」
大野先輩の質問に、姉さんは首をかしげました。
「絵?」
「部室に飾ってある絵です。ほら、ピアノの」
「……あ、そっか。うん。知ってる。青葉ちゃん、あの絵から入ったんだ」
「……?」
青葉さんがいなくなったことは知っているのに、青葉さんがどこから入ったのかは、知らない。
姉さんの持っている情報にも、ずいぶん抜けがあるみたいです。
どうやら本当に、隼さんは、"完全な説明"というのも誰にもしていないようです。
「えっと、でも、正確な情報じゃないんです」
大野先輩は付け加えました。
「というと?」
「あの絵の"むこう"で瀬尾を見たって言ってたのは、三枝ですから」
「……ふむ。なるほど」
そういえば、そうです。そもそも、あの絵のむこうに入ったのはわたしと隼さんだけ。
隼さんが出てくるのを見たのが、大野先輩と市川先輩。
見ているものは、みんなバラバラです。
「ひとまずそれは信じていいと思う」と市川先輩が言いました。
「信じるというのが無理なら、ひとまずそれを真実だと仮定して話を進めたほうがいいと思います」
市川先輩の言葉に、みんながそれぞれに頷きました。
「……そうだね。えっと、名前、教えてもらってなかったね」
「市川鈴音です」
「そっか。じゃあ、ひとまず鈴音ちゃんの言う通り、青葉ちゃんはそこから入ったってことにしよう」
「はい」
「で、青葉ちゃんはまだむこうから戻ってきていないんだよね」
「はい」
「……出席日数、大丈夫かな?」
……言われてみれば、心配です。
「……三枝は、瀬尾に会った、と言いました。瀬尾は三枝に、"やることがあるから、まだ帰らない"と言ったそうです」
「……やること、ね」
うーん、と、姉さんは首を傾げました。
「なんだろうね、やることって」
「ひとまず瀬尾が無事だということはそれで分かったんですが、その絵のむこうに、行けなくなってしまったんです」
「ふむ」
姉さんはわたしを見ました。
「ちせは、いちどそこに入ったんだよね?」
「うん。隼さんが入る前に。というか、わたしがむこうに行ったことに気付いて、隼さんが追いかけてきてくれたんだけど」
「王子様だ。惚れたか?」
「茶化さないで」
わたしはちらりと柚子の方を見ました。彼女は疑わしそうな表情を向けてきます。
わたしも隼さんのことを悪く思っているわけではないので、柚子の心配もごもっともではあるのですが。
とはいえ、横恋慕をしようという意思も、今のところはありません。
そこで、注文していた料理が届いたので、話し合いは一旦中断されました。
つづく
◇
「で、一度帰ってきてからは、ちせも入れなくなってたってこと?」
「うん。隼さんも、そうみたい」
「なるほど……」
「どうしてそうなったか、わかりますか?」
「わかんない」
市川先輩の質問に対して、姉さんはあっさりと首を横に振りました。
「もっとヒントない?」
「クイズじゃないんだから……」
呆れたわたしの声に重なるように、柚子が声をあげました。
「『伝奇集』」
「あ、そうか。その話をしてなかった」
「『伝奇集』?」
「瀬尾がいなくなってから、図書室の本に、瀬尾からの手紙が挟まっていることがあったんです」
「ふうん。それは試したことなかったな。最後に来たのはいつ?」
「ちせたちが帰ってきてからも一度」
「内容は?」
「……なんだったかな」
わたしは首をかしげましたが、柚子は覚えていました。
「たしか、『次来るときは牛乳プリンを忘れずに』みたいな内容でした」
「牛乳プリン?」
「なんなのかはわかりませんけど、たぶん、せんぱいとそういう話をしたのかもしれません」
「ふむ」
「それについてなんだけど」
と大野先輩が口を開きました。
「昨日の夕方、解散したあとに、三枝からメッセージがあったんだ」
「なんて?」
市川先輩が訊ねると、大野先輩は気まずそうな顔をしました。
「『牛乳プリンかもしれない』って。そのときはピンと来なかった。
でも、今にして思うと、『それが条件かもしれない』って意味だったのかな」
「……そのメッセージについて、今日隼くんに聞かなかったの?」
市川先輩が言葉を重ねると、大野先輩は肩をすくめます。
「それが、とぼけてるのかなんなのか、『そんなメッセージ送ったか?』みたいな反応をされた。
たまにわけのわからないことを言うことがあるから、今回もそれだと思ってたんだが……」
「……」
隼さんの様子が変だったことと、関係があるんでしょうか。
「なるほど」とましろ姉さんは頷きました。
「後輩くんの様子についてはひとまずおいといて、条件っていうのはそれかもしれないね」
「というと?」
「牛乳プリンを持ってきてって、青葉ちゃんは書いてたんでしょ? じゃあ、持っていけばいいんじゃないかな」
「……それについても、なんですけど」
大野先輩が言いにくそうな顔になります。
「実は、俺と市川で、ふたりのときに試したんです」
これは、わたしも初耳でした。とっさに柚子の方を見ると、彼女もやはり驚いた顔をしています。
「でも、入れなかった」
「……なるほどね」とましろ姉さんはまた思案げな表情になります。
「ん。となると、牛乳プリンだけが条件じゃないんだろうね」
「……どういうこと?」
姉さんはわたしの方を見て、人差し指をぴんと立てました。
「『牛乳プリン』の話をしたのは、後輩くんなんでしょ」
……姉さんは隼さんのことを、隼くんと言ったり、後輩くんと言ったりします。
わたしは、『大野先輩も姉さんからしたら後輩くんだよなあ』と思いながら頷きました。
「とすると、条件は、『牛乳プリンを持った』『隼くん』なのかもしれない」
「あ……」
だとすると、その条件が満たされたことは、あれ以降一度もなかったことになります。
「まあ、迷い込んだ人が入り口に条件を出すなんて、わたしは聞いたことないけど……
わたしは、一度入った入り口はいつも問題なく出入りできたし。
でも、それは他の人が入っていたことがあまりなかったからだから、ひょっとしたら」
「……隼くんは、『理外』とも言っていたしね」
姉さんに返事をするというより、みんなに含んで聞かせるように、市川先輩が続きを引き受けました。
「瀬尾さんが書いた手紙がなんらかの効力を持って、条件をつくってしまった、というのは、ありえるかもしれない」
「ん。こうなると、隼くんに試してもらったほうがいいかもね」
ひとまず、あの絵のむこうにいけなくなった理由については、とっかかりができました。
これもハズレなら他にも考えなければいけませんが、展望が開けた心地はしました。
「でも……」
と、柚子が、独り言のように呟きます。
「せんぱいなら、気付いてもおかしくない気がするし、試していそうだけど……」
わたしは、静かに対面に座る三人の様子をたしかめました。
みんながみんな、沈黙のなかに肯定の意思を込めている気がします。
「まあ、近頃は体調が悪そうではあった。なにか悩んでいるようにも見えたしな」
「うん、それはたしかだろうね」と姉さんが肯定します。
そうです、隼さんは、悩んでいるようにも見えました。
「いや、実際、気付いたんだろうな」
大野先輩が、そう呟きました。
「少なくとも、牛乳プリンが鍵になってることには、気付いた。
だからあのメッセージが来たんだろう。俺は牛乳プリンだけの案は試したあとだったから、それに対する反応が遅れた」
「隼くんに、その話、報告してなかったんだね」
市川が訊ねると、大野先輩は頷きます。
「市川が話したと思っていた」
「……これ、警戒すべきかもだね。この人数だと」
姉さんの言葉に、ふたりはきょとんとしました。
「『話したと思っていた』ってやつ。みんなも、話しそこねてることに気付いたら、どんどん言ったほうがいいかもね」
もちろんわたしもそうするし、と姉さんはポテトをかじりました。
「さて、じゃあ、次の問題だね」
「……次の問題、ですか」
姉さんの呟きに、大野先輩が首をかしげました。
「ましろ先輩は、何が気になってるんですか?」
「ん。話をする前に聞きたいんだけど……今日、隼くんと話をした人、挙手」
姉さんを除く全員が、手を挙げました。
「なるほど。じゃあ、様子がおかしかったと思う人」
みんな、手を降ろさないままでした。
「なるほど」と姉さんは繰り返します。
「どんなふうにおかしかった?」
「……あの、先輩、ちょっと聞きたいんですけど」
また、大野先輩が口を開きました。
「三枝となにかあったんですか?」
「難しいかな、その質問は。それをたしかめるために、みんなの意見が聞きたいんだ」
どうだった? と、姉さんは繰り返しました。
「……授業中に、居眠りをしていましたね」
大野先輩が、まずそう言いました。
「普段から眠そうな奴だったけど、居眠りっていうのはめったになかった。
あとは、携帯をいじってたか。二回くらい、先生に注意されてました」
わたしは普段の隼さんを知らないのでなんとも言えませんが、大野先輩が口に出したということは、珍しいことなんでしょう。
「あとは……朝、教室に入ってきたとき、大声で挨拶してたな」
「あいさつ?」
「『諸君、おはよう』って」
それは、変です。というか、隼さんのイメージには、さすがにそぐわない。
姉さんはおかしそうにくすくす笑いました。
「そっか。なるほどね」
「全然想像できない」と柚子が呟きました。
「あとは、放課後のことか。そのときは、体調が悪かったと思っていたけど、さっきの話を踏まえるとやっぱりおかしいな」
「……どういう意味?」
市川先輩の疑問符に、大野先輩は整理しながら言葉にするように慎重な口調で続きを言いました。
「前日に俺に『牛乳プリン』について連絡してきたのが、さっき話したとおり、その可能性に気付いたからだとする。
翌朝、あいつはそのメッセージについて心当たりがないような反応をしていた。
そして放課後、急に『むこう』に行くのに消極的なことを言い出し始めた」
そうなると、たしかに、前日の放課後までと、正反対のことを言い始めたことになります。
「わたしの意見は、部室で言ったとおりだけど……隼くんは、なにか焦ってるように見えたな」
焦っている。そこまでは、わたしは思いませんでした。ですが……。
「なんだか、わたしたちをあの絵のむこうに行かせたくないみたいに見えた」
それは、わたしが少しだけ感じたことでした。
隼さんはまるで、青葉さんのことも含めて、わたしたちが“むこう”に近づくのを嫌がっていたように見えたのです。
「まあ、あくまでも想像で、根拠があるわけじゃないんですけど」
市川先輩の言葉に、ふむ、と姉さんは思案げに顎をさすりました。
わたしはそこで口を挟みました。
「わたしと柚子は今日、昼休みに隼さんを見かけたんですけど」
先輩方の目が、わたしに集中して、ちょっと戸惑いました。
ええと、と喋ることを考えながら、わたしは口を動かします。
「なんだか妙に、明るいというか、おどけた感じでした。普段とはギャップがあって、ちょっと面食らったというか」
「……まあ、でも、あいつ、たまにそういうところがあるしな」
「そうだね」と頷いたのは姉さんでした。
「調子がいいときは、軽口を叩いてる時間のほうが長いくらいかもね」
「でも、なんだか、そういうのとは違う気がしたんです。……すみません、印象なんですけど」
「違うって?」
わたしはなんだか、こうして喋っていることに罪悪感を覚え始めました。
青葉さんのことを探っているときにも、似たような感覚はありました。
人の秘密に触れようと、知っている誰かを分析するような真似は、ひどく下世話なことに思えます。
「せんぱいは」と、柚子が口を開きました。
「ちせのもってたパンを欲しがった」
とつぜんの柚子のその言葉に、みんながきょとんとしました。
「パン?」
「購買の、限定ホイップクリームパン」
「ああ、しあわせパンか」
そういうあだ名がついているらしいです。わたしも柚子もそう呼んでいました。
たしかに隼さんは、わたしが持っていたパンを羨ましがっていました。
あのとき、たしかにわたしも「珍しいな」と思いましたが、それがどう珍しいのかは、うまく説明できません。
「たしかに、三枝のそういうところは想像できないな」
「……それが?」と訊ねたのは、市川先輩でした。
「ましろさん」と、柚子は市川先輩に答えず、姉さんに視線を向けます。
「どう思いますか」
「……どうって?」
「皆さんに質問なんですけど……」
そう言ってから十数秒、柚子は黙り込みました。
なにか言いにくそうな、口に出すことを恐れているような、そんな表情です。
やがて、決心したように、苦しそうに、彼女は言葉を吐き出します。
「皆さんのなかで、せんぱいが、“何かを欲しがっている”姿を見たことがある人はいますか?」
しん、と、
周囲の音が、一瞬途切れたように感じました。そのくらい、柚子の質問は意外なものでした。
「ものじゃなくてもいいです。たとえば、何かをしたいとか、何かを見たいとか、聞きたいとか、どこかへ行きたいとか……。
そういうことを言っているせんぱいを、見たことがありますか?」
わたしは、ないです、と柚子は言いました。
「喉が渇いたとか、お腹が空いたとか、疲れたから帰りたいとか、そういうのはあるかもしれません。
眠いとか、休みたいとか。あとは、説明を求めたり、弁解の機会を求めたり、あるいは冗談や軽口なら、あるかもしれません。
でも……わたしは」
わたしは、と、繰り返したとき、柚子の声はかすかに震えていました。
なにかに怯えているみたいにも、見えました。
「せんぱいが、何かを羨ましがったり、何かを強く求めたりする姿を、見たことがありませんでした」
柚子は、テーブルの上に視線を落として、あたりを見ようとしません。
誰も何も言えませんでした。
わたしは、今日の昼休み、柚子の反応は少し過敏だという気がしていました。
パンを欲しがったくらいで、様子がおかしいとまで言うのはどうなんだろう、と。
けれど、柚子からしたら違うのでしょう。
柚子からすればそれは、“異様なこと”だったのです。
それは、はっきりしています。
姉さんは、隼さんが入学した一年前の春から、隼さんを知っています。
大野先輩も、入学した頃に会ったとしても、そのくらいでしょう。
市川先輩やわたしは、付き合いがもっと短い。
わたしたちのなかで一番隼さんのことを知っているのは、たぶん、柚子なのです。
「──」
わたしは、不意に、隼さんと初めて会った夜のことを思い出しました。
隼さんは、なんと言っていたでしょうか。
あのとき、隼さんは、“青葉さんの書いた小説を真似た”と言っていました。
“憧れた”と、そう言っていました。
──自分は、いらないんだって、言って。
そう言って、震えていました。
──違う。俺には、何もないから。何もないから、憧れただけなんだ。
──なんにもないのは、俺の方なのに、なんであいつ、あいつが……。
“何もない”から、“何かある”に憧れた。
きっと、柚子は、今日、傷ついたのだと思います。
──俺の取る態度が俺らしくないと思うなら、そんなのおまえが思う『俺らしさ』が間違ってるだけじゃないか?
──俺の振る舞いが全部おまえの想定内に収まるくらいおまえは俺のことを知っているのか?
冗談めかしてごまかしていましたが、隼さんはあのとき、本気で腹を立てているように見えました。
柚子もまた、なんでもないような顔をしながら……あの言葉に、傷ついてるように見えました。
だから、こうして言葉に出すのが、怖かったのでしょう。
「せんぱいは……"あんなふうにはっきり、何かを欲しがったりなんて、しない"」
柚子は、断言する自分を恥じるように、悔しそうな顔をします。
その言葉が、わたしには、とても悲しい言葉に思えました。
つづく
◇
「せんぱいは……でも、昨日だけじゃなかった。その前から、ちょっと様子がおかしかった、と、思う」
柚子は、しばらくの沈黙のあと、少し冷静になろうとするような、無理のある声で、そう言いました。
「少なくとも、わたしが入部したばかりの頃より、せんぱいは苦しそうにしていた気がする」
「……それって、いつ頃かな」
柚子は、少し考えるような顔をしました。
「青葉先輩がいなくなった頃……」
そう言いかけて、柚子は少し考え込むような表情になって、
「……違う」と言いました。
「……違うって?」
「もっと後かもしれない」
柚子は何かを思い出そうとする様子でしたが、はっきりしないようで、もどかしそうな顔をしました。
「ねえ」と、姉さんが言いました。
「柚子ちゃんが知ってる隼くんって、どんな人?」
その言葉に、柚子の表情は感情が抜け落ちたようにぽかんとしました。
「どんな?」
「うん。そもそも、柚子ちゃんと隼くんって、どんなふうに出会ったの?」
それについては、実はわたしもよく知りませんでした。
なんとなくの、おおまかの事情のようなものは、柚子から話してもらいました。
隼さんと柚子は、「付き合っているふり」をしていて、それをやめたのだと。
そして柚子は隼さんが好きで、隼さんはそれを知りながら、柚子にはっきりした答えを返していないのだと。
いえ、違うかもしれません。そのあたりの情報は、少し曖昧です。
「せんぱいとわたしは……」
柚子にとってそれを説明することは、むずかしいことなのかもしれません。
かさぶたを剥がすような顔で、彼女は口を開きました。
「その前に聞かせて」
と、わたしが口を挟みました。
このままでは、柚子が、何か、言いたくないことまで口に出してしまいそうな、そんな気がしたのです。
「なに? ちせ」
「姉さんは、どうして隼さんの様子を知りたがるの?」
そう、わたしは未だに、それがわからないのです。
「さっきも言ったとおり、それはちょっとむずかしい話なんだよ」
「いいから言って。怒るよ」
「怒るとどうなるの?」
「……」
ふむ、とわたしは考えました。
「えっと……」
あんまり思いつきません。岐阜城をどうこうするのもかわいそうです。
「あの、口きいてあげない。しばらく」
「……」
少し沈黙があって、緊張が緩んだみたいにみんながくすくす笑いました。
「……あの、今のナシで」
「口きいてもらえないのは、困るなあ」
「ナシだってば!」
姉さんは楽しそうに笑っています。わたしはまた、とっさに子供っぽいことを言ってしまいました。
気をつけてはいるつもりなのです。
わたしも本当は、姉さんみたいに人をからかう側にまわりたいのですが。
「うん。……話そう」
姉さんは、緩んだ口元を隠そうともしませんでしたが、けれど不思議と、その表情のどこかに怯えが含まれているようにも見えました。
「みんなはさ、"スワンプマン"って言葉を知ってる?」
「"スワンプマン"……?」
わたしは、他の三人の顔を順番に見ました。
心あたりがあるのは、どうやら、市川先輩だけのようです。
姉さんは、わたしたちのために、その思考実験について簡単な説明をしてくれました。
「隼くんがね、昨日、電話してるときに、そんなことを言ったんだよ」
「……どうして突然、そんなことを?」
「言っちゃおうかな」という顔を、姉さんはしました。
「うん、言っちゃえ」というふうに動いていきます。
「隼くんが言うんだよ。自分は、"三枝隼のスワンプマンなんじゃないか"って」
「……」
さすがに、言葉が出ませんでした。驚くというより、どうしてそう思うのか、という気持ちが強いです。
「これだけじゃわからないと思うから、みんなには話すね。
実は、わたしと隼くんは、高校で初めて会ったわけじゃないんだ」
「……ましろさんは、"神さまの庭"を知ってましたね」
市川先輩の言葉に、姉さんは頷きます。
「隼くんもそうでした。"六年前、神さまの庭に迷い込んだ"。だとしたらふたりは……」
「うん。そうだね。隼くんは気付いてなかったけど、わたしは知ってた。
わたしは六年前に、隼くんと"神さまの庭"のことで出会った。その一回かぎりだけどね」
「……」
「隼くんは言ってたよ。『六年前からずっと誰かの居場所を掠め取っているような気がする』って。
それはたぶん、何かの強迫観念なんだろうと思ってた。
たしかにあの『森』には変な力が働いているけど、スワンプマンなんて突拍子もないしね」
なんだかわたしは、話の流れに不穏なものを感じました。
「だからわたしは、考えすぎだよって言った。でも、隼くんは聞かないの。
『神さまの庭』に踏み込んでから、本当の自分はむこうにいる気がするって。うん、神さまの庭って言葉を聞いたのも、そのときだったな。
自分の大部分はあそこに取り残されていて、今ここにいる自分はその存在の"残り滓"なんだって言ってた」
「残り滓……?」
「"誰とも繋がれないし、何も求めることができない"」
「……」
「そう言ってた」
それは、本当なんでしょうか。
「ねえ、待って」とわたしは言いました。
「それ、昨日の夜の話だよね?」
「うん。昨日の夜の電話」
「……」
「そう、隼くんのその言葉が正しいのかどうかはともかく、おかしいんだ」
姉さんは、そう言いました。
「そんなふうに言っていた隼くんが、どうして今日はみんなの前でそんなに元気だったのかな?」
わたしたちは、言葉を失いました。
「……待ってください。話が飲み込めない」
そう言って額をおさえたのは大野先輩です。
無理もないでしょう。わたしだってそうです。
「だからね、わたしもわかんないから、みんなの話を聞いて判断したかったんだよ」
「……先輩は、何が言いたいんですか」
「わたしは、昨日の電話のとき、様子がおかしかった隼くんを心配して、話を聞きたかっただけ。
でも、みんなの話を聞くとさ、明らかにおかしいんだよ。……前日の隼くんの言っていることがね」
「……」
わたしの頭によぎったのは、突飛な想像でした。
今日わたしたちが見た隼さんは、昨日までわたしたちと会っていた隼さんではないのではないか。
そんな、突飛な想像でした。
「……さすがに、ありえないでしょう」
大野先輩は、そんなふうに繰り返します。でも、
「ありえなくは、ないんだよね」
姉さんもそう言うばかりでした。
姉さんは"神さまの庭"に何度も行ったと言っていました。不思議なものも、その数だけ体験したんでしょうか。
わたしにはわかりません。
「……今度は違う話だけど、隼くん、それとは別に、変なこと言ってた」
「変なこと?」と問い返したのは柚子でした。
「ん。六年前にわたしと隼くんが会ったとき、他にふたり、一緒に隼くんの友達がいたんだけどね、
そのうちの片方が、青葉ちゃんだったって言ったの」
「……青葉さんが?」
「でも、おかしいよね。青葉ちゃんと隼くんは、高校に入ってから初対面だったみたいだし。
なんだかそのあたりのことも、勝手に納得されちゃったんだけど」
六年前……?
「──ましろさん」
不思議に鋭い声で、柚子が姉さんを呼びました。
空気にぴしりと亀裂が入ったように、わたしは感じます。
「六年前……六年前って、何月ですか」
「え? ……五月って話だったと思うけど」
「五月……」
柚子は、少しの間、呼吸をしているかどうかもわからないような真剣な顔で、身じろぎひとつしませんでした。
やがて、
「"スワンプマン"……」
と小さく呟きました。
「どうした、真中」
大野先輩の問いかけにも応じず、柚子はわたしの方へと向き直ります。
「ね、ちせ。青葉先輩の家に行ったときのこと、覚えてる?」
「え……うん」
「あのとき、青葉先輩のお母さん、いつだって言ってたっけ?」
「……いつ、って?」
「ほら……」
言葉はわかっているのにそれが思い出せないようなもどかしげな表情で、彼女はわたしを見ました。
思い出せないのではなく、この場では言いにくいのだと気づけたのは、ほとんど偶然でした。
「……"六年前の五月"だ」
──六年前の五月。街の公園で、汚れた服を来て、地べたに倒れている子供を、わたしの旦那が見つけた。
「そうだ。言ってた」と柚子は言いました。
──厳密にいうと、とてもよく似ている子がひとりいたんだけど……その子はね、いなくなっていなかった。
「だからだ。だから、せんぱい、様子がおかしかったんだ」
「……ね、柚子、どういうことなの?」
「気付かないの? ……そうか。ちせは会ってないんだ」
「……?」
わたしが首をかしげていると、柚子は、大野先輩の方を見ました。
「大野先輩、なんて言いましたっけ、せんぱいのお見舞いにいったときに、会った人」
「……会った人?」
「ほら、せんぱいの幼馴染だっていう……」
「……鴻ノ巣、ちどり、さん、だったっけ? あの子がどうした?」
鴻ノ巣……。
“鴻ノ巣”?
──名前は、思い出せないけど、苗字は珍しかったから、覚えてる。
──たしか……鴻ノ巣って言ったかな。
「ましろさん、せんぱいは、"六年前の五月に、神さまの庭のことでましろさんと初めて会ったとき、その場に瀬尾さんも居た"って言ったんですよね」
「……うん、曖昧な言い方だったけど、そういう話だった」
「でも、青葉さんは、高校のときに先輩に初めて会った。そうですよね?」
「うん。少なくとも、知り合い同士だったって感じではなかったと思う」
「六年前に、せんぱいとましろ先輩が会ったときに一緒に居たふたりは、せんぱいの友達だった」
「うん。それは、最初に聞いたから、間違いないと思う」
「せんぱいは、わたしやちせと一緒に青葉先輩の家に行った。だからせんぱいだけが気付いたんだ」
「……柚子、ちゃんと説明して」
「せんぱいは、青葉先輩と鴻ノ巣ちどりさんのどちらかがスワンプマンだって思ったんだよ」
唐突に激しくなった柚子の口調に、みんなが戸惑いを隠しきれませんでした。
わたしは、その、鴻ノ巣ちどりという人の話も初耳でした。
というより、初耳のことばかりです。
逆に、大野先輩も市川先輩も、姉さんも、青葉さんの事情のことを知らないから、ピンと来ないのかもしれません。
そのことをちゃんと説明すれば、ふたりなら分かるのでしょうか。
いずれにしても、その突飛な言葉に、今は戸惑いを覚えるばかりです。
「たしかに、鴻ノ巣さんは瀬尾にそっくりだったけど、だからって、スワンプマンっていうのは唐突じゃないか?」
大野先輩の反駁にも、柚子は怯みませんでした。
「事実は関係ないんです。でも、さっき、ましろさんも言いました。"ありえなくはない"って」
「いや、ありえないだろう?」
「違うんです。わたしが言いたいのは、"むこう"に行ったことのある人は、"ありえなくはない"と考えているということです」
「……どういう意味だ?」
「本当にそうなのかはともかく、せんぱいは、"スワンプマン"という現象は起こりうると考えたかもしれない。
だからましろさんに、"六年前、ましろさんと青葉先輩が会ったことがある"と言った。
そう言った以上は、事実がどうかはともかく、せんぱいは、鴻ノ巣さんと青葉先輩のどちらかがスワンプマンだと確信してたんです」
だから思ったんだ、と柚子は言います。その納得に、わたしはほとんどついていけていませんでした。
「せんぱいは気付いたんだ。"スワンプマン"はあり得るかもしれない、って。
だとしたら、自分もそうかもしれないってせんぱいは考えた。どうしてかはわからないけど、考えた」
だからずっとせんぱいは……、と、そこまで言いかけて、柚子の表情がこわばったまま動かなくなりました。
「……柚子ちゃん?」
姉さんが問いかけると、柚子は、驚くほど無感情な表情で、溜め息をつきました。
「……ごめんなさい、今日はちょっと、帰ります」
「大丈夫?」
市川先輩が、そう訊ねました。
わたしはなんだか、いまの柚子を見ていることがこわくて、何も言えませんでした。
「ちょっと、なんだか、先走ったこと、考えちゃったみたいだから。少し、混乱してるのかもしれない。
頭も痛くなってきたので……今日は、申し訳ないんですけど」
「うん、帰れる?」
姉さんの問いかけに、大丈夫です、と柚子は答えました。
柚子は、何を言いかけたのでしょうか。
それはわかりません。
柚子が席を立って店を出ていったあと、ましろ姉さんが口を開きました。
「……さっきの話だけど。鴻ノ巣さん、だっけ?」
大野先輩が頷きました。わたしはいま、話の内容がほとんど頭に入りそうにもありません。
「その子、青葉ちゃんにそっくりで、隼くんの友達なんだね?」
「はい。それで、前に見間違えて……瀬尾がいなくなったあとに見かけたから、俺は、三枝が瀬尾をかくまってるんだと思ったくらいです」
「……そっか。ね、ちょっと、ちせ」
「なに」
「ジュースを取りに行こう」
わたしは唐突な提案を怪訝に思いました。きっと、他のふたりもそうだったと思います。
でも、言われるままにコップを持ってドリンクバーの方へと歩いていきました。
「ちせ、さっき柚子ちゃんが言ってた言葉の意味、わかった?」
「……たぶん、だけど」
「どういうこと?」
「言っていいのかわからない」
「……お願い」
まっすぐに見つめられて、わたしは答えるしかありませんでした。
後ろめたさは、背筋を冷たく撫でるようです。
自分がひややかな物質になったようにさえ思えるくらいでした。
「青葉さんの家に、前、わたしと、柚子と、隼さんで、話を聞きに行ったの。
青葉さんがいなくなってから、手がかりを得るために。
でも、空振りで、そのかわりに、青葉さんの事情を聞かされた」
「事情……」
「青葉さんは、六年前の五月に、今の家の人に拾われたんだって。
そのとき、青葉さんは、自分の名前すら覚えていない状態だったんだって」
「……六年前の五月」
「そのとき、近隣の小学校なんかをあたっても、いなくなった子供は見つからなかった。
青葉さんにそっくりな子はいたんだけど、その子はいなくなってなかったんだって。
その子の名前が……鴻ノ巣だった、って」
「……」
わたしは、自分がひどく人間だという気がしてきました。
自分でここまで口に出してみて、ようやく柚子の言いたかったことがわかった気がします。
「ねえ、お姉ちゃん……わたし、なんだか、怖いよ」
「……ん。ちせ、ひとつ頼まれてくれない?」
「……なに?」
姉さんは、人差し指を立てて、いたずらっぽく笑いました。
◇
そのあとわたしは、「やっぱり柚子が心配になった」と言って、三人と別れました。
そのまま柚子を追いかけることはせず、一度家へと帰り、大きめの鞄を用意しました。
まだ外は明るいですし、時間的に、運動部の練習も続いているでしょう。
これは出入りするようになってから知ったことですが、最近、文芸部の部室には鍵がかけられていないようです。
わたしは学校へと引き返し、そのまま部室へと行くと、額に入った絵を、慎重に鞄に入れました。
「まさか、ここで"むこう"に行ってしまったりしないだろうな」と不安になりましたが、大丈夫でした。
そのままわたしは、家へと絵を持ち帰りました。
何のためにそんなことをするのか、わかりませんでした。
姉さんは、「隼くんのためだよ」と言いましたが、わたしには何のことかわかりません。
それでも従ってしまうのは、そんなふうに行動していないと、わたしの思考がどこか危険な領域に踏み込んでしまうかもしれないと感じたからでしょうか。
それとも既に、わたしの思考が、たどり着いてしまっていたからでしょうか。
──そんなふうに言っていた隼くんが、どうして今日はみんなの前でそんなに元気だったのかな?
ひょっとしたら柚子も、その疑問にたどり着いたからこそ、あんなふうに取り乱したのではないでしょうか。
117-5 瀬尾先輩 → 青葉先輩
つづく
190-12 ひどく → ひどい
◇
「ただいまー」と姉さんが家に帰ってきたのは、夜の七時を過ぎたころでした。
「遅いよ、もう」とわたしは不服を申し立てました。
「ごめんごめん。何怒ってるの?」
「なに怒ってるのじゃないでしょ。人に泥棒みたいな真似させておいて」
「ごめんって。でも、泥棒みたいな真似っていうか」
泥棒そのものだけどね、という姉さんの言葉に、わたしは返す言葉もなく口を閉ざしました。
泥棒そのものです。しかも実行犯でした。
「大丈夫大丈夫、明日の朝に返せば誰にも見つからないって」
「それは、そういう問題じゃ……」
姉さんは、わたしの言葉に聞く耳ももたずに、「はいこれ」と手に持っていたビニール袋を差し出しました。
「なあに、これ」
「手土産」
それを言うならお土産だろう、とわたしは思いました。
袋の中を見てみると、牛乳プリンがふたつ入っています。
ん、とわたしは考えました。
「手土産ってまさか」
「そ」
姉さんはいたずらっぽく笑いました。
そのつもりで、姉さんは絵をとってこいと言ったんでしょうか。
それが隼さんのためだという言葉の意味はわかりません。
それでもわたしは、姉さんがやろうとしていることがわかりました。
「でも、大野先輩たちは、駄目だったって」
「ん。そりゃそうだろうね」
「隼さんじゃないと、駄目なんでしょう?」
「ん。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」
またこれです。曖昧な言葉で煙に巻こうとするのは、姉さんの悪い癖です。
「どういうことなの?」
「ちせが行くんだよ」と姉さんは言いました。
「え?」
「ちせが行くの」
と、繰り返します。だからわたしも、
「……え?」と繰り返しました。
◇
そんなの絶対無理だよ、とわたしは言いました。
無理かどうかなんてわからないじゃない、と姉さんは言いました。
そしていま、わたしは、真昼の森に立っています。
「……うぅ」
ひどい姉がいたものです。あれだけさんざん『何が起きても不思議じゃない場所だ』と言っておいて、妹をひとりで放り出すでしょうか。
姉さんの理屈では、こういうことでした。
「青葉ちゃんの手紙は、あくまでも、『次来るときは、牛乳プリンを持ってきてね』ってことだったでしょう?」
ということは、条件はふたつかもしれないと姉さんは言いました。
「一度、むこうに行っていること。そして、牛乳プリンをもっていくこと」
そんなまさか、とわたしは思いました。
厳密には手紙には、『昨日はありがとう』という文言もあったはずなのです。
隼さん宛のものだと解釈するのが妥当なはずです。でも、姉さんは、
「こういうのは、試したもん勝ちだよ」と譲りませんでした。
真昼の森には、一度来た時と同じく、木々の隙間を縫うような小径が続いていました。
入ってすぐ、イワカガミの花がそこにあることに、ひとまずほっとします。
これでもし帰れなかったら、姉さんのことを一生恨むだけでは足りません。
帰ったら岐阜城をひっくりかえしてやろう。妹にこんなことをするなんて人畜の所業です。
第一、わたしは乗り気ではありませんでした。
そもそも、皆さんの手前言いたくありませんでしたし、わたし自身、青葉さんを心配する気持ちはあったので黙っていましたが、
わたしは正直、ここに来るのがいやだったのです。
ビニール袋の持ち手をぎゅっと握って、わたしは溜め息をつきました。
でも、まあ、状況は最悪ではありません。
姉さんが無理にでもこちらに来ようとしなかったのは、ひどいとは思いますが、わたしとしては助かった部分があります。
もしわたしがまた“あんなふう”になってしまったら、と考えると。
姉さんの前であんな事態になってしまうのは、何がなんでも避けたいところです。
こうなってみて初めて気付くのですが、もし大野先輩が、牛乳プリンのことを隼さんに伝えていたら……。
そして、隼さんがもしそれを試すとしたら、そのときわたしもその場にいたとしたら……。
わたしは下手をすると、隼さんとふたりでこっちに来ていたかもしれないのです。
そうなってしまっていたらと想像すると、正直、おそろしい気持ちになります。
もし隼さんとふたりきりでこっちに来てしまったら、わたしは自分がなにをしでかすか、自分でもわかりません。
想像できないという意味ではなく、想像できるからこそおそろしいのでした。
などと考えている今この瞬間ですら、わたしの身体に異常が起こり始めます。
「……どうしろっていうの」
声に出したってしかたないとわかっているのですが、こうなっては、恨みがましく姉さんのことを考えてしまいます。
いつもこうです。損をするのは妹のわたしなのです。
それが我慢ならないというわけではないですし、姉さんのことは好きですし、憧れすら覚えています。
それでもこういうことになってしまうと、なんだかふてくされたような気持ちが湧いてくるのです。
得体の知れない熱のかたまりのようなものが、じんわりとわたしの内側に広がっていきました。
それは縁側でひなたぼっこをしているような、太陽の光に包まれているような、不思議なあたたかさです。
でも、この心地よさに負けてしまったとき、どういうことになるのか、わたしはもう知っています。
「……どうしよう」
姉さんは言いました。「青葉ちゃんの様子を見てきてよ」と。
「それで、話を聞いてみて」と。でも、そんなことを言ったって、青葉さんがどこにいるのかなんて、わたしは知らないのです。
できることなら今すぐ引き返したいところですが、わたしはひとまず歩きはじめました。
隼さんと来たときは、どんどんと林冠が狭まっていき、光が削られていった記憶があります。
この木漏れ日の森はとても心地よくて、それが異様な空間だなんて信じられないくらいです。
人が幸福な日々というものを想像したとき、こういう景色が浮かぶこともあるのではないでしょうか。
そのくらいに澄んだ空気、あたたかな陽気、涼やかな木漏れ日。
でも……わたしはさっきまで、夜の、自分の家にいたわけですから、きしむような不自然さが頭を覆ってもいます。
その不自然さに酩酊するように、頭がぽわぽわとしてきます。
指先で触れてみると、自分の頬がかすかに熱をもっているのがわかります。
いけません。
何をするにしても、急がないと。
ただ歩いているだけだというのに、自分の呼吸が浅くなりつつあることに気付きました。
いけません、と、わたしは自分に言い聞かせました。
意識的に、呼吸を深く、ゆっくりと吐き出し、吸い込むようにしました。
早くなりつつある鼓動を抑え込むように、自分の胸に手をあてて、心臓の音を確認します。
駄目でした。ばくん、ばくん、と、心臓は騒いでいます。
触れた場所もいけませんでした。
わたしは、慎重に、呼吸を繰り返します。
どうかしています。
「……どうかしてる」と口に出すと、自分の声が妙な湿り気を帯びていることに気付いてびくりとしました。
どうしてこうなってしまうのでしょう?
「たぶん、考えても無駄だよ」と姉さんが言った気がしました。
「そこは理外の森だからね」
だからって、隼さんは平気そうでしたし、青葉さんに同様のことが起きたとも考えにくいです。
姉さんも、そんなことは一度も言っていませんでした。
いえ、もしそんなことがあるとしても、誰も口には出さないでしょうけど……。
いずれにせよ、どうしてわたしだけ、こんなふうになってしまうのか。
「……」
考えてもしかたないとわかってはいるのですが、考えることをやめると、考えられない状態になってしまいそうでおそろしい。
「……だめだ」
涙まで滲んできました。
どうしてか、自分の肌に着ているものがこすれるだけで、思考が邪魔されます。
“肌の感覚が、異様に鋭敏になっている”のです。
耐えきれなくなって、わたしは手近にあった木の幹に背を預け、瞼をぎゅっと瞑りました。
それから、深く深く呼吸を繰り返します。大きな波に自分がさらわれそうになっているような気分でした。
わたしは自分にしがみついて、必死にその波が過ぎるのを待ちます。
けれど……その波は、本当に、過ぎていくのでしょうか?
「……本当に」と、思わずわたしは笑ってしまいました。
「隼さんといっしょのときじゃなくて、よかった……」
それが、せいいっぱいの負け惜しみです。
つづく
◇
ようやく落ち着きを取り戻したわたしは、手に持ったままのビニール袋を覗き込みました。
そうです、わたしはこの牛乳プリンを、青葉さんのもとに届けなくてはいけないのです。
そうして、彼女に話を聞かないといけない。
それが目的であって、変な波に飲まれている場合ではないのです。
真昼の森では時間の感覚がひどく曖昧です。
太陽の位置はずっと変わらない。おかげでどのくらいの時間が過ぎたのかさえ判然としません。
それでもわたしは歩きはじめました。
「太陽を背に、道に沿って」
と、口に出してみます。
そうして歩き出してからも、断続的に例の波は襲ってきました。
これがいったいなんなのかと、誰かに文句のひとつでも言ってやりたいところです。
責任者はどこですか。
などと言っていても仕方がない。
いけません、いけません、と、わたしは自分に言い聞かせながら、森の小径を進んでいきます。
十数分ほど進んだでしょうか。以前のように林冠の狭まった暗い道を通り、これ以上は危ないかもしれないな、などと考えたときです。
不意に、緑以外の景色が見えました。
それが水だと気付いたのは、まだ少し進んだあとです。
やがて、道は開けた場所へとたどり着きました。
それは、湖畔沿いの遊歩道のように見えました。
どうやらこっちで正解だったらしいな、とわたしはほっとしました。
青葉さんは、いるのでしょうか。……波を、抑え込まなければいけません。
湖畔沿いに歩いていく途中に、古い木製のベンチを見つけました。
こんなものがあるのも変な話です。
やがて、それまで木々の枝に隠れていた道の先に、一軒の小屋のようなものを見つけました。
「……あそこかな」
あそこだといいな、とわたしは思いました。
数分歩き続けると、その小屋の前にたどり着きます。
木で出来た扉の前には、ベルがくくりつけられています。紐が伸びていますから、引けば鳴る仕組みなのでしょう。
わたしはそれを鳴らしました。
一度目は反応がなく、二度目で扉が開きました。
青葉さんは、きょとんとした顔で立っていました。
「ちせちゃん?」
「青葉さん……」
わたしは、とっさに、
どうしてでしょう、
青葉さんの胸にからだを投げ込んでしまいました。
「青葉さん!」
「ど、どうしたの、ちせちゃん」
わたしのからだを受け止めて、そっと腕を肩に回すと、赤ん坊をあやすみたいに、青葉さんは背中をとんとんと叩いてくれました。
わたしは、どんな気持ちになればいいのかわかりませんでした。
まさかこんなに簡単に会えるなんて、という意外さもあって、感動の再会という空気も生まれません。
それでも彼女が立っているその姿を見た瞬間、わたしは本当に、彼女の存在のすべてを言祝ぎたい気持ちにさえなりました。
「あまえんぼだな、ちせちゃんは相変わらず」
「その言葉には異議を申し立てたいです」
などと言いながら、わたしはぐりぐりと自分の額を青葉さんに押し付けました。
「よしよし」と青葉さんは受け入れてくれます。
そうして彼女がわたしの背中を撫でた瞬間、
背筋の感覚がしびれるようなものに変わりました。
いけません、いけません。
そういうときではないのです。
わたしは、気づかれないように何気なく、身体を離し、青葉さんの顔を見ました。
青葉さんは、困った子を見るような顔で笑っています。
「お久しぶりです」
「ん。探しに来てくれたの?」
「はい。とても、心配しました。皆さん、心配していましたよ」
「そっか。みんなには、悪いことしちゃったよね」
今日はひとり? と、青葉さんが言います。
「はい。今日はひとりです」
「そうなんだ。……とりあえず、中に入りなよ。コーヒーくらい淹れるよ」
「いただきます」
そしてわたしは、その小屋の中に足を踏み入れました。
小屋の中は、外観から抱いていたイメージとあまり違いのない、自然的な印象でした。
ログハウスのような内装でした。そうは言っても、素人が造ったような野暮ったさはありましたが、立派なものです。
ベッドもあり、テーブルや椅子もあり、ランプもあり、本棚もありました。
テーブルの上には湯気の立つマグカップと、『伝奇集』が置かれていました。
「プリンを持ってきたんです」
「プリン?」
「牛乳プリンです」
「お、いい子だ。ずっと食べたかったんだ」
青葉さんはそう言いながら、部屋の隅にあったコンロに火をつけました。
……どういう仕組で動いているんでしょう。ガスが来ているのでしょうか。
考えても無駄そうです。
「青葉さん、あの……お話があるんです」
「……ん?」
いつものように柔らかな笑みをたたえて、彼女はわたしを見ました。
その笑みが、以前のものよりも少し、大人びたものに見えました。
どうしてでしょう。
彼女に何があったんでしょう。わたしはそれを、全然知らないのです。
「話って?」
「あの、ええと……」
──。
そういえば、ましろ姉さんは、何を聞いてこいと言ったんでしょう。
隼くんのためだよ、と、姉さんは言っていました。
「……隼さんのことです」
「ちせちゃん、副部長と会ったことあったんだっけ?」
「青葉さんがいなくなっちゃってから、わたし、青葉さんのことが心配で、それで……」
話を聞こうと思って、青葉さんの知り合いで、名前を知っていた隼さんに会いにいったのです。
そこから話が始まったのでした。
「そっか」と、青葉さんは頷いて、戸棚からマグカップを取り出して、わたしにコーヒーを入れてくれます。
「砂糖は使う?」
「あ、はい……」
青葉さんがあまりにも落ち着いた様子なので、わたしはひどく戸惑いました。
そもそもの話。青葉さんが戻ってきてくれさえすれば、問題はすべて解決するはずなのでした。
今、こうして話している以上、それは達成されうるという気がします。
「副部長のことって?」
椅子に座って向かい合うと、青葉さんはゆっくりとした口調でそう訊ねてきました。
どう説明したものか、わたしは考え込むはめになります。
「様子がおかしいって、皆さんが、そう言っているんです。わたしも、そう思います」
「副部長の様子がおかしいのは、いつものことだよ」
「そういうのとは、また違うんです。今日は、特に」
「……ふむ」と彼女は考え込むような顔になりました。
わたしは、彼女の視線がテーブルの上に置いたビニール袋に向いていることに気付きました。
「あ、食べますか?」
「うん。もらってもいいのかな」
「そのために持ってきたんです」
厳密には用意したのはましろ姉さんですが、それを今あえて口にだすこともないでしょう。
どう話していいものか、と、わたしは迷いました。
「姉さんが……」
「うん」
「姉さんが、昨日の夜、隼さんと話したんです。隼さんはそのとき……」
言って、いいのでしょうか。無責任ではないでしょうか。
それでも、口に出すほかないような気がしました。
少なくとも青葉さんなら、何かの答えのようなものを、言ってくれるのではないのでしょうか。
「自分が、スワンプマンなんじゃないかって、言ったらしいんです」
「……スワンプマン」
案の定、と言っていいのでしょうか。
彼女は、沈痛な表情で、顔を俯かせました。
「……って、なに?」
……どうやら、単に聞き覚えのない単語だっただけらしいです。
無理もないことでしょう。
わたしは、スワンプマンの話をしました。今日聞いたばかりの話ですが、印象深い分、説明は簡単でした。
すべてを聞き終えてから、今度こそ、青葉さんは沈痛な面持ちで俯きます。
わたしは、沈黙に耐えられなくなり、コーヒーに口をつけました。
それと同時に、自分のからだがまた場違いな熱を覚え始めていることに気付きました。
いけません、とまた自分に言い聞かせます。
膝の上に乗せた手が、無意識に動きそうになりました。
虫刺されのかゆみが気になるときのように、勝手に、指が自分の服の裾のあたりに触れています。
わたしはスカートの裾をつかみ、それをどうにか押さえ込みました。
「……ちせちゃん?」
「……あ、いえ」
「プリン、ちせちゃんも食べようよ」
「……はい。いただきます」
頭がまたぽわぽわとしてきました。
いけません、とわたしは繰り返します。
呼吸が、浅くなっていきます。
いけないのです。
深く、溜め息のように息をつき、一度瞼を閉じて、深呼吸しました。
落ち着け、落ち着け。
そのとき、
「ちせちゃん、駄目だよ」
と、少しだけ鋭い声で、青葉さんが言いました。
わたしは思わず、どきりとしました。
……なにかに、気付かれてしまったんでしょうか。
「ちせちゃん、駄目だよ。“この森のなかで、自分を抑え込んじゃいけない”んだ」
「……なんの、話ですか?」
「スワンプマンの話だよ」
「……」
その表情に、思わずわたしは、緊張しました。
「……青葉さんは、スワンプマンの話を信じるんですか」
「……ん。まあね」
わたしは、肩の力が抜けたような気がしました。
安心したのではありません。それは虚脱感でした。
やはり、青葉さんも、その可能性を肯定するのです。
「でも、おかしいです、そんなの。隼さんは……だって」
「ん」
「もし本当にスワンプマンが存在して、隼さんがスワンプマンと入れ替わったなら……。
それなら、“別人みたい”になるのは、おかしいじゃないですか」
「……そっか。そういう話になるのか。わたしには、そこまでは、わからないけど」
スワンプマンという話を聞いたときに考えつくのは、入れ替わりという状況です。
そして、隼さんは今日、言っていました。
──俺は俺だよ。俺が俺なんだ。
俺は俺だよ。そこまではわかります。
でも、「俺が俺だよ」と言われると、少し違和感を覚えてしまいます。
わたしはわたしだ、ということはできます。
でも、“わたしがわたしだ”という言い方は、普通、しないような気がします。
その“が”には、“自分こそが”という意味が含まれているように思えました。
「俺が俺だよ」という言葉が、「俺こそが俺だ」という意味だとしたら、その言葉は、
“俺”ではない“俺”の存在を措定しているように聞こえるのです。
スワンプマンなんてものがもし存在して、昨日までの隼さんと今日の隼さんが別人なのだとしたら。
そして、今日の隼さんが“自分こそが三枝隼だ”という意味で、“俺が俺だ”と言ったなら。
昨日までの隼さんこそが、スワンプマンだったということでしょうか?
昨日、ましろ姉さんとの電話のときに、隼さんが自分で言っていたように?
そんなこと、ありえない、と、わたしはそう思ってしまいます。
「ちせちゃんはさ」、と、青葉さんは、含み聞かせるような口調で話し始めました。
「テセウスの船って知ってる?」
「……テセウスの船、ですか?」
「そう、古い神話に出てくる船。長く保管されているその船が朽ちていくたびに、ひとつひとつ、部品を取り替えていくんだ。
そうすることで、その船は船であり続ける。でもやがて、すべての部品が、あたらしいものと取り替えられてしまう。
すると、いちばん最初の状態の船と、最後の状態の船では、同じ部品がひとつもなくなってしまう」
「……それが、どうしたんですか」
「わからないかな。たとえば、ある段階でスワンプマンが発生する。
そして、両方が存在し続けてしまう。すると、それぞれは別の環境で過ごすことになる。
その結果、時が経てば経つほどに、そのふたつの存在は、かけ離れていく」
「……」
「人は、時間の経過によって変化していくよね。たとえば、六年前のわたしと、今のわたしでは、まったく別の身体、考え、環境にいる」
「……」
「だからたとえば、六年前のわたしがふたりいたとして、そのふたりが別々の環境で生き延びたとしたら、まったく別の人間みたいになってしまう」
「……青葉さんが言おうとしてること、わからないです」
「……ん。わかんないかもね」
わたしはまた、自分の指先が太腿の内側に伸びようとしていたことに気付いて、片方の手でもう片方の手首を強く掴みました。
「この森がなんなのか、わたしはずっと考えてたんだ。
それでようやく、ちょっと答えが出せそうな気がしてきた」
「答えって……?」
「ここに入ってくるには、鏡が必要なんだ」
「……はい」
と返事をしてから、ん、と疑問を覚えました。
「絵は……?」
「絵? ああ、うん。ある意味では、そうだね。あとは、写真とか」
「……どういう意味ですか?」
「ちせちゃん、ここに来るときの入り口の絵には、何が描かれてた?」
「────」
わたしは、思わず息をのみました。
水平線まで広がる海は、鏡写しのように空に浮かぶ雲を写していました。
「……たしかめたわけじゃないけどね。たぶん、そうだと思う」
「待ってください」とわたしは反論しました。
「でも、青葉さんは、ここに来てから、元の世界に戻っていないですよね。どうしてそれがわかるんですか」
「なんとなくね」
……なんとなく、では、反論のしようもありません。
「だからね、ここは鏡の国なんだって思う」
「……鏡の国?」
──鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。
──鏡は見るものの姿を忠実に映し出すものですよ。
それは、自分が言った言葉でした。
「鏡は、自分自身を忠実に映すものだよ。ただし、“左右だけが本物と逆”だけどね」
「……どういう意味ですか」
「これは推論だけど……たぶん、スワンプマンは、完璧な再現じゃないんだよ」
「……」
「スワンプマンは、“本人から分離した、別の存在”であって、そのとおりのその人じゃないんだよ。
というかそもそも、スワンプマンっていうのは、その説明だと話がわかりやすいっていうだけだからね。
ドッペルゲンガーと言ってもいいし、影と呼んでもいいけど……」
「待ってください。だから、どうしてそれが、青葉さんに分かるんですか」
「思い出したから」
「……何を、ですか」
「わたしが、鴻ノ巣ちどりという名前の女の子だったことをだよ」
青葉さんは、なんでもないことのように、そう言いました。
つづく
◇
取り残されて、ひとり、焼け落ちた何かの残骸を眺めている。
探せと瀬尾は言う。
けれど、俺は何を探せばいいのか、何を探しにきたのか、見当もつかない。
瀬尾がそうだと思った。俺は瀬尾を探しに来たんだと、そう思っていた。
でも、違った。
俺はべつに誰のことも探していない。
いまさら、誰のことも、見つけ出そうとはしていない。
たとえば、誰か迎えにきたら、どうだろうか。
ちせなら、こちらに来れるだろうか。
あるいは、ましろ先輩なら?
それとも俺がいなくなったなら、真中は探してくれるだろうか。
彼女は、いいかげん嫌気がさす頃かもしれない。
あるいは、怜なら?
ちどりなら?
純佳なら……。
純佳は、きっと、待つだろう。
俺が帰るのを、待つのだろう。
市川や大野は、呆れているだろうか。
でも、俺がいた場所には、俺じゃない俺がいるだろうから……。
たぶん、誰も俺のことなんて探していないだろう。
でも、瀬尾は言った。
俺には探しものがある。
それはみんなにとっても大切なものだって。
それはつまり、俺は、探される立場ではなく、探す立場にあるということだ。
本当にそうなんだろうか?
そんなものが、あるんだろうか?
俺は少しだけ考えて、首を横に振った。
そんなふうに考えて、いいものなんだろうか。
自分には何かが欠けているだなんて、そんな考え方でどこに行き着くっていうんだろう。
欠けた何かのせいにしていれば楽だ。
言い訳がつく。
話が簡単になる。
ものごとをそんなふうに物質的に考えたって、きっとうまくいかないだろう。
欠けた何かを見つければいいなんて、そんな単純な話だとは思えない。
それでも俺は探すのだろう。
それがなにかもわからないまま。
まだ、舞台の上で踊らされるのだろう。
◇
森の奥を分け入っていく。どこまでも、分け入っていく。
このまま帰れなくなったら、と思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
それはそれで、何もかもを投げ出す言い訳ができて、ちょうどいい。
帰れないなら、帰らないのとは違う。
逃げたのではなく、戻れなくなっただけなのだ。
そんなことを考える自分自身が、ほんのすこしだけ嫌になる。
月の光はやさしくて、俺は何かを思い出しそうになる。
たとえばこんな寂しさも、いつかはなくなってしまうだろう。
たとえばこのまま元に戻って、そして誰とも繋がれないまま、ひとりぼっちでいたとしても、
それはそれで、間違いなんかじゃないのだろう。
そう思った上で、俺はじんじんと心臓のあたりが熱を持つのを感じた。
……それでいいのだろうか?
わからない。
繋がる道はどこに続いているのだろう。
道をはずれれば、抜け出すことは簡単ではない。
俺はそれを既に知っている。
けれど、用意された道を歩くだけでは探しものにたどり着けないだろうことにも気付いている。
やがて、道が、分かれた。
中央は広場のようになっていて、そこを中心に、八つくらいだろうか、道が伸びている。
立て札……いや、道標か。
八つの道標はそれぞれの道へと矢印を伸ばしていた。
けれど、今俺が歩いてきた道の方には、何の矢印も書かれていない。
縦に並んだ八つの札には文字が並んでいる。
「退廃」「失意」「空虚」「期待」「焦燥」「愛」「保留」
と文字があり、そのなかのひとつだけ、何の文字も書かれていなかった。
こんな道標があってたまるか。
乗せられているような気もしたが、俺は何も書かれていない道へと進んだ。
乗せられている?
誰に?
それも分からない。
続く道は、やがて道とは呼べないものになっていった。
看板に文字がなかったのは、もしかしたら、道なんかじゃないからかもしれない。
誰も通らない道だからかもしれない。
そう考えた瞬間、俺は笑ってしまった。
誰が通るんだ、こんな道を。
でも俺は道標に出会い、そして進んできた。
あるいはこれは……誰もが通る道だとでもいうんだろうか。
やがて、木々が道を塞ぐように立ちふさがった。
それでも俺は歩き続ける。
引き返す気にはなれなかった。
それなのに、後悔はしていた。
素直に「愛」でも選んでいたらよかったか?」
あるいは「保留」というのもおもしろそうだ。
「保留」を「選ぶ」というのもおもしろそうなものだ。
それとも開き直って、「退廃」か「空虚」がよかったか?
そこまで考えて、俺はふと考え込む。
まるで「失意」や「焦燥」さえ、自分で選び取るものだというような気がした。
ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。
本当のことなんて、俺にはわからない。
それでいいのかもしれない。
木々の枝をかき分けるように歩いていく。
道が悪く、一歩歩くごとに体力が奪われていく。
どうして俺は歩いているんだ?
何に向かって歩いているんだ?
わからない。
わからないな。
やがて、また、開けた場所に出た。
そこに、人が立っている。
また、人か、と俺は思う。
今度は誰だ、と思うけれど、近付いてみても、誰なのかわからない。
誰かに似ているような気もするし、見たことがあるような気もする。
けれど、心当たりはない。
分かるのは、それが俺の学校の制服らしき服を着た男だということくらいだ。
らしき、というのは、どことは言えないが、デザインが少し異なっているように見えたからだ。
彼は俺の存在に気付いていすらいないみたいに、ぼんやりと月の光を浴びて立っている。
まるで誰かにしつらえられたみたいに、そこだけ木々が頭を垂れたように、月の光が差し込んでいる。
月の庭、と、そんな言葉が浮かんだ。
そして彼のそばには噴水があった。
まだ、生きている。
飛沫が霧のように浮かんでいる。
夜霧。そんな言葉をどこかで聞いた。
どこでだっただろう……。
「やあ」と、不意に彼は言った。
「探しものかい?」
背の高い、柔和そうな男だった。
その笑い方を、俺はやはり、どこかで見たことがあるような気がする。
「……人ひとりいない場所だと、思ってたんだけどな」
「意外かな? きみはお客さんだ」
「……いつからいるんだ、あんた」
「僕はずっとここにいるよ」
俺は思わず舌打ちをしそうになる。
怜、こんな奴がいるなんて話は聞いていない。
などと、頭の中で文句を言っても始まらないか。
「誰だよ、あんた」
「きみと僕とは初対面だ。だから、きみにそんな言われ方をする筋合いはない。……が」
彼はくすりと笑った。
見下されているような気がした。
「そうだね、そういう態度は嫌いじゃない。僕は人に嫌われると安心するんだ」
「マゾなのか?」
「違うよ。上っ面の好意なんかより、嫌悪感を表明されたほうが安心できるんだ。
好きって言われると疑わなきゃいけなくなる。でも嫌いって言われると、それ以上はない。安心だろう?」
変なやつだ、とそう思った。
その変な奴が、どうしてここにいる?
「それで、誰だって?」
「サクマだ」
「……さく」
「サクマ」
サクマ。
……佐久間?
どこで聞いた名前だ?
「といっても、それは便宜的な名前だ。まあ、便宜的じゃない名前なんてものはないだろうけどね」
「なんだよ、それ」
「どうやらきみは、ずいぶん僕に対してあたりが厳しいみたいだね」
「……」
言われて、思わず目をそらす。たしかに、やけにきつい口調になってしまう。
どうしてだ、と考えかけたところで、
「怖いかい?」
と笑われる。
それが図星だと分かる。
俺は目の前のこいつを恐れている。
「怯えることはないよ。少し話がしたいだけだよ。そういえば僕は、話し相手を求めていたような気もする。
退屈してるんだ。ずいぶん長いことね」
「……」
こいつは駄目だ、と俺は思う。
こいつは違う。
何か、質が違う。
熱がないみたいな肌の透け具合。
死人みたいだ。
「そんなにわかりやすく怯えるなよ。今のきみに怖いものなんてないはずだろ?」
「……誰だよ、あんた」
「ま、亡霊みたいなものかな」
「……亡霊?」
「そう、孤独なゴースト」
冗談めかして笑う顔つきすら気に入らない。
こいつは駄目だ。
こいつの話に耳を傾けちゃいけない。
それが分かる。
「佐久間……?」
佐久間、佐久間。
──これは極論ですがつまりこういうことです。
──ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。
──区別なんて、できていないのです。
「……佐久間茂」
「そうだね、きみは知っている。きみが知っていることも、僕は知っている」
『薄明』の、佐久間……。
「あれは良いタイトルだと思わないか? 『薄明』。僕は好きだったんだ」
冗談よせ。
佐久間茂が文芸部の部誌に参加していたのは平成四年のことだ。
二十六年前だ。当時十六か十七だったとしても、今は四十を越えてるはずだ。
その佐久間が、どうして、俺と同年代みたいな姿でここにいるんだ?
「言っただろ、僕は亡霊だ」
月明かりがほのかに彼の顔を照らす。
これはどんな筋書きなんだ?
「少しきみと、話がしてみたくなっただけなんだよ」
そういって、佐久間茂は俺に笑いかけた。
つづく
噴水は水音をあげて飛沫を撒き散らししている。
佐久間茂は、にっこりと笑う。
それが毒のない笑みだと分かる。
食虫植物めいた笑みだった。
こいつにとっては何の裏もない笑みなのだろう。
ただその「裏のない」「表」が、俺には要警戒のものに見える。
捕食者のようだ。
「そんなに怯えるなって」と佐久間は笑った。
「噛みつきゃしないさ」
「……なんなんだ、おまえは」
「まったく、どういう冗談なんだ、ときみは今思っていることだと思う」
あたりだ。話が早くていい。
「だから聞きたいんだ。佐久間、あんたはここで何をしてる?」
いや、やっぱり、同じ問いを繰り返すことになってしまう。
「あんたは、いったい、なんなんだ?」
「ゴースト、とさっきも言った」
「そういうのはいい」
「でもね、残念ながらここはそういうルールで動いてるんだ」
「ルール?」
「何もかもが象徴化される幻、不確かな幻燈。景色を変える万華鏡みたいにね」
「……景色を変える、ね」
けれどここは暗い森だ。
カレイドスコープ。
洒落た言い回しだ。
「じゃあ、あんたもなにかの象徴か」
「そういう言い方もできる」
「冗談よせよ」と俺は思う。
「冗談? そうかな」
それから二回、納得するように頷いて、
「うん、そうかもしれないね」
と、よくわからないことを言う。
「……話したいって、何をだよ」
「なんだっけ?」
「あんたが言ったんだろ。少し話したかったんだって。
第一あんたは、俺が誰だか知ってるのか?」
「……どうだろうね? 知っていると言えば、知っているような気もする」
でも、と彼は続けた。
「僕が知っていることなんて本当は皆無なんだ。完璧に、皆無だ」
「言葉遊びはいい。話がないなら、俺はもう行くよ」
「行くって、どこに?」
そう言われて、言葉に詰まる。
行きたい場所なんて、俺にあっただろうか?
「少し話そうよ、少年。なあに、時間ならあるさ」
そういって佐久間は噴水の脇に腰掛ける。
俺は溜め息をついて、その前に立った。
「座らないのかい?」
「気が進まない」
「噛みつきゃしないって言ってるのにな」
「そうじゃない」
そうじゃないんだけれど、何を言えばいいのか分からない。
「あんたを見てると落ち着かない。……なんでだ? 不気味なんだ、すごく」
「ひどい言いようだね。でも、心地よいな、それが」
「……本当に、気味が悪い」
「どうして気味が悪いんだろう?」
「俺が知るかよ」
「たぶん……鏡でも見ているような気分だからじゃないかな?」
「……鏡」
「そういう場所なんだ」
「なるほどね」
さっぱりわからないが、さっぱりわからないと言うのも癪なので言わないでおく。
「調子が戻ってきたみたいじゃないか」と佐久間はくすくす笑った。
「気に入らないな」
「この場所では」と佐久間は突然話を変える。
「ある特定の条件で、きみの言うスワンプマンがあらわれる」
「……」
「よく似た呼び方だけど……僕はむしろ、それをストローマンと呼んでた」
「ストローマン」
「藁人形だね」
「藁人形と言えよ。かっこつけて横文字にするな」
「雰囲気ってものがあるだろう」
「英語にしてりゃ雰囲気が出るなんて、素人の小説じゃあるまいし」
「きみだって文章は素人もいいところだろう」
「よくご存知で」
「それにストローマンには含意もある。藁人形論法ってやつだね」
「藁人形論法」
「詭弁の一種さ。言葉遊びは嫌いかい?」
「あんたはストローマンなのか?」
「そうだね。きみの言うスワンプマンで、僕の言うストローマンだ」
「……ストローマンは歳を取らないのか?」
「そういうわけじゃない。僕が歳を取るのをやめただけだよ」
「……それで、ストローマンがなんだって?」
「スワンプマンのたとえは不適切だ。
スワンプマンは完全なるコピー。でも、ストローマンは、本当はそうじゃない」
「……」
「ストローマンは藁人形だ。身代わりに焼かれる」
「……五寸釘じゃなくてか?」
「五寸釘でもいいよ」
「たとえ話はもういい」と俺は言った。
「面倒なんだ。そんな使い古されたメタファーなんか聞き飽きてる。
俺が話したいことも聞きたいこともそんなことじゃない」
「でも残念ながら、その陳腐なメタファーが支配している空間がここなんだ。
今となっては古びてしまったもの。ここを造った人間はそれが真実だと信じていたからね」
「……待て」
「なに?」
「造った人間って、何の話だ?」
「ああ、聞き流してくれよ」と佐久間は言う。
「そこはべつにきみには関係のない部分なんだ」
「……俺に関係のある話をしてくれるのかよ?」
「ま、それはきみ次第だね」
なんなんだこいつは。
「ストローマンは……」と佐久間は続けた。
「本人が捨て去ったものだ」
「……捨て去ったもの?」
「もっとそれっぽい言い方をするかい? 抑圧され異化、分離された願望と言ってもいいだろうね」
「……」
「ただしそれは『人間』として生まれる。
だから、ずっと分離されたままでいるわけじゃない。
当時切り離されたものを、切り離されたまま、元の当人がふたたび抱くこともあるだろうね」
「……意味がわからん」
「たとえば僕はストローマンだ。僕は佐久間茂のストローマンだ。
さて、この森に来た佐久間茂が、『ああ、シュークリームが食べたい』と思ったとする。
けれどここにはシュークリームがない。困った佐久間茂は、シュークリームを食べたい気持ちを我慢する」
「……」
「すると、『シュークリームを食べたい気持ち』が、
シュークリームを食べたがっている佐久間茂という形をとってストローマンになる。
そして当人はシュークリームを食べたい気持ちを失うが、それは永遠に失われるわけじゃない。
佐久間茂は森を出てから、またシュークリームが食べたくなることもあるだろう」
「……食べたいのか?」
「残念ながらこれは比喩だ。それに願いというのはたいてい、誤った形で叶えられるものなんだよ。
祈りだってそう。間違った形で聞き届けられる。その意味でストローマンは『叶えられた祈り』なんだ」
「……叶えられた祈り、ね」
「人は暗闇に何かを期待するものなんだよ」と佐久間は言った。
「暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。たとえば、かつては山や森がそうだった。
少し前は宇宙だった。それも退屈になると人の心や意識や認識。それが言葉遊びだと気付いたら、今度は脳みそをあさりはじめた。
ひょっとしたらそこに何かあるのかもしれないってね。自分が知らないところに自分にとって重大な真理があると信じたい。
そしてそれさえ見つければ、今よりマシな自分になれるって信じたいのさ。だから人は未開の場所を求めるんだ」
「……なんだよ、急に」
「でもね、どれだけ探ったって、どんな言葉遊びを積み重ねたって、結局なんにも変わりゃしないんだ。
ただ退屈な自分がいるだけ。それは個人的な趣味であって、結局のところ探求なんかじゃない。暇つぶしだよ」
「……」
「きみが求めるものなんてここには何もない」
「あんたの主張はわかったけど、その話が俺とどう関係するんだ?」
「……あれ? どう関係するんだったかな?」
話を聞くだけ無駄なのだろうか。
「きみはどっちだろうね」と彼は言った。
「もちろん僕には、どちらが本物かなんてわからないけど……」
「つまりなんなんだ」
「慌てるなよ、せっかちだな」
「おまえの話しぶりは俺を苛立たせるんだよ」
「きっときみと話していた人もそうだったと思うよ」
「……うるせえな」
本当に、なんなんだこいつは。
「きみは僕を不気味に思っている。それと同時に、でも、僕がきみにとって重大な何かを伝えてくれるんじゃないかとも期待している」
「……」
「そうだね?」
「さあな」
いちいち癇に障る奴だ。
「僕はいま勝手に喋っている。だからきみが、必要そうなことを拾い上げればいい。その結果については僕は関知しない」
「あんたは、なんでそんなことを知ってるんだよ」
「デミウルゴスの子だからね」
「また横文字か。そういうのは中学で卒業しろよ」
「心当たりがある口ぶりだね。なに、恥じることはない。誰もが通る道だ」
「……そうでもないだろうと思うが。ていうか、デミウルゴスってなんだ」
あっさり返されると、どう反応していいかわからなくなるものだ。
「気にすることはない。ただの言葉遊びだからね」
「それで……なんだったっけ。ストローマンが、どうした?」
「きみはどっちだろうね?」
「……何がだ」
「失くした方かな、失くされた方かな」
「……」
知らねえよ、と俺は思った。
「もういいや。埒が明かない」
「埒を明けたいのかい?」
「その用法は初めて聞いたな」
「勉強不足だね」と佐久間は笑う。
「きみの探しものについてだけど、僕は教えてあげることができない。
でも、きみにまつわるものの在り処なら教えてあげられると思う」
「……」
「死んだきみは、この向こうだ」
そう言って彼は、背を向けたまま噴水の向こう側を指さした。
木々がぽっかりと口を開けている。
暗闇がそこにいる。
「ここにあるのは古びたルールだ。それでうまく行くなんて思わないほうがいい。
でも、この古びたルールのなかで失ってしまったものとは、そこで出会えると思う」
「……なんなんだよ、それって」
「さあ? きみにわからないものを、僕が知ることができるわけもない」
行くなら早めに行くといい、と彼は言う。
「きみとはまた会うこともあるだろう。そのときには僕の言っている意味を理解できているといいね」
「……どういう意味だよ?」
「予言はまだ半分だってことさ」
「……」
「きみはきみが失ったと思っていたものを取り戻し、けれどなにひとつ変われない自分を発見するだろうね。
そういうものなんだ。なにもかもが弾性を持っている。きみにも分かる日が来るだろう」
「……あんたもそうだったか?」
「さあ?」と彼は言う。
「でも、その答えはきみのほうがよく知っていると思うよ」
どういう意味だ、と考える間に、佐久間は立ち上がった。
「それじゃあお元気で、レッドヘリング」
「……その呼び方をやめろ、ストローマン」
「なんだかきみのほうが洒落た呼び名に聞こえて悔しいな」
「……うるさい」
「はいはい。そろそろ消えるよ」
……そして、瞬きの合間に彼は姿を消し、噴水の音も途絶えた。
さっきまで飛沫をあげていた水のうねりは、もうなくなっていた。
涸れてしまったのだ。
つづく
◇
長い夢から目をさますように、ゆっくりと意識が浮上する。
身体が静かに覚醒していく。
不思議な疲労感がある。意識が身体に馴染むまでの酩酊のような違和感。
やがてそれもじんわりと溶け込んでいく。
そして、誰かが俺の手を握っていることに気付く。
目を開く。
俺は、自分の身体が自分の部屋のベッドに横たえていることに気がつく。
手を握っていたのは純佳だった。
彼女は俺のすぐとなりに眠っている。
俺はその姿に戸惑いを覚えるより先に、自分の視覚に変化があることに気付いた。
続いて、聴覚。
耳をすませて確かめる。
換気扇の音、純佳の寝息、自分の肌が布団に擦れる音。
これまで二重だった風景。
時に静かに、時に烈しく轟くようだった葉擦れの音。
それが、今、消え去っている。
今、俺は自分の部屋のベッドで休んでいる。
そこで得られる以外の感覚を、いま、俺はなにひとつ受け取っていない。
「純佳」
と、そう呼ぶ声でさえ、これまでの自分と違う気がした。
眠っていたのではなく、ただ目を閉じていただけだったらしい純佳が、そっと瞼を開いた。
「……起きたんですか」
と彼女は笑った。
とても自然に、当たり前みたいな顔で。
「……うん」
当たり前に、俺は返事をした。
「よかったです」
少し眠そうな顔のまま、純佳はそう言った。
どうしてそんなことを言うのか、わからなかった。
「このまま目を覚まさないんじゃないかって思ってたから」
「……俺、そんなに眠ってた?」
純佳は柔らかく首を横に振るような仕草をした。
「たぶん、一時間とか、そのくらいです。でも、様子がおかしかったから」
「……そう?」
「うん。とても、心配でした」
そんなことを素直に言われて、俺は何を言い返せばよかったんだろう。
「……今は?」
「……」
「今も、変?」
「少しだけ」
彼女は笑う。
「でも、昼間より落ち着いています」
「……」
そうなんだろうか。
よくわからない。
「昼間はなにか、不安そうでした。兄はいつも不安そうですけど」
「不安そう」
「何か、焦っているみたいに見えました」
「そっか」
そういうふうに、見えていたらしい。
「だから、よかったです」
「なにが」
「今の兄は、少し、落ち着いているように見えますから」
声がよく聞こえる。
俺は、それを望んでいたんじゃなかったか。
音が止むことを、景色が当たり前に戻ることを。
「……兄、どうして泣くんですか?」
「泣いてない」
「泣いてます。兄は泣き虫です」
「……」
わからない。
どうして俺は泣いているんだ?
どうして俺はここにいるんだ?
「たぶん、少し疲れてるんだと思うから、寝たほうがいいです」
「……」
「お風呂、入りますか?」
「ああ、うん……」
面倒だな、と思った。
とても眠い。
すぐに寝てしまいたいけれど、着替えなければいけない。
そんなことより何か、何か考えるべきことが、
確かめるべきことが、あるような気がしたけれど、
「……兄?」
身体が重かった、やけに。
何の感慨もない。
なにかをなくした、そんな気がするけど、たぶん何にもなくしてなんかいない。
──きみはきみが失ったと思っていたものを取り戻し、けれどなにひとつ変われない自分を発見するだろうね。
なにもなくしてなんかいない。欠けているところなんてひとつもない。
俺は健康で満ち足りている。きっと、そうなんだ。
「兄。……じゃあ、一緒にお風呂に入りますか?」
「ん……」
ん。
聞き流しそうになって、純佳のことを見た。
「冗談です」と笑うのを待ったけれど、いつまで経ってもそんな言葉は帰ってこなかった。
◇
それで、ああうん、なんてよくわからない返事をした俺はいったいなんなんだろうか。
身体を洗って、温かい浴槽に身体を浸して、どう考えても狭いよな、なんて思っていた俺は。
よくわからないまま、温かい湯船につかって息をついた。
反響している、声が、いつもより大きく聞こえて、それが不思議だった。
「変なの」と俺は呟いた。
この景色しか見えないことが、なんだか不安になる。
今までずっと、あの森の気配に悩まされてきたのに。
ふと、浴室の扉のむこうから衣擦れの音が聞こえる。
まあ、それどころではないよな、などとぼんやり湯気のなかで考える。
「おじゃまします」と、純佳が入ってきた。
「ああ」
俺は視線を壁に向けていた。とりあえず。
「どうしてそっぽ向いてるんですか?」
「気にしないでくれ。壁と話してたんだ」
「そうですか」
純佳が身体を流す音を聞きつつ、俺は目を閉じた。
「壁はなんて言っていましたか?」
「彼女に振られたってさ」
「それは大変ですね。大丈夫なんですか?」
「話を聞く限りだと自業自得だな」
「そうなんですか?」
「ああ。女心をわかっちゃいない」
「まるで兄にはわかってるみたいな言い草ですね」
「……ほっといてくれ」
やれやれ、というふうに純佳が溜め息をついた。
「入りますね」と声が聞こえて、思わず正気かと思ったときには水面が揺らいでいた。
伸ばした足に肌が触れて、俺はとっさに足を引いた。
「どうして目を閉じているんですか?」
「リラックスしてるんだ。デトックス効果を得るために」
「デトックスという言葉に科学的根拠はないと聞きましたが……」
「そうなのか」
「というより定義が曖昧で検証もできないと言いますか……」
「でも、湯船にゆっくりつかってリラックスするのはまあ、健康にいい気がする」
「兄が健康なんて気にしてたのは意外です」
「体調はメンタルに来る。気をつけておくに越したことはない」
「兄、目を開けないんですか?」
「……いま、目が疲れを感じていてな」
「それはいけませんね。兄、そのまま動かないでください」
と言って、純佳の気配が近付いてくる。
いけない、目を閉じているせいで妙に緊張してしまう。
と、濡れた手の感触が俺の鼻先に触れた。
それが、鼻のつけ根のあたりへと伸びてきて、挟み込むように押し込まれる。
「……なに、これは」
「ツボです」
「ツボは……どうなんだ、科学的根拠は」
「まあ、曖昧ですが……デトックスよりは具体的ですし、検証もされてます。
それでも経験医学の範疇らしいので、科学的にと言われると弱いですね」
「ふむ……」
「どうですか、効き目は」
「いや、よくわからん」
というか疲れ目自体嘘だ。
「そうですか。……じゃあ、今度は別のところを」
と言って、今度は足の方へと何かが触れた。
思わず引っ込めかけた足のかかとを、純佳は手のひらで掴んだ。
「動かないでくださいね」といって、足の甲のあたりに指を当てられる。
「純佳、くすぐったい」
「ちょっとです。まあ、プラセボでもあればいいじゃないですか」
……いや、そうではなくて、この姿勢のほうがまずい気がする。
「純佳、もういいから」
「目、よくなりました?」
「なったから」
「じゃあ、開けてください」
「……なにを」
「瞼」
「……」
「……見てください、早く」
こいつは、何を言ってるんだ。
「ほら、早く」
言われるがままに、俺は、瞼を開いた。
「……やっと見てくれましたね」
「ああ、うん」
「バスタオル、巻いてたのでした」
「ん」
「……裸だと思いました?」
わからん。
「裸だと思ったことでしょうけど残念ながらタオルを巻いてたのでセーフです」みたいな顔をしているが、
普通に考えてタオル一枚でもかなり危ない気がするのは気のせいだろうか。
いやまあ、旅番組なんかじゃタオル一枚で入浴してたりするか。
俺の感覚が変なのか。どうなんだ。そういう問題か? 地上波でオッケーなら健全なのか?
「……えっと、兄?」
「いや、まあ……」
とりあえず、何も言うことが思いつかなかったので、黙っておいた。
まあ、妹だ。
まさかこの歳になって同じ湯船に浸かることになるとは思わなかったし、
他の誰かに知られようものなら次の日から俺の扱いはかなりひどいことにはなりそうな気もするが。
ちどりなら、これを知ったらなんて言うんだろう。そんなことが妙に気になった。
「兄、何かまた考えてるでしょう」
「ん。人はいつも考えてるものだろう」
「そうでもないです」と純佳は言った。「そうでもないですよ」
「そうなのかな」
「そうです。人によります」
肩まで伸びた髪を今は後ろで留めている。
むきだしの肩は、くすみもなく、いやに白い。
こわれもののように細くて、薄くて、小さい。
こんなに小さかっただろうか、純佳のからだは。
「……あの、たしかにタオルは巻いてますけど」
「ん」
「そんなに見るものでもないです」
「……見てない」
「嘘です。じゃあ何を見てたんですか」
「湯気だ」
はあ、と純佳は溜め息をついた。
「湯気はなんて言ってますか?」
「湯気が喋るわけないだろう」
「……」
むっとした顔をされる。さすがに怒らせたか。
「まあ、調子が戻ってきたようでなによりです」
ちょっとふてくされたような顔になりつつ、純佳はそう言った。
「そんなに様子がおかしかったか?」
「普通の判断力を持った状態の男子高校生は、妹とおふろに入りません」
「たしかに」
「……」
「……」
……だとすると、それを言い出した女子中学生のほうが普通の判断力を見失っていないだろうか。
「ま、ともかくです。多少は元に戻ったみたいでなによりです」
もとに戻った。もとに戻った、か。
「わかんないな」
「わかんないんですか?」
「結局のところ……」
と、言いかけてから、何を言おうとしたのか、わからなくなる。
「結局のところ?」
「……」
「結局のところ、なんですか」
「……結局のところ」と俺は繰り返した。
「自分が自分自身の問題から逃げ続けてきたんだな、とわかった」
「どういうことですか?」
「言い訳を重ねて、何かのせいにして、目の前のことから逃げてるだけだった」
「……」
「とんだ自己防衛だ」
「ん。そうですか?」
純佳は不思議そうな顔をした。
どうしてだろう。
肩を撫でる、その手のひらの薄さ、腕の細さ、肩の小ささ、鎖骨のくぼみ。
「そうですか、って?」
聞き返すと、純佳は曖昧に首をかしげた。
「そんなこと、ないと思うんですけど。少なくとも、兄は言い訳なんて、自分で剥ぎ取ってたように、見えましたけど」
「……そうじゃなかった、と、思う」
ふうん、というふうに、純佳は息をついた。
「兄は、防衛機制って言葉を知ってますよね」
「……心理学?」
「そうです。兄が言いたいのは、そういうことですよね。すっぱいぶどうとか」
「……まあ、だな」
「でも、それって『防衛』のためなんです」
「……」
「わたし、前から思ってました。兄は自分の防衛機制、自分の認識の歪みみたいなものを自分で剥ぎ取ろうとしているみたいに見える。
フラットに世界を眺めるために、先入観を排除したいっていうふうに。自分を客観視しようとしてるみたいに見える」
「そんな……上等なことは、してない」
「かさぶたを剥がしてるみたいに見えます」
純佳はそう言って、天井に顔を向けて息をついた。
「防衛機制なんてものが存在するなら、それはきっと、心を守るものなんです。
そうしないと、傷ついてしまうから。自尊心が保てないから。だから、自分を客観視する行いは、自尊感情を削るんです」
「……自尊心。でも、そんなの、結局、誤った認識の上に立つ自尊心なんて、虚妄じゃないか」
「……そうでもない、と思います」と純佳は言う。
「自尊心のない自省は自虐です。自虐は、あんまりよくない」
「そうなのかな」
「わたしには、それは、土砂降りの雨の中で、傘もささずに立っているようなものに思えます。
人の心が足元にできた水たまりのようなものなら、傘もささないでいたら、波紋に邪魔されて覗くことさえ叶いません」
「そういうものかな」
「だから傘は必要なんです。もちろん、自分が傘をさしているということを、忘れるのは良くない気もします。
でも……雨に打たれるのは、冷たくて、痛くて、つらいことだと思いますから」
「傘……」
「自分を労らないことには、見えてくる自分なんて、結局、すり減って疲れ切った部分だけですから。
すり減って疲れ切った自分は、きっとうまく振る舞えないから。余計に自分が嫌いになるだけです」
だから、と純佳は言う。
「一度、傘を受け入れるのも、いいと思います。そうして、自分はこんな傘をさしているんだなと、理解すること。
そっちの方が、よっぽど建設的だという気がするんです。……ごめんなさい、自分でも、何を言ってるかわかりません」
「いや……そうだな」
傘をさしていることに気付くたびに、傘をさしてはいけないと、傘を放り投げる。
そんなことを繰り返したって、消耗するだけかもしれない。
「でも、癖みたいなものかもしれない」
「癖、ですか」
「傘をさしてる自分を見つけると、こんなんじゃだめだって、すぐに投げ捨ててしまう気がする」
「兄は……傘を投げ捨てることで、どうなりたいんですか?」
どうなりたい。
どう、なりたい、か。
考えたこともなかった気がする。
「でも……傘に隠れて自分をごまかすのは、正しくない気がする」
「……正しくありたいんですか?」
「……どうだろう、そうじゃない」
言葉の選び方を間違えた気がする。
正しく、というよりは……。
「自分の醜さを誰かのせいにしたり、誰かに押し付けたりするのは……。
正しくない、というより……誠実じゃない、気がする」
「誠実、ですか」
「わからないけど……それは、誰かをないがしろにしかねないことだと、思う」
「誰のことも、ないがしろにしたくないんですか?」
「……たぶん。みんな、そうじゃないか?」
「わかりません。どうなんでしょうね。でも、それなら尚更……。
尚更、まず、自分を労らないといけないんじゃないでしょうか。
他人のことを考える余裕がないくらいずぶ濡れになっていたら、やさしくなんてなれないです」
この比喩に限ったことを言えば、瞼を開かれたような気持ちだった。
『誰かをないがしろにしたくない』がために『傘を捨てる』。
その末に『誰かを気遣う余裕を失う』のでは、本末転倒だ。
そんなことが、いま、不意にわかったような気がした。
本当にそうかもしれない。
結果として俺は、いつのまにか、自分の心がどうだとか、そんなことしか考えなくなっていた。
本当は、そんなふうになりたかったわけじゃないはずだ。
「……そっか」
「それでも、その癖のせいで、兄が傘を忘れたり、捨てそうになったら……」
純佳は静かに、俺を見て微笑んだ。
「兄が傘を忘れたら、わたしが兄に傘をさしてあげます」
「……」
「あんまり濡れたら、風邪ひいちゃいますから。だから、傘を忘れたら教えてください」
さしのべられる傘。
そうだな。
もしかしたら……そっちのほうが、やさしさに近いんじゃないか。
「……純佳は、大人だなあ」
そう、思わず呟いたら、純佳は子供みたいな照れ笑いを浮かべた。
人の心が足元にできた水たまりのようなものなら、傘を捨てたところで意味なんてない。
明鏡止水という言葉を思い出す。
波打った水の向こうを、人は覗くことができない。
水の底まで眺めるためには、その水面が落ち着いている必要がある。
そのためには傘がいる。
「ありがとう、純佳」
「わたしは、兄の味方ですから」
「……」
「味方ですから。兄がどんなにずるくても、ひどくても、たぶん許しちゃうと思うんです」
「……それは、ちょっと怖いな」
「うん。だから、わたし、大人なんかじゃないんです」
「……」
「兄のこと、この世の誰よりひいきしてるんです」
「……じゃあ、ひいきなしでもマシな人間にならないとな」
「兄のいいところはそういうところです」
「……いいところ?」
「自己肯定感の低さは、向上心の裏返しなんです」
そんな、どこかで聞いたような言葉でさえ、純佳の口から言われると心強く思えた。
つづく
◇
翌日は土曜日だった。
目が覚めて、身体が重いことに気付く。
視界にも、音にも、未だに慣れない。響き方が違うのだ。
朝、起きて、自分の身体がしっかりと自分の部屋にあることを認識する。
手足がちゃんと自分の思うとおりに動くことをたしかめる。
そして、あの音が聞こえてこないかと耳をそばだてる。
けれどどれだけ待ったところで、そんな気配すら感じられなかった。
聞こえてくるのは雨垂れの音だった。
季節は梅雨の終わりへと向かいかけている。
やがてノックの音が聞こえて、純佳が「起きていますか」と声をかけてくる。
起きている、と答えると、彼女はびっくりしていた。
「兄がひとりで起きている。最近は珍しいことばかりですね」
「俺も成長するのだ」
「成長でしょうか」と純佳は首をかしげた。
「朝ごはんは食べますか?」
「せっかくなのでいただこう」
「今日はバイトは?」
「バイト……」
バイト……。
「……ある。たぶん、午後から」
はずだ。
「わかりました」
それだけ言って、純佳は部屋から出ていった。
さて、と、俺はぐっと伸びをした。
妙な疲れは感じたけれど、ひとまず、帰ってきた。
考えなければいけないことがいくつかある。
最初に日付を確認する。そう、土曜日なのだ。
記憶の欠落が二日ほどある。というより、記憶はあるのだが、曖昧になっている。
どんなふうに過ごしたのか、思い出せない。俺はそれを見ていたはずだ。それは分かる。
昨夜目を覚ます前まで、どこにいたのか、それもよく思い出せない。
印象だけが残っている。
一度眠ってしまったせいだろうか。それとも、昨夜のことのインパクトのせいだろうか。
いまいち、記憶が判然としなくなっていた。
けれど、いくつか、思い出せることもある。
俺は携帯のメッセージアプリを起動し、通話を呼び出した。
鳴らす。
鳴らす。
鳴らす。
出ない。
切らずに鳴らす。鳴らす。鳴らす。
そろそろ諦めるべきだろうか、と思ったところでつながり、
「うるさい!!」
と、声が聞こえた。
「土曜の朝からなに!」
「土曜も……」
「ん?」
「土曜も何もねえだろうが!!」
俺は怒鳴り返していた。
「……あのね、三枝くん。青葉さんは寝てたの。気持ちよく。今の今まで」
「ああ」
「その睡眠のね、邪魔をね、するのはね、大罪ですよ。大罪です」
「だからな、おい。わかるか、瀬尾」
「なにが?」
「昨日までいなかった奴が、そんな偉そうなこと言う資格ねえだろうが」
「……そりゃ、悪かったとは思うけど。ね、三枝くんちょっと怖いよ。寝起き?」
瀬尾は甘えたみたいな声を出した。
「でも、昨日は遅くまでたいへんだったんだよ。お父さんとお母さんにどう説明したもんかって」
「ちゃんと謝ったのか」
「なんか捜索願とか出されてたみたいだから、なんも覚えてないってことにしちゃった」
「……それ、通るのか?」
「いちおう来週は学校に話通しにいかないとってことになってるんだ。
ね、三枝くん。わたしがいなかった間も、授業って進んでたよね、やっぱり」
「そりゃな」
「んん……どうしよ。もうすぐ期末だよねえ……」
「出席日数は?」
「そこも心配だなあ。どういう扱いになるのかなあ」
「自業自得だ」
「ひどい。誰のせいだと思ってるの」
「……んん」
誰のせいって……。
「俺のせいなの?」
「そーだよ。まったくもう」
「いや、誰のせいでもないって言ってなかったっけ?」
「本音と建前は別」
「……めんどくせえやつ。なんだよ、本音って」
「あー、あんまりわたしにひどいこと言うと、三枝くんが小学生の頃同級生の女の子を裸に剥いたことあるのみんなに教えちゃうよ」
「むい……なんだそれ」
「いやだって言ったのに無理やり……水風呂に」
「ちどりのことかよ。あ、そうか。いや、小学二、三年の頃だろそれ」
瀬尾からその話を持ち出されることに違和感はあるが、彼女は思い出したと言っていた。
思った以上に厄介なことになったという気がする。
ペースが保てない。
同級生に過去の恥まで全部知られているような気持ち……というか、大部分そのとおりだ。
「えへへ」と瀬尾は楽しげに笑った。
「なつかしいねえ」
「……」
俺もまた、なつかしさは感じるけれど、やっぱりそこには違和感がつきまとう。
それをもう、瀬尾は受け入れたのだろうか。
ひょっとして、瀬尾が帰ってこなかったのは、思い出したから、だったんだろうか。
それをどう取り扱っていいか、わからなかったから、
……いや。
それを想像するのはやめておこう。
瀬尾は帰ってきた。それだけで今は、よしとしておこう。
「あとさ、三枝くんさ、むかし、騒ぎすぎて大人に怒られたりするときさ、ピエロの人形を見せるとめちゃくちゃ怯えてさ……」
「やめろ。なんか恥ずかしいからやめろ」
「えー? なんかわたしもさ、今の三枝くんのイメージが先にあるところにそういうのを思い出したもんだから、もう面白くて……」
「あのな、おまえだって昔うちに泊まったときに夜中トイレにいけないからって……」
「わー! わー!」
「……よそうぜ」
「な、なんでだろう……思い出すとめちゃくちゃ恥ずかしいことばかりしてた気がする……。
わたしだって感じはあんまりしないのに……」
「なんで敬語とれたんだろうな」
「敬語だったことを思い出すと……ものすごく恥ずかしい……」
「ちどりは今も敬語だけど」
「う、うそだ!」
「……なぜおまえが恥じらう」
「うう、なんだこれは……」
「まあお互い裸も見せ合った仲だ。仲良くしようじゃないか」
「開き直らないでよ! 恥ずかしいなあもう……」
「……他のことも覚えてるんだろ」
「ん」
「純佳とか、怜とか」
「ん、うん。なつかしいな。隼ちゃんは──」
と、瀬尾は言いかけて、
「……三枝くん、いつまで純佳ちゃんとお風呂入ってたんだっけ?」
「……」
「……」
「……」
「……え?」
「……いや、違う。話題が唐突すぎて驚いただけだ」
「入ってるのか! まだ入ってるのか!」
「入ってない!」
「し、信じられない……どういうことなの……」
「入ってないって言ってるだろ」
「わたしに嘘が通用すると思ってるの?」
「……」
俺は断固として認めなかった。
そんなふうにして、電話を切った。
なんだか考えないといけないことが頭から飛んでしまった。
ひとまず、瀬尾が帰ってきていることを確認できたことに安心する。
他のメンバーにも連絡しておくべきだろうか、と思いつつ、姿を見るまではなんとなく実感が湧かなかった。
そもそも……この記憶の空白の内容を、たしかめたくないような気もしていた。
何かまずいことをたくさんしていたような記憶はあるのだが……。
とりあえず、バイトのシフトを確認する。今日はたしかに出勤日になっていた。
あと、考えないといけないことはなんだろう。
何かを忘れているような気がするが、思い出せない。
まだ、曖昧になっている部分が多い。
……とはいえ、ひとまず、これで。
事態はとりあえずの解決を見た、のだろうか。
つづく
◇
バイトに出るのはなんだか久しぶりだという気がしたが、実際にはそれほどでもないはずだ。
土日は基本的に暇だから、何事もなく仕事は終わる。
不意に先輩から、
「なんだか目つきが変わったね」
と、知ったようなことをいわれたけれど、それがどんな意味なのかは分からない。
バイトを終えた俺は、どうしようかと悩んだ挙げ句に『トレーン』へと向かった。
何か落ち着いていられない気分だったのだ。
向かう途中でそういえばと思い、携帯を取り出す。
どうしたものかな、と悩んだあげくに、大野、瀬尾、真中、ちせの連絡先を呼び出して、グループトークのルームを作る。
「瀬尾さん、挨拶なさい」と俺が送る。
「ただいまです!」と瀬尾からすぐに返事が来た。携帯をいじっていたんだろうか。
少しして、真中から、
「青葉先輩?」
と疑問符付きのメッセージ。
「青葉先輩です」と瀬尾は返信した。
「ごしんぱいおかけしましたが、いま、家におります」と追撃。
黙っているかと思っていた大野が市川をルームに追加し、
「いつ帰ってきたんだ?」と送る。
「今朝です」と瀬尾は言った。
「連絡が遅い」
「たいへんなごめいわくをばおかけしました」
と、今度はちせがましろ先輩をルームに追加した。
「ぶじでよかったです。おかえりなさい」
ちせの文章は思ったよりなんだかそっけなかった。
とりあえずこれで全員に連絡の義理は果たしただろう。
あとでとやかく言われる心配もあるまい。
まあ、もっとも、みんなそんなことまで気にしないとは思うのだが。
と、真中から、
「せんぱいはなんで知ってるの」とメッセージが飛んでくる。
今気にするのがそこなのか、と思いつつ画面を開くと、どうやらグループルームではなく個人メッセージらしい。
「諸般の事情」とだけ答えてから、俺は歩くのを再開した。
「そうですか」と真中の返事はちょっと怖かった。
『トレーン』についた俺を迎えたのは、当然といえば当然だが、ちどりだった。
彼女は俺を見た瞬間、「うっ」という顔をした。
「……どうした?」
「あ、いえ。いらっしゃい、隼ちゃん」
ごまかすみたいに、ちどりは笑う。その表情が何かを隠しているんだと流石に気付く。
不自然に思ったけれど、ちどりは何気なく言葉を続けた。
「ちょうどよかったです。奥にいますよ」
「……誰が?」
「怜ちゃんです」
案内されて奥のテーブル席に近づくと、たしかにそこに怜がいた。
「やあ」
「やあ。……来てたのか」
「会っただろう、昨日」
「……そうだったか?」
「……ん。まあ、それについても話そうか」
そう言って、怜は向かいの席を示した。俺は頷いて椅子に座る。
ちどりは俺が何かを言う前に、奥にいるマスターに注文を伝えた。ブレンド、と。
ちどりは何かを言いたげに俺を見たあと、そそくさと厨房の方へと向かっていった。
「……ちどりになにかしたの?」
怜はそう訊ねてきたけれど、俺は首をかしげるしかない。
隠しても仕方ない。
「ちょっと記憶があやふやになってる」
「ふうん。なにかあった?」
「……それをおまえにも確認したいんだ。昨日、会ったっていったな」
「ん。……覚えてない?」
「わからない。そんな気もする」
「そっか。会ったよ、昨日。でも、そのまえにひとついいかな」
「……ん」
「きみは、三枝隼だよね?」
「……」
「きみは、ぼくが知っている三枝隼だよね?」
どうだろうな、と俺は思う。けれど、
「たぶんな」と、そう返事をした。
「そっか。ならいい」
怜は本当に、それならいい、という顔だった。
「……いいのか?」
「よくないほうがいい?」
「どうだろうな。ちょっとくらい、検討してほしくはある」
「ふうん……。でも、確かめようがないしね」
怜はそう言って、コーヒーに口をつけた。
「怜、なにしにこっちにまた来たんだ?」
「……おとといの夜、ちどりから連絡があったんだよ」
「なんて」
「説明が面倒だな」と怜は少し眉を寄せた。
「ええとね、おとといの夜、この店に、隼の学校の人たちがきたんだって」
「……学校の人たち?」
「そう。……ま、そこでいろいろ話したんだ。それでちょっと気になって、噴水に行った。
そうしたら隼がいて、ぼくは話しかけた。すると……ちょっと様子が変だった、気がするね」
「……俺の様子が?」
「覚えてない?」
「……ああ」
「……そっか。まあ、いいや」
ふむ、と怜は頬杖をついた。
「……珍しいな」と、俺は思わず言っていた。
「なにが?」
「怜がそんなふうに、受け流すなんて」
彼女は少しだけ目を丸くした。
「そう?」
「なんでもかんでも、理由を突き詰めないと我慢ならないやつだってイメージだった」
「ぼくだって、少しくらいは大人になったよ」と怜は言う。
「割り切れることばかりじゃない」
「……怜、実はさ」
「ん」
「瀬尾、見つかった」
「……見つかった?」
「ああ。今日、帰ってきた、らしい」
「らしいっていうのは?」
「まだこの目で見たわけじゃない。でも、たぶん、電話をかければ出ると思う」
「……ふむ」
しばらく黙り込んだあと、怜は困ったみたいに溜め息をつき、
「結局取り越し苦労だったかな」
と笑った。そうなのかもしれない。
「……まだ、心配事がありそうな顔だね」
怜は俺の方を見る。
本当にこいつにはなんでも分かってしまうのか。
それとも、俺がわかりやすいだけなのか。
「そのうち話すよ」と俺は言った。
「そのうち、話せるようになったら」
でも、そうだな。
「……でも、少し前までと比べたら、いくらかすっきりしてる」
「……ふうん?」
音が、景色が、消えたからだろうか。
それを寂しいと思うのは、どうしてなんだろう。
「まあ、それはいいや。それとはべつに、やっぱり気になるんだけど」
「なにが」
怜は、厨房の方をちらりと見てから、俺の方へと顔を近付けた。
「ちどり。……おとといから、絶対様子が変だと思うんだけど」
「……ふむ。というと?」
「気付かない?」
「いや、なんだかおかしいとは思ったけど……何かあったのか?」
「それがね」
と怜が小声になったので、俺は彼女のほうへ耳をよせた。
怜はささやき声で話を続ける。
「隼の名前を出すたんびに動揺してる気がするんだ。なにかしたんじゃないのか?」
「……んん」
なにか、と言われても。
「やっぱり思い出せないな」
「でも、絶対、隼の名前だけなんだ。それ以外は普段どおり。
もともとちどりは、感情を隠すのがうまいけど」
「……そうか?」
「隼は鈍いな。そこがいいとこだけど」
と、そんなことを言われると同時に、ちどりが厨房のむこうから顔を出した。
そして、あからさまにむっとした顔になる。
そんな顔は珍しいと思った。
とたとたと歩いてくると、テーブルの上にコーヒーのカップを置いた。
「隼ちゃん、ブレンドです」
「ん」
椅子に座り直し、コーヒーに口をつける前に、ちどりの顔をじっと見る。
彼女は俺の方を見ようとしない。
「……」
「……な、なんですか?」
「……あ、いや」
普段のちどりなら、ここまで視線を合わせないということも、ないような気がする。
なんとなくその表情が物珍しくて、視線が外せない。
と、ちどりは落ち着かなさそうにもぞもぞと体を揺らした。
それからぐっと、決意を固めたように、彼女は俺の目をじっと見返してきた。
「……あの、隼ちゃん」
「……なに」
「ちょっとお聞きしたいことがあります」
「……え、なに」
「ちょっとこちらへ」
と言って、ちどりは俺の服の袖を掴んだ。
怜を見ると、「いってらっしゃい」と彼女は動じていない。
何事かと思いつつ引っ張られるままついていくと、ちどりは店の裏の路地に俺を連れて行った。
「……あの。こないだのことなんですけど」
「……こないだって?」
「こないだ! ここで……したこと、なんですけど」
「……え?」
した?
何を?
ちどりは俺と視線を合わせようとしない。
まったく記憶にはないが、ただごとではないような態度だ。
「わたしもあのときは、頭に血が昇ってたというか、そういう状態でしたけど……あの。気になることがあって」
「……は、はい」
「隼ちゃん、まさか、あの……ああいうこと、他の子とも……」
「……ああいうこと、って」
「だから、その……」
「……」
「な……舐めたりとか……」
「な……?」
舐めたり。
「や、なんだそれ」
「だから! 具体的内容はともかく! ……ああいうの、よくないと思います」
「いや、全然、全然! 心当たりがないんだけど!」
「……」
じとっとした視線を向けられて、おもわずうろたえる。
なんだか不確かな記憶を忘れたままでいたい気持ちになってきた。
ふう、とちどりは溜め息をついた。
「隼ちゃん、このあいだは様子が変だったから。だから、仕方ないのかなって」
「……」
本格的に不安になってきた。
「でも、こないだみたいなこと、他の子にしちゃだめなんですからね」
「いや……あの……」
何をしたんだ、俺は。
「わたしだったからよかったものの、他の子に同じようなことしたら、大変ですよ」
いたずらをした子供を叱るような口調だった。
「……ただ、ちょっと、気分がおかしかっただけですよね?」
すがるみたいな声で、心配そうに、ちどりはそう訊ねてくる。
俺は、どう答えればいいかわからなくて、
「……うん、たぶん」
と、そうやり過ごすことにした。
ちどりはそのとき、ほっとしたような、どこかがっかりしたような溜め息をついて、
「それならいいんです」と言う。
「……わたしも、忘れることにします。隼ちゃんも、忘れてください」
「あ、ああ……」
……俺は何をしたんですか。
と、まさか訊ねるわけにもいかなかった。
つづく
店内に戻ってテーブルにつき、ブレンドを口に含む。
怜はなんだかけだるげな様子で俺のことを見た。
「どうした?」
「いや、なんだか不思議な感じがしてね」
「不思議?」
「ん。そういえば、隼、ぼくに隠していたことがあるだろう」
「何の話?」
「瀬尾さんのこと。ほら、ちどりにそっくりだって」
「ああ……」
俺は少しだけ考えて、頷いた。
「詳しい話を聞いてなかった。おととい、ここに誰が来たって?」
「大野くんと、市川さん。それから、ましろ先輩って人」
「……不思議な並びだな」
真中は来なかったのか、と俺は思った。
「隼の様子が変だっていうのと、瀬尾さんがいなくなったっていうので、話し合いをしてたんだって」
「話し合い」
「それで、スワンプマンの話が出たんだそうだ」
「……それ、ちどりも聞いたのか?」
怜は首を横に振った。
「ぼくが聞いた」
「そもそも、怜はなんでこっちに来てた?」
「違うよ。ちどりから連絡があったんだ。隼の様子がおかしいっていうので、何か知ってる人に心当たりはないかって聞かれたらしい。
それでぼくに連絡が来て、まあ、ぼくの方も暇だったからこっちに来た。そうしたらそういう話になったってわけだ」
「……なるほどな」
……スワンプマン。
たしかに、ましろ先輩に電話でその単語を出した記憶はある。
それでも、なんというか、不思議な気がする。
それで、ちどりと瀬尾のことにまで辿り着いたんだろうか? 経過が見えないから魔法みたいな気分にもなる。
「……怜は、どう思う?」
「なにが?」
「スワンプマンのことだよ」
「ぼくは……そうだな」
彼女はちらりと、カウンターのむこうから疑わしそうな視線をこちらにむけているちどりに視線をやる。
「ぼくにはよくわからない、というのが本音かもしれないね」
「……」
「そういうことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。本当なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。
でも、ぼくが思うことっていうのはそんなに多くなくて、結局問題なのは……そうだな。
たとえば、隼やちどりがなにかに悩んでいたとして、ぼくがそれに気付けなかったとしたら、それはぼくにとっては悲しいことだよな、ってことくらい」
「……」
「ぼくはきみたちを友達だと思っているからね」
「友達、ね」
「不満?」
「いや……」
どう言ったものかな、と悩む。
不思議なものだ。
あんなにもざわついていた葉擦れの音が聞こえないというだけで、気持ちまですっきりしたような気がする。
「なあ怜、俺はおまえに嫉妬してたんだよ」
怜は、唖然とした顔をする。
「……嫉妬? ぼくに? 隼が?」
それから笑った。
「なんで隼がぼくに嫉妬なんてするの?」
「なんでもできたから」
「……」
「なんでも俺より上手くできた。それが羨ましかったんだ」
「……そうかな」
どこか寂しそうに、怜は笑う。俺はそんな彼女の表情を、新鮮な気持ちで眺めている。
「ぼくは隼が羨ましかったよ」
「……俺を?」
「隼の周りにはいつも人がいたから。それに……ちどりだって」
「ちどり?」
「うん。ぼくらは、よく三人で遊んだけど、ちどりと隼の間には、ぼくが立ち入れない壁みたいなものがあった気がするよ」
「……それは逆じゃないか? 俺は、怜とちどりをそんなふうに思ってた」
「……ふむ?」
「ふたりといると、自分が混ぜてもらってるみたいな気分になったよ」
怜は何か思いついたような顔をして、ちどりに声をかけた。
ちどりはとたとたと歩み寄ってきて、「なんですか?」と訊ねてくる。
「ね、ちどり。ぼくと隼とちどりのなかで、いちばん仲の良い二人組って、どの組み合わせだと思う?」
ちどりは柔らかく首をかしげて、本当に不思議そうな顔をした。
「隼ちゃんと怜ちゃんじゃないんですか?」
「……ふむ」と怜が言う。
「なるほど」と俺も思った。
「違うんですか?」
「逆に、どうしてそう思う?」
「だって、わたしにはわからない難しい話とかしてましたし、ふたりでいろいろ調べ物したりしてましたし。
こないだだって、コンビニにアイスを買いに行って、しばらく戻ってきませんでしたし」
「……」
「なるほどね」と怜は言う。
なるほどな、と俺ももう一度思った。
「ええと、それで、この質問には何の意味が?」
「いや」と怜が言った。
「やっぱりぼくらはずいぶんと仲がいいみたいだね」
そう言って、怜は俺を見て困り顔で笑った。
俺も思わず笑ってしまった。
◇
翌日の午前中、俺はひとり街へと出かけた。
本屋にむかい、確かめるように適当な本を手にとってみる。そしてページをめくってみる。
そうしないといけなかった。
手にとったのは『伝奇集』だった。
『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。』
『八岐の園』のプロローグに、ボルヘスはそう書いている。
内容は問題ではない。
“読める”のだ。
頭に入ってくる。
これは一時的な状態なのかもしれない。
けれど今は……読める。
なるほどな、と俺は思う。
◇
本屋で吉野弘の詩集を買い、近くの公園へとわけもなく歩いた。
それはとてもいい天気だった。もう、梅雨は終わってしまったのだろうか。
梅雨が終われば夏が来る。
目が潰れるくらいに眩しい季節が来る。
公園の入り口の自動販売機でお茶を買って、歩きながら飲んだ。
それから広場の、木陰のベンチに腰をおろし、そこで本を開く。
空からは木漏れ日が降ってくる。
もう悲鳴のようなあのざわめきは聞こえない。
ここにはもう“ここ”しかない。
俺はぺらぺらとページをめくる。
順番にではなく、ひっかかりを求めるみたいに、ぱらぱらと。
◇
「海は 空に溶け入りたいという望みを
水平線で かろうじて自制していた。
神への思慕を打ち切った恥多い人の
心の水位もこれに似ている。
なにげなく見れば、
空と海とは連続した一枚の青い紙で、
水平線は紙の折り目にすぎないのだが。」
◇
詩は、よくわからない。
正しい読み方がわからない。でも好きだった。
なんとなく読むのが。
印象派の絵を眺めるような、そんな漠然とした居心地のよさが。
たとえばモネの描く緑や水面が、
ピサロの描く雪景色が、
ルノワールの描く女性が、
むずかしいことなんてなにひとつわからないのに、そのなかに行ってみたいと思うくらいに。
本当に、わからないのに。
それでいいんだろうか
それでいいのかもしれない。
それさえも間違いかもしれないけれど……。
◇
ふと読んでいた本に影が落ち、顔をあげるとそこに彼女が立っていた。
「……やあ」と俺は言う。
「うん」と彼女は言う。
「買い物?」と俺は聞く。
「さんぽ」と彼女は答えた。
「となり、いいですか?」
「へんな敬語」
「へんなひとに言われたくない」
そう言って、彼女はなにかをこらえるみたいな顔をした。
「座れよ」と俺は言った。
「少し話がしたかったところなんだ」
「……」
真中は、春までのような、感情の読めない起伏の少ない表情のまま頷いた。
つづく
◇
「ごしんぱいおかけしました」
と瀬尾が言った。
翌週の月曜、文芸部の部室には部員全員と、ちせがいた。
「まったくだ」と大野がいい、「本当に帰ってきたんだね」と市川が言う。
そんなやりとりを聞きながら、俺はぼんやりとあの絵を眺める。
空と海とグランドピアノは、変わらずにそこにある。
みんな、もうそれに注意を払っていない。
俺は諦めて、視線を絵から外す。
ふと、真中と目が合ったのに、すぐに逸らされてしまう。
いや、俺が逸らしたのが先だったかもしれない。
少し考えてから、どちらでもいいか、と思った。
俺はひとり立ち上がり、荷物を持った。
「三枝くん、帰るの?」
「……あ、ああ」
瀬尾に呼び止められて、思わず戸惑った。
どうしてだろう。べつに変なところなんてないのに。
呼び方のせいだろうか。
「バイト?」
「そう」
「そっか。あ、そうだ。わたしもバイト先に顔出さないと……」
そう言って、彼女もまた立ち上がった。
慌てて大野が口を挟む。
「もう行くのか。詳しい話、全然聞いてないんだけど」
「んー。ごめん、また今度ね」
「……ま、いいよ。とりあえず、ほんとに無事みたいだし」
それから大野は、ちらりと俺の方を見た。
「……なに?」
「いや……慌ただしいと思ってな」
「そうかな」
「ああ」
それ以上大野は何も言わなかった。
「じゃあ、悪いんだけど、今日のところはまた明日ね」
瀬尾のそんな言葉を横に聞きながら、俺も部室をあとにした。
◇
「なんか、変だね」
部室を出て少し歩いたところで、瀬尾にそう声をかけられた。
「なにが?」
「三枝くん。なにかあった?」
「……どうかな」
「それに、みんなちょっと変」
「いろいろあったんだよ」
「ふうん?」
「原因のひとつがピンとこない顔をするな」
そう言って頭を軽く叩いてやると、「いたっ」と瀬尾は声をあげた。
「女の子をたたくな」
「うるさい」
「……やっぱり変だよ、三枝くん」
三枝くんと、そう呼ばれるのはやっぱり落ち着かない。
「なにがあったの?」
「……さあ。よくわからん」
「なにかはあったんだね」
「それをうまく説明できたらと思うんだが……」
残念ながら、俺の頭はそんなによろしくない。
「ま、そういう人じゃないと文芸部になんて入らないか」
「……そうか?」
「言葉はいつも思考に遅れをとってるから」と瀬尾は言う。
「ある意味、そのときどきにいつでもふさわしい言葉を使えるような人って、文章を書くのには向かないんだよ」
「なんで?」
「文章の萌芽は、『言いたかったのにうまく言えなかった言葉』なんだって」
「ふうん。誰が言ってたの?」
「『薄明』に書いてあった」
「へえ」
「平成四年夏季号、編集後記だったかな」
「よく覚えてるな」
「好きだったんだ、わたし」
そんな話を、俺は瀬尾と初めてしたような気さえした。
「瀬尾はさ」
「ん?」
「なんで文芸部に入ったの?」
「……そんなに意外?」
言うか言わないか迷って、結局、俺は言った。
「ちどりは入らなかった」
瀬尾はほんのすこしだけ息を呑んだ。そんな気がした。
「なんとなくね」
「なんとなく?」
「そう。三枝くんは?」
「……俺は」
「うん」
「べつにいいだろ、俺の話は」
「ま、いいんだけどね」
本当にどっちでもよさそうに、瀬尾は階段を降り始める。
「でも、ほんとに何があったの?」
「……」
「バイトって、嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「それが嘘。言ったでしょ。わたしに嘘が通用すると思わないことですよ」
「……かなわないな」
「ん。観念して白状なさい」
やけにニコニコ笑ってる。何がそんなに楽しいんだろう。
よかった、とも思う。
でも、なんなんだろう。
この感覚はなんなんだろう。
「……ね、なんかあったんでしょ。ゆずちゃんと」
「なんで真中なんだよ」
「ふたりとも様子が変だから」
俺はひとつ息をついて、返事をした。
「たしかに、ないことはないが」
「わたしに言うことじゃない、って?」
俺は無言でうなずいた。
「なにそれ。寂しい」
「……勝手に寂しがってろ」
「ええー。三枝くん、なんか変だよ」
「変じゃないよ」
「……前と、ぜんぜん違う」
「前って?」
「いつだろ。……部員集めする前とか」
「……」
「……ごめん、なんか、イライラさせてる?」
「違うよ。ちょっと考えてるだけ」
踊り場の窓から中庭の様子が見えた。
思わず、立ち止まって、それを眺めてしまう。
俺は何をやってるんだろう。
俺は何を考えているんだろう。
いや、分かってる。
こういうことなんだ。
考えないようにしていたこと、頭の中で、言葉というかたちを取る前に押し留めていたもの、それが、噴き出すみたいに線を結ぶ。
"あらゆるものが、弾性を持っている"のだ。
「三枝くん……?」
「ああ、うん」
返事をしながら、俺は、自分の視界が二重にブレてなんていないことをたしかめる。
耳をすませて、葉擦れの音なんて聞こえないことをたしかめる。
どうしてだ?
瀬尾は帰ってきた。景色はもう二重なんかじゃない。もうひとりの俺は弔われた。
初夏の風が窓のむこうで緑を揺すっている。
あんなにも、純佳にも教えられたのに。
それなのに、いま、どうして俺は……。
「三枝くん!」
と、手をつかまれて、ハッとする。
「どしたのさ、いったい」
「……」
「ほんとに、どうしたの?」
「……なあ、瀬尾」
「ん」
「俺、しばらく、部室にいかなくてもいいかな」
「え……? どうして?」
「どうしてってこともないけど……」
「……やっぱ、ゆずちゃんと、なにかあった?」
「……振られたんだよ」と俺は言う。
「それだけ」
「それだけ、って……ほんとに?」
「ああ」
「そ、か。えと……」
「……」
「え、ほんとに……?」
「ほんとだよ」
「そんなばかな」
「なんでおまえが驚くんだよ」
「いや、だって、え、ほんとに?」
「ほんと」
目が、おかしいのだろうか。
前よりちゃんと、視界ははっきりしているはずなのに、夢の中にいるみたいにふわふわしている。
よくわからない。
どうして俺はここに立っているんだ?
ここ数日の記憶が判然としない。
俺は本当に目覚めているのか?
実は俺は目をさましてなんかいなくて、これはただの長い夢じゃないのか、
本当は俺はいまも、あの森をさまよっているんじゃなかったのか。
あの森を、さまよっているだけの、はずだったんじゃないのか。
けれど、その感傷は、
──人は暗闇に何かを期待するものなんだよ。
──暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。
きっと、単なる現実逃避なのだ。
俺はそう思いたいだけだ。
本当は俺は、あの森を出たくなんてなかったのだ。
あの音が聞こえてさえいれば、俺は、自分の問題をすべてあの森のせいにできていたのに。
「どうして、部活に出ないなんていうの?」
「……」
「それも、ゆずちゃんのせい?」
そうだ、と答えそうになった自分を、かろうじてのところで、諌める。
そうじゃない。
そういうことではない。
いま、ここで真中のせいにすることは、
すべてを森のせいにしていたことと、なにも変わらない。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「なんででもいいだろ。個人的な理由だ」
瀬尾は、むっとした顔になる。
「わたしが個人的にいなくなったときは、追いかけてきたくせに!」
「……」
返す言葉もない。
「わたし、ゆずちゃんと話してみる」
「なにを」
「三枝くんのこと、ゆずちゃんが振るなんて信じられない」
「あのな、瀬尾」
「そんなのおかしい」
「瀬尾、あのさ」
「……なに」
「それって、余計な介入なんじゃないか?」
「……え?」
「俺と真中の間に、縁みたいなものがあるとする。それがか細くて、今に切れてしまいそうなものだとする。
でも、それを繋ぎ止めるべきだとか、繋ぎ止めないべきだとか、おまえは判断する立場にあるのか?」
「……」
「それは、おまえの恣意で判断していいことなのか?」
「それは……」
瀬尾は押し黙る。
無理もない。
これは、瀬尾がいつか言っていたことだ。
「でも、わたしは……」
「悪いけど、俺も少し混乱してるみたいだ」
「……わたしは」
なおも何か言いたげに、瀬尾は俯いた。
べつに、こんな顔をさせたいわけじゃなかった。
本当は、いまは、真中のことばかり気にしているわけじゃない。
どうして俺は、こんなときでさえ、自分のことしか考えられないんだろう。
ただ、なんとなく、本当になんとなく、重なっていない風景は、葉擦れの音の聞こえない景色は、どうしてか、俺を失望させている。
そう思わないようにしていたけれど、考えないようにしていたけれど、そうなのだ。
ふと、純佳に会いたくなった。
つづく
◇
学校を出て、俺は『トレーン』へと向かった。
家に帰る気にはなれなかった。何か、それがよくないことのように思えた。
下校途中、俺は何度も自分の視界を確認した。並木道やアスファルトが当たり前に見えることを確認した。
それはたしかにそれだけで、今までのすべてをかき消すくらいの重みをもって現実として存在している。
途中で、不意に、携帯が鳴った。大野からの電話だ。
「……どうした?」
「ああ」と大野はため息のような声を漏らした。
「真中の様子がおかしいようだけど」
「どうして俺に電話するんだよ」
「どうせおまえ絡みだろう」
「……どいつもこいつも」
「なにがあった?」
「振られたんだよ」
俺はいいかげん慣れてきた。
「振られた?」
「もともと偽装の関係だったから、もういいだろうって」
「……それで?」
「それでって、なんだよ」
「おまえはなんて答えたんだ?」
「べつに、なにも」
「……おまえ、それで納得してるのか?」
「……さあ」
はぐらかしたわけではない。自分でもよくわからなかったのだ。
けれど、なんとなく、気付いていることもある。
大野は、ふと黙り込んだ。
「どうした?」
「実は先週まで、おまえを不審に思ってた」
「不審に?」
「スワンプマン。……真中や、市川や、ましろ先輩。みんなで、おまえの様子がおかしいって話をしてたんだ」
「ふむ」
「俺にはどうにもピンと来ないけど、みんなには心当たりがあるらしくてな」
「……白々しいな。おまえもちどりに会いに行ったんだろう」
「まあな。でも、結局俺は、そういうことを考えるのにはとことん向いてないらしい。確かめようもないしな」
「……」
「そのうえで、一個、言わせてもらう。勝手なことをな」
「なんだよ」
「おまえ、真中とどうなりたかったんだよ」
「……」
「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を」
「なんだよ、急に。……俺が、真中がどうとか、言ったかよ」
「どうせ、無傷でもないだろ。見てりゃわかる。おまえは真中が好きだっただろう」
「……なんで、おまえがそんなことを言うんだよ」
「違うな」と大野は言った。
「おまえが言ったんだ。問題は、おまえがそのまま、真中とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」
「……」
ああ、そうだ。
これは──俺が、大野に言った言葉だ。
「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」
「……」
俺は、真中を、
どうしたいと、思っていたんだろう。
深く関わり合ったら、傷を負いそうで、でも、突き放すこともできなくて。
好きにならない、好きになれない、好きになってはいない、そんなふうに考えて。
でもそれは、もしかしたら、
『俺が真中を好きになったら、真中は俺から興味を失うんじゃないか』と、
そんなふうに考えていたからじゃないんだろうか。
「泣いてたんだぜ」と大野は言った。
「……嘘だよ」と俺は言う。
「本当だ」
……大野が言うなら、本当なのかもしれない。
でも、真中は、そうは言っていなかった。
……本当に、そうだろうか。
「本当におまえは……嫌味なくらいに、いいやつだな」
負け惜しみみたいにそう言うと、大野が電話の向こうで不服げに溜息をついたのがわかった。
「少し待ってろ。全部片付けてくるから」
「……全部?」
「……まだ予言が半分なんだ」
それだけ言って、俺は電話を切った。
◇
『トレーン』の看板も、外装も、扉も、ドアベルの音も、すべて、ちゃんと、見えているし、聞こえている。
店の中に入ると、マスターがひとりでカウンターの向こうに立ってグラスを拭いていた。
「やあ」とマスターは言う。
「こんにちは」と俺も返事をする。
「なんだか久々だね?」
「けっこう頻繁に来てますよ」と俺は言った。
「マスターが出てこないんじゃないですか」
「うん。そうかもしれない」
面と向かって話をするのは、ひょっとしたら久しぶりだったかもしれない。
「コーヒーかい?」
「はい。ブレンドを……」
「かしこまりました」とマスターは笑う。
その笑顔がなんだか懐かしい。
……懐かしい?
そういうのとも、いま、少し違うような気がした。
既視感がある? ……いや、そんなもの、あって当たり前か。
……今は、そんなことはどうでもいいか。
思わずため息をつくと、カウンターのむこうでマスターがくすりと笑った。
「何か落ち込んでるようだね」
「ええ」
「ちどりがいないのがショック?」
「まさか」
というのも失礼な話だが、ちどりは関係がない。
「そう」
あっさりと笑って、マスターは体を翻した。
「ちどりは今日はいないよ。友達と勉強会だって」
「はあ……そうですか。珍しい」
「うん。たしかに珍しい。そうだね」
そういって、マスターはしばらく引っ込んだ。俺はひとり、店の壁に貼られた絵を眺める。
二枚の絵。
タイトルはなんだったっけ?
わからなくなったときは、絵の内容を見ればわかる。そういう絵だったはずだ。
一枚は、霧に包まれる夜の街を、もう一枚は、靄の立ち込める早朝の湖畔を。
しばらく、ふたつの絵を交互に眺めていると、また不思議な感覚に襲われる。
絵のなかに広がる景色。それが現実のどこかというよりは、その絵の中に奥行きを持って存在しているように思える。
「はい、おまたせ」
しばらくして、マスターがコーヒーを差し出してくれる。
「絵を見てたの?」
「ええ、まあ……。この絵、マスターが描いたんですよね」
「うん。ずいぶん前だね」
「……『朝靄』と『夜霧』でしたっけ」
「そうだよ。よく覚えてるね」
「たしか、もう一枚あるんでしたよね」
「うん。そう」
「……誰も知らない三枚目」
「そう」
くすりと、マスターは笑う。
笑い方がすこしちどりに似ている。
「どうして隠してるんですか?」
「隠してるわけじゃない。ここで見せる理由がないだけだよ」
「あの二枚には、見せる理由があるんですか?」
「そういえば、ないね」
ないんかい。
「まあ、思い出のようなものだよ」
「思い出ですか」
「飾りでもしておかないと、すぐに忘れてしまう」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
「つまりこれは……忘れないためなんですか?」
「そういうことになるね」
ふうん。
「……じゃあ、もう一枚は?」
「それも、忘れないためかな」
「……」
俺は、これを訊ねるべきではないのかもしれない。
「霧と靄のむこうに、かすかに人影みたいなものが見えますね」
「ふむ。そう見えるかい?」
「意図は、わかりませんが、そう見えます」
曖昧に滲んだ景色のなかに、影が見える。
いるかいないかも不確かな人影。ひょっとしたらそれは気のせいかもしれない。
人影はいつも、何かに隠されて曖昧に濁されている。滲んで、見えなくなっている。
人と人との距離もそれに似ているのかもしれない。
手を伸ばして、触れようとすれば消えていく。
けっしてつかめない。砂のようにこぼれていく。
ずっと繰り返されている。
はじめからずっと。
桜の森の満開の下で、消えていく女の姿。
どれだけ歩き回っても、影ひとつとらえられない森の中。
滲むような靄と霧のなかで、そこにいるように見える人影。
いるのに触れられない。求めても現れない。見えるのにつかまえられない。
他者は不確かだ。
不確かで、おそろしい。
もし、この二枚の絵に、もう一枚、姉妹や兄弟のような絵があるのだとしたら、
それはもしかして、
「逆光」
「え……?」
「いえ、なんとなくですけど。もし俺がこの絵の作者で、誰にも見せない三枚目があるとしたら、そういう名前をつけます」
「……ふうん。そのこころは?」
「『夜霧』と『朝靄』。夜と朝で二枚。もし三枚目があるなら、昼だな、というのが一点」
「単純だね」
「はい。それから、両方とも、景色は靄と霧に隠れて見えませんから」
「なるほど、『逆光』。おもしろいね」
「ハズレでしたか?」
「そうだね。残念ながら」
「惜しいですか?」
「『夜霧』と『朝靄』に関しては、いいところを掴んでいるし、発想としては近い。
でも、もう一枚は、このふたつとはちょっと違う。だからここには飾ってないんだ」
「……一緒に飾ってはいけない、ってことですか?」
「そうだね。答えが透けて見えてしまうから」
「突然ですけど、マスターって、高校のとき、どんな部活に入ってたんですか?」
「部活? なんで急に?」
「最近、部活でいろいろあったので」
「ああ、なるほどね」
親しみやすい笑みを浮かべて、マスターはカウンターに手をついた。
「僕は文芸部だったよ」
「俺と同じですね」
「うん。そうなるね」
「てっきり、美術部かなにかに入ってたんだと思いました。絵が上手いから」
「手慰みだよ。あれこれ手をつけて、結局どれも身につかなかったな」
「文章もですか?」
マスターは一瞬、ぴくりと頬を動かした。
「そうだね」
「三枚目の絵」
「うん?」
「『逆光』じゃないなら、『白日』ってところですか?」
マスターは驚いた顔をしてから、くすりと笑った。
「うん。それで正解だよ」
「靄のむこう、霧のむこうに何があるかをさらすから、『白日』。役割がまったく違うから、並べたら意味がない」
「……そういうことだね」
マスターは照れくさそうに笑った。
「聞いたことありませんでしたけど……マスターって、どこの高校に通ってたんですか?」
「……」
怪訝げに眉をひそめられる。どうしてそんな話になるのか、と思っているのかもしれない。
「三枚目、どこに飾ってるんですか?」
「……僕は、どこかに飾ってるって言ったっけ?」
「いえ。見せる意味がないとは言ってましたけど、でも、この二枚にもないと言ってたので。それに、忘れないため、とも言ってましたから。
だとすると、飾っているのかなと思っただけです。そうだとしたら、その三枚目には、特有の役割があるのかな、と」
「絵に役割なんてあるものかな」
「少なくとも作者がそれを籠めることはできるでしょうね」
そうかもしれないね、とマスターは曖昧に笑った。
「ところで、この店の名前なんですけど、どうして『トレーン』なんですか?」
「うん?」
「……」
「どうやら、何か話したいことがあるみたいだね」
俺は何を聞こうとしているんだろう。
「今日、放課後、部室を出たあと、少し知り合いと話をして、帰ろうとしました。
でも、その途中でふと思うところがあって、図書室に引き返したんです。『伝奇集』を見るために」
「『伝奇集』」
「ご存知ですか?」
「ボルヘスは昔から好きなんだ」
「店の名前に使うくらいですもんね」
「気付いたかい? 何度も読み返したよ。それで?」
「メモが挟んでありました」
「……メモ?」
「これです」
制服のポケットから、メモ用紙を取り出して、俺は彼に差し出した。
彼はそれをちらりと見て、ふむ、と目を細めた。
俺は、メモの内容を読み上げた。
「『よげんをはたして、あのこをむかえにいって』」
「なにかの暗号かい?」
「……いえ、まだ何枚かあります」
取り出して、それを広げる。合計で、三枚あった。
「『あなたのなかのかれとごういつをはたして』」
「……なんだか、よくわからないな。誰かのいたずらじゃないのかい?」
「……最後の一枚です」
どうして俺はこんなことをしているんだろう。
これをたしかめて、どうなるんだろう。
暗闇の中になにかがあると、そう思うのは、現実逃避だ。
そう言ったのは誰だったっけ?
「『さくらはでみうるごすのべつのえのなか かれは』」
「……これは」
この店の名前は『トレーン』。
瀬尾がむこうにいたとき、連絡に使った本は、ボルヘスの『伝奇集』。
マスターが何度も読み返した本だという。
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。
俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。
佐久間茂のスワンプマン──ストローマンは、自らを『デミウルゴスの子』と呼んだ。
メモには、『でみうるごすのべつのえ』とある。
デミウルゴスとは誰か?
それがもし、実際の佐久間茂のことを指しているとしたら、その人物は今、どこで何をしているのか。
『でみうるごすのえ』という言葉を素直に受け取れば、瀬尾が入り込んだあの絵を描いたのは、佐久間茂だということになる。
そして、『べつのえ』ということは、佐久間茂は『他にも絵を描いている』。
『トレーン』、『伝奇集』。
『ちどり』と『瀬尾』。
『佐久間茂』。『デミウルゴスの子』。
『本物』と『偽物』。
『空と海とグランドピアノ』。
『夜霧』と『朝靄』。『三枚目の絵』。
『白日』。
ボルヘスの『伝奇集』に収められた『八岐の園』という短編集の一篇に、『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』というものがある。
『トレーン』というのは、作中に登場する架空の地名のことだ。
何らかの集団によって極めて緻密に捏造された『架空の土地』が、やがて現実の歴史を『修正』し、その価値観を覆すに至るまでの短い物語。
『夜霧』と『朝靄』。そして『白日』。
霧と靄が、人影を滲ませる。けれどもし、その霧と靄が晴れたとき、その人影は本当にそこにあるんだろうか。
『白日』は、その疑問の答えになるのかもしれない。
陽の光が鮮やかに晴れ渡り、すべてが白日のもとにさらされたとき、そこには誰もいないのだ。
「これは直接関係ないんですけど……マスターって、入婿なんですか?」
「……突然だね。違うよ」
「じゃあ、ご両親が離婚か何かされたとか?」
「……」
「もし違うなら、笑ってくれてかまわないんですけど……」
俺は、ほとんど妄想に近い点と点をつないで、無理矢理に理屈をこじつけているのかもしれない。
でも、無視できない何かがそこにあるような気がした。
「三枚目の絵は、俺の高校の文芸部室にあるんじゃないですか?」
もし、違ったとしても、笑ってもらえればいい。
それでも俺は、さくらを探さなきゃいけない。
デミウルゴスの別の絵を探さなきゃいけない。
そして、少なくとも彼は、まだ笑っていない。
結局、何かを取り戻したところで、俺は俺で、いまのまま、何もかもが弾性をもっていて、すぐにだめになってしまうのかもしれない。
変われない、何も求められない自分を見つけるだけなのかもしれない。
でも、本当にそうなのか? 俺にそう語ったのは、誰だった?
──佐久間茂だ。
俺はずっと、彼が決めたルールのなかにいた。
「マスター、『薄明』の佐久間茂は、あなたですか?」
彼は、ほんの少し怪訝げに目を細めたあと、どこか満足そうな顔で微笑んだ。
つづく
自分の意見がない。
相手が何をしたいかを常に想像し、自分が何をしたいかをあまり検討しない。
他人に合わせること。
誰もが、程度はあれど、していることだ。
けれどそれが"過剰"であれば……。
たとえば食事を選ぶときに基準になるのは、相手が何を食べたいか、だけで、自分が食べたいものはない。
少なくとも、なにもないと自分では思っている。
自分と他人の境界線が曖昧で、他人から簡単に影響を受ける。
自分自身の好みや、目標や、生活態度でさえ。
「他人に合わせること」に困難を感じる人種とは反対に、「他人に合わせすぎるが故に自分がわからない」。
"過剰同調性"と、そういうふうに言われることがある。
空気を読む、という言葉がある。
空気を読めない、という困難がある。
そして、あまりに敏感に空気を読むあまり、相手の感情を掴み取ってしまうあまり、その相手に配慮し、自分の思うとおりに振る舞えない、ということもある。
そのように振る舞っていると、やがて、"自分の思うとおり"というものが、どこかに隠されてしまう。
結果的に、無自覚に、常態的に他人の顔色を窺い続けてしまい、強い疲労を感じる。
自分自身は抑圧され、"ふるまい"だけが残される。
HSP──ハイリー・センシティブ・パーソン。
知られていないだけで、五人に一人が、そう呼ばれる傾向を持つとも言われている。
それは"遺伝的性質"であり、生来的な傾向だとも言う。
「いつも、死ぬことばかり考えていたよ」
彼は、そう言って話を続けた。
草茂る森の合間を、縫うように道が続いている。
「でも、死にたい自分が本当なのかもわからなかった。死にたいのではなくて、"こんな人間は死ぬべきだ"という、誰かの考えに合わせているような気もした。
なにもかもが僕にはよくわからなくて、曖昧模糊としていたんだ」
暗い森に風が吹き抜け、耳によく馴染んだ葉擦れの音が空間を泳いでいく。
「どこにも自分の居場所なんてないように思えた。自分が誰にも必要とされていないんだと思った。
僕はからっぽで、なにもない。なにかに対する憎しみだけが強くなって、でも、自分が何をそんなに烈しく憎んでいるのかも分からなかった」
わかるかな、と彼は俺を振り返った。どうだろうな、と俺は思った。
「だから僕はこの国を造ったんだよ」
「……"造った"」
「まあ、順番が違うかもしれない。もともと僕はこの国をイメージしていて……それを、成立させようと思った」
「……」
「理解できないって顔してるね」
「……イメージするまでは、分かりますけど」
「架空の人間を作り上げようとしたことはない?」
「……どういう意味ですか?」
「ひとりの人間を想像するんだ。具体的に。性別や、体格や、髪型、顔つき、性格や趣味、服の好みや、小物のセンスに至るまで。
詳細であれば詳細であるほどいい。そして、"その人物がどんな部屋で生活するかを想像する"。
そして、ひとつの部屋を用意する。それから家具を用意するんだ」
「……」
「その人物の好みの机、たとえば学生だったら、学生机があるかもしれない。制服が部屋のどこかに掛けてあるかもしれない。
年齢によって、絨毯やベッドシーツ、枕のカバーなんかの趣味も違う。カーテンなんかもそうだね。
本棚にはどんな本があって、CDがあって、どんな映画を見るんだろう。
人によっては、たとえば、脱ぎちらした服がそのままにしてあるかもしれないね。そんなふうに……
居もしない人間が、いまさっきまでそこにいたかのような、そういう部屋を作りたいと思ったことはない?
ちょうどボルヘスの短編みたいにね」
「……何を言ってるのか、よくわからないです」
「僕がしたのはそういうことだよ。"あたかもその場所が存在しているかのように振る舞う"。
そこから持ち帰ったものや、そこで起きたことを"捏造する"。
どうやったと思う?」
「……」
「『薄明』を使ったんだよ。僕が高校生だった頃、文芸部の部員は二十人ほど居た。でも、僕以外の全員が、幽霊部員だったよ」
「……え?」
それは、おかしい。
『薄明』には……佐久間茂の他にも、
「……」
「最初にしたのは、架空の文芸部を作り上げることだった。
どんな人間がいるのかを最初に決め、どんな人間がどんな文章を書くかを決めた。
原稿を出さないような部員のことも、詳細に設定した。最終的には、『盗作を行った部員』がいたかのような展開まで作り上げた」
「……」
「気付いたかな、きみは。読んだんだろう、あれを」
「……どうして、そんなことしたんですか?」
「どうしてかと言われると、どうだろう。それが僕にとってとても楽しい遊びだったからだよ」
影絵のような森を歩きながら、その声に耳を傾けていると、徐々に現実感が失われていく。
この感覚が、嫌に懐かしい。
「意味がないと言えば、意味がない。でも当時の僕はそれを心の支えにするくらいには、他に何もなかった」
俺には想像することしかできない。
それなのに、どうしてもイメージできない。
目の前のこの人が、そんなことをしていたなんてことが。
そういうものなのかもしれない。
「僕は『薄明』それ自体に物語を付け加えることにした。今にして思えば、誰も気付かないだろうけどね」
「物語……?」
「部誌に参加しているメンバー……つまり、僕が作り上げた架空の部員たちの周辺に、奇妙なことが起きている。
そういう物語だよ」
「……」
「そこまでは気付かなかったかい?」
「ええ」
「まあ、そうなんだろうな。結局のところ……誰もそんなに注意深く、誰かの作ったものを見たりはしない」
「……」
「ああ、べつに、がっかりしてるわけじゃない。そういうものだと、割り切ってるし……もともと、そんな気はしてたからね。
でも、問題はそこじゃない。問題は、それが『起きた』ってことだ」
彼の進む道は、やがていくつかに分かれていく。
そのうちのひとつを、彼は迷うでもなく選んだ。
「僕は『薄明』を一年間、ひとりで作り上げた。そして、そのなかに物語を作った」
「どんな……物語ですか?」
「……そうだね」
と、彼は短く笑って、
「それについては、自分で確かめてみるのがいいかもしれない」
そして、彼の行く道はやがて森を抜ける。
こんなにも、
こんなにもあっけない、短い森だっただろうか?
それとも、この森は、俺が囚われていたあの場所とは、違うのだろうか。
「結局のところ」と彼は言う。
「この歳になってこんなことを言うのも面映いけれど……結局、人はみんなひとりぼっちなんだと思う」
俺のからだは森を抜け、空の色はもう闇ではなく、静かな藍色へと移り変わりつつある。
声はすぐそばから聞こえる。
木立の隙間に、大きな大きな水たまりが見える。
湖が、広がっている。一歩進むごとに、日が昇っていく。
湖面を覆う朝靄が、そのむこうを隠している。
この人に、そんなことを、言ってほしくなかった。
こんな人にまで、そんなふうに言われたら、これから先、なにを求めて生きればいいのかわからなくなる。
そこまで生きて、辿り着く結論が、そんなことでしかないなら。
「僕は、みんなのことが好きだよ。愛してるって言ってもいいと思う。
ちどりや……そう、きみのこともね。でも、ときどき全部がどうでもよくなる。そんな夜を、何度もやり過ごしてきた」
後ろ姿だけが、振り向きもせずに進んでいく。
「でも……ひょっとしたら、僕も年を取りすぎたのかもしれないね」
やがて、道は曲がっていく。湖畔に、小さな小屋が立っている。
その脇を抜けて、彼はまだ進んでいく。
湖に近付いていく。
「ずっと、靄がかかったみたいに、世界のことも、他人のことも、よくわからなかった。
今にして思えば、そこにはたいしたものは隠されていなかったのかもしれない。
本当のことは、まだ、わからない。人は結局、孤独なのかもしれない。
でも、いまは……それでもかまわないような気がする」
小屋の裏手に道は伸びている。その先に、古びた桟橋がある。
小さなボートが繋がれている。
揺れてはいない。
波すらも、ない。
凍りついているのだと、そのとき気付いた。
不意に、湖のむこうに視線を走らせたとき、そのむこうに、何も見えないことに気付く。
靄に隠れているのではない。
なにもないのだ。
あるのは水平線。
空と海。
視線をあげると、突然に、空が晴れ渡っている。
夜が、ガラスのように砕けて消えた。そんな気さえした。
遠く向こうに"何か"が見える。
それがなにかは、分からない。
「結局、人はある意味ではずっと孤独で、安らぎなんて求めるだけ無駄なものかもしれない。
あるいは、そんなもの、求めちゃいけないのかもしれない。人生に安らぎを求めると、不思議と、反対に苦しんでいくことになるから。
でも、それを受け入れてしまうと……ふと、安らげたりする。本当に不思議なことに」
「……」
「見えるかな」
「……なにが、ですか」
「きみが探してるものは、このむこうにあると思うよ」
「……」
「友達がいるんだろう?」
「……俺には、わからないです」
「……なにが?」
「どうして、こんな世界ができあがったのか、この世界が、結局なんなのか。ぜんぜん、わからないままです」
ふむ、と彼は息を漏らす。
「それはまあ、どうでもいいことだよ」
「……どうでもいい、ですか」
「迷惑をかけて悪いとは思う。きっと、きみにも、もしかしたら、ちどりや、他の子たちにもそうかもしれない」
「……ちどりのこと」
「ん?」
「気付いてたんですか?」
「……どういう意味?」
「……いえ」
気付いていなかったのだろうか。
佐久間茂。ストローマンは、気付いていた。
言わないほうが、きっといいのだろう。
「……茂さんは、どうするんですか」
「帰るよ、僕は。……ここにはもう、用事はないから」
「本当にないんですか」
「うん。……見つかるといいね、友達」
「……」
何を言えばいいんだ?
「……茂さん」
「……ん」
「本当に、人は孤独なんでしょうか?」
「……さあ?」
靄に隠れた湖。
霧に紛れた街。
見果てぬ水平線。
葉擦れの音が響く森。
鏡の中の国。
人気のない場所。
ここはどこか薄暗くて、ひとりぼっちの国みたいだ。
「たとえば、人と人との距離が……海と空みたいなものだったとしたら、結局、繋がりあえないかもしれないね」
そう言って彼は、湖の……あるいは海の向こうを指さした。
今は、凍てついて、静かに広がっている。
「もしかしたら、水平線のむこうで、つながることもあるかもしれない」
「……」
「きみが、たしかめるといいよ」
そう言って、彼は俺の方を見た。その視線が、少しだけ、背後にブレる。
「……」
なにかに驚いたように、彼の表情が止まる。
振り返らなくても、そこに誰が立っているのか分かった気がした。
けれど俺は、振り返らなかった。
「……じゃあ、俺は行きます」
そう言って、茂さんの横を俺は通り過ぎた。
振り返らずに、俺は、凍てついた湖の上を歩いていく。
結局のところ、彼のことは、今の俺には関係のないことなのだ。
どうして、ここに来たんだろう。
でも、この先にきっと、さくらがいるような気がした。
この凍りついた湖の先に、彼女がいる。
彼女を見つけなきゃいけない。
つづく
これが湖なのか海なのか、もう、わからなくなっていた。
空も水もどこまでも凍てついて、音も匂いもない。
自分の息遣い、靴音が、やけに大きく聞こえる。
それもやがて、徐々に曖昧になっていく。
ここは静かで、何もない。
ただ、空と海がある。
行先には、空と海とが混じり合う、一本の線があるだけ。
四方を見渡しても、元来た森は見当たらない。
もう、どこまでも何もない。
無音、無臭、無痛。
あるのは光と景色だけだ。
考えてしまう。
俺は本当に、ここに来なければならなかったんだろうか。
こんな何もない場所に、本当に来なければいけなかったんだろうか。
そんな思考ですら、やがて消えていく。
疲れや渇きも、いずれ消えていく。
足を動かしているという感覚すらも徐々に消えていく。
sa
最初に音が、
次に時間が、
最後に意識が消えていった。
歩いている、歩いていると思う。
歩き続けてきたのだと思う。
歩いていることすら忘れながら、歩き続けている。
いくつかの景色があらわれては消えていく。
歩いているのだ。
変化のない景色。
どこに向かっているのかもわからない。何があるのかもわからない。
どうして歩くんだろう。
わからなくなっていく。
何もかもがわからない。
何を目指して歩いているのか。
どうして歩いているのか。
そんなことさえ、歩いているうちに、考えなくなっていく。
そして、ふと気付くと、目の前にそれがある。
予期していたものだ。そこにはグランドピアノがある。
この景色が『白日』なのだ。
でもここに、いったい何があるんだろう。
誰も居ない。
さくらも、カレハも、佐久間も、"あいつ"も。
どうして、茂さんは俺をここに連れてきたんだろう。
わからない。
空っぽの椅子、誰も見るもののいないグランドピアノ。
おあつらえ向きに、無音。
けれど俺はピアノを弾けない。
ここで俺ができることなんてひとつもない、はずだ。
けれど、いま、どうしてだろう。
吸い寄せられるように、指先が、鍵盤のひとつへと伸びていく。
その瞬間、響いた音が、凍てついた湖面から、空へと泳いでいった。
その一瞬で、何もかもが動き始めた。
不意に風が吹き、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
雲の影が動き始め、日は俺の影を長く伸ばした。
やがて、足元から、ぴしりと音がして、
悪い予感のすぐあとに、浮遊感に襲われる。
氷が砕けたと思ったときには、水のなかに沈んでいく。
体は鉛のように重たい。
水は透明な膜のようにまとわりついて、俺の感覚を奪っていく。
冷たさは感じなかった。
ただ飲まれていく。
長いようにも短いようにも思える混濁の果てに、どうしてか、
俺は、高校の文芸部室に立っていた。
◇
眼の前の壁には『白日』がある。戸棚には『薄明』が並んでいる。
部室の中央に置かれた長机といくつかのパイプ椅子。
窓の外から昼の日差しが差し込んでくる。
少し薄暗い部屋の中で、やれやれ、と俺は思った。
どうしたもんかな。
とりあえず、今まで見てきた景色が全部夢だった、なんてオチではないのだろう、きっと。
だとすれば、俺はここで何かをしなければいけない。
でも、何かってなんだ?
目を閉じて、深く息をつく。
まあ落ち着けよ、と俺は俺に向けて言う。
ここまで来ちまったんだ、もうやるしかない。
どうしてこんな場所に辿り着いたのかはよくわからない。
それでもやることは決まってる。
──もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。
──それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
──でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。
あーあ、と俺は思った。
あいつの予言もアテにはならない。
まさか、そう言ってた本人を探すはめになるなんて、誰が思うだろう。
それでまんまとあの絵の中に入り込んだ。
カレハの手紙にそう書いてあった。
さくらは、デミウルゴスの絵の中、だ。
茂さんの案内に従って、『夜霧』へと向かい、『朝靄』を抜け、『白日』を過ぎた。
そして今、見慣れた東校舎の文芸部室に、俺は立っている。
部室の隅の戸棚の中、『薄明』に目を向ける。
ここで佐久間茂は、あの国を造り上げたのだろうか。
今は、その中身を確認している状況ではない。
とはいえどうしたものか。
ここまで来て案内人もなしとなると、どうしようもない。
まあ、それも仕方ないか。
そもそもの話、ここまで来られたこと自体が奇跡みたいなものだ。
ここで正解だったのかも、まだ、わからないけれど。
それでもあいつは学校にしかいない。
だからきっと、ここでいいんだろう。
どんな理屈で氷が割れた先が高校なのかとか、そんなことはいまさら考えたって仕方ない。
最初から全部嘘みたいな話だった。
俺にしか見えない誰かとか、人が消えるとか、絵の中の国とか、そんなもの。
そんなあれこれの中で言ったら、むしろわかりやすいくらいだ。
「さて」と俺は声に出して呟いた。
探すしかない。
俺はそのために来たのだ。
さくらを見つけて、『合一』とやらを果たす。
どっちにしたって、そうしないとならない。
でも……。
どうして、そうしなきゃいけないんだっけ?
とにかく、周りには誰もいない。俺は部室を出て、廊下へと出る。
なんだか不思議な違和感があった。
それがなんなのか、最初はわからなかった。
徐々にそれに慣れていき、やがてはっとした。
人の声が聞こえる。
誰かが喋っている。
少し考えてから、それどころの話ではないことに気付いた。
廊下に並ぶ文化部の部室から漏れる話し声。
開けられた窓からは、中庭にいる誰かの笑い声。
悪い冗談だ。
どうして人がいるんだ?
ここは現実か? それとも『むこう』か?
……手をこまねいていても、埒が明かない。
埒を明かしたいのかい、と佐久間茂は言った。
今は埒を明かしたい。
そのために、まず、どうするか。
ひとつずつ確かめるしかないだろう。
階段を降り、中庭を目指す。
声が聞こえた中だと、そこがいちばん、気分的に近づきやすく思えた。
そこに、さくらが立っていた。
彼女は、俺を見て、俺も彼女を見た。
それなのに、透明な壁があるみたいに、彼女の目は俺をとらえていないように思える。
それでも彼女は、
「あなたは──」
と、そう声をあげた。
「……どういうつもりで、ここに来たんですか?」
そんな言葉が聞こえた瞬間、
彼女の体が一瞬の瞬きの間に消えていた。
光の粒になって辺りに溶けたみたいに。
気付けば俺はひとりで立っている。
笑い声はまだ聞こえている。
今起きたことの意味が掴めない。
……結局のところ、どうにかして、あいつを捕まえるしかない。
どういうつもりで?
何のために?
その答えは、まだ浮かばないけれど。
つづく
「ずいぶん懐かしいな」
本当はずっとわかっていた。
「こうして話すのはいつぶりだろうな?」
ずっとずっと気付いていた。
「つれないな。少しは反応しろよ」
あの森がどうしてあんなに恐ろしかったのか、俺はずっと気付かないふりをしていた。
葉擦れの音が、二重の景色が、あんなに怖かったのは、ただ、あそこに置き去りにされたからじゃない。
この声が聞こえたからだ。
「どうだい?」
「……うるせえよ」
「聞こえてるんじゃないか」
けたけたと笑うように声は言う。
「無視するなよ」
「……うるせえって言ったんだよ」
息をついて、壁にもたれる。ここは教室だ。夜の教室。机が並んでいる。
何年何組の教室かはわからない。それでも窓から空が見える。
夜が覗いている。
「どうだい、調子は」
「おまえが来るまで好調だったよ」
「減らず口だな、相変わらず」
「……」
「なにか言いたげだな」
「喋るなって言ってるんだよ」
「ずいぶん強気になったな?」
「うるせえよ。……おまえなんて、俺の幻聴のくせに、うるせえんだよ」
「おまえらはいつもそうだな」と声は言う。
「都合が悪くなると、すぐに幻聴だとか、幻覚だとか言う。無意識の擬人化とか、そういうふうに、まるで自分の内部かのようなことを言う」
「……」
「佐久間とか言う奴もそうだっただろう。暗闇の中にはなにもないなんて言ってやがった。あいつは根本をわかっちゃいない」
「……」
「本当に暗闇に何もなかったら、ただの拗ねたガキでしかないあいつに、どうやってこんな世界が作れる?」
「うるせえって言ってんだよ」
「分かるだろう。ここは誰かの無意識でも自意識でもなんでもない」
「……」
「森は在る。俺が作ってやったからな」
「……わけわかんねえんだよ、バカ」
「今日はやけに喋ってくれるな。心細かったか?」
「……なんなんだよ」
「ん?」
「なんなんだよ、おまえは……」
「何でもないさ」
「……」
「何でもない。ただ在るだけだ」
「……それらしいこと言って誤魔化してんじゃねえよ。おまえは俺の幻覚だろうが」
「口調が荒いな。いつもの余裕はどうした? 何を言われたくなくて焦ってる?」
「……」
「そんなにショックだったか?」
「……」
「なあ、おまえが不貞の子だってことがそんなにショックだったかって訊いてるんだよ」
「デタラメ言ってんじゃねえよ……」
「デタラメなんて思ってないくせによく言うよ」
「……もう黙れ」
「勝手にしゃべるさ。おまえ、自分がどうして妹にあんなに縋ってるのか気付いてないわけじゃないだろ」
「……」
「だってそうだろう? 本当に両親から生まれた子供がいなかったら、おまえとおまえの両親のつながりなんて希薄なもんだもんな」
「……」
「ま、こんな話はどうでもいいさ」
「……信じねえよ、そんな話」
「そうかい?」
「おまえは俺の妄想だろうが」
「だから、そうじゃないって。前も教えてやっただろう? おまえが知らないことを、たくさん教えてやったじゃないか」
「……うるさいって」
「さんざん教えてやったじゃないか」
「何がしたいんだよ」
「ん?」
「何がしたくて俺にちょっかいかけてくるんだよ。……ほっといてくれ」
「そんなの決まってるだろ」
「……」
「俺はおまえみたいなガキが不幸になるのを見過ごせないんだよ」
「不幸?」
「だってそうだろ? 欲しいものもないやりたいこともない行きたい場所もない。
目指す場所なんて最初からなくてただなんとなく生きてるだけ。それがなんともしんどいじゃないか。
生きてる理由なんてひとつも思いつかない。誰かの劣化品でしかないし、そもそも自分が本物かどうかもわからない」
「……」
「不幸だよ、大層な」
「……」
「しんどいだけの日々なのに、どうせ死ぬまでそれが続くのに、なんでかそれを続けてる。
ずっと引き伸ばしてる。しんどいのをやり過ごして、でもやり過ごしてもどうせまたしんどいんだ。
なんでそれを続けなくちゃいけない?」
「……何言ってんだ、おまえ」
「何言ってんだよ、おまえの方こそ」
「……」
「それともおまえ、まさか本当に、おまえがこの森で何かを失くしたとでも思ってるのか?」
「……」
「前も教えてやっただろ。この森でおまえが失くしたものなんてひとつもねえよ。
あいつも言ってただろ。すべては弾性を持ってる。ここでおまえが失くしたものなんておまえはとっくに取り戻してた」
「……」
「おまえは何かを失くしたんじゃない。最初から何も持ってなかったんだよ。
何か理由があって何も欲しがれないんじゃない。何も求められないんじゃない。
おまえは最初から何も求めてなんかいなかったのさ」
「……うるせえ」
「おまえには何もないよ」
「うるせえって。そんなこと……そんなこと、ねえよ」
「ないよ」
「何が無いっていうんだよ」
「何も無いって言ってるんだよ」
「……」
「おまえ、あのさくらとかいうやつを探してるんだろ?」
「……」
「あいつがいつか言ってたよな。おまえはすごく恵まれてるって。それなのにどうしてつまらなそうな顔をしてるんだって」
「……」
「そうだよな。おまえはすごく恵まれてる。周りには良いやつばっかりだ。なんにも悪いことなんて起きてない。
結局全部おまえが満たされるように作られてる。だからだろ?」
「やめろよ」
「おまえはそれが嫌だったんだろ?」
「……」
「おまえは周囲に嫌な奴が居て欲しかったんだよな。自分に厳しい世界であってほしかったんだよな。
だって周りが良い奴ばかりだと……自分が惨めになるもんな?」
「……」
「それに良い奴ばかりだと……死にたいなんて言いにくいだろ?」
「……」
なんなんだ、
なんなんだ、こいつは。
「だっておまえは何もほしくないのに、何もしたくないのに、生きてる意味なんてなんにも思いつかないのに、
生きててしたいことなんて一個もないのに、生きてても自分の不出来が嫌になるだけなのに、
なんにもできない自分が疎ましくなるだけなのに、自分より全然上手くできる奴らがおまえを許してたら、許されるしかないもんな」
「……」
「周囲が良い奴だと、おまえみたいなクズは弱音も吐けなくて大変だよな。
いや……弱音を吐いて、弱ったふりをして、プライドを切り売りして、どうにか居場所でも作ってたか?」
「……」
「なあ、だから安心しただろ? ここに戻ってこられて」
「何言ってんだ、おまえ」
「あのときに言ってやっただろ、どうせおまえは生きてたってそのまんまだよ、良いことがあったってしんどいままだよって。
だからもう森から出るなって俺は言ってやったじゃねえか。おまえが不幸になるだけだって。
そんなことないっておまえはビービー泣いてたな。でもどうだ? 結果はどうだった? なあ、俺が訊いてるんだよ」
「うるせえよ」
「さんざん待ってやったんだ。答えくらい聞かせろよ。……なあ、どうだよ、救いとやらは見つかったか?」
「……」
「おまえはおまえを許せたかって訊いてるんだよ。……誰かがおまえを許すかどうかじゃなくてな」
夜が、
夜が続く。
耳の奥に、誰かのすすり泣きを聴いている。
「勘弁してくれよ」と俺はひとりごとを言う。
夜は始まったばかりなのだ。
つづく
「鴻ノ巣ちどりは駄目だ」と声は言う。
「あいつはおまえのことなんて見ちゃいない。あいつが見ているおまえはあいつが見ている理想像としてのおまえでしかない。
あいつはおまえの弱さを受け入れられないし、おまえの弱さを美化しすぎている。だから鴻ノ巣ちどりは駄目だ」
声は続ける。
「瀬尾青葉も駄目だ。あいつはおまえの弱さを知らない。知らなさすぎる。
あいつはおまえという人間のろくでもなさを低く見積もりすぎている。その重さに気付いたらすぐに投げ出すさ」
声は続く。
「大野辰巳はおまえを高く評価しすぎている。それはおまえの実像とは離れすぎている。
だからあいつも駄目だ。あいつはおまえのことを変わり者だと思っている。仮におまえが助けを求めたって、あいつは変な顔をしておしまいだろうさ」
声は続く。
「市川鈴音はおまえにさほど興味がない。当然駄目だ。ある意味付き合いやすくはあるだろうが、あいつはおまえが消えても興味を示さないだろう。
だから市川鈴音も駄目だ。それにあいつはそもそも種類が違う」
声は続いている。
「宮崎ちせもそのとおりだ。そもそもあいつにとってはおまえは人間じゃない。あいつにとっておまえはフィギュアみたいなもんだ。
勝手に自分に都合の良い像を投影しているだけ。おまえがちょっとでもその像からはずれればすぐに失望するさ」
声は、夜は、
終わらない。
「泉澤怜はどうだ? あいつはエゴの自意識の塊だ。あいつにとっておまえらの存在なんて自分の力の二の次でしかない。
あいつの好奇心はいつもおまえたちを置き去りにしてきた。あいつは人間に興味が無いんだ」
途切れない。
「三枝純佳は一番駄目だ。あいつにとってはおまえの弱さが都合が良いんだ。
あいつはおまえの弱さに安堵している。おまえが不安がれば不安がるほどあいつは嬉しいんだ。そんなのまともじゃない」
呪詛は続いていく。
六年前、あのときも俺はこうしてこの声を聴いていた気がする。
もう、記憶のなかですら曖昧だけれど、こうなってみればはっきりと思い出せる。
この呪詛はずっと降り続いていた。
絶え間ない雨のように俺を濡らし続けていた。
あの暗い森のなかで、俺はこの呪いをずっと浴びせられていた。
こいつが何なのか俺は知らない。
何がしたいのかもわからない。
けれど耳をふさいでも無駄なのだ。
葉擦れの音と、
夜の空、
それだけならばまだしもよかった。
この声が……。
「人のせいにするなよ」と声は言う。
「おまえは最初から空っぽだろう」
そうして声は続ける。
「さくらを見つけてそれでどうする? あいつを引き戻してどうするんだ?
瀬尾青葉のときもそうだったじゃないか。あいつを見つけて、そのあとはどうする?
それで全部おしまいだ。元通りになって、やっぱり空っぽな自分があるだけ。それを突きつけられて、誰かのせいにして……。
でも、誰かのせいにしたところで、おまえが求めてるものなんてどこにもありゃしない」
「……」
「だから、なあ、全部やめにしちまおうぜ」
「……」
「もういいだろ。よく頑張ったよおまえは、何にもないくせによくそこまで生き延びたよ」
俺は……
「疲れただろう? おまえは最初からずっと……」
俺は、
「ずっと、ひとりになりたかったんだよな」
そう、なのだろうか。
「周りがまともで優しければ優しいほど、つらかっただろ?」
俺は、
「自分が駄目なんだって思わされて、優しくされればされるほど、自分がそこに居るべきではない気がして」
「……」
「自分がそこにいるべきではないような気がして、自分にふさわしい場所なんてどこにもないように思えて……」
「……」
「だからおまえは、ずっと、『自分の居場所じゃないような気がする』って思い続けてたんだろ?」
「……」
「誰が認めなくたって、おまえが頑張ったんだって、俺が認めてやるよ。
ほら、もう休めよ。周りに人がいればいるほどおまえは孤独になっていく」
「……」
「べつにおまえは悪くないのに、何にも欲しくなくて、でもそんなこと言うとみんなに変な顔されるから。
みんなが望むように振る舞って、何か望んでるふりをして、何かあるふりをして、この森のせいで変な音まで聞き続けて、
それなのにおまえは拗ねずによく頑張ったって。でも、誰もおまえを楽になんてしてくれないんだ」
おまえはどこにも行けないんだ。
「だからもういいだろ? なあ、俺は親切心で言ってるんだ。おまえは死ぬべきだって」
「……」
「『桜の森の満開の下』……あれがなんで孤独なのか、分かるだろ?」
「……」
「人と人とが触れ合おうとする、その距離に孤独は生まれる」
「……」
「だからここは孤独じゃないんだ。本当にひとりになったとき、人は孤独には決してなれない」
「……」
「だから永遠にここにいればいい」
◇
夜が明け、声が消えた。
生徒たちの姿がまたあらわれはじめる。
俺はその様子をただ黙って眺めている。
相変わらず、誰も俺には気付かない。
やり過ごした、と思った。
体の感覚があるのが不思議だった。ものすごく眠たいのに、眠ることができない。
体の節々が痛んでいる。
どれくらいの間歩いてきたんだっけ。
どのくらいの距離を歩いてきたんだっけ。
もう思い出せない。
さくらを見つけなければ、いけない。
また夜が訪れる前に。
むこうの時間はどうなっているんだろう。
ここで夜が明けたということは……むこうでも同じくらいの時間が経ったということだろうか。
ただでさえ眠らずに、何もできずに過ごす夜は長い。
あんな声を聞かされ続けたら、まるで永遠に終わらないようにさえ思えた。
それでも俺はまだ折れていないつもりだ。
こんな夜は、今までだって何度も超えてきた。
あんな言葉なんかで壊されていられない。
考えなきゃいけない。
どうしてさくらは俺の前に姿を見せ、すぐに消えたのか。
いったいなぜ、さくらは俺に会ってくれないのか。
さくらはそもそも、どうしていなくならなきゃいけなかったのか。
そもそも──さくらはいったい、なんなんだ?
仮説。
一、ましろ先輩の『空想の友達』を、
二、佐久間茂の『森』が具象化した。
三、具象化された『さくら』のスワンプマンとして『カレハ』が生まれた。
カレハもさくらも変な能力を持っている。そこに関しては、考えてもどうしようもない。
けれど……
だとしたらどうして、さくらは『守り神』になんてなった?
どうして、学校から出られない?
推論。
一、さくらはなんらかの理由で守り神として具象化した。
二、誰かがさくらに守り神としての役割を与えた。
三、単にさくらが守り神を自称している。
いや……“違う”。
──……守り神さんか。
──なんです、それ。
さくらは、自分のことを守り神だなんて、一度も言っていない。
──きみはいったい、なんなんだ?
──残念ながら、わたしはその問いの答えを知らないんです。
さくらにはそもそも“何の役割も与えられてなんかない”。
さくらはそもそも何者でもない。少なくともさくら自身は、自分が何者かなんてわかっていなかった。
さくらは……。
──じゃあ、おまえは……人知れず、恋の手伝いをしているわけか?
──我が意を得たりとはこのことです。そのとおり。わたしは今そのために生きています。
“わたしは今そのために生きています。”
どうしてだ?
──世界は、愛に満ちているんです。
世界は愛に満ちている。
そしてあいつは、からっぽになった俺に、からっぽじゃなくなった頃のことを思い出させると言った。
けれど……。
俺は、周囲の様子を見る。校舎のなか、騒がしく響く生徒たちの声。
あいつはこれをずっと眺めていたという。
それ以前の記憶はないという。
それならば、どうして……この世界が愛に溢れてるなんて思えたんだろう。
どうして、誰かと誰かを結びつけることのために生きようなんて思えたんだろう。
さくらは……この景色に、何を見たんだろう。
誰とも繋がれない場所で、どうしてあいつは、あんなふうにみんなを愛せたんだろう。
そう思った瞬間、涙がこぼれそうなくらいに感情が溢れ出してきた。
だってあいつは誰とも会えなかったはずなのだ。
あいつの声はどこにも聞こえていなかったし、あいつの姿は誰にも見えていなかった。
誰もあいつを知らないし、だから誰もあいつに感謝なんてしなかった。
あの日俺は、暗い森でひとりぼっちだった。
それよりもずっと長い時間、あいつは俺なんかよりずっと深い孤独のなかにいたはずだったのに。
どうしてあいつは、平気でいられたんだろう。
俺には分かりそうもない。
言葉で理解できたとしても、実感できそうにない。
……考えても仕方ない。
あいつが逃げるなら、俺は捕まえようとするしかない。
でも俺は、あいつを見つけて、何を言えばいいんだろう。
つづく
結局俺は誰にも見えないままだ。
誰に話しかけても、誰に会っても、誰も俺のことを見ない。
いっそ誰かの内緒話でも聞いてみようか、それとも女子の着替えでも覗こうかと思ったが、
既にそんなことを楽しむような余裕もない。
「さて、どうしたもんかな」
と、努めて落ち着いたふうを装って、自分に訊ねてみる。
ひとまず片っ端からさくらの居そうなところを探したけれど、残念ながら見つからない。
最後に思いついたのが屋上だったが、鍵がかかっていた。
学校帰りに『トレーン』に寄ったから、今の俺は制服のままだ。
ポケットには屋上の鍵があるのに、どうしてかそれでは扉は開かなかった。
開かないということは、そこになにかの意味があるということだ。
それはたしかだと思う。
とはいえ、それが何を意味するのかわからない。
屋上に繋がる扉の前に、俺は座り込んだ。
どうしても、何度もさくらのことを考えてしまう。
さくらは何を思って、この校舎のなかで生きてきたんだろう。
さくらが守り神になった理由。
さくらが縁結びを始めた理由。
そんなことばかりを考えて、それなのにどうしても答えが出てこない。
今、それを考えることが必要な気がするのに。
誰にも聞こえない、誰も触れられない。
いま、この状態がさくらの経験していることだとしたら、さくらはどうしてあんなことを求めたんだろう。
何かを変えられる力を持っていたから?
からっぽじゃなかったから?
堂々巡りの思考のうちに、約束のように日が暮れていく。
俺はいまさくらと同じような状況に陥っている。それでもさくらの気持ちはわかりそうにない。
俺には過去があり、さくらにはそれがなかった。
さくらは気がついたらこの学校にいた。誰からも何の説明も受けず、誰にも話しかけられず。
そしてましろ先輩に出会う頃には、もう守り神だった。縁結びの神様だった。
さくらはどこかで、その使命を帯びた。
……違うのかもしれない。
さくらは、自分でそう決めたのかもしれない。
自分の役目を自分で決めた。
一度そう思うと、それ以外に考えられないような気がする。
──わたしは気付いたら、この場所にいました。そのことに疑問を覚えたことなんてなかった。
さくらは気付いたら学校にいた。
そして、さくらは誰にも会っていない、ましろ先輩以外には、さくらと話せる人間もいなかった。
──いつからここにいたのかなんて、覚えてない。わたしを見つけたのは、ましろが初めてです。
──少なくとも、覚えているかぎりだと、そうです。それまでわたしはずっとひとりだった。
だとすればそうだ。
さくらが自分で、そうしようと決めたのだ。
どうしてあいつは、世界は愛でできているなんて、そんなふうに言えたのか?
あいつは人の心が読めた。
そして少しだけ、世界に働きかけることができた。
それがどんな形だったのかはわからないけれど、あいつは、そうすることができた。
──わたしは、誰にも見つからないまま、小細工や、与えられた力のいくつかを使って、人と人とを結びつけてきました。
──誰に褒められなくたって、それがわたしのやるべきことだった。
──どうしてかは、知らない。ただそれは、わたしがそういうものだから、そういうふうに作られたから。生まれたときから、そういう存在だったから。
けれど違う。
ましろ先輩は、『さくらをそんな存在として作らなかった』。
そうである以上、さくらは生まれたときからそうだったわけじゃない。
あいつは誰かの心を読み、そして、偶然かどうか、誰かの想いを実らせた。
それを自分の存在理由だと考えることにした。
だって、それ以外に何もないのだ。
──わからないんです。なにも。自分が何者で、何のために生まれたのかも。
本当に誰かから与えられた務めなら、そういう存在として生まれたなら、そんな疑問が生まれるわけがない。
それまで何もなかったさくらに、『誰かの恋を実らせる』という理由ができた。
そうだとしたら、あいつがあんなふうに、縁結びなんて変なことにこだわっていたのは、
きっと、あいつが孤独だったからかもしれない。
それ以外に、世界に関わる方法がなかったからかもしれない。
だからあいつは、世界は愛でできていると言った。
そのために自分がいるのだと考えることにした。
自分は誰とも関われないままで、誰かを憎むこともせずに、ずっとひとりぼっちのまま、
誰かの幸せを願い続けてきた。
どうして今さくらに会えないんだろう。
さくらに何かを言いたくて仕方がないのに、何を言えばいいのかわからない。
瞼を閉じて、これまでのことを考えた。
真中が入学して、大野が入部して、市川が部活に出るようになった。
さくらに会って、大野が文章を書けるようになって、部誌を作った。
瀬尾がいなくなって、ちせと会って、怜が帰ってきて、
ましろ先輩と会って、ちどりがいて、純佳がいて、
瀬尾が帰ってきて、俺は変になって、
さくらがいなくなった。
こんな振り回されるだけの日々の中で、俺は本当に何かひとつでも自分の意思で行動してきただろうか。
今まで俺は何かを求めてきたんだろうか。
考えろ、と頭の中で誰かが言った。
そうだな、と俺は答えた。
不意にポケットの中で携帯が震えた。
メッセージが届いている。
『さくらのこと、よろしくね』
そんなメッセージが、今、不意に届く。
やっぱりあの人は、超能力者か何かなのかもしれない。
『それが鍵の代金です』
「……」
俺は、
どうしたい?
いつまでもぐだぐだと何もしたくないと文句を言ってばかりだ。
さんざん甘やかされてきたくせに、それでも何にもしたいことなんて思い浮かばない。
誰かと一緒に過ごすなんて重苦しくて嫌だった。
周りのみんながいいやつばかりなのに、そうなれない自分が嫌いだった。
誰かが俺を好きになるなんて信じられないし、自分で自分を好きになるなんて不可能ごとに思えた。
いつも茶化してごまかしてきた。
瀬尾が帰ってきたあと、自分にうんざりしたのは、そのせいだ。
結局俺は、ただ、与えられた課題をこなしてきただけだ。
誰かの立てた筋書き通りに動いていただけだ。
だから、いざ自分で動けと言われると、何もできなくなる。
今だってそうだった。
でも、
──あなたは……どういうつもりで、ここに来たんですか?
俺は、
「どうだい」と声が言った。
「そろそろここに住み着く決心がついたか?」
夜が来た。
どんな声も誰にも届かない、誰も迎えにこない、誰も自分を求めない、
そんな夜だ。
でも、それは、さくらがずっと居た場所だ。
「……なあ」と、俺は声をあげた。
「なんだよ。珍しいな、今日は返事をくれるのか」
「おまえ、言ったな。この世界を作ったのは本当はおまえだって」
「ああ、言ったばかりだろう、あんな拗ねたガキに世界を作る力なんてあるわけないんだから」
「……佐久間茂がこの世界を考えた。おまえがそれを作った」
「そうなる」
「ましろ先輩が、さくらを考えた。この世界が、さくらを作った」
「そうだな」
だとしたらきっと、ここは、孤独が生んだ国なんだろう。
──味方ですから。兄がどんなにずるくても、ひどくても、たぶん許しちゃうと思うんです。
──じゃあ、ひいきなしでもマシな人間にならないとな。
……なんだよ、
自分で分かってるんじゃないか。
さんざん唸って、呻いて、喚いてきたのは、
自分が思うほど自分がマシな人間じゃないからだ。
何ひとつほしいと思えないのは、手に入れたところで離れていくとしか思えないからだ。
声をあげたところで、誰も来てくれないと思っていたからだ。
なるほど、オーケー、了解。
──先輩は、それでいいんですか。
──先輩は、柚子と、どうなりたかったんですか?
──おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を。
──きみにも、探しものがあるんだと思うんだ。
──見つけてあげてよ。じゃないと怒るよ。
──自分がなにかくらい、きっと、自分で見つけてみせますから。
──でも、嬉しい。……約束ですよ。
「"全部片付いたら、おまえに付き合ってまた芝居をしてやる"」
俺はそう言った。忘れてなんかいない。
「答えは決まったかい」
「うるせえよ」
「ひどいな」
「今大事なとこなんだ。ちょっと黙ってろ。どうせおまえは有り余るくらいに時間があるんだろう」
「……ま、そういう言い方もできるな」
「俺は帰るよ」
「……また傷つくだけだぜ」
「うるせえな、おまえと違って俺は忙しいんだよ」
「……そうかい」
立ち上がって、扉の前に立つ。
もう一度、鍵を差し込んだ。
ゆっくりと、それを回す。
鍵の開く音が聞こえた。
つづく
「それで……」とさくらは言った。
「帰るって、どうやって帰るんですか?」
「……わかんないのか?」
「知りません。気付いたらここにいましたし」
「……マジで?」
「……えっと、はい」
「……」
「……あの、どうやってここに来たんですか?」
どうやって、と聞かれても、落ちてきたとしか言いようがない。
「困りましたね」
落ち着け。
ここがあの森の一部なら、鏡を探せばいいだけだ。
フェンスから離れて、さくらが塔屋の扉へと向かっていく。
「鏡……」
以前、怜とも話した。
概念的に鏡であればいいはずだ。
月の鏡……という言葉もあるが、残念ながら月に触れることはできない。
怜ならば、きっとこういうときでも、慌てたりしない。
考えろ。鏡、鏡、鏡。
……いや、
鏡じゃなくてもいいのだった。
「部室に行こう」
「部室、ですか?」
「『白日』がある」
「……あの絵ですか」
『夜霧』からこちらに入ってきたのだ。『白日』から帰るのも、おあつらえ向きだろう。
「あなたに任せます」とさくらは言った。
「……責任、投げるなよな」
「そういうわけじゃないです。評価を改めただけです」
「評価?」
「あなたはもう少し、自分の柔軟さを評価すべきだと思いますよ」
「……どういう意味?」
「そのままの意味です。行きましょう」
階段を降り、文芸部の部室へと向かう。
夜の校舎は、窓から差し込む月の光以外には、ほとんど灯りがない。
「どうしてだろうな」
「はい?」
「ちょっと、ワクワクする」
「……子供みたいですね」
「夜の校舎だぞ。仕方ないだろ」
「でも、そっちの方がずっといいです」
「……そう?」
「はい」
廊下を歩く途中で、不意に、渡り廊下に人影を見つけた気がした。
「いま、何か見えたか?」
「……なにか?」
「人影みたいなの」
「気付きませんでした」
……気のせい、だろうか。
それとも、単に、『夜霧』を歩いたときのような、単なるこの世界の演出のようなものか。
いずれにしても、もう見えない。
もうこの世界でするべきことはない。
文芸部室の扉は簡単に開いた。
壁には、『白日』が飾られている。
海と空とグランドピアノ。決して混ざり合わない水平線。
「……なんで、ピアノを描いたんだろうな」
「なんでって、どういう意味ですか?」
「いや。人と人との距離が、海と空みたいなものだったら……」
結局、繋がりあえないのかもしれない、と茂さんは言っていた。
でも、ここにはピアノがある。
さくらは、俺の心を読んだのだろうか。
少し、不思議そうな顔をした。
「空って、どこからが空ですか?」
「……ん?」
彼女は部室の中へとゆっくりと踏み入って、静かに窓を開け放った。
そして指先を伸ばす。
そのままこちらを振り向いて、当たり前のような顔で、彼女は、
「ほら、これが空じゃないんですか?」
なんでもないことのように、そう言った。
一本取られた、と俺は思った。
「なるほど」
だとしたら空は、海と接している。
混じり合うことがないとしても。
「あるいは、もしかしたら」
「ん」
「旋律は、空に届くかもしれません」
「……旋律」
「はい。それに、日差しも、雨も、空から海に届くでしょう」
「けっこうあるものだな」
「はい」
「雨も、海と空を繋ぐ」
「はい。空と海との距離なんて、たいしたことないです」
「……単なる言葉遊びだけどな」
だとしたら、茂さんは、たとえば旋律が海と空を繋ぎうることに気付いていたのかもしれない。
気付いた上で、ピアノの前の椅子に、誰も座らせなかったのかもしれない。
雨は海と空を繋ぐ。
「……そっか」
「どうしました?」
「いや」
だったら、傘をささずにずぶ濡れになるのも悪くないのかもしれない。
「帰ろうか」
「はい。……帰れますかね」
「さあ。試してみないとな」
「……行き当たりばったりですね」
「おまえも相当だろ」
「まあ、たしかに」
俺とさくらは、『白日』に向き合う。変なタイミングではぐれないように、さくらの手を取った。
「そういえばさ」
「はい?」
「さくらにはなんとなく、さわれないイメージがあった」
「……ふむ?」
「すり抜けそうな気がしてたんだ。さくらも、物にさわれないんだと思ってた」
「だとしたら、わたしの体は床をすり抜けていきますよね」
「テレパシーとテレポートを使うやつが急に物理法則っぽいことを言うな」
「それに服も着られません」
「でも、それ、どうなんだろうな。他の人には、服も見えないわけだろ」
「わたしが触ってるものは、他の人には見えなくなるんです」
「……怪奇現象を生み出せるな」
「いえ、あの、わたしが怪奇現象なんです。ある意味で」
「でも、その理屈だと、校舎が誰にも見えなくならないか?」
「……まあ、わたしにもよくわかんないです」
「まあそうか。……とにかく、なんとなく、さくらにはさわれないんだろうなと思ってた」
「……ちゃんと触れてほっとしました?」
「いま、俺も透明人間なのかな」
「そうかもしれませんね」
「温度がある」
「不思議ですか?」
「さくらに限った話じゃないけど……」
「はい」
「人間の体温って、触れるたびに不思議になるよな」
「わたしが人間かどうかは、怪しいところですが」
「それを言ったら、俺もけっこう怪しいけどな」
「そうですか?」
「そうだよ」
俺が真顔でうなずくと、さくらはおかしそうに笑った。
「そんなことは、いいんですよ」
たしかに、と俺は思った。
「帰りましょう、隼」
俺は一瞬、あっけにとられて、それから笑って頷いた。
「そうしよう」
繋いでいない方の手で、俺は『白日』に触れる。
光はあふれ、視界が鋭く満たされていく。
その洪水に溺れながら、ゆるやかに時間が流れていくのを感じる。
手のひらに温度がたしかにあった。
つづく
◇
「元素周期表みたいですね」と誰かが言った。それは分かってる。
でも、何の話なのかはわからなかった。何が元素周期表みたいなんだろう、みんな何の話をしていたんだろう、俺には何もわからない。
意識がものすごく曖昧だった。とても、深い眠りからようやく目覚めたときみたいに。
けれど俺は眠っていたんだろうか?
瞼を開いている。それはわかる。けれど全てが滲んだように曖昧にぼやけている。
「そうかな。そんなふうに思ったことはないけど」
そう、また別の誰かが言う。俺は、いま、何かを聴いている。それは分かる。
俺はいままでどこにいて、何をしていたんだったか。
「……ああ、起きたかい」
そんな声が、俺に向けられているんだとわかる。
わかったから、もっとはっきりと見ようと思った。
そして、ふとした一瞬のうちに、自分がどこにいるのかが分かった。
ここは『トレーン』のテーブル席だ。俺は頭を突っ伏して、眠っていたらしい。
話をしているのは……。
「ずいぶん眠っていたようだけど、大丈夫?」
茂さん。
「隼ちゃん、来てからずっと眠ってましたよ」
ちどり。
「やっぱり、疲れが溜まってるんだろうね」
怜。
それから……。
「まあ、無理もないか」
「……大野?」
「大丈夫か? 目の焦点があってないけど」
「いや……うん」
さて、大丈夫か、大丈夫かと問われれば、どうだろう?
重苦しいほどの虚脱感がある。
とても深い眠りから醒めたのだという実感はある。
というより、これはいっそ、
俺が今まで睡眠だと思っていたものは本当に睡眠だったのだろうか、と感じるほど、眠ったのだという実感がある。
「……あたま、ぼんやりする」
「しばらくは無理するなよ」
大野の声が妙にやさしくて、そのせいで俺は、やっぱり今この瞬間のほうが夢なんじゃないかという気がした。
「……なんで、大野がいるんだよ」
「なんでって……おい、ほんとに大丈夫か?」
「そのうち意識がはっきりしてくるよ」と言ったのは怜だった。
「隼は昔から寝起きがひどいからね」
「……なんで、怜もいる」
ふう、と彼女は溜息をついて、
「さっさと目を覚ましてくれると助かるな。それとも、純佳を呼んで起こしてもらったほうがいいかな」
「……いや、いい。自分で思い出す」
「隼ちゃん、無理しないでくださいね」
ちどりはそう言うけれど、俺はまだ、自分の体の感覚すらも取り戻せない。
腕も首もしびれているように重く鈍く、動かせない。
頭がまったく回らない。
「時間がかかりそうだから、僕が言おう」と、茂さんは言った。
「今日は木曜。きみは月曜の放課後から二晩の間家に帰らず行方不明だった」
「……ゆくえ」
「そう。行方不明。そして水曜、つまり昨日の朝、なんでか自宅のベッドにいたらしい」
「……その記憶、ないんですが」
「じき思い出すよ。まあ、二日間でいろいろあったんだろうね。もちろん、僕らには推し量ることしかできないが」
ああ、そうだ、と茂さんは声をあげ、
「ちどり。そういえば昨日買ってきたプリンがあったんだ」
「はい?」
「ええと、厨房の冷蔵庫の中に箱がある。みんなで食べよう」
「……? わかりました」
ちどりは文句ひとつ言わずに、厨房へと下がっていった。
「……じゃ、改めて話をしようか」と、そう、茂さんは言った。
「……話、というと」
「さすがにちどりには聞かせられないからね、"むこう"のことは」
"むこう"。
そう、俺は"むこう"にいた。思い出せる。
そこで俺は……。
ああ、
思い出してきた。
「怜ちゃんと大野くんは、知ってるんだったね」
「ええ」
「はい」
「だったら、大丈夫。隼くんとは、ちょっとまとまった時間をとって話さないといけなかったからね」
「……ええと、すみません。俺、自分がなんでここにいるのか。いま、金曜って言ってましたか?」
「そう。きみは昨日の朝帰ってきて、今日は学校にも行って、その帰りにここに来た」
……思い出せない。
いや、そんなことはない。
覚えている。……ようやく意識がはっきりしてきた。
ふと目がさめたら、自分の部屋にいた。体が重くて、すぐに寝直した。
それで、気がついたら夕方で、純佳が学校から帰ってきて、あいつは俺を見て一通り文句を言ってからぐすぐす泣いた。
次の日は学校にも行って……そうだ、それが今朝だ。
瀬尾たちにいろいろ事情を聞かれたけれど、うまく説明できなくて、
真中は相変わらず俺と話そうとはしなくて、
そもそも意識も記憶もやっぱり曖昧で、
どうしても眠くて、でも、怜に『トレーン』に来るように言われて、
危なっかしいからと、大野が俺に付き添ってくれた。そうだった。
「……店に来て座ってすぐに寝ちゃったからね。まあ、それは仕方ないかと思って、目が覚めるのを待ってたんだ」
「……そう、ですか」
「まだすっきりしないかい?」
「……はい、なんでか、わかんないですけど」
「そっか。……続くようなら困りものだね。でも、まあ、仕方ないか」
「……それで、茂さん、話って?」
「きみはたぶん、試してないから、一応伝えておこうと思って」
「……はい」
「"むこう"、もう行けなくなったみたいだ」
「……」
むこう。
行けなくなった。
「それは……どうして」
「わからない。僕もそうだし、怜ちゃんもそうだって言う」
「うん。ぼくも、行けなくなった」
……行けなくなった?
「どうしてですか?」
「さあ? きみが帰ってきてからそうなった。なんでかは、僕にもわからない」
「怜も?」
「そうだね。ぼくも最初は気付かなかったけど」
……。
「まあ、とはいえ、それで何が困るってわけではないんだけど、何か知ってたら、隼くんに話を聞きたかったんだ」
「……俺は」
むこう。
俺はたしかにむこうにいた。
でも……俺はむこうで何をしていたんだっけ?
茂さんは柔らかく微笑んだ。
「……それで、どうするんですか」
と、俺が訊ねると、茂さんは不思議そうな顔をした。
「どうするって?」
そう問い返されて、こちらがあっけにとられてしまった。
「だって、行けなくなって……」
「うん」
「それで……」
……行けなくなって、それが?
「べつに困らないだろう?」
「……」
たしかに、そうだ。
たしかにそうだ、あの場所に、用はない。今のところ。
「……さくら」
「……?」
怜が首をかしげるのが見えた。
さくらはどこだ?
◇
ちどりが持ってきたプリンをみんなで食べたあと、
「疲れてるみたいだから、今日は早めに休むといい」
と茂さんが言ってくれた。その言葉に甘えて、俺は頷く。
外は雨が降っていた。
鞄の底に、折りたたみの傘が入れっぱなしになっているはずだ。
そう思って鞄をあさったけれど、見つからない。
……雨が降ったときに一度使って、そのまま出しっぱなしにしていたのだろうか。
そう思ったとき、なんだか少し前にも、こんなことがあったような気がした。
雨が降ったときに、鞄の底の傘を探して、見つからなかったことがあったような。
……いつのことだったっけ?
そんなことを考えたとき、不意に入り口の扉が開いた。
「おじゃまします」と言いながら、片手に傘を持った純佳が現れた。
「純佳」
「ちどりちゃんに連絡したら、ここにいるということだったので、迎えに来ました」
「……なんで?」
「雨が降っていたので。傘、忘れていったみたいだったので」
「……そっか」
そっか、とうなずきながら、なんだかいろいろなことがよくわからない気持ちのまま、俺は純佳に近付いた。
ひさしぶりかな、と怜が言って、おひさしぶりです、と純佳が言った。
「じゃあ、俺も帰る。無理するなよ」
大野はそう言って、俺達より店を出ていく。
追いかけるように、慌てて俺も店を出る。
「それじゃあ、帰ります」
「またね」と怜が言って、ちどりは何も言わずに手を振った。
「またのお越しを」と茂さんが言った。俺はまだ混乱していた。
「帰りが遅くなるなら、連絡くらいしてください」
ひとつの傘のなか、俺と純佳は並んで歩く。
記憶が判然としないままだったけど、俺は素直に、
「ごめん」
と謝った。
「兄は、言葉足らずです」
「そうかな」
「そうです。急にいなくなるし……」
雨がたしかに降っていた。
傘を打つ雨粒がリズムを刻んでいる。こんな雨の降る夜道を歩いていると、なんだか世界から隠されてるような気がした。
「わたしが……」
「ん」
「いえ……」
言いかけた言葉の続きを、純佳は言わなかった。
俺は聞き返さなかった。
なんとなく、言いたいことがわかるような気がしたのだ。
「悪かった」
そう謝ると、純佳は顔を上げてこちらを見上げる。
泣き出しそうな顔に見えた。
「……わたしが」
「……うん」
「わたしが、どれだけ心配したと思ってるんですか」
「……うん」
「今度こそ、帰ってこないんじゃないかって……」
「……」
「どこにも行かないって、言ったじゃないですか」
「……うん」
こんなとき、何を言えばいいんだろう。
どんなふうに言えばいいんだろう。
心配をかけて、迷惑をかけて、そればっかりだ。
どんな言葉も言い訳になってしまう。
"むこう"に行けなくなったんだと、怜も、茂さんも言っていた。
でも、それとは無関係に、俺はもう"むこう"に行かないほうがいいのだろう。
行けるようになったとしても、行くべきではないのだろう。
帰ってこられるかわからない場所。
今回は、本当にそうだった気がする。
そんな場所との境界を、今まで俺が平気で渡ってきたのは、きっと、
帰ってこられなくてもいいと、心のどこかで思っていたからじゃないだろうか。
今は、でも……。
「もうどこにも行かない」
「……どうせ嘘です」
前のときと同じみたいに、純佳は俺の言葉なんて全然信じなかった。
仕方ないことかもしれない。
雨が降ってる。
傘を叩く音が聞こえる。
……そうだな、と俺は思った。
嘘かもしれない。
どうだろう。
いや、
どうだっていいや。
「どこにも行かない。つもりでいる」
「つもりって、どういうことですか?」
「先のことはわからないって意味」
「……先のこと、ですか」
「そう」
今までだって、どこにも行ったりしないと決めていた。
他人に関わって、踏み込んで、そんなの面倒で誰のためにもならない。
でも気付いたら、そんなことすっかり忘れていた。
「……仕方ないですね」
「ん」
「兄はばかですから」
「……まあ」
そういうことになる。
純佳はそれから黙り込んでしまった。
俺と彼女はふたりで雨に濡れたアスファルトの上を歩き、その間に何かを考えていた。
何かを考えていたと思う。
わからないけれど。
まっさきに考えなければならないことは、ふたつ。
とはいえ、確認しないことには始まらない。
「純佳」
「はい?」
「ちょっと出かける」
「……はい?」
「学校に忘れ物をした」
「……」
あきらかに、疑わしそうな目を純佳は向けてきた。
……それはそうか。
さっき、どこにも行かないと言ったばかりなのだ。
「わたしも行きます」
「……ふむ」
だめです、と言いかけたけれど、仕方ない。
「いいよ」
「え、いいんですか?」
「うん」
「……え、どこに行くんですか」
「学校だって」
「……校門しまってますよね?」
「……ああ、そうか」
いや、
「十分だろう」
「……ほんとに学校に行くんですか?」
「それが最初だな」
「……?」
「そのうち全部話すよ」
純佳はちょっと、警戒するような目をした。
「そうしないと納得しないだろ?」
「まあ、そうですけど」
……まだ少し意識がぼやけている。
でも、何をすべきかははっきり覚えている。
とはいえ、大事なのは順番だろう。
ひとつひとつ、済ませなければ。
手品は下準備が命だ。
つづく
◇
部室に行くまでのあいだ、真中はずっと俺の制服の裾を掴んですぐ後ろを歩いた。
◇
部室についてからも、真中は制服の裾を離さなかった。
大野と瀬尾と市川は既にそこにいて、それだけで察したみたいに何も言わなかった。
「歩きにくい」
「恥ずかしいの?」
「それもある」
なんて会話を、俺は沈黙が広がる文芸部室のなかで繰り広げなければいけなかった。
俺は荷物を机の上に置いてから、部室の隅の戸棚に近寄る。
「どうしたの?」
「調べ物」
そう言って俺は『薄明』の平成四年版を手に取る。
茂さんが作り上げた架空の書物、架空の文芸部、架空の歴史。
今から俺はそれを足がかりに、大掛かりな嘘をつかなければならない。
手にとって読んでみても、やはりそれをひとりの人間が作り上げたのだという感じはしなかった。
収められている文章はどれもこれも巧拙や筆致に差異があるように見える。
つまり、彼はそれほどの書き手だったということだろう。
それだけのことが俺にできるだろうか?
わからない。
とはいえ、今重要なのは、そんなことではない。
問題はひとつ。
佐久間茂が作り上げたこの『薄明』のなかに、どんな物語が隠されているのか、だ。
なのだが。
「……真中」
「ん」
「近い」
「うれしい?」
「……」
うれしくないこともなかったが、集中できない。
「今日はあっついねー」と瀬尾があからさまにわざとらしいことを言う。
「夏だからな」と大野が答えた。
市川は黙ってノートに絵を描いている。
……とりあえず、『薄明』に視線を下ろす。
平成四年度に発行された部誌は全部で四冊。
春季号、夏季号、文化祭特別号、冬季号。
そのうち、佐久間茂という名前があるのは、春季号と夏季号のふたつのみ。
以降のふたつには彼は参加していない、ことになっている。
読むものが読めば、春季号と夏季号に佐久間茂が寄稿した文章は盗作だとはっきりわかる。
だからこそ、茂さんは、佐久間茂の名前を文化祭特別号以降には載せなかった。
この一連の捏造された事態にはひとつのメッセージがあるように受け取れる。
これは、『佐久間茂の作品は盗作である』という宣言だ。
そして、佐久間茂の作品というのは、この四冊の『薄明』を指し示しているともとれる。
何の盗作なのか?
もちろん本人に聞くのが早いけれど、既に俺はその答えを知っている。
『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』。
彼は、ボルヘスのあの短編の着想を模倣し、それによって架空の部員たちの存在を捏造した。
これはもちろん、本来ならば紙の上で起きただけの出来事にすぎない。
けれど、本当にそれだけで済んだのだろうか。
机の上に並べた『薄明』に順番に目を通しながら、俺は考える。
佐久間茂の想像に過ぎない『むこう』は、その存在を現実に映し出し、今にまで影響を与えている。
それによって、瀬尾青葉がこの場にいて、さくらが生まれ、カレハも生まれた。
だとすれば、佐久間茂が捏造したこの部員たちは、現実に何の影響も与えなかったのだろうか?
もちろん、部員たちが本当に生み出されたというようなことはなかっただろう。……おそらく。
少なくとも茂さんは、そんなことを言っていなかった。
だが、他の部分はどうか?
たとえば、茂さんが言っていた、この部誌に仕込まれた『物語』。
たとえばそれが、なんらかの形で現実に影響を与えたということは、ないだろうか?
たとえばそれが……。
──さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?
他の何かと噛み合ってしまった、ということは、ないだろうか。
じっくりと目を通しているうちに肩が凝ってくる。
そもそも俺は文章を読むのが得意ではない。
こんな調子でやっていけるかどうか不安だけれど、俺は約束してしまった。
さくらの居場所の作り方なんて、正直なところ見当もつかない。
そもそも、どうなったらさくらの居場所ができたことになるのかもわからない。
それでも俺は大言壮語を吐いてしまった。今更飲み込み直すこともできない。
少なくとも……彼女が甲子園を見に行けるくらいにはしてやらないといけない。
と、少し休憩しているところで、真中がじっと俺のことを見ていることに気づく。
「……なに」
「なんでもない」
なんとなく変な気分で、俺は両手を机の下に垂らすように伸ばした。
すると真中は、不思議そうな顔で俺の手の甲に指先で触れた。
ほんの少しなぞるような感触に、肌がざわつくみたいに動揺した。
何かを言いそうになったけれど、どうしてか声を出せない。
周囲の様子をうかがうと、みんなそれぞれが別々のことをしていて、こちらを気にする様子はない。
真中もまた、みんなの様子をたしかめたあと、静かに俺の手に視線を戻して、指先だけでたしかめるように俺の手を撫でた。
俺が文句を言わないのを見て取ると、真中の指の動きはそれまでよりも大胆なものに変わった。
手の甲全体を手のひらで包むように動かし、かたちをたしかめるように何度も往復する。
くすぐったい。
彼女はテーブルの上に載せた本をもう片方の手でもって、何食わぬ顔でそちらに視線を向けている。
負けてたまるか、いや、何に負けたことになるのかはわからないけれど、などと考えながら、俺は視線をページに戻す。
真中はまるで俺の我慢を試すみたいにしばらくその動きを続けた。
やがて彼女の指先が、俺の手のひらの内側に忍び込んでくる。
彼女の指が、俺の指の一本一本の根本の間を、爪の先でひっかくみたいにくすぐる。
「……」
当然、俺は集中できないけれど、真中は片手で器用に文庫本のページをめくった。
指先が絡められる。
ああもう、と俺は思った。
彼女の指と指の間に、自分の指を滑り込ませ、黙らせるみたいに握ってやると、一瞬真中が驚いたのが手のこわばりだけでわかる。
それでも真中はかたくなに手を離さず、顔色も変えない。
こういうことに関しては、真中は慣れきっているのだ。
それは俺だって同じだ。数年間ずっと、葉擦れの音が聞こえ続けるなかで生活してきたのだから、さして難しくない。
そのはずだ。
真中はしばらく、俺の手の中でじたばたあがくみたいに指先を動かしていたけれど、やがて諦めたみたいにされるがままになった。
ようやく静かになった、と思って、俺と彼女は互いの手のひらをそのままに、それぞれに文章を読み始めた。
◇
佐久間茂の文章の物語。仕掛け。
それはさして難しい秘密ではなかった。
別人名義の編集後記や、ところどころの短編小説や散文に、その影を推し量ることができる。
当然、さまざまな人間が書いた文章という体裁なので、全体像を把握することは難しい。
それでもはっきりと、隠された物語を見つけ出すことはできた。
それは、『守り神』についての話だった。
人と人とを結ぶ縁の神。
少女の姿をした神様は、普段は制服姿で生徒たちの間に隠れ、ひっそりと人々の縁を結ぶ手伝いをしている。
彼女は誰からも見ることができず、彼女の声は誰にも聞こえず、彼女は学校から出ることができない。
校門近くの大きな桜の樹。その樹の精だという噂もある。
その精霊の噂話が、あたかも本当に生徒のあいだでまことしやかに語られていたかのように、ところどころで触れられている。
『さくら』はましろ先輩の空想の友達だ。それはたしかだろう。
『さくら』を連れたましろ先輩が『むこう』に行ったことでカレハが生まれたのだとしたら、そうだ。
だとすれば、『さくら』が生まれたのは……。
佐久間茂の書いた『薄明』。
ましろ先輩の『空想の友達』。
そして、『夜』と『むこう』。
その三つが複合的に絡み合った結果なのではないか。
『夜』によって叶えられた『むこう』。そこに踏み込んだ『ましろ先輩』。その『空想の友達』。
そしてその『空想の友達』、眠っていた空想の友達が、ましろ先輩がこの学校に入学したことで、
『守り神』としての形を持って再構成された。
──わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
──あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる。
やはり、ましろ先輩が言っていたとおりなのだろうか。
「……いや」
と、思わず独り言を言うと、瀬尾がちらりとこちらに視線をよこした。
「なんでもない。少し考え事だ」
「……そ?」
納得のいかないような顔だったけれど(俺は瀬尾に隠し事ができないらしいので仕方がない)、あえて何も聞いては来なかった。
……だとすると、カレハはどうなる?
カレハが生まれたのは、ましろ先輩がむこうにいったとき、そのはずじゃないか。
……。
けれど……。
そもそもカレハは、どうして、瀬尾がいなくなった頃に、俺の前に姿を見せたんだろう。
むこうの俺は、六年前からずっと、あの場所に置き去りだったはずだ。
そのときからカレハが居たなら、カレハが俺の前に現れるのは、もっと前でもよかったはずだ。
だとすると、こうだ。
まず、『俺がさくらを見つけた』。
そして、『カレハがむこうの俺の前に現れた』。
カレハもまた、ずっとあっちに存在していたのではなく……。
俺がさくらを見つけたから、俺の前に現れることができるようになったんじゃないのか?
……さすがに、頭が混乱してきて、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて息をつく。
この仮定が本当だったところで、どう判断したものか。
ふと、真中が俺の手をぎゅっと握った。俺はされるがままにしておいた。
つづく
◇
『トレーン』の扉を開けるといつものようにベルが鳴る。
夕方の店内には、何人かの客の姿があった。応対をしていたマスターは、ちらりとこちらに目を向けると静かに笑った。
「いらっしゃい」
瀬尾は俺の背中に隠れ、店内の空気をたしかめるように呼吸をした。
「どうも」とだけ声をかけて、俺は奥のテーブル席へとむかう。
瀬尾は黙ったまま俺を追いかけた。
席についたところへ、いつものようにちどりがやってきた。
「いらっしゃい、隼ちゃん」
そう言って、いつものように俺を見てから、瀬尾の方へと視線をうつし、
その表情が不可解そうに揺れた。
なにか不思議なものを見たような、
そんな顔だ。
「……あ、えと。お友達ですか?」
「ん。まあな。……忙しそうだな」
「ええ、まあ、いつもよりは、少し」
「そうか」
「注文は……」
「ブレンド。瀬尾は」
「あ、同じで」
「かしこまりました」
そう言って、ちどりは小さくお辞儀して去っていく。
「……」
「ずいぶん緊張してるな」
「まあ、ね」
来たいというから連れてきたものの、俺は瀬尾が何をするつもりなのか知らない。
ちどりはもちろん、茂さんも瀬尾の存在を知らない。
茂さんなら、瀬尾を見れば何が起きたかを感づくだろうか。
それもそうかもしれない。
俺はひょっとして、瀬尾をここに連れてくるべきではなかったのか。
……いや。
瀬尾青葉の判断は、瀬尾青葉の判断だ。
俺がどうこうできるものじゃない。
ましてやそれは、ややこしい変な出来事のせいで制限されていいものでもないはずだ。
おそらくは。
「……」
「なんか、顔赤いな」
「ん。や、まあ……」
「どうした」
「や。……ほんとに敬語だったなあって」
恥じ入るみたいに、瀬尾はテーブルに両肘をついて顔を手のひらで覆った。
「……なんでおまえが恥ずかしがる」
「……三枝くんにはわかりませんことよ」
「そりゃ、べつにいいけどな。いいじゃないか、敬語」
「そう?」
「似合ってる」
「そうですか?」
「……」
「……」
「似合わないな、不思議と」
「不思議ですね……」
ちょっとやけになっているみたいだった。
「それで……?」
「ん……」
「どうする気でここにきたんだ」
「ん。まあ、いろいろ考えてたんだけど。ひとまず……忙しそうだし、あとにしよっか」
「……」
忙しそうだし、というからには、やはりちどりと話したいのか。
いや、話してみたいのか。
それはそう、かもしれない。
瀬尾にとってちどりは可能性そのものだ。
「それより、三枝くんこそ、わたしになにか話があるんじゃないっけ」
「……俺、そんなこと言ったっけ?」
「あれ、言ってないっけ?」
「まあ、あるのはホントだけどさ」
言ってなかったとしても、瀬尾とももう長い付き合いだ。
こいつなら見透かしてもおかしくないかもしれない。
今となっては瀬尾は、俺を取り巻く状況について、いちばん知っている人間だとも言える。
「さくらのことだ」
「さくら……」
瀬尾は、一瞬きょとんとした顔になって、
「あ、さくら!」
と、声をあげた。周囲の客がこちらに視線を寄せてくる。俺は唇の前に人差し指を立てた。
「声が大きい」
「ごめんなさい」
「素直でよろしい。覚えてるみたいだな」
「ん。今の今まで忘れてた。戻ってきてから、わたし、姿を見てないよ。……見えなくなっちゃっただけ?」
「いや。たぶん、姿を見せてないだけだろう」
「……そうなの?」
「ああ。さくらはいる」
「……そっか。すっかり、頭から抜けてた。……うん。さくらね」
「そう。さくらのこと」
「……さくらが、どうかしたの?」
「ま、いろいろあったんだけど、ややこしいから過程は省略する」
「省略するんだ」
「説明が面倒でな」
「……ま、三枝くんらしいけどさ。それで?」
説明、そう、説明だ。
それが必要だ。……俺に、できるだろうか。
そもそも俺は、自分が何をしようとしているのか、ちゃんと理解できているのだろうか。
目的。
さくらの居場所を作る。
手段。
“夜”を利用する。
さくらの居場所をこの世界に書き足す。
「……『薄明』を作りたい」
「……ん。なに、突然」
「フォークロアを作る」
俺の言葉に、瀬尾は目を丸くした。
「ごめん、順番に説明してくれる?」
「……だよな」
まあ、仕方ない。話せる部分だけ、話してしまおう、と、そう思ったところで、声をかけられた。
「おまたせしました。ブレンドふたつですね」
ちどりがやってきた。
俺と瀬尾が話している間に、客は少しずつ減っていた。
周囲を見ると、いくらか落ち着いた雰囲気だ。
「……あの、鴻ノ巣ちどり、さん?」
不意に、瀬尾がそう声をかけた。
「……あ、はい」と、戸惑ったふうに、ちどりが返事をする。
「あの、わたし、瀬尾青葉っていいます」
「……あ、はい。はじめまして、ですよね」
「……うん。三枝くんから、いつも話は聞いてる」
「……ほんとに?」
と、なぜかちどりは俺を見た。
「なんで」
「だって、隼ちゃんが誰かにわたしの話をするなんて、思えないです」
「……」
たしかに、と思うと同時に、瀬尾が『たしかに』という顔をした。
「……や、まあな」
「三枝くんとは文芸部で一緒で、いろいろ話をしてるうちにね」
そんなふうに誤魔化しながら、瀬尾はちどりに笑いかける。
やっぱりいくらか、緊張した様子だ。
それにしても……ふたりはやっぱり似ている。
瓜二つ、とまでは言わない。
それでもやはり、似ている。
「前から、ちどりちゃんに興味があったんだ」
「興味……ですか」
「うん。あのね、もしよかったら……わたしと、友達になってくれない?」
「……ともだち、ですか?」
「うん。……駄目かな」
ちどりは、いくらか戸惑った顔を見せた。
無理もない、といえば、無理もない。
初対面の相手に、そんな言い方をされたら、普通はそうなる。
でも、
「駄目なんてこと、ないです。隼ちゃんのお友達なら、大歓迎です」
「……」
瀬尾は恥ずかしそうに目を覆った。
「どうした」
「や……自分のことじゃないのに、この無垢な信頼が恥ずかしい」
「……そう言われると俺のほうが恥ずかしい気がしてくるな」
「えっと?」
「あ、ごめんね。……うん。じゃあ、わたしと、おともだちになってください」
そんなふうに瀬尾は、ちどりに手をさしだした。
ちどりはその手を受け取った。
◇
瀬尾とちどりが話をするのを聞きながら過ごして、店を出たとき、まだ外は明るかった。
夏が近い。
俺は瀬尾に訊ねずにはいられなかった。
「どうしてだ?」
「ん」
少しほっとした様子の瀬尾を見て、俺は不思議に思う。
どうして、ちどりと友達になりたかったんだろう。
それは瀬尾にとって、もしかしたら、とても残酷なことなんじゃないか。
「……わたしはさ、瀬尾青葉だからね」
「……うん」
「瀬尾青葉だから。鴻ノ巣ちどりじゃない。でも、なんだか、こうしなかったら、いつまで経ってもわたしは、本当の意味でわたしになれない気がする」
「……よく、わかんないな」
「わかんない、かもね。『三枝くんの幼馴染』に興味があったのも本当だし……でも、ちょっと説明がむずかしいかな」
「うん」
「わたしは……わたしとして生きる。だから、鴻ノ巣ちどりは、ちどりちゃんは、わたしのともだち」
「……」
「だめかな?」
「……いや」
俺がどうこう言うことじゃない。
きっと、たくさん考えたんだろう。
ああでもないこうでもないと、もがいてあがいた結果なんだろう。
だとすれば、それを俺が認めるとか認めないとかいう次元の話じゃない。
瀬尾青葉は瀬尾青葉として生きる。
「……ホントはずっと、悩んでたんだ。鴻ノ巣ちどりとしての記憶を持ってる自分が別人として生きるって、絶対変だから」
「……」
「でも、決めた。『それ』を含めて、わたしはやっぱり瀬尾青葉なんだって」
「……そっか」
「今、わたしがここにある。そこに至るまでのすべてがぜんぶわたし。そう思ったらすっきりしたから」
だからだろう。
瀬尾の表情が澄み切って見えるのも。
「だからね、“隼ちゃん”」
「……」
「これからもよろしくね」
「……まあ、好きに呼べよ」
「つめたーい。わたしのこと好きって言ってたくせに」
「なんだそれ、記憶にねえよ」
「覚えてないの?」
「いつの話だ」
「ずっと昔」
「そっか」
ここに至るまでのすべて。
経験。
記憶。
歪み。
痛み。
ありとあらゆる感情。
今ある混乱。
そのすべてが自分であるならば……。
「大丈夫だよ。柚子ちゃんとのこと、邪魔したりしないから」
「そんな心配、してない」
「……そう?」
「ああ」
「ちょっと残念かも」
「なんで」
「隼ちゃんには、わかんないですよ」
「……」
「……なに?」
「いや、ちょっと今……」
ちどりみたいだった、と、またそう言ったら怒るだろうか。
「ちどりちゃんみたいだった?」
「……うん」
「それはそうだよ」
と、瀬尾はなんでもないように言う。
「それを含めて、わたしはわたしだからね」
瀬尾青葉は本当に、強い人間だと思った。
「それで……さっきの話だけど」
「ん」
「フォークロアを作るって?」
「……ああ」
そうだな、
その話を始めなきゃいけない。
他のことはすべて、もう、一段落した。
最後の仕上げをしなきゃいけない。
つづく
◇
佐久間茂はあの森を作った。
夜の力を借りて。
夜は現実に影響をきたした。
その結果、『薄明』を通じてさくらが生まれた。
これが最初の仮定。
そしてこう続く。
仮に『薄明』がさくらのディティールを作り上げたのならば、
『薄明』によってそれを書き換えることは可能ではないか。
佐久間茂がデミウルゴスなのだとしたら、夜はデウス・エクス・マキナだ。
これはもはや呪術的儀式に近い。
佐久間茂の『薄明』、その『後日談』を描くことで、『さくらのディティールを書き換える』。
矛盾なく、さくらを揺らがせないように、慎重に。
さくらを今のさくらのままで保ちつつ、さくらを書き換える。
そのためには、佐久間茂がそうしたように、
『薄明』を作らなければいけない。
『薄明』そのものを物語にしなければならない。
そのとき夜は、昼の世界に静かに侵食するだろう。
『薄明』。
夜明け前のほのかな明かり。
◇
「……突拍子もないこと考えるね」
「まあな」
「本当にできると思う?」
「わからん」
「でも」
「ん」
「おもしろそう」
そう言うと思った。
◇
『薄明』平成四年春季号
目次
1.小説
『ゆりかごに眠る / 赤井 吉野』
『白昼夢 / 佐久間 茂』
『空の色 / 弓削 雅』
『悲しい噂 / 酒井 浩二』
『ひずみ / 峯田 龍彦』
『ハックルベリーの猫 / 峯田 龍彦』
『許し / 笹塚 和也』
2.散文
『ちょうどいい季節 / 酒井 浩二』
『神様の噂 / 赤井 吉野』
『偏見工学 / 峯田龍彦』
『恋人のいない男たち / 笹塚和也』
3.詩文
『冬の日の朝に思うこと / 赤井 吉野』
『夕闇 / 弓削 雅』
『たちまちに行き過ぎる / 弓削 雅』
『成り立ちについて / 弓削 雅』
『作り方 / 佐久間 茂』
編集:赤井 吉野 弓削 雅
表紙:赤井 吉野
編集後記:赤井 吉野
◇
『薄明』平成四年夏季号
目次
1.小説
『ふんわりとした音 / 赤井 吉野』
『水の上 / 佐久間 茂』
『茜色には程遠い / 弓削 雅』
『もしもあなたがいなくても / 弓削 雅』
『真実 / 峯田 龍彦』
『日々かくのごとし / 峯田 龍彦』
『白線捉える / 峯田 龍彦』
『永遠の途中 / 笹塚和也』
2.散文
『猫と犬について / 赤井 吉野』
『屋上遊園地について / 赤井 吉野』
『天気について / 赤井 吉野』
『縁結びの少女 / 赤井 吉野』
『幽霊の所在 / 峯田 龍彦』
『無限の猿と踊る / 佐久間 茂』
3.詩文
『白衣 / 弓削 雅』
『風遥か / 弓削 雅』
『鈴の音 / 弓削 雅』
編集:赤井 吉野 弓削 雅
表紙:赤井 吉野
編集後記:赤井 吉野
◇
瀬尾と別れたあと、俺は結局、『トレーン』の店先に居た。
俺がやろうとしていることは、正しいことなのか、可能なことなのか。
そんな考えが浮かんでは消えていく。
そんなとき、不意に、見知った姿を通りの向こうに見つける。
彼女は軽く手をあげてから、静かに歩み寄ってきた。
「やあ」と彼女は言う。
「やあ」と俺は返事をする。怜だった。
「最近はよく見るな」
「思ったより簡単にこっちに来られることに気付いたものだからね」
「そうか。何よりだ」
「うん。たったこれだけの距離だったのにな」
「……?」
その響きになにか変なものを感じて、俺は思わず眉をひそめた。
「べつに深い意味はないよ。……さっき、誰かと一緒みたいだったけど」
「ああ、さっきまで……」
「……瀬尾、青葉さん?」
「……だな」
「……ねえ、隼。どうして彼女がちどりにそっくりなんだって、教えてくれなかったんだ?」
「……」
「彼女は、ちどりだよね」
さて、どう答えたものか。
けれど本当は、悩むようなことでもなかった。
「ちどりと言えば、ちどりだが……」
怜が何かを言い出すよりも先に、言葉を続けた。
「今は、瀬尾青葉だ。本人がそう言ってる」
怜は、なにか承服し難いような顔をしたが、やがて頷いた。
「なるほど。……どうして彼女はここに?」
「ちどりと、友達になりたかったらしい」
「……」
今度こそ、いよいよ納得がいかないような顔を、怜はする。
どうしてだろう。
いつもより、どこか感情的に見える。
「そっか」
とだけ言うと、怜は店内へのドアの取っ手を開いた。
「隼は帰るの?」
「そうだな。考えなきゃいけないこともあるし、遅いと純佳が心配する」
「そっか。……ね、隼」
「ん」
「瀬尾さんは強いね。ちどりも、きっと」
「……まあ、そうだな」
「ぼくは……」
「……ん」
「……」
「怜?」
「いや……」
「言いかけてやめるなよ。怜、悪い癖だ」
「隼には言われたくない。ただ、なんとなくね……」
「なんとなく、なんだ」
「ぼくは……昔から、ちどりになりたかったんだ」
「……どういう意味?」
「いや。……なんでもない、忘れてよ」
そう言って、怜は、今度こそドアを開けた。
「あ、怜」
「……なに?」
「ひとつ、聞きたかったんだ。おまえ、最初に“むこう”の話をしたときのこと、覚えてるか?」
「……えっと、学生証の話をしたとき?」
「そう。そのとき」
「あのときがなに?」
「覚えてるか? おまえ、言ってたよな。“案内人がいた”って」
──怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね。
「……そんなこと、言ったっけ?」
「ああ。あの案内人って、誰のことだったんだ?」
ましろ先輩ではない。
佐久間茂でもない。
おそらく、カレハでもない。誰もそんな話はしていなかった。
だとしたら、怜の案内人は、誰だったんだ?
「……えっと、思い違いじゃないかな。そんなこと、言った覚えがないんだけど」
「……そう、か?」
「うん。ぼくはむこうにいるときは、いつもひとりだったし」
……でも、それでは話が通らない、ような気がする。
が、本人にそう言われては、確かめようもない。
「それだけ? ぼくは行くけど」
「……あ、ああ」
「じゃあね、隼」
最後、怜は俺の顔を見なかった。
そんなこと、今まではなかった。
それなのに俺は、怜に対して何を言えばいいのかもわからない。
怜のことを、自分がどれだけ知っているのか。
そんなことを、どうしてか、考えてしまった。
◆
隼はきっと、気付かないだろう。
おそらくこの事実はぼくの中でしか存在できない。
砂浜に書いた文字のように、やがては波にさらわれて消えていくだろう。
誰にも確かめられないし、誰にも知ることができない。
誰も気付かない。
ぼくをぼくと呼ぶこのぼくが、泉澤怜なのだと、みんなが信じている。
このぼくがここにあることは……ぼくがぼくを獲得した結果だと、誰も知らない。
それでいい。
隼はぼくを探偵と呼ぶ。ぼくは隼を詐欺師と言う。
けれど本当は違う。
本当の詐欺師は探偵のような顔をしているものだ。
そんなことを隼は知らなくていい。
ぼくは、ちどりになりたかった。
隼になりたかった。
◇
「……それで?」
と、市川鈴音は言った。
渡り廊下のベンチに腰掛けて、市川鈴音は本を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』だ。
部誌を作る、と俺は言った。瀬尾に話を通した以上、あとは部員を説得するだけだ。
「市川、絵が描けるだろ」
「そりゃ、描けるけど……」
「表紙」
「……もう、期末だよ。部活動休止期間」
「関係ない」
「なくない。なんでそうなるの?」
「まあ、なくはないか。いや、でも、ちょっと描いてほしいんだよ」
「そう言われても……ううん、描くぶんには、いいんだけど、なんで急に?」
「必要だと思う」
「……前作ったときは、なかったよね?」
たしかに、前回作ったときは、なかった。
とはいえ、これは儀式だ。
「描いて欲しい絵がある」
「……」
市川は、静かに考え込んだ。やはり、説明しないわけにはいかないのだろう。
「……なあ、市川」
「ん」
「前から思ってたんだけど……」
彼女は俺を見ようともしない。ずっとページに目を落としている。
「おまえ、"むこう"に行ったことがあるな?」
「……」
ようやく彼女は俺を見た。
「……どうして?」
「見たからだよ」
「……」
さくらを連れ戻しにいった、あの日。
帰り際、俺は渡り廊下で人影を見た。
最初はただの気のせいだと思った。
でも、それだけのはずがない。
市川鈴音の姿をあのタイミングで幻視するなんておかしな話だ。
思えば、市川は最初からおかしかった。
俺が部誌に寄せていた文章、そのなかの、"むこう"に近い風景の描写。
それを彼女は「実話か」と訊ねた。
そんなわけがない、と俺は答えたけれど、そもそもの話……。
どうしてあんな馬鹿げた風景を、こいつは"実話"だなんて思えたんだ?
そう思った瞬間、あれが単なる幻だったとは思えなくなった。
思えば市川は、やけに"むこう"の話に対して理解が早かった。
「……隼くんは、探偵みたいだね」
「俺は探偵にはなれない」
「そうかもだけど」
「……で?」
「……どうかな」
「……どうかな、って、どうなんだよ」
「わかんないの」と市川は言った。
「わたしは夢に見てるだけ」
「夢?」
「うん」
珍しく、真摯な声音だった。
そのせいで俺は、それ以上の追及ができない。
「……夢、か」
「うん」
「……そっか」
なら、言っても仕方がない。
「ま、いいや」
「……ん。描いてほしい絵って?」
訊ねられて、俺は少しだけためらった。
けれどたぶん、必要なものだろう。
たぶん、その絵は、描かれるべきだろう。
つづく
◇
期末テストが終わって、夏休みが目前に迫った頃、俺達は部誌を完成させた。
突貫と言えば突貫だったけれど、瀬尾と真中は協力的だったし、市川も拒みはしなかった。
そうなれば大野だって付き合いはいいやつだし、その上ちせも引き込めたことが大きかった。
「それにしても」と瀬尾は言った。
「三枝くんがこんなにやる気になる瞬間を生きてるうちに見られるなんてね」
茶化すみたいなそんな言葉が、やけに照れくさかった。
文芸部には少しだけ変化があった。
真中と俺の関係性が変わったこともそうだけれど、そのうえ、ちせが入部することになった。
「なんとなくですけど、必要な気がするので」
と、彼女は言った。それはたしかにそのとおりだと俺は思う。
ちせがいないと、俺の計画していることは、ほんの少しだけ面倒が増える。
「でも、こんなことで本当にうまく行くんでしょうか」
と、ちせはそう言った。
何のために部誌を作ろうとしているのか、それを知っていたのは、俺と瀬尾とちせだけだった。
理由は単純で、この三人にはさくらが見えるから。
以前、ちせがさくらと顔を合わせたとき、ちせにはさくらが見えていた。
"むこう"に行った人間にはさくらが見える。それが俺の仮説だった。
そして瀬尾とちせに対して、俺はいくらかの説明をした。
結果として、それが上手く行ったかどうか、効果はまだ掴めない。
ひとまず今は、それも一段落したので、俺は少し羽を休めることにしていた。
◇
放課後、屋上に寝そべって昼寝をしていると、「サボりですか」とさくらがやってきた。
「がんばったんだから、少しくらいサボったって、バチは当たらない」
「ま、そうかもですけど」
「……」
なんだろう。
何かを言えるような気がしたんだけど、何も思い浮かばない。
どうしてだろう。
◇
『薄明』夏季特別号。
目次
0.部誌発行にあたって
『物語の影響 / 瀬尾 青葉』
『概略 / 三枝 隼』
1.小説
『涼やかな午後 / 大野 辰巳』
『寝顔 / 真中 柚子』
『湖畔 / 瀬尾 青葉』
『朝靄 / 瀬尾 青葉』
『塔 / 市川 鈴音』
『夜霧 / 宮崎 ちせ』
『幽霊のよまいごと / 宮崎 ちせ』
『あなたがそこにいなくても / 宮崎ちせ』
『白日 / 三枝 隼』
2.散文
『平成四年に発行された部誌『薄明』に関する調査と仮説 / 三枝 隼』
『噂話の効用 / 瀬尾 青葉』
『ファンタジーと現実との対照 / 宮崎ちせ』
『桜の少女についての再考 / 三枝 隼』
『わたしたちの不確かな現在 / 瀬尾 青葉』
3.詩文
『成り立ちについて / 瀬尾 青葉』
『作り方 / 宮崎 ちせ』
『薄明 / 三枝 隼』
編集:瀬尾 青葉 三枝 隼
表紙:市川 鈴音
編集後記:瀬尾 青葉
◇
俺の考えは、さくらの存在が佐久間茂の作った『薄明』に根ざしているという仮定から始まる。
だからその詳細をさくらに話すわけにはいかない。
誰かの書いた文章が自分の存在を生んだかもしれないなんてこと、さくらは知らなくていい。
まず第一に必要だったのは、佐久間茂がさくらについてどのような『設定』を用意していたかを確認することだった。
それはそんなに難しいことではない。『薄明』を確認すればいいだけだからだ。
「でも、本当にそれだけでいいのかな」
と瀬尾は言っていた。
「部誌に書かれてる以外の設定もあるんじゃないの?」
そうだとしても、佐久間茂に確認すればいい。それはそうだが、俺は別の理由からそっちを無視した。
仮に薄明に描かれている以外の情報がさくらの存在に反映されるとしたら、さくらの存在はもっと揺らぎやすく曖昧になる。
噂話だって変化する。茂さんがさくらのことを忘れることもあるだろう。
にもかかわらず存在し続けているのは、さくらが『薄明』に依拠しているからだ。
と、仮定しないかぎり、そもそも俺の解決法も成立しないのだが。
はっきりいって、根拠があるわけではない。
単に、『これで駄目なら他の方法を試すしかないから、とりあえずやってみるしかない』という理由だ。
「そのために……この『薄明』を使うんですか?」
平成四年に作られた『薄明』を見て、ちせはいかにも不思議そうな顔をした。
無理もないと言えば無理もない。
「もし仮にこの『薄明』がさくらを規定しているとしたら、この『薄明』に書かれている情報は無視できない」
「……まったく別のお話を作ることはできないんですか?」
「できなくはないが」
仮にそれをしてしまったら、今度はさくらではない別の存在が生まれることもありえるだろう。
もっと言えば、いまいる『さくら』が根っこから変化してしまうこともある。
それでは意味がない。
であるなら、『佐久間茂の薄明』を前提にして、そこに情報を付け足すことでさくらに変化を与えなければいけない。
「そんなこと、できるんですか?」
できるかどうかはわからない、と俺は答えた。
それはそうか、という顔を、ちせも瀬尾もしてくれた。
◇
そして俺たちは、『平成四年に作られた薄明において語られた噂話』を検証するという体裁を使った。
佐久間茂の『薄明』においては、噂話の真偽は曖昧に、あくまでも『そういう噂がある』というふうに語られていた。
その噂は今現在この校内で流布している噂話の原型になっている。
桜の樹の精。
縁結びの神様。
その物語を『検証する』というかたちで、俺達はそれを作り変えることにした。
これに関してはひとつアイディアがあった。
『聞き取り調査』だ。
平成四年に作られた『薄明』の中で『神様』と『縁結びの少女』について書いていたのは赤井吉野という生徒だった。
俺たちは、赤井吉野という少女──というのは文体からの想像だが──に、さくらについて直接質問しにいった。
つまり、
『現在流布されている噂話の原型を知っている相手へ聞き取り調査を行い、その詳細を確かめた』。
さて、とはいえもちろん、『赤井吉野』という生徒が実際に『薄明』を作るのに参加していたわけではない。
佐久間は『幽霊部員だらけの文芸部』を利用して部誌を作ったのだ。
けれどだからこそ、『赤井吉野』という生徒は、当時の卒業アルバムにはちゃんと載っている。
だから、あくまでも、『赤井吉野に聞いた』というかたちで、『さくらについての情報』を書き加えたのだ。
・赤井吉野はさくらを見たことがある。
・それは『薄明』を作り上げたあとのことである。
・よって平成四年の『薄明』に描かれた情報は真実というよりは推測であった。
・その少女は時折人前に姿をあらわす。
・彼女は人と人との縁を繋ぐことを楽しみにしている。
・自分がどうしてそんなことをしているかはわからない。
・誰かが必要としたとき、彼女は姿を見せる。
・こっそりと人々の手伝いをしている。
・ある一時期、文芸部は彼女のために恋愛相談所として機能していた。
・文芸部の部室には当時使っていた相談用のボックスが置かれていた。
・それは今現在も残っているはずである。
・赤井吉野自身も勘違いしていたが、彼女は校内から出ることもできるし、望んだ相手と会うこともできる。
・実際、卒業してから彼女が会いにきたといっていた人間もいる。
・彼女は寂しがりなので、相手をしてあげると喜ぶ。
◇
俺と瀬尾とちせ、それから暇をしていたましろ先輩は、日曜大工をして木製の箱を作り上げた。
ちょうどよく古びた木材を釘で打ち合わせて。
そして「古くなっていたものをキレイにした」風に見えるようにしてから、文芸部の部室に置いた。
「なにこれ?」と大野に聞かれたとき、
「調べ物をしているうちに見つけた。文芸部の部室にあったらしい」と伝えたところ、
大野は疑いもせずに「ふうん」と言った。
あまり興味のないことなら、人はその真偽を疑わない。
「本当にこれでいいのかな?」と瀬尾は言った。
「さあ?」と俺は答えた。
「でも……」とちせは笑った。
「なんだか、楽しいですね」
◇
「隼!」
と、声がして、俺は昼寝を邪魔された。
「……なんだよ」
体を起こすと、さくらが息を切らせて(息が切れるのか。初めて知った)俺のそばにきていた。
「どうした」
「ちょっときて! きてください!」
「どこに」
「校門です!」
そう言ってさくらはぱっと姿を消した。
あいつはそれで済むかもしれないが、こちらは階段を降りて渡り廊下を歩いていかなきゃいけないのだ。
とはいえ、言われたとおりにすることにした。
近くに置いていた鞄を背負って、靴を履き替えて外に出ると、さっきまでより遠くなったはずの夏の日差しがやけに近く感じる。
校門のそば、桜の樹。
そこに彼女は立っている。
歩み寄ると、今までに見たことがないくらい浮かれた表情で、彼女は得意げに笑った。
「ほら! 早く!」
俺が近付くと、彼女は俺の手をとって走り出した。
校門を抜ける。……ここまでは、いつもどおり。
以前、学校を出るまでの坂道で、さくらを見たことはある。
このあたりまでは、彼女は前から来ることができた。
その先。
坂道を嬉しそうに下っていくさくらを見ながら、俺はもう何が起きたかを理解できていた。
「そんなに走るなよ」
周囲からはどんなふうに見えるんだろう。俺が手を前に出したまま走っているように見えるんだろうか。
それもまあ、今は別にかまわない気がする。
さくらは止まることなく走っていく。息を切らして、楽しそうに笑っている。
「どこまで行く気だ?」
「ちょっとそこまでです!」
一応鞄を持ってきて正解だった。
さくらは坂道を下り切ると、どうだと言わんばかりに俺に向き直った。
「どうですか!」
「……なにが」
「この坂道、前まで、下りきれなかったんです」
「……」
「この坂道、わたしには、終わらない坂道だったんです。それが、ほら!」
道の先の交差点のコンビニに近付くと、さくらは入り口で何度か跳ねた。
すると自動ドアが反応する。
「……おいおい」
そりゃまずい、と思って、俺も入り口に近付いて、何気ないふうに入店する。
するとさくらもついてきた。
「ほら! ほら!」
さくらは嬉しそうに笑っているけど、俺はさすがに返事ができない。
ポケットから携帯を取り出して耳にあてる。
「よかったな」
「はい!」
「上手くいってよかったよ」
「どんな魔法を使ったんですか?」
「たいしたことはしてない」
「嘘です」
まあ、ほんのちょっと悪いやつと契約したくらいだ。
「悪いやつ?」
そうだ。心が読めるんだった。
「ま、追って沙汰があるだろう」
それだけ言ってから、俺は適当に飲み物を二本買った。店を出て片方をさくらに渡すと、彼女は物珍しそうに受け取る。
「いったい、どうやったんですか」
「知らぬが仏だ」
「……これは、大きな借りができてしまいましたね」
「大げさだな」
彼女はペットボトルをしげしげと眺めている。
蓋を開けるのを実演してみせると、おそるおそるといった具合に自分でもやりはじめた。
「お、おお」
「初めてか」
「はい。こんなふうになってたんですね」
「うむ。祝杯である」
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
といって、俺達はボトルを打ち合わせた。店先に誰もいなくてよかった。
このようにして、嘘から生まれた真を、新しい嘘で書き換えた。
毒をもって毒を制し、嘘をもって嘘を制する。
俺にできるのはこのくらいだろう。
◇
『薄明』の表紙は、市川に頼んで、その絵の構図を俺が指定した。
それは、ひとりの少女が坂道の下から──つまり、学校の敷地の外から、学校を見上げている様子だ。
容姿は俺が可能な限りの注文を入れて、さくらに近いようにしてもらった。
事情を知らない市川は、
「こういう子が好みなの?」
と不審そうな顔をしたが、面倒だったので、
「そういうことだ」
と適当に返事をしておいた。
そして今、その絵と同じ光景が、俺の目前に広がっている。
「めでたしめでたし」
と俺は呟いた。
さくらは楽しそうにまた笑った。
つづく
そろそろおわりたいです
◆
真っ暗なところにひとりで立っている。左右には壁があり、少し低い天井がある。
あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音が聞こえる。
それがやけに響いていた。
切れかけた裸電球が等間隔でぽつぽつと薄暗く通路を照らしている。
その明滅の隙間に、通路の先の暗闇がぽっかりと口を開けている。
背後を見ても同じ様子。自分がどちらから来て、どちらに向かっているのか、もうわかりそうもない。
しばらく俺は立ち尽くし、そしてやがて歩き始めた。
時間の感覚がなく、どれだけ歩いても一瞬だという気もするし、ずいぶん長い間歩いてきたという気もする。
ただ電灯が明滅している。
そして俺はそれと出会う。それがそこにあることを俺はあらかじめ知っていた。
だから俺は挨拶をする。
「やあ」
「やあ」
とそれは返事をした。
「調子はどうだい?」
と“夜”は言った。
「どうだろうな」と俺はとぼけて見せた。
夜は黒い竹編みの椅子に悠然と腰掛けていた。
彼の姿を俺は初めてみた。それで驚いた。
俺は彼の姿を知っている。
「おまえのおかげで助かったよ」
と彼は言った。
「……おまえを助けた覚えはない」
「いずれわかるさ」
はっきりと、彼は笑みをつくる。
「……が、それは今じゃない」
「……でも、こちらこそ助かった」
一応、礼を言うことにした。
「ありがとう。おかげで書き換えられた」
彼はおかしそうに笑う。
「……本当にここまでするとは、思っていなかったけどな。たぶんおまえは才能があったんだろう」
「才能?」
才能。俺には無縁なものだ。
「……でも、本当にこれでよかったのか?」
そう、夜は俺に訊ねた。
「……どうだろうな」
俺は、
他にどうしようがあったんだ? と、
そう訊ねかけて、やめた。
その言い方は、誰かに責任を押し付けているような気がしたから。
「自分では気付いていないだろうが……おまえは佐久間茂にはできなかったことをした」
「……?」
「おまえは世界を書き換えた」
「それは……茂さんだってしたことだろう」
「違うね。あいつは書き足しただけだ。おまえは書き換えた。その差は大きい」
「……」
「あいつはこの世に暗がりを作った。けれど、それは所詮、粘土のように夜をこねくり回しただけのことだ。
おまえはけれど、夜を昼に滲ませた。おかげで扉が開かれた。
あの女に負けたときはこれで終わりかと思ったが、俺にもようやく運が回ってきた」
「……」
こいつは、
何の話をしてるんだ?
「けれどまあ……それは、おまえとは直接関係ない。とにかく、感謝するよ」
「……」
「二度も俺の力を使いやがったんだ。普通なら代償を求めてやるところだが……お釣りが来るくらいだ」
「……何を言ってる?」
「礼を言ってるのさ」
「違う。“二度”って……何の話だ?」
「……なんだ、覚えてないのか。人間ってのは、不便なもんだな」
「……」
二度。
二度?
「……なるほどな。おまえはどうやら本当に才能があるらしい。自分で書き換えた物語を、自分で信じ込んでいるわけだな。
それでこそ、というところではある。本当の嘘つきっていうのは、自分がついている嘘を信じ込まなくちゃいけないもんだ。
しかし……凄まじいな」
「……」
「なあ……おまえ、自分で疑問に思わないのか?」
「……何がだ」
「宮崎ましろ。泉澤怜。鴻ノ巣ちどり。瀬尾青葉。市川鈴音。佐久間茂。そして、おまえ。
夜の世界、おまえが神様の庭と呼んだ世界。どうしてそこに関係している人物が、おまえの周辺で完結してるんだ?」
「……」
疑問に思わなかったわけではない。
ましろ先輩、瀬尾、俺。どうしてあのとき、むこうに行った人間が、揃ってこの高校の文芸部に入部したのか。
そして、どうしてそこに、佐久間茂が通っていたのか。
神様の庭の夢を見るという市川鈴音が、どうして文芸部に入部していたのか。
どうしてこんなにも完結した関係性の中に、そんな出来事が起きたのか。
まるで誰かが、
「……まるで、誰かが書いた物語みたいだと思わないか?」
そんな言葉が。
馬鹿らしいと笑えないのは、どうしてだったのか。
「おまえは何を言ってるんだ?」
「佐久間茂がどうして『薄明』で遊んだか、覚えてるか?」
どうして。
どうして、だったっけ。
「……“どうして?”」
「おまえはどうして、真中柚子をそんなに欲するんだ?」
「……」
「おまえのなかには矛盾した感情がある。
ほしいものがひとつもないという感情。真中柚子を烈しく求める感情。
どうしてそんなことが成立する? その矛盾には何か……明らかに、秘密がある」
「……」
「だが、まあ、俺も山師だ。だからおまえのその程度の嘘くらい、なんとも思わない。
この世界は苦痛に満ちていて、柔らかな光はいつも暗い痛みに押し潰される。
これから先、どんな光を手にしたって、きっと、それはすぐに失われてしまう。
そのなかにあって……おまえの嘘は、実に俺の好みだった」
「……待て、おまえは、何を言ってる?」
二度……俺は、『夜』を使った?
『書き換えた』?
「面白い見世物だったよ、三枝隼。ずいぶん凝ったシナリオを作ったもんだ」
「……」
「おまえのおかげで、俺は自由だ」
不意に頭上の電球が明滅し、
もう一度点いたときには、夜の姿はそこにはなかった。
◆
ねえ、せんぱい、本当にわたしのことを捕まえていてくれる?
◆
おまえを居なかったことになんかしない。
おまえがいなくならなきゃならないような世界なら、そんなの、世界のほうが間違ってるんだ。
おまえを傷つけるだけの世界なら、俺が全部書き換えてやる。
◆
不意に目をさますと、俺は眠っていた。目をさましたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
でも、いつから眠っていたのか、わからない。
何か夢を見ていたような気がするが、はっきりとしない。
体を起こすと、屋上だ。見慣れた屋上。俺だけが鍵を持つ、秘密の場所。
昼寝をしていたらしい。
「隼さん、またサボりですか」
ドアが開く音が聞こえて、そちらをむくと、ちせが立っている。
「……ああ」
むっとした顔のちせを眺めながら、俺は返事をする。
「もう。大野先輩も青葉さんも怒ってますよ」
「怒らせときゃいいんだよ。第一、部誌だって出来上がったんだし、顔出す理由もそんなにないだろう」
「でも……」
ちせは何かを言いたげに俺の方を見た。
「……隼さん、ひとつ聞きたかったんですけど」
「ん」
「隼さんが書いた小説のタイトル。あれって、どんな意味があるんですか?」
「ん。読んでわからなかった?」
「はい、まあ……」
「つまりさ……次の日が土曜日で休みだろ」
「……?」
「だから、ずぶ濡れになって踊ろうって意味」
「……よくわかんないです」
俺は起き上がって空を仰いだ。
瞬間、
空が拉いだ。
つづく
◇
「遅いぞ、後輩くん」
学校近くのファミレスで、俺とましろ先輩は待ち合わせた。
「急に呼び出していったい何の……」
言いかけたところで、ましろ先輩が気付いた。
「……さくら」
「ましろ」
俺の斜め後ろから、さくらが顔を見せた瞬間、ましろ先輩は頬を緩めた。
「さくら!」
「あ、先輩。声が大きい」
「なんでさくらが……後輩くん。これは……」
「や。会いたがってたんで」
「会いたがってたって、でもさくらは……」
「隼がなんとかしてくれました」
「なんとかって……」
ましろ先輩が目を丸くしているのを、俺は初めて見た気がする。
「すごいね……」
今度ばかりは、俺の勝ちみたいだ。いつも踊らされてばかりだったから、悪い気はしない。
テーブル席に座ってから、ドリンクバーを頼んだ。
三人分。店員は変な顔をしていたけれど、「あとで来るんで」と言うと頷いてくれた。
俺が三人分のジュースを持って席に戻ると、ましろ先輩は俺のことを見上げた。
「いったい、どんな方法で?」
「企業秘密です」
「……きみに鍵を渡したの、正解だったみたい」
ましろ先輩じゃないみたいな気がした。
彼女は何もかも、いつもお見通しみたいに見えたから。
グラスを二人の前に置くと、さくらは当然のようにストローをグラスにさした。
周囲から見たら、ひとりでに飲み物が減っていくように見えるのだろうか?
……人の認識なんて曖昧なものだ。
誰かが見たとしても、気のせいで済むものかもしれない。
仮に俺が見たら、そう思うような気がする。
さくらに頼まれてましろ先輩を呼び出したわけだけれど、彼女たちはお互いに、何も話そうとはしなかった。
どうしていいかわからないみたいに、ずっとそわそわしてばかりだ。
「さくら」
「はい?」
「なにか、話したかったんじゃないのか」
「え?」
「そうなの?」
「……えっと、そういうわけじゃないです」
てっきりそうだと思っていた。
ということは、まあ、そういうことなのだろう。
「ただ、外に出られるようになったから……ましろに会いたかったんです」
「……」
「迷惑でしたか?」
ましろ先輩は、一瞬、驚いたような顔をして、また笑った。
「何言ってるの。わかるでしょう?」
彼女が笑うとさくらも笑う。
さくらは、不安だったのかもしれない。
「ね、さくら。わたしも何度か、さくらに会いにいこうとしたんだ」
「……そう、だったんですか」
「うん。でも、なんだかそれって……すごく、ひどいことのような気がして」
だから、会いに行けなかった。ましろ先輩はそう言った。
「さくら。……ひとりにして、ごめんね」
そんな言葉で、俺はましろ先輩のことが、少しだけわかったような気がした。
「ね、ましろ」
テーブルを挟んで向かい合って、さくらは先輩の手をとった。
「これからも、ましろに会いにきてもいいですか?」
「……何度だって、会いに来てよ」
「……」
「さくらは、わたしの友達だもの」
俺は、なんだか自分が邪魔をしているみたいに思えたけれど、そんなことを考えた瞬間に、さくらがこちらを見て、
「何をいってるんですか」
と笑った。
「あなたのおかげです」
「……」
そうなのかな。
どうしてか、そんなふうには、思えない。
それなのに、
「ありがとう」とさくらは言った。
泣いているみたいに見えた。
◇
ちせを部員に加えた文芸部は、瀬尾の主導で夏休み中に新たな部誌を作ることに決まった。
「前回は、わたしが消化不良だったからね」と瀬尾は言う。
彼女はときどき『トレーン』に顔を出すようになった。
俺を誘うこともあるし、誘わないこともある。
ちどりと瀬尾は馬が合うのか、すぐに仲良くなって、週末に一緒に遊びに行く話をするようになるまですぐだった。
まあ、趣味だってある程度は共通しているのだろうから、当然と言えば当然だろう。
怜もまた、以前よりも頻繁に『トレーン』を訪れるようになった。
「一度こっちに来てみたら、意外とそんなに遠くないんだと思ってね」
ということらしい。引越し先では上手くやっているというし、実際そうなのだろう。
怜はときどき、何か言いたげな表情を見せることがある。
そのたびに俺は訊ねてみるのだけれど、彼女は首を横に振ってはぐらかすだけだった。
それを話してくれる日が来るのかどうか、俺には今のところ見当もつかない。
改めて『むこう』のことについて話したけれど、怜も茂さんも、やはり、あちらには行けなくなったままらしい。
どうしてそんなことになったのかはわからない。
誰もがむこうにいけなくなったのか、
それとも俺たちが、むこうにたどり着く条件を満たせなくなったのか。
茂さんは、むこうについても、瀬尾についても、あまり多くを語らなかった。
思うところは、きっとあるのだろう。それでも彼は、カウンターのむこうで笑っている。あの覆い隠すような笑みのままで。
いずれにせよ、俺たちをさんざん混乱させた春の出来事は、まるで夢か何かだったみたいに、途絶えてしまった。
カレハや、あいつがどうしているのか、俺にはわからない。
夜からの音沙汰も、今の所はない。記憶しているかぎりは、ない。
少し拍子抜けしているけれど、そんなものなのかもしれない。
さくらは文芸部の部室に顔を出すようになって、他のやつらがいないときには、よく瀬尾やちせと話している。
特にちせとは、ましろ先輩という共通の話題があるからか、だいぶ仲良くなったみたいだ。
とりあえずのところ、仮に俺や瀬尾が卒業したとしても、ちせがいる。
あとのことは、『薄明』がどのくらい機能しているかに関わっている。
それについて大野は、
「あの噂がだいぶ広まってるみたいで、ずいぶんみんなに受け入れられてるらしい」
と言った。
「みんな正直だね」と、呆れ調子で言ったのは市川だった。
彼女が見る夢について、俺は詳しい話を聞いていない。
けれど一度だけ、どうしても気になって訊ねた。
「まだ、夢は見るか」と。
市川は、うん、と短く頷いた。それだけだ。
彼女はまだむこうの夢を見ている。
それはただの夢なのだろうか。
それとも、まだ何かがあるのだろうか。
あるのかもしれない。あそこは理外の森だから、俺たちの事情とは関係なく、きっと存在し続けるのだろう。
どこかでぽっかりと口を開けているのだろう。
それは俺にはわからない。
わかるのは、市川と大野の距離が、以前よりも近付いたらしいということくらい。
それについての詳しい話を俺は聞かなかったし、大野も言わなかった。
やけに俺のことを買いかぶっている大野だから、言わなくてもわかると思っているのかもしれない。
部室の前に置いておいた箱の中には、ときどき手紙が入っていることがある。
それの担当は、ひとまず俺ということになった。
といっても、『神様に対する恋愛相談』を果たして俺が覗き込んでいいものか、という問題もあるにはあった。
とはいえ、『代理人』の役目はやっぱり俺だろう、という話もある。
ときどき瀬尾やちせの力を借りつつ、主にさくらの主導で、俺は『縁結び』をやることになった。
手紙には大抵名前も学年も書かれていなかったので、俺達はひっそりと、陰ながら、彼や彼女の悩みに手を貸すことになった。
それは上手くいったりいかなかったりした。それは当然のことだ。
さくらがやっていたときとは違う。
「人は縁がない相手のことも好きになったりするものですから、仕方のないことです」と、さくらは言っていた。
そう言われると、俺は自分がやっていることがものすごいおせっかいなんじゃないかという気がしたが、
「それでも、無駄にはなりませんよ」
とさくらは言っていた。
そうであってくれればいいと俺も思う。
傲慢になるつもりはないけれど、そうでなければ寝覚めが悪いから。
もしそうでなくても……それは仕方ない。
最初からそれは正しいことではないのだ。これは、嘘の上に成り立ったものなのだから。
だから俺にできることがあるとしたら、その嘘を可能な限り誠実なものにするように努めることだけだろう。
ちせはときどきさくらを家に招くようになったという。
それはつまり、さくらがましろ先輩の家に遊びにいくようになった、ということだ。
あのとき話しただけでは話し足りないことが、ふたりの間にはきっとあるのだろう。
それができるのを自分の功績だと誇るつもりはないし、おそらくまだ完全ではない。
二重の風景を見ることがなくなった俺は、不思議と今になって、その事実に寂しさを覚えている。
あいつはどこかに消えてしまったのか。
カレハはどこにいるのか。
それを考えるたびに、俺はあの絵の中の景色に入り込みたくなるけれど、
たとえそれができたとしても、もうむこうには行くべきではないような気がした。
あなたの中の彼と合一を果たして。
カレハはそう言ったけれど、俺は結局、そうはならなかったような気がする。
あの暗い森で、灰のように崩れ落ちたあいつの傍らに、カレハが今もいるような気がする。
そうであってほしいと、思っているだけなのかもしれない。
七月の末近い土曜日に、茂さんは俺を車に載せてある場所へと連れて行ってくれた。
高速道路を二時間走った先には、見渡す限りの森と山があった。
俺と茂さんはふたりで森の中へと入り込み、そこでひとつの廃墟を見た。
草花の気配が古びた建物に侵食して、割れた天窓から差し込む光に、割れたコンクリートの隙間に咲いた花が照らされていた。
「ここだよ」と彼は言った。
「ここがモデルだったんだ」
どうしてそこに、俺を連れて行きたかったのか、茂さんは話してくれなかった。
あのとき、あの絵の中で、茂さんは俺の背後に何かを見ていた。
それはひょっとしたら、かつての自分の姿だったのではないか。
そんな想像をしたけれど、俺にはどうせ本当のことはわからない。
何を言いたくて俺をそこに連れて行ったのか。
ただ、自分がそこに行きたくて、誰かを道連れにしたかっただけなのか。
本当のことなんて、どうせ俺にはわからない。
それでいいのかもしれない。
その森の茂みのなかで、俺は跳ねる二匹の動物の影を見た。
そこになにかの面影を重ねたけれど、それは単なる俺の感傷なのかもしれない。
真中にも釘を差されたけれど、俺は毎夜ノートに向かって自分の文章を書こうとすることをやめなかった。
文章を書けるようになりたい。少なくとも、みんなが書ける程度のものを書けるようになりたい。
その欲望は、いつしか最初の理由や目標なんて置いてきぼりにして、欲望だけになってしまったような気がする。
書きたい、書きたい、という、欲望だけになってしまったように思える。
純佳はそんな俺に呆れてため息をつきながら、ときどきコーヒーを差し入れてくれる。
そして朝になると起こしてくれて、弁当まで作ってくれている。
「そろそろ妹離れしてくださいね」
なんて純佳は言う。
それでも「そうだな」と頷くと、少し寂しそうな顔をするのだ。
書くのに疲れて窓の外を見てみると、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。
いつか見たときのような恐れのような気持ちは、今は綺麗になくなってしまっている。
そのたびに俺は何かをなくしたような気持ちになって、なんだか自分が長い夢を見ていたような気分になるのだ。
あるいは、こんな日常さえもが、ただの夢なのかもしれない。
本当と嘘の区別なんて、どうせ俺たちにはつきやしない。
だったら、気にするだけ無駄だ。
そんな夜でも眠ってしまえば朝が来て、杞憂だと言わんばかりにあたりまえの明日がやってきた。
部活をサボって屋上で昼寝をしていたある日、真中が勝手にそばにやってきて、寝そべった俺の頭を勝手に自分の膝の上にのせた。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
気にしないで、と真中は笑った。
感情表現が豊かになった真中は、近頃めっきりモテるようになった。
嘘から出た真で恋人になった俺としては頭の痛い事実だが、今のところ、不届き者は現れていない。
「もしそんなことになっても、せんぱいじゃ相手が悪すぎるよ」
と、真中が照れもなくそんなことを言うので、
「そりゃあ買いかぶり過ぎだろう」というと、そうではない、と首を横に振って、
「せんぱいは手段を選ばないから、かわいそう」
手段を選ばない。まあたしかに、そうなのかもしれないな、と俺は思った。
その日はとてもいい天気で、俺はそれが、世界の終わりか始まりか、そのどちらかのようにさえ思えた。
けれどそれはあくまでも、どこまでも地続きの日常の一端で、
だから俺はほっとして、真中の膝の上で眠った。
「夏だね」
と、真中がそう呟くのが聞こえて、俺は思わず笑ってしまった。
いつのまに、こんなに明るいところまで来ていたんだろう。
◇
夏休みに入ってすぐのある日、瀬尾がみんなに召集をかけた。
みんなというのは文芸部のメンバーだけでなく、ましろ先輩やちどりや怜、更にはさくらまでもを含む『みんな』だった。
真中とちせが誘ったというので、コマツナまでが来ていたくらいだ。
「お邪魔してよかったんですかね」とコマツナが遠慮していた様子だったが、気にするような奴はひとりもいない。
瀬尾が俺たちを呼びつけたのは、今となっては廃校寸前というくらい生徒数が減少してしまった小学校、
の、旧校舎だった。
野草の生い茂るグラウンドと、周辺を囲うような雑木林のせいで、あたりから隠されているような気さえする。
俺と大野は瀬尾に言われて背負っていたリュックサックを下ろすように命じられた。
彼女はその中からいくつものおもちゃの水鉄砲を取り出した。
「……それは、なに」
「水鉄砲」
「見ればわかる」
「見てわかるなら、しようとしてることもわかるはず」
「……何歳だよ」
「楽しそうでしょ?」
「正気か?」
と言って周囲を見ると、みんなはやれやれという顔をした。
「……なんで誰も文句言わないんだ?」
「三枝くん以外、みんな何するか知ってたからね」
「……こいつら全員ノリノリなの?」
試しに周囲を見てみると、それぞれがそれぞれに自分の得物に手をつけていた。
「……なんだってこんなこと」
「楽しそうでしょう?」
「そりゃ……」
「ね、三枝くん」
「ん」
「もっと、楽しんだほうがいいよ」
そう言って、瀬尾はからりと笑う。
もう、むこうに逃げ込んでいたときの瀬尾とは違う。
こんなこと、たしかにちどりは言い出さないだろう。
瀬尾はもう、瀬尾青葉になったのだ。
「……本気かよ」
「チーム戦。じゃんけん、グーパーね」
それで俺たちは、日が暮れるまでずぶ濡れになって踊るみたいに遊ぶことになった。
その日は綺麗に晴れていて、俺達は馬鹿みたいに笑った。
帰り道の途中で、不意の夕立ちに降られても、俺たちはとっくにずぶ濡れだったから、馬鹿みたいにはしゃいだままだった。
たぶん、この日のことを思い出すとしたら、俺はきっと、その、雨に濡れた瞬間のことを、思い出すんじゃないだろうか。
ずっとあとになって思い出す瞬間があるとしたら、きっと、そういう瞬間なんじゃないだろうか。
みんなの濡れた髪や服や、遠くの山に被さる黒い雲の隙間の夕焼けのことなんかを。
やがて、ずっとずっとあとになって、何もかもが過ぎ去ったあとに、ふと思い返すのだとしたら。
◇
部室の隅の戸棚の中に、俺達の書いた『薄明』も並べられる。
これからも俺たちは『薄明』を並べるだろう。
そのたびに、いくらかの注意を要するかもしれない。
その懸念はあるけれど、俺はあまり悲観も心配もしてはいなかった。
いつか、この『薄明』を他の誰かが読むことになるのだろう。
俺たちがそうしたように、いずれ誰かの目に留まるのだろう。
それはべつに、俺達の痕跡になるとまでは言えないだろう。
佐久間茂の『薄明』のような例もあるのだから。
それでもこれを読んだ誰かは、俺達がここにいたのだと想像するのだろうと思う。
誰かがこれを見つけるだろう。
この古い戸棚は化石を隠した地層のように堆積していく。
それはかつて現在だったもの。更に前には未来だったもの。そして今となっては過去になってしまったもの。
これから過去になっていくもの。
俺たちは、そのときちゃんと、誰かにとっての何かになれるだろうか。
そんなことを、俺はときどき考える。
◇
たとえば当たり前に季節が変わり、
船が積荷を載せ替えるように、人々が入れ替わったとしても、
また桜が咲いて、その中で誰かが孤独だったとしても、
あるいは、孤独であるからこそ、誰かが彼女を見つけるだろう。
◇
「もう部活決めた?」
「まだ」
「いろいろあって悩んじゃうよねえ。文化系だっけ?」
「ん。美術部か、写真部か……文芸部にしようかな、と」
「ふうん。なんでその並び?」
「……サボりやすそうだし」
「あはは。文芸部って言えば……この学校の文芸部、変な噂があるんだって」
「噂?」
「なんでも……桜の精霊が……」
「ええ、このご時世にそんな噂?」
「でもなんか、先輩たちが話してるの聞いたんだもん。見える人もいるんだって」
「ふうん……。まさか、信じてる?」
「んー。わたしは自分が見たものしか信じないからなあ」
「友情も愛情も信頼も? 寂しい生き方だね……」
「こら、勝手に人を寂しいやつにするな。そういう意味ではない」
「わかってるよ。……あ」
「ん。どったの」
「校門のところ。誰か立ってる」
「ん?」
「ほら。桜の下……」
「……どこ?」
「え?」
「誰もいないよ……?」
「……そう、なの?」
「うん」
「気のせいかな……」
「……ひょっとして、からかってる?」
「まさか。……早く行こう。移動教室、遅れちゃうよ」
◇
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。
鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。
使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。
境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。
海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。
ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。
またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。
その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。
そこに映る景色には、誰もいない。今はもう誰もいない。
けれどそれは、たぶん絶望ではなかったのではないか。今になって、そんなことを思う。
そこには誰かがいたのかもしれないし、これから現れるのかもしれない。
だからこそ、この絵は、予兆のようでも余韻のようでもあるのかもしれない。
たとえばすべての部品が入れ替わってしまった船があるとしても、
その船を形作ってきた部品たちが、朽ちてしまったとしても、これから朽ちていくとしても、
それは存在しなかったわけではない。
たとえ描いた人間がそう思っていなかったとしても、そういう嘘を、信じてもいいような気がしている。
おしまい
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