【バンドリ】花咲川で花火が咲いた (58)
※強い独自設定があります
地の文があります
報われない話です
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『僕の孤独が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出すに違いない』
冷房の効いた電車に揺られ、私は小説を読んでいた。その冒頭の一文だった。
確かこの作者は随分昔の人だった。晩年は廃屋に籠り、狂人のような生活をしていたらしい、という大学の友人からの聞きかじりの知識が頭の中に浮かぶ。
そうして文字を目で追っていると、電車はやがて私の実家の最寄り駅へと到着した。
駅名を告げる車掌のアナウンスと共に、空気を吐き出す音がして電車の扉が開く。私は読んでいた本を手持ちの小さな鞄にしまい、傍らに置いたキャリーバッグを転がして電車を降りた。
途端に粘つくような重たい湿気を含んだ熱気が身体にまとわりついてくる。
「……夏、ね」
呟いた言葉は発車のベルにかき消された。
私が一人暮らしを始めてから二年目の夏、お盆の時期だった。
花咲川女子学園から進学した国立大学は、私の実家から電車で二時間ほどの場所にある。通えない距離ではない、とは思うけれど、両親は私に一人暮らしを勧めてきた。私はそれに少し悩んでから頷いて、そうしたら妹の日菜が拗ねたように駄々をこねたのを思い出す。
「おねーちゃんと離れたくない! あたしも一人暮らしする!」という言葉はあまりにもあの子らしいと思いつつ「あなたももう十八歳になったんだから、いい加減姉離れしなさい」と私は返した。
その時の心情は呆れが半分、そして嬉しさが半分だった。
あの考えがないとも言える底抜けた明るさに、救われたことも苦しめられたこともあった。今は全部がそれなりに綺麗な思い出として私の中では片付けられている。
さておき、一人暮らしという響きに一抹の寂しさと不安を感じていた私は、その日菜のいつも通りの言葉に安堵したのをよく覚えている。いつでも私の帰る家はここにあるんだ、なんて、口にはしないけど思ったからだ。
そんなことを頭の中に浮かべつつ、駅から実家まで私は歩く。
セミの大合唱。キャリーバッグのタイヤが転がる音。去年もこうして帰省をしたな、と思う。
お盆と正月と春休み。年三回の実家への帰省するたびに、どこか私は大人になったような気分になった。
家事にしろ何にしろ、一人暮らしの中では生活の全てを自分でこなさなければいけない。絵空事のように感じていたそれらを実際にやってみて、母の有難みというものがよく分かった。
特にゴミ出しに洗濯なんかは迷うことが多くあった。でも、料理だけは別だった。
高校二年生の時のお菓子教室と、ロゼリアでのこと。あの時の経験があったから、料理には慣れていた。
ただ、色々と思うところがあって、もうセピア色に染まったかつての自分と彼女のことが頭にもたげては、フライパンを持ちながら思い耽ることもあった。
「あっ、おねーちゃん!」
と、日菜の声が聞こえた。声のした方に振り向くと、パッと表情を輝かせた日菜の姿があった。商店街の近くでまだ実家には遠いけど、珍しいところで会ったものだ。
「日菜……久しぶりね」
毎度のことだけど、こうして何か月かぶりに顔を合わせる妹になんと言葉をかけようか考えてはこんな言葉を投げていた。他人行儀とも取れない言葉であるが、それでも日菜はいつもの笑顔で私に向き合ってくれる。
「そうだね、三月ぶりだね!」
「どこかへ出かけていたの?」
「うん! おねーちゃんが帰ってくるから、お母さんがごちそう作るって言ってね!」言いつつ、日菜はニカッと笑い、両手に下げたスーパーのビニール袋を私に見せる。
「そう。偉いわね」
「もー、あたしも二十歳だよ? そんな子供扱いしないでよ~っ」
とは言っているが、その顔は嬉しそうに綻んでいた。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「言い忘れてたなって。おかえり、おねーちゃん!」
「……ええ。ただいま、日菜」
日菜と並んで実家までたどり着くと、お母さんが優しい笑顔で出迎えてくれた。それにも「ただいま」と少しの照れを含ませた言葉を返した。
それから私の部屋に荷物を運ぶ。大事なものはほぼ全て、一人暮らしのアパートへ持っていっていた。年に三回帰ってくる、十八年の思い出が詰まった部屋は、どこかがらんどうに見える。
それに寂しいという気持ちがないでもないが、そんな時には決まって日菜が明るい声で私に声をかけてきて、色々なことを聞いてくる。
大学でのこと、一人暮らしのこと、ギターのこと。目まぐるしく変わる話題に畳みかけるような質問の嵐。それに相対していると寂しいと思う暇もなかった。もしかしたらそれも日菜の優しさなのかもしれない。
「あ、そうだ! ねぇねぇおねーちゃん、明日お祭りがあるんだ!」
最近のパステルパレットの活動について話したと思ったら、またコロリと話題が変わる。
「お祭りって……花咲川の神社のところ?」
「うん、そこ! 一緒に行こーよ、花火も上がって綺麗だしさ!」
キラキラとした笑顔だった。それに対して私は少しだけ悩んでから、「別にいいわよ」と返した。
「やった! えへへ、おねーちゃんとのデートだ!」
「デートって……まったく、本当にあなたは変わらないわね」
漏れた呟きはまたも呆れ半分、嬉しさ半分だった。
日菜の話す話題のように目まぐるしく変わる日々の中で、この子はいつだって変わらない。それが私に居心地のいい安心感を与えてくれる。
「そういえばおねーちゃん、恋人とかって出来た?」
またも変わった話題に、私は曖昧な笑顔と言葉を返すのみに留めた。
久しぶりの実家で一晩を過ごし、明くる日。
お母さんの気の抜けた朝食を摂り終わってから、私は自分の部屋でぼんやりと物思いに耽っていた。
日菜に誘われたお祭りは夜からで、あの子は昼間はパステルパレットの仕事があると言っていた。それまでは特にやることもない。
ほとんどがらんどうの部屋。大切なものは持って行ったけど、一つだけこの部屋に残したものがある。
手持無沙汰の私はそれに手を伸ばす。高校の三年間、ロゼリアでの二年間を共にしたエレキギターだ。日菜が「掃除した」と言っていた通り、紺色のボディには埃一つ乗っていなかった。
なんとはなしに弦を押さえ、はじく。流石にチューニングは狂っていた。苦笑しながらペグを回す。
音程を合わせたところで、適当なアルペジオを奏でる。アンプには繋いでいないから、頼りない音が室内に反響した。
それを聞きながら、脳裏にロゼリアのメンバーのことを思い浮かべる。
「……解散してからもう二年、ね」
時の早さは歳を重ねるごとに早くなっていくものだ。言葉に聞いていたが、実際に体感してみると本当に早い。
二年前。コンテストを突破して、フューチャーワールドフェスに出場した。
そして、私たちの高校卒業を機に、ロゼリアは解散した。ここでやるべきことは全てやった、という湊さんの言葉が今も耳に残っている。
それから解散のライブを行った日に、最後までいつものクールな表情でいようとして、結局ライブ後に楽屋でボロボロに号泣していた姿も鮮明に思い出せる。……まぁ、湊さんの言葉にならない嗚咽混じりの感謝に私も他のメンバーも泣いていたんだけど。
ともあれ、そんな湊さんは今も変わらず本気で音楽活動に打ち込んでいる。今井さんもそれに寄り添うように、湊さんと同じバンドに所属している。
「とうとうメジャーデビューするんだ」
ロゼリアのメンバーとは未だに連絡を取り合っていて、たまに顔を合わせることもあった。つい最近、今井さんと食事に行ったときにそんな話をして、私はそれを祝福した。
白金さんは音楽大学に進学した。ピアノのコンクールに自ら出場すると決め、そこで入賞を果たした彼女は「わたしも誰かを変えられるような人間になりたい」と言っていた。その方法として選んだのがプロのピアニストだった。
宇田川さんは羽丘女子学園高等部の三年生になっていた。「私、ゲームクリエイターになる!」と言って、今はそういった勉強に打ち込んでいるようだ。一人称も『あこ』から『私』に変わり、出会った頃から考えると随分大人びたな、と、どこか感慨深い気持ちになった。
人生で一番濃いのではないかと思える二年間を共に過ごした大切な親友たちは、それぞれの道を選び、前へ向かって歩いている。
青春と呼ぶに値する輝かしい日々を刻んだ時計は、もうその役目を終えていた。
だからロゼリアは解散した。
未来を選択するというのはそういうことだろう。時には何かを犠牲にして、置き去りにして、人は前へ進む。
では私はどうだろうか。
もう二十歳だ。あまり強くはないけどお酒だって飲める。
それから一人暮らしをしている。
大学で出来た友人に誘われて軽音楽サークルに入り、ギターは続けていた。
だがロゼリア以外のバンドでギターを弾く気にはならない。たまに他のバンドのヘルプでギターを弾くことはあったが、私は専らソロでアコースティックギターの弾き語りをしていた。
嬉しいことに、電車で二時間という少し離れた大学にも、ロゼリアというバンドを知っていてくれる人はたくさんいた。
そういう人たちに自分を褒められるより、親友たちが褒められるのがとても嬉しかった。
……考えてみるとそれだけだ。
何か明確な目的や目標がある訳でもなく、ただ大学に通っているような気がしてならない。
一応将来についての考えはあるにはあるけど、それは突飛なものでも壮大なものでもなんでもない。勉強をして、どこかの会社に就職して生きていくという、誰もが手を伸ばせば届きそうな平凡なものだ。
そう思うと、未だにパステルパレットとして活動して、芸能界の天下を目指しているという日菜の方がよっぽど立派に見える。
だがかつての旧友、ないしは親友に出会うたびに、「やっぱりあなたはしっかり者だね。すごく立派だよ」と言われることが多い。
だからこれはきっと考えすぎなことなんだろう。隣の芝は青く見える、とはよく言ったもので、お互い様の無い物ねだりなのだ。
それはそれでいい。だけど、どうにも一つだけ拭えないしこりが胸中にある。そのことを考え出すと、途端に集中力が乱れ、ギターが突拍子もない音を飛ばす。
「……はぁ」
私は自嘲交じりのため息を吐き出して、ギターをスタンドに戻す。それからどうにも落ち着かない気分になり、お財布とスマートフォンだけを持って部屋を出た。
季節は次々移ろい、街の情景も変わっていく。ずっとこの街で生きているならば気付かない変化も、四ヵ月ごとに帰ってくるとよく目に付くものだ。
三年前の七夕に日菜と雨宿りをした公園もいつの間にかマンションになっていたし、空き地だったと記憶していた場所にコンビニが出来ていたと思えば、ロゼリアの反省会を行ったファミレスもその看板を変えていた。
「……でも、ここは変わらないわね」
小さく口に出す。
茹だる炎天下の中、どこへともなく足を進めていた私は、気付いたら花咲川女子学園に近い商店街の入り口にまで来ていた。
夜にはお祭りがあるからだろう。「祭」とかかれた提灯が至る所に下げられていて、行き交う人々の顔にも明るい活気があった。
商店街の入り口に設けられた門をくぐり、足を踏み入れる。
昔ながらの個人経営店が多く、高校生の頃からその顔ぶれは変わっていなかった。辺りを窺いながら歩を進める。
そして、北沢精肉店を超えた十字路。そこで私は立ちすくむ。
左手にはやまぶきベーカリーがあった。そしてその向かい側には羽沢珈琲店。
何も変わらない、いつも脳裏に思い起こす映像のままの姿だ。
「…………」
だからこそ、私の胸の中のしこりはより大きな存在感を放つ。
どこか救われた気持ちになったお菓子教室のことも、未だに消えない青あざのような青春の思い出も、羽沢さんのことを考えるだけで鮮明に蘇る。
愛だ恋だなんてことは遠い世界のお伽話なんだろう。
高校三年生の、十八歳の私はそんなことを考えていたと思う。
クラスメートたちが「俳優の誰がカッコいい」「アイドルの誰々くんがカッコいい」という話題で盛り上がっていて、私もそういう話題に触れたことがあったが、特に共感を抱けなった記憶がある。
「紗夜さんって、あんまりテレビは見ないんですか?」
そんな私の話を聞いて、羽沢さんは少し首を傾げながら尋ねてきた。
「ええ、まぁ人並み以下でしょうね。テレビを見るのは」
「そうなんですね」
「羽沢さんはどうなんですか?」
「私はドラマとか、ロードショーが放映されてる時は見ますね」
「へぇ……」
羽沢さんの実家、つまり羽沢珈琲店での何でもない一幕だった。
お菓子教室から懇意にさせて頂いている羽沢さんと、雑談をしながら珈琲を飲む。ありふれた日常であって、そして、私はなんとなくずっとこういう関係が続くんだろうとぼんやり思っていた。
「今やっているドラマで、何か面白い物はありますか?」
そう尋ねた私に、羽沢さんは少し考える仕草をしてから応える。
「そうですね……途中からだとちょっと分かりにくいかもしれないですけど」
と前置きしてから、あるドラマの名前を口にした。なるほど、確かにあまりテレビを見ない私でも聞いたことがある名前のドラマだった。確か青春の恋愛物、と銘打たれていたものだ。
「少し興味が沸いたので、私も見てみますね」
「あ、ホントですか?」
羽沢さんの表情が嬉しそうに綻ぶ。それに胸がくすぐられる思いがした。
「そんなに喜ぶことですか?」
「はい。アフターグロウだとみんなあんまりそういうドラマって見なくて……ひまりちゃんはよく見るんですけどね。ただ、どうしても『誰々がカッコいい』とかそういう話がメインになっちゃうんですよ」
「羽沢さんもそういう風に思うことがあるんですか?」
「え? いや、えぇと、私は……」
もごもごと口ごもり、少し照れたような表情をする羽沢さんに、寂しさに似た感情を抱いた。
「……あまり思わないみたいね」
それを誤魔化すように、私は口を開く。
「ええ、まぁ。どちらかというとドラマのストーリーとか、そういうことを話したいですね。前に話したと思いますけど、アフターグロウのみんなと漫画を書いてから、そういうのに注目するようになりましたし」
「分かりました。では、羽沢さんの満足する話し相手になれるようにしっかり見てみます」
「も、もう、紗夜さんってば……」
冗談めかした私の言葉に、羽沢さんはちょっと照れたような表情で返事をくれた。
思い返せばそれは何ともない友達同士のやり取りであって、特筆すべきこともないありふれた会話だ。ただ、どうしても私の胸はそういう思い出にキュッと締め付けられる。
その時の私は深いことは何も考えなかった。こういう関係がずっと続くんだと思っていた。
羽沢さんと、人の少なくなった夕暮れのお店で話をする。
笑い合える喜びを感じて、それはまたロゼリアの親友たちとは違った心地よさで、きっと羽沢さんも同じように感じてくれていて、また明日、ないしはまた今度と手を振って別れを告げる。
そんな日々がずっと続くと思っていた。
だが、時は流れるし、季節は次々巡る。移ろう季節に留まることは出来ない。知っていたけど、分かっていなかった。
街の情景も変わり、流行りの歌も変わった。
ロゼリアも変わった。フューチャーワールドフェスに出て、解散した。
それぞれがそれぞれの不安を抱えて、それぞれがそれぞれの未来を選び、新しい一歩を踏み出した。
私は担任の先生に勧められた国立大学合格を目指し、必死に勉強をした。
そして羽沢さんと会う時間も減っていった。
最後に他愛のない話をしたのはいつだったろうか。そう考えるころには私は大学に合格して、一人暮らしをしていた。
それもまた何てことない日常の一幕だろう。進学、就職して、かつての友人と疎遠になる。日本中のどこにでもある風景だ。
それなりに頻繁なメッセージのやり取りをしていたのも、一年前までだ。徐々にその回数も減っていき、最後にメッセージを送ったのは半年前にまで遡る。
いつまでも続くと思った関係も、気付けば霧散していて、後に残されたのは私の胸の拭い難いしこりだけだった。
私はまだ、未練がましい思いを抱えている。
それがどういう思いなのか。どんな形をしたものなのか。分かりそうだけど、分からない。いや、きっと分かりたくないのだと思う。
だから私は新たな一歩を踏み出せなかった。この気持ちを私自身が肯定したとして、羽沢さんに否定されたら……そう考えるだけで足がすくみ、私は動けなくなる。
ならばいっそ全部を忘れて消し去ってしまえばいい。そう思うが、温かい思い出は消えてくれないし、ワガママを言えば消したくない。
やがてその温かな思い出は私の胸を締め付けるようになった。消せないしこりとなって、眠れない夜にその刃先を私に突き立てる。
『そういえばおねーちゃん、恋人とかって出来た?』
その言葉に曖昧な笑顔と言葉しか返せなかったのは、つまりそういうことなんだろう。
だからこそ、私は羽沢珈琲店を目にして、立ちすくんでしまうのだった。
「あれ、紗夜先輩?」
声をかけられた。私は脳裏に浮かべていた物思いを消して、声のした方へ顔を動かす。
「ああ、やっぱりそうだ。お久しぶりです」
「あなたは……山吹さん」
「どうも、こんにちは」
声の主――山吹さんは、『やまぶきベーカリー』と印字された白いエプロンを付けて、髪型をポニーテールにまとめていた。そしてニコリと優しい笑顔を浮かべる。
「こんにちは。それとお久しぶり、ですね」
「花女を卒業して以来ですね。確か、紗夜先輩ってちょっと遠くの大学に進学したんですよね?」
「ええ。今は帰省中ですが。よく知っていますね」
「つぐみが前に話してたんで」
その言葉が胸にチクリと刺さる。それから目を逸らすように私は話題を変える。
「山吹さんは……」
「ああ、私は実家の手伝いですよ。卒業してからはもうずっとですね」
「そうだったの……。もう働いてるなんて、立派ね」
「いやいや、そんなことないですよ。学生のころからずっとやってることですから」
そう言う山吹さんの顔は、いつかの思い出よりずっと大人びて見えた。きっと私が想像するよりも多くの苦労を重ねているのだろう。
「ポッピンパーティーのみなさんは元気ですか?」
その心情を思いやって、という訳ではないが、このまま別れるのも少し寂しい気がしてしまい、私はそんな言葉を山吹さんにかける。
「元気ですよ。大学に進学しましたけど、みんな休みの日とかはウチのパンを買いに来てくれますし。ああ、それと私をよく心配してくれますね」
「心配?」
「はい。『沙綾はいつも頑張り過ぎちゃうから、しっかり休んでね?』って。みーんな同じこと言うからちょっとおかしいですよね」
そう語る山吹さんの顔には、少しの寂しさと、大きな嬉しさが混じっているように見えた。
「いい友人たちね」
「はい。ほんと、私にはもったいないくらいの素敵な友達だと思います」
照れるでもなく、友人を褒められたことが誇らしいというように、山吹さんは笑う。その笑顔がとても眩しかった。
「バンドはもう?」
「ええ、どうしてもこっちが優先ですから」と、自分のエプロンに印字された『やまぶきベーカリー』の文字を指さした。「紗夜先輩はどうなんですか?」
「私は、そうね。ロゼリア以外でギターを奏でる気にはなれない、というところかしらね。……山吹さんから見たら贅沢なことかもしれないけれど」
「いえいえ。それだけ紗夜先輩にとってロゼリアが大切な場所だってことですよ。私もまたバンドをやるなら、ポピパのみんなとじゃなきゃヤだって思いますもん」
また笑ってから、山吹さんはハッとした表情をする。
「いっけない、お父さんに買い出し頼まれてたんだった」
「そうだったんですか。話し込んでしまってすみません」
「いいえ、こちらこそ。紗夜先輩はしばらくこっちにいるんですか?」
「ええ。八月いっぱいは実家に」
「なるほど。そしたら、夏は冷たいフルーツを乗せたパンもありますから、是非ウチのパンをご贔屓に」
少し冗談めかした口調だったから、露骨な宣伝に嫌味はまったく感じなかった。私はフッと笑って言葉を返す。
「今度、寄らせていただきます」
「えへへ、ありがとうございます。それじゃあまた」
「はい。お仕事、頑張って下さいね」
「ありがとうございます」
礼儀正しく一礼してから、山吹さんは私に背を向けて足を踏み出す。その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。それから胸中になんとも言えない気持ちが渦巻く。
私は頭を振り、踵を返して商店街を後にした。
気が付けばもう二十歳だ。いつまでも思い出に縋っている訳にはいかない。
そうは思うものの、変わっていく街の景色に抗うように、私は真空パックに保存されたとある夏の情景をよく思い起こす。
花火が咲いていた。人通りの多い神社の参道で、ほとんどすべての人が色鮮やかな夜空の花に見惚れていた。私も、そして羽沢さんもそのうちの一人だった。
お祭りに行こう。そう言いだしたのはどちらからだったか。それは覚えていないけれど、色々な屋台を回ったこと、そして、夜空を見上げる彼女と私の距離だけはいつでも鮮明に、記憶の中から掘り起こせる。
拳一つ分の距離。
手を動かすだけで届く距離。
彼女の淡い水色を基調にした浴衣の色。
花火に見惚れる横顔。
雑踏の喧騒。
お腹の底まで響く轟音。
そして、いつまでも愚かしい希望に縋り続ける自分。
別れ際の言葉は、確か『また今度』だった。その『また今度』は未だに来ていない。
それが二人で出かけた最後の思い出だった。
だからこそ私は日菜に「お祭りへ行こう」と誘われた時に悩んでしまった。今でも目を瞑れば容易に思い出せるそれが、何かに上書きされて見えなくなってしまうのではないだろうか、と。
だけど、考えてみればその方がいいのだ。
昔に聞いたある古い歌。その歌詞の通りだろう。私たちの間には長い、大きな川が横たわっている。時間という名前の川だ。
私たちの別れは最初から決まっていた。出会いがあったからには、いずれ別れがあって当然だ。そんなことに二十歳にもなって気付けないはずがない。
そう思い、私は日菜の誘いに頷いたのだった。
「えっへっへ~、花火、楽しみだね」
その日菜と並び、私たちは神社を目指していた。夏の長い陽はもう陰っている。神社に着くころには完全に夜の情景が広がることだろう。
「そうね」
私は日菜に相づちを返しながら、辺りをキョロキョロと見回し、何かを探してしまっている。同じ方向へ歩を進める人影。その中に見知った顔はないだろうか、と。
「あたし、かき氷が食べたいな~」
その無意識の行動は日菜が言葉を口にするまで行っていた。小さくため息を吐き出して、日菜の方へ顔を向ける。
「あなた、家でもアイスばかり食べてたじゃない。お腹壊すわよ」
「大丈夫大丈夫! あたしだってもう子供じゃないんだから!」
そう言って笑う顔は昔から寸分違わないじゃないか、と思ってしまうのは私がこの子の姉だからだろうか。
「……日菜はいつまでも日菜ね」
「うん! あたしはいつでもあたしだよ!」
「そうね」
漏らした呟きにも嬉しそうに日菜は反応する。私はそれに適当な相づちを返した。
「おねーちゃんも、いつまでもおねーちゃんだよ!」
「そうかしら? 私は結構変わったと思うけど」
まるで『いつまでも過去の思い出に固執している』と言われたようで、そんな言葉を返す。
「んーん、そんなことないよ。おねーちゃんは昔も今も、おねーちゃんだよ」
「……そう。日菜がそう言うのならそうなのかもしれないわね」
「うん! 優しくて立派で、頼りになるおねーちゃん!」
ニカッと輝いた笑顔を見せる日菜に、ちょっと考えてから「ありがとう」と短く言った。
日菜はいつまでも日菜だ。ことさら強く思ったのはもうそろそろ花火が上がるだろうという時だった。
人でごったがえす神社の境内。
次から次へと屋台を移ろい、あれもこれもと目を輝かせているあの子の姿が、不意に雑踏の中に消えた。少し辺りを探してみたが、その姿は一向に見つかる気がしなかった。
「どの口が『もう子供じゃない』なんて言うのよ……」
愚痴を漏らしつつ、私は日菜とはぐれたであろう場所から動かないようにする。
未だに落ち着きがないとはいえ、賢明なあの子のことだ。私がいないことに気付けば、きっと同じように私とはぐれたであろう場所まで足を運んでくれるだろう。
この場から動けなくなってしまった私は、行き交う人々を眺める。そのうち、一組の男女に目がついた。
高校生だろうか。女の子は黄色い浴衣、男の子は紺色の浴衣を着ていた。手と手が触れ合うかどうかの距離を開けて、並んで歩くその姿を目で追う。
男の子が何かを女の子に語りかけ、そして二人は同時にはにかんでいた。
初々しい距離感と表情だった。きっと、どちらかが勇気を出してこのお祭りに誘ったんだろう。
ただなんとなく、あの二人の行く先に多くの幸せがありますようにと願う。
それから「私みたいにはなりませんように」と、ある種の傲慢な願いまでかけたところで、私はなんとも言えない虚無感に襲われた。
いつでも思い出せる夏の情景の一幕と、その少年少女の影がぴったり重なる。
つまりはそういうこと。それで片づけた気持ちの名前をまざまざと目の前に突き付けられたような気分だ。
私にとっての幸せとは、つまり羽沢さんのことだった。
いつまでも消えない青あざのような青春の思い出。それを愛しく思うのは、彼女のことが好きだからだ。
友達とか、親友とか、恩人とか、そういうことでない。
有り体も世間体もなく言ってしまえば、一人の人間として、私は彼女を愛していた。
だから、忘れてしまいそうなありふれた小さな出来事の一つ一つが、心の中にいつまでも張り付いている。
羽沢さんはいつも眩しかった。私はその眩い火影に群がる虫のようなものだった。
何も変わらずにいつまでも続くと思った関係が、いつか変わるんじゃないかと期待していた。期待して、ただ立っているだけだった。行動を起こすでもなく、ただ、羽沢さんが近くに来てくれないかと待っているだけ。
変わることを期待して、そして同時にそれを恐れていた私の元にやってきたのは「疎遠」という関係だ。瞼の裏に描く夏の情景では届いたそれも、今ではもうどんなに手を伸ばしたって届かない。
それに鬱屈とした思いと、逆に振り切れたような思いがない交ぜになる。
こうまでしないと気持ちに向き合えないほど臆病な自分に嫌気がさして、こうまでしてやっと向き合えた自分の気持ちにどこか晴々とした感情になる。
「もしもあなたに出会えることがあるなら」
呟いた言葉の続きはなんとしようか。俯いて、自分の気持ちの中から色々な言葉を取り出しては呟きの後ろに付けたし、捨てていく。
「……紗夜、さん?」
何個目かの言葉を道端に捨てたところで、小さな声が聞こえた。ともすれば喧騒に紛れて消えていきそうなか細い声だったけど、それは強かに私の鼓膜を打つ。
勢いに任せて振り向きそうになるのを堪えて、少しだけ間を置いてから、ゆっくりと顔を動かす。
視線の先には羽沢さんがいた。
熱心な宗教家でもない私は神様という存在には懐疑的ではあるけれど、もし神様が本当にいるとしたら、なんてタイミングで私と彼女を引き合わせるのだろうか。きっと神様というのは生粋のサディストか性悪なんだろう。
二年ぶりに顔を合わせた羽沢さんに返したのは「久しぶりですね」という言葉だけだった。それを受けて、彼女も同じような言葉を返してくる。
それから羽沢さんの様子を窺う。
彼女は私の中の記憶に比べ、幾分か髪が長くなっていた。首元までのショートカットだった髪も、今で肩にかかるくらいまで伸ばされていた。化粧っ気のなかったあどけない顔もどこか大人びていて、やっぱり羽沢さんも羽沢さんで変わっているのだな、と思う。
ただ、その中でも淡い青色をした浴衣だけは、あの日と変わらないものだった。それに少しの嬉しさと、大きな寂しさが胸中でない交ぜになる。
「羽沢さんも、花火を見に来たんですか?」
しばらく無言で向き合ってから、私は言葉を吐き出す。
「ええ、はい。紗夜さんもですか?」
「日菜に誘われまして」
「そうなんですね」
「はい。羽沢さんは……アフターグロウのみなさんと、ですか?」
「私は、えぇと……」
言い淀んだ羽沢さんの後ろから、一人の男性が近づいてくるのが見えた。その男性は、羽沢さんに声をかける。
「ああ、ここにいたんですね。探しましたよ」
「あ、うん。ごめんね、はぐれちゃって」
優しそうで、誠実そうな青年だった。柔和な目元がやけに印象的だ。歳は同じか、少し下、だろうか。羽沢さんが丁寧な言葉遣いをしない辺り、きっとそうなのだろう。
そんな分析をしながら、「ああ」と、諦観とも後悔ともつかない気持ちになった。
「あれ、そちらの方は……」と彼が言う。
「どうも。氷川紗夜と申します。羽沢さんの……友達ですよ」
旧友というべきかなんというべきか。少しだけ迷い、私はただ「友達」と言う。それに胸が少しだけジクりと痛んだ。
「ああ、あなたが噂の」
「……噂ですか?」
「いえ、よく話を聞いていたので」
「話?」
言いつつ、チラリと羽沢さんに目をやる。彼女は少し居心地悪そうな顔をしていた。
「ええ。つぐみさんがよく、あなたのことを話してくれるんですよ」
「……そう、なんですね」
その言葉にやはり私は、嬉しさと寂しさと、後悔と諦観の織り交ざった気持ちなる。
「そ、それは今はいいでしょ、もう」
羽沢さんは彼に対してちょっと怒ったような口調で声をかける。それが見せかけだけのものだと分かっているのだろう。彼は「ごめんごめん」と笑いながら謝っていた。
その二人の様子を見つめ、私は自分の気持ちの落としどころをようやく見つけられたような気がした。
羽沢さんが冗談めかして怒る仕草を見せられる、懇意の人。私がついぞ呼ぶことが出来なかった「つぐみさん」という名前をいとも簡単に口にする男性。
つまり、そういうことなんだろう。
それが軽薄そうな印象の男性であれば私にも思うところがあるけれど、見るからに彼は真面目そうで、到底、私の気持ちなどかなうはずがない。
真夏の太陽に揺らめいた蜃気楼のような幻影をいつまでも追い続けていたのは、きっと希望があったから。万が一にも、もしかしたら。そういう希望が。
だがそれももう終わりだ。
残酷な現実というものは、時に優しく、いつまでもウジウジとしている私の頬を打ってくれる。
もういい加減、あなたも前に進みなさい。そんな言葉と共に。
「すみません、デートのお邪魔でしたね」
冗談めかした言葉が口から出る。それにどこか懐かしい気持ちになった。その気持ちのまま、いつも頭の中で反芻していた記憶の話題を持ち出す。
「ドラマの話ではありませんが、羽沢さんは、こういう男性がタイプだったんですね」
「えぇと、その……」
羽沢さんはその言葉に照れたような、なんといえばいいか分からない表情をしていた。
当たり前か。いきなりそう言われたって、これがあの日の羽沢珈琲店での話題の続きだとは思わないだろう。
「あ、あはは……」
羽沢さんの隣に立つ男性も照れたような笑顔を浮かべていた。
それに少しだけ微笑ましい気持ちになる。
そういえば日菜とはぐれていたんだ、と今さら思い出す。本当はここで留まっていた方がいいのだけど、そんな強さを私は持ち合わせていない。
「私ははぐれてしまった日菜を探しますので、ここで失礼します」
「っ、紗夜さん、その、――――?」
言いかけた羽沢さんの言葉を、ドン、という花火の音がかき消した。口が動いているのが見えたけど、その言葉が何かは分からなかった。
次々に花火が打ちあがる。周りの人たちがみな、夜空へ目を移す。
羽沢さんの、恐らく彼氏さんも夜空に目を移す。
私はあの時のように花火の光に照らされた羽沢さんを見つめていて、羽沢さんも私から目を逸らさなかった。
「……ありがとうございました、羽沢さん」
夜空に花火が舞い上がる。
『もしもあなたに出会えることがあるなら、感謝を伝えたい』
それに付け足した言葉は、花火の轟音にかき消された。もしかしたら聞こえていないかもしれない。でも、届かなくてもいいと思った。
「え?」
「いえ。なんでもありません」
聞き返されたけれど、私はそう言って首を横に振った。それから、少し息を大きく吸って、続きの言葉を吐き出す。
「それでは」
万感の、などと言うつもりはないが、色々な気持ちを込めた短い言葉だった。
私は羽沢さんと、その彼氏さんに小さく手を振り、二人に背を向ける。
決して振り返らない。そう強く思って足を動かす。振り返ればきっとまた、私は未練を引きずってしまうだろう。
私がずっと欲しかったのは、羽沢さんの笑顔だけだった。在りし日の記憶にあるその笑顔すべてが、もし今も私の隣にあったのなら。それだけで私はどこまで歩いて行けただろう。
そう思うからこそ振り返ってはいけない。いい加減、私は一人でも前に進まなければいけない。
ドンと、轟音が空気を震わせる。
花咲川で花火が咲いた。その真下で、出会いと別れがあった。
これはそれだけの話だ。
私を肯定してくれたことに、手を差し伸べてくれたことに、笑顔をくれたことに……羽沢さんがくれた全てのことに、言うべきことをもう言った。
あとは終止符を打つだけだ。
思い出に浮かべ続けた、ちぐはぐでおかしな、身勝手な私の恋心に。
「さようなら、羽沢さん」
二年越しの『また今度』に対して、私は別れを告げる。
一筋だけ頬に温かいものが伝った。懐かしい匂いのする夏の夜風が、それをさらりと撫でていった。
――――――――――――
たられば、という言葉がこの世の中にあるのは、もしもあの時こうすれば、ああすれば、と思う人がたくさんいるからだと思う。
かくいう私もきっとその一人だ。
高校を卒業して、大学に進学して、幼馴染のみんなとは変わらずにいつも通りでいて、少しだけ大切な人が出来た。
世間一般では取るに足らないありきたりなことで、私にとってはとても大切な日々だ。
でも、その中で一つだけ、ぽっかりと穴が開いた場所がある。
それは三年前の出来事であり、二年前の出来事だった。
甘いお菓子と夏の緑の匂い。二つの思い出と、そこにある人影が私の心の中にずっとひっかかっている。
もしあの時にこうしていれば、ああしていれば。今もあの人とは仲良しなままで、昔によく話をしていた時よりも親密な関係になれたのかもしれない。
一言で表すのなら、その気持ちはきっと「憧れ」だろう。
常に前を向いて、ひたむきに、真摯に進んでいく姿に私は憧れていた。
カッコよさと強さを感じて、私もこうなりたい、その輝きの近くにいたい、と常に思っていた。
ただ、その眩いばかりの輝きに自分の影だけが強くなっているのを実感していた。
半ば、諦めていた。あの人の傍にいれるほど、私は強くもカッコよくもない人間だ。
段々と少なくなっていったメッセージのやり取りを眺めながら、あの日の『また今度』が明日にでも来ないだろうか、と思う日々がずっと続いていた。
彼に出会ったのは、あの人とのメッセージのやり取りが途絶えてから三ヵ月ほど経った頃だった。
同じ大学の同じ学部の人で、柔和な目元がどこかあの人のことを連想させた。
話をするようになったきっかけはほんの些細なことだったけど、それからはどんどんあの人に似ているな、と思うようになった。
そしてそんな自分が嫌いになった。
私は、彼とあの人とを重ねて見ている。二人に対して失礼で、最低なことだ。
それでもそう思うことは止められなかった。ふと彼を目で追うようになった。
そして、羽沢珈琲店にやってきた彼に想いを告白されたのは、一ヵ月前のことだった。
告白をされたのは初めてのことだから、というのと別の部分で私の思考は固まった。
なんて返せばいいのだろう、どうすればいいのだろう。そう思うより強く、こんな時にでも私はあの人と彼とを重ねて見てしまっていた。
自分は嫌な人間だとつくづく思う。
私は正直にそのことを彼に話した。
「私の憧れていた人がいて、その人とあなたを重ねて見てしまう」
彼はそれで構わないと言った。そして、正直にそう言ってくれて嬉しいとも言った。
「じゃあ、友達からならどうですか?」
同い年なのにいつも丁寧な言葉で話す彼は、いつもと変わらない様子でそう続けた。
私はそれに頷いた。そしてまた自己嫌悪した。
体のいい言葉で取り繕ったって、これは失礼なことに変わりがない。
そう話した私の声を聞いて、それでもその人は笑った。
「そんな優しいあなただから、僕は好きになったんです」
と、まっすぐに伝えてきた。
叶わない幻想をずっと追い求めるのは辛いことだ。
彼に告白され、そして以前よりも親しく話すようになってから、私はそんなことを考えるようになった。
あの人に対する叶わぬ想いが完全になくなった訳ではないけれど、それでもそのことを考えて、眠れない夜を過ごすことはずっと少なくなった。
私の人生と、あの人の人生。二つに並んでいた道が、たまたま、高校生の一時期にだけ重なった。それだけの話なんだと思うようになった。
…………。
それが無理をした割り切りなんだと気付いたのは、お店からあの人の姿が見えたからだった。
商店街の十字路で、お隣の沙綾ちゃんと話をしている姿が目の端に引っかかる。
気付くと、私はバイト中だというのに、羽沢珈琲店の窓からその姿をただジッと見つめてしまっていた。
あの人は何も変わっていなかった。少しだけ背が伸びて、やや大人びた雰囲気をまとっていたけど、私が何度も頭の中でなぞった思い出のままの姿でいてくれた。
……いや、いてくれた、は自分勝手な考えか。
きっと、眩いばかりのあの人にとって、私という存在は路傍の石のようなものだろう。
過ごした時間の密度ではロゼリアのみなさんには到底敵わないし、単純な長さだって日菜先輩の足元にも及ばない。
それでもあの人が思い出の姿と変わらない姿でいてくれたことが嬉しかった。
もっと贅沢を言えば、あの人の中に私のことを何か一つでも残せていたら、それはとても幸せなことだった。
やがて、沙綾ちゃんがお辞儀をしてあの人から離れていく。
こっちに来ないかな、と少しだけ期待をしたけど、あの人は沙綾ちゃんを見送ってから、踵を返してウチから離れていった。それに「当たり前か」と思いながら少しだけ落ち込んだ。
そして自分の中で割り切ったと思っていたことが全然割り切れていないんだと気付いた。
こんな気持ちのままで彼に合わせる顔がない。
……触れないのなら、悩まされるだけなら、いっそ私の頭から消えてください。
そう思ってしまった自分に心底嫌気がさした。
私の記憶の中に、今でも鮮明に残る出来事があった。それは二年前のお祭りのことだった。
あの人と二人で花火を眺め、笑い合った、最後の思い出。交わし合った『また今度』は未だに訪れない。
もしもあの時、並んで家路を辿る時に何かをしていたなら。手を伸ばして、みっともないくらいに縋ってみせたら。
いや、そんなに大胆なことじゃなくてもいいはずだ。
勉強の迷惑になるかもしれないから、忙しいかもしれないから、そんな理屈で控えたメッセージを、もっと素直に送っていたら。
そうすれば、あの人と私は疎遠になることはなかっただろう。
つまるところ、私はいつも勇気がないだけだった。あの人に嫌われたくない。その思いが二の足を踏ませた。
たられば。本来なら起こるはずがないことだ。
だからこそ気軽に思う。あの時こうすれば、ああすれば。
でも、実際にそれが起こった時は、どうすればいいのか分からなかくなってしまうものだ。
彼と訪れた花咲川の花火大会。
神社の境内で、あの日の浴衣を着て、いつかの夏の記憶に誘われるように彼とはぐれてしまった私は、その姿を目の前にして、ただ口からあの人の名前をこぼすだけだった。
「……紗夜、さん?」
呼びかけたわけではなく、ただ偶然目の前に見つけてしまい、口から零れ出た頼りのない響き。
しかしどうであろう、それはあの人の――何度もその隣に立てればな、なんてどうしようもない夢想を並べた、紗夜さんの耳には届いたようだった。
ゆっくりとこちらへ視線が動く。あの日のまま、変わらない双眸が私を射抜く。
そして二年ぶりに顔を合わせた私に、紗夜さんは「久しぶりですね」と、優しい声で話しかけてくれた。
私はそれに同じような言葉を返して、他愛のない話をする。
そうしているうちに、彼がやってきて、私に声をかけた。
紗夜さんは彼を見て、少しだけ驚いたような顔をしたあと、寂しげに微笑んだ。それに私は胸を貫かれたような気がした。
そんな私を置いて、彼と紗夜さんが言葉を交わしていた。
「いえ、よく話を聞いていたので」
「話?」
と、彼はいつもの優しい顔で、紗夜さんは少しきょとんとした顔で私を見る。それにどうしようもない焦りというか、なにか取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちになって、落ち着かなかった。
「ええ。つぐみさんがよく、あなたのことを話してくれるんですよ」
「……そう、なんですね」
「そ、それは今はいいでしょ、もう」
「ごめんごめん」
言いつつ、チラリと紗夜さんを窺うと、紗夜さんは何か納得がいった風に一つ頷いていた。
「すみません、デートのお邪魔でしたね」
それから冗談めかした言葉が私の耳を打つ。その響きに涙が出そうになる。いつかは手を伸ばせばすぐに届いたそれが、今はどんなに手を伸ばしても届かないほど遠くに感じられた。
「ドラマの話ではありませんが、羽沢さんは、こういう男性がタイプだったんですね」
その話を聞いて、声の調子を聞いて、私の胸の中はとうとうごちゃごちゃに散らかってしまう。
それは確か、いつかにあった何でもない羽沢珈琲店での一幕の話題だった。
本当に些細なことだったけど、私の中では特別に分類されることだ。それを紗夜さんは覚えていてくれた。憧れていた存在の中に、私の居場所があったんだ。
そう思うと、嬉しさと切なさとが胸中で一斉に騒ぎ立て、私はなんて言葉を返せばいいのか分からなくなってしまった。
「私ははぐれてしまった日菜を探しますので、ここで失礼します」
そんな私と、照れたように笑う彼を交互に見て、優しく微笑んだ紗夜さんはそんな言葉を紡ぐ。
私はそれに何かを言わなきゃいけない気がして、散らかった胸中と思考を整理して、声を絞り出す。
「っ、紗夜さん、その、またこうして会えますか?」
吐き出した言葉は、狡くて汚いものだった。
憧れの人と、こんな私を好きだと言ってくれた優しい人の気持ちを天秤にかける、嫌な人間の言葉だった。届いてはいけない言葉だった。
その言葉は打ち上げられた花火が消してくれた。同時に、もうきっと、紗夜さんとこうして話すことはないのかもしれないな、と他人事みたいに思った。
次々に花火が打ちあがる。周りの人たちがみんな、夜空へ目を移す。
彼も夜空に目を移す。
私はあの時のように花火の光に照らされた紗夜さんを見つめていて、紗夜さんも私から目を逸らさなかった。
「……――――、羽沢さん」
夜空に花火が舞い上がる。
紗夜さんの口から紡がれた言葉はその轟音にかき消されて、私の耳には届かなかった。
ただ、いつもの――いつも、何度も、ずっと、私が思い出の中で浮かべた優しい眼差しで、いつかの夏の情景と変わらないままで、私のことを見つめてくれていた。
「え?」
「いえ。なんでもありません」
聞き返したけど、紗夜さんは小さく首を横に振る。それから少しだけ大きく息を吸って、続きの言葉を吐き出した。
「それでは」
短い言葉だった。まるで、今生さらばと結ぶ別れの手紙みたいだった。その言葉の後ろに『また今度』は続かない。
紗夜さんは私と彼に小さく手を振って、背を向ける。
ゆっくりとその後ろ姿が遠ざかっていく。
私は――鈍くて、本当にどうしようもなく嫌な人間の私は、そうなってからやっと気付いた。
私が本当に欲しかったのは、紗夜さんの笑顔だけだった。いつかの記憶にあるその笑顔すべてが、もし今も私の隣にあったのなら。それだけで私はどこまで歩いて行けるだろう。
呼び止めたかった。でも、呼び止めてどうするんだ。今になってそんな気持ちを見つけて、彼の気持ちも踏みにじって、それでどうするというんだ。
たらればの話が頭に浮かぶ。
もしも紗夜さんが足を止めてくれたら。振り返ってくれれば。私はきっと、自分の気持ちに素直になってしまうだろう。
だけど、私なんかよりもずっと強くて、昔から変わらない憧れの紗夜さんは、きっと振り返らない。そんな確信があった。
そう思った通りに、紗夜さんは一度も振り返ることはなかった。後ろ姿は雑踏に紛れ、やがて見えなくなった。
『私のことは忘れてください。そして、前へ進んでください』と、優しい声で諭された様な気がする。
だからきっと、もうあの日の二人には戻れないんだ。
ドンと、轟音が空気を震わせた。
花咲川で花火が咲いた。その真下で、出会いと別れがあった。
これはそれだけの話なんだろう。
紗夜さんと笑った季節が終わりを告げて、次の新しい季節がやってくる。
ただ……それだけの話。
私の頬に涙が伝っていた。だから、きっとこれで良かったんだろう。
忘れた思い出に泣いたりなんてしない。過ぎない時間に泣いたりなんてしない。
一つを選ぶということは一つを捨てるということで、別れが辛いのは、何物にも代えられない大切な思い出があったからだ。
「さようなら、紗夜さん」
二年越しの『また今度』。それと、気付くには遅すぎた私の初恋へ、別れを告げる。
紗夜さんの残り香を掬って、夏の風が夜空へ吹き抜けていった。
――――――――――――
「それはまた別のお話、ね……」
「どうしたんですか、紗夜さん?」
「いえ、昨日見ていたドラマのラストにそんなテロップが流れたので、なんとなく」
「あ、あのドラマですか」
「ええ。個人的なことなのだけど、ああやって視聴者にその後の話を丸投げするのはあまり好きではないのよ」
「そうですか?」
「つぐみさんはそう思いませんか?」
「私は、なんていいますか、その後のことを考える余地があって素敵だなって思います」
「……まぁ、言われてみれば」
「例えば、悲しいお話の終わりの最後に、『彼らの行く先に幸福が訪れるのは、また別のお話』って言ってくれれば、ああよかった、この人たちも報われるんだなって思いますし」
「やっぱりつぐみさんは優しいわね」
「い、いえいえ、そんなことないですよ。でも、暗い話よりかは明るい話の方がいいじゃないですか」
「ええ。確かに物語の終わりはハッピーエンドの方が好ましいわ」
「ですよね! だから、それはまた別のお話っていう終わり方、私は好きですよ」
「つぐみさんにそう言われると、私もそれがいいかと思えるようになるわね。ですが、こういう終わり方だったらどうします?」
「え?」
「幸せに思えた二人にも苦難が訪れて、やがて別れの憂き目にあうことになるのはまた別のお話」
「えっ、えぇーっと、そうですね……うーん……」
「……ふっ、ふふ」
「あーっ! 紗夜さん、もしかしてからかっただけですか!?」
「ふふ……ごめんなさい、つい」
「どうして笑うんですか!?」
「真面目に考えるつぐみさんがおかしくて、ふふふ……」
「もう……紗夜さんなんて知りません!」
「謝るので、機嫌を……ふふ、直してください」
「笑わなくなるまで許しませんっ。……ふふふ」
「そういうつぐみさんも笑っているじゃないの」
「これは……私はいいんです! とにかく、私は許しませんからねっ」
「それは困りますね……分かりました。では、今度一緒に映画を見に行かないかしら?」
「……映画ですか?」
「ええ。日菜に勧められた、白鷺さんが主演の映画で……」
「あ、いいですね! 私もそれ、気になってたんです!」
「決まり、ね。これで機嫌を直してくれませんか?」
「…………」
「駄目かしら」
「映画館まで、手を繋いでいってくれるなら」
「それくらいでしたら、いつでも」
「それなら許します。えへへ、楽しみですね、映画」
「ええ、そうね」
「優しい紗夜さん、私は大好きです」
「私も、優しくて可愛いあなたのことが大好きよ」
「かっ、可愛いだなんて、そんなこと……」
「ふふ……」
……それはどこかにあったかもしれない、たらればのお話
おわり
紗夜さんとつぐみさんが好きな方、誠に申し訳ありませんでした。
HTML化依頼出してきます。
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