【DDLC】Sayonara. (18)
・Doki Doki Literature Club! のSSです。
・ネタバレ・陰惨な描写があるので閲覧注意。
昨晩から、サヨリのことが気にかかっていた。抱きしめられたときの腕の感触と震えた声が、別れてからもときどき彼のなかで反響した。
翌朝の午前七時、彼はいつもどおり目を覚ました。夜中はうまく寝付けなかったせいか、起きるときにじくじくと背骨が痛んだ。
朝食を食べながら、陽射しが降りそそぐ窓の外をながめた。雲ひとつない青空が輝いている。
自然と、昨日のサヨリの言葉を思い出した。
『この瞬間が一番幸せだとずっと思っていたのに。なのにどうして……それでも雨雲は消えてくれないの?』
彼女の言った雨雲という言葉が、頭の隅でよぎっては引っかかるを繰り返した。それから彼は空にかかる雨雲を想像した。
黒い靄で太陽の光を遮り、薄暗い影と雨しか残さない。雨雲の下にいる人間の髪は雨で冷たく濡れる。
サヨリは重い鬱病を抱えていた。彼女とは幼馴染だった彼さえも、告白されるまでそのことを知らなかった。
その気になれば、思い当たる瞬間はいくらでもあるはずだった。
サヨリはいつも寝坊して学校に遅刻する。ベッドから起き上がる理由を見つけられないから。サヨリは彼に気にかけられることを嫌う。自分のために使われる努力はまったくの無駄だと思っているから。サヨリは彼の幸せを必死に願っている。自分は完璧に無価値な存在だと思っているから。
サヨリにとって、文芸部員たちを和ませたり楽しませたりするのは義務であり衝動だった。彼女はそれを受け容れていた。
サヨリから話を聞かされたとき、彼は裏切られた気分になった。幼い頃からサヨリをよく知っているつもりだった。
が、彼女には彼のはじめて知る顔があった。知っていなくては二人のあいだでどうしてもずれてしまう部分がある。彼にはそれが致命的だとさえ思えた。
昨日、彼はサヨリに告白した。彼女の鬱病を知ったことでサヨリへの好意をはっきり自覚した。幼い頃からサヨリがかけがえのない存在になっていることを、彼はただ気づいていないだけだった。
サヨリに告白した瞬間、彼女との記憶が水紋のように思い浮かんだ。寝坊して彼のもとへ駆け足で走ってくる姿。めまぐるしく変わる表情と身体の動き。寝癖だらけの短髪。彼の覚えていない幼い頃の思い出を話していたときの瞳。サヨリを思い浮かべていると詩作が進むと言ったときの彼女の震えた声。『わたし……ふさわしくない……』
彼女は自罰的だった。背負わなくてもいい責任を背負い、無価値な自分が彼に好意を抱くべきではないと思っている。が、サヨリは涙を流しながら彼に質問した。「わたし以外のみんなが幸せになってうれしいはずなのに、心臓が真っ二つに裂けそうな気持ちなのはどうしてなの?」
彼女を助けたい。それが彼の願いだった。サヨリのことを、どんなに小さいことでも宝石のような冒険に変えてくれる快活な女の子だと思っていた。
これからもなんとなく一緒にいられて、心地よい関係が続けられればいいと思っていた。が、眼の前のサヨリを見て、そんなものはただの幻想だとわかった。
俺はサヨリとの関係性に甘えていたんじゃないのか? サヨリが苦しんでいるときに、俺は何もしなくていいのか?
いいわけがない。たとえ自分勝手だと言われようとも、サヨリにはもう苦しんでほしくない。彼は自分の決意をサヨリに伝えた。
サヨリは言っていた。「怖いの」と。どうしても自分の気持ちがわからなくなってしまうのが怖い。彼女に抱きしめられたとき、指先の震えが小刻みに背中から伝わってきた。
彼はサヨリを抱き返し、なだめるように話した。色々よくなるまで時間がかかるかもしれない。でもどんなに時間がかかろうと、俺はおまえと一緒に歩んでいくから。サヨリは静かにうなずいた。
それから二人はいくつか言葉を交わしたあと、明日の文化祭に備えて別れた。
*
家から出る前にサヨリに電話したが、彼女は出なかった。サヨリを起こしに彼女の家に行くことも考えたが、彼は遠慮した。今日こそはサヨリと登校できると思っていた。いつもどおり彼はひとりで登校した。
教室へ着くと、部長のモニカに声をかけられた。少し話して、サヨリの話題になった。モニカは彼とサヨリの事情を知っていた。疑問に思っていると、それを察したように「私、あなたが思っているよりも色々知っているのよ」とモニカに微笑まれ、なぜだか寒気がした。
それから彼は机に置かれている、文化祭で朗読する詩のパンフレットを手にとった。なんとなくながめていると、サヨリの詩のページまでたどりついた。『出て行け』の文字列が、密集する蟻のようにページを埋め尽くしている。
不吉な予感。サヨリの言った雨雲の意味。なげやりな筆跡。異様な胸のざわつきがおさまらない。彼はサヨリの家に行くことへ決めた。
*
サヨリの家に着き、玄関のドアをノックした。返事がないことはわかっていたので、昨日と同じようにドアを開けてなかへ入った。二階への階段を上るあいだ、どことなくまわりは水を打ったように静かだった。彼の踏みしめる足音だけが聞こえた。
彼女の部屋までたどりつき、ドアを開けるところで逡巡した。これこそまさに彼氏のやることなんじゃないか? それでも彼はためらいがちにドアを開けた。
サヨリは死んでいた。首元にロープが括られ、寝巻きははだけ、全身の皮膚は土気色に褪せ、つま先はカーペットの下から浮いていた。
これはなんだ? 彼は立ち尽くしていた。これはなんだ? 視界は澱み、身体は氷のように固まり、足は床に吸いついて離れなかった。これはなんだ? 首を吊っているサヨリの死体。サヨリの虚ろな視線から眼が離せない。こんなの現実じゃない。だったら眼の前にいるサヨリはなんだ? サヨリはこんなことしないはずだ。どうしてそう思う? つい数日前までは、全部いつもどおりだった。ほんとうに? 激しい嘔吐感が腹部から突き上げてくる。サヨリは鬱病で苦しんでいた。俺が助けると言ったばかりじゃないか。それなのにこれはなんだ? 俺は眼の前の光景がどうしても信じられない。彼の眼はサヨリの髪飾りのリボンに吸い寄せられている。どうしてサヨリは首を吊っているんだ? 彼女にとって何が一番かわかっているし、何も心配ないと言ったばかりなのに。ならどうして? 俺はサヨリのことを何も理解していなかったんじゃないのか? 俺はずっとサヨリに甘えていたんじゃないのか? サヨリのそばに居てやると言ったばかりなのに。どうして彼女はこんなことを? どうして俺はこうも無力なんだ? 何をするべきだった? 彼の視界は暗くなり、サヨリの身体は依然としてぶら下がっている。俺はサヨリに告白をすべきではなかった。他人から気にかけられるのがどんなに痛いことなのか言っていたじゃないか。どうして俺はそこまで自分勝手だったんだ? いつもどおりが一番だとサヨリは言っていたのに。どうして大事なことばかり遅すぎた頃に思い出してしまうんだ? どうしたらこんな結末を避けられた? 俺が余計な真似をしなかったら。もう少しサヨリのそばにいてやれたら。サヨリと一緒に登校できていたら。告白してサヨリの心をさらに傷つけてしまわなかったら。いつもどおりサヨリの友達のままでいてやれたら。俺がサヨリを刺激しなかったら。俺が。俺が。俺が。俺が。俺が。サヨリ。サヨリ。サヨリ。サヨリ。サヨリ。もう彼女は帰ってこない。俺の人生でサヨリ以外に大切なものなんてなかった。それでも彼女が必要なものを何ひとつ与えられなかった。絶対に取り戻せない。サヨリは死んでしまった。俺がサヨリを追いつめた。ただそれだけだった。
*
せめてもの思いで、サヨリの首に括られたロープを切ろうとした。
彼はぶら下がっているサヨリのそばに彼女のベッドを限りなく近づけさせた。それからそのベッドの上に乗り、どこからかカッターを取り出した。
彼はサヨリの身体を自分のほうへ寄せるように片手で抱きかかえ、もう片方の手をできるだけ上へ伸ばしながら張り切ったロープをカッターで擦るように切りはじめた。
サヨリの身体は冷たく、ロープは切り口から少しずつ肉離れのように裂けていった。
しばらくそれが続いたあと、彼はカッターをしまい、切れかかったロープを思い切り引っ張った。するとロープは切れ、サヨリの死体は前のめりで彼に寄りかかるような姿勢になり、そのまま彼と一緒にベッドへ倒れ込んだ。
幸い彼女は体重が軽く、二人が倒れた衝撃はベッドのクッションにうまくおさまった。彼はしなだれたサヨリをベッドへ寝かせ、彼女の半開きの瞼を手で閉ざした。
ふと、もう片方の手に血がべっとりと付いていたことに気がついた。よく見てみると、サヨリの血だった。ロープの結び目の辺りにも付いている。サヨリの両手から、指や爪の皮膚が破けたようにめくれ、そこからとめどなく血が流れ出している。
その意味を理解したとき、彼の身体は涙で震え、血まみれの手で彼女の手を握りしめていた。
終わりです。
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