三船美優「天道虫 is ……」 (226)

 最初は、何の冗談だろうと思いました。

「大丈夫大丈夫、そんな気負わないでいいよ。何かあれば俺がビシッてアレするし」
「は、はぁ……」


 でも、この人は、冗談のような事は仰るけれど、冗談は言わない人でした。

「だから、美優さんのやりたいようにやればいいんだよ。ねっ?」
「そう言われましても…」
「だーいじょうぶだって! このアレに失敗は無いんだよ、つーか既にもう終わってるようなもんだし!」
「うっ……」


 私のせい、とはいえ――想像もつきませんでした。

「あ、ご、ごめん! そういう意味じゃないんだ、これはマジで。
 まぁとにかくさ、サクッとやってみてよ! じゃあ俺ちょっと出かけてくるね!」



 私が、白菊ほたるさんの、プロデューサーになるだなんて――。


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 しばらくの間、私は、アイドルとしての活動を行えなくなりました。

 オーディション中に、靴紐が切れて転んで、怪我をしてしまったからです。

 より高いステップへ進むために、プロデューサーさんが申し込んでくださった大一番での、ミスでした。

 私って、いつもこうなんです。
 ここぞという時に、ままなりません。


 知名度の低い私は、他のお仕事をあまりいただく事ができないままです。

 そして、大変失礼な事を言うようで恐縮ですが――私のいる事務所は、お世辞にも大きい会社ではありません。

 アイドルも、私しかいない有様でした。


 彼女が来てくれるまでは――。



「“死神”?」

「“疫病神”、とも言われている」

 事務員さんは、手元の資料に目をやりながら、プロデューサーさんに答えました。
「彼女が所属した事務所は、軒並み倒産に追い込まれている。
 半ば都市伝説じみているから、業界でもそれなりに有名だ」

「で、その子を社長が拾ってきたって?」
「あぁ」

 プロデューサーさんは、椅子にもたれながら大きな声で笑いました。

「そいつはいいや! もう潰れる寸前のこの事務所を、社長自らトドメを刺しにきたってこと?
 あからさまだよなぁハッハッハ、ねぇ美優さん?」

「い、いえ、あの……」

 私が、もっと頑張れていれば、この事務所も――。


「キミ、言葉を慎みたまえよ」

 事務員さんがそっと苦言を呈すると、プロデューサーさんは、ハッと手を大きく振って、
「いや、違う! 美優さんがどうって話じゃない、むしろ俺だから! ごめん美優さん!」


 プロデューサーさんに悪気が無いのは、分かっているのですが――。

 私がこの事務所に来たきっかけも、その子と同じ、スカウトでした。

 OL時代、帰宅途中にヒールが折れ、うずくまっていた私に、プロデューサーさんが声を掛けてくれたのです。

 何事にも自信を無くしかけていた私を、プロデューサーさんは明るく励ましてくださいました。


 ただ、やはり現実は、そう簡単にうまくいくものではありません。

 アイドルの真似事をしてみた所で、プロデューサーさんが期待するような成果を、私は上げられずにいました。

 そして、このタイミングで怪我をしてしまったがために、今後予定された活動計画は全てご破算です。


 そう――身の程を知るというのは、とても大事なことなんだなって。

 この年齢になって、初めてそれを知るには、私は遅かったのかも知れません。

 きっと、業界最大手の芸能事務所――346プロダクションにスカウトされていたとしても、それは同じ事です。


 二度目の転職を、早くも考えるべき時が来たのかも――そう、思っていました。

 当日――。

 約束の時間になっても来ないので、彼女を迎えに外に出たプロデューサーさんが、ようやく戻ってきました。


「す、すみません……」
「なーに謝ることがあるの! 白菊さんは何も悪くないじゃん、悪いのはウチのオンボロ社用車だよ」


 話によると、彼女を乗せて帰る途中、車は何度もエンストをして、うまく走らなかったそうです。

「解せないな。あの車は私が昨日点検し、整備したばかりだが」
「ネーサンのゴッドハンドをもってしても、もう限界なのかねーあのボロは」

 いずれにせよ、その子が負い目を感じるべき話でないのは、私にも分かりました。

 ですが――。


 応接スペースで、私のお向かいに座る彼女は、ソファーに浅く腰掛け、肩を縮こませて頭を下げました。

「いえ……たぶん、私のせいです」

「そんなにも、君の『不幸』は強力なものなのか?」

 お茶を出し終えた事務員さんが、お盆を持ちながら壁に寄りかかり、腕組みをしました。

「『不幸』って?」
 首を傾げるプロデューサーさんに、事務員さんも肩をすくめました。
「これまでの所属事務所の件も含め、彼女にまつわる噂話さ。オカルトの域を出ないがな」


 つまり、彼女の身の回りには、いつも不運な出来事がつきまとうのだそうです。

 信号に悉く捕まったり、買ったお弁当にお箸が入っていないのは序の口。
 外で食べ物を手に持っていると、すかさずカラスに奪い取られ、行列に並べば、必ず自分の手前で定員オーバーになるとか。

 なんと、頭上から植木鉢が振ってくることもしょっちゅう――。

 そ、それが本当だとしたら、非常に危ないことでは――?

「さすがにバナナの皮でツルッと滑って転ぶとかはないでしょ? アハハハ!」


 プロデューサーさんが、そう言っておちゃらけてみせても、彼女はますます頭を垂れるばかりです。


「……マジか」
「は、はい……」

「今までいた事務所でも……たとえば、プロデューサーが、事故や病気で長期入院してしまったり。
 屋外でのお仕事で、雨に降られなかった日は無いですし、レッスンではいつも……」


「……いつも?」
 プロデューサーさんが促すと、彼女はさらに顔を俯かせます。


「いえ……すみません。
 あまり、レッスンできたことが無くて……過ぎたことを言いました」


 ――それ以降、彼女は黙ってしまいました。



「ふーん、そいつは筋金入りだなぁ。やっぱ社長はこの会社を潰…」
「ウウ゛ンッ!」

 プロデューサーさんの言葉を遮るように、事務員さんが大袈裟に咳払いをします。


「どのような経緯があるにせよ、杞人の憂いというものだ。
 私の方から少し、事務的な話をしよう。まず、住所と通勤経路をこれに記入してくれないか」

「あながち眉唾物じゃないのかもなぁ」

 自分のデスクでコーヒーを啜りながら、プロデューサーさんは一人納得するように呟きました。

 応接スペースでは、事務員さんが白菊さんと、契約に関する書類の確認を進めています。


「あの……これから、どうしましょう?」
「何が?」

 恐縮しながら尋ねる私に、プロデューサーさんはフラットに聞き返します。

「いえ、その……
 私はまだ、この通り、満足に活動できませんから……やはり、彼女のプロデュースに力を…」

「うーん、それなんだけどね」



 カップをデスクに置き、腕組みをしながら椅子にもたれ、プロデューサーさんは私に顔を向けました。

「美優さんに任せてもいいかな?」

「……え?」

 任せる? ――何を?


「あー、うーんと……実は俺、今ちょっと手が離せなくてね、色々と」
「はい」

 ここ最近、プロデューサーさんは、いつも外に出られていて、忙しそうです。


「だからそのー……この事務所の先輩として、あの子の面倒を色々と見てほしいんだよね」
「はぁ……」

 そうですね――お茶の場所とか、鍵のかけ方くらいは、私でも教えられると思いますし。


「俺の代わりに、パシッと彼女のプロデュースをやってもらえない?」
「えぇ、まぁ」



「…………へ?」


 ぷ――プロデゅーぅ、す?

 ――――。


 小さい頃から、聞き分けの良い子だと、言われて育ちました。

 両親は、とうとう反抗期が無かった私を、いくらか心配に思ったようです。


 それは、そうなのかも知れません。

 家族で外食をする時は、必ず、両親よりも値段の安いものを選びました。
 誕生日プレゼントでさえ、自分から何かを欲しがった事も、無かったと思います。

 無欲――と言えば、聞こえは良いのかも知れませんが、おそらくそれは、正しくはありません。


 壁を押せば、反発がある。
 手が痛くなる。

 何かを欲しがれば、何かしら我が身への反動があるものと、いつからとも無く、私は知っていました。

 何物にも強い興味を傾けず、しかし、言われた事には注意を払い――。


 そうして、私はすっかり流されやすくなったのだろう、と――彼女との初めてのレッスンに向かう途中、思い返しました。

「いえ、あの……現地集合で大丈夫です。道は、調べれば分かりますから……」
「そ、そうですか……?」



 電車と徒歩で、スタジオに向かいます。

 本当は、プロデューサーさんのように、車で送り迎えをしてあげられたら良かったのですが――。
 何分、私はペーパードライバーで、車庫入れも満足にできません。

 その事で頭を下げると、逆に彼女は、手を目一杯振りました。

「そ、そんな、大丈夫です! むしろ車じゃない方が安全ですから!」

 初めは、私の運転が頼りないから、という意味かと思いましたが――どうやら、違うようです。


 駅で待ち合わせて、一緒に行きましょうかと提案しても、彼女は丁重に断りました。

 その意味が、到着した先のスタジオで彼女に会い、ようやく分かりました。


「あはは……植木鉢じゃなかっただけ、ラッキー、かなって……」

 曰く、“普段よりも”スムーズに行けたおかげで、予定より一時間以上も前に到着していたようです。

 服に付いた鳥のフンの跡を指差しながら、彼女は苦笑しました。


 自身の不幸から遠ざけようと、彼女は私を、気遣ったのですね。

「あっ、お疲れ様です美優さんっ! もう足の具合は良いんですか?」

 元気で溌剌とした、いつものトレーナーさんが、スタジオに入るなり声を掛けてくださいました。

「あ、いえ……今日は、私ではなくて……」
 慌てて手を振り、私は彼女を――白菊さんを、紹介しました。


 私の体の影から、彼女は恐縮そうに顔を覗かせ、トレーナーさんの顔色をうかがっています。

「あぁ……へぇ~、新しい子が入ったんですねっ!
 よーし、それじゃあ今日は簡単なメニューにしときましょうか?」
「あ、は、はいっ」

 提案をするだけの知識も経験も無いので、私はただトレーナーさんに従うだけです。


 運動着に着替え、まずは準備体操から、彼女のレッスンが始まりました。

 私は、どうして良いか分からず、ただスタジオの端っこでポツンと立っています。

「はぁ、はぁ……」

「初めてですし、無理しないで大丈夫ですよ。水分補給しましょう、はいっ!」
「す、すみま……はぁ、す、すみません……」


 四苦八苦しながら、何とか基本のステップを終えた所で、白菊さんはその場にへたり込みました。

 レッスンをできたことが無い、と自分でも言っていましたが、あまり運動は得意ではないようです。


 最初はこんなものですよ、とトレーナーさんが励まします。
 その通りだと思いました。

 私も、似たようなものだっただろうなと、事務所に入ったばかりの頃を思い出します。

 腰に手を当てて、うーん、と何か思案した後、トレーナーさんはポンッと手を叩きました。

「白菊さん、ちょっと体が硬いかも知れませんね。
 お家でもできる柔軟体操、一緒にやってみましょうかっ。いきなりステップばかりだと疲れちゃいますし」

 彼女の疲れ具合を見て、より軽めのメニューに切り替えたようです。


「すみません……」
「いえいえ全然っ! ちゃんと改善できるところがあるのって、良いことなんですよ!
 というわけで、ちょっとこっちの方に来てみてください」

 そう言って、トレーナーさんはスタジオ奥の壁の方へ、手招きをします。


「こうして……別にどこでも、壁でも良いんですけど、片手をついてですね……」

 トレーナーさんが、壁の手すりに手をついた瞬間でした。


「あ、危ないっ!!」

 誰が叫んだのか、一瞬分かりませんでした。

 それに意を介する暇もありませんでした。


「へぶっ!?」
 突然、トレーナーさんが手をかけた手すりがバキッと外れ、彼女はその場に倒れ込んでしまいました。

「!! す、すみません大丈夫ですか!? すみませんっ!!」

 血相を変えて、白菊さんがトレーナーさんの元へ駆け寄り、私もそれに続きます。


「あいたた……いやぁビックリしました。が! ヘッチャラです、アタシ石頭なんでっ!」

 幸い、頭をちょっと打った程度で、目立った怪我は見受けられませんでした。
 アハハ、と照れくさそうに笑い、トレーナーさんは手を振って応えます。


 その一方で――。

「すみません……すみません……!!」

 明らかに過剰と思えるほどに頭を下げる白菊さんが、私の印象に強く残りました。

 帰り道、駅までの道を二人並んで歩きます。

 最初、やはり彼女は遠慮していたのですが、私の困ったような顔を見て、従ってくれました。

 要らない気を、遣わせてしまったようです。


 ただ――私も、おそらく彼女も、あまり自分から話す方ではないので、沈黙が続きます。

 わ、私が誘ったのだから――私が、何か話さないと――。



「あ、あの……」

 意を決して、少し上ずった声で話しかけると、彼女は顔をこちらに向けました。


「お疲れ様でした……レッスン、大変でしたよね」



 ――――えぇと、あの――。

「前の事務所では」
「えっ?」

「させてもらえなかったんです……レッスン」


 三人組の若者が、向かいから集団で歩いてきます。

 それを見ると、白菊さんは大袈裟と言って良いほどに、大回りして彼らとすれ違いました。


 すっかり、人との距離の取り方を――不幸との付き合い方を、心得ているように見えます。

 レッスンをできたことが無い、と彼女が自分で言っていたのを、私はもう一度思い出しました。


「今日の事故も……私のせいなんです」



 少し、寄りたい所があるので――そう言って、彼女は駅とは別の方向へ歩いていきました。

 私は――彼女の後ろ姿を見つめながら、ただ立ち尽くすことしかできませんでした。

 ――――――。

 ――――。


 通りを歩いていると、唐突に分厚い壁が、目の前に現れます。

 通行止めかと、仕方なしに回り道をしても、壁ばかりです。

 やがて、それらが一斉に、私に迫ってくるので、壁が追いかけてこられない道へと逃げます。


 先ほどまでお昼だったのに、追い立てられるようにたどり着いた先は、モノクロで、とても暗い場所です。

 やがて、その黒の部分がどんどん大きくなっていき、私を取り巻く世界の輪郭が無くなっていく。


 ――――。

 初めてこの夢を見たのは、部活動をしていた、中学生くらいの頃。

 あまりに怖くて、泣きながら夢の中で死にもの狂いで走り、汗びっしょりで飛び起きたのを覚えています。


 走るのをやめたのは、社会人になって、しばらく経ってからの事でした。

 壁が追いかけてくる方向も、たどり着く先も結末も、もう大体分かるので、私は歩いてそこへ向かうだけです。


 気持ちの良い夢でない事に変わりはありませんが、さほどの事でもありません。

 こんなものだろう、という気持ちがボンヤリと、泡のように浮かんで、朝食を終える頃には忘れています。

「かしこまりました。取り急ぎ、PDFか何かでピロッと送っていただけましたら、後は私の方で段取り致しますので。
 ……えぇ、そうですね、原本は後で……いえ、こちらこそ恐れ入ります。よろしくお願いします、失礼致します」

 受話器を置き、プロデューサーさんが隣に座る事務員さんに、雑談の続きをします。

「それでさー、俺大将に言ったの。コショウ入れ過ぎちゃったから替えてくれって」
「あまりにも横暴だろう、それは」
「だってあんないっぺんにドバッて出てくるなんて思わねーもん、蓋取れたんだよ?」


 私は、事務作業をしながら、ふとソファーにいる彼女の方を見ると――。


 やはり、大人しくしながらもソワソワと、落ち着かない様子です。

 私は席を立ち、お茶を淹れました。


「おー、美優さんありがとう!」
「すまないね。本来であれば私の仕事なのだが」

「いえ、これくらいしか、できなくて……」

 そう言って、軽く会釈をしてから、私は、白菊さんの前にもお茶を置きました。

「あっ……あ、ありがとうございます、すみません、三船さん」
 彼女は、驚いた様子で私の顔を見て、ペコペコと頭を下げます。

 私も手を振り、彼女の隣に腰掛けてみました。

「プロデューサーさん、ああいう、何と言いますか……ヘンな擬音を使うの、好きですよね」
 そう言って、私は彼女にコッソリ、誘い笑いをしてみます。

 白菊さんは、キョトンとした様子で、プロデューサーさんを見て、それから私を見ました。

「ほら……ピロッと、とか、ドバッと、とか」
「あ、あぁ……ふふ、そうですね」

 ようやく、彼女が少しだけ笑ってくれて、私も安堵します。


「何か、お菓子とか、食べますか?
 この間、社長が信州に行かれた際の、お土産のクッキーが……」

 私が手近の棚に手を伸ばそうとすると、彼女は短く声を上げました。

「あ、あの……本当に、お気遣いはしないで大丈夫…」
「お気遣いなものか」

「えっ?」

 二人でほとんど同時に声を上げ、顔を向けると、事務員さんが手際よくお盆にお菓子を乗せていました。

「キミは私達の仲間であり、運命共同体だ。仲間のお菓子くらい満足に食べられないでどうする」
「ネーサン、俺にも一個ちょうだい」

 席に座ったまま、プロデューサーさんがおざなりに声を掛けます。
 事務員さんが一つ手に取って、ちょっと乱暴に投げました。

「ライナーかよ。普通下投げじゃない?」
「キミの場合、少しはその横着な性分を改めた方が良い。寝ていて人を起こすな、だ」
「へいへい、ネーサンの説教は懲り懲りですわ」

 フン、と鼻でため息をつき、気を取り直して事務員さんは私達の前にお菓子を置きました。
「そろそろ慣れなさい。この事務所では遠慮は無用だ」


「あ、ありがとうございます……」

 やはり、恐縮そうに頭を下げる白菊さんに、少し肩をすくめつつ、事務員さんは席に戻っていきました。

「……すごく、しっかりした事務員さんなんですね。プロデューサーみたい」

「私も最初、そう思いました」

 そう言って、二人で忍ぶように笑い合います。


「それで、あの……今後のスケジュールなのですが……」

 私はおそるおそる、一枚紙の資料を彼女の前に提示してみました。


「わぁ……」

 小さく、彼女が声を上げたのが聞こえました。

「な、何か?」
「いえ、あの……」


 繁々と、私の作った――そんな大仰なものではないのですが――スケジュール表を、隅から隅まで見渡してから――。

「こんなに、レッスン……させてもらえるんですか?」

「えっ? え、えぇ……まずは、レッスンかなぁと…」
 どう返答して良いか分からず、私はプロデューサーさんの方に目をやります。

「こんにちはー、ヤクルトでーす」

 でも、タイミングの良くない事に、ヤクルトレディーの方がお越しになられていました。
 曰く、どこかの営業先への帰りに寄ってくださっているのだそうです。

「おーオバちゃん待ってたよー。タフマンある?」
「若いウチから働きづめだと早死にするよ。タフマンに頼らないでしっかり休みなね」
「俺ぁそんなマジメに働いてねーから大丈夫だよー♪」
「そう若くもないしな。マスター、いつもの」

 プロデューサーさんと事務員さんは、私の方などそっちのけで、ヤクルトの方と談笑を始めてしまいました。
「あ、うぅ……」


「嬉しいです」
「えっ?」

 白菊さんの方を見ると、彼女は眉根を寄せながら、モジモジと身を縮こませています。

「ですが……先日のトレーナーさんに、またご迷惑を……」

「あの……トレーナーさんにも、ご了解をいただいていますので、心配はいりませんよ」
「そ、そうですか……?」

 むしろ、「白菊さんはすっごく育て甲斐がありますっ!」と、トレーナーさんは鼻息を荒くしていました。

 それを白菊さんに伝えると、彼女は顔を紅潮させ、やがて両手を大きく振りました。


 先日、事務員さんからお聞きしたのですが、まだ13歳なのですね。

 私と違って、伸びしろも未来もあるのは、それは本当の事だろうと思います。


 ただ――。

 なぜ、プロデューサーさんは、私に白菊さんの事を任せたのでしょう。


「あ、もうこんな時間か。んじゃネーサン、俺ちょっと例の協議先へ行ってきまーす!」

 ここ最近は、外にご出張されてばかり――プロデューサーさん、本当に忙しそう。



「……あら」

 ふと、彼のデスクの上を見ると――346プロの名が踊る書類が、いくつもありました。


 そして、作りかけの履歴書と――転入書――。

 ――売買契約書?


「三船君」
「は、はいっ!?」

「すまない、お茶のおかわりをもらえないか? 私では、キミのように上手く淹れられなくてね」

 市販品ですし、淹れ方も、そう特殊な事はしていないつもりですが――。



 事務員さんにお茶を淹れ、席に戻ると――。

 それらの書類は、デスクの上から姿を消していました。

「お待ちしてましたよ! お疲れ様ですっ!」
「お、お疲れ様です……?」


 次の日、レッスンスタジオに着くと、トレーナーさんが臨戦態勢と言った様子で、私と白菊さんを迎えました。

「白菊さんの経歴は、確認させていただきました。
 なるほど、見学しに行ったスタジオの大鏡が突然割れたり、床が抜けたりしたそうですね。が!」

 無闇に仰々しい救急箱を部屋の隅にドスンッ、と置いて、トレーナーさんは腕をまくってみせます。
「どんと来いです! さぁ、始めましょう!」


 私は、目をパチクリとさせるしかありません。

 そんな、まさか――。

「……よく、ご存じなんですね」
 白菊さんは、ポツリと呟き、やはり恐縮そうに頭を下げました。

 ほ、本当に――?

 やがて、レッスンが始まると、それは襲ってきました。

 トレーナーさんに――。


 本当に突然、大鏡が割れるなんて、思いもしませんでした。
「と、トレーナーさんっ!!」

「ッ! なんとぉー!!」

 ですが、鮮やかなバックステップを決めて、トレーナーさんはその難を逃れます。


 が、彼女が着地した先の、床が抜けました。

「どわああぁぁっ!?」
「トレーナーさーんっ!!」

「…………」


 帰り道、やはり白菊さんは、自責の念に囚われてしまっているようでした。


「あ、あの……トレーナーさん、さっきご連絡があって、擦り傷だから大丈夫です、と……」

 私なりに励まそうとしても、彼女は頭を垂れるばかりです。


 まさか本当に、彼女の周囲にのみつきまとう不幸というものが、あり得るのでしょうか?

 ただ一つ言える事は、白菊さんは――。
 自身の不幸が周りの人達に危害を及ぼす事を、とても恐れています。



「じゃあ、ここで……すみません……」

 その日も、彼女と駅まで一緒に帰る事は、ありませんでした。

 事務所に戻ると、事務員さん一人だけでした。

 彼女が受話器を置いた所で、ちょうど私と目が合ったので、クールな笑みを返してくれます。

「どうだった?」
「あ、いえ……」

 色々あって、スタジオが使えなくなってしまったので、代わりのスタジオを探さなくてはなりません。

 皆まで言わずとも、その事だけを伝えると、事務員さんは察してくださったようです。


「あの……プロデューサーさんは?」
「今日は外回りから帰ってこないよ」

 やはり――お忙しいのですね。



「あの……ひょっとして、346プロへ?」

 おそるおそる、私は聞いてみました。

「そうだね」
 事務員さんは、淡泊に答えます。


「……そうですか」

 よく分からない気持ちを、胸の奥へ押しやり、自分のデスクに着いてパソコンを開きます。


 ふと――気になったので調べると、白菊さんの帰路にある沿線は、信号機トラブルで大幅に遅延しているようです。

 ――こんな事が、あるのでしょうか。


「心配は要らない」
「えっ?」

 後ろから、私のパソコンの画面を覗き込んで、事務員さんがフッと鼻で笑いました。

「その遅延は、あの子の不幸とはおそらく無縁のものだ。
 何でも結びつけてしまうのは、あの子が可愛そうだろう」


「そうですね……すみません」
 それなら、良かった――。

「何しろあの子は、電車をあまり使わないそうだからね」

「……えっ」

 自分の席に戻り、事務員さんは続けます。

「専ら、バスと徒歩らしい。
 電車と比べ、事故か何かで遅れた時に、周りに与える影響が比較的少ないからだそうだ」


 だから、白菊さんは駅まで私と行こうとしなかった――。



「どうして……」
「ん?」

 独り言が、つい口に出てしまっていたようです。


「社長は白菊さんをスカウトし、プロデューサーさんは私に、彼女を任せたのでしょうか」

 私には、ちっとも分かりませんでした。

 いや――。


「どうしてだと思う?」

 事も無げに事務員さんは、自分のカップに手を伸ばし、コーヒーを啜ります。



 分からない、というのは嘘です――分からないフリをしていたかった。

 ですが、そうとしか考えられない事を、私は既に知っていました。


「もう、私達も……この会社も、どうでも良いから、ですか」

 とても失礼な事を、言ってしまいました。

 ですが――。

「初めは、冗談だと思いました。会社を潰そうとしている、だなんて……
 でも、そう考えれば、すべて納得がいきます」


 体よく廃業するきっかけとして、“死神”と揶揄される彼女を迎え――。

 そんな彼女のお世話を私に任せたのも――。

 プロデューサーとしての知識も経験も、アイドルとしての未来も何も無い私に――そして――。


 346プロに、プロデューサーさんが頻繁に出入りしているのも――。

「転職を、されようとしているのかな、って……346プロへ」



「やれやれ……重要書類をデスクの上に放置するのはやめなさいと、だから言ったのにな」

「えっ?」
「見たのだろう? 彼の書類を」

 軽くため息を吐きながら質した事務員さんに、私は黙って首肯します。


「彼は今、この会社ごと、346プロへ身売りする段取りを進めている最中だ。社長の特命でな。
 この秋にはもう、我が社は畳む事になるだろう」

 どこか嫌味を含ませるように、彼女は鼻を鳴らしました。

「そして、倒産した要因は“また死神のせい”だと、周囲は勝手に空想し、同情してくれる」



「……そうですか」

 やっぱり――何故だか、胸につかえていたものが、少しだけ晴れた気がしました。

「怒らないのか?」
 事務員さんは立ち上がり、給湯器の方へ歩きながら、不思議そうに尋ねます。

「担当アイドルの面倒をロクに見ることもせず、目先の保身だけを考えている我々が憎くないと?」

「私のせいでも、ありますし……こんなものだろうな、って、思えますから」

 私だけなら――私の人生なんて、そういうものだから。


 ただ――。

「ただ……白菊さんだけは、見捨てないであげてほしかったな、って……」


 パソコンの画面には、事務所周辺のレッスンスタジオの所在を示した地図が映っています。

 電車を使っていなかったなんて――。
 そんな、プロデューサーとして知っておかなければならない事を、私は知らなかった。

 もっと、近い所を――彼女の家か、事務所に近いスタジオを探さないと。


「これ以上レッスンしてどうする?」

 私のデスクの後ろから、事務員さんの声が聞こえます。

「どうせ畳むんだ。いくら努力したところで、何も残らない。
 だから、彼はキミに、彼女の世話を押しつけた」

「ご存知ですか?」
「ん?」

「どうして、白菊さんがアイドルを目指すのか」


 自身の不幸が周囲に波及する事を恐れる彼女が――。
 人とのつながりを恐れる彼女が――。

 どうして、人との関わり無しに向き合えない『アイドル』を志したのか。


「私は、知りません。だから……知りたいんです」

 これもおそらく、プロデューサーとして本来、知っておかなければならない事でしょう。

 直接聞くのは簡単です。でも――。


 彼女を真に理解するためには、それを肌で感じる必要が、ある気がして――。

 口が下手だというのも、多分にあるのですが――だから――。

「もっと、向き合わなくちゃ、って……」

「やれやれ……人の事より我が事、だな」

 気づくと、事務員さんは私のカップに、コーヒーを注いでくれていました。

「えっ……ありがとう、ございます」


「意地悪な事を言って、すまなかった」
「えっ?」

 流しへ行き、自分のカップを洗うと、事務員さんは私に向き直りました。


「詳しい事は言えないが……私も彼も、社長も、キミ達を見捨てようなどとは考えていない。
 だから、キミ達はキミ達の努力をしてくれ。我々も……少なくとも私は、全力でサポートする事を約束しよう」


「……はい」


 今日の、ここでのお話は、私と事務員さんだけの、秘密になりました。

 ――――――。

 ――――。


 突然に、しかし、いつも通りに、壁が私の行く手を阻みます。

 そして、いつものように、私は回れ右をして、壁の邪魔にならない方へと歩き出します。


 後は、到着した場所で、真っ暗闇になるのを待つだけ。



 ――――。



 ――?

 何だか――いつもと、様子が違います。

 黒が広がるのが、妙に遅い気が――。


   ――おそとにいって、むしのかいだんごっこするの!

 ――ッ!?


   ――おそといくの!


 どうして――――苦しい――。

 早く、黒くなって――!



 ――――。

 朝、目覚めると、大して暑いわけでもないのに、寝汗をかいていました。

「かしこまりました、ありがとうございます。それではこれから、はい……いえこちらこそ恐縮です。
 では、これからお伺いします。その際にサクッと例の書類もお預かり致しますので……はい、お願いします。失礼致します」

 受話器を置いて、プロデューサーさんは慌ただしく席を立ちます。

「それじゃあネーサン、また例の協議先へ行ってくるね」
「お土産を頼むよ」
「渋谷だぞ? お土産もクソも無いでしょ、コンビニのアイスでいい?」

 渋谷――346プロの、最寄駅でした。

「ねぇ、美優さん」
「へっ!?」

「美優さんは、何か欲しいのある?」
「あっ……わ、私は、いえ、何も……」
「そっか、ほたるちゃんは?」
「いえ、私も、悪いですし……」

「ほらー、美優さんもほたるちゃんもいらないって」
「ヒカリエの地下2階にある、吉兆庵のどら焼きを買ってきなさい」
「どうせ高いんでしょ? パルムで十分だわ」

「あ、ネーサン、オバちゃん来たらこれでタフマン買っといて。それじゃ、行ってきまーす」

 そう言って、小銭を事務員さんのデスクに置くと、プロデューサーさんは出て行ってしまいました。


「フッ……キミ達二人なら遠慮すると思ったのだろう。打算的な男だな」

 事務員さんは、私と白菊さんへ順に目配せをして、肩をすくめました。


「でも……」

 白菊さんが、オドオドしながら、控えめに呟きます。
「プロデューサーさんは、良い人です」

「そうか」

 事務員さんは、否定も肯定もしませんでした。
 私も――。


「前の事務所では、怒られてばかりで……ここの人達は、皆、優しくしてくれますから」

「そうか」

 事務員さんは、やはり、深くは語らずにカップを傾けます。

 そして、キーボードを叩き始めると、それ以降何も話さなくなってしまいました。



 白菊さんは――どうなるのでしょうか。

 この事務所が無くなる時、彼女はきっと、また自分のせいだと思い込んでしまいます。

 そうじゃないんだって、教えてあげたい。だけど、このままじゃ――。


「し、白菊さんっ」
「はいっ!?」

「私も、今日は大きな予定、無いですし……どこか、あ、遊びに行きましょうか?」

「へ……?」

 拍子の抜けた彼女の返事を尻目に、私は事務員さんに、そっと視線を送ってみます。

 事務員さんは、フッと鼻を鳴らし、手を止めました。
「どこへ行くのか知らないが、お土産を頼むよ」


「こんにちはー、ヤクルトでーす」

 お礼を言おうとした私と、事務員さんの間に、ヤクルトレディーの方が割って入りました。

「あら、今日はあのお兄さんは?」
「彼は外へ行っています。マスター、いつもの」
「あいよー」

「お嬢ちゃん達も、何かどうだい?」
「お、お嬢ちゃん……」

 私は、もうそういう歳では――でも――。


 せっかくなので、私はアロエヨーグルトを、白菊さんは黒酢ジュースを購入しました。

 と、言ったものの――。

 今時の13歳は、どのような遊びをするのか、まるで見当がつきません。

 とりあえず、近所の都立公園にでも足を運ぼうと思った矢先――。


 予報外れの、土砂降りの雨が降ってきました。


「あ、あの……よろしかったら、一緒に」

 そう言って、おずおずと白菊さんは折りたたみ傘を取り出しました。

 なるほど、そういう対策もバッチリなのですね。


「いえ……実は、初めてなんです、これを使うの。
 持ってる時に限って、降られない事がほとんどだから……だから、むしろラッキー、かなって」

 ――な、なるほど。

 ですが、折りたたみ傘は、二人で使うには少し小さくて――。

 結局、タクシーを使って、なんとか駅ビルに到着しました。

 パッと思いついたのは、ショッピングです。


「私、アロマを見ようかなぁって……白菊さんも、何か見たいもの、ありませんか?」

 彼女の好きな物、興味のある物を知るには、悪くないプランだと考えました。


「私は……」
 白菊さんは、エレベーターの横にあるフロアマップを見て、少し悩んだ後――。

「雑貨屋さん、行っても良いですか?」

「良いですね、行きましょうか」

 小物が好きなのかな?
 およそ初めてにも思える、彼女の能動的な発意に、少し胸が温かくなります。

 エスカレーターでゆっくりと上がって、上階の雑貨屋さんを目指します。

 エレベーターは、前に止まってしまった事があって以来、なるべく使わないそうです。

 ――――。


 目的の階に到着して、少し彼女の後ろについて、観察してみます。

 白菊さんは、辺りをキョロキョロ見回してから、ゆっくりと物色を始めました。


 やがて、彼女は一つの可愛らしいシールを手に取りました。

「それは……ウサギ、でしょうか?」
「はい……あ、でも、やっぱりこれ、前にも買ったことあるヤツでした」

 照れくさそうに、でも、柔らかな笑顔で白菊さんは答えながら、それを棚に戻しました。

「幸せの象徴ですから……こういう、幸運グッズっぽいものを見たり、買ったりするの、好きなんです」

「可愛いですよね、ウサギ」

 そう言いながら、なんて健気で儚いのだろうと思いました。

 彼女は幸せを願っている――つまり、自身の不幸な現状を、憂いているのです。

 どんなに苦しい事でしょう。


「……あ、これ」

 私は、その隣にあった別のシールを手に取ってみました。

 これも可愛らしい、テントウムシを象ったものです。


「へぇ……テントウムシも、ラッキーシンボルなんだそうです。白菊さん、知っていましたか?」
「いえ、知りませんでした……そうなんだぁ」

 値札の上には、可愛らしいイラストと一緒に、そんな宣伝文句が歌われています。
 どういった理由なのかは、よく分かりませんが――。

 でも、白菊さんはとても興味津々です。

「あ、そういえば」
 手にとってしばらく眺めた後、何かを思い出したように、嬉しそうな顔を私に向けました。

「知っていますか? テントウムシって、一番てっぺんまで登ってから飛ぶんです」

 あ、それ――。
「知っています。だから、手をこう、階段のようにかわりばんこに……」

   ――おそといくの!

「……ッ!?」



「……三船さん?」
「あ、いえ……階段のように、かわりばんこに手を置くと、テントウムシ、ずっと登り続けてしまうんですよね」
「そう、そうです!」


 小さい頃、夏休みに父方の実家へ遊びに行った際、祖母に教わりました。

 止まっている植物や、畑の塀等――。
 テントウムシは、それらの一番上まで登ってから、小さな羽を遠慮がちに広げて飛ぶんです。

 その思い出を語ると、白菊さんはとても嬉しそうに頷きました。

「その、一生懸命に見える感じが、私、好きで……そういう風に、私もなりたいかなぁって」

「白菊さんなら、きっとなれると思います」

 ちゃんと上まで、登っていける――いえ、彼女には、登っていってほしいと思います。

「ありがとうございます。それと、あの……今さらですが」

 白菊さんは、恥ずかしそうに目を伏せました。


「苗字ではなくて……名前で、呼んでもらえると、嬉しいなぁって」

「えっ?」


 ――そう言えば、考えたこともありませんでした。

 苗字じゃなくて、名前――。

「ほたるさん?」
 思いついたまま呼んでみると、何だか違和感が残ります。

 彼女としても、どこかしっくり行っていない様子です。
「語尾が……」


 語尾――ほたる、さん付けではなくて――?

「ほ……ほたる、ちゃん?」

 呼んでみると、彼女の顔が、パァッと明るくなりました。
「は、はいっ」

「ほたるちゃん、で良いですか?」
「はいっ! あ、あの……私も、美優さんって、呼んでいいですか?」
「えぇ、もちろんです」

 何だか、歳の離れた妹ができたみたいです。
 急に、二人の距離が縮まったような気がして、私もすごく、嬉しくなりました。ふふっ。


 白菊――いいえ、ほたるちゃんと、お揃いのシールを買って、仲良くスマホケースに貼り付けます。

 色違いの、可愛らしいテントウムシが、お互いのスマホにちょこんと彩られました。



 ――ただ、何となく、先ほどから頭の奥がチリチリする感じがします。

 ほたるちゃんにせがまれて、今度は私の用で、アロマのお店に行きました。

 と言っても、実は、そこまで入り用があった訳では無いのですが――。
 せっかくですし、何か買おうかしら。


「こういう、オイルと言いますか……これを、中に入れて炊くんです」

 講釈と言えるほど、威張れるものではないのですが、ほたるちゃんはとても興味深そうに聞いてくれます。

「あとは、手軽なものだと、こういうスティック状のものも……
 テーブルの上に置いておくだけで、少し気分が落ち着きます」

「美優さん、すごく大人の女性って感じで、カッコいいです」
「……へっ?」


 カッコいい、とは――?

「そ、そういうものでは……OL時代、上手く行かない事が多くて、だから……こういうのに、すがっていただけですよ」

「それじゃあ、私にも合うかも知れません」

 そう言って、ほたるちゃんは、スティック状のアロマグッズを手に取りました。
「私なんて、上手く行かない事ばかりですから」


 ――おそらく、彼女の癖なのでしょう。

 自嘲気味に笑いかけるその様が、すっかり自然な仕草として身についてしまっているようでした。


 何も言わずに、私はほたるちゃんの選んだそれと一緒に、レジへ持って行きました。

「お、お金、出しますっ」

 遠慮する必要なんて無いのに――彼女のその姿、どこかで見た記憶があります。

 会計をして、振り返ったほたるちゃんの顔を見て、気づきました。


 たぶん、私です――。

 遠慮して、何も欲しがる事をしなかった私に、どこか似ていると思いました。

「す、すみません……」
「謝ることでは、ないですよ」

 笑いかけながら、彼女のアロマを手渡すと、ほたるちゃんはなおも恐縮そうに身を縮めました。

「はい……ありがとうございます、美優さん」


 人に迷惑を掛けることを極度に恐れるあまり、彼女は、人に甘えることに慣れていないのかも知れません。

 なら、せめて私が、頼れる大人にならなくちゃ――ですね。


「ほたるちゃん、その……服とか、見てみませんか?」

「服、ですか?」
「私も、あまり頓着がある訳ではないのですが……たまには、ね?」

「とてもお似合いですよ! 新しく売り出したこちらのアウターが、当店では人気なんですっ。
 軽くて着心地良い上に風も通さないので、そう季節を選ばずに着れますよ?」

 そ、そうかしら――ほたるちゃんにも、お似合いですし――。


「お客さん、すっごくスタイル良いですね!
 このワンピースもいかがですか? さりげなくボディラインも強調できちゃいますよぉ!?」

 い、いぇ、私は――さりげない、というか、胸元が開きすぎ――。


「もうこの一点限りなんですよねー!」
「お連れの方にもぜひぜひ!」
「ご一緒に当店オリジナルのアクセサリーもいかがでしょう!?」



 ――――。

「あ、あの……美優さん」
「えぇ……ちょっと……休憩、しましょうか?」

 最上階にあるレストランフロアの、カフェに立ち寄ります。

 ようやく腰を落ち着けて――ふと窓の外を見ると、まだ雨が降り続いているようです。


「あの、すみま、いえ……ありがとう、ございます」

 目の前に座ったほたるちゃんは、やはりどこか申し訳なさそうです。

 断りきれなかったとはいえ、少し、羽目を外しすぎてしまったようです。
 しばらくは、節約をしなくてはならないでしょう。


 頼れる大人、というのは、難しいものですね。 

 なけなしの経済力にものを言わせたところで、みっともない姿を見せてしまいました。


 ――でも。

「ほたるちゃん、明るい色の服も、すごく似合っていましたよ」

「ほ、本当ですか?」
「えぇ」

 彼女にはやはり、アイドルとしての素質があります。

 店員さんの着せ替え人形にさせてしまったけれど――。
 服を変えるだけで、見違えるほど、さらに印象が変わるものですね。

「美優さんにそう言ってもらえると……嬉しいです」

 ほたるちゃんは、モジモジと顔を俯かせながら、控えめに笑みを零しました。


 この笑顔――そう。

 もっと、自分自身の魅力に気づかせて、萎縮しきった彼女の心を氷解させていく必要があります。

 そのためには、レッスンだけでなく、もっと彼女と色々な時間を共有して、魅力を見つけて――。

「いつか、晴れた日には、一緒に公園に行きませんか?
 私、犬が好きで、時々ドッグランを見に行く公園があるんです」

「い、犬……!」

 明らかに、ほたるちゃんが身を強張らせました。

「ご、ごめんなさい。犬、苦手でしたか?」
「毎朝、吠えられていて、ちょっと……あ、でも、頑張りますからそれは…」
「い、いえ! 頑張らなくても……」

「ただ……」


 ほたるちゃんが、窓の外に顔を向けました。

「たぶん、晴れる事は無いと思います……私と一緒にいる限り」

 その横顔は、寂しそうで、悲しそう――先ほどとは違う、普段彼女が見せる、自嘲気味の笑顔でした。


「私は、雨、好きです」
「えっ?」

 驚いた顔を、ほたるちゃんが私に向けました。

 失礼かも知れませんが、その意表を突かれた表情は可愛くて、ちょっと面白いですね。

「雨の音は、心が落ち着きますから」

「……無理に励まそうと、しなくて良いんですよ?」

 ほたるちゃんは、既に冷めてしまったカップを両手で持ち、視線を落としました。

「無理なんかじゃありません」

 自分の気持ちをどうすれば素直に伝えられるのか、分からないままの私の口から、気づくと声が出ていました。

「その公園には、綺麗なアジサイが植えられた緑道もあるんです。
 雨が降った緑道を、傘を差して散歩するのも、良いものですよ?」


「……今日よりも、大雨が降って……まともに、散歩もできないかも知れません」
「その時は、東屋で雨宿りしましょう。体が冷えてしまったら、近くにスーパー銭湯もあります」

「たまたま、配管の事故か何かで、営業停止しているかも……一度、そういう事が…」
「それなら、私の家に来ませんか? 今日買ったアロマの事も、ちょっとだけなら、教えられますし」

「電子機器とか、人の家に行くと、壊れてしまうんです……美優さんにご迷惑をおかけする訳には…」


「かも知れない、というだけでしょう?」
「えっ……」

 何を言いたいのか、うまく考えがまとまりません。

 ですが――“かも知れない”ばかりを挙げていては、キリが無いのも事実だと思うのです。

「かも知れないとしても……」


 思わず、はしっ、と彼女の手を取りました。

「私は、ほたるちゃんをもっと知りたいし、力になりたいんです。
 プロデューサーとしてではなく、私個人の気持ちとして」

 ほたるちゃんは、すごく驚いています。

「人に好かれる事を恐れていたら、アイドルなんて……!」


 ――言いかけて、ハッと我に返ると、私は口をつぐみ、手を引っ込めました。


 私自身、ロクに大成できていないくせに、何を偉そうに説教しようというのでしょう。

「ごめんなさい……あまりにも、身勝手でした」

「いえ」
 ほたるちゃんは、優しく首を振ります。

「美優さんの気持ち、伝わります。
 私も……トップアイドルを目指すと言いながら、臆病になりっぱなしでした」


 気づくと、ほたるちゃんが手を伸ばし、引いた私の手にそっと添えました。

「ほ、ほたるちゃん……」

「美優さんになら、私、甘える事が、できるような気がします。
 色々と、私の不幸のために、ご迷惑をおかけするかと思いますが…」
「ううん!」

 ギュッと、ほたるちゃんの手を握り返し、首を振ります。

「むしろ、共有させてほしいんです。ほたるちゃんの不幸を。
 二人なら、辛いのも苦しいのも、きっと半分で済むでしょう?」
「そ……」


 自分の不幸が周囲にまで及ぶ事を恐れる彼女には、酷な言い方だったかも知れません。

 ですが――そんなのやっぱり、間違いなんです。

「自慢じゃないですが……冴えない出来事との縁の深さなら、私もそう負けてはいませんから」

「美優さん……」

 彼女を救おうなどという、おこがましい考えなんてありません。
 私は、彼女を理解し、見出した魅力を一人でも多くの人に知らしめたい。

 担当プロデューサーとして――いいえ、彼女の友人として。

「帰る前に、傘を見に行っても良いですか? 私も、折りたたみを買っておこうかなぁと」
「もちろんです。行きましょう」


 そうして買った折りたたみ傘を手に、駅ビルを出る頃には、雨は上がっていました。

 これは、どっちかしら――ラッキー? それとも、「せっかく買ったのに」という不幸?

 ――あるいは、不幸であれば良いですね。


 両手にいっぱいの買い物袋をぶら下げながら、お互いに顔を見合わせて、私達は笑い合いました。

「あっ」


 帰り道、事務所が見えてきた所で、ふとほたるちゃんが立ち止まりました。

「どうかしましたか?」
「お土産……」
「あっ」

 そういえば、事務員さんから言われていたのを、私もようやく思い出しました。

「事務員さんも、軽い気持ちで仰っていただけだと思いますし、気にしなくて大丈夫ですよ」
「コンビニで、アイスでも……私、買ってきます」
「あ、ほたるちゃん」

「美優さんは、先に戻っていてください」
 彼女はそう言うが早いか、先ほど通り過ぎたコンビニへ走っていきました。


 ――コンビニで考えられる不幸と言えば、何でしょう?

 目当てのアイスが、売り切れているかも知れない。
 買ったアイスに、ゴミが入っているかも知れない。
 コンビニ強盗に遭遇するかも知れない。

 ――やはり、色々な可能性を言い出したらキリがありません。

 一部の常識外れなケースを除き、そう大した事態にはならないだろうと思い、私は彼女の言葉に甘える事にしました。



「ただいま帰りま……」

 事務所に戻り、扉を開け――かけた所で、私はその手を止めました。


「そこを何とか、もう一度お考え直していただけないでしょうか。
 私共と致しましても、これが……!」


 奥の方から、声が聞こえて来ます。
 普段はとても明るい調子だけれど、電話でお仕事の話をする時は、すごく丁寧な口調。

 しかし、いつもとは違う、とても切迫した様子の――プロデューサーさんの声です。


「いえ、それは誤解です。ご迷惑はおかけしません、どうか、どうかその日のイベントに……!?
 ちょっ、あの……!!」

 ――――。


 少し、時間を置いて、私は開けかけた玄関扉の間をすり抜け、閉めました。
「ただいま帰りました」


「……ん、美優さん?」

 プロデューサーさんは、執務室に入った私の姿を見ると、和やかな顔をしながら手を上げました。

「おーお疲れ~! ネーサンから聞いたよー、ほたるちゃんと遊びに行ってたんだって?
 いいなーそういうの大事だよね、たまにはサラッと羽を伸ばしてさ。レッスンばっかだと気ぃ詰まるでしょ?」

「いえ……気が詰まるほど、レッスンもあまり、できていないですが…」
「あ、そっかそっか悪い! まぁまぁ……おっ?
 何買ってきたのそれ、ひょっとしてお土産!? いやー悪いねー」
「あぁいえ! これは……す、すみません」

「あぁ、違ったか。いやいやこちらこそ。
 へぇー超買い込んだねぇ、楽しかった? いいなー」

 プロデューサーさんは、先ほどの切迫した声が嘘のように、私に気さくに話しかけてくれました。


 決して私達に見せない一面を、彼は隠し持っている。
 そんな彼を見て――私は、とある思いが生まれました。

「プロデューサーさん」
「ん、何?」


「何か、ほたるちゃんにお仕事をさせたいんです。イベントとか……できれば、ライブを」


 プロデューサーさんは眉を上げ、小首を傾げてみせました。
 無礼を承知で、私は続けます。



「この事務所が、無くなる前に」


 私がそう言った瞬間、プロデューサーさんの顔に緊張が走るのが見て取れました。

「教えてください。
 私達が、この事務所のアイドルでいられるのは……あと、どれくらいですか?」

 ――少し、穏やかな顔に戻して、どこかプロデューサーさんは他人事のように話しました。

「先方とは、9月末の契約に向けて、話を進めているところだね」

 私と、目を合わせようとしません。
 動揺した姿を見せまいと、平静を装っているのは明らかです。

「驚いたよ。いつか言わないと、とは思っていたんだけど……隠していてごめんね」


「それは、構いません」
 私は一歩、彼の方に進んで続けました。

「私が何とかしたいのは、ほたるちゃんが……今回の倒産を、ほたるちゃんのせいだと、思わせたくないんです」

 再び驚いた顔をして、プロデューサーさんが向き直り、私を見つめます。


「そのためにも、知らしめたいんです。ほたるちゃんが、どれだけ素晴らしいアイドルなのかを、多くの人に。
 だから、ライブを……無茶なお願いなのは分かっています。でも……!」

「残念だけど、それは難しい」

 毅然とした冷たい彼の言い方に、思わず私の体が強張ります。

「俺達が思っていた以上に、どうやらほたるちゃんの噂は有名らしくてね。
 彼女の名前を出した途端、会場も、共演相手の事務所にも、断られてしまう」

 ふふっ、と鼻で笑い、プロデューサーさんはかぶりを振りました。

「さっきも、交渉してみたんだけどね、ダメだった……最後の一件だったんだけどなぁ」


「プロデューサーさん……」

 この人も、お仕事を用意しようとしてくださっていたのですね。

 ひょっとしたら、私と同じ考えで――ほたるちゃんのために。



「ふっふっふ」
「……?」

 唐突に、プロデューサーさんが肩を揺らし、不適な笑みを浮かべました。

「だがな、諦めるのはまだ早い。正道がダメなら、邪道がある」

「さっき、難しいって……?」
「難しいとできないは違うんだよ、美優さん」

 先ほどとは違い、どこか得意げにプロデューサーさんは鼻を鳴らします。


「ただいま」
「た、ただいま帰りました」

 そこへ、事務員さんが帰ってきました。
 どういう訳か、ほたるちゃんも一緒です。

「お帰りネーサン、パルムあった? おっ、ほたるちゃんもお帰り」


「ちょうど、白菊君と出会った所で、コンビニ強盗があってな。少し手こずってしまった」

 そう言いながら、事務員さんは首に手を当て、けだるそうにコキコキと鳴らしました。

「だが、それを追い払ったおかげで、店長からこの通り、礼をもらってね。
 怪我の功名、と言ったところか」
「無傷じゃねーか」

 事務員さんがほたるちゃんと一緒に持ってきたのは、両手いっぱいのコンビニ袋に入ったアイスでした。

「す、すみませんでした……」
 ほたるちゃんが頭を下げると、事務員さんは呆れながら手を振りました。
「悪いのは強盗だ、キミとは何も関係が無い。
 たとえキミの不幸が遠因だとしても、キミが謝る話ではないだろう」

 まさか、本当にコンビニ強盗に遭っていたなんて――。
 事務員さんがいなかったら、どうなっていたでしょう。

「はい、あ、ありがとうございます」
「よろしい」
「ネーサンの腕っ節の強さときたら、草薙素子もかくやというメスゴリラだからな」

 プロデューサーさんがそう言った瞬間、事務員さんの、アームロック? が決まりました。
「いででででで!!!ごめんごめんごめんもう言いません折れるあいだだだだだ!!!」
「よろしい」


「そ、それで、プロデューサーさん」
「ん?」

 事務員さんに解放された右腕を回すプロデューサーさんに、私は問い直します。

「さっきの話ですが……あの」
「あぁ」

「今度、346プロが主催するでっかいライブイベントがあるの、知ってる?」

「サマーフェスか」
「そう、さすがネーサン、古巣だけあってよくご存知」

 プロデューサーさんが、ニカッと事務員さんに笑顔を返しました。
 って――えっ?

「古巣、ですか?」
「え、知らなかったっけ? ネーサン、前は346プロにいたんだって」

 そ、そうだったんですか――ほたるちゃんと一緒に、変なため息が出てしまいました。

「346プロでも、事務員さんだったんですか?」
「あれ、プロデューサーやってたんじゃないっけ? ネーサン」

「しがない事務員だよ」
 事務員さんは、自分の分のコーヒーを淹れ、席に着きました。
「うっそだぁ、バリバリの敏腕Pでしょ絶対。こんな偉そうな態度の事務員さんいる?」
「どの会社でも、サイフを預かる部署は偉いもんさ」
「そりゃ確かに。あ、話逸れた、それでね」


 オホンと咳払いをして、プロデューサーさんは本題に戻りました。

「そのフェスに、特別枠で参加させてもらえないか、先方と交渉してみようと思う。
 ウチの会社を346プロに買収してもらう、そのついでにな」

「そ、そんな事、できるんですか?」
 だって、346プロのイベントに、無関係の私達が出るだなんて――。

「そこでネーサンの力が必要になるんだ。ネーサン、誰か頼れそうなツテとかない?」
「私とて、魔法使いではない。出来ることと出来ないことがある」
「爪を隠してる場合かよ。いよっ、完璧超人」

 ハァ――と、深いため息をつく事務員さん。


 やがて、観念したように彼女は胸ポケットから手帳を取り出し、連絡先を探しました。

「……あそこの事業部長とは縁がある。機会を見つけて、コンタクトを取ってみよう」

「さっすがネーサン!
 ていうかさ、今回の話だって俺じゃなくてネーサンがササッと話を進めるべきだったろ、どう考えても」
「あの会社とはあまり接点を持ちたくないんだ。詳しくは言えないがね」
「そうやってワガママ言うから、俺や美優さんが割を食うんじゃんか、ちょっとは反省しろよ。
 美優さんも、この人にもっとベシッと文句言っていいからね」

「えっ……文句?」
「だって、346との調整を最初からネーサンがしてくれてりゃ、俺も美優さんとほたるちゃんのプロデュースにガシッと専念できたし、美優さんだって慣れないプロデュース業しなくて良かったんだよ?」

 なるほど、そういう事だったんですね――でも。


「むしろ、感謝したいです」
「は?」

 私の言葉に、プロデューサーさんと、事務員さんの目も点になります。

 私は一度、ほたるちゃんの顔を見て、二人に向き直りました。

「そのおかげで、ほたるちゃんのファンの、第一号になれましたから」


「……そういや美優さん、いつの間にほたるちゃんを“ほたるちゃん”って呼んでるね」
「あ……ふふっ。そうなんです」

「よーし、分かった!」
 プロデューサーさんが手をポンッと叩きました。

「俺も346のプロデューサーに一人、話の分かる人がいるから、ちょっとその人プッシュしてくるわ。
 ネーサンもあっちのお偉方とアレして、外堀埋めてって」
「それよりキミは、二人に楽曲を用意してあげなさい。交渉なら私と社長で進めておく」
「あ、そりゃそうだな。美優さん、足の具合はどう?」

「足は……」


 日常生活には、支障はありません。
 ただ――。


「行けます……ほたるちゃんと一緒に、レッスンします」
「よしよし」

「あ、あの」

 声がした方に、皆が振り返ると――おずおずと、ほたるちゃんが手を挙げていました。
「どうした、ほたるちゃん?」

「私、と、とても……嬉しいです、でも、その……こんな、私なんかのために、皆さんが…」
「はいっ! ほたるちゃん、アウトー」
「う、うえぇっ!?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、プロデューサーさんが小脇に置いていた何かをヒョイッと持ち出しました。
「デデーン、つってな」


 これは、よくある豚の、いえ――カエル、の貯金箱、ですか?

「いつだったか、『ゲロゲロキッチン』ってケーブル局の番組に、美優さん出たことあったでしょ?
 その時もらったヤツ。これからネガティブな事を言った人は、1回につき百円です。いいね?」

「え、あぅ、それは……でも、本当に私…」
「ほらほら、また言いそう! もう百円だぞ、ほたるちゃん!」
「は、はいっ! すみません、払います、払いますから!」
「いや、払えっつってんじゃなくてネガティブを言うなって」


「なるほど、思考の矯正ツールか。考えたな」
 顎に手を当て、繁々とそれを眺めながら、事務員さんがニヤリと笑いました。
「あ、ちなみに美優さんもだからね? ネーサンは、タバコ1回につき百円」

「高いな」
「嫌ならキッパリ禁煙しとけって。マジで女性のタバコだけは止めろよ、だから結婚できねぇんだ」

「いぃだだだだだだだだっ!!!」
 気づいた時には、またそういう、関節技のようなものを決めていました。
 お、折れていないかしら――?


「それならキミは、変な擬音を喋るごとに百円だな」
「は?」

 肩を回しながら、プロデューサーさんは首を傾げます。

「あ、あぁ……サクッととか、ビシッととか、ですよね?」
「えーそんなんでいいの? 俺全然サイフ痛まない自信あるけど」

「キミ、このパピコを二つに割ってくれないか?」
 事務員さんは素知らぬフリをして、二本セットのアイスをプロデューサーさんに差し出しました。
「えっ、何、ネーサンが割ってよ、そんくらいパキッと。あっ」

 あまりのあっけなさに、私も、ほたるちゃんも思わず吹き出してしまいました。

「きたねぇぞ! 絶対ハメだろ今の!」
「いいから、さっさとこのゲロちゃんに百円食べさせなさい。
 何なら1万円くらい、今のうちに入れといたらどうだ?」
「馬鹿にすんなこの野郎!」

 という訳で――私とほたるちゃんは、ネガティブな事を言ったら百円。
 プロデューサーさんは、擬音を言う度に。事務員さんは、タバコを吸ったら百円。

 サマーフェス当日まで、このゲロちゃん募金は続け、本番が終わった後の打ち上げで使いましょう、という事になりました。

 出られるのかどうか、まだ決まった訳ではないのに――ふふっ、楽しみですね。


「さて、そうなると……ユニット名、どうするかな」

 事務員さんが、ふと独り言のように私達に問いかけました。


 うーん、と腕組みをして唸った後、プロデューサーさんが顔を上げました。

「美優さんと、ほたるちゃんだから、『みゆ~ず』ってのはどう?」
「白菊君どこに行った。それに、何となくパクりっぽいだろう」
「あ、そう? じゃあ、苗字の三船と白菊で、『白船~ず』とか?
 それか、英語で『ホワイトシップ~ず』ってのは」
「キミ、少し黙って」


「あ、あの……ユニット名は、追って考えることに、しませんか?」

 そう私が提案すると、ほたるちゃんも含め、皆さんは納得してくださいました。



 いつ言うべきだろうかという、迷いだけが、私の胸に残りました。

 ――――――。

 ――――。


 突然に、しかし、いつも通りに、壁が私の行く手を阻みます。

 そして、いつものように、私は回れ右を――。



 ――? えっ――!?



「ダメなんです……私は、人を不幸にしちゃうんです。
 そんな人、アイドルになんて、なっちゃいけないんです……」


 あれは――。



   ――アイドルになりたくない?

「スカウト、ですか……? 私はもう、アイドルにはなれません!
 私は疫病神なんです。関わったら、あなたの事務所だって、倒産しちゃうかも……!」

   ――ハッハッハッハ。

「な……何が、おかしいんですか……?」


 壁がどんどん、迫ってきます。

 なのに私は――目の前にいる二人のやり取りに心を奪われ、その場を動くことができません。



   ――渡りに船、と言っては失礼だがね。

「えっ……?」

   ――もう、畳もうと思っているんだ。

   ――古い友人が、大手芸能事務所の重役をしていてね。

   ――彼と相談して、ウチの社員とアイドルを、その事務所に引き継ごうと思っている。


「あ、あの……」

   ――白菊ほたる君、と言ったね?

   ――キミには間違いなく、輝ける素質がある。それに、今私達のもとにいる彼女も。

   ――キミ達がそこに入る足掛かりを得られるよう、私に人肌脱がせてくれないかね?

「な……どういう、それは……?」


   ――さて、その前に質問だ。一度しか聞かないよ、いいかい?


   ――キミは、幸せになりたいかい?

「し、幸せに……不幸な私が、幸せなんて……」


 暗く恐ろしい壁が、見る間に空間を浸食していきます。

 二人の姿も――私自身さえ、輪郭が判然としなくなり、今にも押し潰されそうです。


   ――アイドルとして、輝きたくないかい?


「ぐすっ…………な、なりたい……です……幸せに……!」

「トップアイドルに、私……!!」



 ――――ッ!!!



 ――――。


 ――何かを叫びながら飛び起きたらしい事は、何となく分かります。

 しかし、何を叫んだのか、思い出せません。


 ひどい汗――シャワー、浴びなきゃ。

 あの日以降、明確な目標を得た私達は、とても精力的に活動を行っていきました。


「ぐわあああぁぁぁっ!!」
「トレーナーさーん!!」

 突然、レッスンスタジオの天井パネルが落下して、トレーナーさんが下敷きになりました。

「ぐぬぬ、そう来ましたか。が! どうと言うことはありませんっ!」

 すぐに飛び起きると、手際良くトレーナーさんはそれを片付けます。
「今日帰る時に、管理人さんに言っておきましょう。さぁ、再開しますよ!」
「はいっ!」


 ほたるちゃんと一緒に、レッスンに励むようになってからというもの、色々な事が起きます。

 音源の機器がダメになったり、天井や床が抜けたり――大鏡は、意外と壊れないもののようです。



 レッスンだけでなく、オフの日に二人で遊ぶ時も、心なしか雨の日が多かったり――。
「うひゃあっ!?」

「だ、大丈夫ですか!?」

 雨が降らない日は、度々こうして私の目の前に、植木鉢が落ちてきます。

 それ以外にも、車に水を跳ねられたり、自販機に入れたお札が、上手く認識されずに何度も返されたり。

 色々ありますが、まぁ――こんなものだろう、と思えば、案外普通です。

「す、すみません、私のせいで……」
「ふふっ、ほたるちゃん?」
「えっ?」

「アウト、ですね?」
「あっ」

 私が手を出すと、ほたるちゃんは照れ笑いをしながら、百円を差し出しました。



 事務所に戻ると、プロデューサーさんと事務員さんが、何やら喧嘩をしています。

「あっ、お帰り!
 美優さんほたるちゃん聞いてくれよ、コイツタバコ吸ってんのに百円出さなくってさぁ!」

「せっかく件の約束を先方と取り付けてきたんだ。それくらいの成功報酬はもらいたいな」
「俺だってちゃんと曲の手配したっての!
 そんなん当然の仕事だろ、このコンコンチキのオッペケペーのスットコドッコイめ!」
「はい、三百円」
「残念でしたー、今のは擬音じゃありませんー! 悪口ですー!」

 相変わらず仲良しの二人を見て、大笑いをする私達。
 そして――。

 い、今の話、ひょっとして――!?

「当日、1曲分歌わせてもらえるよう、先方と手筈を付けてきた。
 しっかり仕上げてくれたまえよ?」
「346プロお抱えのコンポーザーから、お蔵入りになりそうだった曲を譲ってもらえたんだ。
 デュオ用のパート分けとか、考えないとな」


「やったぁ!!」

 思わず、ほたるちゃんと手を取り合いました。

 すごい、本当に、ステージに立てるなんて――!

「やりましたね、美優さん!」



「……美優さん?」


「えぇ、そうですね! すごく楽しみです、ほたるちゃん」

「ここ、どうですか?」


「……少し、痛いです」

 お医者さんの問いかけに、私は少し、嘘をつきました。


「フ~ム……楽しいから止めたくない、というのは分からなくもないですがねぇ」

 半ば呆れ気味に、お医者さんは私の足を診ながら首を捻ります。
「時には趣味もほどほどにしとかないと、治るモンも治りませんよ。エアロビでしたかな?」

「は、はい……すみません」
「謝るなら、あなた自身の体に言ってあげたらどうです。ウーン、ここは…」
「いっ……!!」


「ちょっと……痛い、です」


 アイドルをやっている、というのは――恥ずかしくて、言えていません。

 いつかのオーディションで痛めたのは、左の足首でした。

 軽い捻挫でしたので、しばらく安静にしていれば、問題なく治るはずのものです。


「医者としては、おすすめはしませんけどねぇ。副作用の無い薬は無いんです」

 席に戻り、腕組みをしながらカルテを睨むお医者さんに、私は頭を下げるしかありません。

「すみません……でも、どうしても、仕上げなくてはならなくて……
 あとひと月、それを過ぎれば、先生の仰る通り、安静にします」


「フ~ム……」
 難しい顔をして、カルテにペンを走らせて、お医者さんはため息を一つつきました。

「分かりました。ただし、くれぐれも無茶はいけませんよ。
 最悪、取り返しのつかない……完治せず、一生痛みを背負う危険性もあるんだってことは、十分にご理解ください」


 痛み止めを、もう二週間分処方してもらい、また経過を診ることになりました。

 病院を出たその足で、午後のレッスンを行うスタジオへ向かいます。


 最寄駅に着くと、私を見つけたほたるちゃんが、手を振ってくれました。
「美優さん!」

「待たせちゃいましたか?」
「いえ。私が勝手に、早く来ちゃって……レッスン、楽しみだったから」

「ほたるちゃん、レッスン張り切っていますものね」
「はい。こんなに、充実した日々を過ごすの、初めてで……すごく、楽しいです」


 雨が降り始めた道中を、傘を差しながら二人並んで歩きます。

 ほたるちゃんは、今日は犬に吠えられなかったとか、バスの遅れも5分で済んだとか、とても嬉しそう。


 そんな、彼女の顔を見るのが辛くて――ほんの少し、顔を傘で隠しながら歩きました。

 薄々、勘づいていた事ではありました。

 元々素質があったほたるちゃんがレッスンを続ければ、見る間に実力を身につけていくでしょう。

 事実、ダンスもボーカルも、トレーナーさんが驚くほどの上達ぶりを彼女は見せていました。


 それに引き替え、私は――これまでの無理が祟ったのか、満足に踊ることができなくなってきています。

 ほたるちゃんとデュオを組むなら、私に合わせ、二人のダンスのレベルを下げざるを得ないでしょう。

 いえ、そもそも本番当日までもつかどうか――。


 足を引っ張りたくはありません。だから――。

「と、トレーナーさん、それは…」
「皆まで言わないでください、ほたるちゃん! 天井が落ちても、このヘルメットがあれば大丈夫!」

「アタシの心配よりも、ふふふ、美優さんもウカウカしていられませんよ!
 さぁ、始めましょうっ!」


 ――――。

「はい」

 今日も、言えない――か。

「あばばばばばばばっ!!」
「トレーナーさーん!!」

 機材の調子が悪くなったので、様子を見ようとしたトレーナーさんが突然、叫びました。

 漏電しかかっていたコンセントに手を伸ばし、軽く感電してしまったようです。


「あ、危なかった……ヘルメットが無ければ即死でした。が!」

 そう言って、軽く伸びをした後でトレーナーさんはニカッと笑い、隅に置いたバッグからスピーカーを取り出しました。

「こんな事もあろうかと、音源のスペアは用意してあります!
 さぁ、先ほどの「デッデーン♪」のところからもう一度っ!」

 た、たくましい――。

「はいっ!」
 一方で、ほたるちゃんは、やる気に満ち溢れた表情で、元気よく応えます。


 もはや、自分の不幸のせいだとばかり気にしてしまう彼女が、遠い昔の姿のように思えました。

「はぁ、はぁ……」

 ――――。

 疲労のせいもありますが――やっぱり――。

「美優さん、大丈夫ですか?」


「いえ……ごめんなさい。お願いします」

 ほたるちゃんとトレーナーさんが、心配そうな顔をして見つめるので、なるべく笑顔で返します。

 誤魔化すのも、そろそろ限界かも知れません。



 もう一度――もう一度、今のところを踊って、ダメだったら――。

 その時はちゃんと、言おう――言わなきゃ。
 これ以上、ほたるちゃんの足は、引っ張れない。


 そう、思っていたんです。

 靴紐が切れたのは、再開し、ステップを踏んで直後でした。



 視界がぐるりと空転し、鈍い衝撃がまず、おでこに来ました。

「ッ!? ……美優さんっ!!」

 そして、しばらくすると、燃えるような激痛が左足を襲ってきたので、倒れたまま、堪らず身を屈めます。


「美優さん!! 大丈夫ですか、美優さんっ!!!」



 声を押し殺し、左の足首を抑え、ギュッと目を閉じて痛みに耐えます。

 嫌な汗が、額をダラダラ流れていくのが分かります。


 荒い呼吸で、うっすら目を開けると、泣きながら必死に謝るほたるちゃんが目の前にいました。

 近くの病院で診てもらったところ、幸い、骨や神経に異常はないようです。

 先日、オーディションでやったのと同じ捻挫でしたので、一ヶ月ほど安静にしていれば治るだろうとのことでした。


 ですが――。

「ほたるちゃん、そう気を落とすなって。な?」
「…………」

 診療を終え、病院の待合スペースで、駆けつけてくれたプロデューサーさんがほたるちゃんに声を掛けます。

 それでも、彼女はその声に応じる事ができず、泣きながら黙って項垂れたままでした。


 まるで、自分自身が怪我を負ってしまったかのような――。

 いえ、彼女の事だから、自分がなれば良かったと、考えてしまっているのかも知れません。

「美優さんは…」
 ほたるちゃんの口から、ようやく――でも、涙混じりの声が聞こえました。

「……今度のフェスに、出られるんですか?」


 ――私はプロデューサーさんと、顔を見合わせました。

 彼は、どう言い繕おうか、言葉に迷っているようです。


「きっと、難しいでしょうね」

 嘘を言っても仕方が無いので、私はほたるちゃんに、なるべく明るい調子で話します。 
 プロデューサーさんが、小さく声を上げたのが傍で聞こえました。

「でも、ほたるちゃん。これは、本当の事なんですけれど……私、元々足を痛めていたんです。
 だから、今度のフェスも私、実は、辞退しようと思っていたんです。
 言い出せなくて、ごめんなさい。だからね、ほたるちゃん……その、本当に、気にしなくて大丈…」
「私なんて……」

「……えっ」

「私なんて、いなきゃ良かった!!」

 ほたるちゃんは、堰を切ってわぁっと泣き出しました。

「何を言うんだ、ほたるちゃん」
 ただならぬ空気を察したプロデューサーさんが、慌てて彼女の肩に手を添え、しゃがみ込みました。

「ほら、アレだぞ? そんなネガティブな事を言ったら百円だぞ?
 ワハハ、いつ君が言い出しても請求できるように、俺こうしてほら、ゲロちゃんを携帯して…」

「お金を払って美優さんの足が治るなら、私、いくらでも払います!!」

 ほたるちゃんは、自分の鞄からサイフを取り出し、お札を引っ掴みました。
「いくらですか、いくら払えば美優さんは…!」
「お、おい、ほたるちゃん落ち着け。誰もそんな事言ってないだろ?」

「私さえいなきゃ、美優さんはフェスに出れたんです!
 本当に、私、充実してて、た、楽しくて……!! やっぱり、私、幸せに、なっちゃ……なっちゃ、いけないんですっ……!」

 握りしめたお札とサイフを床に落とし、両手を顔に当てて、彼女は声を上げて泣き崩れました。


 ――それは違います。違うんです。

 私が、言い出せなかったから――もっと早く、辞退する事を皆に知らせてさえいれば、こんな事には――。


「ほたるちゃん」

「……美優さん……ごめんなさい…」
「どうか謝らないでください」

 私は彼女の手に、そっと手を添え、首を振ります。
「おかげで私も、吹っ切る事ができました」

「えっ……」
 彼女の手を、そっと顔から引き離すと――可哀想に、ほたるちゃんの顔は涙でぐしゃぐしゃです。


「薄々勘づいていたのですが、私は、アイドルよりも、裏方をやっている方が、性に合っている気がします」

 ふふっ、と、自嘲気味に――いいえ、自嘲ではありません。

 この数ヶ月は、真似事しかできなかったけれど――。


「私は、ほたるちゃんのプロデューサーとして、今度のフェスには臨みたいと思います。
 当日、ステージの上で、ほたるちゃんがしっかり輝けるように、私も頑張らなくちゃ」


 プロデューサーさんの方へ振り返り、笑いかけます。
「ですよね、プロデューサーさん?」

 あの時の、困惑気味のプロデューサーさんの顔が、脳裏に焼き付いて離れないのは、何故かしら――。


 あっ――。



 ――また、この夢か。

 最近、何だか思うようにいかないので、見るのが少し億劫になっている夢です。


 今回も、どうやら様子が違います。

 壁が迫ってきません。周りは――ここは――。



   ――大丈夫ですか?

「いえ、その……大丈夫、です……」


 これは――私の、記憶?


 ――――あぁ、思い出しました。

 右も左も、辺りはすっかりクリスマスムード。
 鮮やかなイルミネーションに彩られた夜の街を、幸せそうな顔をして歩く人々。

 その中にあって、私は、そう――ヒールが折れて、道端でうずくまっていたのでしたね。


「すみません。もう、構わないでいただけますか。大丈夫ですから……」


 思えば、恥ずかしい出会いでした。

 あの日の事を、どうして今になって思い出すのかしら――?


「アイドル……人前に出て歌ったり、踊ったりするあの……?
 私なんかが……無理ですよ」


 ただ――プロデューサーさんは、それでも私に手を――。


   ――決めるのは、あなたです。

 そう、彼は言って――。


 ――――!? えっ!?



 ふと、顔を上げた時、目の前にいたのはプロデューサーさんではなく、私でした。

「――――?」



 ――携帯にセットしたアラームが鳴っています。

 この手の夢を見る時は、大抵、目覚ましが鳴る前に飛び起きてしまうのですが――。
 なぜか今回は、比較的熟睡できたようです。


 今日は――午前中、346プロの方とフェスの打合せをして、午後はほたるちゃんのレッスン。

 あ、そうだ、ペーパー教習もお昼に予約しているから、忘れないようにしないと。


 それなりに、プロデューサーとしての心構えがついてきたから、あぁいう夢を見たのかも知れません。

 そう、前向きに考えながら、支度を済ませて家を出ます。

「はい、では予定通り、10時半頃にそちらに……いえ、私一人ですので。あ、白菊も同席させた方が?
 ……かしこまりました、ありがとうございます。では、先ほどの書類を持ってお伺い致しますね。よろしくお願いします」

 受話器を置き、私は書類をバッグに収めて席を立ちました。

「では、プロデューサーさん、事務員さん。フェスの件で、346プロへ行ってきます。
 その後は、ちょっと教習所へ行った後、ほたるちゃんのレッスンに立ち会いますので」

「あぁ、うん……俺も一緒に行こうか?」
「いえ、大丈夫です」

「無理はしないようにな」
 事務員さんが、声を掛けてくれます。
 私は、ニコッと笑みを返すと、ソファーの方に座っているほたるちゃんに向き直りました。

「それでは、ほたるちゃん。午後は頑張りましょうね」


「……はい」

 弱々しい返事――やはり、まだ引き摺っているのでしょう。

 どうにか、立ち直って欲しいのですが――。


 ちょうどヤクルトの方が来られたので、私は、タフマンを購入しました。

 電車に揺られ、駅を出て国道沿いに歩みを進めると――。


 ――何度来ても、大きな事務所です。

 煌びやかな装飾が施された建物に、お庭には大きな植栽がいくつも植わっています。
 敷地を囲う、格式高い塀も、入り口の位置から端っこが見えません。

 門をくぐると、手入れの行き届いた低木が色とりどりの花を咲かせ、来訪者を出迎えます。

 こういう所に勤める人は、正しく人生の成功者だろうなぁと、漠然と思うと同時に――。


 なぜ、事務員さんはこの事務所を辞めたのでしょう?
 という、素朴な疑問がふと頭をよぎりました。が――。

 打合せ前に余計な思案は不要でしょう。
 頭を切り換え、エントランスに向かいます。

 受付の方に用件を伝えると、上階の会議室へと案内されました。


 外も相当でしたが、中に入るとさらに――す、すごいなぁ――。

 う、いけない。集中しなくては――。

 08A会議室――ここかしら。

 引き戸が開いていたので、そっと中を覗くと――。


「ワハハハ、いやぁ346さん様々ですよぉ、私共のような弱小事務所に目をかけてくださるなんてぇ」


 いつも親切にお話を聞いてくださる、346プロの方とは別に――もう一人、今日は違う人がいました。

 大きく開いた体を椅子の背に預け、片手を机に乗せて、大声で笑う男の人。

 何となく、苦手そうな感じの人――。


「ん? ……ははぁ~」

 私に気づくと、その男の人は顔をこちらに向け、ニヤリと笑って鼻を鳴らしました。

「我々とは別に、サマーフェスでゲスト出演するという、もう一社のご担当者さんですかねぇ?」


 え――もう一社?

 私達の事務所と、この人の事務所の、ライブ対決。

 その勝った方にのみ、346プロへの編入を正式に認める。


 バツが悪そうに、346プロのご担当者さんが話すには、こういう事のようでした。
 話しぶりから察するに、どうも、半ば強引に進められたお話のようです。

 この事務所の方から――。

「いや、あのさぁ、この事務所さん……お名前何でしたっけ? まぁいいか。
 例の“死神”がいるっていう事務所が、かくも名高き346さんのフェスに飛び入り参加するって聞きまして。
 だったら我が社もちょっとそういうおこぼれに預かりたいと、ウチの社長も鼻息荒くしちゃってですねぇ」


 何がおかしいのか、仰け反りながら豪快に笑い飛ばし、346プロの方と私へ、交互に顔を向けます。

「一体どういう裏技使ったのか知らんが、346さんだって正直迷惑でしょ? “死神”が来たらさ。
 それに、より優秀なアイドルが入った方が当然に346さんのためにもなるワケですし。
 まぁま! 悪いようにはなりませんよ。オタクんとこもね?」

「……弊社が、ですか?」
 話の意図が分からず、キョトンとした顔をするしかない私に、その男の人は手を振りました。

「だからさぁー! 分かんない?
 身の程を弁えた方が、って話ですよ。オタクも子供じゃないんだからそれくらい察してほしいけどなぁ。
 “死神”ちゃんだって、とっとと諦めて普通の生活した方が、その子や業界全体のためにも良いでしょ?」


「……そうでしょうか?」
「あぁ?」


 私は、席を立ちました。

「彼女の事を知らない人に、知った風な口を聞いてほしくはありません。
 本当の彼女を……あなたが“死神”と揶揄するほたるちゃんが、どれほど素晴らしいアイドルか」

「あ、おい」


 真っ白な頭のまま、気づけば入り口のドアに手を掛け、それを引きながら私は彼に目を向けました。

「当日、お教えします。ほたるちゃんの本当の姿を……失礼します」


 ガタンッ、と、少し乱暴に引き戸を閉めてしまい――。

 荒い呼吸がやっと落ち着いた時、汗で滲んだ手の平に、爪の跡がくっきり残っている事に気がつきました。

「はぁぁぁ!? 何そいつ、やっぱ俺も行った方が良かったな」

 レッスンが終わった後、ほたるちゃんと一緒に事務所に戻り、その事を話すと、プロデューサーさんは分かりやすく憤慨しました。

「俺だったらそんな野郎、ボッコボコのケチョンケチョンのパーにしてやったのによ」
「三百円」
「だから悪口だっつーの。せめて“ケチョンケチョンのパー”は一語じゃない?」


「しかし、妙な事になったな……ライブ対決か」

 事務員さんは、椅子の背にもたれながら腕組みをして、天井を見上げました。
「その346プロの担当者も、情けないことだな。
 横柄な同業他社の強引な商談など、346の威光で突っぱねれば良いものを」

「ご、ごめんなさい……」

 部屋の隅で、ほたるちゃんがなぜか――いや、やはり恐縮そうに頭を下げました。
「私が、フェスに出させていただく事で、またご迷惑を……」

「はい、ほたるちゃん百円ね」
「う……」


「全然問題ないよ。要するにほたるちゃんの実力をガシッと見せつけて、黙らせてやればいいのさ。
 美優さんだって、そう啖呵切って来たんでしょ?」

「彼の言う通りだ」
 事務員さんがゲロちゃんを差し出して、プロデューサーさんが百円を入れました。

「我々が考える事は一つ。
 白菊君のステージを成功させる事だけだ。結果なんて後からついてくる」


「わ、私、そんなぁ……」

 お二人が鼓舞してくれても、ほたるちゃんはどうにも後ろ向きです。

 この間までは、少しずつネガティブな思考は改善されてきたように思ったのですが――。

「私、ライブなんて初めてで、そ、それも……一人で、ステージに立つなんて…」
「デデーンだぞ、ほたるちゃん」
「うぅ……すみませ…」
「おっと謝るなって、とりあえず百円」


 もし私が一緒に出る事になっていれば、彼女の心持ちも、少しは変わっていたでしょうか?

 冗談っぽく、ゲロちゃんへの募金を促すプロデューサーさんの顔も、少し曇っています。

「ほたるちゃん」

 すっかりハの字になった眉で、今にも泣き出しそうな顔をほたるちゃんは私に向けます。
「美優さん……」

「あの事務所の人に、ついムキになってしまった私も、大人げなかったと思います。
 でも……自分の事ならともかく、ほたるちゃんを馬鹿にされるのは、どうしても我慢できなくて」

「でも、その人の言うことは、間違っていません……私は、いくつもの事務所を…!」
 そう言いかけたほたるちゃんを、私は手で制止しました。

 この調子では、百円がいくつあっても足りないでしょう。


「だから、知ってもらいたいんです。あの人にも、ほたるちゃんの素晴らしさを。
 それが、プロデューサーである私の務めだと思うから」

 彼女の手を取り、自分にも強く、確かめるように言い聞かせます。

「一緒に頑張りましょう、ほたるちゃん」

「…………はい」

 ほたるちゃんは、弱々しく頷きました。
 観念したような――前向きな返答のはずなのに、何かを諦めたかのようでもありました。

 プロデューサーさんに、視線を送ります。

「うん……よしっ! 俺もこれからは本業にしっかり、ちゃんと復帰するよ。
 346側との交渉も、ネーサンのおかげでひと段落したしさ」

 腰に手を当てて鼻を鳴らしてみせますが、まだ、少し寂しげな顔をしています。
 プロデューサーさんらしくありません。


「……少し、一服してくるよ」
 ゲロちゃんに百円を入れて、事務員さんは部屋を出て行きました。

 フェス当日まで、あと三週間を切りました。

 トレーナーさんの指導にも熱が入ります。


「……! ふんがっ!!」
「と、トレーナーさん!」
「何のっ!」

 突然、立てかけてあった備品がグラリとトレーナーさんに倒れかかりましたが、難なく制します。
「目には付いていました。が! あえてそのままにしていたんですよ、あえてね」

 曰く、分かりやすい不幸があった方が対処はしやすいとのことです。
 ほたるちゃんとのレッスンを重ねるうちに、彼女もすっかり、不幸との付き合い方に慣れたようでした。


「す、すごいなぁトレーナーちゃん……いつもこんな感じなの?」

 プロデューサーさんは困惑しています。無理もありません。
 これまで彼がほたるちゃんのレッスンに立ち会うのは、そうありませんでした。


「さぁほたるちゃん。休んでいる暇はありませんよ! 続きをやりましょう!」
「はぁ、はぁ……はいっ!」

 ほたるちゃんは、滝のように流れる汗をリストバンドで拭い、決死の表情で応えます。

 塞ぎ込みがちになってしまったほたるちゃんのため、私とプロデューサーさんはある決断をします。

 それは、苛烈な猛特訓をほたるちゃんに課し、悩む隙を与えないというものでした。

「いささか酷だが、多少の荒療治をしないと、今のほたるちゃんの思考はそう簡単に改善しないと思う。
 トレーナーちゃんには、オーバーワークになりすぎないよう俺から頼んでおくよ」


 ですが――。

「振り足がまた遅れていますよ! 1、2の振り足っ!!
 重心もブレています、しっかり止める!! メリハリを意識してっ!!」
「はぁ、はぁ……!」

 傍目にも、明らかにあれはオーバーワークです。
 ほたるちゃんの疲労はとっくにピークを越えていて、もはや精細さがありません。

 これ以上は逆効果です。

「と、トレ…!」

 トレーナーさんの元へ行こうとする私を、プロデューサーさんが制しました。


「プロデューサーさん……!」
「彼女達を信じるんだ」

 ふと、トレーナーさんと目が合いました。
 彼女は、真剣な眼差しを私に真っ直ぐ向け、黙って頷いています。

 やがて、それをほたるちゃんに戻しました。

「トップアイドルになるために、今のこの苦しみは誰もが通る道です。
 ほたるちゃん。あなたは、トップアイドルになりたいですか?」


「はぁ……はぁ、ぐ、う……わ、わたし……!」

 ほたるちゃんは、震える膝を何とか手で押さえながら、ようやく立ち上がりました。

「私、なりたいです……トップアイドル……なりたいです!」
「ならグズグズしている暇はありませんよ! もう一度「テンレレー♪」の所からっ!!」
「はいっ!!」


 あんな言い方――!

「お、おい美優さん……?」


 ――――卑怯です。

 このシチュエーションで、あんな事を聞かれて、否定できるはずがありません。

 逃げ道を、自らの手で断つように仕向けて、追い詰めるなんて――。

 まるで、軍隊か何かのような、思想の強制――洗脳と言っても良い仕打ちです。


 ですが――。

「……すみません。ちょっと、お手洗いに」
「お、おう」


 それでも、彼女の頑張る姿に嘘はありません。

 そして、それを見守る事すらできない私は、プロデューサー失格なのだと思います。



「う、ウゥ……ウォェェ……ッ!」

 いっそ、この胸に渦巻く不安や焦燥も、丸ごと吐き出したかった。
 ですが、吐き出されるのは、お昼ご飯代わりに摂取したタフマンだけです。

「はぁ、はぁ……」

 自身の負の感情にさえまともに向き合えない自分が情けなくて、涙ばかり出ます。

 このままではいけません。

「プロデューサーさん。三日後の午前中に、ほたるちゃんの地元の町内会でイベントが予定されています。
 これに参加して、本番に向けたPRをしてこようと思うのですが、いかがでしょう?」

 デスクに着く彼に、先方からいただいたチラシを見せながら、私は続けます。
「既に町会長さんのご了解はいただいています。前泊用のホテルも押さえていますし、心配ありません」


 レッスンと同じくらい、宣伝活動も大事です。
 知名度がほとんどゼロの状態のままステージに上がる事は、本番では大きなハンデになります。

 せめて、ほたるちゃんの地元で、応援してくれる固定ファンを獲得しておかないと――。


「いや、たぶんそれはよした方が良いと俺は思う」

「なっ……」
「私も同感だ、三船君」

 じ、事務員さんまで――一体、どうしてですか!?

「理由は二つある」
 プロデューサーさんは、腰を上げました。

「まず、距離が遠い。ほたるちゃんの地元は鳥取だったな。
 新幹線か飛行機で行くにしろ、彼女の経歴を考えると、何かしらのアクシデントに巻き込まれないとも限らない」

 給湯器で自分のカップにお湯を入れながら、プロデューサーさんは続けます。

「それに、町内会のお客さんにとっても、東京は気軽に来れる距離じゃない。
 フェス直前の大事なこの時期に、リスクを背負ってまで地方のイベントにちょびっと顔を出しても、期待できるリターンは正直言って割に合わない」

「で、でも何かが起きると決まった訳ではないですし、お客さんだって…!」
「もちろんだ、だがもう一つ」
 ムキになる私を、プロデューサーさんは冷静に諭します。


「繰り返しになるが、彼女の不幸話は業界ではかなり有名らしいんだ。
 まともにデビューしていないにも関わらずな……これは相当な事だと思う。
 ロクに実績も無いまま迂闊に顔だけを売って、ネットか何かで良くない噂ばかり広まっては都合が悪い」

「……ッ!」
「だから、たとえそれが東京であったとしても、俺は出ない方が良いと考えている」


 私の認識は――甘かったというのでしょうか。

「大丈夫だよ、美優さん。むしろ当日まで秘匿させてやろうぜ」

 プロデューサーさんはコーヒーを啜って、ニッコリと笑いました。
「えっ?」

「秘密兵器ってヤツだ。
 本番までひたすらステージの練度を高めて、当日はその知名度の低さを逆手に取り、観客をアッと言わせるパフォーマンスをバシッと披露する」

 事務員さんが、ゲロちゃんを差し出しました。

「ジャイアントキリング、ってワケでもないが、どんでん返しはショーの基本だろ?」
「キミ、百円」
「うるせぇな空気読めよ、人が良い事言ってる時に」

 渋々百円を取り出し、ゲロちゃんに入れます。

「だが、彼の言い分にも筋がある。
 PRが大事という三船君の意見ももっともだが、あれこれ無闇に手を伸ばさない方が、今は合理的だろう。
 二兎を追う者は一兎も得ず、だ」

「……はい」

 私は、この事務所の――ほたるちゃんの力に、なれないままです。

 肩を落として、自分のデスクに着きました。
 先方の町会長さんにも、お断りの連絡を入れなくちゃ――。


「美優さん」

 ふと、顔を上げると、ほたるちゃんがニコリと笑って、二つ折りのアイスを一つ差し出しました。
「ありがとうございます……私のために」

「いえ、私なんて何も……すみません」
「あ、美優さん」
「えっ?」

「アウト、ですよ。ねっ、プロデューサーさん?」
 そう言って、ほたるちゃんが目配せしました。

「はっはっは。一本取られたな、美優さん」


「……ふふっ」

 ダメですね、私――逆に、励まされてしまいました。

 いつぞやいただいた大量のアイスが、順調に消化され、いつの間にか底をついてきました。

 真夏の暑さがいよいよピークを迎え、フェスの本番も三日後に迫っています。


「はぁ……はぁ……!!」
「ほたるちゃん、一度水分補給しましょう……ほたるちゃん?」

 レッスンの成果は、確実に現れています。
 基礎練習を地道に重ねてきた甲斐があり、ボーカルは、力強く伸びのある発声を一曲通して行えるまでになりました。

 そして、ダンスの完成度もまた、一定の目標ラインに到達しつつある――のですが――。


「も、もう一度……はぁ、はぁっ……た、ターンが……!」

 ほたるちゃんが、トレーナーさんに何かを訴えますが、その目は虚ろで、意識が朦朧としているように見えます。

 明らかに、様子がおかしいです。

「ターン? ……ほたるちゃん、今やってるパートには、ターンありませんよ?」
「はぁ、はぁ……!」


「ほ、ほたるちゃん……?」
 心配そうに見つめるトレーナーさんも、よく見るとすごい汗です。

 いや――。

「お、おい。ひょっとして空調壊れてないか?」
「えっ?」


 途中から、妙に暑いと思っていました。
 ただ立っているだけなのに、先ほどから汗が止まらないのです。

 プロデューサーさんに指摘され、操作盤を弄ってみますが、反応があるように思えません。

 ほ、ほたるちゃん――!


「きゅ、休憩しましょうか。ねっ? 本番も近いですし、ジタバタしなくとも今はもう……!?」

 トレーナーさんが言葉を止め、見る間に顔を青ざめながらほたるちゃんに駆け寄ります。

「ほたるちゃんっ!?」


 まるで糸が切れた人形のように、膝から崩れ落ちそうになったほたるちゃんを、トレーナーさんが支えました。
「ほ、ほたるちゃん!! 聞こえますか、ほたるちゃん!?」


「ごめんなさい……わたし、ごめ………なさい……」

 慌てて駆け寄り、彼女の口からかすかに聞こえた声が、誰に対するものなのか、分かりません。

「アタシの責任です」

 スタジオの管理室で、トレーナーさんが頭を下げました。
 普段の明るい彼女からは想像できない、悔しさに満ちた苦悶の表情です。

「アタシがほたるちゃんの疲労具合を管理し、適正にメニューを調整しなくてはなりませんでした」

 プロデューサーさんがかぶりを振りました。
「トレーナーちゃんのせいじゃない。今日までの猛特訓を依頼したのは俺達だ。
 それに、空調が壊れていた事に、もっと早く気づくべきだった」


 ほたるちゃんはソファーに寝かされ、首元と脇、太ももには冷やしたタオルが巻かれています。


 自分の無力さに、私は手を握りしめました。

 彼女のプロデューサーを気取っていながら、何一つ、彼女や事務所の役に立てていない。
 それどころか、不注意から、彼女の身を危険に晒してしまったのです。


「美優さん」
 私の焦燥を察したらしいプロデューサーさんが、声を掛けてきました。

「思い詰めるなよ。美優さんのせいじゃないんだからな」

「私のせいじゃないのなら」

 プロデューサーさんに、私は向き直りました。
「一体私は、何のためにいるのでしょうか」

「そ、それは……」
 プロデューサーさんは狼狽えました。
 思いもよらない私の反論に、咄嗟に返すべき言葉に迷い、困惑した様子です。

「……誰のせいとか、犯人捜しをして済む話じゃない。
 強いて言うなら、ほたるちゃんの不幸のせいもあるかも知れないし、それは俺達がどうこうできる話じゃ…」

「何でもかんでも、ほたるちゃんの不幸のせいにしないでくださいっ!!」

 プロデューサーさんとトレーナーさんが、ビックリして身じろぎしました。


「私は……!」
 自分でも驚くほど大きな声を出して、頭の中は真っ白です。
 目の奥がジワリと熱くなり、呼吸さえ、その方法を忘れたようにままなりません。

「不幸、不幸、って……彼女が背負う不幸が、全て彼女のせいなんですか?
 違います。少なくとも、今回はもっともこの子の傍に居た、私が気づくべきだったんです。
 不幸というなら……私が、彼女の不幸を招いたんです。私は……!」
「落ち着け、美優さん!」

「私は、ほたるちゃんのそばにいるべきではありません……!」



「おい、待て、美優さんっ!」


 スタジオを飛び出し、どこへともなく駆け出しました。
 足の痛みなど、まるで気にする暇もありません。


 途中、どこかのバス停で、ちょうど停車した行き先も分からないバスに飛び乗りました。

 空いていた後ろの方の座席に座り、逃げるように、隠れるように身を縮めます。
 早く発車して――!


 やがてバスが動き出し、先ほど駆けてきた道が遙か後方に通り過ぎると、私の口からため息が漏れ――。

「うぅ、う……!」
 劣等感に満ちた嗚咽を必死に抑えようと、私は口に手を当て、うずくまりました。


「大丈夫?」と、通路を挟んで向かいの席に座ったお婆さんが、声を掛けてくれます。
 でも、私は、それに応える事ができませんでした。

 ――――。


 部屋着にも着替えず、電気も付けず、ボーッとベッドにもたれながら、気がつくと陽が落ちていました。

 視線の先には、この間買ったアロマディフューザーが暗闇の中、テレビ台の上で黙々と細い煙を吐き出し続けています。



 ふと、ほたるちゃんと一緒にアロマグッズを買った日を思い出しました。


   ――私なんて、上手く行かない時ばかりですから。

 そう言って控えめに笑う、彼女の顔が浮かびました。



 あのアロマは、いくらか彼女の慰めになったでしょうか?

 私は――。


 少なくとも、目の前のそれは、今の私を少しも慰めてはくれません。


 ――――。

 と、そこへ――。

「……!?」
 突然、携帯が鳴りました。

 あぁ、プロデューサーさんか、事務員さんだろうな。
 ご迷惑、おかけしちゃった――。

 そう思い、暗い部屋の中で煌々と光るディスプレイを覗き込みます。



「……ほたるちゃん」

 そうか――彼女に謝ることさえ、私はできていなかった事に、今になって気づきました。

 通話ボタンを押し、おそるおそる、耳に当てます。


「……もしもし」

『美優さん』


 思いのほか、張りのある声の様子から、どうやら彼女はいくらか快復できたようです。
 良かった、本当に――。

『ごめんなさい』

「えっ?」

 電話口の彼女の第一声は、私が言うべき言葉でした。
『余計な心配を、かけてしまいました』

「そ、そんな事はありません。私の方こそ…!」
『美優さんは……』

「えっ?」


 ――しばらく沈黙が続いたのち、先ほどよりもか細い声が聞こえました。

「私のそばに、いるべきではない、って言ったの……本当ですか?」


「ほたるちゃん……」


 シュウゥゥ――という、無機質な音だけが、真っ暗な室内に響きます。


 私は、かぶりを振りました。
 今さら何を、取り繕うことがあるのでしょう。

「そうですね……結局私は、何もほたるちゃんの役に立てませんでした」

『あの後、プロデューサーさんと、お話したんです』
「プロデューサーさん……」

『私は、悔しかったんです。
 美優さんが、一緒に出られなくなった事が……それが、私の不幸のせいである事も』
「ほたるちゃんのせいじゃないってあの時…!」
『でもそれ以上に……』

『それ以上に、私が悔しかった事……何だか分かりますか?』


「悔しかった事……?」

 逡巡し、何も思い当たる答えが浮かばずにいると、ほたるちゃんが続けました。



『美優さんが、諦めた事です』

「わ、私が……?」

 諦めた――確かに、アイドルとして出る事は、諦めざるを得ませんでした。

 ですが、今さらどうこう出来るものでも無かったのです。
 悔しいと言われた所で、仕方がありません。


『そうやって……簡単に諦めきれるものじゃないはずです、夢って』


「簡単……夢、って……」

 私は――ほたるちゃんの言葉に、イライラしてしまいました。

 だって、しょうがないでしょう?
 足を痛めてステップが踏めるでしょうか。

 第一、私は――!

「私は、スカウトされてこの事務所に来たんです。
 自ら進んでアイドルを目指した訳じゃありません。それを、勝手に夢だなんだと押しつけられたって……!」



 あ――。


「…………ごめんなさい」

 一回り以上も年下の子に、私は――なんて醜い言い逃れをしてしまったのでしょう。

『いえ、美優さん……私の方こそ、勝手なことを言って、すみません』

 ふぅ――と、気持ちを落ち着けるような、長い深いため息が電話口から聞こえました。


『プロデューサーさんも、やっぱり……悔しいと、仰っていました』

 プロデューサーさんが――?

『アイドルとして輝けるはずだと、自分が信じてスカウトした人が、それに未練を覚えずにいる事が悔しい、って……
 美優さんには、内緒にしてくれって、言われていたんですけどね』

 ふふっ、と、忍ぶような笑いがかすかに聞こえて――。

『だから、アイドルの素晴らしさを、美優さんに教えてやってくれ、って……
 私、こんな所で、倒れる訳にはいかなくて……私は、誰よりも何よりも、美優さん』


『あなたのために、ステージに立ちたいんです。
 だから……そばにいないなんて、言わないで、くださいっ……』

「ほたるちゃん……」


『私を、見てください……そ、そばに、いてくださ、いっ……ひ、いぃ……!』


 電話の向こうから、すすり泣く声がかすかに――次第にそれは、大きくなっていきました。

『う、ぐ、役に立つとか、ひ、ぐっ……立たないとか、じゃなくてぇ……!
 みゆ、さんに、み……みて、ほしいから……いて、え、ぐっ、くれなきゃ……う、うぅぅ……!』

 ――――私は。

 お世辞にも、プロデューサーとしての役目を、果たせているとは言えません。
 ですが――。

『う、わあぁぁ……あぁ……!』



「どうか、泣かないでください」

 彼女を泣かせるような事が、あってはいけません。
 それは、プロデューサーの役目とか、そういう次元の話ではなく、彼女の友人として。

 少しでも、私がそばにいることで、ほたるちゃんの勇気になれるのだとしたら――。

「とても、こんな事を言う筋合いは無いことを承知で言います。ほたるちゃん……」


「どうか、最高のステージを私に見せてください」

 彼女のファン第一号は私なのだという、その自負だけは、誰にも譲れないのだから。

『……はい』

 しばしの沈黙の後、彼女のすすり泣きがようやく収まり、短くも力強い返事が聞こえました。


「ふふっ……お互い、五百円ずつくらいでしょうか?」

『ふ、ふふ……あははは』
 ちょっと冗談めかして言ったら、それが自分でも存外面白くて、二人で笑い合いました。



 少し言葉を交わして、電話を切り、テーブルの上に置きます。

 何だか胸の憑きものが取れたような、少し晴れやかな気持ちになれました。

 電気を付けて、着替えをして、お化粧を落として――。
 あ、後でプロデューサーさんにもお詫びの連絡をしないと。


「…………あ」

 ふと、自分の携帯――正確に言うと、スマホケースに目が留まりました。

 拾い上げ、それを何となしに見つめます。


 テントウムシ――。

 ほたるちゃんが好きだと言ったそれのシールが、年甲斐もなく私のケース上で、可愛らしく踊っています。


 そう言えば、社会人になってから、あまり見たことが無い気がします。
 何となく春頃の虫というイメージだけど、今の時期もいるのかしら――?


 一度気になりだすと、何だか落ち着かなくなってしまい、インターネットで少し調べてみました。


 基本的に、冬以外はそれなりに出てくる虫なのだそうです。
 へぇ――思っていたよりずっと多くの種類があって、驚きます。


 あっ――。

 逸話。

 高いところへ登る習性。


 斑点の由来――。



「……天道虫、か」

 調べれば調べるほど、ほたるちゃんのイメージにピッタリだなぁと、私は思いました。

22時半頃まで席を外します。
あと4割ほどあり、4時頃までに終えられるといいなぁと思います。

 ――――――。

 ――――。


 私の目の前で、一人の少女がうずくまっています。

 言うまでも無く、これは夢です。


「大丈夫ですか?」

 私は、その子に声をかけました。


 少女は顔を上げます。

 あぁ――やっぱり。


 その子は、私です。
 幼き頃の私が、目の前にいます。


 彼女は何も言わず、私を見上げています。

 我ながら、とても大人しくて――聞き分けの良さそうな子です。

   ――おーい、ミィちゃーん?


 遠くでふと、彼女を呼ぶ声が聞こえました。

 とても懐かしい声です。

「おばあちゃん……」



 世界が次第に輪郭を帯びてきました。

 緩やかに流れる川のせせらぎ。その傍に広がるのどかな田園と、あぜ道の匂い。


 そう――父方の実家に遊びに行くときは、決まって夏休みでした。

   ――ミィちゃーん。ミィちゃん、ここにいたのかい。おや?


 祖母は、私を見るとニコリと笑い、頭を下げました。


   ――あらあら。すみませんねぇ、孫がご面倒をおかけしたようで。

「いえ、何も……」

   ――この辺の人じゃないねぇ。どちらから来なさった?

「あ、えぇと……東京、です」

   ――東京からねぇ。ここは何も無くて退屈でしょう、ホッホッ。爺さんの田畑しかねぇ。

「い、いえ、そんなことありません! 私……とても、好きです」

「今は、東京住みですけど……
 私の実家、ここから車で1、2時間ほどの、同じ県内ですから、懐かしくて」


   ――あらぁ~そうだったの。こんな綺麗な人だのに同郷だったなんてぇホッホッホッ、嬉しいわぁ。

   ――ミィちゃん。ミィちゃんこの人も岩手の人なんだって。

 ギュッと祖母の体にしがみつく幼い私を、祖母はニコニコと優しく撫でます。

   ――ミィちゃんも大きくなったら、この人みたいに綺麗になるかもねぇ。


 そう、祖母は――この後きっと、家の近くの畑に彼女を連れて行って、テントウムシの捕まえ方を教えるのでしょう。


   ――もう二ヶ月くらいしたら新米がとれっから、良かったらまた来てください。それじゃあ、ミィちゃんや。

「あ、あのっ!」

   ――はい?

「その子は、将来綺麗で可愛い子に、なると思いますか?」

   ――もちろんさぁ。せがれの嫁さんに似て良かったよぉ、せがれの方に似なくてぇホッホッホ。

「あ、あの、だったら……」


「その子、おそらくは聞き分けが良くて、手の掛からない子だと思います」

「でも、自分から、何かを欲しがったり、何をしたいっていう事も、あまり言わない子だと思います」


「ですから……もしその子が……いえ、きっと言わないでしょうけれど……」


「もしその子が、将来……」

 アイドルに――――。


 ――――?



 ――アラームは、鳴っていないようです。

 自分の寝言で目が覚めるなんて、初めての事でした。


 アイドル――?

 どういうシチュエーションや話の流れで、夢の中の私がそう言ったのかが思い出せません。


 しかし、気にしている場合ではありません。
 今日は、サマーフェスの当日。

 手早く、しかし、いつもよりしっかりと朝の準備を整え、私は家を出ました。


 暗い雲が、空を覆っています。
 今日は、台風と大型の積乱雲が関東を直撃するかも知れないとのことです。

「ゲロちゃん募金、すげぇ貯まったからさ。
 フェスが終わったら、どっか卒業旅行にでも行こうぜ」

 会場へ向かう車の中、運転していたプロデューサーさんが話しました。

「ほたるちゃんの地元に行こうよ、鳥取。この間行けなくてごめんな」
「い、いえ。アレはしょうがなかったですし」


「あの……募金は、今日の打ち上げで使う予定では?」
 野暮ですが、私がそっと尋ねると、助手席の事務員さんがこちらに視線を向け、肩をすくめてみせました。

「この男が散々ゲロちゃんに食べさせてくれたおかげで、とても今日使い切れるものではなくてね」
「ワハハ、もっと褒めて」

 後ろの席にいた私とほたるちゃんは、おかしくなってつい笑ってしまいます。


「あ、美優さんの地元でもいいよ。岩手!
 前沢牛、盛岡冷麺、わんこそば! わんこそば勝負しようぜ!」
「い、いえぇぇ……私、食べた事なくて…」
「はっ!? 美優さんやった事ないの、地元なのにっ!?
 だったらなおさら行こうよ! 俺と美優さんチームと、ほたるちゃんネーサンチームね」

「わ、私はいいです。そんな食べられないですし…!」
「私が食べる。何も問題は無い」
「問題は無い、って、そういう問題では……」
「ネーサンの胃袋は宇宙だからなー」

「あれ、そういやネーサンは? 実家どこだっけ?」

 ふと、思い出したようにプロデューサーが聞きました。
「ご両親もイイ歳でしょ? ずーっと働きづめで、全然お休み取ってないじゃん、ネーサン」


「いや」

 事務員さんは、窓の外に顔を向けました。
「親には、この間会った」

「あ、そうなの? ひょっとして東京? 土日でピロッと行ってきたの?」
「百円」
「あぁ、サイフそこにあるから適当に出して」


「平日さ。彼の会社に行ってきた」

「会社?」
 それも、平日に――?

「会社って、どちらですか?」


 事務員さんは、頬杖をついて窓の外を見ながら、鼻でため息をつきました。

「346プロさ。そこの事業部長が、私の父でね」

「えっ……あ、そうなのぉ!?」
 一際大きな声で、プロデューサーさんがキョロキョロと事務員さんの顔を覗き見ています。

 どうやら、彼も知らなかった事のようです。当然、私とほたるちゃんも驚きました。

「親の仕事も見ていたし、私もかつては、人並みにアイドルというものに憧れていてね。
 これに関わる仕事をしたいと思い、入った会社だったが、色々あってな」
「色々って?」
「色々だよ」

 あまり、語りたくないご事情のようです。
 プロデューサーさんも、「ふーん」と聞き流し、深くは追及しませんでした。

「だから、あまり行きたくなかったのだがな。
 今回は差し詰め、時の用には鼻をも削ぐ、といったところか」


「はぁぁ……なるほどなー。自分の親父へ仕事上の協議に行くとか、想像したくねぇ~」
「私が346プロへ行くのを、嫌がる理由が分かってくれたかい?」
「うん、ごめんねネーサン」

「話を戻そう」
 ふぅ、とため息をついて、事務員さんは後ろの私達に向けて手を上げてみせました。

「温泉でもどうだろう。関東圏内なら、箱根や群馬の草津温泉など、日帰りでも行ける所はある」
「えーやだよ日帰り、忙しいじゃん。ゆっくり一泊してこうぜ」
「キミは別部屋でな。三船君と白菊君はどうだ?」

 私とほたるちゃんは、顔を見合わせました。

 皆で温泉旅行、楽しそう――私には、断る理由はありません。
「ほたるちゃん、どうですか?」

「わ、私は……」
 ちょっと悩んで――でも、すぐに彼女は、顔を上げました。

「行きたいです。皆で、旅行っ」


「うわぁ良かったぁ~!」
 プロデューサーさんが、なぜか大きなため息を漏らしました。

「ほたるちゃんの事だから、「いえいえ私なんてぇ~!!」とか言い出したらどうしようかと思ったよ」

「え、えぇぇっ?」
 困惑した様子で、ほたるちゃんがプロデューサーさんの方を見ました。

「どこぞの若手芸人ばりに、食い気味に「また私の不幸が皆々様にご迷惑をぉ~!!」とか言い出したら」
「そ、そんなキャラじゃないです、私っ!」
「ワイパーかってくらい手をぶんぶん振って、「お金なら出しますからぁ~~!!」っつって」

 そのおどけ方があんまりおかしくて、私は、お腹を抱えて笑いました。

「み、美優さんまでそんな、笑わないでください!」
「だ、だって、ふふ……プロデューサーさん、おかし……アハハハ!」


「フフ……それだけネガティブな思考が治ったなら、どうやら心配なさそうだな」

 事務員さんも、呆れながら満更でもないように、ゲロちゃんの頭を撫でています。
「このゲロちゃん募金も、一定の成果を得たという訳だ」

「そうだな」
 プロデューサーさんは、ハンドルを握り直し、前を見つめました。


「さて、その成果を見せる時だ……見えてきたぜ、会場がよ」

 大きな国立公園の、関係者専用の駐車スペースに案内され、車を降ります。

「そうだ。オバちゃんから高ぇタフマン、皆の分も買っといたから、本番前に乾杯しようぜ」

 そう言ってプロデューサーさんが、手に持った袋から皆にそれを手渡しました。

 なるほど、ラベルがちょっと豪華なんですね。


 しばらく公園内を歩いて行くと、やがて、広場の中央に設けられたステージと、大小様々なテントが見えてきました。


 ここが、今日の会場――ほたるちゃんが練習の成果を見せる場所。

 思わず、唾を飲み込みました。
 私が緊張したって、仕方が無いのは分かっているのですが――。


「はぁ~、すげぇなぁ」

 慌ただしくスタッフさんが右往左往している間をすり抜け、我知り顔でプロデューサーさんはステージに上がりました。
 事務員さんもそれに続きます。

「あ、あの、プロデューサーさん」
「美優さんとほたるちゃんもこっち来なよ、ちゃんと見といた方がいいぞ」

 そ、そう言われても――い、良いのでしょうか?

「遠慮をするな。キミ達だって関係者どころか、白菊君に至っては今日の主役だろう?」

「主役……」

 ふと、隣に立つほたるちゃんを見ました。


 彼女は、背筋を伸ばして唇をキュッとつぐみ、ステージを一点に見つめています。

 ずっと憧れていながら、ステージはおろか、レッスンさえまともに受けてこられなかった。
 そんな彼女が、いよいよこの日を迎えたその胸中には、どんな想いが去来している事でしょう。


「ほたるちゃん」
「……はい」

 私は、ほたるちゃんをステージの上に促しました。

 一歩一歩、ゆっくりと段を上がり、プロデューサーさん達のもとに向かい、観客側を振り返ります。



 ――――。

 私は、目眩がしました。

 私の通っていた地元の高校は、田舎であった分、敷地も校庭もすごく広いものでした。
 100m走のレーンを斜めではなく真横に引いて、なお十分な余裕があったほどです。

 眼下に広がる一面の広場は、記憶にあるその校庭の、優に倍の広さはあるでしょうか。

 チケットは完売とのことでした。つまり――。
 およそ数時間後には、この広場を大勢の観客達が埋め尽くす事になります。


 私は――内心、ホッとしてしまいました。

 その光景を想像するだけで、私は足がすくみ、声を失ってしまいます。


「ここが、今日の会場なんですね……」

 ほたるちゃんは、独り言のようにそう呟くと、私達に向き直りました。
「どちらから、私は上がるのでしょうか?」

「そこの、今ちょっとデブな人が降りてった、向かって右側の階段からかな?」

 プロデューサーさんが、手元の資料を見ながら指を差しました。
「で、終わって捌ける方も同じ。待機場所の舞台袖もそこだから、迷う事は無いと思う」

「着替えは、あそこのテントで良かったんですよね?」
「うんうん、確かウチら専用のスペースは用意されてて、衣装ももう届いてるはずだよ。
 まだ着替えないでしょ?」
「はい。予め場所を確認したら、どこか空いているスペースで通し練習をしたいのですが」
「おう、さっきトレーナーちゃんからLINE来てたよ。
 裏手の駐車場のそばに、人気の無い小っちゃい広場があるって。行こうか」
「お願いします」


 ほたるちゃん――す、すごいなぁ。

 この大舞台に臆するどころか、冷静に今日の段取りをおさらいして、自分の取るべき行動を判断できています。

 プロデューサーさんに連れられ、彼女はスタスタとステージを降り、テントの方へ歩いて行きました。


「三船君」
「は、はいっ!」

「あそこに、今日のステージ運営の監督者がいる。進行方法を確認しておくと良い」

 事務員さんが指を差す先には、資料を片手にスタッフさん達と忙しそうに言葉を交わしている、帽子姿の男性がいました。
「はい」

「それと、例のモノは、いつ渡すんだい?」

 腕を組み、ニヤリとさせる事務員さんに、私は少し言葉に迷いました。
「あ、うーん……」


 こまねく手に持つバッグの中には、ほたるちゃんへのプレゼントがあります。

 もちろん、彼女には内緒です。そして、プロデューサーさんにも。
 事務員さんにだけこっそり相談し、今日のために準備してきたものでした。


「ステージに挙がる直前に、舞台袖で」
「しっかりな……先方の重役が見えたようだ。挨拶に行ってくるよ」
「あ、はいっ」

 ピシッとスーツを着こなして颯爽と歩く後ろ姿――本当にカッコいいなぁと思います。

 私なんかよりも、事務員さんはよほどプロデューサーとして頼もしいです。


 ううん、私も出来ることをやらないと。

 責任者さんにご挨拶と、今日の進行を再度確認しました。
 雨が降る予定だったので、急遽テントを増設して、待機場所を変更したのだそうです。

 それから、音声のスタッフさんに今日の音源を渡して――。
 えぇと、確かこの辺に――。

 キャッ!?

「うわ、す、すみま…」
「失礼」


 ――す、すごく大きい人とぶつかってしまいました。

 あの人も、プロデューサーかしら。
 346プロのアイドルと思われる、大勢の子達と合流し、念入りに打合せをしています。


 このフェスが無事に終わったら、ほたるちゃんも、あの子達と一緒になるのかしら――。


 そう、ボンヤリ思っている私の背後で、別の人の気配がしました。



「……んん~? ほぅ、いつぞやの“死神”ちゃんの」

 振り返らずとも、その人であることは何となく分かりました。

「なぁ、知ってます? 今日台風が来るんだってよ、台風。
 ちょうどフェスが始まる頃に首都圏上陸ってな」

 ハハハ、と無遠慮に笑い飛ばしながら、その場に立ち尽くす私の横をゆっくりと通り過ぎていきます。

 彼は、派手派手しい黄土色のシャツの下、黒地に強めのラメが入ったズボンのポケットに手を突っ込んでいました。

「出演するアイドルの子達だけじゃなくって、観客も可愛そうだよなぁ。そう思わない?」


「そうですね、生憎のお天気になりそうで…」
「だーもう、おたくらは本っ当にオツムが足りねぇよなぁ」

 ぐるりと彼は私に向き直り、乱暴に手を振りました。

「“死神”が出しゃばるから周りが割を食うんだってこと、いい加減自覚したらどう?
 迷惑なんだよ、ハッキリ言って。346さんだって内心そう思ってるだろうぜ」


「今日のお天気が、私達のせいだと言いたいんですか?」
 私が聞くと、彼は鼻を鳴らします。
「それ以外に何があんの」

 はだけた胸元に、ゴテゴテのネックレスが光っているのが見えます。

「頼むからさ、俺達や346さんみたいに真摯に頑張っている人の足を引っ張らないでくれよ。
 純粋にアイドルと向き合っている人達へのさぁ、冒涜じゃねーの。“死神”ちゃんの存在そのものがさ」

「いい加減にしてください」

 とうとう、我慢できなくなってしまいました。
 気づかぬ内に、拳を握りしめています。

「彼女ほど、アイドルと真摯に向き合っている子はいません。
 あの子を……ほたるちゃんを、これ以上馬鹿にしないでください」

「なーに言ってんだ、現にこうして台風呼び寄せてる“疫病神”のどこがアイドルだよ、寝言言って…」
「台風は」

「えっ?」
「あぁん?」


 声のした方へ振り向くと――先ほどの、すごく大きな男の人が、直立してこちらを見据えていました。

 真夏の蒸し暑い中、几帳面と思えるほどにネクタイをきっちり固く締め、ワイシャツの袖もボタンを留めています。

「本州に上陸した際に、温帯低気圧に変わったようです。
 時期も概ね平年通りであり、さほど珍しい事態ではございません」

「あんたは?」
「失礼……申し遅れました」

 胸元から名刺入れを取り出し、一枚引き出しました。
「こういう者です。本日は、私がプロデュースするアイドルも出場致します」

 私にも、丁寧に名刺をくださったので、慌ててお返しをします。
 やっぱり、あの子達のプロデューサーだったんですね。


「へぇ……346さんのプロデューサーさんでしたか。
 何も気ぃ遣わなくていいと思うがね、こんな弱小事務所のさ」

 受け取った名刺をポケットにしまうと、彼は大袈裟に肩をすくめてみせました。
「毎年この時期に台風が来るの分かってんなら、開催時期をずらしゃいいだろ?」


「確かに、そのようなご指摘をいただく事もございます」
 346プロのプロデューサーは、落ち着きのある低い、でもハッキリと通る声で毅然と答えます。

「ですが、大型連休を利用してファンの方々がお越しになられやすい時期を検討した上での事です。
 何より、台風の一つ来たところで開催が困難になるほど、私共のフェスは脆弱ではございません」

「フン、そうかい。俺は心配性だから、てるてる坊主でもシコシコ作っとくよ」
「ありがとうございます」
「皮肉で言ってんだよ、つまらねぇ」

 面倒くさそうに、後ろ手に手を振りながら、彼は芝生を靴裏で蹴りつつ去って行きました。

「……すみません、ありがとうございました」

 改めて、私は頭を下げました。
 まさか、346プロの方が私を――いいえ、ほたるちゃんをかばってくださるなんて。

「余計な口を挟んでしまい、失礼致しました」
「そ、そんな失礼だなんて!」

「白菊ほたるさん、でしたね?」


 346プロのプロデューサーさんは、少しだけ頬を緩めました。

「先ほど、姿を拝見しました。
 お伺いしていた噂話とはほど遠い、ひたむきで真っ直ぐな、良いアイドルであると感じました」


 お世辞、でしょうか――。
 いいえ――嘘を言っているとは思えません。

 慇懃とした姿勢を崩さないまま、その人はクマのように大きな体を丁寧に折り曲げました。

「私共のアイドルのためにも、今日は大いに勉強させていただきたいと思います」

 そ、そんな畏れ多い――うぇぇ――?

「お互い、頑張りましょう。では、失礼致します」

 最後にもう一度、軽くお辞儀をして、その人はステージの方に歩いて行きました。


 ――ほたるちゃんも、あぁいう人に。
「あぁいう人にプロデュースされたかったなぁ、とか思ってない?」

「う、ひゃぁぁっ!?」

 耳元でそっと声が聞こえて、ビックリして振り返ると、プロデューサーさんが――。
「アハハ、驚きすぎだよ美優さん」

 私達のプロデューサーさんと、ほたるちゃん――。
 トレーナーさんも来てくれていました。


 話を聞くと、今の人は346プロの中でもかなり有能な方のようです。

 プロデューサーさんも、346プロと交渉を進める中で、あの人を頼った部分もあったとの事でした。


「アタシ、346プロの子達のレッスンにも応援に行きましたけど、やはりレベルが高かったです。が!」

 トレーナーさんが普段通り、鼻息を荒くしてガッツポーズを決めてみせます。

「ほたるちゃんの実力は、346プロにも全く引けを取っていません!
 今日の仕上がりもバッチリです、アタシが保証しますっ!」

「ほたるちゃん……」

 今日の――いいえ、会場に着いてからのほたるちゃんは、まるで別人のようです。
 いつもはハの字になっている細い眉をキュッとさせて、口を固く結び、何よりもその目。

 並々ならぬ集中力――いいえ、気迫を感じます。
 そこまで、このステージに入れ込んでいたなんて――。


「美優さん」

 真っ直ぐに私を見つめながら、ゆっくりと、興奮を抑えるように、ほたるちゃんは口を開きました。

「見ていてください。必ず……良いステージに、してみせます」


「……はい」

 情けないことです。
 私は、大一番に臨む彼女に、何も気の利いた言葉を掛けることができません。

 ですが、それは分かっていたことです。だから――。


「お、雨が降りそうだな。テントで待機してよっか」
「分かりました」

 気づくと、空は真っ黒な雲に覆われ、時折遠くでゴロゴロと音が聞こえます。
 プロデューサーさんが、ほたるちゃんを出演者用のテントへ案内しました。

 皆さんの後ろを歩きながら、おもむろに私はバッグを漁ります。
 そろそろ――。


 ――――?



「どうしましたか、美優さん?」

 トレーナーさんの張りのある声が、かすかに聞こえた気がしました。

 でも、意に介する余裕がありません。


「あぁ、アタシの事なら心配無用ですよっ!
 確かに、先ほどほたるちゃんと最終練習をした際、大量の毛虫が私に降ってきました。が! 逆にこれを上回る毒を以…」

「無い……」
「へ?」



 ほたるちゃんへのプレゼントが――いくら探しても、ありません。

 そんな――え、どうして――。
 事務員さんに聞かれた時には、確かにあったのに――!

 可能性として考えられるシーンは、ただ一つ。

 少し前、スタッフさんに渡す音源のCDを出そうとバッグを漁りながら――。

   ――キャッ!? うわ、す、すみま…
   ――失礼。


 あの人にぶつかった時に、落としたとしか、考えられません。



「あっ、美優さん?」

 次の瞬間、私は駆けだしていました。
 いても立ってもいられません。

 誰かに拾われていて、そのまま取られているかも知れない。
 右往左往するスタッフさんと機材に、踏み潰されているかも知れない。
 あるいは、蹴っ飛ばされて、見つけにくい所に隠れてしまったかも知れない。

 嫌な予感――“かも知れない”を挙げると、キリがありません。



 目的の場所が近づいてきました。
 と、その時――。

「あっ――」

 遠くの前方を歩く、三人組の女の子達のグループ――。
 その一人の手元に、私は目を見張りました。

 チラリと見える、見覚えのある小包――。

 間違いありません。どうやら、あの子が拾ってくれたようでした。
 歩きながら、どうしたものかと、扱いに困った様子で皆で眺めているのが見えます。


 私は、彼女達の元に駆け寄ろうとしました。
 ですが――。

「エッホ、エッホ、エッホ…!」
「う、うわあぁ!?」

 この辺りの大学の、運動部の方々でしょうか。
 いかにもという屈強な男の人達が、列をなして私の目の前から猛然と行進してきました。

 たまらず、私は沿道の端っこの、邪魔にならない位置に逃げます。

「エッホ、エッホ、エッホ…!」

 すごい人数です。
 一向に、列が途切れません――早く――!


 ――ようやく、男の人達が通り過ぎ、すぐに前方を確認します。
 彼女達の姿は、見えなくなってしまっていました。

 歯がみしてばかりもいられません。すぐに追いかけていきます。

「はぁ、はぁ……!」

 まだ遠くには行っていないはずです。
 交差点に立ち、私は辺りを見回しました。


「――いた!」
 三人組――長くて綺麗な黒髪の、白いTシャツに青っぽい黒のジャージを履いたあの子っ!

「ま、待って――!」
「あのぉ~、もしもしそこの若いお方」
「へっ?」


 声を掛けられたようなので振り向くと、腰を曲げたお婆さんが杖をついて立っていました。

「道をお尋ねしたいんですけどねぇ~、何ていったかしらねぇ。ミシオのさまぁへすとかいう」
「み、346プロのサマーフェスの事でしょうか?」
「あぁそうそうそうなのよぉ~、孫が一緒に行こうって言うんだども、渋滞で遅れるっていうんでねぇ、チケットの引き替えだけでもしといてくれって」

 お話が好きなのか、優しげに、しかしとてもゆっくりとお婆さんは笑いながら私に話しかけます。
 見ると、あの子達の姿がどんどん小さくなっていました。

 お婆さんには失礼ですが――こんな時に、次から次へ――!


 ――――!?

 まさか、これって――。


「そうせがれ夫婦から連絡があってねぇ、けんどもほらぁ、でっけぇ会場でしょう?
 どこに行ったらいいんだか、右も左もわがんねくてよぉ、ホッホッホッホ」


 違う――私は、心の中でかぶりを振りました。

 不幸のせいではありません。私は――。

 私の人生は、いつもこうなんです。
 ここぞというときに、ままならないものなんです。


「チケットの引き替えでしたら、あちらにチケットカウンターがあります。一緒に行きましょう」
「あらぁそうぉ? 悪いわねぇ本当せがれときたら、地図もよこさねぇでお願いばっかりで」
「いえ。お足元、お気をつけてください」

「ありがとうねえ、本当に助かったわぁ」
「後は、ここで並んで、順番がきたら先ほどの引換券を見せれば、大丈夫だと思います」

 何度もお礼を言ってくれるお婆さんに会釈をして、私は一息つくと、再度走り出しました。

「うえぇぇぇん……!」
「!?」

「おかあさぁん……うえぇぇぇぇ、どこぉ……!」


 ――――~~ッ!!



 私は駆け寄って、男の子の手を取りました。
「え……」

「泣かないで。あの大きなテントの所に行けば、お母さんを呼んでもらえるから、一緒に行きましょう?」

「おねえさんありがとう!」

 インフォメーションセンターに行くと、その子の母親とすぐに出会うことができました。
 ちょうど、迷子の相談をしようと思っていたようです。

「本当にありがとうございます。親切にご面倒を見てくださって…!」
「い、いえ。それでは、私はこれで」


 息を切らし、先ほど彼女達を見失った所へ戻ります。

 開催時間が近づくにつれ、人もどんどん多くなってきました。
 もう、見つけるのは不可能に近いかも知れません。


「――!」
 いや、いました――遙か前方に。

 どうやら他の子達と別れたようですが、その黒いジャージを履いた黒髪の子が、広場の外に出ようとしています。

 まさか、こんな簡単に見つかるなんて、何という僥倖でしょうか。
 でも――。


 その子は駐車場の方に歩いて行き、予め待ち合わせていた男の人の車に、乗り込んで行くようでした。

「待って!」

 あのプレゼントは、今日必ずほたるちゃんに渡さなくてはいけないものなんです。
 車で出られたら、もう捕まえる術はありません。

 必死に走ります。ですが――!

 すんでの所で、その車は発進し、駐車場の外へ出て行きました。


 気づくと、大粒の雨がポツポツと、降り始めてきています。


 ――いや、まだです!

「停まってください!!」

 人目も気にせず、私は目一杯大きな声でタクシーを捕まえました。
 やけにトロトロと停車し、のんびりとドアを開けたそれに、すかさず乗り込みます。

「前の車を追ってください!」
 フロントガラスは、瞬く間に降り出した大雨で視界が見えません。
 その雨音に負けないよう、ドラマか何かでしか聞いたことがない台詞を叫び、私は後部座席から身を乗り出して前方の車を指差します。

「え、えぇっ? どれ?」
「早くっ!!」
「わ、分かりましたぁ」

 最初の信号で、運悪く引き離されました。

 いえ、運悪くなんてありません。
 これも“不幸”では、決して――。

「あっ」


 携帯が鳴りました。ディスプレイを見ると、プロデューサーさんです。

 開催前に関係者一同集まるように言われていたのを、すっかり忘れてしまっていました。
 きっと、勝手にいなくなった私を、皆さん怒っているでしょう。

「もしもし、すみません私…」
『あ、もしもし美優さんっ!? 今どこっ!?』

「じ、実は……ちょっと、探し物をしていて、公園の外にいます」
『ええ、えぇぇっ!?』


 私は、なんてダメなんでしょう。
 いつもいつも、皆さんにご迷惑をかけてばかりです。

「本当に、すみません、でも……どうか、待っていてください。
 必ず、出番までには戻りますから……!」

『ぬぅぅ~~わかった! 担当者のアレは俺が出とくから、ちゃんとバシッと戻ってね!
 ほたるちゃんすっげぇ待ってるからさ!』
「えっ?」
『いや、えっじゃないよ! ほたるちゃんがもう……あ、はいすみません今行きます!
 それじゃあ、俺も行かなきゃ。一旦切るね! 探し物しっかりな!! あぁっ!?うるせぇなネーサンお前空気読」

 慌ただしく切られ、通話は終わりました。

 てっきり、怒られるものかと――。


 ――そういえば、一度もプロデューサーさんには、怒られたことなんてありませんでした。

 冗談のような事を言って、事務員さんとおちゃらけてみせても、人の良さは誤魔化せないものです。
 言いたい事はあるはずなのに、適当ぶって、どこまでも気を遣ってくれる人。

 その優しさに、報いるためにも、あのプレゼントは絶対に――!



 そしてようやく、前方のあの車が、信号で停まりました。

 今ですっ!
「お金は後で払います!」
「は、はぁ…」

 ドアを開けると、まともに視界が開けないほど、もの凄い豪雨です。
 気休めかも知れませんが、あの日買った折りたたみ傘を開き、急いで前の車に駆け寄ります。
「す、すみません!」

 聞こえないかしら――無礼を承知で、私は車の窓を叩きました。
「すみませんっ!!」


 後部座席の窓がゆっくりと下がり、中から怪訝そうに女の子が顔を覗かせます。
「? ……何?」

 私は、言葉を選びますが、心の余裕はそうありません。

「あの、その……こ、小包をっ! 先ほど、持っていたはずの、プレゼントが…!」
「え?」
「で、ですからっ! えぇと、リボンが付いた包装紙で、これくらいの大きさのを、持っていませんでしたか?」


「…………何を言っているの?」

「え……?」

 ま、まさか、とぼけて――?

 いえ、違う――私は、落ち着いて彼女をもう一度よく見ました。


 長くて綺麗な黒髪――確かにそう。でも、ジャージは――。


 彼女の履いていたジャージは、真っ黒に白のラインが側面に一本入っています。

 あの集団にいた、青みがかったジャージとは、少し似ています。でも――。

 しゃ、シャツも――真っ白の地というよりは、ややクリーム色っぽくて――。



 そ、そんな――。

「ひ…………人違い……」



「おい、どうしたぁ?」
「なんかよく分かんない人が急に話しかけてきた。あの……もう、いいですか?」

 運転席にいた男性と言葉を交わし、彼女は私に、不機嫌そうな顔を向けました。

「え、はい……す、すみませんでした……」


 大雨の中、呆然と立ち尽くす私を尻目に、車が走り出します。

 その後ろに、先ほどのタクシーがやってきました。
「あのぉ、お客さん。ここで降ろして良かったんですかね?」

「はい……あ、あの……先ほどの、会場までお願いしても、良いですか?」

「えっ? い、良いですけど、ちょっといつ着くか分かんないんですよねぇ。
 見てみてください、こっち」


 困ったように顔をしかめ、運転手さんは窓の外の反対車線を指差しました。

 すごい渋滞です。単に、会場への駐車場の混雑だけとは思えませんが――。

「何か、ちょっと前に交差点で事故が起きたみたいでして、全部捕まっちゃってんですよ。
 逆方向へ抜ける事はできるんですけど、こっちから公園へ向かうルートは全滅ですねぇ」

 運転手さんが、カーナビの画面を見せながら説明してくださいました。
 会場となる公園へ向かうルートが、見事に真っ赤です。


 事故――こんな時に――?

「……分かりました」
 やむなく、私はタクシーを降りました。



 腕時計を見ると、もうフェスが始まる時間です。


 車に乗っていた時間は、10分ほどだったでしょうか。

 それだけ私は、会場から遠くに来てしまっていました。
 そして、運転手さんが仰ったように、再度車で向かう事はほぼ不可能です。

 この大雨の中、これから歩いて、どれだけ時間がかかるのか――。


 ほたるちゃんへの、プレゼント――。



 ッ――。

 本当に、自分が情けなくて仕方がありません。

 プレゼントは、諦めざるを得ないでしょう。ですが――。

 私はバッグを漁り、プロデューサーさん曰く「高ぇタフマン」を取り出しました。

 一息にそれを、グッと飲み干します。


 せめて、ステージに立つほたるちゃんに、声を掛けたい。

 謝罪と、激励と――。

 たとえそれを言う筋合いは無くとも、「素敵なステージを見せてほしい」という願いをどうしても伝えたい。


 間に合うかどうかは分かりません。
 しかし、考えている暇が無い事だけは確かでした。


 躱しきれない大雨に加え、風も吹いてきました。

 私の行く先々で、壁が悉く立ちはだかってくる、あの夢を思い出します。

 今日だけは、あれを正夢にする訳にはいきません。


「“こんなもの”で――!」

 水たまりを踏み抜き、おろし立てのスーツを振り乱して、私はなりふり構わず駆け出しました。

 社会人になって以来、ついぞ記憶が無いほどの全力疾走そのものです。

「はぁ、はぁ……!」

 大雨と強風の中、息を切らしながらみっともなく走る私を、通りすがる人々が奇異の目で見ます。
 当然、気にしている場合ではありません。

 一分一秒でも早く、会場へ――!

「きゃあっ!!」

 突然、暴風が吹き荒れ、私の折りたたみ傘は一瞬で逆方向に折れ曲がりました。

「……ッ」
 びしょ濡れになりながら、何とか直そうと試みます。
 でも、どうやら骨がダメになってしまったらしく、元に戻りません。


 ほたるちゃんとの、思い出の傘――。
 せっかく買ったのに、数えるほどしか使わなかった傘。

   ――時期も概ね平年通りであり、さほど珍しい事態ではございません。


「……想定できたこと、ですね」

 つまり、不幸ではありません。
 土砂降りの雨の中、私はボロボロの傘をバッグに押し込み、前を向きました。

「ほたるちゃんのせいなんかじゃない!」

 傘を持っていない方が、走りやすいものです。

 とはいえ――。

「はぁ、はぁ……はぁ……!!」

 雨が強すぎて、呼吸をするのも大変です。
 おまけに、服がびしょ濡れになってしまい、体が重たくて仕方がありません。

 でも、もう少し――あの交差点を過ぎたら、そろそろ見えて――!


「ッ!? あっ、い……!!」

 走っている私の体が、大きく揺れました。

 途端に、左足に激痛が走り、堪らずその場にうずくまります。


「…………ったぁ……!」

 足に巻かれたサポーターを見て、自分の足が爆弾を抱えていた事に、今さら気づきます。

 よく見ると、ヒールも折れてしまっていました。
 バランスを崩したのは、それが原因でしょう。

「はぁ……はぁっ……!」

 痛みのせいでも、雨のせいでもありません。

 何一つ満足にできない自分の情けなさに、涙で視界が滲んできます。


   ――大丈夫ですか?

「はい……大丈夫、です……ふぅ、ふ……ぐぅ……!!」

 あの日の私とは違う。
 少しは、私だって成長している、前に進んでいるだって、信じたい。

 何とか立ち上がり、再度走ろうとしますが、痛みがひどく、まともに歩くことさえ困難です。


 時計を確認しました。
 予定通りセットリストが進行していれば、ほたるちゃんの出番はもうすぐです。


 だからといって、諦める訳にはいきません。

 いいえ、たとえ間に合わないとしても、私は行かなくては――。
 行って、せめて彼女に謝らなくてはならないのです。

 自分の足の痛みが、今さら何の言い訳になるでしょうか。

 これ以上言い訳を探していたら、私はあの子に、一生顔向けが出来なくなる気がして――。


「はぁ……はぁ…………」

 ヨロヨロと、おぼつかない足取りで、会場を目指します。
 私は一体、何をしているのか、振り返る余裕もありませんでした。

 時間にして、どれだけ経っていたのかは分かりません。

 公園に着くと、既に開催しているはずのそこは、大雨が打ち付ける音しか聞こえませんでした。


「はぁ、はぁ…………?」

 キョロキョロと、辺りを見回します。

 遠くの大きなテントに、観客とおぼしき人達が大勢待機しているのが見えました。

 どうやら、時間を順延したものと思われます。


 ため息をつきながら、フラフラとステージ裏のテントを目指しました。

 予定なら、そこに出演するアイドル達が――ほたるちゃんがいるはずです。

 目的の場所にたどり着くと、テントの中は大勢のスタッフさんとアイドル達でいっぱいでした。

「はぁ、はぁ……」

 びしょ濡れでテントに入り込んできた私にも、周りの人達は見向きもしません。
 ふふっ、ラッキー――かしら?


 一応、改めて、それを落とした場所にもう一度立ち、周囲を見回してみます。



 あの時、ここで落としてさえいなければ――。

 悔やんでも、悔やみきれません。


 ――――。



「あ、あのー……どうかしたんですか?」

「えっ?」

「び、びしょ濡れだから、これタオルです」

 振り返ると、私に声を掛けてくれたのは、高校生くらいの女の子でした。

 今日出演するアイドルの一人なのでしょう。
 赤と白を基調とした、制服をあしらった華やかな衣装と帽子に身を包み、外に跳ねた茶色の髪と大きな瞳が印象的な、とても元気そうな子です。


「あ、どうも……え、あっ、あの……ちょっと落とし物を、この辺りで…」
「えぇっ! あ、やっぱりアレの!」

「……やっぱり?」

「しぶりーん! ねぇしぶりん、いたよーアレを落とした人ー!」

 女の子が、一際大きな声で後ろの集団に声をかけました。


 間もなく、その中から長い綺麗な黒髪の子――あ、あの子――!
 その後ろから、やはり同年代でしょうか、ウェーブがかった髪を揺らして、もう一人――。

 二人とも、この子とお揃いの衣装を着ているので、同じユニットだと思われます。

「いやーしぶりんの気配り精神がしかと実を結んだねぇ、やるじゃん、ウリウリ」
「放っておかずにちゃんと持ってるなんて、凜ちゃんさすがですっ」

「たまたま目に入っただけで、別に私は……それより」

 黒髪の子は、他の二人を曖昧な返答であしらうと、私に向き直りました。
「これ、なんですけど……」


 そっとその子が差し出したそれは、まさに私が探していた物です。

 良かった――まさか、こんな形で見つかるなんて――!
「すみません……」


「えっ?」
「実は、たぶん……これじゃないかも知れないんです」

「へっ?」
「何で? どういうこと?」

 他の子達も、揃って首を傾げます。
 先ほどから、目の前の子がどこか気まずそうに声と視線を落としている理由が、彼女達にも合点がいっていないようでした。


「さっき、間違えて、他の人に渡しちゃって……取り違えた、っていうか……」

「な、何だとぉっ!? しぶりん何してんの!それでもニュージェネの、えーと何だ、ニュージェネか!!」
「しょうがないでしょ! まさか同じようなの落とす人が二人もいるなんて思わないし」
「あわわわ! み、未央ちゃん凜ちゃん、人前で喧嘩は良くないですよ」
「人前でなくても褒められたもんじゃないよね」

「ど、どうか落ち着いてください」
 急に慌ただしくなった三人の子達を、咄嗟になだめました。
 げ、元気だなぁ――。

「それで、その……他の人に渡した、とは?
 現にこうして、私が落とした物をあなたは持ってくれていて……」


「これと同じものを、落としたっていう人がいて……
 その人に渡した後、別の所で、これが落ちていたのを見つけたんです」


 つまり――私のと全く同じものを買っていて、落とした人がいた――。
 それを、この子が二つとも、拾ってくれたと。

「大きさも包装紙もバシッと同じだから、間違い無いって言って……
 スタッフのタグを首に下げていたから、今日の関係者だと思います」


 ――同じお店で、同じものを買っていた人が、この会場に?

「白い長袖シャツに、スーツのズボンを履いた、賑やかな男の人でした」
「しぶりんそれ、似たような人いっぱいいない?」
「私に言わないでよ」


 “バシッと”――?

「もう一度……」
「えっ?」

「もう一度、その人が何て言って受け取ったか、なるべく正確に教えてもらえますか?」

 私の頭の中に、ある種の確信にも似た予感が一つ、浮かんでいました。


「えぇと、確か……
 「あぁ~コレですコレ、間違いない。大きさも包装紙もバシッと同じだよ、いやぁ良かったぁ。
  ありがとう、お礼に後でアイスでもサクッと奢るね」みたいな事を……」


 ――やっぱり。

「ぷっ、あ、アハハハ! り、凜ちゃんモノマネが、へ、ヘンな……!」
「だ、だから! 私が言ったんじゃないってば!」
「微妙に感情込めてるの、ジワジワ来る……く、くひひ……!」


「ありがとうございます」
「あ、えっ……?」

「その人には、心当たりがあります……これは、私がその人に渡しておきますね」

 本当は、最初から、彼に聞いておけば良かったのかも知れません。

 ですが、ありがたい事に、後悔する気分にはなれません。


 なぜなら、あの人がまともに答える事は無いと思えるからです。

「ひょっとして、ほたるちゃんへのプレゼント、買っていましたか?」
 そう聞いたとしても、あの人は適当にはぐらかして、直前まで秘密にしていた事でしょう。


 絶対に、私達には見せない一面があることを、私はあの日から知っていました。

 適当に振る舞っているように見せて、おそらくは、誰よりも汗を流し、私達を見守ってくれている人。



 あぁ、見えてきました。あの見慣れた後ろ姿。

 その人は今――。


「いい加減にしてくれよオタクらさぁ!
 どうしてくれんだあぁん!? オタクんトコの“アレ”のせいでもう台無しじゃねぇか!!」

 あの、意地の悪い人と向かい合っていました。

「どうしてくれるんだ、とは?」
「落とし前だよ、落とし前っ!!
 俺達はこのフェスにかけてきたんだよ、オタクらとは違ってなぁ!!」

「お言葉を返すようで恐縮ですが、我々は魔法使いではありません」
「あぁん?」

「出来ることと、出来ないことがございます」


 こちらからは、プロデューサーさんの後ろ姿しか見えないため、どんな表情なのかは分かりません。

「当初申告していた、私共の担当プロデューサーが一人この場にいない事について、お騒がせをしたのであれば謝ります。
 ですが、当日の天候について、私共が責任を負うことは出来かねます。それはご理解いただきたい」

「ハッハ、なぁに言って……テメェんトコの“死神”のせいだろうがどう考えてもよぉ!?」
 相手の男の人は、さらに険悪な表情になってプロデューサーさんに捲し立てます。

「アイツの“不幸”が全て悪いんじゃねぇか! 不幸が周りに不幸をもたらす、リッパな公害だよ!!
 ふざけてんじゃねぇぞ、テメェでラチが明かねぇんじゃいっそ出るとこ出て…!!」
「ハッハッハッハ」

「……何がおかしいんだぁ?」


「彼女の不幸は罪ですか?」

「何だと……?」

「彼女が背負う不幸が、全て彼女のせいでしょうかと聞いているんです」


 プロデューサーさんは、微動だにせず、その男の人を見据えているようです。

「確かに、彼女は数々の不幸に晒されてきました。
 彼女の所属していた事務所のいくつかも、潰れてしまった事実は確かにあるようです。
 だが、彼女自身がそれを望んだ事は一度だって無い。
 いつだって彼女は、それを回避し、跳ね返し、あるいは周りの人に及ばないよう一人で受け止めて来た」

 一歩、近づいてプロデューサーは、なおも続けます。

「彼女は、不幸との付き合いこそ長くあれ、不幸に晒される姿が似合う子では決してありません。
 それに打ちひしがれ、耐えきれず逃げだし、ましてやそれを周囲に押しつける事を、何よりも許せない子です。
 断言します。彼女以上に強い人は、この会場のどこにもいない」


「テメェんトコのアイドルの自慢話はいいんだよ、俺が言いたいのは…!」
「出るとこ出ると、そういうお話でしたね。ふざけるなとも。
 同感です。ふざけてほしくないのはこちらの方だ。出るとこ出たいのなら、出ればよろしい。
 こちらも今の御社の言葉、そっくりそのまま名誉毀損で訴えてやりたい所なんですよ」
「何だぁ!?」



「三船君」

 急に声を掛けられ、ビックリして振り返ると、事務員さんでした。

「アレは放っておいて良い」
「えっ? で、でも…」

「数少ない彼の晴れ舞台だ。アイドルを守るという、な」


 ――私は、彼の後ろ姿をもう一度見つめます。


「我々は弱小事務所だが、吹けば飛ぶような軽い相手ではない。
 何を以て訴えるおつもりか、仰ってみてください。その分我々は御社を訴えるネタが増える。
 受けて立ちますよ、ガシッと」



「やれやれ……後で百円だな。それより」

 事務員さんに促され、私達はその場を後にします。


「どこに行っていたのかは、敢えて聞かない。だが……あの子に謝っておきなさい」

「はい」

 そうです。
 私は、まず謝らなくてはなりません。

「せっかく用意してきた、ほたるちゃんへのプレゼントを、私は…」
「そうじゃない」
「……えっ?」


「大一番を前に、傍にいてやれなかった事をだ」



 通路の先の、舞台袖に到着すると、彼女は――。

 両手を胸に当て、俯かせていたその顔を、ゆっくりと上げ、こちらに向けました。


「美優さん……」

 その顔には――先ほどまで見せていた、あの気迫に満ちた面影が、どこにもありませんでした。

「ほたるちゃ…」
 言い終わらないうちに、ほたるちゃんは私の元に駆け寄り――。

 抱きついて来ました。
 ちょ、ちょっと私、服が、びしょ濡れで――。

「ほたるちゃん、あの、衣装が汚れ…」
「ひどい……」

「え……」

 ギュゥ、と、少し苦しいほどに、彼女は私の腰の後ろに回した手を、握りしめました。


「ひっぐ、み……みぅさん、どこにも……い、いなくて……ひ、いぃ……!」

 抱きついたまま、抑えきれない涙声を上げ、体を震わせています。



「寂しくて……心、ぼそくて、もう……なんども、に、にげ……え、えっぐ、うぅ……!」

「ほたるちゃん……」

 胸の中で、わあぁぁっと泣く彼女に、私は言葉を失いました。


 私は、何も分かっていません。

 彼女のプロデューサ―、友人、ファン第一号――。
 そう言いながら、ほたるちゃんの事を何一つ、ちゃんと見れていませんでした。


 まだ13歳――そして、ずっと憧れていた、初の大舞台。
 緊張しないはずがありません。

 何より、自身の不幸が誰かに危害を及ぼす事を、何よりも恐れる彼女です。
 この台風の中、それでも来てくれるお客さん達に自分は何が出来るのか、一生懸命考えたことでしょう。

 想像を絶するプレッシャーを押し殺すために、だから彼女は一途に段取りを整理し、直前まで練習を重ね、言葉少なに取り繕おうとしたのです。


 冷静であった訳でも、気迫を充実させていたのでもありません。

 彼女は、これまで得てきた限りあるものに、必死ですがったのです。
 それだけ、彼女は追い込まれていたんです。

 それを、私は――表面上の姿しか、見ようとしていなかったなんて――。


「やくそく……うっ、し、した……そばに、いて、いてって、言っ……うあぁぁ……!!」

「……返す言葉もありません」

 私は、ほたるちゃんの両肩に手を乗せ、ゆっくりと体を引き離すと、屈んで顔を彼女の目線に合わせました。

 涙に濡れた丸くて綺麗な瞳の上に、一層ハの字になってしまった彼女の困り眉が並んでいます。


「本当に、ごめんなさい……ほたるちゃん」

 少しだけ視線を落とし――もう一度、今度はしっかりと彼女の顔を見ます。

「許してほしいとは、言いません。
 だけど……もし一つだけ、言い訳をさせてもらえるなら……」


 そう言って、私はポケットに入れていたそれを、そっと取り出しました。

 少し包装は汚れてしまったけれど、これは――。

「これは……?」
「開けてみてください」

 プロデューサーさんが買っていたものですが――おそらく中身は、私が用意したものと同じはずです。



「……テントウムシ?」

「そうです」


 いつか、ほたるちゃんと買い物に行った時、オリジナルアクセサリーを売っていた服屋さんがあったのを、私は思い出しました。

 テントウムシについて調べた私は、ぜひ本番の日に、それにまつわるプレゼントをしたいと思い、その服屋さんに足を運んだのです。

「そうですねっ! 例えばこういうネックレスもありますけど、当店の一番人気は小さくルビーをあしらったこちらのイヤリングも…!」
「あ、うぅ……」

 店員さんの積極的なセールスに、私は挫けそうになりましたが、何とか一つだけで勘弁していただきました。

 たまたま、私が求めていたモチーフを象った、アクセサリー――。



「テントウムシの、ネックレス……ちょっと、変かも知れませんが」

 私は、ほたるちゃんの手からそれを取ると、彼女の後ろに回り、首に掛けました。

「ほたるちゃんにこそ、ふさわしいと思ったから……お日様に向かう、テントウムシ」

 そっと、手を離します。

 ほたるちゃんの白くて綺麗な首元――。
 小さい銀のお花の上に、金色のテントウムシが、ちょこんと控えめに留まりました。


「わぁぁ」

 彼女はそっと、大事そうにそれを両手の指でつついた後――目元を拭い、ニコリと笑ってくれました。

「ありがとうございます……こんなに素敵なプレゼント、初めてです」

 こんな時でも、お世辞を忘れない辺り、気ぃ遣いのほたるちゃんらしいですね。ふふっ。
 思わず、私も笑っていました。


「……そろそろ、時間だな」
 事務員さんが、腕時計に目を落としました。

 話によると、開催を1時間順延させた際、セットリストにも若干の変更があったようです。

 天候がまだ回復せず、お客さんも集まりきらないであろう、最序盤――つまり、前座としての出場。


 言い方を変えるなら、栄えあるトップバッターという大役です。

「白菊ほたるさん、そろそろご準備の方よろしいでしょうかー!?」

 スタッフさんがこちらに駆け寄って来ました。
 いよいよ、その時です。

「はい」
 ほたるちゃんは、しっかりとした声でそれに応え、ステージの方へ歩いて行き――。


 階段の手前で、止まりました。

「美優さん」


 クルッと、まるで舞うように振り返ったその表情は、眩しいほどの笑顔で――。

「先に行っています。どうか遅れないうちに、美優さんも来てくださいねっ」

 そう言って、彼女は向き直り、ステージへと上がって行きました。


 彼女は、まだ私を、アイドルとして――。

 ううん、今は私の事なんてどうでも良いんです。



 設置されていた照明が、暗転していた舞台の上をゆっくりと照らし出していきます。

 そこに立つ一人の少女の姿を認めた観客達は、ようやく始まるお祭りの予感に、一斉に歓喜の声を上げました。

「大丈夫……ですよね、ほたるちゃん」

 固唾を飲んで見守りながら、そっと隣の事務員さんに同意を求めます。


「そうだな……何せ、事あるごとに色々な目に遭ってきた子だ。
 今日のような日のこの時に、何も起こらないとはとても思えない」

 ところが、事務員さんは私の意に反し、縁起でも無い事を言い出しました。

「ちょ、ちょっと事務員さん!?」
「フフッ、まぁまぁ」

 彼女は苦笑し、手を振ります。


「私は、何も心配していないよ。何かが起きたとしても、既に取るべき手は打ってある」
「……えっ?」


「たとえ彼女が“死神”や“疫病神”だとしても、捨てる神あれば拾う神あり……いや、この場合……」

 事務員さんは、得意げに鼻を鳴らしました。

「災い転じて福と成す、と言ったところかな」

 そう言った瞬間、でした。


 ビシャアアアァンッ!!

 と、もの凄い轟音と稲光が会場を襲いました。

「キャッ……!!」

 たまらず私は身を屈めます。が――ふと、辺りが真っ暗になりました。



 雷がステージに落ちて、停電してしまったのです。


「そ、そんな……!」
「大丈夫」

 事務員さんは、腕を組んだまま少しも動じていない様子でした。

「せいぜい、これもある種の演出になるだろう」

「演出……って」

 私が彼女の意図を掴めずにいると、突如、一つのスポットライトがほたるちゃんを照らし出しました。
 え――。

 観客からも、少なからぬどよめきが聞こえます。

「非常用電源だ。
 通常は必要としないそうだが、私と彼で346側に交渉すると、設置に了承してくれた」



 一筋の光の中央に立ち、飛び立つ時を待つ少女。


 私は、“天道虫”の名前の由来を思い出しました。



 英語圏では、レディ・ビートル、またはレディ・バグと呼ぶそうです。
 レディとはすなわち、聖母マリア様のこと。

 害虫に困っていた農夫が天に祈りを捧げたところ、沢山のテントウムシが害虫を食べてくれたおかげで、豊作となった。

 あるいは、その赤い背中はマリア様のマントとローブを、黒の斑点はマリア様の7つの悲しみや喜びを表すとも。
 
 日本でも、その虫が無実の罪人を救った逸話が「天道常に善人に与す」と伝えられ、太陽に向かって登る習性と、黒の斑点が太陽の黒点に見えることから、“天道虫”と名付けられたのだとか。

 そう――つまり、国内でも海外でも、とても縁起の良い幸運の象徴として、古くから伝えられた虫なのです。

 でも、テントウムシ自身はどうでしょうか?


 その虫は、人に幸せを運びにやってきて、代わりにその人を襲うであろう災厄を引き受ける。

 背中の斑点に、人々から引き受けた悲しみを、不幸を、彼女は一身に背負い、天に向かって上っていく。

 そして、てっぺんまで上ると、彼女は小さな羽根を遠慮がちにそっと広げ、不幸を持ち去るべく飛ぶのです。


 彼女は、私達が本来受けるはずだった不幸を、これまでずっと肩代わりして来たのかも知れません。

 しかし、飛び立つ機会が無かった。

 あまりに多くの不幸をその小さな身体に抱えたまま、今日まで生きてきた苦しみは、どれほどのものだったでしょう。

 だから私は、ほたるちゃんの力になりたかった。

 少しでもその身を軽くして、障害を取り払い、ステージまで上らせてあげたかった。

 そして今、彼女はそこに立っています。


「ほたるちゃん」

 もう、遠慮しなくていいんです。
 取り巻く空間も、流れる時間も、あなただけのためのものだから。


 彼女は決して“死神”でも、“疫病神”でもありません。

 どうか皆さん。見てください。

 その小さな羽根を――あぁ、やはり遠慮がちにそっと広げ、誰よりも幸せを願った少女が――。



 “女神”が今、飛び立ちます。

 ――――♪

 ――ッ――~~♪



「あぁ……」

 すごい――なんて、楽しそうに歌い、踊るのでしょう。

 可愛らしい、アップテンポなメロディに乗せ、観客の皆さんに愛を振りまいています。


「やった……」
 思わず呟いていました。視界の隅で、事務員さんが頷くのが見えます。

「然したる不自由も無く順調に歩みを進めてきたアイドル達に比べ、あの子はレッスンさえも満足に行えなかった」

 私は、事務員さんを見ました。
 腕組みをして、じっとその様子を見守る横顔は、今まで見たことがないほどに穏やかです。


 ――~~~ッ! ~~!♪


「だが、それだけあの子には、磨かれていない部分が多く残されていた」

「……はいっ」

 一番のサビが終わると、観客から大きな声援が上がりました。

 それに応えるように、さらに眩しい笑顔を見せながら、彼女のパフォーマンスはますます洗練されていきます。


 ――――♪

 ――~~――~~ッ♪


 ほたるちゃんの笑顔は、演技ではありません。
 ずっと夢見たステージが、楽しくて嬉しくて、それが抑えきれないのが見て取れます。

 良かった――本当に、彼女はようやく――。

 ――ッ!?



「く、靴紐が……!」


 ――~~~~♪ ~~~♪


 私は、彼女の足元に目を見張りました。

 彼女自身は、気づいている様子はありません。


 彼女の靴の裏側で縛った紐が、ほどけ――いえ、あれは切れかかっている――!?

「ウソ……」

 見間違いだと信じたい。
 実際、この位置からでは、彼女の靴紐なんてほんの点のようにしか見えません。

 ですが、嫌な予感が胸の中で膨れあがるのを、私は抑えることが出来なくなっています。


「や、やめて……」

 この後、最大の見せ場であり難所である、大振りのステップとターンがあります。

 そうです、忘れる事なんてできません――私があの日靴紐を切ったのも、このパートだったんです。


 神様、どうかやめてください。

 ようやく彼女は飛べるんです。光を手にすることが出来るんです。

 何でもかんでも、どうか不幸を押しつけないで。
 これ以上、彼女から何もかもを奪わないで――!


 ――~~~ッ♪ ~~~!♪


 ボルテージが極限まで高められ、いよいよサビへと入っていきます。

 満面の笑顔で、ほたるちゃんは元気よく足を振り上げ、ステージを強く踏みつけました。


  ――ブチッ。

「! あ、危ないっ!!」

 紐が切れたっ!
 切れ――!


 ? え――――。



 ――~~~ッ!♪ ~~♪ ~~!!♪


 小さな体からは想像もつかない、キレのあるダイナミックなターンを見せた彼女に、観客からは一際大きな歓声が上がりました。

 額に汗を浮かべ、それでも変わらずほたるちゃんは歌い、踊れる喜びを、なお全身で表現し続けます。

「た、倒れなか……た……?」


「靴紐なら」

 呆然とする私の胸中を見て取ったのか、事務員さんが口を開きました。
「あれは飾りだ」
「飾り?」

「本当は、足を中のゴムで留めてある。
 靴紐は切れる可能性があるからという、あの子自身の提案によるものだ」

「ゴムを……」
「大したものだよ。つくづく不幸との付き合い方を、あの子は心得ているのだな」

 腕を組み直し、感心した様子で事務員さんは、鼻でため息をつきました。

「しかし、不幸な境遇そのものを、あの子は良しとしなかった」

「だから、アイドルを……?」


 ッ――!!


   ――おそとにいって、むしのかいだんごっこするの!

   ――おばあちゃん、おそとのむしはかわいいって、いってたもん! おそといくの!



 突然、ふと、私の幼い頃の記憶がフラッシュバックします。

 祖母から教わったばかりの、外での遊びをやりたくて、玄関で慣れない駄々をこねる私が見えました。

「私は……」

 こんなものだ、と――いつからかずっと、何かを追い求める気持ちを、抱かないようにしていました。

 反発を恐れたからです。ですが、駄々をこねて親から怒られた訳ではありません。

 苦心して親が代わりに提示してくれた遊びが、あまり面白くなくて、内心、幻滅してしまったのだと思います。

 それも全て、私がワガママを言ったからなのだと――。


 そうして、何事にも予防線を張り、あらゆるものを“こんなもの”にして、いつでも自分への言い訳を仕立て上げた。

 目を背け、諦めることで自分が傷つかずに済む立ち回りに、納得を求め続けた。

 ですが――。


 ほたるちゃんは、どんな不条理をも受け止め続けたのでしょう。

 でも、決してそれを良しとせず、抗い続けた末に、彼女はトップアイドルへの道を志した。

 不幸な自分を変えるために――そして。

 苦難の末に、彼女はようやく、それを手にしようとしています。


   ――そうやって……

   ――簡単に諦めきれるものじゃないはずです、夢って。


 ――~~~ッ~~~~!!♪


 ワァァァッ!! と、凄まじい歓声が会場を支配しています。
 大サビ前の間奏に入ったのでしょう。


 どうして、ほたるちゃんはアイドルを目指したのか?

 それは、彼女にとっては至極簡単で、当たり前の事だったんです。
 幸せになりたい、という――。



 目を背けて逃げ続けた私と、抗い追い求め続けた彼女。

 ほたるちゃん、あなたは――。


 私がこうありたいと憧れていた姿そのもの。

 私が諦めた全て。

 似ているようで、決定的に違った結末。



「ほたるちゃん、ステージに上がる前……私に言ったんです」
「あぁ」

 先に行っているから、遅れずに来てください、と――だけど――。

 だけど――!

「私は……私には……!」


 あまりに、違いすぎる――遠すぎます。

 私は、顔を両手で覆いました。


「あの子を……アイドルを目指す資格なんて、ありません……!!」

 逃げ続けた卑怯者が――あんな眩しい存在に、なれる訳ない――!!



「そうだな。キミにはアイドルを目指す資格は無い」

 事務員さんの、淡白な声が聞こえました。



「アイドルを目指すための資格なんて無い。初めから、誰にも」

「……ッ!」


「あの子はキミに言っていたはずだ。
 このステージを一番観てほしい人、その素晴らしさを伝えたい相手が、誰なのかを」


 事務員さんは、ステージを一点に見つめながら、話しました。

「靴紐の件は、三船君の一件も踏まえた上での、あの子の提案だった。
 そうしてキミ自身が抱かなかった、靴紐が切れた悔しさを、代わりにあの子は背負っている」

「私の、悔しさを……」
 私の想いを、代わりに背負ってステージに――。


 私は、また言い訳を――!

「枷を嵌めるのは、いつだって自分だ」


「私が……!」


 ――~~!♪ ~~~~♪ ~~ッ!♪


 ステージは、最後の大サビに入ったようです。

 ずっと歌い踊り続けて、疲労も蓄積されているはずなのに、ほたるちゃんの笑顔は、ずっと眩しいままで――。

「う、わあぁぁぁぁ……!!」

 うめき声を上げながら、雨でグシャグシャの頭を、胸をかきむしりました。


 壁だと思っていたものは、私が仕立て上げた言い訳という名の盾であり、枷でした。

 それを重ねて作り上げた殻は、悲しみから身を守る城壁であると同時に、夢へと向かう道を断絶する檻でもあった。

 閉じ籠めてきた殻を、かきむしり、引き剥がしていくと、中にいたのは醜いどん底でうずくまる私です。


 今日は、ほたるちゃんの素敵なステージを目にすることができる。
 そうすることで、私も一つの達成感を得た、明るい気持ちになれるのだろうと、勝手に想像していました。

 でも、違った――私は、その場に泣き崩れました。



 私はここで、何をしているの――?

 どうして、ほたるちゃんと一緒に、あそこに立っていないのよ――!!


 皆が用意してくれた、せっかくのチャンスだったのにっ!!

 眩しい光が示したのは、どこまでも醜い自分でした。

 夢への羨望と、後悔と、どす黒い嫉妬にまみれた、本当の自分。


 ほたるちゃんが私を照らしてくれたおかげで、それを自覚する事ができました。

 そして、このままであってはならない――抗っていかなくては、そこにたどり着けないのだという事を。

 生まれて初めての反抗期を、私はようやく手にしたのです。


 ほたるちゃん、ごめんなさい。

 また逃げる所でした。それも、ほたるちゃんを引き合いにして。



 非常な盛り上がりの中――彼女のステージは、終わりを迎えようとしています。



「……事務員さん」
「ん?」

 立ち上がり、もう一度ステージを見ます。
 大歓声に向けて手を振るほたるちゃんを。


「このまま、終わりたくありません……私も飛びたいです」


「そう言うと思って、彼がキミに用意したプレゼントがある」

「えっ……」
「自分の手で渡しなさいと言ったんだが、彼はヘタレでな」


 苦笑しながら、事務員さんが私に、一つの小包を差し出しました。

 私がほたるちゃんにプレゼントしたものと同じ、あのテントウムシが入ったそれを。


「こ、これ……ほたるちゃんへの、プロデューサーの…」
「いいや、キミだ」

「キミのスマホケースに貼られたシールを見て、彼なりに苦心したらしい。
 美優さんにこそ相応しい、などと鼻息を荒くして私に力説するものだから、何だかおかしくてね」


「プロデューサーさんが、私に……」

 これが相応しい人に――ほたるちゃんのように、私も――?

「さぁ、彼女が帰ってくるぞ」
 事務員さんが、急かすように顎でステージを指しました。


 最高のステージを見せてくれた彼女は、目に涙を浮かべて階段の上に立っています。

 ――ありがとう、ほたるちゃん。もう、迷いはありません。


 お揃いのネックレスを身につけ、駆け寄ってきたほたるちゃんを、私は抱きしめました。

 ――――――。

 ――――。





「明日4人オッケーだってよ。2部屋ならいけるって」
「グレードは?」
「社長が金くれるっつーから、割と高めの所とったけど、いいでしょ?」

「ほ、本当に行くんですか?」
「だって、皆でお休み取れる日ってもう明日と明後日しかないもんな」

「2部屋か。じゃあキミと、我々女性陣で」
「それはいいけどさ、ベッドは美優さんとほたるちゃんに譲ってネーサンは床で寝ろよ。寝袋あったよな?」
「な、何でですか? というかお布団では…」
「コイツすげぇ~寝相悪いの。俺どっか一緒に旅行行った時、鼻とみぞおち蹴られたからね?」
「え、えぇぇっ?」
「キミはいびきがうるさすぎ」
「頭と足が逆になるヤツに言われたくないんだよなー。
 まぁいいからほら、美優さんそっち肉焼けたよ」

「お二人で、旅行行かれた事あるんですね」
「何回かね。もう二度と行かない。最後に行ったのってどこだったっけ、ネーサン?」
「福島」
「あーそうだそうだ思い出した! 裏磐梯で一緒にスキーやったんだよな!
 でさー聞いて美優さんほたるちゃん、このネーサンのスキーときたら、まぁ~それはヘタクソで!」
「そ、そうなんですか? 事務員さん、何でもそつなくこなしそうですけど」

「武道とか走るのとかはすごいんだよ。でも、球技とか、道具使う系のスポーツは本当、ビックリするくらい下手でさ。
 スキーだってコイツ、あはは、すげぇへっぴり腰で……!」
「怪我とかしたら、怖いですもんね……分かります」
「いいのいいのほたるちゃん、気ぃ遣わなくて。
 そうそう、泣きそうな顔して、ほたるちゃんもかくやというくらい眉をハの字にさせてさ、ずーっとボーゲンでズルズルと。
 ハッハッハ、眉毛もボーゲン! ケッサク、アハハハハ!」
「はいダウト。ゴーグルしていたから、私の眉毛など傍目には見えないはずだ」
「ほら~、否定しないでしょ?
 いつものネーサンはどこ行ったの?ってくらいだっせぇ、しかもぷりケツでぇいだだだだだだだ!!!ゴメンゴメンいででで折れる折れる許してっ!!!」

「うおぉ、いってぇチキショウ……お前な、俺の方が1コ上なんだからな」
「それにしても……私達、本当に346プロに入るんですね」
「俺は、あのクマみたいな人と同じ部署だったかな。ネーサンはどこ?」
「経理だと聞いている。以前いた時と変わっていなければ、オフィスは3階かな」

「私とほたるちゃんは、もう担当の方とか、決まっているのでしょうか?」
「まだじゃない? 俺もなー、美優さんやほたるちゃんみたいに素直な子が担当だと良いんだけど」
「人事は他人事(ひとごと)、という言葉がある」
「ネーサン、親父さんのコネ使ってその辺調整してくれない?
 俺だったら二人をユニット組ませてバッチリプロデュースしてやるんだけどなー」
「善処するよ」
「絶対やる気無いだろお前。
 まぁ、あっちに行っても定期的に皆でこうして集まろうよ、『三船会』つってさ」
「な、何で私なんですかっ!?」

「ワハハ、まぁまぁ……
 ところでさ、二人のユニット名だけど、テントウムシって英語で何て言うんだっけ?」
「レディ・ビートル」
「んじゃ『ビートルず』か」
「レディどこに行った。それに、完全にパクリだろう」
「何が? あ、そうか。それじゃあ漢字だと“天道虫”だからえーと、『ヘブンロード~~』…」
「キミ、本当にセンス無いな……白菊君、遠慮せず食べなさい、ほら」
「あ、ありがとうございます」

「あ、あのぅ」
「どうした美優さん、何か良いの思いついた?」


「無理に英語にしなくても……日本語でも、良いのではないでしょうか?」

「日本語? それだと、『てんとうむし~ず』とかになるけどいいの? ダサくない?」
「そもそも、三船君と白菊君が移転先でユニットを組むかどうかも分からないしな」
「本当に他人事(ひとごと)じゃねぇかお前」
「『てんとうむし~ず』にされるよりはマシだと思うがな」

「そ、それより、明日は何時に集合しましょうか?」
「箱根まで、どれくらいかかるっけ?」
「1時間半もあれば十分」
「ネーサンがドライバーの場合はでしょ。明日は美優さんが運転だよ?」
「3時間見ておこう。朝8時に事務所集合だ」

「わ、私が、運転ですか!?」
「ペーパー教習受けたんでしょ? 大丈夫大丈夫、ネーサンがバリッとナビするから」
「ちゃんと整備もしてある。何も問題は無い」
「美優さん、頑張ってください!」

「そ、そう言われましても、足が……ちょっと、お手洗いに……」
「何もそんな吐くほど緊張しなくても…」
「ち、違いますっ!」
「ワハハ、冗談だよってあ、あぁぁぁちょっとネーサン何でカルビ食わないの! 焦げてんじゃん!!」
「カロリーと動物性脂肪は敵だ」
「焼き肉食いにきて寝言言ってんじゃねぇよ!!
 うわあぁぁ上カルビがっ、ほたるちゃん早く取って!!」
「ひ、ひぇぇぇ……!」


「……ふふっ」

 バタン――。

 ――――!?



 えっ――――。



 トイレの扉を閉め、振り返ると、そこには異様な空間が広がっていました。

 広がる暗闇の中に、壁とおぼしき何かがデタラメに乱立しているのが見えます。

 でも、私は迷わず歩き出します。


 壁だと思っていたそれは、その場にひっそりと佇んだまま、微動だにしません。

 たくさんのそれの合間を、すり抜けるように進んでいき――。



「……大丈夫ですか?」

 そこにうずくまっていた少女に、私は声を掛けました。



   ――……だれ?

「私は……」


「私は、アイドルです。正確には、アイドルを目指す人」

「プロデューサーを、やっていた時もあったけれど……それは、本当ではありません」

 少女は立ち上がり、私を見ます。

   ――よくわかんない。


「それは、分からないフリをしているだけ。知っているでしょう?」

「うずくまっている限り、傷つかないままでいられる……
 そうやって、何度自分を言いくるめてきたのかを」


   ――だって……だって、仕方ないんです!

   ――事故とか、アクシデントが、私のせいでたくさん起きて……

   ――私は人を不幸にしちゃうんです。呪われてるんです……!


「そう、彼女はそれを自覚していた」

「自分と向き合っていたからこそ、変えたいと思えたんです」

   ――そんなこと……

   ――そんなこと……分かってるくらい大人だったつもりだったのに……。


   ――すみません。もう、構わないでいただけますか。大丈夫ですから……。


「そういう訳にもいきません。身の程を知ったフリをするのはやめて」

「アイドルに、なるんです」


   ――アイドル……人前に出て歌ったり、踊ったりするあの……?

   ――私なんかが……無理ですよ。


「もう、決めた事なの」

「決めるのは私……そう、皆に教えてもらえたから」


   ――決めるのは……私……?


「ほたるちゃんのプロデューサーを務めて、分かったんです」

「私が真にプロデュースするべきは、あなただということを」

 とても――苦しいです。

 当たり前です、抵抗しているのですから。彼女も、私も。


「私は、三船美優というアイドル」

「そして、同時にあなたのプロデューサーでもありたいんです」


 周りの壁が、バキバキと音を立て、一枚一枚崩れていきます。

 世界の輪郭が変わっていき、私達の立つどん底が、薄明かりの中に見えてきました。


「身の程を知った気でいた……でも、ほたるちゃんのおかげで、ようやく本当の自分を知れた」

「あなたはここに立っている。そして」

   ――眩しい……。


「一度しか聞きません。いいですね?」


「あなたは、幸せになりたいですか?」

   ――幸せに……なりたいに、決まってるじゃないですか。

   ――でも、私なんかが……

「卑下をしないで! 百円ですよ、ほらっ」

   ――……それ、見覚えがあります。

「アイドルとして、輝きたくないですか?」

   ――ほたるちゃんのように、私も……?

「そう、輝くための道筋を示してくれた、彼女に恩返しをするためにも……」


   ――なりたい……私も、幸せに……

「飛びたいんです……私だって、背負うべきものを背負って……!」

   ――てっぺんまで登って……!

「トップアイドルに、私……!!」


 なりたい――ッ!!!



   ――美優さーん……おーい。

 ――――――。

 ――――?



 ――ッ!? ハッ!

「は、はいっ!?」
『あはは、やっと出た。寝てたでしょ?』


 寝ぼけ眼で、時計を確認します。

 ――は、8時っ!? もうっ!?

「す、すみま…!」
『あぁいいよいいよ、まだほたるちゃんも来てないし、ていうか遅れるし』
『遅れる?』

 話によると、ほたるちゃんは、1時間ほど遅れそうとの連絡があったそうです。
 バスの経路上にある踏切が、信号機の故障か何かで大渋滞となっているのだとか。

『まぁだからさ、ゆっくり来ていいからね。
 ネーサンはボロ車の整備に余念が無いし、俺は携帯でゲームしてるから』
「そうですか……」

『この分だと、小田厚の出口か箱根新道でどうせ渋滞に捕まるだろうし、ゆっくり行こう。
 あ、何か適当にCD持ってきてよ。この車、BluetoothもSDカード挿す所も無いからさ』
「あ、は、はい……あの、プロデューサーさん」
『ん、何?』

「ありがとうございます」

『ワハハ、いやいやどうも。でも、あまり遅くならないようにな。
 小田厚降りた所に美味い蕎麦屋があって、そこのランチには間に合いたいんだ』
「はい、分かりました」
『うん。じゃあ、また後でね』


 通話を終えて携帯を置き、ボーッとベッドの上から窓の外を見つめます。

 太陽はすっかり登り、通りを慌ただしく走る車と、電車の音が微かに聞こえてきます。

 まさか、寝坊するなんて――そんなに、お酒は飲んでいないつもりだったのに。


 ふと、テーブルの上に置いていたネックレスが目に留まりました。


 先ほど、プロデューサーさんへ「ありがとう」と言ったけれど――ちゃんと、意図は伝わったかしら?

 ――ふふふっ。

 遅れを取り戻すべく、テキパキと支度を整えます。
 久々のお出かけなので、おめかしも、ほんの少し念入りに。

 そして、私はそれを首に掛けました。

 こうして見ると、思いのほか主張するものですね。


 『てんとうむし~ず』――ふふっ、変な名前。
 でも、悪くないなぁと、内心思っているのは秘密です。

 そうなりたいと、私自身思っているから。


 ほたるちゃんが人々の不幸を背負ってきたのなら、私はそれを肩代わりしたい。

 彼女ほど立派なテントウムシにはなれなくとも、この先少しでも、恩返しが出来たなら――。

 背負う不幸を少しでも軽くするための、彼女のテントウムシは私なのだと。

 そして、自分の幸せに向けて飛び立つテントウムシは私なのだと、いつか胸を張って言えたらどんなに素敵でしょう。

 そんな夢を、私は持つことが出来たんです。

 昨日、一生懸命乾かしたバッグを肩にかけ、靴を履きます。


 どこかで渋滞に捕まるかも知れない。
 変わりやすい山の天気に、翻弄されるかも知れない。
 たまたま一緒に泊まっていた、温泉好きでお酒好きの人に、絡まれるかも知れない。

 “かも知れない”を挙げると、キリがありません。
 ふふっ――。


 そういった苦難に対し、私はようやく抗うことができます。


 ドアを開けました。
 快晴です。台風一過というものでしょう。ですが――。

 それを使う機会が訪れる事を期待して、私は大きめの傘を手にしました。


~おしまい~

長くなってしまい、すみません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、失礼致します。

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