工藤忍「おかしなうさぎは夢見て跳ねる」 (77)
モバマスの工藤忍ちゃんのSSです。地の文風味。モブ視点。
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夢が叶うのは誰のおかげだろう。
応援してくれる人? チャンスをくれる人? 一緒に夢を見てくれる人?
誰も答えを知らないまま、僕らは今日も「おかげ」を押し付け合う。
正しくなくてもいいから、間違っていてもいいから。
祈るように、想うように、ただ恋願う。
君の夢が叶うのは、君のおかげでありますように。
ぱっつんに切り揃えられた髪、決意に満ちた紺碧の瞳、りんごみたいに染まった頬。
ぎこちないステップを踏むダンスに、上手くも特徴もないフツウの歌声。
いつもの音楽室には、今日もあの子がいる。
◇
青森の冬はかくも厳しく。
研ぎ澄まされた冷たい空気は、身体の内から、外から、棘のように突き刺さる。
きっと海風が真っ白な景色を吹き飛ばそうと躍起になっているせいだ。
この灰暗い檻が目の前に立ちふさがって、どれくらい経っただろうか。
あと1ヶ月もすれば春休みだというのに、春待つ伊吹はまだまだ雪の下に埋もれているみたい。
なぜ教室を出るたびにこんな思いをしなくちゃならないんだろう。
襲いかかってくる寒さに身体を震わせながら、肩にかけたギターケースを背負い直した。
授業が終わって散り散りになっていく同級生たちは、真っ白に染まるグラウンドを睨みもしない。
冬なんてこんなもんだ。青森に生まれたことを恨むんだな。
多分誰もがそう思って、いつものように体育館へと向かう。
校舎の3階に用事がある自分とは反対方向だ。
うちの学校は、ほとんどの学生が運動部に所属している。
なぜかスポーツが強くて、公立の星だと呼ばれてるらしいから。
その煽りを受けて、文化部にいる人間は物珍しい目で見られることが多かった。
たったひとりの軽音部も同じように壊滅的だ。
なぜこの部は残ったままなのだろうとは思うけれど。
凍える雪景色の中で誰がスポーツなんてやるのだろうと思うけれど。
音楽室が悠々と使えるならば細かいことは気にしないことにしている。
だいたい1年前。
入学してきた時に軽音部を選んだのは、音楽しか自分にできることが思いつかなかったから。
小さい頃、親父に譲ってもらったアコースティックギターは宝物だと思っていた。
子どもが憧れる不思議のパワーや才能のように。おとぎばなしに出てくる勇者の剣のように。
そんな期待と興奮が、自分が六弦で鳴らす音にだってあるはずなんだと。
無限大に広がっていたはずの未来は、気づけば分かりやすくしぼんでしまっていた。
自分にだってこんなぬるい泥沼から抜け出す力があったなら。
そんな淡い夢を思考の隅に追いやって、今日まで淡々とピックをはじいてきた。
こんな場所で壮大な夢も何もあるもんか。
今日も電波の向こうでは、同い年の都会の奴らが、眩しい煌めきを存分に放っているというのに。
窓の外のどんよりした厚い曇り空は、どうにも思考まで暗くさせるような気がする。
今日はちょっとでも明るい曲を練習しようと、音楽室の近くまで来たところで立ち止まる。
聞こえるはずのない歌声が聞こえた。
これだけ離れていてもよく通るその声は、お世辞にも上手いとは言い難かった。
それからキュッ、キュッとシューズの擦れる音が聞こえてくる。
扉の硝子から覗いてみると、どうやら歌いながら踊っているらしい。
ところどころステップが踏めていなくて、なんだか酔っぱらいみたいに背中がふらふらしている。
こいつは一体何をやっているんだろうと思ったところで、やっと気づいたことがあった。
見知らぬ女の子がそこにいる。
音楽室にはいつもひとりだったから、その景色は珍しいような、嬉しいような。
この時間は軽音部専用のはずだから、大方勝手に使っているんだろうけども。
扉を開けて中に入っても、背を向けたその子は自分に気付く様子はなくて。
周りが気にならなくなるくらい集中しているのだろうか。
声をかけるのもなんだか忍びないから、結局踊り終わるまでぼんやりと眺めていた。
「ふぅ……しんどいなぁ。もう少し、楽に踊れると、良いんだけど……」
踊り終わった女の子がこちらを振り返る。
ばっちりと目が合って、たっぷり10秒はお互いの時間が止まる。
女の子は、額に汗を滲ませて、頬を真っ赤にして、息も絶え絶えで。
それでも弱気な心を読まれてしまうような真剣な眼差しに気圧されてしまう。
それからよく顔を見て、少しだけ心が跳ねた。
有り体に言えば、目の前の女の子にときめく何かがあるような気がした。
惚れっぽい男の子じゃあるまいし。そんな気恥ずかしさを慌てて隠そうとして。
「えっ、あなた、誰!?」
「それはこっちのセリフだよ!!」
前言撤回。なんだこいつは。
思わず手に持ったギターを叩きつけたくなった。
――――――
―――
「で、何やってたの?」
女の子の呼吸が落ち着くのを待って、とりあえず事情を聞く。
ここの主は一応僕であって、無断使用は無断使用だ。
そんな説明をすると、さっきまでの張り詰めた表情はどこへやら。
女の子は小さく縮こまって、全く目線を合わせてくれない。
「あの、えっと……ちょっと、ダンスの練習がしたいなと、思いまして」
「それで、勝手に音楽室に入り込んで、勝手に使ってたと」
そんなに怒ってはいないけれど、別に使ってもらっても構わないけれど。
なんだか珍しいお客様に、ちょっぴり言葉が昂ってしまう。
そんな僕の様子に、目の前の女の子はますます体を震わせて。
その通りですの言葉は、ほとんど消えてなくなりそうだった。
「名前は?」
「く、工藤、忍。1年生です……」
「じゃあ、同い年か。それで工藤さんは、どうしたいの?」
だんだんと僕が工藤さんをいじめているみたいになってきた。
なんで突然来たのかとか、いろいろと聞きたいことはあったけど、そうじゃなくて。
「勝手に使ってすみませんっ。その、誰も使ってない場所を探してて……」
「まぁ、気まぐれに使ってるからね」
「本当にごめんなさい! すぐ片付けてどっか行きますっ」
片付けて逃げていこうとする工藤さんを手のひらで慌てて静止する。
どう、どう。この子はなんというか気が早いな。
「ちょっと待って」
「え、えっと?」
事情は良く知らないけれど、下手なりに努力する姿勢は昔の自分と重なって見えた。
だからだろうか。工藤さんの眩しさにくらくらしつつも、僕はなにかしてあげたいと思い始めていた。
それとも、困っているのが女の子だから? だとしたら、なんて僕は俗っぽいんだろう。
浮ついた思考を振り切って、僕はできることを見つけた。
「どうせひとりしかいないから使ってもいいよ」
「ホントっ!?」
「うぉっ」
静止させようと向けていた手のひらを女の子の両手でぎゅっと包み込まれる。
汗ばんだ手のひらに少し高い体温。その向こうに見えるほころぶような笑顔。
そんなに喜んでもらえるとは思っていなくて、僕の心の準備はできていなかった。
至近距離で感じられる女の子の姿に、自分の体温が沸騰するように上がっていく。
「やったーっ♪ ホント困ってたんだ」
工藤さんは男の手を気軽に握ったことをあんまり気にしてないようだ。
ぱっと僕の手を放すと、くるくると回転してみせる。
熱に浮かされた目で追いかけると、2周目辺りでふらついて転んだ。
「あいたたっ。まだまだ練習が必要だなぁ」
苦笑いをする工藤さんを見て、自分もやっと笑った。
何もかも突拍子もない子だけど、きっと悪い子じゃない。
僕はようやく少し落ち着いて、工藤さんがここに来たワケを知りたくなった。
「それで、工藤さんは……」
「忍でいいよっ。みんな工藤さんだし、同い年だし」
「しの、ぶ」
工藤さんが学校にいっぱいいるのは確かだけど、それでも女の子の呼び捨ては慣れなかった。
調子を外したあんまりな発音に、工藤さんが吹き出す。
「あはははっ。それで、どうしたの?」
「ん゛っ。……忍は、どうして音楽室に?」
「えっと、ちょっと練習がしたかったんだけど……」
曰く、家で練習しようとしたら怒られたそうだ。
外は寒いし、踊ってもいい場所なんかほとんどないし。
それで、探していたらこの音楽室に辿り着いたとのこと。
「なんで急にダンスの練習なんか?」
忍は今日突然やってきた。
ダンス部なんかもちろんこの学校にはない。じゃあ、今までどうしていたのだろう。
あまり真剣に考えたわけではない。けれど、もっともな疑問だった。
「あ……い……っ」
忍は何かを言おうとして、急に言い澱んだ。
何かに急かされるように、何かに怯えるように、笑顔がかちりと固まる。
ぐるぐると回る忍の視線は、次の言葉が本当のコトだとは思わせないのに十分だったけれど。
「えっと、その、うん。さ、最近興味が出てきたのっ」
「……そっか」
僕はそれ以上を聞けなかった。
きっとそんなに大事なことではないんだろう。
広いだけの音楽室にこれからはひとりじゃない。それだけで嬉しかったから。
「とりあえずよろしく。好きに使っていいよ」
「ん。ありがとね! 部長さん、よろしくお願いしますっ」
春はまだまだ霞の向こうだけれども。
春のようなできごとは思いがけずにやってきた。
僕と忍の奇妙な音楽室の同盟はこうやって始まった。
◇
音楽室の住人が増えて何日か、分かったことがある。
まず、忍のやる気はすごかった。
どんな時間に来ても、もう学校指定のジャージに着替えて練習を始めている。
終業チャイムが鳴ってから全力で音楽室まで走ったこともあるけれど、それでも勝てなかった。
習慣だから別にすごくないとは本人の談だけども、それでも本気とは何気ないところから滲み出るものだ。
それを聞いて、やる気もなく、目的もない自分がだんだんと恥ずかしくなった。
それから、どうにも忍のやりたいことは特殊なのかもしれないと思った。
忍は結局、音楽室の一角の机をどかしてしまって、広いスペースを作った。
僕がギターを弾いているからその邪魔にならないようにと、僕の向かい、ちょうど反対側だ。
最初に会った日のように、古いコンポで流行りのアイドルソングを流しつつ、それに合わせて踊ってみせる。
調子が良い日は振り付けに合わせて歌ってみたりして。
選曲はまぁ良いとして、ダンスに興味がある人は歌ったりもするものだろうか。
そういうグループとかをテレビで見かけたりするし、なくはないのかもしれない。
毎日音楽室に来て、手持ちの曲の中から一曲選んで、少しづつ振り付けを体に刻んでいく。
失敗したらやり直したり、入念に動きや声色を確認したり。
一曲を飽きずにひたすら演り続ける。単純作業のようにも見える行為をただただ繰り返す。
努力家と呼ぶにふさわしい忍の姿を、僕は毎日見ていた。
でも、燃える炎のような情熱の中の、どこにそんな燃料があるのか。
それだけは、僕にもずっと分からないままだった。
――――――
―――
「部長さんは何してるの?」
これは何日目かに忍に聞かれた質問だ。
見てもらえば分かるとポーズで示しても、忍は不思議そうな顔を崩さない。
「えっと、なんかちょっと本格的というか……」
忍の目線が、いろいろ置いてある機材に次々と移っていく。
アコースティックギターに、マイク、アンプ、ノートパソコンなどなど。
「録音したりするから、かな」
「そのノートパソコンはネットが見れたり……?」
「しないですねぇ」
「だよねっ、残念」
動画を見ながら練習できると思ったのになーなんて言ってる忍をよそにして。
なんとなくいつもやってることを説明しつつ、USB型のMP3プレイヤーを手渡す。
さっきまで録っていたギターのバッキングの音が入ってるはずだ。
「これで聞きつつ、別のパートを録って重ねてって感じで」
「やっぱりプロみたいだ、演奏上手だもんね」
小さな音楽プレイヤーは見たことなかったのか、驚きの混じった表情でくるくる回している。
おもちゃじゃないんですけど。そう言いかけたところで、興味があったのか忍の言葉で遮られた。
「お高いの?」
「いや、安物だよ」
「ふーん……」
忍は、音楽プレイヤーを持ったまま何かを考えているようだった。
固まったままの姿に僕が怪訝な顔をし始めると、それを見なかったように思いつきの顔を返してきた。
「あっ。ちょっと、お願いがあるの!」
「……なに?」
「アタシ歌ってみるから、録音して聞かせてっ」
突然何を言い出したのかと思ったけれど、断る理由も特にないので僕は頷いた。
パソコンでソフトを立ち上げてから、マイクを繋いで忍の方に向ける。
「どうぞ」
忍はコンポを操作して、カラオケヴァージョンの曲を引っ張り出してくる。
普段は忍が振り付けに合わせて元気良く歌っているアップテンポの恋の歌だ。
「よし……じゃあ合図したらよろしく!」
「「せーのっ」」
細かく刻んだハイハットの音から始まって、明るいピアノが流れ出す。
忍がすっと息を吸う音が、僕の耳に残る。
適当に聞いてればいいのに、なんでこんなに集中して聞いてるんだろう。
なんとなく気になってとしか言えない気持ちに僕は少し苦笑いをする。
跳ねるような忍の歌声が音楽室に響き渡る。
最初は緊張してるのか、声がリズムに乗り切れてなくて硬いなぁと思っていた。
それでも節が進むに連れて、忍の個性が出てくる。同時に忍の表情が変わった。
楽しそうに、気持ちよさそうに柔らかい笑顔で歌い続ける。
冷静に分析していた頭を投げ出すと、嬉しそうに歌ってる姿につい魅入られてしまう。
こいつ、こんな顔もできるんだ。そのせいで後半はあんまりちゃんと聞いていなかった。
気づいたら曲は終わっていて、慌ててて録音ソフトを止めたことだけを覚えていた。
「どう? キーとかアクセントとか、それに最後のサビは自信あるよっ」
鼻息荒く自信に満ちた表情で、忍は録音の再生を急かす。
自分が初めて録音してみた時の記憶を思い出しながら、このあとの言葉を考えながら、僕はボタンを押した。
「……」
「……」
「えっ、アタシ、こんなんなの!」
あぁ、やっぱり。
録音した自分の声は、不思議と自分のものだと認識できないものだ。
カラオケやお風呂場で歌っているだけじゃ、本当に歌が上手いかどうかは分からない。
「まぁその、音は合ってたと思うよ」
楽しそうに歌う人は好きだ。それはそれとして、忍が上手いかと聞かれたら、僕はなんとも言えなかった。
声はよく通るし、音も多分合ってると思うけれど、なんというか……フツウ?
「えーっ……歌は譲れないものがあったのに……」
さっきまでの表情は一瞬で枯れた花のように萎れた。
僕はなんとか慰めようとするけれど、褒めすぎず傷付けすぎない言葉が見つからない。
ぐるぐると考えていたせいで、結果的に訳が分からなくなって本音がぽろりと落ちる。
「……ダンスよりはマシじゃな、あっ」
「……ふーん」
今度は明らかに機嫌が悪い顔になったけれど、すぐにその険しさは緩んでいく。
その表情に安心しつつも、僕は表情がころころと変わる忍を可笑しく思う。
「いいよ、ダンスが苦手なのは分かってるし」
「そ、そう」
「これからたくさん練習すればいいんだもんね! よーし、努力あるのみだよ!!」
気合を入れ直したように忍は練習スペースに戻っていく。
僕は音量を絞って、もう一度忍の歌声を聞いてみる。
その歌は、やっぱり上手くはないけれど、なぜだか好きだと思えるような気がした。
――――――
―――
僕がギターを弾く。忍がダンスを踊る。
そんな放課後の日常が、幾日も続いた。
最初は奇妙な光景だったものは、次第に慣れて普段の景色に溶け込んでいく。
新鮮だった頃を過ぎて、きっと互いに距離を計りかねていたんだと思う。
互いを邪魔しないように大きく空けられた音楽室のスペースは、そのままふたりの心の距離だった。
いつ行っても忍が先に始めているから声をかけるタイミングもあんまりなくて。
きっと忍は僕のことを淡々とギターを弾いてるだけの人だと思っているだろう。
僕も忍のことを淡々と踊って歌ってを繰り返しているだけの人だと思っている。
お互いに理由も目的も分からないまま、ただなんとなく努力を重ねる。
それが変わったのはあの日からだ。
――――――
―――
今日の忍は熱心にダンスのステップだけを練習しているようだった。
前からずっと上手くいっていないパートだと、少し見ただけで気付いた。
複雑で、わりと動きの大きなステップから最後にターン。
あまりの気迫に、ついギターを弾く手も止まって、その行く末を見入ってしまう。
最初の方は上手くいってるように見えていた。
でも、リズムから外れだすと途中で足がもつれだして、ターンまで体のバランスを保っていられない。
足の動く範囲が狭いのか、リズム感がいまいちなのか、僕のような門外漢には分からないけれど。
ただ、苦戦していることは確かだった。
失敗する度に曲を巻き戻して、また失敗して。
額に浮かぶ汗も気に留めないで、ただただ同じことを繰り返す。
がむしゃらにたった1回の成功が出るまで。
そんな姿に、昔の自分を思い出す。
何回やってもFコードが押さえられなくて、鈍い音を聞いてはすぐ投げ出したっけ。
そういえば、あの時の僕は、どうやって壁を乗り越えたんだろう。
忍の努力は、傍目から見て、上手くなっているようには見えなかった。
ステップを間違える度に、まったく別の部分のミスが出る。
疲れが出てきたのか、手の振りまでも大雑把に緩んできてる。
止めたほうがいい。直感でそれだけは分かった。
ちょっと休憩しようと僕の声が喉から出る前に、忍の足が引っかかって姿勢を崩す。
忍がどさっと尻もちをついても、アイドルソングは無情に流れ続けた。
「っ……できない」
「あーっ、もうっ!」
忍は苛立つように天井を見上げて、声をあげた。
どうしてできないんだろう。こんなにも努力しているのに。
そんな心が握った拳を床に叩きつけそうになって、すんでのところでやめる。
「……やっぱり、努力しても、才能には勝てないのかな」
弱気な言葉がぽろぽろと涙の代わりにこぼれ落ちた。
その囁きは、才能の前に夢を諦めた僕の心にも突き刺さって、咄嗟に反応してしまう。
「そんなことないだろ」
「だって!! あんなに簡単そうに踊ってみせるのにっ!」
今の忍は、きっと昔の自分と同じなんだ。
誰だって努力して、誰だってどこかでそれを信じられなくなる。
どこかで折り合いをつけて、才能の前に諦めてしまう瞬間がある。
努力が実を結ぶとは限らないことに気付いてしまう。
でも、忍にそれはまだ早いような気がした。
今もまだその場所に留まる自分を慰めるように、なんとなしの言葉を送る。
それは勇気づけられるものではなくて、ただ自分の心が傷つかないためだけのお守りだった。
「努力できることも立派な才能だよ」
そう言い聞かせて、僕はずっと音楽をやってきた。
「え、う、うん」
「そっか……そうだよね……」
驚いたように目を見開いて、忍がその言葉を反芻する。
繰り返す度に、忍の強く握られた掌は緩んで、身体の方に力が戻っていく。
思っていたのとは違う受け取られ方に、僕の方も少し戸惑う。
「だからちょっと休んで、」
元々はちょっと休憩させようと思っていたことを思い出して。
慌てて付け足した言葉の端を忍に盗られる。
「また頑張ればいいんだっ!」
こいつ、まだ頑張るつもりなのか。
慰めと諦めの境地の言葉は、なぜか逆に忍の心にやる気を灯した。
それだけのエネルギーはどこに埋まっているんだよ。
感心を通り越して呆れつつも、それでも忍が弱気になることもあるんだな。
上手いかどうかはさておき、努力に努力を重ねる、選ばれた強い人間だとずっと思ってきた。
人の弱みを見ると親近感が湧くと言うけれど、まさに今そんな気持ちになる。
忍の表情がすっと変わる。
それで、とりあえず頑張ってみるのをやめたのが僕にも分かった。
「ね、アタシのダンスを見てなにか気付いたこととかある?」
まぁ、ダンスなんか詳しいわけじゃないんだけど。
それでも思ったことが、気付いたことが、もしかしてヒントになるなら。
僕は君にできることをしてあげたい。今はただ、なんとなく。
「身体が硬すぎなんじゃない? ストレッチとかアップとかちゃんとした?」
「……やってない、です」
「やっぱり」
たかが素人のアドバイスは、忍にも思う所があった部分のようだった。
僕の何気ない言葉を素直に聞いてくれたことが、なぜかすごく嬉しい。
忍は慌てて、コンポを止めて、ストレッチを始める。
「痛い、痛いっ」
できないって認められるってきっと大切だ。
山の頂上からのキレイな景色を見るためなら、小さなプライドなんてどうってことないと。
自分の力不足に悲しくも、苛立たしくもなるけれど、それでも山の麓で一歩を踏み出してみる。
助けを求めたって、泣き出したって構わない。
大切なことは力がないことじゃなくて、やる気が燃え尽きてしまうことなんだって。
だから、努力できることも立派な才能なんだ。
そんな自分理論な僕の気持ちは、忍に伝わったのだろうか。
体の硬さと戦いながら必死にストレッチをする忍の背中に心の中で問いかける。
ギターを抱えると、僕はAm、F、G、Cとコードを押えていく。
こんな簡単なことがずっとできなくて、何度も何度も諦めたけれど。
今、こうしてキレイな音が響く。そんなちっぽけな経験のおかげで誰かが歩きだせる。
そう思ったら、なんとなく淡々とやってきたことも悪くないなと思えた。
夢や憧れを燃料に山を途中まで登ったかいはきっとあったんだろう。
「ちょっと、お願い! 背中を押してっ」
また意志の炎を瞳に宿して、忍の大きな声が被さった。
弱気になったり、強気になったり本当に忙しいやつだ。
「分かった、分かった」
座ったままで体をずりずりと引っ張ってきて、忍がこちらの方に寄ってくる。
僕も、生返事をしながらギターを脇に置いて歩み寄る。
音楽室の端と端の微妙な距離感が少し縮まったような気がした。
――――――
―――
「んー?」
次の日、音楽室に入ると忍が腰に手をあてて首を傾げていた。
いつもならこの時間にはもう黙々と踊っているはずなのに。
昨日の真剣な彼女から一転、そんな背中はなんだか気が抜けて笑ってしまう。
「どうしたの?」
「あっ、お疲れ様! なんかコンポの調子がおかしくて……」
目の前のピンクの小さなコンポは、ざざっとイヤなノイズを垂れ流していた。
接触でも悪いのかとべたべた触ってみるけれども、改善する様子はなさそうだった。
かなり使い込んでいたからもう寿命なのかもしれない。
そう伝えようと振り返った瞬間、何かを思いついたような忍の顔が視界いっぱいに写る。
あまりの近さに驚きを隠せなくて、それから忍の瞳の奥にキラリと光るものを見たような気がした。
「こういうのはっ、斜め45度から叩けば治るよ!」
「おい、ばかっ」
忍の目を見てしまった数秒が遅かった。勢いよく忍の平手打ちがコンポに炸裂する。
ガシャンと響く機械音の後、断末魔のように甲高い音を出してコンポは黙ってしまった。
軽く振ってみるけれど、もはやうんともすんとも言わない。
「……」
「……どうすんのさ」
「あぁぁ、やっちゃった……」
こいつは本当にまったく。
そんな気持ちを表すように、長い、長い溜息をついた。
忍は勢いだけ先走っていくから、ちゃんと考えてるのか不安になる。
「どうしよう……お金あんまりないのに」
忍の落胆振りは、悲壮感が目に見えて分かるような気がするほどだった。
もう寿命だったとはいえ、大事な練習道具に自分の手でトドメを刺してしまったんだから。
きっと、自分のせいだという気持ちと、どうしたらいいのか分からない気持ちが混ざりあって。
渋い顔をしたり、切ない顔をしたり、ぐるぐると表情を変えた忍の目についに水たまりができる。
「……」
気持ちは分かるけど、女の子に泣かれると、僕が困るよ。
忍の気持ちが移ったのか、自分までどうしたらいいのか分からなくなってきた。
誤魔化すように視線を遠くにやる。広い音楽室の端から端を見やって。
自分のギターケースを、同じように音を奏でる道具を、見つけた。
なにかできることをしたい。
もう飽きるくらい聞いたアイドルソング。
自信なんかないけれど、本当にできるのか分からないけれど。
それでもこのまま悲しませているよりはマシな気がした。
「忍」
「っ……ん?」
「下手くそで良ければだけど……僕が弾くよ」
椅子に腰をかけると、アコースティックギターを抱えて、カポタストを合わせて。
それから六弦の音を半音下げて調律していく。
ストレッチをしている忍が、おずおずと不安そうに聞いてくる。
「本当に……いいの?」
「そっちこそ、曲の雰囲気全然違うよ? テンポだって合ってるか分かんないよ?」
忍はぶんぶんと首を縦に振ると、ようやく笑顔を見せる。
腕をぐいっと上に伸ばしてストレッチを終えると、いつものやる気に溢れた忍が帰ってきた。
「よーしっ、やるぞー!」
「なんでそんな嬉しそうなの」
「えへへ。なんか、仲良くなったからできることって感じする!」
急に向けられた微笑みに、僕の顔がだんだんと朱に染まり始める。
こいつは何を言ってるんだろうと思いつつも、頬が緩んでいくのを止められない。
恥ずかしさを隠すように急かして、間に合わせのセッションを用意をする。
「はいはい、いくよー」
ギターを抱え直して、ホールに手の位置を揃えたら。
スネアのようにコツンと響くボディの打音に合わせて、カウントダウンする。
「3、2、1」
たどたどしいイントロのアルペジオに合わせて、忍の足が左右にステップを刻む。
うろ覚えの一発勝負だからリズムがいまいち掴めてない。
それでも忍の練習をずっと見てきたからか、なんとなく振り付けで分かるような気がした。
次は右手を回して、その次に左手。一歩前に出たらくるっとターン。
なんでこんなに覚えてるのか自分でも不思議で、つい弾く指に気合いが入る。
アップテンポなメロディを弦の音が追いかけていく。
忍は、あいかわらず硬そうな動きで、ところどころ誤魔化してるのが分かるけれど。
それでも、ちらちらと様子を見るような姿から、だんだんと意志の通った姿に変わる。
爪先まですっと伸ばした手足に、表情や視線の行く末にも心を込めて。
待ちきれなくなった歌声が早ったら、お互いに目を合わせる。
いつも必死そうな顔のくせに。なんでそんなに楽しそうなんだよ。
忍のとびっきりの笑顔が返ってくる。僕がどんな顔をしているかなんてもう分からない。
楽しい。
弦を揺らす指も手首も、跳ねるような気持ちで。
沸き立っていく心が奏でる音に乗るのを止められない。
釣られて僕も忍と声を合わす。気まずさなんて全部なかったかのように。
靴の擦れる音も、リズムを取る足の音もぜんぶ、ぜんぶ合わせて。
ちょっぴりズレのあった音楽は、互いのテンポを揃えて、あるべきカタチを作り上げていく。
天井をぴんと指す指先に、アコースティックギターの残響が重なって。
急ごしらえのセッションは静かに終わった。
「あははははっ」
「くふっ、ふふふふっ」
ふたりで同時に笑い出す。
何がなんだか分からないけれど、おかしくて、嬉しくてしょうがない。
気持ちを表現する言葉が分からないから、ただ感情が溢れるがままに任せた。
「なんで笑ってるのさ!」
「そっちこそ!」
誰かと一緒に音楽をやることなんてなかった。
ずっとひとりで弾いてきた音に、合わせてくれる人がいるだけでこんなに楽しいのか。
初めての感覚に戸惑いつつも、それを刻みつけて絶対に忘れたくなかった。
忍はとうとうお腹を押さえて、今度は別の涙を目の端に浮かべだす。
さっきまで、昨日まで落ち込んでいた女の子の姿にはまるで見えなくて。
この笑顔はきっと僕のおかげだ。
そんなエゴのような気持ちが、跳ねる心臓の音を余計に煩くさせる。
瞬きをする度に目の前の女の子をぱしゃりと心に残していく。
忘れないように、いつだって思い出せるように。
いつもより温かな空気は、音楽室を包んで、しばらく消えることはなかった。
◇
家路へと着く頃。
季節が巡って、また橙が空を薄く染めるのを見ることできるようになった。
白景色はあいかわらずだけど、空には少しずつ春が近づいている。
「はぁーっ。今日もお疲れ様でした!」
「……」
今日も揃って靴を履いて、踏み固められた雪の上を歩いて、校門へと向かっていく。
昨日も一昨日もそうだった。きっと明日も明後日もだろう。
だからこそ、僕は言わねばならない。
「あれっ、不満そうっ。今日のステップはなかなかじゃない?」
「……お給料を要求します」
「? なんの?」
きょとんとした瞳のまま忍が首を傾げる。
その普段は見れない仕草に決心が少し揺らぐ。
でも、こういう時にはっきり言っておかないといけない。
忍とは友達なのか、なんなのかさえ分かっていないんだから、なおさら。
「なんで、毎回、伴奏することになってんの!!」
忍がコンポを壊して、ふたりのセッションはあの日だけだと思っていた。
でも、何か気に入るところがあったのか、次の日もなんだかんだやることになって。
一時停止も巻き戻しも思いのままだなんて考えてないだろうか。
「それは……まぁ、その、うん……ごめんね」
自分の言葉のせいだと分かっているから、忍のしゅんとした顔は思った以上に良心に響いた。
今お金がなくてねーなんて笑って、忍は誤魔化すけれど、キラキラとした笑顔からは程遠かった。
あぁ、もう。そんな顔が見たかったわけじゃないのに。
忍は笑ってた方が可愛いから。
「肉まん」
「え?」
「コンビニの肉まん、ひとつ。それで……引き受けるから」
なんて安上がりなんだろうと思うけれど、それでも心に逆らえない。
どうせ自分の練習なんてあってないようなものだ。後付けで自分に言い訳してみる。
そんな僕の答えは思いがけなかったのか、くるっと目を丸くして。
少し申し訳なそうな、でも嬉しさのこぼれる忍が戻ってきた。
――――――
―――
コンビニまでの長々とした道を、踏みしめるように歩いて帰る。
オレンジは、ホワイトとブルーに混ざって、群青の暗い影を作る。
ふたりの呼吸は白く長く立ち上って、夕焼けに染められていた。
みんな、そろそろ帰る時間なんだろう。
はしゃいで雪玉を投げ合う子ども。買い物帰りに手をつなぐ家族。
もこもこになるまで着込んで朗らかに笑い合う高校生。
そんないつも通りの冬の光景が、僕らのお喋りのきっかけだ。
楽しそうに、不思議そうに、考え込むように、思い出すように。
僕らは、音楽室だけでは分からないことをひとつ、ひとつ確かめていく。
お茶でもした帰りなのか、大声で話して騒ぐおばちゃん達とすれ違った時。
僕は気になっていたことを思い出した。
「忍は……」
「ん? どうしたの?」
「津軽弁が出ないね」
高校にもなると地域の混ざりが激しいから、人それぞれだけども。
誰だって、大なり、小なり、津軽弁の訛りがどこかに隠れているものだ。
でも、忍はテレビで聞くような珍しいトーンでずっと僕と会話をしていた。
「お互い様じゃない?」
「忍は地元民だろ?」
僕は、親が転勤族だから、家族と話す時に標準語になっている影響が強いんだと思う。
それでも、高校の友達なんかと話す時は、どうしてもあの訛りについ引っ張られる。
「んーとね、特訓の成果かな!」
「なんの?」
「アタシ、毎日欠かさずラジオを聞いて、標準語の練習をしてるの!」
へへーん、なかなかでしょ?と得意げな顔をする忍は、褒めてもらった子どもみたいだ。
こいつの努力の方向性がいまいち良く分からない。
傾けている情熱がホンモノなんだってことはイヤでも伝わってくるけれど。
「そう……っすか。なんでまた?」
青森にいる以上、標準語だろうと方言だろうとどっちでもいいだろうに。
むしろ周りに釣られないように意識する方が面倒臭い気がする。
「え、えっと、うん。ほ、ほら、東京とか遊びに行った時に笑われちゃうじゃない?」
またこの顔だ。慌てて何かを隠すように、振り絞るような声で。
こいつはウソが本当に下手くそなんだろう。なぜか頑張る理由を隠したがる。
何度も繰り返されたやり取りに、分かっていてもあまり踏み込まないようになった。
「ん。まぁ、確かに」
「で、でしょ! それに、ほらっ」
踏み固められた雪の上でキレイに忍がターンする。
チェックのスカートがふわりと浮かんで、僕の目線が上から下まで忍を捉える。
「ね、ね。東京でも通用しそうな着こなしじゃない?」
かっちりと着込んだ制服に、オレンジのコートと薄い色のマフラー。
黒色の雪用ブーツに、あんまりスラッとはしてない生足。
可愛いといえば可愛いけど、どっちかっていえばどこにでもいそうな顔。
「……」
「な、なにさっ」
「堅い」
なんかこう、ファッションってもっと緩いものじゃないのか。
せめてコートを開けるとか、カーディガンの色をチラ見せするとか。
そんな油断も隙もないような格好で言われても。
「なっ。そ、そこは女の子を褒めるところでしょっ」
こらーっと忍が腕を振り回す。
それを器用に掻い潜って、さっさと先を歩いてしまう。
これだけいても忍のことはやっぱり良く分からないと、ひとり笑った。
――――――
―――
「はいっ」
帰り途中のコンビニで約束通り肉まんを渡される。
忍はペットボトルのお茶だけを買ったみたいだ。
正当な報酬なはずなのに、なんかひとりで食べるのは後ろめたい。
半分渡そうかと考えたところで、忍が何かを大切そうに持っているのに気付いた。
それは、なんだか良くわからない動物が、さらにデフォルメされた小さな人形だった。
「それ……」
「あっ、これ? お茶のおまけ!」
「えへへ、なんかオトクな感じするよねっ」
なんでそんなもの、と思ったけれど、忍のはしゃぎっぷりに何も言えなくなる。
そのまま黙って、ほかほかの肉まんを半分押し付けた。
「えっ、いいのに……ありがと」
2割増で溢れた笑顔に、これで良かったのだとほっとする。
すっかり悴んだ手に、じんわりと温かさが広がっていく。
僕はそれを独り占めにしなかったことがなんとなく嬉しかった。
少し行儀悪いけれど、コンビニの前でふたり、肉まんを頬張った。
ガラスから漏れる光は、いつのまにか夜闇を明るすぎるくらいに照らしていた。
緩んだ気持ちから、どちらともなく、ぽつぽつと話し始める。
「おまけ集め、好きなんだっ」
「そりゃ、変わった趣味で……」
「変わったとはなにさっ」
年頃の女の子の趣味してはニッチすぎだろう。
忍が部屋の中をおまけだらけにして困っている姿が浮かんで、笑う前に慌てて頭から追い出す。
「この辺だと、あんまり売ってなくて寂しいんだよね」
「ど田舎だからなぁ」
「ふふっ、海と山と、広い空だけだもんね」
流石に海の匂いはしないけれど、星の煌めく空と向こうに陰る山は何もないことを教えてくれる。
そんな退屈でつまらない街だと、短いながらも僕はずっと思って育ってきた。
「でも、今日みたいな日に夕焼けが綺麗に見える場所があるんだよ! 海の方で、すっごく静かなの」
「おう……いつか連れてってよ」
それでも誰かと一緒なら楽しいのかもしれない。
この不思議な女の子のせいで、僕は確かにそう思い始めていた。
「東京に行ったら、おまけもいっぱいあるのかなぁ」
小さく細い呟きは、雪の静けさのせいではっきりと聞こえた。
東京。テレビでしか見ることのない煌めく都会。
忍は、その言葉を今日だけで何度も口にした。
忍が隠している秘密に近いところだという感触もあったけれど。
疑問はついこぼれ落ちてしまった。
「忍は……東京、行く気あるの?」
「んーっと。ほ、ほら、キラキラしてて憧れの街じゃない?」
この街が嫌いだってわけじゃないんだけどね、と慌てて付け足す。
いつもよりは落ち着いているけれど、それでも忍は何かに急かされるように答えを続けた。
「テレビの中の世界が全てだとさ、いろいろ気になっちゃって」
ファッションとかそういう話だろうか。
やっぱりどうしても田舎は遅れているし、できることが圧倒的に少ない。
そういった意識の塊が、きっと憧れという名のコンプレックスになるんだろうと考えていた。
「大学生とかになったら行けるかもな」
「それは……そうかも。勉強、頑張らなきゃだね」
遠くを見やる忍の瞳に、気にかかるところはあったけれど。
つい考えてしまう。ふいに広がった空想を止められない。
大学生になって、都会の大学で、忍と一緒に歌って、演奏して……そんな淡い妄想。
君はそれまで一緒にいてくれるだろうか。この関係はいつまでも続くのだろうか。
ふわふわとした気持ちを上手くまとめられなくて、返事はありきたりなものになった。
「ここを出ていきたいって気持ちは……分かるよ」
「でしょ! だってさ……」
急に調子を取り戻した忍と目が合う。
その瞳の奥を見て、次の一言はきっと軽くないとそんな予感がした。
「ロマンはどこだーってやつだよっ」
「大人になって、お婿さんもらって、家業を継ぐなんてさ……」
「そんなの、つまらないもんね!」
まっしろに吐き出された忍の想いの欠片は、自分の心にずしりと重くのしかかって。
それで、ようやく気づいた。
こいつは夢を見てるんだ。
子どものころに憧れたキラキラを、まだ子どものように追いかけてる。
自分が探すのを諦めたロマンをずっと探し続けてる。
何を見上げているのかは分からないけれど。
来る日も来る日も踊って歌って。
バカみたいに頑張ればちょっとでも近づけると本気で信じてる。
こんな田舎で、こんな退屈な街で、できることなんかない。
咄嗟に飛び出そうになった小さなトゲを慌てて隠す。
この心はなんだ。何にムカついているんだろう。何が気に入らないんだろう。
ぼんやりと忍が空を見上げる。
星が飛び込んだような瞳の先。ちらちらと舞う雪の向こう。
夜空に描かれたはずの夢物語は、自分には見えなかった。
◇
春休み直前。
先生が配った1枚の紙に、僕は苦い想いが口中に広がっていくのを感じた。
『進路調査』
大学に行くのか、行くならどこの大学を希望するのか、そしてその先で何になるのか。
この時点で真剣に将来のことを考えているやつが、どれくらいいるのだろう。
この青森を出ていくという判断をできるやつが、いったいどれくらいいるのだろう。
ど田舎に漂っているのは希望じゃなくて諦めだ。
だいたいは、なんだかんだと諦めにあてられて、残ることを選択していく。
僕もそのひとりであることに、何の感情もなかった。
きっと最初からなれるものは神様が決めているんだ。
学力的に行けそうな学校を適当に書いて、目標には公務員の文字を書き殴る。
親はその紙を一瞥して、頑張れよの一言を投げただけだった。
音楽家になりたいだなんて言った子どもの夢を親が覚えているはずもない。
大多数に消えるような人生だっていいじゃないか。音楽はずっと趣味でやっていけばいいだろう。
心のどこかで囁く声がうるさい。そんなことは分かってるんだよ。
華やかで煌めく場所に自分も立ってみたかった。
その場所を見上げては、少しでも近づいているつもりだった。
ギターを抱えて、響く音を信じて鳴らす、そんな日々。
『自分にだって才能があったなら』
『しょうがない、しょうがないんだ』
いつから歩くのをやめてしまったんだろう。
傍から見ているだけになったのはいつからだろう。
『今日こそ成功してやるんだからー!!』
目を閉じて下を向く。見覚えのある子の声が聞こえるような気がする。
瞼の裏に浮かんだ女の子の姿は、目を開けると滲んで映った。
――――――
―――
授業が終わって、音楽室に向かった時、僕は驚きを隠せなかった。
音楽室の方から誰かのいる気配がしない。
忍がいないことは明白だった。
たった1日も欠かさず僕よりも先にいたはずなのに。
それだけで僕は言いしれぬ不安を覚えた。
きっと用事でもあるんだろう、そう言い聞かせないと音楽室の扉をくぐれなかった。
やけにゆっくりとギターケースを開ける。
時間をかけて準備をして、ギターを抱えて、いつもの体勢になる。
普段はもっと大雑把なくせに、今日に限って一弦、一弦、丁寧にチューニングをしてやる。
それでも、まだ忍が来ることはなかった。
日常が来なかったことは、僕の考え事を余計に増やす。
今日の教室は進路の話で持ち切りだった。
僕の選択は果たして正しかったのだろうか。
そもそも正しいってなんだ。現実よりも夢を見ることは間違っているとでも言うのだろうか。
迷ったときに弾きたいお気に入りの曲がある。
音楽というものに憧憬を見てから、いろんなものを諦めて、失くしてきた。
それでも最後に残ったものがある。いつだってまだ夢を見れるような気にさせてくれる曲がある。
日焼けと手垢でぼろぼろになった楽譜を鞄から取り出す。
もうとっくに運指を覚えてしまっているのに、いつもの癖で譜面台に楽譜を置く。
そっと、タイトルの下、「the pillows」の文字を指でなぞった。
淡々とそのイントロを指で弾いていく。もう何度も聞いたギターのリフレイン。
もう夢を見ることをやめたはずなのに、夢を歌った曲を大事そうに抱え続ける。
僕はきっとすべてを捨てることなんて難しくて。
そう思った瞬間に、後ろのドアが静かに開いた。
「……忍?」
顔だけそちらを向けると、忍はいつもの雰囲気ではないことがすぐに分かった。
力の入ってない身体、悔しさを見せる表情、濁ったような瞳の光、そして目元の赤。
忍は制服のままずかずかと音楽室に入ってくると、僕の横を通り過ぎた。
そしてそのままいつものスペースの真ん中に座り込んで、俯いて黙ってしまった。
僕の不安はさらに大きくなる。なんて声をかけていいのかまったく分からない。
あれでもこれでもないと脳内でシミュレーションを繰り返して、長い時間が消えていく。
言葉はふいに忍の方から発せられた。
「……さっきの曲」
「ん、ん?」
「好きなの? 練習中にも何度か聞いたけど」
「そうだね」
なんてことない会話のはずなのに、忍の声はほとんど聞こえないほど小さかった。
いつもやる気の忍はどこへいったんだよ。
なんでか分かんないけれど、僕はできれば君に笑っていて欲しいんだよ。
「……どんな曲なの?」
それは変わった質問だった。どんなってなんだ。
その違和感は、僕にひとつの可能性を浮かび上がらせる。
もしかしてこいつも伝えたい言葉を探して迷ったままのかもしれない。
「夢を、歌った曲かな」
この答えで良かったのか、僕には分からなかった。
俯いたままの忍の顔は良く見えなくて、互いに迷ったままの会話が続くように思えた。
「ゆめ……夢かぁ」
僕の言葉を小さく忍は繰り返す。浮ついたように、心をどこかに置いてきたように。
それはなにかのタイミングを図っているようで、ふいにその時は来た。
「あのさ……聞いてほしいことがあるんだ」
「あのね……えっと、うんと、あのね……」
「アタシ……あぁ、違くて」
「あのっ。な、なんで歌って踊る練習をしてるのか気にならなかった?」
それはずっと隠されてきた秘密で、もう僕も気に留めてすらいなかったことだった。
忍は努力家なんだということだけが分かっていればいいと、そう思っていた。
それでも、知ることができるならなんでも知りたい。忍にはきっと何か夢があるんだろう?
「気になったよ」
「ん、んと、あのっ……」
忍が顔を上げる。その目元はどうみても涙を我慢しきれていなくて。
そして瞳の奥にかすかな期待の色を見たような気がした。
忍が息を吸う音がやけにはっきりと聞こえる。
今この瞬間だけ時間がゆっくりと流れていって、次第に世界が止まってしまいそうになる。
僕は次の言葉を待つのに身体が小さく震えるのを感じた。
「アタシね、東京でアイドルになりたいんだ」
あいどる。アイドル。
うわ言のように頭の中で繰り返して、ようやく理解が追いついてくる。
あの忍が? アイドルだって?
確かに歌って踊るようなものだけれど、なにかの冗談だと信じて疑わない。
でも、言い切った忍の顔に笑うところは何ひとつなくて。
僕はその言葉を飲み込むしかなかった。
人間、最後には他人がどうなろうと知ったことではない。
だから僕は頑張れよとただ一言だけ言ってやれば良かった。
それがどんなに勇敢で無謀な選択肢だとしても、僕には多分何の関係もなかった。
でも、言葉がでない。
あの忍が可愛い衣装に身に纏ってステージを駆け回る姿が見えるような気がする。
それほど上手くない歌も、苦手なダンスも努力で克服して、誰もが憧れるような光になる。
いつも見せる笑顔の何十倍もステキな顔になった忍は、きっと綺麗だろうと思った。
東京でアイドルになるってことはもう青森には帰ってこないってことだ。
アイドルになるってことは、もう手の届かないところへ行ってしまうことと同じだ。
アイドルなんて誰もが簡単になれるものではなくて、夢敗れる人の方が多いって僕でも分かった。
夢を叶えて笑っていてほしい。
いやだ。行ってほしくない。傷ついてほしくない。
理由の分からない気持ちだけが心の中で暴れる。
たったそれだけの告白を笑い飛ばすことも、応援することも、反対することもできない。
忍の決意を耳にして何十秒が経ったんだろう。
僕は何も言えないまま、忍から目を逸してしまった。
「……っ」
忍はそれだけで十分だと言わんばかりに何かを察してしまった。
次の瞬間、立ち上がって音楽室を飛び出していこうとする。
真っ赤になりそうな目元を片腕で押さえて、何もかもを投げ捨てるように。
何も言わないことはきっとあまりにも伝わりすぎてしまったのかもしれない。
僕は慌てて手を伸ばして静止しようとした。
あぁ、違くて。いや違わないんだけど。そうじゃなくて。
何が言いたいのか、何を考えているのか自分でも分からない。
なにひとつ言葉にできなかった自身をまだちゃんと認識していなかった。
「来ないでっ!」
はっきりとした忍の拒絶の声が背中越しに伝わる。
僕は伸ばしかけた手をただ降ろすしかなかった。
走っていく忍の背中を見つめる以外にできることがなかった。
――――――
―――
音楽室は無音だった。
いつだって先にいてくれた音が聞こえなかった。
次の日から忍は「練習」に来なかった。
体調を崩したとか気分じゃないとか、理由はいくらでも思いつくけれど。
答えはきっとひとつしかなかった。
僕はきっとアイツの夢を傷つけてしまったんだ。
今日も広くなった音楽室にギターケースを降ろす。
一緒にこんな気持ちもさ、放り投げられたらいいのに。
それでも分かってるつもりだった。
何度チャンスを与えられたって、きっと僕は同じ過ちを繰り返すと思う。
人間は思ったよりもずっとワガママだ。
僕はワガママだったから、何もすることができなかった。
そのワケはきっと初めて会った時からずっと膨らみ続けて、今もなお止まることを知らない。
まだはっきりとしない理由を、僕は掴みかけているような気がしていた。
なにもできることがないとしても。
会ったところで、謝ったところで、答えは変わらなくても。
ずっとこのままは耐えられそうになかった。
終業のチャイムが鳴った後の学校は、静かに靴音を響かせる。
通り過ぎる教室から聞こえるお喋りはやけにゆっくりと頭の中を通り過ぎた。
僕は聞こえるはずもないのに、その中から女の子の名前を必死に探していた。
どこに行けばいい。体育館か、大教室か、忍のクラスか。
何もかもを知っていたつもりで、何も知らなかったことに気付く。
誰が好きで、嫌いで、仲良しで、そういったフツウのことが分からない。
どうかなんでもいいから、きっかけを掴めますように。
そう願う度にいつの間にか足は早って、息が上がり始めていた。
ここが忍のクラスだ。祈るような気持ちで目を開ける。
息を切らして飛び込んだ教室の窓際に、女の子をふたり見つけた。
「あのっ!」
怪訝そうにこちらを伺うふたつの顔がだぶって見える。
確かに、必死の形相で教室に入ってくる奴がまともな奴のわけがない。
扉のレールをまたぐ前に、勢いだけで来た自分に気付いて、深呼吸をひとつした。
とりあえず突っ走るなんて、まるでどこかの誰かさんのようだった。
「……な、なんですか?」
「工藤さん……忍、どこか知りませんかっ?」
片方の女の子がおずおずと答える。
「今日も……お休みですよ」
まさか、学校も休んでるのか。
避けられてるだけだと思っていたから、その答えは心の傷を深く抉った。
僕はもしかしてそこまでのことをしてしまったのかもしれない。
「それは、理由とか……」
もし風邪だと言われて、僕は納得しただろうか。
何かしらのきっかけを作ってしまった自分のことを許せただろうか。
ふたりの女の子が顔を見合わせる。
その顔に苦みが走ったのを僕は見逃さなかった。
「あの、何か知りませんか!!」
「忍にどうしても会わなきゃいけなくてっ」
急にやって来た男が、こんなことを言って、どう思われただろう。
応援できなくても、自分にウソはつけなくても、できることをやらなくちゃ。
そうしないときっと一生、後悔する。
女の子が気まずそうに話を始める。
夕暮れの教室に3人の会話だけがそっと聞こえる。
「その……」
「忍とケンカしちゃって……」
そのタイミングの一致は僕には偶然と思えなかった。
もしかしてこの娘たちのケンカも、僕と同じ理由なんだろうか。
「進路調査?」
ふたりの女の子がほぼ同時に頷く。
その顔にはなぜ知っているのかという驚きも含まれていた。
「忍がアイドルになりたいって急に言いだしたからさ」
「忍にアイドルなんて無理だよって、つい言っちゃって」
「次の日から休んじゃったから、謝ろうにも謝れなくてね」
やっぱり。そりゃそうだよなという気持ちもあった。
それくらい忍の告白は衝撃的で、咄嗟に応援するなんてできそうにもなかった。
何にもないこの街でそんなことを言い出す人がいるとも、きっと誰ひとり思っていなかった。
あの日、忍は夢を語った全員に否定されたような気持ちになったってことだ。
少しだけ救われた気持ちになったのは、忍の夢が笑われたわけじゃないということだった。
心配そうに、申し訳なさそうにその日のことを教えてくれるふたりの女の子。
その仕草は、表情は、大切な友達を想う姿だった。
言葉だけがうまく伝え合えなかったのだろう。
そばにいればいるほど、背中を押す方だって怖いんだと。
中途半端な気持ちで応援できるほど、一緒にいた時間は短くないんだと。
僕は彼女たちからそう教えてもらった気がした。
僕もきっと半分は同じだと思った。
でも忍は姿を見せないままだ。そして僕はまだ残り半分の理由を探している。
女の子たちに礼を言って、僕は音楽室に戻る。
廊下を歩いていきながら、起こったことをひとつずつ整理していく。
あの日、忍は友達とケンカした後だった。
自分の夢を語って、何の希望もなく反対されて、それで目元を腫らしてやってきた。
だからあの時の期待の破片はきっとそういうことだったんだろう。
きっと素直に応援されないとは分かっていても、それでも努力を知っている人ならという気持ち。
僕は結果論で言えば、忍の夢を応援してやるべきだったんだ。
でも僕にはできなかった。
その理由が、残りの半分が少しづつはっきりとしてくる。
本当に大切なことは、いなくなってから気付く。
僕は忍に会いたくて仕方がなかった。
それは楽しかった日常に焦がれるようなもので、でも全部がそうなわけじゃなくて。
忍の笑った顔も泣きそうな顔も何もかもが、今でも鮮明に思い出せた。
また一緒にふたりでギターを弾いて踊っていたい。
願わくばそれがずっと続いていってほしい。
高校生の間も、できることならその先も。
心臓の音が早って煩くなる。それを認めるには勇気がいるような気がする。
あの日をこんなにも後悔するワケが、心の見えなかった部分にある。
誰かの幸せを願う気持ち、自分だけの人でいてほしいと願う自分勝手。
忍には夢を叶えてほしい。お日様のような笑顔で笑っていてほしい。
忍には夢を叶えてほしくない。手の届くところで側にいてほしい。
あぁ、僕は忍に恋をしているんだな。
好きってこういうカタチにもなるんだ。
やっぱり僕は自分のせいで忍を傷つけてしまったみたいだ。
好きな人の心からの笑顔のためを思えない僕は、やっぱり子どものままだ。
それならなおさら何かできることがあるのだろうか。
好きを隠して応援することも、好きを伝えて反対することも、どんな選択肢もあった。
次会えたらなんて言おうか。謝って、そしてどうすればいい。
僕はまだ自分のするべきことが分からないままでいる。
◇
春休みに入って、お日様は暖かさを少し分けてくれるようになった。
それは誰もが望んだ春を、優しい気持ちを運んでくるはずのもので。
でも、きっと誰にとってもそうじゃないんだって今なら分かる。
僕はまだ何日も忍を待ち続けている。
会いにいくことも、謝ることもできないまま。
音楽室に来る度に、誰かいないかと期待してしまう。
擦れるシューズの音と大きな歌声が聞こえてほしいと願ってしまう。
音楽室の同盟は、こんなにもあいまいなものだったんだと今更気付く。
家に押しかければ良いのかもしれないけど、連絡先を聞けば良かったのかもしれないけど。
それでも、きっと仲直りをするならこの部屋じゃないとダメなんだと思う。
それくらい一緒の時間を、音楽室で過ごしてきた。
置き去りのままのシューズを視線が何度も捉える。
練習なんて手につかなくて、今日も手持ち無沙汰にピックを揺らす。
僕の手は何度も空振りして、静かな鈍い音だけを響かせた。
だから、扉がそっと開いた音はやけにはっきりと聞こえた。
この部屋に用事がある人はたったひとりだけだ。
振り返るとほぼ同時に待ち望んた人の名前を呼ぶ。
「忍っ」
瞳に映った忍は、少し大きめの鞄を持って、しっかりと私服を着込んでいた。
まるでこれからどこかへと行ってしまうかのように。
忍は身体が言うことを聞いてくれないとばかりに目線をあちこちに逸して。
誤魔化すために片手で髪をいじったまま、ぼそりと呟いた。
「あの……その。……ごめん」
僕は、その「ごめん」にいろんな想いが混じっているんだと気付いた。
喧嘩してしまったこと、音楽室に来なくなったこと、きっとそれだけじゃなかった。
なんで制服じゃないんだよ。なんで旅行でも行くような格好なんだよ。
いつも通りの格好で、いつものように現れてくれたら良かったのに。
その声色は、会えなくなった理由と、忍の性格と、あっさりつながってしまった。
「忍……まさか」
「……」
忍は何も言わない。
それは、黙っていたいというよりも、何を言うべきなのか分からないという顔をしていた。
永遠にも感じられる沈黙の後、ぽつり、ぽつりと答え合わせが始まる。
「あのあとね、お母さんやお父さんにも大反対されちゃって、ケンカしちゃって」
「やっぱりアタシの夢は誰にも応援してもらえなかった」
決意に満ちていたはずの忍の瞳に諦めの影が映る。
「やっぱり」のフレーズに、忍がどれくらい憧れて、悩んでいたのかが詰まっていた。
「でも、アタシね、ぜーったいアイドルになりたいんだ」
「だから、ほとんど家出同然で飛び出してきちゃった」
「……東京に行こうと思うの」
姿を見た時から気付いていた。でも、その言葉は僕が一番聞きたくなかったセリフだった。
結局僕はどうすることもできないまま、いなくなってほしくない人を見送るだけなのだろうか。
そんな悔しさと苛立ちがささくれだって僕の心を荒らす。
「忍……自分が何やってるのか分かってるのか?」
「っ……そうやっていつも勢いだけで突っ走って」
全員の反対を振り切って、家出してまで、東京でアイドルを目指すだって?
そんなことする高校生がこの世のどこにいるっていうんだ。
ふざけんな。現実はそんなに甘くない。
傷ついて逃げ帰って夢を見られなくなるくらいなら、淡い期待なんかしない方がいい。
「女子寮があるようなとこだったら良いけど、贅沢は言わない」
「オーディションにさえ受かれば、反対してるかなんて関係ない。転校も一人暮らしも認めさせる」
分かち合えない心は、互いに伝えるべき言葉を渡せないまま、すれ違い始めた。
もうなりふり構っていられなくなって、自分のエゴが咄嗟に悲鳴をあげる。
「それだってこっちでできることあるだろ!」
どうか行かないでくれ。そう伝えたいだけなのに、口から出る言葉は空回りする。
「ないんだよっ!! アタシみたいなフツウの子には……」
忍の声も大きくなる。諦めたりしないと、想いの丈をぶつけてくる。
その叫びは努力に頼るしかなかった女の子の悲痛な本音だった。
「書類なんかじゃ絶対無理。直接オーディション受けて、アタシの努力を認めてもらうしかない」
顔が良いわけでも、なにかトクベツな才能があるわけでもない。
それでもテレビの向こうで歌うアイドルを、遠い国のお姫様のように憧れ焦がれる。
「それだって今じゃなくたっていいだろっ」
「進路が決まり始めたら、もうアイドルになるチャンスなんてない!」
きっと来年度は進路に合わせてクラスも授業も変わるだろう。
誰もが子どものころの夢を諦めて、大学に進むことを、就職することを選択していく。
進路調査というたった1枚の紙切れは、女の子をこんな決断をさせるまで追い込んだんだ。
「……アタシは、絶対にアイドルになりたいの」
もう一度、想いを確かめるかのように忍は呟く。
夢と意志の欠片を紺碧の瞳に映して。
あぁ、こいつは。もう答えが出ているんだ。
その目を見てしまって、僕はもう何も言えなかった。
どんな異論も忍には届かない。長い間、悩んだ想いの分だけ決意は重かった。
かっと沸き上がった気持ちがすっと熱さを失っていく。
それが、誰かを想うわけでもなく、自分だけのワガママでしかないと気付いてしまった。
振り上げた拳を降ろすように、僕は忍から視線を逸らした。
「それでね……忘れ物を取りに来たんだ」
「ずっと一緒に努力してきた仲間だからね、置いてけなくてここに寄っちゃった」
そっと僕の横を通り過ぎると、置きっぱなしだったシューズを大切そうに持ち上げる。
忍は振り返って僕と向き合うと、悲しそうに笑みを浮かべた。
「本当は会わないまま、行こうと思ってたんだけど……」
「ずっと一緒にいたのに、今更逃げられないなって思って」
「だからゴメン、そしてありがとね」
そんな顔されたら僕は何にもできないだろう。
本音を隠して背中を押すことも、せっかく気付いた本音を曝け出してしまうことも。
応援したら好きだった人は、近づくことも叶わない遠いところへいなくなってしまう。
好きだと伝えたら、何にも変わらなくても、きっとせっかくの決意を汚してしまう。
僕の身体はもう動かなかった。思考もほとんど止まっていた。
忍の身体がもう一度僕の横をすり抜けていこうとする。
僕はその背中を呆けたように見つめて、捕まえられなかった忍の心まで離れていってしまう気がした。
縋りつこうと、何の力もなく僕の手が伸びる。
僕の中の何かが、まだ諦めてないとでも言うようだった。
やっぱり納得できない。忍のことも、自分のことも。
このままさよならなんて、そんなことあっていいはずがない。
「待って!」
急に飛び出た言葉に自分が驚く。
忍もびくっと身体を震わせて、顔だけこちらを伺った。
とりあえず次の言葉をつなげなくちゃ。それだけでなんとか気持ちを持ち直す。
「忍っ、出発は何時?」
「え、えっと。い、1時間後だけど……」
「絶対に追いつくから、ホームで待ってて!」
忍を音楽室から追い出して、そう叫んだ。
本能に理性が追いついていなくて、何にも考えていなかった。
もしかしたら一緒にいられる時間をただ増やしたかっただけなのかもしれない。
そんなことないだろうと、必死になって頭で考える。
走って追いつくことを考えると、今から20分ほどの時間がある。
大好きな女の子が旅立とうとしている時に、僕は何の花も言葉も添えてやれないのか。
音楽室を何一つ見逃さないようにゆっくりと見渡す。
忍が作った広いスペースの跡、アコースティックギター、マイク、アンプ、ノートパソコン。
そこにはいつも通りの光景があった。
音楽だけでつながってきた僕らの日常が残っていた。
あぁ、やっぱり。これしかないんだよな。
もうどうあってもいつも通りには戻れなくて、その最後の瞬間を僕は任されてる。
キザすぎると思うけれど、それでもこの閃きに託してみたくなった。
応援したい、応援したくない。好きだって伝えたい、伝えたくない。
不器用な僕の中ではいろんな想いがせめぎ合って、たったひとつの答えになりそうもない。
言葉で上手く伝え合えないなら、せめて唇に唄を乗せて。
「旅立ち」も「恋」もカタチにならない想いとはなにか違う気がした。
「夢」を歌おう。
汗を浮かべて必死に踊る忍の姿が浮かび上がる。
いつだって頑張って考えて探してきたじゃないか。
何度だって失敗して、間違えて迷って、それでも今日まで歩いてきたじゃないか。
そんな忍に、頑張ってきたねって心の底から言ってやろう。
背中を押してあげられなかったあの日も弾いていた曲。
諦めた夢の残滓を抱えながら、ずっと弾き続けてきた曲。
アコースティックギターにマイクを寄せる。
録音の設定を決めて、MP3プレイヤーは空にしておく。
一発録りの大勝負だった。
3、2、1。
ボディでリズムを取って、震える指で最初の弦を揺らした。
シンプルなギターのリフを丁寧に弾いていく。
ずっと演奏してばかりで歌うことはあんまりしてこなかった。
だから声が上手く出ない。キーをちゃんと保ってられない。
忍のことを笑っている場合ではなかったなぁと心の中で思う。
それでもサビに向かって、一番伝えたいことに向かって小節は進む。
少しづつ歯車が合っていく。ギターの響きも拙い歌声も僕の心にチューニングされていく。
すっと大きく息を吸う。今できるありったけを大切なフレーズに込めて。
『キミの夢が叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ』
『風の強い日を選んで 走ってきた』
どんなに寒い日も、風の強い日も、忍が必死に練習してきたのを見てきたんだよ。
これから先、僕の知らないたくさんの人と出会うんだろう。
忍の無鉄砲な挑戦が上手くいくのか、いかないのか分からないけれど。
成功も失敗も素直に願ってあげられないけれど。
それでも、僕はこれからもずっと信じていく。
君の夢が叶うのは、君のおかげでありますように。
自分の声を掻き毟って、六弦を震わせて。
僕の声が、唄が終わってしまう前に。
想いよ、響け。思いよ、届け。
残響が消えて、僕はできることをやったという実感があった。
ただ、これを確かな言葉と一緒に渡さないと何も始まらない。
録り終わった曲をさっと確認して、MP3プレイヤーに入れていく。
まぁ、これは安物だし、そのままあげればいい。
最初の頃、忍がおもちゃみたいにくるくる回していたっけ。
中途半端な待ち時間が、この部屋での日々を呼び起こしていく。
あんなことも、こんなことも、これから全部想い出になってしまうことが寂しかった。
パソコンやら機材やらをいじくりまわしている間に、時間はじわじわと過ぎる。
走って追いつけるデットラインはもうすぐそこまで来ていた。
はやく。はやく。
普段のんびりでしか使ってないパソコンだけどさ、たまには頑張ってくれよ。
ライムグリーンのバーが70%, 80%と少しづつ進捗を刻んでいく。
ピコン。もう画面も何も見ないで、引っこ抜くと、蓋をしてMP3プレイヤーに戻す。
たったそれだけを握って、僕は朝方の街へと駆け出した。
転ばないように、でも、できるだけ速く。
ここから一番近い駅へと息を切らして走る。
静か過ぎる街は、朝の太陽を反射して、きらきらと旅立ちを祝福するかのようだった。
それが僕には眩しすぎて、目を細めながら順路を往く。
僕らが毎日並んで帰った道を飛ぶように駆けていく。
なんてことなかった会話が過ぎていく景色にちゃんと残っている。
ひとつ、ひとつを手に取って確かめられたら良かったのにな。
きっと寂しい気持ちで僕は泣き出してしまうんだろう。
そんな感傷さえも置き去りにするように、ただ走った。
駅が見えてくるころには体力も気力も限界に近かったけれど、それでも諦めたくない。
つらくてもゴールまでは走り続けていたい。
ちょうど電車が入ってくるのが遠くに霞んで見える。
もう時間がない。間に合わなかったときのことなんて考えたくない。
最後の力を振り絞って、駅の改札口に滑り込んで。
駅員さんに500円玉を叩きつけた勢いのまま、ホームへと走り出した。
追いついた!
すぐに来る電車を待っている忍は、物音に振り返って、苦笑いをした。
それでも、視線を交わすと、じわじわと忍の目から雫が溢れそうになっていく。
忍は、慌てて帽子を目深に被り直して、絞り出すように声をかけてきた。
「い、勢いで、突っ走りすぎなんじゃない?」
「はぁっ……お、お互い様だろ……っ」
絶え絶えの息の中で、僕は一瞬だけ映った忍の表情を反芻する。
それは走りながら迷ってきた自分のやるべきことを教えてくれた。
不安じゃないわけないんだよな。
親にも友達にも反対されて、それでも夢の煌めきと自分の努力だけを頼りにして。
たった今、誰も知らない街に往こうとしてる女の子。
ここで応援できたらどんなに素晴らしかっただろう。
ここで背中を押せたらどんなに格好良かっただろう。
僕はぐっと堪えて、握りしめてきた手のひらを差し出す。
「これっ」
「あ、うん。あ、ありがと」
忍は目を丸くして、それから赤くなった手のひらで僕の手ごと宝物のように包み込んだ。
なにこれ。そんな簡単なことすら、忍には何も聞かれない。
近づいてくる電車の音が響いても、ふたりの世界は止まったままだった。
『さっき録ったから、電車の中で聞いてくれよ』
たったそれだけの言葉を、僕も言えずにいた。
今ここで何かを喋ったら、余計なものまできっと飛び出してしまう。
頭の中でたくさんの言葉と想いが浮かんでは消える。
勢いだけで突っ走って、誰かに迷惑かけるなよ。
本当にアイドルになって夢が叶うといいな。
東京に行ってもずっと頑張れよ。
お願いだから、行かないでくれよ。
できればずっと青森にいてくれよ。
お前と一緒だったらきっと何でも楽しい。何だって頑張れる。
忍のこと、ずっと、ずっと、好きだったんだ。
これまで重ねてきた日常と一緒に涙が溢れていきそうになる。
今、僕が泣いたら、忍が困る。それだけは嫌だと、ギリギリのところでなんとか踏み留まる。
伝えたい想いはこんなにあるのに、かけるべき言葉が見つからない。
滑るように入り込んでくる電車は、もう時間がないことを教えてくれていた。
本音と建前が何色もぐちゃぐちゃに混ざり合った心の中で。
せめて恋願うことくらいは許されるだろうか。
「……いつでも待ってるから」
その言葉は、祈りのように、静かに響いた。
これまでもそうであったように、せめて今の僕にできることを伝えたくて。
不器用だけど心をこめた言葉は、そっと僕の手を離れる。
「……」
ゆっくりとした沈黙の後、響くベルがおわりとはじまりを告げる。
忍だけの扉が、ずっと追いかけてきた光の向こう側が開く。
「……うんっ」
俯いたままだった忍は、顔を上げて、精一杯の笑顔を見せた。
嬉しくて泣くのか、悲しくて笑うのか、声を少しだけ震わせて。
溢れだしそうな僕の想いの欠片は、忍に正しく伝わったんじゃないかと信じることができた。
繋いでいた手をゆっくりと離す。
忍が振り返って、一歩目を踏み出す。
もう手も振らない。振り返ることもしない。
僕は背中でドアの閉まる音を聞いた。
電車の発車音。
改札口を出て、賑わいだした街へと歩みを向ける。
雪の上を踏み出す度に、心が叫びそうになるのを止められない。
きっとこれから忍は、オーディションを受けるんだろう。
僕が諦めてしまったように現実はそんなに甘くないのかもしれない。
それとも彼女の努力が実を結んで、案外上手くいってしまうのかもしれない。
そのどちらだとしても、僕は待っていたかった。
アイドルとしてでも、工藤忍としてでも、またこの場所に帰ってくることを。
夢が叶ったと笑っていてもいい、やっぱりダメだったと泣いていてもいい。
港を出ていく船が、帰る場所だけは見失わないように。
女の子の夢を素直に祈ってやれないなんて、僕はとんだ薄情者だ。
でも、それくらいこのエゴは自分の中で大きくなっていた。
好きな人に一緒にいてほしい。好きな人に笑っていてほしい。
どちらも確かに僕の心で、そしてどちらもあの日の音楽室から始まっていた。
ごめん、忍。僕がもっと強かったら、カッコつけられるような人だったら違ったのかな。
最後まで言葉という確かな形で、君の背中を押してあげられなくてごめん。
昼前の街は騒々と、少なくない人が僕の横を通り過ぎていく。
それでも僕の世界は、あの瞬間のまま止まっていて。
世界中にひとりだけみたいだなぁなんて小さくこぼした。
いなくなってしまった君を想って、顔を上げる。
空は雲ひとつなくて、春風がきっとあの山の向こうまで来ているんだと思う。
ただ、ドラマみたいにはいかなくて、青い春は少し間に合わなかったみたいだ。
ぼんやりと現実を認識する。
あぁ、僕は好きだった子に振られたんだなぁ。
好きだと言えずに、言う機会も勇気もないままに。
大好きだった女の子には、もっと大切にしたいものがあった。
たったそれだけのことなのに、まだちゃんと自分の中で受け入れられていない。
きっと春に向かって雪が溶けていくように、ゆっくり、ゆっくり心に溶け出していくんだろう。
それでも言葉にできなかった悔しさは、ずっと傷跡のように残るのかもしれない。
もしどこかで歯車が違う噛み合い方をして、想いを伝えることができたなら。
色気も男の影もなくて、汗水垂らして倒れてる方が似合ってる女の子はどんな顔をしただろうか。
慌てて、顔を真っ赤にして、半分くらい怒って、ちゃんと断ってくれたかな。
忍は、いつものようにただまっすぐ夢に向かって歩いていくのが似合ってる。
そのためにこんな気持ちみたいな、余計なものはきっといらないのだ。
悔しさなのか寂しさなのか、涙が溢れ出しそうになって、慌てて目を擦る。
気を紛らわすために、大好きな唄を、旅立つ君に歌った唄を口ずさむ。
『目に浮かぶ照れた後ろ姿に 会いたいな』
さっき泣きそうだったろう。
どんだけ一緒に顔を突き合わせたと思ってるんだ、バレバレだよ。
なぁ、いま、どこで、どんな気持ちでいるんだ?
いつだって鮮明に思い出せる。
誰よりも早く来て、必死に練習を繰り返す、光に満ちた瞳を。
勢いと努力で突き進もうとするくせに、できないときは弱気になって、できるとバカみたいに喜んで。
誰もが早くに諦めてしまう夢を、今もまだ必死に掴んで、憧れていたんだ。
きっと忍の努力の一端でしかないけれど、それでも隣で一緒に見てきた。
僕は君を傍で支えてあげられない。
僕は君を応援することもできない。
だからせめて、ひとつだけ願うことくらいはさせてくれないか。
砕けた想いが、言葉にならなかった想い出が、唇に唄を乗せる。
もう一度だけ伝えたかった心を確かめる。
僕の知らない街へと向かって走っていく電車を想う。
今頃、不器用な贈り物を聞いてくれている頃だろうか。
あんなに練習してたのに下手くそだなんて笑われたりしてないだろうか。
残された僕はひとり歩く。
さっきまで握っていた手から伝え合った互いの気持ち、確かな温度。
僕の手のひらには、微かな温もりだけが残った。
◇
あれからどれくらい経ったのか。
思い出は思い出のままが綺麗なんだと誰かが言った。
それでも涙を乾かすスピードで、簡単そうに今日はやってくる。
その噂は、小さな街を一瞬で駆け巡った。
『アイドル工藤忍、凱旋公演』
それを聞いた時、どんな気持ちになったのかを僕は良く覚えてない。
きっと少しだけの悔しさを乗せて、それでも嬉しかったと信じている。
『いつでも待っているから』
約束はどんなカタチであっても果たされたんだと気付く。
だったら僕も約束はちゃんと守ってあげなくちゃ。
チケットを取るためにノートパソコンを開く。
これを外すなんて憎たらしいことを神様はしない。
何を根拠にしたのか分からないけれど、そんな予感があった。
――――――
―――
ライブ当日。
この辺りで唯一と言っていいホールは、人混みに溢れていた。
あっちでは、ピンクの法被を着た熱心なファンの人達が固まっている。
こっちでは、よく見知った顔と頻繁にすれ違う。
小さな子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまで。
何もかもを知ってる人から、何も知らない人まで。
たくさんの驚きと期待を乗せて、ライブは開場する。
僕はピンクのサイリウムを1本買って、たったひとりで席に着いた。
見渡すだけでも大勢の人だった。1階席から3階席までぎっしりと。
あちこちにはお手製の横断幕まで掲げられている。
白、桃、様々なライトが揺れて、誰もがその時を楽しみにしているのが分かった。
あの日見送った夢のカタチをまざまざと見せつけられて、僕の視界の端が滲み出す。
自分の気持ちが分からないなんて信じられないけれど、涙のワケを僕は見つけられなかった。
流れ続けるバックミュージックに合わせて、サイリウムが揺れ続ける。
時間が来たのだろうか、誰かを始めとした小さな予感は歓声の波になって広がっていく。
その待ちきれない心の最高点で、アナウンスが響いた。
『只今より工藤忍、青森凱旋公演を開始いたします』
真っ暗な闇の真ん中の特設ステージにスポットライトがひとつ灯る。
人の熱意とは焚べれば焚べるほど燃え上がるものなのだろうか。
老若男女、それぞれの精一杯の声が、限界など知らないかのようにボリュームを上げる。
アイドルになった女の子がそこにいた。
「みんな、ただいまっ!」
「アタシ、アイドルになって帰ってきたよ!」
忍のたった一言に、会場の感情は爆発しそうだった。
まだここが忍の帰ってくる場所のひとつであってほしいと誰もが願って、それは叶えられた。
じゃあ、次は? それはもちろん、アイドルの夢を魅せてもらうことだろう。
誰もが忍の名前を呼ぶ。忍だけのステージのはじまりを今か今かと待ち望んでいる。
「すごい歓声……よーし、負けないように、アタシも頑張っちゃうからね!」
「最高のLIVEにするから、みんなも思いっきり、盛り上がって!!」
その掛け声と共に、明るいアイドルソングがスピーカーから響き始めた。
それはきっと忍が夢見た光景そのものだった。
花のカチューシャ、フリルの付いたホワイトとピンクのドレス、所々にあしらわれたリボン。
田舎の芋っぽかった少女の姿には見えなくて、自分の目を何度も擦る。
それでも「可愛いもの全部のせ、王道アイドルでしょ!」なんて自信満々な顔は変わってなかった。
あの時よりもずっと上手くなった歌声で、ダンスで、忍がステージを駆け回る。
苦手だったはずの大振りのステップだって軽々とこなしてみせる。
上手くはないけれど、心を込めて、誰にだって伝わるような唄を歌ってみせる。
ずっと続いてきた努力の証がそこには確かにあった。
「みんな、ありがとう! ライト、すっごく綺麗だよーっ!」
忍がコールを送れば、たくさんのレスポンスが返ってくる。
何色ものスポットライトに照らされて、サインライトを自由自在に操って。
本気で見に来た人も、軽い気持ちで来た人も、誰もを惹きつけて止まない笑顔は絶えなかった。
今日は両親が来てるんだとか、青森のいいところならいっぱい話せるよとか。
合間、合間に挟まれるMCにも温かな拍手が送られた。
その度に忍は、揺れる横断幕やサインライト、名前を呼ぶ声に、心からのありがとうを返す。
「みんなー、楽しんでくれてるーっ? アタシはとっても楽しいよーっ!」
楽しくて夢のような時間はあっという間に過ぎていく。
踊って、歌って、話して、いつの間にかもう何曲も終わっていた。
「はぁっ……みんなー!」
「残念だけど残り2曲で最後になっちゃった、アタシはもっと歌いたいんだけどね」
残念がるような声と小さな悲鳴が会場中に響き渡った。
そんな観客席の反応も笑顔に変えて、忍はそっと立ち位置を確かめる。
それから静かにこう語りだした。
「ちょっとだけ休憩も兼ねて、聞いてほしいことがあるんだ」
急に忍が真剣な顔になったことで、あっという間に会場に沈黙が広がる。
照明が落ちて、忍がそこにいることを示すたったひとつのスポットライトだけが残った。
「アタシね、昔アイドルになりたいって言ったとき、両親にも友達にもみんなに反対されたんだ」
「だから、アイドルの夢を誰にも応援してもらえなかったと思ってた」
「でも、そうじゃなかったんだよね」
「アタシが怖いのと同じように、背中を押す方も怖いんだってやっと分かったの」
「誰もバカになんかしてなくて、ただ心配してくれてたんだって」
忍の声がだんだんと掠れていく。小さく身体が震えるのが遠くからでも分かる。
泣かないで。そんな声があちこちから飛び交って、忍はぶんぶんと頭を振った。
「な、泣いてないよっ。ちょっと昔のことを思い出してだけなんだからっ」
「それでね、アタシの夢は、いろんな人の心配や応援で叶って、これからも続いていくんだって思うの」
「アタシは、このステージでそんなみんなに何か恩返しがしたい」
「昔のアタシにも届くようなそんな唄を送りたいんだ」
会場が再び沸き立つ。みんながペンライトを振って、頑張れの大きな声が木霊する。
静かな語りと対照的に、次の曲への期待がふつふつと高まっているのを空気で感じる。
「えへへ。ありがと」
「次の曲は、アタシの曲でも仲間の曲でもないんだ。カバー曲ってやつだよっ♪」
「アタシはやっぱり夢は叶えるものだって思ってる」
「夢を追いかけてこの場所にたどり着くまでに、いろんな人に助けてもらったんだ」
「それでも信じていることがひとつだけあるの」
「夢を叶える最初の一歩は、自分じゃないと踏み出せないってこと」
「みんなが夢を叶えるのは、みんなが頑張ってるからだって、アタシは応援したい!!」
「大丈夫、ひとりじゃない! いつだってアタシも一緒だよって!」
「それじゃあ、聞いてくださいっ! アイドル工藤忍で……」
『funny bunny』
その曲名が告げられた後、一瞬の静寂が訪れた。
ポップな曲が続いていたから、アイドルらしからぬ選曲だと驚かれたのかもしれない。
その合間を縫うように、静かなギターのリフと力強い忍の声がまっすぐに響く。
どんなコールも歓声も邪魔できない。
この場にいる全員に等しく、誰の耳にも最初のフレーズが届いた。
『キミの夢が叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ』
『風の強い日を選んで 走ってきた』
それはあの日、僕が忍に伝えたかった想いのすべてだった。
僕が忍の旅立ちに贈ったはずの曲だった。
ポップにアイドルらしくアレンジされたメロディが、忍の姿を追いかける。
忍は軽々と柔らかくステップを踏んで、それからマイクを握り直した。
歌うことに、伝えることに集中するためか、振り付けはほとんどなかった。
だからこそ、その一言、一言に素直な心がこもっているような気がする。
観客もそれを感じ取っているのか、ただ静かに歌声に耳を傾ける。
だんだんと振りの合っていくサイリウムの中で、僕はひとり感情の行き場を探していた。
どうしてこの曲なんだ。きっとたまたまだろう。
そんな理性を叩き潰すかのように、身体はだんだんと熱を持つ。
一緒に練習を繰り返した日々が、夢を応援できなかった瞬間の沈黙が。
そして、恋願いを込めたこの曲を手渡したあの日がフラッシュバックする。
忍は本当に夢を叶えたんだ。
今更になって湧き上がってくる実感は、堰を切ったように瞼の裏から涙を溢れさせる。
ピンクの光がきらきらと雫に写って視界を一色に染めていく。
まだ、もうちょっと我慢してくれ。
必死に目元を拭って目の前の光景を焼き付けようとする。
すべての感覚をあいまいにさせたくなかった。
間奏に入って、忍は大胆な動きから綺麗にターンを決める。
それから月を見てうさぎが跳ねるように、忍も小さくジャンプをした。
数えきれない人たちの中で、こんなにたくさん人が応援している中で。
この曲が選ばれたきっかけを、きっと僕だけが知っている。
それはあまりに出来過ぎだとしても、そう信じてみてもいいんじゃないかと思った。
これは忍のお返しなんだ。
僕のちっぽけな気持ちは、あの日、忍にちゃんと伝わったのだと。
言葉にできなくても、声に出せなくても、大好きな唄で僕らは繋がれたと確信できた。
忍の夢が叶ったのは、忍が頑張ったおかげ、なんだ。
『飛べなくても不安じゃない 地面は続いてるんだ』
『好きな場所へ行こう』
『キミなら それが出来る』
ひとり、ひとりに向かって言い聞かせるように、最後のフレーズが反響する
それにはきっと昔のあいつも含まれていて。もしかしたら僕もそうなのかもしれないと思った。
ラストへと向かっていくアウトロの間、忍は何回でも見惚れそうな表情で笑っていた。
忍がそっとマイクを降ろす。
一瞬だけ優しい微笑みを隠したことに気付いて、ついに目の前が真っ白になる。
覚えていてくれたらいいな。きっと夢の先の想い出で塗りつぶされてしまうとしても。
僕はきっと何もできなかったわけじゃなかった。
それだけで僕はあの時間をステキな想い出にできる。
こんな僕でもまだ何かを成し遂げられるだろうか。
顔を上げたであろう忍は、もう一度マイクを上げると、力の限りに声をあげた。
「聞いてくれてありがとーっ! このまま最後の曲もいっちゃおう!!」
少し間をおいて、割れるような歓声が地響きのように響き渡る。
イントロが流れ始めて、サインライトのピンクが、春の桜のように一面に咲き誇っていく。
その中で一番の笑顔を咲かせて、忍がみんなに問いかけた。
「ねぇ、みんな夢はある?」
「アタシの夢はね、トップアイドル!」
その叫びは、きっと思った通りに、人々を震わせた。
ぱっつんに切り揃えられた髪、決意に満ちた紺碧の瞳、りんごみたいに染まった頬。
綺麗なステップを踏むダンスに、やっぱり上手くはないけどなぜか心に響く歌声。
そこにいたのは自分が大好きだった女の子で、そして何よりも眩いアイドルだった。
おしまい。
工藤忍ちゃん良いなって思ってくれたら私は幸せです。
捏造だらけだけど、同級生男子の妄想はいいぞ。
the pillows / Funny Bunny
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