赤いまゆ (20)
日が暮れかかる。人は退勤すべき時だが、おれには仕事の終わりがない。暗い事務所で薄ぼんやりと光るディスプレイに向かい続ける。街中にこんなに人が歩いているのに、俺がそこにいられないのは何故だろう……?と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら
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ちょっとした休憩でトイレに行ったりすると、廊下やトレーニングルームには時折アイドルの忘れ物なんかが落ちていて、俺はなおのこと嫌になった。アイドルの残滓は横目でおれを眺めながら、プロデューサーさん、休みましょう?と問いかけてくる。まったくおれも休みたい。だが休めないんだ。おれは決まった休日もないし、それに休暇取得の自由もない。そこについては、やはりまったく納得のいく理由がつかめない。
仕事は毎日やってくる。時間が来れば出社しなければいけない。出社するためには帰る時間がいる。そんならおれの休みが無いわけがないじゃないか。
ふと思いつく。もしかするとおれはなにか重大な思い違いをしているのかもしれない。休みが無いのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。そうだ、ありうる事だ。例えば……と、俺はカレンダーを眺め、偶然目についた数字にピントを合わせ、思った。この日がおれの休みかもしれないではないか。無論ほかの日と比べて、とくにそういう可能性がある訳では無いが、それはほかの日にも言えることだし、またそれはおれの休みであることを否定するなんの証拠にもなり得ない。勇気を奮って、俺は携帯を取り出した。
応対するは親切そうな女の声。希望の歌が脳内に響き、そしておれの心は踊り始める。おれも笑いながら愛想よく話し始めた。
「ちょっと伺いたいのですがちひろさん、明後日は私の休みではなかったでしょうか?」
電話の相手は事務員兼アシスタントの千川ちひろ。普段は明るく話す彼女だが、いまは打って変わって黙している。一寸の後、戸惑ったような返答が帰ってくる。
「あら、どうしたんですか?」
おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきか分からなくなる。おれが急にこんなことを言い始めた、そんなことはこの際問題でないのだと彼女にどうやって納得させたらいいのだろう?おれは少しやけ気味になって、
「ともかく、この日が私の休みでないとお考えなら、それを証明して頂きたいのです。」
「プロデューサーさん?」
ちひろの声が曇る。それがおれの癪にさわる。
「証拠がないなら、休みだと考えてもいいわけですね。」
「でも、その日は私のお休みですよ?」
「それがなんだって言うんです?貴女がそう言うからといって私の休みでないとは限らない。そうでしょう。」
返事の代わりに、ちひろの声はツーツーという無機質な電子音に変わる。あぁ、これがアシスタントというやつの正体である。誰かの休みというやつが、おれのものでない理由だという訳の分からない論理を正体づけるのが、この変貌である。
だが、何故だろう、何故皆には必ず休みがあり、おれにはないのだろうか?いや、せめておれにはなくても、せめて皆が休みのない日が1日くらいあってもいいじゃないか。ときたまおれは錯覚した。担当アイドルのオフや休憩時間がおれの休みだと。しかしそれらは立場の違うものの必要である。そこでおれが休んだとしたならば、少なからずスキャンダルの原因にはなるだろう。
では部長や専務の休みはどうだ。むろん結構。言うまでもなくおれはクビになるだろう。
そんなことを考えながらおれは仕事を終わらせ、最寄り駅の終電が過ぎ去った後に事務所を出た。月が傾く。おれは歩く。あちらこちらの家々がおいでおいでと明かりを揺らしている。その中には人がいて、その人たちは少なくとも今は休息の時を得ているというわけだ。おれはぶつけようのない衝動にかられ、首を吊りたい思いとなった。だがおれの休みのないのは何故なのか。その疑問が衝動を打ち消した。
おれは歩き続けた。はた、と気づいた時にはおれの足にまとわりつくものがあった。首吊りの縄なら、そう慌てるなよ。そう急かすなよ。いや、そうじゃない。これはリボンだ。女の子の使うような、可愛らしい赤いリボン。足首に綺麗にちょこんとある結び目をつまんで引っ張ると、その端はいくらでも伸びてくる。こいつは妙だと好奇心に駆られてたぐり続けると、さらに妙なことが起こった。次第に体が傾き、地面を踏みしめていられなくなった。日々の疲労で、もはや立っていることすらままならなくなったのだろうか?
ことんと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは自体を把握した。疲労したのではなく、おれの片足が短くなっているのだった。リボンを手繰るにつれて、おれの足がどんどん短くなって言った。ほつれたセーターの糸が伸びていくように、おれの足がほぐれているのだった。そのリボンの中心線は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。
もうこれ以上、進めない。途方に暮れていると、リボンに変形した足がひとりでに動き始めていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手を借りずに、自分でほぐれて茨のように身に巻き付き始めた。左足が全部ほぐれてしまうと、リボンは自然に右足に移った。リボンはやがておれの身を全て包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、そうしてはおれの内側に入っていった。
やがて、俺は消滅した。
後に大きな赤いまゆが残った。ああ、これでやっと休めるのだ。月明かりが煌々とまゆを照らしていた。今この瞬間は誰にも否定出来ない、おれの休息出来る時間だ。おれは安堵し、安堵すると時が途絶え始めた。空は真っ暗だが、まゆはいつまでも紅く、妖しく光っていた。
「これでゆっくり休めますねぇ、プロデューサーさん。」
どこかでそんな声が聞こえた気がした。
短いですが終わりです
お分かりの方も多いと思いますが安部公房の『赤い繭』のデレマスパロです
お付き合い頂きありがとうございます
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