【モバマス?】一ノ瀬志希?「志希ちゃん、失踪したくなっちゃったなー」 (17)

おせじにもあまり気持ちの良い話ではないのでご了承ください。

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<1>

 横断歩道の向こうのビルの大型液晶には、いまをときめくアイドルが演じるCMが映し出されていた。
 人気アイドルユニット、レイジー・レイジーの一ノ瀬志希。宮本フレデリカ。
 どちらも、私にとって憧れのアイドル。
 私なんかよりもずっとずっと高い、手の届かないようなところにいて、きらきら輝いている。

 私はどうにもならない気持ちが胸の中に渦巻いているのをどうにもできずに、そのまま呑み下す。
 口を結んで、私は、今日もアルバイトに向かう。

「あ、ちょっと、そこのひと!」

 背後から声をかけられて、そちらを振り向く。スーツ姿の男性がこちらに手を振っていた。

「私……ですか?」

 不覚にも返事をしてしまった。これでキャッチセールスの類だったりすると、断るのは少し面倒になる。

「はい。ああ、すいません、私、こういうものでして……」

 スーツ姿の男性は、私に名刺を差し出してきた。
 そこに書かれた文字を見て、思わず胸が高鳴る。

「プロデューサー……さん、ですか……?」

 書かれていたのは、芸能プロダクションの名前。それも、この国で最高峰の。

「ちょっと、お話、できませんか? アイドルに興味とか、ありませんか?」

「あ……」私は苦笑いする。「私……今、一応、アイドル……なんです」

<2>

 アイドルになるために、家族の反対を押し切って単身上京した。

 アイドルになる、という夢はすぐに叶った。プロダクションに所属すれば、少なくとも肩書だけは「アイドル」になれる。
 重要なのはその先だった。アイドルとして輝き、輝き続けるには、それだけの努力と才能が要る。
 努力するのは得意だった。だから、続けていればどうにかなると思っていた。

 でも、現実は厳しかった。努力をするための時間とお金すら、私には満足に得ることもできなかった。生きていくにはお金がいる。お金を得るためには、仕事をする。仕事をするためには、時間が要る。アイドルであるための努力をする時間を削って、生きるためのお金を得る。矛盾だった。
 そうして私は、肩書だけはアイドルだけれど、実際には何者にもなれないまま、ただただ時間だけを浪費した。浪費しているうちに、アイドルという夢は、どんどんすり減っていった。
 いまはもう、ほんのちいさなかけらしか残っていない。

「や、そうでしたか! どおりで。お美しい方だと思ってたんですよ!」

 スーツの男性は屈託なく笑った。

「では、改めて……アイドル、やりませんか? ウチで」

 男性はするどい目でこちらを見た。

「え……」私の胸がもう一度、強く鼓動した。「引き抜き……とか、ですか?」

「さあ、どうでしょう」男性は意味深に笑う。「ウチに来てくれるんでしたら、条件は弾みますよ! ひとまず、お話だけでも、いかがですか?」

「……」

 私は逡巡した。
 いや、急ぐ用事があったわけでもない。アルバイトの時間まで余裕はある。
 ただ、怖かった。緩やかに砕けていった夢が、もう一度、砕けるのが。

 それでも。夢は夢だったから。私は――

「わかりました、お話だけ、なら」

「ありがとうございます!」

 男性はほんとうに嬉しそうに笑った。それこそ、怖いくらいに。

<3>

「こちらです」

 私はシンプルにテーブルとパイプ椅子だけが置かれた部屋、おそらく貸会議室か何かと思われる部屋に通されて、目の前のパイプ椅子に座らされる。
 入ってきた扉の反対側、奥にも扉が見えた。

「少々、お待ちくださいね」

 そうして、その男性は部屋の奥の扉を開けると、奥に向かって「連れてきたよー」と呼び掛けた。

「はーい」

 その声を聞いて、私ははっと息を呑んだ。
 プロデューサーの肩書を持った男性と、名刺に記されていたプロダクションの名前。
 まさか――

「にゃはー、この子が候補?」

「そう、なかなかいいと思うんだよね」

 部屋に入ってきたのは、さっき街中の巨大な広告塔で見た、いまをときめく、私の憧れのアイドル。

 一ノ瀬志希その人だった。

「まあ、まずは座ってください」

 プロデューサーさんは、私が入ってきた扉の鍵を、音を立てて閉めた。



 会議室のテーブルの一方に私。反対側にプロデューサーさんと、一ノ瀬志希さん。

「ど、どうして……ここに、志希ちゃん……や、ごめんなさい、一ノ瀬志希、さんが……?」

 私の声は震えた。

「志希ちゃんでいーよー?」

 志希さんはにっこり笑って、小首をかしげた。

「えーと、手短にお伝えしますね」プロデューサーさんは、表情を崩さないまま言う。「あなたには、一ノ瀬志希になっていただきたいんです」

「……は?」

 意味が判らず、私は高い声で訊き返していた。

<4>

「正確には、一ノ瀬志希の影武者です」

「……はぁ」

「まず、一ノ瀬志希というアイドルをご存じですか?」

「……それなりには」

 嘘だった。志希さんのことはすごくよく知っていた。ファンだから。――目標、だったから。

「話が早くて助かります」無色の笑顔のまま、プロデューサーさんが続ける。「志希には失踪癖があり、たびたび、どこかにふらっといなくなってしまうのですが……さすがに、スケジュールを空けてクライアントに迷惑をかけるわけにはいかないですから。とはいえ、志希はウチの稼ぎ頭ですので、失踪について強く言うこともできず……ですので、本当に緊急のときの、代役、といったところで、人を探していまして」

「……はぁ」

 私は志希さんのほうを見た。これだけ言われているのに、志希さんはどこ吹く風、といった様子で、私のほうを見てニコニコしている。

「もちろん、ギャラは弾みます。影武者としてのお仕事の有無にかかわらず……守秘義務もありますので、そうですね、月給にして……このくらい」

 プロデューサーさんは懐から取り出した電卓をはじいて、私の前に差し出す――

「……うそ……」

 一桁間違えているのを疑うような金額が、そこには記されていた。

「桁数の間違いではありませんよ」

 私の心のなかを読んだかのようなプロデューサーさんの声は、さっきよりも暗く、深い色をしていた。

<5>

「で、でも……そんなこと、私、志希さんとは、見た目も年齢も全然違いますし」

「大丈夫です。あなたは素材としてはとても志希に近い。メイクと衣装を整えるだけでもかなり近づけることができるでしょう」

「声だって」

「それはボイストレーニングで寄せていただきます」

「ダンスや、歌も……」

「それも、おまかせください」プロデューサーさんは声のテンポを落とす。「プロダクションをかけて、かならずや、あなたをアイドルにしてみせますから」

「……いまの、仕事も……」

 私の声は少し、暗くなった。

「条件にご納得いただけるなら、で構いませんよ?」

 おそらく、プロデューサーさんは判って言っている。さっき提示された報酬額は、今の仕事を辞めて飛びつくのに十分すぎるということを。

「……」私は志希さんのほうを見た。「志希さん、は……?」

「んー、あたし、たまに失踪したくなっちゃうんだー」志希さんは目を細めて、人差し指を唇につけて怪しく笑う。「だから、おねーさんが志希ちゃん代理やってくれると、あたしはすっごくたすかるなー」

「……」

 机に視線を落とした。
 心臓がバクバク鳴っていた。
 目の前に憧れのアイドルがいること。
 生活が一変するような報酬が提示されていること。
 一度は壊された、アイドルという夢への、新しい道が示されていること。プロのトレーナーのもとで、一ノ瀬志希の影武者として学び、稼ぐ。

 時間をお金に換える生活を脱して、もしももう一度、夢を追いかけることができるかもしれない――

「もし――」私は乾いた喉で仮定の話をする。甘い夢に引っ張られ過ぎないようにするために。「もし、私がこの話を断って、この話をどこかに漏らしたら、どうなりますか?」

「ああ、問題ありません」本当に問題はないといった声で、プロデューサーさんは言う。「こんな話、誰も信用しませんから」

<6>

 私が机に視線を落として迷っていると、志希さんは立ち上がって、私のほうに歩み寄り、背中からがばと私に抱き着いた。

「ひゃあっ?」

「んー、お姉さん、いい匂いだねー、すっごくぅ~~」

 言いながら、鼻を、額を、私のうなじにこすりつけてくる。
 何度も憧れた声が耳をくすぐる。
 何度も憧れた長いまつげが、高い鼻が、私の首筋を伝う。
 何度も憧れた艶のある髪が、蛇みたいに私に絡みつく。

「や……」

「いい匂いがする人はねぇ?」志希さんは、ささやくような声で言う。「いい志希ちゃんに、なれると思うなぁ、あたし」

 ぞくぞくした。
 それは、とても甘い声だったけれど、なんだか身体の芯に氷を当てられたみたいで、私は思わず身震いした。

 志希さんは私からぱっと離れて、もとの席まで戻ると、にぱっと笑う。

「ま、考えてみてね~」

「そういうことです。お返事、お待ちしておりますね」

 困ったように言って笑ったプロデューサーさんは、私の目のまえに名刺を裏返して置いた。
 そこには、携帯電話の番号が記されていた。

「……すこし、時間をください」

「ええ、もちろんです」

「またね~」


 私はその返事を聞くと、志希さんやプロデューサーさんのほうを見ないようにしながら、置かれた名刺を取って、その会議室を後にした。

 数日悩んだあと、結局私は、プロデューサーさんに、志希さんの影武者になることを承諾する電話をした。

<7>

「ああ、なかなか良いじゃないですか」

 志希さんの影武者として、メイクと衣装を整えた私の姿を見て、プロデューサーさんは満足そうにうんうんと頷いた。
 美城プロダクション――私や、世の中のたくさんの人が憧れていたプロダクションの中にある部屋のひとつに、私は呼ばれていた。

「もう少し寄せていく必要はありますが……それはおいおい。並行して『レッスン』をしていきましょう。トレーナーの指示に従ってください」

「……はい、あ、あの……」私はおそるおそる尋ねた。「やっぱり、私がそんな、影武者なんて出来るんでしょうか……」

「ち、ち、ち」プロデューサーさんは人差し指を立てて私の目のまえで振る。「いけませんよ。一ノ瀬志希は自分のことを『あたし』と言います。矯正にはきっと時間がかかります。意識的に直してください」

「は、はい。あと、わた……あたし、化学の知識なんてないし、志希さんみたいに大学に行けるような頭もないですし……」

「大丈夫です」プロデューサーさんはきっぱりと言う。「一ノ瀬志希のことは、知っていただけていますか?」

「はい」

 ファンだから、という言葉は、心のなかにしまったままだ。

「一ノ瀬志希が中退したという大学がどこにあるなんという大学だか、ご存知ですか?」

「……それは」

 明らかにされていない。志希さんは、化学の天才的才能で飛び級して、アメリカの大学に行き、そしてつまらないからという理由で中退した。

「ですので、大丈夫です。お仕事で志希が化学についてどうこうするような場面もほとんどありません。ま、台本のように単語を覚えてもらうことはあるかもしれませんけど」

「……はぁ」

 演出できるということだろうか、と私は思う。

「あと、匂いにも自信はなくて……」

「んん、そっちのほうは全然心配ありませんよ。アガったな、と思うようなときに、いい匂いだと言うようにしてもらえれば」

「そんなので、大丈夫なんですか?」

「大丈夫です!」

 自信満々に、プロデューサーさんは言った。

「それこそ、嗅覚は主観的な感覚ですから。志希が『いい匂いがする』と言えば、そこに匂いが感じられなくても、人々は志希にはわかるんだなと思い込みますし、人によってはいい匂いを錯覚するかもしれないですね」

「そんな……そんな騙すようなこと、私」

「ち、ち、ち」プロデューサーさんは人差し指を立てる。「『あたし』です」

 私――いや、あたしは、頭がくらくらした。

<8>

「ぼんじゅ~る、今日もよろしくおねがいしまーっす! フレデリカ、入りで~っす!」

 底抜けに明るい声が響く。宮本フレデリカさんが楽屋に入ってきたのだ。
 胸が高鳴る。今日は、あたしの一ノ瀬志希の影武者としての初めての仕事だった。

「あ、フレデリカ、ちょっとちょっと」プロデューサーがフレデリカさんを呼ぶ。「ほら、こちら、この前話した志希の代役」

「よ、よろしくお願いします……」

 あたしは頭を下げる。フレデリカさんは目を丸くしてちょっと首を傾げたあと「ああ!」と言って手を叩いた。

「志希ちゃんのね~、そっかそっかぁ! いやー志希ちゃんの失踪癖にはまいっちゃうよねー、じゃあ、今日からよろしくねー、らびゅー☆」

 フレデリカさんはあたしに投げキッスした。テレビで観たのといっしょで、あたしの胸が高鳴った。



 それから、心臓が張り裂けそうなほど緊張した初仕事は、思った以上になにも起こらずに終わった。
 最初だから、あまりしゃべったりせず、置物みたいでいいと言われてはいたけれど。それは、芸能というお仕事が、多大なる『お膳立て』によって成り立ったことを実感したものでもあった。

 最初の仕事が終わったとき、プロデューサーさんもフレデリカさんもあたしのことをねぎらってくれ、疲労困憊のあたしは「できれば、こういうヒヤヒヤする機会は少ないほうが嬉しい」と言った。

 けれど、その想いとは裏腹に、あたしが志希さんの影武者を務める機会は、徐々に増えていった。
 そして、あたしの預金口座にはどんどん、見たこともないような金額が積みあがっていった。



 あたしが志希さんとして振る舞う頻度が増えるということは。
 あたしが志希さんとして振る舞う濃度が増すということだった。
 でも、それは仕方なかった。
 あたしがいつか、志希ちゃんではないあたしとしてアイドルになるために、必要なことだと思っていたから。



 数カ所の整形手術をして、顔をより志希ちゃんに近づけ、声もトレーニングでさらに近くなった。
 本物の志希ちゃんとあたしの仕事の頻度はいつしか逆になり。
 あたしは「いい匂い」と発言するタイミングを外さなくなった。
 ダンスだって本物と寸分たがわないタイミングをマスターした。
 トークができるくらいには、化学の知識が身に着いた。
 プロデューサーさんもフレデリカさんも、ほかの美城の社員さんもテレビのスタッフさんもラジオのディレクターさんも雑誌の編集さんも、みんなみんな、あたしのことを志希と呼ぶようになった。それが気にならなくなった。



 半年が過ぎたころには、本物の志希ちゃんがやっていた仕事は、すべてあたしのものになった。
 私は前のプロダクションとの契約を期間満了で解消した。
 あたしの中にあった、志希ちゃんのファンを騙しているという罪悪感は、いつしか薄れ、消えていった。

<9>

「今日もおつかれさまでした~!」

 あたしはスタッフのみんなに挨拶をして、楽屋で荷物をまとめる。
 楽屋の反対側ではフレちゃんが同じように帰り支度をしていた。

 プロデューサーといつものように仕事のスケジュールを確認して――
 そのとき、ふと、あたしは思っていたことを口に出した。

「そういえば――本物の志希ちゃん、もう戻ってこないの? プロデューサー」

「ん?」

 プロデューサーはあたしが何を言っているのかわからない、といった顔で首を傾げた。

「そのうち気が向いたら戻ってくるかもよー、根拠とかないけどー、じゃ、お疲れ様、志希ちゃん、プロデューサー♪」

 フレちゃんはそう言って楽屋から出ていった。

「はは、ま、そういうことで」

 プロデューサーはそう言って、あたしと仕事の打ち合わせを続けた。
 あたしはいつもの通り打ち合わせをしながら、心の端っこで思ったんだ。
 たぶん、もう本物の志希ちゃんは戻ってこないんだろうなって。
 失踪しちゃったんだろうなって。



 家に帰ったとき、携帯がメールを受信していた。
 内容は、今月のギャラの振りこみ。
 そのまま口座の残高をチェックすると、そこには税金とかを差し引いても十年以上は遊んで暮らせそうな金額が入っていた。

 携帯電話をテーブルに置いて、シャワーを浴びるため浴室へ向かう。
 と、そこで鏡の向こうの自分と向き合い、気づく。

「あー、ウィッグはずすの忘れ……」

 言いかけて、あたしは鏡の前に立ち尽くした。
 そこには、一ノ瀬志希が映っている。
 そう。今はあたしが一ノ瀬志希だから、一ノ瀬志希がそこにいるのは当たり前。
 じゃあ「あたし」はどこにいる?

 あたしは自分の心がぐらつくのを感じて、引きはがすみたいに乱暴にウィッグを脱ぎ捨てた。
 改めて鏡を見る。――まだ『一ノ瀬志希』の顔をしている。
 それを見たとき急に、あたしの中に、いくつかの恐ろしい思い付きが生まれた。

 あたしは居間に戻ると、テレビとパソコンのスイッチを点けた。
 テレビには一ノ瀬志希の過去のライブ映像のディスクを入れ、パソコンではちょっと前、あたしが影武者になる直前、いまは失踪している一ノ瀬志希の画像を検索する。
 それぞれの画面を停止し、ズームアップ。

「……違う……」

 よく似せられているが、別人だった。

<10>

 あたしは一ノ瀬志希の影武者だと思っていたけれど、違った。
 プロデューサーの言うとおりに受け取って影武者だと思っていること自体が誤り、オリジナルに対するコピーという概念がそもそもずれていた。

 あたしが何代目の一ノ瀬志希なのかは不明。少なくとも三より多い。
 本物の一ノ瀬志希がいるのかも不明。
 ただし『本物の』一ノ瀬志希という存在が不要なことは明確。

 プロデューサーは、先代の一ノ瀬志希の行方を気にしていなかった。
 フレちゃんは、ただ楽観的なだけではなかった。そもそも、先代が戻ってこようがこまいが関係なかったのだ。
どっちにしろ、仕事は成立するのだから。

「は、あはは……」

 あたしは床にへたりこんだ。

 ずっと憧れていた、アイドル。
 自分という人間を、その人生の物語を輝かせたいと、ずっと願っていた。
 一ノ瀬志希や宮本フレデリカみたいに、キラキラした存在になりたいと思っていた。

 だけど、そのキラキラのトップにいた一ノ瀬志希という存在はそもそも、幻だった。
 テレビに表示している、一時停止したままの一ノ瀬志希のライブ映像には、多くのファンが熱っぽい声援を送る姿が映りこんでいる。

 この人達の多くが、いまはあたしに、声援を送っている。
 同じ一ノ瀬志希だと誤認して。

 そう。誤認させれば成功だし、連続した物語として誤認「していたい」のだ。
 あたし「たち」は一ノ瀬志希という人格を乗せるための交換可能な器であり、器とは別に「一ノ瀬志希」というアイドルは、概念として作られ続ける。
 それを望む人たちのために。



 あたしは自分の顔に指で触れた。
「一ノ瀬志希」という概念を宿すために、ほんのすこし形を変えたことのある顔。

「あたし、あたし……」私は言って、首を振る。「ううん……『私』」

 そう口にしたとき、ちょうど、部屋の時計は十二時になった。
 心のなかの大切な何かが、霧散していくのがわかった。
 かけられた魔法が解けるというのは、こういうことなのかもしれない。



 一ノ瀬志希として富と名声を得た。
 皆が私を通して、私ではない概念を見ている。
 それが、私が願ったものだったんだろうか?

 アイドル。語源は偶像。それを通して神を見て、感じるための器。
 もし――もし、私がこの後、一ノ瀬志希を辞め、「私」としてアイドルになったとき、人々が見ているのは本当に「私」なのか?

 体中から力が抜けた。
 テーブルの上で携帯電話が震えた。
 手を伸ばして携帯電話を取る。
 仕事のメールだった。「一ノ瀬志希」としての。

「あはっ」

 乾いた笑いが漏れた。
 それから、私は天井を見て、すごく納得した気持ちで、口に出していた。
 きっと、このときのためにこの言葉は用意されていたんだ。

「志希ちゃん、失踪したくなっちゃったなー」



以上です。
なお、最後から最初に戻ると永遠にお楽しみいただけます。

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