生まれて初めて、母と喧嘩をした。
小さい頃からずっと良い子で、母の期待通り聖グロリアーナ生になったけれど、
良い子であろうと我慢するたびに、私の心は少しずつきしんでいたのかもしれない。
あるいは、今日トイレで聞いてしまった陰口が原因だろうか。
『一年のくせに。いいわよね、ダージリン様のお気に入りは』
もう全部全部全部嫌になって、
――悪い子になろう。
私はそう決めた。
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その日はちょうど、学園艦が横浜港に停泊する日だった。
時刻は深夜一時。
いつもならとっくに布団の中にいる時間に、私は寮を抜け出した。
しんと冷えた冬の空気。
誰かに見つかれば、停学かもしれない。
愚かしいかもしれないけど、それが私はうれしかった。
私は今、悪いことをしている。
悪い子なのだ、私は。
変な高揚感を胸に、駐輪場を歩いていた私は、
飛びだしてきた誰かを見て、心臓が止まりそうになった。
なんてことをしてしまったのだろう。
どうなってもいいと思っていたのに、いざ見つかると後悔するあたり、私はやっぱり愚かだ。
言い訳やら嘘やらが頭の中をぐるぐる回って、
もうごまかせない。素直に謝ろう、という結論に至ったところで、
飛びだしてきた誰かはやけに大きな身振りと共に言った。
「こ、これは違うんですの先生! わたしは夜外に出る悪い子の見回りをしようとしただけで、全然まったくこれっぽっちも悪い子じゃありませんでございまして」
「……なにやってるんですか、ローズヒップさん」
「あら、オレンジペコさん! 突然出てくるからびっくりしちゃいましたわ!」
「それはこっちの台詞です。もう真夜中ですよ。なにしてるんですか?」
「おアイスが食べたいなーと思いまして、コンビニに買いに行こうかと」
「そんなことで寮を抜け出すなんて前代未聞です」
「案外バレませんのよ? 聖グロだから先生も油断してるのかもしれませんわね!」
まったく、この人は、とため息を吐く。
先生じゃないのは良かったけれど、正直嫌な人に会ったと思った。
ローズヒップさんのことが私は苦手だ。
今まで生きてきたお嬢様学校の子とは、全然違う空気感。
何も考えず、みんなに迷惑をかけながら好きなように生きるその性格。
我慢ばかりの私とは正反対で、
正直水と油だと思う。
「そういえば、オレンジペコさんは何でこんなところに?」
「なんでもいいじゃないですか、別に」
私は意識して感情を表に出さないように言う。
「こうしましょう。私たちは今夜出会わなかったということで。私はローズヒップさんのことを秘密にしますから、ローズヒップさんも私のことを黙っていてください」
「わたしは理由を話したのに、オレンジペコさんが話さないのは不公平だと思いますの」
「…………」
たしかに、その通りかもしれないけど。
「言えばいいんですか。つまらないことですよ」
「ええ、是非聞きたいでございますわね!」
「ちょっと悪いことがしてみたかったんです。良い子でいるのにうんざりしちゃって」
「あー、わかります! わかりますわ! わたしにもそういう時期ありましたの!」
「いや、絶対ないですよね」
私はため息を吐く。
「それじゃ、私はもう行きますから」
「悪いことって何するんですの?」
「…………」
なんか着いてきてるし。
「その辺を少し散歩でもしようかと。そのくらいです」
「いやいや、そんなんじゃいけませんわ! やるならもっともっとお悪いことをしないと!」
「そんなこと言われても」
「そうだ! 海を見に行くとかどうですの? なんか青春って感じでいいじゃございませんか!」
「ここからだと結構距離があるじゃないですか」
学園艦は大きいから、船とは言え海までは三キロ近くある。
「わたしが乗せてってあげますの!」
そう言ってローズヒップさんは、停めてあったバイクの座面のぽんと叩いた。
「ローズヒップさん、バイクの免許持ってませんよね」
「え、持ってますのよ?」
「免許が取れるのは十八歳になってからじゃないですか」
「いえ、原付だと十六で取れますわ」
「あ、そうなんですか」
知らなかった。
自分が正しいと思い込んでいただけに恥ずかしい。
「このスクーター、兄にもらったんですけど全然乗れてなくて、ちょっと使いたかったんですのよね」
ローズヒップさんはそう言って、バイクの座面を撫でる。
真夜中に、バイクに乗って海を見に行く。
想像すると、なんだかドキドキした。
「……あの、お願いしてもいいですか?」
「もっちろん! お安いご用ですわ!」
ローズヒップさんの後ろに恐る恐る座る。
あまりくっつくのも違うような気がして、
少し距離を空けて、ローズヒップさんの背中にそっと手を当てていると、
「もっとくっつかないとあぶないですのよ?」
とのこと。
「このくらいですか?」
「いえ、もうちょっとですわね」
「……わ、わかりました」
ぎゅっと背中に密着する。
普段人とこんなに近づいたりしないから、少し緊張。
でも、本当にここまでくっついていないといけないものなのだろうか。
そんな私の疑問は、すぐに解消されることになった。
「それじゃ、行きますのよ!」
「ろ、ローズヒップさん!? 速い! 速いです!」
身体が後ろに引っ張られて、あわててローズヒップさんにしがみつく。
「もっとゆっくり! ゆっくりで!」
「え、まだ三十キロも出てませんのよ?」
「いやいや、速いです! 速すぎです!」
ローズヒップさんはびっくりしていたけれど、自転車も乗ったことがない私にバイクは速すぎた。
「まあまあ、大丈夫! すぐに慣れますわ!」
「全然大丈夫じゃないですから! というか、よそ見しないでください!」
「こんな遅くだと車もいませんし、別にへーきですわ」
「その油断が命取りになりますから! 絶対!」
「ほい、手放し運転」
「いやー!!」
こんなに声を出したのは、生まれて初めてかもしれない。
ようやくバイクが止まって、私は深く深く息を吐いた。
「……死ぬかと思いました」
「おおげさですわねー、オレンジペコさんは」
「それで、海はどこですか?」
「いや、ただの信号待ちですのよ? まだ十分の一くらいですわ」
「…………」
私は生きて帰れるんだろうか。
「すみません、帰ります。降ろしてください」
「いやいや、折角ここまで来たんですから! ちゃんと海見ないと勿体ないですわ!」
「いえ、十分堪能したので。って、急加速しないでくださいよ! ダメー! ころされるー!!」
一つ、教訓を得ました。
悪い子って、なかなか大変です。
「はい! 着きましたですのよ!」
「……ありがとうございました」
「オレンジペコさん、なんか老けましたわね」
「体感的には十回くらい死にましたので……」
私はくらくらしつつ、バイクを降りる。
乱れた髪を整えて、心を落ち着けていると、
「ほらほら! こっちですのよ!」
軽やかな足音が私を追い抜いていった。
「急がなくても、逃げはしませんって」
そう苦笑して、顔を上げて、
私は息を呑んだ。
学園艦から見る横浜港の夜景は、
ちょっと涙が出ちゃいそうなくらいに綺麗に見えた。
「きれーな景色ですわね!」
「…………」
「オレンジペコさん?」
「……いえ、なんでもないです」
こみ上げてきた何かを押し隠しつつ、ローズヒップさんの隣に並ぶ。
潮の匂いのする冷たい風。
宝石みたいに輝く海向こうの町の灯りを見つめた。
いつもうるさいローズヒップさんなのに、こんなときばかり静かにしていて、
だからかもしれない。
普段言えないことも、今なら言える気がした。
「ローズヒップさんはわたしのこと、どう思ってますか?」
「え?」
「やっぱり、ダージリン様に贔屓されてるずるい子に見えるんですかね?」
言って、後悔した。
バカなことを聞いてしまった。
こんな風に言っても、気を使わせるだけだろうに。
「すみません、変なこと聞いちゃいました。忘れてください」
慌てて言った私に、
「オレンジペコさんはずるい人なんですの?」
不思議そうに首を傾げてローズヒップさんは言った。
「ほら、ダージリン様にお昼に呼ばれたりしてるじゃないですか」
「あー、たしかに学食じゃあまりお見かけしませんわね!」
「気に入られて贔屓されてるみたいに見えますよね」
「うーん、まあ贔屓はされてると思いますけど」
自分から言わせたようなものなのに、言葉にされるとやっぱりショックだった。
本当に、私は愚かだと思う。
「でも、それがどうしてずるですの?」
「え?」
「オレンジペコさんは落ち着いてて大人でできる人で。だからダージリン様に気に入られてるでございますけど、でもそれはオレンジペコさんがすごいってただそれだけじゃありませんか」
予想外の言葉にびっくりする。
そんな風に言ってもらえるなんて全然思ってなくて、
「すごくなんてないですよ、全然」
「そういうとこはちょっとずるいかもですわね」
ローズヒップさんはそう言って笑う。
「わたしはオレンジペコさんのことすごいと思いますのよ? あんな風になりたいなー、なれないなーって」
「私みたいに、ですか?」
「ええ、母にいつも言われますの! 女の子なんだからもっとお淑やかにって! もううるさくてうるさくて! そう言う母の方こそお淑やかにしろって思いますのに!」
感情たっぷりに話すローズヒップさんの話は面白くて、思わず笑ってしまう。
「でも、わたしはローズヒップさんみたいになれたらなって思いますよ」
「え、マジですの?」
ローズヒップさんは驚いていたけれど、それは私の本心だった。
我慢なんてせず、素直に自分を表現して、
迷惑をかけることもあるけれど、なんだかんだ受け入れられて、みんなに好かれて、
そんなローズヒップさんがほんとは少しうらやましい。
「変わってますわねー、オレンジペコさん」
変な人みたいに言われてしまった。
「わたしたち、案外似た者同士かもしれないですわね!」
「いや、それはないと思います」
否定するところはちゃんと否定しておかないと。
スマートフォンの電源を入れると、母からのメッセージがたくさん届いていた。
電話の途中で突然切ったから、きっと心配させてしまったんだろう。
遅いから少し鳴らすだけ、と思いつつ電話をかけたら、びっくりするくらいすぐに母が出た。
心配かけて、本当にごめんなさい。
その気持ちはちゃんと素直に言葉に出来たと思う。
電話を終えて、ローズヒップさんに声をかけた。
「それじゃ、帰りましょうか」
「ええ、じゃあお後ろへどうぞ!」
「……いえ、私は徒歩で」
「折角ですし、乗らないと損ですのよ! ほら、ほら早く!」
「歩いて帰れます! 帰れますからー!」
そんな風に、悪い子の一夜は過ぎていって、
翌日のお昼休み、私はダージリン様に言った。
「今日はお昼を別のところで食べてもいいですか?」
「あら、ペコに捨てられちゃった。どうしましょう」
「捨ててませんから。ちょっと気分を変えようと思っただけです」
「冗談よ」
ダージリン様はくすくすと笑う。
いつも私のこと、からかってばっかりで、
なのに全然嫌いになれないから、この人はずるい。
「それでは、また放課後に」
背を向けた私に、ダージリン様は言った。
「誰が何と言おうと、ペコは優秀だし、とっても良い子よ。あなたはその資質にふさわしい評価を、私から受けているだけ。それを引け目みたいに思う必要は無いわ」
「ダージリン様……」
「胸を張りなさい。あなたなら、きっと私を越えられるから」
不意打ちの言葉にびっくりする。
「無理ですよ! 私なんてそんな……」
「できるわよ。あなたには素晴らしい未来が待ってるの」
ダージリン様は紅茶を揺らし、にっこりと微笑む。
「だから、あんまり悪いことしちゃダメよ?」
全部バレちゃっていたらしい。
やっぱり、この人には敵わない。
「はい。ありがとうございます」
素直にお礼を言うと、ダージリン様は目を輝かせて言った。
「こんな格言を――」
でも、格言はカットさせていただきます。
学食に行って、Bセットを頼んだ。
響く話し声の合間を縫って、あの子を探す。
目立つ子だから、すぐに見つかった。
せわしなく動く赤い髪。
「ローズヒップさん」
声をかけると、ごはんつぶをほっぺに三つもつけて、顔を上げた。
「あら、オレンジペコさん」
「ここ、いいですか?」
空いている隣の席を視線で示す。
「いいですけど、珍しいですわね」
「珍しい?」
「オレンジペコさんが、わたしの隣に座るなんて初めてのような」
「た、たまたまです! いいじゃないですか、別に」
目を逸らした私に、ローズヒップさんはぽんと手を打って言った。
「あ! またスクーターに乗せて欲しいんですのね!」
「違います」
「いいんですのよ! そうと決まったら善は急げ! 早速駐輪場へ行きましょうですわ!」
「だから違いますって! 引っ張らないで! 二度と乗りませんからね、私! というかご飯もまだ食べてないですし! 待って! ちょっと待ってってば!」
生まれて初めて、悪い子になったその夜は――
「ローズヒップさんのバカー!!」
新しい、友達ができた夜でした。
おわり
以上です。
お読みいただきましてありがとうございました。
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