【トトリのアトリエ】トトリ「一緒だね」 (16)

 いつものアトリエのいつもの風景。 

 暇を持て余した彼女がアトリエを訪れて。

 わたしが釜をかき混ぜて、彼女はソファに座って本を読む。特別言葉を交わすことは無い。いつも通りのアトリエの、いつも通りの風景だ。

 レシピを見ながら素材の詰まった箱と釜とを行き来して素材を釜に入れ、錬成されるものの姿を想像して釜を混ぜる。一日中集中を保ち釜と向き合い続けなければいけないのだから、それを楽しめる人間でなければとてもやっていられない。こんなことよくもやっていられるものだ。
 どうしても疲れが溜まって来た時には、横目で彼女を見る。姿勢よく上品に座って読書に耽る姿。ページを捲る指の動きにすら気品がある。節々に見せる上品な仕草からは、貴族としての彼女が、心に曲がることの無い芯を持っていることが窺える。
 すぐに視線を戻し釜を混ぜる。気のせいかもしれないが、少しだけ活力が沸いてきたかもしれない。

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 涼しさに包まれた気持ちのいい午後だ。

 暑い暑い夏はもうすぐ終わろうとしている。あれだけわたしたちを照らしつけていた太陽の日差しももはや懐かしい。窓から爽やかな風が部屋の中に吹き込んだ。

 釜をかき混ぜる音とページを捲る音だけが静かに響く空間。この世にわたしたちとこの部屋だけがあるように感じられた。
 失敗することはほとんど無くなったけれど、慎重に、慎重に釜を混ぜる。

 わたしは、わたしとミミちゃんだけのこの静けさが好きだった。
 爆発なんてさせてしまえばぶち壊しだ。

「ん、あ……」

 眠りから目が覚める、意識がゆっくりと起き上がってきた。
 あれ、いつもソファで眠るのに。珍しくベッドで眠っていることに気付く。

「あ、起きちゃった?おはよう。朝ご飯用意しておいたわよ」
「あー……おはよう、ミミちゃん。すぐご飯作るね」
「まだ寝ぼけてるの?早く顔洗ってきなさい」

 少しづつ昨夜のことを想い出す。ミミちゃんと一緒に夕食を摂って、もう遅いから泊まってってよ、って……
 ミミちゃんの言う通りにとりあえず外に出て井戸から冷たい水をすくい顔を洗を洗うと、惚けていた頭が叩き起こされる。

「おはよう、ミミちゃん」
「さっき聞いたわ、おはよう。一緒に食べましょう」

 のろのろと椅子に座り、机に置かれたコップから水を飲む。わざわざ朝食を用意してくれたのか、申し訳ない。6時も回っていない。空もまだ白んでいる。
 ミミちゃんが作ってくれた朝食を一緒に食べる。わたしもミミちゃんも早く起きすぎてしまったな、どうしよう。まだ完全に起きていない脳で仕事に向かって行きたくない。早朝から朝へとちょっとした空白が生まれてしまう。

「じゃあ、私もう行くから」

 早朝なのだから酒場もまだ開いてはいないだろう、依頼を確認することもできない。期待を込めた彼女の表情と言色。わたしには分かる、ミミちゃんが今考えていること。この子は自分からそれを言い出すのは苦手だから、わたしが代わりに言ってあげる。

「ミミちゃん、少し歩かない?ちょっと待たせちゃうんだけど」
「そ、…そうね。私も暇だから、付き合ってあげる。待ってるわ」

 少しだけ俯いても嬉しそうに緩む口元は隠せない。ああ、可愛いなあ、この娘は。

 硝子のように澄んだ早朝の空気の中をミミちゃんと共に歩いて行く。すれ違る人も少しだけ居たが、ほとんどわたしたち二人だけの世界を、人気の無い道を歩く。昼には人で賑わうこの街が黙り込んでいた。なんだか夢の中のように現実味が無い。
 今もなにか言葉を交わすことは無い。ミミちゃんも、この空間に声を吐き出すことを嫌っているのだろう。わたしたちの間にはそんなものは無くてもいい。隣にいればそれでいい。

 どれだけの人間が、そんな関係を持つ人間を見つけることができるだろうか。いや、きっとありふれたもの、誰でも手に入れることができるものなのかもしれない。それでも、わたしはとても貴重なもののように感じていた。
 そうか、ミミちゃんとわたしはそんな関係になれたのか。

 自然とわたしたちの足はいつも通り街の外れの並木道へと向かっていた。昼であっても通る者の少ない、街からいくらも離れた並木道にはもはや誰一人も見当たらなかった。そういう人達にとって、ここはいわゆる穴場なのだ。

 ゆっくりと並木道を歩く。ざわざわと葉を揺らし、体を透いて流れていく風が心地良い。薄着では少し寒さを感じてしまうけれど。
 ミミちゃんと手を繋いでこの並木道を歩けたならとても素敵だろうな。
 そうか、繋いでしまえばいい。
 隣に歩くミミちゃんの手を掴むと、彼女の体が跳ねた。この子は素直じゃないけれど、分かりやすい。わたしだけに見せるミミちゃんをわたしだけが見れることが嬉しかった。
 彼女の手はふわふわと柔らかい。少し厚い、包み込むような皮膚の下に猫のようにしなやかな筋肉が感じられる。
 この手に触れるとこができるわたしはなんて幸運なことだろう。指を絡めると簡単に紅くなってしまうミミちゃんはとても愛らしい。
 
 これ以上に充ちた朝には出会うことが出来ないかもしれない。ミミちゃんと共にいる限りは分からないけれど。
 葉は散り始め秋の訪れを感じさせる。はらはらとわたしたちに葉が舞い落ちてきた。冒険に出ずとも、こんなふうに情緒ある風景に出会える。きっとミミちゃんのせいだ。彼女と共に眺めては、なんでもないものであってもたった一つの宝物のように感じられるのだ。
 こんなに美しい並木道ばかりではない。木々も枯れ果てた大地であっても、それでもミミちゃんがいてくれたら美しさを見出せるはずだ。きっとそうだ。

 わたしが道を歩く時にはミミちゃんが隣にいてほしい。こんなふうに同じ道を歩くことが出来なかったとしても、ミミちゃんの存在を感じて繋がっていることが信じられるのならば、きっとわたしは歩き続ける。彼女はいつだってわたしに勇気をくれる。
 人は全く同じ道を歩くことはできないけれど、今わたしたちは手を取り合い並木道を歩いている。
 ミミちゃんと隣り合って歩く、なんでもない時間。大切な人と過ごす時間が、なんでもない日常が、何より大切であることをわたしは知っている。

「ねえ、ミミちゃん」
「うん?」

 そんな気持ちを伝えようとミミちゃんを見たその時。とくん、と胸が揺れた。
 きらきらと零れる木漏れ日の輝きを背に、ミミちゃんはその端正な顔をわたしに向けている。
 艶のある黒髪はその木漏れ日を星空のように反射して。小さい顔にぱっちりと開く紫色の大きな眼、長いまつ毛、小さな鼻。柔らかな唇は優しく微笑んでいる。
 いつも見ているはずの彼女の顔が、やけにくっきりとわたしの目に映った。

 綺麗だ。

 天使がいるとすればこんなかたちをしているんだろうな。
 この世界の何よりも美しい光景だと確信できた。
 その瞳に捉えられたわたしの心臓は、ミミちゃんの手に直接握られたように強く、強く締め付けられた。彼女はたまに、わたしの心を壊れるほどに揺さぶるのだ。顔に熱が集まっているのが分かる。ええと、ミミちゃんに伝えたいことを忘れてしまった。えっと。

「一緒だね」
「……何が?」

 当たり前だけれど、とにかくで出してしまったわたしの唐突な言葉に彼女は戸惑っている。タイミングを逃して改めて言いたかったことを整理すると、言葉にするのが少し恥ずかしくなってしまった。
 わたしだけが知っていればいいか。笑ってごまかそう。

「なんでもなーい」
「なによ……なんなのよ。訳が分からないわね、あんたは」

 ミミちゃんはそう言って、優しく笑ってくれた。

 ミミちゃんは出会った時と比べてずっと優しい顔を見せるようになった。出会ったばかりの時のミミちゃんにはつんつんした態度でいつも怒っているような印象を持っていた。いつからこんなふうな顔を見せるようになったのかな。
 ふと、あの時彼女がわたしと出会えてよかったと言ってくれたときのことを思い出した。お母さんが死んでしまっていたことを知って、泣いていたわたしを優しく慰めてくれた時のこと。
 わたしが彼女を変えられたのだとしたら嬉しいな。うん、そう思っておこう。

 どうやら昇ってきた太陽の眩しさに目を細めた。赤褐色と灰色の煉瓦の敷かれた並木道が、葉の形でくっきりと明暗に分けられる。日に隔たれるはずのふたりの影は、繋がってひとつになっていた。
 こんなふうに、ずっと一緒に歩いていければいいな。
 いつまでも、いつまでも。

終わり

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