【モバマス】渋谷凛「私の想い、人形の呪い」 (64)


ホラーです。

そこまで怖くないですが、苦手な方は序盤だけ読めると思います。

最後まで読んでくれればうれしいですが、ホラー無理な方はこちらをどうぞ。

まったりしていて読みやすいと思います。

【モバマス】茜「藍子ちゃんの1日を」未央「体験しよう!」藍子「……え?」
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『プロデューサー。私、プロデューサーのことが好き』

『……そう、だよね。うん、わかってた』

『プロデューサーが謝ることないよ。悪いのは私の方なんだから』

『……アイドルとプロデューサーなんだもん。恋をしちゃいけない関係だから』

『……恋をしたら、いけなかったんだよ』


-----------

自宅

どうしてこんなに気が重いのだろう。
そんな原因はわかっている。彼に振られたことが楔となって心に突き刺さったままなのだから。

「はぁ……」

振られることはわかっていた。覚悟していたことなのに、それでもショックは大きかった。

「私、何してるんだろ……」

彼女―渋谷凛―は、ベッドの上でクッションを抱いてうつ伏せになっている。
昨日凛はプロデューサーに告白をし、振られたショックが抜けきっていない。

「なんか、楽になりたいなー」

早く割りきって普段通りになりたいと凛は思う。
幸い、今日がオフだったのは助かった。
こんな不安定な精神状態で仕事なんて出来なかったと思うから。


「……ーん?……りーん?」

突然、階下から母の声が聞こえる。
正直に言えば、返事をすることも面倒なのだが、気力を出して返事をすることにした。

「……なーにー?」

自室のドアが開き、母が顔を出す。

「凛。お母さんね、これから叔母さんのお家に行ってくるから店番お願いしてもいい?」

「……叔母さんの家?……確かこの前叔母さん亡くなったよね?」

「ええ。あの子、一人暮らしだったから、その遺品整理とかがあるのよ」

「ふーん」

今の凛にとっては、母が出かけるのは良いことだが、店番をするのは億劫だった。

「……うん、わかった。行ってらっしゃい」

それでも仕方なく、了承した。
出来るだけ客が来ないことを祈って、最悪二組くらいなら嫌な顔をせず対応できるだろう。

「夜までには戻るから、その間お願いね」

「……うん」


それから母が一階へ戻っていき、凛もだるい身体を起こして動き出した。

「……ま、ハナコと店番すればいいか。少しは身体動かした方が気も紛れるだろうし」

そのまま一階へ降りて店に顔を出すと、ちょうど母が出ていく所だった。

「それじゃ、行ってくるわね」

「行ってらっしゃい」

母の背中を見送って、レジの椅子に腰かける。
店内には誰も客はいないし、人通りもいつもより少なく見える。
少しだけ胸を撫で下ろし、ただ無意味な時間を過ごす。

「……ハナコー。おいでー」

家の中でじっとしているハナコを呼び寄せる。
しばらくしてトテトテとハナコが走ってくる足音が聞こえ、足元に来てから抱き上げた。

「……ハナコは元気だなー。私にもその元気ちょうだいよ」

クゥーン?

珍しく主人の弱気な姿を見たからか、それとも単に鳴いただけなのか、ハナコの様子は少しだけ凛を気遣っているようだった。

「……少しの間だけこんな私だけど、そのうち元気になるだろうから心配しないで」

ワンッ

「ありがと、ハナコ」


少しだけ、ハナコに元気づけられたのか気力が戻った。
そこでちょうど店のドアが開いて、誰かがやってくる。

「……いらっしゃいませ」

ハナコを足元に下ろして、平静を装って接客をした。

「しぶりーん、元気ー?」

店を訪ねてきたのは客ではなく、アイドル仲間の本田未央だった。

「……なんだ、未央か。どうしたの?」

珍しい来客に驚くのと同時に、面倒な気持ちがあった。
見ず知らずの人なら平静を保てるのに、知り合いなら話は別だろう。

「いやー、なんとなく近くを通ったからねー。確かしぶりんはオフだったなって思い出して」

眩しい笑顔を見せて、未央は無邪気に話しかける。

「そういうこと。冷やかしだったら帰ってください」

ついつい冷たい態度を取ってしまい、すぐに後悔した。
未央は何も悪くないのに当たるなんて最低だ。

「ちょっ。しぶりん冷たいぞー。せっかく未央ちゃんが顔を出したってのにー」

未央は言葉では文句を言いながらも、本気で落ち込む様子はない。
ただの冗談だと思われたのだろう。


「はいはい。それで今日は何の用?」

冗談だと思われたなら好都合で、依然気持ちは重いままだったが、何とか平静を保つことを努力する。

「……いやー、しぶりんの顔色を窺った方がいいかなーって」

「……どういうこと?」

ドキッとした。
なぜ未央はそんなことを言うのだろうか。
普通なら遊びにきたと言う場面ではないのか。
まだ誰にも話していないのに、未央が知っているはずはないのに。

「………………」

未央から返事は何もない。
それなのに、未央の目がしっかりと凛のことを見ていて、事情を知っていると訴えかけていた。

「……どうして?」

もはや凛は平静を保ってなんかいられない。
声が震えるのを隠すこともできず、ただ未央を見つめることしかできない。

「……今のしぶりんは良く思えないかもしれないけどさ、様子を見てきてくれって頼まれたんだよね」


誰に?

そんな言葉を投げかけようとしてやめた。
そんなことを頼むのは一人しか該当者がいない。

「…………そっか」

隠すだけ無駄なことなんだろう。
彼の気遣いは憎くて、それでも甘えてしまう。
一人で抱え続けたところでどうしようもないのだから。

「……あのさ、未央。少しだけ私の話を聞いてくれる?」

意を決して未央に話しかけた。
きっと断られることはないとわかっていても、少しだけ勇気のいることだった。

「うん」

彼女を手招きして、レジの裏側に呼び寄せる。
椅子をもうひとつ出して未央に座ってもらう。

「……私、昨日失恋したんだ」

「……そっか」

何から話そうか迷い、言葉を考えてみるが、何も考えずとも自然と言葉は口から漏れていた。


「頼まれたなら知ってるだろうけどさ、相手はプロデューサーで、キッパリ断られたんだ」

それを聞いて未央はどう思ったのか。彼に頼まれたとき、何を思ったのだろう。

「もちろん私も、アイドルとプロデューサーなんだから付き合うことは出来ないってわかってたんだよ」

告白する以前から何度も思い、その度に立ち止まってきた。
けれど日に日に想いは高まり、それを止めることなんてできなかった。

「わかってたのに、どうしてこんなに辛いんだろうね……」

視界が歪む。
未央の顔すらまともに見ることができず、凛は俯いてしまう。
肩が震え、鼻をすすり、涙が頬を伝う。
凛の足元で、ハナコがそっと寄り添った。

「……つらいよね、しぶりん」

凛の肩に手をおいて、未央が語りかける。
表情は見えなくても本気で心配しているのが伝わってくる。

「アイドルとプロデューサーってだけで、許されないのは私もおかしく思うよ。だってしぶりんはアイドル以前に一人の女の子なんだから」

慰める未央の声を、凛はしっかりと聞いていた。
それと同時に理不尽な気持ちが募り、改めて凛を苛む。
どうすることが最善だったのだろうか。


「しぶりんもわかってると思うけどさ、プロデューサーは、決してしぶりんのことが嫌いじゃないよ。……それだから尚更辛いってのもあるんだろうけど」

そんなことは凛もわかっている。
だからこそ辛いし、相手のことを100パーセント憎めるのなら、こんなに凛は思い悩まないはずだ。

「でも言うよ?しぶりんはプロデューサーに恋しちゃいけなかったんだよ」

未央の言葉が胸に深く突き刺さる。

「……どう、して?」

「しぶりんがアイドルだから」

知っていた。
そんなことはわかりきっていた。
だからこそ深く胸に突き刺さる。

「ファンを裏切ることになるし、信用も失っちゃう」

「……じゃあ……」

ーアイドルやめたら……

そんな希望にも思える言葉が喉元まで競り上がってきて、けれど必死に飲み込んだ。

「アイドルやめたらオッケーもらえるなんて思っちゃ駄目だよ?」

そんな機微すらお見通しなのか、未央は淡々と告げた。


「そんなの、誰もが憧れる渋谷凛じゃないからね」

だったら、何が本当の渋谷凛なのか。
今ここで俯いている渋谷凛は何者なのか。

「キッパリと諦めて、普段のしぶりんに戻りなさい!」

残酷な宣告。
けれど事情を知っている人から見れば、当然の言葉でもあった。

「……って、本来は言うべき何だろうけどさ」

張りつめた空気が急に弛緩して、凛は顔をあげた。
あげさせられたと言うべきだろうか。

「別に失恋してもいいじゃん。すぐに立ち直れなくたっていいじゃん」

「……みお?」

未央が何を言いたいのかわからず、ただ名前を呼び掛けた。

「今のしぶりんはアイドルじゃないからさ。15歳の女の子にそんな酷なことは誰も言わないよ」

「……未央、私はアイドルなんだよ?」

思わず、そんな訂正を入れてしまう。
ファンが想像する渋谷凛からかけ離れた姿を見せているからといって、凛は正真正銘アイドルなのだから。


「うん、しぶりんはアイドルだよ?でも今のしぶりんは違うじゃん」

「……は?」

怒りとも悲しみとも違う感情が凛を襲う。
人を惑わすことが好きな、困惑という感情。

「だってしぶりん、今日オフじゃん」

「………………」

馬鹿らしくて、つい凛は黙ってしまった。
そんなことは気にせず、未央は続ける。

「休みの日までアイドルやることなんてないんだよ。アイドルの渋谷凛が失恋しても、花屋の娘の渋谷凛が悩むことなんてないでしょ?」

何て馬鹿らしい考えなのだろうか。
何て前向きな考えなのだろうか。
そんなこと、凛には考え付くことすらできなかっただろう。

「……ふふっ」

あまりの思考に、凛は笑ってしまう。
もう何年も笑っていなかったように思えるのに、自然と笑みがこぼれた。


「お?ようやく笑ったね!」

釣られて未央も笑顔になる。
凛にとって眩しい笑顔。
けれど、とても安心させてくれる。

「未央の考えがバカすぎて笑っちゃったよ」

「バカとは何だー!せっかく未央ちゃんが慰めてあげたっていうのに!」

「……はいはい、ありがとね。でも、バカっぽいのは未央の良いところだから」

軽口を叩けるほど気持ちが軽くなったことに凛は気付く。
これも未央のお陰で、しっかりと勇気付けられていた。

「はぁ。これなら慰めなければ良かったよ。珍しく落ち込んでるしぶりんが見れたっていうのに」

「花屋の渋谷凛は落ち込まなくていいって誰かが言ってたからね。落ち込むだけ疲れるだろうし」

いじける未央と、元気な凛。
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のような光景だった。
割りきれたわけではない。けれど少しだけ前を向く勇気をもらった。

「しぶりんもパッションしてけば良いんだよ」

「ふふっ、なにそれ。クールに決めるのが私だから」

もう軽口だって言える。
それだけ未央に支えてもらえたと思っている。


「……しぶりんもしぶりんでバカっぽいよね」

「なっ!?私のどこがバカだって言うの!?」

「蒼。足跡。ふーん、あんたがわt……」

今になって思えばどうしてあんなことを言ったのかわからない。
ただ心で感じたことを口にしただけだ。

「…………あのときは若かったんだよ」

「へー……」

ジトッとした目が凛を見つめる。
凛はなんとなく悔しくて、イタズラをしようと思った。

「それに最後のは……。プロデューサー、が……」

「あ、これ地雷だった?」

これは冗談でも酷だろうか。
そんな思いと同時に、それをネタにしてもいいくらいには回復していた。

「プロデューサーに振られたんだ……」

「しぶりーん?」

「……死のうかな」

「しぶりん!?」


全くの嘘だっていうのに、未央はしっかりと反応してくれる。
思わず口の端が上がって、笑いそうになるのを必死にこらえて演技を続ける。

「ごめんね、ハナコ。こんな主人で。どうか先立つことを許して」

「ええと、しぶりん?もしもーし」

「来世では蒼く生まれて、お金持ちのイケメンと結婚したい」

これなら未央も冗談だとわかってくれるだろう。

「意味不明だし、欲望駄々漏れじゃん!」

いつも通りの反応をしてくれてホッとした。
けれどまだ色々な反応が見たくて続ける。

「それから、卯月と未央とまたユニットを組むんだ……」

「しぶりん……」

「それから……、思い付かないや」

「唐突にエチュード始めるなら最後までやりきってよ!!!」


感極まったところで落とす。
未央の反応が楽しくて、色々としてしまった。

「ふふっ、ごめんごめん。でも、もう大丈夫だから安心して」

「それならいいけどさー。カラオケにでも行ってパーっと発散する?」

「いいよ、大丈夫だから」

「そっか、それなら良かった」

本当に安心してくれたようで、凛は嬉しく思った。
こんなに自分のことを気にかけてくれる友達がいる。それだけで心が満たされていくようだった。

「大丈夫なようなら未央ちゃんは帰りますよー」

「うん、ありがとね未央」

「へへっ。どういたしまして!」

未央の背中を見送って改めてレジに座り直す。

クゥーン

足元ではハナコが凛を見上げていた。

「ハナコもありがとう。さっきも寄り添ってくれたし」

頭を撫でてあげながら感謝を告げた。

「本当に、当分は頭があがらないかな」


それからは何事もなく、店番は終わった。
ほんの少しの客が来ただけで特に忙しくもなく、夜になって母が帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま。……何か嬉しいことでもあった?」

そんなに表情が変わっただろうか。
鏡で見てはいなかったが、元々酷い顔をしていたのかもしれない。

「うん。未央が来て少し話してたんだ」

「そう。良かったわね」

母はそう告げて家に入っていく。
何やら荷物が多いようだが、それが持ち帰った遺品なのだろう。

「何か手伝うことある?」

「いいわよ。夜ご飯作るからお店閉めちゃって」

「はーい」

それからは慣れた仕事だった。
closeと書かれた札をドアにかけて、フロアを簡単に掃除する。
売上は親の仕事で、凛ができることはすぐに終了した。


「……終わったよ」

リビングへ戻ると、ソファに人形が置かれていた。
ハナコより少し小さくて、漆黒の瞳が魅力的な日本人形。

「……人形?」

それにしては不気味なほど人間らしかった。
精巧な容姿と愛らしい表情は至高の逸品だと素人目にもわかる。
ただ、人形のはずなのに、まるで小さな人間のように錯覚する。
着物を着た、艶やかな黒髪の小さな人間。そんな印象が不気味さを醸し出していた。

「あぁ、それあの子の物よ」

先日亡くなった叔母さんの人形。
こんな人形は家になかったのだからすぐに理解できた。

「なんでこの人形、精巧に出来すぎてるの?」

「さあ?それが芸術じゃない?」

つい気になりすぎて声に出ていたが、母も知らないようだった。

「あの子に日本人形の趣味があったなんて知らなかったけど、見た目も綺麗だしきっと大事にしていたんでしょうね」

「……ふーん」

不思議な魅力がある人形だなと凛は思った。
吸い込まれそうな瞳と愛らしい姿。
精巧すぎるのが不気味だが、決して印象は悪くなかった。


今はまだ。


-----------

翌朝、凛は跳ね起きた。

「……はぁ、はぁ、はぁ」

嫌な夢を見ていた気がする。
パジャマは汗でぐっしょりと濡れ、今も汗が頬を流れていく。
夢の内容は思い出せない。
けれど悪い夢だと言うことはしっかりとわかっていた。

「……シャワー浴びよ」

ぐしょぐしょの身体が気持ち悪くて、素早くベッドを出た。
適当に服をひっ掴み、部屋から出る。
その背中はまるで、何かから逃げるようだった。

「おはよう」

キッチンで朝食を作っている母に挨拶をする。
凛は汗を洗い流し、さっぱりした気分でリビングに顔を出した。


「あら、凛。おはよう。今日は仕事だっけ?」

凛はカレンダーで日付を確認してから答える。

「うん。撮影の仕事だけだったはず」

「そう。じゃあ夜ご飯は家で食べるのね?」

「よっぽど長引かなかったらだけど、多分大丈夫なはずだよ」

「わかったわ」

ジューっという油が弾ける音と、ベーコンの香ばしい香りがする。
凛はハナコのご飯を戸棚から取り出し、皿に盛った。
待ってましたと言わんばかりにハナコが近づいてきて、元気にご飯を食べ始める。

「ふふっ。ゆっくり食べなよ。……ん?」

ハナコの可愛い姿を眺めていると、不意に視線を感じた。
なんとなく冷たい視線だと思い、なぜかその正体がわかった。
キッチンで料理をしている母の視線ではない。
ご飯に夢中のハナコのものでもない。
その視線はソファの方からする。
昨日家にやってきた、不気味なほど精巧な人形からだった。


「………………」

不意に凛は人形から目を離せなくなった。
透き通る瞳に自我が吸い込まれてしまうような錯覚に陥る。
初めてのことなのに、既視感のある光景。
どこで覚えがあるのか、すぐに思い出した。

夢だ。
今朝見た悪夢。そこで感じた視線にそっくりだった。
夢はどんな内容だったのか思い出そうとし、

「……ん?りーん?何突っ立ってるの。ご飯食べるわよ?」

パッと意識が浮上して、思考も中断される。

「……ん?うん、わかった……」

思考の中断で意識を引き離されたせいか、夢の内容は思い出せなくなっていた。
いつの間に朝食ができていたのかわからなかったが、もうテーブルに並べられていた。
ご飯と味噌汁、スクランブルエッグにベーコン、サニーレタスのサラダとヨーグルトといういつも通りの朝食。
ただいつもと違うのは後頭部に感じる視線だけだった。
粘つくような視線は絶えず注がれ続け、凛は朝食の味が何一つわからなかった。

「……ごちそうさま」

何を食べたのかわからなくても、何かを食べきったのは皿を見ればわかる。


「あら、今日は速いのね」

凛は逃げだしたくなる気持ちを抑えきれず、食器の片付けもしないままリビングを後にした。
何が怖いのかわからない。けれどしっかりと恐怖を感じていた。
あの人形は何かおかしい。
本能で悟り、人形の視界に入らないよう逃げた。
それなのに、部屋に戻っても見られている感覚がする。

「……はぁ、はぁ。なにこれ」

心臓が早鐘を打つ。
運動もしていないのに息が整わない。
普段なら事務所に休むと連絡をいれるほど体調が優れないが、何よりも今はこの家に、人形の近くにいたくなかった。
急いで荷物を準備して、足早に玄関へ向かう。

「早いけど、行ってきます」

母の返事を待たずにそのまま家を飛び出した。
暖かい日差しと穏やかな風が吹いている良い天気。
しかし、今の凛にとっては感じられるすべてが不快に思えた。
世界が変転した気分。自分が世界にとって異物のように感じられるが、それも少しのことだった。
家から離れるにつれて視線は感じなくなり、日差しも風も心地よく感じられる。
まるで何事もなかったかのように気分は晴れていった。凛はそのまま事務所へ向かって歩を進めていく。


-----------

事務所ビル

事務所のあるビルへ到着すると、今朝の不思議な衝動とは違う不安が押し寄せてきた。
原因ははっきりとわかっている。
プロデューサーとどんな顔をして会えば良いのかわからなかったのだ。
どうしようか迷いながら通路を歩いていると、前から見知った顔の子が歩いてくる。

「……あ、おはよう。凛さん」

「おはよう、小梅」

白坂小梅。同じアイドルで凛は何度も共演したことがある。
小梅にプロデューサーが事務所にいたのか聞こうか迷ったが、それよりも早く、

「……凛さん。それ、どうしたの?」

と、言われた。

「それ?」

小梅の視線は凛の後方に向けられている。
何か糸屑でも服についていたのだろうか。

「その……幽霊、というか、思念。かな……?」


ドキッとした。
今朝の人形から感じられた視線を思いだし、それがまだまとわりついているのだと思った。

「思念……。ねえ小梅。これってそんなに危ないものなの?」

霊感がある小梅ならば、この現象をどうにかすることができるのか。
そんな希望をこめて聞いてみることにした。

「……ううん。そんなに強いものじゃないよ?でも……」

「でも?」

そこに含みがあることに気付き、続きを促す。

「……良いものでもない、かな」

やっぱりと凛は納得した。
粘りつく、背筋が凍りつくような視線を向け続けられ、悪いものだということはわかっていた。
それが確信に変わっただけ。

「どうすればいいとかってわかる?」

小梅なら解決法を知っているのではないかと思って聞いてみた。

「すぐに、どうにかしたいなら……お祓いしてもらうのが、一番かな。でも、原因がわからないと……」

「それなら大丈夫。何が原因かわかってるから」

凛は確信を持ってそう告げた。


「そっか……。でも、気をつけて、ね?」

「ん?」

「もし、反抗されたら……危険だから」

あの人形はどう反抗するのだろうか。
現状では不快な視線がつきまとうだけなのだが、まったく想像もつかなかった。

「もしそうなったら、どうすr……」

「おっ!しぶりーん。と、うめちゃん。おっはよー!」

さらに対処法を聞こうとして、未央の声で言葉が途切れた。
凛は振り返ると、通路を走りよってくる未央の姿を見つけた。

「しぶりんもういいの?元気?」

先日の出来事を知っている未央が聞いてくる。昨日話していたのに、心配してくれる。

「うん、元気ではあるよ。まだ不安な部分もあるけど」

「そっか、まあ良かったかな?二人は何話してたの?」

「ええっとね……」

「ううん。なんでもないよ」

小梅が話そうとしたのを凛が止める。
これ以上未央には心配かけたくない気持ちがあった。


「そっかー」

未央も特に食いつくこともなく引き下がった。

「……いいの?」

「うん」

心配そうな小梅の視線を受けつつ、凛はしっかりと頷いた。
少しの間、小梅は凛を見続けていたが、やがて諦めた。

「……それじゃあ、私、行くね?このあと、収録だから」

「おっ!行ってらっしゃーい。頑張ってね!」

「引き止めちゃってごめんね。行ってらっしゃい」

「うん。……行ってきます」

二人は小梅を見送ってから動きだす。
ただ事務所に近づくにつれて凛の足は重くなっていく。

「……しぶりん、私先に入った方がいい?」

事務所のドアの前に着くと凛の動きが止まり、そんな凛のことを想って、未央が提案をもちかける。

「そう、だね。そうしてもらえるとありがたいかも」

「うん、わかった」

ガチャりとドアが引かれる。
凛は極力中を見ないように、意識して未央のことを見ていた。


「おっはよー!……ってあれ?」

普段通りの光景ならデスクにはプロデューサーがいるはずのだが、どこにも見当たらなかった。
それ以前に事務所には誰もいなかった。

「……どうしたの?」

「んー、誰もいないみたい」

凛は無意識にホッとした。
ただプロデューサーと会うときが後回しになっただけなのだが、今の凛には時間ができるのはありがたかった。

「とりあえず中に入ろっか」

「うん」

二人は事務所に入ると、ソファーに荷物をおろして座る。

「……しぶりんも大変だね」

「ほんと、そうだよ。私自身こんな風になるなんて思わなかったし」

余裕が出てくると、先程までの凛の行動は情けなく思う。

「まあまあ。しょうがないことでもあるしね?それよりも今日の仕事は大丈夫なの?」

「うん。それは平気。何度も一人で行ったことあるとこだし」

初めて行く場所だったり、大きな仕事だったらプロデューサーも同行するだろうが、今日の仕事はそこまで大きいものでもない。

「そっか、私はレッスンだけだから事務所にいるけど何かあったら呼んでね?」

「レッスンってもうすぐだっけ?」

「そうだよー。朝早いレッスンって大変だよねー」

もうすぐ未央がレッスンでいなくなると思うと少しだけ気分が重くなる。
けれど、ずっと未央にいてもらうこともできないので、早くなんとかしないといけない。


ガチャッ

そのとき、唐突に事務所のドアが開いて、凛は硬直した。

「……あっ。未央ちゃん、凛ちゃん」

「……ん?みゆみゆだー、おはようー」

「あの……未央ちゃん。そのあだ名は……」

凛は現れたのがプロデューサーではなくてホッとした。
同じアイドルの三船美優。

「……美優さん、おはよう」

「凛ちゃん。おはようござ……い……ま……」

本来だったら知的な雰囲気の彼女だったが、凛のことを見てからか、次第に表情から色が抜けていった。

「お?どうしたの、みゆみゆ?」

唐突に彼女を襲った異変は、二人の目から見ても明らかだった。
顔色が悪い。動揺している。そして、はっきりと恐怖が浮かんでいた。

「あの……、すみません!」

脱兎の如く、美優は事務所から逃げ出した。
取り残された二人は、そんな後ろ姿を見つめることしかできなかった。

「みゆみゆどうしたんだろ?」

しばらくの沈黙のあと、未央が口を開いた。
しかし、それに対する答えを今の凛は持ち合わせていない。


「さあ?」

「何か大切なものでも忘れたのかな?」

「だとしても、あれはちょっと異常な気がするけど……」

今も凛の脳裏には、恐怖に支配された美優の表情が消えない。

「だよねー……。あとで会ったら聞いてみよ」

「そうだね」

果たして答えてくれるのかどうかわからなかったが、あんな姿を見せられたら放っておくことはできないだろう。
それに、まったく信憑性のない可能性が凛には浮かんでいた。

「……あっ。もうすぐレッスンの時間だ!」

そんな声とともに時計を見てみると、いつの間にか事務所に来てから30分は経過していた。

「ほんとだ。レッスン、頑張ってね」

「うん!しぶりんもあんまり無理しちゃダメだぞ?」

「ありがと。なんとかするよ」

それから二、三言交わしてから未央はレッスン場に向かっていった。
事務所に一人取り残された凛は、どうしようかと悩む。
このままここに残っていてもプロデューサーと嫌でも会ってしまう。

「外、出ようかな……」

まだ、凛には時間が必要だった。
それと、このまま事務所にいるのは、なぜか嫌だった。


-----------

それから半日ほど経ち、凛は撮影の仕事をこなした。
普段から仕事に取り組むときはカチリとギアが変わったように集中できて、撮影をしている間はプロデューサーのことや人形のことは考えずに済んだ。

ピカピカ

「ん?」

衣装から着替えて控え室に戻ると、携帯が点滅していることに凛は気がついた。
ランプの色を見て、誰かからメッセージが飛んできていたとわかる。

「んー、小梅と美優さんから?」

どちらも今朝会った人物だった。
小梅とは少しだけ会話をして、美優とはまったく会話ができなかった。
小梅の方が通知の時間が早く、先にそちらのメッセージを確認する。

『余計かもしれないけど一言だけ』

『死者は生者には絶対に勝てないんだよ』

「……なにこれ?」

はっきりと言えば、凛には意味がわからない文章だった。
もちろん、なんで小梅が急にこんな文章を送ってきたのかは理解できる。
ただし、内容をどれだけ反芻しても意味がわからなかった。


少しの間考えてみたが、結局諦めて美優のメッセージを確認することにした。
小梅よりも一時間ほど遅く到着したメッセージ。

『凛ちゃん。さっきはすみませんでした。』

『いきなり事務所から逃げ出したように見えて驚いたと思います。』

『私、さっきとても怖かったんです。』

『突拍子もない話で困ると思いますけど、凛ちゃんの後ろにとても小さな人間が見えたんです』

『そのが喋りかけてきて、私とても怖くて逃げたんです』

『凛ちゃん。……その子のこと、何か知ってますか?』

『その子、「殺そうよ」って言ってたんです』

「………………」

なんだこれは。
美優の身に起きた出来事。
凛の背後にいる小さな人間。
どう考えても、家にある人形のことだった。
さらに、その人形が喋った。
凛は自身の身に起こりうる可能性に恐怖した。
悪寒がし、タオルで拭いたばかりの身体を冷や汗が汚し、小刻みに身体が震える。


「……誰か……!」

誰かに縋っても意味などないのに、一人でいることへの恐怖を感じる。

「未央……小梅……」

震える肩を抱いて、思いついた名を呼んだ。
今日会ったばかりの信頼できる友人の名。
二人に何ができるかわからないが、それでも一人でいるのは嫌だった。

「助けて……」

歯の根が合わない。
静かな空間に、カチカチと音が響く。

「……プロデューサー……」

そして最後に、一人の男性を思い浮かべた。
縋るように、凛は愛した人のことを呼んだ。


-----------

気づけば凛は事務所に到着していた。
いったいどうやって来たのか覚えていない。
けれど事務所にいるということは何かしらの交通機関を使ってたどり着いたのだろう。

ガチャッ

事務所のドアを開けて見えた室内では、未央とプロデューサーがいた。
何か会話をしていたようだったが、ドアが開いたことに気づくと、未央は顔を明るくし、プロデューサーは困惑した表情になった。

「おっ、しぶりんおかえり!」

未央の元気な声が出迎える。
対するプロデューサーは何も言葉を発することはなかった。

「………………」

しかし、凛には未央の声など聞こえていなかった。



―ほら目の前にいるよ

―私を裏切った男

―私を振った男が

―ねえ、憎いでしょ

―憎いよね。男なんてみんなそう

―…………………

―私を受け入れない男には罰が当たればいい

―不幸にしよう。破滅させよう。

―ねえ、殺そうよ


声が聞こえる。
誰かを呪う声が聞こえる。
ノイズみたいに掠れ、気持ち悪い声。
脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、息がつげない。
未央のことは見えるのに、プロデューサーが赤く塗りつぶされている。

死んだ……死んでない。……殺した?

思考が奪われかけ、凜は嗚咽をもらす。

「……ぅ……ぁ……」

もはやまともな言葉も喋れない。
思考が完全に奪われる前に早く逃げ出さなければいけない。

「……しぶ、りん?」

凛の異常さに気づいたのか、未央が名前を呼ぶ。

「…………ぁ………」

凛は逃げ出した。
考えるよりも先に身体が動いた。

「しぶりん!!!」

未央の声が遠くでする。
しかし、そんな声に反応していられない。
逃げて、逃げて、逃げて。
今は1センチでも遠くへ逃げなければいけない。
そうじゃないと危険だから。

彼が危険だから。


凛は事務所ビルの屋上にいた。
空が赤く染まり、灰色の雲が流れていく。

「……はぁ……はぁ、はぁ」

いきなり走りだしたせいか、身体が酸素を要求して悲鳴をあげている。
汗がしたたり落ち、服を濡らす。

「…………はぁ」

膝に手をついて呼吸を整える。
他に何も考えず、ただ深呼吸だけに集中する。

「………………」

荒かった息が整うと、崩れ落ちるように地面に膝をついた。
身体はとても重い。誰かをおんぶしているみたいに感じる。
けれど、もう声は聞こえなかった。

「……なんなの」

何が声を発したのかなんてわかっている。
声の主は凛の後ろにずっといるのだから。
朝よりも、昼よりも、強く背後の存在を感じる。


「……この人形は、なんなの」

なぜ自分がこんな目に遭うのか、なぜ人形は凛につきまとうのか、なぜ叔母さんはこんな人形を持っていたのか。
答えの出ない問いだけが凛の思考を埋めていく。

「…………しぶりん」

いつの間にか、未央が隣に立っていた。
額から汗を流し、ずっと凛のことを探していたのだろう。

「……未央」

凛はどうすればいいのか迷った。
自分と一緒にいたら未央にも被害が出てしまうのではないか。
そんな心配が新たに生まれる。

「しぶりん、何があったの」

質問ではない。はっきりと何かあったことを未央は理解していた。

「……わかんないよ。何があったかなんて私が聞きたい!」

自然と声が荒ぶる。行き場のない感情が晒け出される。

「なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのさ!なんで私が!……なんで?……なんで!!」

未央に感情をぶつけたところで何になる。
それでも凛はやめることができなかった。


「ねえ、さっきの声はなに!この人形はなに!教えてよ、ねえ!」

屋上を悲痛な叫びが切り裂く。
周囲のビルに反響し残酷さが木霊する。

「………………」

未央は何も答えられない。
何を言ってあげたら良いのかわからない。

「ねえ、教えてよ!!」

凛は頬を濡らしている。
綺麗な顔を台無しにして叫んでいる。

「………………」

未央は立ち尽くすことしかできなかった。

ガチャッ

ドアが開く音がした。
騒ぎを聞きつけたのか、誰かが来たのだとしたらどう言い訳をすれば良いか、未央は考えた。

「……悪しき気がー」


現れたのは警備員ではない。事務所の事務員でもない。
依田芳乃。同じアイドルで、どこか神秘的な人。

「……よしのん」

未央は不思議と安堵した。
彼女なら何とかしてくれるのではないか。
凛を救ってくれると思えた。

「……ほー」

てくてくと芳乃が近寄ってくる。
ゆっくりと、決して歩幅は大きくないのに、たどり着くのは速かった。

「……芳乃。ねえ、芳乃ならなんとかしてくれるの?」

凛は問う。
遠慮も、説明もなしに、ただただ問う。

「凛さん」

穏やかな口調。
大きな声でもないのに、すっと言葉が入ってきた。

「……芳乃ならこれがきっと見えるよね。この人形が」

凛は少しだけ平静を取り戻し、改めて芳乃に尋ねた。


「ほー。凛さんの背後には人形がいるのですかー」

「……は?」

芳乃はとぼけているのかと凛は思った。
芳乃に過度な期待をしていた自分がおかしいのかとも思った。

「私の後ろにいるでしょ。あの、人形が」

凛は自分の後ろにいる人形をはっきりと見たことはない。
不快な視線と重い存在感。それに小梅と美優の話で、後ろに昨日家に来た人形がいると確信があった。

「私には、そんな人形は見えませんよー」

けれど、芳乃の証言は違う。

「じゃあ何がいるのさ!」

意見が食い違ってくることが凛には憎らしい。
人形だと思い込んでいた。
人形ならお祓いなりなんなり解決法があると信じていた。
そんな救いが消えるかもしれない。

「私には、人形の姿は見えません。ただ……」

「ただ?」

「ただ、女性の声が聞こえるだけなのですー」


女性の声。
凛の背後にいるのは人形ではないのか、また新たな疑問が生じたところで、芳乃は言葉を続ける。

「凛さんが人形だと言うのならば、後ろの悪しき気はその人形のものなのでしょー」

「………………」

困惑。
凛は何を考えれば良いのかわからなくなった。
意見が食い違っていた。それが食い違っていないのかもしれない。
背後にいるのは、なんなのか。

「……ねえ、二人とも。何の話をしてるの?」

二人の会話に全くついていけてない未央がようやく口を挟んだ。

「凛さんは悪しき存在に、悪霊に憑かれているのです」

とても簡潔に芳乃が告げた。

「……へ?」

突拍子のない話をしっかりと噛み砕いてから、未央は声をあげた。


「えっ、しぶりん大丈夫なの!?さっきの様子じゃ大丈夫じゃないよね!?お祓い?よしのんお祓いできる!?」

当事者以上に未央は取り乱し、慌てふためいた。
未央はずっと、凛とプロデューサーの関係のことで何があったのだと思っていた。
けれどそれは違うらしく、今さら先程の叫びの意味を理解した。

「未央さん、一旦落ち着いてー」

「落ち着いてられないでしょ!?しぶりんが人形?幽霊?に憑かれてるんでしょ!?」

宥める芳乃と落ち着きそうにない未央のやり取りを見て、逆に凛は落ち着いた。
自分より誰かが混乱する姿は、意外と冷静になれるようだ。

「未央、落ち着いて。これを何とかするために芳乃に聞かないと、話さないといけないんだから」

凛の声が届いたのか、未央は少しずつだが落ち着いていく。
未央が静かになり、場に沈黙が降りたところで凛は話し始めた。

「誰かのお陰で冷静になれたから改めて話を続けたいんだけどさ、まず一つ芳乃に聞きたいんだけど」

「なんでしょー?」

「芳乃って霊感あるの?」


話を進める上で重要な疑問。
意見が食い違ったのも、そこに齟齬があるからかもしれない。
そんな意図があって、凛は尋ねた。

「ふむー。霊感ですかー。とても認識が難しい問題ですがー、結論から言えば、私に霊感はありませんよー」

芳乃自身、しっかりと考えながら言葉にした。
それを聞いて、凛はなにも驚かなかった。
むしろ、やっぱりとさえ思った。

「やはり、話が食い違うのはそこが原因ですかー。凛さん、少し私の話を聞いてくださいー」

「うん」

それから語られたのは芳乃のこと。
芳乃の家は拝み屋を生業にしている。
それは何度か聞いたことがあった。
けれどそれが何なのか知らなかったから生まれた食い違いだった。

「つまり、よしのんってイタコみたいなことができるの?」

死者だけでなく、草や木、動物や石など、あらゆるものの声が聞こえる。
そんな話を聞いて、イタコだと未央は感じた。

「降霊術はできませんがー、声だけならば聞こえますよー」


「ということは、芳乃はこの人形のことは見えないけど声は聞こえるんだよね?」

話をまとめ、凛は改めて芳乃に質問する。

「はい。凛さんが人形だと言うなら、そこにいるのは人形なのでしょー」

ゆっくりと芳乃は語る。

「私はその人形は見えませんが、女性の声、怨念と言い換えても良いですが、その人形に宿る思念の主の声は聞こえますー」

ようやく、話が食い違った理由がわかった。
何も話は最初から食い違ってはいなかったのだ。

「うん、わかった。それで次の話だけど、芳乃はこの状況をどうにかできる?」

この騒動を解決するためにはそこが重要だった。
芳乃ならどうにかしてくれる。そんな期待があったからこそ、生じた疑問。

「……できると言えばできますがー」

「ほんとに!?」

凛は希望が差したことで姿勢が前のめりになった。
この現象が消えるならば、これ以上嬉しいことはない。


「はい。……けれど、それで凛さんは良いのですかー?」

「……なにが?」

これ以上嬉しいことはないはずなのに、凛の表情は曇った。
解決するならそれで良いのではないか。

「なぜ凛さんが憑かれたのか、知らなくて良いのですかー?」

そんなの知りたいに決まっている。
なぜ自分が酷い目に遭うのか、何度も問いを繰り返した。

「……芳乃はそれがわかるの?」

声が震えそうになるのを必死に堪えて問いを発する。

「さあ?それがわかるかは凛さん次第でしてー」

凛次第、それが何を意味しているのかわからない。

「私次第……」

けれど、凛は知りたかった。
なぜ自分がこんな目に遭ったのか。

「凛さん、その人形の声。人形に宿る女性に心当たりはありませんかー?」

「………………」

該当する人なんて、一人しかいない。
なぜ凛に憑いたのかわからないが、一人だけ。

「……叔母さん、かな」

恐る恐る言葉にすると、記憶の声も塗り替えられる。
なぜノイズみたいだと思ったのか、なぜ気持ち悪いと思ったのか、凛の知っている声だったのに。

「ふむー。そうですかー。なぜ亡くなったのか聞いても?」

「私も詳しく聞いてない。持病があったのか知らないけど、孤独死って聞いた」

そもそも凛は叔母さんと親しくなかった。
会うのは年に一度、正月に会うくらいだったし、家は近くても凛は仕事で忙しかった。

「ほー。その方は、ご結婚は?」

「知らない。私が小さかったころから、ずっと一人だったと思う。……詳しく聞いた方がいいならお母さんに電話するけど?」

しっかりと解決するなら話は凛一人の手には負えない。
もっと詳しい人物に尋ねなければいけなかった。

「では、お願いします。なぜ亡くなったのか。結婚、またはお相手がいたのかを」

凛はポケットから携帯を取り出して、母に電話をかけた。

「……もしもし」

数回のコール音が響いてから、電話は繋がった。


『もしもし、凛?どうしたの?』

「あのさ、ちょっと聞きたいことがあって」

『なーに?』

「叔母さんってどうしてなくなったの?」

『……病気よ』

「なにか持病でもあったの?」

『私が知ってる限りはそんなのなかったわ』

「じゃあ……」

『……あの子はね、精神が参っちゃったのよ』

「精神が?」

『ええ、心の病気。そのせいで、すぐに治せるものを放置して、それが取り返しのつかないものに変わったの』

「それが原因か。……叔母さんってさ、結婚はしなかったの?」

『……っ!……してたことはあったわよ。ただ少しの間だけ』

「そうだったのか……」

『ええ、そして離婚してからだんだんと心が壊れていったのよ』

「そっか、ありがとう」

『いいけど、どうして急に?』

「ううん。あとで教えるよ」

『……わかったわ』

「それじゃ、切るね」


ピッと音が鳴って通話は途切れた。
話の内容を噛み砕いてから、凛は芳乃に話す。

「叔母さん、結婚したことあったんだって。すぐに別れたみたいだけど」

「ふむー」

「離婚が原因で心が病んで、どんどん悪化した上で病死、らしい」

簡潔に凛は伝えた。
同情する。
血の繋がり以前に、一人の女性として同情した。

「だから、怨念が残ったのですねー」

「そうみたい。私もさっき聞いたよ。誰か男性を呪う声。殺したいほど憎んでる声を」

仕事を終え、事務所に戻ってきたときのことを思い出す。
あのときはプロデューサーを認識した途端、声が聞こえた。

「……凛さん」

「なに?」

「最近、失恋しましたか?」

「っ!」


誰かが息を飲んだ。
凛だったか、未央だったかもしれない。
あるいは二人とも。

「…………………」

「……しぶりん」

未央の慮る声。
けれど、これは凛が話さなければいけない。

「……したよ。この前……まだ、一昨日に」

辛い思い出。
まだその傷は癒えていない。
人形の騒動が新たに起こったせいで隅に追いやられていたが、しっかりと凛には傷が残っている。

「そうですかー。……それが原因かもしれませんー」

「原因?」

凛の歪んだ表情を横目に見て、未央は聞いた。

「はい。人形に宿る思念は、常に男性への怨念を発しています」

「……うん」

「それが、離婚した男性を憎んでいる、凛さんの叔母さまのものだとするとー、失恋した凛さんと波長があってしまったかと」


芳乃はそう告げた。
ゆっくりとした声音でも、確信を持って話していたのだと未央は理解した。

「波長って……」

気になった単語を未央が聞こうとしたところで、

―殺そうよ

「違うっ!!」

凛の声が遮った。
脳裏をノイズのような声がフラッシュバックする。
叔母さんの声だとわかっているのに、忌々しい。

―憎いんでしょう

「違うっ!私はそんなこと思ってない!」

「しぶりん!?」

いきなり叫び声をあげた凛に未央は驚き、悲痛な表情を見てとった。

―私を振った男が

「私は憎んでなんかない!叔母さんとは違う!私は、私はプロデューサーを憎んでないっ!!」


未央はなぜそんな結論に達したのか、遅ればせながら理解した。
波長とは、共通した部分のこと。
離婚した叔母さんと、失恋したばかりの凛は似ている心境にあった。

「……うん、違うよね」

似ているからこそ、凛は自分がプロデューサーを憎んでいるという考えを拒否したのだろう。
けれど、未央は凛がプロデューサーを憎んでいないことを知っている。

「しぶりんはプロデューサーのこと、憎んでなんかいないよ」

昨日話したから。
直接凛の言葉を聞いたからこそ、未央はそれを知っていた。

―憎いのよね

「私は、私はっ!」

「凛さん、あくまでも凛さんと叔母さまは別でして」

芳乃も凛を擁護する。
失恋したあとの気持ちは分からなくとも、プロデューサーの名前が出れば何かはわかる。


―憎んでよ

「私は、プロデューサーを憎んでない、よ……」

凛は俯く。
自身を苛む気持ちから逃れようと、必死に声を荒げた。
それに疲れ、勢いが弱まったところで、

「……しぶりん、大丈夫だよ」

未央は凛を抱きしめた。

「しぶりんはプロデューサーのことを憎んでないよ。むしろ、その逆」

凛の肩を寄せて、宥めるように優しい声音で話す。

「しぶりんはプロデューサーのことが大好きなんだよ」

―………………

声が止んだ。
フラッシュバックなのか、新たに紡がれていたのかわからないが、声は沈黙した。


「……好き……でも……」

そんな未央の声が届いたのか、凛は反応した。

「……好きでいちゃ、いけないんだから」

何度も自問自答した言葉。
アイドルとプロデューサーだから、恋愛してはいけない。

「しぶりん、私昨日言ったよね。失恋してもいいじゃんって」

「………………」

昨日言われたことならしっかりと覚えている。
昨日の凛はオフだったから関係ないと。
でも今日はオフではない。

「アイドルとプロデューサーだから恋愛しちゃいけないとも言ったけどさ、しぶりん、諦められるの?」

そう問われて凛はどう思うのか。
そんなことは決まっている。

「……諦め、られないよ」


―どうして

新たに声がする。
今度は叔母さんの声だと理解できた。

「だよね」

「そんなすぐに諦めるなんて私はできない」

―どうして?

それが渋谷凛なのだから。
簡単に諦めるなんて言わない、誰もが知っているアイドルだから。

「しぶりん。私、しぶりんのこと応援してるんだよ?」

「未央?」

あまりにも未央の声が優しくて、凛は顔をあげて様子を窺った。

「私、昨日も今日も、一言もしぶりんに諦めろなんて言ってないでしょ」

そうだっただろうかと、凛は記憶を探る。
言われたような気もするし、言葉を濁していたような気もする。


「しぶりんはプロデューサーに振られたけどさ、失恋してないよね」

「なにを、言ってるの?」

―何を言っているの?

未央の言葉は相変わらず、凛には届きづらい。
根本から考え方が違うから。
凛と未央では性格が違うから。

「恋心は失ってないよね。だったらそれは失恋って言わないよ」

―あなたは何なの

「………………」

「しぶりんは簡単に諦める人じゃないから、簡単に失恋する人じゃないから。……好きでしょ、プロデューサーのこと」

―なぜ

まただ。
また未央は前向きに物事を捉えている。
凛にはない思考。凛とは違う思考。

「……うん」


―なぜ、愛せるの

「しぶりんの叔母さんは離婚して、相手を憎んだよ。結婚もしたことない私たちが知らない重みを抱えてたんだと思う」

―やめて

「それは素直に悲しいことでもあるけどさ、しぶりんは前を見なきゃ」

前を見る。
未央が得意なことを凛もできるのか。
できるに決まっている。

「しぶりんは恋心を失っていない。プロデューサーのこと、簡単に諦められない……」

―やめて!

そこで未央は言葉を区切って、続けようか少し迷った。
けれど、言葉を続ける。

「だって、しぶりんはプロデューサーの気持ち、全部聞いてないはずだよ」

プロデューサーの気持ち、振られたのがそうではないのか。
それが彼の気持ちではないのか。

「どういうこと?」

「しぶりんはアイドルだからプロデューサーに告白したの?違うよね?」


プロデューサーにスカウトされ、出会ったからこそ、凛は好意を抱いた。
苦労する時期もあったけど、隣には彼がいて常に助けてくれた。
だからアイドルとして好ましく思っている。
けれどそれ以上に女性として好きだから告白した。
ならば彼は。

「……未央、ありがと」

―あっ……

何をすべきか理解して、凛は未央に感謝を告げた。

「おっ。もういいの?」

「うん」

気分はスッキリしていた。さっきまでの重かった身体は羽のように軽かった。

「悪しき気は、晴れたのでしてー」

芳乃の呟きを聞いて、凛は背後に何も感じなくなっていることに気づいた。
人形は、叔母さんはもう凛に憑いていない。

「芳乃もありがと。助かったよ」

「どういたしましてー。ふむー、これが人間の強さですねー」

光輝なものを見たように芳乃は微笑んでいた。
そして、凛もようやくわかった。


『死者は生者には絶対に勝てないんだよ』

小梅から送られてきたメッセージ。
解決してから、意味がわかった。

「死者は生者に勝てない……か」

そんな呟きは誰の耳に届くことはなく、風に乗って飛んでいった。

「未央、少しプロデューサーと話してくるよ」

凛は改めて未央のことを見て告げた。

「うん。でも、少しでいいの?」

ニヤニヤとからかう視線を凛に向けて未央は返事をする。

「……ふふっ」

「未央さん、それは少し意地悪ですよー」

芳乃が未央をたしなめ、空気が弛緩する。

「そうだね、少しじゃダメだから、しばらくの間プロデューサーを独り占めしてくるよ」

そんなことを言い残して、凛はドアに向かって歩いていく。

「おっ。もう彼女気取ってるよ、あの人」

「みーおーさーんー」

背後からはそんな楽しい声しか聞こえなかった。


-----------

『プロデューサー、今時間いい?』

『さっきはごめんね、いきなり飛び出していって』

『うん、もう大丈夫だから。心配、した?』

『そっか、ありがと……』

『それでね、話があるんだ。大事な話』

『私、やっぱりプロデューサーのことが好き』

『プロデューサーのアイドルじゃなくて、一人の女性として』

『……だから、今度は。……Pさんの気持ち、教えて?』


終わりです。

長かったですが、お付き合いいただきありがとうございました。

よしのん頼みにならないよう頑張りましたが難しいですね。

あと、一番の被害者は三船さんだと思います。

三船さんPの方にはお詫びしておきます。

ホラーは当分書かないと思いますが、またそのうち何か書きます。

それではお疲れさまでした。

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