【俺ガイルss 由比ヶ浜結衣誕生日】二人の速度 (115)

注意点

・地の文たくさんあります
・another→去年書いた「雨に咲く花」の延長線上の話ですが読んでなくても平気だと思います
・後半いちゃこら成分マシマシです

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 くぁ、と出そうになる欠伸を噛み[ピーーー]と目尻から涙が滲んだ。

 教壇に立つ白髪混じりの教授の声がいつものごとく子守唄に聞こえる。この講義の受講もじきに二桁を数えようとしているが、初めて受けてからこれまで眠くならなかった試しがない。

 それは当然俺だけに限った話ではなく、首のマッサージを兼ねて右に目を向けると、うつらうつらしている数人の学生たちの姿が映った。声量に乏しく抑揚がなさすぎるのが原因だと思うが、なんとかしようとは思わないんだろうか。思わないんだろうな。だって聞かなくて損するのは俺たち学生だけだし。

 そう思いはするので損をしないように耳を傾けてはみるが、眠い。あまり興味がない内容の講義ということも眠気に拍車をかける。

しまった……
やり直し


 くぁ、と出そうになる欠伸を噛み[ピーーー]と目尻から涙が滲んだ。

 教壇に立つ白髪混じりの教授の声がいつものごとく子守唄に聞こえる。この講義の受講もじきに二桁を数えようとしているが、初めて受けてからこれまで眠くならなかった試しがない。

 それは当然俺だけに限った話ではなく、首のマッサージを兼ねて右に目を向けると、うつらうつらしている数人の学生たちの姿が映った。声量に乏しく抑揚がなさすぎるのが原因だと思うが、なんとかしようとは思わないんだろうか。思わないんだろうな。だって聞かなくて損するのは俺たち学生だけだし。

 そう思いはするので損をしないように耳を傾けてはみるが、眠い。あまり興味がない内容の講義ということも眠気に拍車をかける。

ウワワーまたおかしなことに!
>>5からすたーとです!

ちがう!
>>7から開始!


 くぁ、と出そうになる欠伸を噛み殺すと目尻から涙が滲んだ。

 教壇に立つ白髪混じりの教授の声がいつものごとく子守唄に聞こえる。この講義の受講もじきに二桁を数えようとしているが、初めて受けてからこれまで眠くならなかった試しがない。

 それは当然俺だけに限った話ではなく、首のマッサージを兼ねて右に目を向けると、うつらうつらしている数人の学生たちの姿が映った。声量に乏しく抑揚がなさすぎるのが原因だと思うが、なんとかしようとは思わないんだろうか。思わないんだろうな。だって聞かなくて損するのは俺たち学生だけだし。

 そう思いはするので損をしないように耳を傾けてはみるが、眠い。あまり興味がない内容の講義ということも眠気に拍車をかける。

 なんとなく耳に入ってくるのは西洋古代哲学。あー、うん。知ってる知ってる。無知の知を知れとかでしょ。なんでもは知らないわよ、知ってることだけって名台詞を知らないのかよ。

 くだらない雑念を振り払い、教授の発した重要らしき固有名詞を手元のルーズリーフに書き込む。一部学生はタブレット端末やノートPCを駆使しているようだが、俺はアナログ派のままだった。

 特に不便とは思わない。俺は覚えるなら「書く」という行為が必要と考えているし、講義後に板書の写真を撮るならスマホで事足りるからだ。

 書き終えてから顔を上げようとしたところで、左側からにゅっと細い手が伸びてきた。その手は俺の手元にあるルーズリーフの隅に文字を書き込んでいく。

『ひまー、ねむくなるねー』

 丸っこくて柔らかい、女の子の文字。

 ぼっち時代からの習性で、座席の指定のない大学の講義においても俺は扉からほど近い前列を指定席としていた。そして、俺の左隣を指定席とする奇特な子が一人。

 もう見慣れた可愛い文字に返答をすべく、その文字の横にさっと書き込んだ。

『ちゃんと講義聴きなさいよ』

 うとうとしていた俺が言えたことではないが。

 こうした筆談はほとんどの講義で必ず行われていた。講義後、復習のために見直すと筆談のやりとりも必然目に入るため少しこそばゆくなる。

 次の返答は早かった。

『ヒッキーもねむそうだったじゃん。あくびみてたよー』

 顔に熱が込み上げた。隠そうとした欠伸がバレていたからではなく、彼女が講義中にも俺を見ていたということを意識したからだ。

『ちゃんと前向きなさい』

 身を捩りたくなるようなムズ痒さを堪え、そう書きなぐった。それから、目だけを動かして左にいる人物の顔を見た。

『はぁい』

 その返事は文字ではなく、口の動きで伝えられた。

 注意されたにも関わらずどこか嬉しそうな、由比ヶ浜結衣の笑顔とともに。



 この春、千葉に小さな奇跡が舞い降りた。

 合格発表を見た瞬間は「奇跡だ」なんて思わなかった。ただ、実を結んだ、報われたのだと思った。俺は由比ヶ浜のしてきた努力を目の当たりにしていたから。

 目標ができるとここまで変わるものなのかと思うほど、彼女は素直に、誠実に、真面目に取り組み、一歩一歩着実に学力を上げていった。生来のものなのか朗らかな性格自体は変わりなかったが、知らなかった由比ヶ浜の新たな一面を見て、俺は彼女への好意をまた確かなものにした。

 ただそれでも時間が足りず、合格するかどうかは最後までまったくわからなかった。彼女のスタートラインは俺とは違っていた。自分のせいだからと愚痴を言うことなく受け入れ、気丈に振る舞ってはいたが、俺にできることは気休めの励ましだけだった。

 そして試験を終え、不安な時をやり過ごし、二人で合格発表を見た。俺の番号がまず見つかり、感じたのは落ちたときのことを深く考えないようにしていたがゆえの安堵。

 続き、由比ヶ浜の番号を見つけた。無意識に拳を強く握っていた。自分のことよりも素直に喜びを感じ、先に見ていた自分の合格では微塵も感じなかった涙が溢れた。もちろん由比ヶ浜もくしゃくしゃなになって泣きじゃくっていたのでバレていないと思うが。

 だが今なら言える。由比ヶ浜がこの大学へ合格したのはやはり奇跡だったのだと。

 やればできる子だと信じて疑っていなかったし、事実その通りではあったのだが、試験までに学んだすべては入学後に失われてしまったようだ。あり得ねぇだろ。

 これを要領が良いで片付けてしまっていいものかどうか非常に疑わしい。もはや記憶喪失を疑いたくなるレベル。

 今では俺の知る由比ヶ浜結衣の由比ヶ浜結衣らしさを存分に発揮している。要するにだいぶアホの子である。単位取らないと卒業できないんだぞわかってるのかお前と何度か言ってはいるが、不安だ。

 とまあ、とりあえずは順風満帆に見えないこともない新生活を送っているわけだが、環境や関係が変われば新たな立ち居振る舞いが必要となるわけで。それに伴う問題というか不安というか、俺のヘタレ加減によって新たな悩みを抱えてもいた。

 ただそれは昔に比べたらなんとも贅沢なもので、些事と言われればその通りかもしれない。だが俺にとっては割と切実な問題であり、されど初めて対面する問題の解決法を俺が知っているはずもなく、打開するきっかけを探し求めているのだった。

 話は少し前に遡る。



 立ち止まったり後戻りしたり、長い時間と紆余曲折を経てようやく付き合うことになった、去年の由比ヶ浜の誕生日。

 そこで生まれた大学合格という目標のため、二人とも受験勉強に忙殺されることになった。互いに自制していたと言ってもいい。

 メールや電話でちょいちょいそれらしい雰囲気になったことはあれど、実際に会ってやったことと言えば一緒に勉強をしてたまに手が触れて恥ずかしがった程度。あとは合格発表時に勢い余って抱き合ったぐらいですかね……。ちなみに感触は何一つ覚えていない。

 その間、由比ヶ浜は由比ヶ浜でスイッチが切り替わったように真面目に勉強に取り組んでいて、恋人らしい振る舞いや素振りはおくびにも出さなかった。

 それだけしないといけないほど切羽詰まった状態でのスタートだったので疑問には思わなかったが、今にして思えば見知った人間ばかりの総武高校で、俺たちとは切り離すことのできない奉仕部がまだあったというのも影響していたのかもしれない。

 とにかく、恋人となってから一般的な恋人付き合い、触れ合い的なものが何もないま季節を越えてきた。なんなら付き合う前のほうがまだ接触があったんじゃないかと思うほどに。

 その辺で悶々としたことがないと言えば嘘になるが、そこそこ満足してもいた。目を逸らすことは得意だし、二人で同じ目標に向けて並び歩けているという実感があったからだ。いくら不甲斐ない俺でも、いつかは自然と、という根拠のない楽観もあった。

 その後、合格祝いとこれまでの発散を兼ねて二人で遊びに出掛けた帰り道。いつかにも見たオレンジを思い出してしまうくらい夕焼けが鮮やかで眩しかった。

「四月からもまた一緒だね」

「そうだな」

 素っ気ない返答をしてはみたが、目標らしい目標に向かって努力をしたのは俺自身もだったのでそれなりの充足感があった。あんな時期から数学をやり直すのは本当に骨が折れた。由比ヶ浜はもっと、なのだろう。

「大学かー、高校とはいろいろ違うんだろうなー。あのさ、何か部活、やるの?」

 由比ヶ浜は"何か"と付けてはいたが、ここで訊かれていることは一つしかない。

「……やらねぇだろ、もう。平塚先生もいねぇし。……雪ノ下も」

「……うん」

 奉仕部は俺たちの卒業によって廃部となった。役目を終えた、と平塚先生は紫煙を吐き出しながら呟いた。

 この言葉を素直に受けとるなら、俺は、俺たちは"更生"できたのだろう。変わってしまった、変えられたと言うべきか。

 平塚先生は最後に、この部に君達を入れてよかった、この部を作ってよかったと話した。部員の三人はそれを聞き、少しだけ戸惑ったような笑顔を浮かべた。同時に、何かをやり終えたような開放感と満足感も読み取れる表情だった。

 俺自身の心境の変化ももちろんあった。だが俺の変化はつまるところ人付き合いの姿勢、つまり雪ノ下と、由比ヶ浜との関係に集約される。

 ぼっちを自負していた俺が、人との関係なしに生きてはいけないさことを自覚し、自他の想いを認め、求めた。考えて考え抜いて、一つの答えを出した。

 そしてその結果が、由比ヶ浜と並び歩くこの時間に繋がっていた。

「あ、じゃあさ、普通のサークルとかは?」

「サークルなぁ……。なんかどこ言ってもウェイウェイ言ってそうだし、あんま興味はねぇかな……」

「いや、どこもそんなノリなわけじゃないと思うけど……」

「お前は? なんか興味あるサークルとかねぇの?」

 おもえば、この時まで大学での新生活に想いを馳せるような会話はしてこなかった。最後の最後まで合格するかわからなかったから、いたずらに期待するのは互いに避けようとしていたのだろう。

 由比ヶ浜はほんの少しだけ考える素振りを見せたが、やがてはっきりとした口調で話し始めた。

「……んー、別にいいかな、あたしも。やりたいこと、他にあるし」

「ほーん。何したいの? バイト?」

「あ、うん。バイトもそのうちやると思うけど……」

 由比ヶ浜がバイトか……。なんのバイトだろう。一度メイドの格好見たことあるけど可愛かったな。正直なところあんなバイトはしてほしくないが、そんなことを言うのは束縛になって嫌がられたりしないだろうか。ていうか、俺もなんかしなきゃ金ねぇからなー……。

 バイトという一言で様々な想像を繰り広げていると、由比ヶ浜が「けど」の続きを恥ずかしそうに囁いた。

「サークルとかに時間使うよりさ、……ヒッキーと一緒の時間、増やしたいかな」

 言い終えて、由比ヶ浜ははにかんだように笑った。

 俺は「そ、そうか……」とだけ返すのが精一杯だった。ニヤつこうとする表情筋を抑えるのに苦労していると、彼女は俺の服の裾を掴んで立ち止まった。

「もう、我慢しなくてもいいんだよね……?」

 頬は夕焼けと似た色で染まっていた。

 由比ヶ浜は一度俯き、僅かな間をおいて潤んだ瞳と上目遣いを見せた。艶のある吐息と絞り出したようにも聞こえた掠れ声は、抑えつけてきたものの大きさを表しているような気がして、

「お、おぉ……。そうなる、な……」

 おもわず息を呑んだ。

 ここでの我慢にはおそらく二種類ある。男と女のそれでは違うもの。単純に二分するなら、肉欲的なものと精神的なもの。

 由比ヶ浜のしてきた我慢。彼女の場合、どっちだ。この言葉の意味するところは───と、思考の答えが出ぬ間に、由比ヶ浜は何も言わず瞳を閉じていた。

 強く心臓が跳ねた。

 あれか。これは。知ってるぞ。確か純愛もののエロゲーで見た。そう、なんだよな。

 もう一歩、踏み込んでいいよ。そう言われている気がした。

 ひとまずは物理的にもう一歩近づこうとしたものの、意思に反して脚が上がらず、にじり寄るように前に進んだ。その分だけ由比ヶ浜の顔が近づいた。

 俺より一回り背の低い彼女の顔がすぐ傍にあった。

 睫毛、長いな。そういえば今日はいつもよりも気持ち化粧がはっきりしている気がする。もうすぐ大学生になるし、そういうもんなのかな。ああ、これは気づいたら言ったほうがいいもんなのかな。

 さあっと柔らかな風が由比ヶ浜の髪を撫で、揺らす。どこに樹があるのか、風の中に淡い光のような桜の花びらが舞っていた。

 目に映る範囲に人は由比ヶ浜しかいないことを確認し、もう一度息を呑んだ。

 そして、目の前の女の子の肩を抱こうと手を伸ばしたところで───無機質な着信音が鳴り響き、由比ヶ浜が飛び起きるように眼を開いた。

 気まずそうな表情を浮かべた由比ヶ浜と目が合った。

「えっ、えっと……」

 俺は中途半端な体勢で変に力が入り腕がつりそうになっていたが、なんとか口を動かすことができた。

「……で、出ていいぞ」

「……え? あ、うん、ごめん……。もしもし?」

 失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した。

 もしかしてこれ以上にないタイミングを逃したのではないかという後悔が襲う。

 そんなに長い時間ではなかった、と思う。思うが、感覚が曖昧でよくわからない。下手したら一分ぐらいそうしていたとしてもおかしくない。とにかく、いろいろ考えてモタモタしていた俺がまずかったのは間違いない。

「……醤油? 薄口? 買ってきて? ……あのねぇ! デートに出てる娘をあんまり実用的に使わないでもらえる!? あーもう、わかったよ買ってくるよ……はいはい、じゃあねー」

 話す内容でわかってしまったが、由比ヶ浜ママらしい。……どこかで見て邪魔しようとしてるわけじゃないよね。違うよね。

「ママからだった……。なんか、ごめん……」

「あ、いや、問題ない」

 何がだ。問題あるよ。

「………………」

 どうしよう気まずい。

 二人で俯いて立ち止まっていても仕方ない。モタモタしていたさっきの失敗を取り戻すべく、何かしなくちゃと手を伸ばすと、

「……っ!」

 由比ヶ浜の手に触れた瞬間、弾けたように彼女の手が逃げていった。熱いものに触れたように、同極の磁石が反発し合うように。

「ご、ごめ……。……ごめん! ヒッキー! また連絡する!」

 顔を真っ赤にした由比ヶ浜はそのまま走り去っていった。

 取り残されてしまった腕がつりそうな目付きの悪い男は考えた。

 …………あれ? 俺、振られた? いや、えぇ……?

 わけがわからなくなり、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

「うわ比企谷菌! バッチぃ! 比企谷きーん!」

 目には見えぬバリアを張られた過去の苦い記憶がフラッシュバックする中、とぼとぼとした足取りで家に帰ったら小町が「うわ何その卑屈な顔……」と心温まる言葉で迎えてくれた。温かすぎて泣けてくるぜ。

 少なくはないショックを受けた俺の顔がそんな風に映るなんて、この世界は俺に優しくない。それとも俺の顔が世界に優しくないのかな? あ、これ傷つくわー。

 その後、『長いことそういう、あれ、なかったから。なんか意識したらスゴい恥ずかしくなっちゃってね? つい反射的に……。ごめんねヒッキー』とメールが来た。

 とりあえず振られたわけではなさそうだったのでひとまずは胸を撫で下ろした。

 それから入学に備えてお互いにバタバタしたことでなかなか会えなくなり、次に会ったときにはいつも通りの由比ヶ浜だったので話を蒸し返すこともできず、結局真意は有耶無耶になってしまった。

 ただこれ以降、身体的な接触は一切ない。


* * *



「ヒッキー今日お昼どこで食べるー?」

 半ば睡眠学習になりかけていた講義を終え、手荷物を片しているといつもの質問が飛んできた。

 先に席を立って俺を待つ由比ヶ浜の表情は普段と変わらない。相変わらず童顔ではあるものの、化粧の感じと伸ばし始めた髪のせいか少し大人っぽくなった印象だ。

「あー、午後からの講義室行くか。あそこ飲食オッケーだし、まだ誰もいねぇだろ」

「そだね、そうしよっか」

 速やかに話がまとまると、爽やかで涼しげな私服の由比ヶ浜と一緒に次の場所へ向かう。

 ここではクラスという単位がなく知っていると呼べるほどの人間がまだそう多くないこともあり、妙な卑屈感や気恥ずかしさはもうない。

 四月に入学してから二ヶ月と少し、平日のほぼ毎日を同じように過ごしているうちに慣れてしまったのもある。

 学内ではほとんどこうして二人で行動をともにしているため、わざわざ言ってまわらなくとも周囲からは完全に「あの二人は付き合っている」という認識をされているようだ。

 そのせいか、俺はともかくとして由比ヶ浜にちょっかいをかけてくる男はあまりいない。どう見てもそこそこ目立つ部類の可愛さであるにも関わらず、だ。多少の贔屓目があるのは否定しない。

 由比ヶ浜はそんな中でも器用に同性の友人を作り、たまに遊んだりもしているようだ。俺はといえば相変わらず友達はいない。戸塚もいないし別にいらない。

 しかし由比ヶ浜がいるのでなんとかぼっちは避けられている。これまでとの違いはそのぐらいだろうか。

「今日はねー、自信あるよ!」

 たたっと数歩前に出た由比ヶ浜が振り返り、ドヤ顔のお手本のような顔を見せつける。頭のお団子も元気に弾んだように見えた。

「どっからその自信出てくんだよ……」

 同じように過ごす日々の中には、由比ヶ浜の提案で始まったお手製の弁当試食会も含まれていた。

 練習したいから付き合ってくれ、という言い方ではあったが、曲がりなりにも恋人からのお弁当である。由比ヶ浜の自作という失礼極まりない不安はあれど断る理由はどこにもなかった。

 そりゃあこんなの、どこからどう見てもバカップルである。以前のぼっちのままの俺がこんな二人を見たら、はいはいヤりまくってんだろ死ねよと密かに悪態をつくか死んだ魚の目で傍観していたに違いない。

 実にストレートで不躾な同学部の男(名前は知らない)や大学で新たに出来た由比ヶ浜の友人から「いつも仲いいね、羨ましい」的なことを言われたりもするが、俺もそれにわざわざ反論しないし、しようとも思わない。実際それなりに順調ではあるし、傍目にはそう映るだろうという自覚もある。

 けれど、おそらく周囲からではわからない困った悩みは胸の内に消えず残ったままだった。

 俺も由比ヶ浜もそんなモヤモヤを表面には出さず、かといっていつぞやのように本音を覆い隠してうわべの関係を続けているような不協和音があるわけでもない。

 希望的観測を含んだ推測だが、根っこのところは通じ合っていると互いに信じているからだろうと思う。

「今日は変なもん入れてないだろうな」

 だいたいはおとなしく普通においしいものや味付けの方向性が少し斜めったものが出てくるだけなので問題ないのだが、たまに独創的としか言えない由比ヶ浜料理が入っているから困りものだ。

「入れて……ない! と思う。たぶん……」

「なんでそこがたぶんなんだよ……」

 急に自信をなくした由比ヶ浜が眉をひそめる。

「あたしは変だと思ってないというか……。おいしかったから入れたんだけど、ヒッキーの口に合うかと言われると……」

「ちなみに何を入れたんだ」

「えと、卵焼きにー、カニかまとチーズと、明太子を入れてみたんだけども……」

 ……なんだ、一応普通の範疇じゃないか。

「……おそるおそる言うからもっと変なもんかと思ったわ。果物とか」

「あはは、さすがにそんなことはしないよー」

「しかねんから言ってんだけどな……。まあ、それなら大丈夫じゃねぇの。でも混ぜるなら二つまでにしとけ、欲張るから失敗すんだよ、お前は」

 由比ヶ浜の失敗の傾向として、『俺の好きなものや美味しいものを強引に混ぜようとしておかしなことになる』というのがある。気持ちは物凄くありがたいし嬉しいのだが、マッ缶はそうそう料理には混ざらないと自分で気づいてほしかった。

「そ、そうだね、反省……。でもこれ、家でやったときはおいしかったからさ、まあ食べてみてよ」

「おお、もちろん」

 いろいろ言っても由比ヶ浜の作ってくれるものならなんでも食うんだけどな。

 と思ったところで、いつの間にやらわざわざ家で試作をしてから俺に振る舞っているということに気付かされた。

 面倒だろうに、と申し訳なく思いかけた。でもそれと同時に思い浮かべた、試作をしている由比ヶ浜の表情は、俺に都合のよすぎる妄想だけども、辛そうなものではなかった。真剣で、なおかつ楽しそうでもあって。

「……あのな」

 前に向き直り歩み始めた由比ヶ浜を呼び止めた。

「ん?」

 俺の数歩前で、首を傾げながら由比ヶ浜が振り向いた。真っ直ぐで純粋なその視線を逸らさず受け止める。

 いい加減、踏み出さないとな。今度こそ、俺から。

「今月の18日だけど。予定、空いてるか?」

「あ、空いてるというか、空けてるというか……。ヒッキー、その日なんの日か知ってる系?」

 なんでそんな意外そうなんだよ。

 俺、まだ信用されてねぇんだなとは思えど、由比ヶ浜の反応に悲観はしない。否、してはならない。落胆していいのは自分から動こうとしてこなかった自分自身にだけだ。

「知ってる系。……去年と同じようになんか選んでくれるか」

 今年も自分で探しはしてみたが、結局頓挫した。

 もう付き合ってるわけだし、流れで手に触れることもできるかもだし、そろそろ(そこまで高くない)指輪なんかでも……と考え物色してみようとはしたものの、指のサイズに見当がつかなかった。

 たぶん小町よりは大きいけど母ちゃんほどじゃないはずとか、そんなあて推量をしたところで実際に合わなかったら無駄骨もいいとこだ。俺はそれを気にしないでいられるほど富豪ではない。

「わぁ……。嬉しい、覚えててくれたんだ」

「当たり前だ。その、あれだよ。あー、言葉にすんのもあれだけど……。あれあれ言い過ぎだな。えーと、一応だな、付き合ってから一周年、ってことにもなるわけだし……。忘れるわけねぇだろ」

 俺のリア充になりきれない何かが素直に言葉にすることに抵抗していたが、これは負い目からだろうと悟った。受験があったとはいえ、一年も経ったのに関係性にさほど進展がないことを自責している。

「えへへ、記念日かぁ。そっか、そうだね。もうあれから一年になるんだねぇ……」

 由比ヶ浜は嬉しそうな笑顔を見せたかと思えば、今度はしみじみと視線を遠くに向ける。遠景の向こうに思い描いている彼女の一年はどんなものなのだろう。

 この一年間で"上の大学を目指し二人揃って合格する"という大目標は達成することができた。しかし、恋人らしいそれやこれなんかはまるで何もできていない。草食系どころか断食系。よく生きていられますね……。

「……ヒッキーってさ、マメっていうか、優しいよね」

「は? なんでそうなんの?」

 急に覚えのないことで褒められるとついこんな反応になる。

「よく聞くじゃん、男の人は記念日を大事にしてくれないとか、覚えてないとか」

「あー、そうだけどまあこのぐらいは……」

 考えてみれば、俺がこういうイベントを忘れないのは、動くためのきっかけを探しているからかもしれない。動くための理由を無理に探すことはなくなってきたが、きっかけがないとなかなか動けないのは今も変わらない。

 そう、俺はこの日をきっかけにして断食に終止符を打つつもりだった。

 唐突に以下回想。



「お兄ちゃんお兄ちゃん」

「あん?」

「18日だけど、うち居る?」

「18か……。あー、外出てるかも。どうかしたか?」

「小町の情報によると、その日うちには誰もいないらしいよ。夜までみんな帰ってこないんだって」

「……へぇ。って、それがどうした。聞いてないんだけど」

「うん。言ってみただけ」

「……あっそう」

「うん。叫び声をあげても誰の耳にも届かないような密室になるらしいよ」

「ならねぇだろ、いつからうちはミステリーに出るような陸の孤島になったんだ。電話線切られたりすんの?」

「さあ。とにかく伝えたから。どうするかはお兄ちゃん次第だよ」

「……どうもしねぇよ」

 以上、回想終わり。

 去年もだったがまんまと乗せられてどうかしようとしてしまう、このお兄ちゃんとかいう人物は結構可愛い気がする。やだ俺だった。

「……先言っとくけど。その日うち誰もいねぇからさ、うちに来て……もらえませんかね……。お前がよかったら、だけど……」

 しかし我ながらキモい話し方である。由比ヶ浜のことだからキョドりすぎとかって笑っ……。

「え、あ、う……。はぃ……、おじゃ、お邪魔します……」

 ……てないな。なんなら俺より挙動不審。なんだこれ。

「……嫌なの?」

「い、嫌なわけないっ。け、けど……。……いや、大丈夫。がんばる」

「別にそんな固くなるようなことじゃねぇだろ……。素直に祝われてくれりゃいいよ」

「う、うん……」

 と言ってはみるものの、この状態を少しでも変えられればという思いはもちろんある。

 理由は判然としないが、これに関して由比ヶ浜からは来てくれない。それはなんとなくわかった。

 だから、待ってても仕方ない人は待たない、こっちから行くのの精神で何度か強引に手を繋ぎにいこうとしたことはある。

 しかし、あのときみたいに拒絶されるかもと思うと怖くて動けなかった。本当に糞みたいなメンタルである。

 が、俺にだって人並の欲も、今では意地だってある。もうトラウマなんかにしてやるつもりはない。

「そういや去年渡した傘ってまだ健在?」

 気がつけばなんか由比ヶ浜がぽーっと上の空っぽいので話題を変えてみた。

「ん、うん。もちろん。ホラ」

 由比ヶ浜はそう言うと、鞄をくぱぁと開き鮮やかな色の折り畳み傘を指してみせた。

「……大事にしてもらえて、何より」

 いつも持ち歩いてらっしゃるようで。照れるだろ。

「雨の日には大活躍してるよー。そういえば今年は梅雨なのに雨あんま降らないね」

「そうだな」

 見上げれば今日も雲一つない快晴だ。

 奉仕部に入らず由比ヶ浜とこうなっていないまま大学生になっていたとして、その俺が見上げる空は今見ている色と同じだったんだろうか。ふとそんなことを考えた。

 ぼっちのままであっても、俺はそれなりに誤魔化しながら生きていけたのだろうと思う。考えるべきことから目を背け、そのことからすら目を逸らしていただろうから、悩むことは今のほうがずっと多い。

 面倒だよ、確かに。めんどくせぇよ。人間関係って。

 けどこれは俺が考えて望んだことだ。だから、どんな解答や結末が待っているのだとしても虚偽も欺瞞も猜疑もなく、ちゃんと向き合って続けていこうと思う。それが俺なりの彼女への誠意だ。

「行こっか。お腹すいちゃったよ」

「おお、人が来る前に飯済ませよう」

 歩きかけてまた立ち止まった。もう少し。

「ついでってわけじゃねぇけど……。あんま、面と向かってちゃんと言ったことないから言っとく。いつも、ありがとな」

 たびたび作ってくれる弁当のことだけではなく俺が今こうしていられることすべてに対してだから、あえて余計な言葉は何もつけなかった。

「……え? あ、うん! どういたしまして。でもほんとにいいんだよー、このぐらい。ってかさ、あたしが好きで作って食べてもらってるんだから、あたしこそありがとだよ」

 こういう奴なんだよな、由比ヶ浜は。だから、なのかな。俺がこれほど好きになれたのは。

「……まあ、それでも助かってる」

 俺の言葉を弁当の礼と受け取られたことは気にしなかった。今はまだそれでいい。こんな曖昧な言葉で全部が伝わるなんて思っちゃいないし、なかなか前に進めない俺が許されるとも思っていないから。

「そっか、それならよかった」

 望外の発言だったのか、由比ヶ浜は照れ臭そうに笑った。

 俺は一足先に歩き始め、追い越し、すれ違いざま「今のうちから慣れといたほうがよさそうだしな」と呟いた。

 一年前の俺ではとても言えなかったような台詞だ。無責任でもある。けれど今では本気でそう考えているのも確かだ。そうじゃなきゃ、俺があんなに必死に勉強していい大学を目指すなんてことできていない。

 来るべき日に向け少しずつでも想いを吐き出し、言葉にする練習をしておかねばと前々から考えてはいたから、まあ、幸い周りには誰もいないし? いいんじゃないかな。冗談っぽく、このぐらいなら。

「……え、えっ? ちょっ、ヒッキー、どど、どういうこと!?」

 背後で立ち止まったままの、彼女の顔を思い浮かべる。

 俺はもう、馬鹿にしたような顔をしているかもなんて想像はしない。俺と同じ大学がいいという理由だけであれだけの努力ができる彼女の想いを、俺はもう疑いはしない。

 自分の吐いた台詞に胸焼けがして変な顔をしていそうだったから、追い付かれないよう早足で次の講義室へ向かった。


* * *

今日はここまで
続きは当日に



 その日も快晴で、雨が降るような気配は微塵もなかった。

「やっはろー、ヒッキー」

 時間通りに待ち合わせ場所に来ると、大学で見たことのない服を着た由比ヶ浜が胸の前で小さく手を振っていた。どんだけいろいろ服持ってるんだろうか。

 大学で見るときは6:4ぐらいの割合でパンツ:スカートなのだが、今日は後者のほうだ。なおパンツ↓ではなくパンツ↑である。たぶんこの説明いらない。

 どちらかと言うと快活でカジュアルな印象の格好が多い由比ヶ浜だが、今日はおとなしめで清涼感がある。

 そして服装以外にも出で立ちには大きな変化が一点。気がつかないわけはないが、これにノータッチはあまりよろしくない。具体的に言ったほうがいいやつだこれと瞬時に判断し言葉を探した。

「おす。……着けてきたんだな、それ」

 ピンクがかった茶髪はいつものお団子ではなくアップに纏め上げられ、青いシュシュが頭の上で揺れていた。

「あ、うん……。変じゃ、ないかな」

 由比ヶ浜はあくまで控えめに、左右に身を捩るように姿を見せつける。ふわっとはためくスカートの裾に加えて、普段は見えない絹のような白いうなじが眩しい。目のやり場に困るけど目が離せない不思議。

「あー、うん。似合ってる。と思う。可愛い……んじゃないですかね……」

 末尾に向かうごとに声が小さくなるナチュラルデクレッシェンド。由比ヶ浜の耳に最後まで届いたか非常に怪しい。

「あ、ありがと。ヒッキーも、か、カッコいいよ……」

 由比ヶ浜もナチュラルにデクレッシェンドを身に付けたらしい。喧騒に紛れてよく聞こえなかったので続きを待つも、それきり会話は途切れてしまった。

 沈黙はセガールに任せて俺たちは前に進むことにする。

「なんか考えてきたか?」

「え? 何を?」

 なぜそこでキョトンとするんだ。何しに来たか忘れたの?

「何をって、誕生日プレゼント。欲しいもの」

「あ、いや、ごめん。それどころじゃなかった……」

 それどころじゃないって、なにどころだったんですかね……。

「……まあいいや。適当に店回りながら探すか」

「う、うん」

 先立って歩き始めると由比ヶ浜は俺の斜め後ろをついてきた。こんなときは由比ヶ浜のほうから手を繋ぎにくるような、気が、するのだが……。

 …………やはり待てどもそれはないようだ。べ、別に寂しくないんだからねっ。

「さて、どうするかね」

 駅前から中央の歓楽街へ向かってはいるがまったくのノープランだ。とりあえず行けばなんとかなった千葉人にとってのファッションの聖地、千葉パルコは昨年無情にも閉店してしまった。5月にしてマリーンズの自力優勝が消滅してしまうぐらいに悲しい。

「あのさ、ヒッキーなんか考えてくれてたりとかー、しない? 去年も考えてはみたって言ってたよね」

「あー、一応考えはしたな。諦めたからこうしてるんだけど」

「ちなみにそれ、なんだった?」

「えー、あー、指輪、とか……。サイズわかんねぇから……」

 なんでこんなに答えにくいのか自分でもよくわからない。俺には似合わない自意識過剰気味のチョイスだという自覚があるからだろうか。変な汗が出そうだ。

「……それは、その、けけ、結婚指輪、的な?」

 さらに変なことを言って変な汗をかいてそうな奴がいた。落ち着いて受け流す。

「ちげぇよ。そんなの買えるか」

「だ、だよね、ビックリした……」

「そもそも順番で言えば婚約指輪が先だろ」

「え、じゃあそれ……?」

 何を言ってるのこの子は。

「ち、ちげぇっつの……。だからそんな金ねぇって」

 いや金の問題じゃねぇだろ婚約もしてねぇよ。いかん俺までおかしくなってる。落ち着いて素数を数えろ。

「指輪にもいろいろあんだからよ、十把一絡げにすんのやめろ」

「え? なんて? ジッパーヒトカラ? デニーズ?」

 由比ヶ浜は首を傾げ頭にクエスチョンマークを浮かべた。

「すまん俺が悪かった」

 ガハマさんには難しすぎたかー。いや文系だろがお前。ブチャラティさんはヒトカラにもデニーズにも行かねぇよ。

 受験中の由比ヶ浜はやはりもういないんだなと思うと少し悲しくなってきちゃったよ。

「なんかバカにされてる気がする……」

「いやいや、よく知ってるお前が帰ってきてくれて嬉しいよ」

「全然嬉しくなさそうだ!?」

 ジッパーヒトカラデニーズの適当な説明を済ませ、折れた話を元に戻した。

「考えてたのは特別なあれじゃなくて、その、ただのアクセサリーだよ。ピンキーリングとかそういうやつ」

「あー、なるほど。……それじゃダメ?」

 ようやく得心のいった由比ヶ浜が唐突に言った。

「へ?」

「指輪がいいな。もちろん高いのなんて選ばないから」

「いや、そりゃ一度考えたぐらいだし俺はいいけど……。ほんとにいいのか?」

「うん。指輪が誕生日プレゼントとか、超嬉しい」

 由比ヶ浜は心底幸せそうに笑った。

 そんな顔を見せられて断れるはずがない。まぁ見られなくても断らないけど、見れて少し得した気分だ。

「……そっか。なら店探すか」

「うんっ」

 元気のいい返事は、乾いた千葉の青空を抜けていった。


* * *



 ハンドルを握る右手が無性に気になる。

 何もないはずの場所に突如タコができたような異物感というかなんというか。これ自体はタコのように嫌なものじゃなくて嬉しいものなのだが、誰に見られているわけでもないのに恥ずかしくなる。俺には似合っていない気がしてならない。

「…………」

 そして無性に気になるのがもう一つ。自転車の荷台に乗っている物言わぬ荷物、もとい人物のことである。

 いろいろあったもののなんとか誕生日プレゼントとケーキを買い終え、予定通り家路に就いている。だが、俺ん家が近付くにつれ由比ヶ浜は口数を減らし始め、話しかけても完全に上の空。

 前うちに来てもらったときも緊張してたみたいだけど、ここまで酷くはなかったように思うんだが……。

 ぽーっとしているだけで同行を拒むような素振りはないので当初の予定通りに進行しているが、なんか不安だ。この様子では由比ヶ浜の助けはあまり期待できなさそうである。

 いや、違う。今日はちゃんと"俺から"誘ったのだ。だから助けを期待するのは筋が違う。"俺から"ということに意味があるというか、意味を見出だしている。

「……元気?」

 俺の体のどこにも触れず、器用に荷台に座る由比ヶ浜に声をかけてみた。

「げ、元気。ちょっと心臓が爆発しそうなだけ」

 それ全然元気じゃなさそうなんですけど。

「ほんとに大丈夫か? しんどいなら……」

「平気。大丈夫」

 俺の言葉にかぶせるように即答する。様子に反して意思は固いようだ。なんか俺も緊張してきたな……。

「……わかった。ま、落ち着くまでのんびりするか」

「あ、ありがと……」

 由比ヶ浜の足側へ微妙に偏った体重に気を遣いながら無心で漕ぎ続け、家が見えたあたりでゆっくりとブレーキをかけた。

 由比ヶ浜は荷台からぴょんと飛び降りると、俺の家をまるで巨大な城であるかのように見上げている。

「そんな珍しい家でもねぇだろ」

「あ、一軒家っていいなーって思って。うちマンションだからさー、お隣さんにどうしても音とか気遣うし」

「……うちもお隣さんはいるから気を遣わなくていいわけじゃないぞ。ま、それでもマンションほどじゃないだろうけど」

 うちは連絡不可能な陸の孤島でも密室でもないからな。

「だ、大丈夫。そこまでではないと思う……たぶん」

 自転車を停めに一人で裏に回る途中、ボソボソとした声が聞こえたような気がした。

 誰もいない家の鍵を開け由比ヶ浜を招き入れた。

「そんな快適な家でもねぇけど」

「お、お邪魔しまーす……」

 由比ヶ浜は玄関に座り、高くないヒールのついたパンプスを脱ぐ。限りなく肌色に近いストッキングを穿いた太ももが艶かしい。目線がバレないように横を通り抜けリビングに向かった。

「んー、どうする? ケーキもう食う?」

 見れば時計は15時を指している。良い子の小学生ならおやつの時間だ。

「あ、えーと、今はいいかなぁ。まだお腹あんまり……」

「んじゃ冷やしとくな」

 冷蔵庫にケーキの箱を入れると、これから何をしていいのかわからなくなった。由比ヶ浜も所在なさげに立ったままだ。

 そもそも誕生日祝いとお題目を掲げてはいるが、毎度のことながら何をしてよいかさっぱりわからない。祝うにしてもやはりケーキのタイミングがベストかと思うのだが、それは後回しになってしまった。

 こんなことなら一緒に見られる映画でも借りてくるべきだったのだろうが後の祭りである。

「…………俺の部屋、行くか?」

 特に深い意味はなかった。

 世の恋人たちなら部屋で「アルバム見たーい♪」とか言ってるのではないかとも思ったが、俺の孤独な過去を知る由比ヶ浜がそれを望むだろうか。見たら悲しくなって空気が重くなること請け合い。ただの地雷じゃねぇか。

「えっ、もう?」

 もうってなんだ。ここに用があるのか。

「いや別にここでもいいけど」

「ええっ、いや、ここはちょっと……」

 えー。なんなの帰りたいの?

「んじゃ部屋行くか……」

「あ、はい……」

 なんだこの会話。上滑りしている感凄すぎだろ。摩擦ゼロか。

 とりあえずで俺の部屋へ向かうと由比ヶ浜は三歩後ろをとことこついてきた。やだ慎ましい。

「適当に座っていいよ」

 部屋に入った由比ヶ浜はキョロキョロと目線を彷徨わせ、選んだ場所は床だった。

「いや、ベッド使っていいぞ」

 言いながら俺は机の傍の椅子に座った。由比ヶ浜はベッドの端にちょこんと腰掛ける。

 これから何をするにも、まずは由比ヶ浜の緊張を解かねば話にならない。だからさっき思い付いたことを適当に話すことにした。コミュニケーションの基本は会話だ。一番苦手だけど。いやよく考えたら人付き合いが割と苦手だった。

「なぁ、今じゃなくて夏とか、もうちょい先の話なんだけど」

「うん?」

「車の免許取りに行かねぇ?」

 自転車を漕いでいる途中にふと思い立った。去年は受験でそれどころではなかったが、俺ももう取れる年齢になっている。

「あー、それあたしも思った。取りに行くんなら今のうちなのかなって。学年あがると忙しくなるかもだし」

「だろ。持っといて困るもんでもねぇしな」

「うんうん、行こう行こう」

 由比ヶ浜はノリよく頷いた。

「なに。そんなに欲しかったの?」

「そりゃあねー、車だといろんなとこ行きやすくなるじゃん。ヒッキーともっと、いろんなとこ行ってみたいし」

「ほーん……。たとえば?」

 大都会千葉の発達した公共交通網であれば行けない場所などないような気がしてくる。いやさすがに千葉村なんかは厳しいか。でも千葉村は別に行きたくねぇな。

「……ヒミツ」

 なぜそこで頬を赤らめる。どこ行く気だよ。

 微妙に生まれた間を埋めようと、背もたれを倒して伸びをすると右手が机の電気スタンドにぶつかりカツッと乾いた音を立てた。思いつくままに話を変える。

「しかし……、これでよかったのか?」

 右手の薬指に嵌まった見慣れないそれをしげしげと眺めてみる。違和感しかねぇ。

 なぜ右手につけているのかというと、「左手の薬指は別のにとっとくから、右ね」と言う由比ヶ浜に倣っただけのことだ。まぁ何が言いたいかぐらいは俺にもわかるけど、愚痴りたくなるぐらいには恥ずかしいので勘弁してほしい。

「ん? なんの話?」

「や、これ。指輪。これじゃペアリングには見えん気がするんだが」

「うん、それでいいの。それでもペアだよ」

 由比ヶ浜も右手の甲を俺に見えるように掲げる。同じ薬指に嵌まった指輪が反射して光を放った。



 由比ヶ浜にあげた指輪は俺が選んだ。というか、去年と同じように選ばされた。

 全然わかんねぇよと思いながら値段とデザインを見比べている間、傍にいた店員から「冷やかしだろこいつ……」みたいな目線を感じなかったのは間違いなく由比ヶ浜がいたお陰だろう。一人なら泣いて逃げ帰ってた絶対。

 そして非常に申し訳なく思いながら手に届く値段のものを一つ選択した。女の子らしい薄く細い作りで、中央部に僅かに窪んだラインが一本通っただけのシンプルなデザインだが、淡いローズピンクに煌めいていた。

 由比ヶ浜は大層満足したようで、俺は今回も選択を間違わなかったことに胸を撫で下ろした。

 予想外だったのはその後だ。店を出た直後、由比ヶ浜は何かを思い出したかのように立ち止まり、「ちょっと待ってて」と言い残して店内に踵を返した。

 はて、何か忘れてきたかなと待つこと数分。出てきた由比ヶ浜は俺の渡したものとは別の袋を手に持っていた。



「つってもな、色も形も全然ちげぇし」

 俺の渡したものはそもそも何かとペアにはなっておらず単独で売られていた。つまり完全に別々の指輪を購入し、ペアリングにしようよと言って渡してきたのだ。

 俺のもらった指輪は装飾のないシルバーリングで、輪が捻れて鈍く光っている。

 指輪の良し悪しというのはよくわからないが、俺がつけていても派手すぎることはなく嫌な印象はない。欲しい指輪を一つ選べ、と言われたらこんなのを選ぶような気もする。

 ただ、由比ヶ浜の真っ直ぐな可愛らしいデザインとは似ても似つかないものだ。

 どうにも腑に落ちないでいる俺に、由比ヶ浜が答えをくれた。

「似てないとペアにならない、なんてことないでしょ?」

「……なるほど。それもそうだな」

 俺と由比ヶ浜は歩幅も、考え方も、性格も違う。

 だけど、それでいいんだと由比ヶ浜は言っている。同じになる必要などないと。

「けどこれはあれか。俺の性格が捻くれてるっていう高度な皮肉か?」

 俺の指輪は見事にねじくれ、もう一方は真っ直ぐ。

「……あー、その発想はなかった。でも、そうだね。ヒッキーにはちょうどいいかもね」

 由比ヶ浜はそう言うと、楽しそうに笑った。

「……言うじゃねぇか」

 違うからすれ違う。噛み合わなくなる。歩幅がずれる。

 でも、違うからこそ手を繋げる。二人で歩ける。だから、それでいいんだよな。

 想いが募り、どうしようもなく、目の前にいる彼女に伝えたくなった。触れたくなった。

 だから他のことは何も考えず、唐突に口走った。

「……好きだ」

「……えぇっ!? な、ななっ、何っ、いきなりっ」

「いや、どうしたらいいのかよくわかんねぇんだよ。だから思ったことを言った」

 由比ヶ浜は動揺して狼狽えていたが、両手を膝の上で握り姿勢を正すと、

「え、あ、はい……。あたしも……好き、だよ」

 律儀に答えを返してくれた。

 もう止める気もなかった。坂道を転がり落ちるように、惰性で想いを吐き出し続けた。

「俺は、お前に触れたい。手を繋いだり、抱き締めたりもしたい」

「え、え」

「き、キスもしたいし……。もっと、いろいろ、恋人らしいことを由比ヶ浜としたいと思ってる。お、お前はどうなんだ」

 気の利いた言い回しも、雰囲気作りも、何もかもできないまま愚直に言葉をぶつける。不器用を通り越したただの愚者だ。

「えと、んとね、ちょっと、ちょっと待って……。ドキドキしすぎて、言葉が……」

「お、おぉ……」

 とりあえず引かれてはいないらしいから、おとなしく待つことにした。

 由比ヶ浜は耳まで真っ赤になってスーハーと深呼吸をしている。見ることはできないが、おそらく俺も同じような色をしているはずだ。

 やがて由比ヶ浜は落ち着きを取り戻し、慎重に足を踏み出すようにポツポツと言葉を紡ぎ始める。

「…………何から言えばいいのかあたしもわかんないから、あたしも思ったこと、言うね」

「お、おう」

 どくんと強い鼓動が聞こえた。

「ヒッキー、好き。大好き。愛してる」

「…………」

 言葉が出ない。というより、吐くべき言葉を持ち合わせていない。息もたぶんできてない。

「愛なんてあたしにはよくわかんないけど、好き以上に好きって気持ちを伝える言葉をそれしか知らないから、愛してる」

「…………」

「…………ゴメン。やっぱ引くよね、こんなの……」

「っ、あーいや、ちょっと待て……」

 やっぱ呼吸してなかった。息が切れる。

「……あの、俺、なんかした? なんでそんな、急にそこまで猛烈に好かれてるのか理由がわからん……」

「急に、でもないんだけど、えっと……。な、なんか照れるね。……試験の前にさ、あたしが震えてたら手握ってくれたでしょ?」

 やべぇマジ覚えてない。俺もそれだけ余裕がなかったんだろうか。

「それがすっごい心強くて……、カッコよくて。あとね」

 覚えてないんだけど、と口を挟む間もなく由比ヶ浜は次に進む。……まあいいか。

「あたしが合格したときね、ヒッキーが泣いてくれたから」

「……バレてたのかよ」

「うん。この人はあたしのために泣いてくれる人なんだって、それだけ想ってくれてるんだなって、はっきりわかったから。それが理由、になるのかな」

「……まあ、うん。間違ってはないんじゃねぇかな。自分のことより嬉しかったのは確かだし……」

 由比ヶ浜のこと超好きだし。まだそんなの言えないけど。

 二人で真っ赤な顔をしながら、これまで溜め込んでいた想いを交わす。

「それはわかったけど、もう一つ聞かせてくれ。急に、その、触れ合いというか、スキンシップ的な? やつが一切なくなったのはなんでなんだ」

「あ、それは、そういうことするのが急にものすごい恥ずかしくなって……。あのメールは嘘じゃないよ」

 由比ヶ浜も話す気になったらしく、言外にそれだけではないと示唆していた。目で続きを促すと彼女は眉を下げ、寂しそうな顔を見せた。

「……あと、不安もあった、かな」

「……なんで?」

「……そんなの求められてないのかなぁとか、あたしだけ先走ってるのかなぁとか……。超好きなのはあたしだけでね、ヒッキーはまだそこまででもないのかなって……」

 ああ、やっぱりあのときだ。"俺から"行かなければならない場面で足踏みをしたあの日、ちゃんと踏み出せなかったから由比ヶ浜は不安を抱えたんだ。

「こればっかりはあたしだけ望んでても、あたしから強引にっていうのもよくなくて、二人一緒じゃないとダメじゃん。だから、ヒッキーがそういう気になるまで待たないといけないよねって思って……自重してたの。歯止めきかなくなりそうだったから」

「……やっぱ俺のせいじゃねぇか」

「あ、いや、そうじゃないよ。ヒッキーが悪いとかそんなこと……」

 由比ヶ浜に俺を責めるつもりがないのはわかっている。俺は自身に呆れ、苛立ちを抑えようと頭をガリガリと掻きながら言葉を探した。

「…………」

 されど、ここで話すべき適切な言葉は出てこない。謝ることも考えたが今必要なのはそれじゃないはずだ。もどかしさでイライラしてくる。

 そして俺は諦めた。

「……俺の思いはさっき言った。したいことも言った。聞いてたよな?」

「え? う、うん」

「俺は今度こそもう一歩、ちゃんと踏み出したい。まだ不安か?」

 これ以上言葉にすることを諦めてしまった俺はそれだけ伝えると、

「……ううん」

 由比ヶ浜が首を降るのを確認し、手を引っ張り上げ無理矢理立たせた。

 握った手を離し、今度は由比ヶ浜の顔を動かないように両手で押さえ、唇を重ねる。

 由比ヶ浜は驚きからか目を見開いているのが見えたが、やがて静かに瞼を下ろした。

 息を止めていたうえ鼓動が早いのですぐに苦しくなった。どのくらいこうしていればと考える前に手の力を抜き、ゆっくりと唇を離した。

 ……柔らかかった。いい匂いがした。あと、よくわかんないけど気持ちよかった。頭がぼんやりとしてあまり複雑な感情が湧いてこない。

 火照った頭でなんとか口を開く。

「……あんときこうできてたら、お前も悩まなくて済ん……」

「……もっかい」

 由比ヶ浜は言葉を遮るように言うと、俺の頭を掴み、背伸びをして唇を押し付けてきた。次は俺が驚きで目を見開く番だった。
 
 今度のキスは長かった。由比ヶ浜の微かな鼻息が顔に当たってこそばゆい。

「っはぁ、ヒッキー……。すき……」

「……俺も、超好きだから」

 腰に手を回し、ぎゅっと、強く。でも決して壊れないように優しく。由比ヶ浜は俺の胸に頭を預け、しがみつくように抱きついていた。

 二人ともそれから暫く何も話さなかった。頭が痺れるような、脳が蕩けるような感覚で何も言葉が出てこなかった。互いの体温と鼓動だけを感じていた。

 俺と由比ヶ浜の関係は、言葉にしていく物語だと思っていた。事実、稚拙でも愚直でも言葉にできたからこそようやく前に進めたのだろうと思う。

 だがそう思うと同時に、言葉は不完全なもので、俺が求める何かを見つけるには、それだけでは不十分なのかもしれないとも思った。

 言葉じゃなくても、言葉以上に伝えられるものはあるって。今、由比ヶ浜にそう教えてもらったから。



 そのままどちらからともなくベッドに座り、手を繋いだり、由比ヶ浜にいろんな場所をつつかれたり。心臓に悪いし落ち着かなすぎるけれど、たぶん人生において幸せにカテゴライズされるべき時間を過ごした。

 どういう流れでそうなってしまったのか俺にもよくわからないが、今では由比ヶ浜は俺の膝の上に座っている有り様だ。しかもこちら向きで。恥ずかしすぎるんだけどと言うと、「あ、あたしも恥ずかしいし……」と返ってきてやめる気なし。えー……。

 俺の脚を挟むように股を広げて座っている上スカートなものだから、直にパンツ↓が触れている状態のような気がしてならない。だが気にしたら何かが決壊してしまいそうなのでひたすら意識を逸らしていた。

「ダメだね、あたし。ちゃんとヒッキーに話すべきだったのに。成長、してなかったな」

「……お互い様だな、それは」

 俺も成長できていなかった。というより、それだけではまだ足りなかったと言うべきか……いや、それも違うな。

 たぶん、終わりはないのだ。人との関わりを続けていく限り。

「すまん。また進むのに時間かかっちまった」

「んー、いいんじゃないかな、たぶん。これがヒッキーとあたしのペースなんだよ、きっと」

「……そう言ってもらえると助かる」

「うん。ずっと一緒だったらさ、ちょっとずつでも前に進んでいけるよ。それにね」

 由比ヶ浜はそこで言葉を区切り、あの日にも見せた上目遣いで蠱惑的な言葉を紡ぐ。

「……今日進むの、一歩だけじゃないんでしょ?」

 彼女はそのまま体を俺に預ける。柔らかな香りを纏った髪が鼻先に触れた。嗅覚。視覚。五感に様々な刺激が訪れ、そのどれもが俺の思考能力を奪う。

「……に、二歩目ってこと?」

 いかん、動揺している。声が上擦った。いやそれ以前に言ってる内容が間抜けすぎる。

「……うん。あたし、覚悟して来たから……。だ、大丈夫、だよ」

 何それちょっと待って。

「えぇ……。そこまでは考えてなかったんだけど……」

「え、えぇー……。いや、あんな誘い方されたら普通考えるよ……」

 あー、あのときの「がんばる」とか異常な緊張はそのせいか……。

「なんかお前、常に俺の一歩先を行ってんな。俺が遅すぎるんだろうけど……」

「あ、あたしも思うだけだよ。だって一人で先に行きたくないし……、そもそも一緒じゃないと行けないもん」

「……そりゃそうだな」

「……まだ時間、あるよね」

「お、おお。まだ誰も帰ってこないだろうけど……。え、えーと、それはつまり……」

 時間稼ぎをしたくてつまらない言葉で繋いでみたが、この問い掛けに由比ヶ浜は答えをくれない。

 自分で考えろ……じゃないよな。だって、俺だってわかってる。由比ヶ浜もそれをわかってる。

 だからここは、"俺から"ってこと、なんだろうな。

「…………初めてだから。加減とかわかんねぇから。嫌とか駄目とか、ちゃんと言ってもらえると助かる……」

 俺の煮え切らない物言いに、由比ヶ浜は照れ臭そうに応えた。

「う、うん。あ、あたしも、初めてだから……。いろいろ、教えてね?」

 教えられることなんかあんのか、俺ごときに……。

 頭の中であれやこれやのことに考えを巡らせていると、抱いた彼女の肩が微かに震えていることに気がついた。

 由比ヶ浜は覚悟はしてきたと言った。だから前向きなのかと思い込んでいた。いや、前向きではあるのかもしれないけど、それでも───。

「……そうだよな。怖いの、俺だけなわけないよな」

「ご、ごめん。あたしも結構、臆病みたい」

 由比ヶ浜は目線を下げてそう溢した。

 すると、俺の内におさまる彼女のか細い肩がますます小さいものに感じられ、抱き締める腕に力がこもった。

「違うと思ってたけど結構似てるとこもあんのな。俺とお前って」

「だね。案外似てるのかも」

 ふふっと微笑んだ由比ヶ浜につられて俺も笑う。抱き合った状態でしばらくそうしていると二人の緊張が少しだけ緩んだのがわかった。

「あ、ちょっといいかな?」

「ん?」

 声に張りの戻った由比ヶ浜が提案する。

「お前じゃなくて、結衣って呼んでほしいな……。まずはそれが二歩目ってことで。……ダメ?」

 おずおずと申し訳なさそうに、そんな簡単なお願いをする由比ヶ浜のことが心からいとおしくなって、俺は───。

「ゆ……、結衣…………。ヶ浜」

 まぁ、その、なに。慣れってあるじゃん。

 由比ヶ浜って呼ぶのに慣れすぎちゃったから。ガハマを取るだけでいいんだけど、なかなかね。実は言い間違いって体で結衣って呼んだこともあるんだけど、覚えてくれてるのかね。

 またもそんな足踏みをするろくでもない俺に、由比ヶ浜はほんのりと頬を染め、膨れっ面で呟いた。

「もう。……八幡のバカ」

 彼女は俺を置き去りに、二歩目を軽々と踏み出していった。だから俺は、彼女に置き去りにされたくなくて、

「……そういや言ってなかったな。誕生日おめでとう、……結衣」

 おもいきって二歩目を踏み出すことにした。



 この日の顛末がどうなるか、更なる一歩を踏み出せるかなんて、俺たちにとってはどちらでも構わないことだ。どちらであってももう問題にはならない。

 ただ、これからも何かある度に俺は悩み、由比ヶ浜は憂い、たまに立ち止まったり振り返ったり、寄り道や回り道をしながら歩んで行くのだろう。

 そう。実に俺たちらしく、一歩ずつゆっくり、でも確実に、これからもずっと、二人の速度で。


おわりです案外短かった
ダメだ眠い
結衣誕生日おめでとおー

また来年も書くかどうかはわかりませんがまた機会があればよろしくお願いします
読んでくれた人レスくれた人愛してる
あでゅー

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