18世紀、スペイン グラナダ地方 サンタフェ郊外――
郊外のボロい一軒家に父と娘の二人だけで住んでいるという噂は、街の人間なら誰もが知っていた。
歴史ある城壁の街は美しくも古厳とした風情で観光目当てに訪れる者の目を楽しませるが、何十年
も同じ景色の中で暮らしている者にとってはその限りではない。怠惰でも勤勉でもないその他大勢の
市民たちにとって、他人の家の事情というものは格好の雑談のネタだった。とりわけ事情が込み入って
いればいるほど無駄話は盛り上がる。他人の不幸は蜜の味、というわけだ。
その日も日中の仕事を終えた男たちが酒場でパンとワインと幾つかの食事で、下世話な笑い声を一層
大きくさせていた。薄暗い酒場には似たようなテーブルが両手に抱えたライムほども並んでいて、いず
れも代わり映えがしない。
「知ってるかアベラルド。なあ、酔っぱらい。お前の事だぞ」
あごひげに白毛が何本か混じり始めている初老の男が、隣の空いた椅子に向かって話しかけている。
「ブラス。おい、くそジジイ。お前の息子はとっくの昔に死んだだろうが」
黒い口ひげの男が溜め息と笑い混じりに吐き捨て、空のワイングラスを何度も口元に運んでいる。
「バカかセミロ。アベラルドは出て行ったんだよ。エステルライヒで大道芸人になるっつってな」
丸い銀縁の伊達眼鏡が、口ひげの男の肩を叩いて訂正する。だが口ひげの男は隣のテーブルの似た
男であって、同卓の彼の話し相手ではなかった。見知らぬ男に肩を叩かれた口ひげの男は眼鏡の男の
頬をひっぱたいた。
幾分か酔いの覚めた伊達眼鏡の男は頬をさすりながら、セミロとブラス――同じテーブルの口ひげ
の男と初老の男――に向き直り、本題だとばかりに重々しく語り始めた。
「いいか。お前たち。郊外にボロい一軒家があるだろう。嫁に先立たれた哀れな夫と、年頃の娘が二人
で貧乏暮らしをしてるっていう、あの屋敷さ」
「おいおいダニエル。それが今更、何だってんだ。そんな話、台所のネズミだって食わないぜ」
その話は聞き飽きた、とばかりにセミロはクビを横にふった。大げさに呆れた仕草で伊達眼鏡のダニ
エルを小バカにしてみせる。
「なんだ。何かあるのか?」
老ブラスは興味深げにダニエルを見た。ダニエルの目は眼鏡の奥でニヤリと歪み、下品な笑みを浮かべた。
「これはアビゲイルの婆さんから聞いた話なんだがな。その父親と娘、デキてるらしいぜ」
「アビゲイル? 洗濯婦の? あいつ、まだ生きてやがったのか!」
ブラスは忌々しげに唾を床に吐き捨てた。
「ブラス! あのババアに尻の毛を毟られたって話は本当みたいだな! 詳しく聞かせてくれよ!」
嬉々としてブラスの隣に席を写したセミロは無理に肩を組み初老の男をゆすった。老人は無理矢理に話を催促されるが、嫌そうな
顔を更にしかめながらダニエルに助けを求めた。
「セミロ、話を逸らさんでいい。それよりダニエル。続きを話してくれ」
ニヤついたままのダニエルは軽く咳払いをすると、もったいぶった口調で語り始めた――
俺も実際に見たわけじゃない。アビゲイル婆さんも他の洗濯婦から聞いただけなんだけどよ。
その洗濯婦はまだ若くてな、わりと距離のある郊外の方にも仕事を取りにいかにゃならんのだ。
郊外はわりと家が疎らだろう? 家と家の間を歩くだけでも重労働さ。でも女は仕事熱心でな。
日に片手の指より少ない仕事はしないってぐらいだ。おいセミロ、お前も少しは見習ったらどうだ?
そんな訳だから歩く時はいつだって早足さ。でもある日――その女は一軒の家の前で足を止めた。
そこが仕事場だからじゃない。その日は少し多めに仕事を抱えてた。早いとこ次の家に回んなきゃって
先を急いでいたんだが――
声が聞こえたんだよ。それも真昼間から『致してる』時の声がな。
女は仕事を忘れて塀に耳を当てたんだ。だってこの家は父親と娘の二人しか暮らしていないはずなんだからな。
それが『致してる』って事は、つまり……そういう事なんだからよ。
そんなご時世じゃないが、父娘そろって火あぶりの十字架にかけられたって文句は言えないぐらいの大事だ。
女はあまりの出来事にしばらく時間を忘れて家の中から漏れて来る声に聞き入っていたらしい。
その時の女の股座の具合は、きっといい塩梅だったろうぜ。
話に聞き入っていたブラスとセミロの口から下品な笑いが零れた。
気を良くしたダニエルは更に女がその後、得意先の旦那に股を開いたという有りもしない話を付
け足した。その頃にはセミロの興味はアビゲイルとブラスの話に移っており、ダニエルの作話を聞
く者はいなかった。
そこに――見知らぬ人影が近づいてきた。
「その話、詳しく聞かせてもらえませんか」
酔いの回ったダニエルはニヤついた顔を見知らぬ来客に向けるが、その瞬間、彼の表情は凍り付いた。
先ほどの張り手など比べものにならない程、酔いはどこかに吹き飛んでしまった。視線は声の主に釘づけ
になる。
急に様子の変わったダニエルを見て、セミロとブラスも面倒そうな仕草で後ろを振り向く。そこには――
白薔薇の妖精――そう形容しても笑えない、いささかも滑稽とは思えない。凍てつくほど清廉で、一切の
汚濁を赦さない純白の美貌の女が、そこに佇んでいた。
おおよそ小汚い酒場には似つかわしくない、白磁の肌に真雪の絹衣を身に纏った妙齢の女性は、鈴の音のような
声で再び口を開いた。
「その話の、父娘の住んでいる場所を教えてください」
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