龍崎薫「先生あのね」 (67)

地の文有りモバマスssです。

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 とある昼下がりに、ちひろさんから、アイドルのプロデュースをしていてなにが嬉しいのかと聞かれた。


 なんということもない世間話。ここはとあるプロダクションの事務所の一角。

 繁忙期には残業も多いこの業界は、志望する人は多くても、長く続くのはほんの一握りだった。

 その分、職場に長く勤めている人間は、皆真剣にアイドルに向き合って仕事をしている。


 仕事をする上で、なにを嬉しいと感じるのだろう。

 その答えはきっと、回答した人間にとっての、仕事の励みになるようなことなのだろう。

 日々の活力になりえるのだろう。

 「やっぱり、アイドルが成長した姿を見せてくれた時ですかね」

 少し考えて、おれはそう返した。

 「成長?」


 「ええ。アイドルとしてだけじゃなく、一人の人として大切なマナーやスキルを身につけてくれると、嬉しいと思います」

 もちろんライブを頑張ってくれるのだって嬉しいんですけどね、と付け加える。

 「マナーやスキル、ですか?」

 「ほら、薫も最初はそうでしたけど、うちのプロダクションは小さい子が結構多いから。そんな子たちがしっかりした人になってくれたら、幸せですね」

 「あら、いいこと言うじゃないですか」

 普通に感心したような声をあげられて、気恥ずかしくなる。

 「そんな大したことじゃないですって」


 「じゃあ、一番嬉しかった瞬間は、あります?」

 「一番、ですか……。いっぱいありすぎて、ちょっと選べないですね」

 なんでもない、それでも少しだけ特別な、とある昼下がりのこと。

 暖かな陽の差す、事務所の一角で。


 仕事をしていて、なにが嬉しいのか?

 そういえば、ずっと前にも同じようなことを尋ねられたことがあったのを思い出した。

 おれが二十四歳だった時に、彼女はたったの九歳だった。


 事前に、元々子役としてこちらの業界の経験があると聞いて、おれがなんとなく想像していたのは、どこかお高くとまった女の子だった。

 どうせ子役業がうまくいかなくなったとかで、アイドルに転身したなんて口じゃないかと、そう勝手に思っていた。


 だから、初めて彼女と会った時に見せてくれた、快活な笑顔が印象に残った。

 明るく、優しく、なによりも元気な子。

 龍崎薫というアイドルの原石は、磨く前から輝きを放ち始めていた。


 彼女は、アイドルになるべくしてなった存在だった。

 彼女は、いつもスーツを着ている大人という理由でおれを先生と呼んだ。

 人見知りをしない子らしく、プロダクション内のアイドルやスタッフなど、誰とでもすぐに仲良くなった。

 向日葵が好きなようで、彼女自身も、よく花のように微笑んでくれた。

 週に半分ほど、彼女の授業が終わるタイミングで彼女の通う学校まで迎えにいって、プロダクションに送った。

 「せんせぇ、あのね」と、彼女が話し始める。

 送り迎えの車の中で、彼女は学校で習ったこと、友達の話、その日に起こった色々なことを聞かせてくれた。


 そんな彼女の様子が微笑ましかった。

 その日も、いつものように彼女をプロダクションまで連れていく車の中で、彼女が話すのを聞いていた。

 「それでね、ゆきちゃんとね、今日はレッスンだからほうかごは遊べないけど、明日は遊ぼうねってやくそくしたの!」

 彼女が舌っ足らずな言葉遣いで、話を続けようとする。

 「ああ、なあ、薫」

 それを柔らかく遮って、彼女に話しかける。

 「どうしたの?」

 「薫はアイドル、楽しいか?」

 なにを今更というように、答えが返ってくる。

 「うん! すっごく! だってね、きれいな服を着たり、みんなで歌うの、楽しいもん!」

 「そうか、それはいいな」

 「かおる、まだまだできないことも多いけど、たくさんがんばれるよ!」

 「ねえ、せんせぇ」

 「うん?」


 「せんせぇは、せんせぇしてて楽しい?」

 今度は彼女が質問を返してきた。

 「ああ、すごく楽しいよ」

 「本当に? えへへ、よかった!」

 安心したような笑顔を見せてくれる。

 「どうして?」

 訳を尋ねると、彼女は少し考え込んで、

 「たまにせんせぇが、さびしそうな顔して、じむしょでじっとしてるから」

 ひっそりとした声で呟いた。


 助手席に座る彼女を横目で窺う。大きな瞳と、視線が交差する。

 彼女の不安が、透けて見えたような気がした。


 子供というのは大人が思う以上に、そういうことに聡い。

 「あー、あのな、薫」

 「うん」


 「たしかにおれだって疲れることくらいある。でもな、それは頑張って仕事してるからなんだ」

 「せんせぇががんばってるのは、かおる知ってるよ」

 「おれがへとへとになるまで頑張れるのは、誰のためだと思う?」


 「……かおる?」

 「そう、薫のためだ。薫が仕事を頑張ってくれるから、おれも仕事を頑張れる」

 「でも、それだと、せんせぇしんどくなったりしない?」


 彼女の心配そうな声を、笑い飛ばす。

 「そんなことあるもんか。薫はアイドルの仕事、しんどいか?」

 「ううん、楽しいよ」

 「それと同じ。おれだって仕事が楽しくて仕方ないの」

 彼女は、手品を目の当たりにした子供のように表情を華やがせた。

 「せんせぇ!」

 「うん?」

 「せんせぇしてて、どういう時にうれしい?」

 「そうだな。薫がアイドルの仕事を楽しんでくれる時かな」

 そう答えると、彼女は頬を上気させて言った。


 「かおる、もっと、もーっと、アイドルがんばるからね!」

 「うん、一緒に頑張っていこうな。でもアイドルだけじゃなくて、学校にもちゃんと通うんだぞ」

 「学校にも?」


 「ああ。薫はアイドルだけど、まだ小学生でもあるんだから。学校は学校で、楽しいだろ?」

 「うん! 今日もね、お昼休みの時間にね――」

 それから彼女は、再び学校で起こった出来事を話し始めた。



 本当はこんなことを考えること自体、良くないことだけど、娘を持つ親の気持ちがわかるような気がした。

 プロダクションには、それはもうすごい人数のアイドルがいる。

 色んなタイプのアイドルがいる。一人一人に独自のカラーがある。

 その中には未成年の子だっている。年齢が一桁の子だって。

 それでも、彼女たちは平等にアイドルとして扱われる。


 彼女たちの一挙手一投足に、救われる人間がいなくならない限り、それが変わることはない。


 誰もがなろうと思って簡単になれるものじゃない。いわゆる普通の生き方というものとは、一線を画している。

 でも、だからこそ。

 ものごころが付いた時から芸能に携わる彼女には、"普通の生き方"も知っておいてほしかった。

 龍崎薫はアイドルだ。

 同年代の子にはこなせないような量の仕事をするし、自分自身の歌も持っている。

 まだ完璧じゃないけど敬語だって覚えたし、自分で働いてお金を稼ぐ。


 どれも普通の生き方をしていれば、到底得られないものだった。

 だけどその分、彼女にはまた別のなにかが足りていないような気もした。

 例えば部活動や、学校の帰り道での買い食いや、恋愛。


 どこまでが普通の生き方で、どこからがそうじゃないのかは、この際どうだってよかった。

 本来、当たり前のように得られたかもしれなかった彼女の生き方が、失われていることを考えるのが怖かった。

 アイドルのプロデューサーが、アイドルに望むことは、なんなのだろう。

 仕事をきちんとこなすことだろうか。それもある。

 ファンに夢を配り続けることだろうか。それもある。

 でもそれだけじゃない。


 学校で出された宿題を忘れずにすること。わからなくてもまずは自分で考えてみること。

 友達と仲良く遊ぶこと。喧嘩をして悩むことがあっても、いつか仲直りをすること。


 一人の女の子としてまっとうに成長してくれれば、それ以上はなにも望まなかった。

 おれは彼女の人生を形作る一番大切な時期に立ち会っているのだと、強く自覚した。

 様々なアイドルがいれば、様々なファンがいる。

 アイドルの輝きに、生きる希望を見つけた人も少なくはない。


 例えば、若くして愛妻に先立たれた、しがないアイドルのプロデューサーなど。

 あくまでそれは、例え話に過ぎないのだけど。


 彼女の、おれに対する態度に変化が見られたのは、彼女が十五歳の時だった。

 はじめは気のせいかとも思った。


 誰か他の人がいるような状況だと、何事もないように接してくれるのに、二人で打ち合わせをしたり、仕事先に移動する段になると、彼女の口数が減った。

 話しかけると、彼女はどこか慌てたように応えた。目線を逸らして話されることが多くなった。

 次第に、気のせいでは済まされないほど、その態度が顕著になっていった。


 有り体にいえば、おれは避けられていた。

 思春期を迎えて、少し気難しくなっているのかと思いもした。

 おれには言えないような悩みを抱えているのかもしれないとも思った。

 しかし、ちひろさんや他のアイドルに尋ねてみても、彼女の様子が変わったという声は上がらなかった。


 となれば、彼女の問題はおれ自身にあると考えた方が自然だった。

 なんらかの理由があって、おれと向き合いたくないということ。


 自分でも気付かないうちに彼女のことを傷付けてしまったかもしれない。

 そう考えだすと、本当にそうなんじゃないかと怖くなった。

 思い当たる節があるわけじゃなかった。

 彼女に対して、おれはプロデューサーとして以前に、一人の大人として恥ずかしくないように接することを心掛けていた。

 子供だからといって変にごまかしたりせずに、自分なりに真摯に向き合った。


 しかし、そうした彼女に対する接し方は、彼女にとってみれば少し窮屈に映ったかもしれない。

 十五歳も離れているのだ。考え方だって、根本から食い違っている部分があったっておかしくはない。


 思い切って尋ねてみると、すぐにそれは否定された。

 続けざまに、なにかを言おうとした彼女が、すんでのところで口ごもる。


 彼女の様子は明らかにおかしかった。

 「もしかしたら、気が楽になるかもしれないと思うんだけど、」

 「おれでよければ、話を聞かせてくれないか?」


 俯いたまま、彼女はなにも言おうとしない。

 「別におれじゃなくても、ちひろさんでも、他の人でもいいから、誰かに話してみないか?」

 俯いたまま、なにも言おうとしない。


 「……薫の気が進まないなら、無理に言わなくてもいいよ。言いたくないなら、それでも構わない」

 俯いたまま。


 彼女の頭を撫でる。前までは彼女の方からしてくれと、よくせがまれたものだった。

 そうすることで、ほんの僅かでも彼女の心が晴れることを祈った。

 「ねえ、先生」

 それから数日が経って、いつものように彼女を仕事先まで車で送っている時のことだった。

 彼女から話しかけてくれるのは、久しぶりだった。

 「うん?」

 「ずっと、考えてたの」

 車窓を眺めながら、彼女は呟いた。

 「なにについて?」

 「先生のこと」

 「おれ?」

 尋ね返すと、彼女はこちらを向いた。穏やかな笑顔だった。

 久しく見ていなかった、柔らかい表情。頬は心なしか、朱をさしていた。


 「うん」

 「おれがどうかしたのか」

 「そうなの」

 車がスタジオの地下駐車場に到着する。

 いつも停めている場所に停める。


 「聞いても、いいか?」

 仕事の時間まで、まだ少しある。


 「あたし、先生のことが好き」

 橙色の髪を撫でると、いつも彼女は目を細めて喜んだ。

 ライブで失敗してしまった日は、悔しくて泣いてしまうこともあった。

 仲の良いアイドルのランクが上がると、まるで自分のことのように喜んだ。

 人一倍、他人想いの優しい子だった。


 自慢じゃないが、彼女のことは、彼女の家族の次くらいには知っているつもりだった。


 反射的におれは、自分の左手に目線を遣る。

 左手の薬指、そこに嵌められたものを。

 「わかってるの」

 おれの考えを読んでいるかのように、隣りから声がする。

 力のない笑み。

 それでいて、なにかに怯えたような、そんな響き。


 「アイドルが、恋愛しちゃいけないことも」

 「先生が、結婚していたことも」


 「どうなりたいとか、どうしたいとかじゃないの。ただ伝えたかっただけ」

 彼女は一人で車を降りて、そのまま仕事場に向かった。

 おれには、驚くあまり、どうしてもその後ろ姿を追うことができなかった。


 それから、何度もいまのやり取りを思い出そうとする。

 とても信じられそうになかった。

 それでも、彼女が嘘をついていないことはわかってしまう。

 わかってしまうだけに、衝撃は大きかった。

 アイドルは恋愛をしてはいけない。これは人によって意見が分かれるだろうけど、おれは別にしてもいいんじゃないかと思う。

 ただ、その容姿や振る舞いが自分だけのものじゃないことを考えると、大々的に公開するというのは避けるべきだとも思うけど。


 おれは結婚していた。

 指輪を外していないのは、おれなりの小さな誓いだった。


 彼女が自分にそうした類の好意を向けてくれているということが、頭では理解できていても、実感として呑み込めない。

 彼女のことは、間違いなくそういう対象としては見ることができなかったし、向こうもそうだと勝手に思い込んでいた。

 彼女のことを考える。

 おれがどう応えるかなんて、彼女自身わかりきっているだろう。

 その上で、あれだけ淀みなく言えるようになるまで、一体どれだけの時間がかかったのだろうか。


 彼女が苦しんでいるのなら、ほんの僅かでも心が晴れてくれることを祈ってきた。

 それでもどうすれば、彼女の心が晴れるのかが、わからなかった。


 彼女の幸せを考える。

 誰かを好きになる気持ちというものを、考える。

 撮影の仕事を終えた彼女が車に戻ってくる。

 彼女はなにも言わず、助手席に座る。

 静かに車を発進させる。

 あと数十分もすれば、日が暮れ落ちてしまう。


 「なあ、薫」

 隣りの彼女に向かって声をかける。

 「海、行こうか」

 「え?」

 驚いた様子の彼女がおれを見る。

 「ちょっと遠いけどな、よく行ってたんだ、おれ」

 「海に?」

 「ああ。ちょっと見にいかないか?」


 半ば呆気にとられた彼女の表情が、丸くなっていく。

 やがて彼女は、小さく頷いた。

 海岸沿いに車を停めた時には、既に太陽は水平線の向こう側に隠れてしまっていた。

 砂浜には誰にもいない。

 つんとした潮風が吹く中、おれと彼女は波打ち際の近くまで降り立った。

 暗い色のインクが空に滲むようにして、夜の気配は濃くなってゆく。


 「たまに見たくなるんだ、この景色」

 見渡す限りの海原が、眼前に横たわっている。

 彼女の視線はさっきから、海に釘付けになっている。

 「……うん」

 暫く黙り込んで、波の音に耳を傾けた。


 よく二人で見た海辺は、昔のままだった。

 妻にプロポーズをしたのも、ここだった。

 「ありがとうな」

 そう言うと一瞬だけ、傍らに立っていた彼女がおれを見た。

 「まさか薫が、おれのことをそう想ってくれていたなんて、気付かなかったよ」


 「……でも、先生を困らせちゃったけどね」

 「困るもんか。聞かせてくれて、嬉しかったよ」

 お互いに、寄せては引く波を眺めながら話した。


 「それでも、ごめんな。おれは薫の気持ちには応えてあげられそうにない」

 「ううん、いいの、わかってたから」


 彼女が薄く微笑んだ。

 本心からの笑みじゃないことは、声色だけでわかった。

 またしても、なにかに怯えたような、そんな響きがあった。

 「最初に海に行くって聞いた時は、ちょっとびっくりしたけど、嬉しかったよ」

 どこか夢見心地で、彼女が呟いた。

 「こんなに綺麗だったから?」

 おれがそう尋ねると、小さくかぶりを振った。


 「それもあるけど、あんなことを言った後でも、こうして先生が優しくしてくれることが」

 悪戯っぽく笑う彼女は、寂しそうな目をしている。


 「……別に薫に優しくしたいからここにきたわけじゃないよ」

 「おれにとって、思い出の場所なんだ。だから薫に、ここを紹介したくなって」


 「ほら、そういうとこ」

 俯いて話す彼女の頬が染まっている。

 「そういうとこ、先生ずるい」

 気が付けば、とっぷりと陽が暮れてしまっている。

 あたりはもう完全に夜になっていた。

 「そろそろ、帰るか」

 そう言うと、暫くして、少しだけ甘えた声が返ってくる。


 「……もう少し、だめ?」

 「もう遅いし、今日はもう帰って、またいつか見にこよう」


 「今日じゃないと、いや」

 普段は聞き分けがいいのに、今日は珍しく引き下がろうとしない。


 「どうして?」

 「今日が終わったら、もう先生とはお仕事できないから」


 すっかり暗くなってしまった海辺に、彼女の沈んだ声が漂う。

 まるで、いまにも落ちてしまいそうな気球のように。

 「どういうことだ?」

 要領を得られなくて、彼女に尋ねる。


 「だって、あたしが先生を好きだって言っちゃったから、」

 「先生に迷惑、かけちゃったから、」

 彼女の声が震えていた。

 「……先生はもう、あたしのプロデューサーできなくなるんでしょ?」

 その言葉は、涙に滲んでいた。


 「だから、まだ今日のうちは先生と一緒にいたいの」

 痛みに耐えるようにして、彼女は言った。


 たしかに、事務所がそういった事情を把握してしまうと、いままでと同じように仕事をすることは難しくなるかもしれない。

 彼女はずっと、そうなってしまうことが怖くて、怯えてしまっていたのだろうか。

 「薫」

 名前を呼ぶと、泣き濡れた彼女がおれを見る。

 「おれだって、薫の頑張る姿を、もっと近くで見ていたい」


 「薫さえ、よければ、」

 身体ごと彼女の方を向いて、彼女を見据える。

 「今日あったことを、二人だけの秘密にできるなら、」

 「そうすればこれから先もずっと、一緒に仕事できる」


 「……ほ、ほんとに?」

 「嘘なんかつくものか、本当だよ」

 笑い飛ばして見せる。

 「……でも、先生は薫なんかとお仕事してくれるの?」

 「薫なんか、じゃない。薫だから、一緒に頑張りたいんだ」


 そう言って彼女の頭を撫でる。

 堰を切ったように、彼女の涙が流れていく。

 彼女の両手が、おれの手を掴む。力いっぱい、懸命に。

 強くつぶった目の端から、溢れた雫がこぼれ落ちては、砂浜に染み込んでいく。


 「先生のことを考えると、胸のところが、ぎゅうって、絞られるみたいになるの。苦しくて、せつなくて、」

 「……でも、ずっと、この気持ちを言っちゃったら、先生と一緒にいられなくなるって思っていたの」


 「先生のことは好きだけど、先生とお仕事するのも同じくらい、好きなの」

 顔をくしゃくしゃにして、思いの丈をぶつけてくれる。


 「……あたし、これからもずっと、先生とお仕事したい、アイドルをしたいの」

 空いた方の手で、彼女にハンカチを渡す。

 「これ、使いな」

 受け取った彼女が目元を拭っている様子を見ながら、時間の流れをしみじみと感じた。



 「もう六年も前の話になるのか」

 「いまでも龍崎薫という女の子と初めて会った日のことを、はっきり思い出せるよ」

 「元気な子だなって、笑った顔がかわいい子だなって、そう感じた」

 「それからすぐに、人の幸せを自分の幸せのように感じられる優しいその子を、絶対にトップアイドルにしてあげたいと思った」


 「でもおれはその子に対して、一人の女の子としても、のびのびと育ってくれたらと思っているんだ」

 「アイドルとしてだけじゃない、色んなことを楽しんで、吸収して、立派な大人になってほしい」

 「そのためなら、おれはなんだって頑張ろうと決心したんだ」


「薫のプロデューサーとして。薫の先生として」

 声を上げて泣きじゃくる彼女が落ち着くまで、肩を貸した。

 夜の海は、誰に対しても等しく存在し続ける。それが心地良くて、度々来ていたことを思い出す。

 空には星が浮かび上がっていた。なんとなくおれは、それを眺めていた。

 久しく見たことのないほど、綺麗な空だった。


 数年後。とある昼下がり。

 「そろそろ帰ってくるんじゃないですか?」

 向かいのデスクでキーボードを叩くちひろさんが話しかけてきた。

 「そうですね、たしか、二時過ぎに式が終わるって言ってたんで」

 壁に掛けられた時計を見ながら応える。

 「今更ですけど、本当に式、見にいかなくてよかったんですか?」

 彼女のその言葉に、少しの間キーボードを叩く手を止めて、考える。


 「いいんです。おれはあいつの親でもないんですから」


 「……私だったら見に行くけどなぁ」

 「じゃあちひろさんこそ、今日見にいったらよかったじゃないですか」

 「直接の担当の子だったらって話です。皆の式に出てたら、それこそ身体が幾つあったって足りませんよ」

 そうして話していると、事務所の扉が開かれる。

 「ただいま帰りました!」

 元気のいい声と共に姿を現したのは、振り袖姿の薫だった。

 「おかえり」

 彼女を迎える。

 「先生ただいま!」


 「高校卒業、おめでとうな」

 「うん、ありがとう!」

 愛らしい笑みを振り撒きながら、彼女がその場でくるりと回る。


 「どーお? あたしの振り袖姿」

 「うん。凄く似合ってると思う」

 「そーかなあ? うふふっ」

 自分から振っておいて、顔を真っ赤にして照れた。

 それから二人してソファに腰かけて、なんとはなしに話をする。

 「先生、卒業式にくると思ってたのに」

 ついさっきも、同じようなことを耳にした気がする。

 「おれが見にくると思ってた?」


 「うーん……というより、見にきてほしかった、の方が近いかも」


 「まあ、あれだ。行ったら多分おれ、泣いちゃうから」

 「えー! 絶対嘘だあ」

 「ばか、ぼろぼろに泣いちゃう自信あるって」

 「だって先生が泣いてるとこ、一回も見たことないよ?」


 「そりゃあ、大人だもの」

 「なにそれ! あたしだってもう大人だもん!」

 「おれからすれば、薫はまだまだ子供みたいなものだよ」

 「そりゃあ、そうかもしれないけど……」


 「はは、冗談だって。あんなに小さかった薫が、もう高校を卒業するなんてな」

 茶化すように言ったつもりだったのに、彼女は乗ってこなかった。


 「……先生、あのね」

 「うん?」

 「あたしがここまでこれたのも全部、先生のおかげだよ」

 「そんなことないって。薫が頑張ったからだ」

 笑いながら返す。

 「ううん、そんなことない。先生がいなかったら、頑張れなかったもん」

 彼女が急に立ち上がる。


 「アイドルも、学校生活も、すぐそばで応援してくれたのは、いつも先生だったから。だからあたしは挫けなかったの」


 「ねえ、先生」

 「今度はなんだ?」

 「あたし、ちゃんとアイドルできてるよね?」

 「まっすぐ、歩けてきたよね?」

 確かめるような、そんな問いかけ。

 感極まってしまいそうになるのを、必死になって堪えた。

 「ああ、もちろん。薫はよく頑張ったよ」


 まっすぐな瞳。愛嬌のある笑み。

 ああ、彼女は本当に立派なアイドルになってくれた。


 「えへへ、先生に褒めてもらえるの、ほんとに安心する」

 彼女は笑顔を抑えきれないようだった。


 「だからあたしも、先生を褒めてあげる!」


 「いつも、ありがとう!」

 そう言って彼女は、おれの頭を撫でてくれた。

 こころの奥底で、なにかが緩むのを感じた。

 労うつもりが、いつの間にか労ってもらっている。

 支えているつもりが、いつの間にか支えられている。

 気が付けばおれは、途方もない幸せの中にいた。


 これだからアイドルは、素晴らしい。


 「……先生、泣いてるの?」


 もしかしたら、いまこの瞬間が一番幸せなのかもしれないと思った。

 以上になります。
 ありがとうございました。

 親子でも恋人でもない、先生と生徒という関係がとても素敵に感じられたので書きました。
 総選挙も佳境です。各々、頑張っていきましょう。

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