モバマスのSSです
デレステの泰葉のメモリアルコミュ一話をもとにしています
地の文多めです
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1493429161
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
撮影スタジオに入ると、私は撮影スタッフのみなさんに挨拶してまわる。
本当はひとりひとりに挨拶していきたいところだけど、準備に忙しくするスタッフさんたちの邪魔をするわけにはいかない。ひとかたまりになっているところに挨拶をしていった。
一人、隅っこに立っている人がいた。あの人が見学希望のアイドル部門の人だろうか。
スーツに着られているというほどでもないけれど、着こなしているわけでもない。
まだ若そうだけど、まるっきりの新人というわけでもないようだった。
ネクタイの結び方が甘いし、少し曲がっているのが気になる。忙しいのだろうか。
アイドル部門はここのところのアイドルブームで、アイドルも裏方もほしがっていると聞く。
見学というのも新人のそれではなく、現場を知ってより知識を得たいという欲求からきているのでは、というのが私の持った印象だった。
私は足をそちらに向ける。近づいていくと、目が合った。物怖じしない目だ。
まっすぐに私を見つめている。私は軽く会釈をしながら、側まで寄っていった。
「見学に来られたアイドル部門のプロデューサーさんですよね。よろしくお願いします」
軽く挨拶をし、一言二言交わした。若いのに落ち着いているな、と思ったら、元々私くらいの年頃の娘を相手にしているのだ。慣れっこだろう。
どうせまたモデル部門にアイドルをねじ込むための知識を得に来ているのだろう。
仕事を取られる身としては面白くないが、求められた者が出番を与えられるのがこの世界だ。文句を言ったところで何かが変わるわけじゃない。
私は私のできることをするだけだ。
撮影が始まると、アイドル部門のプロデューサーのことは頭の中から追い出される。
代わりに脳内を締めるのは撮影のことだ。
求められている絵。自分がどうファインダーに映っているのか。印刷されたカットがどう目に映るのか。
指示されたポーズを完璧にこなし、指示される前に表情を作る。
「さすが芸歴十一年目」
と、カメラマンさんが褒め言葉なのかよくわからないことを言う。
そうか、もう十一年目なのか。私が母に連れられて子役のオーディションに臨んだのは春のことだったように思う。
たしか、帰り道で満開の桜並木を通ったような記憶がある。
いえ、あれはオーディションに合格した後、子役として所属する契約などを受けに行った日だったかもしれない。
今年の桜の開花宣言はもうされてしまっている。だから、もうすぐ、ではなく、もう、十年が経っている。
子役をする前の記憶は、どれだけ思い出そうとしても、私の頭の中から見つけ出すことはできなかった。
「お疲れ様でした」
撮影はいつものように何事もなく終わった。私はスタッフさんたちに声をかけてまわる。
するとさっきのプロデューサーさんが、まだ同じ場所に立っているのを見つけた。
てっきり、最初だけ見学して帰るものだと思っていた。それなりに忙しいだろうに、わざわざ最後まで見学していたのか。
私はさっきと同じようにして、プロデューサーさんへと近寄っていく。
「お疲れ様でした。見学はいかがでしたか?」
気づいたことがあれば教えてください、と付け加える。
他の部門の目線というのは、専門外でありながらも、全くの素人ではないから参考になることも多い。
特に私と同じ年頃の女の子を相手にしているプロデューサーとあれば、どんな有意義なことが出てくるのだろうか、と期待したのだったが。
「楽しくなさそう」
「私が、ですか?」
思わず声を荒げそうになる。それは、あなたが、なのではないか、と言い返したくなるような表情だった。
いつもしているように笑みを作る。
「そんなことありませんよ。お仕事はいつも楽しくやらせてもらっています」
私の心情など声にはおくびにも出さない。
それなのに、プロデューサーさんは最初から嘘と決めつけているように、本当にそうか、と重ねるように訊ねてくる。
私の作った表情なんてありもしないように無視するなんて、失礼じゃないだろうか。
アイドル部門に比べ、モデル部門は活動が芳しくない。
だからといってアイドル部門の人間が何でも言っていいわけではないだろう。
私はアイドル部門の子に比べれば華がないのかもしれない。プロデューサーさんから見れば何か物足りなく感じるのかもしれない。
でも、それならはっきり言えばいいだろう。楽しいとか、楽しくないとか、そんなことが撮影に関係とでもいうのか。
「お仕事はカンペキにこなしたはずです。……何が言いたいんですか?」
文句があるならはっきり言えばいいだろう。見下したいならそうすればいい。
言えないんでしょう? と私はプロデューサーさんに向けて小さく笑みを作る。
お仕事が完璧だったのは私が一番よくわかっている。そしてプロデューサーさんもそれがわかっているから、迂遠な言い方しかできないのだ。
さあ、いくらでもどうぞ、と身構えた私にかけられた言葉は意外なものだった。
「楽しみたくはない?」
ああ、なるほど。この人は若いんだ。
私は一番の笑顔を作る。今度は作ったものだとちゃんと伝わるように。
「楽しくないよりは楽しい方がいいのかもしれませんね」
楽しいという言葉はやる気やモチベーションと言った言葉に置き換えられるだろう。
全力を出せばいいものができるのに、出さなかったり、出せなかったりする人たちを私はよく知っている。
身体が硬くなるほど緊張しているよりは、リラックスして撮影なりに臨む方がいいものが撮れるだろう。
「でも、ずっと芸能界で生きてきた私にしてみれば、そんなの、甘えです」
私たちを見てくれる人たちが受け取るのは最高の一瞬でなければいけないと思う。
やる気が出ないから、楽しくないから、やりたくないから、そんな理由でお仕事をこなせないというのなら、見てくれている人たちに失礼だ。
私たちが見せるのは夢そのものだ。
それができないのなら、この世界を去るべきだと思う。
「夢が見られるような甘い場所じゃありませんし、やりたいことをできることなんてないんです」
この世界は夢があるのかもしれない。
だけど、私たちはそれを見せる側だ。誰も彼もがやりたいことをやりたいだけやっていたらめちゃくちゃになってしまう。
この世界は決して、華やかなだけじゃない。
まだこの人はそれをわかっていないのだろう。
「楽しめることを見つけよう」
私の話を聞いているのか聞いていないのか、プロデューサーさんがそんなことを言う。
「楽しめることって……?」
まるで私が仕事を楽しんでいないように決めつけて、しかもそれが悪いことであるかのように言うプロデューサーさんに、思わず心がささくれ立った。
ぎゅ、と拳を握る。心の中で一つ、二つ、と深呼吸する。
私が楽しめているかどうかなんて関係ない。あなたは私の仕事にケチをつけたいだけ。
でも、内容は完璧だった。だから、そんな抽象的なことを言って貶そうとしているんだ。
心の中の反論は口には出さない。私がプロデューサーさんに見せたのは笑顔だけ。
「具体的に、何が言いたいのかわかりません。次のスケジュールがありますから、失礼します」
私はプロデューサーさんに頭を下げ、その場を後にする。
そのまま控え室に向かい、自分の荷物を掴んで出た。他の子を見るために途中で抜けたマネージャーに、仕事が終わったことをメールで伝える。
エレベーターは先に行ってしまったようで、私はそのまま階段で下まで降りた。
次のスケジュールがあるというのは嘘だった。あのままプロデューサーさんと話している気にならなかった。
あんな夢しか見ていないような人に、怒る必要なんてない。
みんなそれぞれやりたいことがある。だけど、それがすべて叶うなんて本当に稀なことだ。
私だって楽しくやれるのならそれが一番だと思っている。
建物の一階に降りると、じめついた空気が私の頬を撫でた。入り口に近づくと、その正体が聞こえてきた。
「そんな予報じゃなかったのに……」
意味がないとわかっていても、確認するように軒下に出る。
ざあっ、という音が私を取り囲むように大きくなった。
空調で整えられた屋内よりも、空気がひんやりとしている。軒先からぽたぽたと雨水が落ちてコンクリートにはね返っていた。
風の勢いが強いのか、細かい雨粒が軒下まで届いていた。私は濡れないようにビルの中へと戻る。
入れ違いにラフな格好をした男の人が出て行く。雨の様子を見ると、一瞬足を止めたのだが、持っていた鞄を抱くようにして走り出していった。
私にはできないな、と思った。
家を出るときの天気予報では雨のことなんて一言も触れていなかった。だから、私の鞄には折りたたみ傘すら入っていない。
駅まではそれほど距離はない。たぶん、走れば五分くらいだろう。
でも、電車に乗って家に帰るまでの間、私は濡れネズミになってしまう。
帰ってからしっかり身体を温めれば風邪を引かないですむかもしれない。だけど、それは、かもしれない、ではだめだ。
スマートフォンで天気予報を見ると、この雨はにわか雨のような一時的なもので、三十分もすれば上がるらしい。
待っていようか、という考えが頭をよぎった。鞄にはいつものように勉強道具が入っている。今日は英単語を書いた単語カードを持ってきていた。
雨が上がるまで単語を覚えていてもいいのだろう。
私はもう一度軒下まで足を運んだ。境目に立ち、手の平を出す。ぱたぱたぱた、とあっという間に私の手の平に小さな水たまりができる。
すぐに私は手を引っ込めて、雨水を振って落とした。鞄からハンカチを取り出しつつ、屋内に戻る。
結局、私は携帯を取り出し、指先がまだ乾いていなくて操作がおぼつかないことにもどかしさを覚えながらタクシーを呼んだのだった。
お風呂から上がった私は丁寧に髪を乾かし、柔軟のストレッチをした。
いつもなら仕事の反省や、次の内容などを考えるのだけど、今日は撮影を見学しにきていたあのプロデューサーさんのことばかりが頭に浮かんだ。
考えれば考えるほど頭に血が昇りそうになる。
なるべく考えないようにしても、ちょっとした思考の隙間に入り込んでくる。
私はいつもより少し早めにストレッチを切り上げて、机の上に置いた手鏡を取る。
縁がピンク色をした楕円の鏡に私の顔を映して、様々な表情を作るのがルーチンワークの最後だった。
喜怒哀楽を鏡に映していく。いつもと同じだ。ちゃんと表情は作れている。
あのプロデューサーさんは何が言いたかったのだろうか。
私がどう思っていても仕事に影響はなかった。
それはスタッフのみんなが証明してくれている。仮にもプロなのだから、私に問題があればそれを指摘するのが当然だ。
時間に余裕のない現場では、クオリティの部分が見逃されることも、残念なことだけどある。
私自身が満足していないときでもやり直させてもらえない、ということもある。時間は有限だから、そうならないように万全の準備をして臨むしかない。
そういう経験があるから、今日の撮影はちゃんとスタッフ全員の満足のいくものだったとわかる。私の感じた手応えは納得のいくものだった。
カメラに収められた私がちゃんとしていたとすれば、その合間のことだろうか。
私はなにも楽しい気持ちが不必要だと思っているわけではない。
楽しんで撮影に臨んでいる人間と、嫌々やっている人間だったら、どちらが好まれるかと言えば、当然前者になる。
やる気やモチベーションは高すぎれば空回りしてしまうこともあるけど、低いよりはいいに決まっている。
元気のある人間は周りにいい影響を与えるし、その反対も然りだ。
だから、私はどんな仕事でも楽しませてもらっているつもりだ。
それなのに、あの人は私のことを楽しくなさそうだなんて言った。
今日の撮影を、私は積極的に楽しもうとしていなかったのかもしれない。だけど、つまらないと思ってやっていたわけではない。
何の根拠もない当てこすりみたいなものだ。
アイドル部門が他の部署よりも勢いづいているから、あの人はそれに乗っかって勘違いしているだけだ。
「あの人はまだ若いから……」
もう何度目になるかわからない結論に行き着いて、それでも私の手は手鏡の柄を硬く握ったままだった。
どうしてこんなに心がささくれ立つのだろう。
そんなことわかりきっている。
――図星だからだ。
お仕事を楽しめなくなったのはいつからだっただろう。
「楽しくやれるのなら、それがいいに決まってる……っ」
楽しいってなに。なにができたら私は楽しんでいることになるの。なにをすれば私は楽しめるの。
私だって楽しくやりたい。
「私のなにがわかるの――!」
気がつくと私は手鏡を握ったまま、腕を振り上げていた。
強く握りしめているせいで、手が震えている。
だめだ、と思った。物に当たるなんて、だめだ。
これを床に叩きつければどうなるのか、瞬時に頭の中に想像が広がる。
きっと鏡は割れてしまうだろう。
破片が飛び散り、それを片さなければいけない。
片すときに破片で手を切るかもしれない。
身体に傷をつけるなんて、撮影に影響するかもしれない。そんなのプロ失格だ。
私は手鏡を降ろした。というよりは、力が抜けてだらんと腕が勝手に下がった。
こんなに心の自由がきかなくなったことは久しぶりのことだった。物心ついてからははじめてのことかもしれない。
こんな感情の奔流が自分の中にあるとは思わなかった。
それなのに私はいざというとき、自分の行動を俯瞰してしまった。
「勝手なこと言わないで……」
かすれて自分の耳にも届かないような声が、部屋の静けさに溶けていった。
仕事が楽しいと思えなくなったのはいつからだろう。
学校が終わり、バスと電車を乗り継いで事務所に向かう時間。普段なら教科書や参考書を広げ、勉強する時間だ。
だけど、今日は教科書を広げただけで、私の意識は他のところに向いていた。
仕事を楽しめなくなったのは、モデル部門に移る前だった。
もう子役とは呼べないような年齢になってきた頃だったと思う。
ドラマの撮影で監督からもっと自分を出してくれと求められた。だけど、私にはどうしていいのかわからなかった。
そのときの私は台本を完璧に覚え、物語の中で求められる演技を完璧にこなしていたと思う。それでも、監督は何か物足りなさがあったようだ。
私はその指示を、演技の種類を変えろというものだと思った。
もっとわかりやすいように明るくするとか、あるいは元気がよすぎて別の意図を捉えられてしまうだとか、そういう私の演技に問題があったのかと思ったのだ。
問題があるとすればあったのだろうけど、何度撮り直しても監督の満足いくものは撮れなかった。そんなことはじめてのことだった。
共演者の人からは、NGが出るほど問題があるようには思えない、とフォローしてもらったけれど、私は自分が至らないせいで周りに迷惑をかけてしまったことがショックだった。
それから何度か似たようなことがあり、その度に私はレッスンの量を増やしたりしたのだけど、それが解決策とは違うものだとはわかっていた。
私が今までやっていたのは、子供の役というだけで、私は他のどの子よりも大人の言うことを聞くことができる子供というだけだった。
求められていたのは岡崎泰葉という人間ではなく、必要なときに笑い、怒り、泣くことのできる子供だったのだ。
私は他の子供の誰よりもそれが上手くできる子供だっただけでしかない。
子供でなくなれば、台本の通りに動くなんて誰にでもできることになる。
そうなったときに求められるのは、他の誰かにできることではなく、その人にしかできないことになるのだろう。
私にはそれができなかった。どれだけレッスンしても撮影の中で求められていること、台本に書かれていること以上のことができなかった。
自分の中に特別な何かを見つけられないのは、私が一番よくわかっていた。
電車が目的の駅に到着する。教科書は開いたところから一ページも動いていなかった。それなのに、インプットされたみたいに私の意識がここが降りる駅だと告げてくる。
電車を降りる人の波に従いながら、出しただけの教科書を鞄にしまった。
ホームはすっかり夕焼け色に染まっている。地下を通ってきたわけでもないのに、電車に乗ったときの空の色との変化に私は驚いてしまった。
今日は仕事が入っているというわけではなかった。それでも私はなるべく事務所に顔を出すようにしている。子役をやっていた頃からの癖なのかもしれない。
事務所には私のマネージャーさんはいなかった。元々私の他に担当している子がいる。そっちの方がメインで、私はおまけみたいなものだ。
マネージャーさんよりも芸歴が長いから、あれこれ手をかけなくていいということだと思う。
スケジュールのチェックをするが、この前と変わっていなかった。昔は押しつぶされるような量の仕事があったけれど、今は見る影もない。
トレーニングルームのあるフロアに移動する。更衣室でジャージに着替えた。
今日はトレーナーさんが担当してくれる日ではない。子供の頃は逃げ出したくなるようなレッスンも、今は週に一度だけ。
それも、私の状態のチェックと、一週間のレッスンのメニューをくれるだけだ。
信頼されているといえばそうなるのだろう。レッスンの内容も激しいものではなく、力を衰えさせない程度のものだ。
トレーニングルームはスポーツジムのようになっている。誰が使うんだろうというような器具も置いてある。
アイドル部門の子らしいふわふわした子たちが、トレーナーさんに叱咤激励されている。私は邪魔しないように彼女たちを避けて通り、ルームの隅へと向かった。
準備運動をして、ルームランナーをセットする。
普段なら意識はルームランナーに表示されている数値と、自分の身体――脚の運びや姿勢、一定のリズムの呼吸――に向けられる。
でも、今日はそうしたことに意識を向けようとしても、視界がぼやけるように焦点が合わない。
ぐるぐると回転するルームランナーのベルトの上を足踏みしている。
は、は、と短く漏れる私の吐息。
身体が上気して、うっすらと汗ばんでいる。
昔はレッスンが嫌いだった。今ではたいしたことのないと思えることでも、この世の終わりのような気持ちになっていた。
いやだ、つらい、やめたい。私の心を代弁するような声を聞いた。何度も、何度も。
泣いていたその子が帰ってくることはなかった。
レッスンいやだね、トレーナーさん怖いね、そんなことを話していた子が、次の日からぱたりと来なくなることは珍しいことじゃなかった。
気がつくと私だけが残っていた。
私は一言もそんなことを口にしなかった。そうしてしまえば、私もまたあの子たちと同じようにここに来られなくなることをわかっていたから。
仕事も同じだった。撮影が続いて疲れていたり、大舞台に緊張していたり、怒鳴り散らすような共演者に怯えていたりしても、私はそれを表に出したことはなかった。
スタッフさんたちの言うことを聞き、台本の通りにこなす。それが私に求められていたことだったから。
それを急に台本にないことをやれと言われても無理というものだろう。
求められたことをこなせなくなった私は、モデル部門への転向の勧めを断らなかった。演技の道にそれほど執着がなかったことは、自分でも意外だった。
ルームランナーがペースを落としていき、やがて停止する。決めていた距離を走りきったのだけど、私はまだ物足りなかった。
もう少し続けようかとも考えたけれど、私は他のメニューをすることにした。体力維持と体型を崩さないことが目的だから、必要以上に走るのは逆効果になる。
スポーツをするために身体を鍛えているわけではないから、他のメニューも簡単なものだ。考え事をする間もなく終わり、クールダウンしてから汗を流した。
着替えをして更衣室を出ると、エレベーター前の廊下で電話をしている人がいた。私が足を止めると、彼女も顔をこちらに向ける。
私のマネージャーさんだった。
彼女が会釈をして、一言二言電話の向こうの相手に言って、携帯を閉じた。
会社から与えられる二つ折りの携帯電話だ。もちろん、私用の電話も持っているのだろうけど、私が電話番号を知っているのは社用の方だけだった。
「お疲れ様です」
挨拶を交わし、エレベーターに乗り込む。彼女が押したのはモデル部門のあるフロアだった。
「上から話があるらしいので、お時間いただいてもよろしいですか?」
「はい」
それくらいならわざわざ待っていてくれなくても、メールしてくれればよかったのに、と思う。
彼女は今忙しいはずだ。私の他にデビューから見ていて最近売れ出した子を一人と、春からもう一人を見ている。
それ以上の会話もなくエレベーターが着いた。通された先には小会議室だ。
白いキャスター付きの長テーブルが四つくっつけられて、椅子がそれを囲むように並べられている。
中で待っていたのはモデル部門の現場でのトップの人だった。彼より上になると役員になる。そっちは私も会ったことはない。
事務的な挨拶をして、マネージャーさんが部屋を出て行く。
私は促されるまま、椅子に腰を下ろした。
「最近どう?」
軽い調子で彼が言った。久しぶりに聞いたけれど、聞き慣れた声音だった。
「おかげさまで、楽しく活動させてもらってます」
私が子役だった頃からの付き合いだ。
あの頃は少し偉いくらいだったけれど、私よりも先にモデル部門へ異動になり、今ではとても長い肩書きを背負っている。
はじめて会ったときはもっと痩せていて、白髪なんてなかったのだけど。
彼は茶色い封筒を私に差し出した。無駄話の嫌いな人だった。
とにかく一つでも多くの仕事をこなそうとする人で、私を使うと撮影がスムーズだ、と話してくれたことを思い出した。
中身は企画書のようなものだった。
私をアイドル部門に異動させることと、その後の展開について書かれている。
モデルの仕事も平行して行えることや、もともとある知名度や経験などを活かすことができるメリットが説かれていた。
「この間、ヨンカイから来たやつに何か言われなかった?」
ヨンカイというのはアイドル部門のことで、入っているフロアが四階にあるからそう呼ばれている。
この前の撮影に見学に来ていたプロデューサーさんのことを言っているのだろう。
「……いえ、何もなかったです」
「そいつが泰葉ちゃんのことを引き抜きたいってさ」
そんなことは思ってもいなかった。もう一度、私の手にある資料を見る。私と会話してから作ったのだろうか、それとも元から考えていたのだろうか。
思い返してみると、あれは勧誘だったのだろう。あの人の言葉に私が過剰反応して、勘違いしてしまったようだ。
「どうする?」
モデル部門としては私を手放しても痛手はないのだろう。彼が私に判断を委ねたということはそういうことだ。
高校の進学先を選んだときも似たようなことがあった。
事務所が懇意にしている私立校がある。そこには事務所の所属の子が何人も通っていて、授業や学校生活で便宜を図ってくれるところだ。
私はそこではなく、普通の高校を選んだ。活動と学業は両立させたいと思っていた。
普通の学校でなければ、それに甘えてしまい、勉強をおろそかにしてしまうような気がしたのだ。
進学前にそれを事務所側に伝えると、特に反対もされなかった。私の自由意志に任せてくれたのだ。
本来なら仕事に融通の利く学校の方がいいはずだ。
それが普通の学校に行くことを反対されなかったということは、事務所は私のことをほとんど戦力として見ていないのだろう。
どうするのがいいのだろう。
私は答えに迷い、彼に一つ訊ねた。
『楽しめること』はなんですか、と。
「そりゃあ――」
彼は胸ポケットに手を伸ばしかけてやめた。
「禁煙しているんですか?」
「ああ、うん」
噂程度でしか聞いていなかったけど、本当のようだった。お子さんが生まれるからしばらくはやめているらしい。
「金だな」
「お金……ですか」
「そう。じゃんじゃか仕事して、その分だけ金をもらう。楽しいぞぉ。男の価値ってのはそれで決まるからな」
「そういうものですか?」
「そういうもんだよ。同期のやつより給料がよけりゃ、会社がどっちを必要としてるのかわかる。泰葉ちゃんにはたくさん楽しい思いさせてもらったなぁ」
言われたそのときも覚えていなかったのだけど、私が子役のオーディションを受けたときに彼が一番私のことを推してくれたらしい。
そしてオーディションに合格した後は、私の仕事のほとんどを彼が担当していた。
忙しいという言葉では足りないほどだったあの時期、大変だったのは私だけじゃないだろう。
私をモデル部門に誘ったのも彼だった。辞めてしまうよりは使えるだけ使ってやろうという考えだったのかもしれない。
少なくとも、特別お金の稼げたことはないだろう。
「少し考えさせてもらってもいいですか?」
「明日一日な」
「わかりました」
私は頭を下げて小会議室を後にした。
電車の中は混雑していた。身体が触れ合うほどではないけれど、教科書を出すこともなく、私はつり革を掴んで立っている。
非常停止ボタンが押されたという理由で、私の乗った電車は駅の手前で停止していた。
人の背中で窓が見えないけれど、前の駅を出てから止まるまでの感覚では、駅はもう目と鼻の先だと思う。
私はどうしたらいいのだろう。
モデル部門に誘ったのは、あの人の『楽しいこと』とは違っていたのだろうと思う。
子役をやっていた頃とは違い、私は他の子と比べてお金を稼げるというわけではなかった。あの人の目がそれを見誤るとは思えない。
『楽しいこと』とは別の思うところがあったのだろう。そしてそれを通すために何かしらの代償を払ったはずだ。好き勝手が許される世界じゃない。
その一方で、私にちゃんと仕事を振ってくれていた。それもまた自分のやりたいことをした責任の形だったのかもしれない。
車内のアナウンスで、ホームの安全が確認できたため発車する、と放送された。電車が揺れて、つり革を掴む手に力が入る。
家に帰っても答えは出なかった。湯船につかりながら、縁に頭を乗せ、天井を見上げる。
「アイドルなんか私に務まるのかな……」
誘われたこと自体は喜ばしいことなのだろうけど、あの若いプロデューサーさんが、というのが気になる。
ちゃんと私のことを見て言っていたのだろうか。元々子役として名前が売れているから、アイドルにすれば売れる、なんて単純に考えているのではないか。
もし、そうだとすれば、受けた先に待っているのは今の活動と何も変わらない。何も見いだせないまま結果の出ているのかわからないような活動をするだけだ。
そうなってしまうのは嫌だ。モデルの仕事なら問題なくこなせる。だけど、アイドルの仕事はどうかわからない。
元は子役だったから。
そんな甘い考えでどうにかなるなんて思いたくない。
でも、このままモデル部門にいてもどうにもならないのはわかっていた。
誰かの言うことを聞いて、やりたいのかやりたくないのか、それすらもわからないまま続けていくことになる。
どうしたらいいのだろう、とふりだしに戻ってしまった。
答えが出るよりも先に湯船が冷たくなってしまいそうだったので、風邪を引いてしまう前に私はお風呂を上がった。
髪を乾かし、日課のストレッチをする。それが終わると、手鏡を持って、表情を作っていく。
笑顔を作ったときに、私はそれをじっと見つめてしまった。
何か変だろうか。私にはきちんと笑えているように見える。
それなのにどうしてあのプロデューサーさんは楽しくなさそうだと言ったのだろうか。
あのとき、私は撮影をつまらないと思っていたわけじゃない。だけど、楽しいとも思っていなかった。
それをなるべく出さないように気をつけていたというのに、あのプロデューサーさんはそれを見抜いたような口ぶりだった。
心から楽しむということは必要なことだろう。それができる人間は、そうじゃない人間よりもより高い表現ができると思う。
特に笑顔や明るい表情を作るときは、心の底でそう思っていた方が自然なものが出てくる。
悔しい話だけど、演技では絶対に作れない表情というのもある。
もちろん、すべてがそうというわけではない。
自然なものが優れているというのなら、人はドラマなんて見ないだろう。
だから、誰もがいいものを作ろうと努力するのだと思う。
その前準備の中にこうした練習がある。そこにはモチベーションの管理も含まれるだろう。
あのプロデューサーさんに言わせれば、『楽しい』という気持ちを持つことも。
私にはそれがない。楽しいという気持ちがない。
私には何かをしたいという気持ちがないんだ。
「なんでこんなこと、もっと早く気づかなかったのかな」
今まで私がしてきたことは、誰かに言われたことだった。大人の言うことを聞いて、笑えと言われれば笑い、泣けと言われれば泣く。
怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、誰かに必要とされなくなることが怖くて、自分の気持ちを出したことなんてなかった。
私はずっと誰かの言うことだけを聞いて生きてきたんだ。
こんな私に自分なんてあるはずがない。
手鏡の中の私はひどく歪んでいた。見ていたくなくて、私は手鏡を持つ右手を振り上げた。
「――ッ」
そのまま振り下ろそうとした。
だけど、見えない何かが私の腕を掴んでいるように動かない。
あのときと一緒だった。
私は自分のしようとしている行動を、それはいけないことだ、と止めているのだ。
物に当たるのは悪いことだ、飛び散った破片を片付ける危険性、手が傷ついてしまった後のこと。
悪いことをすれば嫌われてしまう。必要とされなくなってしまう。私はいらない子になる。
だから悪い子になっちゃいけない。
そんな私が育て上げた岡崎泰葉という外殻が、私を自由にさせてくれない。
諦めてあの日と同じように手を下げてしまえ、と私に囁きかける。
プロデューサーさんが見抜いたように、私には何もない。誰かに言われたことをやるだけで、楽しいなんて思っていない。
楽しいと思えることなんて何にも。
でも、それならどうしてプロデューサーさんは私をアイドルに誘ったのだろう。
何もない空っぽの人形だって、あの場でわかっていたはずだ。
前々から私を誘うつもりだったとしても、そうわかっていたのなら話を取り下げるだろう。
プロデューサーさんの言葉が蘇る。楽しみたくはないか、という問いかけ。
あれは私のことをアイドルに誘う言葉だった。私の気持ちをわかっていて、それでもあの人は私のことを誘っていた。
私の気に触る言い方だとわかっていても、あの人はそれを口にした。
私が怒り、嫌われるかもしれなくても、あの人は自分に自信を持っていたから、自分の心に従ったのだろう。
自分で決めたことを、自分でやり通そうとしたのだ。
あの企画書も言ってしまえばその責任ということになるのだろう。私をスカウトしたことを表面だけの言葉にしないために。
それに引きかえ私はなんなのだろう。
感情に身を委ねることもできない。誰も見ていない自分の部屋なのに、誰かの目に怯えている。
本当に自分が嫌になる。
今度こそ私は自分の映った手鏡を振り下ろした。
フローリングの床に叩きつけられた手鏡はいとも簡単に粉々になる。散らばった鏡の破片は部屋の照明が反射して眩しかった。
「う、うぅ……」
身体から力の抜けてしまった私はフローリングの床にへたりこむ。
声を上げないようにしたけれど、喉の奥から出てくる濡れた声を抑えることができなかった。
子供のように声を上げたことで、そのときの記憶が一緒に記憶の底から上がってくる、
私がお母さんに子役のオーディションを受けたいと言ったのだった。
正確にはテレビに出たいと駄々をこねたのだ。
私もああなりたいって、お母さんにわがままを言ったのだ。
私はテレビで見たきらきら輝く世界の住人になりたかった。自分もお姫様のようにきらきら輝くようになりたいと思った。
そっか。私がしたいことは――。
「……まだこの世界にいたい」
声に出した言葉は鼻声なんてものじゃなく、もしも明日演技の仕事があれば怒られてしまうのがわかるようなものだった。
私が夢見た人たちのように輝いて、夢を見せたい。
あのプロデューサーさんはその道を私に示してくれた。
それなら、私も自分で選ぼう。
怒られるかもしれない、自分は向いていないって突きつけられるかもしれない。
それでも、私は自分で選んで、その結果を受け入れたい。
私は立ち上がって、掃除機を取ってきた。床に散らばった鏡の破片を片付けなければいけない。
大きな破片をゴミ袋に入れていく。
「……ごめんね」
自分の勝手で物を壊してしまった。後悔はしていないけど、罪悪感がないわけじゃない。
こんなこと、もう二度としないだろう。
掃除機をかけ終わったあと、フローリングの隙間にまだ破片が落ちているのに気がついた。
しゃがんで割れた断面に触れないように手を伸ばす。
「痛っ」
気をつけていたつもりだったのに、人差し指に朱い珠が浮かんでいた。じわりと大きくなり、やがて珠が崩れて一筋の線になる。
破片はゴミ袋に捨て、私は洗面所で指先を水で流す。
蛇口から出た水が触れた瞬間、電流のように痛みが走って、顔をしかめた。
人差し指には紙で切ったみたいに小さな筋が走っていた。身体に傷をつけてしまうなんてプロ失格だな、と思う。
家の中を回った絆創膏がないか探したけど、見つからなかった。
お母さんに聞こうにも、今日も仕事で遅くなるとメールをもらっている。
「絆創膏がどこにあるかもわからないなんて」
思わず自嘲してしまう。身体に傷をつけたのなんていつ以来だろう。
傷ついた人差し指を、反対の手で包んだ。指の先が、ちくり、ちくり、と痛みを訴えている。
「痛い――」
傷のあるところだけが熱を持ったように他よりも温かくなっていた。
学校が終わって、私はそのまま事務所に着ていた。
エレベーターが待ちきれずに、階段で四階へと足を運ぶ。
親指で人差し指の先を撫でると、ざらりとした絆創膏の感触がした。確かめるようにそこを押すと、小さな痛みが生まれる。
絆創膏はあの日のうちに買いに行った。外は真っ暗で普段は出歩かないような時間に、私は近くのコンビニまで歩いて行ったのだ。悪い子だ。
四階の目的の部屋へと赴く。ノックして入ると、教えてもらった通り、目的の人がいた。
「おはようございます。岡崎泰葉です」
連絡されていたのか、プロデューサーさんは特に驚いた様子がない。少し残念に思いながら、話を続ける。
「あれから、『楽しめること』について、考えてみました」
その結論はまだ出ていない。どうすれば楽しめるのか、私にはその答えがなかった。
「……私は、まだよくわかりません。でもあなたならその答えを持っているかと思って」
プロデューサーさんの見せてくれるものが、私にとって楽しめることであるとは限らない。
だけど、何も考えなしに言った言葉ではないだろう。
私はそれを信じたい。
新しい世界に連れて行ってくれるこの人を信じたい。
私の可能性を信じてくれたこの人のことを。
「詳しいお話を、聞かせてもらえますか?」
自分で言ったのだから、責任を取ってくださいね、と私は心の中で付け加えた。
――了――
以上です
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