後輩「また死にたくなりましたか?」 (1000)



「大きくなっても、ずーっと一緒にいようね! 」


ここ数ヶ月、同じ夢を見る。最近まで忘れていた幼い頃の淡い記憶、のようなもの。その夢の最後は決まってひとつの約束をする所で終わる。見晴らしのいい場所で、この約束をする所でだ。

夢の続きが気になり、夢の中の時間と格闘するのだが、いくら目覚めまいと、それを見ようとすれども、固く閉ざされた分厚い扉のようにそれ以上の続きは見ることが出来ない。

自分の中で美化されているから曖昧にしか覚えていないのかもしれないが、それも案外悪くないのかもしれない。

とはいえ、そんな約束をした相手が居るというのは少し自慢になったりして、友達に自慢した。鼻で笑われた。ちょっと悔しい。

ベッドから身体を起こし、辺りを見渡す。
外の景色はまだ暗い。時計は4時を指している。

瞼が重い。もう一度寝よう。



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「ハル、いつまで寝てるの?」

ぼんやりする視界の中、目の前には自分を起こしに来た姉が立っている。高校3年生にしては身長が低く(本人はかなり気にしているらしい)かわいらしい姉である。
前に妹扱いしたら真顔で死ねって言われた。

「ん、もうちょっと寝ようよ。一緒に」

そう言って布団の中に姉を引きずり込もうとする。姉はそれをひらりと躱した後、困ったようにため息をつく。

「バカなこと言ってないで早く起きて朝ごはん食べて。それにちーちゃんも来るでしょ?」

ちーちゃん。ちーちゃんというのは、近所に住んでる同級生の女の子。所謂幼馴染というやつだ。


どんな子なのと聞かれたら、とりあえず美少女ではある。

身長は大きくもなく小さくもなく、小学校の大半は俺の方が身長が低かった。タレ目で小動物みたい、ファンクラブとかありそう(中学の頃にはそんな大それたものではないにしろ小規模なものはあったらしい)
こんな幼馴染がいると知られたら、どこかで誰かに呪われそう。

来ると言っても朝起こしにきたりする訳でもなく、彼女の部活の朝練に間に合うように家の前に来た彼女といつも一緒に家を出ている。
正直言うと自分はもっと寝てたい。学校は近いわけではないし。

まあ、二度寝でもして姉に迷惑かけるのも嫌だし起きるとしよう。目を開き、部屋を出る。

朝食はいつも姉が用意してくれている。親はまだ寝ている。毎日遅くまで働いて、俺達が学校に行った頃に起きてまた会社に行く。この生活はもう3年くらい続いている。

家事は最初の方こそ一緒にやったりしていたのだが、ここ数年はもっぱら姉に頼りっきりである。

「あんたさ、今日バイトだよね? 」

「うん、だから晩飯用意しなくていいよ 」

「できるだけ早く帰ってきなよ 」

「なに、寂しいの? 」

「……そうじゃ、なくもないけど、さ…… 」

姉の顔を見ると頬がほのかに赤くなっている。どうしたの、と思わず気になって聞いてみる。

「……なんでもないよ」

と言いつつも、顔は赤いままだ。姉との、こういうなんでもない朝のやり取り。変わらない日常。


俺は、そういうものが一番好きだ。




朝食を食べ終わり、身支度をして家を出る。家の前には、幼馴染の女の子。電子端末を片手に持ちながら待っている彼女に、なんだかなーと思いつつ、声をかける。

「おはよ、千咲 」

彼女はそれまで気付いていなかったようで、慌てて手に握っている物をバッグの中に入れ、こちらに向き直る。

「あー、おはようございます。今日も遅いですね 」

「うん、待たせてごめんな 」

「……はーくんは何度言ってもわからないので、しょうがないですねー 」

そう言って彼女は頬を膨らます。口調からして、本気で怒ってるわけではなさそうだが、機嫌が悪くなっては困る。

「いや、ほんとごめんな。なんなら、毎朝待ってなくてもいいのに 」

そのほうが俺も多く寝れていいしさ…とまでは言わなかった。

彼女は少し下を向いて、何か考えているような、神妙な顔をしている。

「いや、別に一緒に登校したくないとか、そういうことじゃないからな?」

自分で言ってから、どこのツンデレだよと少し後悔した。

「……それならいいです 」

「私がはーくんを待ってるの、ずっと続けようって思ってることで、はーくんだって早起きできていいと思うし…… 」

「それに…… 」

彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
「それに?」と思わず聞き返す。

「朝くらいしか、一緒にいれないと思って 」

「お、おう……そうか 」

こう、面と向かって言われるとなんて返答をすればいいのか困ってしまう。
うまい返答ができればいいのだが、自分には無理らしい。

彼女はほのかに笑みを浮かべている。

「ほら、ちょっと急ぎましょ?」

最寄り駅までの道のりを、彼女と2人、進んでいく。




校門の前で、体育館へ向かう彼女と別れ、教室へ向かう。

教室には先客が1人。

「あ、ハル。おはよう 」

彼の名前はコウタ。いつも朝早くから学校にいる。

コウタとの付き合いは高校から。たまたま入試の時の席が前後で、たまたま2年間同じクラス。

人付き合いがあまり上手くない自分にとって、この学校で初めて出来た友人であった。

成績優秀で、科目によるが学年トップを取ったりする。でもちょくちょく学校をサボる。あんまりつかみどころのない性格だが、話していて退屈しない。

「ハルは今日も、片桐さんと登校か? 」

「そう、もう慣れたかな 」

「今まで言わなかったけどよ、どこからどう見てもお前らカップルじゃないか? 」

コウタに千咲のことで何かを聞かれたのは初めてのことだった。はっきりしない関係だとは自分でも理解はしている。

でも、俺は千咲のことをどう思っているのだろう。

だから、俺はいつもそうやってきたように言葉を濁して、「そんなんじゃないよ 」としか言う他なかった。

「好きなやつとか、いないんだろ? だったら片桐さんとそういう仲になるのも、悪くないんじゃないか? 」

「あぁ……好きな子、か……」

「なに、いる感じなの? 」

「好きな子…って言うか、気になる子…? 」

「どんな子? 俺が知ってる人? 」

「前にお前にも言ったことあるだろ、夢の話 」

「あー…… でもあれってハルの妄想じゃなかったっけ? 」

……たしかに妄想なのかもしれない。でも、だとしたら妙にリアル。
女の子の容姿が、好みにどストライクで(別にロリコンというわけではないが)夢の中で惚れそうにはなっていた。

「まぁ……もし仮に現実だとしたら、会ってみたい、とは思うな 」

これは本心だ。会ってどうにかなるわけでもないし、昔の約束だから覚えていなくても無理はないけれども。

「ハルがそこまで言うなら、きっと現実なんだろうな 」

そう言って信じているんだか信じていないんだかわからない風に彼は笑う。なんだか慰められてる気分。でも別に悪い気はしない。

また何か思い出そうと、あれこれ考えていると時間は早く過ぎ、予鈴がなる時間になっていた。

考えていても埒があかないので、とりあえず昨日の授業のノートを出して眺めてみるものの、内容はちっとも頭に入ってこなかった。



「今週で学校は最後だぞ。最後の週だからってお前ら油断するなよ 」

担任がSHRでそんなことを言った。
彼は背が高く目鼻立ちのしっかりした若い人で、女子の間で密かに人気があるらしい。
「めんどくせぇ……」が口癖で、17時以降彼の姿をこの学校で見た者はいないという。
大丈夫なんだろうか、この学校。


……来週から夏休みか、と思うけれど、夏休みといっても特にすることに変わりはない。
コウタとたまに遊んで、課題も無理のない程度に進めて、バイトをして、と普段と全く同じである。
高2の夏、これでいいのかな……と思いつつも、変わらないことに対する幸福感もあった。

自分はひとつのことを考えると、他のことは考えられなくなる性格であるし、テスト明けの授業というものは聞こうという気にすらならない。


関係詞がどうの、敬語がどうのとかいう授業は普段なら、まだあれこれと考えながらも耳には入っては来るのだが、その日に限っては全く耳に入ってこなかった。



放課後になり、バイト先へと向かう。バイトはコンビニで、家と学校の中間地点、よりちょっと家の近くにある。

週4勤務だとあまり稼げるわけでもないのだけれども、なんだかずっと家に居てもなにもすることはないし、なにより親にずっと頼っているのもな……と思い、高1の夏から働き始めた。

特にお金を使いたい趣味があったりするわけでもないが、夏休みのシフトも、今年の夏は稼ごう! と考えて結構きつめに入れておいた。


客の入りが無いときに、同じシフトの大学生のお姉様系先輩に声をかけられた。

「どうよ、今年は。彼女とかできた? 」

なんだかそんなことばかり聞かれる日だった。
そんなことを言う彼女は、年上独特の雰囲気を纏っている。姉と2つ、自分と3つくらいしか変わらないのになぜかとても大人に見える。

「いや、できてないです。夏休みの俺のシフト見ましたよね? 」

「あー、見たよ。聞いてみただけ、世間話の一環だよ。きみ、なかなかモテそうだし 」

モテません。関わりのある女子だって、片手で数えることができるほどしか居ない。

「いえ、全然モテないです。告白したこともないですよ 」

隠すこともないので、正直にいっておいた。

彼女はふーん、と言って一瞬つまらなそうな顔をした。

「今年の夏は、いいことあるよきっと 」

そう言って笑みを浮かべる彼女は、やっぱりなんだか自分よりもずっと大人に見え、自分がまだ子どもであると痛く感じた。



バイトが終わる時間になると、辺りはすっかり夕焼けに染まっていた。
うちのコンビニは、場所のわりに弁当の廃棄が多く、週に何回かは食費も浮くから廃棄を貰って食べることにしている。
しかし、今日はなぜかひとつも廃棄はなかった。

まずったな、と思う。
姉に夕飯を要らないと言った手前、なにも食べてきませんでした、というのも忍びない。
とりあえず缶コーヒーを買い、時間を潰そうと、いつもの場所へ向かった。

バイト先から家までの道のりで、少し石段を登ったところにある高台。
展望台のようになっていて、街の景色を一望できる。
そこにはベンチとテーブルがあり、食事ができるようになっている。
今日の展望台は、夕焼けも相まって、なんだかいい感じ。

高いところって、なんだかセンチメンタルな気持ちになれるものだ。

物思いに耽っていると、後ろから目を隠された。

「だーれだ」という声がするが、こんなことをするのは知り合いのなかでこいつしかいない。

「お前か」

手を外され、そいつが立っている方を見ると、やはりそこには後輩の「なぎさ」がいた。

長めの髪のポニーテールに、整った顔つき。身長は165㎝くらいで、少し大きめ。顔の作りは整ってるけど、あどけなさも残っている、ザ・後輩って感じの女の子。一緒にいると周りとは少し違った空気を感じられる、そんな感じの子。
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この後輩は同じ中学出身で、春に同じ高校に入ってきた。

「はい、こんにちはっす。先輩 」

たまに語尾に「っす」をつけるのが少し面白い。

「こんにちは……っていう時間でもないと思いますけど 」

意味のないことを聞いてみた。

「べ、べつにいいじゃないですか。それともあれですか? グッドイブニングとか言いますか? 」

「いや、言わないけど 」

「だったらなんでそんなこと聞くんですか! 」

と、なぎさは体を大きく動かす。オーバーリアクションなところもなかなか絵になる。動くたびにいろんなところ(どこと明言するのは控える、が豊かであるそれ)が揺れている。

ただの気まぐれだよ。と言うとなぎさは、「そうですか、隣、座りますね 」と言って俺から人ひとり分くらい空けてベンチに腰掛けた。

「そういえば、先輩とたまにここで話すようになって、もう3年くらいですか? 」

言われてみると、確かにこいつとここで初めて会ったのは、中3の夏くらいだった。
あの時はたしか、家に帰るまでに時間を潰さなくてはいけなくて、下校途中に寄り道をしたくなって、ここでぼーっとしようと思っていたら先客がいて、自分と同じ中学校の制服だったから話しかけたんだっけか。

「あー……もうそんなに経つのか。でもこれと言って中身のある話してないよなぁ……」

「そうでしたっけ? 」

なぎさとここでした話を思い出して見ると、あの教員がうざいだとか、昨日のテレビがどうだったとか、妹と喧嘩したとかそんな他愛のない話ばかりだった。

「うん。でもまあ、好きだよ、楽しいし 」

「はい、わたしも、そう思いますよ 」

話はするけれども、お互いにそこまで入り込むこともない関係。自分にとっては心地よいものであった。

買った缶コーヒーを啜りながら、夕焼けと街が綺麗だな……と思っていると、後輩が突然立ち上がった。

「あの、先輩。夏休みの間、バイトしようと思いまして、先輩と同じところって大丈夫ですか? 」

「ほう、人員的には空いていると思うけど、なんでまた 」

「えっと、社会経験? 」

特に意味はないらしい。ま、大方お金が少し欲しいとか、暇だからとかだろう。

今働いてる人は、店長、お姉様系先輩、メガネ君、大学生ABC(喋ったことはない)、あとはパートの奥様何人か、しか知らない。

店にとっても都合がいいし、自分にとっても暇なときの話し相手という点で都合がいいので、二つ返事で返しておいた。

「じゃ、店長に言っておくから、今週中に面接受けてね 」

「はい、わかりました。よろしくお願いします 」

そのあと、一言二言交わした後に、暗くなって来たから帰ることにした。
一応、送ってくよと言ったが、近いので大丈夫ですと言われた。なんだかんだでこいつの家しらないんだっけ。

なぎさと別れてから、家への道を歩いていく。

先程まで、夕色に輝いていた空は、紫色に変化し、星が見えるほどになり、あたりに人は1人も居なくなっていた。




帰宅して、自分の部屋に入る。

なぎさと話していたときは気が紛れていたのに、1人になるとまたあれこれと考えてしまう。

面倒なのは、解決しようがないってことか。
内容自体は少ないのではあるが、考えることが多すぎて、結論どころではなくなってしまっている。

どうしよう 男心と 秋の空

……今夏じゃん、馬鹿じゃねぇの。
俺は考えることを放棄した。


その夜は、すぐ風呂に入り布団にくるまって寝た。




早く寝た日は、必然に早く目が覚める。窓からの朝陽。カーテンを閉めるのを忘れていた。

部屋にいても二度寝するだけなので、リビングに降りた。

姉がすでに起きていて、朝ご飯を作っている。


小学生みたいに、ごはんまだー?と言ってみる。
姉は怪訝そうな顔を一瞬した後、まっててねはるくん、とすっげえ棒読みで言った。はるくん、というのに何か少し引っかかった。

多分、あれだな。養われたい願望。待ってたらご飯が出てくる。さいこう。いや、いつもだけどさ。

なんかどこかから養ってくれる許嫁とかお嬢様だとかが現れないかな、と少し考えたが、どう考えてもギャルゲ並みの妄想だった。

なにより、今とそんなに変わんなくねと思った。あれ、俺恵まれてる?

感謝の気持ちをこめて、姉の頭を撫でてみる。

「……え、あの 」

悪くない反応。

わしゃわしゃと撫でてみる。犬っぽい。

「……妹扱いすんな、ばか 」

調子に乗りました。

その後もなんだか落ち着かなくて、多分まだ家にいるであろう千咲に軽く連絡をして、もう家を出ることにした。

久しぶりに1人で向かう通学路は、なんとなく中学を思い出した。

学校に到着する。今日は一番乗りだった。何かしようかなと思って参考書とにらめっこをする。

すぐ飽きた。

机に突っ伏して寝ていたら次に教室に来たコウタが起こしてくれるだろう、きっと。別に対して眠くもなかったのだが、朝ということもあり、五分やそこらで眠りに落ちていった。

「ねぇ……いつまで寝てんのかな」

後席の女子に揺すり起こされた。はっとして周りを見渡す。コウタの姿はない。サボりか……と一瞬で納得する。

担任があいつはどうした、と面倒そうに聞いてくる。俺に聞くなよと思ったが、いつもつるんでいるので仕方がない。一応彼のために当たり障りのない返答をしておいた。

うちの学校はかなり適当な学校だ。まぁこんな教師もいるぐらいであるし、かなりの放任主義で、仮に学校を無断欠席したとしても家に連絡なんて一切されない。でも学力はそこそこ。地元ではそれなりに人気のある高校だ。

後席の女子に一応さっきの礼を言うと、最近どうなの、と言われた。昨日も誰かに聞かれた気がする。

「まぁ……ぼちぼちってとこかな 」

つまらない人とも思われたくないから、含みのある返答をしてみた。

後席の女子はちょっと驚いたような顔をして俺の顔を少し見つめた後、なにかに気付いたような顔をした。

「いや、そうじゃなくて。あの子と 」

あの子というのはきっと千咲のことだろう。

書き溜め結構あるので、まったりやっていきます
改行が反映されてないミスをしたので次から修正します、すみません

前立ってた気がするんだけどやり直しかな

>>14

訂正 14 → 番号消し忘れました

>>25
ちょっと内容変わってますが、その通りです

 近頃起きたことを考えてみても特に何も思い浮かばない。

 うまく答えられずにいると、

 「夏休み、どっか行く? 」

 突然のお誘い。2人でならぜひ、と言ったが、反応的に意味が違っていたらしい。

 「……ちーちゃんとだよ。あれなら私も着いて行く? 」

 男女比1:2。街でたまにそういう人が居るけど、殺したくなるよね。
 あれなら、というのは心配ならという意味であってるはずだ。べつにもう何十回何百回と2人で出かけているのだから緊張とかそういうものは感じない筈ではあるのだが。

 まぁすぐ断ると後に影響するかもしれないと思って、必殺技を使った。

 「特に用事もなければ、行けたら行く 」

 魔法の言葉です。

 「それアンタ絶対来る気ないでしょ 」

 ばれた。愛想笑いで誤魔化しておいた。

 休み時間、トイレから教室に戻っていると、クラスメイトの加藤に声をかけられた。

 「さっき、吉野さんとなに話してたんだよ 」

 思春期男子は男女の会話に敏感らしい。

 「べつに? 世間話だけど 」

 「それにしては、なんか誘われてなかったか? 」

 ……盗み聞きかよ。

 はぁ、とため息をつきたくなるのを寸前でグッと抑えた。
 なんでもない、と言っても結局は勘ぐられるだけなのは目に見えている。

 そもそも、後席の女子ーーー吉野さんも悪い。男子と事務連絡以外で喋っているのを見たことがない。俺ですら例外だったりする。

 吉野さんはクラスの男子たちがかわいい子は誰だと議論するときに必ずでてくるくらい人気の女子だ。

 その唯一喋る俺というのも、たいてい千咲繋がりのことでしか話さない。

 だいたい俺自身も口下手で、女の子と話すときだって最初の方は緊張する。
 話をする女子だって限られている。その人がたまたま美人だっただけであって、自分はなにも悪くない。

 「ごめん……本当になにもないからこれ以上は聞かないでくれ 」

 そいつはそれ以上はなにも聞いてはこなかったが、後ろめたいような気持ちで心が支配された。



 放課後になり、なぎさがバイトの面接に来た。

 店長は俺の知り合いということもあってか、ほぼ顔パスでその場でOKを出していたようだった。
 いろいろとわからないことがあるだろうし、夏休みの期間中だけでもあったので、俺と可能な限り同じ時間にシフトを組んだらしかった。

 なぎさは面接が終わるとぺこりと挨拶をして、そそくさと帰っていった。
それを見ていると、先輩が俺の方を見てニヤニヤしていた。

 バイトの終わり際、先輩に「いいことあったじゃん、さっそく 」と言われた。
 何のことについてなのかは、気付いていないふりをした。

 その夜、家に帰るとリビングに明かりは付いていなかった。
 姉はもう寝ているか、部屋にいるだろうと思い、二階に上がる。

 部屋の電気が付いていたので、姉が起きているのを確認して、自分の部屋へ入ろうとする。

 姉の部屋からは一切音がしない。

 これは自分の推測でしかないが、姉は時折、ひとりで泣いていることがある。朝に目を腫らしたままご飯を作っていることもある。原因はわからないし、自分が仮に聞いたとしても教えてはくれないだろう。
 だから、いつも姉に聞くことはできていなかった。今回も姉の部屋の扉の前に立ったまま何もすることができなかった。

 気丈に振る舞って自分を元気付けてくれる姉も、どこかで何かと戦っているのだ。
 そう考えると自分の感じてる疑問なんて、とても相談できる状況ではないだろう。

 部屋に入ると、スマートフォンの通知音が鳴った。
 画面を見る。コウタからだった。ベランダに出て、電話に出る。

 「もしもし、俺だけど 」

 「おう、どうした? 」

 「……あぁ、いやさ。加藤から聞いたんだけど、お前吉野さんに遊び誘われたの? 」

 「まあ、そうだけど…… 」

 「……けど? 」

 「千咲と一緒に……っていう条件付きだし、積極的に受けるつもりで返答はしてない 」

 話が広まるのがはやい。

 「……いや、お前さえ良ければなんだけどさ、4人でどっか行かね? 」

 あぁ、そうか。こいつ吉野さんのことが気になるのか。

 「……俺にメリットがないんだが」

 「いや、あるだろ。デートだぞデート。またとないチャンスかもしれないぞ 」

 ……そのデートですらも価値があるものかわからないのだが。
 一応友達の頼みだし、言い分くらいは聞いてみるか。

 「まあ俺のメリットは一旦置いといて、お前の目的は? 」

 「……吉野さんとお近付きしてあわよくばいい感じになりたい 」

 正直なやつだった。ここまで正直に言われたからには、無下にはできない。

 しかし、人の都合に、ひいては人の恋路に首を突っ込むことは如何なものなのか。

 「まぁ、そこまで言うなら。でも協力……とかそういうのは期待しないでくれ 」

 「……あぁ、わかってる。でもあれだ。結局どう転んだとしても決めるのは俺だからお前がそんなに考える必要はないぜ 」

 ……そう言われると、変に気を使う必要もないし、有耶無耶にしようとしていたこともはっきりできるかもしれない。

 「……わかった。じゃあ言っとくわ 」

 「さんきゅーな。お前も片桐さんとがんばれよな 」

 「何度も言うけどそう言うんじゃないから、本当に 」

 「はいはい、まぁ相談とか乗ってくれや 」

 その後、今日の学校の話などをして電話を終えた。

 ただ、遊びに行くだけ。それ以上でもそれ以下でもない。思い詰める必要なんて、これっぽっちもないんだ。



 「それで、結局先輩は行くことにしたんですか? 」

 夕暮れ。いつもの場所で、なぎさに遊びの件を伝えた。

 「まぁ、一度受けてしまったもんはしょうがないね 」

 「……でも珍しくないっすか?
先輩はいくら押されてもそういうのを拒否する人だと思ってたのですけれど 」

 どんな偏見だ。

 「いや、そうでもないよ。誘われたら大抵断らないと思う 」

 いつもすぐ返答をしてくれるのに今回は反応がない。
 なぎさはきょとんとした目でこちらを見つめている。

 「……じゃあわたしが誘っても遊びに行ってくれますか? 」

 「……」

 何言ってるのこの子。こういうキャラだっけ? 嬉しいことには嬉しいけれど。

 「……い、いや、ちがうんですちがうんです。そういうつもりじゃないといいますか 」

 早口でまくし立てられた。その様子を見て、思わず「あはは」と笑ってしまう。

 「なんで笑ってるんすか! 」

 まるで頭の上に怒りマークが乗ってるのが見えそうな様子だった。

 「……いや、単純におもしろくて 」

 「……えっと、あの、忘れてください 」

 なぎさからの誘いは普通に嬉しいし、悪い気はしない。
 だから、あまり深く考えずに答えることにした。

 「まぁ、夏休み中……そのうち、な 」

 これで問題ない……はず。

 「……ちょっと誤魔化すみたいに言うあたり、先輩らしいですけど、許してあげます。
 じゃあ、バイトがひと段落つくお盆あたりに2人でどこかいきましょうね 」

 答えてからなんだかモヤモヤしてきた。行ったら行ったで楽しいのは目に見えているけれども。

 「……わかった。でもあんま期待すんなよ 」

 やっぱり予防線を張っておくように行動してしまう。こういう所がズルいと自分でも思う。

 「心配しなくても大丈夫っすよ、私は先輩と居るだけで楽しいので 」

 ほんとかよ、と思わず口に出してしまったが、間髪入れずにほんとですよと返された。

 なんか最近はよくペースを乱される。

 ほどよく暗くなるまで話をして、帰路についた。




 人間関係なんてものは不確かなもので、信用に値するものなのかはわからない。

 たとえそれが、どんなに信頼の置けるような、そんな人が相手だったとしても。

 ときには、自分の信じていたもの、信じていた絆、そんなものが短期間に、一瞬でひっくり返ってしまうことだってある。

 それを経験してしまったから、いつも斜に構えて、目の前のことを素直に楽しめなくなってしまったのかもしれない。
 いつも冗談っぽく振る舞って、相手に対して予防線を張ってしまうのかもしれない。

 結局は、臆病になってしまった自分が情けなくて、不恰好で、でもそんな自分が嫌で、認めたくなくて、現実から逃げてしまっているのだ。

 それが克服できないうちには、誰に対しても、何に対しても、行動を起こすことなどできないはずだ。


 その夜、あれこれを終えて自室に入り、スマートフォンを確認すると通知が一件。

 それは、夏休み(3)というグループからの招待だった。
 思った通り、グループのメンバーは、コウタ、千咲、そして吉野さんだった。
 グループに入るとすぐに画面が埋まっていく。どうやらもう先に話し合っているようであった。案外、というか必然か? みんなノリノリである。

 「どこにいくことにしたの? やっぱり映画とか? 」

 「まだ決まってないよ 」

 「そっかそっか、じゃあ決まったら教えてくれ 」

 それだけ打って、返信を見ないうちに通知を切り、電源を落とした。



 それから、夏休みまでの学校の時間は驚くほどはやく過ぎて行った。

 例の遊びの件については、結局のところ駅前の商業施設でぶらぶらするということになったようだった。

 俺が行くと決めたことについて、吉野さんはかなり嬉しそうにしていたらしい(そこらへんについて掘り下げて語るのは避けることにする)。

 日程は、千咲が一日中部活が休みのとき、ということで夏休みが始まって3日目か7日目ということになった。

 その後も合宿、遠征で忙しいやらなんやらで、その日しか空いていないということだったが、俺を含めての4人は学校での課外講習や補講などを取っていなかったため、その日なら、となった。

 恐らく、聞くからにして7月終わりだろうかな。手に握られた電子端末を操作して予定を確認する。日中なら大丈夫。

 「たぶん、26か27なら大丈夫 」とグループラインに投げかけてみる。

 「り 」とコウタが。

 りってなんだよ。
 省略しすぎだろ。近頃の若者は、って俺も若者か。

 「じゃあ26日、12時にモール前集合で! 」

 吉野さんがそう言うと次々と千咲とコウタがGOODみたいなスタンプを押すので自分も押しておいた。

 LINEで自分がうったものの後に何もないと不安になるよね。話題は切れてはいるのだが。

 意味もなく5分くらいスマートフォンの画面を眺めていた。

 とりあえずそのままブラウザを開いて適当なサイトを見てみる。

 ……無駄にエロい広告。人が二階から落ちてくるわけねーだろ。

 リビングでニヤついていると姉から絶対零度の視線を向けられる。キモいから今すぐ消えろとでも言いたげな。

 姉は、はぁ……と小さくため息をついたあとにペンを握りなおして勉強を再開したようだった。
 邪魔なら自分の部屋で勉強すればいいのに、とも思うがリビングの方が集中できるというのも少しわかるので言わないでおく。

 邪魔にならない程度に少し話題を振ってみる。

 「そいえばさ 」

 「……なに? 」

 「夏休み中の里帰り、というかおじいちゃんの家に行くの、今年はどうするの? 」

 実際気になるところではあった。
 姉は受験生ではあるし、貴重な夏休みを使って遠出はどうなのかと。

 「もともとは勉強するから行かない予定ではあったけど。
 ハルが寂しいなら一緒に行ってあげてもいいよ 」

 やっぱそうか。寂しいって言えば、一緒に行ってくれるんだろうけど迷惑はかけられない。

 「了解、1人で行ってくる 」

 姉はうん、と相槌をうった後少しばかりの沈黙のあと何か思いついたように

 「誰か友達と行ってくれば? 」

 「あー……。考えておく 」

 「……ちーちゃんとかいいんじゃないの? 」

 いいのか?いいのか。昔会ったこともあるし。とはいえ8月に入ってからは忙しいと言うのは既に聞いている。

 「千咲は8月中は部活で忙しいって聞いたから多分ムリ。1人で大丈夫だよ 」

 「ま、ハルにそこまで仲良い友達を期待しちゃダメか 」

 ……それは普通に失礼だと思うんだ。

つづきます




 次の日の朝、目が覚める。

 目の前に、千咲。

 夢かと思って再び寝る。

 揺すり起こされる。

 「……なんでいるんだよお前 」

 「きちゃった、ですよはーくん 」

 「……」

 きちゃった、じゃねーだろ。寝てるときの顔なんて、大抵不細工だし、その、よだれとか垂らしてるかもしれないし。

 「……まぁまぁ、私とはーくんの仲じゃないですかぁ 」

 「どんな仲だよ…… 」

 「ほら、昔は一緒にプール行ったりとか、お風呂とか入ったりしたじゃないですか 」

 たしかにそれはそうなんだが、それとこれとは違くないか。


 「……で、なんだよ、要件は? 」

 「昨日楓ちゃんと服を買いに行ったんですよ。それではーくんに買った服を着てる私を見て欲しいなぁって 」

 「……」

 あぁ。どうりで見たことない服だと思った。白いスカートがフリフリしていて、かわいい。いつもと違った感じで、ちょっと慣れないけれども。

 「あの……そんなにじろじろみないでくれるかな……? は、恥ずかしいっていうか…… 」

 恥ずかしいのはこっちのほうだってのに。
 千咲を部屋の外に出すために着替えを取り出す。

 ……出て行く素振りはない。

 「……あのさ、着替えるんだけど 」

 「それって私でていかなきゃダメですか? 」

 ダメだろ。千咲の手を取ってドアの外に追放して、自分は中に戻って鍵を閉める。

 「……一階にいってますねー 」


 距離が近いのも困りものである。

 なまじ幼い頃から一緒に居たから、境界線が不明瞭。異性として見られてるのか、友達の延長線上として見られてるのか検討すらつかない。

 千咲はあんなんだから、小学校高学年になって完全に性別の違いを意識し始めたときは勘違いしそうになることが少なくなかった。

 でも、あれが普通。あれが彼女にとっての普通であるから、俺が境界線を越えるようなことは絶対にしない、というかできない。

 彼女なりに空白を埋めようとしてくれているのかもしれない。昔みたいに振る舞うのも、それでなのかもしれない、と勝手に納得しておいた。




 着替えを済ませ、一階のリビングに向かう。
 スマートフォンで日付を確認する。今日は24日、遊びまであと2日か。

 姉と千咲に今日の予定を聞く。

 「午後から塾 」と姉。
 「午後から部活 」と千咲。

 「午後からバイト 」と付け足す。

 「じゃあ、午後まで遊ぼっか 」

 当然の流れで姉がそう口にする。
 テレビをつけて、スマブラを始める。当たり前だが俺は接待プレイ。

 使用キャラは俺がプリン、千咲がディディ、姉がソニック。2人ともガチキャラで辛い。

 最初の方はプリンでも圧勝していたが、さすがに動きを読まれたり、見よう見まねで連続掴みとかを習得して千咲がどんどん強くなっていった。
 十数回するころにはもう順位は変わっていた。姉と千咲、どちらも、コツを掴んだのか嬉しそうな顔でプレイしている。


 女の子とテレビゲームってのも、なんだか新鮮。

 飽きてきたころにソフトを変える。次のソフトはゾンビU。ザ・ホラゲーみたいなもの。

 姉と千咲は初プレイみたいだったので、2人に任せて俺は後ろからみてることにした。
 雰囲気を出す為にカーテンを締め切って、部屋の明かりを暗くした。

 実はこのゲーム、意外と難易度が高い。不用意に目をそらしたりすると一発でやられる。噛まれたら死ぬ、マジで。1対5とかもう無理、諦め。逃げるしかない。

 千咲は時々ビクってしながらもそこまでビビってはない様子でプレイしていた。
 比べて姉はもう見たくない! と言わんばかりに目を覆って怖がっている。意外と怖がりなのな。

 それにしても、さっきから千咲がソファで無防備な姿勢で慣れないミニスカなんて履いて座っているから、目のやり場に困る。

 と、ダクトを通っている途中でゾンビが出てきて、「ひゃっ 」と千咲の肩が跳ねる。

 ダクトとロッカーはマジで怖い。


 ふっと、千咲の方を見る。スカートがめくれている、水色。さっき驚いた拍子にめくれたのだろうか。思わず口に出してしまう。

 「水色……」

 言うなり千咲はこちらを真っ赤な顔をして見つめてきた。

 「……はーくん、さいてーです。わかってても口に出すことないと思います」

 「いやな、俺だって目のやり場に困るんだよ」

 「じゃあクッションとか持ってきてくれるとか、さりげなく伝えて下さい、すごく恥ずかしいです」


 恥ずかしい……って、俺だって十分恥ずかしいわ。でも今回は俺が完全に悪いのは明白だ。
 姉も俺らの掛け合いを見て楽しくなったのか、千咲に同調して俺に「デリカシーなし! ヘタレシスコン! 」と野次ってきた。

 ヘタレは、まぁ……うん。シスコンは違うと思うんだ、知らんけど。そもそも姉であるお前がいうかって感じだし。

 こういうやり取りも、なんだか懐かしい。昔はこうして3人でよく遊んだっけ。

 じゃあ、いつからだ? こんな風に普通のことに対して、貴重さを感じるようになったのは。昔はこれがあたりまえで、ずっと続くと思っていた、少なくとも、俺は。




 11時頃になり、遊びをお開きにした。

 千咲が家に帰るというので、送りがてらバイトに向かう。

 「楽しかったですねー 」と、千咲が一言。

 ちょっと間を置いて、「まぁな 」と返す。

 ……沈黙。

 なんか言わなくては、と思って「また来いよな! 」と思ってるんだか思ってないんだかわからないような言葉を言った。

 千咲はくすっと笑う。

 「はい、うれしいです。バイト頑張って下さいね 」

 そのあと少し会話をして別れた。


 適当にぷらぷらと歩く。バイトまではまだ時間がある。でも家を出た。

 さすがに、なぎさは居ないだろうけど、いつもの場所に向かう。

 鼻歌でゆらゆら帝国の『空洞です』を歌いながら。
 頭の中にギターサウンドが鳴り響く。今日みたいな日には丁度いい。

 その後も思いついた順に鼻歌を歌っていたら、思ってたよりも早く到着した。

 ベンチに腰掛け、街を眺める。

 今日は暑いけれども、日陰だとまだ涼しい。我慢できるレベルで。

 時間を確認する。11時40分。バイトは13時から18時までだ。
 あと1時間近く、どうやって時間を潰すかなーと考えていた。

 思えば、夏休みに入るちょっと前に予想していたものとは1日目から全く別物になっているな、と感じる。


 なんだか、楽しい。1日目からこれなんだから、夏休み中ずっと楽しいのではないか、とまで思ってしまう。

 大抵の楽しいことは、終わりが見えるまでは楽しいとまでは感じないかもしれない。

 例えば、旅行の最終日の前の夜。例えば、テレビドラマやアニメの10話、11話に差し掛かったときとか。
 でも、終わりが見えるとなんとかして終わってほしくない、と感じる。夢中で気が付かないことの方が多いのだろう。

 ひとつの例として、祭りの後の静けさ。あれが俺はすごく嫌いだった。おそらく、今現在も同様に。

 夢中になっていて気が付かないから、気が付いたときと終わりが近いからこそ、落差が大きく余計にショックを受けるのだろう。

 楽しんでる、とそのときそのときで感じることができるのは良い傾向だ。
 あれこれ考えるから楽しめてないんじゃないかとも感じる。
 思考より、先に身体を動かしてみるか。それができたら、苦労はしないんだろうけど。

 そんなことを考えていたとき、横から少女の声がした。


 声の主の方を振り向くと、犬が俺の胸に飛び込んできた(飛び込むというよりはなぎ倒された、という表現の方が正しいかもしれないが)。

 上半身のバランスを崩して、テーブルに肩の辺りを強打する。普通に痛い。

 「……ご、ごめんなさい。えええっと、お怪我とか有りませんでしたか? 」

 恐らくこの犬の飼い主であろう少女が慌てて駆け寄ってくる。

 小さめの身体。舌ったらず感のある喋り方。
 歳は小学校高学年から中1の間くらいといったところだろうか。

 「あ、あぁ……大丈夫大丈夫。ちょっと身体うったくらいだから 」

 そう言うとそれまで目を潤ませていた少女の顔つきは一転して晴れやかになった。
 大方俺に怒られるかもしれないと思ってたんだろう。


 姿勢を起こして犬を少女に渡す。
 かわいい犬だったので、少し頭を撫でさせてもらう。

 動物と小さい子の扱いは多少得意だ。

 「いつもここに散歩に来てるの? 」

 「はい。この時間に来たのはたまたま、ですけど 」

 「うーん……寝坊した、とか? 」

 「……お兄さんは超能力者ですか? 凄いです!! 」

 勘だけど当たったらしい。なんか感心された。

 「いつもは朝に散歩に来てるんですけど、夏休み初日から10時まで寝てしまって…… 」

 少女とベンチに座って少し話をする。
 少女は俺の出身の中学校の1年生で、名前は杏(あん)というらしい。

 なんだかこちらが話をふらなくても頑張って話してくれている。


 なんか変に懐かれてしまったような気もする。このくらいの年頃だと、ちょっと年上に憧れを持ったりするんだろうか?

 時間ギリギリまで中学校の教師とか、部活とかのことについて話を聞いた。部活は吹奏楽部に所属しているらしい。

 朝6時くらいから、散歩するので良かったら来てください、と元気に言われたので、素直に了承しておいた(犬がかわいかっただけで特に他意はない)

 その後、まだギリギリ時間があったので、杏ちゃんをお家まで送り届けた。
 杏ちゃんのお家は門が木でできている日本家屋だった。お寺の門をイメージすればそう違わないだろう。あれは多分、いや絶対お金持ち。どうでもいいんだけどね。

つづく

おもしろい見てるぞ。

おつ
地の文も読みやすくていいね。
これは千咲ルートかな?





 次の日の夜、父親が久しぶりに夕食前に帰ってきた。

 姉と会話しているのを盗み聞きすると、これから一週間くらいは早く帰ってくる、とのことらしい。


 姉は家族が一緒に居ることをなによりも喜ぶ。
 今日だって見るからに嬉しそうな様子で料理を作っている。

 そのため、俺もできるだけ姉を家に一人にさせないように夕飯はほぼ必ず家に帰ってきてとることにしている。

 中学のとき(姉は高一)にあまり家で夕飯を食べなかった時期があって、そのときに姉に泣きじゃくられてからずっとのことだ。

 ごくたまに家族愛以上なんじゃないかってくらい執着したりする……こともあるが、俺も姉のことは好きだし今のところ何も言うつもりはない。

 普段はこき使われてたり絶対零度の視線を向けられてたりするしな。


 姉は父親のことが大好きであるが、俺はそうではない。むしろ苦手に感じている。

 俺のほうから一方的に苦手意識を持っている、というか持っていると感じているだけかもしれないが。

 会話らしい会話というのも、もう三、四年程していない。
 避けているのはお互いさまだ、きっと。


 料理が終わったようなので、配膳を手伝う。一人分多いだけなのに、手のかけ方が普段とは違って豪勢に見える。

 いつもの通りなら、姉とテレビを見ながら談笑したり賑やかにしているのだが、今日はそういう感じではない。


 姉が一生懸命に父親に話しかける。
 父親がそれに返答する。
 それの繰り返し。

 俺はずっと黙ったまま食事を摂り続けていた。

 そういえば……と父親が口を開く。

 「どうだ、ちゃんとやれてるか?学校とか、家のこと、とか」

 「うん……。できてるよ、ちゃんと。ハルもいるしね」

 と姉が返答する。父親は上機嫌になって、「おまえはどうだ?」と俺に訊いてきた。

 「まぁ、家のことは殆どお任せ状態だけど、なんとかって感じかな。姉さんが居ないとダメだけどね、多分」

 父親もそれを聞いて安堵したのか、きょうだい仲がいいのはいいことだなーガハハ、なんて言ってグラスの中の酒を飲み干した。


 食事を二人より先に終え、食器を片付けて自室に戻る。

 窓を開けて、外の様子を見る。

 お邪魔虫は退散しますよ、と夜の空に向かって小さく呟いた。

 ーーー俺は、ちゃんとやれてるのだろうか。頼りきって、流されるままで、何か得るものはあるのだろうか。

 父親に聞かれたことを再び考え直す。

 恐らく、明確な答えは出せない。

 それでも本来なら、普通の家族なら、こんな質問はありえないとも感じてしまう。


 一般的な家族なら親が子をあたたかく迎えるのが普通だろう。

 それが親の責務であり、意味を同じくして子どもの責務でもある。


 歪なんだ、この家は。
 ずっと前から。多分この先も……ずっと。

 自分も自分で逃げてばかり。成長なんてまるでない。
 コミュニーケーションを避けて、最低限のことしか話さない。

 殻に閉じこもって、そこから出るような努力をしない。

 ふと気づいて机の上に置いてあるキーホルダーを机の奥に押し込んだ。


 その日はすぐに毛布にくるまって寝た。
 夢はなにも見なかった。




 いつもより早く目が覚めた。

 部屋の掛け時計が指す時刻は五時半ばほど。

 ひさしぶりに熟睡できたからか二度寝するにも寝付けない。

 ベランダに出て、外の様子を確認する。ちょっと曇り、でも朝日が出ているので少し暑い。

 廊下に出て、洗面台の前に立つ。
 顔を洗う水がひんやりとして少し気持ちがいい。
 鏡に映る顔だって、いつもと変わらない。

 俺もこの家も、何も変わっていない。
 ごく普通の、ありふれた一日だ。


 リビングに降りて冷蔵庫から麦茶を取り出す。
 夏の暑さには麦茶に限る。一口でグラスの中の麦茶を飲み干す。

 グラスを手元に置いた後、そういえば、昨日の夜に姉と父親は二人でなにを話したのだろうか、と考える。
 進路のこと、家のこと、卒業してからのこと。
 或いはなにも話さなかったのかもしれない。

 自分からその場を立ち去っておいて気になるというのも勝手な話ではあるが、俺の居るところだとできない話だってあったのかもしれない。


 音楽を聴きながら、なにかを誤魔化すように歩いた。


 一曲、終わってまた一曲、と聴き流す。歌詞なんてこれっぽっちも頭に入ってこない。


 次の曲は『空洞です』だった。
 そういえばこれを聞いていた時に何かあったな、と一瞬考えて、杏ちゃんのことを思い出した。

 時間的には丁度いい。約束も果たせることだし、時間つぶしにもうってつけだ。かわいい犬で癒されるのも悪くはない。アニマルセラピーだね、多分。


 さっきよりも軽快な足どりで高台への道を急いだ。




 高台に到着して、ベンチに座っている少女に挨拶をする。

 「あ、お兄さん。おはようございます 」

 腕に抱えた犬の手を使って俺に挨拶をしてきた。
 少しかわいい。いや、とてもかわいい。

 「お兄さんが来ると思って、ここで毎日待ってたんですよー 」

 杏ちゃんはそう言ってぷくーっと?を膨らました。
 それをつつきたくなる衝動を我慢する。
 ……普通に犯罪っぽいな、俺。

 「ごめんごめん、覚えてはいたんだけど用事とかいろいろでさ 」

 「いいですよー、今日来てくれたし 」

 「そういえばさ、その子の名前なんて言うの? 」


 聞くと、杏ちゃんは笑いながら『みたらし』と、答えた。お恥ずかしながら、的微笑。
 ……おいしそうでいいね、なんか。


 『みたらし』という名前が気にいったので、十分くらいわしゃわしゃと犬を撫でていた。
 人に懐きやすい犬だこと、くすぐったそうにしていてかわいい。

 撫でながら、杏ちゃんに問いかける。

 「みたらしはどうしてみたらしって名前になったの?」

 「うーん……と、名付けたのはお姉ちゃんで、由来は色?だったかな 」

 「へぇ……。お姉ちゃんが居るのか 」

 杏ちゃんの姉なら確実に美人だろう。加えてあの家から想像するに、お淑やかな美人が想像できた。

 「そうなんですよ。わたしのお姉ちゃんかわいくて面白いんですよー 」

 杏ちゃんはえへへ、と笑っている。

 姉妹仲が良さそうで、何より。姉と千咲みたいなもんか、と考えて少し微笑ましくなる。


 「お兄さん、お姉ちゃんのこと見たら絶対かわいいって思いますよ!保証します!」

 ベンチに座りながら手をわちゃわちゃと動かす。その姿が誰かとダブる。

 「あっでもお姉ちゃん好きな人いるみたいで、部屋にツーショット飾ってありました。……お兄さん、ダメでした」


 ダメってなんだよ……。告ってないのに振られた感じ?
 杏ちゃんの姉というのにも少し興味は湧いたが、会ったところで、ね。


 それからも少し話をした。


 話に夢中になっていて気にしていなかったが、時刻はもう七時過ぎになっていた。

 「杏ちゃん、もう七時過ぎてるけど帰らなくていいの?」

 杏ちゃんは自分の時計を見てびっくりしたようで「また明日です!」と言ってそそくさと帰って行った。

 明日起きれるかな……。
 連絡先とか知らないし、でも来るまで待ってたとか言ってたしな。


 明日起きれますように、と心の中で願った(何度も言うが犬がかわいかっただけで他意はない)。


 ふと、夢の中の少女がよぎる。
 あの子も、犬を散歩させてたような。

 俺と少女は隣同士で、手をつないでいて。

 ……なんて、ついにハルの妄想の具現化がなされてしまった、とコウタに笑われかねないことを思い出した。

 今は七時過ぎで、姉も俺が家にいないことに気付いた頃だろうか。

 どうせここまで来たのだから、てきとうにブラブラして帰るのが良いだろう。
 バイトは十八時からだ。どのみち夕飯には帰れない。

 コウタに暇かどうか聞く。
 秒で返信が来て暇らしいので、コウタの家で遊ぶことにした。

 最寄駅の近くにあるレンタルサイクル置場に立ち寄り、お金をチャージして自転車を走らせる。

 コウタの家までは、四、五〇分と言ったところか。


 蒸し暑くなってくる時間帯だが、スピードを出して走ると風が気持ちいい。

 疾走感。爽快感。

 自分の影を追いかけながら、猛スピードで自転車を漕ぐ。

 自転車も昔はよく乗ったものだ。小学校の頃は友達といつも自転車に乗って遊びに行っていたと思う。

 歩道にはジョギングをする人や散歩をする人がいた。日課にしてることがある人ってすごいと思う。

 途中、自動販売機で水分補給をしようと漕ぐのを一旦停止する。

 ここはスポーツドリンクか、暑いし、夏だし、とボタンを押そうとするが、横にシュークリームジュースなんてものを見つけた。

 誰が買うんだこんなの、と馬鹿にしかけたが、近くにいるじゃないか、買いそうなやつ。
 なぎさなら絶対買うな、邪道好きだし。


 彼女の気持ちを少し知りたい、という好奇心と、無難にスポーツドリンクで水分補給しないとダメだ、という安全思考が交錯する。

 邪道を選ぶのってこう、結構くるんだな、全然考えたこともなかった。


 必殺技、困ったときの同時押し。
 左側が優先されると聞いたことがあるが本当かどうかは試したことがないので知らない。

 ガコン、という音を立てて出てきたのはスポーツドリンクだった。


 俺はなぎさに心の中で謝罪しつつ、スポーツドリンクを飲み干し、自転車に跨り、また国道沿いの道を風を切りながら進んだ。


つづく

>>124 >>125
ありがとうございます
できるだけ早く更新できるように頑張ります





 石段を駆け下りて、杏ちゃんは少ししたら疲れたのか歩きに戻った。

 まるでミストサウナの中にいるみたいだな、なんて考えながら歩いていた。
 ここ最近は雨が降っていなかったから、木々には丁度いいのかもしれない。

「そういえば、部活とかないの? 」

「あー、私吹奏楽部じゃないですか。二、三年生がコンクール近いからお休みにさせられてるんですよ 」

 納得した。中学吹奏楽部の女同士ピリピリした感じってなんか面白かったなと思う。

「私たちは運動部並にきつい!」と豪語して運動部男子から顰蹙を買っていたなんてことも思い出した。

 実情は部員にしかわからないことだろうけど。
 合唱コンクールの練習のときに男子数人でサボったのはごめんなさい、今元気にしてるかな、あの吹奏楽部の子。


 雨に打たれながら会話っていうのもなかなか新鮮だ。

 俺は夏は嫌いだが夏に降る雨は嫌いじゃない。清涼感を感じられる数少ない瞬間だからだ。

 その後の雨が蒸発したことによるジメジメ感はあまり好きではないのだが。

 降り出しよりも雨が強くなってきた。風も、なんか強くなってきたか?

 少し急ごうと言おうとしたところで、杏ちゃんは何かを見つけたのか小走りで駆けて行く。

「おねーちゃーん!」

 と杏ちゃんは大声で叫ぶ。

 どうやら見つけたのは杏ちゃんの姉のようだった。
 妹のために傘を持ってきてくれたらしい。


「もう、台風近付いてるから外でちゃダメって昨日の夜に言ったでしょ!」

 そう言いつつ、妹に傘を渡す姉。


 顔は傘に隠れて見えないのだが、確かに、杏ちゃんの言う通りすらっとしていてスタイルがいい。

 ……というか、既視感がある。
 声にも、なんとなく覚えがある。


「お姉ちゃん、お兄さんにも傘あげて 」

 杏ちゃんがそう言うと、杏ちゃんの姉がこちらに振り返った。

 長めの髪に整っているがあどけなさの残る顔立ちの女の子。



 振り向いた女の子。それは紛れもなく、俺の後輩、なぎさだった。





「せ、先輩? えっと、どうして先輩が?」

 なぎさは混乱しているような顔をしながら、俺に尋ねてきた。

「あー……つまり、なぎさは杏ちゃんのお姉ちゃんってことだよな? 」

 なぎさが頷く。杏ちゃんも「こちら、姉です」と言って軽く微笑んだ。

「えっとな、最近犬の散歩してる杏ちゃんと仲良くなって、今日もみたらしと遊んでたんだよ 」

「そうだよー。お兄さんとっても面白いから、最近話してたんだ 」

「はぁ……そうなんだ。先輩と杏が知り合ったのは最近かぁ。どうりで杏が楽しそうに散歩に行くと思いましたよ 」

 口調がいろいろ混ざっているが、家だとこんな感じなんだろうか。
 流石にいつもの気さくな男友達みたいなノリはしていないとは思うが。


「それで、お姉ちゃんとお兄さんのご関係は?付き合ってるの? 」

 俺が先に言おうと思ったが、なぎさが素早く「付き合ってないよ」と言った。
 その即答具合にちょっと感心した。なんでだろ。

「高校の先輩で、なんですか。この前からはバイト仲間、て感じだよ 」

 なんですかってなんだよ。
 でも正直俺もなぎさとの関係は表現しにくい。

 俺はなぎさの何だ?

 友達?は違うか。相談相手?という程相談してない。先輩後輩、バイト仲間はまぁその通りだけれど。

「まぁ、そんな感じだな。展望台の友って感じだな 」

 そう思いついたまま口に出してみた。間違ってはない。あの場所で初めて会ったんだし。

「そうなんだー。じゃあ、えっと。姉のことをこれからもよろしくお願いします! お兄さん 」

 杏ちゃんは急に畏まってそう言った。なんか、交際許可を出したみたいなセリフだな、それ。


 まぁ、できるお兄さん感を演出するために「おう!なぎさのことは任せてくれ」なんて言ってみたりして。
 大船に乗ったつもりで……(俺なら泥舟かもしれないが)。

「いやぁ、お兄さん大胆ですねー。任せましたよ、あはは 」

 杏ちゃんも笑ってくれた。
なぎさは後ろで「杏!ちょっと!」と言って、照れたような表情になっていた。

 妹には弱いんだろうなー、多分。
 杏ちゃんは少しいたずらっ子っぽいところがあるから、振り回されてるんだろうか。

 なぎさから受け取った傘をさしながら、二人の会話に耳を傾ける。

 なんか、癒されちゃうわ。姉妹同士の会話。
アニマルセラピーよりも癒されている(みたらしごめん)。


 雨はさらに強くなっている。雷もここから近くはないが、たまに鳴っている。

 雨に濡れた服が身体にまとわりついて気持ち悪い。しかも寒くまでなってきた。


 なぎさと杏ちゃんの家に到着する。

「なぎさ、悪いけどこの傘借りていいか? 」

「はい、大丈夫ですよ。返すのいつでもいいですから 」

 じゃ、と言って歩き出しそうになったときに正面に立っている杏ちゃんが口を開いた。

「えー……お兄さん帰っちゃうのー? せっかく来たんだし遊んでこーよー 」

 「また今度な」と言いかけたところで、大音量の雷が鳴った。音の様子からして、かなり近いところで鳴ったはずだ。


 ここは我慢して走って帰るか?それともお言葉に甘えるか?

 迷っていたときに、なぎさが門を開けて俺に問いかける。

「うち、上がっていきますか? 」

 その、なぎさの微笑みに吸い込まれそうになった。
 心がざわつく。心拍数が上がる、どうしたんだ俺。

 間髪入れず、なぎさが決まりですーと言って俺の手を取る。

 流されてしまっている。


 でも、杏ちゃんも喜んでるし、今回はいいか。





 ちゃぽん、と湯船に身体を沈める時に音が鳴った。

 なぎさと杏ちゃんの家に雨宿りがてらお邪魔した俺は、まず風呂に入った。

 身体が濡れてて風邪をひくとまずいというのと、服を乾燥機で乾かすのに少し時間がかかるというので、素直に好意に甘えさせてもらうことにした。

 杏ちゃんも、俺と同じく雨でずぶ濡れになっていて、客である俺が先に入浴するというのもなんだか申し訳ないと思ったのだが、風呂が家に2つあるとなぎさが言っていたので遠慮なく入浴させて貰った。

 家に風呂が2つって……普通1つだよな?
 我が家も特に貧しいというわけではないのだが、生活レベルの違いを実感する瞬間だった。


「先輩、着替え……サイズ合うかわからないですけど、とりあえずお父さんのジャージ置いとくんで着てください 」

 すりガラスを隔てた向こうからなぎさが話しかけてきた。

「ありがとう。ていうかなんか悪いな、いろいろと 」

「いえいえ、妹と仲良くしてくれたお礼だと思ってください。あと、シャンプーとかドライヤーとか、好きに使って貰って構わないっすからね 」

 なぎさは、じゃあごゆっくり、と付け足して脱衣場からいなくなった。

 ふぅー、と一息ついてから改めて周りを見渡す。

 デカイなぁ……浴室。風呂なんて檜風呂だ。
 シャンプー、ボディーソープなんかも高そうなやつだ。

 ここに辿り着くまでも、広い庭と長い廊下を通ってきた。


 ……なんか妙に緊張するな。

 俺は夏場は大抵シャワーで済ませているのだが、夏に風呂に入るのも悪くない。


 あんまり風呂場に長居しても悪いので、さっと身体を流して上がることにした。

 脱衣場で身体をくまなく拭いてから、なぎさの用意してくれた着替えを身にまとう。

 髪を素早く乾かして、少し髪を整える。

 脱衣場の扉を閉めて歩き出す。
 迷いそうなくらい部屋が多いが、おそらく入口の近くの部屋に行けば良いだろう。

 その予想は的中して、居間、というか畳のある広間に、なぎさは居た。

 広間には、長い机とテレビがあった。
 俺は変に畏まって、畳の上に正座していたが、なぎさに崩してくださいと言われたので適当に座ることにした。

 俺はもう一度、キョロキョロと辺りを見渡す。この部屋だけでもかなり広い。

「せんぱーい、そんなビビることないっすよ 」

 なぎさは俺にそう言うが、ビビるもんはビビるので仕方がない。


 木の感じも、照明やらなんやらも結構新しく見える。

「おまえさ、大金持ちなの? 」

 下世話なことを聞いた。気になるのはまぁ少し、それよりもこの変な緊張感を解消したかった。

「いやー、大したことないっすよ。この家だって、祖父の土地を相続して最近建てたばかりですし 」

「あぁ、そうなのね。どうりで 」

 ……それってガチの金持ちなのではないのか、とも思ったが掘り下げないでおいた。

「それにうち、昔は転勤族で。やっと父親の仕事が安定してきてここに腰を据えてるってわけっすね 」

「そうか。そういえばさ、この前のこと考えてくれたか? 」

「はい、ばっちりOKっす。バイトない日ならいつでも大丈夫っすよ 」


 俺はこの前のバイトの帰りに、なぎさを祖父母の所への帰省に誘った。

 もともと姉がいかないので、一人で行くと考えていたが、なぎさから遊びたいと前々から言われていたし、バイトの息抜きということも兼ねてだ。


「……もう一度聞くけど、ここから大体電車とバスで片道四時間くらいかかるけど大丈夫か? 」

 誘ったことには誘った。でも、無理強いはしたくない。
 一人で田舎へ行くのは退屈だと思うけれども、なぎさに無理を言ってまでは二人で行きたくはない。

「はい」

「本当に?」

「……大丈夫っすよー。それともアレですか? 」

「……アレって?」

「えっと、その……建前が欲しいんじゃないかって 」

 建前。建前……。

 そう言われると、戸惑う。

 俺の悪いところだ。

 なぎさは人の事をよく見ている。今回だって言い当てられている。
 いつも俺の考えなんて見透かされているかもしれない。


 建前が欲しいのも、間違ってはない。
 というか今までの俺ならまず建前があって、それに準じた行動ばかりしてきた。
 建前がないと、後でそれの所為にできないから。1人で責任を負うことになってしまうから。


 でも、今回は違うと、そう思いたい。


「いや、これは俺の意志で、なぎさと一緒に行きたいと思って誘ったんだ 」

 彼女の目をまっすぐ見てそう言うと、一瞬驚いたような顔をされた。

 こほん、と咳払いをして、なぎさは言う。

「……そうっすねー。先輩がかわいい後輩の私とそんなに行きたいって言ってるんすから、しょうがないっすね 」

 嬉しそうに口角を上げながら。

「まぁ、お前が俺とどうしても遊びに行きたいって言うから誘ったんだけどな 」

 俺も、そんななぎさの姿が面白く思えて、いつものように軽口を叩いておどけてみせた。


「じゃあ、特別に!そういうことにしてあげるっすね。楽しみにしてます、本当に」

 その後も二人で会話をしていると、風呂から上がった杏ちゃんが広間にやって来た。

 風呂上がりで髪を束ねていると、いつものなぎさに似てなくもない。姉妹だから当たり前かもしれないが。

 ちなみになぎさは髪を下ろしていた。

 いつもポニーテールだからわからなかったが、髪型でだいぶイメージが変わっているような気がする。
 今日はなんだか、いつもより幼く見える。女ってこわい。

「ねぇねぇお姉ちゃん、お兄さんと何話してたの? 」

 杏ちゃんは会話にまざりたそうな顔をしながら、なぎさにそう問うた。

「先輩と、杏のはなしして盛り上がってたんだよー 」

 なぎさはさっきまで話していたことと別のことを言った。

 杏ちゃんに言うのは別に問題ないと思うのだけれど、どうしてだ?


 杏ちゃんは、ききたいです、なんのことですか? と俺に詰め寄ってくる。

 いろいろと無防備すぎる。夏で、着替えだから薄いというのもわかるが。

 中一の女の子相手にさすがにそういうことにはならないのだが、俺だって人並み、いやそれ以上に動揺する。

「お、おう。あのな…… 」

 言い出したはいいが、何を言うか思いつかない。
 実際なぎさとは杏ちゃんの話はしていないし、急に思いつけというのも無理な話だ。

 俺は目線でなぎさに助けを乞うた。
 なぎさは、にやっと笑ったあとに、口パクでがんばってくださーいと言った(見間違いでなければ多分)。

「……まぁ、杏ちゃんがお姉ちゃんと違っておしとやかでいい子って話だよ 」

「ちょ、ちょっとなんすかそれ、先輩! 」

「まちがってないだろ。なぎさにはおしとやかって言葉は似合わないし 」

「そ、そりゃあ先輩が私のことをよく知らないだけじゃないっすか? 家だと私凄く物静かかもしれないじゃないですか 」

 なぎさは早口で捲し立ててくる。

「それに私がいい子じゃないとも言いたいんすか? 」

 腕をぶんぶんと振り回しながら詰め寄ってくる。
 なぎさのこういう時の動きはほんと見てて飽きないし、面白い。


「しょうがないな……いい子いい子 、なぎさはいい子ですよ」

 そう言うと、「ま、まあそうですよね」と言って、ぶんぶん振り回していた手が急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にしながら手をモジモジとさせている。

 「あはは、二人ともコントみたーい。おもしろいねー 」

 杏ちゃんはそんな俺らを見て大笑いをしていた。

 雨は止む気配を見せないままではあったが、会話は晴れているかのようにかなり弾んだ。



 それから、せっかくなので三人で何かをして遊ぶことにした。

 杏ちゃんがトランプを持って来たのでひとまずそれを。

 最初に大富豪をした。
大富豪をやる時には必ずルール確認が必要だ。
 イレブンバックだのスペ三だの革命だのご当地ルールがいっぱいあるからな。

 杏ちゃんとなぎさの中でのルールに従って始めた。

 中学校の昼休みに友達と時間ギリギリまで大富豪をした経験が生きて俺は連勝を重ねた。
 なぎさは大人げないですーと言って手を緩めることを希望してくるが、勝負事にはできるだけ勝ちたいものだ。


 続いてスピードで遊んだ。
 場に出ているカードの連番のカードを出すあれだ。

 二人でしかやったことがなかったのだが、三人でやっても結構楽しめる。

 俺はスピードがすごく苦手で、何回やっても順位は杏ちゃんが一位、なぎさが二位、俺が三位のまま動かなかった。

 杏ちゃんは「さっきと逆転ですねー」と言って楽しそうにしていた。かなり強い。侮れないな中学生。

 それからバイトの時間がくるまでUNOだったり、人生ゲームだったりをして遊んだ。


「楽しかったです!また来てくださいね 」

 いいえこちらこそ。凄く楽しませてもらいました。

 最近はゲームとかアニメばかりだったけど、こういうアナログなもので遊ぶことも良い物だ。

 なぎさも、楽しそうにしていたし。
 姉妹仲良いっていいな。歳が三つ離れてるっていうのもあるんだろうけど。

 まぁ……思うところはいろいろあるがとりあえず、楽しかった。





 今日も今日とて、労働労働。

 今日のバイトは、昼から十八時まで。
 夏休みが始まってからまだそう多くは経っていないはずなのではあるが、ほぼ毎日外に出ているからか、疲労が溜まっていく。


 お昼ごはんは、なぎさと近くの中華料理屋で済ませた。
 なぎさは冷やし中華を食べていた。中華といいつつ中華料理屋の中にあるとパチモン感が否めないそれは、彼女の言うところの邪道だろうか。

 雨足はちっとも弱まる気配はなかった。
 すっかり忘れていたが数日前に台風発生のニュースがやっていたのを思い出した。

 なぎさに確認すると、やはり今空の上にあるのは台風だった。

 朝か昨日の夜にニュースを見てれば濡れずに済んだ、というかすぐに帰れたとも思ったが、済んだことはもういい。


 今日の客足はまあまあ、いつもより少し少なめだった。
 近隣住民からすれば、急に大雨が降って来たのではなく、予めニュースで見て確認していただろうから、前日に買い込んでおくなりして家から出る人が少ないのだろう。

 店内に客がいない時間が二十分くらい続いたので、飲み物の品出しという名目でバックヤードにサボりに行った。

 本数が足りないところになるべく時間をかけてゆっくりと飲み物を補充する。


「お、サボり発見。店長にチクっちゃおうかな 」

 お姉様系先輩が後ろから話しかけてきた。いきなり現れたので普通にびびった。

「いや……サボりも何も、仕事してますよ、ちゃんと 」



「まぁ……私も同じだ。サボりに来た 」

 と言って彼女は椅子に腰かけた。
 サボり認定されたことはちょっと嫌だったが、彼女はどうやら本気でサボりに来たらしい。

 品出しが終わって俺もやることがなくなったので、当然の流れで世間話に転じた。

「どうよ、なんかいいことあった?お姉さんに話してみい 」

 夏休みに入る前にそんな話をしたなぁ……と思い出した。

「あー……いや。なんもないっす 」

 あったにはあったのだが、説明するのが面倒だ。それより恥ずかしいことも多いので言うのが憚れる。

「なーんだ、つまんないの。私はさ…… 」

 そう言ってお姉様系先輩は長話を始めた。


 聞いていると、大学のメンバーで海に行こうとなってるという話だった。

 それだけ聞いた俺は「リア充ですねー呪いますよ 」なんて冗談を言っていたのだが、話が進まるにつれて先輩の顔がどんどん強張っていった。

 要約すると、八人組のうち六人がカップル。自分と残り一人が余りみたいになっている。周りがそいつと私をくっつけようとしてくるけどそいつのことは好きじゃない。

 みたいな内容だった。

 大学生も大変だなー、と乾いた笑いが出た。

「ちょっと前まではさ、みんなで楽しくワイワイ遊んでたのにさ、急に洒落気づき出しちゃってさ、ほんとなんなんだろーな 」

 あぁ……そういうことか、とお姉様系先輩の不可解な行動に合点がいった。


「じゃあ合コンに行ったのも、自分なりに相手を見つけようとしてたってことだったんですね 」

「そう、と言ったら聞こえはいいけど、実際は誰とも付き合う気なんてなかったから。最初からうまくいくはずなかったんだよ 」

 そう言って彼女は自嘲気味の笑みを浮かべた。

「でも、次の日なんかピリピリしてましたよね 」

 わざと意地悪な質問をぶつけてみる。俺は性格が悪いのかもしれない。

「それがまた難しいところなんだよねー」

 と、彼女はまたしても自嘲気味の笑みを浮かべながら、そう続ける。

「構って欲しくなくても、構われなかったから嫌だったのかな。ほら、自分の魅力が無いと感じてしまった、みたいな 」


 言ってることはわかりやすい。ちやほやされたいのだ、簡潔に言えば。
 でもその気持ちもわからなくはない。

 表面上嫌っている相手でも、いざ相手から完全に拒絶されてしまうと悲しく思ったりするものだ。

「まぁ、つまり。私には恋愛は向いてないってことだ。行き遅れないか心配……本当に 」

 笑いながら真剣さを出す言い方をしていた。
 俺はそれほど彼女のことをよく知らないので真意がどちらなのかはわからない。

「大丈夫ですよ、先輩なら。それにほら、顔整ってますし 」

「あはははは、そうなんだよ。相澤くんよくわかってるじゃないか 」

 美人だと逆に言われなかったりするのか、とも思って言ってみたが、やはりそうだったらしい。

 お姉様の風格はそのまま、でもちょっと彼女に対してのイメージはかなり変わった。

「まぁ……いざとなったら友達紹介しますよ」

 紹介できるようなそんな友達は居ないけど、一応言っておこう。

「……バカいえ。私はガキには興味ないんだよ」

「あはは、そうですね」

 ガキと言いつつも2つくらいしか変わらない気がするのだが。
 お姉様系だから後輩系で釣り合いが取れそうだとは思うし。

 変な話、ヒモを飼ってそう、なんてイメージを会ったばかりの彼女に対して抱いていた。
 最低なイメージだったと自分でも思っている。

 でも、なんとなくだけれど、彼女は「自分がこうしたい」という考えからの行動であったり、「自分がこうでありたい」ような自分があるように思える。

 意志が強いというか……なんというか。

 あたりまえだけど、俺とはまったく違っている。


 やっぱり、俺の目には彼女が大人に映った。





 バイトが終わる頃には、雨が少し弱まっていた。


 夜風が夏とは思えないほどに冷たい。
 人の往来もほとんどなく、周囲を見渡しても俺となぎさしか歩いていないほどだった。


 今日は、なぎさの家まで送って行った。
 去り際に、よかったらうちでごはん食べて行きます?と言われたがさすがに断っておいた。
 そこまでは申し訳ないし、姉が待ってるから、と。


 一人で、夜の道を歩く。


 月が隠れていて辺りは真っ暗だが、家々から漏れる光で若干明るい。
 すぐ横をすれ違う自動車が水たまりの水をかきあげながら進んでいる。


 雨の音に混じって、どこかで誰かの声がする。
 近所の家族の笑い声だろうか、少し羨ましく感じる。


 その雨音と、時折聞こえる人の声をBGMにして、家へとゆっくりとした足取りで帰って行った。

つづく





 家に帰ると、リビングに姉が1人、机に突っ伏して寝ていた。

 起こすのも悪いと思ったので、ソファに移動して、小さい音でテレビをつけた。

 テレビでは案の定台風情報が流れていた。
 ニュースによると、このまま台風は北上して、この地域だと明日の昼には晴れになるだろうとのことだった。
 台風の後の強烈な日差し、夏の本格的な訪れを想像して少し気分が沈んだ。


 姉はその一時間後くらいに目を覚ました。
 姉は時計と、それから俺をみて、酷く狼狽えた。なんで寝てしまったんだ、みたいな顔をしている。

「ご、ごめん。ご飯作るね、待ってて」

「いや、今日は出前とか取ればいいじゃん。ほら、雨の日だとピザが安いし」

 なんで俺が謝られなくてはならない、逆に、なんで姉さんが謝るんだ、と思って即座に否定した。
 任せているから、任せっきりだから、文句なんて絶対に言わない。というか言える立場じゃない。


 姉は受験生だ。そして今は夏休みだ。疲れがたまっているのも仕方がない。それが当たり前なのだ。
 だから、悪いなんて思わせてはいけない。そんなのは、俺が許せない。


「でも、お店の人の迷惑になるかもしれないし……」

「大丈夫だよ。仕事なんてそんなもんだって、店の人もわかってるだろうし」

「……わかった。出前、とろっか」


 口ではそう言うものの、姉は明らかに精彩を欠いていた。

 疲れがたまっているからこうなっているのだろうと思って、届くまで寝てるように言った。

 姉は自分の部屋に荷物を持って上がった。電話をかけて、ピザの宅配を注文する。


 ……そういえば、父さんは帰ってきてないのか? ここ一週間は早く帰ってくると言っていたのに。
 まぁでも個人的には、気を張らなくていいからいいとは思うが、姉はそうではないだろう。


 それからしばし、暇な時間を過ごした。

 なぎさからのLINE通知が来ていたので、それに返信する。

 内容的には、杏ちゃんがまた来てねって言っていた、ということ。
 なぎさの普段とは違うような口調と、似合わない感じのスタンプを見る限り、杏ちゃんがうった文章だとなんとなく感じた。

 コウタからもLINEが来ていた。どうやら吉野さんと二人で遊びに行くことになったらしい。
 あの人もどことなく暇そうだし、楽しんでくれ二人とも。
 それに軽く良かったな、みたいな返信をした。すぐに既読がついて長話を始めそうだったので、スマホの電源を即座に落とした。


 漫画を読んだり、テレビを観たりしていると、インターホンが鳴った。

 ようやく宅配ピザが届いた。ちょうどお腹の空き具合がいい頃だった。

 届けにきた店員さんに「すみませんこんな雨の中」と白々しいようなことを言うと、「いいんです、仕事ですから」と返された。
 いや、本当に、申し訳ないです。でも、ありがとうございます。


 姉を二階に起こしに行って、一緒にピザを食べた。

 出前なんてうちでは全く取らないから、なんとなく新鮮な気分。

 単価を考えると高いかもしれないが、許せるおいしさだった。
 なにより、雨の中届けてくれたあの真摯な店員さんのぶんもおいしく感じたのかもしれない。

 俺はすぐに自分のぶんを食べ終えてしまった。姉はゆっくりと食べていて、何枚かまだ残っている。


 喋ることもないし、姉の雰囲気もどことなく暗くて、話しかけづらい。漂う空気も重く感じる。

 俺がその場から立ち去ろうとすると、姉が俺を縋るような目で見つめてくる。

 それを見ていないふりをして、リビングのドアに手をかける。

 そのとき突然、腰に柔らかい感触を感じた。

 首を回して後ろを確認すると、姉が俺の背中に顔をうずめていた。


「どうしたんだよ」

「なんで、私のこと避けるの? お姉ちゃんの……わたしのこと嫌いになったの?」

「……」

 言葉につまる。避けていたのは、事実だ。
 ここ数日父親がいたものだから、俺としては姉と父親が関わりやすいように身を引いてたんだ。

 嫌いになってないと、そう言いかけたときに姉は俺の言葉を遮って話し続ける。

「今日だって……昨日も……どこに行ってたの? 朝から居ないし、夜も遅いし……」

「友達と遊んでて、それからそのままバイトに行ってたんだよ」

「……うそだ。嘘なんでしょ? わたしのことを避けて、家に居るのが嫌だから、ずっと帰ってこないんでしょ? 」


 俺はこうなった姉への対処法を知らない。
 事実を言っても非難されたのでは、言っても仕方がないとしか言いようがない。

「姉さんのことは、避けてないし、嫌いでもないよ」

 そう言うと、きゅっと俺の腰に回した腕の締まりが強くなる。

「じゃあ、お父さん? お父さんのことが嫌いなんでしょ。わたし前々から思ってた。ハルはお父さんのこと嫌いなんだろうなって」

 かけられている力がまた強くなる。語気もまた強くなる。涙声になってきていると感じる。

「でも、わたしにとっては、大切な家族なの。ふたりに仲良くして欲しいの。だって……」

 一瞬言い止めたが、息を整えて姉は言葉の続きを話す。

「……だって、わたしには……この家にはもう、ふたりしか家族がいないんだから」

「……」

 俺は何も言葉が出てこなかった。


 姉に対して良かれと思ってとっていた行動が、逆に姉を苦しめていたからだ。
 うわべを取り繕うことなんて、簡単だったはずだ。それを拒否したのは、俺の身勝手なエゴでしかない。

「ねぇ……お願い。何があったの? どうしてそんなに、お父さんを避けるの、教えて……?」

 姉は、腰に回していた手を外し、俺の肩を掴んで自分の方を向かせて、そう言った。

 姉の顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。目は真っ赤で、頬も真っ赤になっている。

 ーーー俺は、姉に真実を言うべきなのか?

 正直に言ったとして、姉はどういう反応をするのだろうか。

 きっと、俺を非難する。軽蔑する。


 俺はそれだけは耐えられない、と以前から思っていた。
 姉も、そんな事実なんかは知りたくないだろうし、お互いが後悔する。そんな事実なら黙っていた方がマシだ。

 これも俺のエゴだ。間違いなくそう言える。

 でも、このエゴを貫き通すくらいでしか、俺は俺でいられない。

 だから、俺は…………

「……別に、姉さんに関係ないだろ」

 俺は、姉を突き放すことしかできなかった。


「わかったよ、もういい!ハルなんか嫌い!死んじゃえ!」

 姉は俺を突き飛ばすと、ドタドタと二階に上がっていった。

 はっ、として伸ばした手は、姉には届かずに、空を掴む。

 どうすりゃいいんだよ、と誰もいなくなったリビングで呟く。

 テーブルに置きっ放しの、姉のスマートフォンの画面を見る。
 その画面に映っていたのは、父から姉へのメール。
 簡潔に言うと、また急に忙しくなったからしばらく家に帰れないという内容だった。

 俺は再度、どうすりゃいいんだよ、と小さく呟く。

 でもその呟きは、姉には…………。

 ……いや。


 誰にも、聞かれることはない。





 俺は、神経をすり減らしていた。


 大好きだった部活も、楽しかった毎日も、霞んだ目を通してでしか見えなくなってしまった。


 近くにいる道化を見て、自らもまた道化を演じる。


 俺はどんどん暗くなっていった。


 学校に行って、寝て、家に帰って、笑顔で振る舞って……。その繰り返しだった。


 いつしか友達も居なくなった。


 幼馴染の女の子とも些細なことで喧嘩をして、そのまま話さなくなった。


 部活のメンバーにも疎まれるようになって、適当に怪我をしたことにして部活をやめることにした。



 俺は中三にあがる頃には、正真正銘、ひとりぼっちになっていた。
 そのときは、人と関わらないと疲れなくていいや、なんて思っていた。


 辛かったし、苦しかった。でも、学校には行き続けた。


 それが俺に与えられた使命だと思っていたから。
 それが大好きな家族を守る唯一の手段だと思っていたから。


 勉強をしていても、何をしていても、頭の中では「なんで」「どうして」と考えていた。


 人と関わりたかった。
 でも、俺みたいに薄っぺらいやつと関わりたいやつなんているのだろうか。


 終わりの見えない苦痛だった。
 けれど、姉が精神的に自立する頃になれば、気持ちも楽になるかもしれないと、そんな淡い期待を持っていた。


 少しずつ慣れてきて、もう少しでやり通せるって思った、その時だった。


 俺は学校の授業中に意識を失った。






 翌朝目が覚めると、やはりリビングには姉だけがいて、父の姿はなかった。

 姉は一応、形式上は俺に謝罪した。癇癪みたいなことを起こしてごめんなさい、みたいなことを。

 俺もそれに続いて慌てて謝った。大人げなかったし、あの態度はなかった、と。

 でも、謝っている間も、食事をとっている間も、一度も目を合わせてはくれなかった。

 当然会話もないし、リビングにはテレビの音だけが響く。


 姉と喧嘩をすることなんて、もう本当に小さい頃からしていなくて、久しぶりに感じる。
 昔喧嘩をしたときは、必ず俺が折れて仲直りをした。姉は頑固な子供だったから、俺が先に謝るしかなかった。

 今回昔の喧嘩と決定的に違うのは、俺から折れることはできないということだ。

 いつものように、俺が軽口を叩くこともないし、姉も不用意に絡んできたりはしない。

 ずっと、空虚な時間が流れていた。

 姉は塾に行く時間になったのか、手さげを肩にかけ、無言で部屋から出て行こうとする。

 それに俺は小さい声で「いってらっしゃい」と言った。
 背中越しでよく見えなかったが、姉は小さく頷いているように見えた、ような気がする。

 どうして、こんな…………。

 俺が悪いのだけれど、こういう雰囲気は、嫌いだ。

 急に家の中が広く感じた。
 カーテンを開けると、外の天気は昨日と打って変わって青空が広がっている。

 それから、なにをする気にもならなくなった俺は、ソファでどうでもいいようなテレビを見ながらいつの間にか眠りに落ちていった。





 ふいに、覆水盆に返らず、という言葉が頭に浮かんだ。


 たしか、遊んでばかりの夫に愛想を尽かした妻が出て行ったのだが、夫が官職を得たと知ると急に掌を返して戻ってきたので、夫が『一度失ったものは二度と元には戻らない』という意味を込めて妻の前で盆をひっくり返したというエピソードから出来た故事成語だったと思う。


 手短に言えば、『自業自得』と、そう言えばいいのかもしれない。


 業は必ず自分に返ってくる。


 失ったものは元には戻らない。



 人との関係も、なにか自分にとって大切なものも、一度失ってしまえば元には戻らないのだ。


 なら、今までの俺はなんだ?
 盆をひっくり返されて、必死に泥を掬う妻だったのか?


 自分の中の枠組みに固執して、執着して、結果的に姉を傷つけた。


 そうまでして、自分は何を守りたかったというのだろうか。


 父親に申し訳ないと思っているのも、姉に対してふたりじゃないと接しづらく感じるのも、紛うことなく、俺の感情だ。


 今まで必死に塗り固めて、隠していたものが、一気に剥がれて崩れ落ちていくような気分になる。


 俺がするべきこと。


 俺は人に頼る術を身につけてはいない。
 昔はよく世話を焼かれていた子供だったが、あの件以降、人に頼るのが億劫になってしまった。

 彼女は、いつも俺に建前をくれた。俺が喋りやすいように、行動しやすいように。それにずっと甘えていた。
 それを辞めようと思ってこの前自分の言葉にして、彼女に伝えた。


 でも、結局のところ、俺はまるで成長していなかったのだ。

 自分で問うた題への答えは、今の俺では一つも見つけることはできなかった。

つづく





 結局、その日はなにを考える気にも、なにを話す気にもならなかった。

 バイトだって普通にいつも通りこなした。

 俺の家族になにかがあったとしても、地球は廻り続ける。周囲は意にも介せず、営みを続ける。
 『あたりまえ』のことだ。誰でもわかっている、ごく普通の、当然のこと。

 でも、俺は酷く混乱させられる。取り繕おうとしても、取り繕えない。

 俺の世界は俺の周りによって左右される。もう一度、なんて許されないんだ。

 なぎさはバイト帰りに俺に気を遣ってくれたのか、あまり多く話しかけてはこなかった。
 むしろ俺の方が不必要に言葉を重ねていた。


 帰宅してからは、もう外で食事を済ませてきたという姉は部屋に戻っていて、ひとりで食事をとった。

 こんなときでも、姉は夕飯をつくってくれたのだ。その優しさが、痛く感じる。

 家族の中ですら、疎外感。
 たった一人のきょうだいとも、ギクシャクしてしまっている。

 食べ終わった後、洗い物をして自室に戻る。

 漫画を読むような気分にも、アニメやドラマを観る気分にもならない。
 本棚に積んだままになっていた文庫本を手に取り、数ページぱらぱらと捲るも、続かない。

 いっそ千咲に頼んで家に来てもらって、気まずさを解消する……とまではいかなくても姉の機嫌さえ良くなってくれればいいとは思うのだが、根本的な解決にはならない。



 ただ、それは引き伸ばしでしかないのだ。

 無理やり引き伸ばして、真実を覆い隠した結果、今回の軋轢を生んだ。

 引き伸ばしはもう使えない。

 どうしたものか……と考えていたときに、ふいにスマホの着信音が鳴った。


「もしもし」

「もしもし、突然だけど、明日会える?」

「……うん、九時にいつものところで」

「はいはーい」





 次の日の朝、俺は"駅前"のカフェに来ていた。

「ハル、久しぶり。元気にしてたかな?」

 そう言って『母さん』は俺に向かって笑いかけてくる。

「うん。まぁ……それなりに 」

 昨日の電話の主は『母さん』だった。

 アイスカフェオレに挿したストローで氷をかちゃかちゃとやりながら、はぁっ、とため息を吐く。

 父親は俺と姉に、『母さん』と絶対に会うな、と釘を刺した。
 でも、俺は数ヶ月に一度こうして会うことを続けている。

 姉は多分、というか『母さん』の様子を見る限り言いつけをきちんと守って会っていないようだった。
 確証はないが、父親も会ってはいないと思う。


 『母さん』は俺と姉がどう過ごしているか知りたがった。

 虫のいい話、だとは思う。自分から捨てた子どもの様子を知りたいというのだから。

 俺も会うたびに、沈んだ気持ちになる。
 でも、会わずにはいられない。俺だって『母さん』の状況は知っておきたいから。

「楓は……元気にしてる?」

「うん。まぁ、受験勉強とか大変そうだけど、そんなには困ってはないと思う 」

 最近に限っていえば嘘になる、が完全に嘘というわけでもない。

 ……あんたのせいでこうなっているんだよ、とも考えるが、言ったところでなにも変わらない。なら言わない方がマシだ。

 父親のことをなにも聞いてこないあたり、そうなんだな、と諦めに近いような気持ちになる。


「そっかそっか。……来年アンタも受験勉強がんばらなくちゃね 」

「……そうだな 」

 悪びれもせずに、『母さん』はそう言う。
 なんていうか、そういうのにもう慣れてしまっている俺がいる。

「そういえばさ、これ見て見て 」

 そう言ってスマートフォンの画面を俺に見せてくる。
 画面に映っていたのは『母さん』と、その夫、そして小さい子どもが映った写真だった。

 はたから見れば、『母さん』のしていることは最低の行いだ。
 俺が以前会ったときに、次の家族のことは隠さずに言って欲しいとお願いをしたからそういうことをしてくるのだと思う。


 はたから見れば、『母さん』のしていることは最低の行いだ。
 俺が以前会ったときに、次の家族のことは隠さずに言って欲しいとお願いをしたからそういうことをしてくるのだと思う。

「うん、よく映ってるね。この子のなまえ、なんて言うんだっけ?」

「美優……美しいに、優しいって書くの。前の奥さんがつけてくれたんだって」

 俺と姉の名前の由来……は、聞いたことないな。

「かわいい名前だね。……『母さん』も、いろいろ大変だろうけどがんばって」

 夫は前妻と死別してひとり子どもがいる、と聞いていた。
 俺は本心からこの言葉を言っていない。が、まるっきり嘘を言っているわけではない。

 恨んでないといえば嘘になる。ただ、仕方がないと感じる。

 『母さん』には新しい家族がいて、幸せになろうとしている。

 それが俺たち家族の不幸を踏み台にして手に入れたものだとしても、壊すなんてことはできない。

 たとえ知らない、全く関係ない子であったとしても、幼い子に二度も母親を失う目にあわせることなんて、なにがあってもしてはいけない。

 復讐は不幸しか生まない。不幸の連鎖を起こしてはならない。

 お人よしが過ぎるなんて言われても、そう思っているのだから仕方がない。

今日の更新は以上です
少なめですみません





「なにか用でもあるの?」

 俺が部屋に入ると、間髪入れずに姉は椅子に座ったまま、こちらを見ずにそう言った。

「……姉さんと、仲直りしたくて」

「……べつに、この前の朝に謝ったじゃない」

 姉はこの前のように感情的になることはなく、落ち着いた様子で静かな声音で返答してきた。

 たしかに、お互い謝りはした。
 でも、それは本心からのものではない。

「そんな、上辺だけの仲直りじゃなくて、ちゃんと話をした上で仲直りをしたいんだ」

 姉からの返事はない。
 けれど、俺はそんなことを気にせずに言わなければならない。

「…………姉さんのことを避けていたわけじゃないんだ。俺が避けていたのは父さんの方なんだ」

 姉の細い肩がびくっと震える。
 俺は反応を待たずして話を続ける。


「俺は父さんとの間に、『母さん』がうちからいなくなってから、距離を感じるんだ。
 俺の一方的な思い込みかもしれないけれど 」

 姉は俺の方に振り返って、「どうして」と小さく呟く。

「俺はさ、姉さんが笑っているのが好きだったんだ。うちで、みんなで、楽しく過ごしてて、姉さんが笑顔で……」

 言葉を発しながら、姉が目線を合わせてきたのに気付く。
 なにかに縋るような、そんな目を俺に向けてくる。

「どんな結果でもさ、姉さんのあの頃の笑顔を奪った父さんが許せなかったんだよ、結局。
 悪いのは『母さん』なのはわかってる。そんなのわかりきってる。
 でも、それでも俺は…………」

 詭弁だというのは、自分でもわかっている。

 父さんは100%被害者だ。
 父さんだって絶対に傷ついている。

 そんなことは重々承知だ。
 わざわざ言明することでもないほどわかりきっている。

 でも、他にやりようはあったのではないかと思う。

 『母さん』がこの家からいなくなってから、父親は完全な仕事人間になってしまった。
 なにかを忘れるように。なにかから逃げるように。
 夜遅くまで仕事をして、深夜に家に帰って、寝て、起きて、また仕事。

 そのときに、もっと俺たちのことを考えてくれたならば……姉のことを考えてくれたならば……。


「俺はずっと……」

「ち、ちがうよ。……ハルは、いつもお父さんに申し訳ないって顔をしてる。
 ……見てるから、わかる」

 姉は視線を下ろして、小さく呟く。

「……」

「私は、それがずっとどうしてだろう? って思ってた。でも、それを訊ねることでハルがもっと追い詰められちゃうのかなって……」

 まずい……言い当てられてしまった、と少し自分の表情が硬くなるのを感じる。
 考えていた言葉はもう使えない。

 父親に対して許せないと思うのは、自分の保身のためだ。
 父親を避けるための、表向きの理由に過ぎない。
 恨むことによって、嫌うことによって、自分の昔の行為から目を背けたかったんだ。

「…………それも、そうかもしれないな。俺は父さんに対して申し訳なく思ってる気持ちもある」

 姉は姿勢を変えないまま「どうして?」と俺に聞いてくる。

 そんなの、言えるわけがない。
 父さんに『母さん』の不貞を教えたのは俺だなんて。
 自分の保身のために、その事実を黙っておくことを諦めただなんて。


 姉さんには、嫌われたくない。
 だからまた真実を隠して、言葉を重ねる。

「それは……まだ、言えない。俺の中でも整理がついてないんだ」

 あぁ……これも引き伸ばしだ。言っていて自分でそうだと気付いてしまう。
 これじゃあ、今までと変わらない、なんの意味もない、と俺は落胆する。

 だが、姉の反応は俺の予想とは全く違うものであった。

「……そっか、やっぱり言えないことなんだ」

 姉はそう言うと、ゆっくりと俺の方に向かって手を伸ばしてくる。

 俺は動かずに、その様子を見つめていると、この前のように、腰を掴まれてお腹のあたりに抱きつかれた。
 強くはなく、優しく、そっと包み込むような感触がする。

「でも、話してくれて嬉しかった。……このまえ、ハルに拒絶されたことが、いちばん嫌だったから」

 そう言って、姉は潤んだ瞳でこちらを見据えて微笑んだ。
 心なしか、声もうわずっているように聞こえる。


 俺はいつもそうすることを拒んでいた。
 言ってもわかってくれない。
 理解してもらえない、と自分の中で勝手に完結して。

 けれど、なぜか今なら信じてもいいのではないか、と感じる。

 姉を長くは待たせたくない、なら俺は父親と話すしかない。
 父親と話をして、和解とは言わなくとも改善くらいはする必要がある。

 そう思うと、今まで躊躇していたことが嘘のようにするりと口から出てくる。

「……父さんと二人で話したら、姉さんにも話すよ。約束する。それまで待っててほしい 」

「……うん。わかった 」

 姉はそう言うと、俺の腰から片腕を外して、ごしごしと目元をこすった。

「私はハルのお姉ちゃんだから、いつまでも待ってあげる。大好きな、弟の頼みだからね 」

 姉は再度、俺の目をじっくりと見る。
 目元は、赤いままだった。

 姉のその姿に感化されたのか、俺の視界もなんとなく霞んで見える。

 俺も、右手でごしごしと目元をこすった。
 泣いてなんかいない、俺は男だから、泣いてちゃいけない。

「……ありがとう、姉さん 」

 姉から顔を背けても、涙声はごまかせなかったと思う。

 向き直り、姉に向かって精いっぱいに笑う。

 たぶん、ひどく不恰好だった。自分ではわからないけれど、情けない姿だったということだけははっきりしている。

 でも、家族の姉ならそんな情けないような姿を見られたって構わないと、そう思ってしまう。

 目が合うと、姉も潤んだ瞳で俺をみて、笑い返してきた。

 その笑顔はかつての、中学生以前の姉の、あのあどけない笑みと、寸分の狂いもなく同じものであるかように、俺の目に映った。





 その次の朝、俺は姉の声で目覚めた。


 どうやら起こしにきてくれたらしい。
 夏休み中なのにどうして、と問うと、家族なんだから一緒に朝ごはんを食べるのはあたりまえでしょ、と返事が返ってきた。

 姉は昨日のことが余程嬉しかったのか、朝食とは思えないくらいの豪華な食事を作っていた。

 ……昨日の今日で元気だな。俺は昨日のことを思い出すたびに恥ずかしさで死にたくなるというのに。

 姉になら泣いている姿を見られてもいいとそのときは思ったけれど、冷静に考えると恥ずかしすぎる。

 なんとなく向かい側に座る姉と目が合わせづらい。
 なんだかぎこちない感じで会話が続けられる。

 たまに、姉も俺も喋らない静かな時間が流れる。


 でも、これまでよりはなんだか居心地が良い。

 俺はなんだか嬉しくなって、ご飯のおかわりを何度もした。

 姉は嬉しそうに笑っている。

 俺もそれを見て、ますます嬉しい気分になった。





 正午過ぎ、俺はあてもなく自転車を漕いでいた。

 今日はバイトが休みだ。
 でもなんだか無性に落ち着かなくて、外に出たい気分だった。

 駅とは反対の方向に自転車を走らせる。
 風を切る感覚が爽快な気分を与えてくれる。

 ちょっと疲れたころに、向日葵畑のある公園で足を止めた。

 はじめて訪れる場所だ。
 あたりを見渡すと、家族連れだったりお年寄りだったりがベンチに座って会話をしている。

 丁度よく日陰の席が空いていたので、そこに腰掛けることにする。

 てきとうに思いついた曲を鼻歌で歌う。
 いつもどおりだ、なんて考える。

 太陽の光は性懲りもなく地面を照らし続け、セミが大合唱をしている。

 ふつうの夏だ。
 ごく普通の、なんでもないような夏。

 リュックの中から家から持ってきた麦茶を取り出し、それを飲む。


 「あついー」と言いながら付近を駆け回る子どもたちの姿を見ながら、これからどうするか、という思考にありつく。

 姉との不和は一応解消された。
 それも思ったより良い方向で。

 なら、次は父親と話さなければならない。
 俺が決めたことだ。最後までやり通さないといけない。

 けれど正直言って、取り合ってもらえるビジョンが見えない。
 だいぶ前から会話らしい会話もしたいないし、父親だって話したくないかもしれない。

 昨日とった選択は、見方によっては現状維持だ。
 取り巻く環境や状況はなにひとつ変わっていない。

 再度、どうしたものかな、と考える。

 幸いにして父親はあと一週間以上家に帰っては来ない。
 それにお盆時くらいは一日中家にいる日だってあるはずだ。
 今はあれこれ考えていても身動きが取れない状況だ。

 まだタイムリミットまで時間はあることにはある。

 だから今は、少しくらい素直に楽しんでもいいんじゃないか、と、そう感じた。


 それからしばらくして、家に帰った。

 あとで何かあったときの為に課題を進めておくのがいいだろう。
 そう考えて、まばらに手をつけていた課題を解いていく。

 今日はなんだか集中して取り組むことができた。

 キリのいいところまで進めて、ベッドに寝転がってスマートフォンを手に取る。

 暑さを紛らわすために、『海』とか『雪』とかで画像検索をする。

 いい感じの画像を保存。
 ものすごく暑くなったときにでも見ると涼めるかもしれない。

 たいして涼むことはなかったので、一階に降りてアイスを取ってきて食べる。

 そんなこんなで、姉が帰ってくるまでいろいろやって暇をつぶしていた。


 姉が帰ってきて、一緒に夕食の買い物に行った。
 あたりは暗くなっていて、暑さも少しやわらいでいる。

 買った荷物をはんぶんこして持って帰った。

 姉に、今日はなんだか楽しそうだね、と言われた。

 それに俺は、姉さんも楽しそうだよ、と返した。

 そんな一日だった。





 翌朝、また姉に起こしに来させるのも申し訳ないので、目覚ましを使って自分で起きた。

 今日もこれまた豪勢な食事だった。
 とはいえ、献立はちゃんと考えているらしく、彩り鮮やかで重くないものばかりだった。

 姉は俺より少し早く食べ終えて、塾へと出かけて行った。

 寝汗が酷かったのでシャワーを浴びて普段着に着替える。
 今日のバイトは夕方からだ。
 また課題をやって時間をつぶすか?とも考えたが進捗状況的にそう焦ることはない。

 家にいて怠惰な時間を過ごすのも悪くはないが、時間を無駄にしているとも感じてしまう。


 迷ったが、結局学校に出かけることにした。
 学校に行けば、誰かと会えるかもしれない。
 一応もし誰も居なかったときの為に勉強道具は持って。

 駅まで歩くのも面倒に感じたので、暑さの中自転車で学校まで行くことにした。

 学校の近くまできて、急な傾斜を勢いよく駆け上った。
 陸上部が外でランニングをしている。おつかれさまです。

 駐輪場に自転車を置いて、渡り廊下を通って校舎に入る。

 校舎の中は夏だというのに涼しかった。

 自分の教室に着いて、席に座る。
 課外講習期間外だろうか、自分のほかには教室に誰も人はいなかった。

 窓から外の様子を伺うと、校庭でサッカー部とソフトボール部が部活をしている。

 廊下は涼しかったが、教室はそれなりに暑さを感じる。
 窓を全開にして、大型の扇風機をつける。


 教室に辿り着くまでも知り合いに誰にも会わなかったな、と少し悲しくなったが、もともと知り合いも少ないので仕方がない、と割り切る。

 とりあえず、課題のページをペラペラとめくる。
 昨日のぶんの添削をした。結構まちがえていた。自分では集中してると思っていたがそうではないらしかった。

 添削が終わって、また新しい問題に手をつける。

 しばらくそうしていると、少し眠くなってきた。

 机に顔を伏せて、目を閉じる。
 木の匂いが鼻に広がる。
 好きな匂いではないが、嫌いでもない。

 少しして、眠りに落ちた。





 目が覚めると、もうお昼どきになっていた。
 昼飯は持ってきていない、が食べに行くのも面倒だ。

 とりあえず近くのコンビニに買いに行くことにした。

 特別棟の出口から外に出て、コンビニに向かう。
 途中で体育館からボールをつく音と練習の声が聞こえた。

 そういえば千咲が合宿があると言っていたのを思い出す。
 少し懐かしさを感じて、自然と俺の足は体育館へと向きを変えた。

 体育館に入って、すぐに階段を登って二階に行く。
 トレーニングスペースからフロアを見渡す。

 一面はハンドボール部、もう一面は女子バスケ部が使っていた。


 ぼけーっ、と練習を見る。
 千咲を見つけて目線で追う。小さい身体でコート上を走り回っていた。
 身長が150半ばだと、バスケ部の中だと小さい方なんだな。まぁ高校生だとそんなもんなのか。

 また懐かしいな、と感じる。
 中学のころは一緒のコートでバスケをしていたな……なんて。

 それからも少し見ていると、ふと上を見上げた千咲と目があった。

 慌てて目を逸らす。

 横目でちらーっと見ると、普通に俺だと気付かれたらしく、千咲はなんとなく精彩を欠いたようなミスを連発していた。

 邪魔しちゃ悪いな、と思い引き返して帰ろうとすると、ボトルを手に持ったマネージャーらしき女子に声を掛けられた。


「……相澤くん、だっけ。ここでなにしてるの?」

 名字を知られていた。ごめん俺は君の名前を知らないんだ。

「……」

 なにしてるの、と言われても見ていたという他ない。

「……もしかして、ちーちゃんを見にきたとか?」

「それはない、ありえない」

 即座に否定した。
 というか俺と千咲が幼馴染って知ってるのか。

「えーでもさー、毎日一緒に登校してるじゃん。付き合ってないの?」

 ……それもそうか、と納得する。
 千咲の朝練の時間に間に合うように出ているのだから、当然マネージャーに見られることもあるだろう。

「付き合ってないし、千咲と俺はただの幼馴染だよ」

 決まりきった模範解答を口にする。


 マネージャーと思しき女子はよくわからない表情をしている。

「ま、それはおいといて。見るにしてもちょっと他のところでお願いできないかな」

「あぁ、ごめん。……でもそんな邪魔だったか?」

「ほら、あの子。全然集中できてないみたいだから」

 そう言って下にいる千咲を指差す。
 見ると、やはりポロポロとミスをしていた。

「……すまん。すぐ帰るわ」

 なんで謝るかもわからないが、一応謝罪の言葉を口にする。

「ごめんねー。うちのチーム結構あの子頼みのとこあるからさ」

 それは知らなかった、というかそこまで上手かったのか。
 周りより身長が低いなりにがんばっているのだな、と感心した。

「あっ、よかったらマネやる?まだまだ募集中なんだけど」

「は?」

 急に思いついたようにマネージャーの女子がそう口にした。
 思わず素で反応してしまった。


 冗談じゃない。

 プレーヤーならまだしも(当然やる気はないが)マネージャー、それに女子の。

「い、いや。さすがにそれはまずいだろ、いろいろと」

「ぷっ、冗談冗談。さすがに私も女の子がいいよー」

 よくわからないが、冗談だったらしい。

「まぁ……マネージャーはあれだが。千咲にがんばれって伝えておいてくれ、よろしく」

「はい、あの子喜ぶよーきっと」

 マネの女子はそう言って俺に笑いかけてきた。

 マネージャーも合宿中いろいろとおつかれさまです、と心の中で言って、体育館の外に出た。

 ……やっぱり、千咲との距離感も見る人によってはそう映るんだな。


 思い出すたびに悶えそうなことばかりされているが、特にこちらからアクションを起こすわけでもなく、あっちも核心に触れるようなことはせず。

 ふとしたときに距離が詰まりそうになって、それを避けて。からかわれてもわかってないふりをして。

 距離を詰めてみよう、と思ったことだってあることにはある。
 けれど、なんだか戻れなくなることが怖かった。

 あのときも、俺の方から喧嘩をふっかけて、千咲を泣かせてしまった。
 でも、それでも近くにいて欲しかった。

 我儘だ、子どもの考えだ。
 そんなことは頭ではわかっている。

 また一緒にいるようになっても千咲の優しさに甘えてしまっている。
 千咲は優しいから、あのときのことを聞いてはこないし、なんでもなかったかのように接してくれる。

 ただ、『あのときはごめん』とひと言だけでも話しかけてきてくれた千咲に言うことができればよかった。
 その機会を完全に失ってしまっている。


 だから、彼女に対しても、申し訳なさはずっと残っていると感じてしまう。





 その夜、祖父母の家から電話がかかってきた。
 結構久しぶりにかかってきたと思う。

 要件は恐らく里帰りのことだろう。

「もしもし、今年はいつ帰ってくるの?」

「うん、と……次の週末土日どっちもかな。あと姉さんは勉強するから行けないって」

「えっと、じゃあハル一人ね。一人でこっち来るのなんてほんとちっちゃい頃ぶりね」

 確かに、いつも姉と、もしくは家族全員で行っていた記憶がある。
 ちっちゃい頃の記憶は曖昧で、あまりよく覚えていない。

 ……そういえば、なぎさのことは話していなかった。
 説明しようにもなかなか難しい。

「そのことなんだけどさ、友達……と一緒に行ってもいい?」


 なぎさと俺は先輩後輩なのだが、説明が面倒なので友達ということにした。

「わかったわ、じゃあゴハン多めに用意しておくからね」

 そう言われて、少し父のことや姉のことなどを話してから電話を切った。

 完璧に男友達と行くと思われている。
 が、女の子だと言ったら言ったで面倒くさいかもしれないので控えておいた。

 姉にも一応そのことを言っておく。
 一緒に行くような友達がいない、と貶されたので言っておこうかと。

 姉は俺が言ったことを聞くと、ノータイムでその子を家に連れてきなさい、と言った。

 どうして?と聞くと、なんとなく、と返してくる。

 ……まぁ、今度はうちで遊ぼう、とこの前誘ったことだし、都合が良いことには変わりはない。


 食事のあと、部屋に戻ってなぎさにLINEを送る。
 姉が是非うちにお越しくださいと言っていた、と。

 返事はやはりすぐに返ってきた。

『じゃあ明日杏連れて行きますね、お昼過ぎくらいにお邪魔します』と、よくわからないパンダのスタンプを押してきた。

 きもかわというかなんというか、ご当地ゆるキャラみたいな変なやつだった。

『それ好きなの?』と聞くと、『好きなんです』と返ってきたのと同時にスタンプを連打された。
 
 意外とかわいいとこあるんだな。
 そういう趣味を持っているとは知らなかった。



 誕生日とかにストラップとかをあげたら喜ぶかな。

 でもいつか知らないし、あげるならサプライズっぽくあげたいな、なんて考えていた。

 なんとなく、今日一日を振り返ってみる。

 お昼過ぎまで、千咲のことばかり考えていたのに、今はなぎさのことで頭がいっぱいになっていた。


 ……節操なし。


 どうしてか、そう口にしていた。

 とはいえ自分で言ってどうすんだ、と、あまり深くは掘り下げないようにした。





 気が付くと、夢の中だった。

 俺は夢の中で、小学生?くらいの姿になっていた。

 炎天下の中、土の上にある水溜りで自分の顔を見る。
 なぜだか靄がかかって見えない。

 後ろから、誰かに声をかけられた。

 慌てて振り向いたが、そこには誰の姿もない。

 知らない場所だったので、とりあえず歩くことにした。

 生い茂る雑草をかぎ分けながら歩いていると、大通り(雑草が生えていない舗装された道、でも狭いことには狭い)に出た。


 しばらく、道なりに沿って歩く。

 また、どこからか俺を呼ぶ声がした。


「いっちゃやだ……どこにもいかないで……」


 と、そう聞こえた気がした。

 俺は声の聞こえた方向に走り出して、その声の主を探した。

 声は近付いたと思うと、それに反比例するかのように小さくなっていく。


 虫取りカゴと、何枚かの洋画のDVDが落ちていた。


 今度ははっきりと真後ろから俺を呼ぶ声がした。


 振り返ったが、"その子"の姿は見えなかった。


 夢は、そこで途絶えた。





 翌日の昼過ぎに、なぎさと杏ちゃんがうちに来た。

 俺の部屋には入ってこないとは思ったが、一応掃除をしておいた。

 姉は今日は塾が休みだったようで、うちにずっと居る。

 姉妹が到着すると同時に、なにか買い出しに行ってこい、と姉に言われたのでお菓子やらなんやらをコンビニまで買いに行く。

 こういうときの定番はなんだろう。

 カントリーマアムとかポテトチップス、それと数本の飲み物を購入して急いで家に帰った。

 リビングに入ると、もうゲームをして遊んでいる音がする。

 姉となぎさと杏ちゃんはすぐに仲良くなっているようだった。
 飲み物を注ぎにキッチンに行くと、なぎさが手伝いに来た。


「おまえって姉さんと面識あったのか?」

「あ、いえ。私は知ってましたけど、お話しするのは初めてっすね」

 どうして知ってるんだろう?と首を傾げると、それを感じ取ってか、なぎさが言葉を続ける。

「ほら、目立つじゃないっすか、楓さん」

「目立つ……?」

 姉は比較的おとなしい方だ。
 目立つと言われてもあまり馴染みのない言葉だ。
 姉の方を見てみる。……目立つか?

「ちっちゃくてかわいいって、私の学年でも有名なんですよ」

「……知らなかった。俺の同級生にもそういうやついるのかな?」

「いますねー。先輩が気付いてないだけで絶対いますよ」


「そうなのか…………。なんか複雑な気分だ」

「いやぁ、それはシスコンっすねー、まぁちょっとだけわかる気もしますが」

 ふふふ、と少しわざとらしく笑われた。
 シスコンというより、きょうだいのそういう話を聞くのがあれだという意味だったのだが。

「ていうか、なぎさもシスコンだろ」

 なぜか、なぎさ『も』と口を滑らせていた。
 自分から認めてしまった。間違ってはないと思うけれど。

「そっすねー。杏かわいいですもん、モテるんですよ、かなり」

 なぎさはそう言って誇らしげに笑う。
 なぜ姉のおまえが誇る……とツッコミを入れたかったが我慢した。

「そういう、なぎさ自身はどうなんだよ」

 とくに何も考えず、気になったのでそう訊いてみる。

「そうですね。わたしはー、ヒミツです。でも、先輩ならわかると思いますよ」

 そう言葉を残して、リビングに飲み物を注いだコップを持っていかれた。


 ーーー先輩ならわかると思いますよ。
 頭の中でその言葉を繰り返したが、まったく分からなかった。

 なぎさが手土産として持参してきたケーキをお皿に取り分ける。
 それを持って行くと、杏ちゃんが早く食べたい!という風に嬉しそうにしている。
 姉も嬉しそうにしていた。

 俺もケーキを食べたあとにゲームに参加した。

 ゲームする。つかれてきたらお菓子を食べて休憩する。食べたら再開する。飽きたらボードゲームをする。

 このサイクルでだいぶ時間が経って、気付けばオレンジ色の光が部屋に差し込むくらいの時間になっていた。

 バイトの時間が近いので、遊びを切り上げることにして、姉と雑談をしているなぎさに合図を送る。

 なぎさは帰りの支度をしていたが、杏ちゃんは遊び足りないような様子だった。

 「もう帰るよー」となぎさが言っても、帰ろうとしない。

 しょうがないので、姉にもうちょっと遊んであげて、と耳打ちしてバイトに向かうことにした。

今日は多めです
つづきます


「人の家にお邪魔してゲームするって多分初めてだから、嬉しかったんだと思います、ごめんなさい」

 彼女は申し訳なさそうに呟いた。
 ……べつに謝らなくてもいいのに。

 大丈夫だよ、と俺が返すとそれからしばらく無言の時間が続いた。

 単純に話のネタがなかった。

 いつもなら、杏ちゃんにコントと言われるようなやり取りをどちらともなく始めるのだが、疲れていたのかそうはならなかった。


 与えられるのを待っていても仕方がない。
 が、ムリに喋ろうとしてもこの前みたいに心配されるかもしれない。

 週末のこと、この前のこと、話したいことはいろいろあるが、次の機会にとっておこう。


 歩いていると、なぎさは鼻歌を歌いはじめた。

 知らない曲だった。ゆっくりとしたテンポ、バラードだろうか。

 なんだか、すこし懐かしい気がする。





 夕方からのバイトはかなりキツく感じた。

 最近外出することが多かったし、今日も結構身体を動かすようなゲームをしたから当然といえば当然だった。

 お姉様系先輩は居なかった。
 この前言ってた海にでも行ったのかもしれない。

 なぎさは行って早々に夕方のピークを迎えたもんだから、あたふたと慌てていた。

 八時過ぎくらいに、むかし俺にタバコについてイチャモンをつけてきたおじさんが来店した。

 今ではなかなか仲良く(?)なって、たまに世間話なんかをされる。
 いい歳したおじさんなのに、立ち読みコーナーでジャンプだったりマガジンだったりを読んでいる。

 まえに、マンガ好きなんですか?と訊いたら、こち亀が終わって悲しい、と言っていた。

 おじさんは少し立ち読みをした後に、おつまみと酒を持ってレジに行った。
 レジ担当はなぎさだ。

 不慣れだと何か言われるかもしれないな、と思って近くまで行こうとしたが、「まあ最初はそんなもんだ、ガハハ」と笑いながらなぎさがお目当てのタバコを取るまで待っていた。

 対応の差を感じる。というか性別か。女の子には優しいんですね。


 それから少しして、店内にお客さんが一人もいなくなった。

「まえに言ったひと、あのひと。俺は初バイトで怒られた」

 一応なぎさにおじさんのことを伝えておく。
 また来るかもしれないし、結構常連さんだから。

「そうなんすかー。
 うーん……私には優しかったですよ」

 なぎさはまた、えへん、という顔をしていた。
 なんだかちょっと悔しくなった。


 帰り道では、さっきとはうって変わって話がはずんだ。

 杏ちゃんの好きな食べ物の話から広がって、なぎさと杏ちゃんが毎日交互に料理をしているということを聞いた。

 ちょっと親近感を抱く。
 うちはほぼ姉に任せっきりではあるのだが。

 別れ際になって「明日も楽しみです」と言われた。
 知らなかったが、多分そういうことになったんだろう。

 夏休みがかなり充実しているような気がする。今までにないような、そんな楽しい感じ。

 ひとりになってから、なぎさがさっき鼻歌で歌っていた曲の歌詞を口ずさむ。

 英語だったから歌詞の意味はそれなりにしかつかめないが、気分はハイになっていた。

 千咲の家の前を通りすぎるときに部屋を見ると明かりが点いていた。
 合宿が終わって帰ってきたんだろう。

 まじでいろいろと大変そうだな、本当に。
 帰ったらLINEしておくか、と考えながらゆっくりと帰っていった。





 八月序盤らしく、朝起きたときにはまだ九時台だというのに外はガヤガヤとしていて、強い日差しが部屋の中に差し込んでいた。

 夏休みというと長いイメージを持つが、まぁ、そんなことはない。

 うちの学校は、夏休みの始まりが他校よりはやい分、終わるのが少しはやい。

 夏休み明けには、実力テストという名の課題テストが待っている。
 "実力"テストなのだから、"実力"で、という割には課題から丸々コピーで出すあたりテストの存在意義が見えない。

 ふと、ベッドの横のカレンダーが目に留まって、残り日数を数えてみた。

 残りは三週間あるかないかくらいだった。

 少し憂鬱な気分になりながら居間に行き、ソファに寝転がる。
 ひんやりとした感覚が気持ちいい。

 寝転がりながら、俺の思考は夏休みの残りの二週間でなにをできるか、ということに行き着く。


 課題も終わりかけているから時間には多少の余裕がある。

 今日はみんなで遊んで、週末はなぎさと田舎に行って、姉と千咲はどうせ遊びに行きたがるだろうから、三人でどこかに行くというのもあるだろう。

 夏らしいイベントを考えてみる。

 海、プール、バーベキュー、花火、キャンプ、避暑地に旅行……。

 あとは……夏祭り、とか。

 夏らしいイベントといえばそこらへんが定番だろう。

 ここ数年の自分には恐ろしく縁が無いようなことばかり思いついた。

 考えてみたら、自分は夏休みならではというイベントを何もやっていなかった。
 バイトして、たまに遊んで、ゲームして、これでは普段と変わらない。

 現実的には花火だが、それなりに人数が居ないと面白くないだろうし。

 夏祭りは姉と行ってもたいして楽しめないだろう。
 せいぜい出店のホットスナックを食べまくれること位しかメリットがない。

 それにバイトが入っていたかもしれない。


 スマートフォンを手に取り、シフト表を見ようとしたときに、リビングのドアが開いた。

 そちらを見ると、商品がパンパンに詰まったスーパーの袋を持った姉がいそいそとそれを運んでいた。

「その荷物どうしたの?」

「あー、これね。なぎちゃんと杏ちゃん来るじゃない」

「あぁ……はい」

「ちーちゃんも呼んだら、ちーちゃんの友達も来るって言ってて、よかったらお昼ごはんつくろうかーってなって」

「うん……って、は?」

「あー、大丈夫大丈夫。今日も塾お休みだし、六、七人分なら余裕だよー」

 姉の心配をしていないわけではなかったが、今はそうは考えていなかった。
 千咲はまだわかるにしろ、千咲の友達って……。


 男女比率的にハーレム状態だ、なんて考えている余裕はなかった。

 急いでコウタに今日遊びに来れないかと連絡を取ったが家族旅行で九州に行っていると返信がきた。

 いつも暇そうにしてるのにこういうときに限って……。
 こういうときにさくっと呼べる友達がいないのは正直キツイ。

 千咲は流石に中学の時の友達は誘わないだろうし、高校の共通の友人はあまりいない。

 となると、吉野さんあたりだろうか。
 ゲーム好きって聞いたことあるし。


 予想は的中して、十時過ぎ頃に千咲と吉野さんがやってきた。

「はーくんお久しぶりです、遊びに来ました」
「おじゃましまーす、遊びに来たよー」

 手土産にミスドを貰った。わざわざ買いに行ったのか。


 荷物を受け取って、居間に二人を通した。

 姉と千咲が話をはじめて、吉野さんもそれに加わっている。
 話に混じるのもなんだか億劫なので大人しくテレビを見ていることにした。

 なんとなく甲子園の中継をかける。
 昨日開幕したとかなんとか、あまり野球には興味がないが、暇をつぶすには丁度いい。

 麦茶を持ってきて、それを飲みながらテレビ画面を見ていた。

 一発逆転のあるスポーツは見ていて面白い。
 自分が慣れ親しんだスポーツは最後まである程度決まってしまうものであったからかもしれない。

 九回裏二死満塁、三点差、とか。
 すごくワクワクする、素人目で見ても。

 俺の人生も一発逆転できないだろうか。
 『あなたの願いを叶えましょう~』なんて言って天使が現れてなんでも叶えてくれたりとか。

 バカなことを考えていたら、俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、唐突に話を振られた。


「はーくん、部活見にきてましたよね。るりちゃん……あ、マネージャーの子から聞きました」

「え、ハル見に行ったんだ。懐かしいなー、部活命だった頃もあったよね」

「ま、まぁな……」

 この話は正直したくない。
 が、話の流れを止めるのも申し訳ない。

「どうでしたか?久しぶりに見ましたよね」

「……あー、お前ミスしすぎ。周りに比べてちっこいんだからもっと動けよ」

 素直に感想を言った。

「ち、ちっこいってなんですか。失礼ですよ、普通に!」

 千咲は、いーっと俺に睨みをきかせた後に、俺の手をとり、自分の頭に持って行った。

「……なんだよ」

「ほ、ほら。私だって伸びてるんですよ? 確認してください」

 少しも伸びている気がしない。というか中学入ってから全く変わってないような気がする。

「変わってなくない?」

 千咲は不満であるのを表現するように、置いている手をバシッと叩く。

「去年から、1センチも!伸びたんですよ!この違いがわからないとモテませんよ!」

「いや、別にモテなくていいし……」


「はいはい。喧嘩しないの」

 姉が笑いながらそう言った。
 吉野さんも後ろで笑っている。

 このまま会話を続けてもあれだな、と思っていたところだったので助かった。

「ちーちゃんと相澤くんって面白いね、やっぱ」

「いやまったく面白くないです」

 即答した。が、まだ笑われている。

 仕方がないのでその場から退散して、三人分の飲み物を注ぎに行った。

 その間、俺以外の三人で何かを話していたようだったがうまく聞こえなかった。
 でも、千咲は顔を真っ赤にしていたような気がしなくもない。

 テーブルに麦茶を置いて、またテレビの前へと戻った。

 三人は夏祭りの話を始めたようだった。
 浴衣がどうの、とか誰と行くか、だとか。

 女同士の会話には少しついていけません。
 ……少しじゃなかった、凄く無理です。

 聞き耳をたてるのはなんとなく嫌だったので、話し声を完全にシャットアウトすることにした。

 なぎさと杏ちゃんはやく来てくれ、と思ったが、ふつうに彼女達も女だった。

 八方塞がり、とはこの事か。

 でも、なぎさと一緒にいると、男友達のそれというか、あまり気を使わずに接しているような気がする。

 とにかく、テレビの前ではやく時間が過ぎることを祈っていた。

今日の投下は以上です





 家に帰って、ゲームに参加して、お菓子を食べて、千咲の課題を少し見た。

 時計の針がてっぺんを指すころ、千咲と杏、なぎさと姉の順番で女たちが風呂に入ったようだった。

 俺はその後、お湯を入れ直すのも時間がかかるのでシャワーで済ませることにした。
 女の子の入った後の風呂、字面だけ見ればそそるようなシチュエーションだったが、なんか……あれだし。

 急いでシャワーを済ませて、風呂場から戻ると、リビングには誰の姿もなかった。

 もうみんな寝入ったのだろうと、ベランダに出て、音楽を聴きながら、風呂上がりで火照った身体を冷ますことにした。

 『透明少女』だったり、『スターフィッシュ』だったり、『白い夏と緑の自転車赤い髪と黒いギター』だったり……。

 なんだか夏っぽい曲が連続で流れた。

 感傷に浸りつつ、手元にある緑茶を飲んで、空を見上げる。

 月は半月で、星が綺麗に目に映る。
 周囲に家はあるが、マンションやビルがないからか、ここら一帯は星が見えやすい。

 耳に聞こえてくる歌詞を思わず口ずさんでいた。
 べつに誰にも怒られはしないだろうけど、一応小さな声で。


 そういえば、この前電車を待ってるときになぎさに見られたな、と思い出して周囲を見渡した。

 横を見る、誰もいない。

 振り向けば、奴がいる。
 いや、誰だろう。

 リビングの照明は消してしまったのでこちらからは誰であるかは見えない。

「誰かいる?」

 とりあえずそう訊くと、その人物は網戸を開けた。

「誰って、私っすよー先輩」

 普通になぎさだった。

「……おい、さっきの聴いてた?」

「はい、ばっちり。話かけようとしたんすけど、楽しそうだったのでつい」

 また恥ずかしい経験をしてしまったのか俺は。

「……お前忍者かなにか?」

「このやり取り前もやったっすねー」

 ふふふ、と笑いかけられた。
 お約束、ということだろうか。

「もう寝たとばかり思ってたんだけど」

「そのつもり……だったんですけど」

「けど?」

「先輩が部屋に来ないので迎えに来たんすよ」

「……あぁ、そう」


 口先では納得したような言葉を放ったが、なぎさの発言には違和感を感じた。

 "俺''が部屋に来ない?
 なんなんだろうか。

 寝るとしたら姉の部屋にだろうし、俺を呼びにくる必要なんてないはずだ。

「どうしてなぎさが?」

「最初は女子みんなで寝ようってなって」

「うん」

「お風呂から上がって楓さんと部屋に行ったらもう杏と千咲先輩が楓さんのベッドで先に寝ちゃってて」

「それで?」

「楓さんは床で寝るからいいけど、お客さんにそれは申し訳ないって。
 先輩の部屋を使うようにって言われたんです」

「……」

「で、入ったはいいんすけど、なんだか落ち着かなくて。
 先輩に許可も取らなきゃな、って思って呼びに来ました」

 姉は馬鹿なのか? 敷布団なり、探せば和室とかにあるだろうに。

 というか俺の部屋、ベッド一つしかないんだけど。
 なぎさはどう考えていたんだろうか。

「それって、一緒に寝るってことか?」

「ええっ……と……。
 い、いやそれは……それは、まあそういうことに、なるかもしれないっすけど」

 手をわちゃわちゃと動かしながらそう言った。
 おそらく何も考えてなかったんだろう。


 いや……普通に考えて一緒に寝るわけないんだが。

「姉さんは何て言ってたの?そのことについて」

「…………どうせヘタレだから何もして来ないだろうし大丈夫だと思うって」

 なんだそりゃ。
 いや、間違ってないけれども。

「あのな、さすがにこの歳の男女が一緒に寝るってダメだろ」

「……ま、まあそうっすよね」

 あっさり納得してくれた。
 まぁしてくれないとそれはそれで困るのだが。

「俺はソファで寝るから、ベッド使って早く寝なさい」

「あっ、はい」

 しっしっ、とあっちに行くように手を振って、正面を向き直した。

 が、なぎさが帰るような気配はしない。

 まぁ放置してればじきに帰るだろうと、また音楽を聴こうとイヤホンを耳にかけた。


 少しの間があって、突然後ろから肩を掴まれた。

 慌ててなぎさの方を見る。
 なぎさは何かを誤魔化すように、斜め下を向いて俯いている。

「わ、私は先輩と一緒でも別に構わないというか……」

 暗いせいか表情はよく見えない。
 でも声音だけでそれが緊張しているものということが分かる。

「……」

「先輩なら、私も、その……」

 途切れ途切れながらも、その言葉は俺の耳に響いてくる。
 どうしてそう言うのか、俺にはわからなかった。

 だが、良いって言ってるなら俺も良いじゃないか、なんて思考には到底至らない。

「……お前がよくても、俺がだめだ、ごめん」

 多分、一緒に寝たいと言っても、下心とか、そんな考えで言ったのではないと思う。

 けれど、何があったとしても、なかったとしても、それを我慢できる気がしなかった。


「そう、ですよね。……ごめんなさい、先輩」

「いや、謝まるなよ。……俺はもう少ししたら寝るから。じゃあ、おやすみ」

「は、はい。わかりました、おやすみなさい先輩」

 なぎさはそう言うと早足でその場から立ち去った。

 二階にあがったのを確認してから、薄地の毛布を持ってきて、ソファで寝ることにした。

 当然すぐには寝付けない。

 さっきまでのことが夢であったかのように、頭の中でぐるぐると回っていた。

 寝ぼけてたのかもしれないし、そうでもないかもしれない。

 都合の良いように捉えれば、そういうことかもしれない。


 ……でもまぁ、明日になったら今まで通り接してくれるだろう。

 あとでなぎさに今夜のことを言及しても困らせるだけなのは目に見えてることだし。

 俺はそのままでいよう。
 なぎさもきっとその方が喜ぶだろう。

 そう考えて、目を閉じることにした。





 翌朝、誰も起きてきていない時間に目を覚ました。

 ……身体が痛い、全身が痺れている。
 ソファで寝るとここまで疲れが取れないのか。

 足元に落ちていたスマートフォンを拾い上げて、少しの間画面を見ていた。

 コウタからのLINEの通知があった。
 画像が添付されていたのでそれを見ると、ハウステンボスと、その前に立っているコウタの写真だった。

 たしか長崎県だった気がする、あれ大分県だっけ……?
 まぁ、どっちでもいいか。


 長らく未読にしてしまっていたので早朝ではあるが軽く返信した。
 昨日うちに来れば吉野さんと遊べたのに……ちょっと残念だな。
 もう少しだけそっちにいると言っていたから、来週花火するとしたら誘うとしよう。

 ソファから起き上がって、水をコップに注いでから椅子に座った。

 あまり寝ていないせいか、頭がぼーっとする。
 寝起きにはあまり強くない。


 コップの水を飲み干したときに、リビングの扉が開いた。

 千咲が起きてきたようだった。

「おはようございます、今日はやいんですね」

 俺を見るなり挨拶をされた。
 どうやら千咲の目は完全に覚めているらしい。

 あたりまえか、いつも早いし。

「おはよう」

「……はーくん、寝癖ひどいですよ?直してあげましょうか?」

 千咲はそう言って俺の髪を撫でてきた。
 手櫛、ちょっとこそばゆい。

 正常な思考をしていたなら自分で直してくると言ってこの場を立ち去るはずなのに、寝ぼけていたからかそういう気にはならない。

 俺の髪を撫でながら、千咲は話を始める。

「この前あげたコップ使ってくれてるんですね、ありがとうございます」

「あー……この前のね、ありがとう、うん」


「……そういえば、なぎちゃんどこに行ったか知ってますか?朝起きたときにはもう居なくて」

 少し考える。
 でも頭がはたらかない。
 たしか、きのう俺は……。

「なぎさは、俺の部屋にいるよ」

「……え?」

 なぜだか千咲は驚いたような顔をしていた。

 俺なんかまずいことでも言ったか?

 考えてみても、理由は浮かばない。

 千咲は俺の顔色を伺うようにこちらを見つめながら黙ってしまった。

 なんでだろう?と困っていたときに姉が起きてきた。

「おはよ、二人共。あんた結局なぎちゃんと一緒に寝たの?」

 姉がニヤニヤしながらそう訊いてきた。

 一緒に、いっしょに。
 …………一緒に?

 落ち着いてみると、普通にまずい事態だった。

 なぎさが俺の部屋にいるなんて言ったらそう思われても仕方がないじゃないか。

 千咲のあの妙な反応にも頷ける。


「はーくん、どういうことですか」

 千咲が詰め寄ってくる。
 近い。

「いや俺は、ここで寝たから」

「ほんとですか?楓ちゃん」

 俺の信用はないらしい。

「まぁ、ハルならそうするって思ったけど、ここまでとは……」

「なんだ、ここまでって」

「一緒に寝るくらい、いいじゃないのよヘタレ」

「そんなのよくないです!」

 よくないだろ、と俺が反応する前に千咲がそう姉に言った。

 姉は突然千咲が反応したので驚いたようだった。
 千咲が声を荒げるのをあまり見たことがなかったので、俺も少し驚いた。

「あ…………ごめんなさい」

 千咲はすぐに謝った。
 それを聞いた姉は、千咲の手をとった。

「……ちーちゃん、朝ごはん作るから手伝って」

 姉は露骨に話題をそらした。
 あとで困るのは俺の方なのに。

 千咲は俺をちらっと見て、姉についていった。


「あ、あとなぎちゃんを起こしてきて?」

 姉がキッチンからそう言うと、千咲がまた俺のほうを見てきた。
 が、気にしてはいられない。よくわからないことであるし。

「……杏は起こさなくていいの?」

「杏ちゃんは飼い犬の散歩で早く帰っていったからもううちにいないよ」

 あぁ……そういえば。みたらしの散歩か。
 あとラジオ体操も平日だからあるよな、ご苦労様です。

 ずっと見つめてくる千咲の方をできるだけ見ないようにして、自分の部屋に向かった。

 というか、また気まずい感じになってしまった。
 何度経験しても慣れない。
 俺からまた弁解をしなければならないだろう。

 まぁとりあえず、なぎさを起こしに行くとするか。





 部屋の扉を開けると、俺のベッドになぎさが横になっていた。
 どうやらまだ寝ているらしい。

 なぎさはぬいぐるみを抱えて気持ちよさそうに寝ている。
 起こすのも悪いから少し見ていることにした。
 
 何か抱かないと寝れないのだろうか。
 じゃあ昨日寝てたら……いや、やめておこう。

 ベッドの横に座って、なぎさの髪を撫でた。
 自分でも何をしてるのだかわからなかったけれど、なんとなくそうしていた。

 二、三回撫でた所でなぎさが「んっ……」という声を漏らした。

 慌てて距離を取る。
 どうやら寝言だったらしい。

 まだ何か言っている気がして、耳を近付ける。

「は…………………だ………………」

 よく聞こえなかった。
 でも、少しうなされているような感じだ。

 改めて近くに寄って見つめてみる。



 整った顔立ち。
 少し長めの艶やかな髪。
 ちょっと触れただけで折れてしまいそうな細い身体。

 普段は快活な彼女が、まるで綺麗な人形であるかのように、俺の目に映る。

 いつも気にして見ていなかったけれど、俺はそのとき、確かになぎさに見惚れていた。
 しばらく見つめていたら、なぎさが目をごしごしと擦って、身体を起こした。

 少しきょろきょろと辺りを見渡す。

 ーーー目が合う。
 なぎさはえへへ、と笑いながら俺に抱きついてきた。

 ベッドの上から座っている俺に抱きついてきたので、必然的にベッドの下に落ちる。
 俺が押し倒されるような体勢になってしまった。

「な、なぎさ?どうした?」

 頭の中が混乱していて、引き剥がすことができない。
 というか、いろいろ当たってて身動きが取れない。

「ふふ、えへへ」

「おい、ちょっと」

「ぎゅーー、あはは」

 なぎさは緩い表情で笑ったあと、満足したのかまた寝てしまった。

 初めて見るような表情だった。
 普段はずっとキリッとしているからだろうか、かなり幼く見えた。

 なぎさは俺に抱きついたまま寝ている。
 この状況、どうしたものか。


 姉でも千咲でも、これを見られるとかなりまずい。

 できるだけ早くこの状況を変えなければならない。
 朝食の準備を済ませたらこっちでなにをしているのか見にくるかもしれないから。

 …………仕方がないので、無理やり起こすことにする。

 なぎさの肩を掴んで左右に揺すると、目を覚ましたようで、俺の顔をじっと見てきた。

「せ、先輩? どうしたんですか、って……えっ、あのこれは……」

 見るからに混乱している様子だった。
 でも抱きつかれたまま、そのままの状態でいた。

「うんと、起こしに来たらおまえに……抱きつかれてこうなった」

 簡潔に、そう言った。
 嘘はついていない。

 なぎさを見ると、耳の付け根まで真っ赤になっていた。

「わ、私……寝惚けてて。ご、ごめんなさい」


「いや、大丈夫」

「え、えっと……」

「あのさ」

「は、はい! なんでしょう!」

「ちょっとどいて、この体勢きつい」

「あ、わかりました」

 抱きしめられていた手を外してくれた。
 混乱しながらも、外さなかったし、なんだったんだろう。

 立ち上がって、呼吸を整える。
 息もつけないような時間だった。

「朝食、もうできてるだろうから下行くぞ」

 なぎさはふぅ、と胸に手を当てて深呼吸をした。
 そして、自分の顔を二、三回パンパンと叩いたあと、いつもの表情に戻った。

「はい、行きましょう、先輩」

 なぎさの態度は戻ったが、俺はさっきの感触が忘れられない、あんなの狡いだろ、反則技だ。
 やわらかい……というか薄着だから視線のやり場にも困ったし。

 やばかった、というひと言に尽きるような、そんな朝のひと時だった。





 リビングに行くと、姉と千咲がもう食べ物を並べて座っていた。

 着くなり、遅い、遅いです、と口々に言われた。まぁしょうがない。

 顔を洗いに行ったなぎさが戻ってきて、四人揃って食事をとることにした。

 並びは、俺と千咲が隣。向かいに姉となぎさだった。

 俺が席に座ると、千咲が椅子を近くまで寄せてきた。

「……近くない?」

「いいんです」

「いや、千咲」

「いいの」

「……わかったよ」

 気圧された。というか目が怖かった。

 姉となぎさは、俺らを気にする様子もなく、二人で話をしていた。

「千咲、朝のこと、姉さんから聞いた?」

「聞きました。勘違いしちゃってごめんなさい」

「いやいや、俺の方も寝ぼけててちょっとな」


 テーブルから食べ物を取ろうとして右手を伸ばすと、千咲の身体に当たってしまった。

 びくっ、と千咲の身体が勢いよく跳ねる。
 俺も慌てて手を引っ込めた。

 そんな様子を見かねてか、姉がこちらに話を振ってきた。

「ねぇ、あんたたちは食べた後どうする?」

 千咲の方を見る。そっちから答えてくれと目線で言った。

「私はー、このあとも一日中暇ですね。とりあえず一回家に帰りますけど、また遊ぶなら戻ってきますよ?」

 千咲が、どうぞ、と俺の前に手を出した。

「俺はまた寝たい、正直疲れ取れてないし腰痛い」

 今の千咲といても、なぎさといても、考えすぎてしまうような気がするし、一度気持ちをリフレッシュしたかった。

「……なぎちゃんは帰るみたいだから、ハル送って行ってあげて」

「わかった」

「よろしくお願いします」

 なぎさが俺の方を見てそう言った。
 すると、隣にいた千咲がテーブルの下で俺の腕を握ってきた。


 なんのつもりだ、と千咲を見ると、俺のことは見ずに、姉のほうを見ていた。

 すぐに腕を振りほどきたかったが、そうはできなかった。
 動いたら姉に「なにしてるの?」と言われることは目に見えてるし。

「そんでちーちゃんは、私と買い物行こっか、買いたいものとかあるでしょ?」

「そうですね…………そうします」

 千咲が頷く。

 なぎさはなにか言いたげな表情を浮かべていた。
 目が合うと、すぐに下を向いて目線を外された。

 なんだか、もどかしい気持ちになった。





 朝食を済ませたあと、千咲と姉は早々と出て行ってしまった。
 千咲は何か喋りたそうにしてたが、姉が「はい行くよー」と引っ張って出て行った。

 当然なぎさと家に二人きりになった。
 洗い物を少し手伝ってもらって、部屋の掃除などをしてる間は漫画を読んだりとかゲームをして待ってもらった。

「どうする?杏呼んでまたゲームする?」

「どうしましょうかねー、先輩はどっちがいいっすか?」

 質問を質問で返すな。誰かに怒られるぞ。

 俺は寝たい、いろいろ忘れたい。
 ……いや、忘れたくはないか。

「まあ今日バイトあるし、お開きにするか」

「はい、了解っす。送るの途中まででいいっすよ」

「わかった、じゃあ出るか」

 その言葉の通り、なぎさの家と俺の家の中間地点くらいまで送って行った。

 不思議となんでもないような会話が続く。

 けれどお互い今日の朝の出来事については触れなかった。
 お互いを探るように、というか。


 途中、自動販売機の前を通りかかって、シュークリームジュースは邪道かどうか訊いた。

「普通に飲めますね、王道です。夏の邪道はスイカソーダです!」

 と返された。
 まぁ、確かに。わからなくもない。普通にまずいと思うし、あれ。

 中間地点まで到着して、杏によろしく、と言って別れた。

 朝まで一緒にいて、また夕方からバイトで顔を合わせるというのは少し慣れないように感じた。

 家に帰って自分のベッドに寝転がる。

 一応掃除はしたけれど、数時間前までここでなぎさが寝ていたのだと思うとなんだか寝られなくなってしまった。

 仕方なく和室から敷布団を持ってきて、それに寝ることにした。

 テレビを消して、読みかけの本を閉じる。
 目を瞑って思考を整理する。

 驚くこととか、不安になるようなこともあったけれど、不思議と気分は落ち着いていた。

 疲れもあったのかもしれない。

 そのまま俺は、普段より安心して意識を手放した。

つづく





「あのさ……好きってなんだと思う?」

 バイト終わりに、お姉様系先輩がそう問いかけてきた。

 なぎさと二人で帰ろうとしていた所を呼び止められ、コンビニの前で話を始めた。

「……なんかあったんですか?」

 まだ内容は語られていないが、きっとこの前の続きで間違いないだろう。
 俺は視線でその答えを促す。

 彼女は何かに躊躇したのか、口を開きかけて、閉じた。

 彼女は「まぁ、話してもいっか」と呟いて、?を軽く掻いた。

「このまえ、大学の仲良いメンバーで海に行くって話したじゃない」

「はい」

「それで……。余り物の私ともう一人をくっつけようとしてるって」

「聞きました。で、どうしたんですか?」

「そのもう一人にさ、『君のことが好きだ』って告白されたの。
 もちろん私は好きじゃないから断ろうと思ったんだけど、仮に断るとグループ内の空気が微妙になるし……。
 他のカップルたちはこの際だから付き合っちゃえ、なんて言って私に断るなんて選択肢が無いみたいな扱いをしてきて…………」

「……」


「……問い詰めたらさ、最初から、そういうつもりだったんだって。
 そいつが私に告白する場を作るために、海に行くことを提案したって」

 話しながら、語調が少しずつ強くなっていく。

 なんとなく、そういう事が起こるかもしれないとは聞いたときに感じていた。
 ……ひとつの可能性として、ぐらいの考えだったけれども。
 でも、先輩は気にも留めていない様子だったから言及するのは避けておいた。

「それで、先輩は断ったんですか?」

 彼女は身体の前で手を強く握りしめる。

「考えさせてって言った。断ろうと思ったけど、その……」

 続きを言わなくても、言いたいことはわかる。
 彼女の言うとおり、断ったら空気が悪くなるし、旅行中なら尚更それが顕著に感じられるだろう。

「でも無理に引き伸ばすと……」

「それはわかってる! でも……その時はもうそのことを考えたくなくて」

「それは、そうですね……」

 困った。

 こういうときにどう言葉をかければいいのだろうか。


 無責任なことは言えないし、かといって下手に慰めるような事を言うのもなんだか白々しいような気もする。

 けれど、俺にアドバイスを求めているわけではなさそうだし……。

 困っていると、突然隣にいたなぎさが口を開いた。

「あの……言いにくいことかもしれないですけど、その人は、前々から好きみたいなアクションというか……振舞いをしてたんですか?」

 先輩は、ちょっと考えるようにして、夜空を見上げた。

「いやぁー、どうだろうね……。
 私あんまそういうの気にしてなかったから。
 けど、今まで言ってこなかったってことはそういうことじゃないのかな。
 ちょっと前には彼女いたしね、そいつ」

「私は……」

 なぎさは俺より一歩前に出て、先輩の近くに寄った。
 ちゃんと聞いて欲しい、とでも言うように。

「……私は、そんなの偽物だし、狡いと思います。
 その、成功率を上げるためにムードをつくることはあるかもしれないですけど、周りの人たちを使って断りにくくして、なんて……」

 卑怯だと思います、となぎさは言った。


 俺ら二人にはわからないことだとは思う。
 そのグループ内での関係性もあるだろうし、俺らの予想以上に深刻なことだったりするかもしれない。

 それを卑怯と確定してしまうのも早計かもしれない。
 好意は前から多少なりともあったのかもしれないし、他のメンバーに流されて、ということだってあるかもしれない。


 けれど先輩は、そんななぎさの顔を納得したように見て深く頷いた。

「……そうだね。本当に好きだったら、もっと真正面からぶつかってきてほしいし、そんな流れで付き合ったとしてもお互いにとって良くないと思う」

 先輩は、わざとらしく真面目な顔を作って、なぎさと俺の顔を交互に見たあとに、話を続ける。

「……はっきりと断ることにするよ。それで空気が悪くなったとしても、それはそれだよね。
 私は、そうだね……はっきり言える自分が、好きだから」

 その通りです、と言ってなぎさは先輩に笑いかけた。
 先輩もいつもの様子に戻ったようで、なぎさに笑顔を向けている。


「ありがとね、なぎさちゃん。あと、相澤くんも」

 なぎさはともかく、俺には感謝されるようないわれはないと思う。

「いや、俺は何の役にも立ってないですよ」

 先輩は、完全にこちらに向き直ると「それでも……」と言って俺に話を聞くように優しい声音で話し始めた。

 表情からは真摯さが受け取れる。学校の先生が説教をするときみたいな、そんな感じで。

「それでも、ね。話を聞いてくれただけで嬉しかったから、ありがと」

 ……納得はしていないが、そこまで言われてしまっては素直に受け取っておく方が良いだろう。

「……はい、どういたしまして」




 帰り道を歩いている途中、俺はついさっきのことを考えていた。

 意外だな、と。


 先輩の話はわかる、なんら意外なことでもない。
 どこかに男女のグループがあれば、恋愛事のトラブルが起きたっておかしくもない、むしろあって普通だとも感じる。

 俺が意外だったのは、その話を聞いたなぎさの行動だった。

 彼女は、その先輩の周りで起きた出来事に対して、『卑怯』『偽物』『狡い』と強い言葉で否定した。

 自分の身近で起きたことのように。

 自分が経験したことのように。

 そんな彼女の様子を見たことが一度もなかった。
 初めて見るような顔をしていた。


「なぁ、なんでさっき……」

 気になって、さっきのことを訊こうとした。

 でもなんだか、訊いてはいけないような気がして、その先に踏み込んではいけないような気がして、続きを話すのを躊躇した。

 そんな俺の様子を見て、逆になぎさが俺に話し始めた。

「……先輩は、好きってなんだと思いますか?」

 お姉様系先輩に言われた質問と同じ問いだ。

 "好き"か。

 単純な好意なら、姉さん、千咲、コウタ、なぎさ、他の友だち、クラスメイト、みんな程度の違いはあれど持っている。

 だが、なぎさが訊きたいのはそういう意味の"好き"ではないのだろう。

 なんというか……恋人にしたいとか、お付き合いをしたいとか、そういう意味に感じる。

「俺は……」

 口を開いたものの、その続きが一向に出てこない。


 好きだ、なんて言っても相手に責任を負えるわけでもない。

 簡単な質問だ。
 問いかけだって至ってシンプルだ。

 でも、今の今まで考えてこなかったことだった。
 "考えないようにしていたこと"だったのかもしれない。

 あのときのことで、愛とか好きとか、そういうのを感じるのが怖くなっていた。

 言葉に出せば必ず信用に足るというわけではない。
 好きだ、と言ったその口でまた違う人に好きだ、と言うのも簡単だ。

 けれども、言われた側の記憶には残る。

 そして裏切られた、嘘だった、と感じる。

 なら言葉に出さずに……いや、言葉にしない方がかえって良いのではないか。
 そんなことを、しらずしらずのうちに考えていたのかもしれない。

「……ごめん、わからない」

 諦めてそう言った。


「……そうっすか」

「うん、ごめん」

「……まぁ、私もよくわからないっすけどねー」

 そう言って、あはは、となぎさは笑った。

「そういえば、週末のことなんだけど」

「ええっと……はい、なんでしょう」

「朝八時くらいに、家の前まで迎えに行くから。それから四時間くらいかな……お昼どきには向こうに着くと思う」

「わかりました、りょうかいっす」

「……なんか悪いな、俺の我儘に付き合わせて」

 そう言うと、なぎさは訝しげな視線を俺に向けてきた。

「先輩はお馬鹿さんっすねー、まったく」

「……どうして?」


「私が先輩と行きたいから、行くんですよ。
 先輩も、そう言ってくれたじゃないっすか」

 それを言われると、そうでしかないので反論はできない。するつもりもないけれども。

「……わかった、できるだけ楽しめるように、考えておく」

 それでいいんですよ、と言って、少しの沈黙のあと、なぎさは後ろから俺の背中にパンチをしてきた。

「どうした?」

 と問うと、「いえいえー」と言って笑っていた。

 それから、帰り道の間ずっと彼女は上機嫌のままだった。

 今日は、彼女のいろいろな表情を見た気がする。
 困ったような表情とか、怒ったような表情とか、喜んだような表情とか。

 夏休みになって、彼女のことをもっと知れたように感じる。

 いつもより気分が良かったからか、歩くのが早かったからか、普段よりも早く分岐点に達した。

「じゃあ、ここで」

「はい、また明日」

 当然のように言い出された、また明日、という言葉が少し嬉しく感じた。

「おう、また明日な」

 なぎさはそれに頷いて、ぺこりと頭を下げた後、いそいそと帰って行った。

つづく

訂正
349
?→頬





「えっと……コーヒーでも淹れよっか、飲む?」

「あ、はい」

「ミルクは?」

「ブラックでいいですよ」

 話を始める前に、先生は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
 一度落ち着いて話を聞こうということだろう。

 少し待っていると、頭がくらくらとしてきた。
 ……貧血っぽいな、これ。
 ストレス、はストレスなんだろうけど、ここまで力が抜けるとは思いもしなかった。

「っと、はいこれ」

 そう言って差し出されたマグカップの中を覗く。


 コーヒーの独特な匂いを嗅ぐと少しだけ気分が落ちついた。
 先生の持っているマグカップを見ると、中身は茶色……ほぼ真っ白になっている。

「あぁこれね、練乳だよ。君も入れる?」

「美味しいですか?」

「私は好きだよ」

「はぁ……そうですか、お願いします」

 先生がまた立ち上がって冷蔵庫の方に歩いて行くと、なにやら隣からガサガサと音がした。

「ごめん、起こしちゃった?」

 と、先生の声がする。
 隣でぼそぼそと先生と誰かが話をしている。

 一、二分くらいして、俺のベッドへと戻ってきた。

「待たせてごめんなさい、隣の子起こしちゃったみたいで」

「大丈夫ですよ。……場所変えますか?」

「いや、小さい声で話せば大丈夫だと思うよ」

「……そうですね」




 六時過ぎになって、姉が家に帰ってきた。

 なにか作ろうと思ったけれど、姉の食べたいものがいいかな、と思って買い物には行かないでいた。

 幸い姉もスーパーには寄って来なかったようで、また出掛けようとしていた。

「今日は俺が作るよ」

 そう言うと、姉は面食らったような顔をして俺を見て、「どうして?」と問うてきた。

「なんとなく。……買い物一緒に行こ」

「それはいいけど。うーん…………この前ので料理に目覚めたとか?」

「いや、そういうわけじゃない」

「ま、まぁ……うん。じゃあちょっと着替えてくるから外出てて?」

 姉はそう言ってリビングから自分の部屋へと階段を上って行った。

 俺も財布とかを持って、外に出て待っている間、姉の好きな食べ物について考えた。


 少しして、家の外に出てきた姉に問いかけてみる。

「姉さん好きな食べ物ってなんだっけ?」

「うーん、いろいろ? なんでも好きだよ」

「そっか。姉さんの好きな食べ物作ろうって思ってて」

「うんうん……えっ? まじ?」

 普通に言った言葉に、なぜか凄くオーバーなリアクションをされた。

「マジマジ、だから一緒に買い物行こうとしてる」

 姉は数秒の間顎に手を当てて考えるような仕草をしたあと「ありえないありえない」と大げさに首を振った。

「ありえないって」

「そう、ありえないよ」

「なにが」

「ハルが」

「はぁ?どこが」

「ハルはいつも『はぁ……しょうがねぇな優しくしてやるよ』みたいな態度するのに! こんなに優しいのはおかしい!」


 あまりにも酷い言われようだ……。
 もっとわかりやすいと思うんですが、自分が思っているのとは違うんでしょうね。

「優しくされたくないってこと?」

「いやそれはされたいに決まってんじゃん。
 でも、お姉ちゃんはハルの回りくどい優しさに愛着持ってたのに……」

 姉は頭をぐしゃぐしゃと弄りながら、やたら饒舌にそう言った。

「いやいや、どんなだよ、それ」

「いっぱいありすぎて覚えてないけど、その度にかわいいなーこいつって思ってたの!」

 そう言われたものの、あまりピンと来ない。
 優しくするときには優しくしてたし……頭撫でたりとか。それは違うか。

「どういう意味?」

「ヒミツ! 教えたら調子乗りそうだから」

「そう……ていうか、かわいいってなんだ」

「姉にとっての弟はかわいい生き物でしょ」

「……そうなの?」と姉に向かって言うと、
「そうなの」と間髪入れずに姉が返答してきた。


 なんだか妹みたいにかわいく思えて、いつだかそうしたように、姉の頭を撫でた。

「な、なでるのか」

 見るからに動揺している。
 ちょっとおもしろくて笑ってしまった。

「ちょうどいい位置に頭があったから、姉さんがわるい」

 乗せている手をべしっと払われる。

「また妹とか子どもみたいな扱いした! 普通はお姉ちゃんの頭なんて撫でないんだよ?」

 いつもならバカとか死ねとか辛辣なことを言われるのに、今日はえらくご機嫌なようである。

「えっと、じゃあ姉さん、身長何センチだっけ?」

「……」

「言わないの?」

「……ひゃく、ごじゅう…………ご!」

 姉はふっふっふー、とドヤ顔をしながらそう宣言した。
 そんなあるわけないだろ、騙す気あるのか、と心の中でツッコミを入れる。

「……それ千咲の身長でしょ。実際は?」

「……ノーコメントで」

「二十五センチ差はお姫様抱っこがよく似合うと聞いた」

「ほんとに? あっ……」

「引っかかりやすいね、ははは」

 されたいんだな。

「うるさいうるさい! お姉ちゃんだぞ! 敬え!」

「……」


「綾ちゃんもでかいし、なぎちゃんもでかいし、杏ちゃんも私よりすこーし大きいし……身長よこせって感じだよね」

 うしろに怒りマークが見える。

「姉さんはそれでいいと思うけど」

「そう言われるのは嬉しい、けど妹扱いされるのはイヤなの」

「してないしてない」

 してます。でも言いません。

「したら殴るよ?」

「わかった。で、なに食べたい?」

「……バカにしない?」

「うん」

「オムライス! ハンバーグ!」

 子どもか。

「ぷっ……」

「今わらったな、殴らせろ!」

 殴られた。が、全く痛くなかった。

「オムライスとハンバーグね、わかった。
 やっぱ一緒に作ろっか、その方が楽しいだろうし」

「そうね、楽しいね、うん」

 姉はなぜか機嫌は良いままだった。

 ……まぁ、なんだ。
 姉にとっての弟がそうであるように、弟にとっての姉もかわいいものなのだと改めて知ることができたということか。

 今度は強めに、わしゃわしゃと髪を撫でると、姉は少し嬉しそうな顔になっていた。




 オムライスを食べたのはいつぶりだろうか。

 小学五年生? かそこらのときに食べたのが最後だった気がする。

 季節とかははっきりしないけど、両親共に仕事で家を空けていたときに、姉が作ってくれたという記憶がある。

 姉も俺もちゃんとした料理なんてしたことがなくて、結構失敗をした。

 ケチャップライスは全体的にお焦げみたいになっているし、卵はあまり混ざっていなかったのか白身の部分が浮いて見えるようになっているし、卵は卵でやっぱり焦げているし。

 初の料理なんて誰しもひどいものであるとは思うが、比較的簡単めに見えるオムライスなら綺麗に作れると思っていたんだろう。

 失敗しちゃった、ごめん、と言って姉は申し訳なさそうな様子でテーブルにオムライスの盛られた皿を並べた。
 それから俺が食べるまで、姉は自分の皿に手をつけずに、ずっと俺の方を見ていた。

 そんな姉の様子を見て、失敗したと言ってもこのレベルなら余裕だろうと思いスプーンで手前の一部分を切って口に運んだ。

 普通においしかった、ような感じがする。
 そのとき姉になんと言ったかとか姉がそれになんと返してきたかはよく覚えていないけれど、確かそうだったと思う。


 そのときぶり…………か。

 今はいろいろと状況が変わって、姉も料理をするし、俺も料理をする。
 料理の腕に関しても、姉はかなり上手いと思うし、俺も姉レベルではないにしろそれなりに作れる。

 いつだったか、俺の見えないところで、姉が料理の練習をしていたというのを千咲のお母さんから聞いた。
 高校に入ってある程度時間が取れるときに、私のところに、料理を習いにきたと。

 たしかに、家に三人……いや実質二人になってから、姉はかなり料理が上手くなったと思う。
 俺も姉が料理している様子を見て、学べるものは学んだものであるし。

 姉が千咲のお母さんに習ったものが栄養価の高い和食中心であったからか、最初のうちは、ゴハン、味噌汁、おかず数品だった。
 なのでオムライスを作るようなことはなく、今もたまに洋食は作ることはあるが、オムライスが出てきた記憶はない。

 さっき姉のリクエストを聞いて、好きな食べ物がオムライスなら作ればいいんじゃないか、と思ったけれど、本当にどうして今まで作らなかったんだろう。


「おいしかったね、久しぶりに食べた」

 二人で作ったオムライス(とハンバーグ)を食べたあとに姉が呟く。

「俺もかなり久しぶり」

「うんうん。今日見てて思ったけど、ハルかなり料理上手くなったと思うよ」

「ありがとう、まぁそう言う姉さんも上達凄いと思うけど」

「そんなそんな……あんま考えたことなかったけどそう思う?」

「うん」

「料理できる男はモテるよ、ポイント高い!」

 いきなりそう言われても、モテるためにやっているのではないし。
 料理できる男が需要あるのって、妻の方が忙しかったり、まず男が彼女のヒモだったりする場合じゃないか?

 ──いや、一人暮らしとか家に一人でいるときにも役に立つか。

「……まぁ、どちらかといえば料理は食べる側が良いかな。
 俺からしたら料理できる女の子の方がポイント高いと思うし」

「そ、そう?」

 そう言いながら、姉は口元を手で覆った。
 俺から目線を外して、周りをきょろきょろと見ている。

「どうしたの?」


「……それってお姉ちゃんも含まれたりする?」

 ポイント高い云々の話だろうか。

「え、そりゃあもちろんだけど」

「へぇ、そっかぁ……ちょっと嬉しいな」

「……嬉しいのか」

「うん、嬉しい」

 なにが嬉しいんだろう? と頭を悩ませていると、姉はまた話し出した。

「あのさ、たとえば、たとえばの話だけど……」

「うん」

「私がハルの妹だったら、どんな扱いするの?」

「……え」

「私はお姉ちゃんだからこんな感じで接してるけど、妹だったらどうなってたのか、ってこと」

 姉が妹。
 想像すると、これまた結構しっくりくる。

 ……しっくりとはくるのだが、現実味はない。

 俺は弟であるけれども、歳は一つしか変わらないし(大半は二つだが)、ほんとに小さいときには友達みたいな感覚で接していた記憶がある。

 でも姉は姉で、それ以外はありえないというか、嫌な感じがする。


「きっと……」

「きっと?」

「妹だったらもっと愛でてる」

「なにそれ」

 姉はふふっ、と小さな声で笑った。

「でも、姉さんは姉さんだから。
 もし姉さんが妹だったら大変そうだし」

「大変って。たしかに小学生のときのハルのお世話は大変だったけど」

「そうだった?」

「いつも泣いてたじゃん。
 私と喧嘩しても、先に泣いて謝ってくるし、映画とかドラマとか見てすぐ泣いてたよ」

 それは姉さんが頑固だから。
 まぁ言わないけど。

「マジか」

「泣いたときは歌とか歌ってあげたの、覚えてない?」

「あんまり……」

 覚えてはいる、けど、なんとなく恥ずかしい。

 けどさ、と姉は俯きながら呟く。
 さっきまでとは違う雰囲気で。


「ハルはさ、強くなったよね。
 ……なんていうか、その、えっと。
 身長とか身体の大きさとかもそうなんだけど、泣いたりしなくなったし、泣き言も全然言わなくなった」

「……」

「私はお姉ちゃんなのに、どうして強くなれないんだろう……ってずっと思ってた。
 家に居ても、学校に居ても、どこに居ても不安ばかりだった。
 わからないことばかりだ、なんの意味があるんだろうなんて」

「そんなこと……」

 突然姉の口から吐き出された言葉にひどく戸惑う。

 "強い"

 そんな言葉は、俺にはまったく似合わないと思う。

 その実、強がっているだけだ。
 ……強くなったのではなく、弱いところを見られるのが嫌だから、それをひた隠しにしているだけなのだ。

「……ほんとはさ、お母さんのこと、そんなに好きじゃなかったんだ」

「……」


「お母さんにね、なにかがある度にお姉ちゃんなんだからってずっと言われてた。私が泣いていたら、あの人はイヤな顔をしてたんだ。
 ハルは優しいから、私と公平になるように自分のことを我慢したりしてくれてたけど、私はなんでだろう……って思ってた」

 いつでもプレッシャーがあった。
 だから部屋に一人で。

「……ごめん」

「いや……どうして謝るのよ」

「どうしてって言われても」

 反射的に、というか。

 姉がそんなことを母さんから言われていたのを俺は知らなかった。

 いや、耳で聴いてはいたとは思うけれども、聴き逃していたというか、気に留めることがなかったのだと思う。

「私はね、馬鹿正直に信じてたんだよ。……お姉ちゃんなら我慢して当たり前だって。
 あの人への機嫌取りだったのかもしれないけど、私はそれをしてて正しいって思ってたの。
 それよりも……ハルがどうしてそんなに優しいのかがわからなかった」

 ──私だってお姉ちゃんなのに、と姉はどこか自嘲気味に呟いた。


 頭の中で、もう一度姉の言葉を繰り返す。

 ……わからなかった。考えようともしていなかった。
 姉が泣いていたのも、たまに思い悩んだような表情をしていたのも、過剰なくらい家族の関係に執着してきていたのも、明確な原因があったのだ。

 記憶も思い出も、結局は個人の主観でしかない。
 自分にとって都合の良くない出来事は、必然的に都合の良い出来事の下に埋もれていく。

 俺は、姉にとって家族みんなで居ることが、なによりも良いことだと盲目的に考えていた。

「優しい?」

「うん」

「……どこが」

「駄々とかこねることも無かったし、いろいろ半分こしてくれたりとか、その……」

「そんなの……」

 なんで、わからないのだろう。
 わざわざ言わなくてもわかりきってることじゃないのか。

「……そんなの、きょうだいだから、それこそ当たり前のことじゃないの?」

「……ほんとうに? そう思う?」

「うん」

 そう言うと、姉は眉をひそめて、そうだよね、と小さい声で答えた。


「……弟に甘えることは、悪いことじゃないんだよね。
 ずっと守ってもらってたのは私の方なのに、甘えたいだなんて烏滸がましいこと考えちゃいけない、なんてこともないんだよね」

「……うん」

「じゃあさ、妹みたいにハルに甘えてもいい?」

 甘えるって。

「甘えたいなら、嫌がりはしないと思うけど」

「……ぎゅーっとしてほしい、とか、一緒に寝たいって言ってもいい?」

「マジで?」

「……七割くらい?」

 なぜ顔を赤らめる。
 こっちまで緊張するのはどうしてだ。

 相手は姉だぞ、姉。
 いや、こういう仕草とかそういうの、普通にかわいくて困るんだよな。


「えっと……あまり自信はないけど、望むのであれば少しくらいは」

 なんだかおかしい言い回しかもしれない。

「……ふふっ」

 その言葉を聞いて安堵したのかどうなのか、姉はわざとらしくこちらに向けて笑った。

「……いや、冗談だから」

「そうなの」

「あ、でもたまになら」

「え、おぉ……うん」

 こんな風なへんなやり取りのあと、姉はこほん、と咳払いをした。

「言いたかったことはそれだけ。
 まぁ、知ってて欲しかったこと、なのかな?」

「……そっか」

「うーん。明日からハルが家に居なくてお姉ちゃん寂しいなー」

 わかりやすいような棒読みでそう言ったあと、こんな感じ? と首をかしげた。

「……甘え下手か」

「そうかもね」

 とりあえず……姉はかわいいな、うん。

つづく




 カーテンの隙間からやけに明るい陽が差し込む。

 ゆっくりと身体を起こすと、毛布はベッドの下に落ちていて、いつの間にか着ている服もはだけていた。

 なんだか暑すぎる朝だ。今年一番暑いような気さえする。

 ベランダに出て、んーっと、大きく伸びをした。
 涼しい風が吹いている。中にいるよりも、外の方が涼しい。

 そう考えて、しばらく風にあたることにした。

 デッキチェアに座りながら、枕元に置いていたミネラルウォーターに口をつける。

 ……ぬるい。
 冷たい時よりも数倍不味く感じる。

 なんだろうか、かなり落ち着かない。
 地に足がついていないというか、腰が据わっていないというか。
 とにかく落ち着かなかった。

 原因は昨夜寝付けなかったことなのかもしれない。

 無論、今日のこと、昨日のこと、言っちゃえば近いことを考えていたのには違いはないのだが、それよりも、もっと遠くのことを透かして考えていたような気がする。

 ごくたまにあることだった。
 人なら誰しも一回とは言わず経験したことがあることだとも思う。

 ──目を閉じると、誰かの声が頭に響く。


 それは、知っている人であったり、家族であったり、知らない……思い出せない人であったり。
 誰かと話したこと、誰かに聞いたこと、誰かに言われたことが暗闇の中でこだまする。

 そうしているうちに、夢と現実の境がなくなったかのように、浅い眠りに落ちたのだろう。
 夜通し起きていたような感覚だった。

 そのせいか、あまり寝ていたという実感がない。
 身体の疲れだったりは綺麗さっぱりなくなっているのだが、どうも心象的には疲れが取れていない様だった。

 部屋を後にして、リビングに降りると、いつもの日常となんら変わりない朝の時間が流れる。
 少しぼーっとしていて、テレビのリモコンに手をかけようとしたときに姉が起きてきた。

「おはよ」と彼女は眠たげに目をこすりながら話しかけてきた。

 それに続いて、「今日は朝ごはん食べてくの?」と質問されて、それに肯定の意味をこめて頷くと、彼女はキッチンの方へと歩いていった。


 手に持ったままになっていたテレビのリモコンの電源ボタンを押し、そちらに耳を傾ける。

 ──本日は今年一番の猛暑になるでしょう。

 と、テレビに映っているアナウンサーが言った。
 その言葉の後に、各地の気温が書いてあるものが映った。

 自分が住んでいる地域は30℃、そう暑くない。
 ……暑いには暑いけれど、まぁ我慢できなくもない気温だ。

 ただ、今日向かう場所(隣の県)の予想気温を見ると、さすがに目眩がした。

 35℃オーバー、酷すぎる。

 加えて、隣県のあそこらへんの地域は、浜風のせいで、涼しいときは涼しいのだが、そうでないときはずうっと温い風が吹いていて、体感温度が酷いことになる。

「よりによって今日こんなに暑いのね。熱中症気をつけてね、タオルとか準備した?」

 キッチンからそう声をかけられた。

「うん、持ってく。姉さんも気をつけてね」と、そう俺は返答した。

 数分後、テーブルの上に朝食が並べられて、二人で各々の席に腰掛けた。

 ベーコンエッグトーストとコーヒー。
 ……理想的な朝食だ。
 卵は半熟で焼き加減もかなりのものだ。姉の得意料理、というか楽にうまく作れると言っていた料理だ。


 コーヒーには練乳が入っている。

 からからとスプーンでマグカップの中をかきまぜる。
 その様子を姉がまじまじと見つめてきた。

「どうしたの?」

「いつも思うんだけどさ、それって美味しいの?
 私にはコーヒーの苦味のある美味しさを消してる様にしか見えないんだけど」

 姉はブラック派だった。
 いや、姉だけではなくて家族全員が昔からそうだった。俺がブラックじゃなくしたのも、飲むようになってから結構経ってからのことだった。

「……うーん。甘いほうが好きになってしまったというか、一度やってみたら?」

 そう言うと、姉はこくりと頷いて、冷蔵庫からコンデンスミルクを持ってきて、ぶちゅーっとカップの中にそれを噴射した。

「スプーン貸して」
「どうぞ」

 俺から受け取ったスプーンでそれをかき混ぜて、怪訝そうな目で俺を一瞥した後、姉はおそるおそるコーヒーの入ったカップに口をつけた。
 なんだか俺のほうまでハラハラとしてしまう。

「どう?」

 姉は考え込むような表情になった。

「意外といける……かも。てか美味しいねこれ、食わず嫌いしてたのが馬鹿みたい」

「だろ?」と言って姉に笑いかけると「なんか負けた気分……」と姉はむっとした顔をした。

「ちょっと緊張してたりする?」

「……なにが」

「お泊まりデート」

 彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「いや、言いかただろ。泊まりはそう、正しいけど、デートでは……」

 言葉に詰まった。
 失敗した。

「あ、赤くなってる。やっぱ意識してるんじゃん」

 めんどくせぇ絡みだ。

「じゃ、そういうことでいいよ」

 そう言ったら言ったで、彼女は頬杖をつきながら、無駄に間延びしたような言いかたで「つまんないのー」とのたまう。

「ちーちゃんには秘密なんでしょ?」

「秘密って言うか……言う必要もないかなって。
 いや、というより言い忘れてた感じかな、多分」

「あ、そう。もう出る?」

 さして訊きたいことでもなかったらしい。


「うん」

「そ、じゃあ私、部屋の掃除とかするから。行ってらっしゃい」

「お土産なんか欲しいのある?」

 お土産と言っても、道の駅に置いてあるようなメジャーなものしか恐らく買ってこれないだろうけれど、一応訊いておいた方が良いだろう。

「じゃ、写真撮って送ってね」

「おっけ」

 そう返したところで、彼女はなにかを思いついたように「あ……」と口にした。

「ハルの楽しい思い出、かな?
 宿題ね、それをお土産にして持って帰ってくること!」

「なんだそりゃ」

「まぁ、楽しんできなさいってこと。たまには連絡してね」

「……わかった。それじゃ、行ってきます」

「あーい」

 それから少しして、朝食を流しに片付けて、あらかじめ準備しておいた着替えなどの入った宿泊用のリュックを背負って、家の外に出た。

 街並みは特に変わらない。
 歩いている道も、いつも通りだ。

 ただ、なんとなく、空がいつもより高い気がした。




 なぎさの家に着くと、彼女はもう門の前にいて、俺を待っていた。

「おはようございます」と彼女が言うので、俺も「おはようございます」と返した。

「なぎさ、親御さん家にいる?」

「あ、はい。今はいますけど、どうしたんですか?」

「えっと、一応挨拶しておかなきゃいけないと思って。
 ほら、二日間お前のこと連れまわすわけだしさ」

「あー……そっすか。呼んできますね、ちょっと待ってて下さい」

 そう言って、彼女はてくてくと家の門の中へと入っていった。

 待っていようとスマートフォンを取り出した瞬間に、横から声をかけられた。

「あ! お兄さん、おはようございます」

「おはよ、今日も散歩? みたいだな」

 杏は今日も愛犬の『みたらし』の散歩に行っていたようだった。

「はい、そうなんですー。お姉ちゃんまだ出てきてないんですか?」

「あー、えっとな。お母さん?かな。一応呼びに行って貰った」

 俺の言葉を聞くなり、杏は面食らったような表情になった。

「あ、あのー……。めんどくさいことになるかもしれないですよ」

「どうして?」

「うちのお母さん、すごくめんどくさい性格してるんで……」

「それって」

 めんどくさい性格ってどんなのだ、と少し考えていたら、杏が「あ、来た」と門の方を指差した。


 つられてそちらを見やると、背が高く若そうに見える女の人がなぎさの隣に立っていた。

「どうも、なぎさと杏の母です」

 と、その女性は口にして深々と頭を下げた。
 俺も少し遅れて頭を下げた。

「あ、はい。……おはようございます。
 えっと、なぎささんと土日の間出かけて来ます」

「……」

 無言。

 かなり空気が重く感じた。
 無言の圧力、というか。

 ……最初に名前とか言うべきだったのに、失敗した。

 黙っているのは自分から言えということだろうか。

「あ、あの。なぎささんと同じ高校の、一つ上の学年で、相澤って言います。
 なぎささんと杏ちゃんには、大変良くして貰ってます」

 これ俺が言うセリフなのか? というくらいかしこまったものを口から出した。
 良くして貰ってますというのも、少しおかしい気がする。間違ってはないのだが。

「はぁ、相澤くんね。下の名前は?」

「……ハルです」

 名乗るのって恥ずかしいのな。

「ハルくんは、なぎさと付き合ってるの?」

「いえ」

 想定内。
 なにをもってして想定内なのかは自分でも不明瞭。


「じゃあなぎさと結婚したい?」

「は?」

 素で反応しちまった。

 まずい、「は?」だなんて年上にはしてはいけない解答……いやいや、質問がおかしいわ。

 付き合ってる付き合ってないを吹っ飛ばして結婚したい?だなんて訊く人なんてこの世にいるのだろうか。
 や、目の前にいるんだけどどういうことだ、マジで。

「好きな食べ物は?」

 意に介してないようだ、少し安心する。
 というかなぎさのお母さん、無表情すぎる。

「えっと……。特にないですけど、和食全般好きですね」

「無難だね」

「……はぁ」

「好きな女の子のタイプは?」

 この質問を訊く意味はあるのだろうか。
 よくつかめない。が、答えるしかない。

「……元気な子ですかね」

「そっか、あ! なぎさとか? じゃあ子どもは何人欲しいのかな?」

「……あの」

 さすがに答えあぐねていると、なぎさが前に出てきて、彼女の肩をぺしっと叩いた。


「そろそろ困ってるからやめなよ」となぎさは呆れたような口調で言った。
 そうだそうだー、と杏がそれに同調する。

 ──どういうことだ?

「ちぇー、ダメかぁ。……ごめんねー、ちょっといじってみたかったのよ」

 さっきの堅そうな表情から一転、明るい笑顔になったお母さんがそう言ってきた。

「えっと、どういうことですか?」

「先輩、冗談ですよ」

「ごめんねぇー、娘の結婚を許さない父親みたいなことして」

「あぁ……いや、大丈夫です」

「怖かった?」

「……はい、少し」

 素直にそう言うと、「そっかぁ、やったね」とわかりやすく喜んでいた。
 なぎさと杏と動きがちょっとばかり似ている。やっぱ親子だから似るもんなのか。

「なんてお呼びすればいいですか?」

 なぎさのお母さん、というのもなんだかアレだし。

「私のことはミヤコさんって呼んでくれればいいよ!」

「はい。じゃあミヤコさん、ですね」

「お母さんでもいいよ? あ、お義母さんのほうが合ってるかな?」

 言い回しで脳内変換を強いてくる。
 いや、わかっちゃったけど。

「……ミヤコさんでお願いします」

 ミヤコさんがハイテンションすぎて少しついていけない。
 なぎさはこめかみに手をあてて呆れた顔をしているし、杏はどうしてかニコニコとしているし。


「えーと……とりあえず連絡先交換しよっか」

「あ、はい。いいですよ」

 どうやらLINEの交換らしかったので、QRコードの画面を出してスマートフォンを手渡した。

「どうして簡単に交換しちゃうんですか?」となぎさに睨まれながら言われたので、「まずかった?」と返したら、「いえ、別に……」と煮え切らないような顔をされた。

 どうもよくわからない。

 はいできた、と返ってきたスマートフォンの画面を見ると『miyako?』──ミヤコさんが追加されている。

「これでなにかあっても連絡とれるね、娘をよろしく!」

 言いながら肩をバンバンと叩かれる。

「はい、わかりました」

「じゃあ私、家に戻るから。杏も中入るよー」

「行ってらっしゃい、お姉ちゃん!お兄さん!」


 てくてくと二人は門の中に消えていった。
 杏に小さくファイティングポーズを向けられたので、じゃあね、と手を振り返しておいた。

 ──じゃあ行くとするか、と声をかけると、なぎさはいつもの髪型のポニーテールを解いて、今まで見たことないメガネをかけた。

 いつも通りかわいく感じるが、雰囲気が変わったような。
 少し大人っぽくなった気がする。

 ギャップ萌え、メガネ萌え、フェチなのか?

「……どうしたの?」

「なにがですか?」

「髪とメガネ、珍しい」

「変装っす」

「変装?」

「はい」

「なにそれ」

「変装は変装です!」

 変装らしい。

本日の投下は以上です




「電車の中はさすがに涼しいっすねー」

 ぱたぱたと手で身体を扇ぎながら、なぎさが呟く。

 なぎさの家から駅まで歩いて、そこから乗り換えの駅まで乗って、やっと座ることができた。
 車窓から外の景色を伺うと、空一面雲ひとつないような晴天で、先程よりもはるかに暑くなっているような気がする。

「そうだな……。あのさ、ミヤコさんっていっつもあんな感じなの?」

「……ですねぇ」

 他人がいなくてもあんなテンションなのか。

「杏がすごくめんどくさい性格って言ってたけど、テンション高すぎてってことなのかな」

「そうっすね、家にいないことが多いんですけど、いたらいたでうるさくて困りますよ」

 たしかにずっと一緒の空間にいたら疲れてしまうようなテンションの高さだった。

 でも少し楽しそう、とも思える。


「そういえば、さっきなに買ってたの?」

「あぁ……ええっと、これとこれです」

 差し出されたのは、コンビニで売っているような使い捨てカメラと、ちょっとのお菓子。

「カメラ?」

「はい! いい景色とかあったら写真に残しておきたいなーって思いまして」

 小学生のときの遠足やら修学旅行やらで使った記憶がある。
 電気屋さんとかに持っていって現像してもらうんだっけな。

「スマホとかデジカメとかで良くない?」

「これ結構じわじわと人気が出てきてるんすよー」

「そうなんだ」

「はい、レトロな感じが出て、かっこよくとれますし……」

 知らなかった。
 でも、ちょっとわかる気がする。

「それにですね、海の中でも取れるんすよ!」

 彼女は嬉しそうに言う。
 ほんとか、と一瞬疑ったが、パッケージに防水って書いてあるのでそうであるようだ。

「あれ、海のほうって言ったっけ?」

「え……あ、はい。ききましたききました」

 言ったっけ? いや、ちょっと知識があれば切符でわかるか。


 なぎさが首を縦に振ったからか、おろしている長めの髪がぶんぶんと揺れるのが目に入る。
 たまに払っているのをみると少し邪魔そうだ。

 服装は、セーラー服みたいなワンピースを着ていてよく似合っている。

「あの、先輩、なにじろじろ私のこと見てるんすか」

  バレた、あたりまえか。

「……いや、みとれてた」

「そっすか」

 スルー、圧倒的スルー。お兄さん悲しいよ。

 なぎさはそのまま窓の外を見ながらスマートフォンをぴこぴこ(どちらかといえばタプタプと)いじりだした。

 つられて俺もスマートフォンを取り出した。現代人らしい暇つぶし方法だ。

 画面を見ると、吉野さんからLINEがきていた。
『こうた君ってどんな服好きか知ってる?』と。

 なんというか、デジャブな出来事だった。
 コウタが遊びを取り付けたと喜んでいたが、これは結構いい線いってるのかもしれない。
 そう考えると、僅かにだがその場で微笑んでしまった。


『吉野さんならなんでも喜ぶんじゃない?』と送ると、『いや、参考にならないんだけど』と。
 適切な解答を得るために何度か突っ返されたが、俺も負けじと同じような文面で送ると、しぶしぶながらも納得してくれたようだった。

 それから、コウタに『やったな』と送ると『意味わかんない』と返ってきた。
 考えてみれば当然のことだ。

 少しした後、なぎさは「あ」と口にした。

「杏から、ツーショット送って欲しいってきました!」

「なぎさと俺の?」

「はい」

「今撮るの?」

「です。撮りましょうよ、ね?」

「……」

 スマートフォンを手に、きらきらとした目で見つめられる。
 ていうかあのカメラじゃなくていいんですね……。

「そっちいきますね」

 沈黙は肯定と受け取ったのか、なぎさは俺の隣に位置を移してきた。

「先輩、もっと近く寄ってください、うつりません」

 そう言われたので、しぶしぶ頷いて、身体を近くに寄せた。


 ふわり、と甘い香りが鼻を刺激した。
 女の子特有の良い香り、ヘンな気分になりそう。これまた性癖か。

 なぎさといい千咲といいなんなんだろう、と考えていると、なぎさは画面に内カメを表示させて、それに向かってピースサインをつくる。
 俺もそれにならって同じようなピースサインを作った。

 ぱしゃりぱしゃり、と数回シャッター音がなって、そのあとなぎさは満足そうに笑った。

「よく撮れた?」

「はい! ありがとうございます。
 この写真の先輩、顔赤いですよ?」

「……ほっとけ」

 俺がそう言ったのを聞いて、なぎさは、えへへ、とくすぐったそうにはにかんだ。




 突然なんとなく思い付きで、というか、前から気にはしていたことではあったのだが、なぎさの誕生日がいつであるのか気になった。

 杏曰く夏が誕生日。でも、もう過ぎたというようなアクションは起こしてきていない。
 なったらすぐに俺に言ってきそうだし(偏見)。

 そんななぎさは、今俺の肩にもたれかかって睡眠をとっている。

 さっきのやり取りのあと、話をしたり途切れたりが繰り返されて、県境を越えたあたりになぎさが眠たそうな顔になっていたので、寝ることを勧めた。

 ──ごめんなさい、えっと……昨日の夜楽しみであまり眠れなかったんです。

 と彼女は申し訳なさげに俺に謝った。

 原因はちがうけれども、二人して同じように寝不足気味だったのが少し面白く思えた。

 眠いなら寝ていいよ、と言ったときは逆側の壁に身体をくっつけていたのだが、時が経つにつれて、俺の方にぐらぐらと揺れてきて、今の状況に至る。

 寝ているなぎさの近くにいると、この前のことを思い出してならない。……はっきりとではなくおぼろげにではあるが、あのときの感覚は身体に残っている。


 またなんとなく隣にいる彼女の髪を撫でる。無意識。
 つい良からぬことを考えてしまいそうになるのも、そうなんだろう。

 四人席の片側に二人で座って逆側に荷物を置いているからか、周りに座っている家族連れだとか、通路を通りすぎるお年寄りだとかにちらちらと見られる。

 どうにも落ち着かない。

 少しの間、自宅から持ってきた文庫本を取り出して読んだ。
 章末まで読み進めるのがやけに早かった。

 また手持ち無沙汰になる。

 お返しだ、と思って幸せそうに寝ている彼女の寝顔のまえにスマートフォンを持っていく。

 この光景を8メガピクセルカメラで撮りたい。撮った写真をiCloudで共有──それができる。そう、iPhoneならね。
 ちなみに俺のスマートフォンはアンドロイド製だった。


 瞬間、車内にシャッター音が響き渡る。
 ……あ、無音モードにするの忘れてた。

 なぎさが目をぱちぱちとさせる。
 起こしてしまった。

「……えっ?」

 驚いている。実際起きたときにカメラが自分の顔の前に有ったらどう思うのだろう。
 普通にこわいな……犯罪者みたいだ、うん。

「いや、なんでもない」

「……私の顔なんて撮って何に使うんですか?」

 たしかに、そう言われるとどうにも返しようがない。

「保存用?」

「あの、もっと良く撮れてるのにして下さい」

 べしべしと脇腹を叩かれる。
 怒るのはそこなんですね。

「……消してください、恥ずかしいです」

「……」

 ノーという意味を込めて首を横に振った。


 なぎさはそれを見てむっとした表情で俺を睨む。

「先輩……起きてるときなら、全然かまわないんすけど、寝てるときは、その……駄目です!」

 じゃあ消すか、と思ったときに降車駅を告げるアナウンスが鳴った。

 終点だ、降りてからはバスで祖父母宅に向かう。

「なぎさ、次で降りるから準備して」

「えっと、消していただけないんでしょうか」

「……いいから、荷物持って」

 逃げた。なんか消したくなかった。

「あとで後悔しますよ?」

「いいんじゃない?」

 よくわからないけれど、そう返した。




 電車から地面に降り立つと、あまりの暑さに身が悶えた。

 そばに置いてある電波時計が指し示す時刻は正午ぴったり。
 一日のなかでもとくに暑い時間帯だった。

 階段を降りて駅なかのお土産ショップのまえを通ると、なぎさが声をあげた。

「先輩! くまねこちゃんが居ますよ!」

 なんだそれ、と思ってなぎさが持っているキーホルダーを見ると、以前送ってきていたLINEのスタンプのきもかわ系ゆるキャラだった。

「これってここのゆるキャラだったの?」

「そうっす、はい。かわいいっすよね、愛くるしいフォルムで」

 改めて見るとパンダとだけあってまんまるとした体型だ。
 中国ではパンダのことを大熊猫と表記すると聞いたことがある。
 でもこの地域にパンダってなんの関係があるんだろう、見当がつかない。


 それに、かわいくデフォルメされているはずなのに、耳は謎の方向を向いているし、口だって変な開き方をしている。

 ……なんだろう、これ。

「……そうだな、かわいいな」

「ほんとに思ってるっすか?」

「うん、かわいいかわいい」

 なぎさに言っているみたいだ。一人で恥ずかしくなる。

「あの、先輩。これ買っていいですか?」

 なぜ俺に訊く。

 どうぞ、と告げると、なぎさは小さい子どものような喜びかたをして、レジに会計をしに行った。

 待っている間に、自動販売機で飲み物を買う。
 すっぱい飲み物を身体が欲していて『すっぱさ100倍!夏の暑さにはこの一本!』とラベルに書いてあるレモンジュースを購入して飲むも、一口で飽きた。


 そのあと、駅の外に出てバスターミナルに向かう。
 さすがにこの時期ともあってか、バスターミナルは混み合っていた。

 ここにいる人の大抵は人気のある観光スポットに向かうバスに乗る観光客だったり、まず都市付近からバスツアーで乗ってきた人だ。

 いま住んでいるところからしたらだいぶ田舎ではあるのだが、田舎なりの産業だったり、海が近くだから遊泳場所として人気があったりしてそれなりに栄えている。

 だが、俺らが今から行くのは、もっと閑散としている場所で、さして人の往来が多くない。
 まぁ、今日はそれなりに混んでいるけれど。

 二人で長蛇の列を通りすぎて、目当てのバス停に並ぶ。
 向こうのバス停には、二階建てのバス(どう言ったらいいものかよくわからない)が数台停まっている。


「あと何分くらいで来るっすか?」

 なぎさはそう言いながら、カバンの中から帽子を取り出し、それをかぶった。

「えっと……あと十分くらいかな。
 暑いならなかで待っててもいいけど、どうする?」

「……大丈夫っす、暑いのには結構慣れてるんで」

「そっか、じゃあここで待ってるか」

「そうしましょう」

 会話が切れて、さっき考えていたのに忘れていたことを思い出す。

「なぎさ、ひとつ質問していいか?」

「い、いきなりですね。はい、なんでしょう」

 彼女はこちらを振り向く。

「前から気になってたんだけど、おまえの誕生日っていつなの?」

「……きょうですよ」

「え?」

 きょうって、なんだろう。
 凶? 狂? それとも強?

 バカな変換を頭の中でしてみたが、普通に考えて、"今日"である他ないのは承知の上です。


「きょうって今日? トゥデイ?」

「はい、今日のトゥデイっす」

「マジで?」

「マジです」

 いや、マジか。
 ……知らなかった。

「どうして言わなかったの、おめでたい日なのに」

「……なんとなく、です」

 ちょっと間があった。なんとなく、というわけでもないらしい。

「そっか、まぁなんというか……。誕生日おめでとう」

「あ、あの。ありがとうございます。今年の誕生日で家族以外の人に祝ってくれたの、先輩が初めてっす」

 にこぱー、と晴れやかな表情を見せてくる。
 本当に嬉しそうだ、見てるこっちまで顔が緩む。

 そうしているうちに、目当てのバスが来て、それに乗り込む。
 狭いバスで二人席しか空いていなかったので、隣同士で座席に腰掛けた。


「私ももう来年には十七歳ですよ、セブンティーンです」

 女子向け雑誌の名前みたいな言い方をされた。
 ああいう系の雑誌って見出しだったりで過激なこと、いや……言っちゃえばエロいことが書いてあるから、本屋で女子向けコーナーを過ぎ行くときに少し驚く。

 ああいうのから女の子はそういう知識を得ているのだろうか、ちょっと気になる。

「それで、四年後にはもう成人ですよ、なんだか時間の流れがはやく感じます」

「でも四年は長いんじゃない?」

「えー、そうでもないと思いますよ?
 日々をぼんやり過ごしていたら、すぐ過ぎてしまいそうな気がします」

 そう言って、なぎさはメガネをくいっと上げる。
 言われてみると少しわかるような気もする。

「早く大人になりたいけど、歳はあんま取りたくないな」

「ジレンマっすね」


「はぁ……歳とりたくねぇな」

 それはどーなんでしょうね、と彼女は俺に同情するように笑った。

「先輩は、明後日が誕生日ですよね?」

「……そうだけど、知ってたの?」

 そういえば俺のほうも自分の誕生日を言っていなかった。
 でもなぎさが知っているってことは、言ったことがあるんだろうか。

「このまえ、楓さんに聞きました。『祝ってあげてね、喜ぶだろうから』って」

「あ、そう」

「先輩の名前の字面からなんとなくそうだと思っていたんですよ」

「……そうなんだ。でも、あれでわかるの?」

「はい。なんとなく、ですけど」

 誕生日を祝ってくれる人が多いのは嬉しいことだ。
 今年は毎年よりも多くの人が祝ってくれるような気がする。

 少し話が逸れた。

「……あのさ、誕生日プレゼント。なんか欲しいものとかあるか?」

 本題はこっちだった。

「あー……。えと、気持ちだけで嬉しいっすよ。
 さっきいきなり言ったのにプレゼントを準備してっていうのも悪いですし」

「いや、遠慮しなくてもいいんだぞ?」

 いろいろと世話になってるし。


「そうですね、じゃあお言葉に甘えます。
 ちょっと考えても良いですか?」

 彼女はそう言って、わかりやすくうんうんと唸っていた。

 俺も俺で、自分だったら何が欲しいかな、と考える。

 昔だったら、誕生日にはおもちゃとかを買ってもらっていた。
 小学校のときは、夏休み中だから友達に誕生日を祝ってもらえなくて、ちょっと寂しく思ったことも少し覚えている。

 去年は姉がケーキを作ってくれて、プレゼントに腕時計をもらった。
 秋生まれの姉の誕生日には、近くのケーキ屋で買ったチョコレートケーキと、バラのアレンジメントをプレゼントした。

 人それぞれ大なり小なり違いはあるにしろ、貰ったら嬉しいと思うだろう。

 そんなことを考えていたときに、なぎさが「あ!」となにかをひらめいたように呟いた。

「わたし、いま十六歳ですよね」

「そうだな」

「先輩も、いまこのときは十六歳で、あと二日間だけ一年の間で同い年じゃないっすか」

「うん」

「……だから、先輩のこと…………今日と明日だけ、名前で呼ばせてもらってもいいですか?」

 上目遣いやめろ。
 ……萌えた、嘘。いや、嘘じゃないわ。


「……べつにいいけど、そんなんでいいの?」

「はい! 嬉しいです!」

 もっと物とかをねだってくれてもいいのに、とも思う。
 でも、これで嬉しいと感じてくれるのならお安い御用だ。

「わかった。じゃあ、なんて呼びたい?」

「……えっと、『はる』はちょっと馴れ馴れしすぎですよね」

 それならあまり驚かないレベルだ。

「いや、それでもいいけど」

「千咲先輩の呼び方も、なんとなく抵抗ありますね」

 抵抗ってどんな抵抗だ。

 というか、俺はいつからはーくんと呼ばれているのだろうか。あまりよく覚えていない。

「そうっすねー……先輩にあだ名を新しくつけるのも恐縮ですし、間をとって『はるくん』というのはどうでしょう?」

 あんまりいつもと変わっていないように感じるのは俺だけか?

「……どうぞ、なんなら敬語外してもいいと思うけど」

「えぇー、それは違うっすよ。
 はるくんは、あくまで先輩ですから」

 自然に使われた。自分で変わっていないと言ったけれどちょっと照れてしまう。


 それと同時に、なにか引っかかりのようなものを覚える。

 普段から適当な敬語なのに(たまに敬語外してきたりして戸惑うこともある)なにかこだわりでもあるんだろうか。

 たとえば、礼儀を払いたいとか。

 ……ないわ、ないな。
 頭の中での思考を瞬時に否定した。

「わかった。じゃあ俺も『なぎちゃん』って呼ぼうか?」

「え」

 姉とか千咲とか、みんなそう呼んでるから。
 そんな結構軽い理由で口にした言葉だったのに、そう言った瞬間になぎさは口を開けたままフリーズした。

「……だめだった?」

「あ、はい」

「なんで?」

 訊くと、一度目を瞑ってから、彼女は話し始めた。

「……ええっと、私のメンタルが持ちません。はるくんだって、くんを取って呼ばれたらそう思いますよ?」

「そう?」


「……そうっす、これは禁止技とか反則技というやつです」

「そっか、それじゃ呼ばないね……なぎちゃん」

 好奇心。許せ。

「……」

 なぎさの顔がみるみる赤く染まっていく。
 異性にそう呼ばれ慣れてないってことなのだろうか。学校での様子を見る限り男との関わりは皆無っぽいし。

 そんななぎさの顔を見て、自分でも結構イヤミな顔をしてなぎさを笑ってしまった。申し訳ないとは思っている、多分。

「……あのですね、はるくん。禁止って言葉、わかりますか?
 き・ん・し! ですよ? やっちゃいけないことなんです!」

 怒られた。というよりは諭された。

「わかったわかった、呼ばないから」

「それでいいんですよ」

 呼ばないようにしよう、好奇心は猫をも殺す、なんて言うし。
 仮に本気で怒られでもしたら、たまったもんじゃない。


 あとひとつ、思い出した。

「そういえば、俺の家来たときに、言ってたことあったじゃん」

「……なんでしたっけ?」

「えっと、杏がモテるって話」

 なぎさは、そんなこともありましたね! みたいな様子で手をポンと叩く。

「なぎさは杏とちがって、モテるモテない以前に友達の数が少ないからありえないって言いたかったんでしょ?」

「は?」

「え、ちがうのか」

「……普通にちがいますけど、否定しきれないのが嫌ですね」

 そうか、ちがうのか。

「私だって、男友達はほぼゼロですけど、女の子ならそれなりにいますよ?」

「……」

「ほんとですよ?」

 念を押されると逆に怪しい。

「うん、信じてる信じてる」

「……なんですか、その棒読み」

 なぎさは不満げに、ぷいっと首を横に振った。

「いや、かわいいんだから……友達くらいちょちょいのちょいで出来そうだな、って思って」

 フォローのつもりでそう口にした。


 すると、まだ言い終わらないうちになぎさはこちらに向き直り、不意を突かれたとでも言うような顔で俺と目を合わせてきた。

 戸惑ったような眼差しは何か言いたげに見える。

「なに」

「……い、いやー。その、嬉しいなぁって」

「……」

 褒めてないんだけどね。でも気付いてないならいいか。

「そうですね、私も社交性を磨かなきゃいけませんね」

「……なぎさは結構社交性あると思うんだけどな。
 姉さんとか千咲とかともすぐ仲良くなってたじゃん」

 バイト時の接客だったりも問題ないし、俺と話しているときも気さくな感じであるし。

「まぁ……実際のこと言いますと、あんまり必要としていないんですよね。
 話が合う人そんなにいませんし、一人でいるほうが落ち着きます」

 まえに昔は大人しかったと杏が言っていたし、本当のことなのだろう。

 一人が好きじゃなかったら、こうやって会うことも出かけることもなかったのかもしれないのか。

 ……なぎさには悪いけど、ちょっと嬉しいな。

つづく




「はるくん! こっちです、こっち!」

 はしゃぐ彼女に手を引かれて、大水槽の前へと足を進める。

 入口付近には地域の海が映し出されたスクリーンがあり、多くの人がその場で立ち止まっていた。

 館内には家族連れが多く、かなり賑わっていて、夏休みとはいえ、その人気の高さが伺える。

 内装は水族館ならではのゆったりとした幻想的な空間を作り出している。
 外装においても、白を基調としたお城のようになっていて、他にはない真新しさを感じられた。

「おばあちゃんも来ればよかったのに、って思いますよね」

「だな……。でも、夕飯の買い出しって言ってたから、仕方ないな」

「……そうですね。ま、私たちだけでも楽しみましょう!」

 ばあちゃんはここに着いて俺らを降ろすなり、車でそのまま帰ってしまった。
 夕方、閉館時間くらいに迎えに来ると言っていたから、それまでは二人っきりということになる。


 先導する彼女の少し後ろについて進んで行くと、ひときわ大きな水槽が立ち並ぶコーナーに到着した。

「きれいですね……。今まで来た水族館のなかで一番かもしれないです」

 ガラスに手をつけたなぎさが感嘆の声を上げる。

 つられてその方向を見る。
 彩り豊かな海藻とともに小型の魚がすいすいと泳いでいる。

 俺も、この場所が好きかもしれないな。
 落ち着くし、なにより退屈しない。

「他にはどこに行ったことあるの?」

「うん……と、美ら海水族館に行ったことありますね」

「沖縄ね」

「そうですそうです、行ったのは小学生のときだったのであんまり覚えていないですけど。
 ……はるくんは、どうですか?」

「ここの前にあったとこは何回か」

「おお」

「あとは、シーパラだかシーワールドだかそんな名前のやつ」

「わかります。どっちにしてもなかなか遠いですね」


「でも沖縄のほうが」

「あっ……たしかに」

 彼女はなるほど、と言わんばかりに手をポンと鳴らす。

「なぎさは、特に見たい生き物とかいる?」

「……迷いますね。ちょっと考えます」

 うむむとわかりやすく唸っている。
 少しの間考え込む彼女を見ていると、やがて前髪を払って眼鏡をきゅっとあげ位置を直して、こちらに向き直った。

「一番は、エイですかね。でも、みんなかわいかったりかっこよかったりして大体好きですよ」

「じゃあ、エイのコーナー行ってみるか」

 付近を見渡すと、今見ていた水槽の反対側、人だかりができている水槽の解説ボードにエイがいると記されていた。

「おおー。これがホシエイで、あっちがアカエイです」

 どっちもかわいいです、と彼女は付け足す。


「……全部同じに見えるんだけど」

「違いますよー! ちゃんと見てくださいよ」

 見る。が、そこまで特徴が掴めない。

「エイのどこが好きなの?」

「難しい質問ですね……。
 フォルムもかわいらしいですし、ゆるい動きもなかなか」

「うん」

「でも、やっぱり、裏側の顔ですかね」

「……あれ顔じゃなくないっけ?」

「知ってますよー。目はちゃんと前にありますし」

 知ってたか。
 まあ、そりゃそうか。

「たとえばですね、お腹の顔が鬼みたいに怖い子もいれば、それこそゆるキャラみたいにかわいい子もいて、みんな違うんです。
 そういうところが、すごく好きですね」

 みんなちがってみんないい、的な。

「そっか」

「そうです!」

「写真、撮ってやろうか? ちょうど、後ろに二匹いるし」

「おおー。ぜひぜひ、お願いします」


 手渡されたカメラで、片手でエイを指差し、もう片手でピースをつくる彼女を写真に収める。

 どう写っているかはわからないけれど、(たとえば反射とか周りの暗さとか)
 まあ、自分の視界にかわいい女の子がいるので良しとしよう。
 
 その後なんとなく水槽を眺めていると、大量のイワシが目の前をぐるぐるとまわりながら通過した。
 流れる音楽に合わせて、銀色のきらきらとした群れが縦横無尽に移動する。

「あれ、エサに操られてるらしいですよ」

「そうなの? てっきり音楽とか感じ取ってるのかと思ってたわ」

「えー……けっこう有名ですよー」

 言われてみれば、感じ取ってたら取ってたで少し怖いような。

「……なんか、夢がない話だな」

「ふふっ、ごめんなさい」



 ちょっと考えてみた。

 イワシ。漢字で書くと鰯。
 魚へんに弱い(弱し)が変化した説と卑しいが変化した説があると聞いたことがある。
 いずれにせよ、群れていないと水槽内の他の魚に食べられてしまいそうだ。

 なんだろう、人間とそこまで変わらない……?

 むしろ、仲間が近くにいるだけ幾分マシにすら思えてしまうくらいのものだ。

「……とりあえず、イワシ最高だな」

「そうですね、おいしいですし」

 彼女の返答を聞いて、普通水族館にいるときに美味しいという感情を抱くのだろうか、と思った。
 水族館に来ると、綺麗だ、かっこいい、凄い、とかそんなレベルの感想しか出てこない。

「はるくんの好きなお魚さんは何ですか?」

「そうだな……サメかな、シャーク」

「あー、ちょうど目の前にいますね。
 サメについてはあんまり良くわからないですけど、これはハンマーヘッドシャークですよね?」


「うん、そう。別名シュモクザメ」

「はるくんもなかなか物知りですね」

「まあ、かっこいいからな。男は誰でも一度はサメかっこいい! ってなるんだよ」

「へー、なんだか意外ですね」

「そう?」

「そうですよ。なんですかね、クラゲとか好きそうだなって思ってました」

「んー。まあクラゲも好きだけど」

「ですよね! この前はるくんのお部屋にクラゲのストラップがあったので、好きなんだろうなあって」

 よく覚えてるな。
 あさっては無いだろうけど(クラゲのストラップも机の横に掛けている状態だったと思う)自分の部屋の中身について言われるのはなんだか少し気恥ずかしい。

「それに、おっきいぬいぐるみもありましたし」



「あー、うん。あるな」

「私も、ああいうかわいい系のぬいぐるみが欲しいですね」

 がっちりホールドされてたやつな。
 そういえばあれっていつ買ってもらったんだっけか、あまり覚えていない。

「いつもはなにか抱いて寝てるの?」

「ええっ……? ど、どういうことですかそれは」

 言うなり、なぎさはびっくりしたような表情になって、両手で肩を抱いて後ずさりした。

 そんなにまずいことは言っていないはずだから、俺の言葉が足りなかったのか。

「や、朝見たときにぬいぐるみ抱いて寝てたから」

「あ、あー……。なるほど、そういうことですか」

「他にどういうことがあるんだよ……」

「まあいいじゃないですか、こっちの話です」

「そっか。で、どうなの?」


「えー……。そんなに気になりますか?」

 なぎさは俺に向けて困ったように笑う。

「それなりには」

「そうですね……。
 杏が中学校に入学するまでは、ずっと一緒の部屋で寝てました」

「おお」

「身長的にも柔らかさ的にも、ちょうどいい感じでしたよ」

 たしかに、身長差は十センチ差くらいだった。
 その身長差なら抱きしめられたらすっぽりとおさまるだろう。

 その姿を想像している俺に、「でもですね……」と彼女は呟く。

「でも、春からは流石に毎日抱きしめられるのは嫌だって言われて。
 別の部屋になってからはなんだか頼もうにも頼めなくて……」

「で、ぬいぐるみで我慢していると」

「そうなんですよ……。つらいです、おかげで寝起きが悪くなってます」


 一緒に寝て、多分一緒に目覚めもする(しかも抱きしめられて)。
 めっちゃ百合百合してんな、この姉妹。

 姉と千咲もたまに抱き合ったりしているのは見るが、改めて考えてみるとすごいな。

 男同士抱き合ってたら気持ち悪い(一般的)けれど、女の子同士なら見てていい気分になる。

「姉妹って、素晴らしいな」

「……はるくん。なにか失礼なこと考えてませんか?」

「んなことないぞ。もっと他のエピソードはないのか?
 なぎさと杏がいちゃいちゃしてるやつとか」

「いちゃいちゃ、って……」

 と彼女は怪訝そうな表情をした。

「うん」

「えぇっ……。大したことないですよ、私たち普通の姉妹ですし」

「んー、なんかあるだろ」


「はあ……。いや、恥ずかしいので話しませんよ。
 これはプライバシーです、たぶん」

「そう言われると余計に気になるな」

「ダメです! この話はもういいですから、先に進みましょう。
 ……置いて行っちゃいますよ?」

 そう言ってぷいっと顔を背けたものの、本当に先に行ってしまうというわけではなかった。

 一方通行になっている一階のフロアももうすぐ突き当たりだ。

 さっきのことについては、今度杏に訊いてみることにするか。

つづく




 周りと比べて比較的明るくなっている養殖場を再現したコーナーを抜けた後、外へと続く扉の前まで到着した。

 外から差し込む日差しはまだまだ暑さを感じさせる。

 壁にくくりつけてある解説ボードには『お魚さんたちと触って遊ぼう! ふれあいコーナー』と銘打ってある。

 なぎさに軽く許可を取って外に出ると、ふれあいコーナーという名称通り、子どもからの人気が高いようで、親子連れが多かった。

 すぐ近くの人が多い場所はビーチのようになっていて、子ども達がバシャバシャと水を掛け合っている。

「あついですね、やっぱり」

 どこかで貰ったのか、水槽がプリントされたうちわを扇ぎながら、なぎさは言う。

「だな、さっきまでが天国だったみたいだ」

「あそこにいる子ども達、なんであんなに元気なんですかね?」

「若さじゃないかな」


「なるほど……。精神的な若さ、ですか」

「うん、そう。そんな感じ」

「じゃあ、若返りも兼ねて、私たちも入っちゃいますか?」

 まあ、俺らくらいの年代で足だけ水に入れてる人は居ないことはないが。
 なぎさはワンピースだからいいけど、俺は普通にズボン履いてるし。

 どうぞ、と手で促すと彼女はふっと笑った。

「……やっぱりいいですかね」

「いいのか?」

「はい。考えてみたら、靴下脱ぐの面倒ですし」

「そっか」

「あっちのほうに行ってみましょう」

 彼女が指をさした方向には小さめの水槽が並んでおり、年齢問わず様々な人がその前に並んでいる。
 どうやら、『ふれあいコーナー』とはあそこのことを言っているらしい。


 近付いていき、解説ボードを見ると、ドチザメ、ネコザメ、イヌザメ、イトマキヒトデ……などの海洋生物に触って遊べるということだった。

「サメですね」

「うん、サメだ」

「家で飼えそうなサイズ感ですね」

「そうだな……飼ってみたい気もする」

「どんだけサメのこと好きなんですか」

 また彼女はふふっと苦笑に似た笑みをこぼす。

 前に並ぶ人々はわーきゃー言いながら水槽の中の生物に触れている。
 外気にあたって、しかもこんな暑い中で、大丈夫なのだろうかと少し心配になる。

 自分たちが触れる番になり、二人揃って近くにいるサメに手を伸ばすと、

「わわっ……肌がザラザラしてますこの子!」

 と彼女は声をあげた。

 そりゃサメなんだからサメ肌で当然だろうと思ったが、初めて触る身からすれば、驚くのも無理はないのかもしれない。

「なぎさはどれがかわいいと思う?」

「えーと……。この子です、しましま模様でかわいいです」


「ネコザメか、かわいいよな」

「そうですねー。はるくんが触ってるサメさんはなんていう名前なんですか?」

「これはドチザメ、んであっちにいるのがイヌザメ」

「……ほー。やっぱり物知りですね」

「まあな」

「じゃあですね、そんな物知りのはるくんに質問です!」

 びしっと俺の前に人差し指が突き立てられる。

「イヌザメってどうして犬ってついてるんですか?
 犬を飼っている私からしたら、この子とみたらしは似てないですし、気になりますね」

「なんだっけな……」

 サメ好き(自称)の俺からしたら知っていて普通のことであるかもしれないが、普通に考えてそこまで詳しく知っているわけがない。

 ネコザメは頭部の突起がネコのようだ、だとか、目がよく見ると猫目である、といった理由から来ているというのは昔何かの本で読んだ記憶はあるが……。

「どうですか?」


「そうだな、まったくわからん」

「えー。じゃあ、私の勝ちですね」

「これ勝ち負けあるの」

「そうです、私の勝ちです」

「……どうしてか知ってるってこと?」

「いえ、知りませんよ?」

「じゃあどうして」

 なんのことだ、と一瞬考えて彼女を見ると、彼女はえへんと胸を張って嬉しそうにしている。

 ……もしかして、こいつは学習しないのではないか。

 とはいえ、胸を張った彼女に対して何度も照れてしまうような失態を犯すことはなく、調子に乗るなという意味を込めて脇腹を小突いた。

「お? やりますか?」

 攻撃をされたのにも関わらず、彼女は嬉しそうに頬を緩めて、俺に反撃を返してきた。
 水に入れていない側の手で頬をつねられる。

 なぜか、抵抗するのも嫌だなという気持ちになって、されるがまま数秒間つねられた。


 その反応が意外だったのか、彼女は首をかしげた。

「どうしたんですか?」

「あ、いや……。なんでもない」

「そうですか……」

「……」

「もしかして、不用意に触られるのが嫌でしたか?」

「ん? いや……」

「えっと……嫌じゃないならはっきり言ってください」

 心配性か。

「嫌じゃないよ。お前の手ひんやりしてて気持ちよかったし」

「……おお、セクハラ発言ですか」

 にひひ、とわざとらしく笑われた。

「いやいや、ちがうから」

「どうなんでしょうかね、あはは」

 勝手に触られて喜ぶ変な人扱いされてしまったらしい。
 ……間違ってないし、もともとそう思われていた可能性もあるが。


 前々からボディタッチは少なくなかったしな、仕方ない。なぎさだって悪い。

「はあ……。次の人待ってるみたいだし、そろそろ離して」

「……そうですね、そろそろお昼食べに行きますか」

「うん、そだな。さすがにさっきよりは混んでないよな」

「もうピークは過ぎたとは思いますけど、二時ですし」

「じゃあ、行くか」

 ささっと最後にドチザメをひと撫でして、列から抜けた。

 それにしても、もう二時過ぎか……。
 自分が思っていたよりも時間が早く過ぎているらしい。

 朝以降特に何も口にしてはいないが、大してお腹が空いたということも感じない(時間を気にしなければそうなることはたまにあるが)。

 それもこれも、彼女と二人でいるからなのだろうか。よくわからない。


 隣を歩きながら、他愛のないことを話しかけてくる彼女の横顔が、俺には眩しい……のは気のせいか?

 仮に気のせいではなくて、そうなのだとすれば、俺ってだいぶちょろいんだなあと思う反面、なんだかどうしようもなく怖いとも思ってしまう。
 今日は、いつもとちょっぴりちがった感覚で、いつもとちょっぴりちがった彼女で。

 ……でも、それももしかしたら、すべて俺の捉え方の問題で、何一つ変わっていないのかもしれない。

「ね、はるくん」

「……どうした?」

「さっきの、名残り惜しかったら、いつでも触ってあげますからね?」

「さっきの……って?」

「もう! はるくん私に触られて喜んでたじゃないですか」

「ああ、うん」

「えへへ、ついに認めちゃいましたね」

「……認めるも何も、俺は最初から嫌じゃないって言ってたし」


「え、ええと……。そうですか。じゃあ、触って欲しいときは遠慮なく言って下さいね、触ってあげますから」

 そう言って彼女は得意げに眼鏡の位置を直した。
 ドラマかアニメにありがちな直し方だな、と笑いそうになった。

「それさ、なんか……」

「……へ? なんですか?」

「なんていうか……字面だけ見ればいかがわしいニュアンスだよな」

「……は」

 固まった。
 と、同時に肩を強く叩かれる。

「ばかですか! 全然ちがいます!」

「ふっ、どうなんでしょうか」

 さっきの彼女の真似をしてみた。
 すぐにうわー、と冷めたような顔で見られた。

「あ、わかりましたわかりました。
 頼まれても絶対に触ってあげませんからね」

「うん、まあ別にいいけど」


「……え?」

「どうした?」

「……もう一回言ってもらってもいいですか?」

「いや、別にいいけどって」

「……あ。へえ……そうですか。
 そう言われたらそう言われたで、ちょっと不名誉な感じです」

「……それってつまりさ」

「い、いや、ちがいますよ?」

 俺が言い終わる前に言葉を遮って、ぶんぶんと手を振り回して否定する。

 続きを言おうとすると、また「わー」とか「あー」とかなんとか言って遮られてしまった。

「と、とにかく! ちがいますからね?」

 それ半分……いや全面的に認めてるのと変わらないじゃねえかよ。
 どうやら彼女の中に譲れない何かがあるらしい。

 すぐにでも反応が欲しかったらしく、ずずいと身体を寄せてきた。
 触れないと言った彼女から触れてきた、これはセーフなのか。


「わかった、わかったから」

「……そ、ですか。いまの話はナシで、お願いしますね」

 なんだか墓穴を掘るとかそんなことの多い一日なのかもしれない。

 発言には気をつけよう、コンマ数秒くらい考えてから発言しよう。
 ……いや、それはなんだか変か。もはや考えてないのと同じだし。

「うん」

「ほんとにですよ?」

「わかってるよ」

「……そうですか」

 彼女はほっと胸をなでおろした。

つづく




 館内に戻り、お昼時を過ぎだいぶ人の少なくなったフードコートで昼食を済ませることにした。

 水族館ということもあって、やはり海産物が多く、人気のメニューは海鮮丼やら刺身を使った定食らしい。

 別にこれといって食べたかったものも無かったし、道中でなぎさからお菓子をいろいろ貰ったからお腹がすいているというわけでもない。

 思いつかないし適当に合わせるか、と先に買うことを勧めると、彼女は焼きそば、ハンバーグ、サラダやらが乗ったプレート料理にしたようだった。
 二日連続はどうなのかと一瞬考えたが、夜と被る可能性もあるし、彼女に続いてそれを注文した。

 テラスに出て、運ばれてきた料理を食べる。

 近くでは木々の葉鳴りが、少し上からはアシカショーの歓声が聴こえる。


「時間合うかわからないけど、これ食べたら行ってみるか?」

「ええ……と。どうしましょうか」

 一応この水族館の目玉であるし、行きたいというなら、と思っていたが、彼女の反応的にどっちでもいいらしい。

 まだ一階部分しか周っていないし、お昼過ぎからは上演回数がそう多くもないだろう。

「それ見せて、いつやるか書いてあると思うし」

「あ、はい。どうぞ」

 なぎさからパンフレットを受け取って上演時間を確認すると、次の上演は九十分後だった。

 なんていうか、思ってた通り微妙な時間だ。

「そうだな……。他のところ周って、時間がちょうど良かったら行くか」

「そうですね、それでいいですよ」

 うん、と軽く頷きを返すと、彼女はそのままパンフレットを広げて、どこに行くか決めましょう、と声高に言った。


 さっきまで見て周っていたところは、名前の通り、ここらの地域や日本近海の魚を集めていた。

 それに対して二階の展示は『世界のうみ』と銘打っており、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパなど、世界の地域ごとに観ることができるらしい。
 その他にも、一階部分よろしく屋外展示もあり、多くの人はそこに行くようだった。

 二人でいるといつも予定を決めることもなくふらーっと行動していたからか、何かを決めてから行動するのは少し新鮮に思える。

 料理を食べ終えた後、フードコートに隣接されているお土産ショップに行くことにした。

 そういえば姉にお土産を頼まれていたと思い、スマートフォンを取り出すと、さっき送った写真に返信が来ていた。

『かわいいね』
『デート楽しんでる?』
『スタンプ(ニヤニヤした顔の)』

 デート云々はスルーすることして、姉が好きそうな食べ物やぬいぐるみなんかの写真を撮って、この中で欲しいものある? と送ることにした。


「何してるんですか?」

 突然何も言わず写真をぱしゃぱしゃ撮り出した俺になぎさは訝しげな視線を向ける。

「あれだ、あっちで待ってくれている愛する姉に買って行ってあげようって思って」

「おお、そうなんですか。じゃあ私も杏に買いましょうかね?」

「いいな、喜ぶと思うぞ」

「さっき私と杏のこと言ってましたけど、はるくんと楓さんも一歳差とは思えないほど仲良いですよね」

「……んー、普通じゃねぇの?」

「えー……普通じゃないですよー。
 なんですかね、お互いがお互いを信頼してるって感じが出てるって思いますよ」

「そうか……」

 信頼。
 ……信頼、か。

 なぎさの目にはそう映ったらしいが、実際のところどうなのだろうか。


 千咲にも似たようなことを言われたけれど、本当に最近まで──この夏まで、大して喋るわけでも無かったと思う。

 だからなのかは定かではないが、最近の姉と過ごす時間はそれまでよりも濃いように感じる。

 どれが普通かなんてわからないと思ったが、裏を返せば、どれが普通でないのかも全くわからない。

 手元を見ると、既に姉からの返信が来ていて、左端にあるカメのぬいぐるみを買ってこい、と。

 御達しの通りぬいぐるみコーナーに戻ると、なぎさも俺について来て、近くのぬいぐるみを物色しだした。

 手にはどこででも買えそうな箱入りの饅頭が握られている。
 どうやら、俺が考えているうちに買うものは決めていたらしい。


「カメ、ですか」

「これがいいんだと」

「これまた随分とリアルなやつですね」

「まあな。でもなんかよく見るとかわいいところあるじゃん」

 ほい、と目の前にカメを差し出すと、なぎさは顔を近付けてまじまじとそれを見た。

「……なんていうか、メロンパンみたいですね」

 そう言ってくすりと笑う。

「お腹もう空いたの? それとも足りなかった?」

「いいえ、お腹いっぱいですよ」

「……」

 ……普通に返してくるか。
 戸惑っていると、もう一度くすりと笑いかけられた。

 そのまま、そうですね……、と彼女は話し始めた。

「……私たちって、いつも電車に乗るじゃないですか」

「えっと……通学の時とかか?」


「そうですそうです。
 ……で、学校のほうの駅前にメロンパンの移動販売が来てたりするじゃないですか」

「うん……そんで?」

「いつも食べたいなあって思ってて……」

「あー、遠目でしか見たことないけどたしかに美味しそうだな」

「ですよね! 店名がちょっと謎ですけど、クラスの子とか並んでるのよく見ますし」

 にこにこしている。
 同時に、何か期待するような、そんな目で見つめられた。多分。

 思わず首をかしげる。

 これは、そういうことなのか……?
 いや……でも、俺の思い過ごしってことだってある。

 その場でどうにか取り繕おうとも考えた。
 でも、ちょっと考えてすぐにやめることにした。

 再び目を合わせると、緊張したような空気が流れる。


 ……しばしの沈黙。
 その後、彼女の視線がすーっと棚の方へとスライドした。

「さっきの話ですけど、これ欲しいです」

 さっきの話、さっきの話……。
 行きたいから誘ってくれ、という意思表示をしていたわけでは無かったのか。

 胸の前にエイのぬいぐるみを押し付けられる。
 随分とデフォルメされたやつだこと、若干かわいい。

「あ、うん。それ買って欲しいと」

「え、えっと……。あの、お昼前のバスで何かプレゼントくれるって」

 そうだ、言ったわ。
 名前呼びとは別にってことね。

「言ったな」

「おお、良かったです。この歳でボケちゃったのかと思いました」

「ボケてるって……」


「それで、はるくんにはこのサメをプレゼントいたします!」

 反対側の棚からビーズの入ったシュモクザメのぬいぐるみを取り出す。

「プレゼント交換ってことか?」

「それです。誕生日近いですし、お互い記憶に残るものがいいな、と」

「いや、貰えるなら嬉しいけど、別に俺は……」

「いいんですよ、貰っといてください。
 それにあれですね、次に泊まりに行ったときに私が使いますから」

「え、なに。またうちに来るの?」

「楓さんと千咲先輩に誘われましたよ?」

「……俺、何も聞いてねぇよ……」

「……まあ、杏が行きたいって楓さんに言ってたんですけどね」


「それなら良いな。杏が来たいなら仕方ない」

「どんだけ杏のこと好きなんですか。
 いくら私でもちょっと引きますよ……」

 半分くらいネタのつもりだったが。
 それに、そんな呆れたような目で見られても。

 いろいろと困るんだよ、俺だって普通に男だし。
 俺以外は全員女子、その日確実にコウタのことを誘わなくては。吉野さんも来るだろうし誘えば乗ってくるだろ。

「じゃあ、レジ行くか」

「は、はい。あの、これでいいんですよね?」

「うん、ありがとな」

 落ち着いて考えてみると、うちに泊まるからと言っても、また俺の部屋に寝るわけじゃないだろ。

 寝たいって言うならそれはそれで……ないか。ないわな、流石に。




「じゃあ、右回りで行きますか」

「そうだな、行くか」

 二階へと続くエスカレーターは進むにつれてどんどん明るさを増して行った。

 一階、フードコートよりも人の数が格段に多く、ショー帰りの客とすれ違う。

 地域の海よりも断然人気があるというのは大丈夫なのか、
 なんて思ったけれど、近くを見るより遠くを見るほうがいいのかなと適当に納得することにした。


 最初の地域は『オセアニア』で、グレートバリアリーフの魚たちを集めているらしい。

 少し進んで横にはペンギンコーナー。

 つくりは岩場とプールで、小さめのペンギンが、よちよちと歩くか、すいすいと泳ぐかしている。

 ペンギンともなると当然目立つし人気もあり、右回りの人も左回りの人も、ほぼ全員がそこで足を止めている。

「かわいいですね、フェアリーペンギン? ですよね」

「そうみたいだな。……人多すぎないか、ここ」

「……そう、ですね。あっち空いてますから行きましょうか」

 円を囲む展示台の裏側。
 プールから陸地、岩場になっているところは人気が少なくなっていた。

 だいたいの写真を撮っている人たちは、ペンギンの泳いでいる姿を収めているらしい。


 いくつかある二人がけの椅子は若いカップルで埋まっていて、手すりにもたれかかった。
 なぎさはなぎさで岩場を歩くペンギンをぱしゃりと撮り出したので、俺もそれに続いてスマートフォンで撮った。

 何枚か撮って、すぐ横を見ると、いい構図のものが撮れたのか隣にいる彼女はつやつやした嬉しそうな顔になっていた。

 そんな様子を見るとなんだか気恥ずかしくなってきて、展示をぼんやりと見つめることにした。
 ……ぼんやりと、と言っても全体を見るというよりは、一点を視線をずらしながら見ていくような、そんなふうに。

 周りを見ると、それは俺だけではないのだろう。

 そこにいた人たちの多くは、寄り添う二羽のペンギンに目を止めていた。


 ああいうのは一目で分かる。昔、結構有名な『皇帝ペンギン』という映画で見た記憶がある。

 イメージがひとり歩きしているだけなのかもしれないが、しばしばペンギンの夫婦は一夫一妻制のロールモデルかのように扱われている。

 ペンギンの夫婦を見て考えることは皆同じようで、少し後ろにいる俺らと同世代くらいのカップルの女の方が、
「ペンギンは一度夫婦になると一生添い遂げるんだよね」「それってすっごく理想的じゃない?」
 と小声で呟いた。

 隣に座る男もそれに同調し、より一層やさしげな目で彼女に向かって笑みを浮かべた。

 他の人も同じく、型にはまったような話をして、ゆったりとした甘い空気を漂わす。

 俺も俺で、隣にはかわいい女の子がいて。

 ……でも、そういう雰囲気にあてられることなんてなかった。

 べつに、重ねようとしたわけじゃない。
 うちとは大違いだな、なんて思っていたわけじゃない。


 ただ、一瞬だけ。ほんの僅かだけ。
 また、それを怖いと思ってしまった。

 異様だ。けれど、行き着く先は同じだと言い切れない。

 愛や恋なんてものは多種多様であって。
 今の時代片親も何も珍しくないし、不倫浮気もこぞってメディアに取り上げられるくらいだ。

 そういうのを見るたびに、聞くたびに、まあ実際はそんなもんだろ、と達観した風にして逃げてきた。

 自分は、自分たちは特殊じゃないと思いたかった。

 俺が何かを考えていたって意味は全くない。誰の慰めにもならない。

 ひと息つこうとした。それで気が晴れるとは微塵にも思っていなかったが、何かをせずにはいられなかった。

 でも、そうはしなかった。
 なんとなく、今はまだそれを飲み下すときではないと感じたから。

 そして次に、やめようか、と考えた。

 思考はループする。だんだんと悪い方に傾いていく。

 読んで字の如く、悪循環だ。

 どうすりゃいいんだよ、と思う気持ちすら失せ始めてきた。


 ぐるぐると渦巻く感情に対処できずにいると、ふいに横から「ごめんなさい」と小さい声がした。
 肩のあたりを強めに叩かれて、我に返る。

「あの……どうしましたか?」

 目を開けると、心配そうになぎさが俺を見ていた。

 すぐに慌ててしまう。
 ……またやってしまった。

「なんでもない。ちょっと……考えごとしてた」

「……そうですか」

 それに頷くと、
 彼女は、んー、と顎に手を当てて考え込むように首をかしげた。

「ほんとうに大丈夫ですか?」

「……うん。なんでもないよ」

 もっと答えようはあったかもしれない。
 例えば、寝不足でちょっと、とか(それはそれで失礼極まりないのだが)。


 言葉を続けるべきなんじゃないかと思って口に出そうとしたとき、彼女の表情が僅かながらも曇った。

 何か言いたげな顔。
 もしかしてですけど、とおどおどしたような様子で俺に言いかけて、彼女の口は止まった。

 その、もしかしての続きは……。

 ……さすがにないだろう、と思いつつも、それ以外に彼女が口籠ることなんてあるのか? とも思う。

 直接自分からそれに言及したという心当たりは……ない。
 が、付き合いは思ったよりも長くて、関わっているうちに知られていてもおかしいとは思わない。

 肌寒い館内なのに、背中には冷や汗を感じる。

 どうにもいかなくなって、やっぱり何も言えなくて、
 けれど、彼女に急に頬に触れられて、身体が後ろに仰け反った。

「な、なに?」


 言うと、すぐに手を離された。
 かと思ったら、今度は左手を握られた。

「さっきからずっとぼーっとしてたので、どこか具合が悪いのかな、と思いまして」

 ちがいましたか? という付け加えと共に、手を離された。

 あ、と一瞬気分が沈んだ。
 表情に出して悟られるのは子供みたいだから、それは我慢した。

 今更ながら、今日はつくづくダメな日みたいだ。
 すべてが空回りしているような。

「うん、うん……ごめん」

「……いえ、謝らなくていいんですよ。
 ここ寒いですし、はるくん薄着ですし」

「なぎさは……」

「なんですか?」

 俺のことを気遣っての知らないふりか、それとも本当にそう思っているのか。


 普段ならわかりやすいはずの彼女の意図が、なぜか読めない。

 それが判決の先延ばしのように思えて、どういうわけかもどかしい。

「なんでもない」

「そうですか」

「続き行こっか。体調はもう大丈夫」

 ぽん、と彼女の頭に手を置いてみる。
 不自然なほどのスムーズさに、俺自身も驚いた。

「……珍しいですね」

「そう?」

 えぇ……、と少し拗ねたような口調で返される。

「……逆に珍しくないとすれば、日常的に人の頭を撫でていることになると思いますけど」

「……」

 ……そうなるか。

「ま、それについてはお互い様ですかね、許します」

「……どういうこと?」

「さあ、どういうことでしょうかね?」

 そう言って、くすくす笑う。

 そして、でも、お互い様ということは認められたみたいで嬉しいですね、と彼女は続けた。

 会話の流れからズレたような物言いに、なんの話をしてたんだっけ、と思った。


つづく
複数ルートの分岐点がこの後にあって、それを書き進めていたのですが、
やはりそれだと更新スピードが落ちてしまうので、とりあえずのところ一本化したいと思っています




 各地域のコーナーを比較的ゆっくりと進み、ゴール地点まで辿り着いた。

 感想はそこそこ、それなりに疲れた。

 ショーには行かなかった。
 時間も気にして、というよりは、最終公演で混雑すると予想してやめることにした(実際的中した)。

 途中、電話がきた。

 当初の予定よりも帰りの時間が早くなったことと、迎えには誰か他の人に頼むことを手短に言われた。

「もう一周しますか?」「いや、遠慮しとこうかな」というある種形式ばったようなやりとりを交わして、水族館の外に出た。

 気温は昼間と比べるとだいぶ落ち着いていて、あまり苦ではない。

 付設の臨海公園のベンチに座って、迎えが来るのを待つことにした。

「これ、どうぞ」

「おう、さんきゅー」

 カフェスペースで買ってきてもらった飲み物を受け取った。

 商業施設にあるカフェはコーヒー一杯でも値が張るのが嫌なところだ。
 スタバとかタリーズとか、あるのは助かるけれど、注文するとき妙に緊張するし……。


 家の近くのカフェは一杯150円でおかわり何回でも無料。すごく良心的。
 店主に名前を覚えられてるくらい常連。でも最近は全く通っていない。

 渡された飲み物に口をつける。

「これ何円だった?」

「えっと、350円です」

「うい」

 予想していたよりも高いわけではなかった。
 お金だけ先に渡しとけば良かったな。

「……そういえばさ」

「……なんですか?」

 訊きたかったのは少し前の続き。

 その場では流したが、気になるものは気になる。

 不必要な、というと言い方が悪いか。
 それが彼女に迷惑をかけるレベルのことなら、今のうちに正しておくのが筋のように思える。

「さっきのことでさ」

「はい。さっきの? ……と言いますと?」


 訊きたいという気持ちが先立って俺から言い出したものの、
 こうしてまっすぐ見つめられると、やはり続きを口にするべきかどうか躊躇した。

 考えてみると、彼女の提案、要求は楽しむことだったはずだ。

 "俺が"もやもやしていることに変わりはない。
 でも、この件についてはあの場で終わったことだ。

 何かしら遺恨が残ってしまったとしても、今それを蒸し返すのでは彼女の気遣いを反故にするのではないか。

 彼女が察しているという仮定で進めてもこの状態であるから、
 察していない(ただ俺の様子を変に思っただけであるとか)なら、勝手に俺が要領を得ないような話を始めるということになる。

 もっと考えてから行動しろよ。
 最近になって何度もそう思った気がする。

 だとしたら、それは今まで押し込めていたものなのかもしれない。


 ちょっと人と近付くと、一旦立ち止まって、ということが疎かになる。

 ……駄目だな。

「……どのコーナーが一番楽しかった?」

「えっ……と、二階のですか?」

 彼女は一瞬戸惑ったように見えた。
 それも俺の勘違いかもしれないけれど。

「うん、そう」

「どうですかね……。どれも楽しかったですけど、強いて言うならアフリカコーナーです」

「あー……。水族館なのに魚いなかったな」

「そうですね。爬虫類とか両生類とかばかりでしたね」

「カメレオンが特にかわいかったな、のろのろしてて」

「はるくんもアフリカコーナーが一番好きですよね?」

「なぜわかった」

「顔に出てましたよ。あと足取りも軽快といいますか、そんな感じでした」

「そんなに俺ってわかりやすいかな?」

「うーん……なんといいますか、慣れですかね」

 でもだいたいは予想の範疇で、それが当たってたら嬉しいくらいの感覚です、と付け加えて彼女は俺に向けてはにかんだ。


「そっか」

「そうですよー」

 ある程度年を重ねてからは『何を考えているかわからない』と評されることが多かったように思える。

 おまえってわかりやすいな、と言ってきた人だっていたかもしれない。

 けれど、記憶にはあまり残っていない。

 ──何を考えているのか、全然わからないんです。
 ──私のことが嫌なら嫌って言って下さい。直せるなら直しますから。
 ──嘘ですよね? 私は、そんなこと、ひとことも言ってないです。

 そんな風に言われたのはいつのことだったっけ。

 向かいのベンチで二人組の女の子が揃ってシャボン玉を飛ばしている。
 その隣のベンチでは男の子がラムネを飲んでいる。

「……あついな」

「まあ、ここ日陰ですけど、そうですね」

「待ち合わせの時間過ぎてるし……」

「飲み終わっちゃいましたね」

 ベンチに座ったまま足をバタバタしている。
 お互い暇、というか時間を持て余している。


「……そういえばさ、シャボン玉って春の季語らしいよ」

「夏じゃないんですか?」

「うん、理由は知らないけど」

 答えるとすぐに、
 ちょっと、と正面を向いたまま言われた。

「あの……さっきからずっと後ろから視線を感じるんですけど」

「視線って……」

 そう言われるとビビるわ。てか怖いわ。

「迎えの人じゃないかなと思いますけど」

「あ、そう」

 先にそれを言えよ、俺がビビリだと露見しちまうだろうが。

 振り返る。女の人と目が合う。

 その女の人は俺たちに向けてにっこり笑うと、ずんずんと近付いてきた。

「はるー! ひさしぶりー、元気だった?」

 独特なゆるい声音。聞き覚えがあってどこか懐かしいような感覚。

 ひらひらと手を振って、これまたゆるい顔で微笑みかけられた。

「おひさしぶりです。ゆかり……さん」


「もー……。敬語なんて使わなくてもいいのに!
 昔はゆかりお姉ちゃんゆかりお姉ちゃんってかわいかったのになー」

 ……いつの話だそれ、マジで覚えてねぇぞ。
 ゆかりさんって呼んでた、そしてその前はゆかりちゃん。

「じゃあ……ゆかりさん、でいいよね?」

「うんうん。……で、そちらの子は?」

 なぎさは、はっと顔を上げて、深々とお辞儀をした後に、軽く自己紹介をした。

「学校の後輩でバイトが同じ、ね……。
 んー……ここにはデートしに来たの? 二人は付き合ってるの?」

 うりうりと肘で脇腹を小突かれる。

「……付き合ってないよ。
 そんで、ここにはバイト休みだから出掛けるかってことで来た」

「へー。まあ、外だとなんだし、車あっちに停めてあるから行こっか」

 キーチェーンを指先で遊ばせて、くるりとターンをした。
 なんでこの人はこんなにテンション高いんだろう。

「あの……ゆかりさん? とはどういったご関係で」

 言われてみると、たしかにゆかりさん名乗ってないわ。

「父親の妹、叔母さんにあたる人だよ」

「え、っと……。はるくんのお父さんの妹さんにしては随分と若く見えますが」

「あー、それな」

「……」

「よく知らないけど歳めっちゃ離れてるんだよ。
 お若いですね、とか喜びそうだから絶対言うなよ」

「なるほど……。いや、全然なるほどじゃないですけど、わかりました」

 適当な説明なのに一応納得はしてくれるのな……。話が早くて助かる。

つづく




「さあ乗った乗った。なぎさちゃんはわたしの隣ね!」

 二人は早々に前席に乗り込んで、俺もそれに続いて乗車した。

 シートベルトをするように言われて慌てて取り付けた後に、中を見渡すと、
 ダッシュボードは本革風で装飾は金属調で、車の趣向は特にないのだが。

 なんだこれ、すっげぇ高そうだ。

 そんなことを考えているうちに、低い駆動音を立てて、車が走り出した。

 なぎさは先ほど買ったであろうコーヒーをゆかりさんに渡していた。
 そのぶんまでよろしく、とは俺も気付いていなくて言わなかったのに。

 こういう細かな気遣いにおいては頭が上がらない。

 遅れてゆかりさんから軽い自己紹介があり、その後二人でしばらく会話をしていた。


「ねえ、ゆかりさん」

「ん、どしたの?」

「この車ってゆかりさんの車?」

「うん、そうだよ。わたしの愛車」

 そう言って少し自慢げにぽんぽんとハンドルを叩く。

 ……あ、思い出した。
 これSUVってやつだよな、たしか。

「そうなんだ。てっきり彼氏の趣味とかだと思った」

「ふーん……彼氏、ね……」

「えっと……ちがったならごめん」

「はは……。残念ながらわたしの趣味なのよね」

「……」

 やらかした。
 これはあれだ。ただの失言だ。


「やっぱりおかしいかな……? なぎさちゃんはどう思う?」

 優しい声音でなかなかのムチャ振り。
 人となりを知らないわけだからイメージで語るしかできないと思うのだが……。

「かっこいいですし、私もこういう車乗りたいですよ」

「えー、この良さがわかっちゃう?」

「はい、ゆかりさんにも似合ってると思いますよ」

「……だそうだよ、はる?」

「や、俺も似合ってないなんて言ってないし」

「ふーん。いいよねー、ひさしぶりに会ったと思ったらこんなにかわいい子連れてきて」

「かわ……えへへ、ありがとうございます」

 にこりと笑う横顔に、ゆかりさんも笑顔で応えていた。

 見るからに嬉しそうな反応だ。俺にはわざわざアピールしてくるのに、えらい違い。


「まえは……って言っても小学生ぐらいのときだっけか。
 女の子連れてきたことあったよね」

「……千咲のこと?」

「あ、そーそー。ちーちゃんだ、今も元気にしてる?」

「うん。まあ、元気かな。千咲も俺らと同じ高校だよ」

「おおー! いいねいいね。あのころはわたしもピチピチの女子大生だったなあ……」

 たしかに、家でずっと暇そうにしていたっけか。

「ゆかりさんは、何のお仕事されてるんですか?」

「ん……わたしは高校の先生やってるよー」

「そうなんですか」

「……科目なんだっけ?」

「国語だよ。ほんとは社会科目が良かったんだけどね、倍率が高くて」

 初めて聞いたな。
 歴女か。最近めっきり聞かないけど。


「つまり、消去法ってことですか?」

「まあ、言っちゃえばそうなんだけど。
 でも、なったらなったで、国語教師もなかなか良いものだよー。図書館の担当やりますって言えば部活の顧問持たなくていいし、職員室にずっといなくてもいいし」

「あ、それわかります。私の担任も国語科ですけど、いつも暇そうにしてます」

「テストの採点は地獄そのものだけどね……」

「じゃあ、部活もなくてテストもない今は暇ってことか」

「うんうん。課外講習も三年生担当って訳じゃないから、一週目で終わり」

 左折して、国道から一本横に逸れた道を進む。
 高い建物はほとんどなくなり、すれ違う車は軽トラと軽自動車が多くなってきた。

「そいえば、ハルは文系?」

「そうだよ」

「なぎさちゃんは?」

「高一なのでまだ決定ではないですけど、進路希望調査は一応文系で出しました」


「ほーほー……てことはわたしたち文系仲間だね」

「そうなるね」

 なぎさの進路については初めて聞いた。
 うちの学校は男女比が大体6:4くらいで、女子でも理系が一定数はいるから、理系のほうがひと学年のクラス数は多い。

 もっとも、高一段階で成績がある程度良い位置にいれば文系よりも理系を勧められるからってのもあるかもしれないが。

 俺に関して言えば、数IIIが面倒そうだったのと、地歴が少し得意だったから。
 そんな単純な理由で、あまり将来の職業については考えずに決めた。

「楓はたしか理系だったよね」

「うん。知ってたんだ」

「まあ、楓とはたまに電話するからね。去年も会ったし」

「そっか」


「あ、今日楓は来ないよね?」

「……受験生だし、まだ予備校行ってると思うよ」

「そっか……そうだよね。どこ大受けるとかは?」

「いや、なんも」

「んー、わたしにも教えてくれなかったしー。
 じゃあお兄ちゃんは? また仕事で来れない?」

「たぶん」

「ま、まあ……連絡しても出ないしね、そうだよね」

「……そうなの?」

「……うん、そうみたい」

 そんなところだろうとは思っていたけれど。

「だから! なぎさちゃん来てくれてうれしいなー」

「あ、えっと……。ありがとうございます……?」


「……女の子がいると嬉しいなあ。わたし、連れてくる人なんていないし……」

 男で悪かったな。
 つーか、やっぱり彼氏いないのか。

「てことは、俺たち以外の他の人も来るってこと?」

「うんそうだよー。お母さんから聞いてない?」

「……マジか。近所の人とか?」

「そーそー。あとは薫乃さんとか……親戚の人たちかな。
 わたしも女のなかで一番年下だと、肩身狭いし」

「そうなんですか……。そこで私の出番というわけですね」


「うんうん! というわけで、ハルはめんどくさい大人に絡まれても頑張ってね」

「あ、うん……頑張る」

 後ろには(希望的観測)とつけてしまいたいくらいだ。

 なんとなく(悪い意味で)いろいろ想像できた。
 数年ぶりだけど、あの人たちが集まったときのテンションはちょっと。

 日が被ってるなら事前に教えてくれれば良かったのに。
 大方そうならこっちに来なくなると思って言わなかったのだろうけど。

 でもまあ、そんな悪いことは起こらないだろ。
 たいていの人は顔見知りだろうし、絡まれたら面倒かもしれないが俺もそこまで子どもってわけでもないし。

 知りたかったことについても、何か手がかりが掴めるかもしれないし。

つづく




 それで──。

 自分の前に配膳されていた食べ物はそのまま、大人たちの集まる所に行って、そこで食事をとることにした。

 いろいろと話を振られて、まあ適当に答えて。
 多くの人は酒を飲んでいて、テーブルの上には空き缶とジョッキが並んでいる。

 そのうち、俺があまりよく覚えていないのに気がついたらしい周りの人は自己紹介をし始めて、あー、こんな人もいたなあ、みたいな感想を抱いた。

 ……それもそのはず。

 うちの人(と言っても父親だが)は、親戚付き合いがあまり良くなくて、こういう集まりに顔を出したりはしない。

 昔はもう少しここに来ていたような記憶もあるが、お盆前とか、年越しから一週間が過ぎたあとだとか。

 いや、俺もはっきりとは覚えてはないから、決めつけは良くないのではあるが。

 あれも食べてこれも食べて、と取り皿に食べ物を沢山盛られて、奥からはエンドレスで米が出てきて。


 昨年は楓ちゃんが来たなー、と誰かが言ったのを皮切りに、その話で盛り上がりだした。
 いちご狩りに行ったらしい。聞いていない。

 今年は受験生なんで来れなかったみたいです、と俺が口を挟むと、あー受験生ね……なんていう地味な反応が返ってきた。

 多分何度か小さい頃に行ったことのある駄菓子屋の店主や、三軒先の気のいいおばちゃんの息子だったりは姉のことがえらくお気に入りのようで、
 姉の人当たりの良さというか、そこらへんは詳しく知らない一面なのかもしれない。

 ゆかりさんの危惧していた(?)ことにはならなそうで、
 なんだ、やっぱりからかわれただけなのか、と少し安心しかけたときに、がらっと奥の扉が開いた。

 その音の主は、どうもどうも、と言って部屋に入ってきて、俺の顔を見るなり、わかりやすく驚いた顔をした。

「おお、こっち来てたのか……。ひさしぶりだな」

「おひさしぶりです」

 急に話しかけられたもんだから、俺もその場に立ち上がって、軽く会釈をした。

「……おっきくなったなー、いまは高二だっけか」

「そうですよ」

「身長なんぼあんの? 俺よか全然でかいじゃんか」


「……えっと、でも180ないくらいですよ。そんなに大きいわけでもないというか」

「まあまあ、素直に喜んどけ。で、席は席は……っと」

 あらかた埋まっているなかから空席を探している彼に、たくさんの人が声をかけていた。

 彼──ハジメさんは、父親とゆかりさんの兄で、この家の長男だ。

 気を利かせた人が親戚らの集まるここにハジメさんの場所をつくったようで、結局彼は俺の向かいに座ることになった。

 そして暫くは、ここらの地域のことだとか、親戚付き合いのこととか、俺にあまり関係のない会話で盛り上がっていて、その間に机に残ったものを食べた。

 ちらっと、向こうに気付かれないようにゆかりさんとなぎさのいる方向を見た。

 声は聞こえないが、二人は楽しく談笑しているようだった。




「で、こっちには一人で来たのか?」

 不意に、俺に話題が振られた。
 慌てて箸を止める。

「いや、えっと……。あっちにいる子と二人で」

「あっち……って、ゆかりの隣の子か?」

「うん」

「……彼女か?」

「……付き合ってはなくて、学校の後輩の子……なんだけど」

「うーん、別に誤魔化さなくてもいいんだぞ」

「……」

「彼女のこと放ったらかしにするなんてダメじゃないか、ここに呼んできなさい」

「いや、まず彼女じゃないんで」

「いいから、呼んできなさい」


 話を聞かないのか、この人は。
 俺がここに連れてこられたのが問題であって、あっちに戻れば済む話なのではあるが、そういうことではないらしい。

 ……面倒、というか厄介だ。

 仕方がないから呼びに行くと、ゆかりさんが立ち上がって、ハジメさんの所へ行った。

「はるくん、どうかしたんですか?」

「あー……。なんか、女の子連れてきたんなら紹介しろ的な」

「え、っと……。そうですよね、私まだ誰にも挨拶してませんし」

「付き合ってるって勘違いされてるっぽくてさ」

 言うと、なぎさはふむと首をかしげた。

「それは、私とはるくんがですか?」

「そう」


「……じゃあ、彼女で通しましょうか?」

「……ばかか、おまえは」

「えー。まあ、いちいち訂正するのも面倒だなって思っただけなんですけどね」

 危うく本気にしそうになっちゃうだろうが。
 自分の素直さに呆れるばかり。

「あっち行かなくて大丈夫だよー。なぎさちゃんはわたしと楽しくおしゃべりするからって言ってきたから」

 ゆかりさんナイス助け船。
 さっきのってこういうことだったのだろうか。

「そうですか」

「じゃ、俺もここにステイしようかな」

「それはダメ。はるはあっちに戻りなさい」

「どうして」

「いいから」

 そう言われたらそう言われたで、また聞き返すのも忍びないので、特に考えず戻ることにした。


 そして、戻ってすぐ、お茶を飲み干して空いているグラスにお酒が注がれた。

「……」

 二度見する。
 普通にお酒だ。泡立ってるし、俺のグラスだし。

「飲んだらどうだ?」

「えっと、俺まだ未成年なんだけど」

「いいから」

 おお、初遭遇。
 保健体育の教科書にイラスト付きで書いてある親戚に酒を無理やり飲まされるやつ!

 心の中でテンションをあげてみたものの、余計飲む気にはならなかった。

「ひょっとして、まだ酒飲んだことないのか?」


 頷く。

 というのも、中学の時は知り合いで酒を飲んでいる人もいたが、高校は比較的真面目な人の集まる進学校であるから。

 コンビニで明らかに年齢が微妙な人もいるし(スルーして良いものなのか判断に困る)そりゃ探せば一定数はいるだろうけど、自分と関わりのある人は酒を飲んだりはしていないはずだ。

 まあ、まず法律的にアウトなことには変わりはない。

「高二にもなって? 友達と飲んだりしないのか?」

「しない、けど」

「はあ……。おまえもマジメちゃんかよ」

「……」

 そっちのほうがおかしいってのに、その言い方はどうなんだ。


 黙っていると、ハジメさんは呆れたようにため息をついて、俺を睨みつけた。

「ひさしぶりに会ったってのに。……ほんとそっくりだよな」

「……」

「そうやって困ると黙るところ、あいつにそっくりだよ」

 あいつ、か。

「あいつはどうしたんだ? こっちには来てないみたいだけど、どうしてだ?」

「……父さんのこと、ですか?」

「そうだ」

「父さんは、仕事忙しいから行けないって」

 言ってないけど。そうだろう。

「……まあ、そうだろうな。あいつのことだ」

「……」

 ……俺は、あまり真面目ではないと思っているし、今だって考えずに酒を飲んでしまえばいいのかもしれない。

 コミュニケーションと言われればそれまでで、半ば強要ではあるけれど悪気はないのかもしれない。


 でも、それを避けようとする、嫌に思うのはやっぱり内面ではどこか真面目であるからで、
 父親や姉だったら、こういうのは駄目だと言いそうだ、

 なぎさがいるから、変に酔って迷惑をかけることなんてできない、
 ゆかりさんはいるけれど一人きりにするのは申し訳ない
 と、いくつか要素があっても、つまるところ俺の精神性で、やめろと言っているのだと思う。

 どこかで誰かが必ず見ている、だから、悪いことはするな。

「また黙るのか。飲むのか、飲まないのか、どっちなんだ?」

 言いながら、ハジメさんは自分の酒を呷る。
 周りの人もみんな酒を飲んでいる。

 でも……。

「……お酒、ほんとダメだろうから。
 多分苦手だし、ごめんなさい、飲めません」

「はあ、おまえもつまらないやつだな」

「……」


「そんなふうにしてると、あそこにいる彼女にも、いつか愛想尽かされちゃうかもしれないぞ?」

 いいのか? と彼は嫌味ったらしく言う。

 今までのやりとりとそれとの間に何か関係があるのかは、まったく掴めない。

 ……わけでもない。彼の言いたいことはなんとなくわかる。

「頭だけはいいんだよな、あいつと同じで。それで、腹のなかでは他人を見下してる」

「……」

「その目だよ、その目。俺のことが嫌いか? こうなったのはおまえが原因だろうが」

 いつの間にか、睨みつけてしまっていたらしい。
 けれど、どうしてこんなことを言われなければならないのか、理解できなかった。


 俺に会ったら文句を言おうと決めていたとか、気に触ることばかりしてしまっただとか、考えればキリがない。

 父親とハジメさんの仲があまり良くないのは知っていた。
 でも、兄弟喧嘩の延長なら俺を巻き込まないでほしい。

 困った。
 モヤモヤする。

 考えると黙ってしまうのは本当だ。

 面と向かって誰かに悪口を言われるのはひさしぶりで、かなり気分が悪くなる。

 答えずにいると、彼は軽く舌打ちをした。

 こういうこと、だったのだろうか。

 父親と実家の人たちの不和。
 けれど、証拠が足りない。

 耐えきれずに目を奥に向けた。

 さっきと打って変わって、ゆかりさんと案外すんなり目が合った。

今日の投下は以上です




「ごめんなさい、付いて来てもらっちゃって」

「いや……ここ広いし、廊下暗いだろうから、しょうがない」

「……ありがとうございます」

「いいって」

「……あの」

「なに?」

「……ゆかりさんってエスパーなんですか?」

「ん?」

「いや、あの……。私がトイレに行きたいってよくわかったなって」

「ああ……。なんでだろうね、なぎさがめっちゃモジモジしてたんじゃないの」

「それはないです」

 おうよ。
 知ってるわ。


「ちょっと、疲れちゃいましたか?」

「……え?」

「いえ、疲れたような顔をしていたので」

「そんなこと……ない、と思うけど」

 あるから困る。
 疲労というよりは心労。嫌になる。

「……何かあったんですか?」

「ないよ」

「すぐ否定すると、逆に怪しいですよ」

「確かにそうだな」

 察しがいいのも困りどころだ。

「なぎさは……疲れた?」

「いえ、そこまででもないですよ。
 食べ物も美味しかったですし、ゆかりさんと話すのも楽しかったです」

「どんな話したの?」

「ヒミツです」

 じゃあ無理には訊かないか。
 と思ったところで、目的地に到着した。


「ここ、電気つけとくから、戻るときに消してきて」

「わかりました」

 じゃ、とその場から離れようとすると、彼女は俺の手をぐいと引っ張った。

「……」

 振り返ると目が合った。
 彼女は顔を赤くして俯く。

「あ、えと……。いや、なんていいますか」

「暗いの怖い?」

「え」

「いや、付いててほしいならここにいるけど」

 ……半分くらいは俺の願望なんだけど。まあ、これもしょうがない。

「……そういうわけじゃなくて」

「……」

「あっ、そういうわけじゃなくもないんですけど……」

「どっちだよ……」

 なぎさはうむむと唸って、もう片方の手をぶんぶんと上下させた。


 再び目が合う。今度は逸らされなかった。

 お互い深呼吸をした。なぜか同時に。

「──今日水族館で」となぎさが切り出した。

「ラッコが、いたじゃないですか」

「……うん? いたけど。それが?」

「二匹で、手を繋いで寝てました」

「……」

「ぷかぷかっと、幸せそうに見えました」

「うん」

「あれは流されないように、とか、コンブが水族館にないから、だとかが理由らしいです」

「そうなんだ」

 初耳。

「です……けど。でも、それよりも……。どう言うのが正解なのかわからないですけど。
 手を繋いでると、安心しませんか?」

「……」


 どうだろう。

 答えあぐねていると、ふうっと息をつく音がした。

「……おまじない、みたいなものです。
 あとは一人で大丈夫ですから、戻ってていいですよ。
 付いてきてくれてありがとうございました」

 そう言って手を離されて、バタンとドアが閉まった。

 個人的に何か理由を付けて待っていても良かったのだが、女の子が入っているトイレの前にいることが少し気恥ずかしくなって、戻ることにした。

「おまじない、か」

 歩きながら、そう呟いてみた。
 でも、あまり釈然としない。

 なんだかひどく、頭がいたかった。
 あっちに戻って、また同じようなことを言われたらどうしようか。

 彼が言いたかったのは、うちの両親のことだ。

 逃げられた。
 ……違う。

 きっと、みんな知らない。
 父さんからすれば、仕方がなかったのかもしれない。

 詳しくは訊けなかった。
 申し訳ないから、思い出したくないけれど、いろいろなことがあったから。


 部屋に戻ると、食事は既に片付けられていて、人の数がかなり減っていた。

 三つ並んでいた長机は、一つの大きな円卓に変わっていて、それを残った人が取り囲んでいる。

「おかえり」

 ゆかりさんに手招かれて、端に腰掛けた。

「なぎさちゃんは?」

「まだトイレ、行くまでにちょっと話してたから」

「そっかそっか」

「人減ってない?」

「なんかね、温泉行くって言ってみんなで出てっちゃった」

「そう」

「……わたしたちも行く? ちょっと遠いけど」

「いや、いいよ」

 疲れているから。

「ゆかりさんは、お酒飲まないんだ」

「うん。すぐ酔うから弱いし、お酒は苦手なんだよー」


「でも、常に酔ってるみたいじゃん」

「うぐっ、それ同僚の子にも言われたことある……。
 うちの人で、お兄ちゃんとわたしだけ全然飲めないんだ」

「……父さんは、うちに帰ってきたときは飲んでるけど」

「ほんと?」

「うん」

「そっか……。うーん、苦手じゃなくなったのかな?」

「……わかんないけど、少なくとも前よりは」

「まあ、はるは絶対飲んじゃダメだよ」

「……なんで?」

「両親ともに苦手なら、絶対子どもも苦手でしょ」

「遺伝?」

「下戸かどうかは、遺伝あるらしいって聞いたことあるよ」

「そうなんだ」

 時計は二十二時過ぎを指していた。
 知らないうちにかなり時間が経っていた。


 集まりのほうに目を向けると、一人一人立ち上がって、選手宣誓のようなことをしていた。

 よく見ると、残っていたのはさっきまで俺の周りにいた人たち。
 つまり、町内会や近くに住んでいる人たちが多く残っていた。

「あれ、何やってるの?」

「……いつもやってるけど、なんだろうね?」

「……ゆかりさんは混ざらないの?」

「えー、やだよー。ムリムリ。
 今日も『うちのとお見合いしないか?』って何回もいろんな人に言われて……」

「それ自慢?」

「……いや、かなりヘコんだって話」

「そうすか」

「うん、この話はいいとして……。なぎさちゃん遅くない?」

「見てこようか?」

「……わたしが行くよ」

「そう? じゃあ、よろしく」

 びしっと敬礼みたいなポーズをして立ち上がって、ゆかりさんはそろそろと部屋の外に出て行った。


 あ、と。
 一人になったことに気付く。

 ぼーっとあっちの様子を眺める。

 中年くらいの人が大きな声で自己紹介をしたあと、コップの飲み物を一気飲みして、そのあとにみんなで拍手。

 地獄か、あれは。部活の朝練じゃないんだからさ。

 ここで出て行く素振りを見せようものなら、当然のように引きとめられて酒を飲まされる未来が見えてきた。

 何というか、想像力だけは豊かになっているらしい。
 この時間になって頭が冴えてきたような気もする。

 とりあえず、壁にもたれかかって地蔵になることにした。

 こんな時にすることといえば瞑想。
 でもすぐ飽きる。経験談。

 姉は家に一人で寂しがってないだろうか、なんて。
 比較的ポジティブな想像。よりも妄想。

 あー、とりあえず姉に連絡入れとくか。

 にしても遅えな……。
 どっかに散歩にでも行ってるのか。

 荷物の中から本か何かでも持って来れば良かった。ズボンのポケットに入れっぱなしにしたスマートフォンを取り出すのも何だか気が引けた。


「どうしたの?」

 声をかけられる。
 昔聴いたことのある声。

「……どうもしないですけど、することもないので」

「あ、そう……。ゆかりとなぎさちゃん? は、後片付け手伝って貰ってるけど」

「薫乃さんは? サボり?」

「いやいや。私は休憩、仕込みとか大変だったんだよ」

「そうなんですか」

 この人も、久しぶりといえば久しぶりなのか。

「もー、無愛想だなあ。久しぶりに会うのに」

「はあ……」

「にしても、彼女連れてくるなんて!」

 まあ、そうなるよな。話題らしい話題もないし。

「いや、彼女じゃないです。なんでかいろんな人に勘違いされてるみたいですけど」

「そうなんだー。ま、若いときはそういうことあるよね」

「……」

「一緒に登校してるのを見られるとか、学校で話してるのを見られるとか」

「リアルですね」


「何度も言われてると、そのうち満更でもなくなるやつ、経験ない?」

「ないです」

 あります。

「……ていうか、おばさんとする会話じゃないよね」

 はあ。反応に困る。

「……薫乃さんの経験談?」

 何てことのない軽口。
 なのに、目が合うと彼女は目を泳がせた。

「……いや、そうじゃないけど」

「……」

 墓穴。なのか? よくわからない。

「あのさ……」
「おい、そこにいる二人。こっちに来なさい」

 薫乃さんが口を開くと同時に、向こうにいるハジメさんから呼び出される。

 見つかった、というか、見てはいたんだろうけど、薫乃さんといるのを見て話しかけてきたらしい。

 薫乃さんの肩がびくっと跳ねる。
 そして、俺の様子を気にするように、そーっとこちらを見つめてきた。


「別に、大丈夫だと思うよ」

 ぼそっと、薫乃さんにしか聴こえないような声で返答した。

 今回はゆかりさんの助けはない。
 逃げるようにしたのも、バレバレだったとも思う。

「……で、だ」

 パンパン、とハジメさんが手を叩く。
 つまみとともに酒を飲む人たちの手が止まる。

「あいつはどうした?」

 彼は俺に、まっすぐと問いかける。すぐに俺に注目が集まる。
 のっけからさっきの続きを話そうか、ということか。

「さっきも言いましたけど、仕事とかで忙しいんだと思います」

「この季節に? 親戚が集まっているのに?」

「……」

「楓ちゃんは?」

「家にいると思います」

「一人で?」

「はい」

「じゃあ、普段は家にずっと二人なのか?」

「……そうです」


「ほら、話した通りじゃないか」

 そう言うと、周りにいた人たちが苦い顔をする。
 憐れむような目で見つめられて、気分が萎える。

 いや、まだ大丈夫なはずだ。

 後手を踏まなければ、或いは。

「姉弟どっちもまだ高校生だろ? それに、楓ちゃんは受験生らしいじゃないか」

「……」

「子どもを放置するなんて、悪い親だな」

 どっちみち、答えようがない。

「……おまえはどう思ってるんだ?」

「どうって……」

「嫌いなんだろ? おまえも、あいつのことが」

 おまえ"も"。

「こっちに帰ってこない。帰ってきても顔を合わせようとすらしない。
 そっちに出て行ったっきり、そのままだ」

「……」

 ため息が出そうになる。


 答えようがない質問で、でも答えないと嫌な顔をされて。

 形だけ見れば正論をぶつけられていて、余計タチが悪い。

「……薫乃だって、そう思うだろ?」

「え?」

「薫乃、どうなんだ?」

 急に矛先が薫乃さんに向かった。
 薫乃さんと父親は、何か特別な接点でもあったのだろうか。

「私は……別に」

「別にって、別になんだ?」

「……」

 薫乃さんは押し黙る。
 わけがわからない。

 目の前で自分の親のことを悪く言われている。
 深い苛立ちのようなものを感じる。今まで言われたことが無かったからだろうか。

「……私、ちょっと戻ってます」

 沈黙を破るように、薫乃さんはそう言ってから立ち上がり、そそくさと扉の方へ向かっていった。


「どう思うよ、ハル」

「……何がですか」

「あいつは、ここにいる人全員を見下してるんだ。
 自分の世界に入り浸って、不都合になるとすぐに切り捨てる。田舎を捨てたのだってそうだ」

 ……。

「おまえの母さんだって、愛想を尽かして出ていっちゃったじゃないか」

「……」

「可愛らしい奥さんだったのに、あいつのせいで。
 奥さんを連れてこようともしない、結婚式だってしなかったじゃないか」

 ……そんなの知らねえよ。

 母さんのことを言われると、迂闊に反論はできないし、彼の言い振りから、やはり此処にいる人は誰もわかっていないのだ。

「子どもは親を選べないからなあ」

 俺のことは御構い無しに、矢継ぎ早に言葉を投げかけられる。

 周囲の人もうんうんと頷く。


「おまえも、あいつに似てきたな。
 やっぱり親子だ、そっくりだ」

 似ている。そっくりだ。さっき言われた通りのことだ。

 確かに、あんな親にはなりたくない、と思ったことはある。
 というよりも、思っていた。

 でも、何故か今の俺は苛立ちを募らせていた。

 二人では広すぎる家、不安定になった姉、半ば自暴自棄になった俺。

 おかしいのは自覚していた。言われなくともわかる。姉だってわかっている。

 誰か助けてくれればいいのに、母さんがいてくれればいいのに。

 家にいるのが気持ち悪いと思うようになって、平穏が訪れたかと思えば、その代償は大きくて。

 どうして、またこんなことを考えなければならないのだろう。


「どうしておまえは、母親のほうに付いていかなかったんだ?」

 耐えろ、やめろ。

「……まただんまりか。あの親にしてこの子有りだな」

 頭が痛い。

「そういえば、あの子再婚したんだってな。
 結果的には良かったじゃないか、あいつから離れられて。今は凄く幸せなんじゃないか」

「……」

「楓ちゃんが可哀想だ、あんなにいい子なのに、こんな家族の中にいて」

 ぐらり。
 何かが歪むような音が聴こえた。

 偏頭痛のような痛みと、胃の中の物を吐き出してしまいそうな不快感。

 いつの間にか、拳を強く握ってしまっていた。

 俺は、それだけは言われたく無かったのかもしれない。

 俺のせい、俺が悪い、俺が我慢できなかったから。
 そう言われているようだった。


 父さんは、母さんに捨てられて。

 ……違う。違うんだ。

『わかった、なんとかする』、と酷く気落ちしたような表情と声音で言われて、一人で解放されたような気分になってしまって。

 父さんに内緒で母さんと会っているのだって、罪滅ぼしのつもりだった。
 今は少し、変わってきているのかもしれないけれど、ちょっと前まではそれ以上でもそれ以下でも無かった。

「伯父さん」

 無意識に、そう口に出していた。

「なんだ?」

 挑発的な態度をひけらかすように、彼はにんまりと嫌な笑みを浮かべる。

 ……ああ、わかってしまった。

 伯父さんは、ここにいる人は、俺のことをよく思っていない。

 さっきから感じていた違和感は、そういうことだったのか。

 俺は、彼らから見て、"そういう存在"なんだ。
 糾弾すべきもの。悪い親に似てしまった子。

 そう見られているんだ。


 それは忠告か。それとも、単に俺にストレスをぶつけているだけなのか。

 間違いなく、後者だろうな。

 考えてみても、心配なんて、された試しが無かった。
 本当に俺らのことを案じて、悪い環境にいると知っていたなら、何かしてくれたはずだ。

 住んでる場所が違う、父親と疎遠になっていた。

 何か関係があるのだろうか。

 父親への負の感情を置換して、俺にぶつけようとしている、ただそれだけではないか。

 人を殴るような経験は無い、が……。
 でも、握られた拳は、正座の後ろで床を鳴らしてしまいそうなくらい震えている。

 落ち着け。
 ……冷静になれ。

 真意が汲み取れて、なおも相手にする必要があるか。

 俺以外に迷惑がかかる。ただでさえ悪い付き合いがさらに悪化してしまう。

 ──なら、取るべき行動は一つだけじゃないか。


「……お酒、貰っていいかな」

「うん? なんて?」

「だから、俺も、もう子どもじゃ居られないから。お酒、飲んでみたいなあって思ったんです」

「……ほ、ほう。じゃあ、これ飲んでみなさい」

 コップを渡されるなり、躊躇せずに飲み出した。
 社会の基本、一気飲み。あー、意外といけなくもない。無理してテンションを上げようとする。

「もう一杯、お願いします」

 ハジメさんと周りの人は唖然として口をぽっかりと開けていた。

 差し出したコップに、次は日本酒が注がれた。

 それも間髪入れずまた飲み干す。

「美味しいですね……みなさんは飲まないんですか?」

「あ……じゃあ、飲みましょうか……みなさん」


「おかわり、もう少し下さい」

 話を聞かない人に対しては、俺も取り合わないのが得策だろう。

 お酒の味なんて全く感じなくて、美味しいも不味いも好きも嫌いもよくわからない。

 ただ、このひと時でのその場しのぎは、どうにかなった……はずだ。

 周りの人は少しずつばらけていって、時を同じくして何人かがこの家に戻ってきて。

 話が弾んでいる。らしい。
 どうでもいいことは聞き流す、注がれたものはとりあえず口に流し込む。

 ……あったまいてぇーな。

 つーか、やっぱ無理だろこれ。
 五杯目? いや、もっと飲まされたかも。

 頬が熱い、頭痛が酷い。

 部屋の明かりがやけに眩しい。

 ぐるぐると目が回る。

 まだハジメさんは俺に何か話しかけてきているのに、頭が働かなくて。

 扉のほうから声がして。ドタドタと近付いてくる足音がして。

 肩を掴まれる。

 頑張って顔を上げようとしたけれど、うまく身体が動かなくて、支えられた側に倒れてしまった。

 ……慣れないことなんて、するもんじゃないな。




 涼しい。

 季節は夏。そんでもって今は夜か。
 虫の鳴き声と、心地いいような風。

 嫌な夢を見たような気がする。
 覚えていないけれど。

 どうでもいいことばかり頭に浮かぶ。

 目を開けて、まばたき。
 身体(特に節々)は痛いけれど、起き上がるくらいなら。

「起きた?」

 顔を覗き込まれて、手には団扇。
 ゆかりさんだ。

「う……」

 喉痛い。

「どうしてここにいるか覚えてる? 気持ち悪い?」

「びみょう」

「……お酒飲んだんだよー。わたしが行ったら、はる倒れちゃって」

「あー……」

「どれくらい飲んだの?」

「えっと……六? 七くらい」


「……吐きそうとか、暑いとかないよね」

「うん。多分だけど、大丈夫」

 胃の不快感はあるが、昇ってきそうなほどではない。
 寝げろ、もしてないっぽいし。

「……何が、あったの?」

「まあ、いろいろ」

「……」

 あまり思い出したくない。
 顔にそう出ていたのか、ゆかりさんは視線を下に落として、軽くため息をついた。

「わたし、お酒とか夜食とかの買い出し頼まれてて、もう行かなくちゃならないんだけどさ」

「うん」

「ここに一人で大丈夫?」

「……なぎさは」

「あー、えっと。お手伝いしたいって言うから、いろいろやってもらってる」

「……客なのに」


「い、いや……。あの子わたしよりも料理上手だったし、家事とか好きなんじゃないかなと」

「……」

「……お母さんも、張り切っちゃってね」

 実際、俺もこの状態では会いたくない気持ちはあるから、助かっているのかもしれないけれど。

 あの場になぎさは来ていなかったようだし、そこはゆかりさん達に感謝しなくてはならないのではあるが。

「俺も買い出しについて行っていいかな」

「うーん……動けるなら、いいけど。酒屋までは距離あるからだいぶ歩くよ」

「……ゆかりさん飲んでないなら、車でいいんじゃないの」

「や、わたしも……チューハイ一本か二本くらい飲んじゃったから」


「……まあ、とにかく歩くのは大丈夫っぽいから、付いてくよ」

 立ち上がってみせる。

 立眩み。ふらつく。

「だめじゃん」

 苦笑される。
 自分でも乾いた笑いが出た。

「しゃあない。歩いて回復、これ基本」

 よくわからないことを言っていた。

「……倒れたりしないでよね、運べないから」

 そう言って、ゆかりさんも立ち上がった。

 許可は出たらしい。

「ゆかりさんもフラついたりしないの? お酒弱いんでしょ」

「なっ……。いや、さすがに、ほろよい二缶ではならないし!」

「まあ、そこらへんはよくわからないけど、行こっか」

 歩き出すことにした。
 時刻は二十四時近く。

 さっき時計を確認した時から、そう時間は経っていないのに、
 寝てたからか、なんなのか、日付が変わっていないことに驚いた。

本日の投下は以上です




 いいかげん起きているのにも慣れてきて、眠さは消え失せかけていた。

 今まで何してたの? と問われて、姉さんと電話してたと答えると、
 面白いものを見たかのように笑われた。釈然としない。

 少し歩いた後に、襖の前で立ち止まる。

 彼女は取っ手に手をかけて、何やら少しだけ逡巡したような顔をして固まった。
 かと思ったら数センチ程襖を開けて、中を覗き出した。

「なにやってるんですか」

「……いや、いやあ……うん」

 歯切りの悪い返事なこと。

「ハルが開けて」

「いいけど、誰がいるの?」

「うんと……料理作ったりしてた女の人たち? 薫乃さんとか」

「……で、なぜ俺が」

「いいから。どうぞ?」

 しっしっ、早く開けちゃいなさいとでも言いたげなジェスチャーをされた。

 変に探るのもアレなので、一思いにがらっと開けてみる。


 がばっと、効果音をつけるならそんな勢いで抱きつかれた。

 そんなことをまったく予期していなかったからか、体勢が崩れる。

「うおっ……と」

 後ろに押し倒されるようなかたちになって、尻もちをついた。

 にぱーとした笑顔。楽しそうに上気した頬。
 ……酔ってるな、こいつ。

「せんぱい、おかえりなさい」

 呼び方がいつものに戻っている。

 馬乗りになって抱きしめられる。
 いろいろなものが当たるけれど、平常心、平常心だ。

「ゆかりさん、ちょっと助けて」

「あ、席はっけーん。すーわろっと」

 スルー。閉められた。

 目線を下げてなぎさを見ると、ぶすっとした拗ねたような顔をしていた。

「……どうしたの?」

「おかえりって言われたら、ただいまって言うべきだと思うのです。
 ほら、言ってください」

「……ただいま?」

「よろしい」


 抱きしめる力が一層強くなる。
 小悪魔的な微笑み。この女、底が知れない。

 そして、匂いを嗅ぐかのように顔を押し付けられた。

「あのさ……」

「なに?」

「ちょっと、退いてくれないかな」

「それって」

 彼女はぷくーっと頬を膨らませる。
 なんていうかこう、今は幼児退行しているのか?

「わたしが重いってことですか!」

「ちがうちがう……。床で背中がいたいといいますか」

「ふふっ……じゃあ、頭を撫でてくれるなら、いいですよ?」

「……中入ったらするから、ひとまず立ち上がろ?」

「えへへ……はーい」

 なんだ、思ったよりもあっさり立ち上がった。
 俺も立ち上がって、ふらふらして足元のおぼつかない彼女を支えながら部屋に入った。


 空いている席はゆかりさんの隣で、なぎさと並んで座った。

「……あの、お酒飲ませたんですか」

 俺は飲んでしまったけれど、彼女が飲むのはまた違うと思う。

 別に彼女がいいと言うなら俺が干渉する必要もないが、今は預かっている身だ。
 彼女の親御さんに任された以上、何か間違いがあってはならない。

「ごめんね、でも、飲ませたわけじゃなくてね……」

 薫乃さんが申し訳なさそうに呟く。

「……未成年ですよ? こいつ。それに、もうベロンベロンに酔ってるみたいだし」

「こいつってなんですか」

「……ちょっと静かにしてて」

「なぎさ、とお呼びなさい。べ、べつに呼びたいならなぎちゃんでもいい、けど……」

 キャラが定まってない、というかブレブレだ。

「なぎさ、静かにしてて」


「じゃあ、代わりに撫でなさい。言ってましたよね」

 さっきから、命令口調が多くなっている。
 隠れ女王様気質か?

 仕方がないので頭を撫でると、彼女は、ぁー、とか、ゃー、とか鳴き声のようなものを発して、逆に落ち着かなくなった。
 その姿はまるで犬のようだ。みたらし撫でたい。

「……そう言われてもさあ、飲んじゃったのは仕方がないんじゃない?」

「その発言、教育者としてどうなんですか」

「まあまあ、だって、なぎさちゃんが飲んだの、これだよ?」

 コップを指さされる。

「このコップの……」

「……」

「半分くらい?」

 なぎさが頷く。

 えっと、マジか……。

「ここまで弱いのは初めて見たよ。
 ほろよい三口かあ……」

「ゆかりさん、感心しないでください」


「……さすがに飲ませるのは悪いと思ったから、カルピスを出したのよ。
 そしたら、間違えて別のコップのお酒を飲んじゃったみたいで」

 薫乃さんは依然として申し訳なさそうだ。
 そういう顔をされると、責めているみたいに感じられて萎縮してしまう。

「色は同じだしね」

 それなら、まあ。
 いや、でも……。

「……とりあえず、事故なら仕方ないですけど、俺も責任取れないですし」

「……うん、わかったわかった。ごめんね?」

「俺に謝られても……まあ、はい」

 俺もさっきはかなり飲んだと思うけれど、気合と勢いでどうにかなっただけで、最後にはぶっ倒れてしまったし。

 隣の彼女を見ると、いたずらっぽく笑って、テーブルの上のコップに手を伸ばした。


「もういっぱいのみます」

「やめとけ」

「どうして? こんなにぽわぽわして気持ちいいのに」

「だめなものはだめだ」

「せんぱいだって、たくさんのんだって聞きました」

「……あれは、止むに止まれぬ事情があってだな」

「じゃあ、わたしも今はそのやむにやまれぬじじょうってやつです」

 呂律が回ってない。聞き取れるほどではあるけど、危ない気もする。

 俺が返答に困っていると、なぎさはそのままグラスを掴んで口元に持っていく。

 黙って見ていても埒があかないので、ばしっとコップを奪い取った。

「いたっ……」

「もう飲むな」

「うー……。せんぱい手きびしいです……」

 拗ねたように言って、何を思ったか、俺の腕に手を回してきた。

「じゃあ、くちうつしでいいから、はい」

 口をんー、と近付けてくる。
 近い。

「ぶはっ……」

 ゆかりさんが吹き出した。

「……ストップ、ちょい、待って」

「くちうつしー」

 すんでのところで避けて、手のひらでガードすると、そのまま手に唇を当ててきた。


 コップを彼女から見て遠くに置いて、反対の手で頭を撫でると、また少し落ち着かないながらも静かになった。

「あんたたち、いつもそんなやりとりばっかしてるの?」

 と、薫乃さんがのたまえば、

「気になるー」

 と、ゆかりさんが同調してくる。

 仲良いな、この人たち。
 悪ノリだからか? すごく困る。

「なわけないでしょ」

「それにしては、随分と好かれてるんじゃない」

「うんうん、かわいい酔い方だし」

「それはゆかりがちょっと飲むだけで気持ち悪くなっちゃうだけでしょ」

「いいなー薫乃ちゃんは、お酒強いし」

 そのまま二人で話しててくれ、と思ったが、そうはいかないのはあたりまえで。


「キスはもうしたの?」

「してない」

「な?」と、同意を求めて彼女を見ると、赤い顔で首をかしげた。

「キス、キス……。ありますよ?」

「は」

「なんだー、あるんじゃん。嘘つかなくてもいいのに」

 このこのー、と隣から脇腹をつつかれる。
 本気で記憶にない。

「まじで覚えてないんだが」

「うーわー、さいてー」

「……ちょっとまって、混乱してる」

 もう一度なぎさを見ると、ぺろっと舌を出してにやりと笑った。

「しちゃえば? くちうつしくらいならいいんじゃない?」

「いや、こういうのって意外と記憶に残ってて朝後悔するやつじゃないの」

「ワンナイトラブ?」

「いや言い方でしょ」

 勝手な人たちだ。

「いや、本当に、キス自体まだというか。
 誰ともしたような記憶がないんだよ」

 俺の必死の訴えに、ゆかりさんは口元に手を置いて考えるような仕草を見せた。


「えー、でも昔はよくしてたじゃん」

「昔?」

「うん、ちゅっちゅって。見てて微笑ましかったしー」

 何も覚えていない。
 するって言ったって相手は限られてくるけれど。

「誰と?」

「楓」

「は? え?」

「薫乃ちゃんも見たことあるよね?」

「あるある」

 待て。ちょっと待て。
 昔、覚えてないくらい前には違いないが、実の姉にだぞ。

 仲は悪くはなかったけど、そこまで良くもなかったし。

 姉の顔が浮かぶ。薄めの唇。
 いや、なんて想像してるんだ俺は。

「まあ、楓にはほっぺだったけどね」

 なんだ、ほっぺか。
 ……て。

「ほっぺでも十分問題だと思うんだけど」

「昔は肉食系だったんじゃない?」

 呆れる俺をよそに、二人は笑う。


「なぎさちゃんのこと、どう思ってるの?」

「どうって……」

 そういう問いかけは、後で気まずくなるからやめてくれよ、
 と思って隣を見ると、彼女は俺の腕にしがみついたまま目を閉じていた。

 耳をすますと、すーすーと寝息が聞こえる。

 ……寝ちゃったか。
 いや、寝てくれて助かったかもしれない。

「どうも、思ってはないけど、よくわかんない……」

「何がわからないの?」

 薫乃さんが食いついてきた。

 ゆかりさんは半分冗談、下手すりゃ九割くらい冗談で言ってきたんだろうけど、薫乃さんの瞳は真剣みを帯びていた。
 その形相に、ゆかりさんも少し戸惑ったような雰囲気で俺をちらりと見た。

「……それも、あんまりよくわからない。
 わからないのがわからないというか、無理にわかろうとすると、逆にいろいろ見えなくなってしまう気がして……」

「そっか……」

「はい」

 納得しない様子で、薫乃さんは何度も頷いていた。
 どうして、こんなことを訊いてきたのだろうか。


「それにしてもさ……」とゆかりさんが口を開く。

「なぎさちゃん、かわいいよねー」

「……」

「寝顔かわいい、写真撮りたいくらい」

「撮ればいいんじゃない?」

「えー……じゃあ、失礼して」

 パシャリと一枚だけ写真を撮った。
 ほんとに撮るんだ。

「ていうかさあ、ちーちゃんの写真ないの?」

「ちーちゃんって?」

「……千咲ちゃん? ほら、ハルの家の近くの」

「ああー! 昔こっちに遊びに来たわよね」

「で、ハル。持ってるの?」

 どんな魂胆が、とは思ったけれど、
 成長した姿を見たいとか、そんなもんだろ。

「あるけど……ちょっと待ってて」

 スマートフォンを操作して、最近撮った写真を見せた。
 千咲が勝手に撮ったものだが、多分よく撮れてると思う。


「えー、ちっちゃくてかわいいー。
 ……今も、同じ高校なんでしょ?」

「うん」

「なぎさちゃんと、ちーちゃん、そんで楓も。
 かわいい子しか周りにいないじゃん」

「……そう言われてみれば、そうかも?」

「……ハーレム?」

「いや、姉さんが入るのはおかしい」

「じゃあ他の二人は……ってこと?
 ハルくんもやりますなあ……」

「……あの、違う。そんなの考えたこと、ないし……」

「あー! 動揺してる動揺してる!」

「……」

 ゆかりさんもなかなかの悪酔いだ。
 正面でにこにこしている薫乃さんもお酒強いなら止めて欲しいくらいだ。

 それから、主に千咲となぎさのことでいじられたり、朝に(盗)撮った写真を見られたりしていると、薫乃さんが立ち上がった。

 どうやら、向こう側の席で飲んでいた人たちを寝所へ連れて行くらしい。

 通り過ぎる女の人たちに、おやすみなさい、という言葉とともに、温かな目で見られた。
 俺もおやすみなさい、と返すものの、ちょっとだけ猜疑的に見てしまった。


 そういうわけで、部屋に三人になる。

「寝てるんだし、ちゅっとしちゃえば?」

「またそう言って……」

「ごめんごめん。冗談だからさ、そんな怖い目で見ないでって」

 けたけた笑われる。
 怖い顔になっていたのか、全く気がつかなかった。

「……ねえ、さっきの話、聞くよ」

「さっきの……うん。なら、先にシャワー浴びてきなさい。
 わたしはなぎさちゃんをお風呂に入れてくるから」

 なぎさは寝ているし、他に誰もいないし、ここでもいいのでは。
 そう思ったけれど、なぎさをこのまま寝かせるのは申し訳ないってことか。

「……わかった、ありがとう」

「うん、じゃあ背負いますかー」

 彼女は立ち上がって、なぎさを引っ張り上げる。
 するりと簡単に腕が抜けて、少し名残惜しさのようなものを感じた。

「……またあとでね」

 ひらひらと手を振って、ゆかりさんは部屋をあとにした。


 しばし一人で部屋にいて、空き缶やコップを中央に集めていると、薫乃さんが戻ってきた。

「あ、後片付け、しててくれたんだ」

「うん、軽くだけど」

「ありがとう」

「いえいえ……」

 缶に少し残ったお酒を「飲む?」と言われた。
 間髪入れずに断ると、薫乃さんがそれを飲んでいた。

「……さっき、ごめんなさいね」

「……さっき?」

「あの人が、……その、あなたのお父さんを、悪く言ったとき」

「……んと、まあ、大丈夫ですよ」

 大丈夫ではないけど、気にされるのは気分が良くない。

「そ、っか。それなら、いいんだけど……」

 むしろ、薫乃さんの様子がおかしかったようにも思える。

「あのさ……」

「はい」

「……お父さん……元気してる?」

「父さん、ですか……。多分、元気だとは思いますよ」

「そ、そっか……」

 少なくとも身体面の異常はないだろう。
 予想で言ったことだったけれど、彼女はほっとしたようだった。

 それからは、会話らしい会話もなく、二人で黙々と片付けを進めた。




 アルコール。風呂。
 余計にのぼせてしまっているような気分だ。

 ふと思い返すのは、あの夜のこと。

 千咲に対して、何も言えなかった夜のことだ。

 離れて行って欲しくはない。
 でも、近すぎても、距離感を間違えてしまう。

 練習をちらっと見ただけであんなに動揺するのだから、遠征中の試合に影響が出ていないだろうか?
 もし出ているとしたら、どうにも申し訳が立たない。

 けれど、千咲はまた、なにもなかったかのように接してくるだろう。
 その優しさが、どんどん蓄積されていって。反対に、千咲はストレスを溜めているかもしれない。

 考えれば考えるほど、自分が最低に思えてくる。

 寝る場所はやはり同じだった。

 隣で寝るとこの前みたいなことが起きかねないから、懸命に壁の方へ布団をずらした。

 玄関に向かう際に、広間の前を通ると、まだ少し話し声がした。
 電気は薄暗くついていて、おそらく大半の人は寝てしまっているのだと思う。


 外に出て、待ち合わせの場所に行くと、ゆかりさんはもうすでにそこにいた。

「やあやあ」

 隣に座るように促される。
 どこの公園にでもありそうな、木製の長いベンチ。

「ごめん、遅かった?」

「ううん、わたしも今来たとこ」

「……初デートみたいな会話だね」

「まあ、そうかも」

 ミネラルウォーターを手渡された。
 外気は蒸し暑さを感じる。

「……続き、聞くよ」

「うん……。どこまで話したっけ?」

「うちの両親の、離婚の原因について」

「うんうん。わかった、じゃあ、話すね」

 ちょっと怖かったけれど、気にせずに頷いた。


「まず、お兄ちゃんと薫乃ちゃんがどういう関係か知ってる?」

「……お兄ちゃんが、父さんのことなら、何も知らない。
 薫乃さんもこっちの人ってことぐらいかな……?」

「二人はね、同い年で、幼稚園から高校までずっと一緒だったんだよ」

「そうなんだ」

「それで、二人はすごく仲が良くて、わたしもよく三人で遊んでもらってた」

「この話、関係あるの?」

「うん、ちゃんと関係あるよ。でね、わたしにとっては二人は、優しいお兄ちゃんとお姉ちゃんだった」

「……そっか」

「話は戻るけど、お兄ちゃんが結構もてたって話したじゃない?」

「うん」

「でも、特定の相手は作らなかったし、全部断ってた。
 理由は簡単で、薫乃ちゃんのことが好きだったから」

「……」

 父さんが? 薫乃さんを?
 いや、それは……ありえないとは言えないけれど、考えてみたこともなかった。


「薫乃ちゃんも薫乃ちゃんで、お兄ちゃんのことを好きだったんだと思う。
 今更確認なんてできないし、あの頃はわたしも小学生くらいだったから、想像にすぎないんだけどね」

「薫乃さんも……」

「けれど、両想いなのに、お兄ちゃんも薫乃さんも告白したりはしなかった。
 何も言わなくても近くにいるような関係で、わたしも二人はずっと離れないって思ってた」

「……どうして?」

「お兄ちゃんは、多分怖かったんだと思うの。
 一旦付き合っちゃって、ちょっとした喧嘩とかで亀裂が入ったら、今まで通りなんて言えなくなるじゃない?」

 幼馴染。距離を詰めるのが怖い。

「薫乃さんのうちと、かなり前から親交があったのも、原因の一つだと思う」

「……」

「お兄ちゃんは、そっちの大学に進んだじゃない?」

「うん」

「ここらへんの高校は、お世辞にも大学進学するような高校じゃなくて。
 お兄ちゃんは勉強ができたから、そっちの大学に行ったけど、他の人とは離れ離れになっちゃって」

「……そうなんだ」


「お兄ちゃんは、やりたいことがあるから、って言ってた。
 そこでしかできないことだから、離れても仕方がないって」

「……」

「でも、うちの両親は、大学を出たらこっちに戻ってくるって思ってて、
 そのまま会社を継いでくれるって信じてたみたいなの」

「それが、期待されてたってこと?」

「うん、けどね、お兄ちゃんはそんな気はなかった」

「……まあ、そうだろうけど」

「お母さんとお父さんは、どうにかしてお兄ちゃんをこっちに連れ戻そうとしたの」

「仕送りを止めるとか?」

「ううん。お兄ちゃんは、バイト掛け持ちして、自分でお金を稼いでたから」

「……それって、つらくない?」

 そんなの、聞いたことがない。

「つらいに決まってるでしょ。でも、お兄ちゃんはそうしてた」

「じゃあ、その手段って?」

「……こればっかりは、一番最低な方法だと思うの」


 手段を選ばないとして。
 どうにかして連れ戻す。ここにしか無いもの。ここにしかいない人。

「……薫乃ちゃんをね、その手段に使ったの」

「それって……」

「そう、こっちに帰って来たら嫁に出すとかなんとか言って。
 お兄ちゃんの気持ちは、みんな薄々気付いてたから」

 悪趣味すぎないか、それは。
 人の気持ちを知ってて、それを大人の事情で使うなんて。

「予想だけど、お兄ちゃんは、ちゃんと仕事について稼げるようになったら、薫乃ちゃんに気持ちを伝えようと思ってたんだと思うの」

「……」

 家にとらわれずに、か。
 そういうところが父さんらしい、と思ってしまうのは何故だろうか。

 生まれ持ったものではなくて、体得したものに意義がある。

 それを示したかったのかもしれない。

「お兄ちゃんは揺れてた。ずっと好きだった子を人質に取られて、それで、その頃は特に用も無いのにうちに頻繁に帰ってくるようになってた」

「でも、薫乃さんを呼ぶっていう選択肢はなかったの?
 その……駆け落ち、って言うと聞こえはヘンかもしれないけど」

 ありそうな考えを口にしたが、ゆかりさんは首を横に振った。

「……ないよ。お兄ちゃんの性格なら、そんなリスクのある行動に出るはずない」

「まあ、そうかもしれないけど……」


 言った自分が何だが、俺だってそうすると思う。
 リスクヘッジは常に頭に置いておかなければならないもので、
 薫乃さんのことも考えれば、ここを捨てるのはあまりにも悪手すぎる。

「でも、薫乃さんは何も言わなかったの?」

「……うん。言いなり、これは仕方のないことなんだけどね」

「そうなんだ」

「……でね、そうこうしているうちにあの人が余計に話をこじらせたの。
 わたわたしてるお兄ちゃんを見て嬉しそうにしてて、わたしは本当に嫌だった」

 話をこじらせる。
 父さんへの劣等感。

 薫乃さんが好きな父さん。

 ……傷付けたいなら、そこを引き裂こうとするのかもしれない。

「……今は、ハジメさんが会社を継いでるんだよね」

「そうだよ」


「じゃあ、ハジメさんが継ぐって言って、薫乃さんもろとも持ってったってこと?」

「……まあ、結果的に言えば、そうなったね」

「……」

「ほんとはもっといろいろあったのかもしれないけど、わたしは全然わからなくて。
 当時の断片的な記憶と、他の人から聞いたことでしか話せないけど……」

「……辻褄は合ってるってことね」

「うん」

 どうにも、他人事には思えない。
 身内のことだというのもその理由としてあるかもしれない。

 ゆかりさんが、夜空を見上げた。
 暗い雲が流れて、月が顔を見せていた。

 こんな夜にね、とゆかりさんが口を開く。

「……ある時ね、お兄ちゃんが、夜に泣いていたことがあったの」

「……」

「その日は、わたしだけが家に留守番で、他の四人はどこかに行ってて。
 夜にお兄ちゃんだけが家に帰ってきて、たまには一緒に寝ないか? って言われて」

「……うん」


「お兄ちゃん、ずっと泣いてた。
 声はあんまり出てなかったけど、鼻をすする音とか、背中が小さく戦慄いてる様子とか、鮮明に覚えてる」

「……」

「わたしはそんなお兄ちゃんを見て居ても立っても居られなくなって、気付いたらお兄ちゃんを慰めようとしてた。
 でも、全然効果なくて、わたしもしばらくするうちに寝ちゃってた」

 ゆかりさんは、中学生かそこらの歳か。

「……あとで知ったんだけど、その日に、あの人と薫乃さんの結婚話がまとまったらしいの」

「じゃあ、それで……。
 いやでも、それじゃあ父さんは」

 言いかけた俺を、ゆかりさんは首を振って制した。

「けどね、次の日にはお兄ちゃんはけろっとしてて、向こうに帰って行っちゃった」

 それで、その半月後に、本当に二人は結婚したんだよ。

 それが、ここの人たちとの不和の原因なのか?


 つらい話だ。俺なら折れてしまうかもしれない。でも、それだけだとは思えない。

 顔を合わせたくないとは考えるかもしれないけれど、割り切ろうとすれば、なるべく薫乃さんと鉢合わせないように努めれば。

「それから……他に何かあったんじゃないの」

「うん……。やっぱり、そう思うよね」

 小さく息を呑む音が聞こえた。

「最初のうちは、わたしが会いたいから帰ってきてってよく言ってたの。
 それで、本当に三ヶ月に一度くらいは帰ってきて、遊んだり宿題を見てくれたりした。……二人になっちゃったけど」

「……」

 薫乃さんは、当然といえば当然か。

「……お兄ちゃんと薫乃さんは顔を合わせても険悪になったりしないで、事情を考えればあたりまえだけど、普通に接してた」

「うん」

「でも、でもね……。あるときを境に、お兄ちゃんは一切帰ってこなくなっちゃったの。
 わたしがお兄ちゃんの携帯に電話したら出てくれるけど、
 他の人とは音信不通で、『俺と電話したことはお母さんにも言っちゃダメだぞ?』って言われてた」


「……」

「それで、次に帰ってきたときに女の人を連れてきたの」

「それは……」

「うん。ハルのお母さんだよ」

「この人と結婚するので、って。
 それだけうちの両親に言って帰っていって」

 ……そうだったんだ。
 だから、式も挙げず向こうの両親と小さなパーティをするに留まったのか。

「それから、お兄ちゃんは少しずつ集まりに顔を出すようになったの。
 楓が産まれて、一年後にハルも産まれて、よくこっちに連れて来てた」

 また悪いことばかり考えてしまう。

 もしかしたら、父さんは薫乃さんを諦められていなくて。

 それで。それで……。

「……それってさ、つまり」

「違うよ。それだけは、絶対に違う」

 嫌な勘ぐりですらも、全て察してくれた。
 口に出すのも嫌なことだったから、少し助かった。


「どうして、そう断言できるの?」

「……お兄ちゃんは、そんな感情のまま人と付き合ったりはできない人だから」

「それは、ゆかりさんの思い込みじゃないの?」

「……っ。そんなわけ……お兄ちゃんが、そんな」

「ごめん、責めるとかそういうつもりはなくて」

「うん……予想、だよね。予想にすぎないんだよね」

「……でも、わたしはそう信じたいの」と、ゆかりさんは消え入るような声で呟いた。

「俺だって、できることなら信じたいけど、確証がないぶんにはどうしても疑ってしまうと思う」

「……そう、だよね」

 彼女の声はどんどん小さくなっていく。

 俺に聞いたら後悔すると言ったのも、自分もダメージを受けると思ってたからの発言だったのかもしれない。

 やっぱり、責めているみたいだ。

 ゆかりさんだって、十何個も上の人たちには訊こうにも訊けないだろうし。
 薫乃さんはもちろん、掘り返されたくない傷を負った父さんになんてもってのほかだ。


 なら、ここでは。

「……けど、予想でもいいから、知ってることは全部話してほしい」

 俺の今までの発言と整合性のない物言いに、ゆかりさんは目を丸くした。

 そしてすぐに小さく咳払いをして、俺の方へ向き直った。

「えっと……そのね、お兄ちゃんが来なくなった原因についてなんだけど」

「うん」

「……みんなの前で、今日ハルにしたみたいに酷い言葉をぶつけたんじゃないかな」

「それは……あるかも、だけど。
 俺が思ったのは、ハジメさんが、薫乃さんに父さんを悪く言うようにしむけた、ってのもありえるかなって」

「まあ……なくはないね。あんまり考えたくないことだけれど、可能性としては十分ありえる」

 ずっと劣等感を感じていた弟の好きな人を奪った。
 でも、当の弟は全然気にしていない様子で、落ち込む姿すら周囲の人に見せなかった。

 そうしたら……。

 おもしろくない、と思うかもしれない。
 何かをして、もう一度ダメージを与えよう、と思うかもしれない。


 ただの想像にすぎないけれど、辻褄は合っているし、あの薫乃さんの妙な言動にも納得がいく。

「……ハルにね、お願いがあるの」

 腕を、掴まれた。
 軽々しく訊いてはいけないような雰囲気に、身体が強張る。

「……こんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど、でも、お願いしたいの」

「……うん」

「お兄ちゃんを、助けてあげて欲しいの。
 わたしじゃ、きっと駄目だから……」

「ゆかりさんが駄目なら、俺だって……」

「……ううん。今お兄ちゃんに一番近いのは、楓とハルだから。
 ハルからの言葉なら、もしかしたら、響くかもしれないって、そう思うんだ」

 ゆかりさんは今にも泣き出してしまいそうだ。
 なんで、どうして、兄に対してそこまでできるのだろうか。


「実は……俺も、ずっと考えてた」

「……うん」

「父さんとは、いつか話さなきゃいけないときが来るって。
 母さんのこと、姉さんのこと、俺のこと、それから、今後のことを」

 いつか。不確定の未来。
 今まで逃げていて、遠ざけてきて、その清算が今来ているのだと思う。

「そっか……」

「でも、ゆかりさんが求めるような成果を得るかどうかは、全く保証はできないし、悪化することだってあるかもしれないし」

 彼女は、浅く唇を噛んだ。息が漏れて、目を伏せて俯いた。
 哀しげな表情に変化する前に、俺はもう一度「でも」と言葉を続けることにした。

「俺は、父さんと二人で話をしてみるよ。
 そんで、どんな結果になったとしても、ゆかりさんには必ず報告するから」

 約束、と言って小指を出すと、照れたように笑って、彼女も小指を出してきた。

「こういうところ、お兄ちゃんそっくり」

「そうなの?」

「うん……昔はよく、こんなことしてもらってたから……」


 長い時間、話していたのだろうか。
 東の空が少し明るみ始めていた。

 ゆかりさんが、元気よく立ち上がった。

 そして、んーっと軽く伸びをした後に、ぱんぱんと顔を叩いた。

「明日……。今日、起きたらさ、海の方に行ってみようよ」

「……海?」

「うん。あの人たちに会うの、気がすすまないでしょ?」

「まあ、それは……確かに」

「それに! なぎさちゃんとデートっぽいことだってしたいでしょ?」

「はあ……。いや、どこか連れてってくれるなら嬉しいですよ」

 頑なな俺の態度に少しばかりの面白さを感じたのか、ゆかりさんはにこりと笑って、人差し指を俺の前に突き立てた。

「あんたも、決めなきゃね」

「……? 何を?」

「……それはずうっと、考えときなさい」

「意味わからないんですけど」

 もっとわかりやすいように説明を求めても、ゆかりさんはゆっくりと頷くのみだった。

「じゃあ、戻ろっか。ちゃんと疲れとれるように寝なさいよー?」

「わかってるよ」

 少しだけ、肩に乗っていた荷物が軽くなったような感覚になった。

 それは不透明で、不明瞭で、まだ実体すら掴めていないほどのものではあったけれど、
 確かに、はっきりとした感覚で、自分のなかの何かが動き出すのを感じた。

やっとひと段落
まだまだ続きます




 そんなに難しいわけないだろ、と俺もプレイしてみる。

 五分間で十回以上骨になる。

 ゆっくり進む→死ぬ
 ダッシュ→死ぬ
 普通のスピード→死ぬ

 なんだこれ。

 着地点の操作ができないから、接近戦で連射されると死ぬし、足元から急に出てくるゾンビの位置を覚えなきゃいけないし。

 一面からこれって難易度高すぎないか?

 背景は暗いし魔王城の近くだし、こんなところでナニかをしだしそうな雰囲気を出してるアーサーとプリンセスも頭おかしいし。

「……これ、いつのゲームだっけ」

「古き良き80年代だ」

「これじゃ古き悪しきだろ」

「まあまあ、おまえ杏ちゃんより下手なんじゃね」

「うっせ」

 杏が俺に向けて笑ってきた。
 ちょっと悔しい。


「てかなんでこんな昔のゲームあんの」

「その昔、ゲームセンターCXという番組があってだな……」

「はあ……」

 コントローラーを杏に手渡して、しばらく死に続ける様子を見ていると、「はーくん」と後ろから声をかけられた。

「勉強教えてください」

 吉野さんは黙々と進めているが、千咲はイマイチ集中できていないようだった。

「数学の、この問題なんですけど」

「……あー、これはパターン問題だから。
 多分教科書の章末に類題載ってるからそれ参考にすればいんじゃね」

「ありがとうございます。
 って、私教科書持ってきてないです」

「貸す?」


「いや、はーくんが教えてくれればよくないですか?」

「まあ、いいけど」

 普通に普通。
 朝の態度は一体……。

 隣に座って勉強を見てあげた。

 やっぱり部活やってると課題とか面倒だよな。
 一年の時は大したことなかったけど、今年は容赦ない量の課題が出されてるし。

「進捗状況は」

「多めに見積もって四割終わりましたね」

「……見積もらないと?」

「三割弱ないですね」

「やばくね」

「はい」

「吉野さんは?」

「もーすぐ終わる」

 一般的な進捗速度。よりも少し速いくらいか。

 一夜漬けの人もなかなかいるとは思うから、千咲みたいにやる気があるだけマシなのかもしれない。


 テレビの方ではコウタと杏がわいわいとゲームで盛り上がっている。

「そういえば、はーくん。お誕生日おめでとうございます」

「え、ハル今日誕生日なの?」

「まあ」

 コウタと吉野さん、それと杏から次々におめでとうと言われる。

 こんなに祝われたのは初めてかもしれない。

「遠征短くなったので、こうして直接祝えますね」

「そうだったんだ」

「はい」

 千咲はにこりと笑う。

「プレゼントとか用意してないわ、言ってくれたら何か持ってきたのに」

「……いや、いいよ。気持ちだけ受け取っとく」

「俺からの愛か?」

「やめろ気持ち悪い」

 家族の人に祝われないの? とか、両親は誕生日でも仕事なの? とか、余計なことを訊かれなかったのは助かった。

 普通の家庭では十七歳にもなって家で祝ってもらったりするのか知らないが、うちではまずありえないことだ。


 市販の弁当、ポテチ、コーラ、チョコレート。
 体に悪いものばかり。

 でもまあ、文句は言えまい。
 食材を買ってきて料理するのも面倒だし、かといって誰かに作らせるとか手伝ってもらうのも気が引けるしで。

 ゲームはやっとのことで一面をクリアしたらしいが、二面の中ボスに負けてやり直しと。
 果てしなさすぎる。ゲーム作る人もこうして鬼畜ゲーとして長らく親しまれてるのは本望だろうな。

 そうこう考えつつ、千咲が問題を解くのを見ていると、吉野さんはある程度カタがついたようで、コウタと杏の方へ行った。

 勉強なあ……。嫌いではないけど、決められた量以上をすることは今までなかったし。

 コーラに飽きて、麦茶を飲む。

 もう二十二時じゃねーか。
 もし完徹するとしたらまだ、というのが正しかったりもするのか。

「……疲れたー。とりあえず、数学は終わりましたね」

「よかったな」

「次は古典です」

「……もしあれなら解答写せば?」


「補習かかると部活行けないんで」

「へー」

 ああ、課題テストがあったか。

 古典は特に教えることもないので、漫画を持ってきてだらだら読むことにする。

 エナジードリンク(一本目)注入。

 風呂を沸かす。湯加減、千咲は四十一度派だったな。

「風呂沸かしたから、入りたい順に入っていいよ」

「あ、じゃあ私入っていい?」

 吉野さんが言うと、杏が一緒に入りましょう、と言った。

 うーん、また何だかいかがわしい想像が捗ってしまいそうな気もする。

 なぎさと杏の百合の件(誇張)。今すぐにでも訊きたい気分だ。

「俺らも一緒に入るか?」

「さっきからなんなんだよ、お前」

「下衆な目をしてたから」

「……思考を読むな、まったくもう」

 ポカーンとした顔で女たちに見られる。
 吉野さんはどういう内容か気付いて大笑いしていたが、他の二人は首を傾げたままでいた。


 仲のいい二人はそのままお風呂場に向かっていき、それに千咲もついて行った。

 席が空いたのでコウタの隣に座ってプレイするのを眺める。
 ボス前まで来ている。意外とコツを掴むといけるやつらしい。

「あのさあ」

「なに?」

「花火したい」

「花火大会行けばいいじゃん」

「いや、したいんだ」

 見たいじゃなくてしたい、か。

「そういや、吉野さんも言ってたな」

「マジで? 綾も?」

「うん」

「じゃあするしかないっしょ!」

 と言ったところでゲームクリア。
 エピローグ音楽が流れて、俺は少し安堵する。

 だが、コウタはまだまだやる気に満ち溢れたような表情でコントローラーを握りしめている。

「このゲームさ、二周目あんだよね」

「……え」

「真ボスは二周目いかないと出てこない仕様」

「はあ……」


 苦節四時間半。
 二周目っていうと雑魚キャラでも普通にグレードアップしてたりするんだよなあ。

「んで、日時はどうするかね」

「俺も参加前提なの?」

「そりゃあ、俺と綾だけじゃ大して面白くもないだろ」

「……お、おう」

「人数は多いに越したことはない。
 今ここにいる五人と、おまえ他に呼べる? お姉さんとか」

「姉さん……は、あとで訊いてみる。
 杏の姉も誘えばたぶん来る」

「うんうん、例の後輩の子ね。
 じゃあ、それで七人か」

「まだ決まってないけど、そうだね」

「七はキリが悪いな。俺の弟を呼ぼうか」

「何年生だっけ?」

「いま小六。クソガキだけど家でずっと暇そうにしてるから交ぜてやらんこともない」

 なかなか辛辣な物言いで思わず笑ってしまった。

「つーか、明日も泊まっていい?」

「別にいいけど」

「親が旅行に行くから、弟も連れてくることになるんだが」

「ちょっと前に旅行行ってなかったか?」

「……まあ、夫婦のデート?」

 仲がよろしいのですね。

「いいよ」


「助かるぜ」

 喋りながらプレイしているからか、すぐ死ぬ。
 コウタもエナジードリンクを注入した。

「そんで、明日はピザでも取ってパーティーだ」

「その金どこからくるの」

「考えとくわ」

 謎。

「俺らはいいけど、女子高生の親は連泊なんて許さないんじゃないでしょうか」

「大丈夫だろ、きっと」

 さっきから適当すぎる回答ばかり。
 逆に俺が考えすぎか?

 熱中するコウタの邪魔をするのもあれかな、と思い、椅子に座って漫画の続きを読むことにする。

 下に持ってきた分を読み終えてしまって、テーブルに上半身を預けながらぐだーっとしていると、女たちが帰ってきた。

「あがりましたよ」

「……へい」

 薄着でウロつくのはやめていただきたい。
 コウタくんのなおも熱中しておられる姿は神々しいまである。


「私たちってどこに寝たらいいの?」

「この前のところでお願い」

 直視したくなくて、寝そべったままでいたが、千咲と吉野さんはそのまま近くに座ってきた。

「やっぱり、夏のお風呂上がりはアイスですよね」

「あ、私も」

「冷凍庫から取っていいよ、たぶんあるから」

 姉がいると、そこで女同士で絡んでくれるからそこまで気にならないけど、今は俺しかこの家の人はいないから困ってしまう。

 あんまり家に馴染まれてたむろされるのも良い傾向ではないとは思うけれど、そこらへんの境界はあんまりつけたくもないし。

「あの、お兄さん。お姉ちゃんからケータイ見てって連絡が来たんですけど」

 杏にスマートフォンの画面を見せつけられる。
 こんな時間に? そういえば、スマホは部屋に放置したきりだった。

 杏に連絡するともなれば急ぎであることは確かなので、すぐに二階に向かうことにした。




「……こんな時間にどうしたの?」

『あ、先輩。こんばんは』

 言ってた通り先輩か。
 また昨日のことを思い出す。

 はるくん、と呼んでほしいのではなくて、二日間で変に慣れてしまったのかもしれない。

「こんばんは」

『杏が迷惑かけたりしてませんか?」

「杏はいい子にしてるよ」

『ふー、それは一安心、ですね』

 口調は整った敬語のままらしい。

「んで、どしたの」

『もー、先輩! 今日電話するなんてあれしかないですよ』

「……あれ?」

『十七歳の誕生日、おめでとうございます。
 電話じゃなくて直接言いたかったですけど、祝う気持ちは同じですよ』

「ああ、うん。……ありがとな」

『ほんとは私も先輩のおうちに行きたかったですけど、ごめんなさい』

「……うん、でも嬉しいよ」


『……えへへ、そうですかー。
 今日は私以外にも祝ってもらえましたか?』

「うちに来た人には、あと姉さんとゆかりさんにも」

『そうですか』

「うん」

『……また一個離れちゃうのは悲しいですけど、私も嬉しいです。
 それに、先輩の誕生日を最後に祝えたので、もっと嬉しいです』

「最後?」

『あの……えっと、時計見てください』

 耳から離して、時刻を確認する。
 二十四時、もう日付が変わっていた。

 たしかに最後だけれど、そんなに嬉しいことなんだろうか?

「もしよかったらだけど、今日うちくる?」

『……泊まり、ですか?』

「さすがに立て続けに外泊はまずいか……」

『いや、いいですよ。杏もまた泊めてくれるんですよね?』

「うん」

『おっけーです。じゃ、また連絡しますね』

「うい」


 電話が切れる。

 昨日のことを訊いていいものか、どうにも悩ましい。

 夜のこと。
 俺の事情を少しでも知った上で、なぎさがどのように接してくるか見当もつかない。

 どうしてそこまで俺のことを考えてくれるのか。
 どうしてこんな俺に愛想を尽かさないのか。

 ……どうして、差し出した手を握り返してくれるのか。

 シャワーを浴びて考えを整理しようと思って、ドアを開けると、目の前に千咲が立っていた。

「なにしてんの?」

「……なんでもないです」

 リビングでいた彼女とは、様子が変わっている。

 朝にうちに来たときのようだ。


「なぎちゃんと、何の話してたんですか?」

「明日うちに泊まるって話」

「……そうですか。で、来るんですか?」

「うん」

「楓ちゃんも帰ってきますし、賑やかで楽しそうですね」

 千咲はやわらかく微笑む。
 でも、目が笑っていないようにも見えてしまう。

「コウタの弟も来るって」

「へえ、そうですか」

 ドアを閉めて外に出る。

 突然ため息をついて俯いた千咲に腕を掴まれる。

 この前の再現。

 ……言わなきゃ。仲直り、なのかはよくわからないけど、とにかく口に出さなきゃいけない。

「千咲……その、さ」

「はーくん」

 遮られる。


「なに?」

「……どうでもいいですよ」

 腕を、そっと外される。

「どうでも、いいです」

「……」

「はーくんが何を思ってても、どうでもいいです」

 何を言いたいのかがわからなくて、俺は彼女の言葉に反応できない。

「……これからは、私も好きにしますから。
 私はもう寝るので、おやすみなさい」

 そう言って、ふふっと笑ったあと、彼女は隣の姉の部屋に入っていった。
 そしてすぐに、その部屋から話し声が漏れ聞こえてくる。

 ……意味がわからなかった。

 態度の急変。
 でも、二人きりじゃないといつものように接してくる。

 断片的な言葉。
 俺の考えてることはどうでもいい……どういうことだ?

 とにかく、千咲の言いたいことが、なにもわからなかった。

本日の投下は以上です
次スレ行く可能性もあるかもしれないです




 あくる日、俺が目覚めたのは昼過ぎのことだった。

 和室に移動した俺たち二人は、ほぼ無心でゲームをし続けた。
 魔界村の二周目を終えたあと、対戦ゲーだったりRPGを挟んだりしながら結局六時過ぎまで起きていた。

 足もとにはエナジードリンクとお茶パック、おつまみ類が落ちている。

 起き上がって周囲を見てもコウタの姿はない。

 一階に降りると、みんなはもうリビングで駄弁っている。
 姉はうちに帰ってきていて、ゆかりさんはどうしたの、と訊ねると、どうやら朝に送られてそのまま車で帰っていったらしかった。

 吉野さんと杏は依然としてテレビゲームに夢中で、千咲と姉はパソコンで何かの動画を見ていて、コウタは新聞を読んでいる。

 無法地帯っぽい。


「新聞のチラシを見ました」

 コウタが声を上げる。

「なんでも、明日近くで花火大会があるらしいではないでしょうか」

 注目の的になっている。
 明日なんだ、まったく気にしていなかった。

「行きましょう」

 な? ハル? と同意を求められて、昨日の彼との会話を思い出してしぶしぶ頷いた。

「さんせーい」

「私も行きます」

 吉野さんと千咲が次々と賛同する。

「楓さんも行きますか?」

「あ、いや……」

 なぜか俺のことを見られる。
 俺の許可なんて必要ないだろうに。

「いや、私は行かないよ。ごめんね、コウタくん」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

 どこか形式めいたやりとり。気にしすぎか?

 杏も、人混みがあまり好きではないから行かないと言っていた。
 ……その気持ちわかるわー。祭りではただでさえ人が多くて騒がしいし、なかでも子ども連れが危なっかしいし。


 そういえば、ほぼ初対面(うちに遊びにきた時に面識があるくらい)なのに、お互いフレンドリーな感じだ。

 なんつーか、馴染むのが早いというか。

 一日の半分を惰眠によって無駄にしたものの、あまり悪い気はしない。
 俺以外の人たちはすでに昼食をとったようで、午後からどこに行きたいかを話している。

 それを横目にピザを食べながらぼーっとしていた。

 食べている最中、千咲に話しかけられる。
 普通の様子で。もう何が何だかわからない。

 とりあえず話を聞いていてわかるのは、コウタと千咲が乗り気だということだ。

 遊びに行く、と言ったってどうせアーケード街に行くか学校の近くまで行くんだろうし、あまり気乗りしない。
 最終的にうちに帰ってくることは決まっているから、俺が無理して外出する必要性もあまり感じないし。

「ハルは行きたいとことかある?」

「ない、だるい」

 明日の予定まで決められては、少しでも自分の時間が欲しくなる。
 撮りためていたビデオを観るとか、課題を最後まで終わらせるとか、はたまたもっと寝るとか。


 外の空は嫌なほど快晴で、クーラーの効いたこの部屋から出ることが嫌になるのも無理はない。

 なんて、誰かに向けて弁明のようなものを考えてみるけど、
 つまるところ、面倒だ、の一言で片付けられるものだ。

 結局、賛成多数で街のゲーセンとかそこらへんをぶらぶらするということになったらしい。
 みんな夏のテンションだ。ついていけない。

「はーくんほんとに行かないんですか?」

「うん」

 食後のアイスを食べて、輪から離れてぐでーっとする。

 姉にぺしっと叩かれて、お客さんがいるのにそんな態度でいちゃダメでしょ、みたいなことを言われたが、聞き入れずにそのままでいた。

 テレビを観ているうちに、段取りやらなんやらがいろいろ決まっていって、夜は焼肉を食べようとなったらしい。
 折半なら別にかまわない。焼肉、そのワードだけで心踊る。

 チャイムが鳴って応答すると、小麦色に焼けた肌の小学生くらいと思しき男の子が出てきた。
 コウタの弟らしい。名前はユウヤくん、クソガキ感はあまりない。礼儀正しい印象を受ける。

 兄譲りのコミュ力か、それとも他の人たちが気さくなのか、ユウヤくんはすぐに周囲にとけこんでいる。

 仮に俺がその歳で、年上の女の子がいっぱいいたら、緊張して何も喋れないと思う。

 ほら、姉さんとか超かわいいし。なんで姉さんが出てきたんだろう。


「じゃあ、俺ら出かけてくるから」

 会話もそこそこ、もう出かけるらしい。

 その場に残ったのは、杏と俺の二人。
 というわけで、家に残る二人で食材諸々を買いに行くことになった。

「別に残らなくても良かったんだぞ?」

 荷物を持ってくれる人が多いと助かるけど、みんなで行くなら杏も行ってくればいいのに。

「え……もしかしてわたしお邪魔ですか」

「そういうわけじゃない」

 会話の裏を読みたがる癖は姉妹揃ってらしい。

「ほら、ユウヤくんとか一個違いだから話も合うかなって」

「わたし中学生ですよ?」

「……まあ」

 そう言われると、そうではあるが。

 一歳差。姉と俺も一歳差だ。
 中学に上がった姉が急に大人に見えたことを思い出す。

 あの頃は姉が友達を連れてくることもそれなりにあった。
 そのときに来ていた人たちと今でも交流があったりするのだろうか。


「杏は中学校楽しい?」

「それなりには」

「なんだ、それなりって」

「可もなく不可もなく?」

「そのセリフ、なぎさが言いそう」

「バレちゃいましたか」

「いや、てきとう」

 気にしてるみたいで恥ずかしいし。

「なんか食べる?」

「お菓子たべたいです」

 二人で麦茶を飲みながらお茶菓子を食べる。

 日本の夏っぽい。完全な主観。

 マジでクーラーって最高だな。
 と思いつつ、また机の上でぐでーっとする。

 杏も同じように真似してきた。
 悪い大人でごめんな、でも怠くて仕方がない。

 テレビをかけながら話したり漫画を読んだりしていたら、向かいに座る杏はすやすやと眠りだした。

 寝顔を見ると、さすがに少しずつ違えども、なぎさと似ている。

 目元とか輪郭とか。

 はあ、とため息をつく。


 立ち上がって、自分の部屋と和室の掃除をすることにする。

 イヤホンをしながら掃除機をかけたりゴミを片付ける。
 洗い物もしなくちゃな、と思ってシンクに置いたままのお皿を洗う。

 大人数で泊まるなら布団の準備が必要だ。
 なぎさが俺の部屋で寝るようなことがないように、というか俺ら男三人で部屋を使えばいいのか。

 姉の部屋に布団を二つ運びこむ。
 きっと足りるはず、言わなくても一緒の布団に寝たりするだろ。

 一通り済ませて、ソファに寝転がってドラマの録画を眺めていたところでインターホンが鳴る。

 案の定なぎさが荷物を抱えてやってきた。

「いらっしゃい」

「ういっす」

「なんか久しぶり」

「そうかもしれない……です」

 語尾が不安げ。

「あ、お誕生日おめでとうございます」

「ありがとう」

 リビングに招く。
 ケーキを買ってきたと言うので、受け取って冷蔵庫に入れる。


「寝てますね」

 なぎさが杏の髪を撫でる。

「ついこの前までランドセルしょってたのに、成長を感じますよ」

「寝てるのに?」

「まあ、いろいろです」

「そっか」

「みなさんは?」

「遊びにいった」

「……あー、疲れました」

 そう言いながら、なぎさは杏と同じように机に上半身を倒す。

「外暑かった?」

「いえ、もう日も暮れてるので。
 それに……あっちのほうが暑かったですよ」

「それもそうだな」

「……ぁー、クーラー最高ですね」

 上半身はそのまま、机の下で足をバタバタと動かす。

 落ち着きがない。

「くつろぎすぎ」

「……だめ?」

「いや、いいけど」


 寝そべりながら退屈そうに手足をわしゃわしゃと動かしている。
 そういえば忘れてた、と思って麦茶をグラスに注いでなぎさに出した。

「ありがとうございます」

「うい。ここで寝かせておくのもあれだし、杏のことどっかに運ぶ?」

「このあとの予定は」

「買い物」

「じゃあ起こしましょう」

 背中をていっ、と叩くと杏はすぐに目覚めた。

「……あれ、わたし……。
 あ! ごめんなさい、寝ちゃってました」

「杏、おはよ」

「お、お姉ちゃんもう来てたんだー……」

「今来たとこだよ」

 椅子から立ち上がった杏に、一度洗面所に顔を洗い行くように言う。

「夜ごはんは焼肉」

「バーベキュー?」

「うちに網とかないし、ホットプレートかな」

「持ってきましょうか?」

「いやいいよ、面倒だろ」

「そう言うと思いました」


 グラスの中の氷がからんと落ちる音がする。
 俺も同じくだらだらすることにした。

 彼女の方へ手を伸ばすと、すぐさま手のひらをとんとんと押される。

 スキンシップ。
 ……でも、そこまで近いわけでもないし。

 しばらく堪能していると、なぎさの手がふっと離れた。

「あー! イチャイチャしてる! お姉ちゃん!」

 杏が戻ってきた。

「してない」

「お兄さんと手を絡めてたじゃん!」

「……見間違い」

 否定する必要はあまりないと思う。

「そういえばわたし、お母さんから伝言を受けています」

「なんて?」

「お姉ちゃんとお兄さんが旅行中どんなイチャイチャをしたか訊いてこい、と」

 ミヤコさん……。

「お姉ちゃんに訊いても教えてくれなかったから、らしいです」


 なぎさを見る。
 すごい勢いで首を横に振る。

「なにもしてないよ」

「嘘ですね、お姉ちゃん?」

「してない」

「……えー、でも」

「でも?」

「わたしから見て、二人がもっと仲良くなったように見えるから、なんかあったのかなーって」

 仲良く……。

 なぎさと目を合わせる。
 真っ赤な顔を手で覆って、杏の肩をばんばんと叩く。

「い、いたっ……。いたいよお姉ちゃん」

「……杏がわるい」

「まあ、わたし的にはお姉ちゃんのその反応だけで満足だよ?」

「……うるさい」

 俺も俺でいろいろと思い出して、少し恥ずかしくなる。

 よくさっきまでなぎさを見て普通に思えてたな、というぐらい。


「ま、まあ……お母さんには秘密にしとくね!」

 大丈夫だよ、お姉ちゃん! と、杏はなぎさに笑いかける。

 実はこの子、天性のSの素質があるのかもしれない。

 いつもと立場が逆転しているみたいで微笑ましい光景。
 掛け算は逆転不可。んなことはない。

「お兄さん、そろそろお買い物行かないとじゃないですか?」

「……そうだな、なぎさも行くよな?」

「もちろん行きます」

「じゃあ、もう出るか」




 ありったけの肉と野菜、それから飲み物お菓子なんかを買って帰宅すると、すでに遊びにいった人たちは家に集合していた。

 みんなの様子からしてかなり楽しめたみたいで、ちょっとほっとする。
 俺が行ったら怠さで士気を下げかねなかったし。

 はたから見ると男二人女三人の集まりってどうなんだろうか?
 街で見てもあまり気にしないとは思うけれど、ゲーセンとかにいたら、大家族?

 すぐにホットプレートやらを準備すると、コウタがたこ焼き機を持ってきた。

「食べます」

「材料は?」

「ある」

「てかそんなもんうちに有ったんだ」

「転がってた」

 なんだそれ。

 姉が白ごはんの準備をして、各自肉を焼いて、野菜とともに食べる。

 なんか知らんけど、思いつきでユウヤくんにどんどん肉をまわしていくと、すべて食べていた。

 兄弟揃って食欲の権化らしい。


 たこ焼きで白ごはん。炭水化物パラダイス。

「こういうときにお酒があればなー」

 コウタが呟く。

「なに、飲むの?」

「いや、たとえ話。お前も飲まないだろ」

 なんかデジャブな気がする。
 いろいろと、仕方ないし気持ちもわかるけど。

「俺お酒飲んだことないし」

「え」

「……なに?」

「いえ」

 なぎさの反応をすぐ制する。

 もう酒なんて飲みたくないし、あの時のこともできるだけ思い出したくない。


「そういえば」と、千咲が何かを思いついたように声をあげる。

「わたしと、はーくんと、コウタくんと、綾ちゃんで、明日花火大会に行くんですけど、なぎちゃんも来ますか?」

「……え、っと。楓さんは?」

「私は行かないよ」

「杏は?」

「わたしも」

 ちらりと俺の顔をうかがう。
 そして、千咲のほうを向く。

「……じゃあ、私も行きません」

「そうですか、残念です」

「多分、その時間バイト入ってましたし……楽しんできてくださいね」

「はい」

 それきり会話が切れたのだけれど、ほんの一瞬だけ姉から意味ありげな視線を送られた。

 肉を焼く。食べる。たこ焼きが飛んでくる。それも食べる。

 あんまりガツガツいくのもよろしくないけど、食べきらないといけないし、仕方がない。

 テレビでは心霊番組がかかっていて、杏とユウヤくんがガチでビビっている。
 千咲は意外にも大して気にしていないようだった。


 ほどほどに食べ終えて、女たちは食後のデザートを食べて、部屋から持ってきた人生ゲームやらトランプやらで盛り上がっている。

 片付けを始める。どうにも買ってきた量が多すぎたようだ。

 コウタと俺とユウヤくんで残肉処理をする。
 腹がいっぱい。最近食べてばかりだ。

 運動しなきゃ……。

「ユウヤくんは」

「ユウヤでいいですよ」

「……ユウヤは肌焼けてるけど、野球とかやってるの?」

「クラブは、バスケをやってます」

 バスケかー。

「……俺も少しやってたんだ」

「兄ちゃんもやってましたよ」

「兄ちゃん?」

「え、兄ちゃんっすよ」

 コウタを指差す。

「まじ?」

「うん、言ってなかったっけ」

「聞いてない」


「私は知ってましたよ」と千咲が会話に入ってくる。

 聞いたことがない。マジで。

「ミニバス?」

「いや、中学も」

「え、は? ほんとに?」

「ついでに言うと、新人戦の三回戦で対戦した」

「……」

 コウタの出身の中学とやったけど。負けたけど。

「もっと言うとお前マークしたの俺」

「へ、へえ……」

 いや、はあ……。
 まあ、相手チームとか覚えてる方がおかしいけど。

 つーか、あの中学校って県でも結構いいとこまで行ったんじゃ。

「なんで高校で続けなかったの?」

「それは、おまえだってそうだろ」

「……」

 いや、そうだけど。
 俺の場合続けるも何も途中で辞めたから合ってるかわからないけど、意味としては合ってる。


「あの、俺なんか変なこと言っちゃったっすか?」

 ユウヤくん……ユウヤが、心配そうな顔で俺とコウタを交互に見る。

「……いや、そんなことないよ」

「まー、この話はもういいよな?」

「……うん」

 俺もあまり触れてほしくないから、話を打ち切られたのは幸運だったかもしれない。

 本当に、コウタがやってた部活はサッカーかなんかだと思っていた。
 体育の選択授業だってバスケでなく俺と一緒にサッカーだったし、バスケが関係するような会話をした記憶は一つだってない。

「気を取り直して、スイカ食べようぜ!」

 コウタがテンションを戻す。

「スイカあります! 食べましょう!」

 なぎさが向こうからスイカを持ってくる。
 台所で切ってくれていたらしい。

 みんなで窓の方へ、外へ移動して、スイカを食べ始める。

 夜風がなびく。もやもやする。

 たくさんの人と一緒にいて、楽しいはずだけど、性懲りもなくもやもやする。


 ちょっとトイレに行く、と言って部屋から出ようとすると、千咲に引っ張られて呼び止められた。

「どこに行くんですか?」

「……いや、トイレ」

「さっき行きましたよね」

「お腹ゆるい」

「……嘘ばっかり」

 勝手に嘘認定されても困る。

「いや、普通に食べ過ぎたし」

 行動を制限されても困る。

「はあ……じゃあいいですよ」

「どうしてそんな怒ってんだよ」

「わからないですか?」

「……」

「……」

 人の気持ちなんてそう簡単にわかるかよ。


「はーくんにはわかりませんよね」

「……だから、何が言いたいんだよ」

「……どうせ、私のことなんてたいして考えてなんかいないんですよね」

「……」

 窓側にいた杏に心配そうな目を向けられる。
 幸い窓は少ししか開いていないから、会話は聞かれてはいないだろうし、他の人は庭で遊んでるから気付いていないだろうけど。

「……まあ、いいですよ」

「……」

「黙ってるなら、何したっていいですよね」

 ぞわっと背筋が凍るような感覚を得る。
 ……何したっていい。俺はその場で固まる。

 でも、特に何をしてくるということもなかった。

 やがて、外からみんなが戻ってくる。

 誰かが持ってきた水鉄砲で遊んでいたらしい、みんなびちょびちょだ。

 姉に呼ばれる。濡れていない。

 吉野さんと杏が先に風呂に入るというと、千咲も俺の横をするすると歩いてそれについていった。


 二人で二階の廊下に行く。

「ねえ、ちーちゃんの様子おかしくない?」

「……いや」

「今なんて言われてたの?」

 そう言われても困る。
 俺だってわからない。

「なんにも」

 姉にまで嘘をつく始末。やってらんない。

「……私から話しようか?」

「いいって」

「でも、ハル……」

「……」

「さっきのなぎちゃんへのだって」

「……わからないけど、元はといえば俺が蒔いた種ってことだろ」

「……」

「……なんとかするよ」

 また荷物が増えたような感覚。
 でも、こればっかりはどうしようもない。




 どんどん積み重なって行く問題の多さに唖然とする。

 繰り返し。その続き。付け焼刃。
 浮かんでくる言葉はそんなものばかりだ。

 中庸、というか、中道で生きるということが自分には無理らしい。

 必ずどちらかに傾倒してしまう、ブレブレの自我、それを隠すために予防線を張る。

 わかりやすく言う。自分に自信がないんだ。

 なぎさと二人でいたときのことを思い出す。
 落ち着いていた、安心していた。

 不安感が消える。でも、それも一過性のもので、また不安が生じてくる。

 悪い傾向。今すぐにでも二人きりで会って話したいと思うのも、そうなのかもしれない。

 コウタとユウヤを部屋に連れてきて、そこで駄弁りながらゲームをしたり漫画を読んだりする。

 ユウヤは普通にいい子で俺の小学生時代よかよっぽどちゃんとしているような印象を受ける。


「なあ、明日のことだけどさ」

「花火大会」

「ああ、うん」

「一応午後からやってるみたいだけど、どうする?」

「コウタは?」

「荷物あるし、朝に一旦家に帰ってからまた来るつもり」

「そのまま会場にってこと?」

「そうそう」

「てか、お前ら二人で行けばいいんじゃないの。
 わざわざ俺と千咲で邪魔する必要はないだろ」

「それは……ハルもわかるはずだ。
 片桐さんも行きたいって言うなら、そうするしかないだろ」

「……」

「それとも、そこまでして行きたくない理由があるのか?」

 そう言われて、理由を探す。
 けれど、考えても、どれも納得させるような根拠を持っていない。


「……じゃあ、来るべきだと俺は思うな。
 おまえ、よく言ってたじゃん、『そういうんじゃない』って」

「なら、大丈夫だろ」と、コントローラーを握りしめ、俺に背中を向けたコウタが言う。

 俺は返事をしない。
 
 二人に、この部屋適当に使っていいから、と言ってリビングに降りる。

 食べ過ぎによる満腹感も、生じた閉塞感も、少しずつ消え失せ始めていた。

 俺が降りてくるのを狙っていたかのように、お風呂上がりのなぎさがソファに座っている。

 湯あがり、薄着、ちょっと透けてる。

 ぷしゅっと炭酸飲料の缶を開ける。
 乾杯。もう日付が変わっていた。

「もうみんな寝てた?」

「はい、ぐっすり」

「ならよかった」



「……なんというか、夜が短かったですね」

「ペースが速いな」

「いろいろ騒いじゃって申し訳ないです」

「……ほんとに思ってる?」

「えー、思ってますよ」

「どうだか」

 はい、と手を出される。
 
 一瞬何のことだ、と考えたけれどすぐに気付く。
 彼女の手を握る。自分から。

「考えすぎは禁物ですよ?」

「ああ、わかってる」

 何がだ。

 しばらく無言で手を繋いだままでいる。
 だんだんと彼女の身体がこちらに倒れてきて、距離が詰まっていく。

「そういえば」

「そういえば?」

「みたらし」

「みーくんは、一晩くらいなら大丈夫ですけど」

 みーくんってなんだ、かわいいじゃねえか。



「ちゃう」

「イントネーションが違いますよ」

「関西住んでたことあんの?」

「まあ、少し。で、何が違うんですか?」

 みたらし。犬、撫でたい。昨日も撫でたけど。
 一人暮らしで動物飼ってたら一日中見てられると思う。

 姉は猫好きだし、千咲は猫を飼ってるけど、俺はあまり猫には懐かれない。

「なんだっけ」

「思いつきですか」

「そうだっけ?」

「眠いんじゃないですか」

「そうかも」

「じゃあ、寝ましょうか」

 そう言って肩に頭を乗せてくる。
 いい匂いがする。風呂上がりの魔力、再び。


 全然気にしていなかったけど、サイズのかなり大きいTシャツを着ているから、下を履いてないように見える。

 つまり生足。暴力性が強い。

 下着の色は薄黄色。変態だ(偏見)。

「太もも触ってもいい?」

「冗談?」

「……冗談」

 駄目みたいだ。

 まあ、本気にされても困るけど、と思っていると、なぎさは何か思いついたみたいな顔をした。

「あー、今日は抱き枕がないから寝れないなー」

 斜め上を向いて口笛をぴゅーぴゅー吹く。なんだか滑稽。

「……あー、抱き枕だったらどさくさに紛れて太ももを触られても文句は言えないなー」

「急にどうしたの」


「抱き枕が、って、なんですか、触りたくないんですか」

「ぬいぐるみ貸すけど」

「いやっ、寝ましょうか、寝ちゃいましょう」

 手元にあるリモコンを操作して部屋の電気を消す。
 抵抗はしない、したところで、どうにかなるわけでもない気もするし。

「あ、俺豆球がいい」

「はーい」

 すぐに抱きついてくる。
 そのまま倒れ込む。なんか変態っぽい。

「いけないことしてるみたいですね」

「してるじゃん」

「私としてはしてないつもりですよ」

「その発言ビッチっぽい」

「ビッチ?」

「……いや、うん。忘れてくれ」

 それから少し途切れ途切れの会話をしたあと、なぎさは眠りについた。

 あたりまえだけど、俺はあまり寝付けなかった。

本日の投下は以上です




 朝早くから、ゲームをしよう! とコウタに叩き起こされた。

 何か意図があるんだろうかと思ったけど、普通にゲームをしたいだけのようだった。

 そのうち姉とユウヤが起きてきて、朝食を食べるまでずっと二人で話をしていた。

 姉はやらんぞ、という視線を彼に飛ばす。
 よく考えなくても俺は馬鹿です。

 ゲームをしながらコウタと話す。

 今日は夕方頃に河川敷に行って花火をしよう、ということらしい。
 午後になったら買い出し、ロケット花火を打ち上げまくれ! なんか楽しそう。

 姉が十時過ぎに塾に出かけて行って、家に男三人になる。


「ユウヤのチームは強いの?」

「まあまあです」

「夏の大会は?」

「ベスト8でした」

 普通に強くてビビるな。
 まず県大会に普通に出てるしね、なんだこの格差。

「ハルさんのとこは強かったんですか?」

「めっちゃ弱い。ミニバスはそこそこだったけど、中学はみんな初心者だったから」

 そこそこ(県大会出場)。

「ほー……」

 反応に困るよね、うん。

「キャプテンは?」とコウタが会話に入ってくる。

「……あいつは、まあ、経験者だったけど」

 夏祭りの夜を思い出す。
 久しぶりではあったけど、あいつはひとことも話しかけてこなかった。


 どこの高校に行ったんだろうか、俺と違ってバスケは続けているのだろうか。

 ……あんま興味ないけど。

「おまえがキャプテンじゃないの意外だって思ってた」

「キャプテンとかやるガラじゃないし」

「だろうな」

 じゃあどうして言ったし。

「コウタはどうだったんだっけ?」

「番号?」

「うん」

「十七番」

「なんだそれ」

「かっけえだろ? ちなみに俺はキャプテンだった」

「よくわかんない」

 厨二病かなんかか。
 対戦したっていう記憶しかない。

「まあハル、今度バスケしような?」

「やだよ、動けねえし」

「そう難しく考えんなって、答え合わせもしたことだしさ」

「……考えておく」

 もうとうの昔にやめてしまったことなのに、やるからには負けたくない、と思うのが少し意外だった。


「思ったんだけどさ」

「ん?」

「俺ら、テストやばいんじゃね?」

「……なぜ?」

「いや、遊んでばっかだし」

 今更気付いたのか。

「課題テストだから余裕だって」

「俺全部写して終わらせたけど」

「なるほど」

 あの余裕はここからなのか。

 普通、夏休みが終わる二日前とかに切羽詰まって写し始めるんだと思うけど。
 計画的に解答を写すって聞いたことないな、彼らしいといえば彼らしい。

「ユウヤは宿題はもう終わらせたの?」

「あとは読書感想文だけです」

「兄弟でえらい違いだな」

「まあ、生まれ持った才能がコイツとは違うな」

 四個も違う弟に誇るな。
 コウタはなんでいつも自信げなんだろう?


 昼になって、適当なものを作って出す。
 夕飯の残りと既製品をちょっとアレンジしたものなのに、普通に喜ばれる。

 男だけだと、あんまり気にすることもないし、多少雑でもバレなかったりする。

「俺も料理練習しようかな……」

「いいんじゃない」

「全能感を出したい」

「部屋の掃除とか自分でしないだろ」

「バレた?」

「まあ、予想だけど。コウタはそこからだな」

「……ハル、まじお母さん」

「お母さん?」

「母性を感じる」

 感じないでくれ。




 家のインターホンが鳴る。

 昼過ぎ。一日で最も暑い時間帯だ。

 普段うちにくる人は滅多にいないし、姉は出かけていて千咲もこの時間は学校で部活のはずだ。

 七海姉妹も来るなら俺に連絡を入れるだろうから、その可能性は考えにくい。

 宗教勧誘やら訪問販売だと面倒だな。

 無視するか、プレイ中だし。

「俺見てこようか?」

「……いや、いいよ。悪いよ」

 もう一度インターホンが鳴る。
 思わずコウタの方を見る。

「……お願いしていいかな?」

「あいよ」

「勧誘とかだったら、適当に今親いませんとでも言ってくれ」

「おっけ」

 そわそわする。


 やがて、コウタが早足でリビングに戻ってきた。

「どうだった? やっぱ勧誘?」

「いや、おまえにお客さん」

「……客? 誰だそれは」

「家の外に待ってもらってる」

「コウタの知ってるやつ?」

「いや……」と歯切れの悪い返事。

「多分だけど、さっき話してたハルの中学のキャプテン……だと思う」

「はあ?」

「よく覚えてねーけど、多分そう」

「……」

 いずれにせよ、帰ってもらおう、と思う。
 コントローラーをユウヤに渡して、ドアを開けて応対する。


 いかにも部活帰りのような姿で、そこに彼は立っていた。

「よう」と言って、彼は手をあげる。

「帰れ」と言って、俺はドアを閉めようとする。

 話すことなんて、何もないのだから。

 ドアの隙間に足を挟まれて、それを止められる。

「どうしても、話しておきたいことがあるんだ」

「俺はない。帰れ」

「……頼む」

 真面目な口調で、彼は呟く。

 そいつは、いつもおちゃらけた奴だった。
 だから、そんな様子を俺は見たことがなかった。

「行ってこいよ」と後ろからコウタが俺に言う。

 無責任なこと言うなよ。
 この前も夏祭りで会って、千咲に絡まれて、あのザマだ。


「……ハルに、謝りたいんだ」

「……謝る?」

 こくっと彼は頷く。

 謝られる? 今更? 何を?

「ちょっと待って」

 なるべく落ち着いた声音で言うと、彼はあっさり引き下がる。

 ドアを閉めて、コウタと正対する。

「進めてこいよ」

「……は?」

「よくわかんねーけど、中学のときに何かあったんだろ、さっきの奴と。
 ……なら、ちゃんと話をするべきだと俺は思うよ」

「……いくらコウタでも、そんな無責任なこと言うなよ」

「じゃあ、話だけ聞いて、嫌だったらぶん殴ってこい」

 話が飛躍しすぎている。


「こんなこと言うのも何だけど、"そこ"をクリアしないと、いつまでもおまえのモヤモヤは晴れないかもしれないぞ?」

「"そこ"」

「そうだ」

「……それは、わかってる」

 抽象的な物言い。
 言いたいことはわかってる、けど。

「今のおまえなら、大丈夫だ」

「……」

「せっかく今日の夜楽しいことするのに、暗い気持ちでいる奴がいたらつまんねーだろ」

 話を聞いてますます気分が沈むこともあるかもしれないのに。

 つくづく人の事情を気にしない奴だ。

 けれど、彼なりに俺に勇気を出してもらおうと思って言っているのだろう。

「……はあ。まあ、そこまで言うなら、話だけでも聞いてくる」

 ドアを開ける。

 近くの公園に行って話そうか、と言われる。

 動揺して、ため息が出そうになる。
 でも、それを我慢する。

 きっと、大丈夫だ。




 ベンチに座った俺に、彼はちょっと待って、と言って自販機で飲み物を買ってきた。

 彼は向かいに座る。

 隣に飲み物を置かれる。
 受け取りはしない。

「久しぶり」

「……」

「じゃないな。この前、祭で会ったよな」

「……御託はいいから、要件だけ話せ」

「うん」

 そう言うと、彼は俺の前までやってきて、地面に頭をつけた。

「……すまなかった」

「……は? どうして」

「……ごめん。中学の時のこと、ずっと、ハルに謝りたかった」

「だから、なんで謝るんだよ」

 顔を上げるように促す。

 それでも顔を上げない彼の肩を掴んで無理やり上半身を起こさせる。

 ブランコの近くにいる子ども連れのママ友連合が訝しげな視線をこちらに向けてくる。


「……あのさ、目立ってるから」

「すまん……」

 彼はそれでも申し訳なさそうだった。
 なんでだろう、と思う。

「話して、いいか?」

「いいよ」

「中学三年の時、クラスのみんなで寄ってたかってハルに嫌がらせをした」

「……そんなことあったっけ?」

 とぼける。
 もうあまり思い出したくない。

「……ああ。それで、弱っていくハルを見て、みんなで笑ってた」

「……」

「……ごめん」

 俺は首を横に振る。
 いじめられてただとか、そんな自覚はあまりしていなかったから。

「初めは、ハルが部活サボったり、挙げ句の果てに退部したりしたことに対しての当てつけだった」

「……」

「ハルがバスケに誘ってくれたのに、最後の総体絶対に勝とうなって言ってたのに、って他のバスケ部の奴らは思ってたんだと思う」

「……うん」


 謝りたいというのに、なぜか俺が責められている。
 弁解の手段を俺は持ち合わせていない。

「顧問のあいつに聞いたら、『もうバスケはつまんなくなった』って言って退部届を出したって聞いた。
 それで俺は──俺らは、裏切られたって思ったんだ」

「その通りだよ」と俺は笑う。

 何も間違ってない。全て事実だ。

「……最初は小さな嫌がらせだったけど、ハルは全然気にしていない様子で、俺らはますます苛立ちが大きくなっていった」

「……その話、俺にして大丈夫なの?」

「ああ」

「……」

「無視とかじゃ効かないなって思っていたら、千咲ちゃんとおまえを引き剥がそうって、誰かが言ったんだ」

「あの二人のどっちか?」

「……すまん、覚えていない」


 まあ、そうだよな。

 自分たちを裏切った奴が、かわいい子と幼馴染で、その幼馴染にそっけなく接してる。

 あの頃は、ぼーっとしてることが多くて、クラスメイトに話しかけられても無視していたり、ずっと机で寝たふりをしていた。

 無視されている自覚なんてなかった。
 誰も近寄るな、と思っていた。

「それで、ハルに嘘をついた」

「……『千咲ちゃんはおまえのことを迷惑がってる』って?」

「……うん」

 あの時のこと。

 でも──。

「……それでも、ハルは全然気にもとめなくて、どんどん行為はエスカレートしていったんだ」


「……」

「ごめん」

 彼はもう一度頭を下げる。

「……話はそれだけか?」

「……」

「……俺は知ってたんだよ、全部。
 千咲がそんなこと言うわけないってのも、千咲と仲良くする俺をみんながよく思っていないのも、残された部員の奴らが俺をどう思ってるのかも」

 知ってて、そういう行動に出ていた。
 自分のことで頭がいっぱいで、家での自分と外での自分の乖離に頭がおかしくなりそうで。

 気丈に振舞うのに疲れて、もうやめてしまいたいと何度も思って。

 言えない秘密を抱えて、それを悠々と言えるほど信頼できる人間だとは思ってなかった。

 俺だって、勝手に差別していたんだ。

 だから、謝られるいわれなんてないんだ。


「顔を上げてくれよ。俺が悪いんだよ」

「違う」

「違くないだろ」

「……違うよ。ハルがどう思ってても、俺たちはそれをやったっていう事実は消えない」

「だから──」

「……離婚、したんだろ? ハルの親御さん」

「……」

 固まる俺をよそに、彼は言葉をつなぐ。

「俺らはハルの事情をこれっぽっちも考えないまま、場当たり的なことばかりして、裏で笑ってた」

「……」

「ハルが、ただの悪人だと思い込んで、際限のない思いをぶつけてたんだ」

「だから……ごめん」と、彼は言う。

 相容れないな、と思う。
 もっとうまくやれる可能性だってあったんだ。

 そのチャンスをふいにしたのは俺だ。

 家族で一緒にいたかった。ただそれだけだった。

 でも、それなら……。

 彼は、彼一人は、そんな思いをずっと抱えていたのか。

 言わなきゃ、と迷っていて、そのままずっと言えないままでいたのか。


「それで、仲直りでもしたいのか?」

「……」

「……」

「したい」

「……じゃあ、しよう」

 彼は唖然とした表情で俺を見つめる。

 そんなことを言われるとは思っていなかった、とでも言うように。

「あのときのこと、俺は、今でもおまえには言えない。
 俺が言わないのだから、おまえだって謝らなくてもいいんだ」

「……」

「何かに気付いてくれただけで、俺は良かったって思うよ」

「……良かった?」

「他の奴らは、こうして話をしにくることなんて絶対にないだろ。
 ……だから、会いにきてくれるだけで、それだけで、俺はおまえと仲直りしたいって思うし、俺も謝りたいって思う」

 100%全部本気の発言ではない。

 でも、彼は会いにきた。

 嫌な態度を表に出した。帰れと言った。


 けれど、彼は自分の気持ちをこうして伝えてくれた。

 それだけで、俺は十分だと思った。

「ごめん。あのとき、何も言わず部活をやめて、おまえらを避けるような行動をとって、気付かないフリをずっと続けてて」

 彼の前に手を差し出す。

 数秒後、彼は俺の手を取る。

 簡単なことを、俺は忘れてしまっていた。
 
「ごめんな」

「謝るなって」

「ハルが謝ったからだよ」

「……じゃあもうお互い謝らない。いいよな?」

 彼は少し頭を悩ませるように唸った後、しぶしぶ頷いた。

 気付けば、日が落ち始めていた。

 昔よく遊んだ公園から見える景色は、そのときの記憶となんら変わりないものに見えた。





 ドアを開けると、コウタに迎えられた。
 ずっと玄関先に正座をしていたらしい。

「どうだった? 殴った?」

「……殴ってないわ」

「つまんねーの」

「うるせえ」

 彼は少し心配していたようだった。
 ちょっとは優しいとこあるんじゃん、と思う。

 家に帰ってほどなくして、姉と千咲が帰ってきた。

「花火買いに行かなきゃ」

「ホームセンターに行こう」

「じゃあ、チャリだな。貸してもらえるか?」

「いいよ」

 ユウヤを河川敷に連れてきてください、と二人に言って、家を出た。

「どうだ、進めたか?」

「うん」

「……良かったなあ」

「まあ、ありがとな」

 素直に礼を言うと、彼は照れたように笑って、そっぽを向いてしまった。

「今日は、楽しもうぜ」

「そうだな、楽しもう」




 河川敷に到着すると、すでに俺とコウタを除く全ての人たちが揃っていた。

 辺りは夕暮れ。川の水がオレンジ色に染まっている。
 暗くなってから花火を始めようと決まって、各自自由行動になる。

 俺とコウタだけ夕飯を取っていなかったから、近くのコンビニに弁当を買いに行く。

 コウタは花火を買い足していた。
 パッケージを見ると、『夏のイケない夜遊び 380発!!!!』と書いてあった。

 イケない夜の遊びねえ……。

 戻ると、みんなで水遊びをしていた。

 買ってきたものも食べずにコウタがそれに加わっていく。
 少し食べてから、俺も川の方へ向かった。

 水切りをして遊ぶ姉とユウヤと杏を眺める。


 微笑ましい光景に感心していると、ぶしゅっとした音とともに、背中にひんやりとした感覚を得る。

「せんぱーい、後ろがガラ空きですよー」

 なぎさはニヤニヤとして俺に水鉄砲を向ける。

 側に落ちている水鉄砲を手にとって、すぐさま撃ち返す。

「あたりませんよー。それちっちゃくて弱いですし」

 たしかに。

 てか、その水鉄砲大きすぎないか?
 反則じみてる見た目だ。

 ならば、と考えて連射する。

 勢いが弱いなら数で勝負だ。

 撃ちまくっているうちに吉野さんや千咲に当たったらしく、どんどん水鉄砲サバゲーに参加者が増えていく。


 コウタはエアガンを取り出した。

「そんな物騒なもの出さないでください」

「……じゃなくて、こっちだ!」

 逆の手に持っていた水鉄砲で、顔の近くを撃たれる。

 さっきから普通に濡れてる。

 もういいや、と思って手当たり次第に乱射する。

 なぜか集中攻撃された俺とコウタは上下どちらも濡れながら、ほぼ二対六でさらに濡れ続けていた。

 女の子たちは下着透けてるけど、着替え持ってきてるのでしょうか。
 ……そんな思いやりの全くない攻撃を、俺ら二人は送り込む。

 なんか、普通に楽しい。




「暗くなってきたし、そろそろやめよっか!」

 吉野さんが突然そう言って、水鉄砲サバゲーはお開きとなった。

 荷物を置いたところへ戻る。
 俺以外は着替えを持っていた。

「言ってなかったっけ?」とコウタが笑いかけてくる。

「聞いてないっす」

 対岸には同じように花火をしにきた学生グループがいて、もう始めようとしていた。

 持っていたタオルで身体を拭く。
 まあ外は暑いし、すぐに乾くだろうと、そのままでいることにする。

 ほどなくして、みんなで花火を始めよう、となった。

 まずは第一弾として、各自好きなものを好きなだけやっていいらしい。


 コウタは打ち上げ花火を二本手持ちして、壁に向かって発射する。

「熱ィ! ハンパねぇ!」

「馬鹿だろ」

「ハルもやろうぜ」

「それ上に撃つものでしょ……?」

「知らねえ、ロケットは横に発射するものだ」

 打ち上げ花火を手渡される。

 シュワシュワと泡のような音が聞こえる。
 近くに家はないし、騒音とかも心配ないだろう。

 物は試し。打ち上げ花火を持って火をつける。

 ばーん。ばー……。

「……あっつ! 火傷するわ!」

「しないしない」

 そう言って彼は何発も打ち込むたびに、「熱!」と叫んでいた。

「お兄さん! こっち来てください」

 杏は先端から火花が噴き出す花火を持ってくるくると周りを駆けている。


 なぎさは蛇花火をひたすら眺めていた。
 謎すぎる。これも邪道好きか?

「カブトムシつかまえた」とユウヤが見せてくる。

 暗くて見えないし、手を離したカブトムシが俺の顔にとまった。

 なんだこれ……。

「はーくん、ナイアガラの滝やりましょう」

 なんだそれ、と思ったが、普通にナイアガラの滝みたいな花火だった。

 かがくのちからってすげー!

 すげー勢いで足が虫刺されだらけになる。

 かがくさんふつうによわい。

 帰ったらムヒ塗ろう。

 それから、しばらくいろんなところを周りながら花火をした。

 吉野さんの持っていた二十五メートル上がる花火を打ち上げる。

 なんだこれ、めっちゃ楽しい。
 パラシュート出てきたし、しょぼいけど。


「ここで、一旦ストップです」

 一旦CMですみたいな言い方。

 打ち上げ花火を使い果たし、ロケット花火までも半分ほど使ったコウタが手を叩く。

「みなさん、はしゃぎすぎです」

「いいんじゃね?」

 おまえが一番はしゃいでるよ! と女たちから声が上がる。

 何ら間違ってもいない。

「いいえ、はしゃぎすぎです」

 この前から思ってたけど、何かを提案するとき敬語になる癖があるらしい。

「刺激が足りないように感じますよね」

 んなことない、みたいな顔をする。

「だから、肝試ししようぜ!」

「き、肝試し?」ユウヤが一際大きな反応をする。

「そう! 夏の夜の定番といえば肝試しだろ!」

 なぜか彼は誇らしげだった。


「ここらへん、幽霊が出るとか出ないとか……」

 隣にいた杏の肩がびくっと跳ねる。
 同じタイミングでユウヤもビビっている。

 この前最恐ホラー番組を観たせいかもしれない。

「ネットに書いてありました。
 上半身のない幽霊に追いかけられたとか、写真を撮ったら肩のところに手が置いてあっただとか……」

「ひぃっ……!」

 ユウヤはかなりのビビリらしい。

「……範囲はどうするの?」

「そうだな……。調べたところによると、ここをまっすぐ行くと、林道の奥に祠があるから、そこにタッチするってのはどう?」

 やけに詳しいな、こいつ。

「……で、帰りは対岸に渡ってこっちに帰ってくる」

「さんせー」と吉野さん。

「私も賛成」と姉。

「じゃあ俺も」と言う。

 肝試し。オラワクワクすっぞ!
 すでにテンションが深夜のアレだった。


 多数決により八人全員参加となる。
 怖がっていた人はどうにかして開き直ったらしい。

「そこで!」

「……」

「みんなで行くのは芸がないので、二人組にするか、となるわけですよ」

 な? とニヤニヤした顔を向けてくる(暗闇でよく見えないけれど、多分そう)。

 何かあったらいいな、ってこういうことか。

「どうやって決めんの? グーパー?」

「くじを作ってきました」

 吉野さんがバッグから重そうな箱を取り出してコウタに渡す。
 一から四の番号が書かれた紙が二枚ずつ入っているらしい。

 吉野さんが俺の肩をポンと叩いて「がんばれよ」と言う。

 なんのことだ、と思いつつ、みんなで順番に引くことにする。

 コウタは懐中電灯を四本取り出した。
 準備がよすぎて困るくらいだ。


 箱の周りを照らす。

「あのー……」と杏が声を上げる。

「どうしたの? 杏ちゃん」

「わたし引くの最後でいいので、その箱持ちますよ」

「……おー、ありがとう」

 コウタが手渡すと、意外と重かったのか、杏が箱を下に落とした。
 彼女は「んしょっ、と」と言いながら紙を集めて箱を持ち上げる。
 少なからず萌えを感じる。

「見ていたらやっぱり引きたくなりました!」

 二人目が引き終えたあとに、引きたくなったという杏がくじを引いた。

 近くで「あっ」、という誰が言ったかわからない吐息のような声が聞こえた。

 吉野さん、コウタ、杏と引いて、四番目にくじを引く。

 引く前に、「お兄さん」と話しかけられる。

 なんだ? と思って近付くと、「折ってあるのはダメですよ」と誰にも聞こえないような小さい声で言われた。

「どういうこと?」と聞き返したけれど、杏は何も答えずその場でにこりと笑うだけだった。

僕は大穴で杏ちゃん貰っていきますね
来週いっぱいくらいで終わります(多分)


今更だけど名前に法則性あったりする?




「それじゃお兄さん、そろそろわたしたちも行きましょうか」

 俺たちの番になって、内心少しビビっているに違いない杏が手を出してきた。

 スタート地点に残る人は俺らを除いてなぎさと姉のあと二人。
 つまり紙に書かれていた数字は三番だった。

 一番目はコウタと吉野さん。
 二番目は千咲とユウヤ。

 どちらも男女ペアになっているのが偶然にしては出来すぎかもとも思う。
 ほら、俺と杏も一応男女だし。

 真っ暗闇の中を、懐中電灯の少しの明かりのみで進んでいく。

 もちろん月明かりはあるが、林道に入ればよく見えなくなったりしそうだ。

 なんとなく夜の肝試しに楽しそうな雰囲気を感じたが、実際暗闇を歩いてみると普通に怖い。

 夜が更けて、肌寒さの増した静謐な河川敷。

 虫の音、フクロウのようなほーほーと鳴く鳥の声、木々のざわめき。

 出そう、というのにも考えなしに頷ける。

 隣を歩く杏はすっかり無言になっていて、所々で石につまずいてしまっていた。


 俺だって年長者だ、ここは何かを話そう。

「星が綺麗だな」

「……そ、そうですね。綺麗ですね、月も綺麗です」

「……怖い?」

「怖いです」

 月がよく見える場所まで歩いた。

 白く透き通るような肌。
 杏のそれは月明かりに映えて光を放ち、どこか幻想的な雰囲気を醸し出す。

 夜風で切り揃えられたショートカットの髪が舞う。
 立ち止まって夜空を見上げると、彼女も同じ方向を見上げた。

「一番怖いのは人間だってよく言うじゃん」

「聞いたことあります」

「……例えば、廃墟とか、心霊スポットとか、こういう暗い場所とか。
 一番怖いのは何だと思う?」

「……ゆ、幽霊ですか」

「ハズレ。……答えはな、ヤのつく人だ」

 杏は首をひねる。


「……やくざ?」

「ヤンキーだ。そっちの方がよっぽど怖えなおい」

 ヤのつく人を思い浮かべてみる。
 ヤクザ医師。ヤクルトレディ。ヤマンバ。

 半端ねえな。普通に薬剤師だし。

「廃墟とかに集まってワイワイしてんだよ。で、肝試しとかに入ったらカツアゲされたりすんの」

「……その人たちは怖くないんですかね」

「……まあ、俺等最強! って感じだから、きっと」

「なるほど」

 そこ納得するのね。

「そういえばさ、引くときにどうしてあんなこと言ったの?」

「引くとき?」

「『折ってるのはダメ』って」

「……あー、その、神のお告げです」

「うん、なんだそれ」


 林道に入る。
 怖いなら手繋ぐ? と言うと、わたしも中学生なので大丈夫です! と躱された。

 振られた。さすがに対象外です。
 自分でも何考えてるんだか。

 にしても。雰囲気あるなあ……。

 足元は土でちゃんとしているけど、木の切れ端が落ちていて、踏むと音が鳴ってビビるし、懐中電灯に虫が集まってきてやかましいし。

「いくらなんでも、ズルはダメですよね、って思ったんですよ?」

「……ズル?」

「だから、わたしもズルしちゃいました」

 何を言いたいのかがまったくわかんねえ……。

 ズル。言い換えれば不正。
 何かを仕込んで、誰かと誰かを組ませようとする、ぐらいしか思いつかない。

 でも、この場合こうして折られていない紙をとったら杏とペアになったわけで。

 つまり、杏は俺と組みたかった?

「俺と組みたかったの?」

「まあ、それもあります」

 正解か。


 杏が足元の小石を蹴る。
 ひときわ強い風が吹いて、木々がざわざわと大きな音を立てる。

 彼女はゆっくりと深呼吸をした。

「わたし、お兄さんのこと大好きです」

「……ん?」

 ──大好きです。

 突然の告白に驚いて彼女から少し距離を取ると、
 向こうもびっくりした様子で「違うんです違うんです!」と手をわちゃわちゃ振って否定した。

「わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくてですね。
 ……いや、お兄さんのことは大好きですからね? そこは勘違いしないでください」

「あ……うん、ありがとう」

 ビビる。年下にあやされてる気分。

「でも、それと同じかそれ以上に、お姉ちゃんのことも好きなんです」

「……仲良いもんな」

「そうです。だから、それが理由です」

 理由? はて、何のことだ?


「お兄さんは──」と杏は話を続ける。

 頷きを返して、静かに聞く。

「気付いてましたか? お姉ちゃんのあの口調は、お兄さんに対してだけのものだったってことに」

「気さくな感じの?」

「はい。それで、この前帰ってきてからは、普通の感じに戻っていました」

「……たしかに」

 崩した言葉から、たまに敬語を外してくることもあれども、普通の先輩後輩関係の人が使うような敬語に変化していた。

 詳しく言うと、帰省の最中からではあるのだが、それほど大きな違和感もなく、自然とそうなっていた。

 そういえば、と思い返す。

 彼女はあの夜、呼び方や話し方を通じて、俺ともっと近付きたかった、と言っていた。

 それで、呼び方はまた先輩に戻っているけれど、口調は戻っていない。

「お姉ちゃんにとってのお兄さんは、とってもとっても特別な存在なんですよ」

「……うん」


 話しながら歩いていると、感じていた怖さもどこかへ飛んで行ってしまって、すぐに祠へと到着した。

 どうやら、その祠は土地神を数体祀っているらしく、お供え物だったりが二、三置いてある。

「手を合わせると憑いてくるって聞いたことあります」

「大丈夫じゃない?」

 二人で祠の前で手を合わせてお辞儀をする。

 これで、肝試しの折り返し地点に到着した。
 あとは向こうの道から引き返すだけ。

 杏に合図をして歩き出そうとすると、困ったように笑って、膝に手を置いた。

「お、お兄さん。怖すぎて足が疲れちゃいました」

「……杏もまだ子どもだな」

「お兄さんだってビクビクしてましたよ」

「同レベル」

「中学生と同レベルですか!」

「……じゃあ、ちょっとここで休んでから動くか」

「よかった……。ここ座れるみたいですし、ちょっとだけお願いします」




 俺たち二人は十五分ほど祠の裏面に腰かけて休むことにした。

 懐中電灯をぶんぶん振り回していたら突然電池が切れてしまって、
 どちらともスマートフォンを持ちあわせていなかったから、その場からうまく動けずにいた。

 祠の文様が十二支を象ったもので、海の近くにあった神社のことを想起させる。

 杏が上着のポケットをガサゴソと弄って、音楽プレーヤーを取り出した。

 それによると時刻は二十二時過ぎ。
 花火を始めてからだいぶ時間が過ぎてしまっていた。

 何か聴きましょう、と言われイヤホンを片耳だけ拝借して、適当にシャッフルで音楽をかけた。

 ──月灯りふんわり落ちてくる夜は。

 知っている気がしなくもない曲。
 何より、今の月明かりに照らされた空間にマッチしていると思った。


「これいつの曲?」

「わからないです。これ、わたしのものじゃないですし」

「ふうん」

 しばらく何曲か洋楽やら邦楽やら入り混じった音楽を聴いていると、向こうからガサゴソとした音が片耳に聞こえてきた。

 杏の身体がびくっと痙攣する。
 ガチガチに固まった顔で、俺を見たり見なかったり。

 見るからに動揺を隠せない様子でいた。

「ちょ、っと、ヤのつく人じゃないですか」

 コソコソと耳元で呟かれる。
 上ずった声にこちらまで怖気付いてしまいそうになる。

「俺が見てこようか?」

「ム、ムリムリ……二人で行動しましょうよ」

「じゃあ二人で表に出るか」

「もっとムリ!」

 杏が小さな声で叫ぶと同時に、何やら話し声のようなものが漏れ聞こえてきた。


 その二つの声には、どちらも聞き覚えがある。

「姉さんとなぎさみたいだぞ?」

「なんだー……もうここまで追いつかれちゃったんですか」

「一緒に戻ってもらおうか」

「……ん」

 立ち上がろうとすると、杏に服の裾を掴まれてそれを制され、まだ座ってるように呼び止められる。

「ちょっと、あっちで何か話してますよ」

 言われて、向こうの方へに耳を傾ける。
 たしかに、二人は会話をしているようだった。


「……それで、なぎちゃんはハルのこと好きなの?」

「好きですよ」

 聞こえてきた会話で、心臓がどきりとする。

 なぎさは一瞬の迷いを見せる様子もなく、俺のことを好きだと言い切った。

 隣で、杏がふるふると首を縦に振る。

 盗み聞き、聞いてはいけないものだと思うけれど、それ以上を聞きたいと思ってしまった。

「でも」と、いつも近くで聞いていた声がする。

「でも、私は邪魔者なのかもしれません」

「邪魔者?」

「……先輩と千咲先輩は好き合ってるんじゃないかなって思います。
 だから、個人的な感情でその間に割って入るなんて、そんなことしていいのかなって」


「なぎちゃん」

「……はい」

「それはね、間違ってるよ」

「……どうしてですか?」

「何があっても、最後に決断するのはハルだからだよ」

「……」

「ハルのことだから、どちらも選ばないってことはないと思う。
 今だって揺れ動いてると思うし、好きがわからなくなってるかもしれない。
 なぎちゃんだって、それはわかってるでしょ?」

「……はい」

「それにね、私はなぎちゃんに感謝してるんだよ。
 なぎちゃんのおかげで、ハルと仲直りできて、みんなと一緒にこんなに楽しく遊べて……」

「……」

「そりゃ昔から一緒にいたちーちゃんだって応援はしてるけど」

 姉はそこで間をとった。

「……なぎちゃんになら、ハルを任せられるって私は思う」

「……」


「遠慮なんてしなくていいの。ハルに、正面からぶつかっていってあげて」

「……あ、あの、ありがとうございます」

「それで、なぎちゃんはどうしたいの?」

 また少し間が空いた。

「……私は、待ちます。私からは絶対に手を離さないって、先輩と約束しましたから」

「……うん、わかった。なぎちゃんがそう思うならそれでよし!」

「はい」

 それから、踵を返して二人は歩き去って行った。

 残された俺と杏は顔を見合わせたまま数分固まっていた。

「だ、そうですよ。お兄さん?」

「……うん」

「聞かなきゃよかったって思いますか?」

「思わないよ」

「……愛されてますねー、お兄さんは」

「……らしいな」


 なぎさと姉の会話を聞いて、ここまで想われれているなんて、と嬉しく思った。

 それに、普通に喜べる自分も嬉しい。

 でも、タイムリミット。ここでもそうだ。
 俺たちも行こっか、と杏に声をかけて歩き出す。

 さっきまでの道とは違って木々の間隔が広く、月明かりで十分視界が取れる。

 ──大丈夫ですよ。
 ──離れませんし、絶対に離しませんから。

 歩いていると、ずっと、と彼女に言われたことを思い出して、顔が赤くなるのを感じた。

「あのさ」

「……なんですか?」

「多分、杏はものすごく小さなときのことだと思うんだけど」


「……えっと」

「──に住んでたことってある?」

 もしかしてな、と思いつつ、そのままにしていたことを、杏に訊ねた。
 あの場所で少しだけ感じた違和感、あの少女とよく似て見えた彼女、あのときの彼女の狼狽した様子。

 杏はきょとんとした顔で頷きを返してくる。

「……ありますけど、それがどうかしたんですか?」

「ううん……なんでもない」

 ……そっか。
 夢や妄想なんかじゃなかったんだ。

 どんな確率だよ、どんな偶然だよ、と頭のなかがぐるぐると回る。

 でも、これではっきりした。

 あの夢に出てきた少女は……なぎさだった。




 スタートした地点まで戻ると、心配した様子で六人が駆け寄ってきた。

「二人ともどこ行ってたの」

 コウタは手を挙げる。

「これ、電池切れになっちゃって。ちょっと迷ってたんだ。な?」

「……えと、そうです。暗くてよく見えなくて」

「心配したー!」「幽霊に連れてかれたのかと思った」と口々に言われる。

 たしかに、四組目が帰ってきて三組目がいなかったら驚くよな。

「じゃあみんな揃ったことだし、気を取り直して、花火第二弾といきましょうか」

 コウタの言葉とともに、みんな散り散りになってまた花火を始めることにした。

 どうしたもんかなとうろうろしていると、千咲が近くまで寄ってきて、線香花火の勝負をしようと言ってきた。

 周りを見渡すと、コウタと吉野さんはロケット花火の残りを発車して暴れていて、
 他の四人は一緒に水場で手持ちの花火を複数持ちながら駆けていた。


「はーくん、勝負です」

「うい」

 風は吹いているが、千咲の背中によってガードされている。

 俺はオレンジ、千咲は緑の色の光がパチパチと弾ける。
 しばらく見つめていると、ちょうど同じぐらいのタイミングで地面に落ちた。

「俺の勝ちだな」

「いやいや、どうみても私の勝ちです」

「じゃあもっかい勝負だ」

「……はい」

 千咲は楽しそうに何本も花火を渡してきた。

「私も参加します!」と後ろからなぎさが声をかけてくる。

 じゃあこれ、と言って持っている線香花火を渡した。

「はーくんとなぎちゃんはどうでしたか?」

「肝試し?」

「はい」

「俺は、杏がビビりすぎてたから逆に落ち着いちゃったけど」

「私も、楓さんと話してたらすぐでした」

「ユウヤくんも私もひいひい言ってたのとは大違いですね」

 自虐、そういえば両方怖いもの苦手だったな。


 それから、何度も三人で勝負をしたが、なぜか俺が一位になることはなかった。

 花火が全て尽きるころには、もはやみんな元気を使い果たしていて(数人は肝試しによる心理的疲労だと思うが)またうちに泊まっていく、ということになった。

 マジか、と思っていると、みんなの荷物にはちゃっかり着替えやらが入っていた。

 最初からそのつもりだったらしい。

 うちに帰ってからも、みんなでリビングから動くことなく遊び続ける。

 さっきの疲れた姿が嘘のように活発に動く。アレか、ハッタリか。

 かき氷を食べたい! と吉野さんが言えば、誰かが作ってみんなで食べたり、
 人生ゲームがしたい! と杏が言えばみんなでプレイしたり。借金地獄になったことは秘密だ。

 こいつらに疲れってないのか……と思いつつも、俺も起きたままでいた。


 風呂に入ると、間髪入れずしてコウタとユウヤも一緒に入ってきた。

「……俺さ、告白しちゃった」

「え、マジで?」

「マジ」

「兄ちゃん振られた? 振られた?」

「おまえあとで殺すぞ。えっと、もうちょっとしたら答えるって言ってた」

「……へえ、感触は」

「大アリ」

 なるほど、だからさっきからテンションがおかしくなっていたのか。

「なんか、一瞬だけ綾が不機嫌になった気もしたけど……」

「そうなの?」

「まあ、多分気のせい」

「ふうん」


 風呂を上がってからも、みんなでワイワイ騒ぎ続けた。

 さっきのこと──なぎさのことは気になったけれど、一旦それを頭から追い出そうと努めた。

 まずは若い二人が寝入って、なぜかコウタが次に落ちて。

 千咲となぎさも同じようにしてリビングで寝落ちして。

 吉野さんは無言でテレビゲームをしていた。二人だとまだちょっと怖い。

 千咲を部屋に運び終えて廊下に出ると、姉が同じくなぎさを運び終えたようで廊下に出てきた。

「明日、何時頃帰ってくるの?」

「夜だと思うよ」

「そっか、姉さんは寝なくていいの?」

「……ん、もうすぐ寝る。あんたこそ寝なくていいの?」

「……ちょっとね」

 じゃ、と言ってリビングに戻ろうとする。

「……ね」

「ん?」

「肝試し、二人きりにならなくてよかったね」


「なんのこと?」

「……のこと」

「……え?」

「二人のこと、ちゃんと考えなさい! おやすみ!」

 なんかディスられて、姉はそのままてててっと部屋に駆けていった。

 廊下に一人になって、今日あったことを思い返す。

 旧友と和解のようなものをした。
 なぎさの想いを聞いた。
 少女が誰なのかを知った。

 依然として頭はぐるぐると回っている。
 答えなんて、見つかるのだろうか。

 でも、まずは明日父さんと話をしてからだ。

 それが新たな一歩であると、そう信じよう。

このスレで完結します
900ですがどしどしコメしていただけると嬉しいです

>>880
名前に法則はないです
名字との兼ね合いと、あとは語感でつけました




 朝から雨が降り続いていた。

 散々夜中まで騒いだ俺たちの大半は、そのまま昼過ぎまで眠っていた。

 夏はまだ終わっていないし、夏休みだってあと少し残ってはいるけれど、なんとなく夏の終わりのようなものを感じる。

 昨夜は、吉野さんがゲームをしているのを見ながらぽちぽちとスマホをいじっていたらいつの間にか寝てしまっていた。
 特に話しかけられたという記憶も残っていない。

 朝起きて、自分の部屋でぬいぐるみを抱きしめて寝ているなぎさの髪を撫でた。
 なんとなく起こさないように、別に起きていたって怒られないだろうけど、少しでも力が欲しかった。

 リビングでぼーっとしていると、そのうちに杏が起きてきて、みたらしの散歩をしようと言われた。

 犬用のレインコート。相合傘。リードが不安定だから俺が傘をさしているのは好都合のようだった。

 ぴちゃぴちゃとアスファルトが音を立てる。雨の匂いは久しぶりかもしれない。

「前から思ってたんですけど」と、杏が呟く。

「お兄さんってかなりのシスコンですよね」

「そう?」

「楓お姉ちゃん、優しいし料理も美味しいし何よりかわいいですし」

「それわかるな」

「ほら、やっぱり」

 杏がくすくす笑う。


 言われて気付く。
 わけではない。普通に俺はシスコンです。

「杏だってそうだろ」

「そうです、お姉ちゃん大好きです」

「……」

「昨日も言った通りですよ」

 それは、そうだけど。
 こう……ね、姉妹愛なのに変な妄想をしてしまう自分の罪深さを恥じたい。

「最近さ、姉さんがよく笑うようになったんだよ」

「……えっと」

「バタバタといろんなことがあってさ。だから、今はみんなといるのが好きみたい」

「嬉しいことですね」

「……まあ、何が言いたいかって言うと、笑ってる姉さんはすげーかわいいって話だよ」

「お姉ちゃんもかわいいですよ」

「じゃあ、毎日抱き枕になってあげなさい」

「それはムリです」

「どして」

「わたしの身長だと、お姉ちゃんに抱きしめられると……」

「胸で窒息」

「よくわかりましたねー」

 容易に想像がついた。

「あれです、あんなに成長するとは思ってなくてですね」

「……」

「お兄さん大きい胸が大好きですもんね」

「ふつう」

「嘘だ!」

 あまり考えたことないや。




 お昼時になると、みんなでリビングに集合して、ファミレスにでも行こうとなった。

 ファミレスはサイゼが至高。
 本当のこと言うとガストの方が好きだったりする。

 大正義ミラノ風ドリア。をスルーして、パスタを食べる。

 コウタはピラフ、姉は海老ドリア、吉野さんは俺と同じくパスタ、千咲はチキンプレート。
 杏とユウヤはあまりお腹が空いていないらしくドリンクバーのみの注文。

 なぎさはエスカルゴを食べていた。
 食べたことないわ、あれ美味しいんだろうか。

 言っちゃえばカタツムリでしょ。

 食事をしながら、午後からどうするかを話す。

 俺と姉は用事がある、と一応すぐに言っておいた。

 すると、何を思ったかこれから六人でカラオケに行くらしい。
 五時間パック、やっぱり無尽蔵の元気を持っているようだ。


 外に出ると雨が一段と強くなっていた。

 姉と一緒に帰宅する。
 リビングで参考書を開いた姉に迷惑はかけられないと思い自分の部屋に移動する。

 昨日まで晴れてよかったな、と考える。
 ふと気付けば、どんどん居心地が良くなっていた。
 
 一息ついて、頭を切り替える。

 とりあえず、取りこぼしのないように言いたいことを紙にまとめてみよう。

 父さんの過去の話。
 母さんの話。
 俺の話。
 これからの話。

 最初の話については、どこまで触れていいものなのか判別がつかないけれど、あまり考えすぎずに訊ねたい。

 それに、一番重要なのは最後のことだ。

 過去は変えられない。
 俺は過去にずっと悩んできて、姉さんもそういう様子を見せていて。

 今も、これからも過去はずっとついてまわることだとも思う。

 だから"これからどうするか"だ。

 理想なのは、父さんが少しでもいいから今までより帰ってくること。

 会社が本当に大変なら、それならそれと割り切ろう。
 多分、俺がしてほしいのは意識的な問題で、改善とは言わずとも改良くらいは取りつけたい。

 それに、ゆかりさんとの約束だってある。

 落ち着こう。





 時が経っても、雨足は弱まりを見せなかった。

 時刻は十八時四十分。

 そろそろ遅めの夕飯の準備をしようか、と姉が立ち上がると同時に家の電話が鳴った。

 数回の短いやりとり。

「今から帰ってくるって」

 通話を終えて受話器を置かないまま、姉は俺に嬉しそうな顔で話しかけてきた。

「それで、傘持ってないから駅まで迎えに来てほしいって」

「うん」

「……ハルが行ってきなさい」

「姉さんも」

「いいの、男同士しかわからないことだってあるじゃない」

「でも……」

「夜ごはんは作らないでおくから、二人でどこかで食べてきてね」

 いざ、となると少し動揺する。
 それを感じ取ったのか、姉は俺の前に握りこぶしを作った。

「お父さんと、話したいことがあるんでしょ?」

「……うん」

「応援してるから。……あとで、聞かせてね?」

「ありがとう……行ってきます」




 駅前まで走って行った。

 当然だけれど、父さんの姿はなかった。
 自販機で缶コーヒーを買って水分を補給する。

 二十分くらい経って、改札前に父親は姿を現した。

「父さん、迎えにきたよ」

「……ハルか、ありがとな」

 いつものスーツ姿。
 でも、前に会ったときとはだいぶ違って見える。

 二人で雨の中を歩く。

 二人きりになるのが怖かったから、並んで歩くのは数年ぶりのことだった。

 最近どうだった、とか、あんまり家に帰れなくてごめんな、とか。

 やっぱりどこかぎこちない。

「ねえ、父さん」

 満を辞して、隣にいる父さんに声をかける。

「どうした?」

「……話があるんだ」

 なるべく真剣な表情と声音で言った。

「ここじゃないと駄目か?」

「姉さんが、二人でどこか行ってこいって」

「……そうか。大事な話、なんだな」

「うん、聞いてほしい話なんだ」




 数分間に渡って無言のまま父さんについていくと、駅から近くの繁華街に出た。

 俺はというと、かなり緊張していた。

 父さんもその雰囲気を感じ取ってくれたのか、路地にあるビルに入ろうか、と言ってきた。

 細長いビルの四階、エレベーターのドアが開くと、すぐに店員に迎えられる。

 ほぼキャンドルのみの薄暗い照明。
 なんとなくお高そうな装飾。

 カウンターには危なそうな兄ちゃんだったり胸元の大きく開いた服を着た女の人だったりが座っている。

 周りをきょろきょろと見回しても、俺ぐらいの歳の人は誰一人としていなかった。

 どうも、と父が店員に声をかける。

 個室に通されて、正面に腰掛ける。

「ここって……」

「ん、ゆっくり話せるところがよかっただろ?」

「でも、バーじゃ」

「ああ……そうか、まだ高校生か」

「さすがに酒は飲めないよ」

 飲んだと言ったら、何か小言を言われるかもしれない。
 ……言わないだろうけど、うん。


「まあでも、食べ物は美味しいし、何か頼もうか」

「軽いものでいいよ」

「飲み物はどうする?」

「ジンジャエールで」

「辛口か?」

「おまかせで」

 手慣れた感じで父親が注文をする。
 それがなんだか意外に思った。

「こういうとこ、よく来るの?」

「上司とだったり、取引先との付き合いでな……」

「そうなんだ」

 父さんも今日お酒はいいかな、と言って頼まなかった。

 しばし間を置いて、飲み物と共にチーズオムレツが出てきた。

「これ好きなんだ」と父さんは少し恥ずかしそうに言っていた。

 さくさくと食べ終えて、一息つく。


「──それで、話したいことって?」

「うん……えっと」

 彼は静かに頷く。
 目を閉じる。すぐに開ける。

「……この前、あっちに行ってきたんだ。
 それで、ハジメさんにいろいろ言われた」

「……そうか」

「そのあと……ゆかりさんに、父さんのことを訊いた」

「ゆかりに?」

「うん……薫乃さんとの、こと」

「薫乃……か。聞かせてもらえるか?」

 それから、ゆかりさんと話したことを包み隠さず伝えた。
 随所に言いづらいこともあって、でも、必ず言わなければいけないことだと思って、一思いに口にした。

 父親は俺の話の最中、所々で苦い顔をしたり、納得がいかなそうに頷いていたりした。

 話し終えると、彼は大きく息を吐いたあと、飲み物をくびっと飲み干し、おかわりを頼んだ。

「その話は、全てゆかりが言っていたことなのか?」

 目に見えて戸惑っている様子だった。


「……そうだよ。父さんのこと、すごく心配してるって。電話してもなかなか出ないからって」

「あいつ……そっか、心配ばかり、かけていたんだな」

「……」

「ゆかりの言ったことは、ほぼ全てその通りだ。
 昔薫乃に好意を抱いていたのも、兄ちゃんや親戚たちと関係が悪いのも、全部合っている」

 やっぱりそうなんだ、とあまり驚かなかった。

 でも、そんなのは俺からしたらどうでもいい。
 他人の恋路や、自分とあまり縁深くない人たちとの関係なんて、重要さをあまり持たない。

 俺が訊きたいのは、父さんと母さんのことだ。

「……じゃあ父さんは、母さんのことを本当に好きで結婚したの?」

「どうしてそう思う?」

「だって……薫乃さんのことをずっと好きだったんでしょ。
 それで、ハジメさんと薫乃さんが結婚して二年も経たずに父さんも結婚したって、そう聞いた」

 カラカラとグラスの中の氷を回す音がした。


 責めてしまわないように、考えていたことだけれど、直接対峙して出てきた言葉はこれだ。

 俺は彼からの言葉を待った。

 彼は少し迷っていたようだったけれど、目を逸らさず見つめている俺に観念したかのように首を横に振った。

「……そうじゃない、そうじゃないんだ」

「……」

「母さんのことは、本気で好きだった。
 付き合いを始めてから結婚している間は、俺はずっと好きだった」

「なら、どうして」

「それについては、完全に父さんが悪い」

 好きだった。
 母さんも、父さんのことを好いていた。

 そこから、どうしてああなってしまったのか、俺にはわからない。

「こんな話、本当は子どもに伝える話じゃないんだ。
 だけど、おまえは悩み続けていたんだよな」

「……うん」


「……宴会の席でな、兄ちゃんが母さんに余計なことを言ったんだ」

「……なんて?」

「『あいつは君じゃなくて、俺の嫁がずっと好きなんだ』って、そういうことを言ったんだ」

 言い切って、彼は頭をガシガシと掻く。

 それもひとつの可能性としては考えてはいた。
 けれど、さすがにそれはありえないと勝手に打ち消していた。

 人はそこまでして誰かを壊したいと……そんなことを思えるのか。

「でも、それは言い訳になんてならない。母さんと駄目になったのは、それでも俺のせいなんだ」

「どうして?」

「それを聞いてから、あいつは不安定になった。
 もともと自分の感情を抑えるのが下手な子で、おまえもそれについては少し心あたりがあるだろ?」

「まあ……うん」

「……しきりに、『わたしのこと本当に好き?』『愛してる?』って、訊かれるようになったんだ」

「……」

「俺は家族みんなが好きで、愛していたから、その度に答えていた。
 でも、信じてもらえなかった」

 母さんが仕事で帰りの遅い父さんについて嘆く。
 帰省をしたがらない、子どもたちだけとか、父さんと三人でとか。

 思い返せば、それなりに線を結ぶ事象は散りばめられていた。


「母さんは、どんどん追い詰められていった。
 言葉がキツくなっていって、俺と顔を合わすたびに、『あなたは本当は誰が好きなの?』『わたしは薫乃さんの代替品でしょ?』とか、そう言ってくるようになったんだ」

「……」

「それに対して、俺が何を言っても信じてもらえなくて、折れてしまいそうだった」

「白状するよ」と父さんは言う。

 テーブルに手を置いて、頭を深々と下ろした。

「……俺は、薄々気が付いてはいたんだ。
 母さんが浮気をしていたのも、ハルがそれに気付いていたのも」

「そう、なんだ……」

 父さんは、気付いていた。
 あの雨の日。あのとき、父さんが言いかけた言葉は、やはりこのことだったんだ。

「知ってて、俺は長い間そのままにしていた。
 おまえを苦しめて、母さんも苦しめていた」

「……」

「だから、俺は父親失格なんだ」

「……どうして、そのままにしてたの」


「あのときは特に仕事で忙しくて、家族のために時間が全く取れなくて。
 ……それで、楓とハルには母親が必要で、今更田舎におまえたちを預けるなんて、絶対にできないことだと、そう思っていたから」

「姉さんは……」

「楓が脆い子で、母さんから愚痴をこぼされていたのも、わかってた。
 わかってた上で、俺は、そのままにしていたんだ」

「……うん」

 そう言われても、そうなんだ、としか思えない。

 覚悟はしていたことだったから。
 俺と姉さんにとって不都合でも、父さんにとっては、家族を守る手段だったのだから。

 一度壊れたものは元には戻せない。

 壊れかけたものをだましだましつぎはぎするか、きっぱり諦めてしまうか、それしかない。

「俺が母さんのことを伝えたとき、父さんはすぐに行動してくれたのも、全部知ってたから……なんだよね?」

「そうだ」

 彼は目を伏せる。


「……俺は、父さんのとった行動は悪いことだとは思わないよ。
 身体的にも精神的にも傷ついたし、姉さんも元気が無くなってたのもそうだけど、でも……」

 うまく言葉が見つからない。

 父さんは、自分にできることをやっただけで悪くないと、そう言いたかった。

 でも、それを言うことによって更に追い詰めてはしまわないだろうか。

 言葉に出すのは簡単で、だからこそ一生ついて回る。

「……父さんは」

「……」

「家族みんなのことが、本当に好きだったんだよね?」

「ああ、そうだ」

 初めから怒ってなんていなかったから、その言葉だけで胸のつかえが取れたような感覚を得る。

 なんでだろう、と思う。

 俺は「好きだ」とただそれだけを言葉に出してほしかったんだ。

 ずっと、不安だったんだ。
 ずっと、それで悩んでいたんだ。

 俺が壊してしまったと、そう思ってた。

 だから、そうじゃないよって言ってもらいたかったんだ。


 外に出よう、と言って会計をお願いした。

 雨はだいぶ弱まっていて、駅を抜けて歩いた先には人の姿はあまり見えない。

 言いたかったことは、言えなかったことは──。

「父さん、前は駄目だったかもしれないけど……今からでも、やり直そうよ」

「……」

「父さんのことを、俺も、姉さんも、誰も責めないから。
 だから、お互い逃げないで、ちゃんと向き合おう」

「……そう、だよな。あのときだって向き合えれば、よかったんだよな」

 父さんの目から、ぽろぽろと涙が溢れる。

 俺は父さんの泣いている姿を、一度たりとも見たことがなかった。

 父さんは冷淡で、自由人で、あまり俺のことを見てくれなくて、
 今までずっと……そう勘違いしていた。


「帰って、三人でこれからについて話そう?
 姉さんも、絶対に父さんのことを待っているから」

「ごめん……ごめんな」

「怒ってないから、そんなに泣かないで」

「……」

 立ち止まって、父さんは手拭いで涙を拭きつつ、ずっと俺に謝ってきた。

 簡単なことから目を背けていたのは、俺も父さんも同じだったんだ。

 出てきた言葉は、言いたかったことの半分も伝わっていないのかもしれない。

 けれど、これからは今までとは違くなると、そう信じたい。
 話をして、一緒に考えて、その上でどうするかを決めることができると。

 しばらくそのままでいると、誰かの心を見ていたかのように雨が上がった。

 俺は、一歩を踏み出すことができた。




 家に帰って、三人で話をした。

 今すぐは厳しいけど、十月くらいからはなるべく定時であがることにするし、四月からは仕事を減らすようにする、と父さんが言った。

 姉さんは、地元の大学を受ける、と父さんと俺に言った。
 ゆかりさんにはこのことで相談をしていたらしい。

 途中、姉さんが泣き出してしまって、それを宥めたり、
 今度は父さんがもらい泣きをしてボロボロ泣き始めてしまって大変だった。

 翌朝、父さんは元気な顔で「行ってきます」と出社していった。

 次帰ってくるのはもう少し先と言っていたが、俺はそれでも構わない。

 完全に片付いてはいないが、それでも、俺は嬉しかった。

 無理やり戻すのではなく、一から始めることができることが、たまらなく嬉しかった。




 忘れないうちに、とゆかりさんに電話をかける。

 仕事はさほど忙しくないと言っていたし、メールやラインというのも味気がないと思ったから。

「父さんと話をしたよ」

『……どうだった?』

「ゆかりさんの予想はほぼ正しくて──」

 約束通りに、昨日あったことを包み隠さず話した。

 うちの状況も少しずつでも変化していくと思う、と言うと、やけにテンションの高い声音で「よかったね!」と言われた。

 ゆかりさんも近々父さんに会いにくるらしい。

『……それで、ハルはどうなったの?』

「どうって?」

『このまえちーちゃんと修羅場っぽかったし。
 旅行中はなぎちゃんとイチャイチャしてたし』

「……どうって言ってもねえ」

『どっちが好きなの?』


「ゆかりさんこそどうなんですか」

『それを言うかね君は』

「防衛手段」

『もし迷ってるなら、悩みすぎないようにね』

 スルー、自分の話には触れられたくないらしい。

「ああ……ありがとうございます」

『まあ、恋愛経験ほとんどない私からはそっち方面のアドバイスはできないけど、何かあったら教えてね』

「……あの」

『……どうしたの?』

「俺が小学生ぐらいのときに、そっちでよく遊んでた子って記憶にある?」

『んー……。ハルが小さい頃ねー』

「この前の展望台に行った記憶があって」

『……あー、でも、うん。あると思う』

「女の子?」

『……多分?』

 直接本人に訊けないのはもどかしい。
 でも、知ってて黙っていたのなら何か考えがあるはずで、話してくれるのを待ちたい。


 ──待ちたい、けれども、なぎさも俺のことを待つと言っていた。

 つまり平行線。
 変化を求めるなら、俺からアクションを起こすしかない。

『その女の子がどうしたの?』

「……いや、こっちで会ったことあるかもって思って」

『なぎちゃん?』

「は」

『あたり?』

「ま、まあ……そうなんだけど。
 何か気になることでもあったの?」

『……最初に見たときから既視感あるなーっていうか、どこで見たなーってのは忘れてたんだけど、とにかく会ったことあるかもって』

「……おお」

 気付くものなのか?
 俺なんて二年近くも全く気が付かなかったのに。

 そうなると、自分の鈍感さ加減というか、むしろなぎさが上手いってのもあるかもしれないけど。

 一日目になぎさは変装と言ってメガネを掛けたりしていた。

 辻褄は合うけど、なんだろう……。


『まあ、今まで言わなかったってのは、何かしらハルのためなんじゃないの?』

「それはわかるけど……」

『ここでひとつお姉さんからのアドバイスです!』

「さっきアドバイスできないって」

『黙って聞く!』

「へい」

『絶対に、譲歩はしちゃダメだよ。
 多少無理やりにでもいいから、自分の中で納得できるようにすること』

「……譲歩?」

『そこが、私から見たハルの弱いところだよ』

 譲歩。折り合い。納得。
 ちゃんと自分の意思で決めろ、ということだろう。

「……うん、考えてみる」




 それからも、みんなでうちに集まって遊んだり、数人で泊まったりすることは連日のように続いた。

 その間、俺は悩み続けていた。

 どちらからも告白されたわけではないのに、どちらかを選ぼうとしている。

 とはいえ、行動にはいつも出されているしキスされたし、なぎさに至っては好意を盗み聞きしすらしてしまったわけで。

 なぎさも千咲も家には来るが特にアクションも起こさず(千咲は課題に追われて、なぎさはいつも通りだったけれど)コウタも吉野さんからの返事はまだもらえていないようだった。

 いろんな感情が入り混じってしまって落ち着かない。

 ソファに無造作に座った千咲のパンツが見えても反応ができないくらい落ち着かない。
 ばっちり見たけど、ピンクだったけど。

 仮にどちらかから告白されたら、そっちに傾いてしまいそうな気がする。

 不誠実さの塊。
 自分で自分がわかりません。


 一人で頭を抱えていると、姉が部屋に入ってきた。

 みんないつのまにか夕方には帰ってしまって、家には俺たち二人しか残っていない。

「悩みごと?」

「……なにがなんだか」

「そんなに迷うことなの?」

「……」

 逆に迷わないんだろうか、こういう場合。

 姉は学校で結構人気あるって言ってたけど、恋愛に関しては俺と同じで初心者っぽいし。

「姉さんは告白されたときどうしてる?」

「……告白ね。断ったことしかないからよくわかんないや」

「好きな人とかいないの?」

「え、やー……。私は家族が好きだからそれでいいかなって」

「ふーん……」

 それ普通に照れるな。
 家族、実質俺が好き。この前寝たときに言われたけど。

 なんて変なことばかりは考えが浮かんで来る始末。


「私はね」

「うん」

「ハルがどっちのことを好きなのか、もうわかってるよ」

「……え」

 何を言っているんだ。

「聞こえなかった? 私にはわかってるって」

「あ……うん、聞いてる聞いてる。
 じゃあ、それはどっちなの?」

 自分でもわからないって思っているのに。
 そんなに行動に出ているのか、もしくは実姉だからわかったとか。

「質問してくから答えてね」

「うん」

「どっちと離れたくない?」

「……いや、そんなの言われても決めれないし」

「じゃあ次の質問。どっちといるのが楽しい?」

「それは……なぎさだと思う」

「次ね。ちーちゃんにキスされたとき、どう思った?」

「……驚いたけど、なぎさに見られたのが嫌だった」

「それだよ」

 それって……。


「答え、もう出てるじゃん」

「いや、だからってなぎさが好きなんて……」

「難しいこと考えないでさ、シンプルに考えなよ」

 どこかで誰かに言われた言葉と同じだ。

 もし、と想像してみる。
 なぎさに告白して、付き合って。

 そしたら千咲は。

「もしそうなったとしたら、千咲とまた離れちゃうじゃないか」

「じゃあ、ちーちゃんと付き合うの?
 ハルはなぎちゃんを選ばないの?」

「それは……」

「もっと嫌でしょ?」

 嫌だ。

「……でも、なぎさは俺から離れないって」

 言うと、姉が一歩距離を詰めてきた。


「……あのね」

「……」

「ハルはずっとなぎちゃんを気にしてて、ふとしたときに見ると、いっつもなぎちゃんの方を見てるんだよ」

「……本当に?」

「うん、私が嘘つく必要なんてないでしょ」

 言われて思い返してみる。

 自覚はない。
 見てはいたけど、それは気になるからで。

 ……気になるからで。

「その後がどうとか、誰かを取れば誰かを傷付けるとか、そういうんじゃなくて。
 ハルが考えた上での本気の言葉を伝えなきゃダメだと私は思うな」

「……」

 言われて、というよりも。

 前々から認めたくなかっただけなのかもしれない。

 手を握って、握られて。ドキドキして、安心して。
 俺が迷っているときに言葉をくれて、俺が決断するまで待っていてくれて。

 ずっと一緒にいると言ってくれて。


 姉さんとなぎさの会話を聞いたとき、素直に喜べた。
 彼女が俺を好いてくれていることが、すごく嬉しかった。

 好きになる理由なんて簡単だったんだ。
 あのとき、あの場所で、一緒に話をしてくれるだけで、彼女を特別に思うには十分な理由だった。

 ──だから。

「俺は、なぎさが好きだ」

 言葉に出す。
 姉に聞かせるし、自分にも言い聞かせる。

 抱いた感情は紛れもなく本物に違いない。

「やっと気付いたか」

 姉は得意げだった。
 当てたんだし、そりゃそうか。

「……でも」

「……また難しいこと考えてるでしょ!」

 姉がデコピンをかましてくる。
 普通に痛い。主に爪が。

「ちーちゃんとの関係がなくなったりなんて、絶対にないから。
 私が、絶対にそんなことになんかさせないから」

「……」


「あの子は、私の大好きな妹だから。心配しないで」

「……」

「……現状維持なんて、お互い苦しむだけだよ」

 現状維持。

 そんなことは、とうの昔に理解している。

 けれど、離される側の恐怖は離す側より大きくて。

 だから、なぎさに手を離される方が俺にとってはよっぽど怖いし、絶対にされたくないことだ。

 離されたくないのなら、こっちが掴まえて離さなければいい。

 つまり、俺の決着は、そういうことなんだろう。
 いいかげん俺も腹をくくらなければならない。


「それに、どっちもダメになっちゃっても、最悪私がいるし!」

「いや、姉さんは……」

「不満?」

「姉さんとは、そんなこと言われなくても俺は一緒にいたいって思ってるから」

「な、な……ハルのくせに生意気!」

 顔を真っ赤に染めてびしびしと殴られた。
 態度の軟化がすさまじい。

 いつぞやのツンデレ楓ちゃんはどこに行った。

 ていうか、そういう発言とか普通にブラコン以上の好意を持たれているとしか思えないような。

 俺も姉さんと大して変わらないけど。

 少し浮ついた空気を変えるように、姉は大きく咳払いをする。

「気持ちは固まった?」

「千咲と話をする。……それで、俺の想いを伝える」

「……うん。私の手伝いは、いらないよね?」

 姉の温かな問いかけに、自信を持って頷いた。




 次の日、俺の家には誰も来なかった。
 姉も、午後から塾に行くと言っていて、うちに俺一人になる。

 またいろいろと考えていたけれど、結論は変わらなかった。

 なぎさのことが好きだ。
 それは、誰と比べるとかじゃなくて、何にも変えられない「好き」だ。

 なぎさとずっと一緒にいたいと思う。

 なら、すぐに言わなければ。

 家を出て、千咲の家に向かう。
 千咲の家に行くのは、小学生のとき以来のことだ。

 インターホンを押すと、彼女のお母さんが出てきた。

 千咲を呼んでください、と言うと、二階まで呼びに行ったら? と言われてそのまま中に通された。

 ドアをノックする。


「千咲、話がしたい」

「はーくん? ちょっと待ってて下さい」

 ガサゴソと音がしたのち、廊下に出てきた。

「……何ですか、話って」

 俺の返事を待たずして、とりあえず部屋に入りますか、と言われて部屋に入った。

 ピンク基調の女の子らしい部屋。
 部屋に入るのは、これが初めてではなかったはずだ。

「聞いてほしいことがある」

「……聞きますよ」

 彼女が視線を落とすのを見る。
 緊張した雰囲気が伝染する。


 千咲に伝える言葉は、思ったことを隠さずに言おうと、何も考えずにいた。

「俺は、」

 千咲の肩がびくりと跳ねる。
 唇を噛む彼女の表情を見て、また罪悪感を覚える。

「……俺は──」

「はーくん!」

 大きな声で、言葉を遮られる。
 近くに詰め寄られて、肩を掴まれる。

「それを……言う前に、私のお願いを聞いてくれませんか?」

「……何?」

「まずは、えっと……外に出ましょうか」

「いや、うん……そうしようか」




 部屋の外に追い出された。

 ちょっと着替えるので外に出てて下さい、あとはーくんは動きやすい格好で四丁目の公園に来て下さい! と千咲に早口でまくし立てられた。

 一階に降りると、千咲の母親は家にいなかった。

 家に戻って、適当なジャージに着替える。
 なんだろう、と思ったけれど、千咲は妙な真剣さを帯びていて、それを汲むことにした。

 四丁目の公園。

 数分待っていると千咲が現れて、部活をするような格好にバスケットボールを持ってきていた。

「どうしたんだ?」

「私のお願いは、はーくんとバスケをすることです!」

 俺の目を見て、彼女はそう呟いた。

 すぐにボールを投げられる。
 中学以来、触らないでいた感触を肌で感じる。

「……これ、六号球じゃん」

「いいじゃないですか、私女子ですし」

 リングのある場所まで移動して、千咲にボールを投げ返した。
 シュートを撃つ。入る。


「はーくんもどうぞ?」

 そう言われて、撃ってみる。

 ぐちゃぐちゃなフォーム、当然入らない。

「はーくん下手すぎです」

「しょうがねえだろ、ずっとやってなかったんだから」

「中学校のエースだったじゃないですか」

「弱小校のな。それにやめたし」

「でも、うちの高校の人より全然上手かったと思いますよ?」

「……うちの高校そんな弱いんだ」

「そうじゃなくて!」

「……コウタにしても千咲にしても買いかぶりすぎ」

「コウタくんにも言われたんですか?」

「うん」

「……シュート、もう一本撃ちましょ?」

 言われて、ボールを手に取る。

 はーくんはこうでしたよ、と手を直される。

 その通りに撃ってみる。
 リングに少しも掠めずに入った。

「さすがですね」

「……ごめん」

「いいえ、私にバスケを教えてくれたのは、はーくんでしたから」

 続けよう、と言われて、シュートを交互に撃ったり1on1をしたりした。

 中学校の頃より、千咲が格段に上手くなってるのを感じた。

 それから、夕焼け空に変わるまで、俺たちはバスケをやり続けた。




 あたりはオレンジ色で、一歩先を歩く千咲の足取りは軽かった。

 いいかげん言わなきゃな、と思っていると、彼女が立ち止まった。

「私のお願いも叶いましたし、はーくんの言いたいこと、聞きます」

 そう言いながらこちらを振り返る。

 風が止む。鳥や虫の声だってうまく聞こえない。
 いつの間にか身体がズキズキと痛んできた。

 後ろから夕日で照らされていて、彼女の顔色は読めない。

 落ち着かなくて。途中で買った飲み物を持った手が少し震えて。
 顔がこわばるのを感じる。でも、決めたことだ。

「千咲」

「……はい」


「俺さ、なぎさのことが好きだ」

 言うと同時に、千咲が一歩距離を詰めてきた。

 目には涙。きらきらと潤んでいて、何度もまばたきをする。

 泣いている。泣かせてしまった。

 言わなければよかったのではないか、と気分が沈む。
 何度も涙を手で拭って、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 胸に、手を置かれる。

「……だから」

「……待って、下さい。私の……私の話を聞いて下さい」

「……うん」

 どん、どん、と胸を叩かれる。
 目は充血していて、時折鼻をすする音が漏れる。

「わた、し……は、最初から、わかってたんです」

「……」


「だから、わたしは……無理やりにでも、はーくんの気を引きたかったんです」

 泣きやませないと、と思う。
 けれど、俺には何もできない。

「怒ってるようにみせたり、キスをしてみたり、いろんなことを……試して、みました。
 でも、はーくんの視線の先には……ずっとなぎちゃんがいました」

「……うん」

「わたしは……認めたくなかったんです。はーくんが、どんどん元気を取り戻していくのを見て……でもそれはわたしじゃなくて、なぎちゃんのおかげであって」

「……そんなこと」

「……あります、あるんです。それで、わたしは、はーくんに告白しようと思いました」

「……」

「もしわたしが告白をしたら、はーくんは優しいから、絶対にわたしを傷つけないように行動するって、わかってて……それでも告白しようと思いました」

 思考を読まれていた。
 たしかに、そう思っていた。


「けど、それは……はーくんのためにはならないってことも、わかってたんです」

「……俺のため?」

「……あのとき、わたしがあなたから逃げ出してなかったら、もっと正面から話をできていればなって、ずっと……ずっと後悔していました」

 あのとき。

「わたしからみて、あなたは、決心したように見えます」

「……決心、か」

 ふっと身体が離れた。

 またそれまでの距離をとって、何度も涙を拭ったあと、彼女は俺に向けて笑った。

「わたしの気持ち、聞いてもらえますか?」

「……うん」

「あなたのことが、昔から、ずっと、ずーっと好きでした。
 まどろっこしいのは、もうやめます」

 彼女はもう一度笑った。

「これが、わたしの……わたしの心からの気持ちです」

「……うん」

「返事はしなくていいです。あの子のところへ、行ってあげてください」


「あの子に、あなたの気持ちを伝えてあげてください」と言って彼女はくしゃくしゃの顔で笑って、俺の身体を押した。

 ありがとう、と気付けば口にしていた。

 いるかどうかなんてわからないのに、連絡をしたわけでもないのに、俺はなぎさの家の方向へ走り出した。

 今すぐ言わなければいけないと思った。

 千咲に告白をされて、背中を押されたように思った。

 だから、俺は、迷いなんて打ち捨てて、とにかく走らなきゃ、と思った。

 昔痛めた足がズキズキとまた痛んだ。

 でも、俺は彼女のところへ走り続けていた。

明日でラストだと思います




「どうして走ってるんですか?」

 道端で、犬のリードを引く彼女が声をかけてきた。
 みたらし。なぜこの時間に散歩。

 ジャンプ漫画顔負けの走りだった。
 わざと転んだりして擦り傷をつければ役満というくらい。
 ……なんかこう考えるとアホらしいな。

 急を必ずしも要するものではないし、いやまあ今すぐ話したいけども。
 でも普通に恥ずかしいな、なんだこれ。

「軽めの運動?」

「そうは、見えないですけど」

 そりゃそうだ、もはや全力疾走。
 外が涼しくて助かったくらいだ。

「……冗談。ちょっと、話がしたい」

「あ、じゃあみーくん置いてくるので、待っててください」


 てくてくと家の中に入っていって、数十秒ほどで目の前に戻ってきた。

「それで、お話って?」

「まあ、とりあえずいつものとこ行こう」

「あ、はい……わかりました」

 緊張しながら歩く。

 やっぱり、空気でわかるものなんだなあ、と思う。

 身体が冷えて、寒くてくしゃみが出る。
 何度も通った道なのに、意識するだけでこんなにも変わるのか。

 空は紫色に滲んでいて、カラスが西に飛んでいくのが見えた。

 ほどなくして、彼女といつも会っていた場所にたどり着く。

 高台からの街並み。少しずつ姿を現した星々。隣にいる彼女。

「えっと……なんでこんな時間に散歩してたの?」

「杏に頼まれて」

「へえー」

「……」

 普通に気まずい。
 ていうか緊張がやばい。

 多少シミュレーションのようなものはしたけど、実際に会ってみると全然違ってくる。


「あのさ」

「はい、なんですか?」

 覚悟ができた、というふうに彼女は俺の隣に座った。

 口に出してから、なにから話したものかと思う。

 千咲に告白されたこと。
 少女は本当になぎさなのかということ。
 父さんと話をしたこと。
 それが成功したこと。

 まだいろいろ問題が残っていて、それは解決するのにもっと時間がかかるものなのかもしれない。

 でも、もし悩むようなことがあったら、そのとき彼女が自分の近くにいてほしい。

 離れてほしくないなら、こっちが離さなければいい。

 一番伝えたいのは、俺の彼女への気持ちだ。

 シンプルに言おう。
 そうしたら、彼女も受け止めてくれるはずだ。


「なぎさ」

「……はい」

「俺は、なぎさが好きだ」

「……へ?」

 違うことを言われると予想していたのだろうか。

 そんなことを言われるなんて思っていなかったというように、
 彼女は落ち着かない様子で、身体をばたばたと左右に動かして、視線を横に逸らした。

 簡潔すぎて言葉が足りなかったのか、と思う。

 だから、俺はすぐに言葉をつなぐ。

「なぎさのことが好きだから、俺と付き合って、ずっと一緒にいてほしい」

「……」

「……」

 肩を掴んで、彼女と正対する。

 彼女は耳の先まで真っ赤に染めて、俺のことを直視できないかのように首をふるふると振った。

「……ほんき、ですか?」

「うん」


「こんな私のことが、本当に好きなんですか?」

「好きだよ」

 言葉に出すと、なぎさは頬を緩めて、ぐいっと近くに寄ってきた。
 顔が近くて、こっちまで顔が赤くなるのを感じる。

「ほんとにですか?」

「うん」

「……もっかい」

「……え?」
 
「もう一回好きって言ってください」

「好き」

「……」

「……」

「……ずるいです」

「ずるい?」



「……ず、ずるいですよ! そんなこと言われたら、嬉しいに決まってるじゃないですか!」

「あ、いや……そんなこと言われても」

「私も……好きです、先輩のこと、ずっと好きだったんです」

「……じゃあ、つまり」

「……」

 十秒ほど、二人で見つめ合っていた。

 俺は、そんなときに彼女が言ってくれたように「大丈夫だよ」と伝えた。

 そしたら、彼女はまた照れたように微笑んだ。

「よろしく……お願いします」

 すっと右手を前に出される。

「……私と、お付き合いしてください」

 俺は、彼女の手をとった。




「どきどきしてる?」

「どきどきしてます」

「じゃあ、これからもっとどきどきするようなことをしようか」

「こんなときにえっちなことを言い出しますか」

「あ……いや、そういうんじゃなくてね」

「……これ失言ですか」

「ふつうに」

「……まあ、先輩といるといつもどきどきしてるので、私はなんでもいいですよ」

「そういえば」

「そういえば?」

「……俺のどこが好きなの?」

「ぜんぶ」

「……いや、全部って」

「ぜんぶはぜんぶです。先輩こそ、私のどこが好きなんですか?」

「……」

「どこですか」

「顔」

「別れますよ?」


「……俺も、全部かなあ」

「嬉しいです」

「うん」

「やっと、先輩に好きって言ってもらえました」

「好きだよ」

「だ、だから……不意打ちはやめてください!」

「いいじゃん好き同士なんだし」

「調子乗らないでくださいこの唐変木!」

「キャラ変わってない?」

「そんなことないです」

「……なぎちゃん」

「……」

「照れてるのもかわいいな」

「先輩ちょっとうざいです」


「……それもかわいい」

「あまり言いすぎると安っぽくなりますよ」

「じゃあ言われるの嫌?」

「嫌じゃないです」

「ならいいじゃん」

「はあ……どきどきして死にそうになるのでやめていただきたいのです」

「顔真っ赤だもんな」

「うるさいです! 私だってあなたのこと大好きですよ!」

「めっちゃ嬉しい」

「……まったく、先輩は困った人ですね」

「そう言いつつまた顔が真っ赤になってる」

「もういいです……私も、好きです」

「なんか今すぐにでも昇天しそう」

「ばかですか」

「ばかでいいと思えてくるな」

「……ばーか」




 気付けばあたりは一本の電灯を残して真っ暗になっていた。

 なんとなくずっとそういう会話をしていたくて、彼女も俺に付き合ってくれていた。

 話している間、彼女は俺にくっついたままでいた。
 それが無性に嬉しくて、俺もいつもより近付いた。

「そろそろ帰るか」

「……あ、はい」

「……明日も会わない?」

 名残惜しさ。

「バイトありますよ」

「何時からだっけ」

「九時から十三時ですね」

「じゃあ、そのあとうち来る?」

「あー……えっと、私の家に来ませんか?」

「いいよ」

「ちょっと、見せたいものがあるんです」

「なに?」

「お楽しみです」

 それから、二人で手を繋いで帰った。




 家に帰ると、姉と杏がリビングにいて、どうだっかのかを訊かれた。

 情報が伝わるのが早い。
 というかどうして杏がいるのか。

 付き合うことになったと伝えると、両方におめでとう、と言われた。

 二人と、あとは千咲を誘って、女だけで短い旅行に行くらしい。

「それじゃあわたし、お兄さんの妹ですね」

「おお」

「お兄ちゃん」

「嬉しいな」

「楓お姉ちゃん」

「私も! 妹が増えて嬉しいなー」

 いろいろと話が膨らんでしまっているが、そこまで悪い気はしない。

 杏が旅行雑誌を取り出した。
 温泉旅館やレジャー施設、牧場なんてのが描いてあった。

「お兄さんは、夢の国とUSJどっちがいいと思いますか?」

「どっちも行ったことないしなあ」

「……修学旅行は?」

「サボった」

「悪ガキですね」

「まあそんなこともある」




 次の日のバイトはやけに時間が早く過ぎていった。

 お姉様系先輩に、付き合うことになった、となぎさが言ったらしく、バイト後にいろいろ奢られた。

 この二、三ヶ月働きすぎてお金が余っていたらしい。

 どうしてそんなに働いてるんですか? と訊くと、貯金するのが好きだから、と言っていた。

 俺も、同じようなもんだな、と思った。

 そのままなぎさの家に行って、昼食を作ってもらった。

 料理は、俺が作るよりも格段に美味しかった。

 食べ終えたあと、部屋に来ませんか? と言われて、素直に了承した。

 入るなり、一枚の写真を手渡される。

「見せたいものは、これです」

「……」

 女の子と男の子が二人で写っている写真。


 場所はなぎさと通った橋の上で、多分、これは昔の俺となぎさだ。

「いつから気付いてたの?」

「最初からですよ」

 椅子に座るように促される。
 向かいのベッドに彼女は腰かけて、何枚かの写真を出した。

「これ、この前のやつ現像してきました」

「……もらっていいの?」

「はい、二枚ずつお願いしたので」

 ぱらぱらとめくってみる。
 ツーショット、風景の写真、さっきの写真と同じ構図のもの。

「狙った?」

「狙いました」

 なんかすごいな。

 ていうか、それにしても。

「……最初からって、いつから?」

「中一の、私が中学校に入学してからすぐですね」

「え……マジ?」

「はい、ひと目でわかりましたよ」


「どうして話しかけてこなかったの」

「いや……先輩話しかけづらかったですし」

 社交的ではなかったけど。
 それに覚えていなかっただろうし。

「それに、私から見て先輩はキラキラしてたので、私が話しかけてもなあ……って思いまして」

「そう?」

「はい、千咲先輩もいましたから」

「あ、まあ……はい」

「まあ、あれです。保健室です」

「……保健室?」

「……話しかけようと思ったのは、保健室で先輩の話を聞いちゃったからです」

 保健室、保健室……あ。

「あの話聞いてたの?」

「ごめんなさい」

「え、じゃあ、いつもの場所にいたのも知っててのことだったってことか」

「まあ、そうです。嘘をついても仕方ないですし、正直に言います」

「でも」と彼女は話を続ける。


「時間がかかっちゃいました。
 いざ話しかけるとなると勇気が出なくて、三ヶ月くらい行けませんでした」

「そんときに、昔会ったことあるって言えばよかったのに」

「……だって、そう言ったら先輩逃げるでしょ?」

 たしかに。

「それに、私は先輩と話をできるだけで嬉しかったんですよ」

 あのとき養護教諭にあの場所を教えてもらったのも、それをなぎさが聞いていたのも全部偶然のことだ。

 だから、俺はラッキーなのだと思う。

「俺も、そう思うよ。なぎさと話せて嬉しかった」

「はい、ありがとうございます」

 ちょっと、と手招かれて、座っている椅子から彼女の隣に移動した。

「……あの、お願いがあります」

「なに?」

「まず手を繋ぎましょう」

 言われて、彼女の手を取る。
 すぐに指を絡められた。


「……次は、ハグしてみましょうか」

「うん」

 左腕で抱きかかえる。

「なんかすごくどきどきします」

「……俺ら平然と抱き合って寝てなかったっけ」

「それはそれです」

 そうなのか?

「まあ、先輩が私の太ももを触ってこなかったのもわかってますよ」

「へー」

「で、次は……なにしますか?」

「なにって」

 手をつなぐ。
 ハグ。

 次。

「……え、いや」

「女の子に言わせないで下さいよ」

 目の前に、照れたように顔を赤くした彼女の顔がある。
 彼女はえへへ、とくすぐったそうに笑って、目を閉じた。

 俺は迷わずに、すぐに唇を重ねた。


「ちゅー、しちゃいましたね」

「うん」

 なぎさは俺から手を離して、その場に立ち上がる。

「ちゅーしやすい身長差は十三センチってなにかで見ました」

「……俺らそんくらい?」

「たぶん、そのくらいです」

 身長差、姉に前に言ったことを少し思い出した。

 彼女を見上げると、腰を曲げて俺の方へ寄ってきて、ふふっと笑った。

「私、こう見えて結構嫉妬深いタイプなんです」

 俺が言葉を返す前に、口を塞がれた。

 そのまま、がばっと俺の方に飛び込んできて、ベッドに押し倒される。

「いや、あれについてはな」

「なんのことですか?」

「いや……なんでもないです」

 気圧された。


 なぎさは、ぎゅー、とかなんとか言って抱きしめてきて、
 彼女からふわりと香る甘い匂いに頭がぼーっとする。

「はるくん、好きですよ」

 唇がもう一度迫る。

 目を閉じて彼女に身体を任せようとしたときに、ガラッと扉の開く音がした。

「お姉ちゃん、今度旅行に行くんだけど……」

「……」

「……」

「……あ」

「……これは、その」

「ごめんなさい! わたし部屋に戻ってイヤホンしてるから!」

 バタバタと廊下を駆ける音がした。

 なぎさはすぐに俺から離れて、やっちまった、みたいな表情で、自分の髪を撫でた。

「下に降りますか」

「……うん、そうしよう」




 次の日は全員が家に集まった。

 千咲とは少し気まずかったけれど、目を合わすなり、おめでとうございます、と言われた。

 俺となぎさのことは言わずともみんな知っていて(吉野さんとコウタ以外には自分から言ったのだが)めっちゃテキトーな感じで祝福された。

 コウタが、俺らも付き合うことになったから、と会話の流れの中で言った。

 吉野さんは少し恥ずかしそうにしていた。

 そんな顔をしているのを見るのは初めてだったかもしれない。

 ただ、そんなことがあっても、俺らが集まってすることはあまり変わらなかった。

 コウタとゲームをして、杏と吉野さんが入ってきて。
 夜には当然のように泊まって行って、疲れて寝るまでリビングに集まって遊んでいた。

 コウタと二人きりになったときに、「おめでとう」と言うと、「ありがとな」と返ってきた。

 みんなの前で報告したときには見せていなかった、気持ち悪いほど頬の緩んだニヤケ顔を拝んだ。

 おまえもおめでとう、と言われた。

 素直に嬉しく感じた。




 次の土日にバスケを観に行こうぜ、とコウタに言われて、ユウヤの試合を観戦しに市立体育館に行った。

 ユウヤのチームはそこそこに強くて、なかでもユウヤが飛び抜けて上手だった。

 他県の強いチームとの対戦だったらしく、なかなかのシーソーゲームだった。

 会場に行くまでの時間も、バスケを観るってもなあ、と思っていた俺でも、
 試合終盤になる頃には、白熱する展開に興奮して、最後勝利した時には立ち上がってユウヤを讃えていた。

 帰り道で、コウタに「どうだ、バスケがしたくなったか?」と言われた。

 それに頷きを返して、「コウタはどうして続けなかったの?」と前にした質問をもう一度投げ返してみた。

 コウタからの返答は、どう考えてもわけがわからなく面白いものだった。




 それから夏休みが終わるまで、変わりのない日常が流れ続けた。

 うちで遊んだり、バイトをしたり、なぎさの家で遊んだり、街に出かけたり。

 ゆかりさんが家に来て、姉と千咲と杏を連れて旅行に行った。
 関西の方へ行くらしい。結局USJに行ったんだろうか。

 ゆかりさんはそれを独身女子の会と言っていた。

  別に他の人も結婚はしていないと思うけど、あまり考えないことにする。

 なぎさと俺も、バイト代を使ってどこかに行こうか、という話になった。

 夏休みが終わっても、彼女はバイトを続けるらしい。

 せっかく慣れたし、バイト先の人たちと仲良くなったし、俺の近くにいたいから、と言っていた。





 新学期になっても、あまり俺の周りで変わったことはなかった。

 朝は夏休みが終わる頃にはすっかりツンデレに逆戻りしてしまった姉(それはそれでかわいい)に叩き起こされて、
 家を出たら千咲が家の前で待っていて。

 なぎさと付き合うことになったしそれはどうなんだろう? と思ったけれど、
 なぎさはべつに構わないらしく、彼女も加わって三人で登校することになった。

 あとで理由を聞いたら、先輩はそんな度胸ないですし、と言っていた。

 変わったことと言えば、同クラスの四人で行動することになったことと、
 校内でもなぎさと会うようになったことだった。

 コウタと吉野さんはドライそうに見えてなかなかいちゃついていて、俺と千咲は、うわー、という視線をいつも向けるのがお決まりになっていた。

 昼休みは体育館でコウタとバスケをほぼ毎日するようになった。

 普通にボロクソにやられつつも、毎日体育館に通った。

 コウタも俺も、いろいろと忘れていたものを思い出せたのだろう。


 放課後になると、校門近くで待ち合わせて、なぎさと二人で帰るようになった。

 バイトがある日も、そうでない日も、用事がなければそうすることに決めた。

 一緒にいる時間が多くなったとはいえ、特に夏休み前の関係と変わることはなかった。

 みんなの前でなぎちゃんと呼んだらパンチが飛んできた。
 二人のときなら良いと言っていたけれど、未だにそう呼んだことはない。

 俺のことをはるくんって呼ばないの? と訊ねると、呼びません! と言われた。

 昔はそう呼び合っていたと教えてもらった。

 バイト帰りには、コーヒーやらパンやらを買って、暗さの中に明かりの灯る街の景色を見ながら話をすることは以前と変わりなかった。


 先輩、といつもの場所で隣に座る彼女が声をかけてきた。

「次の休み、どこかに行きましょうか」

「どこに行きたい?」

「んー」

「んー?」

 彼女は首をかしげながら、何かを思いついたように手を叩いた。

「先輩の隣なら、私はどこでもいいですよ」

 答えになってないじゃん、というつっこみは心の中に留めて、彼女に向けてゆっくりと頷きを返した。

 無邪気に笑う彼女が愛しく思えて、すぐ近くにある小さい手を握った。

「なぎさ」

「……はい?」

「ずっと一緒にいよう」

 彼女は俺からの言葉に、ほのかに顔を赤く染めて、嬉しそうに頷いた。

おしまい

アナザールートは書かないと思います。
次はもっとほのぼのしたのをかけたらなあ、と。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2017年10月19日 (木) 13:53:52   ID: TqYto1wx

すごく良かった

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