寒空の下、反射光を煌かせるビルのたもとを、南条光(なんじょうひかる)は全速力で駆けている。
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二月上旬の週末の空気はまだ冷たく、光の吐く息は白い。
ボーイッシュなカジュアルスタイルで、かすかに深緑のはいった長い黒髪と真っ赤なマフラーをなびかせ、四、五階建てのビルが並ぶ大通りを一直線に進んでいく。
小さい体で懸命に腕をふる彼女の後ろを、着かず離れずの距離で追走するは小関麗奈(こせきれいな)である。
麗奈もまた、光と同じように長く、光とは違った明るい栗色の髪をなびかせている。
「さ、さすがに速いじゃないッ、南条!」
「レイナこそ。……ハッ、ハッ……でも、先にレッスン場に着くのはアタシだッ」
「いいや、今日は負けないわよ! てか、名前で呼ぶなッ」
すでに駅からだいぶ走って、ゴールは間近。
二人とも息が上がりかけているが、威勢の良さは健在だ。
と、ここで急に光がブレーキをかけた。赤信号。
「しまった!」
この横断歩道の先を曲がらなければならない。
光が焦って振り向くと、麗奈はすばやくターンを決め、路地裏に入っていく。
麗奈のニヤリとした笑みと目が合う。
「やられたッ!」
光も踵を返すと、その勢いで転げそうになりながらも、麗奈の入っていった路地裏へと飛び込んでいく。
光の視野は麗奈の後姿を捉える。
しかし、次の瞬間にその背中は曲がり角の先に消えた。
麗奈を見失わないように、すぐさま光も角を曲がる。
二人の勢いに驚いて、道端で寝転んでいた猫たちが「にゃあぁぁ」と逃げ惑う。
かろうじて見えていた麗奈の背中を必死に追う。
しかし、数回も曲がらないうちに光はその影を見失ってしまった。
「レイナ、どこだ!?」
足を止めずに叫ぶ光。
「アーッハッハッハッ」
返事代わりに麗奈の高笑いが響き、
「ゲホゲホッ」
むせる。
輪をかけてマズいことに、次の曲がり角をどちらに行けばいいかの見当が光には皆目つかない。
もしかしたら、これが麗奈の狙いだったのかもしれない。
それでも、光はその足の運動を止めようとしなかった。
さんざん路地裏を迷った末、どうにか見知った道に出た光は、すっかり上がってしまった息を整えながら、レッスン場への階段を上る。
その扉を開けると、受付にいたトレーナーの青木聖が
「今日は小関の方がはやかったな」
と何でもないふうに告げた。
ロビーに置かれている机で肩肘をついている麗奈。
彼女は光を見ながら「イヒヒ」とイタズラに笑う。
一方の光は「ぐぎぎ」と固く拳を握った。
「今日はレイナサマの勝ちね、南条ッ」
「ま、まだだ! これで一勝一敗だ!」
事の発端は些細な悪ふざけだった。
一月末だったか、駅からレッスン場まで向かう道中。
麗奈が、自分の前を歩く光を見つけたときだった。
光と麗奈は芸能事務所であるグラススリッパープロダクションの同じ部署(事務所内ではパッション部門と呼ばれている)に所属している。
二人が知り合ったのは、つい最近
――二ヶ月前のことだ。
麗奈ははじめて会った時から光のことが気になっていた。
いや、正確に言えば、気に入らなかった。
麗奈はイタズラ至上主義者である。
一方の光は自称正義の味方だ。
担当プロデューサーの印鑑をレイナサマ謹製芋ハンコにすり替えようとして何度、光に邪魔されたことか。
麗奈には、光が自分とは『最も対に位置する人物』であるように感じられていた。
そんな、にっくき自称正義の味方が目の前で呑気にテクテクしているものだから、麗奈の小悪党心に火がついた。
麗奈は勢いよく光を抜き去り、「あっ、レイ――」と言いかける光を振り返って一瞥した。
そして、「アッカンべべべー!」と小馬鹿な調子で小馬鹿にしたかと思うと、「お先に!」と逃げ去ろうとしたのである。
別にカチンと来たわけじゃない。
だけども、なんだか駆け出さないと行けないような気がして、光も「待てーっ!」と走り出した。
これが開戦の顛末である。
第一戦の結果だけ言えば、単純な走力の差で光に軍配が上がった。
言ってしまえば返り討ちにされた形である麗奈の気分は良いはずもない。
リベンジの機会をうかがうは必定。
かくして、第二戦もまた、駅で光を待ち構えていた麗奈の挑発によって幕を切ったのであった。
二戦目に惨敗を喫した光はその後のレッスンでも、青木に
「どうした? いつにも増して動きが固いぞ」
と言われる始末。
光にしてみれば、目が合うたびドヤ顔をキメる麗奈を気にするなと言う方に無理がある。
レッスン後、更衣室でさっさと帰り支度を済ませた麗奈が光に声をかける。
「フフッ! 今日はアンタのおかげでイイ気分でレッスンができたわ。感謝したげる、南条」
「えっ? ど、どういたしまして?」
「……はぁ~。そうじゃないわよ。イヤミよ、コレ! そこは悔しがるところでしょ」
「おわっ! そうだった!」
「ったく、調子狂うわねぇ……まぁ、いい気味ね! バッチリ下見した甲斐があったってものよ」
「下見? そこまでしたのか!?」
「当然よッ。イマドキの悪は頭を使うの。正義の味方みたいにタイマンやってちゃ勝てないのよ、悪の世界は」
「さっきも一対一だったけど……」
「そっちのタイマンじゃないわよ……。怠けてちゃ勝てない、って言ってんの」
「な、怠けてなんかないぞ! こうなったら、次は絶対に負けないからな、レイナ!」
「こっちこそ! 先に二勝するのはこのレイナサマよ」
互いに宣戦布告をすると、麗奈は更衣室のドアノブに手をかける。
出て行きがけに「あと、気安く名前で呼ぶんじゃないわよッ」と言い放ち、帰っていった。
レッスン着を鞄にしまいこむ光の胸中に、悔しさだけでなく、じりじりとかわいた感覚がこみ上げてきた。
(まさか、レイナがそこまで準備をしていたなんて……)
いそいそと赤いマフラーを巻き、ライトダウンに袖を通す。
「ありがとうございました!」
と一礼してレッスン場を後にした光はしばらく歩いた後、思い直したように立ち止まり、おぼつかない様子でスマートフォンをいじり始めた。
レッスン場の位置を確かめて、次に自分の現在位置を確かめる。
地図上の光の東側には入り組んだ路地が広がっている。
周りの様子をしっかり窺いながらその路地
――先ほど麗奈との競争を決定的にした路地裏へと歩みを進める。
側面を一五メートルほどのビルたちに挟まれており、道幅は広いところで二メートルといったところだろうか。
光ぐらいの体格同士であればすれ違うのに苦労はしないだろうが、薄暗さも相まって圧迫感が強い。
見上げると、窮屈な空を渡るように猫がビルの縁を歩いている。
曲がり角の数や道のつながりを丁寧に確認しながら、光はその迷路を歩いた。
路地から出た光は、そこから駅までの最短直線を調べて歩く。
それは少し開けた住宅地にある公園を突っ切っている。
公園は四方を低い生垣で囲まれていた。
背丈は光の腰より少し上ぐらいで、幅は一メートル弱といったところか。
おいそれとまたげそうにない。
駅側の出入り口はほとんど最短直線上にあるが、レッスン場へと続く出入り口は大きくズレており、結構な遠回りになりそうだ。
小学校の低学年ぐらいだろうか。
男の子が三人、光をじっと見つめている。
ポッチャリ、ノッポ、ちんちくりん。
児童書ではお決まりの男子三人組、といった印象だ。
あまりにもじっくりこちらを見ているものだから、光は軽く手を振ってみた。
芸能事務所に所属している光は、アイドルだ。
麗奈もそうである。
ゆえに、光の心の中に(ファンかな?)という淡い期待が去来したことは、恥ずかしながら否定できない。
しかし、手を振る光と目があった三人組は、慌てた様子でサッと公園から出て行ってしまった。
(えぇ……)
なんだかとてもヘコむ。
しかし、当然の結果でもあった。
アイドルをやっていると言った。あれはウソだ。
厳密には、アイドル「候補生」なのである。
光も麗奈も。
当然、メディアへの露出は皆無だ。
いったい何を根拠に期待をしたのか、光は自分でもわからないまま公園を後にした。
どこかで犬の低い唸り声と男の子の騒ぐ声が聞こえる。
きっとさっきの三人だ。
「はぁ~……」
レッスンの疲れもあってか、光にしては珍しく大きなため息が出た。
陽も落ちかけて、紺碧に暮れゆく街を光はトボトボと歩いていった。
***
あれからちょうど一週間が経った晴天のある日。
光はレッスン場最寄りの駅を出たすぐのところで、金属製の逆U字型をした黄色い車止めに腰を下ろしていた。
今日は、一週間ぶりとなる麗奈とのレッスン。
光はレッスン着と遜色のないスポーツウェア、学校の徒競走では必ず履くお気に入りのシューズ、余計なものを極限まで排したリュックサック、ヒーローの証たる真っ赤なマフラーを身に着けている。
堂々とした出で立ちではあったが、先週のこともあり、どこか頼りなげでもあった。
(いや! 大丈夫だ。ヒーローはこんなことじゃ挫けない)
赤いマフラーの端をギュッと握りしめた。
自分の心の裡にいるヒーローを思い出して、自分を奮い立たせる。
「今日はアンタの方が早かったわね」
不意に声をかけられた。
麗奈だ。いつの間にか光のすぐ後ろにいる。
彼女もまた動きやすそうな恰好であった。
だが、背負うリュックは先週よりも大きい――むしろ、長い。
麗奈の爛々と輝く眼を見ると、不思議と光の胸のうちにもかすかな熱を帯びたドキドキが生まれた。
「レッスン場に着くのもアタシの方が早いぞ」
光は笑う。
先ほどの心許なさは上手く隠れたようだ。
「じゃあ」
「始めましょうか」
号砲は必要なかった。
全く同時に、二人の足が勢いよく前に出る。
最初の三歩を踏みしめる光。
次の四歩目でさらに加速する――しようとした瞬間。
「おわあっ」
光の身体が、というよりはリュックが何かに引っかかったような感覚。
尻もちをつきそうになるところを耐え、倒れこむすんでのところで手をつき、後ろを振り返る。
リュックにはゴム製のロープが結ばれており、それが先ほどまで座っていた車止めに括りつけられている。
光はすぐさま、何が起こったかを理解した。
「レイナァー!」
叫び、彼女の方をみる。
「やったった!」
麗奈は清々しいまでの笑顔でサムズアップを見せつけ、駆けて行く。
急いで車止め側のロープに手を伸ばす。
相当頑丈そうなロープだ。
なぜか可愛らしく蝶結びされている。
一瞬でそれをほどくと、そのままリュックに詰めて光も駆け出す。
(出遅れたッ。いや、出遅れさせられた……!)
鳴りを潜めていたはずの心許なさが、また顔を出す。
「なにをぅっ!」
それを締め出すように声を発し、思いっきり腕を振る。
麗奈の後を追う光。
最初に開いた差は思いのほか大きい。
だが、少しずつ着実にその差を詰めていく。
彼女の後ろを走ってみると、麗奈は巧妙に信号が必要ないコース取りをしていることがわかる。
大きな通りに出る。広く、長い直線だ。
光はスプリンターである。
短距離における最大速度は、担当プロデューサーも目を見張るほどだ。
その一方で、小回りを利かせた動きは苦手とする。
すらりと長い脚でちょこまかと動き回る麗奈とは正反対のタイプといえる。
ゆえに、この直線で追いつきたい。この長く、小回りの不要な直線で。
光はスピードを上げ、一気に麗奈との距離を詰める。
「げっ! アンタ、もうここまで!?」
「はっ――はっ――悪いけど、追い抜かせてもらう!」
肩で息をしながら、光は麗奈を追い抜こうとした、そのときである。
麗奈が背中のリュックから、何かを取り出した。
「そら、行けッ!」
次の瞬間には光の右足に何かが絡まった。
光の右足を中心点に何かが輪を描きながらぐるぐると巻きつく。
それが左足にも絡まりそうになる。
「な、なんだッ!?」
思わず急ブレーキをかける。
右足に長い紐が絡まっている。
その紐の両端には、やわらかいビニールボールが括りつけられていた。
麗奈は、これをブーメランの要領で投擲し、光の動きを止めたのだ。
「レイナァー!」
再び、叫ぶ光。
「作ったった!」
再び、サムズアップを見せつける麗奈。
「わざわざっ、こんなのっ、作ったのかっ!?」
と光は息を荒くして、しゃがみこみ、絡まる紐を外す。
その間に麗奈は、大通りを抜けて颯爽と駆けていった。
麗奈お手製のブーメランを右手に握りしめたまま、光は全力に近い加速をかける。
レースはまだ中盤の序の口だ。
「はっ……はっ……はっ……!」
しかし、二度も足止めを食った以上、もはや余裕はない。
「南条のヤツっ……! はぁ……はぁ……」
だが、余裕がないのは麗奈も同じである。
自らの想像を超えるスピードで迫る光に対して彼女も必死であった。
麗奈の後方十メールほどを光が追う。
やがて二人はビル街の合間に佇む住宅地に出た。
最短直線上の公園が見える。
麗奈が先に公園に入っていく。
麗奈を追って、勢いそのままに光が公園に進む。
すると、先行していた麗奈が急に速度を落とした。
(どうした?)と思いつつも、光はスピードを緩めない。
その視界の隅で何かが動く気配がした。
「うおおぉぉぉーーーっ!」
不意に響く勇ましい叫び。
突然、光の目の前にいくつかの小さな影が飛び出してきた。
三人、ポッチャリ、ノッポ、ちんちくりん、その手には大きな虫捕り網が装備されている。
「キ、キミたちは、この前も公園にいた!?」
「レイナサマ! さくせんどおり、行ってくだせえ!」
ポッチャリが必死の形相で声をあげる。
光は、跳梁跋扈する三つの網を躱すのが精一杯で前に進めない。
「でかしたわ……アンタたち……!」
麗奈はペースを落とし、こちらを振り向いて言った。
ここぞとばかりに休憩モードだ。
「レイナの仲間か!? ヒキョウだぞ、レイナァー!」
「フンッ、どうとでも言いなさい! どんな手を使ってでもアタシが勝つの! そもそも、このアタシのファンが応援してくれてるだけよ」
「そ、そうですっ、ボクたちはレイナサマのファンだぁ」
ノッポはへっぴり腰ながらも懸命に叫ぶ。
「アーハッハッ! アンタたち、ここでアイツを足止めできたら、今度また遊んであげるわッ」
「よっしゃあ~、レイナサマがばぁだまぞんねくぇゆずぉ!」
興奮最高潮のちんちくりんは、最早何を言っているかわからない。
網だけは最も機敏に光を追いかけまわしている。
そのうちに麗奈は公園の出口より悠々と出ていった。
気がついたら光は三人に囲まれていた。
光の背後にレッスン場に向かう出口、正面にはノッポ、右後方にちんちくりん、左後方がポッチャリである。
「このままじゃ……くっ、仕方ない!」
光は腹を決めた。
身体に熱がこもる。
真っ赤なマフラーを外し左手に。
三人が三方より同時に網を振りかぶる。
「ゴメンよ、キミたち!」
光も声を張り上げ、正面のノッポに向かって駆け出す。
突進してくるような光に慌てた彼は「ひえぇ~」と網を高く振り上げる。
「隙が大きいッ!」
ゆっくりと振り下ろされる網を横に躱し、そのままノッポの後ろまで駆け抜ける。
ちんちくりんが「なあにやってんだぁ~!」と、ノッポに並ぶ。
光は右手に握りしめていた“それ”を持ち直す。
「おっしゃあああー!」
二人が横並びのまま気合いとともに網を振り上げる。
光は一歩後ろに下がる。
が、すぐさま下げた一歩を前へ勢いよく踏み出すと、「ハッ!」という掛け声とともに、“それ”を投げた。
――ひゅん。
風を切る音。
「ぎゃあ」と焦る二人の頭上でビニールボールがくるくると回る。
回るほどに、紐が絡まる
――二人が振り上げていた虫捕り網の柄に。
二本が一本へと絡まりつつあるのに手を離そうとしない二人は、互いに網の操作を邪魔しあってオロオロするしかなかった。
光はその隙に、彼らを躱し去った。
出口の方に麗奈の姿はもうなかった。
生垣に沿って視線を進行方向へと移動する。
(いた! もうあんなに遠く……!?)
まだかろうじて公園からその姿は見えるが、かなり先を行っていることには違いがない。
光は拳を握りなおした。
「よしっ!」
光が駆け出した方向は、出口とは違う方向だった。
むしろ、生垣にむかって、麗奈にむかって、一直線の方向である。
すかさずポッチャリが立ち塞がる。
鼻息荒く手を広げて、光を見据える。
意地でも抜かせない――そんな目だ。
「ここは通さんッ、通さんぞォ!」
見た目以上の俊敏さと貫禄に光は驚く。
ポッチャリの手がまさに光の腕を掴もうとした瞬間。
光はとっさに左手に持っていたマフラーを翻した。
「おうわぁ」
遮られるポッチャリの視界。
マフラーはそのまま光の手を離れ、ポッチャリの顔を覆う。
慌てふためく彼をおいて、光はグンと加速した。
どんどん速度を上げる。
麗奈は左手前方に捉えている。
はるか後ろで「待てえぇ!」と叫び声が聞こえる。
公園の木々がどんどん後ろへと消える。
麗奈がこちらに気づいた。
彼女も速度を上げる。
生垣が迫る。迫る。
「うおおおおお!」
光は絶叫とともに跳んだ。
その小さな体につまっている全身のバネをたわませて、勢いの全てを脚に込めて、思いっきり、大きく、大きく、跳んだ。
光の視界がゆっくりと移り変わる。
生垣の濃い緑、進む先の白い家、猛犬注意の看板、青く澄んだ空、驚愕する麗奈の顔、迫る地面。
次の瞬間、光は麗奈の前に勢いよく転がり出た。
麗奈には光が派手に着地を失敗したように見えた。
冷汗が出る。
しかし、光はすぐさま立ち上がると横目で麗奈を確認し、「よっしッ!」と駆け出す。
麗奈は一瞬だけホッとする。
が、我に返る前には、カッと頭に血が昇っていて、毒づいた。
「南条、無茶しすぎッ! バカじゃないのッ!」
「受け身、バッチリ!」
その全く返事になっていない返事を受け、麗奈は無性に腹が立った。
光の声色が、今まで聞いたことがないくらい楽しげであったからだ。
「――こっちだって必死なのよ!」
麗奈は速度を落とさぬまま背中の荷物を手にし、開ける。
取り出したるは金色に煌く筒状の道具。それには赤い文字で「レイナサマバズーカ しさく品」と書かれている。
「ひか――」
そう叫びかけたところでハッとなる。
「チッ」と思わず舌打ちが出る。
「南条ッ、止まりなさいッ!」
呼ばれたところで止まる気はなかった光であったが、後ろを振り向くと、異様な金筒とそれをしゃがんで構える麗奈の姿が視界に入る。
呆気にとられて、思わず足が止まる。
麗奈の後ろから先ほどの男児三人が走ってきている。
「レイナサマ、それはいけませぇん!」
ノッポの制止もむなしく空に消える。
麗奈は不敵に笑みをこぼした。
バズーカの引き金にかけられた指が動く。
「カクゴしなさいッ! 南条ゥーーーッ!」
刹那、住宅街に大きな乾いた音が響く。
光は思わず身を屈めた。
……しかし、特に何も起こらない。
光が恐る恐る麗奈の方をみてみると、麗奈の目の前でポテポテといくつかのスーパーボールが弾んでいる。
「あ……あれ?」
首を傾げる麗奈。
三人組も後方で唖然としている。
「レ、レイナ……」
光の目にほんの少し憐憫の色が浮かぶ。
「な、何よ……」
麗奈は何もなかったかのように口笛を吹こうとする。
すぼめた口から空気がプスプスと漏れる。
心なしか頬が赤い。
その時であった。
光は、男児三人の後ろで、先ほど通り過ぎた白い家の門がゆっくり開くのを見た。
白い家――猛犬注意の看板が立っていた白い家だ。
「走れぇ!」
目を見開いて光は叫ぶ。
突然の大声に麗奈も三人組も驚く。
だが、その次に聞こえてきた唸り声によって、麗奈たちもその理由を知る。
その門から現れたのは体高が五十センチはあろうかというブルドックであった。
「ガァアるるる」と地響きのように唸りながら、ドッス、ドッスと向かってくる。
決して速くはないが、遅くもない。
小型のトラックほどはあるんじゃないかという迫力で確実に近づいてくる。
「ぎゃいやああああああ」
猛スピードで走りだす麗奈と三人組。
それに合流する形で光も駆け出す。
「ヤバいっすよ、レイナサマ! あのブル、絶対やる気マンマンですぜ」
意外なほどの快足を見せつつ、ポッチャリが言う。
ノッポはべそをかき、ちんちくりんは「いやっほうっ」とノリノリだ。
麗奈は顔を引きつらせながら
「だから、逃げてんでしょうがぁ!」と返した。
「みんな、急げ! がんばって走るんだッ」
光が檄を飛ばす。
「そうよ、アンタたち、必死に走んなさい!」
麗奈も言う。
ブルは焦点の定まらない目で突進してくる。
首にはリードがついているが、そのリードは野放し状態だ。
「こ、こんなんじゃ、この勝負、続けれないですよぅ」
とノッポが悲痛な声をあげた。
他の二人も、うんうんとうなづく。
それを聞いた麗奈は「はぁ?」という表情になる。
「それは――「ダメだッ!」」
麗奈の言葉と光の言葉が重なった。
「諦めるなんてダメだよ! アタシは嫌だ」
目を丸くして麗奈が光の横顔を見つめる。
息を切らせて一生懸命に腕をふる彼女の瞳は澄み切って輝き、翡翠のように美しい。
不思議なことに、麗奈の口元が自然に緩んだ。
イタズラ至上主義の小関麗奈。
自称正義の味方の南条光。
麗奈にしてみれば、いわば天敵。
ショッカーにとっての仮面ライダー、
バルタン星人にとってのウルトラマン、
ギャオスにとってのガメラ、
ゴジラにとっての芹沢博士、のようなものだ、
と彼女は常々思っている。
こういう例えすら、光から散々聞かされた話の影響
――最後は微妙に違う気もするが――
を受けているかと思うと、それがいまいましい麗奈であったが……。
(そんなヤツが、そんなことを言うなんて)
麗奈から仕掛けた、言ってしまえば悪ふざけの産物でしかないこれに
――南条光は全力でつきあっている。
(コイツも案外、アタシと――)
その事実に、麗奈は今になって気がついた。
そして、全力疾走中だというのに、高笑いがこみ上げてくる。
「フフフ……アハハハ……アーッハッハッハッ! ――ゲホッ、ゲホッ、オエェ」
「だ、大丈夫か? レイナ」
「平気よッ! 聞きなさい、アンタたち。これを諦めることなんてできない」
そう言って、光と目を合わせる。そして、
「「この闘いは譲れないッ」」
光と麗奈は力強く宣言した。
既にビルの並ぶ大通りに出ている。
ブルは速度を緩める様子もなく、追いかけてくる。
五人は必死の思いで疾走する。
行き交う人々はそんな五人に怪訝な目を向け、一匹を見て目を丸くした。
と、ここで光の目に因縁浅からぬモノが写る。
赤信号。
「ここだ!」と声を上げる。
横断歩道の手前、路地裏へと続く角を曲がる。
光に続き、麗奈と男児三人も路地裏へと飛びこむ。
入り組んだ道を駆ける五人を、左右のビル璧が圧迫的に見下ろしている。
ブルも「ぶぅじゅるううう」と鼻を鳴らして一行を追い駆ける。
徐々に距離が離れてきた。
ここで、ノッポがビクビクしながら告げた。
「こ、この路地は……まずいですよ、レイナサマ!」
「どういうこと?」
聞き返した麗奈へ、代わりにポッチャリが返事をする。
「この路地、昔からヤバいんス。ヌシがいるんッスよ。勝手に入って騒いだら、どうなるか……!?」
「な、何それ……?」
麗奈も顔を引きつらせる。
すると、光が先を見据えたまま、励ますように言う。
「大丈夫だ、あともう少し! あの十字路を真っ直ぐ行けば出られる!」
さすがに、光も麗奈も疲労の色が濃い。
男児三人は限界が近そうに苦悶の表情を浮かべている。
五人が十字路を走り抜けた時である。
光が急にその足を止めた。
麗奈はじめ後ろの四人も慌ててブレーキをかける。
「ちょっと、どうしたのよッ!?」
麗奈の問いに光は答えないまま進行方向を指さした。
その先に広がる光景を見て、三人組は「あわわ」と声を震わせる。
空を左右から挟んで圧迫する二つのビル壁。
その壁面に、それらは居た。
壁から飛び出る配管や庇、小さいベランダ、通路に積み上げられた箱、それらの上からこちらをジッと見つめる無数の目。
おびただしい数の猫。
そして、二つのビルを結ぶ、ひと際太いパイプの上で、異様なほどの存在感を放つは、白黒茶の三色の毛並みをたたえ、尻尾を中空に向けて漂わせ鎮座する、でっぷりとした猫
――おそらくは、この路地裏のヌシ――であった。
彼らの目にはあからさまに敵意の色が宿り、ヌシであろう三毛猫以外、ほぼ全ての猫の毛が逆立っている。
「この前、アタシたちがここで騒いだから……」
たじろぎながら光がつぶやく。
「これは……ちょっとヤバいわね」
麗奈も同様である。
その時、後ろから「ぐじゅるるるぅ」という唸り声が再び聞こえてきた。
振り返ると、先ほど通り過ぎた十字路の向こう側から、のっしのっしとブルが歩いてくる。
光の額から汗が滴り、麗奈は拳を握りなおして、三人組は肩を寄せ合い恐怖した。
「これは、まさに……前門の猫ッ、後門の犬ッ」
「グレード下がってるわよっ。――でも、割にマズいわね」
「も、戻りましょうぜ! 今ならまだ十字路の違う道にいけるし」
と、ポッチャリが提案する。
「賛成だ!」「賛成ね!」
光と麗奈が同時に言うが早く、五人は急いで十字路に駆け戻る。
三人組に並んで麗奈、その後を光が続く。
十字路を三人組は勢いに任せて左に曲がる。
同時に麗奈が「あっ、バカッ! そっちじゃ――」と、言いかける。
全てを言い終える前に、麗奈は勢いのまま右に曲がった。
光はわずかな逡巡のあと、三人組を追って左に曲がる。
「あぁっ!」
悲鳴にも似た声が上がる。
光たち四人の先には、背の高い塀が待ち構えていた。
すなわち、袋小路。
すぐさま振り返る光。
先ほどの十字路からブルが顔を出す。
その奥に、麗奈がいる。
麗奈は苦々しい面持ちでこちらを見つめていた。
光には、その表情がひどく痛ましく、寂しげに見えた。
一方で、麗奈が捉えた光の瞳は先ほどと変わらぬ美しい翡翠であった。
裡に秘めたものが燃ゆる、そんな色。
袋小路の奥には光の背丈ほどの資材置き場があった。
高い塀といくつかの窓が並んだビルに密接して置かれている。
「みんなっ、登るんだ!」
ブルは光たちの方に向けて、その歩みを進めた。
一方、猫たちは続々と麗奈の方へと向かう。
「急げ!」
ノッポはすぐに上がれたが、ポッチャリとちんちくりんは中々登れない。
光がちんちくりんを必死に押し上げる。
ポッチャリもどうにか自力で登った。
あとは光だけだ。
そうしているうちに、ブルは着実に迫ってくる。
「レイナ! そっちに猫が行ったぞ!」
光は自分が登るよりも先に、麗奈を振り返り叫んだ。
猫たちもまたビルの上から麗奈に迫っていく。
身のこなしが速い。
既に麗奈を取り囲んでいる。
「レイナァー!」
光の声に応えぬまま、麗奈は振り返り、そして駆け出した。
猫たちが次々と麗奈に跳びかかる。
地面から突撃してくる猫を飛び越し、目線の高さから振り下ろされる爪をかろうじて横に躱す。
その勢いで体勢が崩れかかった麗奈を狙い、配管や庇から猫が飛ぶ。
最初の一匹はどうにか避ける。
しかし、時間差で降り立つ二匹目、三匹目の爪は確実に麗奈を捉えんとする。
が、次の一瞬で麗奈はポケットから袋を取り出し、入っていた色とりどりのスーパーボールをぶちまけた。
驚いた二匹目、三匹目は麗奈を捉え損ねる。
幾匹かの猫は地面にばらまかれたボールに気を取られ、遊び始めた。
幾匹かの猫は遥か上で一部始終をねめつける三毛猫のプレッシャーを感じたのか、追撃の姿勢に移る。
体勢を立て直した麗奈は、光たちを一瞥した後、すぐさま走り去っていった。
「レイナサマぁぁー!」
男児三人の叫びは、薄暗い路地裏でむなしくこだました。
光も急いで資材置き場に登ろうとする。
迫るブルの太い腕が光の足を捕らえようとする。
しかし、その足はすんでのところで上がり、ブルの爪は空を切った。
資材置き場の上で一呼吸おいた光は「ひええぇ」と震えている三人に向き合った。
「大丈夫だ、アタシがついてる!」
「で、でも、どうやってでる……?」
ちんちくりんが先ほどまでのハイテンションが嘘のような声をもらす。
資材置き場に登っても、塀の上に届かない。
この中で一番背の高いノッポも所詮は小学低学年。
手を伸ばしても、あと数十センチ足りない。
「ね、姉ちゃん、これ……こんなときだけど」
ポッチャリがびくびくしながら、あるものを差し出す。
「これは、さっきの……」
その手にしていたのは、赤いマフラーであった。
「――ありがとう!」
光はポッチャリの頭を撫でてやった。
そして、マフラーを颯爽と巻き、正拳突きをするかのごとく両手を腰にやって「よおぉしっ!」と叫ぶ。
「いいか、三人とも。これから、アタシの言うことをちゃんと聞いてくれ」
光は三人の目を見て力強く呼びかけた。そして、彼らに作戦を話す。
「――――で、できるかなぁ」
光の話が一通り終わったところで、三人は不安を浮かべる。
「そうだな……アタシ一人じゃ無理だ。でも――力を合わせれば、きっとできる。大丈夫だ! なんて言ったって君たちは、このアタシ、南条光と戦ったライバルなんだから」
かくして四人の脱出作戦が始まった。
光は塀にぴったりと背中をつけたまましゃがみこんだ。
そして、その肩にノッポが乗る。
しっかりと足の裏を光の肩に乗せ、ノッポはバランスをとる。
そのまま光は「フンスっ!」という掛け声とともに、ノッポを肩車した。
ノッポの手にはロープ――レースの始まりに麗奈が光をひっかけたそれを持っている。
ノッポは塀の上へと懸命に手を伸ばす。
光は塀についた後ろ手を支えにして、背中にめいっぱいの力をこめる。
その様子を、ブルが下でうろつきながら眺めている。
「あ、あと、少し……」
「がんばれ、姉ちゃん、がんばれ!」
「ハッ、ハアァァっ」
光はさらに背伸びをして高さを上げた。
ノッポの指が、手が、確かに塀にかかる。
「やった!」
ノッポは片手にロープを持ったまま、どうにか向こう側へと降り立った。
彼はすぐにロープを手ごろな配管へと結ぶと、「できました!」と告げる。
ポッチャリがロープを手に取り、登ろうとする。
が、なかなか登れない。
すかさず、光がその尻を押してやろうとする。
「ぐぎぎぎ……」声が漏れる。
思った以上の重量だ。
苦しそうなその表情を見て、ちんちくりんも一緒になって尻を押す。
「引っ張ります!」と向こうから、ノッポも力を合わせる。
そしてやっとポッチャリも、ドスンと向こう側にたどり着くことができた。
「さぁ、今度はキミが行くんだ!」
ちんちくりんがロープを掴む。
その時、光はそのロープがだいぶ摩耗していることに気づく。
(急がないと……!)
光はちんちくりんの足の裏を押し上げる。
向こうから、ノッポとポッチャリがロープを引こうとした瞬間であった。
ブチブチ、という断裂音が路地に響く。
「あぁっ、やばい!」
ちんちくりんが言うと同時に、
「くっ、うおおおおぉぉぉ!」
と光は体中の力を振り絞って、
ちんちくりんの足を勢いよく打ち上げた。
小さな悲鳴と一緒に、ちんちくりんの身体は塀を越える。
そのまま彼は勢いよく塀を降りた。
「大丈夫、姉ちゃん!?」
返事の代わりに、塀の向こうから切れてしまったロープの先端が力なくこちら側に落ちてきた。
「おうわぁっと!」
光は反動で、体勢を崩していた。
ブルがギラギラした目つきで舌なめずりをする。
麗奈を追っていたはずの猫たちも続々とこちらに向かってくる。
光の身体が資材置き場の外に投げ出されそうになる。
(もう保てない!)
そう思った光の視界にビルの窓が写る。
ここから一メートルほどの距離。
階段の窓だろうか、一階と二階のちょうど中間ぐらいと思われる高さに位置している。
その窓枠部分なら、どうにか手がかかりそうだ。
「一か――八かぁッ」
光は跳んだ。
そして、窓枠に手を伸ばす、
右手がかかる、
左手は枠を捉えることなく中空に投げ出される、
自分の全体重が右腕にかかる、衝撃。
「くぅ――!」
かろうじて、光は窓枠にぶら下がることができた。
と、同時に聞こえる男児たちの声。
「だ、大丈夫だ!」
かろうじて応える光。
しかし、それは強がりであった。
先ほどからブルは尻尾を振って光の落下を待っているし、猫たちはすっかり集まって、その中心で大きな三毛猫が高みの見物を決め込んでいる。
幾匹かの猫は三人組の方へ向かっていった。
「アタシは大丈夫だから、先に行くんだ!」
「で、でも――」
「いいから! 早くッ!」
「――う、うん!」
三人が駆けて行く音が聞こえる。
こんな状況だというのに、光はほんの少し安心した。
しかし、それも右腕の痛みがかき消してしまう。
彼女の瞳の輝きが暗く沈む。
「う、ぐぅ……」
――絶体絶命の状況とはこういうことを言うのだろう。
使える道具はもう何もない。
頼みの右腕は痛み、身体は疲労感で今にも力尽きそうだ。
いっそこの手を離してしまおうか。
犬や猫は案外、どうにでもなるかもしれない。
ほら、ブルドックって本当は大人しい性格って言うし
……そんな現実逃避が頭を巡る。
ブルはぶら下がる光をめがけて、壁を這うように立ち上がって鼻息を吹きかける。
見物に耽っていた猫たちも立ちあがり毛を逆立てている。
三毛猫がひとつ大きなあくびをする。
それを終えると、瞳孔を一段と開いて、重苦しい声で「にゃ~ご」と鳴いた。
それが合図であった。
臨戦態勢の猫たちが一斉に光に跳びかかろうとする。
その瞬間が、光にはひどくゆっくりと感じられた。
(あぁもう、手を離しちゃえばいいんだ。がんばったよ。そうだろ? 諦めよう。今のピンチも――レイナとのレースも)
――それを思った刹那、空を泳いでいた左手が自然と首元の真っ赤なマフラーを掴んだ。
ギュッと握る。
光の脳裏に、今まで憧れてきた数々のヒーローと、そして、そのライバルたちの姿が浮かんでくる。
沈んでいた輝きが光の瞳の中から再び浮かび上がる。
「いや――ダメだ。諦めるなんてダメだ! アタシは今、負けられない勝負の最中なんだッ! 絶対に譲れないッ、レイナとの、闘いのッ!」
痛む右腕にありったけの力をこめて、マフラーから窓枠へ、左手を伸ばす。
その左手が窓枠を捉えようとする直前、
「光ッ!」
窓が開き、中から伸びたキレイな右腕が、光の左腕を掴んだ。
その腕に引き上げられながら、光は必死にその身体を持ち上げ、窓の中に転がりこんだ。
光が階段の踊り場に倒れると、すぐさま窓は閉められた。
座ったまま大きく肩で息をする光の隣に、同じく大きく肩で息をする麗奈が立っていた。
その表情はまだ固い。
「はぁ……はぁ……。レ、レイナ……!?」
「あの子たちは無事!?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。みんな、しっかり逃げられた」
「そ、そう……」
麗奈の表情が一気に安堵した様子になる。
聞き逃しそうなくらい小さな声で「よかった」とつぶやいた。
そして、すぐにイタズラな笑みを作りながら言う。
「なぁんだ、アンタはへこたれてると思ってたけど」
光も「へへ……」とほほ笑みながら、サムズアップで返す。
「ありがとう、レイナ。助かったよ、ホントに……」
「これで貸し一つね、南条」
「なんだよ、もとはといえばレイナがあんなもの撃つから」
頬を膨らませながら光はぼやいた。
呆れたようにも見える。
しかし、楽しげにも見える。
そして、フッと何かに気づいたような表情になる。
「っていうか、さっき『光』って呼んでくれたよね!?」
光は溌溂とした笑顔を麗奈に向けた。
すかさず、麗奈は目を逸らす。
が、若干その口元は緩んでいた。
「さっきはたまたま! アンタはまだ南条で十分よッ」
「ははっ、なんだよそれ」
くすくすと光は笑う。
「そんなことより! わかってんでしょうね」
「あぁ、そうだな。わかってるよ、レイナ!」
光は立ち上がり、麗奈と目を合わせた。
そして、二人はうなずき合う。
やはり号砲は必要なかった。
全く同時に、二人の足が勢いよく階段を降り始める。
そのままビルの外に飛び出す。
ゴールのレッスン場まではあと僅か、この道が最後の直線である。
二人の足取りの力強さはいっそう増している。
ビルが、街路樹が、行きかう人々が、二人の視界を流れていく。
疾走する二人をそれぞれの表情で見送る人々の中に、先ほどの男児三人組もいた。
「がんばれー! 二人とも、がんばれー!」
三人の声援が光と麗奈、それぞれの耳に届く。
麗奈は不敵な笑みで、光は爽やかな笑顔で、それを受け取り、一生懸命に腕を振った。
一進一退。
「ハァ……ハァ……たいしたもんね、あんだけ大変な目にあったのに、ついてくるなんて」
「それは……ハァ……レイナだって……ハァ、同じだろ!」
光がここでまたスピードを上げる。
足全体が軋む。
それでも、全くかまわない。
麗奈が苦しそうに言う。
「ホント、南条はッ――そのちっこい身体の、どこに、そんなパワーが、あるのよッ!?」
「小さくない! 百四十センチはあるッ! それに、今日の朝ご飯は半熟の目玉焼きだったッ!」
「エネルギー源の話じゃないッ!」
「そういうレイナだって、運動はアタシより苦手だろ!?」
「アンタが体力バカなのよ!」
「なにをぅ!? じゃあ、ついて来てるレイナだって体力バカじゃないか!」
「うっさい! アタシはね、南条には絶対に負けたくないの! 正義の味方のアンタなんかに」
麗奈がまたひとつギアを上げて、光の少し前に出る。
「ライバルってわけだな! それなら、アタシだって!」
光はその瞳をいっそう燃え滾らせて、さらに加速する。
「ハッ、ハッ、ハッ――どこまで、走れんのよッ」
「ライバルとなら――レイナとなら、いくらでもッ、いつまでもさッ!」
「――ンンッ!?」
麗奈がむせそうになる。
その代わりに、彼女の顔から照れたような、嬉しそうな、むずがゆい笑顔が溢れ出ていた。
「ハハッ、アンタってホントに――」
言いかけて、その後を飲みこむ。
そして、宣言する。
「上等ッ!
いいわよ、トコトンまでやってやるんだから!」
レッスン場が見えてきた。
二人は残った力の全てを振り絞って走る。
腕が、足が、ちぎれそうなぐらいに駆ける。
ちぎれたってかまわない、ちぎれたってきっと走り続ける。
ゴールへの階段を一段登る、二人同時に。
並走したまま一段飛びで駆けあがる。
扉が見える。
二人ともが腕を伸ばす。
光の右腕に痛みが走った。
そして――
***
プロデューサーはいつものレッスン場、その受付ロビーで、自分の手帳を片手にコーヒーをすすりながら、担当アイドル二人が到着するのを待っていた。
黒いスクエアフレームの眼鏡が良く似合う生真面目そうな男といった風貌の彼は、グラススリッパープロダクションのパッション部門プロデューサーをしている。
いや、厳密に言えば、彼はその担当アイドルと同様に「見習い」がつくプロデューサーであった。
その担当アイドルは、南条光と小関麗奈という。
「相変わらず忙しいか、プロデューサー」
トレーナーの青木が、手帳とにらめっこしているプロデューサーに声をかける。
「はい。こちらに顔を出すのも久しぶりになってしまいました。光と麗奈はよくやっていますか、聖さん?」
「そうだな、二人ともがんばっている方だ。まぁ、今日はまだ来てないが。レッスン開始まで後五分を切ったぞ……」
青木はため息まじりに告げる。
プロデューサーは恐縮そうな顔をして頭を下げた。
「あぁ、いや、すまない。責めているわけじゃないんだ。考えてみれば、キミも大変だな。まだ、『見習い』だというのに、あの二人の担当とは」
「はは、そうかもしれません。言ってしまえば、『じゃじゃ馬』ですから。あの二人は」
プロデューサーは嬉しそうに答えた。
その笑顔に若干の苦みが含まれているのは、口にしたコーヒーが濃かったからだとしておこう。
プロデューサーは続ける。
「麗奈は言わずもがな、なのですが……」
プロデューサーの二の句を青木が継ぐ。
「南条もああ見えて案外、頑固で繊細なところがある、といったところか」
「はい。そうだと思います。――いわば、二人とも『譲れない己』がある。そんなところでしょうか」
それを聞いて、今度は青木が少し楽しそうな、しかし、明らかな苦笑いで言う。
「道理でケンカばかりしているわけだ」
「ですけど、きっと相容れない間柄ではないと思います。むしろ、二人はお互いにとって『最高に価値ある相棒』になれるのではないか? と私は考えています」
青木は何も言わずに、ただ得心したような笑みでうなずいている。
「なぜならば、本人たちがどう言おうと、二人は――」
その時、レッスン場の扉が勢いよく開いた。
麗奈と光がロビーへと転がり込んでくる。
「えっ、ちょ、どうしました!?」
驚いて駆け寄るプロデューサーと目のあった二人は、普段はいない人物がいることなど全く気にしない様子で、ほとんど同時に「どっち!?」と声を張り上げる。
「は?」
訳の分からない様子でプロデューサーがぽかんとしていると、肩を上下に揺らし大きく呼吸をしながら麗奈が
「ハァ、ハァ、どっちが先にココに入ったか? ってこと! アタシだったでしょ!?」
とまくしたてる。
光も同じように
「プロデューサーさん――ぜェ、ぜェ――どうだった? わかる!?」
と額に汗をたらしながら、ムキになってつめ寄る。
「えぇ~、二人ともほとんど同時だったと……」
プロデューサーは助けを求めるように青木の方を見るが、青木は肩をすくめて首を横に振った。
「それじゃあ――ハァ、ハァ――わからないじゃない!」
「ぜェ、ぜェ――くっ、これじゃあ、二人の決着が……」
随分と息を切らせている彼女らを見て、彼は尋ねる。
「えっと、競争でもしてたのですか? そんなに息を切らして。というか、この後のレッスン、大丈夫です?」
「「あっ……」」
二人の上気した赤い顔から一気に血の気が引く。
プロデューサーと青木は思わず笑ってしまった。
そして、へたりこむ二人に向けて、プロデューサーがこう告げる。
「なんだかんだ言って、息ピッタリですね、光と麗奈は」
――おわり――
本SSは、2月上旬に行われたとあるイベントで無料配布した掌編を微修正したものとなります。
お読みいただいた方々、ありがとうございました!
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