蛍と歌う (65)

オリジナルSSです。

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 ピンポン、とインターフォンを鳴らした。今、家に目的の人物がいることはわかっている。だけどそいつは確実に俺の呼びかけに答えないことはわかっている。そんなことはわかっているけれども、どうにも諦め切れずにしばらく立ち続けてしまうのは長い間培われた癖ともいうべきものだから直さないことにする。

 体感的には五分ほど待った気がするが、実際のところはわからない。やれやれ、仕方なしとばかりにあらかじめ借りておいた鍵を探す。
 祖母から送られてきたさくらんぼが入ったダンボールを一旦床に置き、合鍵を取り出そうとしたとき、ドア越しからかすかにドタバタと騒々しい音が聞こえ、がちゃりとドアが開いた。中から、どんよりとした雰囲気の少女が現れる。

「こんばんは。これ、ばあちゃんが送ってくれたさくらんぼ。美味しいよ」

「…どうも」

「どういたしまして」

 やはりどうせドアを開けるなら自分ではなく、誰かに開けられたいものだ。人様の家に勝手に入るという罪悪感が薄れるから。


 俺の家の向かいに住んでいる少女は不登校だ。いつからかははっきりとわからないが、多分、中学2年生の去年からだったと思う。

 家が向かいだったこともあり、俺と少女は小学生の時よく遊んでいた。俺の方が二歳年上だから、という理由で兄貴ぶっていたのは懐かしい思い出だ。その頃の彼女は今とは比べ物にならないほど活発な子だった。艶のあるボブカットの黒髪を揺らしながら走る姿が眩しかった。そして度々、彼女が習っていたピアノの音を聞くのが、俺は好きだった。

 だけどいつの日からかそんな明るい彼女は姿を消し、陰鬱な少女へと変わっていった。小学生の頃とは違い、髪の毛は伸び放題だし、健康的な肌の色は引きこもったこともあり真っ白になっていた。中学生時代帰り道にばったりと遭遇しても、はっと目を逸らされることが多かったのであまり声を掛けないようにしていた。
 だから先のようにわざわざドアを開けてお礼を言われたのは、とても大きな進歩と言える。育てている朝顔が少しだけ成長したような、ささやかな喜びだ。

 彼女の嫌いな中学を卒業していて、かつご近所さんの付き合いな俺は、彼女にとって『近くて遠い関係』と言える。物理的にも、精神的にも。だから彼女の母親は、学校の第一の奴隷とも言える教師でもなく、よくわからないスクールカウンセラーでもない、この俺に『相談役』という馬鹿げた役割を頼んだのだろう。

 まあ相談役といっても具体的にどうしろと言われた訳ではない。結局はその場のノリだったのだろうが、『相談役』という響きがなんとなく好きで俺は愛用している。

 彼女の母親はどうやら僕を信頼してくれているようで、彼女の両親が不在のときにはよく、ご飯を準備してくれとか話し相手になってくれだのと頼まれる。それを介して、彼女が人に心を開いてくれるようになれば、という狙いがあるのかもしれないが、残念なことに俺が彼女と会話を交わすことはほぼない。彼女の方も、俺が来ることは大して嬉しくもないのだろう。彼女が俺と目を合わせることは、一度もなかった。

 しかしながら、そういった役割に俺を選んだことは失敗といえる。なぜならば俺も不登校寸前の学校嫌いだったから。

 生徒というのは学校の奴隷とも言える存在だ。学校が決めたきまりに従い、何時間も拘束され、理不尽なことで怒られ、げらげらとくだらないことで笑うやつらに囲まれる。酷い場所だ。しかし教師というのも哀れな存在だと思う。自分より年下の知恵も知能も足りない子どもに、勉強や道徳心を教える。彼らは彼らなりに正しいことを教えているのに、子どもはそれら全てを煩わしく扱う。彼らは学校の第一の被害者であり、奴隷だ。可哀想に、いつか『勉強を教えてくれるAI』みたいなのが一般に普及されたら彼らが解放されることを願おう。そして路頭に迷えばいい。


 閑話休題

 そんなわけで、彼女の両親が不在の今晩、俺はご飯を準備しにきたのだ。彼女の母親が作った料理を温めたりレトルトを解凍したりするだけの簡単なお仕事だが。
 彼女はドアを開けてからまたパタパタと自分の部屋へ戻っていったので俺は一人で支度していた。誰かがご飯を作って呼んであげないと、ご飯を食べないのだ、彼女は。

 米を茶碗に盛り、みそ汁をよそい、おかずを食卓に並べた。毎回彼女の母親は俺の分まで用意してくれるのでありがたく頂くことにしている。

 準備をしている音が聞こえたのだろうか、彼女はいつのまにか食卓の付近で立っていた。

「ご飯だよ、蛍」

「…うん」

 少女こと、蛍は俯きながら返事をして、椅子に座った。


 食器の音ともぐもぐという咀嚼音だけが聞こえる。会話はいつもない。だけど俺は何となく、蛍と話したい気持ちだった。

「美味しいね」「うん」「好きなおかずは?」「お母さんのハンバーグ」「おばさんのハンバーグ美味しいよね」

 そうしてまた食事に戻る。話しかけたら答えてくれるのは嬉しいが、如何せん会話が続かない。何か話そうと思案するが、ご飯ネタは使ってしまったので他の話題が浮かばない。バラエティやドラマを見ているようには思えないし、スポーツ観戦なんてもってのほかだ。しばらく箸を止めていると、
「…お味噌汁、冷めちゃうよ」と言われた。彼女が自分から話しかけてくれたのは久しぶりだ。それが嬉しくて、何を話そうかなどと考えていたのがどうでもよくなった。


『ごちそうさまでした』

 そうして彼女は自分の食器を片付けた。そのままスタスタと自分の部屋に戻ろうとした彼女を俺は引き止めた。そして彼女の母親から頼まれていた話題を振った。

「蛍。中学のほうで、そろそろ合唱コンクールについての活動が始まるらしい。といってもまだ曲も聞いていないらしいけど、おばさんが担任の先生からそう聞いたって」

 そう言うと、蛍はびくっと肩を揺らした。

「お前、去年伴奏やったんだろ?だから」

「…か…しょ…」

 俺の言葉を遮って蛍が何かを呟いた。

「学校になんか、行かないって言ってるでしょ!放っておいてよ!」

 そう言って彼女はバタバタと走り去っていった。しまった、『学校』等と言う単語は禁句だった。彼女になにがあったのかは分からないが、いきなりそんな話題を振るのは不適切だったかもしれない。いやしかし彼女の母親に頼まれたことを伝えないというのも…。彼女の足音を聞きながらそんなことを考えていた。


「蛍ー、俺帰るから。鍵ちゃんと締めろよ」

 洗い物を済ませた俺は、もう任務を終えたも同然なので帰ることにした。当然、返事はなかった。


 家に帰った俺は、なぜ蛍が不登校になってしまったのかを考えた。小学生の頃は明るかったし、友達も多かった、と思う。昼休みにはよく体育館で遊んでいる様子を何度も見てきた。
 いや、小学生のころはああだったという考えを捨てよう。人は時間を経るにつれて変わるものだ。それが短かろうが長かろうが、善人になろうが悪人になろうが。だから、小学生の時にいくら友達が多かったとしても、中学生になった彼女も友達が多かったとは言えない。

 彼女が学校に行きたくないというのであれば無理に行かせる必要は無い、と思う。彼女の母親もそれをわかっているはずだ。けれどどうやら、学校に行こうという意思はあるらしい。だけどいざ学校に行こうとして制服を着て朝ご飯を食べて玄関に立った瞬間、立ちすくんで進めなかった、という話を聞いた。

 はたしてそんな彼女に、学校へ行くのを薦めるべきなのだろうか。そんな考えが脳内にぐるぐると駆け巡った。


 月曜日の朝、憂鬱な気分で学校に行きいつも通りの退屈な生活を送った。いつも通り、誰にも話しかけられることもなく俺は読書をしていた。クラスメイトが話している内容も授業もどうだって良かった。学校の何もかもがどうだって良かった。
 学校に行きたいという意思があるのに行けない蛍と、学校なんてどうでもいいけれど毎朝6時に起こされて自然と学校に行くような仕組みになっている俺。皮肉なものだな、と思った。


 学校帰りに立ち寄った本屋で、ある本が目に留まった。
 
「小さな旅をして、新しい自分を見つけませんか」というありきたりなキャッチコピーの帯がついた旅行ガイドブックだった。普段ならどうってことなく通り過ぎるだろうが、なぜかその文章は俺の心に住み着いた。

 結局その本は買わないまでも、俺の中で決心したことがあった。まあ、なんとなく想像はできるだろう。

10
 ピンポン、と彼女の家のインターフォンを鳴らす。さて、彼女は出るだろうか。出なくても良い、また明日も来るまでだ。
 またしばらく待ったあと、蛍がガチャリとドアを開けた。

「……お母さん、今日は来るように行ってませんでした。だから、帰ってください」

「話したいことがあるんだ。家の中じゃなくても、ここでいい。聞いてくれ」

「…そこじゃ暑いでしょ、入ってください」

「ありがとう」

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 そうして蛍の家に入ることに成功した俺は、蛍と向き合う形で椅子に座った。彼女は何も話したくない、聞きたくない、早く帰ってくれと言わんばかりに俺とは別の方向に頭を向けて俯いていた。

「突飛な話なんだけどさ、……俺と旅に行かないか?」

「何、言ってるの…」

 蛍は俺のいる方へ頭を向けた。彼女の言い方から、俺の頭がおかしくなったのかと思われた気がするが構わず俺は言葉を紡いだ。

「旅、と言っては大きくなるけれど、一日この小さな町から抜け出して遠いところに行こう。山は危ないけど、海がある場所とか色んなお店があるところとか、なんでもいいんだ。とにかく、ここじゃないどこかへ行ければ」

「ここじゃない、どこか……」

 そこでようやく蛍は俺と目を合わせた。実に一年ぶりほどに、俺は彼女の正面を向いた顔を見た。やはり、彼女は真っすぐに前を見据えたほうがいい。今は長い前髪で顔の印象が暗くなっているが、整えたらきっと魅力的な姿になるだろう。
 
 その時、ガチャリとドアの開く音がした。

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「あらぁ、そらくん。こんにちは。来てたのね」

 どうやら蛍の母親が帰ってきたらしい。俺は慌てて椅子から立ち上がり挨拶をした。おばさんは「気にしないで」と人の良さそうな笑みを浮かべてこちらへ来た。

「何か大切な話でもしていたのかしら」

「別に…何もないよ、お母さん」

 そうして蛍は再び俯いてしまった。しかし、これはチャンスだと思いおばさんにあの話をする。

「蛍と、旅へ行きたいんです。旅というより、自分探し…?えっと、とにかくどこか遠いところへ」

 思ったより上手く話せなかったが、おばさんはぱちくりと瞬きをして「旅…旅…」と呟いた。
 三人の間に沈黙が流れた。

 口火を切ったのは蛍だった。

「…私そんなの行きたいって言ってない。そらさんも勝手に話さないで」

 蛍は震えるような声で言った。

「でも蛍、さっき俺が言ったときは少し興味持ってただろ」

「持ってない」

「蛍、お前は今家にずっといて何を考えている?学校?友達?勉強? 俺もおばさんもおじさんもわからないんだ。学校に行けなんて言わない。お前から話さない限り俺は何も聞かない。想像だけど、俺は、お前が何か嫌なことがあって行けなくなったんだと思ってる。だけどここにいたら、ずっとそれに囚われることになる。一日だけで癒えるなんて思っちゃいないさ。だけどたった一日、何もかも忘れて、何者でもない人間にならないか」

 思わず立ち上がって蛍を捲し立てた。蛍は何かを言いたげな目で俺を見つめ、やがて下を向いた。

「行ってきたら?車が必要ならお母さんが運転するし。久しぶりに外の空気でも吸ったらいいんじゃない」

「お母さん…」


 そうして俺と蛍の自分探しの旅が始まった。

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 行き先は俺の住んでいる町から少し離れたところの港町だ。鉄道でおよそ一時間弱。まあ、俺自体鉄道でその町まで行くのは初めてだったため、色々と迷った時間を含めたらそれ以上かかった。
 移動中に交わした会話はゼロに等しいけれど、それでもなんとなく、いつもよりは明るい顔つきをしている気がした。

 町は観光名所ということもあり、外国人観光客も見られたし、屋台店などもあった。また港町というだけあって海鮮料理店も充実していた。あまり財布が豊かなわけではなかったが、せっかく来たからにはと結構値の張るものも食べた。

「私なんかと来て楽しいですか」

「蛍と楽しみたいと思ったから来たんだろ」
 
 それと、と付け足した

「今日は何もかも忘れようって言ったろ。私なんか、とかじゃなくて別の人間に成り済ますのもありだぜ。何だったらお面でも買おうか、あそこに売ってるから」

「お面…」

 そういって蛍はパタパタと駆け出して、狐のお面をかぶってきた。ワンピースとスニーカーを着ている格好に狐のお面をかぶっているのはどうにも滑稽だったため、少し笑ってしまった。ついでに髪も長いので現代の妖怪とも見えるかもしれない。

「まあ…浮くかもしれないけどこの町の人は誰もお前のことを知らないから安心してかぶっとけ」

 蛍はこくりと頷くとそのまま俺の後にひょこひょことついてくるように歩いた。こころなしか先ほどよりも軽やかに歩いている、ような気がした。

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 蛍は小柄な体格なので、『ちょっと大きな小学生』ぐらいに見られたのかもしれない。狐のお面をかぶっている蛍に町行く人たちが話しかけたり、お店でサービスをしてくれた。

「俺たちがまだ小学生だった時、近所の祭りに行ったの覚えてるか?あの時蛍が買ったばっかのりんご飴を落として大泣きしてたよなー」

 狐面姿の蛍を見ていると、まるで自分が祭りに来ているような気がして、ふとそんなことを思い出した。そうだ。蛍は感情表現が豊かでよく泣いたり笑ったりしていた。すると蛍は、「今私は蛍じゃない別の人間なのでそんなこと知りません」と言われた。彼女は存外お面を気に入ってるらしかった。

 運河沿いをふんふんと上機嫌に歩いていく彼女を見つめながら、俺はぼんやりと考え事をしていた。

 このままどこかにいなくなりたい、と。今蛍は少なくとも家にいる時よりは楽しんでいる、と思っている。しかしこの後家に帰って明日が来たら?__きっと、普段の彼女に戻ってしまうだろう。確信は無いけれどそんな気がした。
 だからと言って帰らないわけにはいかない。ああ、もう__「そらさん?」

「どうして立ち止まってるの。…むこうに、海があるから、行きましょう」

 蛍は急に立ち止まった俺に疑問を持ったのか、彼女も足を止めて近づいてきた。

「……なんでもないよ。海、行こうか」

 そうして二人で再び歩き出した。その間に会話は無かった。

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 少し歩いた場所に海があった。丁度今は夕方で、海と夕焼けが美しい景色だった。

 まるでこの世界に2人と太陽しかいないような、いや、世界は回れど自分たちだけどこか別の世界にいるようなそんな錯覚を覚えるほどに。

 そう感じているのは蛍も同じようで、しばらくそこから微動だにしなかった。

「……世界ってこんなにきれいなんだな」

 たかが1つの町の風景、たかが高校生と中学生の2人で見る景色。だけど、俺はそのとき初めて世界の美しさを知ったのかもしれない。

 それから2人で浜辺を歩いた。しずしずと、波の音だけが聞こえた。そして波打ち際で座った。

「俺たちは世界を誤解していたのかもしれないな」
 
 蛍がこちらを遠慮がちに見つめる。

「俺たちが見ていたちっぽけな世界は、あくまでこのきれいな世界の一部にしかすぎなかったんだよ。ほら、どんな新築の家にだって必ずゴミ箱っていうのはあるし、どんな美人にだって垢はある。どんなに汚い世界でも美しいものは必ずあるって知っているだけで、救われることもあるんじゃないかな」

「……そうかもしれないね」

 少しだけ微笑んだ気が、した。

 家に帰宅したのは夜8時をまわった頃だった。帰る時もたいして会話をすることはなかったが、それでも行きの時よりは違う雰囲気をお互いに感じていた。
 少し疲れたのか、肩に寄り添って眠っている蛍を起こさぬように、そっと携帯を取り出し蛍の母親に連絡をした。

17
 
 俺が今通っている高校は所謂滑り止めだった、というか言ってしまえば第一志望の高校に落ちたのだ。俺はそのときまで挫折というものを味わったことがなかった。期末テストでも勉強時間に見合った結果は確保していたし、それは自分に取って満足する点数だった。だから俺はそのとき初めて『挫折ってこういうことをいうのか』と感じたものだった。
 
 だから俺は自分が取り巻かれている環境に常に不満を抱いていたし、周りの奴らを少々見下していた節もある。きっと端から見ればそいつらと同じ高校に通っている時点で同類に見えていたのかもしれないがそれでも俺は、ばか騒ぎしている奴らと一緒にはされたくなかった。クラスに2、3人はいる陰気な奴らとも一緒にはなりたくなかった。

 そうして手に入れたポジションが『ひとりぼっち』だ。
 ある意味で俺が欲しかったポジションであり、ある意味で最も俺が忌み嫌うポジションであった。

 俺が蛍を変えたいのは、かつての蛍のように友達を愛し、愛される存在に戻って欲しいからである。いや、戻るというより取り戻す、だろうか。
 これは俺のエゴだとはわかっているつもりだ。けれど彼女もそうしたいと思っているのだとしたら、俺はその手助けをしたいと思っている。

 そのためには、原因を知る必要がある。それは誰が嫌い、何が嫌いとかではなく漠然としたものかもしれないけれど、だけど俺はそうではないことをなんとなく確信していた。

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 学校から駅前へ寄り道をして、CDショップや本屋へ寄り、家へ帰るときにはすでに日は沈みかかっていた。家の前の道を歩いているとき、不意にピアノの音がした。もしかしたら幻聴かもしれないと思うほどか細い音だったが、それでも俺には蛍が弾いたものだろうと思った。しばらくそこに立ち止まってみると、やはり途切れ途切れ音が聞こえる。曲を弾いているわけではなく、ひとうひとつの音を確かめるような、そんな感じがした。

 その音が完全に聞こえなくなった後、頃合いを見計らって蛍の家を訪問した。
 一緒に出かけてから、少しだけ蛍との間を隔たっていた壁が薄れたのだろうか、いつもよりスムーズにドアを開けてくれた。

「外からピアノの音が聞こえた。…久しぶりだな、蛍のピアノを聞くのは」

 俺は蛍がピアノを弾いている風景が好きだった。多分、特別に上手い訳ではないと思う。だけど当時小学生の俺には、鍵盤の上をぴょこぴょことはねる彼女の手の様子は彼女自身のようだと思っていたし、彼女が演奏する様子は普段の彼女とは異なって見えて、なんだかとても新鮮だったから。

「うん…半年、以上振りかな」

「蛍、どうしてピアノを弾かなくなったんだ?」

 蛍があからさまにびくりとした様子で肩を揺らした。俺が確信しているのは、蛍が不登校になったのはピアノに何かしら関わりがあることだ。以前蛍に合唱コンクールの話題を持ちかけたとき、彼女は拒否反応を起こした。だから俺はあえてその話題を振った。どれだけ彼女が嫌がっても、彼女に理由を問い詰めるつもりだった。

 すると蛍は突然しゃがみ込み頭を覆った。うう、という小さなうめき声も聞こえる。

「ゆっくりでいいんだ。だから話して欲しい、何があったのか」

 嫌だ、話したくない、そう言って蛍は堰を切ったように泣き出した。
しばらく蛍の嗚咽だけが響き渡る。蛍は体育座りになり、まるで俺から、現実から、世界から逃げるように頭を隠した。
 それでも俺はそこから立ち去らなかった。

それから蛍の様子が落ち着き、少し経った後、おもむろに立ち上がりピアノを弾き始めた。多分、何かの歌だと思う。
 おそらく、曲の一番目のサビであろうところが終了した時点で蛍は弾くのをやめた。いや、‘‘弾けなかった’’のだろうか。やりかけのゲームをぶつ切るような、そんな強引ささえ感じた。



「…ここで失敗したの。去年の合唱コンクールで。笑うなら笑ってよ、こんなことで学校行ってないのかって。しかも私、立候補して伴奏者になったんだから。

 だから夏休みの間狂ったように練習して、絶対失敗しないように、優勝できますようにって。緊張して緊張して、それでもみんなの練習のときは絶対失敗しないようにしてたし、リハーサルでも上手くいってたの。それなのに、本番になったらこれまでにないくらい緊張して、いつもはなんてことなく弾いていた場所でつまずいて、それからしばらく伴奏が止まっちゃって。その間に流れた空気に耐えられなくて。それでもなんとか途中から弾くことができた。

だけど終わった後、男子は誰一人私と目を合わせてくれなかったし、女の子は大丈夫だよとか無責任なこと言うし。…あはは、当然だよね。今まではりきってた人が本番になって失敗したんだもん。軽蔑されて当たり前なんだよ。あの瞬間、私の場所はどこにもなくなったの。
 それから学校に行くのが怖くなった。どんな顔で、どんな態度で歩けば良いのか。どこを歩いても後ろ指指されているようで。それで学校に行くのが嫌になって、それが何日も続いて、こうなったの。
 …もう、私の戻れる場所は無いんだよ」

 ぽつりぽつりと話し終えた後、蛍は俯いた。

 なあ蛍、と話しかける。

「蛍より頑張ってた人はどれくらいいるんだろうな。本番でどれだけ失敗しても、きっと誰よりも頑張った蛍を誰も責められないし、蛍の頑張りをみんな認めていたはずだ。蛍の失敗の原因は緊張の所為だけじゃないかもしれない。もしかしたら指揮者の指揮がいつもより早かったのかもしれない。みんなの歌と指揮があってなくてそれで混乱して失敗したのかもしれない」

「違う私が、私が失敗したの!」

「そうかもしれない。でもどれだけ人の所為にしても、どれだけ世界に言い訳しても、それでも自分を守っていかないと、自分を駄目な奴と誤解したまま生きていくことになる。お前がどれだけの絶望を味わったのか、周りは知らない。蛍が何かを伝えない限り。お前はあのとき、全てを台無しにしてしまったと思ったのかもしれないけど、あいつらはそんなこと忘れて今頃幸せそうに飯でも食ってるよ。そんなもんなんだ。

__俺が思うに、世界は蛍が思うほど冷たくないし、たった1つの失敗ごときで世界は滅びない。それをわかって欲しい」

 蛍はさっきよりも大声で泣いた。名前の通り蛍のようにか細くて不安定な光を、消えてしまわぬよう存在を確かめるようにそっと蛍の頭を撫でた。

「怖かった。学校に行ったら何を言われるか、家にいたら学校で何を言われてるかを想像するのが。でも本当は前みたいにみんなとお話したかったし、遊びたかった。学校、行きたかったの…!」

 うん。そうか、辛かったんだね。でも誰にも言えなかったんだ。

 この人に言ってもどうしようもない、この人は本当に自分を救ってくれるのだろうか。そんなことを思いながら、それでも誰かに救われようと思って、必死に縋り付いて救われなかったときの痛みは大きい。下手したら、もう誰も信用できないほど。だから蛍は誰にも何も言えなかったのだろう。

俺は、いじめアンケート等でよく見る、「あなたはいじめられたら誰かに相談しますか」みたいな質問が嫌いだった。「誰にも相談しない」とマークを塗ると必ず担任に呼び出されたから。

 そうして白々しく言うのだ、「何かあったら先生でもご家族にでも相談しなさい」と。
 相談しないことの何がいけないのだろう。相談して救われることなんてそれこそ少数だろう。俺は人に相談するよりも、漫画とか音楽とかネットだとか、そういったものに沈み込んだ方が良かった。それらは、ある意味で人を救おうとするもので、ある意味で無責任な感じがして、俺には丁度良かったから。

 でもきっと蛍は逃げ方を間違えた。寄り道をしようと思ったら落とし穴にはまってしまったように、底知れない闇に落ち続けているのだろう。

 手を伸ばすことは難しくても、糸を垂らすことはできる。だから、俺は蛍を救いたいと思ったのだ。

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 蛍がひとしきり泣いた後、お互い穏やかな顔で別れを告げた。先のことを話すのは、また今度にしよう。そう思った時、蛍の母親が丁度帰宅したのを見かけたので少し話した。

 蛍が大泣きしたこともあり、蛍の目は今真っ赤に腫れているだろう。誤解されないように、念のため事情を説明した。

「あのー…蛍さっきすごい泣いちゃって、いや俺が何かした訳ではなくて、いや何かしたのか…。えっと、蛍が学校に行かない理由がなんとなくわかりました。すこし強引だったかもしれないけど、でも大丈夫だと思います。」

 すると蛍の母親は目をぱちくりとさせた後、ふっと顔をほころばせた。

「そう、ありがとうね。私じゃできなかったことだから。私も蛍と向き合って話してみるわ」

 そういってそれぞれの家に帰った。

20
 次に俺が蛍の家に訪問したのは三週間後だった。なんと学校のテスト期間というものがあったのを忘れており、必死に勉強していたのだ。
 
 久しぶりに蛍の家のインターフォンを鳴らすと、インターフォン越しから「はーい」という返事が聞こえた。
 それでドアを開けられた時は衝撃だったのなんの。

 蛍が、髪を切っていた。小学生の頃と同じ、ショートヘアーに。思いも寄らぬことが起き、なんともいえない反応をしていると、

「…やっぱり変かな、子どもっぽい?久しぶりに切ってみたんだけど」

 と言い、しゅんとした表情になった。俺は慌てて「そんなことない、びっくりしただけ。よく似合っている」と弁明した。

 いつも通りリビングに案内され、蛍と座った。
 俺が今日来たのは、蛍にあることを頼みにきたからだ。

 蛍、と呼びかけるとゆっくりとこちらを見た。

「もう一度ピアノ伴奏をしないか」

「…言うと思った」

 蛍はそう言って笑った。

「この前、先生から連絡がきた。今度学校に来て、一緒に合唱コンクール、考えないかって。すごくすごく迷ったの。だけど決めたよ、…行くって」

「蛍……」

 長い間学校へ行かなかった蛍への周りからの目は冷たいと思う。表面上では繕っても、やはりふとしたところで疑問や不満はでる。そしてそういう奴に限って、「どうして学校来なかったの」といった地雷を踏み抜く。蛍には、それに耐えられるある意味の図太さが必要だ。

 でもせっかく蛍が決めた判断に対して「大丈夫か」「無理しなくても良い」などというつもりは毛頭ない。

「きっと、世界は美しいよ」

 多分、この言葉だけで良い。

21
 蛍が変わろうとしている以上、俺も変わるべきだ、などと訳の分からない義務感に襲われた。

 蛍も同じような環境に置かれている。自分が干渉せぬ間に築き上げられた輪の中に入り込むのはとても勇気のいることだ。それに、いくら自分が変わったとて周りもそれに合わせて優しくなるとは限らない。
 最初は訝しげに見られるだろう。自分たちのテリトリーに入り込むな、と。

 でも俺も決めた、良い意味で自分を諦めることにしたのだ。自分はそんなに高尚な人間じゃない、そんなに優秀な人間じゃなく、ただの寂しがりやだということを。

 自分を認めて、他人を認めないと、蛍の前にたてない気がした。
 __誰に責められる訳でもないのに。

22

 久しぶりに学校に行った。校門前になって足がすくみそうになったけれど、それでも行かなければと思って学校の敷地に踏み込んだ。

 教室に入った途端、ざわついたのがわかった。耳で、目で、肌で。だけど気に留める必要はない。
 私はずかずかと近くの女の子に話しかけた。

「わ、私の席ってどこかな…」

「えっと、あそこの窓側だよ。久しぶり、蛍」

「う、うん。久しぶり…!」

 やった、話しかけられた。そんな些細な喜びを感じながら教えられた席を見ると、本当に窓側の隅っこの、ひとりぼっちの席だった。それだけで、このクラスにおいての私の立ち位置を理解できるほど。
 すると目の前にいる女の子が決まりの悪そうな顔をした。

「あー…ごめん。あの席嫌だよね。ほら、うちのクラスって女子が男子より一人多いからさ、席替えの時って必ず誰かが一人の席になるんだよね」

 ああそうか、思い出した。私がいた頃、私がそれを経験していなかっただけで確かに女の子の誰かがひとりぼっちの席だったなぁ。
 でもいざ自分がその席になったと思うと、ひどくその席が恨めしく思えた。

「でももうすぐで席替えだから、きっと変わると思うな。なんかごめんね」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

「どういたしまして。…久しぶりに会えて嬉しいよ」
 
 そういって目の前の女の子はにかっと笑った。そういえばこの子はボーイッシュな雰囲気でさばさばしているから男女両方に人気があったことを思い出した。

 私がその子と話しているのを機に、女の子たちが集まった。
 良かった、いじめられるということはなさそうだ。ほっと安心した。

23
 それから淡々と授業を受けていった。先生方も少し驚いた様子だった。久しぶりの授業でついていけないところもあったがなんとか新品のノートに字を書いていった。

 そしてついにあの時間が来た。合唱曲と、指揮者伴奏者を決める時間。

 黒板に候補の曲と指揮者、伴奏者、パートリーダーと文字が書き連なる。
 あらかじめ人気の曲をしぼっておいたのか、曲は早くに決まった。
 

 伴奏者、という言葉を聞いただけで、心臓がどっと跳ね上がっているような気がした。去年私は、ここで元気良く手を挙げたな、やる気満々だったな、なんてことを思い出した。
 席の位置も相まって、自分が傍観者のような、教室の様子をテレビで見ているような雰囲気になった。
 
 ううん、苦しい。あの時を思い出すだけで首を絞められているようだ。でも変えなきゃ、自分を。あの時の苦しさを忘れるためにはもがかないと、一生後悔する。

「えーとじゃあ、伴奏者やりたい人ー」

 実行委員がそう言うと、複数の人がちらりとこちらを見た。しばらく沈黙が続く。

「や、やります。私」

 勇気を振り絞って挙げた手と小さな声。そのとたん拍手が聞こえた。
 パチパチ、パチパチ。それは段々と大きな音へと変わった。

 クラスの盛り上げ役のような男子がよっと囃し立てる。それにつられてみんなが笑っていた。

 それからとんとん拍子で指揮者もパートリーダーが決まっていき、結局は去年と代わり映えのないメンバーとなった。

24
 外の日差しが眩しい。うだるような暑さで気絶してしまいそうなほどだった。

 蛍は無事学校に行ったのだろうか。そんなことを思いながら登校した。

 今日から生まれ変わった気持ちでクラスメイトに接し、好感を得ようと思っていたが、そもそもの前提として俺に話しかけてくる奴がいないことに気がついた。

 隣の席の女子は常に俺と席を少し離しているし、話す機会はほぼない。きっと女子の中では俺ははずれだと思われているのだろう。そんな卑屈なことを思いながら授業を受けた。

思えば昔から親友というものはいなかった。中学時代よく話す友人はいたものの、そいつは誰にでも話しかけるフレンドリーなやつだったから、俺が特別というわけではなかった。

 だけどあいつは俺の名前を綺麗だと言ってくれたやつだった。普通男子中学生が同級生の、しかも男の名前を綺麗と言うか、と当時驚いたものだがその点であいつは少し変わっているやつだった。

 そういえばあいつは俺と同じ高校を受験していたな。俺が受かっていたら通っていたはずの学校、なんて言ってて虚しくなった。

25
「…奏良?」

 どこかで聞いたことのある声で呼ばれた。きょろきょろと探してみるとそこには見覚えのある奴がいた。

「久しぶりだなぁ、俺のこと覚えてる?」

「あ、ああ…。久しぶり」

 つい先ほど紹介した男が立っていた。中学生の時よりも大人びた顔つきになり、女子にモテそうな雰囲気を醸し出していた。

 俺が落ちた高校の制服を着て。

「なぁ、良かったら一緒に話さないか?お前に会えて嬉しいからさ」

 俺は少し黒い感情が生まれたのをなかったことにして、喜んでその誘いを受けた。

26
 近くのファミレスに入り、飲み物を注文した。
 
 こいつは俺が第一志望の高校に落ちたことを知っているから、気を遣って、あえて今通っている高校の話はしなかった。

 映画の好みや好きなアーティストの趣味が被っていることが多いので、そういう話ができるのは嬉しかった。高校でそういう奴とは、出会ってないから。

「奏良、お前高校で友達できたか?」

 心臓が、どくりと跳ね上がった気がした。多分こいつは悪意なく言っているのだろう。そして聡い奴だから、それなりに気を遣ってくれているのを感じる。たぶん、こいつの中ですでに答えは出ているのだろう。

「残念ながら…」

「だと思った」

 そういって笑った。

「残念ながら、俺も中学の頃と比べてそう多くいない。なんか高校に入ったとたん、周りの奴らが浮き足立っちゃってさ、やれ彼女だなんだーってついていけないんだよな」

  驚いた。こいつはどこにでも馴染めるやつだと思っていたから、そんな言葉を聞くとは。


「けどまぁ、開き直っちゃってさ。別に一人でもそれなりに楽しければいいかなって。そんで俺が今ハマってんのが絵を描くこと」

「は…絵?」

「そ、俺中学の時は美術の先生にボロクソに言われてたけど、高校の美術の先生は逆にべた褒めしてんの。それでテンションあがっちゃってさ。なんだっけ、『現代における社会の闇を的確に表している絵』だっけか」

 はたしてそれは褒め言葉なのだろうか。けれど認められるところでは認められるんだなぁと思った。俺も、こいつの落書きを何度か見たことがあるが、中学の美術教師同様、あまり上手いとは言えなかったから。

「だからさ、なんつーの。お前も今まで通り適当に生きてればいいんじゃないか?へんに友達つくろうとしても疲れるだけだからさ。話が合う奴って言うのは自然と寄り付くもんだよ、多分」

 その瞬間、どっと肩の荷が降りた気がした。少し心が軽くなった。こいつの言葉は友だち作りに励もうとした初日から心が砕かれた俺に取っては救いの言葉だった。

「…ありがとな」

27
 そいつと別れてから、俺は蛍の家に行った。
 蛍は嬉しそうな様子だった。

「また、伴奏やってみることにしたんだ。夏休みから、頑張って練習しないと…。それと、久しぶりの学校だったけど、みんな話しかけてくれて…」

 そうか、蛍は俺と違って上手くやれたのか。それは良かった。
 
 そういえば俺と蛍は根本的な差があったな。
 蛍は人が好きで、元々人に好かれていて、俺はその真逆ということ。
 そんな俺が蛍を同類と見ていたというのも甚だ自分勝手だ。

「…奏良くん?」

「今日はもう帰ることにするよ。バイバイ」

「え、もう?そっか、またね」

 ばいばい、蛍。

28
 あの日学校に行って以来、思いのほかみんなが私に優しくしてくれた。一度行ってしまうと、「どうして私は今まで悩んでいたんだろう」というくらい学校が楽しくなった。

 だけどあの日以降、奏良くんは来なくなってしまった。
 おかげでお母さんのご飯を一人で食べることが多くなってしまった。寂しい。

29
 それから夏休みに入り、私は去年の夏と同様、死ぬほど練習した。受験勉強もあるけど、それでもピアノの方が大事だった。
 今度は失敗しないように、みんなの役に立てるようにって。

 夏休みが終わり、音楽の授業で初めてみんなの前で披露したときは音楽の先生に褒められた。「難しい伴奏なのにすごい」って。

 でも、みんなはそんな真面目じゃなかった。
 女子は頑張ってても男子は全然やる気がなかった。声だしもまともにやらないし、パート練習になったらおしゃべりしだすし。
 『男子ちゃんとやってよ』現象ってこういうことをいうのかなって思った。

30
 蛍が学校に行って以来、俺が蛍の家に行くことはなくなった。思えば蛍は受験生だし、俺も高校二年生だ。お互いに進路を考える時期だろう。というのは建前で、実際には行きたくなかったからだ。

 蛍を救うだなんだといったものの、もしかしたら俺は学校が嫌になった蛍を見て安心していたのかもしれない。俺と同じだ、なんて。
 でも蛍はすでに学校に復帰し、なかなかよくやれているようだと蛍の母親から聞いた。

 多分蛍はもう俺を必要としていないし、俺がいたところで、嫌なことを思い出すだけだろう。かつて閉じこもっていた自分を。だから、もう関わらないことにした。

 そして俺は、うまくいきすぎている蛍を見て嫌になったのだ。

31
 九月の半ばのある日、家のインターフォンが鳴った。
 なんだなんだとドアを開けてみると、蛍が立っていた。

「蛍…」

「ひ、久しぶり」

 そうしておずおずと出されたものを見ると、俺も見覚えのあるものがあった。

「今月末に、合唱コンクールがあるの…。これ、パンフレット。その、良かったら来てくれないかなって」

「ああ、空いてたら行くよ」

 俺はそのパンフレットを受け取り、建前だけの約束をした。行く訳が、ないのに。

32
 自分でも上手くいき過ぎている気はしていた。そしてわかっていた。合唱コンクールで大失敗を犯して不登校になった人間がひょこひょこと現れ、それをみんながみんな受け入れてくれるほど優しい世界じゃないって。

 どれだけペンキを塗りたくっても、月日が経てばはげてくるものだ。
 
 愛用していたマグカップが少し気を緩めた時に床に落ちて割れてしまうように、少し目を離していた時に金魚が死んでしまうように、それは緩やかに私の首を絞めてきた。

「てかさー、今までフトーコーだった癖に合唱の時にいきなり来るとか意味わかんなくない?」

「去年本番で失敗したのにね」

「一番はりきってたよね」

「男子も言ってたよね、『また本番で失敗するかもしれないのに本気でやるとか無駄』って」

「かわいそー」

 クスクスクス

 偶然トイレの個室にいたとき、そんな会話が聞こえた。そんなことを思ってたの。いつも練習のときは男子の悪口言ってたくせに。
 
 自分の中で黒くて重いどろどろとしたものが洪水のように押し寄せてくる。

ああ、やっぱり。そんなに上手くいくはずはなかったんだ。思えばみんな私に『優しすぎた』。私が不登校になる前の距離感よりもずっとずっと遠くから気を遣うような。

 私が失った半年以上の月日は、あまりに重く、あまりに密度が大きすぎた。

 そう思うと涙が堪え切れなくなった。嫌だ嫌だと思っても止まらない。

 こんなことなら伴奏者に立候補しなければ良かった。こんなことなら学校に来なければ良かった。こんなことなら、こんなことなら__

 しゃがみ込んでなんとか声を抑えようとする。すると予鈴の音が聞こえ、彼女たちがばたばたと去る音がした。次は移動教室だったっけ。

 目、腫れてるかな。…保健室に行こう。こんな状態で教室には、行けないから。

33
 夜にインターフォンが鳴り、出ると蛍がいた。ただならぬ気配を感じ、母親に出かける旨を伝え、蛍の家に行った。

 着いたのはいつものリビングではなく蛍の部屋だった。小学生以降一度も訪れていないその部屋は、少しだけ模様替えをしてあった。

 俺はファンシーなクッションに腰掛け、蛍はベッドの隅っこに座った。明かりもついていない部屋で。
  
 あのね、と話を切り出した蛍はぽつりぽつりと話し始めた。

「今日学校でね,お手洗いに行ったら女の子たちが私の悪口言ってたの。私は個室にいて、みんなは気づいてなかったんだけど。みんな私に優しくしてくれた子だったから、私びっくりしちゃって。でもよく思い出したらクラス内に確実に、私とみんなの壁があったなって。でも、悲しくなってきちゃったの…」

 蛍は膝を抱えて俯いた。
 俺はそんな蛍を見て苛立ちを覚えた。
 
「いいじゃないか、表面上は優しくしてくれたんだから」

 黒い濁流が次々とダムを破壊するように、自分でも意識したことの無かった感情が溢れ出した。

「俺なんか学校行ってても友だちができなくて、誰にも話しかけられなくて、でももうどうしようもないって諦めたんだよ。だけどお前は久しぶりに学校行って、一応はみんなに優しくされて、いじめられなかっただけいいだろう。そもそも誰しもが悪口を言ったり言われたりしてるんだよ。お前が運悪く、それを聞いてしまっただけで。お前は、周りの人間を美化し過ぎたんだよ」

 蛍は放心状態でこちらをぼうっと見つめ、目を潤ませていた。

「奏良くんも、ひとりぼっちなの?」

 やがて蛍はそんなことを呟いた。

『ひとりぼっち』。改めてその言葉を聞いて、なんだか酷く惨めな気持ちになった。ひとり、一人、独り。それだけでも寂しい響きなのに、さらにひとり『ぼっち』というものが加わることにより、それはより一層俺を孤独だと実感させた。

「…うん、そうだよ」

「私と同じ」

 蛍はにへらと笑った。

「なら、奏良くんが一緒にいてくれれば、私、友だちがいなくても平気」

 目を赤く腫らして、時々しゃくりあげながらも蛍はそう言い切った。

「奏良くんは私を学校に行かせてくれた。なら、私は奏良くんが寂しくならないように一緒にいる。…ううん、私も寂しいから奏良くんと一緒にいたいの。みんなから見たら寂しいって思われたりするかもしれないけど、私は、そっちの方が幸せ」

 胸から何かがこみ上げて来る。温かいものが眼球を占領する。俺はそれを悟られないように下を向いた。
 『一緒にいたい』という言葉を俺はどれだけ欲していたのだろう。日常の中でどれだけそう感じても、無かったことにして心の隅に追いやっていた感情。

「奏良くん?どうしたの、泣いてるの?」 

「泣いてないよ。…蛍、ありがとう」

「どういたしまして」

34
 2人で散々泣きはらした後、俺は蛍にあることをお願いした。きっと、これを願えば彼女は失敗しないという、どこか確信めいたことを考えていた。

 帰宅後俺は蛍から貰った合唱コンクールのチラシを探し出した。どこかへ捨てたかと思っていたが、残っていたようで安心した。

 ふと、俺の中学生時代を思い出した。俺の学級の合唱コンクールはとにかく酷かった。女子はいつも通りやる気を出すものの、俺を含む男子は一向にやる気を出さなかった。しまいには一部の女子が泣き出すという始末だ。
 おそらく当時の俺は、そういった学校行事に本気で取り組むことを心のどこかで恥ずかしいと思っていたのだろう。それと、点数もつかないものに本気を出す必要がないものだと。

けれど、今考えればそれは貴重でかけがえの無いものだったのかもしれない。人と人とが密着し、気温も相まって暑苦しい教室の中で、汗を垂らしながら懸命に指揮をする指揮者に、必死にピアノを練習した伴奏者、女子の高いソプラノとそれを支えるような少し低いアルト、男子のテナーにバス。

 あの時の光景には、俺がどう足掻いても戻れることはない。はたして、俺はあの時泣いた女子のように、合唱が終わった後に充実感に溢れた顔をしていた指揮者のように、この先何かに取り組むことはできるのだろうか。
 
 そんなことを思いながら、俺はそっとチラシを机の上に置いた。

35
 合唱コンクールまで一週間を切った。クラスは依然として変わらず、女子は真面目に歌い、男子はふざけたままだ。もはやそんな状態が定着してしまったからか、もう誰も何も言わなくなった。
 
 指揮者が指揮を止め、各パートに指示を出す。その指示を聞きながらぼんやりと考えていた。

 真面目に歌って損することなんてないのに、ちゃんと歌っている男の子もいるのに、どうして輪を乱すようなことをするのだろう、と。

 再び合唱に入ろうとしたタイミングで私はぽつりと呟いてしまった。

「…どうして歌わないのかな」


 これから歌おうかというタイミングに呟いてしまったため、私の声は思いのほか周囲に聞こえたようだ。
 指揮者も、女子も、男子もこちらを見ている。続きを促すような視線で、あるいはお前は何を言っているんだ、という視線で。

「え、あ、いや、ごめんね。ちょっと考え事していて。その、なんで歌わないのかなーって」


もう一生このメンバーで歌うことなんてないのに、もしかしたら合唱なんて二度としないかもしれないのに、どうしてやらないの?…私は去年、本番で失敗して、みんなをがっかりさせちゃった。本当に申し訳ないと思ってる。でも、だからって今年も失敗するとは限らないし、今回こそは失敗しないようって練習してきた。指揮者もパートリーダーも夏休みの間頑張って練習してたと思う。だからっていう訳じゃないけど、それに応えてみんなで歌った方が楽しいし、絶対そっちの方がかっこいいよ。面倒くさいって思うのは、きっとみんな同じだと思うけど、自分たちだけそれから逃げて楽な方にいくのは、格好悪いと思う」

 あれ、何語ってるんだろ私。こんなことまで言うつもり無かったのに、また悪口言われちゃう。
 言った後の空気がより私をいたたまれない気持ちにさせた。

 すると、パートリーダーの男の子が声を出してくれた。

「まぁ蛍の言った通り最後だからさ、本気でやろうぜ。優勝とか考えずに楽しく、さ」

 その男の子は頭も良くて運動もできて、ノリが良い人だった。だから男女問わず友人的な意味で好かれていた。(女の子曰く、あれでイケメンだったら最高、とのこと)
 今までその人は真面目に歌いこそすれど、男子に注意するようなことはしなかったので、彼がそういうことを言ってくれたのは救いだった。

 それに触発されたのか、面倒くさそうな仕草をみせながらも男子は歌った。

  その時の合唱は今までよりも数段美しく聞こえた。

36
 あの日以降、蛍は毎日のように俺の家に来ていた。
俺が教えられる範囲で勉強を教えた。家庭教師を雇っているらしいが、やはり半年以上学校へ行っていなかった分少し遅れているそうだ。それでも夏休み中はピアノ伴奏と兼ねてきちんと勉強していたらしいが。

「明日だっけ、合唱コンクール」

「そうだよ」

「そっか。…どんな感じ?クラスは」

「男の子がちょっとやる気を出した感じ」

「へえ、何があったの」

「私が不満を言っちゃったの。どうして歌わないんだろって。また悪口言われるかもしれないけど、奏良くんがいると思ったら怖くなかった」

「すごいな、そんなことしたの。…俺も、中学の時は真面目に歌わなかったよ、合唱コンクール。最近になって、真面目にやってればなーって思った」

「奏良くんもそっち側だったの」

蛍はくすくすと笑った。

「笑うなよ。でもさ、蛍がやったことは正しいと思うよ。多分、二度とできないことだから。みんなで本気で歌をつくるっていうのは」

「そっか。…ありがとう」

37
合唱コンクール本番がきた。
コンクール例年土曜日に行われ、次の月曜日が休みになることから、それを楽しみにしている人も多くいる。

私たちの順番は最後。つまり、私たちの歌で締めくくることになる。

最後の練習後、「優勝したら打ち上げ行くかー」「俺肉食いたい」などの声が聞こえた。

はっきりと断言できないけれど、多分私たちのクラスは優勝できないと思う。
それぞれのクラスの合唱の現状を発表するため、そして本番の模擬練習として学年で集まった際に、私たちは他クラスの合唱に圧倒された。

あの時すでに、多分優勝はできないとみんな心の底で思っただろう。

 だから先の男子の言葉はきっと、たんなる冗談だ。できないことだとわかってても、みんなを和ませるための。

38
他のクラスの合唱を聞いている間、私は去年の、あの時の出来事を思い出していた。

決してないだろうと、みんなも私も確信していた、伴奏の失敗。本番になってそれは起きてしまった。
あの時の会場のざわめきを今でも思い出せる。降りそそぐこちらへの視線、指揮者の困惑したような視線を。
どこかへ入らなきゃ、このまま合唱を終わらせられない、そうして震えながら鍵盤を叩いた。

あの時を思うと心臓がばくばくしてくる。手に汗がじんわりと滲む。

ふと観客席側を見ると奏良くんがいた。こちらはあまり見えていないのか、目線は合わなかった。
だけどその時、奏良くんにお願いされた事を思い出した。

『俺のために弾いてくれないか』

『奏良くんのため?』

『蛍のことを悪く言った奴が歌う歌の伴奏を弾く必要はない。クラスのためとかじゃなくて、俺のために弾くっていうのはどうかな。多分、心が軽くなるはずだから』

『うん…わかった』

確かに、それを思い出した瞬間、ぐんと心が軽くなった。私は、私のためでもなくクラスのためでもなく、
奏良くんのために弾く。クラスが一丸となってるなか、なんて不純なんだろうと笑ってしまう。でも、それでも、私は成功しなくちゃならない。

 逃げなくてよかった。学校に行って、伴奏者になってよかった。多分、伴奏者にならなかったら私は後悔していただろう。やるべきことを逃したという後悔は、きっと、この先一生ついてまわるから。そして自分を失敗して逃げた人間だということをずっと認識したまま生きていくことになるから。
 
 前のクラスの発表が終わった。次は、私たちだ。

39
 長い時間を過ごし、ようやく蛍たちのクラスになったようだ。正直散々合唱を聞いて疲れていたが、ピアノの近くに立った蛍を見てそんなことは吹き飛んだ。

 蛍は晴れやかな表情で立ち、その様子は毅然としていた。

 指揮者とともにお辞儀をし、合唱が始まった。
 夏休み、向かいの家から飽きるほど聴いた伴奏。

 男子も女子も生き生きして見えた。まるで鼻歌でも歌うように、軽やかに歌う。
 音楽のことはよくわからないが、多分、他のクラスよりもハーモニーとかそういった面では劣っているかもしれないけれど、優しいピアノの歌に生き生きした表情。それらはとても魅力的に見えた。

 ピアノは失敗なく演奏された。指揮者がやりきったといわんばかりにぐっと拳を握り、曲を終わらせた。
 再び立ち上がりお辞儀をした少女は、誰よりも光っていた

40
 やりきった。あの時のように失敗はなかった。最初に鍵盤を叩いた時、あの時とは違う感情を抱いていた。
 
 なんて、幸せなのだろう、と。

 指揮者の手に合わせてピアノを奏でていく。指揮者も、みんなも、練習の時よりも楽しそうに歌っているような気がした。表情にはあまり出ていないけれど、なんとなく。

 合唱が終わり、拍手喝采に包まれた後みんなは満足そうな表情をしていた。


 それからしばらくの時間が過ぎた後、いよいよ各学年ごとの優秀賞が発表された。

 
 私たちの組が挙げられることは、なかった。

41
 コンクールが幕を閉じて、保護者たちもぞろぞろと帰る支度をしていた。たいした荷物も持っていないし、俺も早々に帰るか、というところに蛍の母親がいた。
 ばちりと目があったので、ぺこりと会釈をした。

「奏良くん、来てたのね」

「はい、母校ですし。…蛍が気になったのが一番の理由ですけど」

 そう言うと蛍の母親は、蛍と似た表情で微笑んだ。
 
「本当に、蛍が学校へ行けるようになって良かった。去年のコンクールは…青ざめた表情で私のところに来たから。『お母さん、どうしよう』って。もうこんな日はこないかと思っていたけれど…。本当に、ありがとう」

 蛍の母親は深々とお辞儀をしたので、俺は慌ててそれをやめさせた。

「俺も蛍に結構、救われたんです。だから、感謝したいのはこっちというか…」

 そうしてお互いに談笑した後、蛍の母親は仕事で呼び出されたため先に帰ってしまった。

 俺は学校の玄関先で蛍が来るのを待っていた。

「奏良くん」

「お疲れ、蛍」

42
「優秀賞は、残念だったね」

「ううん、私、賞のことは気にしてなかったの。多分、みんなも」

「そうなの?」

「うん。…だって、奏良くんのために弾いたから」

 俺はその言葉を聞き、途端に恥ずかしくなった。そうだ、ちょっとした告白のつもりで「俺のために弾いてくれ」なんて恥ずかしいお願いをしていたことを忘れていた。

「覚えてたのか…」

「忘れないよ。その言葉で、緊張がほぐれたのに。…本番直前になって、また失敗しちゃうんじゃないかって不安になった。嫌なことも思い出した。だけど、自分のためとかクラスのためとかじゃなくて、奏良くんに聴かせたいって思ったら心が軽くなったよ」

蛍は言ってる最中に恥ずかしくなったのか、次第に俯き加減になった。正直、俺も恥ずかしくなった。

「蛍はさ、進路どうするの」

 強引に話題を変えて聞くと、蛍は俺が通っている高校の名前を出した。蛍は「奏良くんがいる高校に行きたいの、難しいかもしれないけど」と言い、こう続けた。


「奏良くんのことが、好きだから」


思わず目を見開いて立ち止まってしまった。蛍の言ったことが数秒遅れて思考停止した脳に伝わって来た。
 蛍も足をとめ、返事を待っているようだった。


「__」

 俺が出した答えに、蛍はきょとんとした顔でしばらく俺を見つめた後、にこりと笑った。


「待っててね、奏良くん」

43
 桜の舞う季節になった。
 あの日から半年が過ぎ、蛍は俺の通っている高校へ入学した。眩しい日差しに耐えながら、向かいの家へ歩き出す。
 
 蛍は今もピアノを続けているようで、今も家の向かいからピアノの音が聞こえる。軽やかな音楽が演奏されている。

 家のインターフォンを鳴らし、彼女が出てくるのを待つ。

「こんにちは、奏良くん。最近、新しい曲を練習し始めたんだ。奏良くんにも早く聴かせたいなぁ」

 開口一番、彼女はそんなことを言った。

 誰かのために奏でられる音楽は美しい。その思いが強ければ強いほど、それは一層魅力を増す。

 自分にとって、そんな人がいてくれる世界はなんて美しいんだろう。彼女を見ながら、俺はそう思った。

以上で終わりになります。読んでくれた方、ありがとうございます。

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