女「また混浴に来たんですか!!」 (324)
女「性懲りもなく!!」
男「肩こりもなく」
女「肩が凝ってなかったら来ないでください!」
男「それはそのご自慢の胸をご自慢してるのか」
女「違います!私が自慢することなんてここの景色の美しさと温泉の効能の素晴らしさくらいです!」
男「それはな、温泉の効能じゃない。湯に乳が浮かんで一時的に重さから解放されてるだけだ。肩こりを直したいなら宇宙にでも行ってこい」
女「あなたが行ってください!」
男「はっはっは。腹が凝るほどでかくはないぞ。ふっはっはっは」
女「混浴で下ネタなんてマナー違反です!お先に失礼します!」ザバァ
男「すまんが既に俺が先にあがっている」ザバァ
女「じゃあ浸かります!」ザバァ
男「それではまた早朝。次もちゃんとタオルを巻いてくるんだぞ」
女「早く出てって下さい!!」
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女「(世界に自分だけしかいないという慢心。それは、傍若無人とは異なる)」
女「(電車の中でお化粧をするのも、優先席に座りながら電話をするのも、子供の遊び場の近くでタバコを吸うのも、傍らに人無きが若き行為であるが、恥ずかしいことではない。少なくとも本人たちにとっては)」
女「(誰がいるとも思わなかった。その後悔こそが恥の元)」
女「(夜道を一人で歩いている時に歌を歌っていたら、すぐ後ろに人がいると気づいた時のように)」
女「(ノートに好きな二次元キャラの名前を書いていたら、友達がニヤニヤしながら見ていたことに気づいた時のように)」
女「(いや、大学4年生に至るまでの過去の思い出を全て遡っても、それ以上に……)」
女「ふぅー!!解放―!!」
女「最高―!!」
女「健康―!!」
女「ちんすこう!!」
女「ここ沖縄じゃないけどね!!ははは!!!」
男「韻を踏んでたのか」
女「(早朝5時という時間に油断して、山の中にある天然の混浴で、全裸でくだらない独り言を叫んでしまったことに勝る恥ずかしい記憶はなかったであろう)」
女「…………」
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「……おはようございます」
男「おお、話しかけてくるとは。おはよう」
女「……今日もお早いですね」
男「そちらこそ」
女「まだ5時ですよ?」
男「真冬なら大事件の寒さだな」
女「7月ですが、普通誰もこんな時間に混浴に来ませんよ」
男「日本で二人くらいか」
女「そうかもしれないですね」
男「そりゃあ油断もするわな」
女「……何の話でしょうか」
男「いやいや、案ずるな。そちらの話だ」
女「やっぱり私の話じゃないですか!」
女「いたならちゃんとアピールしてくれればよかったのに!!」
男「5時からここに来る女がいるとは思わなかったからな」
女「風呂なしアパートだからしょうがないんです」
女「ほら、この山の麓にある温泉、この前の地震で片方の温泉が使えなくなっちゃったじゃないですか」
女「普段男性客ばかり来る場所だから、修理が終わるまで、ほとんどの時間を男湯しか解放しないんですよ?」
女「男女平等だなんだと言うつもりはありませんが、この付近の風呂なしアパートに住んでる女性は時間合わせるの大変なんですよ」
男「男女は平等ではないだろう。男湯と女湯はその象徴だ。であればこそ、混浴はその矛盾を超越した究極の存在だと言える」
女「いきなり何の主張ですか」
女「あっちの温泉だって早朝も開いてますし、行きやすいからあっちに行けばいいじゃないですか」
男「俺はあそこの温泉には入れなくてな」
女「何言ってるんですか。男湯はあいてますって」
男「…………」
女「あの、いつも長めのタオルで下半身すっぽり隠してますよね」
女「も、もしかして……」
男「触って確かめてみたいかしら」
女「え、あ、す、すいません!てっきりあの!だ、大丈夫ですので」
男「安心しろ。ちゃんと付いてる」
女「ちょっと!!警戒レベル引き上がりましたよ!!!」
男「こんないかつい女もいないだろう」
女「人生の途中で性を変えたのかと思ったんですよ」
男「キャッチコピーのように言われたこともある。ごつい、でかい、こわい」
女「確かにそうですね」
男「俺もそう思う」
女「中身はどうですか?」
男「さぁな」
女「意外と乙女だったりして」
男「冷徹な怪物だよ」
女「小心者で、怖いものだらけみたいな裏設定は?」
男「すまんがもうあがる」
女「すいません、怒っちゃいました?」
男「のぼせやすいんだ」
女「恋愛にも?」
男「乙女にしたてようとするな」
女「おはようございます。今日は私より早いですね」
男「性転換、か」
女「え、なんですかいきなり。まだ5時ですよ。いや、夜でも驚きますよ」
男「俺が本気で女になろうと努力をしたら、誰も俺が俺だとはわからなくなるだろうな」
女「まぁそうでしょうね」
男「女湯にも入れるようになる。楽しめるかはわからんが」
女「そうですね」
男「女性専用車両にも乗れる」
女「そうですね。私は極力乗りませんが」
男「トイレはなんとなく真ん中の多目的トイレを使ってしまいそうだ」
女「あの、何の話ですか?」
男「男女は平等にはなりえないという話だ」
女「朝からテーマ重すぎません?」
全部書きためてからまとめて投稿しようと思っていたのですが、つい始めてしまいました。
終わりまでのあらすじは決まっていますが、1日5投稿くらいのペースになりそうです。
気長に読んで下さるとありがたいです。
今日はおやすみなさいませ。
男「昔から不思議に思っていた。どうしてホームレスは男ばかりなのだろうと」
男「概して男のほうが稼ぐ意欲があり、女のほうが稼ぐ意欲がないとするならば、どうして貧乏の最たるホームレスに女はいないのか」
女「それこのご時世に絶対SNSに書き込んじゃだめですよ。住所と小学校の頃に好きだった女の子を特定されてお祭り騒ぎになっちゃいますよ」
男「どんな調査能力だ。いずれにせよ携帯電話もパソコンも持ってないから心配は無用だ」
女「ええっ!?もってないんですか!?」
女「ええ!!?ええ!!?」
女「えぇーーー!!!?」
男「そんなに驚くことか」
女「綺麗な景色とかおいしい食べ物とか珍しい出来事があったらどうするんですか!どうやって周囲にシェアするんですか!!」
男「現代っ子だな。それでだ、俺が考えるに…」
女「俺ってばついつい街の中にある銭湯ではなく、山の中の温泉にわざわざ足を運んできてしまうんだよなぁ。ああー!5時は誰もいなくて最高だな!まぁ、こんな時間にこんな場所に来るようなもの好きはそうそういないか、かっこわら」
女「ってできないんですよ!!」
男「俺は今日も手を大きく広げて山の中で自由を叫ぶ女に遭遇してしまった。これが証拠の写真です」
女「今日はしてないです!盗撮は犯罪です!」
男「話を戻すとだな、おそらく」
女「うぅ……私の綺麗なお尻は二次元の男の子にも見せたことがないというのに……」
男「ろくに見てないと言っただろ。すぐ目をそらしたさ」
女「ほんとですかねぇ。まぁ前髪も長いですしね。ごついのに。私みたい」
男「ごつい男が坊主じゃないといけない理由でもあるのか」
女「それで、パンケーキがなんでしたっけ?」
男「全く話を聞いてないなこいつ……」
女「冗談ですよ。女性は男のそばにいるだけで価値があるから、男が養ってくれるんじゃないでしょうか」
男「内容はありきたりだが、凄い言い方だな。まぁ、俺も似たようなことを考えていたが。その価値観は周囲の男友達にシェアしないでおくんだな」
女「女子大ですから大丈夫です―。心配ご無用です―。SNSで女性専用車両と女子大アップロードしますー」
男「誰が共感するんだ」
女「そういえば、男子大って存在しないですよね」
男「行きたいやつがいないんだろう」
女「女子大は楽でいいんですけどね。湯上がりの軽い化粧でも気にせずいけますから」
男「そうか」
女「ここにも男はいるんだがな……ってやきもち気味に意味深につぶやかないんですか?」
男「わるいがのぼせた。先にあがる」
女「はい、いってらっしゃいー」
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「……おほん」
男「…………」
女「……ごほんごほん」
男「…………」
女「……ぶぇーっくしょい!!」
男「風邪引いてるならあがったらどうだ」
女「あっ、おはようございます。今日もいい朝ですね」
男「ああ」
女「…………」
男「…………」
女「ノリわるっ」
男「化粧の話か?」
女「化粧はお風呂上がりにします。先にあがるあなたは知らないでしょうけど」
男「…………」
女「もしもーし」
男「何だ」
女「ニヒルを気取ってるこの俺が、昨日は喋り過ぎちまったな、とか思ってるでしょ」
男「よくわかったな」
女「小学生の頃に好きだった女の子の名前、しおりちゃんっていうんでしょ」
男「違うな」
女「じゃあなんですか?」
男「内緒だ」
女「別にいいじゃないですか」
男「小学生の頃の俺に怒られてしまう」
女「今日は何について喋りますか?」
男「本当おしゃべりが好きだな」
女「最近誰とも喋ってなくて人恋しいんです」
男「大学の友達はどうした」
女「みんなほとんど単位を取り終わっているので来ないんですよ」
男「お前は行ってるのか」
女「別にさぼってたとかじゃないですよ。留学をして4年で卒業するという方法が私の環境では半年の自主休講という形でしかなくてですね。凄いでしょ」
女「日本に帰って来た私は、また異国の地を愛する心を求めて、実家には帰らずにこの田舎にあるおばあちゃんちに来たんです」
男「そうか」
女「私、今は新幹線で大学に通ってるんですよ。親のおかげです」
男「医者か何かか」
女「医者の外科です」
男「そうか」
女「この話題退屈ですか?」
男「大学に通ったことがないからな。あまりイメージがわかないんだ」
女「そうだったんですか」
男「高校も中退してるから、中卒だ」
女「そうなんですか……」
男「反応に困るか?」
女「いえ、そういうわけでは…」
男「気にするな。パンケーキの話でもしよう」
女「本当ですか!?」
男「嘘だ」
女「…………」
男「不機嫌な表情に戻ったな」
女「私と話すの嫌ですか?」
男「誰に対してもこんな感じだ」
女「誰に対するものと一緒ですか」
男「そうかもしれないな」
女「ふーん」
女「あなたはどうしてこんな早朝にこの温泉までくるんです?」
女「この時間でも、街中の例の銭湯は男湯を解放してるじゃないですか。女性は夜の短い指定時間に入っていますけど」
男「理由は3つくらいあるがどれも退屈な理由だ」
女「人混みが苦手とか」
男「それは1つの理由だな。人が苦手だ」
女「私も苦手です」
男「その割にはよく喋りかけてくるな」
女「ふふん」
男「お前こそどうしてここまで来る。例の銭湯で夜に入ればいいだろう」
女「まぁあれですよ。朝に生きるのが1番だって思ったんですよ」
男「なんだそれは。夜は死んでるみたいな言い方だな」
女「あの地震が起きる前は、例の銭湯に早起きして浸かりにいっていたんです。ここは修理が終わるまでのしのぎ場です」
男「旅の恥はかき捨て、みたいなものだな。でなければ、痴態を見られた男に話しかけられるわけもないか」
女「やっぱり見てたんじゃないですか!!」
男「身体はじろじろ見ていない。セリフは鮮明に覚えているがな」
女「くうぅう……」
女「お風呂は朝に入ろうって決めたんです。今までの生活を全て逆さまにすれば、この人生も反対になるんじゃないかって」
女「時計って円の形をしているので、回転してもわかりにくいんですよ。人生を後ろ倒しにすると、おやつの時間が4時になって、5時になって」
女「起床時間もだんだん7時、8時、9時となって」
女「気づいたら6時が18時になっていたり。人が起きる時間に私が寝たり、誰かが朝食を取る時間に私は寝る前のお風呂に入っていたり」
女「でも、度重なる遅刻が重なると、面白いことに、誰よりも早い人間になるんですよ」
女「いつの間にか、みんなが起きる時間より1時間早く起きて、私のおやつの時間は14時になっていて」
女「私の人生取り返しがつくかもしれないと思った時に、取り返してやろうと思ったんです」
女「回りくどく話しすぎましたね」
女「まぁ、なんというか、私、中学時代から一時期……」
男「わるい、のぼせた。今日も先にあがる」ザバァ
女「……あの」
男「どうした」
女「今私が何か打ち明けようとしてた雰囲気感じ取れました?」
男「医者の娘のお嬢さんの人生の喜怒哀楽の結末が聞けるんだなと」
女「なんですかその言い方」
男「お前の話はそこまで退屈ではない。こんな時間に混浴に来てるのはあんたと俺くらいで、たしかに一見気もあいそうに見える」
男「だけどな、そっちの言葉を借りると、お互い異なる時間を生きている」
女「どういうことですか?」
男「俺は今から帰って寝るんだよ。俺の時計もまた他の人間とずれている」
女「時間差は、ええと……」
男「寝るのが6時間遅い。海外に遊びに行ってても時差はすぐには浮かばないのか」
女「今日はなんだか冷たいですね」
男「熱いだろ。だから俺はのぼせた。じゃあな」
女「…………」
女「私も、こっちにきておばあちゃん以外に初めて話せる人ができてちょっと浮かれていたかもしれませんが」
女「だからって何ですか!!」
女「人の後ろ姿の裸も見たくせに全然気にもならないみたいな態度ですし!!!!」
女「キィいいい!!!むっかぁ!!!!」
女「もう知りません!!一人で無言で浸かってればいいじゃないですか!!」
女「実は女だの、人が苦手だの、今から寝るだの」
女「ミステリアスすぎるんだよぉ!!!!」
女「このねぼうすけーーー!!!」
女「でくのぼうーーー!!!」
女「肉の棒ーーー!!!」
女「ふんっ!!!!!」
女「…………」
女「…………」
女「…………」
女「だ、誰もいないよね」チラ…
女「ほ、よかった…」
女「我ながら最後のはないわ……」
女「少しお化粧して、大学に行こう」
映画を観る時は、携帯電話の電源の切り忘れと同じくらいに、"朝のキス"のシーンに注意をしなければならない。
朝は、本物の時間だから。
おばあちゃんが言っていた。老人が朝早くに起きるのは、長年生きてきて朝が本物だとわかったからだと。
身体ではなく心の都合で生きる時間が変わるのだと。
映画が始まって、ベッドの上で朝日を浴びながら男女がキスをしているとしたら、それは本物の愛。
作り手にとって、物語の終盤に壊すにふさわしい愛。
こんなことなら、いっそ、朝なんてなくなってしまえばいいのにと、今後も私は思うことになるのである。
次回
「火のないところに煙は立たぬ。だが、湯気あるところに男はいきりタつ」
混浴では、"ワニ"の出現にもご注意。
幼い頃から見飽きていた花火に、目を奪われたことがある。
毎日さよならを告げることの出来る友達がまだいた夏。
蝉の鳴き声がやけに静かだと感じたあの夜。
物心ついたときから、誉められることも、認められることも多かった私は、性格こそひねくれてはいなかったけど。
目を伏せながら生きているような人間に、目を向けるようなことはしなかった。
『傷つくことで、人の痛みを知ることができる』
人の痛みを知らないまま、一生傷つかない人生をこのまま送ったほうが遥かに幸せだと思っていた。
浴衣姿の似合う綺麗な女友達に囲まれながら、大して好きでもないわたあめを舐めていた。
歩き疲れた私達は公園で一休みすることにした。
公園につくと、視界にはクラスの男子の集団と、冴えない女子の3人組、一人でベンチに座っているみすぼらしい男を同時に見つけた。
私の友達ははしゃぎだして、男子の集団に近づいていった。
冴えない女子がこちらに気づいてふろうとした手を、途中で下げた。
円になって男女で五月蝿く話している中、私は気恥ずかしくてわたあめを舐めるのに夢中なふりをした。
突然打ち上がった花火は、幼い頃から見飽きた花火だった。
けれど、このあと、非日常が訪れる。
女子に囲まれていた男子のうちの一人が私に近づいてきて。
私は少しドキドキして。
ベンチに座っていた男が立ち上がって。
私は、当然のように目もくれず。
私の思春期は、そこで。
女「わぁっ!!!!」
女「はぁ……はぁ……」
女「私、寝ちゃってたのかな」
女「やばい、今何時だろう!」
女「単位ぎりぎりなんだから自主休講なんてできないのに!」
女「ぎりぎり電車に間に合った…」
女「今朝も、あの男は私より先に来ていて」
女「私はあの男に手前側に座って。お互い一言も喋らずにいて」
女「ごつい身体ですぐのぼせて、また私よりも早くあがって」
女「一言も話しかけない態度に私はイライラして、不貞腐れて、いつの間にかウト寝しちゃって」
女「嫌な夢を見たんだった…」
女「大学に来る四年生なんて、リクルートスーツ着た就活中の人たちばっかり」
女「まぁ私には関係ない話だけど」
女「残りの半年間、私は老後を過ごすんだ」
女「文学の授業の教授がヘミングウェイの言葉を言ってた。『若者に知恵が、老人に力さえあれば』」
女「私は体力も気力のある若いうちに、自分の好きなことをして、見たいものを見て、浸かりたいものに浸かるんだ」
女「社会人になって、周囲の人が『老後にはこんなことをしたいな』って言ってる中で」
女「『私はもう老後を過ごしましたけど』ってこころの中でつぶやくんだ」
女「はぁ、自分が嫌いだな。お父さん、一生私の面倒見てくれないかな」
女「はぁ……」
女「…………」
友「あれ、女ちゃん!?」
女「あっ、友ちゃん!!」
友「何してんの!?授業!!」
女「授業だよ授業!!友ちゃんリクスーだね」
友「そうだよ就活だよ―。私はもう内定持ってるんだけどね。女ちゃんは大丈夫そう?」
女「そうだなぁ…最高のニートになれそう」
友「うける!私もニートなる!」
女「なろなろ!」
友「なろうね。マラソンも一緒に走ってゴールして、飲み会は行けたら行くし、ニートもなれたらなろうね」
女「絶対裏切る気でしょ!」
友「あはは!!じゃあお互いがんばろうね」
女「うん!またね」
友「あっ、結局就活どうなの?」
女「……うーん、ぼちぼちかな」
友「そうなんだ!じゃあまた!」
女「…………」ザバァ
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「…………」
男「…………」ザバァ
女「今日も一言も話さなかったな」
女「大学で友達にさりげなくマウンティングされた話とかしたかったのに」
女「海外に行ったり、おばあちゃんちに泊まったり。私はどこかに逃げ出したいだけなんだろうな」
女「はぁ……」
女「明日は授業ないし、どこかまた遊びに行こうかな」
女「……んんん」
女「目覚まし無しで起きるのって最高」
女「いつも早起きしてるから8時に起きられたな」
女「おばあちゃん朝ごはん置いててくれてる。おいしそー」
女「ご飯食べたら、ちゃんとお化粧して、街中のおしゃれなカフェで読書でも決め込もうかしら」
女「それとも映画館にでも行こうかな」
女「それとも……」
女「いつもの癖でまた混浴に来てしまった……」
女「お昼時に来るのって初めてかもしれないな」
女「男の人が入ってたらどうしよう……」
女「でも女の人が来てたら少しおしゃべりできるかもしれないな」
女「よし。ものは試しだ」
ジー……
女「(えっ……)」
ジロジロ……
女「(おじさんが3人いる……)」
ジー…
女「(なんか視線を感じるような…)」
女「(しかもなんでだろ、ペットボトルが置いてある)」
女「(なんか怖いな。体流したらすぐ出ちゃおうかな……)」
男性1「おじょうちゃん、ここよく来るの?」
女「え、あ、あの、あまり…」
男性2「ここは良いよぉ。景色もきれいだし、お湯も身体の芯から温めてくれるし」
女「は、はい…」
男性3「おいおい、やめろって。いきなり話しかけられてお嬢ちゃんも嫌がってるじゃないか」
女「いや、そんな…」
男性1「わりぃわりぃ。俺達は釣り仲間でね。この付近の釣り場に来た帰りなんだ」
男性2「今日は坊主だったよ。昨日はけっこう釣れたんだけどなぁ」
男性3「ちなみにこいつは毎日ハゲだけどな」
男性1「がっはっは!」
男性2「うるせー!お前もそう変わらんだろ!」
女「(悪い人たちじゃなさそう?)」
男2「でもまぁ、こうやって湯に浸かってると、どうでもよくなっちゃうね」
男1「お嬢ちゃんは釣りやったことある?」
女「いえ、ないです」
男1「今度おじちゃんが教えてやろうか?」
女「ええと…」
男3「お前らが喋りかけてばかりいるから困ってるだろ」
男1「ごめんごめん。身体流したらゆっくり話そうよ。俺も一人暮らしの娘の顔を最近見れていなくてね」
女「何年生なんですか?」
男1「高校二年生だよ」
女「高校生で一人暮らししてるんですか」
男1「あ、えーと、高校が遠くてね」
女「そうなんですか」
男1「まあ後でゆっくり話そうよ。身体洗っちゃいな」
女「はい」
女「…………」ワシャワシャ
女「…………」ワシャワシャ
女「(なんか凄い静かな気がする……)」
女「…………」ザバァ
女「よし」
男2「あれ、身体は洗わないの?」
女「はい?」
男2「いや、ここはみんなで使う場所だからさ。頭だけ洗って、身体洗わないってのはちょっと…」
女「あの、普段なら、あの人も背中向けてるし、洗うんですけど、なんというか……」
男2「マナー違反はちょっとねぇ」
女「そうですよね、すいません…今日は失礼します…」
男3「おいおい。せっかくこんな山奥まで来てくれたのに可愛そうじゃないか」
男1「こんな潔癖野郎のいうことなんか気にせずきなよ。こいつの洗った身体より君の洗ってない体のほうが清潔に違いない」
男2「わ、悪かったよ…」
女「あの、今日は…」
男3「ほらほら、場所開けろ」
女「ちょっと……」
女「そ、それじゃあお邪魔します…」
男1「…………」
男2「…………」
男3「…………」
ジィー……
女「(なんか気持ち悪い…)」
男3「ちょっと、それはさすがに」
女「はい…?」
男3「バスタオルつけたまま入るのはマナー違反でしょ。さすがにそれくらいは知っておいてよ」
女「あの、でも……」
男3「タオルの繊維が湯に浮かんじゃうでしょ!!」
女「ひっ!」ビクッ!
男3「おじさんたちだってタオル持ってないでしょ。ほら。つけてないでしょ」
女「嫌…」
男3「ほら。おじさんたちも見てみなって。バスタオルもとりなって」ニタニタ…
女「あの、わたしもう」
男2「もうのぼせちゃったの?早すぎでしょ。これだから今の若い人は」
ガラガラ…
男「…………」
女「っ!」
女「(私より、のぼせるのが早い人が来た)」
男「…………」ザバァ
男1「おいなんだお前。身体も洗わずに入ってきて」
男「いつもこうだ」
男2「はぁ?」
女「ええっ!?」
男「外にまで下品な声が聞こえてきたぞ」
男1「なんだお前」
男2「男のくせにバスタオルつけて、長い前髪しやがって。顔見せろや」
男「だったらお前は男らしいかもな」
男2「てめぇ……」
男3「女男がのこのこ来やがって。邪魔なんだよ」
男「俺は男だ。そうだな、タオルを取るのがマナーだったな」
男「お前、ちょっとどけ」
女「え、いったい」
男「黙って出て行け」
バサリ…
女「キャッ!」
女「(バスタオル広げて、おじさんたちに、何見せつけてるんですか!!!)」
女「(後ろからは何も見えないけど…)」
男1「…………」ダラダラ…
男2「…………す、すまねぇ」アワアワ…
男3「……出ていく。出ていくって!!」
ザバァ!!ザバァザバァ!!
女「えっ、えっ。何が」
男1「け、けどな」
男1「あんたはもう二度と、ここには来れないぞ」
男「この場所はバスタオルをつけて入っても良いことになっている」
男1「はぁ?」
男「管理人のおばさんに直接確認した。ルールはそこの看板にも書いてある通りたった1つらしい」
男「『美しい景観を損ねることの無き様』」
男「わかったらさっさと出て行け。ここは俺と俺のお友達のお気にい入りの場所なんだよ」
男「また釣りにでも行ってこい」
女「…………」
女「はぁーーー……」
女「どっと疲れました」
男「ちょうどいいな。この湯に浸かって休めばいい」
女「いったい、何をしたんですか?」
男「股間を見せつけた」
女「はぁ?」
男「それに驚いてやつらが逃げ出したんだ。やっぱり男の勝負はこうして決まるものだな」
女「何を漫画みたいなことを。というかその行為自体が美しい景観を損ねてるじゃないですか」
男「困った女性を守るのは美しい光景に分類されるだろう」
女「な、何を!」
女「最近だって無視してたくせに!!」
男「俺と関わるとろくなことがないんだよ」
女「今日も助けてもらいましたよ」
男「俺がどういうやつかもしらずにな」
女「悪い人ではないでしょう」
男「だったら、種明かしをしてやろうか」クル…
女「また背中を向けて、なんですか」
男「前だと少々衝撃が強すぎるんでな」
バサリ…
女「……う、わ、」
女「い、入れ墨が、下半身に、びっしり……」
男「これでおあいこだな。裸の後ろ姿を見られた者同士」ニヤリ
女「あの人達また来ますかね」
男「この辺に魚を釣れるような場所はない。お前も来たばかりで知らなかったのだろうがな」
女「そうなんですか」
男「混浴に手当たり次第手を付けてるワニだろう。ペットボトルも置いてある」
女「ワニ?」
男「女の身体を見るために混浴に張り付いている男をそう呼ぶんだよ」
男「群れで水の中に潜って獲物を待ち伏せする姿が動物のワニと似てるだろ」
男「水分補給も欠かせないからペットボトルまで持ってきてな」
男「ここに混浴があるというのをどこかで知って、良い女はいないかと来てたんだろう」
女「本当に助かりました……怖くて逃げ出せなかったんです」
男「逃げ出せたさ、お前なら。ただ、苦痛な時間は少ないほうがいいと思ってな」
男「俺も人混みは苦手なんで、一見さんはお断りしたかったんだよ。ましてや常連になられても困る。湯が汚れるからな」
女「そ、それ!あなた身体流さずに先に入ってたんですね」
男「確かにお前は洗ってるな」
女「いつも見てたんですか!?」
男「身体を流す音が聞こえるだけだ」
女「マナー違反ですよ」
男「俺は管理人のおばさんに全てを認められている存在だ」
女「凄い自信ですね」
男「俺が街中の温泉に行かない理由がわかっただろう」
男「入りたくても入れないんだ。この刺青のせいで」
男「それをここのおばあさんは、見えないようにすればいいと言ってくれたんだ」
男「隠して入ろうか迷ったが、事情を説明したんだ。早朝の誰もいないような時間しか利用しないからとな」
男「そのインクはなんだい?」
男「刺青です」
男「暴力団かなんかなの?」
男「もう足を洗いました」
男「洗った割には落ちてないじゃないか」
男「いや、洗ったというのはですね」
男「冗談だよ。入りな。ただし隠すんだよ」
男「いいんですか」
男「刺青がなくても隠すべきもんを隠さないやつも時々いるからね。あんたはそいつらよりはマシそうだ」
男「僕はそいつらよりも極悪人ですよ」
男「いいから入りな。ここにはね、日本の美しさが詰まっているんだよ。心を洗ってきな」
男「こんな会話をした覚えがある」
女「…………」
男「本当だぞ?」
女「いえ、疑ってるのではなく。その会話が嬉しくて、何度も反芻してたのかなって」
男「…………」カァ…
女「あれ、もうのぼせちゃいました?」
男「……バカ言え。今から楽しむところだ」
女「私と会話をしたがらなかった理由もそのせいですか」
男「何のせいだ」
女「自分は認められるべき存在ではないとどこかで思っているせい」
女「元極道かなにかは知らないですけど、会話をすることってそんなに恐ろしいことですか?」
男「……お前は何もわかってない」
男「会話っていうのはな、会話をした相手と繋がり始める行為なんだよ。好きな相手であろうが、嫌いな相手であろうが。告白だろうが、喧嘩だろうが」
男「今日お前はあいつらと会話をしただろう。会話を始めたのが不幸の始まりだった」
男「学生時代に学ばなかったのか。最初の会話がうますぎるくらいに噛み合ったやつとは、後々悪い関係になると。最初はやさしくはなしかけられたって、素性はどんなやつかわからん」
女「どうでしょう。よくわかりませんが、だったらあなたとも今後悪い関係になってしまうのでしょうか」
男「別にお前と噛み合った記憶はないが」
女「今日も私がワニに噛みつかれそうになった時に、あなたが噛み付いてくれました、あなたとワニが噛み合いました」
男「何が言いたいのか」
女「あなたに無視されて寂しかったってことですよ!わかってるんですか!」
男「まるで会話が噛み合わん……」
女「言ったでしょ。話し相手が欲しかったって」
男「ひよこかなんかと一緒だな。最初に見た方に親近感を覚える。俺がお前にやさしくしたのは今日だけで、今までは冷たいやつだったろう」
女「もしも最初に両手を広げて裸で独り言を叫んだ時に、後ろにいるのが今日のおじさん達だったとしたら、私はここの銭湯に浸かってから大学に行くのではなく、大学付近の温泉に入ってから大学に向かっているようになってますよ」
女「こんな隠れ家的な美し景色とはおさらばでしたね」
女「人が少ないことに加えて、あなたがここに来る理由の2つがわかった気がします。一つは刺青があっても入れるから。もう一つは、やはりここが美しいから」
女「その理由の一つに、私とおしゃべりができるというものを入れてみませんか?」
男「……本当に馬鹿なやつだな。お前みたいなやつが、付き合ったら暴力を振るうような男と付き合う」
男「間違い電話で一目惚れ、いや、一聴き惚れした女の子が、相手の男に人生をめちゃくちゃにされた話を知っているのか」
男「ゲームセンターで、カフェで、コンビニで、素性をよく知らない男と親密になって人生を狂わされた女がどれだけいると思っている」
男「お前が今話している男だってな、素性は冷徹な……」
女「お前が今話している女の子ですよ」
男「はぁ?」
女「私と繋がりたくなければ、黙ってるのが正解でしょう。私とあなたがつながらない理由を話している時点で、私とあなたは繋がり始めているんじゃないですか」
女「私は帰国子女で、誰にでもフレンドリーですからね。勝手に好きになってストーカーされたら困りますが、良い茶飲み仲間、ならぬ湯浴び仲間になりましょう」
男「……はぁー」
女「あっ、今幸せが一つ逃げました」
男「人がため息を付いてる所に追い打ちをかけるな」
女「あなたの残存幸せ数は残り18,000個です」
男「そんなにないだろ」
女「一年で365日で、残り50年生きるとして、ええと……」
男「1日1個くらいだ。多すぎる」
女「暗算早いですね」
男「のぼせるのもな。今日は失礼する」ザバァ
女「では私も失礼する」ザバァ
男「ついてくるな」
女「ついていきませんよ。更衣室は別ですし」
男「ああそう」
女「今日午後暇ですか?」
男「これから帰って寝るところだ」
女「お昼寝ですか」
男「俺にとっては夜だよ」
女「生活が不規則ですね。お仕事だからしょうがないですが。ご一緒にお茶できなくて残念です」
男「湯浴び仲間以上の関係になるつもりはない」
女「茶飲み仲間より親密そうじゃありません?」
男「じゃあな」
女「ええー、ちょっとー!」
女「はぁ、はぁ!」
男「どうした」
女「ほら、服着てそっこう出ていくと思いましたもん。私もお化粧せずにそっこう出てきました」
女「前髪伸ばしといてよかったー」
男「お前が伸ばさなくても俺が伸ばしてるから大丈夫だ」
女「本当長いですよね。寡黙な雰囲気と似合ってますよ」
男「そりゃどうも」
女「これから駅までですか?」
男「残念ながらこっちだ」
女「お家はこのへんで?」
男「眠いんだ俺は。じゃあな」
女「あーそうですか。それじゃあ」
男「またな」
女「!?」
女「はい!それでは、また早朝!」
読んでくれてありがとうございます。
ご支援本当にうれしいです。
今日はここまでです。おやすみなさいませ。
仕事の都合で今週はあまり書けそうにありません。明日は時間が取れそうなので投稿する予定です。
女「おっはー」
男「…………」
女「おっはー」
男「…………」
女「なんですか!また無視ですか!」
男「普通の挨拶はできないのか」
女「おはようございます」
男「おはよう」
女「相変わらずのノリの悪さですね」
男「そりゃどうも」
女「思いません?6時や7時から始まる子供向け番組を見ていたあの頃よりも、私たちは早起きするようになってしまったなって」
男「俺は今日は朝帰りだ」
女「不良してたんですか?」
男「そんなところだ」
女「本当は深夜向けアニメですか?」
男「用事があっただけだ」
女「早起きしてアニメ見てた少年は、いつしか夜更かしして深夜アニメを見て眠りにつくようになってしまったとさ……」
男「人の話を聞かないなこいつは」
女「もうすぐ夏休みですね」
男「そうなのか」
女「私の話じゃなくて小学生の話ですが。まぁ私もですが」
男「弟でもいるのか」
女「いますが高校生です。全国の小学生の話です」
女「夏休みといえば小学生じゃないですか?友達とおでかけしたり、お家に遊びに行ったり」
男「女子小学生の夏休みの過ごし方なんて全く想像もつかない」
女「どんな風に過ごしていましたか」
男「ドッジボールとか、カードゲームとか……」
女「ええ!?カードゲーム!?その図体で!?」
男「悪いかよ」
男「親からは買って貰えなかったんだが、周りの奴らにいらないカードを分けて貰った」
男「みんなが捨てたがるようなカードだから、弱いものばかりだった。だが、だからこそ上手く組み合わせて上手に勝つ方法を模索しようとした」
女「それで、勝てたんですか?」
男「全然」
女「あら」
男「やはり、強いカードを配られたものが勝つようになっている」
男「愉快な話だ。強いカードを手に入れるだけの環境に生きている子供は、人生でも強いカードを手にしてると言えるんだからな」
女「……あーそうですか」
男「ああ、お前はそっち側の人間だったな」
女「あなたの戦略がよくなかっただけかもしれないじゃないですか」
男「デッキ、いわばカードの束を交換してやらせてもらったことがあるんだが、別世界だったよ」
女「はぁ、人生と一緒ですね」
男「急に同調したな」
女「化粧したら今まで見向きもしてこなかった男たちが振り返ったとか、整形したら今まで見向きもしなかった男たちが振り返ったとか」
男「すまん、触れてほしくないものに触れたか」
女「別に、整形してないですし、すっぴんです」
男「なら、やはりその胸をほうきょ…のわっ!!」バシャア!!
女「それは触れてほしくないものです!」
男「触ってない!!」
女「物理の話じゃないです!」
女「前髪の隙間からこんなところ見てたなんて…」
男「見てない!視界に入ってくる大きさなだけだ」
女「視界に入る、だけでいいじゃないですか!」
男「女として誇りこそすれ、恥ずかしがることじゃないだろう」
女「男性に見られるのはちょっと……」
男「弾性?やはり自慢か?」
女「お湯かけますよ!」バシャ!
男「のわっ!」ゴボゴボ…
男「もうかかってる…」
女「まったく、ワニがいなくなったと思いきや、天然で下ネタ発言する象のような大柄な男が現れるんですから…」
男「それこそ天然の下ネタ発言だと気づいてるのか」
女「なにか?」
男「いや、何でもない」
女「ワニもこんな山奥までよくやってきましたよ。女性が来るという噂でも聞きつけたんですかね」
男「火のないところに煙は立たぬ。だが、湯気あるところに男はいきりタつ」
女「……はい?」
男「こんな秘境まで来る金があれば、それこそいかがわしい店で遊ぶことも出来ただろう」
男「それでもやつらは混浴に来ることを選んだのだ!」
女「あの……」
男「浦島太郎は煙を浴びて老いてしまったが、ワニは湯煙によって若返ったのだ。混浴こそがやつらにとっての竜宮城だったのだ」
女「さっきから顔赤いですけど……私が来る何分前からお風呂入ってました?」
男「ワニなのに亀と出会い、自分の亀を喜ばせようとする!!」
男「こんなくだらないはなしがあるか!!」
男「はぁ…はぁ…」
女「だ、大丈夫ですか?」
男「景色がまわる……すまんがもうあがる……」ザバァ
女「あの、手貸しましょうか?」
男「不要だ……」
女「……いってしまった」
女「いつもいつもすぐにのぼせてあがってたけど」
女「今日はもうあがろうとしてたのに、私の話に付き合ってくれてたのかな」
女「そして」
女「お湯に浸かると酔ってしまうタイプなのかな」
女「私もカラオケに行くと酔っ払ってるみたいって言われることあるし」
女「体質の問題だからしょうがないよね……」
女「…………」
女「ぶふっ!」
女「おもしろっ!」
女「なにあれ!ちょーうけるんですけど!」
女「シラフの時にからかってやるのが楽しみだな」
女「ふふっ。やっぱり早起きは最高だな。早朝五時から、既に明日までが楽しみだな」
女「それでは、また、早朝」
男「…………」
女「おはようございます」
男「…………」
女「おはようございます」
男「…………」
女「おっはー!!!!」
男「聞こえてる」
女「今日は真面目な挨拶から入ったじゃないですか!」
男「昨日、俺はのぼせてからの記憶があまりない」
女「女子更衣室に入った記憶もですか!?」
男「入ってない」
女「覚えてるじゃないですか」
男「だいたい覚えている。すまん、記憶喪失のふりをしようとした」
女「私こそ記憶喪失したいという心情を読み取れずに申し訳ございません」
男「よせ」
女「いつもはああなんですか」
男「そんなことはない」
女「仲の良い男友達といるときとか」
男「下ネタくらい誰だって喋る」
女「今日はもうのぼせてませんか?」
男「さっき浸かったばっかりだ」
女「でも、自分が下ネタをうっかり女性の前で喋ってしまったことに対する恥じらいを感じるのは偉いです。10点加算です」
男「下ネタだけじゃない。のぼせると、自分の中だけにしまっているようなことをべらべら喋ってしまうんだ」
女「温泉は心も裸にするんですね」
男「綺麗にまとめてくれてありがとう」
女「何か吐かせたいことがあったら、お湯に沈めればいいんですね」
男「恐ろしいことを言うな」
女「あなたの黒歴史はそうやってつくられていったんですね」
男「黒歴史?」
女「知らないんですか?思い出すだけで暴れて死にたくなるような恥ずかしい記憶のことです」
男「複雑な感情だな……。お前にはあるのか」
女「私は特にないですよ」
男「裸で韻を踏んで叫んだこと以外には、か」
バシャバシャバシャ!!!
女「死にたい……」
男「なるほど、これか」
女「罰として一つ教えてください……」
男「急に言われてもな」
女「何でもいいですから」
男「過去の自分に悪い」
女「過去は過去!今は今!」
男「よそはよそ、みたいに言うな」
男「まぁ、昔の話だが。小学生の頃に好きだった女の子がいたんだが、黒板にその子との相合傘を書かれてな」
女「それでそれで!!?」
男「食いつきがいいな」
女「どうなったんですか!?」
男「落書きをしたやつをボコボコにして、入院沙汰になり、そのことで好きな子からも避けられてしまった」
女「……………………」
男「よ、よくある小学生の喧嘩だぞ。ただ、自分の体格がいかに他人と違うか、まだ自覚がなかったんだ」
女「自覚がないのは恐ろしいですね」
男「全くだ。だから俺は酒も飲まない」
女「お風呂には浸かるけど」
男「それぐらい好きにさせてくれ」
女「それにしてもいいですねぇ」
男「何が」
女「恋の話ですよ!!」
女「私も幼いころからありがちな夢を見ていました。白馬に乗った王子様がいつか私を素敵な場所へ連れてってくれると」
男「新幹線の方が速度もはやいし馬より安い。車内販売もある。よかったな、王子様以上のものと出会えて」
女「そういう現実はいらないです。今日もこれから大学ですよ」
男「行きたくなかったら行かなければいいだろう」
女「そうもいかないんです。レールの上から落ちるより、レールの上を歩く面倒臭さの方がマシそうじゃないですか」
男「俺は落ちた側の人間だからな」
女「またそんなこと言って」
男「今日はもうあがる。またな」ザバァ
女「私はまだ浸かってたいです」
男「お前も新幹線に乗りにいけ」
女「違います」
男「じゃあ馬でもいいから乗ってろ」
女「女です。お前じゃなくて」
男「下半身に刺青を埋め尽くしてるような男に名前を告げるな」
女「じゃあ偽名ということで名乗っておきます。さて、あなたの偽名は?」
男「……男だ」
女「男さん。それではまた早朝」
男「ああ。また早朝」
読んでくれてありがとうございます。
今日はここまでです。
おやすみなさい。
女「……んん」
婆「あら、起こしちゃった?」
女「今起きようと思ってたとこ」
婆「そりゃあ寝ながらご苦労なこった」
ピピッ ピピッ
女「ほら、目覚まし」
婆「今日もはやいんだねぇ」
女「偉いでしょ。あっ、また朝ごはんおいしそう」
婆「一緒に食べようか」
婆「あんた、また風呂行くね?」
女「そうだよ」
婆「毎朝大変ねぇ」
女「お婆ちゃんは夜に街中のお風呂行ってるんだよね」
婆「うん」
女「毎日面倒くさくない?」
婆「週に3回くらいしかいかん」
女「毎日お風呂入りたくならない?」
婆「だったらこんなとこ住んどらん」
女「ふふっ。お風呂嫌いなら、銭湯行くのなんてますます気が重い気がするけどなぁ。それに安くないし」
女「(私は多額の仕送りで行ってるけど)」
婆「銭湯は、いろんなひとがいるからね。友達もたまに会うしねぇ」
婆「お金はあんたんとこのお父さんのようには持ってないけど、元の家の固定資産税考えたらとんとん」
女「へー、そうなんだ。よくわかんないけど」
婆「あんた、最近顔にいい艶がでてるよ」
女「へへっ。温泉の成分がいいのかな。お婆ちゃんも連れてってあげよっか?」
婆「そのうち頼むよ」
女「任せといて。まぁ今はこのおいしそうなご飯をいただくとするよ。いただきまーす」
女「おはようございます」
男「ああ、おはよう」
女「毎日よく飽きもせずに来ますね」
男「お前には言われたくない」
女「お風呂入るのってめんどうくさくないですか?飽きないですか?生まれてからの日数と同じくらいはいってるんですよ
男「飽きるとかいうものではないだろう。それを言ったら食事は三倍食べてることになるぞ。睡眠もだ、毎日寝てる」
女「性欲も毎日ご発散なされてる?」
男「丁寧な言葉遣いなら内容も丁寧になるわけじゃないぞ」
女「そう考えるとお風呂ってすごいですね。三大欲求に匹敵する存在かもしれません。食欲、睡眠欲、性欲、混浴」
男「混浴に限定するな」
女「韻を踏むのが好きなので」
男「知ってる」
女「混浴は性欲に含まれてしまいますかね?」
男「俺はそんな邪心で来ていない」
女「お風呂って、めんどうくさいですよ。歯磨きの比ではありません。お風呂に入るついでに歯磨きはできますが、歯磨きのついでにお風呂は入れません」
男「んっ?すまん、俺の理解力が乏しいのか何を言ってるのか全くわからん」
女「毎日勉強したり、なわとびしてたら誉められるのに、お風呂に入っても誰からも誉められないんですよ?」
男「入るのが当たり前だからだろ」
女「本当困っちゃいますよ。日本には海外のように深い信仰心がないみたいに言われますけど、お風呂教は確かに存在していますよ」
女「日本人は時間に厳しいとか、空気を読みすぎとか、繊細だとか、そんなのトップレベルの人たちがそうしたがるから下にいる人も頑張っているだけです」
女「みんながみんな当たり前のように思っているのはお風呂の存在ですよ。入って当たり前。受験勉強に対してはちゃんと金属バットで学校の窓ガラスを割って全国の子どもたちは抵抗しているのに、その子達ですら毎日お風呂には入ってしまうんですよ」
女「バイクで爆音を街中に撒き散らかした不良のリーダーも、帰ったら髪の毛を濡らしてシャンプーを手につけて頭を洗い始めるんですよ?お風呂へのあまりの無抵抗さに、無気力感がわきおこって絶望しませんか?」
女「裸で座って頭をもたれさせながらごしごし洗ってる姿って、まさに何者かの存在に向かって拝んでるように見えてきませんか?」
男「お前の方がよっぽど取り憑かれているぞ。お風呂入りたくない教か何かに」
女「私、お風呂嫌いな子供だったんですよ。お風呂入りたくなぁいってグズグズして、お母さんに注意されてから毎日入っていたんです」
男「今じゃ想像できないな」
女「今だって根は変わりません。お風呂はいるのってめんどくさいじゃないですか。服を脱いだら寒いですし、上着を脱ぐ時に首周りの部分が唇や鼻や髪の毛にひっかかるのも嫌ですし、髪の毛や身体を洗うのも、乾かすのも大変です」
女「ましてや、基本お風呂に入るのって眠い時間帯じゃないですか。ソファに寝転びながらテレビを見てて、そのままお布団に行くのさえだるいのに。お布団に行く前に風呂に行かなきゃならんってなった日にゃあ、こりゃあもう、ガソリンスタンドの洗車のように30秒で通過できるような人洗いマシーンなんかを空想してしまうわけで」
男「車はいつも裸だからできるけどな」
女「結局、私みたいにごくごく稀な、お風呂嫌いのイレギュラーな存在は、異端審問にかけられた挙句、全身をたわしでごしごし磨かれてしまうんです」
男「そして子供時代に改心させられて、早朝に入るようになったのか」
女「今では首までどっぷり浸かってます」
女「猫に生まれてたらお風呂に入らなくても誰にも文句言われないのになぁって思ってました」
男「誰にも会う予定がない場合は、洗わなかったのか?」
女「それが人間の嫌なところで」
女「3日が限界だったんですよ。3日間入ってないと凄く不快な気分になってくるんです」
男「やっぱりいお風呂に入りたいという気持ちは正常なんじゃないか」
女「和歌が詠まれるような時代にも、貴族は蒸し風呂のようなものに入っていたそうです。行水といって、水辺に洗いにもいってましたしね」
女「けれど、お風呂に入る文化が生まれる前の日本はどうだったんでしょうね。水は飲むものであって、浴びるものではなかった時代」
女「真冬にも冷たい水を浴びる選択肢しかなかった時代もあると思うと、私はやはり恵まれた時代に生きているんでしょう」
女「ところで、のぼせましたか?」
男「ちょうどな」
女「私はもうちょっと浸かります」
男「そうしてろ。金がもったいないからな」
女「ここは格安ですけどね」
男「混浴は無人で無料の場所であったり、管理人がボランティアでやってるようなところも多い。まぁ脱衣場もないようなところばかりだがな」
女「私、小さい頃の夢が」
男「話題がよく飛ぶな」
女「あなたがすぐのぼせるせいです。私、小さい頃に、自分がおとなになったらなりたいものは浮かばなかったんですけど、おばあちゃんになったら駄菓子屋さんのおばあちゃんになりたいって思っていたんです」
女「今は、銭湯のおばちゃんもいいかなって思っています」
男「いい暮らし感だな。お嬢様が飽きないかはわからんが」
女「まぁ、湯を求めに来る人々を毎日見守るのもいいですけど。温泉掘り当てるよりは、石油を掘り当てる人に憧れますけどね。都心にあるマンションの高いところで、人工的な七色で光る自宅のジャグジーに浸かるのもまたいいです」
女「それこそすぐに飽きちゃう気もしますが」
男「そうかもしれないな」ザバァ
女「もうちょっと引き伸ばせたらまたのぼせさせられたのに」
男「俺が食いつくような話題を提供することだな。まぁ、今日のはなかなか新鮮だった」
女「えへ、そうでした?」
男「女も綺麗好きとは限らないってわかったからな」
女「鮮度の悪さ度合いが新鮮でしたか……」
男「それではまた早朝に」
女「はい。いってらっしゃい」
男「お前もな」
女「おはようございます」
男「おはよう」
女「それで思い出したんですけど、アナウンサーがバラエティ番組に出ていて」
男「途中で止めてたビデオをいきなり再生したかのように話し始めたな」
女「あなたがすぐのぼせるのがいけないんです」
男「それでなんだ」
女「昔見たバラエティ番組で、美人なアナウンサーが言ってた言葉が印象的でした」
女「好きな人にはお風呂に入らないでほしい」
男「入らないでほしい?」
女「私はその気持ちがわかります。お風呂に入ると、その人がなんだか薄れてしまう気がしませんか?」
女「身体を洗わずにいる方が、その人の成分がより強い気がするんです」
女「アナウンサーになるような美人で賢い人でも、こんな俗世の欲望があるんだなって、ギャップに惹かれました。そのあと野球選手と結婚したんでそこは普通なんだって勝手にがっかりしましたけど」
男「トイレから出てケツ拭かない男は嫌だろう」
女「あのー!!あのー!!」話聞いてましたか?」
男「汚いほうがいいって話じゃなかったのか?」
女「変態心がまるでわかってない」
男「まともってことじゃないか」
女「これは変態ぽいな、って感覚がない人の方がよっぽど危険な変態の可能性を秘めているんですよ」
男「好きな人こそ綺麗でいる姿を思い浮かべるだろう」
女「アイドルは大きい方しないとか思っちゃってません?」
男「アイドルも大きい方はするがウォシュレット派が多数で丁寧にケツを拭き、ゲップもするが口元を隠すし、鼻水は出るが人前ではティッシュに出さないというイメージだ」
女「絶妙にまとも……。好きな人にだけ沸く特別な感情って無いんですか?」
男「それこそ好きだという気持ちだろう」
女「あっ……今ちょっとキュンときました」
男「風呂に入ってほしくないってのは、引いたりはしないが、理解もできん」
女「なんというか。その人だけ、って感じじゃないですか。3日4日入ってなければさすがに嫌ですけど」
女「一日だけ、たとえば恋人と同棲していて金曜日の夜に寝ちゃって土曜日の朝に起きた時に。起きた時の恋人がお風呂に
はいってないのって、隙きだらけでいいなぁって思いません!?」
女「ううう!!この想いSNSでシェアしたい!!!」
男「世界を敵にまわすのはゲームの主人公の男の子だけで充分だ」
女「好きな人がお風呂に入らないのいいなぁ」
男「好きな人とお風呂に入るのはどうなんだ」
女「そんなの恥ずかしいに決まってるじゃないですか!!!」
男「混浴来てる女が言うセリフか」
女「恋人と混浴に来るのはいいですけど。お家でお風呂に一緒に入るのは恥ずかしすぎますよ」
男「女心は複雑過ぎるな」
女「そもそもうちは両親が厳しいので同棲なんて状況ありえないんですけどね」
男「今時珍しいな」
女「過保護の星で生まれ育ってきたんです。今もですけど。だからこそ、なんとか一人で立とうとした私は、海外に行ったり、こうして田舎に来たり、色々試しているんです」
男「親から殴られてきた俺とは対極だな」
女「あっ……」
男「いちいち後ろめたそうな顔をするな。最初に言っただろう。俺とおまえは生きる時間が違うって」
男「それでもな、俺のことを守ろうとしてくれた人が人生で現れてくれたこともあった。それらも全部徒労でおわったけどな」
男「全部俺という存在が終わってしまったあとで、お前が現れたんだ。後ろめたく思うのはむしろ俺の方なんだ」
女「……怖いですが、ちょっとずつ話してほしい気もします」
女「あなたの人生がどういうものだったのか。興味本位といえばそうなんですけど」
男「名を名乗るにはまず自分からだな」
男「前いいかけてたお前の過去は何だったんだ?」
女「ワニが現れる前のことですよね。やっぱり気になってたんじゃないですか。今更話してくれだなんて」
男「俺と対極の生き方をしてきた女の人生に興味はなくはないからな」
女「うーん、刺青を入れるような、激しい過去ではありませんが。とても、無口で暗いものなんですが」
女「私、不登校だったんですよ」
男「それで?」
女「え、あの、不登校だったんです。学校に行きたくなくなって」
男「そんなもん、俺もよくさぼってたぞ」
女「ほら、これだから怖くてでかくてごつい人は……」
男「もうあがっても大丈夫か?」
女「どうぞお好きに」
男「では失礼する」ザバァ
女「本当失礼ですよ」
男「期待に答えられなくてわるかった」ザバァ
女「いいんです。たしかに、今となっては、"そんなもん"にすぎない気もしますし」
女「ちょっと気持ちが軽くなったかもしれません」
男「それならよかった」
女「それではまた早朝」
男「また早朝」
女「…………」
女「あなたがいつも、ここの温泉が開く時間に来てるというのはだいたいわかっています」
女「私は、あなたがすぐのぼせることに対して文句を言うわりには、いつも、少しだけ時間を遅らせて来ているんです」
女「旅は恥のかき捨てだなんて言って、実験的に何もかもをさらけ出すようなことは私はしたくありません」
女「だから、さらけ出せる部分だけをさらけ出そうと思っています」
女「混浴ですものね」
こんなことを思っている私は、やはり過去から何も学んでいないのだろうか。
目の前の人が何を抱えて生きてきたとも知らずに。
自分だけが、世界の苦しみを背負っているとでもいいたげな目で自分だけを見て。
お風呂の工事は、今週いっぱいで終わると聞いた。
お風呂に入って100数え終わるまでに。
私は、人生を許すことができるんだろうか。
プリミティブピーポーな混浴。
エインシャントシャワーな混浴。
バッタバッタと快刀乱麻の如き混浴。
激昂する混浴。
人生で感じたことのない痛みに襲われていた私の頭のなかでは。
難関私立高校を受けるために日々覚えていた言葉がぐるぐると脳裏を駆けめぐっていた気がする。
どうして混浴というワードがついたのだろう。
全ては後付けかもしれない。
最近の出来事に触発されて、あの激痛の時間に意味があったときっと思い込みたいだけなのだ。
救急車か何かが今すぐ私を助けに来てくれることを切望していた。
早く救ってくれ、という願いが叶うのは。
それから5年近く経った、今になるのかもしれない。
しかし、それは完全なるハッピーエンドとも限らない。
"希望なんて、無い"
そう納得できるのもまた、1つの安らぎに違いないのだから。
次回「本屋でトイレに行きたくなるし、お風呂でおしっこしたくなるだろ?人生、垂れ流しだ」
屈斜路湖露天風呂の数多の白鳥も、水面下ではバタ足をしているのでしょうか。
女「……あれ。まだ来てないや」
女「お仕事が長引いてるのかな」
女「身体でも洗っておこうっと」
ゴシゴシ
女「それにしても、刺青をしてる人と話してるなんてな」
女「ピアスを開けてる女の子でさえほとんどいない環境下に育ったのに」
女「お父さんのコネで就職が決まった会社も、理系の大学院生がいっぱい入るような会社だし」
女「はぁー。私は私自身を乗り越えようと本気で戦ったことがなかったな。お父さんのお金で冒険ごっこをしてるくらいで」
女「私は人生と戦いたい!厳しい環境で独り立ちしたい!」
女「そんなこと、思えないな。自信もないし勇気もない。守ってもらっていることは幸運なことだと思うだけ」
女「なのに漠然とした不安、ならぬ不満を抱えてしまうのは何故なんだろう」
女「私なんてかなり恵まれてる環境にいるのには違いないのにな」
女「世界がもし100人の村だったら」
女「6人が59%の富を握っていて、74人が39%を、20人が残りの2%を分け合っていて」
女「私はそんなことには無関心で隣街で温泉に入っている」
女「よそはよそ、うちはうち、かぁ」
女「私も小さい頃から物欲はあまりなかったし、お父さんもお母さんもなんでも買ってくれようとしたから言われたことはなかったけれど」
女「本来は、他人が幸福なのと、自分が不幸なのは関係ないってはなしなんだろうけどさ」
女「他人の不幸もまた、自分には関係のないことなんだ」
女「他人が不幸でも、私は私がまだ恵まれているとは到底思えなかったんだもの」ザバァ
女「ああ、良いお湯。この時間だけは正しい幸せの時間だ」
男「おう。おはよう」
女「おはようございます」
男「一番風呂をとられたか」
女「遅刻するあなたが悪いんです」
男「まだ5時代だぞ。皆まだ寝ている」
女「よそはよそ、うちはうちです」
男「ん?」
男「よいしょっと」ゴシゴシ
女「あれ、身体洗うんですね」
男「マナーだからな」
女「洗ってないのかと思ってました」
男「ワニがいた時言ったのは冗談だ」
女「見ててもいいですか」
男「何を」
女「身体を洗っているところ」
男「なんでだよ。ワニじゃないんだから」
女「ワニにだってメスはいるでしょう」
男「ああいえばこういうやつだ」
女「こういう奴なんです私は」
男「…………」ゴシゴシ
女「…………」ジ-
男「洗いづらいな…」
男「楽しいか?」
女「背中大きいですね」
男「そうかもな」
男「刺青はどう思う?」
女「確かに温泉にこんな人が入ってきたらびびっちゃうなぁって」
男「そうか」
女「でもあなたの大きさを見たらどうせ男ならみんなびびっちゃいますよ」
男「……背中を見ているんだよな?」
女「背中のはなしですよ?」
女「刺青って染みたりしますか?」
男「染みないな」
女「身長が高いのって幸せですか?」
男「役に立つことは多いな」
女「ふぅーん」
男「…………」
男「洗いづらい」
女「そうでしょうね」
男「視線を感じる」
女「視てますもん」
男「正面からじろじろ見るな」
女「……どういう意味ですか?」
男「せめて横目でチラ見するくらいの配慮はないのか」
女「そういう意味でしたか」
女「男の子の裸を見てキャーっと手で顔を多い隠すも、指の隙間から見ている女の子がタイプだということですね」
男「話を盛り上げるな」
女「チラ見はしません。景色でもみてます」
男「そうしろ」
男「ふぅー」ザバァ
男「生き返るなぁ」
女「さっきまで死んでたんですか?」
男「いつも死んでるみたいに生きてるよ」
女「そうですか」ザバァ
男「もうあがるのか?」
女「私はすぐにのぼせたりしません。定位置に着くんです」
女「あなたは奥。私は手前。お互い、いつも同じ所の石に寄りかかってるじゃないですか」ザバァ
男「俺は奥に詰めてただけだ。特にこだわりはない」
女「好きな女性のタイプは?」
男「特にこだわりはない」
女「そんなんじゃ根無し草になってしまいますよ」
男「根のない草などあるのか?」
女「ことわざですよ」
男「それくらい知ってる」
女「初恋の人の性格は?」
男「根掘り葉掘り聞くな」
女「育ちがよくて、性格がおしとやかな女の子に欠けてるものってなんだと思います?」
男「どうした急に」
女「自己分析です。就活生の間で流行ってます」
男「おしとやかか…。自己分析をする前に自己分析が必要なようだ」
女「育ちの良い女性はモテますか?近寄りがたいにしろ、人気はありますか?」
男「モテるだろう」
女「えへへ」
男「だが安心感に欠けている」
女「安心感?」
男「その子から恵まれた環境を取り除いたら、その子はどう変わるのかという不安がある」
女「ふむふむ」
男「薄手の服を着ているか、着物を着ているかの違いのようなものだ。薄手でスタイルが良い女は安心だ」
女「着物の方が脱いだ時の姿が楽しみじゃありません?」
男「…………」
女「共感しました!?今共感してましたよね!!?」
男「う、うるさい」
女「じゃあやっぱり薄手のバスタオルが一枚の方が?」
男「このメスワニはやっかいだな…」
女「安心感ですか」
男「どうした」
女「安心感が大切なんだなって」
男「温泉でもそうだろう。ゆったり浸かっても許される空間を求める。ハラハラドキドキなんて誰も求めちゃいない」
女「女の子はハラハラドキドキしたまま安心したいんですよ」
男「ジェットコースターに乗りながら寝ていられるか」
女「お父さんにおんぶしてもらいながらお化け屋敷を歩くのは思い出に残りますよ」
男「母親と観覧車に乗るのもわるくないだろ」
女「そんな思い出があるんですか?」
男「一切ないから憧れていた」
女「私は親との思い出ばかりです」
男「そうか」
女「あなたは?」
男「何の思い出もない」
女「どんな時間を過ごしていたんですか?」
男「俺の人生なんか聞いてもろくな哲学は得られないぞ」
女「押して駄目なら引いてみろって言うじゃないですか」
男「それが何だ?」
女「今の自分が不幸だと思ってるなら、今までの自分がしてきたことと逆のことをすればいいんじゃないかと思うんです」
女「あなたと私は見るからに真逆の生き方をしていそうじゃないですか。だから、あなたの真似をすれば、私の人生きっとひっくり返るって」
男「……くく」
男「…………ふふ。最悪だな俺は。しかし」
男「ははは!笑いが堪えられんな!そうか、俺の人生を真似してみるか!手始めに刺青でも入れたらどうだ?」
女「……気に障ったならそう言ってください」
男「気に入ったんだよ。思っていた以上に図太いやつかもしれないな、お前は。ふっふっふ」
男「刺青を入れることになった経緯くらいなら教えてやろう」
女「なんだかドキドキイライラしますが……ありがたいです」
「殺してやったらどうだ」
駐車場で倒れ込んでいる俺に、話しかける男の声がした。
こういうやつらは今までにもいた。明らかに人生に敗亡しているような俺に、興味本位で話しかけて来る。
言葉だけは心配そうにしながらも、言葉の調子や顔の表情は決まってにやついている。
群れているから強気なのだろう。
3人、4人、多いときには8人近い時もあった。
弱ければ弱いほど力を高めるために大人数で群れている。
だから、群れの力は、結局どこも同じなのだ。
俺は憎しみを込めながら、いつものように返答をする。
「お前らこそ殺すぞ」
体中の痛みを堪えながら俺は立ち上がる。
中学の後半には、既に他人を見上げることが滅多にないほど俺の背は高くなっていた。
体格にも恵まれ、同級生との喧嘩では負けた記憶はない。
ふらふらになりながらも、こちらの立った姿を見た相手はひるんで去っていくものだった。
時間の流れがわからない。
痛覚と麻痺が入り混じった感覚ばかり流れる。
しかし、それでも相手が去る気配だけは感じなかった。
「人を殺すときくらい、相手の目を見たらどうだ」
俺は顔をあげた。
相手は一人だった。
いい年したおっさんだ。身体つきは良いが身長は小さい。
自分の息子にでも姿を重ねて俺を気にかけたのだろうか。
男「捻り潰すぞ……」
俺は相手の目を見ないように気をつけながら、脅すように言った。
ナイフや、銃でも持っていない限り、普通の喧嘩で俺に勝てるようなやつはいない。
あるいは、母の依存している義父でも無い限りは。
「背の低いやつと、体格の悪そうな奴には喧嘩を売るんじゃねぇ」
「弱いから、ナイフと銃を持っているやつが多いんだ」
肩を掴まれたと気づいた後に、一瞬心地の良い背中の感覚があった。
そして、俺は地面に叩きつけられた。
頭の中に広がるチカチカとした星々と、夜空に浮かぶ現実の星々が交差し、視界が混乱した。
額に冷たい感触が触れた。
「ほらな、俺はどっちも持っている」
落ち着いて、視界を認識すると、拳銃のようなものと、ナイフと、俺を投げ飛ばした親父の目が見えた。
途端に汗が吹き出てきた。
男「はぁ…はぁ…」
「さっきまでの威勢はどうしたんだ」
男「や、やめてくれ…」
「死にたくないか?」
男「し、死んでもいい……」
「はぁ?」
男「み、見ないでくれ」
男「頼むから、俺の目を、見ないでくれ……」
俺は家には帰らなくなった。
変わり果てた母と、母を変えた男の住む家に帰っても、俺は二人の世の中への恨みを一身に浴びるだけだった。
俺は母を愛していたし、本当の父親も愛していた。
しかし、母は俺の実父を愛してはおらず、実父そっくりの目を持つ俺のことも、もう愛してはくれない。
小学生の時には既にヒビが入りつつあった関係は、俺が中学に上がる頃には決定的に壊れてしまった。
実父は家を離れてからも、時々は俺に会いに来てくれていた。
しかし、母に新しい男ができてから間もなく、二度と会いにきてくれることはなかった。
俺は何も知らなかったが、ある一点に関することは何もかもを悟らされた。
今この世界にはもう、自分を愛してくれる人間はいないのだということを。
「私は、正しい」
俺の頭を両手で押さえつけて、目をじっと見据えながら、母はこの言葉を俺に植え付けていた。
物心が付く前から行っていた教育らしい。
功を奏し、俺の心は母の物になった。
俺は母親に愛されるためではなく、母親を愛するために生まれてきた男の一人になった。
俺は主張をすることをしなかった。
じっと耐えることができる男になった。
小学生にあがっても俺は寝小便をしていたし、学校では落ち着きがないと言われた。
そのことで母親に暴言を吐かれ、暴力を振るわれても、一切何も言わず、黙って愛のない鞭を受け容れ続けてきた。
俺にとって、母は正しい人なのだから。
母は容姿の美しい人だった。
学業面に関しても昔は賢い人であったそうだ。
そして、傷跡の多くある人だった。
自分でも傷をつけ、男からも傷をつけられていたらしい。
母と交際しても、唯一傷をつけたことがない男が実父だった。
大人しい人だった。
その実父が、ついに、一度だけ母に手をあげたことがあった。
夜遅くに帰宅した実父は、ぼこぼこにされている俺を見て、母に痛みの意味を少しでも教えようとしたらしい。
母は一瞬呆然としたあと、これまで見たことがない様な恐ろしい形相を浮かべ、激しい自傷行為に及んだ。
俺は、安心できる場所というものをこの日完全に失ってしまった。
男「それで、どういうわけか、俺は実父に暴力をふるってしまったんです」
「馬鹿かてめーは」
男「はい。馬鹿です」
「母親と一緒だな」
男「いいえ。母は正しい人ですが、私は全てが間違っています」
「糞ガキが」
学校に通わなくなってからどれだけ経っただろう。
虐待を疑って、学校の教師や、スーツ姿の大人が家に何度か訪れたことがあった。
母は、美しく、学歴や職歴というものも立派だったらしく、それでいて相手を同情させる雰囲気を醸し出す才能があった。
母は手に入れたものに感謝をすることはなくて、手に入れられなかったものに対していつも恨んでいた。
母に従っていた俺は、ありがとうの一言を貰うことはなかったものの、恨まれてはいなかった。
今は、家を飛び出して、愛すべき母親の奴隷になることをやめてしまった。
男「母親に愛されるためだけに生きていたんです。何のために生きていいのかわからない」
「でもこうやって逃げ出してんじゃねーか」
男「それはあんたが」
「あんたってのはやめろ。親父さんでいい」
男「……」
親父「俺もお前のことは男と呼ぶ。せっかく名前を教えあった仲なんだ」
親父「これからは、俺との繋がりを大切にして生きていけばいいんだよ」
俺は忘れていた。
母親が何度も暴力を振るう男を引き寄せていたことを。
自分はその母親の息子だということを。
親父「お前のような倅が欲しかったんだ。これから、よろしくな」
今でこそ思う。
そこに、愛などなかった。
親父「肩まで浸かれ」
男「はい……」
親父「100数えるまで出るなよ」
男「はい……」
親父「がはは。いい景色だねぇ。極楽極楽」
男「はぁ……はぁ……」
親父さんは温泉に入るのが好きだった。
足にも背中にも、刺青を入れていた。
禁止されていようが、周りに客がいようが、お構いもなく温泉に入りにいった。
客に通報されて怒り狂ったのを止めたことも何度かあった。
ただでさえのぼせている俺に、喧嘩の強い親父さんをとめられるわけもなく、だいたい俺が倒れ込んで事態を収束させるよいうことが多かったが。
親父「お前、女はいるのか」
男「いいえ」
親父「もしかしてあっちか?」
男「いいえ」
親父「何故つくらない?」
男「いや……」
親父「どうした?」
男「熱いっすね、ここ」
親父「誤魔化すんじゃねーよ」
俺は湯船に浸かることが苦手だった。
熱に弱い体質だった。
真夏に外を歩いている分には耐えられるのだが。
熱の篭もった車で運転されたら数十分もしないうちに必ず戻し(母に叩かれた)、体育館で校長先生の話が長引いた時に立ちくらみをして倒れたことも何度かあった(保健室の先生には殴られなかった)。
病気というわけではなく、単に、極度に苦手なのだった。
強い体躯に生まれた代償なのだろうと思っていた。
それならせめて家庭環境の代償に大きな幸福の1つや2つを与えてくれとも思ったが。
風呂好きな親父さんがあがるまでは、俺はあがることができなかった。
母親代わりの父親という存在を前にして、俺はまたしても、"耐える"という手段で愛情を得ようとするやり方しかわからなかったのだ。
親父「情けねぇやつだなぁ。だったら、今夜はお前に女を教えてやろう」
男「いいですよ。お金持ってないですし」
親父「おめぇは払わなくていいんだよ」
俺はこんな形で女を知りたくなどなかった。
"初めては、好きな人と"
そんなセリフを、この俺が、この親父さんに到底言えるわけもなく。
とっくに100秒以上湯に浸かったあとのサウナにも、初めて味わう女の艶めかしい男として最高の感触にも、じっと耐え続けたのだった。
その人が身内にあたる態度を見よ。それがやがてあなたに接する態度である。
どこで聞いた言葉だったか忘れてしまったが。
多分、実父が教えてくれたのだとは思うが。
俺はこの言葉の意味をもう少し考えるべきだった。
親父「口約束は死守するんだったよな」
親父はヤクザとも、暴力団ともわからない存在で、どちらかというと会社の経営者に近かったのかもしれない。
事務所の隣にある小屋に俺は寝泊まりをさせて貰っていた。
事務所には定期的に、スーツ姿の険しい顔付きの大人の男たちが出入りをしていた。
親父は自分に従順でない者は許さなかった。
努力や誠意は、過程ではなく結果で判断する人だった。
親父「ただで飯を食うつもりなら、死んでもらうからな」
親父にぼこぼこにされた大人が倒れていた。
周囲にいる男たちは見向きもしなかった。
俺は倒れている男をただ見ていることしかしなかった。
親父「大丈夫。お前は俺の倅だからな」
俺が恐怖で立ちすくんでいると勘違いしたのか、親父は俺の背中をなでてくれた。
しかし、俺は倒れている男を見てこう思っていた。
これが、今までの俺の姿だったのかと。
男「親父さん」
親父「なんだ?」
男「明日、殺してきます」
俺を痛みつけた義父に、同じ目を遭わせてやろうと思った。
視界の端に見えた親父の目が、妙に輝いたと感じたのは、気のせいではなかったと思う。
「なんだよ」
数カ月ぶりに帰ってきた俺を見た義父は、怒りの表情を浮かべていた。
ただただ俺の存在が迷惑だといわんばかりだった。
母の姿はなかった。こいつを養うために、仕事に行っている最中なのだろう。
俺は、このあとの人生なんてどうでもいいから、全ての憎しみを目の前の男にぶつけたいと願った。
男「お前を殺しに来たんだよ」
母と義父からは殴られ、蹴られる一方だった。
生まれてからずっと正しい存在であった母に、反抗することなんて考えられなかった。
男「お前を、殺しに来た」
相手の目もろくに見ずに、俺はもう一度告げた。
そして、今まで抑えつけていた才能を、開花させた。
「……ぐ、ぐぁああああああ!!!!」
俺は暴力に関して、天賦の才を与えられていた。
実父も大人しい人だったが、体格は他のどんな大人よりも恵まれていた。
そこに今は、母親によって後天的に思春期に培われた、暴力に対する嫌悪感の無さが加わっていた。
暴力は正しい手段だと、最高の教育を受けていたようなものだった。
「……ひぃ。……ひぃ。…………うぎゃああ!!!!」
義父の身体はおもちゃのようにぐにゃぐにゃと曲げることができた。
義父の身体にはスタンプを押すように簡単に痣の跡をつけることができた。
服が張り裂けると、身体に刺青が彫られているのが見えた。
親父さんと同じことをこの男がしているのが許せなくなり、怒りの感情がさらに沸いた。
俺は容赦なく、何度も何度も、この男に暴力を振るった。
男「ただいま。お土産です」
厚い紙幣を手に持つ俺を見て親父は驚いていた。
義父を脅して家にある現金と、銀行への預金を引き出すためのカードとパスワードを教えて貰った。
手切れ金だと伝えて俺は家を出た。
母が一生懸命働いている割には、期待したほどの額ではなかったが。
親父「ぶんどってこれたのか?傷1つ負わずに」
男「配られたカードが強かった」
親父は疑問の表情を浮かべた。
男「喧嘩の仕方とか、そんなもの、知らなかった。でも、俺は暴力のやり方に関しては考える必要がなかった。適当にやっても、力の強さが全てを抑えつけてくれる」
男「勝ててしまうんですよ。勝ち方がわからなくとも」
男「俺は確信したんです。俺には天賦の、暴力の才能がある」
男「この力が役立つ場所であれば。俺をここで働かせて下さい」
親父は驚いた表情をしたあと、満面の笑みを浮かべた。
親父「そうか!そうか!!」
親父「やってくれるか!我が息子よ!」
ずっと待っていたと、言わんばかりに、俺の背中を何度も叩いた。
親父「俺の隣にいてくれるだけでいい」
男「ちゃんと戦いますよ」
親父「俺がいいと言うまで誰も殴るな」
仕事をする上で1つ学んだことがある。
暴力の才能は2つに分かれるということだ。
一つは、そのまま暴力を振るう力に長けていること。
親父「俺は強いだろ?万全な状態のお前とやっても、まぁ勝てるだろうな。身体つきだけで喧嘩が決まるなら、空手家が猛牛を素手で倒せたりはしなかっただろう」
親父「でもな、俺はなめられやすいんだ。身長があまり高くないからな」
もう一つは、暴力を振るう力に長けていると相手に見せることだ。
親父「中身が弱くても、でかいだけで相手がひるむんならそれでいいんだ。喧嘩が強そうに見える1番の長所はな、喧嘩をせずに済むところなんだよ」
親父がビルの中に入り込むと、中にいた男たちが一斉に振り向き、親父を、そして俺を見た。
代表者と思われる男と親父が交渉をはじめた。
代表者は俺のことをちらちらと見てきたので、俺は視線を反らした。
しばらし経った後に他の従業員を呼び、細長い紙に何かを書かせ、ハンコを押した後、親父に手渡した。
事務所から出ると親父は説明した。
親父「こいつは手形っていうんだ。こいつを受け取る権利を、うちのお客さんに与えさせたんだ。まぁ、取り立ての代行みたいなものだ」
そして親父はガハハと大きな声で笑った。
親父「新人研修ってやつだなこれは。オンザジョブトレーニングってやつだ。どうだ、簿記の勉強でもするか?役に立つぞ?」
親父はまた一段と愉快そうに笑った。
親父の言うことはよくわからなかったものの、ただそこにいるだけで役に立てているという実感が、今までの人生とはあまりにも正反対で、俺は嬉しく思ってしまった。
女「…………あの」
男「どうした?」
女「場違いな発言をしてもいいですか?」
男「どうぞ」
女「トイレに行きたいです」
男「わははは!!」
女「わ、笑わないでくださいよ」
男「何を言うかとおもったら。これだけお前とは正反対の人生の話をしていて。虐待への同情やら、暴力への抵抗やら、何か言ってくるのかと思ったら、トイレか。ふふふ」
女「だから言ったじゃないですか!」
男「そこですればいいだろう。見ないでやるから」
女「何言ってるんですか!ここはトイレじゃありません!!それこそ場違いです!!」
男「俺も今日はもうのぼせた。こんなに長く浸かっていたのは親父さんと入っていた時以来だ。あがろう」ザバァ
女「私も上がります。今日は酔ってませんか?」ザバァ
男「少しな。だが耐えてる。耐えるのは得意なんだ」
女「……私も尿意くらい耐えられればよかったのですが。また明日も話してくれますか?」
男「それくらいかまわん。耐えるのは身体によくないぞ。たとえ温泉に浸かっててもな」
女「あまり無理しないでくださいね。それではまた、早朝」
男「また早朝」
女「おっはー」
男「おっはー」
女「おや、今日はノリましたね」
男「疲れているからな」
女「お仕事ですか?」
男「そんなところだ」
女「疲れているからノリノリなんて変ですね」
男「空元気というやつだ」
女「元気な時よりも元気じゃない時の方が元気に見えるなんて」
男「思いっきり元気なふりをして自分を慰めたいのかもしれん」
女「今日はゆっくり寝ますか?」
男「寝たまま溺れてしまう可能性もある」
女「私が助けてあげますよ。あなたよりのぼせるの遅いですから」
男「そうだといいんだがな」
女「私も寝たらどうしましょう」
男「その時は仲良く三途の川を渡ろう」
女「三途の川でも寝てしまったら?」
男「どうなるんだろうな」
女「そうならないために、あなたが少しでも寝るそぶりを見せたら叩き起こします」
男「それは頼もしい」
男「昨日の話の続きをしてやろう」
女「ありがたいです。ありがたいですが、燃え尽きる前のろうそくみたいで心配です」
男「そこまで疲れてない。タバコの先端についている火に近い。まだまだ大丈夫だ」
女「喫煙者ですか?」
男「違うが」
女「嬉しいです。そうだと思ってたので」
男「喫煙者が苦手なのか?」
女「あなたの寿命が延びたからです」
男「吸おうが吸うまいが変わらんと思うがな」
女「ちゃんと統計データがあるんですよ」
男「人生は何が起こるかわからんからな」
女「はいはい。ところで昨日の話の続きはまだですか?あなたのぼせるの早いんですから。さぁーはやくはやく」
男「はぁ…、こちらの空元気も空になるような元気さだ……」
女「あっ、また幸せが1つ去りました」
男「追いうちをかけるな」
女「さあのぼせないうちに」
男「そうだな。お前がトイレに駆け込まないうちにな」
女「と、トイレは生理現象だからしょうがないです」
男「のぼせるのだって生理現象だ」
女「そういえば!!」
男「どうした」
女「私、生まれてから、一度ものぼせたことがないです!!」
男「それがどうした」
女「すごくないですか?のぼせるということは誰もが経験していて、朝風呂も誰もが経験してるのに、朝にのぼせた人って滅多にいないんじゃないでしょうか」
男「女の朝風呂は朝シャンとかいうやつだろう。夜に張った湯は朝には冷えている」
女「ああ、そうですね。そもそも、朝にゆっくり湯船に浸かる時間はないですし」
男「今はあるじゃないか。新幹線で通学するほどの生活をしていながら朝に湯に浸かるゆとりがある」
女「それでも時間は少し意識してますけどね。ああ、どうして朝ってこんなに慌ただしいんでしょうね。夜の1時間と、朝の1時間を比較してみて下さい」
女「夜の五分なんて潮干狩りみたいにそこらじゅうにごろごろころがってるじゃないですか。20時に暇になったとして、テレビを見たり、SNSで友達と絡んだりして、ごろごろのんびりして21時になります」
女「それに比べて朝の五分はスーパーでのつかみ取りタイムです。次々に奪われていきます。目覚ましがジリジリ鳴って、ぐずぐずしてるうちに意識のないまま15分や30分過ぎてます。お母さんが怒ってきてベッドから飛び起きて、急いで朝ごはんを食べて、着替えて、化粧して電車までダッシュしてあっという間に1時間なんて吹き飛んでしまいます」
男「トイレを外すなよ。スーパーの掴み取りを例に出すなら家族と奪い合いになるくだりは必要だろ」
女「乙女の恥じらいです。それにうちにはトイレ複数ありますから」
男「それにしてもフェアな比較ではないだろう。休日の朝の1時間はそれなりにゆったりしているはずだ。まぁ、休日ならそもそも朝は寝ているがな」
男「朝は何時までに寝なければならないという期限があるのに対して、夜は何時までに寝なければならないという期限がないからな。それで無限に思えた夜の時間も、無駄なことをしているうちにあっという間に過ぎてはしまうが」
女「夜の自由時間も確かにあっという間ですけど、朝に比べたら何ともないですよ。夜が砂漠だとしたら、朝は砂場です。どちらも音速で駆け抜けてしまうので短く感じてしまいますが」
男「それなら時間がなくて電車の中で化粧をする女も仕方ない気がするな」
女「それは別ですよ。それを認めたら男性が電車の中で髭をそっていても私達文句言えなくなっちゃいます」
男「ひげは剃れば落ちるが化粧は塗るだけだろう」
女「ちっともわかってないですねぇ。化粧は女性の本能なんですよ。避難所にいる女性が欲しい物についてテレビで取り上げられていたんですが、食べ物など必要な物が確保された後では化粧が女性の最大の要求になっていたんです」
男「朝につけて夜に落とすのにな」
女「仕方なくマスクを着けるんです。すっぴんを見られたくないから」
男「でもお前もここに来るまで化粧してないんだろう」
女「これだけ髪が長いんですもの。それにあなたとしか会いませんし」
男「ああーそうかよ」
女「おや、ちょっと怒りました?怒ってくれました?」
男「化粧が女性の本能なのはわかった」
女「無視ですか」
男「けれど睡眠も人間の本能で、電車の中で寝ることは許されてるじゃないか」
女「いいじゃないですか。朝はただでさえ眠いのに、座って揺られてると眠くなっちゃいますよ」
男「……何の話をしていたんだったか」
女「電車の中で髭を剃るのと化粧をするのは同じだって話です」
女「化粧は塗りたくる行為でもなければ、仮面をつける行為でもありません。汚い自分を削ぎ落として本来の自分を取り戻す行為です。化粧をして自然と話している女性が偽物で、すっぴんで不自然に俯いている女性が本物だって言われたら違和感あるでしょう?」
女「化粧をすることはお風呂で垢を落とす行為と一緒なんです。旦那さんと夜の営みをする時に灯りをつけるのには応じるのに、お風呂に一緒に入るのは恥ずかしくてできないという女性がいたら、その人は決して電車の中でお化粧をする人ではないでしょう。はぁ、立派な女性とはお風呂プレイができないという男性のジレンマが生じますね」
男「混浴では人前で垢を落としているがそれは」
女「マナーの問題ですよ!当たり前じゃないですか!」
男「お前の主張についていくのは掴み取りに参加するくらいに大変だ……」
男「マナーの問題ですよ!!」
親父「だから言ってるだろ。垢を落とすのと何が違うってんだ」
男「全然違いますって!」
湯船に浸かりながら、俺は珍しく親父さんと長々口論をしていた。
親父さんは、身体を洗っている時に小便をしょっちゅうしていた。
俺はそれがたまらなく嫌だった。
親父さんは温泉という場所を、神聖な空間だとよく言っていた。
激しい刺青を入れているにも関わらず、刺青禁止の銭湯に堂々と入るし、騒いでいる学生がいたら脅して退出させていた。一滴も見ずを浴びないまま追い出された者もいる(たいがいそういう連中が腹いせに通報する)。
筋を通すなら、出来る限りのマナーは守って貰いたかった。
社会に対して不平不満を言いながらその社会の癌になっているような義父と重なった。
従順であることを愛情表現にしていた俺が、珍しく反発する時であった。
男「マナーを守れない人間は、どうしてその場にいちゃいけないのか考えたことがあるか」
男「周りの人に迷惑をかけるからでしょう」
親父「周りの人に迷惑をかけてきた人間が、その場にいてもいいと思うか?」
男「すいません、どういう意味ですか」
親父「温泉でも、遊園地でも、映画館でもどこでもいい。普段は大人しいガキのくせに、そういうところに行って舞い上がってはしゃいだり道端にゴミを捨てたりするような人間と、普段は物凄い悪さをしているのにそういう場所に行くときはマナーを守る人間」
親父「どっちがそこにいるにふさわしいと思う?」
男「その場所でマナーを守る人間でしょう。その場所で正しいかどうかだけですよ。親父さんは、裏でも悪さをしているし、マナーも守れていません」
言い過ぎたと思った。
"お前も裏では悪さをしているのに温泉に入っているのだから、お互い様だろう"
こういう話に持っていきたかったに違いない。
長く湯に浸かってのぼせすぎていた。俺は正反対の主張をしてしまった。
自分を悪い人間だと思っている人が、自慢げに自分の悪さを自慢をしていたとして。
格下の人間がその人を悪い人間だと言ってはいけない。
お代官様と越後屋のように、上下関係の区別がはっきりついていて、お互いが同じことをしているような、絶妙なバランスが取れていない限り。
自分を馬鹿だと笑いながら言ってる人への、自分をブスだと笑いながら言ってる人への、タブーの言葉が馬鹿とブスであるように。
悪人に対して、悪人だと言ってはいけなかったのだ。
親父「……居場所をつくってくれた恩人に、悪者だってか」
周囲に他の客がいてもがいても同じことをされていただろう。
頭を掴まれ水の中に突っ込まされた。
息を吸う間もなかった。
ごぼごぼとあぶくがたつ水中からでさえ、頭上で親が怒鳴っているのが伝わってきた。
一緒に過ごす時間が経つにつれ、段々と自分に接する時の態度が厳しくなってきた。
それは社会で生きていく上では、裏の人間も、表の人間も同じらしい。
温泉でさえ長く浸かっていると身体を熱して追い出そうとしてくるのだから。
いつまでも役に立たずにぬるま湯に浸かっている人間は、社会が追い打ちをかけてくる。
ただ、うわさで聞くには。
家族という存在だけは、最初こそ厳しいものの、時が経つにつれてやさしい部分だけを見せてくれるようになるらしい。
俺は一度も味わったことはないのだが。
水中から引き上げられた。
親父はまだ鬼のような剣幕で怒っていた。
俺は憎しみに駆られていた。
本気を出せば、こいつを溺死させることもできるかもしれないと想像した。
俺は怒りを堪えた。
そのまま湯からあがり、無言で身体を拭き、店を出る前だった
親父さんが黙ってコーヒー牛乳を奢ってくれた。
親父「さっきは悪かったな」
親父さんは謝るのが早かった。
俺は、馬鹿らしいことに、罪悪感を感じた。
この人を傷つけてしまったな、と。
見ず知らずの他人である俺をあの家から救い出して、しばらく寝場所もタダ飯も与えてくれたこの人に、怒りの感情をわき上がらせてしまったなと。
俺は、俗に言う、ちょろい人間だったのだ。
女「私には全然ガードが硬いですけどね」
男「何のことだ」
女「人は何故温泉に行くのでしょうね。憑き物でも落とすのでしょうか」
男「本屋でトイレに行きたくなるし、お風呂でおしっこしたくなるだろ?人生、垂れ流しだ」
女「それ心理学の授業で聞きました。青木まりこ現象でしょう?」
男「なんだそれは」
女「書店に足を運んだ際に便意に襲われる現象を示す用語です。青木まりこというペンネームで、とある雑誌に質問を投稿した女性がいたそうです。内容は、書店を訪れると便意に襲われるということについて」
女「紙がトイレットペーパーを彷彿とさせるとか、いろんな説があるそうですが、これが原因だと断定できる理由はまだないそうです」
女「パブロフの犬という言葉もあわせて聞きました。これは経験による学習が引き起こす条件反射を示す用語です。梅干しを食べたことがない人が梅干しを見てもなんともならないけれど、梅干しを食べたことがある人が梅干しを見ると、ヨダレが出てくるというあれです」
女「その親父さんが温泉に行った時に尿意に襲われるのは、家庭でお風呂にはいっているときに排尿をしていたからではないでしょうか」
男「風呂とトイレを一緒にするなんて言語道断だな。トイレで水浴びをしているのと何ら変わらん」
女「あら、意外とそこら辺は厳しいんですね」
男「だから俺は浴室で伴侶を求めるようなことはしないだろう」
女「さぁ、どうだか」
男「のぼせた。あがる」ザバァ
女「私はもうちょっと浸かってます。朝にも関わらず時間に余裕がある女なので」
男「好きにしろ」
女「それではまた早朝」
男「また早朝」
男「おはよう」
女「おはようございます」
男「今日は厚いな」
女「真夏ですもの」
男「温泉に入っても汗がでてくるだけだぞ」
女「出てもいいじゃないですか」
男「そうだな」
女「夏の温泉は好きですか?」
男「親父さんにも聞かれたな」
女「なんて答えました?」
男「のぼせやすいんで、ちょっと熱いとは思います」
女「ぐふふ。それでも好きなんじゃろ」
男「喋り方が似ていない」
女「すぐにのぼせちゃいますよね」
男「ああ。だが、親父さんはなかなかあがらないだろう?だから耐えるのに大変だった」
女「今すぐあがるのはその反動が来たんですかね」
男「さぁな」
女「でも、やっぱり冬に入る温泉にはかないませんよね」
女「夏のクーラー。冬のコタツ。夏のプール。冬の温泉。夏のアイス。冬のおでん」
女「人はないものねだりの生き物だって証ですね」
男「隣の芝生は青く見える。他人の飯は白い。隣の花は赤い」
女「隣のブツはでかく見える。他人の汁は白い」
男「慎め」
女「つい女子大のノリが」
女「無いものねだりの人間であるはずの私たちは、夏に温泉に来ていますね」
男「冬にプールに来ているようなものかもな。こういううだるような暑さの日には温泉好きは困ってしまうな」
女「本物の温泉好きなら天候に左右されませんよ。無いものねだりの人が欲しがる理由は、それを持っていないからです。本当に好きだという人は、それを持っていても欲しがり続けます」
女「夏に温泉に入るというのは、結婚した伴侶を大切にし続けるのと一緒です。釣った魚に餌をやり続ける立派な人格者の証です。私たちはこうして夏に温泉に来ることで、人格者になっているんですよ」
男「のぼせたんならあがっていいぞ」
女「シラフです」
男「シラフという表現が適切なのか」
女「風呂上がりの冷たい牛乳は最高ですけどね」
男「ここには置いてないな」
女「そこもまたいいですよね」
男「お嬢さんのくせにほしがらないやつだ」
女「与えられすぎていたのかもしれません」
男「見に余っているわけか」
女「ただ、私自身だって不安に思いますよ。与えられなくなったら、私は私自身を支えられないだろうって」
女「今私を支えているのは親の経済力と愛情だけです」
男「充分に見えるんだが」
女「私もそう思います」
男「めでたしめでたしだな」
女「冬の温泉までまだ半年後ありますね」
男「その頃には街中の銭湯の修理も終わっているだろう」
女「それはもうすぐ……」
男「ん?」
女「そうですね」
男「そうだな」
女「…………」
男「…………」
女「夏のアイス、夏のスイカ、夏のクーラー」
男「それが?」
女「やっぱり好きです」
女「私の仲の良い友達にもいるんですよ」
女「こんない暑い日は熱々のラーメンを食うに限る!!とか、寒い日にあえてアイスを買ったりするのが」
男「冬をコンセプトにしてる氷菓子があるくらいだからな」
女「暑いから熱々の物を食べるっていうのを聞き流すじゃないですか。そして、帰宅して、夕飯食べてテレビ見て、お布団にはいってるときに疑問がわくんですよ」
女「暑いからこそ熱々って意味わかんなくない!!!??」
男「わっ、驚かすな」
女「いいじゃないですか無いものねだりでも!!」
女「だから私はあなたの話に興味があるんです!!医者の息子の鼻もちならない話なんか聞きたくないんです!!」
男「わかったから落ち着け」
女「これが!!これが落ち着いていられます……」シュン…
男「わっ、急に落ち着くな」
女「さぁのぼせないうちに前の話の続きを。あなたがのぼせて気絶して、私もねこまないうちに」
男「三途の川をわたらんうちにか」
女「真夏に入る三途の川は気持ちいのかもしれないですね」
男「意外と熱いのかもしれん」
女「浸かったことあります?」
男「冷たかった記憶がある」
女「夏に入る水辺より、冬に入る温泉のほうが好きです」
男「ここではないどこかを求める旅好きのお前なら、きっと気に入る場所があるぞ」
女「どこでしょう」
男「北海道にある屈斜路湖露天風呂という場所だ」
女「くっしゃろころてんぶろ?」
男「通称古丹温泉だ」
女「こたんおんせん?」
男「奇跡なんだ、ここは」
男「岩に囲まれたスペースに小さな温泉がある。その眼前には湖の光景が広がっていて」
男「一面は朝日に照らされて輝いていてな。湖の上には数多の白鳥が見える」
男「白鳥は人間を畏れておらず、近くで鳴いている。白鳥独特の、あの高い鳴き声で」
男「異空間を思わせるようなその場所は、まるで」
親父「天国のようだった」
親父さんは、うっとりとした表情を浮かべていた。
親父「何もかもを失っていた時だった。俺は疲れ果てていた。馴染みもない冬国に命からがらたどり着き、手を差し伸べてくれる人もいるわけもなく」
親父「手持ちの金に余裕はあったが、借金は遥かに上回っていた。追い詰められた頭では、このお金で贅沢をしつくして、このままこの寒さの中死んでしまおうかと考えていた」
親父「目的地もないのにバスに乗っている間に、色々なことが頭をよぎった。俺はどうしてこんな目に遭っているんだろうと」
親父「父親が犯罪者だったせいなのか。母親が身体を売っていたせいなのか。そもそも、俺が生まれたこと自体が間違いだったのか」
親父「俺は俺なりに知恵を絞って生きてきた。一時期はうまくいっていた。俺を慕ってくれるようなやつらも現れた」
親父「それが、金を失った今ではこのざまだと」
親父「冬の広い寂れた光景をいつまでも眺め続けていた。これからどこに行くのだとしても、俺という人間は変わらない。だったら行き着く先は、全て絶望なのだろうと」
親父「小さな民宿に泊まった。広さは四畳で、畳は全てかびていた。俺以外に宿泊者は誰もいなかった」
親父「俺はそこで数日間過ごした。好きな時間に起きて、酒を買って飲んで、寝て。ひたすらそれの繰り返しだった」
親父「所持金にも余裕がなくなってきた。俺は支払いもせずに黙って民宿を出た。どこまでも世界に嫌われてやろうと思った」
親父「今が朝方なのか、夕方なのか、どちらかわからなかった。日が登ろうとしているのか沈もうとしているのかの区別がつかない」
親父「外は誰も歩いていなしし、寒さは変わらないし。腕時計なんてものも持っていない。そもそも、時間を気にする必要がなかった」
親父「ずっと歩いていた。多分、自殺しようとしていたんだろう」
親父「足のつま先の感覚も、寒さが痛さに変わり、やがて麻痺して気にもならなくなって」
親父「死ぬことだけを考えている頭で、ふと、お湯がほしいと思った」
親父「お湯。お湯。数か月前まで夜の街で贅沢三昧金をばらまいていた俺が、死の間際に求めていたものはそれだけだったんだ」
親父「そしてたどり着いた」
親父「こんなところに温泉があるのかと、目を疑ったよ。幻覚でも見てるんじゃないかって」
親父「もしも浸かって冷水だったら、俺はそのまま死んでしまおうと思った。そこで力尽きてしまうしかないと思った」
親父「無人の自然の中を、俺は裸になって、身体もながさずに水の中に入り込んだ」
親父「蘇ったよ。この時間だけをいつまでも抱きしめていたいと思った。俺は、皮肉にも、このまま死んでしまいたいとさえ思った。この最高の瞬間を最後にしたいとな」
親父「人間から忌み嫌われた俺の周りには白鳥がいた。遠慮もせずに甲高い声で泣いていた。白鳥でも冬の寒さを感じることがあるんだろうかと気になった。こいつらもここで湯の恩恵を受けに来ているのかと思うと、俺はふとおかしくなって、笑いだしてしまった」
親父「久しぶりに笑った。大声でな。白鳥が何羽かバタバタと飛んでいった。構わず俺は大声で笑い続けた」
親父「その時だったよ」
「そんなにおかしい景色ですか」
親父「俺は笑うのをやめて、凍りついた表情のまま振り返った」
親父「陽の光を浴びた女が、一糸まとわず立っていた」
親父「こんなに美しい女がいるのかと驚いた。幻想的な光景に、思わず見惚れてしまった」
親父「正気を取り戻して、俺を慌てた。女は静かに言った。ここは女湯ですよと」
親父「大きな岩で風呂は仕切られていた。そんなのを気にする余裕もなかった俺は間違えてはいってしまったらしい」
親父「柄にもなく謝ったあと飛び出ていったよ。空気の寒さに震えながら、股間をぶらぶらさせながら、滑稽に男湯だと思わしきところに入りにいった
親父「さきほどの美しさを整理する時間が欲しかった。湯に浸かりながら、白鳥の騒々しい鳴き声を聴きながら、俺は人間の心を取り戻した気がしていた」
親父「話しかけてみたいと思った。だが、なんと声をかけていいかわからなかった」
親父「しばらく身体を温めているうちに、俺は待ち伏せようと思いついて、脱衣場に向かった。服は脱ぎ散らかしたままだった。バスタオルなんかないから、上着で身体を拭いた」
親父「髪の毛は濡れたまま。かける言葉も思い浮かばないまま、女が出てくるのを、そのまま待ち続けた」
親父「しかし、いくら待てども女は出てこなかった。相当な長湯なのか、それとものぼせやすくてすぐに上がってしまったのか」
親父「寒さに耐えきれずに俺はその場所を離れた。有名な観光地らしく、バスに乗った人が降りてくるのが見えた。俺は宿を探しはじめた」
親父「もう一度あの女に会いたいと思った」
親父「次の日、俺は痛い目に遭った」
親父「再びあの温泉に、同じ時間帯に来ていた。俺が訪れていたのは、早朝5時過ぎだった」
親父「俺は湯に浸かり続けた。誰か人の気配がするのを待った。まだバスが来るような時間帯じゃない。女が地元民ならば、観光客のこないこの時間帯に来ているんじゃないかと思った」
親父「隣の湯に人が来る気配がしたら、今日こそは声をかけようと思った。あの幻想的な天女の、落ち着いた声をもう一度聴きたいと願った」
親父「湯の中で待ち続けた。昨日は愛おしいと思った白鳥の声が、今日は耳障りだと感じた。あの女の気配を頼むから消さないでくれよとな」
親父「昨日と同じくらい、かなり長い時間が過ぎた頃。のぼせかけていた俺の耳に、女の笑い声が聞こえてきた」
親父「違うとは思っていたが、それでも少し期待してしまった。緊張しながら待ち続けていると、女の二人組が入ってきた。タオルをまいたまま、俺のいる湯にな」
親父「女たちは小さく悲鳴をあげた。俺は女たちが間違えてはいってきたんだと思った。そしたら、そいつらがなんて言ったと思う?」
親父「ここは女湯ですよ、だ」
親父「俺は今度は謝りもせずに、しかし急いで出た。じいさんが近くにいたので尋ねた。男湯はどっち側なんだと」
親父「昨日現れた天女が、俺に嘘のいたづらをしかけたことがわかった。じいさんは、こんな小さいスペースに岩が一枚あるだけだから、どっちも似たようなもんだろうと慰めてくれたけどな」
親父「それから、俺は雪国を出てこっちに戻ってきた。頭ではあの女に取り憑かれているのに、こっちで死ぬほど金を稼ぐことに力を注いだんだ」
親父「いいか、小僧。ひとつだけ教えてやろう」
親父「美しい女っていうのはな――」
男「それから人の不幸で金を儲けて、俺と出会ったってわけだ」
女「……凄い人生ですね」
男「だろう?」
女「でもあなたの話じゃなかったですね」
男「俺はその温泉には行ったこともない」
女「伝聞ですか」
女「それでもなんだかとても印象に残るお話でしたね」
男「俺はのぼせて死にかけていたけどな。親父さんは湯の中でしか語ろうとしないんだ」
女「ふふっ、大変でしたね。ところで、その女性とは再会できたんでしょうか」
男「……それはできていないな」
女「そうですよね。お金で解決するのも難しそうですもんね」
女「それではそろそろあがりますね。今日はたくさん話してくださってありがとうございました」
男「こちらこそどうも。だが、もうちょっと浸かってからあがることにする」
女「ええ!?大丈夫ですか!?」
男「少し耐性がついたのかもしれないな」
女「無理しないでくださいね。寝ないでくださいね」
男「子供のように扱うな」
女「それでは、ご無事でしたらまた早朝」
男「無事だ。また早朝」
男「…………」
男「白鳥のように騒々しい女がいなくなったか」
男「親父さんの言う嘘つきの天女はまだどこかにいるんだろうか」
男「親父さんの見た女は幻覚ではなかったのか」
男「本当にそんな女がいるなら、見てみたいものだな」
「いいか小僧、一つだけ教えてやろう」
「美しい女っていうのはな」
「胸が、小さいんだ」
男「目のやり場に困るような胸部を持つあいつには到底言えなかったな」
男「親父さん。それでも、俺が早朝5時に出会った女の後ろ姿は、健康的で美しいものでしたよ」
男「顔は前髪に隠れて中々みえませんが、美しい雰囲気です。俺が人の目が苦手だから、あまり見てはいないんですが」
男「あんたにも、あの女にも、到底言えませんよ」
男「俺が、なにかしらの奇跡を求めて、無意識のうちにあんたの真似をしてしまっているんだと最近気づいだことなんて」
プリップリの食感。
外はサクサク、中はジューシー。
舌の上で蕩けるような味わい。
食べ物に関しては表現の定型とも言えるセリフがたくさんあるにもかかわらず。
温泉に関しては、感想のレパートリーがあまりない。
"ああ~"
"生き返る~"
"良い湯だ"
それらを言って終わり。
温泉のレポーターがコメントに困り、景色について感想を述べる場面は多い。
それは仕方のないことだ。
温泉は、生きている。
裸で訪れる人間がそうであるように、恥ずかしいという感情があり、いろんなものを隠している。
温泉の湯の感触はやわらかいかもしれない。
味はしょっぱいのではなく、酸っぱいのかもしれない。
底は硬いのかもしれないし、ヌルヌルしているのかもしれない。
湯の花は独特の味がするのかもしれない。
私は私なりの方法で、あなたに隠されたものを見てみたい。
そうすれば、もしかしたら。
私がさらけ出したいと思っているものを、あなたが見つけてくれるかもしれないと願って。
次回「風呂上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法」
恋は、泡沫(うたかた)の様ね。
読んでくれてありがとうございます。
今日はここまでです。
参考文献
絶景混浴秘境温泉2017(MSムック) 大黒敬太 著
訂正
女「私、生まれてから、一度ものぼせたことがないです!!」
↓
女「私、生まれてから、一度も朝風呂でのぼせたことがないです!!」
女「あら、おはようございます」
男「おはよう。今日は早いな」
女「今日もお仕事でしたか?」ザバァ
男「どうした、もうあがるのか」
女「定位置ですってば。はい、あなたは奥に行って」ザバァ
男「どこでも変わらんだろう」
女「どこでも変わらないならどこに行ってもいいじゃないですか」
男「哲学者みたいなことを言うんだな」
女「どこが哲学なんですか」
男「昔、生きていることと死んでいることは一緒だと主張していた哲学者がいたらしい」
男「そのことでからかおうとした市民が言った。生きているのと死んでいるのが同じだと言うのなら、今すぐ死んでみろとな」
男「哲学者は断った」
男「何故なら、それらは同じことだからと」
女「屁理屈ですか。意味がわからないんですけど」
男「同じことならする意味がない。だから同じことはしないというわけだ。たとえ同じだとしてもな」
女「余計わからなくなりました」
男「誤って女湯にはいってしまったら言ってみる価値があるかもな。男湯も女湯も同じだと」
女「そういう屁理屈を言う変態のために混浴が生まれたのかもしれません」
男「起源は混浴が先だろう。水に男と女の区別などなかったはずだ」
女「私たちは原点回帰しているんですかね」
男「源泉かけ流しの原点回帰か」
男「それにしても今日も暑いな」
女「気温ですか?水温ですか?」
男「どっちもだ」
女「寒いのは苦手ですか?」
男「むしろ得意だ」
女「どんなに寒くても半袖半ズボンを貫いた小学生時代でしたか?」
男「普通に長袖を着ていた。あいつらも別に寒さに強いわけではなかったと思う」
女「国は調査をするべきですね。小学生時代に真冬に半袖半ズボンを貫いた少年は、大人になったらどんな人物になっているか。きっと、なにかしら有意な結果が出るはずです」
男「追跡調査で厚めのコートを冬に着ていたら少し悲しい気持ちになるな」
女「寒いことに耐えなくてもいいんですからね」
男「俺もあついことには耐えないようにしてるからな」
女「北風と太陽なら、あなたに対しては太陽が有利ですね」
男「太陽がでていたら熱くて汗をかくから温泉に行って脱ぐ。北風が吹いていたら寒くて温まりたくなるから温泉に行って脱ぐ」
女「結局脱ぐんじゃないですか」
男「半袖半ズボンで気温に耐えた経験がないから、体温調整が苦手なんだろうな」
女「追跡調査の結果が出ました。半袖半ズボンで小学生時代を耐え抜いた少年は、暖房とクーラーを一般人より使わない傾向が見られました」
男「エコなやつらだな」
女「見習って下さい」
男「俺もどっちも使わんからな」
女「ええー」
女「北風が吹くのも太陽が照らすのも、哲学者が生きるのも死ぬのも結局は一緒なんですね」
男「違うだろ。混浴に女と入るのと、男が女湯に入るのと同じくらいに違う」
女「同じくらいに違いますか」
男「女が男湯に入るのは許されるけどな」
女「同じだけど違いますか」
男「男は女にとって許されざる存在になりやすいからな。混浴の数が減少しているのもこの前のワニみたいなやつらのせいだ」
女「この流れで聞きますけど、透明人間になったらどこに行きたいですか?」
男「女湯」
女「定番ですね。なんだかんだ言ってそこですか。でも、いいじゃないですか、混浴に麗しい女性とはいってるんですから」
男「女湯と混同を混浴するな」
女「混乱しないでください」
男「女はどうなんだ。透明人間になったらどうする?」
女「戻れるのか心配になります」
男「そんなこと心配している場合か」
女「女湯に行っている場合ですか」
男「男の夢をわかっていない。性欲を満たしにいくわけじゃないんだよ」
女「じゃあ……」
男「男は性欲を満たすためにアダルトな動画を見るか、アダルトな店に行くだろう」
女「知りません」
男「混浴という企画物も存在するが、それで性欲を発散させようというものは少ない。泡立つ湯に浸かる大人の店もあるが、やはり大多数の大人が行っているというわけではない」
女「知りません」
男「普通の性交動画で興奮している男たちも、透明人間になったときだけは、何かの使命に目覚めたように女湯に向かうんだ。普通の風俗店に行って普通の交尾を眺める奴などほとんどいないと言っていいだろう」
女「まだ時間余り経ってないですけど、のぼせましたか?」
男「小学生時代の少年が想像する好きな女の子が裸になる場所というのは、お風呂以外には存在しなかったんだ。だから、ベッドの上では少年の夢はかなわないんだ」
男「原点回帰だよ。湯気立ちのぼる温泉に浸り、都会の喧騒から避難しているとこう思わないか。透明人間になってから温泉に行くのではない。温泉に来たから透明人間になれるのだと!!」
女「きゃっ!」
男「はぁ……はぁ……もうあがる」ザバァ
女「やはりのぼせてましたか。昨日は長く入っていられたのに」
男「あのあと湯あたりした。まだ少し尾を引いている」
女「それではまた早朝……お大事に……」
男「うぅむ……」
男「…………」
女「…………」
男「お、おはよう」
女「おはようございます」
男「昨日はすまなかった……」
女「何がでしょう」
男「透明人間がどうのこうの」
女「別に気にしてません」
男「そうか……」
女「…………」
女「…………」
女「ぷぷっ……」
女「(あんなの女子大ならシモネタのうちに入らないんだけどな)」
女「(刺青入れた紳士だからなぁ。大人の店がどうのこうの言っていたのを反省してるんだろうなぁ)」
男「…………」
女「(俯いててよくわかんないけど、今どんな表情をしているのかな)」
女「(ちょっと覗き込んでみよ)」グィ
男「……わっ!」
男「な、なんだ」
女「そんなに驚かなくても」
男「俺を見るな!」
女「そ、そんな言い方しなくても……」
男「いや、その……」
女「…………」
男「…………」
女「ソープランド行ってるくせに」ボソ
男「行ってない!!!」
男「というか何故そんな言葉を!!」
女「あなたよりよっぽどマセガキですよ。知識面だけですが」
女「昔話の時もおっしゃってましたね。目を見られるのが苦手だって」
男「ああ。原因はわかってる」
女「お母様の教育?」
男「そうだ。物心付く前から、頭を両手で押さえつけて、俺の目を見ながら、"私は正しい"と言葉を植え付けていたらしいからな」
女「洗脳みたいですね」
男「青年に反抗期というものが存在していてよかった。親の呪縛から解き放たれる貴重な機会だからな」
男「それでも、未だに人の目を見るのが怖い。だからこうして前髪を伸ばしている」
男「さすがに女性のあんたのほうが長いけどな」
女「……それは女性という理由だけではないかもしれませんよ」ボソ
男「ん?」
女「お母様は今でもトラウマですか」
男「そうだな」
女「時々恋しくなったりしませんか?」
男「なるよ」
女「会いに行ったりには?」
男「三途の川を渡ってか?」
女「えっ」
男「死んだんだ」
女「…………」
男「なぁ」
男「母から頭を押さえつけられて、近くでじっと見つめられている時に、俺は幼いながらあることに気づいたんだ」
男「人の目は、同時に相手の両目を見れないということに」
男「右目を見ればいいのか、左目を見ればいいのか。眉間を見ればいいのか。どれが正解なのかわからなかったんだよ」
男「俺は、確かに正しいことについて教えてもらったんだ。日常の細かいところにまで口出しをされていた」
女「世間にとっての正しさではなく、お母様にとっての正しさでしょう?」
男「そうだな。教わらなくてもいいようなことをたくさん教わった。母が怒っている時のふるまいかた、悲しんでいる時の慰め方。俺は何一つ合格点を取れなかったんだがな」
男「目のやり場の位置でさえ、どこを見るのが母にとっての合格なのか考えさせられた」
男「正しさの押しつけは、人を自然な道から外す」
男「例えるなら、正しい呼吸法について教わったようなものだな。何秒間、どのくらい息を吸い込み、どのようなペースで吐くのが理想的なのか」
男「普通のやつらはそんなこと教えて貰っていないから、自然に呼吸をしている。俺は、教えられたとおりにやろうと、不自然に呼吸をしてしまっている」
男「そして人に目を見られると、焦燥感がとまらなくなってしまった」
女「そうでしたか」
男「だから俺の目を見るのはやめてくれ」
女「わかりました」
男「……別に、あんたに対してだけじゃないからな」
女「わかってますよ」
男「あんたの瞳は、なんというか」
女「はい」
男「綺麗だった。一瞬見ただけだけどな」
女「…………」
男「久々に人の瞳を見た気がする。こんな綺麗なものだったかと驚いた」
女「……どちらですか」
男「どちら?」
女「私のどちらの瞳ですか?」
男「あまり意識は……」
女「なんだ、もう自然に呼吸ができているじゃないですか。もうあがります」ザバァ
男「どうしたんだ急に」
女「それではまた今度」
男「左目」
女「…………」
男「右目は前髪に隠れててあまり見えなかった」
男「左目だ」
女「……正解です」
女「それではまた早朝」
女「昨日は」
男「すまなかった」
女「すいませんでした」
男「おはよう」
女「おはようございます。じゃなくて」
男「やっぱり正解不正解があったんだな。どちらの瞳を見るのが正しいのか」
女「いいですよ。どっちでも」
女「うんざりして飽きてしまっていても、いつまで経っても慣れない人の反応っていうのが私にはあるんです」
女「男さん。よろしければなんですけど。のぼせたらすぐあがってもいいので。私の」
男「お前の昔話を聞かせてくれ」
女「……はい」
男「俺の長話に付き合ってくれたしな。話してて、意外とすっきりしたよ」
女「よかったです」
男「ちゃんと聞いてやる」
女「そんなに力を入れなくてもいいですよ」
男「それじゃあ湯の花をつまみにでもしながら」
女「どんな味がするんですかね。小麦粉みたいですけど」
男「食べてみるか?」
女「たべられません」
男「身体にいいらしいぞ」
女「浸かるとですよ」
男「話はまだか?」
女「私の嫌なところでうつってきましたね……」
男「水中感染だな」
目を閉じた時に見える虹色のチカチカはどこから来るのだろう。
幼い時の私は、世界で自分にしか見えないものだと信じていた。
初めはパチパチとしたまだら模様の虹を映していても、目蓋の上から眼球を指圧するとその光景は変わる。
虹から宇宙へ。
宇宙から大地へ。
大地からマグマへ。
マグマから地獄へ。
地獄から星空へ。
困った私はそれを「まぶたのうらのはなび」と子供の感性で命名した。
父親は外科医で、母親は高校時代の同級生だった。
父親はプライドの高い変人で、母親はおしとやかだけれどたまに怒ると怖い人で。
父親は私を持ち上げるのが大好きで。
母親は私を抱き締めるのが大好きで。
2人とも愛情が深かった。
私は小学生の頃から授業は真面目に聞いていたし、快活な子達と上手く人間関係を築けていた。
親の期待通りに良い子に育った。
いや、こんな言い方は傲慢だ。
子供は親に似る。
素敵な親を見て育ち、素敵な親を模倣して似ていっただけだ。
「良い子を演じ続けた反動で不良に…」
テレビ番組でそんなエピソードを見ては少し違和感を覚えていた。
私はこうではないかと考える。
子供の反抗には、親の期待に対する反発と、親が期待しないことに対する反発、この一見正反対な2種類があると。
「親や教師に敷かれたレールの上なんか歩きたくない!」
親が敷くまでもなく、レールは既に敷かれている。
それは、親が歩いてきたレールだ。
それぞれのレールを歩いてきた男と女が出会い、結婚を機にレールは一つに結合される。
出産はその過程にあり、子供は生まれた瞬間から、親と一緒のレールを歩みはじめている。
その時に親が「あなたはあそこのレールを渡りなさい」と遥か上空にある綺麗なレールを指差していると、期待に応えられないストレスでグレてしまうのだろう。
一方で、親と歩いてきたぼろぼろのレールに嫌気がさして、「私はあそこのレールを渡りたい!」と反抗してしまうか。
私は素直に、親の歩いてきたレールを歩みたいと思った。
私もこの人達のように、健全で、明るくて、時々くだらない口喧嘩のある、愛情に包まれている生活を送りたいと当たり前に思っていた。
父と、母と、あの事件が起きる日までの中学生の私を見て思う。
素敵な人生だった。
席替えをすることになった。
クジ引きで決めるのだが、私は中学生の女子としてはおそらく珍しく、隣の男子が誰になるかはあまり気にしなかった。
前後が自分と仲の良い女友達になりさえすれば、毎日楽しくなるなと思った。
だから、クジを引いて、前に仲の良い友達が来て、嬉しかった。
隣が肥っていてにきびだらけで俯いている男子で、後ろが眼鏡をかけてカバーをつけた本をこれまた俯きながら読んでいる女子でも、気にならなかった。
ちょっとからかってみようとか、見下すような気持ちも全然なかった。
全く、気にもかけないだけだった。
それは、恵まれた思春期を生きている女子学生には自然に芽生える感情で、決して罪深いことではなかっただろう。
これは後に知ったことなのだが。
休み時間を地獄だと感じ、早く授業中になって欲しいと願っている生徒がクラスの片隅にはいるらしい。
休み時間になって、嫌な人とコミュニケーションをとることや、
そのコミュニケーションすら取れず、孤独で惨めな思いをする人達だ。
私が見向きもしなかった人達。
孤独で可哀想だなんて思ったことはない。
孤独なんだな、と頭に浮かぶだけ。
私と人生が交わることがないような人達に対して、何ら感情を抱くことはなかった。
ヒエラルキーなんて言葉がまだなかった頃。
「みんな違ってみんないい」
「ナンバーワンよりオンリーワン」
流行りの言葉に素直に頷いていたのは、みんなと違ってみんなより可愛い子や、容姿の良さは1番の子だった。
男子は、デブでも愛されキャラの人もいたし、チビでも面白いキャラの人もよく注目を集めていた(恋愛対象にはならなかったが)。
ただ、会話がまるで面白くない人は、やはり冴えない者同士で群れていた。
一方、女子学生における序列においては、容姿が絶大な力を持っていた。
休み時間になる度に手鏡を開く女の子と一緒のグループだった。
綺麗な女の子ほど自分の容姿に厳しい。
アイドルや芸能人がブログで自分の容姿のコンプレックスを告白することがあるが、あれは本心だろう。
テストで46点の答案が返ってきても折り畳んですぐに捨てて忘れてしまうが、98点の答案が返って来たら用紙の間違えた部分をいつまでも悔い続けるだろう。
用紙の間違えた部分、いや、容姿の間違えた部分について、98点の女の子はいつまでも悔い続ける。
私はあごに小さなにきびが出来ていた。
親が外科医でもにきびの出現を抑えることはできない。
これさえなければかなり幸せなのになぁ、と悩んでいたことは、クラスのマドンナの様な存在だった母親の遺伝により獲得した98点の幸せの証だったろう。
いつも手鏡を大切そうにもっているのを揶揄して、根暗な女の子が「ラッコかよ」と言ってるのを聞いた時は、やはり妬みだとも不快だともすら思わず、何の感情も芽生えなかった。
女「今日はここでおしまいです」
男「そうか」
女「あなたがのぼせてしまいそうなので」
男「気付いていたか。中々言い出せなかった」
女「私の前では忍耐しないでくださいね」
男「当時のお前は、なんというか」
女「はい」
男「感情の見えないやつだな」
女「そうかもしれないですね。抜け殻みたいで気持ち悪いでしょ」
男「そこまでは言ってない」
女「今はどうですか?」
男「明るさで何かを隠していそうだ」
女「何かを隠したいなら暗いものが1番ですよ。なんせ見えにくいんですから」
女「おはようございます」
男「おはよう。昨日の話の続きをしてくれ」
女「せっかちですねぇ」
男「善は急げだ」
女「のぼせるのは善ですか」
男「急いでのぼせてる訳ではない」
女「それじゃああなたがのぼせないうちに、話しましょう」
>>78
それから5年近く経った→それから8年近く経った
細かい訂正です。
「疲れたね」
屋台をぐるぐるまわっているうちに飽きてきた。
「花火の時間まであとどんくらいかな」
「落ち着いた場所で見たいね」
「……あのさ」
「ん?」
「公園、男子いるかな」
「やあやあ、ひまじんども~」
「なんだ、女子かよ」
公園にはクラスの男子と、私服姿の暗い女の子3人組、それとベンチに座っている男性がいた。
こちらに気付いた女グループが手をあげかけたが、男子に話しかけた私達を見て手をおろした。
「それなに?銃?」
「クジ引きであたったんだよ」
「ここ日本だよ?捕まっちゃうよ?」
「お前らを射ったら捕まるかもな」
「なにそれ下ネタ?」
女子がクスクス笑いだすと、銃を持っていた男の子がうんざりしたそぶりを見せた。
けれど、本気で嫌がっているようには見えなかった。
夏祭りの夜は、男子と女子の机と机の間に空いている3cm程度の隙間を、くっつける日なのだ。
雑談がしばらく続いた。
いつもある男子のとげとげしさも抜けて、和やかな話題で笑い合った。
その時だった。
「始まった!」
花火が夜空に打ち上がった。
赤色、黄色、紫色、橙色、緑色。
浴衣に劣らぬ色のバリエーションで夜闇を照らす。
去年は家族と見ていた。
物心ついた頃から見続けていた。
見慣れてはいたが、見飽きることはなかった。
この美しい景色に見合うだけの青春の中にちゃんといるという感触は、私を安心させた。
男子の1人が私に近づいてきた。
「わたあめ余ってるね」
女「うん。実はちょっと苦手なの」
「代わりに舐めてあげようか?」
女「んっ、やめてよ」
ニヤニヤ笑う姿も、かっこよく見える男の子だった。
一緒の班になったこともあって、場を盛り上げるのが上手だった。
「小さい頃、花火苦手だったんだ」
女「どうして?」
「怖かったんだ。フランケンシュタインや、ドラキュラと同じくらいに」
女「なにそれ」
花火が打ち上がっている間に、私達はささいな秘密を共有しあった。
時折他の女子が振り向いてクスクス笑ってくるのが恥ずかしくて目を逸らした。
目を逸らした公園の中には、もう3人組の女子はいなくなっていた。
「そっちはないの」
女「なにが?」
「そういうの」
女「そういうのかぁ」
花火を見て思いつく。
女「なんか、ちょっとグロテスクかもしれないんだけどさ」
女「小さい頃から私にしか見えないと思ってて。家でそれを見てる時は、友達も見えてるか気になるのに、学校に着くとその景色の存在なんかすっかり忘れてるっていうものがあって」
女「朝に二度寝してる時なんかに、手の甲を目に押しつけることがあるのね。そうしたらさ」
わたあめの棒を取られた。
先ほどベンチに座っていた男だった。
食べたいのかな。ホームレスなのかな。
普段ぼぉーっとしている私でも、もっと不穏な空気を感じた。
判断をする時間さえ、与えられなかった。
死なせて。
死なせてよ。
右眼に割り箸が突き刺さったことを知覚した瞬間、激痛に襲われた。
今すぐこの痛みを消すか、それができなければ死なせてほしいと願った。
足がよろめいて、近くにいた女子を左手で握り締めた。
絶叫され必死で剥がされた。
このままが良いのか。抜くのが良いのか。ただひたすら混乱していた。
左目まで涙が溢れてきて視界がぼやけた。
犯人の姿はなかった。
先ほど近づいて来た男の子はオロオロしているだけだった。
救急車。救急車。
それだけが自分を救ってくれると縋った。
お父さんの顔が浮かんだ。お父さんは私を治せるのだろうか。
お母さんの顔が浮かんだ。お母さんの腕の中で眠っていたころに戻りたかった。
他に苦しんでいる同級生はいなかった。
私でなければならない理由は、あったんだろうか?
眼帯をつけて歩くのが、恥ずかしい。
真っ黒い液体が常にふつふつと沸いているように、私の心の中に今までの人生にはなかったような感情が芽生えていた。
怒り、憎しみ、恥ずかしさ、後悔。
地面を向いて歩きながら、屈辱だ、と呟きたくなった。
いつか学校の道徳の時間か何かで、盲目の人と盲導犬のドラマを見たことがあった。普段人に同情することがない私でさえ、少し涙が出てしまった。
同じ立場で相手に寄り添うことを共感と呼び、異なる立場で相手に寄り添うことを同情と呼ぶのだとしたら。
今の私に同情するような奴らは、絶対に許せない。
関心を持たれても、無関心を装られても、あるいは本当に無関心だとしても。
私はどんな相手でも憎むだろう。
世界を、私は憎むようになった。
私の右眼が、まぶたのうらのはなび、を見ることはもう二度となかった。
見えない右目の視界の中から人が近付いてくる気がして怖かった。
眼帯を見られたくないという気持ちがありながら、自分の右目が以前のようには見えないということが通行人に伝わってほしかった。
こんなに学校に行きたくないと思った日はなかった。
夏休み明けの登校でも、友達と喧嘩した翌日の登校でも、ここまで気が重たくはなかった。
みんな暖かく迎えてくれた。
地元で起きた出来事は学校にも伝わっていた。
過度に明るくしないように、過度に触れ過ぎない空気を出さないように。
急に冷たくなることも、急にやさしくなることもなく。
それでいて気遣いはしてくれて。
よく勉強した子供達が入るような学校だけあって、100点満点の対応だった。
その対応に、私は後ろめたく思った。
私は変わってしまった。
この人達がそのことに気付いて、日に日に離れていくことは確実で、その未来を想像するのがつらかった。
生まれたままの姿でいることを自然にし、身を清め、身体の内側からあたためてくれるお風呂を小さい頃から避けていたように。
この生暖かい空間に、私は時期に耐えきれなくなるだろう。
のぼせて卒業したくなるほどに、ずっと浸かっていたいと思っていたのにな。
思った通り、私に話しかける人は日に日に少なくなっていった。
私が壁をつくるようになってしまった。
心から笑えなくなってしまった。
もしも生まれつき右目に視力がなくて、だけど誰もそのことに気付かない見た目であれば、私は私を隠して楽しく卒業までの日を過ごせたかもしれない。
あんな事件があったせいだ。
私が人を遠ざけるようになってしまった。
誰とも話さずに過ごす休み時間がこんなにも惨めなものだとは知らなかった。
何かおっちょこちょいをしても、誰も笑ってくれないのがこんなに空虚な気持ちになるものだとは知らなかった。
ありとあらゆる、人と関わるイベントが、こんなに気怠く憎しみすら覚えるものだったことはなかった。
みんなが会話している中で、誰とも話さずに食べる給食は味もわからず、上手く噛めない。
口の中を噛んで、血の味だけを感じて、黙って飲み込む。
放課後になったら1番早くに教室を出る。友達と残って喋るなんてこともない。
独りの時間が増えた。かといって、勉強する気も、趣味をつくる気も何も起きなかった。
母「何をいつまでふてくされているのよ」
女「うるさいな。生まれてこなければよかった」
母「何よそれ……。だったら今この場で殺してあげようか」
女「やればいいじゃん」
私にしてみれば、ある日いきなり10点の答案が返ってきたようなものだった。
頑張る気すら起きなかった。
盲目の人も隻眼の人も、その他にも障害を抱えて生きている人を見下したことはなかった。
父親が世話になっている凄腕の按摩(あんま)の先生は盲目だ。
私が小さい頃に通っていたピアノの教室の先生は左耳が聴こえなかったそうだが、それを知っても小学生の私は何も態度を変えなかった。
障害者の人を美化するような番組が流れたら、母はお笑いの番組にチャンネルを切り替えた。
プライドの高い父は、逆にどんな人でも特別扱いをしなかった。
母はそんな父を、医者としても尊敬していた。
我ながら、因果応報なんてものが決してあてはまらないような一家だと思う。
それが今では、母親の愛情にも反抗を示して、左目につくものをかたっぱしから否定していた。
また独りで休み時間を過ごしている時だった。
「何読んでるの?」
隣の席の、肥っていて気持ち悪い男の子が話しかけてきた。
私が読んでいる本について聞いているのだろう。
久々に人に話しかけられた私は、嬉しい、とは思わなかった。
とても不快だった。
醜い感情が芽生えた。
以前だったら、この男の子は私に話しかけることはなかっただろう。
片目を失明したことで、話しかけやすくなったのだろうか。
同じ土俵に立ったとでも思ったのか。
仲間だと思われたのが屈辱的だった。
私は怒りの感情をひたすら堪えて「ごめん」とひとこと言った。
以前の私なら、笑顔で返したんだろうか。
それも自信がないな。
今日もため息をつく。
メガネをかけていればよかったのか。
わたあめを買わなければよかったのか。
地元の友情なんか放棄して家で寝てればよかったのか。
視力は左目の方が良かったので幸いだったと言えるのか。
犯人が無事捕まって、それで。
私は相変わらず、今日も死にたかった。
右目については、皮肉なことに不自由を感じなくなってきていた。
コンタクトレンズをつけているのを忘れて寝てしまうことがあると以前先輩がいっていたが、嬉しいことにも慣れて当たり前になるし、悲しいことにも同じことがいえるらしい。
左目の視界だけでも日常生活を送ることは可能で、右目が見えないことを忘れてしまう時間が増えてきた。三次元の距離感を感じる必要のある体育の時間などはとても困ったが(次第に体育は休むようになった)。
意識してはいけない呼吸が1つ増えたくらいだった。
こんな不謹慎極まりない発言、右目が見えていた頃の私なら間違いなく言えなかっただろう。
そうはいっても。
右目のことについて考えなかった日は、あの日からもう10年近く経つけれど、一度もない。
めんどうくさがりで、歯磨きや、お風呂を、時々さぼることがあった私だけど。
記憶から抹消したい出来事に関しては、律儀にも、毎日憎む習慣ができていた。
ただの一日さえあの日を考えなかったことはない。
あの犯人を頭の中で拷問にかけなかった日はない。
夜中の暗闇の中でさえ、見えない左目の事を思い出して、犯人の顔が浮かんで、怒りが抑えられなくなって暴れまわったことがある。
テレビを見ても本を読んでも、新聞に事件について書かれている記事を読んでも、全て自分ごとに置き換えるようになってしまった。
点字ブロックが目につくようになった。
公共交通機関が視覚障害者に対してアナウンスしているのが耳に入るようになった。
性犯罪の被害者など、今まで気にもしなかった人のことまで考えてしまうようになった。
「傷つくことで、他人の痛みを知ることができる」
確かに大切なことだけれど。
それにしては、あまりにも代償が大き過ぎるのではないか。
女「他人の痛みなんて知らなくていいから、傷つきたくなかったよ」
この日も憎悪に駆られたあと、独りで泣いた。
女「悪いこともあれば良いこともありました」
女「まずは良いことから。ちょうどいいことにあなたは私の左側に座っていますね」ザバァ…
女「例えば、こんな風に、右側に座っていた人が顔の右側を寄せてきたらどう思います?」
男「……近い」
女「そうですね。右側にいる人が、右の頬を寄せてくるんですもの。大学でそういう友達がいて『レズっ気があるんじゃない?』って影で少しからかわれていました」
女「私は一瞬でわかりました。おそらく左耳の難聴だと。私はその子の右側に立って話すようにしたり、教室に入る瞬間から右側に座れるように計算しました。そしたら顔を寄せられることはありませんでした。その子自身も人の左側にいるように日頃から考えて行動していることがわかりました」
女「私はその子の抱えているものには触れません。私が気付いたことを、遠慮のない友達にも、その子本人にも伝えません」
女「大学に入学してから、私の右目が義眼だと指摘してきた人はいません。髪のバランスが不自然だってからかわれることもあるくらいですから、本当に気付かれてないのだと思います」
女「ノートに気持ち悪い落書きをしている時に友達が右側に立っているのに気付かずに恥ずかしい思いをしたこともありましたが、時々天然だと思われるだけです」
女「あの難聴の子は気付いてるのかもしれませんがね。何かを失った人は全てが自分事なんです」
女「続いて悪いことです」
女「電車の中で寝れなくなりました」
女「理不尽がいつ襲ってくるかわからない、という恐怖のためです」
女「男さん。隻眼の私が右目で視ている今の景色はどのようなものだと思いますか」
男「暗闇か?」
女「反対です。白いモヤのような浮かぶ気がしてるんです」
女「まぶたのうらのはなびを失った私は、視神経が見せる幻を見るようになりました。見えてるという表現が適切かはわかりませんが。この景色に命名する気にもとてもなれませんでしたしね」
女「左目が日常で、右目が非日常です。理不尽と遭遇しただけでここまで世界が変わってしまうんです」
女「ごつくて、でかくて、こわくて。それでいてユーモアもあるような、ミステリアスな雰囲気もあるような」
女「女子大生の恥ずかしい一面を目撃して、それでも無関心でいるような、朝の5時にお風呂に入るような何か事情を背負っているような」
女「正体を掴めそうにないあなたに私が話しかけた理由、わかる気がしませんか?」
男「…………」
女「過去の恐怖に打ち勝つためですよ」
今日はここまでです。書くテンポが遅くなってすいません。
本当は150くらいで終わらせる予定だったのに、見積りを誤りました…。今折り返しくらいです。
女「今までの人生で交わることのなかった人々への克服。男性についてまわる暴力性のイメージの払拭。そんなことを考えるようになったのはつい数年前からです」
女「中学で孤立し、不登校になりました。勉学へのやる気も削がれ、高校も希望するところには合格できませんでした」
女「高校も馴染めずにすぐに不登校になりました。無為な時間を家で潰した青春時代でした」
女「1日は長いくせに、日々はあっという間に過ぎていきました。何も積み重ねておらず、1年間、2年間を振り返っても何も記憶がないんです」
女「権威ある賞をいくつも受賞した映画を見ても感動できません。何かと文句をつけたくなるだけです。それよりか、ただ馬鹿馬鹿しい同性同士の青春を描いたアニメの方が心地よかったです」
女「親の金と時間を全て浪費に使いました。たまに外出をした帰り、混雑する時間帯の電車に乗る必要がある時にも、女性専用車両にしか乗ることができませんでした」
女「理不尽に巻き込んでくる男性が怖かったんです」
女「いつまで外に怯えて生きなくてはならないんだろうと不安と不満につぶされてしまいそうでした」
女「高校2年生の終わりのときでした。正確には、もう中退扱いだったんですが」
女「このまま孤独に人生が終わってしまうのではないかと怖くなりました。はやく、レールの上に戻らなくてはならないと焦っていました」
女「昼夜逆転が乱れに乱れて、一周回って通常の生活サイクルに戻った時に、今から人生をやり直そうと決意をしました」
女「きっかけなんてものはないんですね。本を読んでも、映画を見ても、観た直後の数時間だけ気持ちが変わるだけで、翌日にはまた腐った自分に戻っている。私は、私を動かすのは私しかいないんだとようやくわかりました」
女「自分でした決意さえ1日後に失せているのはしょっちゅうでしたが。失せるたびに何度も決意をしました。1日目に365日続くような決意ができないのなら、365日毎日決意をしてもよかったんですね」
女「大検というものを取得して、家庭教師をつけてもらって、なんとか今の女子大に合格することができました。家庭教師の女性の先生は医学部の大学生でした。能率的に機械的に淡々と、かなりわかりやすく教えてくれました。勉強以外の話題に踏み込むこともなく接しやすかったです。そこまで計算して接してくれたのかもしれませんが」
女「ここまでもかなり大変でしたが、これからはもっと大変です。なんせ、心穏やかに、一般人と話す日常を送るという目標があるのですから」
女「まぶたにも少しだけ傷が残っているので、人前で目を瞑るのも避けよう。そもそも、見えないように右髪を目にかかる髪型にしよう。自分から右目のことについて話すのはやめよう。いろいろと悩み、正解のないルールをつくりました」
女「ところが、いざ入学してみると、当初心配していたようなことの大半は気にせずに済んだんです。というのも、私自身もそうであるように、みんな自分がどう見られるかばかり気に病んでいるからです」
女「右目が見えない人も、右目が見える人も、他人の目を気にしてばかりの人生です。相手の弱みを見抜こうとする人は、相手が自分をどう見てるのか怖くて仕方ない人ですし、他人を全く見ようともしない人は、自分を見せることだけに夢中になっている人です」
女「育ちの良い女の子たちはそれが平和なレベルなだけです。孤立したくない、仲良くしたい、楽しい日常を過ごしたい。私と考えていることは一緒だったんですね。そこだけ解決できれば、他の細かいことなんてよかったんですね」
女「入学したての頃は大学を人一倍愛おしく感じました。ここには過去の自分を知っている人はいない。授業がどんなに退屈でも、仲良くなった友達が無防備に隣で寝ている90分間は嬉しくてたまりませんでした。ちゃんと群れの中に属しているということがこんなにもありがたいことだとは思いませんでした」
女「親との関係も良好になりました。私が海外に行ってみたいと言った時は、背中を押してくれました。父と母が夜な夜な口論する声は実は聞こえていたんですけどね。家をでる時には父も母も泣いてしまっていましたし」
女「私は、私を知っている人には二度と会いたくないと思っていたほどなのに。私を知らない人に話しかけるのは平気でした。海外の大学で、つたない英語で、日本人の女の子と外国人の同世代の人と話しました。外国人の男友達もできて、普通に馬鹿げた会話もしました。海外を好きなまま日本に帰国することができました」
女「キャリーケースを引きずって、男性も乗っている混雑した電車に乗った帰り道でした。電車が急停車して、近くにいた男性が私にぶつかりました。」
女「私は途中の駅で降りて、ベンチに座って、大量の汗をかきながら呼吸を整えました。日本の男に対する恐れが全く消えてないことに失望しました」
女「自分を変えるというのには二種類あるのではないかと思います。1つは、本当に変わること。もう一つは、変わったように周囲に思われること」
女「私はせめて、周囲には変わったように見せられる段階まで行こうと思いました」
女「小学生の男の子が好きな女の子にいじわるしてしまう心理を反動形成というそうですね。私は、恐怖の対象である男性に気軽に話しかけました」
女「見た目がごつくて、でかくて、こわいだけじゃなくて、刺青までしてたなんて、最高でした」
女「早朝にお風呂に入るというのは健全な生活サイクルをまわすための儀式のようなものでしたが、あなたと出会って、過去の自分を乗り越えられる機会を与えられたのではないかと思いました」
女「あなたに私の恥ずかしい姿を見られた日から。男性でさえ話しかけるのをためらうようなあなたに、私は言葉をかけました」
女「内心焦っていましたよ。男性と話す時はだいたいそうですが。しかしここでなら、私がどんなに冷や汗をかいても、熱くて汗をかいてるようにしか思われません。手が震えても湯のゆらぎにしか見えません」
女「そもそも、あなたは私と同じくらい人を見ようとはしない人でした」
女「のぼせるのが早いあなたといることで、毎朝5分間、10分間程度のリハビリをしていたんです」
女「少しずつ慣れてきました。駅員の男性に質問することも、大学にいる若い男の先生に質問することもできるようになりました」
女「でもそんなことはおまけみたいなものです。私は、あなたと話すことが毎日本当に楽しみになっていたんです」
女「男性に対する恐怖の克服が目的のはずだったのに、あなたと話すことが私の目的になっていました」
女「あなたと朝からまわしていく一日が好きになっていたんです」
女「よろしかったら、男さん。もうすぐ」
男「街中の銭湯の工事が終わるんだったな」
女「はい!それでも、私はこれからも……」
男「もう俺には二度と関わるな」
女「……どうしてですか」
男「お前のくだらないリハビリに付き合ってられん」
女「き、傷つきましたか。不快になりましたか」
男「恐怖を乗り換えたいなら、ワニとでも仲良くしていろ」
女「トラウマを克服する手段にされたことがそんなに嫌でしたか」
男「お前は変われない」
女「…………」
男「自分で言ってただろ。変わったようにみせられればいいと。誰に見せるんだ。親か、友達か、世の中か」
男「自分で言ってただろ。みんな自分がどう見られているかに夢中だと」
男「お前はな、自分が男性を克服したと、自分自身に見せつけたかったんだよ。それは自分に対する虚栄心なだけで、本質は何も変わっちゃいない」
男「過去の自分を消すことなんて諦めろ」
女「あなたにとって……私と過ごした時間はどうでしたか」
男「俺は俺を変えてくれる存在を求めていたんだと思う。お前では弱すぎた」
女「目を見るななんて言ってるくせに、自分のことを見てほしいだなんて、子供みたいな要求ですね」
男「そうだな。俺は母親代わりの女を求めていたのかもしれんな」
女「あなたを子供だと思う女性なんているんでしょうか」
男「いないだろう。俺ももう期待しない。30近いおっさんだしな」
女「私と話す時間はもういりませんか」
男「お前にとってこそ不要なんだよ」
女「どういう意味ですか」
男「今日はもうのぼせた。あがる」
女「理由を話してくださいよ」
男「これ以上人に恨まれるのはごめんなんだ」
女「なんですかそれ。自分だけが何かを背負ったみたいに思って」
男「背負っているんだよ」
女「何を」
男「罪を」
女「私に関係ありますか?」
男「人を刺したことがある」
女「えっ……」
男「乗り越えた壁の向こうは、谷底だったな」
男「それじゃあ、さようならだ」
女「…………」
女「怖く見える人は、悪い人だと限らない」
女「そんな偏見をなくすつもりが、偏見は正しかったということですか」
女「自分が魔物だと自ら伝えるその人は、それでもやはり魔物なんでしょうかね」
女「……腹が立ちますよ」
女「むかつきますよ。世の中、全部全部」
女「お風呂なんて、大っ嫌いですよ。入らなければよかったです」
女「許せないですよ。目につくものも、目に見えないものも」
女「私の周りには、嫌なものしかないんですか」
女「なんで見えないのよ。なんで見えるふりをしているのよ」
女「私はただ、幸せになりたいだけなのに!」
私はこの日、大学をさぼってしまった。
私は一人で興奮していた。街中を怒りながら歩いていた。
あの人は私を刺した男ではない。見た目も似ても似つかない。
だけれど、私を不幸に突き落とした男と、同じような人間だったのだ。
嫌いなものの克服なんて、馬鹿げた考えだった。
私の右目を奪った男と結婚して、子供でも産んで、家庭を築けば克服、とでも私は言いたかったんだろうか。
無性にいらいらした。
コンビニで買ったお菓子の袋を怒りに任せて道端に捨てた。たかがそんな行為でさえ罪悪感が重くのしかかる私が、どうしてこんな苦しい目に遭わせられているのか。
帰ってふて寝をした。そして、風邪を引いてしまった。
表面上の温度だけ高く、身体から熱が奪われていくことに気づかずに体温が下がることを湯冷めと呼ぶ。
一度墜落してたどり着いたぼろぼろのレールを飾り立てようとしていた私にはお似合いの現象だ。
そういえば、小さい頃にこんなことを思っていたっけか。
風邪を引いたら、お風呂に入らなくても済む。
帰ってきたおばあちゃんがつくったおかゆを食べたあと。
私は安心した気持ちのまま、あたたかい布団の中で寝た。
男「久しぶりだな、夜の風呂は」
男「こんなところにあるからか、どんな時間帯でも人は少ないな」
男「今日も疲れた。ゆっくり浸かるとしよう」ザバァ
男「ふぅ」
男「…………」
男「…………」
男「…………」
男「風呂はこんなに静かなところだったんだな。ここ数日は早朝から騒がしかったからな」
男「お母さん。俺はあなたに言われた通り、約束を守っているよ」
男「あなたは幸せになってはいけない」
男「律儀に、この歳になっても守っているよ」
男「今日は日差しが眩しいな。昼間の風呂も久しぶりだ」
男「温泉はいい。親父さんとの思い出が蘇る」
男「何もかもが憂鬱だった時期が俺にもちゃんとあったことを思い出せる」
男「仕事のプレッシャーに潰されそうになって吐いていたこと。怒りから人を殴りつけていたこと」
男「自分が何のために生きているのか、葛藤できる時期があったこと」
男「俺は幸せになるのを諦めたんだろうか。諦めたふりをしているんだろうか」
男「今は何も考えず、日銭を稼いで、食べ物を食べて、温泉に浸かって、家で寝るだけだ」
男「これでいいんだ。俺は、表の世界の人間と交わってはいけないのだ」
男「ふぅ。今日の仕事も長引いたな」
男「もう4時半か。風呂に行ってから寝たいところだが」
男「…………」
男「一度寝てから入ればいい。どうせ、いつも汚れている人間だ」
男「それとも、自信過剰かもしれないな。街中の温泉はもう治っている。あいつも、わざわざこんなところまでもう足を運んでくることもないだろう」
男「俺には、レールなんてない。このままどこにも進まず、過去に置き去りにされたまま死ぬのを待てばいいのだ」
男「……寝すぎてしまった。ここのところ疲れていたからな」
男「もう夜か。飯でも食うか、風呂にでも入りに行くか」
男「…………」
男「風呂から行こう。あの場所はいい」
男「誰とも交わらずとも、自分を迎えてくれる。そんな雰囲気がある」
男「今夜も一人、何も考えずに湯に浸かろう」
男「心地いい夜風だな。やはり夏の温泉も悪くない」
男「それにしても、髪が伸びすぎてきたな」
男「床屋なんかに行くと、昔は汗がとまらなかったな。今でも緊張する」
男「黙って、目を閉じて。あまりにも切られそうになったら口を挟んで」
男「俺も、あの頃から何も変わって……」
男「……ペットボトルが見える。ワニでも来ているのか」
男「残念だな。夜にこんなところまで来る女なんかここ数日いなかった」
男「もしも女子大生にでも会いたいなら、早朝に来れば可能性は……」
男「お、おい」
女「…………」
女「はぁ……はぁ……」
女「や、やっと……来ましたね……」
女「さぁ……あなたが……のぼせる前に……はやくお話でも……」
男「顔が真っ赤だぞ。いつからここにいる」
女「水があるのに……脱水症状だなんて……海で遭難したみたいですね……」
男「いいからあがれ。はやくしろ。手を貸してやる」
女「はい……」
男「立てるか?」
女「おぶってください……」
男「それは無理だ」
女「恥ずかしいんですか……」
男「馬鹿なこと言ってる場合か。ほら、肩なら貸してやる」
女「……じゃあ立ちます」ザバァ
女「う、うわぁ……」グッタリ…
男「おい。大丈夫か。立ちくらみか」
女「…………」
男「……はぁ」
男「おぶるしかないか」
女「……んん」
男「目が覚めたか」
女「ここはどこですか」
男「管理人のおばあちゃんの休憩場所だ」
女「そうですか。それはレアですね」
男「俺はもう行くぞ」スタ…
女「健康診断か何かの記入書で」
男「なんだ」
女「気絶したことがあるかどうか、はいかいいえで答える欄があるじゃないですか」
女「あなたのせいでこれから私は”はい”に丸をつけなければならなくなりました」
男「ただの立ちくらみだ。それに俺のせいにするな。じゃあな」スタ…
女「三途の川は冷たかったって言ってたことがあるじゃないですか……」
男「覚えてない」
女「言ってました。さりげない言葉に深い意味を持たせる優越感、私にはわかるんですよ」
女「私もよく大人や知人に使っていましたもの。”他人の目を気にしてばかりの性格”とか”目を奪うような光景”とか」
女「日常会話では実はそんなに出番のない表現をさりげなく混ぜて、深い意味を込めているとも知らない相手を見てちょっと優越感に浸ったり、見下したり」
女「ほんのいたづら心なんですけどね」
女「それであなたは、どんな風に死にかけたんですか。危険なお仕事でもしたんですか」
男「鋭いな。だが、小学生の時に起こった本当に大したことのない話だ。じゃあな」スタ…
女「あの!」
男「なんだ」
女「コーヒー牛乳が」
男「コーヒー牛乳がどうした」
女「ええと、うーん……」
男「コーヒー牛乳が飲みたいか?」
女「それ!そうです!コーヒー牛乳が飲みたいです!!」
男「……はぁ」
女「パスタうんまいですねぇ」
男「コーヒー牛乳が飲みたいんじゃなかったのか」
女「ファミレスのご飯は美味しいですね。若者には、おばあちゃんの食事だと健康的すぎるんです」
男「用がないならもう帰るぞ」
女「男さん、ファミレス入ったのいつぶりですか」
男「しょっちゅう入るさ」
女「意外。一人でご飯食べててさみしくないんですか?」
男「お一人様も多い。ファミリーで来ている客の方が少ない」
女「一人で入りづらい場所があったら私が行ってあげますよ。お化け屋敷とか」
男「怖くない」
女「怖さよりも一人で入るの恥ずかしくないですか」
男「それはまあ言える」
女「なんか、パスタ食べてる男さんって違和感あります」
男「相変わらず話の飛ぶやつだ」
女「どうして避けてたんですか」
男「俺の存在はお前を不幸にするだけだ」
女「かっこつけてるんですか」
男「俺は犯罪者だ」
女「それで今は山の中に逃亡中ですか?」
男「刑期は終えた。長い期間だった」
女「どれくらいですか」
男「知りたいか」
女「知りたくありません」
女「私は他人を見ることなんてどうでもいいんです。ちゃんと人間らしく、自分が自分をいかに素晴らしい人間か認識するために、他人によく見られることだけを考えます」
男「いかにも不幸になりそうな考え方だな」
女「嫌なことには目を閉じます。うっかり目に入ってしまわないように、あなたも見せないでください。男性のぽろりなんて御免被ります」
女「いや、それはそれで……」
男「お前は何なんだ」
女「それを知るためにも、私にはあなたが必要なんですよ」
男「過去の恐怖を乗り越えたいというやつか」
女「…………」
男「刑務所で1つ面白い話を聞いたことがある」
男「海外の話だ。10歳で大統領顕彰の学生賞を受賞した、頭脳が極めて優れた学生がいた」
男「学生が興味を抱いたのは連続殺人鬼(シリアルキラー)だった」
男「常人ではない者達の心理を追求しようとし、彼は多くの殺人鬼と交流を持とうとした」
男「自分は不幸な境遇にいると殺人鬼に見せかけ、同情を引き、自分に興味を抱かせることに成功した。彼は、“理解できないものの支配”を成し遂げようとしている自分に陶酔していたのかもしれない。ある時、殺人鬼との面会中に、彼は殺されそうになった。運良く生き延び、殺人鬼の死刑は執行された」
男「学生は弁護士になった。犯罪の被害者になった者を救うことを仕事にした。ところが、自身の頭部に銃を放ち、自殺してしまった」
男「お前風の優越感に浸れそうな表現をニーチェの言葉でしてやろう」
男「深淵を除く時、深淵もまた、こちらを覗いているのだ」
男「俺に関わるな。お前をレールから引きずり下ろした奴と、話しているようなものなんだぞ」
女「…………」
女「あの」
男「どうした」
女「私が髪型変えたの気付きました?」
男「またふざけた話題で誤魔化すつもりか」
女「気づかなかったですよね」
男「女の些細な変化などいちいち気にしていられん」
女「それは男性だからというだけじゃないでしょう」
女「あなたは、人の目を見ようとしません」
男「…………」
女「私も、人の目を見ようとしません」
女「深淵を見ることも、深淵から見られることもありません」
女「見抜くことも、見抜かれることもない湯船に浸かって、ただ目を閉じていればいいじゃないですか」
男「なおさらその相手が俺である必要はないだろう」
女「まぁ、そうかもしれませんね」
男「認めるのか」
女「道徳とか、論理とか、倫理とか持ち込んだらあなたとのんきにパスタ食べてる場合じゃないことくらい私にだってわかりますよ」
女「不謹慎は被害者の特権です。母も、自分の父親が亡くなるまで、父親を亡くした人を慰める言葉が見つからなかったそうですが、父を亡くしてからは、他の人の葬式の時に言葉をかけられるようになったそうです」
女「なんなんでしょうね。なんで出会ってしまったんでしょうね。あなたのこと毎晩拷問するような妄想にかけていたのに」
男「俺は張本人じゃない」
女「同罪ですよ」
男「拷問でもするか」
女「今日は夜も遅いのでいいです」
男「朝早くならするのか」
女「その時間は予定があるので」
男「忙しそうだな」
女「それではまた早朝。今日の0時までにパソコンで提出するレポートまだ書いてないので。お代、置いておきますね」ガタ
男「お、おい」
店員「お会計ですか?」
男「ああ……」
男「……はぁ。身勝手な女だ」
男「…………」
男「あの野郎、5千円札置いていきやがった」
男「去り方はかっこいいと認めるが……、セリフはこの上無くださかったな」
男「小走りしているのがここからでも見える」
男「……ふふ。ふっふっふ」
男「朝も夜も騒がしいやつだ」
女「おはようございます」
男「おはよう。先に来てたんだな」
女「えっへん」
男「街中の風呂はどうだった?」
女「行ってないですよ。風邪を引いて寝込んで、それからまたここで早朝にお風呂にはいって。あなたがいないもんですからワニのように待ち伏せて待ってたんです」
男「恐ろしいな」
女「えっへん」
男「俺に会いに来る口実に、女湯の故障を言い訳にできなくなってしまったな」
女「調子に乗らないでください」
男「お前がのぼせた姿は珍しかった」
女「あんなに浸かってたことないですもん。一日中ですよ」
男「その対価に俺と会話したところで何も得るものはないと思うがな」
女「それでは死にかけた時の話をしてください」
男「まぁ減るもんじゃないしいいだろう」
女「ちなみに女性は裸を見られると心がすり減りますからね。見ても減るもんじゃないとかいわないでくださいね」
男「俺が小学生の時の話だ」
女「いいスルー具合です」
男「俺は昔カナヅチだった。今もだが」
女「えー!?」
女「あっ、でも金槌っぽい。重そうだし」
男「そりゃどうも」
男「友達の親に海に遊びに連れて行ってもらったことがある。自動車酔いする俺のためにわざわざ電車でな。友達の人数も多かったしな」
男「遠出する時はいつも暑さや自動車酔いでぐったりしていたものだったから、元気なまま目的地についた俺は興奮していた」
男「友達を砂に埋めたり、埋められたり。砂浜を駆け回ったり、ボールをなげあったり」
男「小学生の夏を普通に楽しんでいたな」
男「友達は、拙いながらも泳ぐことができた。はじめは集団でボールを投げ合ったりしていた」
男「お昼ごはんも食べ、午後になった。皆まとまってやる遊びに飽きて、各々泳ぎだした」
男「俺も泳ぐ真似をした。一人だけ突っ立ってるのは恥ずかしかったからな」
男「明るい日差しの差す天候とは裏腹に、波の勢いは強い気がしていた」
男「顔に水をつけてるうちに、友達とはぐれてしまった。トイレに行ったり、飲み物を取りに行ったり、泳げるもの同士でみんな自由に行動していたんだろう」
男「俺はなんだか惨めな気がした。自分だけ泳げないし、自分だけ自動車に乗ると体調を崩す」
男「自分の親だけが、友達の親が迎えに来た時も挨拶にすら出てこない」
男「惨めさが怒りに変わり、俺はどうにでもなってしまえばいいと思って沖へ向かって進んでいった」
男「背は高かったから、足はついた。それでも次第に身体のコントロールが効かなくなっていった」
男「引き返そうと思ったがもう遅かった。パニックになって、慌てた俺は泳ごうとして、水の中に潜り込んでしまった」
男「次に目覚めたのは、夕方になった時だった」
男「悲しいことにな、自分で起きたんだ」
男「目が覚めると夕陽が差していた。俺は溺れかけ、失神したあと、なんとか浜辺まで押し戻されたらしかった」
男「周囲には何人も人がいた。友達もまさか俺が溺れかけていたとは思わず、泳げないから寝ていると思ったらしい」
男「もしも水が気道に詰まっていたら、俺は本当に死んでしまっていただろう」
男「生きてても死んでても見分けの付かない人間だと思った。ひどく孤独に感じたよ。帰り道一緒に帰っている時も、友情なんてものは存在しないんだと怒りに満ちてずっと無言になっていた」
男「その日の夜に風邪を引いた。親はふたりとも、別々の場所に外出をしていた」
男「布団に入っても身体は震えていた。そのくせ身体は熱かった。じっと寝ていることに耐えられなくなって布団から抜け出した。涼しさが心地よかった」
男「そのせいで風邪は悪化した。いっときの涼しさを求めて身体から熱が奪われているなんて気にもかけなかった。こういうのは、湯冷めと似ているな」
男「これでおしまいだ。お前の人生が実りあるものになるようなエピソードだったことを願うばかりだ」
女「それは、悲しい出来事でしたね」
男「不謹慎は被害者の特権だろ。お前なら笑ってもいいんだよ」
女「人の痛みがわかるのも被害者の特権です。肉体が死に近づいた時に覚える感情は孤独感であるということもわかってるつもりです」
女「友達はあなたが呼吸しているのを確かめた上で、放って置いたのだと思いますよ」
男「どうだかな。何時間も寝ていても問題ないような友達なら、そもそも誘う必要はなかっただろう。俺はあの頃から少し浮いていたからな。海に行く話題が出た時にたまたま俺もその場にいたから、一緒に行くことになっただけだったんだろう」
女「あなたも私と同じかもしれませんね。毎日こうやって、水への恐怖を乗り越えようとしているのかも」
男「温泉で海への克服か。そりゃあいいリハビリかもな」
女「今でも海は怖いですか?」
男「もっと怖いものといっぱい出会った。海への苦手意識も消えないが、海の方がマシだと思えるものの方が多いこともわかった」
女「例えばなんですか?」
男「嫌な人間とかだな」
女「それは、嫌な海より嫌かもしれないですね」
男「話はおしまいだ」ザバァ
女「もうあがるんですか」
男「定位置につくだけだ。奥側は俺の席だ。どけ」
女「気を遣わなくてもいいですって」
男「さっきからずっと俯いてるだろう。俺以上に根暗に見えるぞ」
女「そういうことは口に出さずに遠回しに言うものだと思います」ザバァ
男「だから俺の定位置に座ると言ってるだろう」
女「座る場所にはこだわらないって言ってたくせに」
男「じゃあどういえば良いんだ」
女「そうですね……」
女「こうしましょう。私の身体の魅力に理性を失ったあなたがいつ襲い掛かってきても逃げられるように、入口付近に私はこれからも座り続けます」
女「これならみんな納得しますね」
男「…………」
女「もしもーし」
男「…………」
女「溺れていませんか?」
男「起きてる」
女「ならよかったです」
男「ふて寝するがな」
女「ちょっと!すみませんってば!」
男「おはよう」
女「おはようございます」
男「…………」
女「…………」
男「触れてもいいか?」
女「駄目です」
男「どうして私服で風呂に来てる?」
女「美しい景観は損ねていません」
男「そうだが……」
女「何か昔話でもしてください。他の話題を求めます」
男「…………」
男「小学生の時に、女子がプールを見学していたが、あれは」
女「他の話題だって言ったじゃないですか!」
男「ここは学校じゃないんだ。わざわざ来ることもなかっただろうに」
女「無言で来なかったらあなたが悲しむじゃないですか」
男「風呂なしアパートだとこういう時に困るんだな」
女「家で髪の毛だけでも洗面所で洗って、身体はタオルで拭くことにします。幸い大学も夏休みに入りましたし」
男「本当にか?お前が本当にそんな面倒なことをしてまで清潔を保つのか?」
女「……保ちますよ」
男「目が泳いでるぞ」
女「金槌の人に言われたくないです」
男「泳げて羨ましい限りだ」
女「おはようございます」
男「おはよう。今日も早いな」
女「そういえば、私がのぼせて気絶した日の話なんですけど」
男「どうした」
女「私の裸見てませんよね」
男「見てない。おぶったが」
女「おんぶしたんですか!?」
男「他にどう持てと」
女「お姫様抱っこでいいじゃないですか!!」
男「それは……そっちの方がハードルが高い。見られているようで困る」
女「気絶してたんなら見えないでしょう」
男「気絶した方が悪い。ごちゃごちゃ言うな」
女「開き直った!?」
男「おはよう。今日も早いな」
女「おはようございます。さぁ、私を襲わないうちにはやく奥へ」
男「はいはい」
女「大学生で夏休みにこんなに律儀に早起きしてるの私くらいですよ」
男「家で何してるんだ?」
女「就職活動も私は終わってますし、卒業論文の準備と、あとは不登校の時にしてたようなことです。本を呼んだり、映画を観たり」
男「文化的だな」
女「私も来年から働くんですね。ああ、日曜日の夜が憂鬱になってしまうのかぁ」
男「それは今までだって一緒だったんじゃないか」
女「これからはもっと大変でしょう」
女「月曜日の朝を楽しみに感じるような人を勝ち組というんでしょうね」
女「不登校の私は、むしろ誰とも会わない平日が安心できて、休日に外出するのを控えていましたからね」
女「平日も休日も、どちらも楽しく過ごせたらいいのになぁ」
男「そんなお前が朝風呂に入っているのは凄いことだな」
女「……ふっふっふ」
女「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、ですよ」
女「お風呂嫌いの私が少しでもお風呂を好きになれるように、お母さんが私にプレゼントしてくれたものがあるんです」
女「誕生日でもクリスマスイブでもないのに、プレゼントをしてくれたことは珍しかったんです。あれは不登校の1月ごろのことだったでしょうか」
女「荒んでいてろくに口も聞かなかった私に、メッセージとともに包みを部屋に置いていてくれたんです」
女「風呂上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法」
女「包みをあけるとバスタオルが2枚入っていました。何の変哲もない、キャラクターも何も描かれていないタオルです」
女「おちょくられている気がして一瞬腹が立ちました。ただ、手に持った瞬間に、心地の良い違和感があったんです。手触りが、なんだかやわらかい」
女「本物っていうのは絶妙なんですね。100%弾くとか、100%吸収するというのは二流の中の最高級品で。一流の物は、100%も100点も決して取らないように気をつけているんですね。少し、しっとりとしていました」
女「今身体に巻いているタオルは普通のバスタオルですが、身体を拭くタオルは別物なんです」
女「今治タオル、というものをご存知でしょうか。愛媛県今治市は伝統的なタオルの産地です。品質テストに合格したものが、今治タオルブランドとして販売されいます」
女「ティファニーやブルガリはブランドであるということくらいしか知らなかった私ですが、今治タオルというものが追加されて妙な気分でした」
女「その日は寝る前にお風呂に入るのが楽しみになりました。冬場の脱衣場の寒さが大嫌いだったのに、お風呂からあがるのを待ち遠しく思いました」
女「お風呂からあがり、身体を拭いてみたところ、なんとなくよかったんですよ。なんとなくいいな、と思った繊維が頭から包み込んでくれて。髪の毛もいつもほどにはワシャワシャしなくてもいい感じで」
女「癖になりました。お気に入りの枕が見つかったようなものです。タオルなんかにお金をかけるのは馬鹿馬鹿しいと、裕福な家庭の娘ながら思っていましたが。やはり高級なものは高級な理由があるんですね」
女「熟睡するには安心できる目覚まし時計を持てばいいんです。ゆっくりお風呂につかりたいなら最高のバスタオルを。デザートが梅干しだって聞かされてたら、フレンチのフルコースもしょっぱく感じてしまうでしょう?」
女「終わりよければ全て良しといいますが、終わりがよければ過程もよくなってしまうんですね。過程が良いから終わりがよくなるわけでもなく」
女「お風呂に入る前から、良いタオルが私を待っていると知っている。お風呂に入る前から、楽しい話題を共有してくれる人が待っていると知っている」
女「それが私が朝混浴を継続できている秘訣かもしれませんね」
女「以上、宣伝でした」
男「今治市のまわしものか?」
女「根っからの東京育ちですね」
男「見た目は普通のタオルと違うのか」
女「すこしモコモコしている感じはしますかね」
男「耐久力はあるのか」
女「高級なものが脆いなんてのは偏見ですよ。雑に扱わなければ長く使えるのは靴と一緒です」
男「ほう、そうか。」
女「興味がおありですか」
男「けっこうな。安いタオルしか使ったことがないから、どういう違いがあるのか知りたい」
女「女の子の下着以外で初めて興味を持った布ですか」
男「今治タオル製の下着があったら凄い興味がわいてしまうかもな」
女「あくまでタオルですから……」
男「わるい、少しのぼせた」ザバァ
女「知ってます。それではまた早朝」
男「ああ、また早朝」
おぶらない。
かけない。※水
しせんをむけない。
もまない。
混浴では、マナーを守りましょう。
社会でも、マナーを守りましょう。
さもなくば、この空間に、浸かる資格が与えられません。
次回「勃起してるってことですか?」
浸かっては出るのを繰り返すように。
話しては離されることの繰り返しで。
あなたといるのにも、あなたといないのにも、少し、疲れてきちゃいました。
今日はここでおしまいです。
様々な都道府県にいる人が読んでくださっているので驚いています。
それでは、おやすみなさい。
男「おはよう」
女「おはようございます」
女「知ってますか?」
男「知ってる」
女「そうですか」
男「…………」
女「…………」
男「何がだ」
女「もうすぐ花火大会があるそうです。市内の掲示板にポスターが貼られていました」
男「そうだな」
女「その後に夏祭りも。私の地元では夏祭りと花火は同日だったので、ちょっと珍しく感じます」
男「そうか」
女「楽しみですね」
男「そうだな」
女「それにしても、最初のくだらないボケはなんだったんですか」
男「今日は既にちょっとのぼせているんだ」
女「おはようございます」
男「おはよう」
女「さぁ、私を襲わないうちに奥へ」
男「このくだり毎回やるのか」
女「アルバイトとか仕事だと、早く終わった人がお先ですっていうらしいじゃないですか。目上の人と温泉に来た時に早くあがるときも言うべきですかね」
男「知らん。俺は相手が出るまで耐えるからな」
女「お風呂の場合だと、先に入ってしまったときに言うべきかもしれませんね。お先です、一番風呂頂いちゃってます、ってな感じで」
男「一番風呂は好きか?」
女「嫌いではないですが。家でも気にしませんね。お父さんが入った湯を全部入れ替える、という残虐非道なことはしたことがありません。むしろ、怖い映画を観た後にお風呂に入った時に、お父さんの股間の毛らしきものが浮かんでいるのを見ると、こんな場所にお化けは出てこないだろうなと少し安堵さえします」
男「…………」
女「あ、男さんの浮いてる」
男「えっ」バシャ…
女「嘘です」
男「エイプリルフールじゃないぞ今日は」
女「おはようございます。お先です」
男「おはよう」
女「夏はいいですね。脱衣場が寒くないです」
女「脱衣場が寒いせいで、国民の生産性は減少していますからね」
男「またよくわからない持論を」
女「おふろ入らなくちゃいけないなと思いながら、それでも入りたく無くて迷ってるうちに、電気つけたまま寝ちゃったことが20回くらいあるんです」
女「浅い睡眠で早朝に目覚めた時の損した気持ちなんか筆舌に尽くしがたいです。いや、ペンがあったら紙いっぱいに損という文字で埋め尽くしたいくらいです」
女「こんなことならさっさと寝るのを決め込んで朝入っておけばよかったなって」
男「それで今に至るのか」
女「あまりに早い段階で敗北を認めると新たな道がひらけるんですよ。」
男「もしも朝寝坊したらどうするんだ」
女「周囲にばれやしないかと一日ドキドキしながら過ごしたことも5回くらいあります」
男「うまくいかないものだな」
男「おはよう」
女「…………」
男「おはよう」
女「…………」
男「おはようございます。お先です」
女「うむ。おはよう」
男「ちょっと考えてみたんだ。お前が昨日話した寝る前の風呂の話について」
女「私がお風呂で裸姿になることについて妄想してどうしたんですか?」
男「そこまではっきり間違えるなら、お前の耳が遠くなったんじゃなくて、きっと俺の滑舌が物凄く悪かったんだろう」
女「それでそれで?」
男「お風呂が嫌いなお前からすると、入浴は義務で睡眠は欲求なんだろう」
女「そうですね。私の場合三大欲求ではなく、三大義務に含まれますね」
女「入浴の義務、教育の義務、勤労の義務、納税の義務。お母さんのお仕事と一緒ですね。泣きじゃくる子供を説得の末お風呂に入れさせて、布団からでない子供を叱りながら学校に行かせて、励ましながら社会に巣立たせて、税金を収めさせる。その最初の関門でした」
女「お風呂に入らなければ、学校でも爪弾きにされ、社会でも居場所を与えられませんからね。いやはや、恐ろしい話です」
男「俺もとりわけ疲れた日は、寝てしまいたくなるな。どんなに眠くても入浴と歯磨きはしてるが」
女「人間の鏡です。二宮尊徳の像の代わりに、湯船に浸かって歯を磨くあなたの像を学校に飾らせましょう」
男「いたづらされること間違いなしだな」
女「運動なんてした日は、眠いのに汗をかいていますからね。その時は入るしか無いと諦めて屈服できますが。嫌な目に遭ったりしたときは、帰ってベッドに飛び込んでから、今日の出来事やこれからの未来に悩むことに時間を使えばいいのか、お風呂に入ればいいのか、寝ればいいのかで迷って、結局電気をつけたまま寝てしまい何も解決できないんですよね」
女「頭のなかにフランクなお兄さんを召喚して、とりあえずごちゃごちゃかんがえてねーで風呂入ろうや、な?と言って貰ってとりあえず寝ることにしています」
女「考え事をするか、お風呂に入るか眠るかで迷っているうちはどれも解決しませんね。風呂に入れば、悩みも解決しやすい。寝れば、悩みも解決しやすい。要するに、悩むという選択肢以外なら正解なんですね」
女「迷ったら、お風呂に入る。迷ったら、寝る。人生の優先事項を決めつける」
女「私の場合は、1早寝、2早起き、3お風呂、4その他」
女「その他には恋愛や仕事など大事なことも含まれているけど気にしなくても大丈夫。先の3つさえうまくやれば、他のものもうまくまわりはじめるんですから」
女「昼夜逆転している不登校の時に一生懸命考えた人生哲学なんですが、人生の先輩としていかがですか?」
男「……その他とお風呂の優先事項が逆だ」
女「えっ?」
男「……その他には身の安全も含まれる」ザバァ
女「のぼせてたんなら早く言って下さい!」
女「おはようございます」
男「おはよう」
女「屈斜路湖露天風呂、私も行ってみたいなぁ」
男「お先ですブームは去ったのか」ボソ…
女「行ったら感動するんだろうなぁ」
男「お前にはまだ早いだろう」
女「なんですか。あなたも行ったことないくせに」
男「寝不足な日の睡眠や、腹が減った時の食事と同じだ。本当に疲れたことのある人しか温泉の良さはわからない」
女「どうして禁欲した後のアダルトビデオ鑑賞を除いたんでしょうか」
男「美しい景観を損ねる声の無き様」
女「男さんも苦労人そうですもんね。毎朝美しい女子大生を拝むことで心を癒やしている孤独なワニですもんね」
男「馬鹿言うな。どちらかというと俺はワニではなく白鳥だ。苦労は表に出さず、水面下では足をばたばた動かして必死だ」
女「勃起してるってことですか?」
男「美しい景観を損ねる声の無き様」ピュー
女「うわっ!その手で水鉄砲つくるやつ懐かしい!私できないんです!」
男「教えてやらん」ピュー
女「うわ、ギブアップ!すみませんでした!清楚になります!」
女「もうすぐ何の日か知ってますよね」
男「お前の誕生日か」
女「私は冬生まれです」
男「何かあったっけか」
女「まぶたを閉じると観えてきませんか?」
男「花火大会か」
女「即答ですか。そうですよ。楽しみですよね」
男「ああ」
女「言わないんですか?」
男「何を」
女「一緒に、夜空に浮かぶ花を見に行こう」
男「そういうセリフを吐くことを黒歴史というんじゃなかったか」
女「いいじゃないですか。善良なる市民で知られずに終えるより、歴史に汚名を刻む方が」
男「わざわざ街中まで観にいかん」
女「はぁー!?はぁー!?」
女「はぁーーーー!?」
男「ここから観えるからな」
女「えっ、そうなんですか!?」
男「それにしても、意外だな」
女「憎き夜の思い出詰まった花火を見たがる心理がですか?」
男「それ」
女「過去を乗り越えたいという思いとはまた別の気持ちですね。単に時が経つにつれて、花火を観たがる自分になったんですよ」
女「でも、そう思えるようになったのは、やはりあの事件が原因なのでしょう。すくすくと何事もなく育ったままだったら、美しい景色や手触りの違うバスタオルに、ここまで興味をひかれることもなかったままだったと思います」
女「だから、なおさら嫌なんですけどね。つらい出来事があったおかげで良い出来事と巡り会えただなんて言ったら、つらい出来事を肯定しているみたいじゃないですか。ただひたすら、なければよかったって思いますよ」
男「…………」
女「あっ、傷ついてる。俺と出会えた今を否定するのかって、泣きそうになってる」
男「ああいえばこういうし黙ればそういう奴だな」
女「ということで、その日は夜にお風呂に入りましょうか」
男「早朝ルールを破るのか」
女「いいじゃないですか。減るもんじゃあるまいし」
男「ワニが来て心がすり減るかもしれないぞ」
女「私の裸なんかより、花火の方がよっぽど見応えありますよ。ボン、キュッ、ボンです」
男「まぁ、いいが」
女「やったー!!!!」
男「だが」
女「いぇーい!!」
女「せんせーい!バナナはお弁当箱に入りますか??」
女「大きいお弁当箱になら入りまーす!!!」
男「落ち着け。行ける約束はできん」
女「…………」
女「…………」
女「…………」
男「いきなり落ち込むな」
女「も、もしかして……」
女「ほ、ほかに、ボン、キュッ、ボンがいたんですか?」クィ
男「小指を立てながら質問してこなかったらその難解な表現を理解できなったぞ」
男「女関係じゃない。ちょっと調べごとがあって、数日かかる」
女「なんですかその探偵みたいな仕事は」
男「俺は探偵に捕まる方だがな」
女「はい、過去の重い話題禁止。深淵禁止。表面上の付き合いで楽しみましょうや」
男「気楽なやつだ」
女「目指すは極楽なやつです」
女「調べごとなんてネットで調べればいいじゃないですか」
男「こう見えても図書館にあるのを時々使う」
女「パソコンに座ってる姿あんまり想像できないです」
男「タイピングというやつが苦手だ。手書きで入力している」
女「不器用!!でもちょっと不器用なほうがいいかも!!」
男「どっちだ」
女「どんなこと調べてるんですか?」
男「うるさい 女性 心理」
女「完璧に使いこなしてますね」
男「冗談だ。ネットには載ってないこともあるから困る」
女「どんなことですか」
男「ネットに載せてはいけないこと」
女「とんちですか」
男「お前はネットは好きか」
女「私の記事が探せば出てくることを除けば大好きです」
男「大嫌いというわけか」
女「SNSは大好きですけどね」
男「パンケーキがどうのこうのやつか」
女「ああ、今さっきあなたの言ったことがわかる気がしました。ネットには、ネットに載せたくないことは誰も書き込みませんものね」
女「お風呂に入る前に見た朝日も、お風呂上がりの出来事も載せたことはありますが、みんな私が早朝に温泉に行ってることは知りません。あなたと出会う前から言ってませんでした」
女「悲しいですね。ネットに載せたくないほどよき出来事は、ネットには載ってないなんて」
男「携帯電話も持ってない俺はその悲しさとは無縁だな」
女「現実の人には伝えたくないほどよき言葉もネットにはありますからね」
男「どんなだ」
女「現実の人には教えられません~」
男「のぼせた。もうあがる」ザバァ…
女「すねないでください~」
女「あっ!おはようございます」
「…………」
女「(やば、普通のお婆ちゃんだった。珍しいな)」
女「(まだかな…男さん来ないなぁ)」
女「(なんか調べごとがどうのこうの言ってたような)」
女「(今日は忙しいのかな)」
それから数日間、男さんは温泉に来ませんでした。
朝が駄目なら夜にと思って来てみても、男さんは現れません。
私と会う気がなくなったのかな、と気弱な考えが浮かぶこともありますが、そうではないでしょう。
私に会う気がないなら、はっきりないと言ってから去る人でしょう。冗談みたいな会話をした日を最後に、果たす気のない約束をする人には思えません。
あの人はあの人で、耐えるだけの自分を乗り越えて、突き放すことを覚えたのだと思います。熱い湯船からすぐあがるのは意識の表れの1つでしょう。
だとするのなら。
何か、よくないできごとがあったんでしょうか。
あるいは。
あの人自ら、よくない出来事に近づいているのでしょうか。
女「いよいよ明日が花火ですね」
女「朝も夜もお風呂に入ってますよ。お風呂嫌いだった少女が1日に2回もお風呂。湯当たりしちゃいますよ」
女「あなたがこないままのぼせて気絶でもしたら大変なので、また一日中張り付くようなことはできませんからね」
女「置き手紙でも何でもいいからしてくれたらいいのに」
女「はぁー。それでは早朝。あ、次は夜か」ザバァ
女「一応朝に行ってみたけどやっぱり来なかったな」
女「本当に、夜来るのかなぁ」
女「何を調べているんだろう。それは、私と会話するよりは大事なことなんだな」
女「はぁー。はぁー。ため息とともに幸せがどんどん減っていく」
女「女子大生の最後がこれでいいのかー」
女「みんなと遊園地行ったり、ボーリングしにいったり、若者の集う場所で遊ぶのが正しいんだろうな」
女「田舎にうちあがる花火と温泉だなんて、老後の楽しみに近いような」
女「そうだね。私は理想の老後を大学生のうちに経験しておけばいいんだった」
女「あわよくば、縁側に、寄り添える人がいるような」
女「もういい時間だな。小さな星も見えてきた。温泉から見る夜空は素敵だな」
女「今日はお客さん誰も来ないな。あの向こう側の川沿いから打ち上げるなら、ここからだと綺麗に見えるだろうな。確かにいい穴場スポットだ。こんな特等席、見つけても友人にシェアはできないな」
女「舞台は揃っているのに、役者が足りないっていうのはこのことだな」
女「お星様と、お姫様と……」
私がさみしく独り言をつぶやいていると、王子様、ではなく花火様が夜空に現れました。
左目の視力が良かったと、ほとほと感じます。
右目の分の負荷がかかり疲れやすくはありましたが、視力は友達より高いままです。世を捨て夜中にテレビを観ていた時期の影響も少なかったようで何よりです。
女「はやく来てくれませんか」
女「感想や感動なんて一瞬で、花火よりも早く言葉は消えてしまうんですよ」
女「ささいなことでいいから話したいですよ」
女「花火と夏と温泉の組み合わせって、素直でいいってこととか。こたつに入りながら雪をみることや、真夏にプール入ることなんかと違って、暑い中、熱いところに入って、火を見ることに幸福を感じる」
女「磁石の同じ極同士がくっつきあうような、奇跡とでも呼ぶべきことなんですよ」
女「でもこういうとあなたはまた無言になりますかね。そして私はおちょくるんですよ」
女「本来正反対の私達が出会ったことは、S極とN極がくっつくように自然なことだったと思いますかと」
女「花火と磁石なんて関係ないのにな。こんな綺麗な光景を前に小難しい話をしたくなるのはあなたの影響かもしれませんね」
女「もういいですよ。後日あったら散々自慢してあげますから。綺麗な女子大生がうじゃうじゃ来たって言ってやりますから。それで喜ばれたら沈めますけどね」
女「はやくこないと、のぼせてあがっちゃいますよ」
オレンジ色、茜色、緑色、ピンク色。
目を閉じて見るまぶたのうらのはなびより。
目を閉じて思い出す過去に観た花火より。
今、目を開けてみているこの美しき花火を。
過去の何物でも、誰とでもなく。
あなたと過去を共有するのでも、あなた以外の人と今を共有するのでもなく。
今、ここで、あなたと……
「……ひさしぶり」
もしも心に押し隠している目いっぱいの期待さえなかったら、今立った鳥肌の意味をちゃんと理解できていたかもしれない。
女「だれ?」
「…………」
男性の声だった。
聞き覚えのある声だった。
「ずっと探していた」
毎日思い続けていた人だった。
「ずっと探していたんだ」
忘れられない人だった。
悲しき人だった。
「今だから告げよう」
出会ってはいけない人だった。
私の人生を変えた人だった。
「君のお母さんを、愛していた」
手には、わりばしが握られていた。
男性は、8年前のあの夏の夜よりも、いきいきと輝いているように見えた。
ドーン。
パチパチパチ。
ドーン。
花火が浴衣をすり抜けて、いきなり心臓に触れてきても私は不快に思わない。
あなたが無遠慮な会話をして、土足で私の心に踏み込んできても、やっぱり嫌いにはならないでしょう。
そんなあなたと出会えた今を祝って。
そんなあなたと出会うきっかけとなった過去を呪って。
ただひたすら、この時間が続けばいいのにと願うはずだった今日が。
ただひたすら、なければよかったのにと願った過去に、塗り潰されてしまいそうです。
次回「18,000÷365×50=」
あなたも、泣かないで。
私の目を、見て。
温泉の中でありながら、真っ黒いジャージを着たまま男は立っていた。
女「……ぁ……」
言葉が出ない。
思考がまとまらない。
一体、何をしにきたんだろうか。
謝罪をしにきたわけではないのだろう。
その手にもつわりばしの意味は何なのだろう。
「大きくなったね」
身動き1つまともにとれないのに、普段は決してできないこと―相手の目を見ること―ができた。
目は、合わなかった。
相手も私を見ているにも関わらずだ。
(人の目は、同時に相手の両目を見れない)
いつかの男さんの言葉を思い出す。
男性は、私の義眼をみていた。
裁判の過程で同じことをされたことがある。当時は眼帯をつけていたが、自分が奪ったものを確かめるかのようにじっと見つめてきたのだった。
男性は、今度は私の左目を見つめて、こう言った。
「君から花火を、うばいにきた」
「私もそうだった!!!!」
いきなり大声をあげ、湯の中に踏み込んできた。
水しぶきがあがって身体にかかった。
私はいつもの定位置から離れ、男さんが普段座っているところまで足を震わせながら進んだ。
「"あの時ああしていれば!!!"」
「このくだらない!!このくだらないセリフを!!何度吐いたことか!!!!」
男性は激昂していた。
「だったらせめてその一部くらい、君にも味あわせてやりたかったんだ!!!」
宙を見て叫んだ。
私のことなんか見ていないようだった。
「僕は臆病だ……」
昂ぶっていた男性は一転、突然萎縮しながらぼそぼそとつぶやきはじめた。
「人が怖い……人を見るのが怖い……人から見られるのが怖い」
「君に僕を見られるのが1番怖い……」
「君が現れるといつも僕は物陰に隠れ……君が視界からいなくなると君の姿を探した」
「太陽と月のような関係だった」
「君は僕には決して気づかなかった。それは仕方のないことだった。しかし罪深いことだった」
「君は僕を見るべきだった。そのことで、死ぬまで後悔してほしい。そうすれば、僕の過去が報われる」
宙を見るのをやめ、私を見てこう言った。
「お母さんにそう告げてくれ。そのために、その目を奪う必要があったということも」
これから行うことを告げられた。
目の前に迫った恐怖に絶望し、早く死なせてほしい、と願った。
ぎりぎりまで逃げなければ。
そう思って立とうとした途端、めまいがした。
のぼせてしまっていたんだろうか。
こんな大事な時にのぼせるなんて馬鹿みたいだなと思った。
頭のおかしい犯罪者と、タオルを巻いた女子大生が、混浴で対峙しているこの状況も傍目からしたら滑稽に観えるんだろうか。
右目を奪われて生きるのと、溺れて死ぬならどちらの方がマシだろう。
すくなくとも、数年前に遭ったあの激痛にはもう耐えられない。
もう一度叫ぼうとしたが、声が震えて消えてしまった。
足がもつれて転んでしまった。
足首を掴まれた。
私は串で神経を抜かれる魚のようにぶるぶると痙攣した。
こんなに温泉を、冷たく感じたことはなかった。
水が見える。
あぶくが見える。
私の手が見える。
この景色も、1秒後には奪われてしまうのだろうか。
一人の男の理不尽な暴力によって、私は尊厳を奪われてしまうのだろうか。
奇跡が起きてほしかった。
あの頃から何も変わらず、目を背けてばかりの私。
8年前と今の私、違うものは、一体。
恐怖でもがき続けている私は、疲労を感じはじめていた。
一人でばしゃばしゃと何十秒も暴れているだけで、足首をもう掴まれていないことにも気づいた。
何かがおかしい気がした。
女「……ぶはぁ!!」
女「はぁ…!はぁ…!何が…」
女「う、うわぁ!!」
危険は去っていなかった。
しかし、それは無力だった。
身体がぐにゃぐにゃになった男性が、男さんの腕から身を乗り出し、折れた割り箸を口に咥えて必死で私に近づこうとしていた。
男さんは左腕に包帯を巻いていた。右腕だけで男性を制し、身体の破壊を続けていた。
ぐ、ぐががが。君の悪い声が男性から漏れていた。
自分が破壊されながらも、それ以上に私の破壊を試みる姿は、知能を失った悲しきロボットのようだった。
男「下手に動くな。100まで数えて浸かってろ」
口調は普段と同じだったが、表情は酷く疲れているようだった。
男さんの肩からは血がポタポタと流れていた。
男性の口からは血がポタポタと流れ落ちていた。
男性はもぞもぞと動いていた。必死でジャージのポケットに手を伸ばそうとしていた。
女「男さん!そいつ、何かポケットにいれてる!!」
私の気づきは、少しだけ遅かった。
男さんはふとももを深々と刺された。
男性は身を乗り出して、私に近づいてきた。
口元に咥えていたわりばしを手に持ち、構えた。
男さんは男性の頭を掴み、物凄い勢いで水中に沈めた。
水上にも聞こえてくるくらいの音で、何度も地面に叩きつけた。
湯はみるみるうちに赤く染まっていった。
私のバスタオルも赤く染まった。
そして、静かになった。
女「…………」
女「し、しんだんですか」
男「死んだんじゃない。俺が殺したんだ」
女「せ、せいとうぼうえいです」
男「あんなに何度も頭をうちつける必要はなかった」
女「だったらどうして」
男「死なない限り、また10年後にでもお前のところに現れると思った。その執念を感じた」
女「そのせいで、あなたともまた10年も会えなくなってしまいます」
男「10年なんて贅沢な時間は残されていない」
女「し、しけいになりませんよ。私が庇いますよ」
男「殺されるんだよ俺は。それも、皮肉なことに、刑期を終える予定の奴にな」
男「医者のあんたの父親にできないようなことといったら、俺には暴力しか残されてないんだ。冥土の置き土産に、暴力を残してやった」
女「怒りますよ」
男「怒ればいい。俺は、幸せになってはいけない人間だしな」
女「男さん」
男「どうした」
女「泣いてるじゃないですか」
男「見えるのか」
女「見えますよ。あなたのおかげで」
男「俺は、涙で何も見えないけどな」
女「男さん」
男「なんだ」
女「夏と花火と温泉っていい組み合わせだと思いません?」
男「そうだな」
女「私と男さんっていい組み合わせだと思いません?」
男「どうだかな」
女「今度、違う場所の混浴にも行ってみません?」
男「どうしたんだ」
女「このまま、また、日常に戻れませんかね」
男「戻ればいいだろ」
女「一緒にですよ」
男「お前は一人だ」
女「男さんは」
男「俺はこの死体と一緒だ」
女「どうするんですか」
男「今からいつものように後処理の仕事をする。客が俺になっただけだ」
女「殺し屋だったんですか」
男「殺したのは過去に一度だけだ。それでずっと刑務所にいた」
女「誰を殺したんですか」
男「命の恩人だ」
女「私の知ってる人ですか」
男「親父さんだ」
女「えっ」
男「親父さんを、殺したんだ」
今日はここまでです。
読んでくれてありがとうございます。
お仕事の都合で、来週に続きを書くことになります。申し訳ない。
お風呂は嫌いなので明日の朝に入ります。おやすみなさい。
仕事はこれ以上にないくらいに順調だった。
飲食店、パチンコ店、裏カジノ、風俗店等へのみかじめ料(守料)の設定、取立。
借金の持ちかけ・取立。
揉め事が起きた時の仲裁・肩入れ。
企業に対する総会屋紛いの脅し・総会屋対策の用心棒の請負。
暴力が関わるあらゆる仕事で、俺は他人の半分の努力で、他人の倍以上の成果をあげることができた。
親父さんのもとでずっと働いてきた年上の男を追い抜き、俺は親父さんの右腕になった。
親父「かわいい息子だ。本当の息子のようだ。お前が俺のもとへ来てくれてよかった」
親父さんは寿司を食べながら満足気に笑った。
親父「ほら、飲め飲め」
男「酒は大丈夫っす」
親父「そうか」
親父さんは左手に持ったビールを、1時間前から親父さんの足元で土下座している男の頭に流した。
床ににおいがうつるのでやめてほしいと思った。
男「また出張ですか」
親父「嫌か。電車なら酔わないんじゃなかったか」
男「嫌じゃないですが」
親父「ついでに羽を伸ばしてこい。九州には上手い食べ物がいっぱいあるぞ」
男「働きますよ」
親父「死なない程度に頼むよ」
男「うさぎと亀の話ってあるじゃないですか。あの話の教訓はなんだと思います?」
親父「俺に人生論を語るつもりか」
男「はい。走るうさぎには誰も勝てないということです」
男「俺はこの世界で頂上に登り詰めますよ」
俺は、自惚れていた。
それは、自分が優れた人間であるとか、他人が劣った人間であるとか、そんな単純な勘違いではなく。
自分は幸せというものについて理解しているという、恐ろしい勘違いだった。
幸せは、制するものだと思っていたのだった。
最近、事務所にいる時間が少なくなっている。
やけに遠くの地に仕事で行かされる。
暴力とはまるで無縁の、倉庫の物品の確認をやらされることもある。
こんな仕事ならわざわざ俺にやらせる必要はないと不満に感じてもいたが。
俺は想像した。
俺の最近の活躍ぶりを、煙たがっている人間は多い。
年上の男の年下の男に対する嫉妬は深い。
自分より仕事のできる年下など絶対に認められない。
これが表の男の世界なら、頭脳や学歴に。
女の世界なら若さや美貌に向かうのかもしれないが。
俺のいる狭い社会では、暴力に価値が置かれる。
そして、俺は1番暴力に恵まれていた。
男「俺の才能が軋轢を生んでいるのかもしれないな」
傲慢も甚だしい独り言をつぶやいていられるほど、俺はまだ愚かでいられた。
親父「久しぶりだな、お前とこうやって湯に浸かるのは」
男「そうですね」
親父「うちには慣れたか」
男「仕事にはなれましたが、親父さんは遥か彼方です」
親父「失礼な馬鹿だな。そもそも土俵がちげぇんだよ」
男「今いる土俵は好きです」
親父「暴力が向いてると思うか」
男「はい」
親父「暴力は好きか」
男「感情は持ち込みません」
親父「嫌いだろ」
男「わかりません」
親父「わからないってことはノーってことなんだよ」
親父「お前、スカウト来てるだろ」
男「来てます」
親父「いくらでもちかけられた」
男「今の二倍ほど」
親父「どうして断った」
男「わかりません」
親父「わかりませんじゃわからないだろ」
男「わからないものはわからないですよね」
親父「裏切ったりしないよな」
男「安心したいなら、今の二倍俺に金を積んでくれればいい」
親父「本気で言ってるのか」
男「冗談でからかったりしませんよ」
親父「随分偉そうになったな」
男「本音で話せるようになるまで働いただけです」
親父「積もう」
男「本当ですか」
親父「その代わり裏切るなよ」
男「はなからそのつもりはありませんよ」
親父「一生誓うか」
男「義理を忘れるわけありません」
親父「なら、お前も刺青入れるか」
男「それは断ってるじゃないですか」
親父「形で示せ。俺も今金で示した」
男「義理を形で示したのが刺青ってことですか」
親父「どうして嫌がるんだよ」
男「今までの自分を失ってしまいそうだから」
親父「まだ自分のことが好きなのか」
男「好き嫌いじゃないですよ」
親父「じゃあなんだ」
男「それは……」
母親という呪縛から、逃れられないでいるから。
ここまでの本音は言えなかった。
男「親父さんは、まだ諦めていませんか」
親父「かつて見た美女との再会か?」
男「はい」
親父「あれは追う夢じゃないからな」
男「じゃあなんですか」
親父「見る夢だ」
男「追う力が今ならあるでしょう」
親父「俺にだって怖いものがあるんだよ」
男「後悔しませんか」
親父「少し黙れ」
男「はい……」
親父「…………」
男「…………」
親父「のぼせてないか」
男「えっ」
親父「よく喋ってるだろ。のぼせてるんじゃないかって」
男「少しだけ。でも大丈夫です」
親父「そうか」
男「はい」
親父「悪かったな。出会った頃は、無理やり長湯に付き合わせちまって。のぼせてたんだろ」
男「い、いいんですよ」
親父「上がりたきゃあがれ」
男「親父さん」
親父「なんだ」
男「不治の病かなんかですか」
親父「馬鹿言え」
男「す、すいません」
親父「温泉入っているうちは健康だ」
男「そうですね」
男「裏の大阪は、噂以上に危険でしたね」
親父「飯はうまかったろ」
男「親父さん、どうして表と裏が生まれてしまうんですかね」
親父「表と裏?」
男「昼間の街と夜の街です。あるいは、犯罪があるかないか。薬と、ギャンブルと、貧困と、性」
男「どうして裏の世界が生まれてしまうんでしょうか」
親父「裏は昔からあったものだろ。それだけで楽しいというものだ。一人の快楽が全体への害を上回ったら取り締まられるんだよ。タバコが許されてるのは税金のおかげだ。パチンコが許されているんだから、今にギャンブルも公に認められるようになる」
男「そうですか……」
親父「お前、しばらくここに住め。そのくだらない考え事もしながら働ける」
男「急ですね」
親父「関西をお前に任せる。そろそろ独り立ちしてもらわないとな」
男「いいんですか」
親父「嬉しいか」
男「暴力だけで解決できますか」
親父「出来ないことの方が多い」
男「大丈夫ですか」
親父「俺に大丈夫を求めるな」
男「…………」
親父「細かいことは今日来た事務所の連中に聞け。それじゃあ、達者でな」
俺はこの夜近くのホテルに泊まりに行く、のではなく、親父さんを尾行した。
仕事を放棄したのはこの日が初めてだった。
翌日の出社には確実に間に合わないが、多少言うことに逆らっても問題はないという自惚れもあった。
親父さんは警戒心の強い人間だったが、俺も仕事で尾行することには慣れていた。
大阪から名古屋、名古屋から都内まで移動し、事務所に一度寄った後、親父さんはボロアパートの中に入っていった。
ここで暮らしているのだろうか。
人前では豪快なお金の使い方をするが、本当はお金に余裕がなかったりするのだろうか。
親父さんの家庭の事情はよく知らない。
息子が欲しかったとよく言っていたが、あれは本心なのだろうか。
踏み入ってはいけない領域な気がしていた。
恐怖を制して一度近寄って表札を見てみると、親父さんの名前ではなかった。
愛人の家だろうか。それとも、親父さんの隠された本名だろうか。それともこの表札も偽名なんだろうか。
しばらく観察していたが、何も変わった出来事は起こらず、その場を離れることにした。
そうだ。
俺には、もう一つ立ち寄らなければならない場所があった。
自分のバッグに詰めてある200万円近くの金を確認したあと、俺は実家に向かった。
家に灯りはついていなかった。
最後に母親の顔を見てから、どれくらい経っただろう。
義父を暴力で伏せ、金を奪って去ったあの日から俺は母親と一度として会っていない。
幼い頃から暴力を振るわれても。
言葉で否定されても。
母親の正しさを無理やり肯定させられても。
俺は、母親を愛していた。
今も働いているのだろうか。
この世への不平不満をこぼしているのだろうか。
どんな姿でもかまわないから。
もう一度、ひと目見ておきたかった。
親父「人を殺すときくらい、相手の目を見たらどうだ」
無人の露天風呂だった。
俺は両手を親父さんの首にかけていたが、それを上回るような握力で親父さんが指をこじあけてきた。
親父「関西の秘境を案内してやるだなんていうから、久しぶりにわざわざ足を運びに来たら」
親父「裸で馬乗りにされるほど、お前に愛されていたとはな。そういう趣味はないんだが」
脱衣場で親父さんが裸になり、温泉に向かっている途中で俺は後ろからナイフで刺そうとした。
目の届かない後方にまで反射の神経が行き届いているのか、俺の手を掴んだ親父さん自身さえ驚いているようだった。
親父「動機を言え。動機を」
男「心当たりがあるだろう」
親父「有りすぎてどれかわからねーんだよ」
男「俺のお袋を殺した」
親父「勝手に自殺したんだ」
男「お前が金を貸して追い込んだ」
親父「借りたのも返せなかったのもお前の母親の責任だ」
男「お袋は俺を連れ戻そうとしていた」
親父「お前を欲しがるクズはこの世界にたくさんいるさ」
男「お袋の遺書を読んだ」
親父「なんて書いてあった」
男「愛していたと」
親父「本当にお袋さんが書いたのかねぇ」
男「お前は自分さえ幸せになれれば他人はどうでもいいんだ」
親父「人を殺そうとしている今のお前にだけは言われたくないな」
親父さんは左手を振りほどき、躊躇なく親指を俺の左目に刺そうとしてきた。
すんでのところで躱したが、バランスを崩し倒れてしまった。
親父「お前、俺に殺されるぞ。殺し屋でも雇うか、銃でも射てばよかったじゃねーか」
男「俺がしたいのは復讐だ」
親父「思い出深い温泉で、血のぬくもりとともに殺すのが復讐か。情緒のあるやつに育ったもんだ。そうだよなぁ、愛がそのまま裏返ったものが復讐だもんなぁ」
男「金か。俺がいなくなると、金が減るからか」
親父「色々大人の事情があるんだよ。お前のお母さんの新しい愛人が、うちの敵の保険屋さんでさ」
男「保険屋?」
親父「保険金を降ろさせるために殺す仕事があるんだよ」
親父「まだ、授業続けるか?」
親父さんは今度は膝で蹴り上げようとしてきた。
俺はそれ以上に早く膝を突き出し抑えつけた。
親父さんは容赦のない戦い方をする。
喉仏をめがけて拳を振るってきたり、鳩尾に膝を乗せようとしてきたり。
鼻を噛みちぎろうとしてきたり、目にツバを吐いてきたり。
喧嘩に勝つための行動は何でもするのは、プロといえばプロなのだろうが、子供の喧嘩のような、美しくない戦い方だった。
親父さんは暴力の秀才だったが、対して俺は天才だった。
親父さんが努力で培ってきた戦い方を、体格や、生まれ持った感覚を活かしていなすことができた。
口こそ余裕を見せているものの、思うような運びに持っていけない親父さんから焦りと怒りが見えてきた。
親父「成長し過ぎたな」
男「おかげさまでな」
親父「本当の親子でも、同じ分野で負けた父親は、息子に嫉妬をするらしい」
男「それは実体験か」
親父「歴史の教科書にそう書いてあっただろう」
今度は左の拳を股間めがけて殴りつけようとしてきた。
俺は膝を思い切りあげ、拳を蹴りつけた。
男「親父さん。あんたの頭でも、俺の体躯にはかなわない」
復讐心を持ちながらも、俺は高揚していた。
自分の恩人を支配している感覚。
自分が、神になったかのような錯覚に、少し酔っていた。
親父「これは……もう降参だな」
男「死んでくれるか」
親父「助けを呼ぼう」
男「助け?」
親父「火事だぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
親父「火事だぁあああああああああああああああああ!!!!!!!!誰か来てくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
管理人のいない天然の露天風呂で、数日間の事前調査でも人気のなかった真夜中の時間ではあるが。
万が一人が聞きつけると通報される可能性がある。
口を塞ごうとすれば噛み付こうとしてきた。
生きるために手段を選ばない親父さんを、心底鬱陶しく思った。
もう一度息を深く吸い込んだ親父さんを、俺は思わず湯の中に突き落とした。
湯から顔を出した親父さんは、さらに奥へと進みまた絶叫しようとした。
俺は深追いをして、親父さんの口を殴ろうとした。
一転、親父さんは俺の手を引っ張り湯の中に沈めてきた。
天然の湯だが、温度は高かった。
俺はその瞬間に親父さんの考えに気付き、笑ってしまいそうになった。
親父「さっさと、のぼせてくれ」
親父さんは拳を振るうのをやめて、身体を固めて俺を水に沈めることに集中してきた。
小学生の頃を思い出す。
ここで溺れてしまっては、今度こそ、死んでいることに誰にも気づかれないまま横たわってしまうだろうなと想像した。
水中では普段のような暴力が活かせず、技術がものをいいやすかった。
親父さんに形成が傾いた。
俺は親父さんから逃れようとしながらも、親父さんから距離を置くことができなかった。
脱衣場までの途中の道に刺すのに失敗したナイフが転がっている。
脱衣場には親父さんの拳銃やナイフがある。
なんとしても、この場で、暴力で解決しなければならない。
俺は暴れた。
冷静さを欠かないように気をつけながら、力任せに親父さんを殴りつけた。
いつもの暴力で気にする戦い方やセオリーを無視して、力を押し付けることにした。
速さと強さだけを押し付けているうちに、親父さんもそれを防ごうとし、単純な殴り合いに近い形になった。
親父さんの顔を何度か殴りつけた。
俺を家から救い出してくれた恩人の鼻から血が吹き出した。
俺がのぼせる以上に早く、親父さんは体力を消耗していた。
親父さんはもう力が尽きかけているようにみえた。
このまま殴りつけ、水に沈めようと思った。
親父「もう……許してくれねえか……」
男「母親を殺されたのにか」
親父「ろくな母親じゃなかったろ」
男「黙れ」
親父「俺の母親と一緒だ」
男「何を言う」
親父「娼婦だったんだよ。知らなかったろ」
一瞬の不意をつかれた。
親父さんは物凄い勢いで俺の顔を両手で掴み、指で髪を掻き分け、至近距離まで顔を近づけて目を見つめて言った。
親父「私は、正しい」
めまいがした。
心臓の鼓動が激しくなり、汗がとまらなくなった。
親父さんはそのまま俺を水中に沈め、岩底に何度も頭を打ち付けてきた。
身体つきだけで喧嘩は決まらないと親父さんはよく言っていた。
俺が親父さんを理解している以上に、親父さんは俺を理解していた。
俺が親父さんを愛している以上に、親父さんは俺を愛していたのかもしれない。
もう抵抗する力は残されていなかった。
走馬灯の様なものはよぎらなかったが、俺は親父さんの言葉を思い出していた。
あれは義父を殺した日にかけられた言葉だった。
「才能や恩人には気をつけろよ」
「人は、自分を救ってくれたものによって破滅するんだ」
まさに、今、暴力の才能に過信した俺は、恩人によって殺されようとしていた。
俺は、誰にも気づかれない死体、にはならなかった。
目覚めたのは病院だった。
早朝に散歩をしていた男が、足だけ湯に浸け岩の上で横たわっている俺と親父さんを見つけたらしい。
親父さんは俺の隣で、ナイフを腹に刺された状態で死んでいたそうだ。
俺は殺人の容疑で捕まった。
水中で完全に優位に立っていたのに、どうして岩場で俺と親父さんは横たわっていたのだろう。
俺は混濁した意識の中で、ナイフを取りに走り、親父さんを刺したんだろうか。
納得のいく答えは1つしかなかった。
俺は、親父さんに命を救われたのだった。
俺が溺れないように。俺がのぼせないように、水上までひきあげられ。
そして、自殺を図ったのだ。
20代を刑務所で過ごした。
俺は親父さんをナイフで刺殺したことになっていた。
冤罪といえば冤罪だが、真実といえば真実なのだろう。
その状況を引き起こしたのは、紛れもなく俺なのだから。
テレビで見るような短い入浴時間のおかげで、俺はのぼせることがなくなった。
刑務所内でのいじめは激しいものがあったが、殺人の罪で入ってきた大柄の俺に手をだすものはいなくて、表の世界にいたときよりも暴力とは無縁になった。
規律を守り、規則正しく行動し、単純な作業を繰り返した。
できるだけ過去のことも、未来のことも考える時間を与えられたくなかった。
何もかもに絶望をしていた。
人生を、どこから後悔すればいいのかわからなかった。
俺は俺の人生を後悔し続けた。
俺の他にも殺人を後悔している者はいた。
だが、被害者に対して謝罪の気持ちを示すものは俺の周囲にはいなかった。
極悪非道の犯罪者のひとりごとは、おかあさん、だった。
俺は、おかあさん、と言ったあとに、おとうさん、といった。
そのおとうさんが、実父だけを示すものなのかは自分の中でもはっきりとしていなかった。
服役してから数年が経った。
出所は恐ろしくてたまらなかった。
外の世界と関わる自分を考えると恐ろしかった。
ただでさえ人の目を避けてきた自分だ。
刑務所でも、丸刈りにされ、人の視線を避けるように下を向いて、ろくな関わりなどもたなかった。
今更表の世界に行って何の意味がある。
誰のために生きる。
俺を待つものは、もう誰一人としていない。
俺を忌み嫌うものと、恨むものしかいない。
親父さんの信奉者の一人が、俺を殺そうとしているとの噂を聞いた。
その男も数年前から服役しているとも。
俺が先に出所して、その男も追って出所したら、殺してくれるだろうか、
俺には希望なんてものはなかった。
もう、死んでいるも同然の人生だった。
10年近い労働の対価で、俺は刺青を彫りにいった。
出来る限り親父さんの模様を思い出しながら、彫師にイメージを伝えた。
親父さんと同じように体中に彫るつもりだったが、温泉に入れなくなるのは困ると直前になって思いなおした。
天然の温泉に入るくらいならぎりぎり隠せるだろうと、下半身の一部に彫ってもらうことにした。
足を洗って表の世界に出て、俺は親父さんと一緒の足になった。
犯罪者には就労支援がある。
俺は刑務所の作業とさして変わらない、単純な仕事を繰り返した。
その仕事場には、前科のない表の人間もたくさんいた。
40代を超えたオヤジたちは、自分らは社会の最底辺だと自虐風に笑いながら、ダンボールに品物を詰める作業を繰り返していた。
パートのおばさんが1時間の残業を指示すると、口々に子供のような文句を言いながら作業を続行した。
まともじゃないか、と思った。
あんたにはまだ未来があるよと励まされた。
はい、とだけ答えた。
日が経つに連れて、俺は以前行っていたような、裏の仕事に手をのばしていった。
稼ぎがよくなるという理由もあったが、それ以上に、自分にふさわしい場所はそこだと思ったからだ。
自分一人が生きるのに必要な金と、自分ひとりで過去を思う時間だけを手に入れて、あとは、死すべき瞬間を待つのみだった。
男「だから後悔したぞ。お前に話しかけた時はな」
女「…………」
男「仕事の都合でこの地にたどり着き、親父さんの過去を追うように早朝の5時に風呂に浸かり」
男「過去の呪縛から逃れたい思いと、自分を支えるものは過去の回想しかないという依存に苛まれて」
男「孤独を苦しく感じる自分と、人を避けて生きたいという自分がいて」
男「どうして俺は、お前に話しかけてしまったんだろうな。親父さんの一目惚れした人と、重ねてしまったのかもしれないな」
女「私は後悔していませんよ。あなたに話しかけられたこと」
男「左目まで奪われずに済んだからな。俺も死ぬ前に誰かの役に立ててよかったってもんだ」
女「そんなつもりで言ったんじゃないってことくらいわかってくれてますよね」
男「お前は表で生きる人間だ」
女「あなたも裏で生きてくださいよ」
男「太陽と月のようにか。どこかのストーカーと一緒だな」
女「希望をもってくださいよ」
男「なら、俺と添い遂げてくれるか」
女「試すような言い方では ”はい” とは言えません。投げやりな言葉はやめてください」
男「おい、さっきからやめろよ」
女「何がですか」
男「俺の目を見るな」
女「あなたも私の目を見てください」
男「何のためにだ」
女「相手を理解するためですよ」
男「お互い暗い過去には触れ合うのをやめるんじゃなかったのか」
女「暗闇でも見つめ続けていれば、目は順応して光を見つけられます」
男「もう関わるのをやめろ」
女「今から幸せになりましょうよ」
男「出会ったときから、俺達は取り返しがつかなかったんだよ」
男「理不尽が約束されたお前と、道理を外れてしまった俺」
男「お前は因果もないのに応報をくらって、俺は義理も人情も通さずに裏切った」
女「あなたを殺そうとする人がいるのなら、北海道でも、沖縄でも、遠くに隠れて生きていけばいいじゃないですか」
男「俺の幸せ残存数ってやつ覚えてるか」
女「急になんですか」
男「18,000個だった。残り50年生きるとしたら、1日0.9個だ」
男「犯罪者はぎりぎり幸せになれないんだ」
女「だったら幸せの母数を増やして下さい」
男「どうやって」
女「一緒にお風呂に浸かりましょう」
男「血にまみれたこの死体の浮かんだ風呂でか?」
女「…………」
男「痕跡は跡形もなく消す。それでも記憶は一生消えない」
男「もう俺もお前も二度とここにはこない」
男「さようなら、だ」
女「そんな……」
男「出て行け。邪魔だ」
女「これで、終わりですか……」
男「言い残したことはあるか」
女「また……」
女「また、早朝……」
男「もうここには来るな」
女「あなたも、お風呂、もう入らないんですか」
男「家に風呂はついてるからな」
女「そうだったんですか」
男「実はお前に会いたかったのかもしれない」
女「そうなんですか。よかったです。安心しました」
女「それでは、また早朝ですね」
男「じゃあな」
女「また」
男「早く出て行け」
花火はとっくに消えていた。
お気に入りのタオルでさえ、身体を拭く感触を感じられなかった。
少し外出していたのか、何事も知らない管理人のおばあちゃんとすれ違ってさようならを言ったあと、私は家まで一人で歩いた。
明日また、日常が始まる。
今日までとの違いは、憎しみの対象が消えたことと、あの人がいなくなること。
きっと。
これが、正しい姿なのだろう。
私は泣きながら、無理やり自分を納得させようとしていた。
レールは2つに別れていました。
一つは天国へ通ずる道。
もう一つは地獄へ通ずる道。
天国へ通ずる道は、天国へ通ずる道を目指すものと歩むことができます。
地獄へ通ずる道は、行き先が地獄であると知ってもなお共に歩みたいと思う者と歩むことができます。
快楽は、そのまま生きる意味となります。
苦悩は、そのまま愛の証明となります。
だとしたら、悲しくて悔しいことに。
ただひたすらなければよかったと願っていた過去に、救われてしまうこともあるかもしれませんね。
次回「湯の花の花言葉って知ってますか」
アインシュタインさんに質問です。
好きな人と業火の湯釜に浸かると、二人の時間はどのように進みますか。
時間ができたので書きました。
今日はここまでです。
>>233
訂正:18,000÷50÷365=
でした。泣きたい。
重い内容が続いたのに読んでくれてありがとうございます。
残り次回予告2,3回分くらいだと思います。
おやすみなさい。
疲れた。
生きることに疲れた。
逃げればいいんだろうか。
目撃者も現れないような、森の中で、一生。
俺はそこまでして、生き延びる価値のある男なのだろうか。
俺自身、そんな風に生き延びることを望んでいるんだろうか。
もう疲れた。
疲れたから、身体を休めよう。
温泉に行こう。
民宿に泊まった。
酒を買ってはみたものの、一口飲んで捨ててしまった。
数日間惰眠を貪ったあと、料金を支払い店を出た。
その場所に行くのを躊躇していた。
頭の中にある救いの想像地に、現実として足を踏み入れるのが怖かった。
希望がなくなってしまう気がした。
それでも俺は行かなくてはならない。
あとどれだけ、生きられるかもわからぬ命であればこそ。
早起きをし、身支度を整える。
バスに乗って目的の場所へと向かう。
平日の朝から、俺と同じ目的地に向かうものはいないようだった。
30分ほど経ち、目的の場所についた。
夏だからか、親父さんの言ってたようなオオハクチョウはまるで見えなかった。
親父さんが死にかけの時間に味わった感動を、俺も味わうことはできないだろう。
来ることに意味があった。
屈斜路湖露天風呂。
頭の中に存在していたそのお伽話に、俺は今まで心を救われていたのだから。
俺の他には誰もいないようだった。
円形で囲まれたスペースにお湯が張ってあり、真ん中には大きな岩があった。
左側が女性の湯、右側が男性の湯と記載されていた。
俺が毎朝行っていた温泉と違い、マナーに対する細かい注意書きがあった。
美しい景観を損ねるような人工物は何一つなかった。ここの地を守る人の努力の賜物なのだろう。
脱衣場で服を脱ぎ、足を踏み入れた。
ゆっくりと浸かった。
少し熱く感じたが、雪国の外気の涼しさと相まって、心地よかった。
眼前に広がる湖には何もなかった。
オオハクチョウも、朝日に照らされる神秘的な女性もいなかった。
気持ちの良い青空と、遠くに広がる山の景色だけがあった。
俺は、満足した。
生きてる間にこの地に来られてよかった。
それは諦めに似た悟りというよりは。
少し、希望に近い感情だった。
男「幻想的な光景より、現実的な美しさと出会えてよかった」
男「ちゃんと、寝て、食べて、お金を持って、まともな思考ができる状態で。自然な感情で喜びは享受するものなんだな」
男「美しい光景を見て希望を持ち直す、なんて胡散臭い話だと思っていたが」
男「過去や幻想と向き合ったら、どうやら人は自分を認めざるを得ないらしい」
男「貸切状態だ。あの温泉から見える景色の何倍もある自然を、俺が独り占めしている」
男「湯の熱が俺にエネルギーを送り込んでくれるようだ!」
男「力が岩底から湧き上がってくるようだ!」
男「俺はこの大自然の王者だ!!」
男「ふははは!!!」
男「観光!!!」
男「天候!!!」
男「ちんすこう!!!」
男「ここ北海道だけどな!!ふははは!!!」
「そんなにおかしい景色ですか」
俺の背筋は凍り付いた。
女「韻を踏んでいたんですか」
男「…………」
女「湯の熱があなたにエネルギーを送り込んでくれるって本当ですか?」
男「…………」
女「この広大な景色を独り占めしてるって本当ですか?」
男「…………」
女「もしかしたら知ってる人が岩一枚隔てたところにいたりしなかったですか」
男「…………」
女「早朝から生きるエネルギーが」
男「もうやめてくれ。死にたい……」バシャバシャ…
女「生きましょうよ。せっかく生きているんですから」
男「なかったことにしてくれ」
女「これが黒歴史ですよ。人が背負う過去の重荷は、このくらいの地獄が丁度いいんです。ということで、忘れてあげません」
女「死ぬつもりだったんですか」
男「自殺するつもりはない。ただ、殺されるつもりだった」
女「逃げるつもりだった方がまだ安心です」
男「俺を殺そうとしているやつからか」
女「そう。親父さんの信奉者や、あなたの嫌な記憶から」
男「逃げられないだろ」
女「逃げましょうよ」
男「どこにだ」
女「日本地図にダーツを投げて、そこでこっそり暮らしましょう」
男「俺はもう疲れたんだ。だから温泉にきてる。疲れたから、疲労回復」
女「すぐのぼせるくせに」
男「逃げてもいいと思うか」
女「向き合っても、不幸にしかならないことなんてたまにはありますよ」
男「バチがあたらないか。不幸から目を背けて」
女「幸せになろうとしてバチがあたるんなら、幸せなんて存在できないでしょう?」
女「それにしても、広大な眺めですね」
男「そうだな」
女「でも、定位置は逆ですね」
男「逆?」
女「湖を正面に、男湯が右側、女湯が左側じゃないですか」
女「湖を正面に見ても、私の視界にあなたが入ってこれません」
男「入れ替わるか。実はそっちが男湯なんだ」
女「どこかの神秘的な女性が言いそうなセリフですね」
男「人が行き来できるほどの隙間が空いてる」
女「男湯も女湯もあったもんじゃないですね」
男「この隙間は男湯と女湯どっちなんだ」
女「混浴なんじゃないでしょうか」
男「世界一狭い混浴だな」
女「そして世界一贅沢な」
男「どうやって来た」
女「ホテルからタクシーで」
男「贅沢な奴だ」
女「私のいない日々はどうでしたか」
男「静かだった」
女「寂しかったならそういえばいいのに」
男「寂しかった」
女「…………」
男「でも、それ以上に」
男「お前には感謝していた」
女「だから北海道まで逃げ出してくれたんですね」
男「怒ってるならそう言ってくれ」
女「怒ってます」
男「すまなかった」
女「怒ってるんですよ」
男「申し訳ない」
女「謝ってくれたのでいいです」
男「そうなのか」
女「許すつもりだから謝らせたんですよ」
女「男さん」
女「私の人生を見てどう思いましたか」
男「気の毒だと思った」
女「同情しましたか」
男「ああ。同情した。可哀想だと思った」
女「私は可哀想な人生を送っていますか」
男「ああ、そう思う」
女「やはりそうでしたか」
男「…………」
男「俺の人生を見てどう思った」
女「そうですね。哀れな人生だと思いました」
男「どのあたりが」
女「あなたの周りにいた人全員が不幸になってしまっていたあたりが」
男「俺は哀れな人間か」
女「はい、哀れな人間です」
男「そうか。俺もそう思う」
女「そうですか」
男「なあ女」
男「生まれ変わったら、もう一度自分に生まれたいか」
女「…………」
女「これからの帰り道次第です」
男「なんだそれは」
女「あなたはどうですか。自分の人生を肯定できますか?」
男「そんなことはできない。何もかもが間違えていたと思う」
女「…………」
男「何もかもが間違えていた」
男「そのせいで、最後にお前と会えたこと以外はな」
女「…………」
女「男さん」
男「なんだ」
女「どうして泣いているんですか」
男「見るな」
女「俯いてたらせっかくの景色がもったいないですよ」
男「覗くな」
女「見てあげますよ。右目が駄目なら左目で。左目も見えなくなったら、声や、手の平で」
男「どうやってだ」
女「こうやって」
女は男の頬に両手を添え、髪を除け両目を見つめていった。
女「あなたは、正しい」
早朝の屈斜路湖で、二羽の白鳥がキスをした。
女「ゆびがふやけてきました」
男「俺も少しのぼせた」
女「おばあちゃんの指もこんな感じです」
男「年をとった時に同じことを思うだろう」
女「私の手がこんな風になった時、あなたは私に何をしてくれていますかね」
男「俺は生きているのかな」
女「18,000個のしあわせをつかいきるまではいきてください」
男「お前といるとあっという間に減っていく」
女「お上手ですね」
男「ため息が止まらないからな」
女「お湯かけますよ」
男「やめてくれ。そろそろのぼせた」
女「あがりましょうか。マナー違反者は即刻立ち去れです」ザバァ
男「…………」ザバァ
一瞬の幻想の後。
私たちはくだらない会話や、少し深い話をして、お風呂からあがった。
いつもどおり、私もあなたも裸で、指一本触れずにコミュニケーションを取っていたけれど。
この行為は、
俗にいうセックスというものよりも。
深くて暖かい、結びの行為だったのだろう。
この日初めて、私と男さんは温泉以外で行動を共にした。
はじめに一緒にご飯を食べた。
雪国の魚は、冷たくて新鮮で、感動するほど美味しかった。
ソフトクリームを買って食べさせ合うという、男さんにとっては拷問のような行為もさせた。
動物を観にいったり、ブーメランを投げたり、子どもたちに紛れてソリで滑る遊びもした。
男さんに似合わないことをさせるのを、性格の悪い私はこの上なく楽しんだ。
寄り道をしながら日本を下っていった。
仙台で牛タンを食べて、栃木でいちごを食べて、何故か新潟にちょっと寄ってお米を食べた。
今まで訪れたことのない地に足を運んだ。
暗闇の中で生きていた頃の私なら決して許さないような愉快な気持ちになり、明かりの中に必死で飛びでていた私なら決して感じなかったような安堵感を覚えていた。
毎日長距離を移動していたにも関わらず、自分の居場所はここだという確信を、隣の肩に頭を寄せながら思った。
頭のどこかでは、生き急いでいることを理解していたのだろう。
残り50年では幸せにはなれない計算式で、もしも多大な幸せを感じているのだとしたら。
生きる日々という分母が、極端に減っていたのかもしれない。
俺たちは、帰宅中の学生やサラリーマンが大勢いる駅のホームに立っていた。
女「ここでお別れですか」
男「ああ」
女「お引っ越しですか」
男「そんなには離れていないさ」
女「私が遊びに行ってあげますからね」
男「あの温泉にもまた行こう」
女「大丈夫ですか」
男「時間帯によるな」
女「何時がいいですかね」
男「どうだかな」
私と男さんが話しているうちに、電車の到着を告げるアナウンスがなった。
女「お別れですね」
男「ああ。お前も気をつけて帰れよ」
女「なんだかドラマチックな別れですね」
男「俺の電車に飛び乗ったりするなよ。挟まれるかもしれないからな」
女「ロマンの欠片もないですね。いいですよ、どうせ5駅分だし」
男「お前との旅は楽しかった」
女「私もです。これでもう老後は文句を言いません」
男「指がふやけるまで生きろよ」
女「指がふやけるまで一緒に浸かりましょうね」
電車のドアが開き、俺は乗り込んだ。
人混みに押し流されまいとしながら、女は俺を見送ろうとしてくれた。
女「夏祭りの約束、わすれないでくださいね」
男「お前もな」
女「私、やきそばを食べますからね」
男「好きなものを食えばいい」
女「線香花火もするんですからね」
男「何でもしてやる」
女「わたし……」
女が目に涙を浮かべ、感情を堪えながら俺を見つめている時、発車の合図が聞こえた。
男「それじゃあ、また……」
女「あのっ、言い忘れてたんですけど」
男「何だ」
女「私、実家にいる時は、お風呂でトイレしちゃいます」
男「はぁ?」
女「それではまた早朝!」
閉じた電車のドアの向こうで、女は一人顔を赤らめ、涙を流しながら腹を抱えて笑っていた。
男「ロマンの欠片もないのはどっちだ」
閉ざされたドアのせいで俺の声は届かなかった。
俺は呆れた顔を向けようと頑張ったが、あまりの無邪気さにつられ、一人で車内で笑ってしまった。
素敵な人生だった。
チュン。
鳥の鳴き声に似ていた。
ゲームセンターや映画で聴いた音とは少し違っていた。
それでも、二人だけのものであったはずのこの時間の、この場所で、聞きなれない音がするのは不吉に思えた。
私は足を早めて山道を進んだ。
おばあさんにお金を渡し、服も脱がずに、急いで中を確かめた。
ごつくて、でかくて、今ではあんまり怖くない人が座っていた。
お湯は、色とりどりの火花が夜空を照らしたあの夜のように、赤く染まっていた。
深く目を瞑っているその人に私は声をかける。
女「知ってますよ。あなたが死にかけてたこと。またいつもみたいにのぼせてるだけですよね」
女「みんな、気絶しているあなたを放っておいていたとしても。私は、ちゃんと、あなたが死にかけて、さみしかったこと、怖かったことにきづいてあげますからね」
女「あなたの友達も、恩人も、お母さんも、誰もあなたを見ようとしなくても」
女「私が、ちゃんと見ててあげますからね」
女「だから、目を覚ましてくださいよ」
女「私となら、目を合わせられるでしょう?」
女「湯の花の花言葉って知ってますか」
男「湯の花は、花じゃないだろ。温泉の成分の塊みたいなものじゃなかったか」
女「ここの温泉、凄いですよね。お土産に湯の花が販売されてるのも見えました」
男「良い入浴剤になりそうだ」
女「それで、なんだと思いますか」
男「何だ」
女「心まで浸かりたい」
男「…………」
女「もう一つあるそうですよ。さぁ、どうぞ」
男「どうぞって……」
女「さぁ」
男「…………」
男「君といると、のぼせてしまう」
女「キャー!」
男「うるさい」
女「キャーキャー!」
男「静かにしろ!」
女「素敵です」
男「知らん。寝る」
女「ふて寝ですか」
男「…………」
女「あなたが気絶していても私が見ていてあげますからね」
男「…………」
女「じー」
男「…………」
女「じー」
男「…………」
女「やっぱり起きて下さい」
男「…………」
女「本当に気絶してませんよね?」
男「…………」
女「起きてくださいってば!」
「おきてってば!」
女「わっ!」
娘「風邪引いちゃうよ」
女「今何時!?」
娘「10時」
女「よかったー。パパ帰ってきた?」
娘「まだ」
女「あんたお風呂もう入った?」
娘「まだ」
女「早くお風呂入りなさい」
娘「やだ!!!!せっかく起こしてあげたのに!!!」
女「パパとかぶっちゃうでしょ」
娘「朝入るもん」
女「朝起きられないでしょ」
娘「お風呂も起きるのも嫌い!」
朝起きられることは幸せなことなのよ。
なんて言葉は、言わない。
女「いいから入りなさい!!」
しぶしぶ娘がお風呂に入っていく姿を見て、大変だなぁと思う。
子供の頃の大人は完璧に見えたが、そんなことはなかった。
私はこの子を怒る資格なんてないくらいに、今でもお風呂に入るのはとてもめんどうくさいし、朝起きる時も二度寝したくてたまらない。
それでも愛しい家族との日常を回すために、お風呂に入るし朝も起きる。それどころか、お風呂も沸かすし、朝になったらみんなを起こす。そしてご飯もつくる。
「ただいま」
女「おかえりなさい。ご飯にする?お風呂にする?それとも」
「娘はどこ?」
女「お風呂に入ったわよ」
「そっか。じゃあ飯食う」
女「…………」
「冗談だよ」
夫が髪を撫でてくれた。
幼いころ望んでいたような、幸せな生活だった。
生きていくことは、つらいことの連続で。
かたまりかけたものが溶けてなくなってしまったり。
ふくらんだ希望が泡のようにはじけてしまったり。
とても、大変な日々の連続だけれど。
ひとりで、お風呂に入って。
涙も、悲しい出来事も、全部お湯に流して。
冷え込んだ心は身体の芯からあたためることで癒やして。
沈んだ気持ちはのぼせるまで浸かって高揚させて。
時々お風呂の中で100を数える呪文を唱えれば。
また、次の日を受け入れる準備が出来ている。
もしも、熱さが我慢できなかったら、さっさとあがってしまえばいい。
そして寒さに耐えられなくなったら、また入りにくればいい。
ひとりでも、ひとりにさせない場所。
もしもまた、涙を流す日が訪れたら。
お風呂のお湯で、拭えばいい。
屈斜路湖露天風呂にいた数多の白鳥のように。
少し身体をあたためたら。また、自由に飛び立っていけばいいのだ。
~fin~
終わりです。
長めの内容になってしまいましたが、読んでくれて本当にありがとうございました。
無責任に身体の障害に触れてしまったので、傷ついた方がいたら本当に申し訳ありません。
お風呂嫌いな人から、少しでも抵抗を減らせたら幸いです。
私も今からお風呂に入ってきます。
おやすみなさい。
参考文献だけもう一度
絶景混浴秘境温泉2017(MSムック) 大黒敬太 著
女性が混浴のレポートをする特典動画付きでした。
(念のため、まわしものではありません。)
ちなみに他作品です。
女「人様のお墓に立ちションですか」
http://ss-antenna.info/search.php?q=%E4%BA%BA%E6%A7%98%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%A2%93%E3%81%AB%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
あらためて、読んでくれてありがとうございました。
文量が多くて読む人も大変だったと思います。
いくつか書き溜めているんですが、次はライトでポップなお話を投稿します。
それでは、HTML化の依頼を出してきます。
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