5000円払って、彼女の1時間を買った話。 (86)


大学生のころ、俺はずいぶんとくだらない生活を送っていたと思う。
仮にも誰かに「学生時代、何して過ごしてた?」と聞かれたら、
俺は「スマホゲーム」とでも答えていたかもしれない。

そんな俺に友達と呼べる相手もいるはずもなく、
一人暮らしは仕送りとアルバイトで生計を立てていた。
学校では比較的まじめに授業を聞いて、家にかえったら迷わずパソコンを開いていたな。

要するに、俺はつまらない人間だったんだ。
自分でもそれはよく分かっていた。俺はこのまま死んでいくんだろうなって。

だけど、そんな男の人生にも、面白い出来事のひとつくらいはあるもんだ。
そうだな。レンタル彼女、とやらを聞いたことある人はどれくらいいるだろうか。



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あれは、たしか夏休み前のことだったな。
俺はその日かなりまいっていたんだ。理由は単純だった。
「悪い。講義ノート貸してくれよ」なんて、
昼休みに軽々しく言ってきた同じ学部の男が原因だったんだ。

俺は、喋ったこともなかったソイツにしぶしぶノートを渡したんだが、
あろうことか返ってきたノートは数ページほど抜け落ちていたわけだ。

大きくため息を吐いて「まいったな」と俺は言った。
やっぱり、お互いのことを知らないという状況は、どうにもまずかったらしい。
教室を出る前に友人たちとゲラゲラ笑うソイツを眺めて、俺はもういちど息を吐いた。


帰り道、俺は気分の晴らし方について考えていた。
都合のいいことにアルバイトの給料も入ったばかりだった。
お金に関しては問題ない。あとは使い方次第だ。

カラオケにしろ、映画にしろ、ゲームにしろ、
一人で遊ぶことはいくらでもできる。

だけど、その日の俺は「もっと違うことがしたい」と思っていた。
学生生活の限られた夏休みがもうすぐそこまで迫っている。
俺は誰かに後ろから追いかけられるように、なにかに駆られていたんだろうな。

今までしてこなかったことをしたいと、そう思ったんだ。


そんなわけで何をするか困っていた俺の目に、ぐうぜんにも、
“レンタル彼女”とやらの広告が目に止まったわけだ。

iPhoneをいじって広告画面に飛んでみたんだが、
どうにもこれは“お金を払って女の子に彼女になってもらう”という娯楽だそうだ。


《デートプラン》
・ランチデート … ランチを恋人といっしょにたべませんか?
・お出かけデート … ショッピングもOK! どこかへお出かけしましょう!
・オリジナルデート … 自分で決めたデートプランで遊びに行くことが出来ます

《料金体系》
1時間 5000円~(指名によって料金変更がございます)



高いな、と即座に思った。
例えばの話だが、1時間と5000円を与えられたとして、
女の子とデートをすると言う目的のためだけに、それを使ってしまうものか?

「もっと有意義な使い方があるだろう」と考えてみたものの、
それはそれでパッと思いつくこともなかった。

せいぜい美味いものを食べたり、近くのユニクロで服を買ったりさ。
だけどそれが特別したいわけでもないんだよな。
一人でやりたいことなんてお金も時間もいらないんだよ、俺の場合は。

所詮、俺はつまらない人間だったわけだ。まあ今に始まったことではないけどさ。


「いいさ、別に。5000円くらい」とぶつくさ言いながら、
俺はサイトの会員登録を済ませ、それからデート申込をしてみた。

だが、ここで問題が発生した。
どうにも、このレンタル彼女というものは、指名するのにもお金が必要になるらしい。

「ふざけんな、ちきしょー」と文句を垂れた俺だったんだが、
隅の方に小さく書かれていた“指名しない場合”という項目に気付いたんだ。


《指名料について》
指名しない場合、指名料の発生はせず、代わりにこちらからお客様のニーズに合わせた“レンタル彼女”を派遣いたします。



なるほど。うまいことできている。
俺からすればどんな子が来るのかもわからないまま、
下手をすれば5000円と1時間をドブに捨てる可能性もあるってことだ。

で、まあ、それからさんざん悩んでみたんだが、結局、俺は博打を打つことにした。
つまりは指名せずに、ありのままを受け入れてやろうと思ったんだ。

これまでの俺を考えてみても、あんまりにも理想すぎる女の子がやって来ても、
きっとなんにも話すことが出来ないまま1時間を過ごすことになるだろうからさ。

そういう意味でも、これがいい選択だろって思ったんだ。


メールを送ってからは、すこしだけドキドキしてたな。
たとえレンタルであったとしても、1時間だけ自分に彼女が出来るんだからさ。

もちろん、どんな子が来るんだろうっていう期待もあった。
とてつもないモンスターが現れたとしたら、どうすればいいんだろう。
デートで何をすればいいんだろう。何を話したらいいんだろう。

そういう心配をしていた俺の元に一件のメッセージが届いた。
内容はとても簡潔に、場所と時間だけが記されていたんだ。


『15:00に、駅前に来てください』



15:00になって、駅前にいったとき、
俺はキョロキョロとあたりを見回していたな。

一応、俺の服装は向こうに伝えてはいるんだが、
相手の姿が分からないと言うのはやっぱり怖いもんだ。
そわそわと落ち着きないそぶりを見せながらも、俺はベンチに座った。
それで5分ほど経って、一人の女が俺の前に現れた。

「さっきメッセージをくれた方に間違いないですか」

その一言で、俺は顔を上げた。


簡潔に言えば、その子は、とても白い肌の女の子だった。
顔はずいぶんと整っていたと思う。
髪も長い。無造作に伸ばしているのかもしれない。
女の子は、やや猫背で灰色のカーディガンの袖をまくっていた。

「パンダって呼んでください」と女の子が言った。「はい?」と俺は聞き返した。

「ハンドルネーム、みたいなものです」
「はあ、そうですか。パンダが好きなんですか?」
「本名が嫌いなんです」
「……はあ」

よくわからんな、と俺は思った。


「今から、何をするか決めてるんですか」とパンダは言った。
「いや、なにも」と俺が答えるとやけに嫌そうな顔を見せた。

「1時間で出来ることなんて限られてるでしょうに」
どさりと俺の隣に座ると、足を組んでそんなことを言った。

「うさ晴らしに使ったんだよ、いいだろ別に」
「まあ、私はなんでもいいですけど」

パンダは、やけにドライな女だった。
あくまで俺の彼女なはずなのに、恋人であるという実感がさっきからまったく感じられなかった。


「手とか繋げたりする?」俺はパンダに尋ねた。
「ああ、接触は別料金ですね。3000円かかりますよ」

そう言って、右手を開いてこちらに差し出した。

「……無料で出来ることは?」
「さあ、話すことくらいですかね」

俺は頭を抱えた。「まいったな」と思った。

いったん、ここまでです。


突然、パンダが「あのですね」と言った。
遅れて俺は「なに?」と答えた。

「本来ならば、相手のことを好きになるっていう過程には、たくさんの時間が必要なんですよ」

はあ、と俺は気の抜けた返事をした。

「それが、メール一通で恋人同士になるなんて、なんだか不思議な気分になりますね」

少しだけ考えて俺はあたまをかいた。「俺達って、恋人だったか?」

「この時間だけは、私はあなたの彼女ですよ」パンダはさらりと答えた。


そこからは、なぜだかパンダと話せるようになっていた。
ぽつぽつと会話が進むごとに、俺はパンダに心を開き始めていた。

「恋人になったら、なにをするんだろうな」と俺は問いかけてみた。

「キスとかしますよね。ほら、あんな風に」
パンダが指さした先には、二人の男女が抱き合って唇を重ねていた。

「色んな人が見ている中で、あんなこと出来るんだな」

「そういうのが楽しいんですよ、きっと」

俺はパンダの方を見た。彼女はじっとその二人を眺めていた。


「常識を考えたら、家でやる方がいいんじゃないのか?」と俺は言った。

「そういうことを言うから、つまらない人間になるんです」

彼女の言葉に、ぐっと息を詰まらせた。

「あなたは常識だとかそういうものに、とらわれすぎなんですよ」

パンダはまだ向こうの二人を見ていた。

「人生の楽しみ方を教えてくれる人がいなかったんだよ」と俺は文句を言った。

そのときパンダはようやくこっちに顔をむけて、いちどだけ溜息をはいた。
「それじゃあ、今から私とキスをしますか?」


なに言ってんだ、という声は喉元でとまった。

代わりに俺は「冗談だろ?」と言った。

彼女は三本指を突き出して「追加料金をもらえれば」と答えた。

「なら、やめとく」俺は首を振った。「なんか、負けた気分になる」


「そうですか。それは残念です」と言うと、彼女はすっとベンチから立ち上がった。

俺が見上げると、パンダは「時間なので帰ります」と言った。

なんだかんだで、ちょうど一時間ほど経っていたようだった。
彼女となにを話したのかなんて、あまり覚えてはいなかったけれど、
どうしてか俺は後ろ髪をひかれた気分を味わっていた。

それから、喉もカラカラに乾いていた。


「なあ」と俺は言った。

「なんですか」彼女は振り返ってこっちを見た。

「いつもこんなふうに誰かと話しているのか?」

パンダは不思議そうな目つきで俺を眺めていた。
「私、今日がはじめての仕事でしたよ」


俺は「そっか」なんて適当な相槌を打った。

「なにか問題でもありましたか」彼女は俺に訊いた。

問題ばかりだったような気もするが、
それらをぐっと飲み込んで、「楽しかった」と俺は言った。

パンダはちょっとだけ驚いた素振りを見せて、
そのあとに「良かったです」と笑っていた。

彼女の笑う顔を今日初めて見たけれど、
どうにも悪い気はしなかった。

あともうすこしで終わるはず…。
あしたまた続きを書きます。


走っている間、彼女は俺の背中にしがみついていた。
思えば、パンダと触れ合うのはこれが初めてかもしれない。

ときどき、彼女はもぞもぞと掴む位置を変えていた。
それが無性にくすぐったかったが、それでも俺は何も言わずに走り続けた。

パンダに追加料金について聞く気持ちにはなれなかった。
そもそも持ち合わせは5000円しかなかったんだ。情けないことにな。


「風が気持ちいいですね」後ろから声がした。

「夕方だからまだ暑さはマシだな」

「なんだか空に向かって叫びたくなりますね」

「だったら叫んだらいい」

俺がぐっとアクセルを吹かせると、
パンダは大きな声でなにかを叫んだ。


どこまでも伸びていくような声が途切れた後、
息を切らした彼女は「案外いいですね、こういうの」と言った。

「ああ、悪くない」俺は笑みを浮かべた。


「それで、どこまで行くんですか」しばらくして、彼女が聞いてきた。

「あの山まで走るつもりだ」俺はまっすぐ前を見つめていた。

「なにをするんですか?」

「だから、悪いことだって言ってるだろ」

「これ以上、悪事を働くのはやめてください」
彼女の腕がぎゅっと俺をしめつけてきた。

「もしかして、楽しんでないか?」

「……まあ、それなりに」


山の麓まで走り終えて、近くに原付を止めた後、俺は目線を上げた。

「さて、登るか」

「正気ですか?」彼女は立ち入り禁止の立て看板を指差した。

「まあ、それなりに」

「……言っときますけど、似てないですよ」

「知るか」俺は山を登りだした。
彼女も渋々といった感じで俺の後ろについてきた。


「なにか面白い話をしてください」
道中しびれを切らしたパンダがぼそりと呟いた。

「そうだな」俺は足を止めた。

「……原付で二人乗りしたときの罰金額って知ってるか?」

「さあ、気にしたこともなかったです」
首を傾げた彼女は「いくらなんですか?」と聞いた。

「一人当たり5000円みたいだ」

「割とするんですね」

「ああ、割とな」俺はパンダを見て、肩を竦めた。


山頂にたどり着いたとき、もうすっかり日も落ちていて、あたりは真っ暗だった。
俺は、目を凝らすと、いつもの場所にどさりと身を投げ出した。

「ここは夜景がよく見えるんだ」

「もしかして、それがここに来た理由ですか?」彼女はそう言って隣に座った。

「だったらどうする」

「別に、どうもしないですけど」

「そうか」
俺たちはしばらくチカチカと光る街を見下ろしていた。


「……今日は、楽しかったです。とても」
ふいにそんなことを言ったものだから、俺は横目で彼女を見た。

「あなたのこと、すこしは見直しました」

俺は何も言わずに黙っていた。
どうしてそう思ったのかは分からないけれど、
その瞬間の俺たちは、見ているものや考えていることが、
全く同じなんじゃないかと感じたんだ。

鈴虫の声や夏の夜空がやけに近くて、それで、彼女の横顔はとても綺麗だった。


「あのさ」彼女は「なんですか」と答えた。

「お前ってなんのために生きてるんだって、昔言われたことがあったんだ」
体を起こした俺は、古い記憶をひっぱり出すために目を細めた。

「多分、バイト先の先輩だったかな。趣味や好きなことがなくて、
ただ何と無く毎日を過ごしていた俺は何も言い返せなかったよ」

「情けないですね」

ああ、情けないな。俺は苦笑した。

「でもさ、今なら分かるよ。俺がなんのために生きてたかってことを」

彼女は俺の顔を見つめていた。

「そういうことを教えてくれたんだ、きっとさ」


思い返せば、俺の人生なんてものを振り返ってみても、
彼女と出会ってからの時間には到底敵わないのかもしれない。

そんな風に、今なら思えてしまう。

「昨日の夜、とても馬鹿げたことを考えていたんだ」

「どんなことですか?」

「もしも、俺たちが借り物じゃなくて、本当の恋人になれたら、そしたらどうなるだろうって」

「……」

「それで、いつか二人で暮らすことになったら――」

「私の名前、変わっちゃいますね」
彼女の表情は読み取れなかったけれど、きっと笑っていたと思う。

「悪くない提案だろ?」

「……それは愛の告白ですか」

囁くような声に、俺はおもわず喉を鳴らした。


「だったらどうする」

こうします、彼女はそう言って俺の頬に唇を寄せた。

「忘れちゃいましたか。1時間を超えたから、
私たちはもう借り物の恋人ではないんですよ」照れくさそうに彼女は言った。

俺は軽く頭を抱えた。「まいったな」と思った。



“きっと二人は同じことを思っているだろう”という妄想は、あながち間違いじゃなかったみたいだ。



俺たちはすっかり暗くなった山道を、手を繋いで下った。
あの駅前まで彼女を送った後、俺たちは向かい合って別れを言い合った。

「それじゃあ、また」

「ああ、またな」

「あの」彼女は俺の袖を掴んだ。

「どうした?」

「……いえ、やっぱりいいです」

それから彼女は「また会いましょうね」と言った。
俺は小さく頷いて、彼女の後ろ姿が消えていくのを眺めていた。



俺とパンダが話したのは、それが最後だった。



――あれから、三年が経った。
それだけの時間があれば、取り巻く環境も、俺自身も、すべてが変わってしまったはずだった。

……とは言うものの、相変わらず俺という男はくだらない奴だった。
いや、自分で言うのもなんだけどさ。まあサラリーマンとしては、それなりに社会に貢献していたわけだ。

話を戻そう。あの日以来、ぱったりと連絡が付かなくなったあいつについてだ。

彼女に何があったのか、どんな理由があって突然バイトを辞めてしまったのか、
そんなことを俺が知ることは出来なかったが、なんとなく理由は分かっていた。

彼女は、一度、ぜんぶをリセットしたかったんだと思う。
俺と出会った経緯を、自分のしたことを、“悪いこと”をした過去を精算したかったんだろう。

だから、俺の元から姿を消した。それが、俺が出した結論だった。


俺はもう半分諦めていたんだ。
彼女を探そうとも思ったけれど、彼女について何の手がかりもなかった。

だけどそれでも諦めきれずにいたのは、
「また会いましょうね」という言葉があったからだった。

毎日のように彼女のことを考えていたよ。情けないことにさ。

だから俺の祈りが通じたかのように、
宛先の分からない一通のメッセージが届いた時、俺は目を丸くしたな。
なんたって、そのメッセージには随分と見覚えがあったんだから。

『15:00に、駅前に来てください』


俺が急いで駅前に向かったとき、そこには一人の女の子がベンチに座っていたんだ。
髪も短くなっていたし、顔立ちも随分変わっていたけどさ、
その子はカバンにパンダのキーホルダーを付けていたんだ。

おもわず、たくさんの言葉が頭に溢れかえって大変だった。
俺はそれらを飲み込んで、彼女の前に立った。

「お久しぶりですね」
彼女は柔らかい表情を見せた。

「……色々と言いたいことがある」

「そうですね。私も話したいことがたくさんあります」
彼女はそう言って目を伏せた。


「色んなことがあったんだろう」

「はい、色んなことがありました」

「あいにく、今日は5000円しか持ち合わせがないんだ」
俺は彼女の隣に座った。「手短に頼む」

彼女は驚いた素振りを見せて、それから、小さく頷いた。
「それじゃあ、まずは、私が先生になるまでの話をしましょうか――」

彼女は目を閉じて、思い出す様にひとつひとつを嬉しそうに話し始めた。
きっと1時間じゃ足りないだろうな、と俺は目を細めて笑った。


おわり

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