五十鈴華「流されることのない、わたくしの汚穢」 (38)

今日の朝食は、白いご飯を三杯、お味噌汁、焼き魚、お漬物、うどん一杯でした。

六時から戦車道の練習もあるので、朝はいつも控えめにしています。
もし戦車に乗っているときに、体調を崩してしまったら大変ですので、朝食はいつも少なく済ませます。

練習を終えたあとはすぐに始業のチャイムが鳴ってしまいます。
朝食が少ない所為もあり、恥ずかしながら授業中にお腹の虫が鳴いてしまうことが多々あります。

五十鈴家の長女として、また戦車道を嗜む乙女として、そのような醜態を晒すわけにはいきません。
お腹が騒がないようにグラウンドから教室へ行く間に、しっかりとおにぎりを3個ほど食します。

「華さんって、本当に健啖家だよね」

そんなことをみほさんが言いました。

「むしろみなさんは食べなくてもいいのですか?」

当然の疑問を投げかけてみたところ、沙織さんや優花里さんは驚いている様子でした。
みほさんはその端正な顔に戸惑いの色を浮かべ、

「朝食をちゃんと食べてるから、平気かな」

と、間食など不要だと言い切りました。

なるほど。長年、戦車道を歩んでいるみほさんは、必要な食事量を見極めているということですか。

「そもそも朝からそんなに食べられないだろ」

冷泉さんは本当に食べていなさそうで、心配になりますわ。

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授業中、おにぎりの効果は十分にあったようで、特に音が鳴ることはありませんでした。
時折、沙織さんから聞こえてくることがありましたが。

「やはり朝練後の食事も摂ったほうがいいのでは?」

「まぁ、そうなんだけど、華みたいにはねぇ」

沙織さんにとって間食は乙女の敵ということでしょうか。
恥ずかしい想いをするぐらいでしたら、食べたほうがいいと思うのですが。

「いやいや、おにぎり3つは無理だってば」

「空腹だと集中力も散漫になるといいますよ」

「満腹だと眠くなっちゃうじゃん? 麻子みたいに授業中ずっと居眠りするわけにもいかないしね」

腹八分目で止めておくという考えもあることを勧めてはみたものの、居眠りをするリスクを考慮して昼食までは何も食べないことを頑として曲げません。
沙織さんの心配も分かりますが、満腹になったら睡魔が襲ってくるものなのでしょうか。
わたくしには分かりません。

「華さんぐらいになればあの量は普通なのかな」

みほさんが控えめな声で問いかけてきました。
わたくしはそれを肯定しつつ、

「運動しているのですから、本当ならおにぎりにおかずも2品ぐらいは欲しいところですわ」

そう言ったら、みほさんと沙織さんは目を丸くしていました。とても愛らしいです。

お昼休みが近づくと、流石に胃の中は殆ど空なります。
授業中に何かを口にするわけにも行かず、午前最後の授業はいつも厳しい戦いを強いられてしまいます。

だからと、姿勢を崩すわけには参りません。
表情に出すことも許されません。
それはただの甘えに他ならないからです。

やはり今度からはおにぎりの他に何かおかずをつけることにしましょう。
毎日、これでは授業に身が入りませんわ。

そうこうしているうちに終了を知らせるチャイムが聞こえ、担当の教諭が「ここまで」と宣言されました。

その瞬間、教室は一気に騒がしくなります。
わたくしのお腹も騒がしくなります。

「はなー、食堂いこー」

「もちろんです」

沙織さんの台詞は変わることがありません。日常とはそういったものでしょうけれど。

「優花里さんと麻子さんも誘っていく?」

みほさんの提案もここ最近、変わることがありません。
あんこうチームが短期間で強くまとまっているのはこうした変化することのない小さな気遣いを続けているからでしょうか。

「はい。いいですね」

わたくしの返答もきっと変わることはないでしょう。

あんこうチームのみなさんと共に食堂へ。

「では、五十鈴殿、どうぞ」

優花里さんは普段お弁当なのですが時折こうして食堂の料理を購入することもあります。

そのときは毎回、食券購入の一番手をわたくしに譲ってくれます。

「いえ、今日は優花里さんからで結構ですよ」

「そういうわけにはいきません。もし、私が買った所為で五十鈴殿が買えなくなってしまったら一大事ですから」

どうやら優花里さんはわたくしの直前で食券が売り切れてしまったときのことを考えているようです。
とてもお優しいです。

「そのときは別のものを買うので大丈夫ですよ」

「五十鈴殿は私よりも食事に重きを置いているようですから。私なんて食事に対してはそこまで関心がないというか」

よくよく話を聞けば、優花里さんの場合、食べたいモノよりも早く食べられるモノを優先するそうです。

「やはりいつ何時、出撃命令が下ってもいいように、すばやく食べられるものでなくてはいけませんので!!」

優花里さんらしいです。

「ゆかりん、それはやりすぎじゃない?」

「えー、そうですかぁ?」

沙織さんが優花里さんの批判をしている間にわたくしは、単品の白ご飯大盛、トンカツ定食、ラーメン大盛の食券を手にし、カウンターへと進みます。

食卓を確保し、手にした料理を並べます。
大洗女子学園の食堂は綺麗で広いのですが、一つ一つのテーブルがもうちょっとだけ大きければと思います。
会長へ要望書を出したほうがいいのでしょうか。

「いつものことだが五十鈴さんのモノばかりが並ぶな」

「申し訳ありません」

「いや、別にいいんだが」

冷泉さんはそう言っていますが、きっと気にしているはずです。
その証拠に冷泉さんの目の前にはお惣菜のパンが2個あるのみ。
無言の抗議でしょうか。胸が痛みます。

「やはり会長へお願いしてみます」

「何をだ」

「このテーブル、小さいですよね?」

「そうか?」

「おまたせー」

と、沙織さんたちが到着し、各々手にしたトレイを卓に置きます。
手狭です。

「では、いただきましょう」

空腹に耐えかねてわたくしが昼食開始の音頭をとってしまいました。卑しい自分が嫌になってしまいます。

昨日の練習、昨日みたテレビ番組、戦車のお話、放課後の約束。

そうした会話に花を咲かせながら、慎ましくも賑やかな昼食は進んでいきます。

「やっぱり、あそこはM4シャーマンでの攻撃が正しいのでは?」

「でも、その所為で自陣まで敵車輌を進撃させたのも事実だし」

みほさんと優花里さんが熱心に話しています。昨日、テレビで社会人リーグの中継が行われていたようです。
生憎とわたくしと沙織さんと麻子さんは視聴していませんでしたので、お二人の話には割って入ることができません。

「これみてよ、華、麻子!」

わたくしたちは沙織さんの開いた情報誌に目を向けます。
煌びやかなドレスに身を包んだ女性が写っていることから、どうやら結婚情報誌のようですね。

「こういうの着てみたくない? 今なら無料で試着できるんだって! どーする!?」

沙織さんがかなり興奮しています。
確かに花嫁衣裳を着る機会は、そう訪れません。けれど……。

「わたくし、結婚式では和装と決めているので」

「興味ない」

と冷泉さんもわたくしに続きます。

「もー!! なによ!! いいもん! みぽりん、ゆかりん、一緒にどう?」

みほさんと優花里さんも首を横に振りました。沙織さん、残念ですが当然の結果と言えますわ。

冷泉さんが水を飲みほしたところで、食事を終える。
わたくしたちの暗黙の了解となっていることです。

「そろそろ準備しなきゃね」

お昼休みが終了するまであと20分近くはありますが、みほさんを先頭に、わたくしたちは食堂を後にしました。
次は戦車道の授業ですので、他の方たちよりはすばやく行動する必要があります。
着替えは勿論のこと、戦車の軽いメンテナンスや各部チェック、砲弾の確認作業等、準備項目が多いのです。
用意が遅れるとそれだけ授業開始の妨げにも繋がるので、出来る限り急いだほうがいいのです。

それとは別の理由も存在します。

一度、戦車に乗り練習を始めてしまうと、簡単に途中下車ができなくなってしまいます。
もし練習中に体調が変化してしまうと、中断せざるを得なくなるばかりか、設備のない場所で事を済まさなくてはなりません。
良妻賢母の育成を目的としている戦車道において、そういった行為はご法度と言えるでしょう。

なので、戦車道の練習を始める前には体も整えておく必要があるのです。
これはみほさんがアドバイスしてくれました。
戦車道の経験者はみほさんだけだったので、この助言はあんこうチームだけでなく戦車道受講者全員が助かったに違いありません。

そのアドバイスを受けてからは、皆自然とトイレへ向かうようになりました。
戦車道受講者の方たちが利用するトイレは、一階の共同玄関にほど近い場所と決まっています。
ここが戦車倉庫に最も近い位置にあるトイレであるからです。

「あー、西住先輩たちだー。こんにちはー」

丁度、阪口さんがトイレから出てきました。朝練時にも挨拶はしたのですが、阪口さんはこうした礼儀を忘れない立派な方です。わたくしたちもそれに倣って挨拶をし、中へ。

洗面台ではウサギさんチームの面々が揃って手を洗っているところでした。

「午後もお願いします」

そう頭を下げたのは澤さんでした。
みほさんのことを一番尊敬しているのは澤さんかもしれませんわ。

「うん、よろしくお願いします」

年下に対しても全く態度を変えることのないみほさん。
誰からも好かれる人であることはこうしたことからもよくわかります。

「今日はどの部屋に入りましょうか……」

優花里さんは毎度、こうして個室を吟味します。
理由は個室から聞こえてくる砲撃音のためですわ。

そのとき、10ある個室の一番手前から戦車の砲撃音が轟きました。
といっても誰も驚きはしません。

この音は、個室から聞こえる音をかき消すために設置されたものだからです。

わたくしが入学した当初は水の流れる音でしたが、今年に入ってから突然、砲音に変更されました。
恐らくは生徒会が考案した戦車道受講者獲得のための一環なのでしょう。

砲撃音が止み、水の流れる音がしたと同時に個室のドアが開き、会長が姿を見せます。

「スッキリしたー。ん? やぁやぁ、みんな、お揃いで」

屈託のない笑顔で片手をあげる会長。小脇に干し芋の袋を抱えていますが、まさか……。

「あ、これ? ちゃんと袋は密封してるから大丈夫だよー」

そういう問題ではないような気もします。

「今日はここにします!!」

優花里さんが選んだ個室はVI号戦車ティーガーⅡの砲音がする部屋のようです。
砲音が部屋によって違うという生徒会の拘りには頭が下がりますわ。

沙織さん、冷泉さん、みほさんもそれぞれ個室の中へ。
わたくしも早く準備をしなければなりません。

わたくしの場合、いつも入る部屋が決まってしまっています。

それは一番奥の個室。

ここが何故か落ち着きます。わたくしから見て左がただの壁でしかないからでしょうか?
見えない人物に挟まれるという状況を無意識に嫌っているのかもしれません。

砲手としても挟撃は最も避けたいですし。

鍵をかけ、腰をおろし、スタンバイ。

時間をかけたいところですが、このときばかりはそうもいきません。
自宅であれば10分少々ほどですが、そんなことをしてしまうとみなさんをお待たせしてしまうことになります。

時間はかけられません。

勝負は一瞬。

一発で仕留めなくては。

軽く息を吐き、目を閉じる。

神経を下腹部へと集中させます。

力を込めるとき、声が出てしまいます。
吐息が自然と漏れてしまいますが、隣室には誰もいませんし、外も一年生のみなさんと会長の話声が響いているので聞かれる心配もありません。

まだ来ない。

外へ通ずる獣道を進む感触は伝わってくるのですが、未だ装填口には到達せず。

ここで更なる力みは禁物です。
焦りは何も出せません。

もう一度、小さく深呼吸。

瞬間、砲撃音が轟く。誰かが事を終えたようですわ。
残された時間は刻一刻と削られていく。

心静かに、そのときを待ちます。
決定的な機会を逃さないように。

更に空気を吸う。

刹那、自分の砲口に違和感を覚えたわたくしは部屋から漏れる音を全てかき消す砲撃音を打ち鳴らす。

今のは危険でした。
危うく、わたくしの砲撃音が轟くところでした。

別の場所から戦車の咆哮が聞こえてきました。
これでお二人が部屋から出たということになります。
時間がかかりすぎていますわ。そろそろ決めないと。

「ふぅー……」

花を活けるときのように集中して……。

歯を食いしばると装填されたのが全身に伝わり、鳥肌が立ちました。
どうやら、本日の砲弾は152mm榴弾に匹敵するもの。
ここまでの厳しい戦いはそういうことでしたか。

体が震え、花弁が開いていく。

わたくしは心の中でトリガーに手をかけた。

右手は既に壁に設置されたボタンに添えられています。

準備は整いました。あとは、発射するだけ。

――行きます。

ボタンを押すと同時に大口径の砲弾が音を立てて流れていく。

トイレに響く砲撃音にも勝るほどの爆音。

朝から食べたものが流失していくことに言いしれない快感を覚えてしまう。

ああ、お母様。華はいけない子なのかもしれません。

快楽に身を委ねてしまいそうになる自分自身を叱責し、奮い立たせる。
三度目の砲撃音が聞こえてくる。急がなくては。

紙を適量に千切り、汚れをふき取る。

拭き終えた紙が綺麗なことを確認して立ち上がる。
他の人へお見せできる状態に整えてから、わたくしは振り返りました。
体内で眠っていたわたくしのものを確認するために。

思わず、息を呑んでしまいました。
生まれてから今まで、これほどのものは見たことがありませんでした。

白い座に神々しく存在感を醸している。
とても力強く、凛とした佇まい。何事にも動じることのなさそうな体躯。
何人も持ち上げることなど不可能など思わせてくれる質感と重量感。

これがわたくしのから出てきたとは信じられませんわ。

許されるのであれな、一枚の写真にして、残したいほどです。

けれど、そんな行為に及べばわたくしの大切な人たちを悲しませてしますだけです。

これはしっかりと目に焼き付けておきましょう。

その時間は10秒にも満たなかったはず。
それでも瞼の裏に、そこにあったことを刻みこみました。

では、名残は尽きませんが、これを流さなくては。
次に使用するかたが困ってしまいますから。

滝が流れていく。
わたくしはその音を背にして扉の鍵に手をかけました。

しかし、何か違う。

変わらないはずの日常にひっそりと入り込んだ奇妙な感覚。
自然と肩越しにわたくしが今まで座っていた場所を見ました。

確かに水は流したはずです。
勢いもかなりありました。

でも、そこにいるのです。
強い意志を示すように、変わらずにそこにいたのです。

わたくしは恐る恐る再び水を流します。

二度めの激流にも見事に耐え抜く。
どんな攻撃にも耐える重戦車のように。

わたくしは戦慄しました。

自分はとんでもない悪魔を生み出してしまったことに今更気が付いたのです。

縋る気持ちで再び水を流してみる。
けれど、流れ出した水に過去二度の勢いは見られず、せせらぎの音をさせるだけでした。

水が溜まるまで待たなくてはいけませんが、それでは皆さんを待たせてしまうことになります。

わたくしは生涯で最も強い焦燥感を抱きました。

しかしながら、ここでこれを放置することもできません。
戦車道受講者のみなさんは必ずと言っていいほど、このトイレを利用します。
この個室だけを都合よく使わないということは考えられません。

それに戦車道受講者以外も利用します。
これだけの存在です。いつかは発覚するでしょう。

四度目の砲撃音。これでわたくし以外が事を済ませたことになります。

早急に解決しなくては。

わたくしは意味がないと分かりつつも、作業的な動作で流水させます。
勿論、大型の砲弾はそこに鎮座したままです。

何か、何かないかと辺りを見渡すも、小さなゴミ箱が床にあるだけ。
なんとなく中を覗いてみると、ゴミ箱は空でした。

ここに入れる?

すぐにその考えは撤回しました。

どうみても寸法が合わないからです。
出したものを小さなゴミ箱にいれるなど、狂気の沙汰。
犯人探しが実行されるでしょう。

それでは困るのです。

一粒の汗がこめかみを伝う。

これほどのまでの窮地。戦車道全国大会決勝でも大学選抜チーム戦でも味わったことがありませんわ。

いくら考えても打つ手がありません。
こんなとき、みほさんならどうするのかと思考した直後、

「華さん、大丈夫?」

みほさんの声が聞こえてきてしまいました。
どうやら、心配されてしまうほどの時間が経過してしまっているようです。

「華ぁ? きちゃったの?」

続いて沙織さんの声。
どうやら沙織さんはわたくしが急に体調を崩したのではないかと思っているようです。

沙織さん。わたくしは至って健康体です。
ですが、健康体であるが故にこの世には相応しくない重戦車を生み出してしまった。
申し訳ありません。

どのように返事をするか躊躇していると次々にわたくしの身を案じての声が届き始めました。

「五十鈴せんぱぁい? どうしたんですかー?」

これは大野さん。

「先輩、保健の先生呼んできたほうがいいですか?」

山郷さんまでも……。こうしていればいるほど、事態は大きくなるばかり。

このとき、わたくしはもう一つの迫りくる危機を察知しました。

大きな存在は、臭気による主張も始めたのです。

とっさに便座の蓋を閉じてみたものの、こんなもの何の意味もありません。
見えずとも隠し切れない神々しさは溢れてくるばかり。

ふと上を見上げてみると、扉と天井の間には隙間があるのがわかりました。
密閉されていれば、まだ時間が稼げたものの、塞ぐものがなければ発覚の時間は見る見るうちになくなってしまいます。

どうしたら。こんなとき、どうすれば脱することができるのでしょうか。
気を落ち着かせるために、わたくしは一度閉じた便座の上に座ります。

しかし、無為な時間だけが過ぎて行き、わたくしの下にある存在は肥大化し続ける。
外からの呼びかけも多くなるばかり。

「五十鈴殿ー!! 何があったのでしょうか!?」

「五十鈴さん。返事をしてくれ」

優花里さんと冷泉さんが不安そうにしているのが伝わります。
何か、何か言わなければ。

でも、みほさんたちに嘘を吐くわけにも行きません。
真実を隠し、今出ることはできないと言っても、わたくしが授業に遅刻するような事態になれば大事になるかもしれません。

胸の鼓動が早くなる。

緊張で大声を出したくなります。
喉から出そうになる声を必死で押しとどめる。

追い詰められたわたくしに一つの案が浮かび上がりました。

――もういちど、からだのなかに、しまってしまえばいいのでは?

わたくしは頭を振りました。

ありえないですわ。
上からにしろ、下からにしろ、出したものを戻すなど、無理に決まっています。

――けれど、くちからなら?

ダメです。そんなことできるわけがありません。

――じぶんのものなら、たべるのにそこまで、ていこうがないのでは?

何かに操られるように、わたくしは閉じた便座を開けました。
水が後光のように輝いています。

これを体の中に戻す?

お昼は既に頂きました。これ以上摂取する必要は全くありません。
この超重戦車がわたくしの体内に進軍したところで、入り込める余地はどこにもないはず。

――だしたのだから、はいるはずですわ。

何秒、それを見下ろしていたのか。
気が付けばわたくしの手は便座のほうへ伸び始めていた。

「華さん! ここを開けて!!」

みほさんの悲鳴に近い呼びかけ。
きっとみほさんなら一切の迷いなく扉を破壊することでしょう。
仲間のためならその身すらも投げ出すのですから。

息遣いが荒くなる。

自分を止めることができない。

こんなものがわたくしの中に入っていたことすら驚きなのに、今からわたくしは食そうとしている。
そんなこと乙女として、いや、人間として禁忌であることは十分に理解しているはずです。
それでもわたくしは今から、学園艦にも似た巨大艦船を飲み込もうとしている。

正直に流れないことを伝えればいいのでは?
でも、そんなことを言えるほど、わたくしも強くはありません。
五十鈴家としての矜持、淑やかさは崩壊する。

何より、みなさんの見る目が変わってしまうのが、恐ろしく思います。

そうなるなら、いっそのこと全ての原因である、この60cm砲弾にも勝るものをこの世から消してしまったほうがいい。

わたくしはその考えに囚われてしまいました。
もう自分を自分止めることはできない。

花を活けるための大事な手。
敵戦車を撃破するための大切な手。

それを今、わたくしは自分のもので穢そうとしている。

これほどまでにわたくしを追い詰めておいても、目の前の敵は嘲笑うように居続ける。

他に手はありません。

わたくしは覚悟を決め、右手を便器へ近づけました。

掴んでしまえば、終わる。
僅かに残る理性がそう言う。

でも、掴まなければ築き上げたものを失う。
もう一人のわたくしが背中を押す。

何が正しいのか、分かりません。
どうしたらいいのか、分かりません。

誰か、わたくしを叱ってください。
誰か、わたくしを罵ってください。

誰かわたくしを……。

「止めて……」

手が生温かく、固めの泥のような感触のもに触れる。

持ち上げると自重に耐えきれず、折れてしまう。

半分になったそれを手に収めたまま口に近づける。

異臭が鼻腔の中に絨毯爆撃を仕掛ける。

けれど、今のわたくしにはその臭いを感じる余裕はありませんでした。

ただひたすらに、目の前のものを処理することしか頭になかったのです。

口をだらしなく開け、汚れた手にあるものを受け入れる準備を整えた。

「みんな!! 今すぐ保健医をつれてきて!! 五十鈴ちゃんが倒れてる!!」

会長の叫び声にはっとして、口元の数ミリまで近づいていたものを離した

「わかりました!!」

数人分の足音が慌ただしいまま遠ざかっていきました。

わたくしは握ったそれを眺め、自分の愚かさを恥じました。
半分に折れてしまったのですから、このまま流れるはずです。

握っていたものを便器の中へ放り込む。
水が跳ね、手についた気がしますが、そんなこともうどうでもよくなっています。

水を流す。
滝が流れ、中にあった存在は最初からいなかったかのように消失してしまいました。

彼の者が生きた証はわたくしの右手にしっかりとこびり付いているだけとなりました。

「華さん、出てきてもらえますか?」

みほさんは何もかもを知っている。
何故かそう直感で思いました。

「五十鈴ちゃん。ここには私と西住ちゃんしかいないよ」

会長の慈愛に満ちた声に導かれ、わたくしは汚れていないほうの手で鍵をあけました。

開けると新鮮な風が頬を撫でる。
そして、みほさんと会長が何一つ変わらない姿でそこに立っていました。

「華さん、何があったんですか?」

友を思い、表情を暗くさせるみほさん。
その優しさが今は胸に痛いです。

何から語ればいいのかわからず、わたくしはただ床に視線を落とすしかありません。

「その手、やっぱり掴んでたんだね」

会長がわたくしの右手を指差してそう言いました。
指摘された右手には生々しく汚れたまま。

「すみません。お騒がせしました」

他に言葉が見つからず、ただ謝罪する。失礼なことだとは分かっていながらも、謝るしかありませんでした。

「どうしてそんなことを?」

どうしてなのでしょうか。
混乱したにしては異常な行動だと自分でも思います。

「あるよねー、流れないときって」

会長の一言にわたくしの顔が上がりました。
みほさんも驚愕した様子で会長へと視線を移しました。

「私もたまーにすっごいのしちゃうんだけど、そのときはもう焦っちゃってさぁ。処理とか困るよねぇ」

その小さな体から流れないほどの砲弾が出るというのですか。

「そ、そのときってどうするんですか?」

みほさんも興味があるようです。わたくしもあります。

「そんなときはこれを使う」

と、わたくしとみほさんに見せたのは干し芋の袋。

「流れないほどのものはこれの中にいれて、外に捨てるんだ。中は見えないし、密閉すれば臭いもしないし。これ、便利なんだよね」

「その中に入れちゃうんですか!?」

「入れるときはこうして袋を裏返しにしてから、袋で掴んで、また裏返す。そしたら素手で触れることなく袋の中に入れられる」

「あ、私も実家で犬を飼っているんで分かります。犬のを処理する時は同じことをしますよ」

わたくしもみほさん同様に共感しています。
そうした方法があったとは……。

「私も過去に何度か失敗しちゃってるから、公共のトイレを使うときはこの干し芋の袋を持ち歩いてる。五十鈴ちゃんもどう?」

「そうですね……」

稀とはいえ、また同じことが起きないとは言い切れません。

「わたくしも会長に倣おうかと思います」

「それがいいな。んじゃ、まずは手を洗おうか」

このとき初めてわたくしの右手が腐臭にも近いものを放っていることに気が付きました。

手を洗い、しばらくして沙織さんたちが保険医さんを連れてきてくれました。
皆さんがわたくしの身を案じている中、みほさんと会長が貧血で倒れてしまったという説明を行い、事態の沈静化を図ります。

「貧血って麻子じゃないんだからぁ。も~」

と沙織さんは安心したように顔を綻ばせ、

「良かったです、五十鈴殿が無事で」

今にも泣き出しそうな表情の優花里さんがそれに続き、

「貧血の辛さはよくわかる。何かあれば言ってくれ。アドバイスぐらいはできる」

冷泉さんが微かに笑いながら、そう言ってくれました。

ただ流れないことに焦り、個室から出られなくなっただけだとは夢にも思わないでしょう。
この事実はわたくしとみほさんと会長だけのものとなりそうです。

「とりあえず、授業は休んで保健室で寝てたら?」

「それがいいかもね」

沙織さんの提案に乗るしかないとばかりに、会長がこちらを一瞥する。
ここで拒否すれば徒に疑いを生むだけ。

わたくしは反論することも抵抗することもなく保健室へと移動することにしました。

トイレを出ると全チームの皆さんが居ました。
相当大事になっていたようです。
猛省しなければなりませんね。

保健室に漂う薬品の匂いに気持ちが静かになり始める。

天井を見ながら、先ほどのことを逡巡する。

10分にも満たなかった時間で起こった出来事。
わたくしは人間としてのプライドを守れたのでしょうか。
この手に取ってしまったのは事実。
みほさんか会長にその姿を見られたのも、また事実。

話を聞けば、会長がドアと天井の隙間からわたくしのことを見たようで、
それはわたくしが自分の廃棄物を握りしめているところだったそうです。

末代までの恥ですが、会長もみほさんも後世に伝えることはないでしょう。
それだけは確信しています。

見られたのがあの二人で良かった。

いえ、たとえ沙織さんでも優花里さんでも、冷泉さんでも……。
戦車道受講者の方々ならば、結果は同じだと思います。

共に逆境を乗り越えてきたチームメイトだからこそ、分かること。
誰も広めることはないでしょうね。

それにしてもあの漆黒の砲弾は凶暴でした。
あんなにも重く大きなものが何故生まれたのかは検討もつきませんが、今後も注意しておかなくては。

また人間を捨てかける事態だけは避けたいですから。
あと、みなさんに迷惑も心配もおかけしたくありませんし。

今はゆっくりと休み、放課後の練習に備えることにしましょう。

わたくしたちが学校の門を通ったときには日はすっかりと落ち、辺りは暗くなっていました。

「華が復活してくれてよかったよぉ」

「ですね! 五十鈴殿はあんこうチームになくてはならない存在ですから」

「人数が少ないんだ。誰が欠けても困るだろ」

沙織さんたちの言葉に思わず口角が上がってしまいます。

「華さん」

「なんでしょうか?」

みほさんが三人に気取られないように声をかけてきました。
きっと今日のことでしょう。

「行進間射撃の精度を上げるための練習ももう少し増やしてもいいですか?」

わたくしは呆気にとられ、立ち止まってしまう。

「どうしたんですか?」

何もなかった。
みほさんは何もなかったと言っているように、普段通りに戦車道のことを口にした。

涙腺が刺激され、今声を出すと震えてしまう。
わたくしは押し黙り、感情の波が落ち着くのを待ち、言いました。

「はい。大丈夫ですわ、みほさん」

「なにしてるのー、みぽりーん、はなぁ」

「どうしたんですかー?」

「早くこい」

何も変わらない。
昨日と同じように一日が終わりを告げようとしている。

わたくしはあのトイレで何を心配し、焦っていたのでしょうか。
あのとき、勇気を出して真実を告げていれば、そこで話は終わっていたはずなのに。

あの便器の中にいた者のようにどのような激流にも動じない心でいればこんなことにはならなかったのに。

「急ごう、華さん」

みほさんがわたくしの右手を握り、走り出す。
この汚れた右手を引いてくれた。

「はいっ」

変わらない風景。
違わない関係。

明日もまたきっと何も変わらない一日が始まるのです。

どんなことにも流されることのない五十鈴華の日常が。


―END―

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