あなたの物語を。トエル 『氷菓』 (146)
湯船に肩まで浸かり、深く息を吐き出す。
一日の疲労の、最後の一滴までもその呼気に混ぜ吐き出してしまうように念入りに。
一日一日がまさしく光陰矢の如く過ぎ去っていく。昨晩も風呂場で同じことを私は考えていた。
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バスタブの底に触れていた手をそっと持ち上げる。
水面に大きな輪を描くように、両の人差し指を立て、湯の中から水面ぎりぎりのところで指先を一周させてみた。
左で半円、右で半円、描いたそばから、その線は僅かな波紋を残響のように漂わせ消えていく。
私の頭の中には、その円がイメージとして確かに残っているのに。
水面を通して見る手は我が子のように小さい。
これは光の屈折のせいであると、昔に父が教えてくれた。
小さな頃の私は何にもまして好奇心が旺盛だったらしく、そのことでよく両親を困らせることもあったそうだ。
例えば、空はなぜ青いのか? 海はなぜ塩辛いのか? 星はなぜ空に浮かんでいるのか?
たまりかねた父がふりがながふんだんに振られた百科事典を買い与えてくれた日のことをよく憶えている。
私は主にそれを読むというよりは、眺めるために開いていた。
気に入ったページがあればドッグイヤーをこしらえ、仕事から帰宅した父にそのページの内容について
いの一番に尋ねていたそうだ。額に皺を寄せ、肩を落として説明を始めていた、とのちに母が懐かしげに語ってくれた
父の姿は容易く想像ができる。
いつからの習慣なのかは記憶にないが、入浴の間、一度は指を確認する作業が日課になっていた。
手を広げ、目の前にかざし、表裏から指を一本一本仔細に検分していく。
二十代前半の頃に比べれば、全体的に少し節が太くなっているように思えたが、見る人が見れば
そんなことはないと否定するぐらいの微々たる変化ではあるかもしれない。
左の中指の爪先にひびが入っている。右手の薬指に小さな痣ができていた。
老い、とも換言できそうな些細な変化だった。
蛇口から一粒の水滴が落ちる。どこか添水に通底する趣のある音だった。
私たち日本人はこういった静寂を際立たす音色というのを元来好む傾向にあるらしい。
水滴の音、それを包み込む静寂の気配が、十本の指に夢中になっていた私を現実へ引き戻す。
そろそろあがらなければならない。長く浸かるつもりはないのに、いつも私は長湯をしてしまうきらいがある。
添い寝して、子供の様子を見てくれている夫にも悪い。あの人だって随分疲れが溜まっているはずなのだから……それに、
寝室の隣部屋に置いてある道具をあの人に見られることには、痴態が露見するような恥ずかしさがある。
過去に置いてこなければならなかったであろう物事に指先を掛け、未練がましく引きずっている様は
誰かに知られたいものではない。ただ、夫は優しい人だから、そのようなことを思ったりはしないだろう。
私のことを未練がましい人間だと一番思っているのは、たぶん私自身だ。
夫は案の定船を漕いでいた。ここ数日は酷暑の下での作業が続き疲れ果てている様子だったから仕方がない。
「起きて、あなた」
肩を揺すると、うめき声をあげながら夫が目覚める。寝ぼけ眼が私と子供の寝顔を捉え、表情が薄い笑みへと変わった。
すまない、知らない間に寝てしまっていた、と断りを口にする夫に私は首を振る。
「いいの、あなたも疲れているでしょうからゆっくり休んでください」
「うん……お前こそ、ここ最近は来客も多かったし疲れているように見える。早く休みなさい」
夫が私の頬に口づけし、立ち上がって障子戸を開いた。予報通り、夜空には雨雲が浮かんでいる。
まるで明け方からの雨に備えて、その一片一片の雨雲同士がお互いの策を披露している集会のようだった。
明日は雨か。夫がそう漏らし、おやすみと私たち二人に呟いて障子戸を閉じる。私は障子戸へ向かっておやすみと独りごちたあと横になり、
静かな寝息を立てている子供の横顔をひとしきり眺めて、また起き上がった。
隣室へと繋がる障子戸を見遣る。立ち上がれと自らを鼓舞する。
身体を瀰漫していく疲労感に抗うためには、気持ちを奮い立たせる必要がある。私がやりたいことでしょ!
心の内でそう何度も命令し、立ち上がって、隣室へと歩を進めるが、障子戸の引手に手を掛けるとそこでも逡巡が訪れる。
本当に私にできるのだろうか? 技術や感性、運といった総合的なものを力や才能とするならば、
それを飛翔させる翼になるものはきっと若さだ。私に力は残されているのだろうか。翼は折れていないだろうか。
雑念を振り払うように、勢いで障子戸を開く。真白なキャンバスが木製のイーゼルの上に鎮座している。
その手つかずのキャンバスは見るたびに私の胸を締めつける。いったいいつになれば、私は描きたい物語を見つけ出すことができるのだろう。
どれだけ沈潜しても、どこかに隠れているはずのそれを探り出せずにいる。
目をつぶり、ゆっくりと数字を十まで数える。余計なことを振り払うための私なりのルーチンだ。
匂いがこもるといけないので、中庭に面した窓を開け、脚にカバーを履かせた椅子に腰掛けた。
開け放した窓から夏の香りがこの鼻腔を素通りしていく。
脳裏に浮かんでくるのは、どれもこれもオリジナルとはいえない代物ばかり。
苛立ちから、思わず膝小僧にげんこつをぶつけていた。
残り時間はどのくらいなのだろうか? 向き合うたび、焦燥感だけが募っていく。
雲間から現れた三日月、夏の虫の音、緩く吹く風。時間は、私から技術だけを奪い去っているわけではなかった。
あらゆる事物のささめきがいまやじっと耳を澄ましていなければ、容易には聞き取れない。
五感が鋭さを失いかけている。私にとっては技術などよりも、こちらの方が余程ことである。
現実的に見れば、私の最たる望みが叶うことは非常に難しい。
そう理解しているつもりでも、心がその考えを跳ね除ける。
ありえるわけもない、希望の一握りをこの手にすることができるならば……けれど、そのためには
大きな代償を払わなければならないことも、私は理解していた。
叫び出したい気分になる。何の恥じらいもなく、思う存分夜闇に向けて声が枯れてしまうまで叫びたかった。
責任やしがらみを投げ捨て、全力で走りだしたかった。その間だけでも、きっと色々なことを忘れることができるだろうから。
あの子の泣き声……私を呼んでいる。なるべく物音を立てないように、あの子の傍に歩み寄り、
その小さな身体をそっと抱きしめた。子どもらしい、あの柔らかな匂いが私の鼻先をくすぐる。
お気に入りのうさぎのぬいぐるみが所在なげに仰臥し、
可愛らしいボンボンのついたヘアゴムが一本座敷に落ちていることが目に留まる。
暫く彼女をあやし、その暖かな頬に軽く口づけし、もう一度、時間をかけて布団へ寝かしつけた
あとにそれらを拾い上げた。失くしてしまったら大変だ。
彼女の宝物入れである網代編みの籐の箱を開け、その二つをしまい込む。
この道を、選んだのは私だった。
この子が笑い、泣き、走り回り、飛び跳ねる姿、絵本を読んでもらっているときのあの瞳の輝きや安堵の寝顔、
その全てが愛おしくてたまらない。
心の揺れ動きは幾度となく訪れるけれど、この道を選んだことを後悔とは思わない。
気まぐれな強迫観念も、いずれは彼方へと過ぎ去り、振り返れば私という物語の重要な要素となるのかもしれない。
彼女の唇に触れ、考える。この子にも、私と同じことで臍を噛むような気持ちになることがあるのだろうか?
ひょっとすれば、その瞬間が訪れることはないのかもしれない。
どちらがいいだろう? 他人に知られれば、指弾されるかもしれないが、私は私と同じように、この子も悩んでくれる
といいのになと思ってしまう。秤にかけ、自らが懊悩の末に選び取った物事にはささやかであれ幸福が宿る、と昔小説
で読んだおぼえがある。この子にもささやかな幸せを選び取ってもらいたい。
奇妙な多幸感に包まれ、私ははっとした。諦めかけていたが……今なら。
軒下の犬走りを打つ雨垂れの音だけが、この深閑とした空間で
耳に届く唯一の音らしい音だった。
やがては、この雨滴の音もさわさわと降り続く雨の音同様に、間もなく
この景色に染み込み気に留まることもなくなるだろう。
隣の横手邸に何の気なしに目を遣る。瓦葺き屋根の平屋建て、やって来た時には気づかなかったが、
屋敷の縁側正面には小さな池があり、白色と薄い桃色の蓮の花がまるで装飾品のように
この敷地に彩りを添えていた。姿を消していたかたつむりが何処を目指してか、また板塀を
登り始めていて、その真下では一匹の雨蛙が一度だけぴょこんと跳ね、かたつむりの牛歩を眺めている。
視線を上方へ向けると、この光景を見下ろすように神垣内連峰が聳え立っていた。
お世辞ではなく陣出の景観に、この屋敷は見事なほどに馴染んでいる。
まるで誰かがキャンバスに描いた絵画のようだ、とふと俺には思えた。
まず陣出の山里風景を描く。峻険な山々の姿、木々や草花、まばらに建つ人家。
次にこの屋敷を想像の底から掬い出す。瓦葺きの屋根、蓮の花、白漆喰の蔵、
蔵の軒下で佇立する男……俺。
両手の親指と人差し指を立てL字型をつくる。それを組み合わせ長方形の窓枠にし、
そこからそっと周囲を覗いてみた。
どこをどうその窓枠に収めてみたところで、俺にはイマジネーションの気配も趣とやらも感じることができない。
ただし、ひょっとすればこの光景の作者すらも知りえないことを俺は知り得ている。
この絵画に直接視認できる人物は俺だけであるが、白漆喰の蔵の中にも実は一人の女性がいることを。
「千反田」俺は蔵の内側へ呼びかける。「少しは落ち着いたか」
応答は返ってこない。
腕時計に目をやると、長針は既にリミットを超え次の数字の上へ重なるところだった。
ただ、べつにいいさと俺には思えた。得手勝手な話ではあるが、誰かが不利益を被ればいいという
願いを微かに抱いていた。千反田えるを取り巻く種々のしがらみを後生大事にする奴らも、合唱祭の成功ばかりに目を向け、
千反田えるという個人を蔑ろにした奴らどちらにも不利益が被れば良いと僅かに願っていた。
しかし、この思いは情動による一過性のものだろうことも、今や頭の片隅に追いやられている冷静な部分は理解している。
つまるところが八つ当たりだ。論理もへったくれもない。ぐずる子供が喚き散らし、非の全てを誰かに押し付けたいだけだ。
千反田は俺がこのような事を述べたところで絶対に同意はしないだろう。
そのような考えを俺が持っていること自体にも喜びはしないはずだ。
そう分かりきっているからこそ、俺は千反田ではない誰かにその非を押し付けたくてたまらない。
前触れもなく、観音開きの扉が開く。思いの外鳴り響く音に、俺は少しだけ驚き、後退りしてしまう。
「ごめんなさい。折木さん」
俯き加減の千反田がそう呟く。
「こっちこそ悪かったな。その……発声練習を聞いてしまって」
「いえ、いいんです。そんな……」千反田が頭を振る。「悪いのは、全てわたしなんですから」
そんなことないさ、とは口に出来なかった。千反田はその言葉をにべもなく否定してしまうだろう。
何を言葉にすればいいのか、どれもこれもが千反田を傷付けるだけのようで俺には分からなかった。
「折木さん。よければ少し歩きませんか?」
こちらの戸惑いを感じ取ったのだろうか。千反田は憂いを含んだ苦しげな笑みを無理矢理に浮かべ、
手にしていた茜色の傘を楚々とした仕草で、そっと開いた。
茜色の傘は、二人を雨粒から守るには小さすぎた。俺はいいからと固辞はしたけれど、
千反田が頑としてそれを許さなかった。
それでも、背丈が高い俺が傘を持つことになったから、気取られぬよう僅かに千反田側へ傘を傾ける。
「せっかく梅雨が終わったっていうのに、今日は生憎の空模様だな」
会話の糸口を掴みたくて、当たり障りのない天気の話題を持ち出してみた。
「ええ、そうですね。これ以上の長雨はあまり農家の方々にとっては嬉しいものじゃありませんから、
明日には上がってくれるとありがたいのですが」
熱せられた舗装道の余熱はとうに失われ、近くのクヌギはすっかりぬれそぼり、水を含んだその立ち姿は
どこか恨めしげにこちらを見つめているようにも感じられた。
雨の匂いばかりが辺りを彷徨っている。
不意に傘の重みが増した。どうしたことかと視線を向けると、
ほくそ笑む千反田が傘の柄を指先でこちら側に押し返している。
「わたしは大丈夫です。心配には及びません。遠くない距離に家があるので、
帰ってすぐに着替えることができます。でも、折木さんはそういうわけにはいかないでしょう?」
もうそのまま、お言葉に甘えてしまおうかという気分になった。
けれど、千反田の方をよく観察してみると、雨水に打たれた白いシャツの左肩部分が既にぐっしょりだ。
薄っすらと肌も透けているのを一瞥し、気恥ずかしくてすぐに目を背けた。
陣出は千反田のホームグラウンドだ。これ以上このお嬢様を雨に晒せば、いったいどんなブーイングが飛んでくるやも知れない。
「なあ……千反田」
「はい」
いつもは気にもかからない沈黙が、今日は重たい。
この沈黙を言葉で埋めなくてはと気ばかりが急くが、言葉が後に続かない。
「本当に、今日は生憎の空模様だな」
繰り返すのが精一杯だった。
それは錆が目立つホーロー看板を掲げた、朽ち果てかけた家屋の前でのことだった。
屋号を掲げていたと思しき大きな看板はこれ見よがしに斜めに傾いでいる。
排気ガスを浴び黒ずんだ引き戸、風雨に晒され腐りかけた柱、
ここを先途とばかりに繁茂する蔦状の植物。呻き声が家奥の暗闇から漏れ出てきても
おかしくはなさそうだった。
人が居住しているからこそ、家屋は家屋らしく振る舞うと、どこかで耳にしたことがあるけれど、
まさにその事の例を見せられているかのようだった。
人を住まわす責を解かれた家屋は、こうも無残に荒れ果ててしまうのだ。
「心根の優しいお婆さんの家だったんです」
千反田が呟いた。思い出に耽っている最中意識せず口に出してしまった、そのような口ぶりだった。
「知り合いなのか?」
千反田が頷く。
「折木さん。小さな場所です。自慢ではありませんが、わたしがこの近辺で知らない方たちはいませんよ。
ここのお婆さんはこの家で駄菓子屋を営んでいた方なんです。小さい頃には母におねだりして一緒に駄菓子を
買いに来たりもしました。そういえば、母が前に話していましたが、物心つく前のわたしは、
駄菓子屋さんになるんだ、と行く先々で放言していたそうです」
駄菓子屋店主の千反田もそれはそれで面白そうだと想像めぐらしてみる。
ホーロー看板の、なぜだか馴染みのある笑顔の男性が有名な飲料を手にこちらを伺っていた。
「ところで折木さん」千反田の大きな瞳がこちらを見つめていた。「気になることがあるんです」
途端、ホーローに印刷された男性の笑顔が、憎たらしい笑みに変わったように俺には思えた。
「どうして父はこのタイミングで、わたしに自由に生きろと、好きな道を選べと告げたのでしょう。
これまでのわたしの振る舞いを父も十全に理解していたはずです。
それなのに、どうして今なのでしょう。きっかけが、きっとあると思うんです! わたし、気になります!」
なるほど、と妙に得心がいった。
役割を投げ出してしまったことへの自責、千反田の父が娘に告げた家を継がなくていいという、捉えようによっては許しの言葉。
課せられた責と解かれた責、この二つの責の狭間で先刻まであれほど煩悶していた千反田だったが、
折り合いを見つけ、徐々に気持ちの整理がついてきたのだろうか。顔色も蔵の中から出てきた時とは比べ物にならない。
さすがは好奇心の権化だった。好奇心という栄養が、このお嬢様のバイタリティを溢れんばかりにさせている。
瞳孔が拡大したようにも見えるその大きな瞳が、俺を呑み込んでしまわんとばかりに凝然とこちらを見据えている。
普段以上の迫力に、知らず息を止めてしまっていた。
「分かった分かった」
溜め込んでいた呼気を体外に吐き出し、俺は大きく息を吸い、呼吸を整える。
「とりあえず千反田……少し離れろ」
勢い余ってこちらに身を乗り出した千反田にたじろぎ、手にしていた傘を地面に放ってしまい、
もう二人とも完全に雨ざらしだ。まず俺が初めにくしゃみをし、つられたように千反田があとに続いた。
千反田の提案で、千反田邸に足を運ぶこととなった。
小雨程度だといっても、二人ともいい塩梅にずぶずぶだ。他人の家にお邪魔することがそれほど得意じゃない俺だったが、
待ち受けているだろうバスタオルの誘惑には抗えない。それに、どうして千反田の父親が件のようなことを告げる気になったのか、
その答えを知るための手がかりは千反田の家に伺う以外には掴めそうもない。
頭を垂らしてはいない緑の稲が、毅然として整列している光景が目の前に広がる。
出穂にはまだ少し時間を要するそうだ。
この広大な田園の全てが千反田家の所有地なのだろうか。
眼前の田畑とは、高低差と塀の囲いによって隔てられるように千反田邸は構えられていた。
元々周囲より高さのある土地だったのか、それとも人為的な工作が加えられているのかは千反田も知らないそうである。
門扉の前に立ち、改めてその内部を伺ってみると自然と溜息が漏れ出てしまった。
依然として変わらないその偉容は、古くから連綿と続くこの家系の誇りを代弁しているかのようだった。
俺や里志たちには到底理解し難い責、千反田という家の歴史が
否が応でもその一族に課す……それは理屈を超えた種類のものだった。
不意に、不安に襲われる。千反田はこの責任と真正面から対峙し続けてきた。
ただ、その責任から唐突に放免され途方に暮れてしまった今、千反田の父親の真意を知り得たところで、
それは本当に千反田の救いになるのだろうか。
「ところで千反田」
俺はそんな不安を振り払おうと隣を歩く千反田に声を掛ける。
「父親が、お前に『家のことは気にせず自由に生きろ』となぜその日に語ったのか、
自分なりにでも思い当たる節はないか?」
「思い当たる節、ですか?」
思案投げ首、しばらく黙考した千反田だったがその口端から溢れるのは
弱り果てた声音だけだった。
「別にどんな些細なことだっていいんだぞ。
それに、普段から一緒に生活をするお前でなければ些細な変化なんて気づきようもない」
腕を組み合わせ、下唇を噛んでもう一度記憶を手繰り始めた千反田が
ぽんと手を叩いた。
「暑中見舞いに美味しいスイカを頂きました。
今年のは出来が良くて、甘さも近年では一番だというお話で」
時折このお嬢様は俺が期待する加減というものを、
ものの見事にあっさりと裏切ってくれる。
「どうでしょうか? うーん、あっ! では物置の整理をしていて、
わたしが小学生の頃に乗っていた自転車が出てきたことはいかがでしょう?」
「全く関係ないとは言い切れない。
ただし、それがどう繋がってくるのかと尋ねられると、俺には説明ができない」
ひょっとすれば、千反田が望むような答えはないのかもしれない。
父親が以前よりその思いを内に秘めていたのかどうかも定かではない。
千反田の責を解くという考えを実際に口にしたきっかけ。
あるとすれば、それはいったいどういう理由からなのだろうか。
「える」
玄関の戸が開き、家の中から一人の女性が姿を表していた。
千反田が俺のさしていた傘の下から飛び出し、小走りに女性の元へとかけて行く。
一目で、この女性が誰であるのか理解が及ぶ。体躯も見目もよく似ている。
けれど、まるっきり同じであるということはない。俺の勝手な印象ではあるし、当然といえば当然なのだが、
母親の方には千反田えるにはない積み重ねてきた人生のはっきりとした影響を感じることができた。
瓜二つに見える、その大きな瞳の深奥にもより理性的な色合いを捉えることができるし、
娘の肩に載せた手には母親であるからこその慈愛が見て取れた。
俺はあえて急ぐようなまねはせず二人のところへ向かった。
玄関まで延びる飛び石の上を、むしろ意識してゆっくりと歩く。
「いらっしゃい。お噂はかねがね伺っていますよ。
ごめんなさいね、いつも娘の傘持ちのようなまねばかりさせてしまって」
「ここで待っていてね。タオルを持ってきますから」
千反田の母がそう言い、家の奥へと姿を消した。
玄関の三和土には、俺たち二人から時折滴る雨滴により黒い跡が残っている。
うちとは違い、こざっぱりとした玄関だった。
右手に鎮座するこの巨大な古式ゆかしい和箪笥のようなシューズボックスに家人の靴が収納されているのだろう。
どこの家にもありがちな所狭しと靴の陣取りが繰り広げられている光景は、およそ千反田家とは無縁のようだった。
「あれこの絵、前は置いていなかったよな?」
取次ぎに設えられた飾り棚の上に、額装された二枚の絵が置かれている。
俺の記憶が正しければ、以前に訪れた際はこの飾り棚には何も置かれてはいなかったはずだ。
「ええ、よく覚えていましたね。先程お話した物置の整理のときに見つけたんです。
せっかくですからと飾ることになりました。母はあまり乗り気ではありませんでしたが」
「お前の母親が描いた絵なのか?」
「はい。わたしもこれを見るまで、母に絵を描く趣味があったことをすっかり忘れていました」
向かって左側の絵に描かれているのは、まばらに道を行き交う人々の姿に、
尖塔と教会が佇む街並みの景色だ。じっと細部にまで注意を払うと、
街路にはなにやら落とし物らしき物があったりとなかなか趣向が凝らされている。
実際にその地にて、その場所の空気を味わいながら作り上げた作品のように俺には思えた。
「随分と趣が異なる絵画だな。左の方は写実的であるのに対して、
こちらはより柔らかなタッチで抽象的なふうに感じる」
千反田がじっとこちらの表情を伺っているのが、横目にちらと確認できた。
柄にもないことを口にした小恥ずかしさが顔を熱くさせる。
「素人目だ。覚えがあるわけでもないから聞き流してくれていい」
「そんなことはありません」千反田が取り繕うように慌てて両手を左右に振る。「折木さん。
書物や映画、絵画のような芸術作品に対してなんの憚りもなく、素直に自分の気持を表明することは
とても大事なことだとわたしは思います。意外でなかったといえば嘘になりますが、
折木さんのそのように感じられた気持ちもまた大事にするべきものだと思います」
千反田の意見はもっともなものだった。けれどそれにしたって面映い。
俺は顔を背け、気恥ずかしさを誤魔化そうともう一度じっと絵を見つめる。
一人の女の子を乗せた小舟が水面を漂っている。年の頃は恐らく四、五歳ぐらいだろう。
水面には散らばるように波紋がたち、ぼんやりとした光の粒が反射している。
女の子はこちらには背を向けていて、その表情は窺い知れず、
その肩にかかる黒髪が光の粒の中で一際重い印象をこちらに与える。
遠景にはうっすらと対岸が浮かびあがり、その上空では濃藍とオレンジ色の空がお互いに中空で溶け合うようにして描かれている。
そして、そんな対岸の光景への航路なのだろうか? 舳先から向こう岸までの間に虹がカーペットのように敷かれていた。
「なんだか魅入ってしまいますね」
千反田が指を指し、そう呟く。確かにそうかもしれない。
左右の絵を比較してみると、左の方が技術的には優れているように思えたし、
綿密な計画のもとに念入りに描かれたというのがこちらにも伝わってくる。
対して右の絵には、そのような綿密な計画性というよりも感覚的と表現すればいいのだろうか?
こう見せたい、こう感じさせたいという厳密な狙いがあるというものではなく、
作者がその時期、若しくはその瞬間に心の中に抱いていた感覚、想いの全てを筆に任せ、
発露した感情をありのままを描き仕上げた作品。そういったイメージを俺の中へ湧き起こさせる。
俺自身もどちらに目を奪われるかと問われれば、その答えは右の作品の方であった。
「左が技巧的、右が感覚的」
そんなことを言い条、俺は両者にあるスタイルの違いとは異なる
もっと表面的な何かの差異について違和感をおぼえていた。
「トエル」
思わず声に出していた。
「トエル?」
千反田の問い返しに、俺は首肯する。
右の絵の左端に、その文字は書かれている。
しかし、左の絵をもう一度隈なく改めてみても、トエルという文字を確認することはできなかった。
「雅号でしょうか?」
「雅号? ペンネームのようなものか?」
今度は千反田が首を縦に振る番だった。
「本来ペンネームというのは、文筆活動の方が用いる二つ名のことを指しているそうです。
ですからこの場合は雅号が正しいかと」
里志がこの場にいれば、待ってましたとばかりにその薀蓄を披露してくれそうな話題である。
ともあれ、これが雅号であるという考えに不服はない。
ともすれば、これは千反田の母親が絵を描くときに使用していたもう一つの名だということになる。
「なあ千反田。お前の母親は昔は随分と真剣に絵を描いていたりしたのか?」
「はっきりとした学校名は忘れましたが、
美術大学へ通っていたというお話を随分前にされていたような記憶があります」
それほどに身を入れ込んでいたというぐらいなら、自前の雅号の一つぐらいあっても不思議ではないのかもしれない。
詳しくは知らないが、確か伊原だって漫画の作者名にはペンネームを使っていたはずである。
「折木くん」突然視界が覆われた。
「人様にじっと鑑賞してもらえるほど、立派な作品じゃないと考えているの」
されるがままに、髪の毛をゴシゴシと拭かれる。
はい、できた、と頭に掛けられていたタオルが外されれば、眼前で千反田の母親が柔和に微笑んでいた。
「える。ついでにお湯を沸かしてきたの。
身体を温めるぐらいでいいから浸かってきなさい。
折木くんもどうかしら?」
流石に風呂はと慌てて頭を振った。遠慮しなくていいのよ、という念押しには、
こちらも念を押して首を横に振り返す。
「いえ、ですが」
千反田が俺と母親を交互に眺める。
「俺のことを気にしているなら大丈夫だ。
なに、夏休みも初日で時間はたっぷりあるからな」
「では、申し訳ないですがお言葉に甘えさせていただきます。
さっと湯船に浸かるだけなので、長い時間は取らせません」
千反田はそう話しながら、俺の方をじっと見つめていた。
ほんの少し肩が震えているなと思っていると、口元を手で抑え微かな笑い声をあげる。
「ごめんなさい折木さん。それではいってきます」
なぜ千反田が笑ったのか皆目検討がつかない俺は、
頬を撫でたりしつつ、顔に何かがついてないかを確かめてみる。
「折木くん。頭よ頭」
千反田の母親もコロコロと笑い声をたてていた。頭? と自分の頭に手をやってみると、
どうして二人揃って噴飯してしまったのか得心がいく。
「少し待っていてください。手鏡と櫛を持ってきますから」
千反田の母親が臙脂色の盆を手に戻ってきた。
盆には茶を淹れた湯呑みと茶菓子、それに約束通り手鏡と客用らしき櫛が載せられている。
まず手鏡と櫛を手に取り、やたらめったらにうねり、立ち上がっている髪の毛の始末に取り掛かった。
雨に打たれたことと、あの乱暴なタオルドライのせいで
想像以上に酷い様相を呈している頭髪をある程度の形までもっていくには、思いの外手こずることとなった。
今朝方ぶりの格闘を終え、どうにか及第点までもっていくことができたと自らに言い聞かせる。
礼を述べ、千反田の母親に手鏡と櫛を返して茶を啜る。
千反田の母親は、ごめんなさいと手を合わせ、一口サイズのモナカを頬張り始めた。
今までの様子を加味しての、この人に対して抱く印象は意外なものだった。
千反田の母親というからには、お家柄、もっと厳粛な人物を想像していたからだ。
俺が娘と同い年の子供だというのも態度の軟化に多少なりとも寄与しているといえなくはないが、
しかしこの人の根底には千反田とは毛色を異にする人懐っこさがあり、そして何よりも家柄というものを意識したことのない者、
つまり俺や里志に伊原たちのような者たちが知らず身につけている、適度な適当加減をその挙措から仄かに伺わせている。
へんに過剰な責務を日頃から背負い込まされていないぶんだけ、抜けるところでは人目を忍ばず手が抜けるのだ。
千反田の母親には今や昔の話なのかもしれないが、その名残がある。
「ひとつ聞いてもいいかな?」
千反田の母親が茶を啜り、首を傾げて俺に尋ねる。
「そんなにしゃちほこばらなくてもいいのよ。別に取って食べようとしているわけじゃないの。
えるのことをどう思うかしら? 私がこういうことを聞ける機会って、入須さんや十文字さんを除けば殆どなかったの。
それに同じ部活動に入部していて、私たちの知らないえるをいつも近くで見ている折木くんだからこそ
聞いてみたい。よければ、お話してもらえないかしら?」
予期せぬ願い出に、俺が少なからず戸惑わなかったといえば嘘になる。
問いかけ自体はごくありふれたものだった。子を育てる親ならば、誰しもが子の友人にこのように尋ね、その答えを聞いてみたいのではないだろうか。
では、どうしてそこまで理解が及びながら、俺はその質問に答えあぐねてしまっているのか。
きっと、俺自身も周囲と同様に、大小の差こそあれ千反田という人間を特別視してしまっていたことが原因にあげられるだろう。
千反田という家の名を継いで生きていくことについて、これ以上なく自覚的な令嬢とその親には、俺たちが経験していくような
些末な事柄の多くなどが無縁である。無意識ではあるにせよ、俺はそう思っていた。だから俺はたじろいでしまったのだ。
問いかけにではなく、そのような問いかけが千反田の母の口から発せられたことに。
色々と感じるところはあったけれど、今だからこそ
痛烈に思う千反田えるのことを素直に伝えることにした。
「千反田は高校2年生の女の子です。
家の事情や、背負っている周囲からの期待があるのは知っています。
ただ、それは千反田という人間に付随してくる夾雑物のようなものだと俺には思えるんです。
余計な世事を全て取り除いた千反田えるという人間の本質は、俺や他の古典部員たちとそう変わらない
普通の高校生なのではないでしょうか」
「折木くん」千反田の母親が人差し指を立てる。
「余計なお世話かもしれないけど、ひとつ忠告があります」
声のトーンが落ち、生真面目な表情で語るその言葉に思わず聞き入る。
「普通っていう言葉、私はとても難しい言葉だと思うの。
なぜなら、それは発話者によって、意味合いが大きく異なってしまう。
折木くんは自分たちを普通と称した。
でも、それならば折木くんとは真逆の思考をし、理解も及ばない行動をとる人物がいるとして、その人は普通の人間ではなくなってしまうのかな?
ある人が従う常識を守らない人がいる。ある人はその人をこう嘲る『あいつは普通じゃない』それでいいのかな?
私はそう思わない。折木くんがえるのことを普通の高校生と称してくれたことについての真意は分かるよ。
えると自分たちは変わらず平等だということを言いたかったのよね。
けれど、それは千反田えるという人間が、現在の千反田えるという人間であるための前提条件を取り除いての仮定。
だとすれば、捉えようによっては、今のえるは折木くんの言うところの普通ではなくなってしまう」
「そんなこと」
「千反田の家のこと、周りの人々からのプレッシャー、あの子にはつらいこともあったかもしれない。
でも、責任を抱えていたからこそ今のあの子がある。あの子とそれらの責任は不可分なの。
別けて語ったところで、それはえるのことを語ったことにはならない。
話が逸れてしまったけれど、折木くん、普通という言葉を使うときは気をつけてね。
それは容易に誰かを傷付ける刃物になってしまうから……ごめんなさい。何だかお説教くさくなってしまって」
そんなつもりはなかった。
千反田の母親は、俺に反論があるのではないかと、俺の目を見つめじっと待ってくれている。
千反田家のこと、周囲からの期待、千反田を今苦しめていることに対して、一撃を食らわせたかった。
だけれど、返す言葉が見当たらなかった。
それらを否定してしまうことは、確かに千反田の一部を否定してしまうことにも繋がってしまう。千反田の父親と同じように。
自分の浅薄ぶりがやりきれなかった。これ以上、千反田の母親の方へ視線を向けられなくなり、逃げ場所を求めて目線を彷徨わせる。
障子の雪面上を、廊下の板の目の間を彷徨するその瞳が救いを求めるように行き着いた先は、
飾り棚に置かれた二枚の絵画のところだった。千反田の母親も重苦しい空気を感じ取っていたのだろうか。
それを和ませようと、やや語調を穏やかにして相好を崩す。
「どちらが好みか選べ、と言われたら折木くんならどちらを選ぶかな?」
「右、ですかね」
両方の作品を再度見比べてみても、やはり右の作品に心が惹かれる。
「なるほど。よければ理由も聞いていい?」
「理由ですか……はっきりとしたものはありません。左の絵の方が、
まるで実際に見て描いたのではないかと思えるほど技術的には優れているように感じました」
「でも、好みとして選ぶならこちらであると」
千反田の母親が右の絵を指でさし示す。倣うように俺も右の絵を指でさし示した。
「うん。確かに左の絵の方が技術的に勝っていると私も思う。
でも、この絵はそれだけ、それだけで鑑賞する者の気持ちに訴えかけるものが不足している。
まるで工事の図面のような代物」
「俺からも質問していいでしょうか?」
微笑があちらの了承の意を含んでいた。
「まるで実際に見て描いたようだと言いましたが、実のところはどうだったんでしょう?」
「残念だったけど事情があって実際に渡航はできなかった。
数枚の写真を参考に構図を整えて、この絵は描き上げたの。
言い訳に過ぎないけれど、生で街の空気に触れ、下書きだけでも現地でおこなえていればこの絵は
もっと生き生きしたものになっていたはずだと思っているの。折木くんは絵を描く趣味があったりする?」
学校の授業でならともかく、余暇を絵を描くことに充てたことは記憶にない。
「ありません。鑑賞すること自体嫌いではないですが」
殊更残念そうに振る舞った後に、千反田の母親は考え事をするように右手の指を顎の下に添えた。
「じゃあ、読書はする方かしら?」
俺は首肯し、小説ばかりであることを付け加える。
「それで充分。では、何か物語を書いてみたいと思ったことはないかしら? 自分の内にある物語を」
少しの時間思い返してみる。実際に書いたではなく、質問が単純に書いてみたいと思ったことがあるかならば、
その答えはイエスだった。活字中毒と呼ばれるほどは多くの本を読んだわけではないけれど、
読書を多少なりとも嗜む人であるならば、執筆はその誰もが一度はしてみたいと考える行為であるといえるのではないだろうか。
絵を描くこと、物語を書くことにいったいどんな関係があるのだろうかと
疑問を抱きながらも、俺は再び首肯する。
「物語はね、なにも映画や小説ばかりの専売特許というわけではないの。
素晴らしい絵画にも物語は潜んでいる。物語は絵という表現形態で表されることによって、
その象徴的側面を際立たせることができる。
例えば、宗教画であったりがそう。そこには教義を意味するために、ある物が描かれたり、愛を表現するために特定の色が使用されたりするの。
より強い印象を与えたい物語の一端を、言葉だけでは伝えきれない物語の一片を、言葉では表現できない物語の姿を、
絵画という手段では表現することができるというわけ。
でも、私が一番良いと考えているところは、どの表現方法にも保証されていることではあるんだけど、
それは多様な解釈が可能であるということなの。とりわけ絵画はその傾向が強いと私には感じられる。
言葉の介在が極端に少ない表現形態であるというのが理由なんじゃないかしら。
一枚の絵があって折木くんはそれを幸せだと受け取るとするでしょ? でも誰かはそれを不快に思う。抱腹絶倒してしまう人だっているかもしれない。
そして別の誰かはそれに未来を見る。私に送られた作品だと受け取る人もいれば、願いがテーマだと啖呵を切る人もいないとは限らない。
答えは、どれも正解」
「普通はこう感じるのだというものはないわけですね」
千反田の母親が柔らかに笑み、頷く。
「質問ばかりですみません。あと、いくつか聞いてもいいですか?」
「もちろん」
俺がさらに断わりを述べ、質問を口にしようとしたその時、千反田が悠揚とその姿を表した。
着替えを済ませ、モノトーンカラーだったその出で立ちも、
クリーム色のワンピースに、桃色の薄手のカーディガンと、馴染みのある千反田らしい服装へ戻っている。
「お待たせいたしました」
「湯加減はどうだったかしら?」
そう尋ねる母親の隣へ、千反田が腰を下ろす。
「ぴったりです。ありがとうございました」
湯上がりで身体が火照っているのか、千反田は襟元に指をかけ、本当に気持ち程度の開閉を繰り返し地肌に風を送り込んでいた
。普段俺たちには見せることのない仕草だけに、その動作は酷く新鮮に感じられた。
勝手知ったる家であるからこその自然体というべきか。
うちの姉貴なら、人目も憚らず大仰に、火炎でも巻き上げんとばかり空気を送り込むことだろう。
「あの」俺は気を取り直すように咳払いを一つする。
「それで、さっきの質問なんですが、千反田さん。
千反田さんは今も絵を描き続けているんでしょうか?」
立派な額に収められ、飾られているこの絵も、話を遡れば物置を掃除しているときに
発見して引っ張り出してきた代物だった。
もし現在も千反田の母親が絵を描き続けていたとすれば、
来訪客をまず出迎えるこの場所には、物置の中で見つけ出した絵からではなく、
この二点より後に描いた絵を、以前より飾っていた方が自然だと思われる。
千反田の、母親が絵を描く趣味があったことを忘れていたという発言も合わせて、
恐らくこの人は、もう絵を描いてはいないのだろう。
「いいえ、残念ながら」千反田の母親が、娘の肩に手を載せ。
「この子がまだ小さかった頃ね、思うところがあって筆を折ることに決めたのよ。
実はこの右の絵、私という絵描きの最後の作品になるの。技術的には峠を超えてしまっていたけど、
私にとってこの絵を、私の創作人生の中で最も思い入れのある一枚にすることができた」
滔々と語るその口調は、未練も後悔も感じさせなかった。
「折木くん、える……あなたたちに、
この作品は何かを伝えることができたのかしら?」
もう一度、これまでよりもじっと右の絵を見つめる。
なんだか、瞬きすらももどかしい。
小さな女の子は、その顔にいったいどんな表情を浮かべているのだろうか?
「俺には、正直この絵が訴えかけてくることを、
上手く言葉にすることができません。ただ……」
ただ? と千反田の母親が繰り返す。
「ただ、えるには俺が伝えます」
「えっ」
千反田が戸惑い気味に声をあげ、こちらを見つめている。
母親の方も初めは驚き、瞳を大きく見開いていたが、
やがては全てを理解したのか、じきにその表情が憂いを含んだ微笑みへと遷移していく。
「える」
千反田の母親が娘に声を掛ける。三文芝居だと自覚はあるが、
俺は足元に目を落とし、靴紐を丁寧に結ぶフリをした。
「お父さんがあなたに話した内容についてはお聞きしています。
そして、それについて私がとやかく口出しすることはないと考えています。
える、あなたが道を選びなさい」
「はい……分かりました」
千反田は俯き気味で、そのか細い肩を落としていることだろう。
そちらに目を向けずとも、瞼の裏に浮かんでくるかのように想像ができた。
「長い時間お邪魔しました」
如才ないタイミングだとは言い難かったかもしれないが、
上がり框から腰を上げて、僅かながらに声を張ってみた。
「折木くん、ごめんなさい。あと一言だけ、待ってもらえないかしら」
やはり、タイミングは逸してしまっていたらしい。
「える。私は昔も今も変わらずに幸せです。あなたにお父さんやお母さんのようになれとは言いません。
ただ、あなたも幸せでありなさい……
ほら、える。折木くんを送ってあげなさい。じゃあ、おやすみなさい折木くん。またいらっしゃい」
空一面を薄く覆っていた雨雲は、どこかに流されてしまっていた。
足元にできた水たまりの水面を、アメンボが心地よさそうに滑っている。
夕日に照らされる陣出を舞台に、ひぐらしが大音声をあげていて、その鳴き声に、溺れてしまいそうだった。
俺と千反田は陣出南のバス停へと歩を進めることにした。
話したいことがあるんだ、という俺の掛けた言葉への、千反田の提案である。
野良猫が俺たちの目の前で横柄に横たわる。だいぶ人に慣れているらしい。
千反田の自転車を押して歩いていた俺が、ベルを数度鳴らしてやると気怠げに起き上がり草むらの中へと消えて行った。
「まず最初に断っておく。お前が知りたがっていたことに関して、俺はひとつの仮設を立てはしたが、
それが事実であるかどうか、それについてはお前の父親や母親に直接尋ねでもしない限りは確かめようがないだろう。
そして、お前がそれを確かめようとしたところで両親が本当のことを語ってくれるとは俺には思えない」
千反田は口を開かない。
自転車のチェーンの音が、二人の歩んできた軌跡に印を残してくれているようだった。
「はい」千反田が重い口を開く。
「わたしは、折木さんを信じます。
それに、折木さん……わたしには、千反田えるにはあなたが伝えてくれるんですよね?」
自らを落ち着けるために、大きく息をついた。
さらに、今度は己を鼓するために一度だけ大きく深呼吸をする。
「結論から先に述べるぞ。お前の父親が、千反田、お前に跡をつがなくていいと告げるきっかけになったのは、
あの二枚あるうちの右に置かれていた絵、女の子の絵を見たからなんだ」
「絵ですか!? 母の描いた、あの」
思いも至らなかったのだろう。千反田の表情がその証拠だった。
「お前の母親が俺に教えてくれたんだが、絵画というのには、言葉にならない、言葉では伝えられない物語が秘められているそうなんだ。
その物語は鑑賞者の捉えようによって、色々な解釈が与えられていく。お前の父親は、お前の母親が描いた物語を見た。
そこから自分なりの解釈を加え、結論を導き出した。それが今回の結果に繋がったと俺は考える」
「分かりません。どのような解釈の結果、父はわたしに自由に生きろと告げる気持ちになったのか」
「千反田……お前のお母さんだが、きっと画家になりたかったんじゃないか?
お前が湯に浸かっている最中に、色々と絵について話をしてくれたんだ。
あれは、絵を描くことに対してそれなりの心構えをもった人にしか語ることのできない内容だったと俺には思えた。
>>120
訂正
「千反田……お前の母親だが、きっと画家になりたかったんじゃないか?
お前が湯に浸かっている最中に、色々と絵について話をしてくれたんだ。
あれは、絵を描くことに対してそれなりの心構えをもった人にしか語ることのできない内容だったと俺には思えた。
それに、俺は何か物を創ることが好きなわけではないから、考えたことはないんだが、
例えば小説を書くのが好きな人、漫画を描くことを趣味としている人、絵を大学にまでいって勉強した人なんてのは、
誰しもが一度は、それを生業に生計を立ててみたいと願ったことがあるんじゃないだろうか」
「そうかも……しれません」
千反田は考えを纏めようとしているのだろうか、足元ばかりをじっと見つめている。
「外国の街並みを描いた作品があっただろ? あの一枚について俺はお前の母親に尋ねたんだ。
まるで実際に見てきたようだけれど、実のところはどうなのか、と。
それに対してお前の母親は事情があって実際には渡航はできなかったと教えてくれたよ。
生で街の空気に触れていれば、自分のこの作品はもっと生き生きとしたものになっていたはずだと、
ちょっとだけ口惜しそうだった。そしてこの事情というのは、お前の母親が絵を止めることを決断する原因にもなったはずなんだ。
千反田、お前の母親は元々は陣出の人間ではなかったんじゃないか?」
「はい。母は神山市内から千反田家へ嫁いできた人間です……折木さん、ひょっとして……母は千反田の家のせいで、
自分の夢を諦めなければならなかったのでしょうか?」
この辺りまで話が進めば、いくら察しの悪い千反田であろうと気づくことになると予想はできていた。
千反田の足取りが遅々としたものになり、やがてはその場で立ち止まってしまう。
「俺には当然分からない。ひょっとすれば、お前でさえ知らない苦労があったのかもしれん。
名家と呼ばれる家へ嫁いでくるということ、右も左も分からないままに陣出の顔役を支える者としての責任を課せられ、
周囲が千反田家に求める事柄をこなしていかなければならない重圧。
それに昔は女性というだけで、今では考えられないような制約があったかもしれないな」
「母は、籠の鳥であることに苦悩していた」
千反田と視線が交わる。憂愁の色合い濃いその瞳が、俺に問うているように思われた。
ああ願わくは我もまた、自由の空に生きんとて。
自分を苦しめたこの歌詞が、その母にとっては願いの一節であったのでしょうか? と。
「お前の父親があの絵から与えられたものは、ここまで俺が話した内容だけでは、確固たる決意を抱かせる根拠にはなりえなかっただろう。
過去の後ろめたさから導出した当て推量程度にしか考えなかったかもしれない。
しかし、気づいてしまったんだ。言葉では語られぬはずの物語の内に潜められた、たった三文字のメッセージに」
メッセージ? と千反田が繰り返す。
「トエル。これは雅号なんかではなかったんだ。この言葉の意味を知り、お前の父親は確信してしまったかもしれない。
妻は、やはり後悔していたんだ。自分の夢を犠牲にしてしまったことを、そして驚愕してしまったのかもしれないな。
娘であるお前に向けて、そのような悲しい絵を妻が残していることを……お前に告げた言葉は、ある意味ではお前の母親への償いでもあったのかもしれない」
「教えてください! わたしに向けたとか、全然意味が分かりません!」
「アルファベットにするだけでいい。『To eru』えるに」
千反田の伯父である関谷純の氷菓と似ている。
確認したことはなかったが、ひょっとすれば関谷純が千反田の母親の兄なのかもしれない。
「母は、あの絵をわたしへ」
千反田が独りごちる。どこかで、蛙の野太い鳴き声が聞こえた。
腕時計にちらと目をやると、時刻は七時をまわろうとしている。
太陽がいよいよその身体を隠そうと躍起になり始める頃合いだ。
「俺がお前の母親に伝えますと言ったのはこのことだ。
額縁に収められた物語について、俺が何を語ろうとそれはお前の母親の言うとおり、俺が感じたものにすぎない。
あとはお前がそれをどう受け取るかにかかっている」
夕焼け空が、艶かしい色合いへと移り変わっていく。
夜の闇が、その異なる色相を幾重にも別けて積み重なっている。
待ちかねた星々がまばたきを始めた。このような時間帯をトワイライトタイムと呼ぶらしい。
「けどな千反田、お前の父親の解釈だけは、さっきお前の母親によって否定されてしまったんだ。
お前の父親は母親の過去に引け目を感じすぎているのかもしれない。
その過剰な憐憫の眼差しが作品を鑑賞するための審美眼を曇らせてしまっていた。
俺たちには計り知れない挫折、苦渋が過去にあったとしても、でも、それでも帰り際に言っていたじゃないか。
昔も今も変わらずに幸せです、って……そして」
「母は、わたしに幸せでありなさいと言ってくれました」
両の手を胸の前で重ね合わせた千反田の姿は、まるで祈りを捧げているかのようであった。
その瞳が細められ、千反田があどけなく相好を崩す。
「それにお前の父親は自由に生きろ、好きな道を選べとお前に言ったんだよな。だったら……」
これ以上は俺の語ることじゃない気がした。
今日の俺は、やはりどこかおかしかったのかもしれない。
気負いすぎていたのだろうか? 似合わない言葉を探しすぎていたのだろうか?
月並みな助言など、千反田には必要ない。
「夏休みはまだ長い。考える時間ならたっぷり残されているさ」
胸にストンと落ちる。これぐらいの言葉が、俺にはやはりちょうどいい。
「はい。折木さん、今日は本当にありがとうございました」
千反田が礼を述べ、ゆったりとお辞儀をする。そして、頭を上げると、おもむろに身体ごと背後へ振り返ってしまった。
もう、俺には千反田の表情は伺えない。今、こいつはどんな表情をしているのだろうか。
送られた物語に、自分なりの意味を見出せたのだろうか。
残光が千反田のシルエットを縁取っていく。
千反田が、今も祈りを捧げてくれていればいいのにと思う。
与えられた物語へ、これから紡ぎ出す自らの物語に、
そして、できれば母親の物語にも。
終わりです
読んでくれた方がいればありがとうございました。
誤字脱字もですが、改行等も下手くそだったかもしれません申し訳ないです。
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