若林智香「幸せの順番」 (64)
モバマスssです
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「Pさん」
「Pさんは、もしもアタシが、今ここで、」
「アイドルを辞めようかなあって言ったら、どう思いますか?」
人気のしない駐車場に停められた、社用車のその中で。
彼女は俺に、今まで見せたことのない表情を浮かべている。
できるかぎり静かに車を走らせて駐車場に辿り着いたのは、午前一時に差し掛かろうかという頃合いだった。
「着いたぞ」
車を停めて、助手席に声をかける。
しかし、暫く待っても返事が帰ってこない。
「智香?」
名前を呼ばれて、漸く彼女が反応を示す。
「……はい、」
「着いたって。降りよう」
もう一度繰り返した。
彼女の反応が鈍い。
時間帯も時間帯だし、身体的に疲れてはいるだろうが、今の今まで眠っていたわけでもない。
さっきからなにを話しかけてもこの調子だった。
若林智香は、俺の担当するアイドルだ。
趣味として挙げるほどチアリーディングが好きで、しょっちゅう周囲の人間を応援している姿を目にする。
ご多分に漏れず、照れくさいからやめろと言っても、俺のことを応援してくれたりもする。
それでも、その応援に支えられている部分も大いにある。
担当アイドルに支えられていていいのか、と思ったりもするが、彼女が好きでしていることなので、止めるのも違う気がする。
応援してもらった分だけ、プロデュースに還元できればいいと思いながら、俺は仕事をしている。
芸能活動をしながら傍らに、高校に在籍していた頃はチア部も掛け持っていたようで、身体能力は目を見張るものがある。
反面、歌うことはあまり得意ではないようで、ボーカルトレーニングは苦労しているらしい。
順調にキャリアを積みながらも、存分にアイドルを楽しめているみたいで、仕事の送り迎えや休憩時間中に、よく話を聞かせてくれる。
他愛もない話が多いものの、俺はそれを聞くのが好きだった。
彼女はいつも、腰にまで届こうかというほどの長い髪を、頭の後ろでくくっている。
それが彼女の動きに追従してふわりふわりと揺れ動くさまを見て、これこそがまさにポニーテールだな、なんて思う。
よく手入れの施されたその髪は、一本一本が上質な絹糸のようで、それを維持するのは大変だろう、とも。
天真爛漫な性格に、均整のとれたプロポーション。
それに加えて、美しくなびく髪もまた、アイドルとして確実な武器になっている。
手が掛からないと評してしまうのは些か乱暴だが、大きな壁にぶつかることもなく成長していくんだろうなと、心のどこかではそう思っていた。
その彼女が、まるで魂を抜かれてしまったようになっている。
建物の地下に据えられた小さな駐車場には、俺達の他には何一つ気配がない。
エンジンキーを引き抜き、シートベルトを外して車を出る。
後部座席の扉を開いて荷物を出そうとして、まだ彼女が車から出ようともしていないことに気付く。
掴んでいた荷物を放して、もう一度運転席に座り込む。
彼女はどこか寂しげな表情を浮かべて、黙り込んだままでいる。
それでも彼女が話し始めるまでは、こちらからは何も言わずに待っていようと思った。
彼女はきっと、俺に何かを話そうとしている。
長い付き合いだから、そういうことは、なんとなくわかる。
二人の息遣いが宿る車内で、俺はゆっくりと記憶をなぞり始めた。
今を時めくアイドル、若林智香、彼女との出会いを。
俺はアイドルのプロデューサーをしている。
と、だけいうと聞こえはいいかもしれないが、俺はこの仕事が嫌だった。
アイドルが好きだという理由一つで、なりふり構わず飛び込んできたこの業界だったが、どうにも仕事に手応えを感じられなかった。
俺は"冴えない"アイドルのプロデューサーだった。
プロデューサーには手腕が求められる。
担当するアイドルをトップに押し上げるだけの。
同業でも、俺より遥かに要領のいい奴がごまんといる中で、俺にはスキルも経験もなかった。
あるのはただ、好きだという気持ち。
或いは、アイドルに救われていた頃の、ストレートな感情。
それだけの人間に、どんなプロデュースができるだろうか。
それだけの人間が、プロデューサーでいいのだろうか。
専らそんなことを考えていた時期があった。
誰の一番にもなれない人生だった。
よくある話、明晰な頭脳もなければ目を見張る容姿もない。
俺はアイドルのプロデューサーである以上に、何の取り柄も特色も持ち合わせていない男だった。
一丁前にそんな自分に辟易することもあったけど、いつの間にか、それすらしなくなった。
無心になって打ち込めることも見つからず、ただひたすら毎日を浪費するだけ。
最大公約数的な、誰にでも送れる人生だった。
彼女、若林智香に初めて出会う、あの日までは。
「若林智香です! よろしくお願いします!」
顔合わせの場で、初めて会った少女は、丁寧で快活な声で挨拶をしてから深々とお辞儀をした。
俺はただ、目の前で揺れ動く彼女のポニーテールを眺めていた。
すらりとした肢体に、珊瑚のような髪色。
顔を上げた彼女と目が合って、にこりと微笑まれる。
今にして思えば、彼女に心を奪われたのは、この時なのかもしれない。
ただただ単純に、この子はトップアイドルになるだろうなと思った。
輝かしいシンデレラの原石がそこにいた。
俺は学生だった頃、体育会系とは程遠い環境にいたから、そもそもチアリーディングというものをよく知らなかった。
元々はスポーツ選手を応援するアクションのことを指してそう呼んでいたのが、今ではそこから派生したアクションの美しさを競う競技を示す言葉になっているらしい。
大きな声を出して、天を蹴るように脚を高く上げて、チームメイトに抱えられたり、かと思えば支えたり、アクロバティックに飛んだりして。
並外れた身体能力が、彼女のチアリーダーとしての実力を物語っていた。
元気で、笑顔が可愛らしい女の子。
そんな彼女の担当になった。
彼女の担当になってからも、初めの方は散々だった。
プロデュースはてんでうまくいかず、スケジュール調整は詰めが甘くて、彼女に迷惑ばかりかけた。
当時はまだプロデューサーとしての経験も浅く、学ぶべきことがたくさんあった。
しかしその都度、彼女は困った素振りをちらりとも見せずに、応援してくれた。
めげそうになっても、応援される度、立ち上がることができた。
彼女のエールには、何度も勇気づけられてきた。
不甲斐なかった俺に、優しく手を差し伸べてくれたことが、本当に心に染みた。
そのエールは俺だけでなく、たくさんの人を励ました。
俺は次第に、彼女をトップアイドルにしたい、と強く思うようになった。
トップアイドルにしてあげられなかったら、きっと深く後悔するだろうとも。
そのためには、まず俺が、石に齧りついてでも努力して、腕を磨かなければならない、とも。
それまで手を抜いていたというと、嘘になる。
だけど、彼女の担当になってからは、自分のプロデュース業を見直し、より仕事に打ち込むようになった。
そうすることで彼女がアイドルを楽しめるなら、自然に頑張ろうと思えた。
不思議と辛くはなかった。むしろ自分でも信じられないくらい、努力をするのが苦ではなかった。
一緒に過ごす内に、なんとなく、彼女のポジティブさがうつったんだろうな、と思う。
彼女と共に道を歩んだ。
互いに励まし合い、時には意見をぶつけて、少しずつ前へ。
そうして必死でもがいているうちに、最初は時間がかかった仕事も、気が付けば難なくこなせるようになっていた。
俺の業績は見違えるようによくなったし、その分彼女に質のいい仕事を取ることもできた。
彼女もまた、呼応するように全力で仕事をこなし、順調に世間に受け入れられていった。
パフォーマンス抜群な彼女のライブのチケットは、今では販売してすぐに売り切れてしまう。
楽しいことも苦しいこともたくさん経験したが、二人で分け合った。
共に過ごす時間が積み重なるうちに、お互いへの理解が深まった。
もう少しで、俺と彼女は五度目の冬を迎えることになる。
肩に布をかけられる感覚があって、目が覚めた。
意識が再び立ち上がるのを感じながら、デスクに突っ伏して眠ってしまっていたことを理解する。
何に対してとか、誰に対してとか、そういうんじゃない罪悪感が少しだけ芽生える。
緩慢な動作で顔を上げて壁掛け時計を見ると、時間は最後に見てから十分ほど経過していた。
あ、起こしちゃったかな、という声。
そしてすぐそばに、彼女がいた。
俺と彼女の他には、誰もいない。
「智香?」
「お早うございます、Pさん」
彼女は顔を上げた俺に、にこやかに微笑む。
「ああ……すまん、寝ちゃってた」
「寝ちゃってましたね」
それから暫くして、漸く気が付いた。
「って、智香」
「はい?」
「お前こんな時間になんで事務所にいるんだ?」
時刻は午後九時に差し掛かっていた。
彼女の今日のスケジュールはレッスンのみで、それも夕方には終わっている筈だった。
「あー、あはは」
照れたように、彼女は笑う。
「実はここに携帯を忘れてきちゃって」
「ああ、そういうことか」
「こんな時間までお仕事ですか?」
このところは、毎日だ。
「いや、今日はたまたま」
そう答えると、彼女の表情がほんの僅かに曇る。
そのまま口元が、優しく歪んだ。
「そう、ですか。あんまり無理しないでくださいね?」
咄嗟に出た強がりを、彼女はそのまま受け止めてくれた。
夜が深くなり始めているからか、いつもの彼女の様子と違って見える。
普段見せる溌剌とした感じの代わりに、いじらしさというか、儚さを感じる。
ふと喉の渇きを覚えて、パソコンの横に置いたマグカップを覗く。
そこには夕方に淹れたコーヒーの飲み残しが僅かにあるだけで、とてもじゃないがこれで渇きは癒えそうにない。
「コーヒーでもいれましょうか?」
「あー、えっと」
「それとも温かいお茶の方がいいですか?」
「そうだな。お茶をお願い」
「はーい。ちょっと待っててくださいね?」
そう言って彼女は給湯室に向かっていく。
もう俺と彼女の間ではろくに言葉を交わさなくとも大体お互いが何を言いたいのかがわかるようになった。
肩口に手をやると、起毛のブランケットがかかっている。
暖かいな、と思う。
「熱いから、気を付けてくださいね」
暫くして事務所に戻ってきた彼女から、湯気の立つ湯呑みを受け取る。
「おお、すまん」
一口啜ると身体中に沁み渡る心地がして、思わず溜息が出る。
「うまいな」
「それならよかったです」
そう言って彼女は近くにあったスツールに腰掛けて、用意した自分の分に口をつける。
「それにしても、よく俺がお茶がほしいってわかったな」
そう言うと、彼女は得意げに胸を張ってみせた。
「ふふ、これくらい、簡単ですよっ」
「ブランケットも。ありがとうな」
肩にかけられたそれに手をかけながら、お礼を言う。
「それ、暖かいでしょう?」
「うん。すごくいい」
「気に入ってもらえたならよかったですっ。貸してあげますから、身体が冷えないように使ってくださいね!」
なんでもないことのように、彼女は言う。
事実、彼女にとってはなんでもないことなのかもしれないが、その優しさが、結構嬉しかったりする。
「俺のことなんて、智香にはすべてお見通しだな」
そう言うと、彼女はくすぐったげにはにかんだ。
何気ない一つ一つの所作が、第一線で輝くアイドルであることを証明している。
「……Pさんは、チアリーディングにとって何が一番大切か、わかりますか?」
「チアに?」
「はい」
少し考えたがどうにも自信のある答えは浮かばず、結果当たり障りのないことを言う。
「そうだな……やっぱり運動神経じゃないか?」
彼女が愛らしい笑みを浮かべる。
「ぶっぶー! 外れです!」
「正解はですね、信頼ですっ!」
「信頼?」
「特に大技になるほど、チアの演技って危険なものが多くなるんです。高いところから飛んだり、空中で回転したり、」
「実際にアクションをする人と同じくらい、それを支えてくれる人も大変なんです」
「ああ、なるほど」
彼女の言いたいことはなんとなくわかった。
どうして急にそんなことを言い出すのだろうと思っていると、彼女は言葉を続けた。
「飛ぶ人と、それを受け止める人の間に信頼関係がなければ、お客さんの心を動かすアクションは生み出せないんです」
「アタシは、それがアイドルにも当てはまると思うんです」
「アタシには信頼できる担当さんがいて、いつもアタシの為に頑張ってお仕事をしてくれています」
「智香、」
「だからアタシも、そんなPさんの取ってくれたお仕事を頑張ろうと思えるんです」
「アタシを応援してくれるファンの人たちのために、少しでも元気を届けたくて、」
そこまで話して、彼女が言い淀む。
「Pさんだから、アタシは安心して飛べるんです」
彼女は、ちょっとおかしいですかね、と言ってはにかんだ。
目線が合うと、気恥ずかしそうに逸らされた。
「……じゃあ、そろそろ帰りますね」
「寮まで送ってやろうか? 仕事もきりがいいし」
そう言うと、彼女は笑顔のまま首を横に振った。
「すぐそこだから、大丈夫です。それよりPさんも、今日はゆっくり休んでくださいね?」
俺の言葉を待つこともなく、お休みなさいと言い残して彼女は扉の向こうに消えた。
扉の方を見つめたまま、暫く俺は何も手がつかなかった。
いつになっても、彼女に支えられているなあ、と思う。
それが心地良くて仕方がないと感じるのは、駄目なのかもしれないけど。
ブランケットを羽織りなおして、座ったまま軽くストレッチをする。
固まった筋肉がほぐれて、あと少しだけ頑張れそうな気がした。
まだ残業を続けることに対して、心中で彼女に謝る。
少し冷めてしまったお茶の残りを一息に飲み干して、開いたままだったノートパソコンに向き直る。
彼女の次のライブのスケジュールを詰める作業を再開する。
それが、今の俺にできる一番の仕事だから。
「ライブですかっ!」
後日、彼女にライブを開催する旨を伝えると、目を輝かせて喜んだ。
「うん。三ヶ月後に決まったから」
「わかりました! レッスン頑張らなくちゃですねっ!」
いつものことながら張りきった様子を見せる彼女に、こちらも笑みが零れる。
「普段からレッスン頑張ってるだろ」
「観に来てくれるファンの人たちのために、もっと気合を入れるんですっ」
「はは、智香らしいな」
「みんなの心に残るライブがしたいのでっ!」
きらきらとした笑顔が眩しくて、愛しくて、まるで自分のことのように誇らしい。
「それで、だ」
「はいっ?」
「そのライブ会場なんだが、お前、あそこ覚えてるか」
そうして俺が会場の名前を口にした瞬間、彼女が小さく息をのむ。
今回のライブ会場として俺がおさえたのは、彼女のライブの集客力に比べればキャパシティが心許ない所だった。
しかしそこは決して広くはなくとも、俺と彼女にとっては思い入れのある会場だった。
「……Pさん、そこって、」
「ああ。お前の最初のソロライブの時に使わせてもらった所だ」
「また、あそこでライブができるんですか……?」
彼女は、信じられないといった表情だった。
その会場は老朽化と増設を理由に全面的に改装工事をするため、暫く閉場することが決まっていたからだ。
しかし、閉場してしまう前になんとかライブができないかと打診すると、向こうが快諾してくれた。
「Aランクに上がってから最初のライブは、またここがいいなって、あの時言っただろ?」
彼女の初めてのソロライブが大成功に終わった晩、俺と彼女はそんなことを言い合っていた。
身体は疲れ切っているのに、心がもう次のライブを求めている感覚で占められていて、お互いに同じことを考えているのがなんとなくわかって、嬉しかった。
「そんな、でも、う、嘘じゃないですよねっ!?」
目を白黒とさせて彼女が、俺に詰め寄る。
「本当だって。向こうも、お前のライブなら是非使ってくれって言ってくれたし」
そう言って、ライブの概要を記載した資料を彼女に手渡す。
それに目を通して、漸く信じてくれたのか、彼女は少しだけ落ち着いた。
「そう、ですか」
「なんだ、もっと喜ぶかと思ってたのに」
「それは、嬉しいですけどっ」
「けど?」
彼女は必死に感情をまとめて言葉にしようと頭を捻ったようだが、どうにもうまくいかないらしかった。
「……うまく、言葉にできないです」
「まあ、色々驚かせちゃったからな。混乱してるんだろう」
彼女が微かに首を傾げる。
「なんていうか、いいんですかね……?」
困ったように笑いながら、ぽつんと彼女が呟く。
「なにが?」
「アタシ、幸せになりすぎじゃないでしょうか?」
「幸せに?」
この娘は、幸せになることに何の抵抗があるのだろう。
そんなことを思いながら、俺は尋ね返した。
「やっとアイドルのランクが一番上になって、」
「できないと思ってた思い出の場所でライブができて、」
「応援してくれるファンの人たちにまた、会えるんです」
「それはとっても嬉しいことなんです、全部、こんなに嬉しいことはないんです、でも、」
「一度にこれだけ幸せになると、なんか、逆に怖くなってきちゃって」
「……なーんて、贅沢な悩みですよね」
彼女は頬を掻く。
俺は、彼女の担当になって以来何度目かの確信をする。
彼女は、トップアイドルになるべくしてなった存在なのだと。
「智香」
「なんですか?」
「こうは考えられないか」
「これは今まで頑張ってきた智香への、ご褒美なんだって」
「ご褒美、ですか?」
「そう。ずっと何年も……もう五年ぐらいになるのか、それだけひたむきにアイドルを続けてきた、ご褒美」
平手を振って彼女が謙遜する。
「そ、そんな、ご褒美をもらえるようなことはしてませんよっ」
アイドルに救われたことがある人は少なくはないと思う。
辛いことを乗り切ることができた人もいれば、夢を見つけることができた人もいるだろう。
その歌に、その笑顔に、そのひかりに、照らされ温められ、俺も彼女に救われた一人だ。
この広い世界の中で、自分が自分でいなければならない理由なんて、見つかりっこない。
その理由を見つけてくれたのが、彼女だった。
いつの日か志した、一流のプロデューサーになるという夢を、再び見つけてくれたのが、彼女だった。
俺は彼女にお礼がしたい。
俺にしかできない形で、ただ一人、彼女に対して。
「智香」
「は、はい」
その名前が愛おしい。
「お前はエールを送ることで、たくさんのファンを元気に、幸せにしてくれたんだ」
「だから今度は、お前が幸せになる番なんだよ」
予想はできていたが、それでも驚いてしまうほど、彼女のライブのチケットはあっという間に売り切れてしまった。
彼女はあの日からも、いつものようにレッスンに励んだ。
ファンの期待に応えるように。最高のパフォーマンスを形作るために。
決して笑顔と元気を絶やさず、しかしいつになく真剣な面持ちで。
なんとなくこのライブが、俺にとっても彼女にとっても何らかの区切りになるんだろうなと、そう思った。
控室をノックする。
中から声が返ってきたので、ドアノブを回す。
部屋の至るところには、仲間のアイドルから応援にと手渡されたであろう差し入れが置いてある。
「おはよう」
「おはようございますっ!」
彼女は、ライブの進行表を確認していた。
「凄いな。よく似合ってる」
「え、えへへ……」
開演を一時間後に控えて、既に彼女はドレス姿に着替えていた。
あまり緊張していないように見せようとしているらしかったが、実際はそうもいかないようだった。
「……本当に、似合ってますかね?」
ひらひらとしたスカートの端を摘みながら、まるで幼子のように、上目遣いで彼女が尋ねてくる。
「何言ってんだ、本当に似合ってるよ」
彼女が小さく破顔する。
「……Pさんにそう言ってもらえると、自信が出ます」
「そんなもんか?」
「そんなもん、です」
「世界で一番、綺麗だと思う」
「ふふっ」
「やっぱり緊張するか?」
「そう、ですね。しないと言ってしまえばウソになりますけど、やれるだけやりますっ!」
「無理だけはするなよ」
「もちろんです! 頑張ります!」
「智香」
「え、あ、はい?」
「本当に、大丈夫なんだな?」
「……えっと、」
言葉に詰まった彼女が、俯いた。
「Pさん」
「少しでいいので、アタシの手を握っていてくれませんか?」
「手を?」
「はい、少しでいいんです」
「構わないけど」
俺はそう言って、彼女がおずおずと差し出した手を取る。
衣装に使われるはずの純白のグローブはまだ嵌められておらず、すらりとした手指は、温かく柔らかい。
その手が、微かに震えている。
壊れものに触れるように優しく握ると、応えるように彼女も握り返してきた。
「智香」
今一度声をかけると、彼女と目が合った。
「大丈夫。きっとうまくいく」
彼女の瞳が心許なく揺れる。デビューしたての頃を思い出した。
「Pさんや、他のみなさんが用意してくれたこの思い出の舞台なんです」
「……もしも、失敗しちゃったらと思うと、いつもよりも、怖くて」
「失敗したって、誰も怒ったりなんかしないさ」
「へこんだ時は、俺が慰めてやる」
いつかの俺達と比べると、立場というか構図が変わっている。
今度は俺がエールを送る番だ。
「不安になる気持ちもあるだろうけど、今はライブを楽しもう」
「ファンも、お前に会うためにここまで来てくれたんだから」
彼女が小さく頷く。手の震えも収まってきている。
「……はい、わかりました」
「ライブ、やれそうか?」
「任せてください!」
「全力で、楽しめそうか?」
「オッケーですっ!!」
「よし! じゃあそろそろ行くか」
「わかりましたっ☆」
徐々に彼女の言葉に熱量が籠もっていくのがわかる。
舞台袖に辿り着いて、後は文字通り開演を待つばかりになった。
ここより先に進めるのは、アイドルだけ。
「Pさん」
待機していると、彼女が俺に話しかけてきた。
「うん?」
「いつもありがとうございます。本当に」
「どうしたんだ、急に」
「いつも思っていることなんですけど、こういうのはやっぱり言葉にしなきゃですから」
そう言ってくる彼女の表情は、落ち着いていて、自然体で、見ているこちらまで幸せになってしまう。
「それなら俺も、お前には日頃から感謝してるよ。いつも、ありがとうな」
もう長い付き合いだから、言葉にしなくても彼女が何を考えているのかなんて、大体わかるものだと思っていた。
だから、こうして言葉にしてみると、信じられないくらい心に響くことに驚く。
開演のアナウンスが始まる。
袖に立ちながら、会場のボルテージの高まりを感じる。
「智香」
「はい」
「お前には俺がついてる。ずっとそばにいるから」
「目一杯、楽しんでこい」
インカムに音声が入る。
スタンバイを始めるという旨。
「行ってきますっ」
そう言って彼女は、ステージの方へと向かって行く。
照明の落ちたままのステージに、人影が現れる。
跳ねるような足取りで、中央まで突き進む。
一斉にステージライトが点灯し、間を置かず一曲目のイントロが鳴り渡る。
ライブが始まる。
身体を持ち上げてしまいそうなほどの歓声を受けて、彼女は満面の笑みをもって、抜群のパフォーマンスをもって、応える。
あの日俺が出会った原石は、今ここに、燦然と輝く宝石になった。
彼女は歌いながら、楽しくて仕方がないようで、ずっと、ずっと眩しいほどの笑顔だった。
モニターを眺めながら俺は、幸せそうな様子の彼女を見つめる。
アンコールを含めてスケジュール上の曲目を終え、彼女が舞台裏に戻ってきた時、俺は嬉しくて仕方がなかった。
アイドルとは斯くあるべし、と胸を張って言えるようなライブを彼女は見事にやってのけたのだ。
全身全霊で歌い躍り尽くした彼女は、しかし息を荒げながらも俺の元に戻ってきてくれた。
頑張ったな、だろうか、お疲れさま、だろうか、とにかくそういう労いの言葉をかけたかったんだと思う。
でも感極まるあまり、気が付けば俺は彼女を抱き締めていた。
そうして何度もありがとうと呟いた。心に浮かんだ数だけ、何度も。
気持ちが高鳴りすぎて、実はその瞬間のことをよく覚えてはいないけど、彼女も俺の背中に腕を回してくれたような気がする。
少しして冷静になって、俺はなんてことをしでかしたんだと、彼女の元まで謝りにいったが、彼女は笑って許してくれた。
ライブは、始まったかと思えばすぐに終わってしまい、それから関係者に挨拶をして回り、今日はそのまま解散になった。
社用車に乗って彼女の暮らす女子寮の駐車場に辿り着いたのは、午前一時に差し掛かろうかという頃合いだった。
「Pさん」
「Pさんは、もしもアタシが、今ここで、」
「アイドルを辞めようかなあって言ったら、どう思いますか?」
大きな本のページをめくるように静かに、彼女は呟いた。
「……俺は、止めるしかない」
「だって、お前にはたくさんのファンがいる」
「理由にもよるけど、彼らを裏切る真似だけはしちゃいけない」
彼女は小さく首を横に振った。
「本当に辞めたいわけじゃないんです」
「辞めたいわけじゃ、ないんですけど」
「何か嫌なことでもあったのか?」
「違います、そういうことでもなくって、」
「今日のライブがですね、すっごく幸せでですね、もうこれ以上は幸せになれないんじゃないかって思うくらいで」
「アイドルをしていて、こんなにも満たされた瞬間は初めてだったんです」
「ひょっとすると、これがピークなのかもしれないって、そう思ったりなんかもして」
「……ちょっと感傷的になっただけです」
伏し目がちに、彼女が呟く。
「正直言うと、辞めてほしくなんかない」
「確かに若林智香というアイドルは、ファンにとっても、もちろん俺にとっても、大切で必要な存在だ」
「だけど、お前にとってもそれは大切なものなんだ、必要なものなんだ」
「少なくとも今はまだ、手放しちゃいけない」
「……それに、今日のライブがピークだなんて思うな」
「そんなこと言うなら、次のライブはもっと楽しませてやる」
「……Pさん」
「なんだ?」
「Pさんが終わった後にありがとうって言ってくれた時がアタシ、一番幸せ者だなあって実感しました」
少しだけ意地悪な顔をして、彼女はくすぐったそうに笑った。
「な、なんでそんな時に?」
「アタシもPさんにありがとうって思ってたからです」
「アタシにしかできないやり方で、Pさんにも幸せになってもらおうと思ってたからです」
「そしたらPさん、アタシのこと抱き締めてくれて、いっぱいありがとうって、伝えてくれたんです」
「なんかもう、ほっとしちゃって」
心が温かいもので満たされていくのがわかる。
「……俺がプロデューサーで、よかったのかな」
「よかったですよ?」
「もっと、腕の立つ奴もいるのに」
「Pさんだから、いいんです」
その言葉に、救われる。
「なあ、智香」
「なんですか?」
「最高のライブを、ありがとうな」
「アタシの方こそ、最高の幸せをありがとうございますっ!」
広くはない車内で、お互いに頭を下げて、たたえ合う。
それから顔を見合わせて、くたびれた笑顔になる。
「身体もくたくただろ。今日はもう休むといい」
「はい、そうしますね……」
「じゃあ俺部屋まで荷物運ぶから、車から出てくれ」
そう言ってドアを開けようとすると、彼女がこちらに身を乗り出してきた。
心なしか、頬が紅い。
「最後に一つ、いいですか?」
「ん?」
「いつかアタシがアイドルを辞めても、Pさんはずっと、アタシのそばにいてくれますか?」
以上になります。
拙い出来ですが、読んでいただけると喜びます。
ありがとうございました。
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