【艦これ】風の色、海の声 (211)

※地の文多数、というか小説形式です。
 ちと長めですので、のんびりお付き合いいただければ幸いです。

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 ふっと、潮の香りと湿り気をはらんだ風が頬を撫でた。

 その色は柔らかな青。間もなく風向きは南から東よりに移動していくはずだ。

 見上げれば、少しだけ雲の増えた空で、海鳥たちが風を捕まえようと、広げた翼の角度を少しづつ変化させている。

 航空母艦娘の鳳翔は自分の推測を確信へと変える。

 経験と勘がなせる技だ。

「瑞鶴。風はどうですか?」

 前方を走る同じ航空母艦娘、瑞鶴の背に声を掛ける。

 背中に負った矢筒には、練習用を示す橙色の矢羽が見えた。

「問題なしです。このまま発艦を始めます」

 針路を南に向け、躊躇うことなく告げる瑞鶴の背を鳳翔は何も言わず、穏やかな笑みを湛えたまま見つめた。

 おそらく瑞鶴はこの後、幾つかの過ちに気付くことになるだろう。

 けれどそれもまた、成長のために必要な経験だ。

「直掩機、発艦始め!」

 瑞鶴が掛け声とともに、短弓に矢をつがえて的を射抜くように放った。

 もちろん飛び出した矢は重力に逆らうことはできず、やがて海面へと向かっていく。それは当たり前のことだ。

 だが、その当たり前を変える力を持つのが艦娘という存在だ。

「え……あれ?」

 だからこそ瑞鶴が疑問の声をあげる。

 一瞬の間をおいて、前方の空間に僅かながらに色のついた壁のようなものが浮かび上がり、周囲を覆っていく。

 それが艦娘たちにとっての装甲――敵の攻撃をはじき返すための障壁だ。瑞鶴が状況を確認するために、あえて視覚化したのだろう。

 障壁は装甲であると同時に、攻撃の要でもあった。

 艦娘たちの扱う兵装の類は、この障壁によって作られる空間の中を一定距離進むことで本来の力を発揮するのだから。

 もしこれがなければ、艦娘の体に合わせてスケールダウンされた砲弾など、せいぜい大口径ライフル程度の威力しか持たないし、矢は矢のまま。

 人間にとってはそれでも充分に脅威だが、艦娘たちの敵となる深海棲艦には引っかき傷程度のダメージにもならないだろう。

 ともかく。放たれた矢は、瑞鶴の張り巡らせた障壁による空間を飛び出す前に海面に着水してしまうかもしれない。

 ふと、鳳翔の視界に赤が映る。

 それは、ほんの僅かな時間。

 点と点を繋ぐように、瞬きをするような赤い色が見える。

 南からやってくる、まるで海原の呼吸のような風の色。 

「やばっ!」

 瑞鶴が声を上げたところで、ようやく矢が淡い光を放って、次の瞬間には橙色の彩色を施された零式練習用戦闘機に姿を変える。

 しかし揚力はまだ足りない。機体は海面へと吸い寄せられるように降りてゆく。

 本来であれば離艦直後に左へ機首を向け、母艦の進路から外れる動きをしなければならないが、それすらも難しい状態だ。

 このままでは無事に着水したとしても、瑞鶴の障壁と接触して海の藻屑になる。

「出力上げてっ! お願い!」 

 瑞鶴の声に応え、最後の悪あがきとばかりに練習機のエンジンが唸りを上げ、出力を最大にする。

 ふわりと淡い赤が機体を撫でるのが、鳳翔には見えた。

 なんとか着水を踏みとどまった練習機は、そのまま海面スレスレを這うように水平飛行し、充分に加速してから、ようやくヨタヨタと上昇していく。

「あ、危なかったぁ……」

 胸をなでおろして、一安心と言った具合に気を抜いている瑞鶴。

 その後ろに鳳翔がそっと近づく。

「風の気まぐれに救われましたね。でも、これでは後続が発艦できません」

 そして放たれた鳳翔の言葉に瑞鶴が小さく「あっ」と声を上げる。

 ゆっくりと上昇していく練習機がある程度の高度を取るまで、その空域は塞がれる。

 もし後続の発艦に問題がなければ、速度差からあっという間に追いつき、空中衝突してしまう危険があるからだ。

 だから、瑞鶴の後を一列になって続いている鳳翔の航空隊も発艦ができない。

「ごめんなさい……」

 いつもの勝気で自信家な瑞鶴はどこへやら。消え入るような声で詫びを入れる。

 自分の不手際を素直に認め、反省できる。それが瑞鶴の良いところだ。ただし、相手によって、という言葉がついてしまうあたりが痛し痒しだ。

「ほんのわずかな遅れでも積み重なれば、結果として艦隊の命運を左右します」

 砲弾の装填とは違い、航空機にはどうしても準備の時間が必要だ。

 兵装の積み替え、簡易整備、給油はもちろんの事だし、飛行隊全てが揃い編隊を整えるまでの時間も必要だ。

 もちろん、その時間を敵が待ってくれるわけもない。

 一分一秒の遅れ、判断の迷いが致命的な事態を招く事になる。

 瑞鶴もそれはよくわかっているのだ。

 肩を落とし、萎れて小さくなっている瑞鶴の頭をやさしく撫でる。

「どうしてこうなったか、わかりますか?」

 ゆっくりと、優しく問いかける鳳翔。

 もちろん原因は瑞鶴にもわかっているだろう。

「合成風力が足りませんでした」

「なぜ?」

「風が……変わりました」

「そうですね、確かに変わりました。その気配を見逃したのは良くありませんね」

 鳳翔は常日頃から言って聞かせていることをそのまま口にする。

「風そのものを感じるのではなく、色を見るのですよ」

 もちろん風に色などあるわけがなく、瑞鶴はその言葉の意味を理解できていない。

 だが、これは感覚の世界の話なのだから仕方がない。実際に受け取る側によってその表現は変わる。

 例えば航空艦隊の中核を担っている航空母艦娘の赤城や加賀は、匂いだと言っているし、瑞鶴の同型艦である翔鶴は声と表現する。

 それと同じように、鳳翔には色として見えるのだ。

 きっと瑞鶴も経験を積めば、自分なりの表現をするようになるのだろう。

 その日まで沈まなければ、だが。

「けれど、果たして風向きが変わっただけでしょうか」

 そうならないために、瑞鶴が学ぶべきことは多い。今も大切なことを見落としているのだから。

 それを指摘するべく、鳳翔は問いを投げかける。

 問いかけられた瑞鶴は、必死に思考を巡らせ、幾つもの推論を立ち上げ、それを否定する作業を繰り返している。

 しばしの時間を待った後、鳳翔は自分の長弓を手に前へ出る。

 先ほどと同じ進路、同じ速度を保ったまま矢をつがえ、一呼吸を置いて放つ。

「鳳翔さん!?」

 先ほど自分が失敗したのと同じ光景を想像し、瑞鶴が叫ぶ。

 けれど。

 鳳翔の放った矢は、瑞鶴のそれとは全く比べ物にならない速度で飛翔し、あっという間に艦載機へと姿を変える。

 充分な揚力を得て、それはグングンと高みを目指して登っていく。

「この違いが、なぜかわかりますか?」

 その問いへ答える代わりに、瑞鶴は奥歯を噛み締め、あふれる思いを必死に思い留めているようだ。

 彼女が何を考えているのか、鳳翔にはよくわかっている。

 そして、この後に紡がれる言葉も、だ。

「こんなことしてる暇なんてないのに……戦いに出なきゃいけないのに……!」

 悔しさからあふれる涙を拭うこともせずに、瑞鶴は鋭い目で鳳翔を睨みつける。

「じゃなきゃ、私がここにいる意味なんてない!」

 瑞鶴の想いは痛いほどわかっている。

 二ヶ月も同じことを繰り返しているのだ。

 だが、それでも鳳翔はその願いを叶えるつもりはない。

 だから、もう一度問う。

「今の違いが何故起きたかわかりますか?」

 先ほどよりも強い口調で放たれた問いに、瑞鶴はその決意の固さを知っただろう。

 そして押し黙り、答えを探すために思考の迷路へと足を踏み入れる。

 簡単に答えは見つからないかもしれない。

 けれどこの先、艦隊の一員として組み込まれていくことになる瑞鶴には必要な知識だ。

 だから鳳翔はこれ以上言わないと決めている。答えは自分で見つけてこそ意義がある。

 それを見つけられない限り、瑞鶴を戦場に出すつもりなどなかった。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 瑞鶴との錬成から戻った鳳翔の姿は、艦娘たち専用の食堂にあった。

 目の前に置かれたホーロー製の大きな容器の中には、水と塩を加えた糠がたっぷりと入っている。

 それと、野菜クズに昆布と鷹の爪。

 程よく発酵して、人によっては不快であろう匂いを放つそれに、鳳翔はためらいもなく手を突っ込んで混ぜ始める。

 糠漬けの元になる糠床には、まめな手入れが必要だ。

 空気をある程度含ませることで発酵を促進してやるのだ。

「本当に鳳翔はマメですネー」

 そんな後ろ姿を見ながら、呑気に茶をすすっているのは戦艦娘の金剛だ。

 この基地の艦娘たちのまとめ役でもある。

 その重圧に耐えきれなくなると、こうやって鳳翔のところに現れては、愚痴をこぼしたり、茶飲話で気を紛らわせ、勝手に満足して帰っていく。

「愛情をかけてあげた分、美味しくなるんですよ」
 鳳翔はそう言いながら、丁寧に糠床へ空気を含ませていく。

 英国生まれの帰国子女を自称する金剛にとって、初めのうちはこの匂いがたまらなく不快なものだったようで、鳳翔がこの作業の準備を始めると、いつの間にか姿を消していた。

 しかし、慣れというものは恐ろしいもので、今では茶請け代わりに糠床でできた漬物をかじっている。

 さらに言えば「確かにオイシイですケド、紅茶には合わないですネー」などと言ってのけるあたりも金剛だ。最後に余計な一言をつけて来るところまで、英国式を真似る必要もないとは思うのdが。

 そもそも、南方とつながる海上輸送路が遮断されているのだから、紅茶など簡単に手に入るはずもなく、今すすっているのはほうじ茶。

 東北のどこかまでは忘れたが、お茶請けに漬物を出すところがあるのだから、相性として問題はないどころか、最適なくらいだろう。

「ところで金剛さん。ここでのんびり油を売っている暇、あるんですか?」

 だから、たまには嫌味の一つも言ってみたくなる。

「ノーよノー。ワタシに『さん』なんてつけちゃダメなんデス。もっとフレンドリーなのがいいネ」

 どうやら鳳翔が思っていたのとは違う方向で嫌味と受け取ったらしい。

 思わず苦笑いが出てしまうが、それはそれで面白いので構わず乗ることにする。

「艦歴が私より長い先輩に敬意を払わずにどうするんですか」

 艦としての金剛は一九一二年進水、鳳翔は一九二一年進水だ。鳳翔の言葉に嘘はない。

「航空母艦の母なんて呼ばれてる鳳翔に先輩扱いされタラ、私はみんなからグランマにされてしまいマス。せっかくのこの見た目で、それはあんまりだと思わないデスカ?」

 本気で泣きだしそうな顔をする金剛。

 少しやりすぎたかもしれない。

「冗談ですよ。それで金剛、今日は夜間演習だったのではありませんか?」

「それがネー、キャンセルになりマシタ」

 金剛は不満を隠すことなく、頬を膨らませるという方法で表情に出してみせる。

 気持ちはわからないでもない。

 夜間演習に備えての準備をここ数日やっていたはずだ。

「また随分と急ですね」

「いつものことだけどネー。夜間演習で損害が出たら困るそうデス」

 この基地の司令官は、その任についてからまだ日が浅い。

 その上、出世街道を歩んでいたはずが、自分には一切関係ないところで起きたトラブルのおかげで飛ばされてきたという意識が強かった。

 おそらくは期間を定めた代役くらいのつもりなのだろう。

 だからやる気にかけていたし、ただ黙々と中央からの指示だけをこなすことに血道をあげる、まるで役人のようだった。

 艦娘たちの扱いもぞんざいで、命令に至っては紙切れ一枚を送りつけ、やってこいと言うだけ。その命令で負傷した艦娘が出ても顔色ひとつ変えることなく、労いの言葉もない。

 そういうものは、たとえ本心ではなくともあってしかるべきもののはずだ。そんな小さなすれ違いの積み重ねだけでも、いつかは大きな溝になるのだから。

 だが、それでもこなすべき任務はある。

「たぶん次の輸送船団が出るデス。長期の哨戒任務が来るヨ。それもきっと大規模ネ」

 金剛はそう言って、だらしなくテーブルに突っ伏した。

 危険の伴う夜間演習の中止はそのせいだろう。いざ作戦開始となった時に稼働艦が少ないのは痛手だ。

 二回続いて輸送作戦が失敗しているのだから、今度こそはという考えも多分にある。

 糠床を仕込み終え、片付けを済ませた鳳翔は自分の湯呑みにほうじ茶を注ぐと、金剛の向かいに腰をおろす。

「厄介ですね」

「うぅ……正直、気が重いデース」

 輸送船団の向かう先は南方。その海域の広さは想像を絶する。その中の要所を六〇名ほどの艦娘でカバーしなければならない。

 それも、輸送船団や航路の途中の国々に存在を悟られることのないようにだ。

 理由が何であれ、国の方針で艦娘の存在が秘密とされている以上、それに従わないわけにはいかない。

 いつ襲いかかってくるかわからない敵を警戒し、探し出し、沈める。それだけでも骨の折れる任務だ。その上で、周囲に近寄る他の船を警戒し回避するという離れ業を要求される。

 ただでさえ張り詰め、擦り切れそうな神経の上にさらなる重圧だ。

 金剛の気が重いという言葉も理解できた。

「また、空母機動部隊に頼りきりになってしまいますネー」

「……翔鶴と瑞鳳が間に合えばいいのですが」

「ムゥ……それはきっと難しいヨ」

 先月の作戦中に被雷し大破のダメージを受けた二人の修復には、まだ相当の時間が必要だ。

 バケツと呼ばれる高速修復材を使ってはいるが、それで治るのはあくまでも体の傷。

 大きく損傷を受けた艤装の修復は、資材不足という大きな枷があるせいで遅々として進んでいないらしい。そういった事態など滅多に起きることではなかったが、上に立つものに怠慢があればその限りではない。

 夜間演習中止の命令は、ここにも関係しているのだろう。

「瑞鳳の代わりは鳳翔にやってもらうとシテ、瑞鶴はどうなのデス?」

 当然、誰もがそれをあてにするだろうということは、鳳翔にも想像ができていた。

 だからこそ、ここ数日は瑞鶴に付きっきりで指導をしていたのだ。

「筋はいいのですが、実戦はまだ無理です。今出せば、帰ってくることはないでしょう」

「まだ二ヶ月じゃ、それで当たり前って話ですネー」

「それを司令官が理解してくれていればいいのですが」

 今の瑞鶴は生兵法以前の状態。その上、身に帯びた獲物は付け焼刃だ。

 艦娘としての動き方と、艦としてのそれとでは大きく違うということをまだ理解できていない。

 そんな状態で戦場に出せば、瑞鶴自身だけではなく周囲の仲間をも巻き込むことになる。

「……フン。それができるようなヤツなら、誰も苦労してないヨ」

 だが、金剛の言葉が現実だ。

 おそらく瑞鶴は戦場に引き出されることになるだろう。練度など関係ない。

 上層部は艦娘を消耗品の兵器と同列に考えている。

 そして、当の艦娘たちの間にもそういう考え方が広がっている。

 艦娘に『死』はない。

 そもそも、艦娘たちも人間たちも、艦娘が失われる状態に対して『死』という言葉は使わない。

 一度『沈んで』も、また現れるのだから。

 今まで幾度となく繰り返されたその現象が、状況を生み出しているのだ。

 だが、姿形は取り戻せても、それまでに得た知識や経験は白紙に戻っている。

 失われてしまうそれらこそが、数の不利を覆すための武器となるというのに、だ。

「正直、瑞鶴の出撃を認めることはできません」

 そんな抵抗など、全く無意味であることは鳳翔も重々承知している。

「それはワタシも同意シマス……」

 もちろん金剛もだ。

 自分たちのような考え方をする者は稀有と言っていいだろう。

 それですら、経験が失われてしまうことについての不利を指摘しての考えだから、自分たちも歪んでいると、鳳翔は自覚している。

「デモ、伝えたところで……というよりも伝えようがないデス」

 命令を下すはずの司令官は、この佐世保第二基地にはいないのだから。いや、書類上も現実にも司令官は存在する。

 ただし、その人物は長崎県の佐世保基地にいるのであって、艦娘たちの根拠地はそこと別の場所だ。

 長崎市の沖合に浮かぶ、昔は炭鉱があった小さな島。そこが艦娘たちのいる佐世保第二基地だ。もちろん艦娘たちの基地となる建物以外は何もない。

 ヘリポートとして使える広い開拓地と、吸排気口の建設のために作られた簡素な港があり、そして人が住んでいないという理由で選ばれたような場所だ。

 エリートコースを突き進む男にとって、そんな僻地に自分の身を置くことなどプライドが許さなかったのだろう。

 着任時に一度訪れた後は、月に一度姿を見せれば良い方だ。

 それでは抗議をすることすら叶わない。したところで、上層部に従っていればそのうち中央に戻れると信じている男が取り合うことはないだろう。

 だから金剛は言う。

「ワタシにできるのは鳳翔と瑞鶴を同じ隊に組み込むことくらいデスヨ」

 瑞鶴の出撃を拒否するなどという権限は艦娘たちに与えられていない。

 金剛に認められているのは、艦隊の編成を変えることくらいだ。

 正直な話、それだけでもかなり危ない橋を渡っている。

 プライドの高い男が、自分の意思に従わないものをどう思うかなど考えるまでもない。

「……こうなったら、演習で瑞鶴に実弾を撃ち込むトカ?」

 まるで物語に出てくる悪役のような笑みを浮かべ物騒なことを言う金剛。

 鳳翔はそれに対して、鋭い目を向け睨み返す。

「瑞鶴の体に傷一つ付けず、艤装だけを大破させられるならどうぞ。できなかった場合は私がただではおきませんよ? きっと翔鶴も同じことを言うでしょうし、加賀に至っては何も言わずに――」

「オウ……ジョークですヨ。言い過ぎました、ソーリーね」

 さすがの戦艦も空母三隻分の航空攻撃となればひとたまりもない。

 金剛が顔を真っ青にして詫びる。

「冗談にしては度が過ぎます……それに、そんな手を使って下がらせたところで、納得するはずがありません。あの子なら、むしろ自分を囮にしろと言うでしょう」

「……ハートだけは一人前、ネ」

「実力も赤城や加賀と同じ――いえ、もしかするとそれ以上です。瑞鶴も誇り高き艦ですから」

「そうは見えないんですけどネー」

「だから困っているのですよ。本人もそれを自覚しているのかどうか……」

 その言葉の後に放たれた鳳翔のため息は、湯呑みの中に消えていった。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日。

 鳳翔の姿は瑞鶴とともに洋上にあった。

 ただし今日は、艦娘の数が増えている。

 機動部隊護衛の任を受けた駆逐艦娘たち――綾波型駆逐艦娘の朧率いる第七駆逐隊の四名が最前列で扇状に広がり、対潜警戒をしながら二〇ノットで航行。

 その二千メートル後方を瑞鶴と鳳翔が並走する形で続く。

 さらに後方を戦艦金剛、軽巡神通が続き、側面は白露型駆逐艦娘の白露、改白露型の海風、江風、涼風が固めている。

 編成は潜水艦を含む敵艦隊が潜む海上輸送路の哨戒を想定したものだ。

 それは、この先に発動するであろう作戦を念頭に置いてもいる。

「索敵機発艦準備をお願いしマース!」

 旗艦を務める金剛の指示が飛ぶ。

 この瞬間に艦隊運動の実質的な決定権は瑞鶴に与えられる。

 風を読み、艦首を向ける方向を決めるのは航空母艦の仕事だ。その判断を旗艦である金剛は命令として伝えるだけだ。

「風上に向けて艦を立てます。方位一六〇。第三戦速」

 瑞鶴は風を読み、判断を金剛に伝える。

 その判断に間違いはない。間違いはないが、まだ読みは甘い。

 昨日の二の舞を繰り返さなければいいが。

 淡く柔らかにまとわりつく青の風を見て鳳翔はそう願う。

「全艦逐次回頭、方位一六〇。三戦速」

 金剛の合図とともに、それぞれが左に舵を切って次々に回頭を始めていくが、左右を守る海風と江風のタイミングが遅れ、陣形が乱れ始める。

 この二人も瑞鶴と同じように着任から日が浅い。まだ、艦と艦娘との違いを体で理解できていないのだろう。

 この編成は彼女たちの錬成も兼ねているのだ。

 後方からそれぞれの嚮導役としてあてがわれている白露と涼風が叱咤する。

「速度落とそうか?」

 自身も練成中の身であり、その苦労を承知している瑞鶴が気を使って声を掛ける。

「あの……無用です。そのままでお願いします」

 その配慮を拒否したのは、少しだけ頼りなさを感じさせる静かな声。

 鳳翔は頭をめぐらし、最後尾を行くその主を見やる。

 駆逐艦たちを取りまとめる水雷戦隊の長でもある神通は、少しばかり困ったような面持ちで成り行きをただ見守っていた。

 彼女も彼女なりに、駆逐艦娘たちのこれからを案じているのだろう。

 だからこそ、たとえ恨まれてでも厳しい訓練を課す。

 そうしなければ、無為に沈んでいくだけと知っているから。

 視線に気がついた神通は、苦笑いをしながらゆっくりと頷いてみせる。

 問題はない。そちらの錬成を始めて良い。目がそう語っている。

 鳳翔もそれに頷き返し、前を向く。

「瑞鶴。索敵機は良いのですか?」

 周りの出来事に気を取られ、本来の仕事を放り出していた瑞鶴に鳳翔の叱責が飛ぶ。

「あ、はい! 索敵機発艦始めます!」

 背中の矢筒から取り出したのは濃緑色の矢羽が取り付けられた矢だ。

 それは練習用ではない。

 実弾を搭載することができる、戦闘用の機体。

 空母艦娘たちにはまだ、偵察専用の機体など配備されていない。それどころか開発すらされていない。

 だから、使うのは雷撃機でもある九七式艦上攻撃機だ。

 練習機よりも大型で重い。その分発艦にはさらなる慎重さが必要になる。

 にもかかわらず――

「索敵機発艦始め!」

 瑞鶴はそれをつがえ、放つ。昨日と同じように。

 だから。

 それは手元から離れた時点で、その後の結果がわかるほどに力なく、再び海面へ吸い込まれるように落ちていく。

「えぇっ! なんでよっ!」

 もどかしそうに、瑞鶴が叫ぶ。そうすれば、昨日のようになんとかなると思ったのかもしれない。

 だが、今日の結果は昨日より悪い。

 矢は海面を跳ねるように何度か飛んだ後、波間にたゆたうだけだ。

「また、風……?」

 瑞鶴が空を見上げる。

 鳳翔もその視線の行方を追って、同じものを見る。

 流れる雲。一つ、二つと千切れ、はぐれた雲が風に流されている。

 ただ、どれもゆっくりだ。

 よくよくを目を凝らして見ていなければ、動いていることがわからぬほどに。

 瑞鶴はそれで何かを悟ったようだ。

「風が足りない。第五戦速」

 合成風力を得るために、瑞鶴は艦隊の増速が必要だと判断した。

 だが、一つ問題がある。

「ヘイ、瑞鶴。鳳翔はどうするんデス?」

「え?」

 金剛の問いを瑞鶴はまだ理解できていないらしい。

「私がいる限り、五戦速――三十ノットは出せません。どうしますか?」

 鳳翔がそう付け加える。

 艦娘となった今でも、基本的な性能は艦であった頃のものに影響を受けている。

 布張りの軽量な複葉機の運用を考えて設計された鳳翔には、それほどの速力など要求されてはいなかった。

 まさか、わずか数年で複葉機の時代が終わり、全金属製で重い単葉機が主流になるなど、その当時の人間の多くは夢にも思っていない。

 だからと言って、小さな艦体に大馬力のタービンやボイラーを載せるわけにもいかない。

 だから、鳳翔の能力は今現在の三戦速――二四ノットが限界だ。

「か、艦隊を分離――」

 瑞鶴の導き出した答えは、足の速い自分とそうではない鳳翔で艦隊を分けるというものだ。

 だが、それはできない。

 敵潜の潜む海域で、あえて索敵能力が落ちるような真似をすればどうなるか。

「それでは対潜警戒能力が落ちマス。発艦作業中の空母は的になりますヨ?」

 金剛の指摘が瑞鶴を余計に混乱させる。

「艦隊再編の時間もありません。敵は近くまで来ているかもしれないのですから」

 さらに鳳翔が追い打ちをかける。

 そもそも、そういう思い切った行動が必要になるのであれば、もっと早い段階で指示を出しておくべきだ。

 今から艦隊を分離し、陣形を組み直していては、索敵機の発艦はさらに遅れる。その遅れは後に続く攻撃隊や水上打撃部隊の行動に制約を生む。

 猶予などない。

「鳳翔。代わりに索敵機をお願いしマス」

 一つため息をついて、金剛は決断を下す。

「わかりました」

 いくつもの問いと答え、そして自己否定を繰り返す思考の坩堝へ入り込み、一人もがきはじめた瑞鶴を尻目に演習は再開される。

 鳳翔によって、同じ条件下で次々と解き放たれる九七艦攻。

「……くそっ!」

 艦であった頃の鳳翔には運用が困難とされたそれが、なぜここまで簡単に空へと舞い上がっていくのか。

 それを見つめながら自分を罵る瑞鶴には、きっと不思議でならないだろう。だが、問いがそこでとどまる限り先へ進むことはない。

「時間がないってのに……何してんのよ、私……」

 航空母艦の艦娘たちが必ず突き当たるその問いが、瑞鶴の中から消え去るのはいつになるのか。

 鳳翔はその日が早く来ることを願い、遠く飛び去っていく艦載機たちを見送る。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 二週間。

 その時間がどれだけの長さとして感じられるのかは、人によって、そして置かれた状況によっても違う。

 錬成を繰り返し、自信をつけた艦娘にとって、初陣となる出撃命令が下るまでのその期間は長いものだ。

 そして、その自信はおそらく打ち砕かれる。

 長く感じる時間は、そのダメージを増幅させる為にある。だが、そこから立ち直るだけではなく、ついでに何かを学ぶくらいの力がなければ、早い段階で沈むだろう。

 総旗艦として艦隊全てへの責任を持つ金剛にとっては、短く感じるものだったはずだ。

 多くの場合、準備にかける時間はあればあるほど事態への対処の幅は広がる。不測というものを予測に変えていくことができるからだ。

 そして、瑞鶴の成長を願い、その錬成に携わる鳳翔にはあまりにも短すぎる時間だ。たとえ一年を使ったとしても、感じる長さは同じかもっと短いかもしれない。

「予想通り、最悪ですヨ」

 そう言って、いつものように食堂へと姿を見せた金剛は言った。

 その手には数枚の紙をまとめた書類が握られている。

 南方の輸送路哨戒任務が発令されたのだろう。

 その指令自体は別に珍しいものではなかったし、発令は予想されていたことだ。

 だが、金剛の言葉には「最悪」という二文字が添えられている。

 鳳翔はその言葉が引っかかり、訝しげな顔で金剛を見る。

「瑞鶴の出撃が決まったヨ」

 それも翔鶴と瑞鳳の修理が間に合わないことが明らかになっている以上、鳳翔の出撃を含め予想されていたことだ。

「担当の海域はどこですか?」

 だから鳳翔は胸騒ぎを覚え、そう問いかける。

「ムゥ……」

 問われた金剛は、彼女の性格にしては珍しいことに答えを口にすることをためらう。

 抱いた不安は一層高まる。

 シンガポールを起点として設定された現在の海上輸送路には、幾つかの危険箇所がある。

 例えば、シンガポールを離れて間も無くの位置にあるリアウ諸島近海。

 大小様々な島が点在し、そのどれかに敵の拠点があると目されていた。

 ただ、人間や艦娘たちと違い、施設というものを建設しない深海棲艦の拠点を見つけることは未だにできていない。

「パラセル諸島……厄介デス」

 西沙諸島ともホアンサ群島とも呼ばれるその一帯も、やはり大小様々な島で構成されている。

 何よりそこは、日本へ向かう輸送船団の進路を決めるために重要な場所だ。

 もし、艦娘たちが海域を支配できなければ、船団は大陸よりの航路を選択することになる。そうなれば作戦期間は延長され、作戦初期からバシー海峡の確保に当たっている艦隊の負担も増える。

「瑞鶴には荷が重すぎます」

 当然、鳳翔の答えは決まっている。金剛もそれは承知しているだろう。

「わかっていマス……デモ、翔鶴の抜けた穴を埋めるのは瑞鶴ダケ。それが上の判断デス」

 金剛はそう言って首を横に振った。

「ワタシと翔鶴も色々手を尽くしたのデス。横須賀の司令官にも頼んでみたヨ」

 一年ほど前に着任した横須賀の司令官については、そこから応援という形でやってきた白露と涼風を通して聞いていた。

 色々と言動に問題はあるが、艦娘たちを単なる兵器としては扱わないという。

 それがもたらした結果は、白露たちを見ていればわかる。

 自分達の能力を限界まで発揮し、個性を生かした自発的な行動をしてみせる。抑圧された環境に染まった佐世保の艦娘たちとは違い、それによって着実に戦果をあげて、短期間で一目置かれる存在になった。

 そしてそれに影響を受けた艦娘が現れ始めたことで、全体的な戦力の底上げにも繋がっている。

 だから、そんな艦娘たちがいる横須賀から援軍がきてくれれば、戦力の大幅な強化になることは間違いない。

 ただし。

「横須賀ですか。あそこは重巡足柄と――あとは軽巡と駆逐の艦隊のみではありませんでしたか?」

 今必要なのは、瑞鶴の代わりとなる航空母艦だ。

 そして、その航空母艦はすべて、この佐世保第二に集められている。

「イエス。だから艤装修理のための資材を送ってほしいと頼んだのデス」

「良い返事はもらえましたか?」

「オフコース。横須賀の司令官は良い人ネ。デモ、それが届く前に作戦開始デス……」

 それでは確かに意味がない。

 どんなに急いでも、艤装の修理には数日が必要だ。

「どうあっても瑞鶴を出さざるを得ない……ということですね」

「ソーリーね。私の力不足デス」

「いえ。編成の方は便宜を図ってくれたのでしょう?」

「ここ最近、錬成をしている編成のままで組みマシタ。神通からもその方がいいと意見具申があったデスヨ」

 下手に編成を崩すよりも、ここしばらく行動を共にしている編成の方が考えることは少なくて済む。

 金剛も神通もそれを見越しての選択だろう。

 だが、砲戦火力が不足する編成でもある。

 その穴埋めをしなければならない航空戦力にかかる比重は大きなものだ。

 それでもやるしかない。

「……わかりました。瑞鶴のことは私に任せてもらって構いませんか?」

 鳳翔は一つ大きな溜息をついてから、覚悟を決めるように言った。

 口元はキュッと引き締まり、いつもの柔和な雰囲気は消えている。

「鳳翔が嫌だと言ってもお願いするしかないネ。空母のことは空母にしかわかりませんヨ」

 もはや、解決を待つ猶予はない。

 個人の成長のためにはよくないことではあるが、問題点を指摘して戦力化する以外に道はないだろう。

 そもそもこの戦いを乗り越えなければ、ここで終わりだ。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 鳳翔は瑞鶴の姿を探していた。

 夕食の時間を過ぎても姿を現さなかったのだ。

 その前に張り出された、次の作戦に関する通達を見たのだろう。

 もともと、それほど大きな島ではない。姿を消したとしても、行ける場所は限られていた。

 艤装は保管庫に置いてあったのだから、この島の中にいるのは間違いない。

 だから、すぐにこの海岸へと足を運んでみた。

 やはり瑞鶴はそこにいた。

 膝を抱え、ただ海を見つめている。

 煌々と輝く満月が水面に揺れる。おそらくはそれを見ているのだろう。

 それで答えが得られるはずもない。

 瑞鶴が間違った方向へ気持ちを固めてしまう前に、正しい道を示さなければならない。

 鳳翔は意を決する。

 だが、一歩を踏み出して声をかけようとしたところで、別の艦娘が姿を現した。

 駆逐艦娘の曙だ。

 鳳翔は反射的に身を隠してしまう。それがなぜかはわからないが、そうするべきだと感じたからだ。

「瑞鶴。アンタここで何やってんの?」

 横に立った曙が、唐突に声をかける。

「なんだ、曙か。どうかした?」

「せっかく探しに来てやったのに、なんだとは、ずいぶんなご挨拶じゃない」

「ああ、ごめん。気を悪くしたんならあやまる」

「ま、別にいいけどね。翔鶴が心配してたわよ? 鳳翔さんもあんたを探して出てったし」

「そう――なんだか迷惑かけっぱなしだな、私ってば」

 結局、曙の方を一切見ることなく、瑞鶴は膝の間に顔を埋めてしまう。

 それを見た曙は大きく一つため息をついて、隣に腰を下ろした。

「わかってんなら、悩む前にやることあるんじゃない?」

「やりたくても上手く行かないから悩んでんのよ」

「そう言うと思った」

 まるで他人事と言わんばかりに、カラカラと笑う曙。

 実際他人事ではあるのだが。

 それを聞いた瑞鶴は、膝の間から顔を出して曙を睨みつける。

「わかってるなら言わないでくれる? というか、なんでわかるのよ」

「……艦娘なら誰もが通る道だから」

 そう言って曙は体を後ろに倒して、砂浜に寝そべった。

 頭上には月明かりに負けなかった星達が輝いている。

「私は駆逐艦、あんたは航空母艦だから違いは色々あるけどさ、基本は変わんないのよ」

 空をめがけてぐっと腕を伸ばす曙。

 親指を立て、人差し指を伸ばして拳銃のような形を作って、さらに精密に狙いをつける。

「こうやってあの辺の星を主砲で狙っていたとするじゃない? これをあの月に向ける時にさ、あんたならどうする?」

 どんな話が始まるのかと、真剣に聞き耳を立てていた瑞鶴が呆れ顔をする。

「バカにしてんの? 腕を動かせばいいじゃない」

 曙の主砲は手に持つタイプなのだから、それしか方法はない。

「そうね。こうやって腕を動かして、月に向ける」

 ぐいと腕を動かして、満月を狙う曙。

 ほんのわずかな時間だ。

「でもさ、よくよく考えたらおかしな話じゃない。本当は駆逐艦の主砲を旋回させるって、結構時間がかかんのよ。電動油圧だし」

 およそ一秒に六度。

 それが駆逐艦の装備していた主砲の旋回速度だ。

 今の場合ならばおよそ九〇度の旋回角だから、十五秒ほどが必要な計算になる。

「それが、駆逐艦娘になってみたらこれなんだから。信じられる?」

 曙は素早く腕を振り、何度も星と月の間を移動してみせる。

 それにかかる時間は一秒に満たない。

「ま、その代わり遠距離砲撃の精度が落ちちゃうから、痛し痒しかしらね」

「そりゃあ、人の形して腕で振り回してんだから、当たり前でしょ」

 瑞鶴が付き合っていられないとばかりに吐きすてて、再び膝の間に顔をうずめようとする。 

「じゃ、当たり前ついでに聞くけどさ、艦載機ってどうやって離艦させてたわけ?」

 あまりにも馬鹿にした内容の質問に、瑞鶴が気色ばむ。

「はぁ? あんた、私たちの護衛してた珊瑚海海戦の時に見てんでしょうが」

 曙にとって、あまり良い印象のない例を持ち出したあたりに、瑞鶴の怒りが見て取れた。

 だが、さすがにやりすぎたと思ったのだろう。すぐに膝の間に顔を埋めてしまう。

 それを見た曙の表情が一瞬曇った。

 だが、すぐに平静を装い、体を起こしてまっすぐに瑞鶴を見る。

「見てるし、知ってる。でも教えてよ」

 そして、同じ問いをもう一度繰り返す。

「艦を風上に向けることで合成風力を作る。それで揚力を得て、飛ぶ」

「その揚力って、風上に向かうだけで作れるもん?」

「まさか。滑走しないと無理に決まってるじゃない。常識でしょ」

「そう、常識よね。自分で加速しないと無理――じゃあ、エンジンの付いてない矢はどうするの?」

「くだらない。そんなの弓で――」

 瑞鶴が何かに気づく。

「そうか……艦載機は加速していくけど、矢は放たれた瞬間が最高速だから――」

「そう言うこと。あんたの悩みは、畑違いの私から見てても気がつくくらい、くだらないことなわけ。艦の時代の常識に縛られてると、痛い目をみるわよ」

 本来は自分で気付くべきことだ。

 だが、曙はそれをあえて無視した。

 しかし、鳳翔にはそれを咎めるつもりはない。

 そもそも自分もそうするつもりでここにきたのだから。

「こっから先は私にわかんないし、他にもいろいろあるけど、あとは自分で考えて。本当はそうやって身につけていくものだから」

「うん……ごめん。さっき、嫌なこと言った」

「いい、別に気にしてないから」

 再び、ゴロンと砂浜に寝転がる曙。

「人が謝ってんだから、そういう時くらいは素直に受け取っときなさいよ」

「……腹の足しになんないものもらっても困るのよね」

 それもそうかと独りごちてから、何かを考える瑞鶴。

 やがて、何かを思いついたように曙の顔を覗き込む。

「あのさ、一つお願いがあるんだけど」

「何よ?」

「今度の作戦、私の直衛やってくれない?」

 あまりに唐突な言葉に、曙が飛び起きる。

「はぁ? 何言ってんのあんた。私みたいなツキのない駆逐艦なんか直衛にしたら、翔鶴みたいにボッコボコになるわよ?」

 珊瑚海海戦では曙が直衛に回った翔鶴が、結果として集中攻撃を受ける羽目になった。

 別にそれは曙の責任ではない。

 幾つかの不運が重なり、そういう結果になっただけだ。

 あの日、当初の予定通りに潮が直衛のままだったとしても同じだったはず。

 曙への非難は、ほぼ全てが言いがかりのようなものだ。

 当然瑞鶴はそれを知っている。瑞鶴の側にも落ち度はあったのだから。

「私、これでも幸運艦なんて言われてるんだけど? それに、迷ってる私の尻蹴っ飛ばすなんて、曙にしかできないじゃん」

「ちょっと。それ、褒めてるの? 貶してるの?」

 いたって本気の顔で曙が真意を問う。

 その顔を見た瑞鶴はくすりと笑って、さらにはぐらかす。

「あとさ、潮にそばに居られると引け目感じんのよね」

 自分の胸元を見て、そんなことを言う。

 みるみるうちに曙の顔が赤くなるのが、遠くから見ていた鳳翔にもわかった。

「絶対、貶してるでしょ!」

 そう叫んだ曙が瑞鶴に飛びかかり、戯れ合いが始まった。

 砂浜を転がりまわり、互いの頬を引っ張ったり、わき腹をくすぐったり。

 まるで、自分たちが人の形をしていることを確かめ合うように。

 そんな児戯が、精一杯の力を使って飽きることなく続く。

 あの様子では、夜食が必要になりそうだ。

 それに直衛の件もそれとなく金剛に伝えておいたほうがいい。

 鳳翔はそれを背に宿舎への道を戻っていく。

 微笑みを浮かべながら。

 
 全身を砂まみれにした二人が、腹を空かせて鳳翔の元を訪れたのは、それから一時間が過ぎた頃だった。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 パラセル諸島近海へ展開した金剛隊は、即座に周辺海域の掃除に取り掛かっていた。

 南方に向かう船団が通過する前に海域をクリアにし、物資を満載して戻る船団が通過するまで、それを維持しなければならない。

 時間にしておよそ二週間だ。

 その間は、小さな島の一つに臨時の拠点を作り、そこを起点として、東に六〇〇キロ、南北四〇〇キロの海域を死守する。

 担当する海域はあまりにも広いのだ。

 だから、その全域を航空機によって偵察できる航空母艦にかかる負担は大きくなる。

『偵察機収容完了。周辺海域に敵影なし』

 無線越しでもわかるほどに疲れの滲んだ声で、瑞鶴が報告を入れてくる。

「お疲れ様。拠点の方に戻ってください。海中にも気をつけるんですよ?」

『了解』

 最初の頃は鳳翔のお小言に、『すぐそばだから平気だ』『心配ない』だのと茶々を入れいていた瑞鶴だが、もうそんな気力もないらしい。

「瑞鶴は相当きてますネー」

 隣で鳳翔の手になる塩握りを頬張っていた金剛が、くすりと笑いながら言う。

「それはそうでしょう。十日以上、毎日海に出ては艦載機を上げて、潜水艦に警戒しながら帰還を待つの繰り返しですから」

 変化のない毎日は人の精神を疲弊させる。

 それは艦娘も同じだ。

 落とし穴はそう言うところに用意されていたりする。

 だが、鳳翔はまた違った懸念も抱いていた。

「しかし、これだけ何もないのも不気味ですね」

 戦闘があったのは展開してから最初の三日間だけ。いずれも小規模の警戒部隊といった編成で、手ごたえもなかった。

 今までの経験から考えれば、その程度で収まるはずがないのだ。

 現に、前回の作戦で翔鶴と瑞鳳が損害を被ったのはこの海域なのだから。

「そうネ……」

 金剛も同じ感想を抱いているようだ。

 ただ、前回の作戦で損害を被ったのは艦娘側だけではない。

 それに十や二十をかけた程度では済まない規模の損害を、敵もまた受けていた。

 だから、その戦力の回復に時間がかかっている。

 そう言う見方もできる。

 だが。

「他はどうなのです?」

 鳳翔の問いに答えることはせずに、金剛は足元に落ちていた細い流木を拾い上げると、砂の上に地図を書いていく。

 形は大雑把ではあったが、インドネシアから日本までを含めたものだと言うことはなんとなくわかる。

「シンガポールを出た船団は、もうすぐスプラトリーに差し掛かるケド、この海域にも敵影はないそうデス」

 地図の一番下方からまっすぐに引かれた線が、ちょうど中間地点で止まる。

 そこが輸送船団の現在地なのだろう。

 その海域の哨戒を担当しているのは、軽空母祥鳳を含む艦娘六名の小規模警戒隊。

 率いている名取は、臆病な性格だ。

 戦場においてそれは決してマイナスではない。臆病さゆえに警戒には念を入れ、水も漏らさず、蟻の通る隙間すら見逃さないのだから。

 そんな名取が何も見つけられないのであれば、まず間違いなく何もいない。

「その代わり、船団の後方八〇から一〇〇キロを北上している、後詰の赤城たちは繰り返し攻撃を受けていマス」

 たった今引かれた線の上に印が書き加えられる。

 全部で六箇所。

 それが、後詰である赤城たちが交戦した位置と回数になる。

「これをどう判断するカ、なんデス」

 交戦位置を示した印が、大きな一つの丸で囲まれる。

 一見すれば、出遅れた敵が船団を追いかけて食らいつこうとしているように判断できる。

 赤城たちを足止めし、その間に別働隊が船団を襲う。

 そんなシナリオも考えられた。

 そう考えたからこそ、名取たちは前路哨戒を一層強化したし、瑞鶴も偵察機を頻繁に出しているのだ。

 だが、いつまでたってもその兆候を掴むことはできなかった。

 できないまま、その予想された交戦域を船団が通過してしまうのだ。

 掴めないのではなく、元よりない。

 そう判断するしかない。

 そうなれば、

「まるで赤城たちを狙っているとしか思えませんが」

 導き出される答えはそれだ。

 けれど。

「そうなんデス。でも、それを今する意味が敵にあるのかと言われタラ……」

 ない。

 少なくとも、今の状況から考えればそう断言していい。

 そうするつもりがあるのならば、もっと強力な艦隊をけしかけてくるはずだ。

 赤城の率いる後詰は、哨戒任務を終えた艦娘を吸収しつつ再編成された、正規空母四、戦艦二、重巡二、軽巡四、駆逐艦十二の艦隊だ。それも、佐世保ではトップクラスの実力を誇る艦娘たちで構成されている。

「敵の編成はわかるのですか?」

「確認できたのは重巡主体の中途半端な打撃艦隊と、アトは飛来した航空機の編成と数から軽空母三か正規空母二を含む機動艦隊。この二つだろうと、赤城は言っていマス」

「……赤城たちを相手にするにしては、編成が消極的すぎますね」

 確かに赤城たちは高価値目標であるが、生半可な戦力で太刀打ちできる相手でもない。下手をすれば一隻削るために、その何倍もの戦力をぶつける必要がある。

 今まで繰り返されてきた戦いで、敵もそれは承知しているはずだし、たとえそうでなくとも、今回の最初の接触で認識できるのは間違いない。

 だからこの程度の編成ならば、赤城たちを相手取らず船団を突くべきだ。少なくとも鳳翔ならばそうする。その方がよほど被害を少なく抑えて、作戦を完遂できるに違いないから。

「こっちの行動が予想外で、後手後手に回っちゃってるとか? あ――頂いてます」

 いつの間にやら戻ってきていた瑞鶴が、塩握りを頬張りながら話に加わってきた。

「それはないでしょう。もしそうであれば、このような散発的な攻撃を仕掛けるよりも、場所を決めて戦力を集結、一気に叩く方が効果的です。向こうにはこちらの航路も、足の遅さもわかっているのですから」

 そもそも、船団は港を目指しているのだ。目的がはっきりとしている以上、予想外などということは起こらない。

 それに輸送船の足が遅くなることはあっても、早くなることはない。

 だから、どれだけ時間がかかったとしても、必ず通るべき場所があるし、そこで待ち構えるだけでいい。

 戦力さえ整えておけば、前回の作戦のように艦娘たちを物量で押しのけることもできるのだから。

「鳳翔のいう通りですネ。だから敵は何か企んでいるはずなんデス」

「何か、ね……」

 瑞鶴はそう呟きながら、砂浜に描かれた略図を見る。

「パラワンがこの辺りで、ミンドロにルソンっと……」

 そして、金剛の手から奪い取った棒切れを使って、省略されていたフィリピンの主だった島を描きなおしていく。

「うん、我ながら上出来じゃない?」

「オウ、グレイト。こうやって見ると、南シナ海は狭い海ですネー」

「その狭い海で、バカみたいな追いかけっこしてんのよ。フィリピンの向こうならそんな心配しなくてもいいのにさ」

 瑞鶴の指し示す場所――太平洋は広い。

 確かに一度相手を見失えば、探し出すのは容易ではないし、それだけに取れる航路も多くなる。

 だが、その一方でどれだけの敵が潜んでいるのかもわからない。

 それを警戒するには、その海の広さが問題になる。

「おそらく太平洋には敵潜を主体とした哨戒線が張り巡らされています。それに掛かれば、今以上に強大な敵戦力が次々に群がってきますよ」

 それを跳ね返すことは不可能ではない。

 個々の能力ならば、艦娘たちの方が圧倒的に上だ。

 だが、数の力は簡単にそれを凌駕してくる。

「一度や二度の奇襲ならば跳ね返すこともできるでしょうが、さすがに何度も繰り返されると、弾薬や燃料の心配も出てきます」

 そうなれば、艦娘たちなどただの的だ。

「この辺りを押さえていれば、また話は変わるのでしょうけども」

 そう言って、鳳翔は小石を一つ、砂上の地図の上に置く。

 陸地からは遠く離れた、海の真ん中。

 ニューギニアやフィリピン、日本からはほぼ等距離に当たる。

 けれど、敵勢力圏内に恒久的な拠点を築いて、維持するだけの能力など人類にはまだない。そのつもりもないだろう。

 何より、今更な話だ。

「マリアナか……」

 がっくりと肩を落とす瑞鶴。

 彼女にとっては因縁の地でもある。

 この島嶼群を北に行けば、日本本土へと繋がる。さらにその途中にも島嶼群はいくつもあり、そこに拠点を作っていくことで、航路の確保はより強固にできるのだ。

 ただしそれは、あくまでも今より損害を減らせるというだけであって、ゼロにできるわけではないし、安定させるのは難しい。

 もっと根本的な解決法はあるのだ。

 知っていても、鳳翔は口にするつもりはない。

 それをやるのは人間の側でなければならないから。

 鳳翔は誰にも気づかれぬようにため息を吐く。

「……ヘイ、鳳翔」

 話をじっと聞いていた金剛が口を開く。

「瑞鶴は案外いいことを言ったかもしれませんヨ」

「どういうことです?」

「鳳翔のいう理屈は、私たちの理屈ネ……敵にとっては全く逆デスヨ」

 金剛の真意が今ひとつ掴めない。

「私たちには危険な海デモ、敵には安全な海デス。なら、そこをこうやって――」

 フィリピンを挟んだ太平洋側に一本の線を書き込んでいく金剛。

 沿岸から離れ、誰の目にも止まらぬ位置だ。

 艦娘たちの哨戒範囲外だし、偵察機を飛ばしてもいない。

 何の杞憂もなく敵は北上できるはずだ。

「この辺りで待ち構えテ――」

 金剛が指し示したのは、フィリピン北部の島、ルソン島の東方沖。

「タイミングを合わせて、突入シマス」

 線がそこで西に折れて、まっすぐに一点を目指す。

 棒切れの先端が止まったのはバシー海峡。 

 台湾とフィリピンの間に位置する、大小様々な島が存在する最後の難所。海峡の幅は一五〇キロほど。狭いところだと八〇キロほどしかない。大規模な船団を通すには、やや手狭とも言える。

 必然的に船足は落ちるし、回避行動も取りにくい。

「ここなら、船団を一気に壊滅させられるネ」

 だが、そんなことはこちらも十分にわかっている。

「そこには哨戒部隊がいます」

「今までと同じように船団到着前に撤収シマス。敵も当然それを知っているハズですカラ、ギリギリまで隠れていればいいだけデス」

 存在が秘匿されている艦娘たちは、輸送船団に姿を見られないように撤収しなければならない。

 それから船団が到着するまでのわずかな隙をついて、敵艦隊が突入すれば確かに奇襲は成立する。

 いくら護衛艦が偵察のためにヘリを飛ばしていても、付近の島影にでも隠れていれば見つけることは難しいし、それが可能な島は数多くある。

「ってことは、赤城たちにちょっかいをかけてる敵は、タイミングを合わせるために船団の位置確認をしてるってことか」

「イエース。それと、私たちの目をそっちに向けさせるためですネ」

 意図が見えなかった敵の動きに、明確な答えがつけられ、辻褄があっていく。

「ならば、航路を変えますか?」

 その判断材料を与えるのが、この海域に展開している艦娘に与えられたもう一つの任務だ。

「ノー。佐世保は動きませんヨ。今までが順調に見えてるから、敵を絶対に甘く見てるネ」

 そう。

 どれだけ現場が的確に敵の意図を見抜いたとしても、決定権は佐世保の司令官にある。

 そしてその決定権を持つ男は、はっきり言って無能だ。

 今までの作戦においても、それは証明されている。

 彼が司令官の椅子に座っていられるのは、金剛の独断による作戦変更によって得られた戦果を自分のものとして書き換えているからだ。

 だからこそ、金剛は憎まれつつも今の立場を保っていられたし、その金剛が沈黙を保っているからこそ、他の艦娘たちも表立って非難することはない。金剛がなぜそうしているのかは、鳳翔にもわからないが。

 とにかく佐世保の司令官とは、その程度の人物なのだ。

 だから、鳳翔と金剛が最初に避けた判断をあっさりとしてのけるに違いない。

 敵の戦力回復が遅れているのだ、と。

「一応、意見具申はするケド、期待はしないほうがいいヨ」

 あの男だけを責めるのは、いささか酷かもしれない。

 この状況であれば、誰もが敵を甘く見るはずだ。

 たとえ、佐世保司令が判断に迷い、さらに上級の司令部へ伺いを立てたところで、結論は同じになるだろう。

 敵の編成が消極的なのも、おそらくはそれを見越してのことだ。

「こちらから先手を打つしかありませんか……」

 ただ、それはあまり使いたい手ではない。

 これ以上の独断は金剛の立場を危うくする。

「私のことを気遣ってくれるのは嬉しいですケド、多分、ここはリスクを覚悟するところデスヨ」

 鳳翔の曇った表情が何を意味しているのか、瞬間的に見て取った金剛が覗き込むようにして言う。

 その目には揺るぎのない決意がある。

「しかし――」

 金剛の指が鳳翔の唇を押さえ、次の言葉をさえぎった。

 代わりに、ニヤリと笑って。

「ノープロブレム。私の独断が結果を出せば良いんデス。たとえ佐世保が騒いでも、上層部は結果オーライって考えるデス」

 そう言ってから、水上偵察機の準備を始める金剛。

 一体何を考えているのか、この段階で彼女が口にすることはないだろう。

 そうすることで、たとえ制裁があったとしても、金剛のみがそれを受けるだけで済む。そう考えているはずだ。

「鳳翔、通信筒を準備して下サイ。他の艦娘たちにこの後の作戦を通達するデス」

 各海域に散らばった艦娘たちとは、良好な通信状態が維持されている。もちろん、敵がそれを傍受したところで暗号化されているし、解読には相当の時間が必要になる。

 それなのにわざわざ、命令書を直接手渡しするための通信筒を準備するということは、佐世保に聞かれたくない内容だということだ。

「瑞鶴は移動の準備を第七駆逐隊に通達して下サイ。ここには神通と白露たちを残しマス。帰りは名取たちと一緒に、護衛艦あきさめデスネ」

 赤城たちと合流しない艦娘は、唯一行動をともにすることが許された護衛艦が回収し、佐世保へと運ぶことになっている。

 狭いとはいえ護衛艦では休息も取れるし、簡易的とはいえ艤装の整備もできた。

 そうすることで、不測の事態が起きた場合にも対応することが可能ということだ。

 失敗の許されない今回の輸送作戦を行うに当たって、横須賀から派遣されている。

 員数外にはなるが、対応できないこともないだろう。

「それで、私たちはどこ行くのよ?」

「今回のメインバトルフィールド――とってもハードなやつデス」

 金剛の瞳がさらに怪しく、生き生きと輝いたように見えた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 バシー海峡を目指して移動を続ける鳳翔たち。

 丸一昼夜を費やす移動とはいえ、敵に出会うこともなく、順調そのものと言える道のりだ。

「ワッツ?」

 だが、その先頭を行く金剛の顔色が一瞬で変わるのを、鳳翔は見た。

 おそらくは何らかの報告が無線によってもたらされたのだろう。

 鳳翔は何も言わず無線のチャンネルを隊内用から、広域の命令系統のものへ切り替える。

 振り返れば、後続している艦娘たちも同じことをしていた。

 おそらくは、金剛もそれに気がついているだろう。

 だが、制止するつもりはないようだ。

「それは一体、どういうことデス!?」

『……佐世保司令から直接の命令よ』

 金剛の問いに、少し遅れて返ってきたのは、バシー海峡の哨戒任務に当たっていた五十鈴の声だ。

「それで動いたっていうのデスカ!? バシーがどれだけ重要か分かってるはずデス!」

『当然こっちだって異議を唱えた! 金剛隊が北上しているから、入れ替わって私たちは台湾海峡を押さえるべきだって! でも、反乱って言葉まで持ち出されたら、従うしかない! 私だけならともかく、単に指揮下にあるだけの子たちまで巻き込めない!』

 悲鳴に近いような叫び。それはおそらく五十鈴の魂の叫びだ。

 哨戒艦隊を取りまとめている五十鈴にとっては苦渋の決断だったに違いない。

 ギリギリと奥歯を噛みしめる音が聞こえたような気がした。

「ソーリー。言い過ぎまシタ……それで、戦闘継続は不可能なんですネ?」

『そうよ、私を含めて全員が中大破。これに関しては私の落ち度だから、何を言われても仕方ないし、受け入れるわ』

 一体、何から攻撃を受けたのか。

 そこまではわからなかったが、軽巡五十鈴と五名の駆逐艦娘で編成されていた哨戒部隊が戦力にならなくなったことだけは確実だ。

「……わかりまシタ。五十鈴たちは急いで基地に撤退してくだサイ」

『了解――おそらく、イヤットバットから東の海域は敵潜だらけよ。私たちみたいにならないように、気をつけて』

 無線はそれで静かになった。

「金剛?」

 そのタイミングを待っていた鳳翔が問いかける。

「私のやったことが、裏目に出マシタ。責任は取りマス」

 金剛はそれだけを言って、無線を再び開く。

「金剛より佐世保。何が言いたいかは、わかりますネ?」

『――佐世保。命令に変更はないし、船団の転針もしない。だからバシーに入る前に敵を殲滅しろ。五十鈴隊はもう使い物にならん、お前たちが行け』

「オーケー。代わりに神通たちをバシーに入れるヨ」

『おい。パラセルはどうするつもりだ』

 輸送船団が通過するギリギリまで、哨戒活動を続けるのが艦娘たちの任務だ。

 だから、それを途中で放棄することはありえない。

 けれどその海域に敵がいない、もしくは少ないため、危険度は極めて低いという報告はしている。

 仮に神通隊を動かしても、南のスプラトリーで同様の任務に当たっている名取隊を北に動かして継続さればいいだけのことだ。

 輸送船団の北上にともなって、南にいる名取隊が先に任務を終えるのだから。

 それで生まれるわずかな空白期間で敵が戦力を浸透させたところで、その排除にかかる時間などわずかなものだ。

 この司令官は、その程度の判断もできていない。

「船団を通すなら、バシー海峡の維持は必要デショ。障害がなくなった敵潜は間違いなくバシーに移動して、身を潜めようとシマス。状況によっては保険となるタメに」

『ダメだ! まずは敵の別働隊を一気に潰してから、バシーを――』

 それでは間に合わない可能性がある。

 敵の別働隊の規模も、正確な位置もわかっていないのだ。

 その排除に時間がかかれば、バシー海峡の危険を取り除くための猶予がなくなる。

 さらに言えば、戦闘後に潜水艦を攻撃するための艦娘が無事という保証もない。

「ヘイ、司令官。この戦いが終わった後も、その椅子に座って居たいなら、口を挟まないでほしいネ」

 ため息交じりの金剛の言葉に、司令官が激昂する。

『貴様、司令官は私だぞ!?』

「今回にしたって、ワタシたちと入れ替えて、五十鈴隊に台湾海峡の制圧を任せれば充分だったんデス。ワタシたちが移動していることは知っていたんですカラ」

 金剛は何も言わないし、言うことはないだろう。他の艦娘たちのを守るためにはそれが一番だから。

 おそらくは偵察と称して飛ばした水偵をバシー海峡の近くに送り込み、敵機と誤認させる形で別働隊がいると言う情報に裏付けを与えたのだ。

 そうすれば、司令官が動くと考えて。

 そこまでしなければ、司令官は動かないと考えて。

 けれど。

「そのくらいの判断はできると思ってマシタ。ケド、アナタの判断はこの状況をより複雑にした。アナタという人間を見誤ったのが、私の失敗デス」

 司令官は功を焦ったのだろう。

 輸送作戦を滞りなく進め、敵の作戦を頓挫させ、その上で敵艦隊を撃滅する。

 結果として、彼には最大限の評価と名誉が与えられる。

 それを手に中央に返り咲けば、将来は安泰だ。

 一石二鳥どころか、一つの石で四羽、五羽の鳥を落とすような夢を見てしまったのだ。

『何を言っている!? そもそも貴様が――』

 独断で動く金剛が、自分の下した判断よりも的確な結果を残していくという状況も彼にとっては面白くなかったはずだ。

 そして、艦娘たちは使い捨ての兵器だという認識も、それを後押ししたに違いない。

「Zip it! Airhead! (黙れ! 能無し!)」

 司令官の怒声をさらに上回るほどの声量で、金剛が怒鳴りつける。

 その勢いに押され、無線の向こうが静かになる。

「今まで我慢してきたケド、もう限界ネ。これが終わったら解任要求を上層部に出しマス」

 それを出したところで、実際に通るとは思えない。

 だが、少なくとも部下からそういう要求があったという事実は、彼の将来を不安定にする要素になることは間違いないだろう。

 無線の向こうで喚き立てる声を無視して、金剛は無線を切る。

 くるりと振り返り、全員の顔を見て。

「ウーン……厄介ごとが増えちゃいました、ソーリーね」

 スイッチを切り替えたように、いつもの調子で舌を出しておどけてみせる金剛。

「や、厄介ごとっていうか、さ……」

 引きつった顔で、瑞鶴が呟く。

「司令官相手に、”黙れ、能無し”って、よく言ったもんだわ」

 口の悪さでは、このメンバーの中では随一とも言える曙ですら、あきれ返っている。

「言いたいことはハッキリと言うべきデース。その方がスッキリするヨ」

 その言葉の通り、金剛の顔は憑き物が落ちたように晴れやかだ。

「それで、この後はどうしますか?」

 なんとも言えない空気を払うべく、鳳翔は未来に目を向ける。

 問題は何一つ解決していない。

 むしろ深刻になっているのだ。

「やることは変わらないヨ。戦う場所とタイミングが変わっただけデス」

 そう言って、金剛はバシー海峡より南のバリンタン海峡へと進路を変えた。

「敵の側面から奇襲するヨ。デストロイヤーズは対潜警戒を厳に。鳳翔と瑞鶴は偵察隊と攻撃隊の準備をよろしくネ」

 バシー海峡から南下した艦娘隊を排除したという連絡は、当然敵の主力にも伝わっていると見ていい。

 そうなれば、敵がどこを目指すかはわかりきっている。

 それに、敵潜の大半も空白となったバシー海峡を目指しているはずだ。

 敵には金剛隊の存在はまだ知られていない。

 勝機はそこにある。

※ごめんねさい。ちょっと休憩します。
 

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 飛来する砲弾の雨が、あたりを水柱の林に変えていく。

 金剛が予想した通りの位置を移動している敵艦隊を偵察機が見つけ、鳳翔と瑞鶴の攻撃隊が電光石火の奇襲で敵の多くを沈めた。

 だが、それでも敵はまだ数的優位を保っていた。

 水柱の数がそれを物語っている。

「デストロイヤーズ! 突撃の時間ネ!」

 そう叫んだ金剛を先頭に、朧、漣、潮がその林の中を縫うように突っ切っていく。

「ちょっと! あんなことしてたら沈むって!」

 それを見て悲鳴をあげたのは瑞鶴だ。

 だが、敵艦隊に接近戦を挑む水雷戦隊の戦いとは、だいたいこのようなものだ。

 後方から航空機を飛ばして、間接的な攻撃に専念することが多い航空母艦がそれを見ることはないと言っていい。

 その上、航空母艦娘の瑞鶴にとっては、これが初めての本格的な戦闘。

 かなり衝撃的な光景に映ったはずだ。

「うっさいわよ瑞鶴!」

 牽制となる砲撃を放ちながら、曙が叫ぶ。

 本来であれば、彼女もあの突撃隊の一員であった。

 けれど、瑞鶴の直衛を引き受けてしまったことで、仲間の突入を見ていることしかできない。

 曙の方がよほど、もどかしさを感じているはずだ。

「だって――」

 なおも食い下がろうとする瑞鶴を、曙の声が遮る。

「そんなに心配なら露払いに集中して!」

 こういう状況下では、駆逐艦娘たちの方がはるかに肝が座っている。

 それは水雷戦隊の主力となるべく、神通を始めとする軽巡洋艦娘たちが鍛え上げた結果だ。

 下手をすれば普段の訓練の方が、実戦よりも危険なことがあるくらいなのだから。

「瑞鶴、曙の言う通り、自分の仕事に集中しなさい」

 納得のいかない顔をしている瑞鶴に、駄目押しの一言を放つ鳳翔。

 本来は後方待機の航空母艦も、戦力不足の今回ばかりは砲戦に参加するしかない。艦娘ならではの決断だろう。

 とは言っても、それほど大きな砲を持ち出せるわけでもない。

 せいぜい軽巡洋艦と同程度。

 周囲に群がる敵駆逐艦をいなすのが精一杯と言ったところだ。

 それでも、金剛たちの中央突破の手助けにはなるはずだ。

「ヘイ、瑞鶴! 左から敵が廻り込んでマス!」

 金剛の声が無線越しに飛んでくる。

「ああ、もう!」

 瑞鶴の腰のあたりにぶら下がった連装砲が一斉に左を指向して火を吹く。

 搭載されているのが駆逐艦と同じ弾を放つ砲とはいえ、砲身長が短い分、精度は期待できない。

 そもそもが、対空火器として搭載されているのだから仕方がない。

 航空機相手であれば直撃を狙う必要はなく、時限信管で炸裂する砲弾の破片で範囲を覆ってしまえば充分なのだ。

 航空機にはそれで致命的な損害――デリケートなエンジンを損傷させたり、揚力を生み出す翼をもぎ取ったりすることで、落とすことができる。

 だから、その通りの性能を発揮した砲弾は、敵駆逐艦の頭上で炸裂した。

「あんた、あれが飛行機に見えたわけ!?」

 曙が呆れた声で叫ぶ。

 今の相手は深海棲艦だ。無数の破片が飛び散り、降り注いだところでダメージは大したものにはならない。

「忘れてただけよ! にしたって、怯むくらいしてくれてもいいじゃない!」

 進路を変えず、まっすぐに金剛たちを目指す敵駆逐艦を見て瑞鶴が悔しそうに叫ぶ。

「瑞鶴、砲弾の変更と発艦準備を急ぎなさい」

 鳳翔はそうアドバイスをして、自らの飛行甲板を持ち上げ、敵艦へと向けて発砲する。

 航空母艦黎明期、砲戦こそが勝敗を決めると信じられていた時代に設計された鳳翔の砲塔は飛行甲板の下にある。

 その位置を見ればわかる通り、対空戦闘など考えられてはいないし、搭載されている砲もそれなりに大きなものだ。

 飛翔した砲弾は、見事に敵の先頭艦を直撃し、大きな火柱をあげる。

 おそらくは何かを誘爆させたのだろう。

「うわ、すご……」

 瑞鶴はあまりの光景にポカンと口を開けている。

「ヘイヘイヘイ、デストロイヤーズ! 鳳翔が砲戦で敵を沈めマシタ! 私たちの立場がなくなるヨ!」

 嬉々とした声が無線から響き、金剛達はそれを合図にしたかのように、さらに速度を上げて敵陣の中央を目指す。

 もちろんそこへは敵からの砲撃が集中するが、それを縫うようにかわし、避けきれないものは金剛の障壁が弾き飛ばしていく。

 逆に、金剛の背にある艤装から伸びた主砲が閃くたびに、敵艦が一隻、また一隻と海底に還る。

 当然、敵艦隊も黙ってやられているわけではない。

「金剛、両翼が伸びてきてる! 半包囲されるわよ!」

 曙が叫び、最大戦速で瑞鶴の横を抜けて飛び出して行く。

 敵の中央部から分離しつつある敵の両翼が、まるで二本の腕のように伸び、突出した金剛たちを取り囲もうとしていた。

「瑞鶴は敵左翼を! 右翼は私が引き受けます!」

 戦闘に集中しているせいか、反応がない金剛に変わって鳳翔が指示を飛ばす。

 数が多いのは敵左翼。そこに数の多い瑞鶴の航空戦力をぶつけるのは、当然の判断だ。

「いえ、左は鳳翔さんが!」

 だが瑞鶴はそれに異を唱える。

 なぜかと鳳翔が問う前に、瑞鶴は次々と艦載機を放って行く。

「敵左翼は輸送艦が大半。たとえそれを討ち漏らしても、敵の戦闘能力さえ奪ってしまえば、こっちの勝ち。だったら確実な方法をとるまで」

 敵艦隊は前衛艦、主力となる大型艦、輸送艦等の補助艦とその護衛という隊形で進んでいた。

 その左側面から攻撃を仕掛けられれば、とりあえず敵はその場で回頭して反撃する以外に手の打ちようがない。

 必然的に敵左翼は最後尾にいた輸送艦とその護衛という形になる。

「輸送艦の中に紛れた戦闘艦を探すのはなかなか大変ですけど、鳳翔さんの子たちの方が、うちの子たちより経験が多い分、手慣れてるはずです。悔しいですけどね」

 もちろん輸送艦にも兵装はある。

 防御用の小さな火砲とはいえ、反撃手段を持たない人類にとっては充分な脅威だし、確実に輸送船団が一方的に狩られて行くだろう。

 だが、相手が艦娘となれば立場は逆転する。

 護衛の戦闘艦を片付けてしまえば逃げ出すしかない。

 そうしてしまうことで、この戦闘をより早く終わらせることもできるはず。

 瑞鶴はそう考えたのだ。

 たとえ無自覚であっても、押さえるべき要点を的確に見抜く。

 それが瑞鶴の才能だ。ここへ金剛隊を導くきっかけを作ったように。

「わかりました。あなたは曙とともに敵右翼を」

「了解! 四個小隊は敵右翼へ小隊単位で突入開始! 獲物を逃すんじゃないわよ!」

 瑞鶴の合図で四機ずつにまとまった雷撃機編隊が四つ、それぞれに敵艦を屠るべく海面へ向けて降下して行く。

 曙の乱入で陣形が乱れ始めた敵を追うにはその方が効果的だ。

 戦闘は艦娘たちの圧倒的優位で推移していった。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 半日。

 それが、この海域が静かになるまでに要した時間だ。

 洋上のいくつかの場所では、未だに黒煙を吹き上げる敵がゆっくりと海底に還りつつあった。そのほとんどは輸送艦。黒煙は積載していた補給用燃料が引火したものだ。

 こちらの船団を襲い、物資を奪うつもりだったにしては、果たしてそれを積むだけの余裕があったのかと疑いたくなるような状況だ。

 だが、敵も長距離を移動してきている。やり直しのきかない作戦ともなれば、万全を期していたのだろう。

 それを静かに見つめる鳳翔の背後から誰かが近づいてくる気配。

「さすがに、無傷というわけにはいきませんネー」

 ところどころが煤け、破れも見える衣装の袖で額の汗を拭う金剛だ。

 ふと見れば背中の艤装の一部にも被弾の跡が見受けられる。

「途中から静かになった理由はそれですか」

 鳳翔は呆れた口調で言う。

 金剛の艤装に取り付けられていたはずの、無線用マストが跡形もなく消し飛んでいた。

「イエース。送受信ともに不能デス。あのバカの声を聞かなくて済みそうだけどネ」

 苦笑いをする金剛。

「おかげで、艦隊の指揮までやる羽目になって、大忙しでしたよ」

「鳳翔なら安心して任せられマス」

「そう言っていただけるのは光栄ですが、あなたの行動は艦隊旗艦としてどうかと思いますよ? 何も盾にまでならなくてもよかったのではないですか?」

 とは言ってみたものの、その奮戦のおかげで第七駆逐隊は、ほぼ無傷だ。

 あれだけの戦闘をしてきたにもかかわらず、朧が魚雷発射管に不調を訴える程度で済んでいる。それもすぐに修理が終わると報告があった。

「優秀な子たちは、無傷で残しておきたかったんですヨ。バシー海峡のクリーンアップが残ってるからネ」

 確かにそうだ。

 神通と白露、涼風の三名は経験豊富だが、残る二人、江風と海風にとっては初めての実戦だ。

 先日の演習でも、まだ戸惑っている姿が見受けられたくらいだから、彼女たちだけでバシー海峡を制圧するのはいささか骨の折れる作業になるだろう。

「タイムリミットのある仕事だからネー。そういえば、赤城は何か言ってきましたカ?」

「敵攻撃隊を駆逐、支障なし。とだけ――ちょうど金剛の無線がダメになった頃です」

「駆逐で間違いないデス? 撃退とかではなくて?」

「ええ。駆逐で間違いありません」

 それを聞いた金剛にニヤリと笑みが浮かぶ。

「赤城たちも追ってくる敵を捕捉したみたいネ」

 その単語が何らかの符丁だったのだろう。通信筒に収められた命令書に、その辺も書いてあったようだ。

「では、輸送船団は安全ということになりますね」

「イエス。あとはバシー海峡さえ何とかできれば――」

 鳳翔の通信機が呼び出しを受けたのはその時。

 金剛が応答しない場合は、鳳翔を呼ぶというのが事前の取り決めだ。

「鳳翔です」

『佐世保より最優先命令だ』

 声の主は佐世保司令。凶報を運ぶ者としては、この上ないほどに最適だろう。

「金剛は通信機の損傷のため、鳳翔が通信を代行しています」

 そう告げて、通信機をスピーカーモードに変更する。

 全員が聞いているという状態を宣言したのだから、言葉を使った下手な細工はできないはずだ。

 それに引っかかるような金剛ではないだろうが、念には念を入れておく。

『なるほどな。だからいくら呼び出しても繋がらないわけだ。通信以外は無事なのか?』

「残念ながらネ」

 皮肉たっぷりに応答する金剛。

 沈んでいれば、解任要求を出されることはないのだから。

 わずかだけ生まれた間から、そういった歪んだ願いが滲み出ている気がした。

『……金剛隊は台湾海峡へ向かえ』

「ワッツ?」

『新たな敵が台湾海峡へ向けて北上しているのを確認したそうだ。それを阻止してもらう必要がある』

 鳳翔と金剛は顔を見合わせる。

「今更ですか?」

 そう声に出したのは鳳翔。自分でも驚いてしまったほどだ。

 大きな声ではなかったとはいえ、聞こえてしまったに違いない。

 受け取り方によっては、かなり棘のある言葉になるはずだ。

 そのくらい、あまりにも馬鹿げた話だったのだ。

 とにかく。

 すでにバシー海峡の再制圧作戦は始まっているし、自分たちが合流すれば、比較的早い段階で安全の確保はできるのだから、船団が航路を変える必要はない。

 それに。

「今から敵が台湾海峡を抜けたとシテモ、たどり着く頃には船団なんて安全圏にいるはずデス」

 金剛が苦笑いしながらも、その疑問をぶつける。

『予定どおりならな――先ほどの情報で、船団の足が止まってるのを確認した』

「ダーメット! 何があったのデス?」

『詳細は不明。こちらの手元にあるのも位置通報システムの情報だけだ』

 衛星を使って自分の位置を計測した後、針路と速度、機関の状態といった最低限のステータスを、暗号化した上に圧縮して送信しているのが位置通報システムだと聞いていた。

 発信間隔は一時間に一度、送信時間はわずか二秒。

 現代の高性能な電子戦システムならいざ知らず、深海棲艦がそれを利用して位置を割り出すのは困難なはずだ。

 だから無線が使えない状況下でも、生存を確認できる数少ない手段の一つとして使われている。

『よほどのことがない限り、位置の暴露を避けるために船団は無線を封止している。だから、その状況は深刻ではないと判断したということだ』

 少なくとも敵の攻撃ではない。

 わかるのはそれくらい。

「状況を確認できる手段はないのデス?」

 話しながら、器用にも少し離れた位置にいる瑞鶴に向けて発光信号を送る金剛。

”シヤウカク ニ カクニン”

 先ほどのわずかな間は、金剛の警戒心を呼び起こすのに充分だったようだ。

 瑞鶴はすぐに自分の回線を使って、翔鶴を呼び出し始めた。

 艤装自体は修復されていなかったとしても、基地にいる以上通信機器は他にもある。

『赤城隊が派手にやってくれているせいで、偵察機を飛ばせない。これもお前の作戦だろう?』

 艦娘の存在は秘密とされている。

 そして、空からの偵察は広い範囲が目に入る。海面とは違って水平線は遠いのだから。

 そこに黒煙の一つ、砲火の一つでもあれば、気になるのが人情というものだ。

 ましてや、偵察範囲の近くであればなおさら。

『とにかく。輸送船の大半は休みなく酷使されている。何が起きてもおかしくはない。船底に大穴でも開いたのなら諦めもつくんだがね』

 その言葉の間に、瑞鶴から信号が返ってくる。

”カンムス ソクオウ タイキ カレイ サル”

 基地に待機している艦娘たちに即応待機命令が出たということは、この一件に関しては間違いなく事実だということだ。

 金剛も理解したというように軽く頷く。

「了解ネ。会敵は東シナ海にするけど、文句ないデス?」

『そこしかあるまい。南側から追いかけても間に合わんだろうからな』

「そのくらいの計算はできたのデスネ。以上、通信終わり」

 もう一度、最後に痛烈な皮肉を入れた上で、鳳翔の通信機をいじって強制的に切ってしまう金剛。

「今のは余計だったのではありませんか?」

 鳳翔の小言にも動じることなく。

「ノープロブレム。ガラスのプライドにとびきり大きい石をぶつけた後ですヨ? この後どれだけ小さなのを投げたところで、壊れてるという事実に変わりはありまセン」

 カラカラと笑ってみせる。

 もはや二人の関係は修復不能なレベルだということだ。

 だから。

「ヘイ瑞鶴、もう一度翔鶴に連絡をとって、今の話の裏をとるように言ってくだサイ」

 何があってもおかしくはない。

 そういう考えが、金剛の中にはあるのだ。

「どこへよ?」

「横須賀の司令官デス」

「その人、信用できるの?」

 瑞鶴の疑問は当たり前だろう。接点など一度もないのだから。

 鳳翔ですら、間に白露と涼風というフィルターを挟んでの評価しかできていない。

「人間は信用できマセン。今後は艦娘だけでどうするかを考える必要があると思いマス」

 佐世保司令との確執は、金剛と司令という個人の問題では止まらないだろう。

 おそらくは大きな波となって艦娘たちすべてに関わって来ることになる。

 金剛はそれを見越している。

「だからこそ、借りは返す必要があるんデスヨ」

「意味がわからないんだけど?」

「万が一、佐世保が何か企んでいたら、それを阻止することで横須賀の司令官は出世の邪魔になる人物を一人排除できマス。何も言わなくても、それを理解できる頭は持ってるはずデス」

 借りは返し、その上で貸しを作る。

 そうやって、たとえ仮初めでも味方を作る。

 そうしなければ、艦娘たちは今までと同じように、使い捨ての兵器としてのみ存在して行くことになる。

 そんな場面を何度も見てきた金剛だからこその決断かもしれない。

 我慢の限界だと言ったのだから。

「佐世保が何もしてなかったら?」

「その時は、今回の顛末を横須賀の司令官に教えてあげマス。翔鶴と瑞鳳の艤装を直すための資源と引き換えなら、お釣りが来るくらいだと思いませんカ?」

 何かが動き始めるきっかけというものは、たいていの場合、それをもたらした者はそうだとは気がつかないのだ。

「電話で話した感じトカ、聞こえて来る噂ではいい人みたいダシ、この件とはほとんど無関係ですカラ、巻き込みたくないというのが正直なところデス……でも、私たちに利用するものを選ぶ余裕はないんデス」

 自分に言い聞かせるように、ひとつひとつの言葉を丁寧に紡いで行く金剛。

「ダカラ――」

 そして、未練を断ち切るように、決然と。

「恨むなら引き金を引いたヤツと、私を恨めばいいんデス」

 ならば金剛のこの決断は、これから何をもたらすのだろうか。

 大海の中の小さなうねりが、海岸をさらうような大きな波になるかもしれない。

 鳳翔の胸に不安が澱のように溜まって行く。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 敵艦隊の動向は、佐世保を経由して随時伝えられていた。

 その情報が確かであれば、そろそろ台湾海峡を抜けるはずだ。

 金剛隊はそれを待ち構えるべく、基隆市の北方沖六〇キロほどにある彭佳嶼と言う島に身を潜めている。

 輸送船団を狙うのであれば、敵艦隊は間違いなくこの近くを通ることになる。

「船団の状況は変わらずデス?」

 自身の通信機器を破壊された金剛は、情報の入手を他の艦娘に任せるしかない。

「ええ。そろそろ次の状況を知らせてくる時間です」

「それがラストチャンスということになりますネ」

 その時点で船団が動き始めていれば、金剛は敵に手を出さないと宣言している。

 まず間違いなく敵が船団に接触する可能性がないからだ。

 バシー海峡に残してきた神通たちは、順調に海域を制圧しつつある。

 慣れていない艦娘二人を従えている割には上出来すぎるくらいだ。

 とにかく、ここでむやみやたらに攻撃を仕掛けても、ある程度の時間で戦力の補充が可能な敵に対して意味などない。

 むしろ資源を無駄に消費する分、艦娘の側が追い込まれるだけだ。

 それに加えて。

「さすがに戦艦八隻を相手にしたくないデスネ」

「こちらの輸送船団も大規模ですが、それを叩くための編成にしては、やりすぎな気もします」

「ホントにネ。何を考えているのか、できるなら聞いてみたいデス」

 戦力差が歴然としていた。

 金剛が口にしたほかに、重巡や軽巡、駆逐艦を含めれば三〇を超える数がいるという情報だ。

 とてもではないが金剛隊だけでどうにかなるような相手ではない。

 そもそも、あと三時間もすれば日が暮れる。

 そうなれば鳳翔と瑞鶴の航空隊も使えないのだから、お手上げだ。

 もちろん、佐世保にいる即応待機の艦娘たちにはすでに支援の要請を出したし、こちらに向かっているという連絡もあった。

 だが、到着するのはどんなに早くても明日の朝。

「横須賀の方からも音沙汰なしだカラ、情報は本当だったと考えていいのかもしれまセン」

「もし、船団が動いていなければどうしますか?」

「足止めするのが精一杯デス」

 とはいっても、その足止めもどれだけすればいいのかなどわからない。

 最低でも、支援が到着するまではこの数で乗り切ることになる。

 全ては船団の状況次第ということだ。

 そして。

『佐世保より、船団の状況を知らせる』

 時間通りに通信が入る。


――船団の状況に変化なし。移動はしていない――


 金剛のため息とともに、地獄の扉が開かれた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 金剛の立てた作戦は極めてシンプルなものだった。

『金剛! 針路〇六〇へ向けて移動する敵艦隊を視認! こっちも見つかった!』

 曙の切迫した声が無線から飛び込んでくる。

「オーライ! そのまま東に引っ張ってきてクダサイ! 弾は全部避けてネ!」

『無茶なことをサラッと言ってくれるわね!』

 台湾本島の北には三角形を描くように、それぞれの頂点に三つの島がある。

 北の彭佳嶼、東には棉花嶼、そして南に花瓶嶼だ。

 これらを結ぶ線を絶対防衛線とし、敵に対して断続的な奇襲を仕掛けていくというものだ。

 金剛隊にとっての勝利条件も極めてシンプル。

 翌朝、〇七〇〇時まで敵の突破を阻止すること。そうすれば、佐世保を出た支援艦隊が合流する。

 だが、計画や目的がシンプルであっても、実際にそれを成し遂げるのはまた別の話になる。

 そして、それをするためには敵の数をできるだけ減らさなければならない。

「鳳翔、瑞鶴! 曙が泣き出す前に航空隊をぶつけてクダサイ」

『誰が泣くのよ! 誰――うわっ!』

 曙の声が途切れる。

「ヘイ! 曙!」

 誰の脳裏にも最悪の光景が思い浮かんだはずだ。

 敵艦のどの砲弾を受けても、駆逐艦娘の曙にとっては致命的な一撃になりかねない。

『――ちょっとアイツら! 進路上に砲弾ばらまくとか、駆逐艦相手にセコイことすんな!』

 だが、いつもの調子で曙の声が無線を通して飛び込んでくる。

 この世にこれほど聞いて嬉しい悪態もないだろう。

「進路上にばらまいてるんじゃナクテ、曙の動きがトリッキーなだけデス。性格が――」

『歪んでるからとか言ったら、魚雷食らわすわよ!』

「オウ……曙は話の先を読む力も抜群みたいデース」

『ちょっ――言うつもりだったわけ!? ……マジでやってやる! 次の演習の時覚えておきなさいよ!』

 無線の向こうからは間断なく、砲弾が炸裂する音と、それらが盛大に海水を吹き上げる音が響いている。

 その中でも、これだけの冗談を飛ばしながら動き回れるのだから、曙もなかなかに肝が座っている。

 と言うよりも。

 この冗談こそが余計な緊張を解きほぐして、本来の能力を引き出しているのだろう。

 金剛はそれをわかってやっているのだ。

『漣、潮! そろそろ出番、よろしくね!』

 瑞鶴が次の作戦の合図を出す。

 曙に注意を奪われていた敵艦隊の両側面から近づいた二人は、それぞれに煙幕を展開しながら、敵と並走する形でまっすぐに突き進む。

 艦隊行動のために速度を落としていた敵艦隊と、全速力で突き進む駆逐艦娘では速度の差が大きい。

 あっという間に敵艦隊の両側面は煙幕で覆い隠され、視界を奪われた。

『攻撃隊突入!』

 その煙幕を切り裂くように、瑞鶴と鳳翔がはなった九七式艦攻が魚雷を抱いて突っ込んでいく。

 高度一〇メートル、距離一二〇〇で投下された数十の魚雷が敵艦隊めがけて群がる。

 無数の水柱が敵艦の側面から立ち上り、爆音に続いて断末魔の悲鳴が響く。

「曙は瑞鶴と合流。朧は残りの子たちをまとめてクダサイ」

『了解! しくじるんじゃないわよ!』

 敵艦隊の前方で再び煙幕が広がる。

 曙が自分と仲間たちの行動を隠すために展開したものだ。

 その向こう側、曙が突き進んでいた先で、鳳翔と金剛が待ち構える。

 それぞれに持てる限りの火力を煙幕の向こうに向けて、一斉に放つ。

 当てることなど考えてはいない。

 敵に混乱さえ巻き起こせれば充分だ。

 二度斉射して、待機する。

 今度は、敵の右舷側から瑞鶴と曙、少し遅れて左舷側から朧、漣、潮も同じように砲撃を開始。それらは間断なく続く。

 煙幕の向こうの様子をうかがい知ることはできない。

 けれど敵に打てる手は一つ。

 まずはまっすぐに全速力で進んで、煙幕を突っ切ること。

 航空隊の攻撃で沈みつつある仲間に加え、両側面から砲弾が飛んでくるのだから、それらが邪魔をして正面以外に進む道はないからだ。

「ヘイ、鳳翔?」

「わかっています」

 二人は煙幕の切れ目に照準を合わせる。

 時間の流れがゆっくりになった気がする。

 一秒が何倍にも、何十倍にもなった感覚。

 何かを待つとは、そう言うものだ。

「うまくいきますか?」

 珍しく鳳翔がじれた。

 だが、金剛は超然として。

「いきましたヨ」

 黒い影が見えた瞬間、二人の砲口が火を吹いた。

 煙幕から抜け出した途端に、砲弾の雨を浴びる敵。

 瞬く間もなく、火柱と黒煙を吹いて海中に没していく。

 危険域を脱したと思った矢先の奇襲に、敵はさらなる恐慌を引き起こす。

 それは後ろに続く仲間へと次々に伝播していった。

 それも、視界の効かない煙幕の中で。

 
 目の前で燃え盛る仲間に突っ込んでしまった敵は、その誘爆に巻き込まれた。

 それを見た後続は、無秩序に舵を切ったがために衝突した。

 それを避けるべく慌てて立ち止まったせいで、後ろが動けなくなった。

 
 そこへ、さらに砲弾が降り注ぐ。

 
 その場しのぎに放った砲弾が仲間の装甲を貫いた。

 飛び散った破片が海中を切り裂き、魚雷のように見えた。

 回避の手段をなくした敵は、窮余の策で砲弾を海中に撃ち込む。

 
 水柱、水柱、水柱……。

 今度は大量の海水が霧となり、視界を遮る。

 そこへ。

 
 今度こそ、必殺の槍を携えた第七駆逐隊が突っ込んだ。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 奇襲の効果など長くは続かない。

 数的に不利な金剛たちにとって、そこから立ち直った敵を相手にする力はない。

 だから、ある程度のところで撤収する。

 事実、そうしていた。

「戦艦三、重巡と軽巡が四、駆逐艦八を撃沈。中大破を含め損傷の規模は不明……上出来デス」

 戦果を確認する金剛の顔には喜色が浮かんでいた。

 敵戦力のおよそ半数を奪ったことになるのだから、当然と言えるだろう。

「これで、朝までなんとか耐えられますネ」

 この後の戦いには鳳翔と瑞鶴は実質的に参加できない。

 日が暮れてしまえば、艦載機を使うことはできないからだ。

 せいぜい、砲撃で相手の気を散らせるのが関の山だし、それを求められてもいた。

「しかし、まだ戦艦が五隻残っています」

「そうネ……今夜は駆逐隊に頑張ってもらうことになりマス」

 鳳翔は空を見上げる。

 まるで牛乳を流し込んだように濁りはじめていた。

 風の色だ。

 それが何を意味しているのか、鳳翔はよく知っている。

「天候が崩れますね。夜半過ぎには雨でしょう」

 小柄で華奢な駆逐艦娘たちを戦場の一番危険なところに放り込むのは、なんだかんだと言っても気がひけるのだ。

 さらに天候が崩れるとなれば、視界も悪くなり危険度は増す。

 だが、頼らなければどうにもならないのも事実。

「問題ないわよ。むしろ悪天候なら好都合。それに紛れて近づくこともできるし、そうなれば島においてきた予備の魚雷も計算に入れて、残りの奴らを三回ずつは沈めてやれる」

 鳳翔の心中などどこ吹く風。当の本人たちは血気盛んだ。

 曙のセリフにわっと沸き立つ。

「ヘイヘイ、デストロイヤーズ。元気なのはいいですケド、足元を掬われないようにお願いヨ?」

 この海域の海中哨戒などされていない。

 どこに潜水艦が潜んでいるか分かったものではないのだ。

 笑いながらの一言ではあるが、金剛にとっては冗談にも洒落にもならない。

 過去の戦争で、戦艦金剛が沈んだのはこの海域。

 それも潜水艦からの一撃によるものだ。

「了解!」

 駆逐艦娘たちは、気を引き締め海中に耳をすませる。

 二度も金剛を台湾海峡に沈めるわけにはいかない。

 そんな気持ちは、誰にもあっただろう。

 だから。

 洋上を進む艦娘たちは皆、もう一つの可能性のことを忘れていた。

 
 それを最初に感じ取ったのは、隊列の後方を曙とともに進む瑞鶴だ。

「……なんか、嫌な感じよね」

「何がよ?」

「海。すごく騒ついてる感じがしてさ」

「はぁ? あんた、海と会話なんかできるの? それとも魚?」

 そう言いながらも、曙は周囲に目を向ける。

 潜望鏡でも出ていれば、多少は波の音が賑やかになるかもしれない。 

 だが、日が暮れかけた海の上。あたりには何もなかった。

 ふと瑞鶴に目を向けると、自分の体を抱きしめるようにして、震えを抑え込もうとしていた。

 南の海とはいえ、この時間では風も冷たいし、体が冷えてもおかしくはない。

 それを悪寒と感じてしまう可能性はあった。

 何せ、瑞鶴にとってはこの一連の戦いが初めての実戦なのだから。

「ま、どっちでもいいんだけど、この辺りで潜水艦見なかったか聞いてくれると助かるわ」

 少しでも気を紛らわそうと、あえて茶化す。

 だが、瑞鶴はいたって真面目な顔で。

「そういうんじゃなく……いや、そういうもの……?」

 何事かをぶつぶつと呟いている。

「意味わかんないって。これ終わったら医者に診てもらう?」

 さすがに曙も心配になってきた。

 戦闘という極度の緊張状態が続いた後だ。精神的に変調をきたすことはよくある。

 その辺は艦娘であろうと、人であろうと変わらない。

 おまけに今回の戦いは、初めて臨むにしては過酷な状況が続いてもいた。

 今度はしきりに空を気にし始めた瑞鶴を見て、曙はため息をつく。

 とりあえず鳳翔に一言伝えておいたほうがいいかもしれない。

「鳳翔さ――」

 ふと、曙の耳に何かの音が聞こえた。

 いつもであれば、海の音にかき消されていたかもしれないほど小さな音。

 蚊の羽音のような。

 それは少しづつ大きくなっていく。

 そして、気付く。

 気付いて、空を見上げる。

 
 まるで悲鳴のように。

「鳳翔さん! 金剛! 敵機直上!」

 叫んだのは瑞鶴が先だった。
 

 その声に弾かれたように、鳳翔は真上を見る。

 金剛の通信を代行するべく、二人は並んで動いていた。

 空から見れば最も狙いやすい的。

 八つの黒い点が、みるみるうちに大きくなっていく。

 それは真っ逆さまに落ちてくる、敵の急降下爆撃機。

 その腹から小さな物体が切り離された。

 おそらくは対艦攻撃のために調整された爆弾。

 もはや避けようがない。

 できるのは障壁を展開してダメージを限定的にすることくらいだ。

 艤装が大破しても、重要区画――肉体へのダメージを最小限に留められれば、沈むことはない。

 それに、この後の展開を考えれば金剛を守るべきだろう。

 航空機を飛ばせないのであれば、空母に出番はない。

 だから、鳳翔は覚悟を決めた。

 果たして、艤装がどの程度のダメージを吸収してくれるか。

 分の悪い賭けだと自覚して、苦笑いのまま――

「金剛! 後を任せます!」

 障壁を展開する。 

 直後に鳳翔は横合いから激しい衝撃を受けて、数十メートル離れた海面に投げ出される。

 投下された爆弾の炸裂ではない。

 着水した鳳翔の体を爆風が襲ったのだから。


「金剛!」


 投下された八発の爆弾が炸裂した。

 少し離れた位置にいた曙からは、その瞬間の最後までがはっきりと見えた。

 金剛は障壁を使って、鳳翔を無理矢理に跳ね飛ばした。

 バリンタンで見せたように、守るためにその内側に入れるのではなく、鳳翔が障壁を展開するのに合わせて、自分の障壁を展開して干渉させたのだ。

 そんな使い方など聞いたことがない。

 だが、その狙いはうまくいったのだろう。

 むくりと起き上がった鳳翔は無傷なのだから。

 やがて爆煙が晴れる。

 その中心部に何が見えてくるのか。

 その場の艦娘たちが息を飲む。


「ヘイ、ガールズ。金剛型の装甲をなめてもらっちゃ困りマスヨ?」


 いつものように、おどけた声。

 煙が晴れた爆心地に、金剛は立っていた。

 それでも、胸を撫で下ろすものはいない。

 体のあちこちに傷があったし、艤装にも損傷が見受けられた。

 鳳翔が見ても、これは使い物にならないだろうとわかる主砲塔が一基。そのほかの副砲や機銃群は少なくとも三割がダメージを受けている。

 実質的に金剛の戦闘力は半分程度にまで低下したと考えるべきだ。

 間違いなく中破の判定が出る損害。

 加えて、この艦隊の火力は金剛と瑞鶴、鳳翔の三人で半分以上を占めている。

 それが全て使えないなら。

「これ以上の戦闘続行は不能です。撤退しましょう」

 鳳翔は即座に判断を下す。

 だが。

「ノー。島まで下がりますが、作戦は継続デス。船団が無事に通らなければ、私たちの存在意義がなくなりマス」

「しかし、私たちの火力では――」

「さっきも言ったけど、これからは夜戦になりマス。そうなれば私も支援くらいしかすることはないデスヨ。作戦は最初から艦隊の火力が足りない状態を想定して組み立ててるカラ、ノープロブレムなんデス」

 それに、と金剛は言葉を付け加える。

「逃げるにしても、機関の調子が悪い私がいたら、普通のやり方では無理デス。だから、まずは逃げられる状況を作るしかありまセン」

 そう言った金剛の瞳の奥に、強い意志の光が見えた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 彭佳嶼へ戻った艦娘たちはすぐに、次の作戦へと移った。

 移らざるを得なかった。

 金剛への攻撃に効果があったと知った敵は、統率の乱れた艦隊の再編もそこそこに追撃を開始したからだ。

 彭佳嶼に置かれていた物資は再配分され、鳳翔と瑞鶴が守る形で洋上の二カ所に展開。

 そこを仮の拠点と定め、駆逐艦娘たちは攻撃後に敵を迂回、後退、あるいは突貫して燃料、弾薬を補給、反復攻撃を仕掛けている。

『朧がきました。さすがに厳しくなってきたみたい』

 無線越しの瑞鶴の声。

 なんとか五時間を持ちこたえたが、それも敵が性急に事を起こしたからでしかない。

 もし、完全に立て直した上で攻撃されていれば、もっと早い段階で瑞鶴の言う状況になっていたはずだ。

「瑞鶴は東へ十キロ後退、敵に移動後の位置を気取られないように。駆逐隊は瑞鶴の位置を更新、迷子にならないでくださいね」

 通信機器も被害を受けている金剛は、後方の棉花嶼で次の作戦準備に専念。戦闘の全体的な指揮は鳳翔に任されていた。

 その仕事をこなしつつ、鳳翔は別のことを考えてもいた。

(金剛を襲った艦載機はどこから……)

 少なくとも、事前の情報に敵空母がいると言う情報はなかった。

 戦艦八隻、そのほか大小艦艇合わせて三十以上。

 それが鳳翔たちの受け取った情報の全て。その中に、空母が紛れていたと考えるしかない。

 そうでなければ、あのタイミングで攻撃を仕掛けてこられるはずがない。

 攻撃を終えた艦載機を海上に不時着させるのでなければ、と言う前提条件がつくが、この後も輸送船団を襲うと言う目的がある以上、敵とて無駄に戦力を消費するはずがない。

 だが。

(戦艦を見分けられているのに、空母ができないと言うのはおかしな話です)

 海峡は確かに広い。一番狭い地点でも一三〇キロはある。

 本隊から離れるように行動させていれば、見つけられないだろう。

 奇襲を狙うならば、そうする。

 それでも。

(そもそもにおいて、私たちがあの海域にいると言う情報は敵にないはず。もしあったのならば、あそこまでの大被害を被ることはなかったでしょう)

 たとえ、敵に何かの意図があったとしても、戦力の半分と金剛の中破では交換条件として成り立たない。

 不審な点は次々と出てくる。

(それに、奇襲を狙うならば、本隊そのものを見えない位置に置くべきです。その方がよほど効果が高くなるはず。だから奇襲の線はないと考えていいでしょう)

 ふと、傍らで魚雷の再装填作業に集中している曙を見る。

「曙ちゃん、一つ聞いてもよろしいですか?」

「はい?」

「敵艦隊を視認した時、針路は〇六〇でしたね?」

「そうです。複縦陣で〇六〇へ、十八ノット」

「曙ちゃんの針路は?」

「二四〇です。それが何か?」

 ただの確認です、そう告げると曙は再び作業に没頭し始める。

(正面から視認した曙ちゃんに、空母は見えていない。戦闘になることを警戒した陣形でもない。あの戦闘に空母は巻き込まれていないとなれば、後続していて、その段階で分離したと考えるべきです)

 だから。

(もし、戦闘を想定していない空母が、その時点から発艦作業を始めたなら敵機が八機しかいなかったことも納得できますが……一隻だけではないはず)

 少し疑問が残るが、今はそれを前提にして考えを先にすすめる。

(この海域に、移動をしてきた敵の狙いはなんですか?)

 鳳翔は頭の中に地図を思い浮かべる。

 台湾海峡を通過してきた敵の針路、速度、艦隊の編成。

 バラバラのピースをそこに当てはめていく。

 そして、一つの答えが見えてくる。

(……まさか、佐世保ですか)

 敵の針路をそのまま伸ばした先は、まっすぐにそこへつながっていた。

 ただ、それでも引っかかる。

(それならば尚更、艦隊の位置を知られるような真似をしないはず。そもそも、私たちに発見された時点で、作戦は破綻、撤退を視野に入れてもいいだけのダメージを受けてもいる)

 だが、敵の攻撃は苛烈だ。

 何かに取り憑かれたように、この海域の艦娘の撃破だけを目論んでいるように見えるのだ。

 何が敵をそうさせているのか。

 鳳翔は少しだけ考えを前に戻す。

(ならば、佐世保を突くと思わせることで、何が起きるかを考えるしかないですね)

 一度組み上げたパズルを再びバラバラにする。

 そして、もっと大きな範囲で考え始める。

(佐世保を突かれると知れば、当然、こちらは迎撃に移る必要がありますが……)

 使える駒は、現時点で金剛隊、神通隊、それと佐世保に残っていた即応隊の三つ。

 少し時間を巻き戻しても、神通隊が五十鈴隊に変わるだけで、数に変わりはない。

 あの編成の敵を相手に拠点を防衛するには、少々戦力不足だ。

 現状で即応隊から編成された支援艦隊が到着すれば勝てるという算段は、あくまでも金剛隊が奇襲を仕掛けた結果、戦力バランスが変わったからだ。

(その前提がなかったとすれば)

 この状況に介入できる最大の火力が一つだけ、鳳翔の脳裏に浮かぶ。

(赤城隊)

 そう考えれば、敵の編成に納得ができる。

(敵攻撃隊が八機しかなかったのは、赤城たちの先制攻撃に備えて防空用の戦闘機を多めに準備していたから)

 そう考えれば、船団ではなく赤城隊を執拗に狙い、位置を確認していた行動にも納得ができる。

(タイミングを計っていたのは、船団ではなく、赤城隊を誘い込むため)

 そう考えれば、太平洋側から迂回してきた敵の存在も納得ができる。

(多方面からの攻撃で退路を遮断するつもりだったのですね。多数の輸送艦と物資は他の部隊の補給のためですか)

 輸送船団など、敵にとっても囮でしかなかった。

 頭の中で、全てが繋がっていく感覚。

(敵の狙いは赤城隊……これがうまくいけば、人類側の戦力は激減、海上封鎖も完成する)

 状況に流された結果とはいえ、それをことごとく叩き潰してしまったのが金剛隊だ。

 そして最大火力の艦隊を半減させられた時点で、目標は赤城隊から目の前の金剛隊へ変更。敵は本当に最小限の戦果の獲得を狙っている。

 全てが繋がった。

 もはや自分たちがこれ以上、ここで防衛線を張る必要はない。

「曙ちゃん。この攻撃が終わったら、東の棉花嶼に後退、金剛と合流して撤退します」

「はい?」

「後で話します。今は可能な限り、敵を混乱させてください。後退と計画策定の時間が必要です」

 全員にそれを伝えるために、通信回線を開く。

 と。

 口を開く直前になって、最後のピースがはまっていないことに気がついた。

(待ってください……船団が止まれば、赤城隊も止まる。なのに敵は突入タイミングを変えなかった)

 いくら反撃を受けていても、敵が北に移動をしていることくらいは掴めるし、報告するだろう。

 最大の戦果を得るためにはそれしかないのだから、報告を受ければタイミングを調整するに違いない。

 なのに、その兆候はなかった。

 もう一度頭の中で地図とそれぞれの位置を並べて計算する。

 全てが順調であれば、台湾海峡を抜けた敵がバシーに差し掛かる頃に船団はいない。

 その頃に海峡を通るのは後続している赤城隊だ。

 もし、多少スケジュールが早まったとしても、追撃していた敵艦隊が全力で足止めをして時間を作ればいい。もともとそれも役目の一つだったはずだ。

 だが、スケジュールより遅れたならば、突入する艦隊の方で調整するしかない。

(船団が停止したのは、敵が台湾海峡に入る前です)

 もちろんそれは、金剛隊が奇襲をかけるより前の話だし、戦力は無傷。

 作戦が崩壊しつつあるとしても、その時点で最低限の戦果として敵が狙っていたのは赤城隊のはずだ。

(金剛隊が海峡出口にいることは知らないのですから、我々を狙うという発想自体がない)

 なのに敵がタイミングを調整することはなかった。

 鳳翔は混乱する。

 敵の意図が読めないのだ。

 何をしたいのか、何を狙っていたのか。

 全ての前提が、その一つのピースで崩れ去っていく。

 そして。

 答えは無線の向こうからやってくる。

 鳳翔の理解の片隅に置き忘れられていた、全てをつなぐたった一つの欠片。

 
『神通より鳳翔……輸送船団がバシー海峡に入るのが見えたと、海風が……あの、これは一体……?』


 事情を理解できず戸惑う神通の声が、一切を悟って呆然とする鳳翔の中で虚しく響いた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 奇襲の混乱から立ち直った敵の勢いに押される形となり、後退を余儀なくされた鳳翔たちは、最後にもう一度だけ敵を混乱させた。

 それほど難しいことではない。

 煙幕を使っただけだ。

 夕刻にその手で大打撃を被った敵は、それだけで警戒し速度を緩めた。

 稼げた時間はそれほど多くはないが、とにかく金剛の元に戻って、今後の対策を練らなければならない。それも早急に。

 
 鳳翔から一切の事情を聞いた金剛は、集まった艦娘たちを見てこう言った。

「オウ。あの男のおかげで、私たちは大活躍じゃないデスカ。教えてあげたら、きっとハンカチ噛んでキィキィ鳴きますヨ」

 そんな軽い冗談など、簡単に押しつぶしてしまうほどにその場の空気は重い。

 最低限の戦果を求める敵の主目標が自分たちに移った以上、ここを切る抜けるのは相当に難しい。

 いかに敵を出し抜いて、こちらに向かっている支援部隊と合流するか。

 それだけが生き残る方法と言っていいだろう。

 頭の中に描いた地図で、再び計算を始める鳳翔。

 金剛が大きく一つため息を吐いた。

「支援艦隊はどこまで来てますカ?」

「三〇〇キロ北東。あくまで推測の位置です」

 支援艦隊もまた、奇襲が有効と考えているのだろう。無線を封止したまま移動しているようだった。

 果たしてそれを待つのは最善なのか。

 完全な状態の艦隊であれば、そちらへ向けて移動したとして七時間半。互いを目指して進めば、合流までは最短でその半分といったところだろう。

「厳しい状況ですネ」

 だが、金剛の状態が思わしくない。

 戦艦としては破格の三〇ノットという優速を誇る金剛だが、機関の損傷は思ったよりも深刻で、十五ノットが限界だという。合流までは最短でも四時間半はかかる計算だ。

 そもそも、これは先ほどの推測に基づいたものだ。

 何か他にトラブルがあれば、話は変わる。

 そして、そのトラブルは起きる可能性がある。

「ええ。佐世保側が何かしていないという保証もありません」

 これだけの罠を仕掛けたのだ。最後の詰めを怠るはずがないだろうし、それを期待するのはあまりにも愚かだ。

 だから、支援に向かっていた艦隊には帰投命令が出ていると見ていい。

 今更、隠し立てしてもしかたがない。むしろ正確な現実を知らせることで、一つでも多く解決法を探る方がいい。

 後のことは後のことだ。生き残らなければ意味がないのだから、今考えることではない。

「それなら、私が沈んだと言ってみても面白いデスネ」

 その一言は、冗談だとあからさまにわかるような口ぶりだ。

 当然、それが通じるわけがないと知っているのだ。

 証拠は全て消したくなるのが、罪を犯したものの心理。

 この場にいる艦娘はその証拠そのもの。

 そしてその証拠たちは、たとえ沈んでもまっさらな状態で再び現れる、使い捨ての兵器なのだから、タガを外すのは簡単だ。

「まぁ、面白いのは確かじゃない? それで助けを寄越さないようなら、こっちとしては完全にキレても構わない理由ができ――痛っ! 何すんのよ!」

 意地の悪い笑みを浮かべて、とんでもないことを口走った瑞鶴を黙らせたのは、いつものように腕組みのまま仏頂面をした曙だ。

「お望み通り、尻を蹴っ飛ばしてあげたの。感謝しなさい」

 ちらりと瑞鶴の顔を見てからニタリと、やはり意地の悪い顔をする。

「あれはそういう意味じゃない! それに、やるんならもう少し加減しなさいよ! お尻まで平らにしようっての!?」

「むしろ腫れて大きくなるんじゃない? それがスタイルとして理想的かどうかは別だけど」

 皆が失笑し、その場の空気が少しだけ軽くなる。

 なんだかんだと、この二人の組み合わせはうまくいっているのだ。そこに本人たちの計算がどれだけあるのか、どこまで噛み合っていたのかはわからないが。

 ただ、うまく回っているのだ。

 だからこそ、曙は真面目な顔に戻り――。

「つーかさ、あんたが先にタガ外してどうすんの。それやっちゃうと、支援艦隊の連中に超がつくくらいのトラウマ作るってこと、想像できるでしょうが」

 いかに命令があったとはいえ、仲間を見捨てる結果になったと知れば、心の何処かには必ず深い傷が残るだろう。

 救おうとした仲間を、結果として自分の手で処分することになった古い記憶が、曙の中に傷として残っているように。

 同時にこの言葉は全員に対する曙からの警告でもあった。

 誰かを犠牲にする、そんな解決法は認めない、と。

「だ、そうですヨ。朧」

 いきなり名前を挙げられたことで、魚雷発射管の調整と新たな弾薬の補充を始めていた朧の手が止まる。

 こんな状況になれば、何も言わず真っ先に飛び出してくのが彼女だ。その責任感の強さがあるからこそ、第七駆逐隊をまとめられてもいる。

 個性派揃いの駆逐隊の中では無個性といわれる朧だが、それこそが彼女の個性。

 だからこそ、損耗率の高い駆逐艦の中で誰一人欠けることなく、戦い続けてこられたのだ。それをここで失うわけにはいかない。

 だから、何かを言おうとした朧のその口が開ききる前に。

「心意気は買うし、リスペクトもするケド、朧一人じゃ稼げる時間に限度があると思いマス」

 金剛ははっきりと現実を突きつけた。

 彼女の歪んだ心をきちんと折るために。

 新たな芽をそこから伸ばすために。

「それに、誰かを犠牲にするというのは、私も好きじゃないデス。ここは大人しく全員で逃げるデスヨ」

「どこへですか?」

 ポツポツと体を叩き始めた雨粒。

 その元を辿るように、金剛が真っ暗な空を見上げた。

「ボロボロになった艦が行く場所ナンテ二つだけデスヨ」

 ニヤリと、その顔に誰よりも意地の悪い笑みが浮かぶ。

「海の底か――港デス」

 金剛が何を考えたのか、鳳翔にはすぐにわかった。

「鳳翔。これが終わった後、厄介を押し付けるコトになる思うカラ、今のうちに謝っておくヨ。でも、長いこと一緒にやってきた鳳翔にしかできないのデス」

 基地に戻れば、司令官と金剛の間でこれまで以上に諍いが起きるだろう。

 その時、行き過ぎがないように、間に入って諌めるのは鳳翔の仕事だ。

 だから。

「いつものことですよ。何を今更」

 それを聞いた金剛に浮かんだのは苦笑い。

 それも、いつものことだ。 

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 激しくなる雨に紛れ第七駆逐隊が敵へ攻撃を仕掛ける合間を縫って、瑞鶴と鳳翔は島に挟まれた海域にドラム缶を投棄して行く。

 それはもともと補給物資として燃料や弾薬の詰められていたものだ。

 中にはそれがそのまま詰まっているものもあったし、砂や石を入れただけのものもある。

「まったく、勿体無いったらありゃしない」

「こうでもしなければ、時間を稼ぐことはできませんよ」

 そのどれもが、ほぼ同じような浮力で海面に姿を見せるように調整されていた。

「でも、どれがどれだかわからなきゃ意味がないような気も」

 瑞鶴が愚痴をこぼしたように、一見すればどれが可燃物で、どれが石かなどはわからない。

 だが、それでよかった。

「撃つときは対空射撃と同じ時限信管で。そうすれば、巻き込まれたどれかが炸裂しますよ」

「なるほど」

 それであれば、海の中では点に過ぎない的を狙う必要もない。

 近づいた敵は爆発に巻き込まれるのだからたまったものではない。否応無しに海面に浮いているドラム缶すべてを警戒する必要が出てくる。

 狭い海域に無秩序に浮いているそれを除去しながら進むにしても、その数がどれだけかなど、設置した側にしかわからない。

 結果として、時間を短縮するならば迂回した方が早いという計算になるはずだ。

「急がば回れ、とは言いますけどね」

「その間に、こっちはかなり遠くまで行っちゃってる、と」

 即席の地雷原を使った遅滞戦術とでもいうべき作戦。発案したのはもちろん金剛だ。

「よくもまぁ、あの手この手と次々に思いつく……っていうか今回のって、そんなにうまくいくのかなぁ」

 瑞鶴の不安ももっともだ。

 砲弾は艦娘たちの障壁のある空間を通さなければ、本来の効果を得ることはできないという前提がある。

「大丈夫ですよ」

 ただ、火薬を使っていることに違いはないし、それがドラム缶というごく狭い空間で燃焼した場合は、想像以上の威力を持って外に飛び出す。

 少なくとも、危険だと思わせるには充分なはずだ。そう思ってくれなければ困る。

 鳳翔は自分にもそう言い聞かせる。

 これが失敗すれば残された道は徹底抗戦だけ。

 だが、圧倒的な敵火力の前では、行き着く先など決まっている。

「金剛は無事に抜けられたかな?」

 瑞鶴がポツリと漏らす。

 機関に損傷を受け速力の出ない金剛は、誰よりも早く――これらドラム缶の投棄を始めた段階で佐世保へ向けて脱出している。

 それは、全員の意思だ。たとえ金剛がごねても、認めるつもりはなかった。

 だが、本人もそこまでわがままは言わなかった。そうすることで全員が危険にさらされることを理解していたのだろう。

「何もなければ四〇キロは北東に移動しています。この後さらに敵が手間取ってくれれば、充分に逃げきれますよ」

 追いつかれたとしても、その頃には佐世保が間近。佐世保司令はいやでも迎撃命令を出さざるを得ない。

 意趣返しとしては、これ以上ないだろう。

「じゃ、あとは足の速い私たちでやりますから、鳳翔さんは金剛を拾って、佐世保に向かってください」

 最大速度が二四ノットしかない鳳翔も、早い段階で撤退を始めなければならなかった。

 後ろ髪を引かれるが、この場は瑞鶴たちを信じるしかない。

「わかりました。できる限り、簡単に誘爆しないように配置してください。それと、無茶はしないように」

「もちろん。あの男を一発殴るまで沈む気はありません」

 手順や合流地点はすでに打ち合わせてある。

 瑞鶴の瞳の中に生き残ることへの執着を見た鳳翔は、その場を離れ北東へと舵を切る。


 鳳翔がその場を離れて、きっかり一時間後。

 作戦通り、洋上に大きな閃光が走り、轟音が空気を振動させた。

 それは、少し間隔を開けて二度、三度と。

 四〇キロ先にいる鳳翔には、それが見えなかったし、聞こえることもなかった。

 よしんば気がついたとしても、遠雷だと思ったかもしれない。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 金剛はそれを見ていた。

 敵艦が発砲し、ドラム缶を吹き飛ばしていく様を風雨に紛れる形で見ていた。

(やっぱり奇抜な手ナンテ、通用するのは最初のうちだけなんですよネ)

 なにせ二度も騙された敵だ。いい加減、知恵も付く。

 数の差を穴埋めするべく、頭を使って戦うのは艦娘にとって必須とも言える能力だ。

 だが、最終的に戦いを決するのは直接的な力。それは揺るぎのない事実だ。

(どれだけ怯ませテモ、混乱させテモ、相手の力が消えるわけじゃありまセン)

 だから、敵はすぐに鳳翔や瑞鶴、第七駆逐隊を追う。

 沈めるために、必ず追う。

 確かに佐世保に向かえば、迎撃の艦娘隊を出してくるだろう。

 だが。

(人のいる地域に深海棲艦を近づけるナンテ、ダメに決まってるじゃないデスカ。艦娘としてそれだけはできまセン)

 それは金剛が自分に課した責任。

 艦娘としての存在意義。

 鳳翔には悪いことをしたと思っている。とんでもない役目を無理に押し付けてしまうことになるのだから。

 仲間を逃がすためとは言え、あんなことを思いつくとは自分もなかなかの悪党に違いない。

 思わず自虐的な笑いが出てしまう。

(ダカラ――)

 それを不敵で、凄絶な笑みに変えて。

(ここで、全部海の底に還してやるデスヨ)

 たとえ、この身と引き換えになっても。

 金剛の意志は。

 鳳翔が繋いでくれる。

 瑞鶴が伝えてくれる。

 朧たちが守ってくれる。

 だから戦う。

 この状況を変えてくれる誰かの元に、この意志が届く日を手に入れるために。

 全てを投げ打って。

(ショータイムの始まりデス)

 金剛の主砲が、副砲が、一斉に敵を指向する。

「全砲門、ファイアー!」

 たった一人と多数の敵。

 希望を届けるための絶望的な戦いに、金剛は足を踏み入れた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 鳳翔の胸に、一抹という言葉で片付けるにはあまりにも大きな不安が、何層にもなって積み重なっていく。

 探しているものの姿が、いつまでたっても見えないのだ。

「そろそろ追いついているはずなのですが……」

 あえて声に出す。

 もしかすれば、それに気がついてもらえるかもしれないと。

 自分の辿ってきたルートをもう一度確認する。

 針路〇六〇。

 今も。

 そして、今までもそのルートからは外れていなかった。

 鳳翔に許される限りの最大速度で進んできたのだ。

 金剛の方が一時間ほど先に出たとは言え、満足な速度を出せないのだから、追いついていなければならない時間なのだ。

「視界不良の影響で、見落としたのでしょうか?」

 激しく降る雨だけではなく、波頭が砕けた飛沫が風に巻き上げられ、わずか一〇〇メートル先を覆い隠す。

 発光信号を使って周囲に問いかける手もある。

 だがいくら荒れた海とは言え、目立つ行動をすれば、潜んでいるかもしれない敵まで呼び寄せてしまう。

 それを恐れたからこそ、無線を封止し、事前に打ち合わせた海域で合流するなどという、難しい手段を取っているのだ。

 とりあえず今は、間も無く追いついてくるであろう瑞鶴たちが見つけていてくれることを祈るしかない。

「いた! 鳳翔さん!」

 後ろから声をかけられ、鳳翔は振り向く。

 水のカーテンをくぐり抜けるように、瑞鶴が姿を見せる。

 そのさらに後ろから、朧、漣、曙、潮と続き――。

 それ以上、誰かが現れることはなかった。

「金剛は?」

 瑞鶴の問いに答えることができない。

 同じ問いを投げかけようとしていたのだから。

 ただ静かに首を横に振る。

「朧!」

 事情を察した曙が鋭い声をかけ、駆逐隊が周囲の捜索をするべく一斉にそれぞれの方向へ散ろうと動く。

「いけません」

 鳳翔はそれを静かに制する。

「でも――」

「今は前に進みなさい。たとえはぐれたとしても、金剛はそうしているはずです」

 曙にそれ以上を言わせるわけにはいかなかった。

 せっかく稼いだ時間を無駄にするわけにはいかない。

 何より、聞いてしまえば自分が率先してそれをしてしまいそうだから。

 けれど、それで危険にさらされるのは自分だけではないのだ。

 自分にきつく言い聞かせる。

「……確かに、今は逃げるしかないと思う」

 と、瑞鶴。

「あれだけ誘爆しちゃったら、罠の意味なんてなくなってる。敵はすぐにでも追撃できる」

 その言葉に不信を抱く鳳翔。

「誘爆したのですか?」

「え、はい。追いかけてくる敵がそこに入り込んだのを確認して、最初の一つを爆破したんですけど……」

 海は荒れていたし、風も強かった。

 それによって多少流されることは想定した上での配置だ。

 急いでいたとは言え、自分たちの命綱になるものだからと計算は綿密にしている。

 それが誘爆するなど、相当に状況が変わらないと起きないはずだ。

「少し時間を置いてから、次々と誘爆したみたいで……ただ、あれだけの爆発になれば、敵もそれなりに怯むとは思うから、少しだけ時間は稼げたと思います」

 まだチャンスはあると、前向きな方向に持って行こうとする瑞鶴。

「そうね。本当なら敵の水雷戦隊あたりが追いついてきてるはずよね」

 曙がそれを肯定した。

 ただ、その時の鳳翔の頭の中には、全く別のものが浮かんでいた。

 
『ボロボロになった艦が行く場所ナンテ二つだけデスヨ』


 ボロボロになっていたのは誰だ。


『海の底か――港デス』


 その誰かはどちらに向かうつもりだったのだ。

 
 馬鹿だ。

 気付く機会は何度もあったはずなのに。

 だから馬鹿だ。

 他人の言葉を勝手に都合の良い方向に解釈して。

 とんでもない馬鹿だ。

 
『鳳翔。これが終わった後、厄介を押し付けるコトになると思うカラ、今のうちに謝っておくヨ』

 
(私に全てを背負えと、そう言うのですか? この子たちの傷を和らげるために……!)

 ここで鳳翔が撤退を指示すれば、この場の全員は無事に帰投できる。

 そして、金剛がどうなったかを知るだろう。

 その時、心の何処かで、たとえ無意識にでも鳳翔を責めることで、自らの傷を軽くすることができる。

 そうなるようにしろと。

 自身が心に大きな傷を負った上で、そうすることが鳳翔の役目だと、あの時金剛は言ったのだ。

(勝手すぎます……あまりにも自分勝手ではないですか。謝られた程度で、済ませられる問題ではありません)

 だからと言って、戻ることなど許されない。

 今後の相談をしている艦娘たちが進む道は、鳳翔の決断一つで決まってしまう。

 戻れば地獄。進めば修羅。

 どちらもまともではない。

 そんな選択を、ここで迫られるなど思いもしなかった。

 だが。

(あなたは、そんな選択を今まで……何度も繰り返してきていたのですね)

 自分たちは、それにただぶら下がっていただけだ。

 やはり、自分は愚かだ。

 ここまできて、ようやくそれに思いが至るなど愚かにも程がある。

 だから、これは罰だ。

 背負うしかない。

 罪を。

 鳳翔は決断する。

「これから言うことをよく聞いて、考えてください」

 ただ、背負う罪がどれかは自分たちが選ぶ。

 そして、誰か一人に背負わせるのではなく、それぞれが背負う。

 導き出される答えなど決まっているけれど。

 そう。

 自分たちは愚かなのだから。

「これからどうするかを決め――」

 そこで、鳳翔は気がついた。

 自分たちへ迫る影に。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 重巡二、軽巡と駆逐が四。

 自分がこれまでに屠った相手の数を冷静に数え上げる。

 短時間にあげた戦果としては上出来だ。

 だが、その数倍が残っている。

(戦艦をやれなかったのは、ちょっと失敗ですネ)

 それでも、二隻には深刻なダメージを与えてはいる。

 意外なところでドラム缶が役に立った。

 敵戦艦の間に流れ着いた一つが燃料と弾薬の詰まったもので、それが金剛の砲撃の煽りで誘爆、敵の機関と舵に損傷を与えたのだ。

 運が良かっただけとはいえ、一時的にでも敵が減るのはありがたい。

(それを見て、移動したのも失敗デシタ)

 とりあえず、各個撃破を狙った金剛は敵を引き付けながらその場を離れる。

 そうやって敵の陣形を崩し、各個撃破を狙うつもりで。

 けれど、幸運の女神はそこまできて金剛を見放した。

 まさかそこで天候が回復するとは思わなかった。

 身を隠すための手段を失ったのだ。

(だから、ワタシにできるコトは、多分これが最後デス)

 そして今。

 金剛は西へ、西へと移動していた。

 少しでも夜明けを遅くするため。

(敵機が来タラ一巻の終わりデス……だから少しでも西へ、デス)

 だが、白み始めた東の空は無情にも金剛を追う。

 絶望的な速度で。

 だから、少しでも仲間から離れるため。

(時間はあまりないデス……追撃を断念させられる位置まで行くのデスヨ)

 しかし、金剛の機関は言うことを聞かない。

 風雨と夜陰に紛れた奇襲でも、数の力を前にしては、あっという間に覆される。

 被弾した数など、数えたところで意味はない。

(動け……動いてクダサイ。あと少しでいいんデス!)

 残った機関を限界まで回しても、速度はようやく一〇ノットを超える程度。

 主砲も副砲も――機銃すらすでに失い、反撃の手段さえない。

 満身創痍。

 そんな簡単な言葉で表現することなど躊躇ってしまうほど。

 それほどまでに金剛はボロボロになっていた。

 
『守るも攻めるも黒鉄の――』


 ふと、金剛の耳にそんな歌が聞こえてきた。

 慌てて、周囲を見渡す。

 当然、誰もいない。いるはずがない。

 
『浮かべる城ぞ頼みなる――』


 だが、確かに聞こえる。

 出撃のたびに、誰かが歌い、自分たちを鼓舞したあの歌が。

  
『浮かべる城ぞ日の本の――』


 もはや、聞こえるはずのない彼らの声で聞こえる、その歌は。

 
 旧式戦艦と揶揄され、だからこそ使い減りしても惜しくはない。

 そう判断され、各地の戦場に送り出された。

 それでも数々の武勲を重ねてきた、金剛型戦艦に似合いの歌だ。

 
 そして。

 
(ああ、そうなんデスネ……)

 
 金剛は自分のいる場所を思い出す。

 不思議な感覚だ。きっと、誰にもこの感覚はわからないだろう。

 自分が眠る場所に立つなど、できるわけがないのだから。

 空を見上げる。

 雲ひとつない空が広がっていた。

 濃紺からオレンジへと、切れ目なく移り変わる空の色。

 その中に、幾つも黒い点が現れる。

 おそらく敵機だ。

(ここでフィニッシュ……な訳ないデショ。なんて言えたらカッコいいんでしょうケド)

 周囲に水柱がいくつも吹き上がる。

 後方から迫る敵だ。

(ここなら悪くないカモネ)

 頭上に群がった敵機が急降下に移る態勢を整え始めた。

 もう、充分だ。

 ここからなら、鳳翔たちを追撃しても間に合うはずがない。

 敵は諦めて引き下がるだろう。

 だから、もう充分だ。


(もう、休んでもいいよネ……)


 そっと目を閉じる。

 いるべき場所へ帰るために。

 次の瞬間。

 
 金剛の体は何かに引かれ、思いも寄らぬ方向に動く。

 
「ワッツ!?」

「軍艦行進曲で艦を見送るのも、出迎えるのも港なのよ、このバカ戦艦!」

 金剛の体を抱きかかえていたのは瑞鶴だった。

「彼らはあんたに戦えって言ってんの! 国を守れって言ってんのよ!」

 そのまま、急降下爆撃を躱していく。

「ナンデ、ここにいるデス? なんで帰らなかったんデス?」

「自分勝手な解釈して、他人の気持ちを考えないバカより、よっぽどまともなバカだからよ!」

 天を衝く水柱をものともせず、瑞鶴はその中を最大速で突っ切っていく。

 飛び散る破片が瑞鶴の肌に傷を作っていくのが見えた。

「ホンモノのバカは瑞鶴ですヨ。これじゃ敵の思うツボじゃないデスカ」

「ああ、言い忘れたけど、そいうバカは私一人じゃないから――曙! 金剛を拾った! そっちは!?」

『側面から突っ込んで切り崩してる! 漣と潮は弾薬が切れたから下げた! 私と朧も残り少ないから急いで!』

「了解! 無茶するから覚悟しなさいよ、金剛!」

 そう言って、金剛の了解を待たずに瑞鶴はまっすぐに進んでいく。

 敵の雷撃機へ向かってまっすぐに。

「ヘイ、瑞鶴。雷撃機が……」

「知ってる――鳳翔さん! 正面の敵雷撃機編隊をお願いします!」

『了解しました。撃ち漏らした分は自力で回避してください。あなたの隊を敵の第二波に向かわせたせいで、戦力が不足してます』

 その直後。

 二人に迫る雷撃機隊の上空から、逆落としに迫る機影が見えた。

 一気に間合いを詰めた九六式艦戦が、次々に眼下の獲物へ襲いかかる。

 撃墜など狙っていない。

 隊形を乱し、雷撃位置を取らせない。

 それだけを確実に狙い、次々に相手を変えていく。

 当然、網をくぐり抜けた敵はいるし、攻撃を仕掛けてくるが、統制された雷撃にならなければ回避する道はできる。

「こんなの、加賀のとこの攻撃隊に比べたら温いもんよ!」

 瑞鶴には、すでに道筋が見えている。

 迫る魚雷の間にできたわずかな隙を見つけ、縫うように進んでいく。

 その先で鳳翔と漣、潮が待っていた。

「はい、バトンタッチ」

 金剛の体は漣と潮に預けられ、その場からさらに北へとゆっくり移動を始める。

「曙! 合流した!」

『了解! 引くわよ朧!』

 上空を瑞鶴の攻撃隊が通過していく。

 おそらくは曙たちを援護するためだろう。

 ただ、数は少ない。

 敵の殲滅を期待することはできないだろう。稼ぐことのできる時間もしれている。

 逃げ切れるはずがない。

「ヘイ、この後どうするのデス?」

 きっと何か考えがあるのだろう。

 けれど、それは簡単に否定される。

「佐世保へ帰投します」

 鳳翔はそれしか言わない。

 本当に自分を助けるためだけに、後先を考えずにここへ戻ってきたのだ。

「これでは、敵が追ってきマス! 佐世保まではとても――」

 金剛の言葉は遮られる。

 上空を飛ぶ味方機によって。

 空を見上げた金剛の目に映ったのは、識別帯が白一。五航戦、翔鶴の艦載機たち。

 そして、東からは別の大編隊。

 識別帯は赤一、赤二。それと青一、青二。赤城隊として編成された、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の各航空隊。

「どうなっているのデス?」

「だから言ったじゃん、バカは私だけじゃないって。それでも、あんたよりだいぶマシ」

 呆れた顔の瑞鶴が、「だってさあ」と付け加える。

「あんた、貸すつもりだったんだろうけど、逆にとんでもない借りを作ったわよ?」

 朦朧とする意識の淵に、瑞鶴の言葉が引っかかる。

 けれど、それがどういう意味なのか考えることができない。

 その横で苦笑いをしている鳳翔が見えると、ついに張りつめていた緊張の糸が切れた。

 金剛の意識はそこで途切れる。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 数日後。

 金剛は病室のベッドの上にいた。

 入渠後の検査が終わるまでは、怪我人と同じ扱いで、ここから出ることは許されない。

 だから、その時間は戦闘詳報の作成くらいしかやることもない。

 退屈な仕事。

 あまり好きではない。

 ベッドの横では、榛名が黙々とリンゴの皮を剥いていた。

 相当悪戦苦闘しているようで、厚さもマチマチな、短くちぎれた皮があちこちに散乱している。

 見ているだけで冷や汗モノだ。

「ヘイ、榛名。指を切っても入渠はできないヨ?」

「榛名は大丈夫です。このくらいできます」

「いや……見ている方が大丈夫じゃないんデスヨ」

 ここはひとつ手本を見せなければならない。それが姉の務めだ。

 それ以前に、自分の精神衛生上とてもよくない。

 大きく一つため息をついてから、書きかけの戦闘詳報を閉じる。

 新たなリンゴを手に取ろうと、籠に手を入れた金剛の指先に別の感触があった。

「ワッツ?」

 ごそごそとそれを探り当て、取り出す。

 なんの飾り気もない、その辺ですぐにでも手に入りそうな包装紙に包まれた箱。

 榛名が小さく、「あっ」と声を出した。

「それは横須賀の司令官からです。こんなとこに入ってるなんて、道理で探しても見つからないはずです。比叡お姉様ったら、あんなに――」

 金剛の知らないところで色々とあったのだろう。

 正直なところ、またかと言う気持ちもある。

 とりあえず、一人で何やら愚痴をこぼしている榛名をそのままにして、包みを開く。

 と。

 小さなメモが落ちる。

 ――使えるのは一度きり。人払いを――

 書かれた文章はわずかそれだけ。あとには、数桁の数字だけだ。

 包みからは紅茶の箱と小さな電子機器が出てきた。

 それで、差出人の意図はわかった。

「榛名。ワタシの部屋からティーセットを持ってきてくれますカ?」

 紅茶の箱を手に取って見せ、そう頼む。

「はい。お湯も持ってきますね」

 席を立ち、部屋を出て行く榛名。足音が聞こえなくなったのを確認して、金剛は手元の電子機器に電源を入れ、数字を入力して行く。

 呼び出し音は三回ほど。

『遅かったな』

 何度か聞いたことのある声は、いきなり愚痴をこぼす。

 果物と一緒のカゴに放り込んだせいで行方不明になったのは金剛の責任ではないし、それによって対応が遅れたのもしかりだ。

 よって、その件でとやかく言われる筋合いはない。

「文句は比叡に言うべきらしいデスヨ」

『はあ? なんだそりゃ――まぁいい。この電話が使えるのは今回だけ。以降は余計な耳がつくと考えてくれ』

 これだけの出来事があったのだから、金剛の周りには、その動向を警戒して様々な探りが入るだろう。

 余計な火の粉を避けるために、横須賀司令が用心するのは当たり前だ。

「このご時世に、使い捨ての携帯電話ナンテ、随分お金持ちじゃないデスカ?」

 数年前からは一般社会に出回らなくなったものの一つだ。

 出たとしても、とんでもなく高価なはず。

 ネットワーク自体はまだ生きているらしいが、今でも利用できているのは限られた数だろう。たまに目を通していた新聞にはそう書かれていた。

 数が少なく管理しやすい。かつ新しく増える可能性もほとんどないとなれば、監視の対象としての優先度も下がる。

 一回限りの連絡手段として使うならば、最適と言えるかもしれない。

『使い捨てなんてとんでもないぞ? 回収するから、後で白露か涼風に渡しておいてくれ。じゃないと明石と夕張に何をされるか……』

 本気で怯えている声。

 一体、横須賀での艦娘と司令官の関係とはどんなものなのだろうか。フッとそんなどうでもいい考えが頭をよぎる。

 実際は白露や涼風が持ってきた話以上なのかもしれない。

 だが、今気にするのはそこではない。

「了解デス。それで、こんな手間をかけたというコトは、手紙程度ではまとまらない話なんデスネ?」

『別に手紙でもよかったんだけどな。反応を知りたいってのが一番か』

「どう言う意味デス?」

『――何を餌にするにしても、そんなのはそれを美味いと思う奴にしか通じないんだ。そう言えばわかるか?』

 餌をぶら下げたのは自分だ。わからないわけがない。

 またしても、読み違えた。

 どうにも人の心というやつは、金剛が思っているよりも複雑なのかもしれない。

 なんにせよ、艦娘の側に立ってくれる人間が減ったことだけは違いない。

 さらに悪いことに、その可能性を自分で摘み取ってしまったという恐れもある。

「バレちゃいましたカ……これでまた、立場が悪くなってしまいマスネ」

 ここは素直に謝罪をした方がいい。

 少なくとも、修復用の資材を無償で提供してくれたという借りはあるし、それによって救われたのだから。

『そもそも俺にはそんな力なんてないんだ。この基地の司令官職がなんて言われてるか知ってるだろ?』

 安楽椅子。

 中央で働いてきた退役間近の幹部や、これから中央でもっと上の職につく人間がほんの一時、箔をつける為にそこに座る。

 仕事と言えば、ただ送られてくる報告書類に目を通し、判を押すだけ。

 それが艦娘に関わるものだというだけだ。

「たとえその立場デモ、使いようはあるデショ?」

『残念ながら、俺がここにいるのは中央に行く為じゃない。たまたまこの椅子を埋める人間がいなかった。ただそれだけなんだよ』

 本来は、現佐世保司令がそこに座る予定だったと聞いていた。

 しかし、その直前に前佐世保司令が不慮の事故で死亡し、空白を埋めるためにあの男が急遽送り込まれてきた。

 それは本当にただの巡り合わせだ。

「なら、なおさら――」

 それをチャンスとして生かすべきではないのか。

 それが人というものだ。

『さっき言った通り、俺にはそういう欲がない。そもそも俺は辞めようと思っていた人間だからね。それでも、次が見つかるまで座っているだけでいいからと、この職を押し付けられた。そんな人間に出世欲があると思うか?』

 あるわけがない。

 その情報が手元にあったなら、あんな駆け引きには巻き込まなかった。

 駒として使い物にならないのだから。

 それに、と電話の向こうが話を続ける。

『時期を見て、佐世保と俺を入れ替える予定だったらしい。そうして、戦火の中にでも放り込めば、始末のつけようはいくらでもあるから、機密保持に気を使う必要もないってな具合だろうな』

「それ、ホントですカ?」

『噂さ。けど佐世保の馬鹿は、お前のあげた戦果を自分の手柄として報告した。その結果、負け戦続きの中央がどう判断するかなんて、誰にでもわかるだろう?』

 優秀な指揮官を現場に残したい。そう考える。

 なんとも不幸な巡り合わせだと言っていい。

 あの男は中央に返り咲くべく、いろいろと画策した挙句、それこそがその椅子に自分を縛り付ける結果を導いてしまったのだから。

 そこで何かが引っかかる。

 それに気がついた次の瞬間、金剛の背筋に冷たいものがゆっくりと流れて行く。

「ウェイ。ナンデ佐世保が手柄を書き換えてるって知ってるんデス?」

『白露と涼風。別に情報を拾ってこいと言ってるわけじゃないけど、村雨や五月雨なんかに変な噂話程度のつもりで聞かせてるのが、自然と俺の耳にも入るんだよ。ただ、俺は佐世保司令の人となりを知ってる。正解を出すのはそんなに難しい話じゃないな』

 それが本当ならば、前提の段階で金剛の考えなど崩壊している。

 何もせずに。

 何一つ手を汚すことなく。

 彼はただ手元に流れてきた情報だけで、すべてを組み立てていた。

 そして、それは間違っていない。

 どこまでも見透かされているような感覚と恐怖。それが金剛の背に流れる冷たいものの正体だろう。

 たとえどんな貸しを作っても、この男を手玉に取れるような気がしなかった。

 むしろ乗せられたふりをして、いつの間にか立場を逆転させている。そのくらいは何も考えずにやってのけるに違いない。

「……当然、ワタシが何を考えていたかもわかってマスネ?」

『そりゃ、ね。今の状況を長いこと見ていれば、誰だっていつかはそこに行き着くだろうさ』

 そんな人間に、自分は弱みを握らせてしまった。

 もはや逃げることはできないだろう。

 どんな道が待っているにしろ、だ。

『だから、そんなのは別にどうでもいい話だな』

「ワッツ?」

『そんなものにいちいち腹立てて、貸しだの借りだの、利用するだのされるだの……面倒なだけだろってこと』

 うわべで言ってるわけではない。

 彼は、本気で、心の底からそう思っている。

 言葉の端々ににじみ出る倦怠は、まぎれもない本物なのだから。

『ま、どうしても頭下げたいっていうなら、まずは金剛隊――特に鳳翔には畳がすり減るくらい頭擦り付けて謝っとけ。赤城に話をつけて支援を引き出してもいるんだ』

 鳳翔にはとんでもない厄介事を押し付けようとしていた。

 当然、向こうだってそれくらい気がついているはずだ。

 謝るどころで済む話ではない。

『それから、支援艦隊として出た翔鶴隊でいいんじゃないか? 偶然とは言え、鳳翔たちを見つけたんだ。それがなきゃ、お前のところにたどり着くこともなかっただろうさ』

 そうだ。

 なぜあの時、支援艦隊は引き返していなかったのか。

 少なくとも、佐世保が金剛の処分を考えていたことに間違いはなかった。輸送船団の位置に関する偽装という事実だけで、疑う余地などない。

 そして、それを確実に実行するには、翔鶴隊の到着は邪魔だ。

 金剛隊は敵勢力圏より脱出に成功とでも偽の情報を渡せば、彼女たちが独断で行動することもない。

 だから、おそらくは。

「その翔鶴隊デス。あれを動かしたのはアナタじゃないのデスカ? 鳳翔たちは翔鶴隊と合流できたからこそ、ワタシを助けに戻った。そう考えたら、アナタには返しきれないくらいの借りができたことになりマス」

『いや、あれは佐世保の命令だぞ?』

「は?」

 そんなわけがないだろう。

 佐世保司令にそうするメリットなど、何一つないはずだ。

 だが。

『翔鶴隊はそのまま南進、北上する敵艦隊を捕捉、撃滅せよ。ちゃんと記録に残ってるぞ』

「なんで、デス?」

『いや、敵艦隊の針路は〇六〇だろ? あのまま進んだらマズイんじゃないかって、とりあえず哨戒終わって帰投中の艦娘を載せたあきさめを保険で回したんだよ。そしたら――』

 護衛艦あきさめ。

 唯一、艦娘とともに行動することを許された護衛艦。

 今回の任務は、前路哨戒任務を終えた艦娘の速やかな回収と佐世保への輸送。

 あの時点ならば、おそらくは任務を終えた名取たちが載っていたはずだ。

 しかし、艦の所属は横須賀第二基地。当然、横須賀司令の指揮下だ。彼の裁量で動かすことに問題はない。

 そして、それに危機が訪れれば、載っている艦娘たちは当然のように防衛に回る。

 自分の身を守るために。

『よその担当海域で何勝手なことをするんだって、いつもの調子で文句言われたんでね。まぁ、それもそうかと理由を正直に話しただけだよ』

 そうなることは予想できたはずだ。

 彼は佐世保司令の人となりを知っているのだから。

 ならば、その話を聞いた佐世保がどう動くかも知っている。

『今考えると、あの時点で既にお前たちが迎撃に行ってたんだから、余計なことをする必要もなかったか……なら、なんであいつは翔鶴隊を南下させたんだろうか。お前たちが手酷くやられるとでも思ってたのかねぇ?』

 敵空母の存在を告げなかった時点で、そうなる可能性は佐世保にはわかっている。

「そのセリフは白々しいデス。アナタは役者に向いてませんヨ」

『……足柄と同じこと言いやがって。黙って聞いて知らないフリしとけば、借りなんてなかったことにできたのに、変なとこで正直者だな』

「わかっててガマンできないくらい。そう言うことデス」

『そうかい。なら精進するさ』

 だから、横須賀司令から告げられた言葉に惑わされ、翔鶴隊を南下させることで、万が一から己の身を守ろうとした。

 鳳翔のように、手元の情報に不審な点が残っていれば、考えることで別の可能性に気がつくことができたのかもしれない。

 だが、佐世保の手元には情報が集まりすぎていた。

 考える必要がないほどに。

 だから自滅した。

「聞いていいデスカ?」

『答えられる範囲なら』

「佐世保の狙いがわかったのはいつデス?」

『翔鶴からの確認かな。あれがきっかけを作って、あきさめの位置が決定的な情報になった。船団が順調に進めば、あきさめも移動するんだよ。船団位置システムの情報は時間差のできるこっち経由じゃなくて、直接受信してるからね――もっとも、本当に最後のかけらになったのは、今までの経緯と、佐世保の人となりなんだろうけどな』

 あの一手を有効に生かしてくれたのだ。

 ただし、予定とは逆に自分が大きな借りを作ってしまうことになったが。

 どっちにしても、有能な人物であることに違いはない。

 喪失しかけていた、人を見る目に対する自信が少しだけ戻ってきた。

「ちなみに船団が停止したという情報は、どこまで広がっていたのデス?」

『各関係部署に、機器不具合による誤報って御触れが出回る程度には』

 組織内のほぼ全て、おそらくは中央も含めてということになる。

 そこまでの情報操作をたった一個人で行えるものなのだろうか。

 多分、可能だ。

 可能だが、佐世保司令にはできない。それは間違いない。

 だからこそ、何かとんでもなく深い穴を覗き込んでしまったような錯覚が金剛を襲う。

 横須賀司令が警戒しているのは、きっとその深い穴だ。

「……何か、とんでもないモノに巻き込まれた気がシマス」

『だろうな。だから頼みがある』

 声のトーンが一段下がった。

 おそらくは、ここからが横須賀司令の本当の狙いなのだろう。

「なんデスカ?」

『おそらく、お前さんの書いてる戦闘詳報は、例によって佐世保がでっち上げる。今回に限れば確実にやる。やけに長い怪我人生活はそのためだと思っていい』

 当たり前だろう。

 意味のない転進命令で艦娘を危険に晒し、戦力を喪失させかねなかったという、利敵行為と取られても否定できない行為をしたのだから。

 それに、戦闘詳報には司令官の能力や人格を問題とした解任要求も添付する予定だ。

 当然それを何としても阻止してくるだろうということは予想できたし、だからこそ別の手段を使ってそれを中央に届けるつもりでいた。

『だから、今回もいつも通り、我慢してくれないか?』

「ワッツ? それを俺に寄越せトカ、上層部に届ける手段を指定トカ、そういう話ではなくて、ただ黙っていろと言うのデスカ?」

 あれだけの目にあったのだ。

 ただ黙って使われるだけの艦娘とはいえ、文句を言う権利くらいはあるはずだ。

 むしろ砲弾を撃ち込まれないだけでもありがたいと思え。そう言うレベルの話だ。

 それをなかったことにしろなど、この身を救われた恩人であっても、到底従うことなどできるはずがない。

 だが、電話の向こうはそれも織り込み済みだったのだろう。

 落ち着いた声で話を続ける。

『今それを上層部に見せたところで、酷い目にあうのはお前たち艦娘だ。下手をすれば、関係者丸ごとどこかの激戦区に放り込まれて、誰一人帰ってこないなんてオチになる。なぜそうなるか、お前ならわかるだろう?』

 深海棲艦に唯一対抗できる力。

 人が決して敵わない力。

 それがもし、人に従わないとなれば。

「……そう言うことデスカ」

 所詮、艦娘は兵器としての扱い。

 それが自発的に動けば、人はまず恐怖を感じる。

 それがいつ自分に向けられるのかと。

『俺は、その状況自体を変えたいと思ってる。準備をして、その機会を待ってる。もし、お前がどうしても今回の件を借りにしたいなら、それを返すつもりで手を貸してくれないか?』

 そう言われてしまうと、金剛は逆らうことができない。

 救ってもらったのは自分だけではない。自分の判断ミスで巻き込んでしまった仲間全てなのだから。

 それに、彼の目指すものは、金剛の願っていたものでもある。

「……いつまで待てばいいのデス?」

『俺にもわからない。ただ単純に行動を起こしても、あっという間に潰されるだろうね。佐世保のやつに協力したのか、それともただ利用しただけなのかは知らないが、ほとんど国家機密扱いの船団位置システムに細工ができるような連中がいて、そいつらも艦娘が勝手に動くことを嫌ってる。当然、全力で邪魔をしに来るだろうさ』

「もし、その前にその誰かが私たちを処分しようとしたら、どうしマスカ?」

 その可能性はないとは言えない。

 少なくとも、佐世保はそれを考えているはずだ。

『できる限りのフォローはするし、横須賀へ異動できるように努力はしてみる。だが、もしそっちでチャンスがあるなら生かせ。その時は金剛隊全員を連れて来い』

 彼の言葉に嘘はないだろう。

 少なくとも利害が一致しているのだから。

「オーケー。わかったヨ」

 ただ、不安なのはその先だ。

 彼もまた、何かのために艦娘を利用したいのかもしれない。

 人が敵わぬこの力があれば、権力だけではなく、富を生み出すこともできる。

 だが、そうだとしても。

 今を乗り越えるためには乗せられるしかない。

 自分のために体を張ってくれた仲間を救うために。

 ただ、一つだけ。

「最後に一つだけ、聞きマス」

『なんだ?』

「アナタは、なぜそこまでするのデス?」

 意地の悪い問いだ。

 何を考えているにせよ、素直に言うはずがないだろう。

 そこまで考えを巡らすことができるからこそ、ストレートな質問には綺麗な回答が用意されている。そういうものだ。

『お前たちを守ることが、何に繋がるかよく考えろ』

 即座に返ってきたのは、やはり優等生の答え。

 あらかじめ用意していたのだろう。

 失望。

 金剛が感じたのはそれだ。

 だが。

『なんてのは、俺の柄じゃなくてな』

 大きなため息が一つ聞こえて。

 
『誰も死なせたくない――特に艦娘はかわいい子が多いだろ? それを失うってのは俺個人として絶対に――』


 いたって大真面目な声で、全く予想外の答えが返ってきた。

 どこまでが本気なのか、どこからが冗談なのかわからない。

 おもわず笑ってしまう。

 そして気が付く。

 彼の言葉の中に一つだけ、絶対的な真実があったことに。

『痛っ! 何するんだ足柄!? やめろって――』

『珍しく格好良く終わらせるのかと思えば! 結局はそこか、このセクハラ提督!』

 なにやら、電話の向こうが騒がしくなる。

 それが横須賀の普通なのだろう。

 佐世保とは大違いだ。

 けれど、横須賀の普通こそが当たり前のはずだ。

 彼は言ったのだ。

 誰も死なせたくない、と。

 艦娘に向けて『死なせたくない』と、はっきり。

 そんなことを言う人間など初めてだ。

 艦娘の間ですら、そんな言葉は使わないと言うのに。

 だからこそ、彼の側にいる艦娘たちは力を発揮できる。

 自分たちを兵器として扱わないと信じているから。

 無駄に『死なせる』ことはないと信じているから。

 彼は艦娘を人として扱い、対等の存在として見ているから。

 だからこそ、艦娘は彼と共に立ち、持てる限りの力を揮う。

 それが結果的に他の誰かを救う力になっていく。

 駆け引きなどない。

 本当にただそれだけのことだ。

 だから。

 
「本当のバカはワタシですネ……瑞鶴の言う通りデス」


 悪意に立ち向かうために。

 自分や仲間をそれらから守るために。

 いつの間にか、自分も歪んでいた。

 誰かを欺き、利用する。

 そして、最後は自分をも道具にしようとした。

 それを嫌っていたはずの自分が、だ。

 彼はそんな金剛に気が付き、救うために動いただけだ。

 それ以外に動く理由などない。

『で。目は覚めたか、金剛?』

 静かになった電話の向こうが、優しく問いかけて来る。

「……とっても長いイヤな夢を見てマシタ」

『そりゃ最悪だな。そう言う時って一緒に送ったやつは役に立つのかね。コーヒーならわかるが、そっちはさっぱりなんだよ』

 紅茶の箱を取り上げ、抱きしめる。

「オフコース。最高の『目覚めの一杯(ベッドティー)』デス」

 静かに目を閉じると、こちらへ戻って来る榛名の足音が聞こえてきた。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 いつもなら金剛が座る食堂の定位置に瑞鶴がいた。

 同じようにほうじ茶をすすりながら、鳳翔手作りのぬか漬けをかじっている。

 座っている人物が違うのだから、普通は違和感を覚えるはずなのだが、不思議とそうでもないのだ。

 それが妙に鳳翔の笑いを誘ってしまうのだが。

「ねぇ、鳳翔さん」

 瑞鶴のいたって真面目な表情を見ると、それに従ってしまうのは酷だ。

「なんですか?」

 糠床の返し作業を終えた鳳翔はその向かいに座る。

「あの時聞こえた軍艦行進曲って、なんだったのかなって」

 金剛を救った時の顛末だ。

 大勢が歌う軍艦行進曲が聞こえたのだと言う。

 その声に従って進んだことで、瑞鶴は金剛を見つけた。

 もちろん、鳳翔や駆逐隊には聞こえていない。

 だから、耳にしたのは金剛と瑞鶴だけと言うことだ。

「これは、噂です」

 そう前置きする。

 何せ、鳳翔自身に経験はないのだ。

 おそらくこの先も経験することはないだろう。

「艦娘は、己の沈む海に近づくと声が聞こえるのだそうですよ。運命を共にした乗員たちの声とも、自分自身の声だとも言います。だから、因縁のある海にはあまり近づきたくない。時として自分を見失ってしまうこともあるのだとか」

「へぇ……でも私が沈んだのはエンガノ岬沖だから、それだと話がおかしなことになりませんか?」

 ええ、そうですね。とお茶を飲んで一息置く。

「でも、あの時聞こえたのが軍艦行進曲ならば、あなたが金剛に言った通りなのではないでしょうか。運命を共にした乗員たちが、もう一度そこで沈むことを認めたくないと、その強い思いが、きっと近くにいた瑞鶴にも聞こえたのでしょう」

 なるほどねと頷きながら、瑞鶴はさらにぬか漬けの大根を一枚かじる。

「じゃあ、彭佳嶼あたりで聞こえたあの声は、なんだったのかしら?」

「何か聞こえたのですか?」

「最初ははっきり聞き取れなかったんですけどね。ざわざわと海の音がうるさくて――そのうち、空に気をつけろってはっきり聞こえて。まぁ、結局間に合わなかったから意味ないんですけど……」

 そう言って申し訳なさそうに、肩をすくめる瑞鶴。

 金剛と鳳翔が急降下爆撃機に襲われた時のことだ。

 曙から、瑞鶴の様子が変だったとは聞いていたが、それも声が聞こえていたとすれば納得できる。

「それは、輸送船の乗組員たちかもしれません。あのあたりは船の墓場と言われるくらい、数多くの輸送船が沈められた場所です。沈んだ船のマストが海上に突き出して、林ができていた。そんな話が残っているほどです」

「潜水艦の巣ですか」

「ええ。でも彼らが眠っているのはそこだけではありません。この海には数え切れないほど、そんな場所があるはずです。戦争だけではなく、事故や災害、遭難、様々な理由で多くの船が沈んでいますから」

 だから海はすべて墓標のようなものだ。

 そして海に還った船乗りたちは、船を守る海の神になると言う。

 海そのものがその姿だと。

 ならばその声は――。

 それが瑞鶴なりの表現だ。それを見つけたのだ。

 だから。

「私に風の色が見えるように、瑞鶴には海の声が聞こえるのですよ」

 雛鳥が一羽、鳳翔の元を飛び立っていく。

 鳳翔の胸に一抹の寂しさを残して。

 それ以上に大きな心強さを感じさせて。 

 湯呑みの中に、ため息がまた一つ消えていく。

 想いと願いが込められたそれが巻き起こす小さな風の色は――

「あら……」 

 ――鳳翔だけが知るものだ。

※長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 ちなみにやらかしてしまいまして……
 最初に、これは海軍や鎮守府ができる前のお話ですって書くの忘れてしまいました。
 誠に申し訳ございません。

 なお、昨年の秋口に書いた拙作『水平線の向こうに』と同じ世界のお話です。

 では、重ね重ね、お付き合い頂きありがとうございました。

 後ほどHTML化依頼を出しておきます。

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