【ペルソナ5 奥村春SS】春のまにまに (98)
※注意点
・シナリオ終了後の話なので多大にネタバレ含みます
・主人公は各種イベントで春を選択してきたと思ってください
・春可愛いよ春
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深みのある独特の芳香が鼻孔に届いた。心臓は警鐘を鳴らすように強く胸を叩いており、とても落ち着いて香りを楽しむどころではないのに。
このコーヒーは私が淹れたものではない。四軒茶屋にある喫茶店「ルブラン」。この屋根裏に暮らす彼が、先ほど下で淹れてくれたものだ。
階下にある店舗は既に営業を終えており、おじ様は気になる台詞を残して帰宅してしまった。
「嬢ちゃん、あまり遅くならないようにな。お前にも一応言っとくが……、いや、なんでもねぇ。ごゆっくり」
おじ様は彼に何を伝えようとしたのだろう。言い方からすると警告のように思えるけれど……。何かを言いかけてやめた、その間が凄く気になって、おじ様が扉の向こうに消えてから二人で照れ隠しのように微笑みあった。
……そりゃあ? 私だって年頃の女の子ですし? 男女が誰もいない家で二人きりになるということの意味ぐらい、わかってるんだから。
でも、そういうのはまだ、早いよね。うん。
そんなことを思っていたのに、私は、今───。
その屋根裏の部屋、部屋と呼んでよいのかよくわからないけど、そこのソファで私は、今───横になっている。半ば押し倒されるように寝そべり、彼の顔と薄暗い天井だけが視界に入っている。
どうしよう。こんなの、考えてなかった。
でも私は彼のことが大好きだし、彼も私のことを好きと言ってくれて、彼と私は彼氏と彼女で……。あれ? もしかして問題ない?
いやいやっ、ちが、そうじゃなくて、とにかく何か、何か言わないと!
「えっ、と……。きゅ、急に、どうした、の?」
やだ、なんでこんなにしどろもどろなの、私。
「どうしたって、言わなきゃ駄目?」
彼は表情をまったく変えることなく私に質問を返す。眼鏡の奥にあるどこまでも澄んだ瞳は「わかるよね?」と訴えかけている。
わかるよねって、わからないこともないけど。わかるけど!
「えぇと……。や、あの、恥ずかし……近い、よ……」
いつの間にか彼がそのまま覆い被さるように私に顔を近づけ、吐息が届くような距離になっていた。間近で見る彼の肌はとてもきめ細やかで、まるで女の子みたいで、でも首筋は男らしくて。
「あ、う、ぁ」
何か言おうにも頭はついてこれず、口から漏れる言葉は意味を成さない。彼は私の喘ぎとも悲鳴ともつかぬ何かを意に介すことなく、私の左手に掌を重ねた。柔らかな温もりが伝わり、顔が、胸が、心が熱くなる。
そこで不意に、彼が、ふっと。
「ひゃあぅっ」
私の耳に息を吹き掛けた。と、思う。されたことないからわかんない。
「春は耳が弱いんだな」
彼は微かな笑みを私に向ける。私の大好きな、すべてを許しちゃいそうな笑顔。
「そそ、そんな、いきなり、わかんないよ……」
「春……」
彼は耳元でもう一度名前を囁き、私の髪をふわっと撫でつけた。手はそのまま首筋をなぞりゆっくりと下に降りていく。
ダメ。無理。抗えない。蕩けちゃいそう。
経験のなさに起因する想像力の乏しい頭でこの先にありそうな行為を思い浮かべると、体の内側のどこかで疼きにも似た熱を感じた。
これから、魔性の男のような魅力をもった彼に、知恵の泉のような知識で私のいたるところを、ライオンハートのような大胆さと慈母神のような優しさで、超魔術のような指で、弄ばれる。
「こっ、ここじゃ、ヤダ……。ベッド……いこ?」
火照る顔と沸騰しそうな頭でなんとか紡ぐことのできた声は、もはや抵抗の意思は持ち合わせていなかった。誘いの台詞となんら変わらない。
覚悟は、まだ、できてないけど、それでも、彼となら……。
しかし、そこで返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「ベッドは駄目だよ。埋まってる」
「……え?」
彼の言っていることの意味がわからず気の抜けた声が漏れた。
わけのわからないまま、埋まっている? らしきベッドに目をやると、さらにわけのわからない光景が飛び込んできた。
「…………誰?」
「我が東郷キングダムの陣容はまさに磐石。天を裂き地を走る怒りの鉄槌を受け、滅びるがいい!」
なんか知らない女の子がベッドに腰かけて将棋を打っている。いや、さっきまでいなかったと思うんだけど。
「えぇと……」
とりあえず起き上がろうとすると、天井の隅に監視カメラのようなものが目に入った。これもさっきまで……えぇ……?
カメラの横にはスピーカーもついているらしく、弱いノイズとともに私も知っている声が聞こえてきた。
「何をしているー。わたしはちゃんと見ているぞー」
「ふ、双葉ちゃん!?」
なんで見られてるのー!?
「ね、ねぇ! これ、いったい……」
もう何もかもがわからない。こんな状況でも動じない彼に掴まり体を起こすと、肩越しに見えたのは机に向かうメイドさん。……メイドさん!?
「あはは、べっきぃはちゃんとキーピック作っておきますからー。ご主人様は、他の、方と…………うぅっ……、ぐすっ……」
泣いてる……。というか、この人の顔、見たことあるような……。
「って、えぇ!? 川上先生!?」
メイド姿で泣きながら謎の内職をしているのは私の学校の教諭に相違なかった。たぶん見間違いじゃない、はず。
刹那、窓の外が眩く光り輝いた。
「スクープだねこれは。怪盗くんの浮気現場、押さえたよ!」
誰。何してるの。あとここ二階なんですけど。
「占いによるとー、その人とこの先にいっちゃうと聖なる力で天罰が下るみたいですよぉ」
「ちょっと君ねぇ……。これはどういうことなの?」
いつの間にかふわっとした若い女性と、パンク姿の女性が部屋の中にいた。これも知らない人だなー。
さらに階段から足音が聞こえ、振り向くとそこには怪盗姿のマコちゃんと杏ちゃん。すごいすごい、怒濤の展開だね。
「春……。こうなりたくはなかったけど、仕方ないわね」
マコちゃんはペルソナを出してフレイダインをしようとしているらしい。やめて、それ私に効くから。
「抜け駆けはよくないよ!」
杏ちゃんはコンセントレイトで準備万端。ああ、私、死ぬのかな。いやここ現実じゃなかったっけ……。
「あは、あはは……」
力のない乾いた笑いが溢れた。体に力が入らない。まあ笑うしかないよね、こんなの。
「フハハハーッ、It's Show Time!!」
さっきまで私に迫っていた最愛の彼はソファに立ち上がり、ジョーカーらしい高笑いをしていた。
いったい何人いるの? この部屋。意味がわからなすぎるよ。これが現実だなんてとても思えない。こんなの絶対おかしいよ……。
あ、そうか。
ここまできてようやく揺るぎないただ一つの簡単な真実に辿り着き、その虚しい答えを呟いた。
「これ、夢なんだ」
* * *
厚い遮光カーテンの隙間から入る日差しが私の胴体を横切っていた。最悪の寝覚めだった。
「うあー、汗かいちゃってる」
目覚めてまず視界に入ったのは、よく見知った自室の天井だった。家主がお父様から私に移って間もない、一人でだけで暮らしている我が家。
掛け布団をはねのけ、ベタっと張り付いたパジャマの胸元を扇いだ。冴えないままの頭で、妙に鮮明で記憶に残っている夢について意識を巡らせる。
「なんだったんだろ。知らない人たくさんいたし……」
荒唐無稽にもほどがあるよ、わけわかんなすぎ。
そう思って一人で笑うと、ほんの少しだけど気が紛れた。ちょっと早いけど気持ち悪いからもう着替えちゃおっと。
そう決めると、昨日の夜のうちから慎重に吟味を重ねた、外出用の新しい服と対峙した。気合いが入りすぎと思われないように、でもしっかり可愛く。今日という日に相応しい最良のコーディネート、と私は思ってるけど……。似合ってるって言ってもらえるといいな。
「……ああもう。途中までは本当にいい感じだったのになぁ」
着替えながら、夢に対してどうにもならない愚痴を溢してみた。
本当に途中までは幸せだった……恥ずかしくもあったけれど。夢でさえあれだけ焦るのに、もし実際に彼にあんなことをされてしまったら私はどうなってしまうんだろう。そんな具体性に欠ける妄想をしただけでまた顔に熱がこみ上げるのを感じた。
まだ彼が地元に帰ってから一週間ちょっとしか経ってないのにあんな夢を見るなんて、どれだけ彼が恋しいんだろう。
私、彼のことこんなに好きだったんだ。
これほど人を好きになれたことが自分でも驚くほどに意外で、素直に嬉しく思う。人生で初めて焦がれるほどの恋をした私の感情的な部分はそう感じていたが、反して、その裏側には暗い瞳で俯瞰する私の冷めた部分が顔を覗かせていた。
私にとって、私に向けられるほぼすべての"優しさ"や"好意"は、私を通り越した先にいるお父様を意識してのものだった。
恩義。利益。見返り。なんと呼んでもいい。私の家庭環境を知った人たちやお父様の周囲にいた大人たちの行動の数々は、まだ子供だった私の認知を変え固めてしまうには余りあるものだった。
もっとずっと幼かったときは違っていたはずなのに、いつの間にかそうなっていた。私が大きくなるにつれそれを感じ取れるようになったのか、それとも私以外の人たちが変わっていったのかは今となってはよくわからない。
けれども成長とともに私の人付き合いの多くは目的ではなくなり、ただの手段になっていった。大過なく物事を終えるための儀式。通過儀礼。人付き合いというものにそれ以上の価値は見出だせない。
そんな私が知っていた、私の中にもちゃんとあった、純粋な優しさ。素朴な温かさ。ほっとする心地好さ。私の居場所。
それは、古い記憶の喫茶店。朗らかなお爺様と、穏やかにこだまする笑い声と、コーヒーの香り───。
「おはようございます。もう起きていらっしゃいますか?」
部屋の外からの声にハッとなり、沈みかけた過去から現在に呼び戻された。今もなおこの家に残る、数少ない私以外の人のものだ。
「起きています、おはよう」
「朝食はいかがなさいますか?」
返事を待たせたまま着替えを終えて部屋を出ると、普段と変わらずそこにいる彼女に感謝の気持ちを伝えた。
「頂きます。いつもありがとう」
常々思っていたことだけれど、仕事とはいえ長年この家の世話をしてきてくれたことには頭が下がる思いだ。お父様と家族らしい会話が減ってきてからも、何一つ変わらぬ態度で接してくれる彼女に小さくない安らぎを与えてもらっていた。
「これが仕事ですので」
返答もいつもと同じ台詞だった。何事にも動じない彼女のその姿は、夢にまで見た彼のことを思い起こさせた。
でも、これもあと数日で区切りの日が訪れる。
「それでも、ありがとう。……あと残り僅かだけれども、よろしくお願いしますね」
「…………はい」
彼女の返事には珍しく歯切れの悪さを感じた。理由は聞かないことにした。
私は大学への進学が決まった。お父様の遺した会社に微力ながらも関わりながら、経営やいろいろなことを徐々に学んでいくつもりだ。
もちろん、大きな経営方針や実務に口を出せるほどの経験も知識も持ち合わせていないので、そのあたりは会社で信頼のおける新社長の高倉さんに一任している。当面、オクムラフーズで私が関わるのは新規展開するコーヒーチェーン店のプロジェクトだけだろう。
進学に伴い、私はこの家を出て一人暮らしをすることを決めていた。思いきったが、ちゃんと考えて自分で下した決断だ。
この家はもう私の自由を奪う鳥籠じゃない。そもそもこの家を出たところで奥村という名と無関係にはならないし、今のところそうするつもりもない。生活ではお手伝いの人もいるし、毎日を過ごすにあたり不満があるわけじゃない。
けれど、たった一人で暮らすにはこの家は幾分───広すぎる。別れの前のお父様との関係は良くなかったとはいえ、そうでない思い出がここには多すぎる。
喪失はあまりに唐突で、受け入れられないわけではなかったと思うけれど、感情が追い付いていなかったことをあとになって思い知った。
それからは最高責任者をなくしても廻り続ける会社のこと、怪盗団のこと、今でも信じられないけどこの世界の運命のこと。私に背負える重さを遥かに越えたものが次々と降りかかり、ついていくのに必死で悲しみに暮れる暇はなかった。というより、別の何かに目を向け続けることで、無意識にそれを遠ざけようとしていた。
避け続けていたどうしようもない孤独と寂しさは、怪盗をやめ、彼が地元に戻ってから顕著に現れた。今日の彼の夢もきっとその一部だ。
一人暮らしのことは高倉さんにも既に話していた。世間知らずの私が独りで生活できるのかと随分心配していたが、素直に理由を話すと寂しそうに了承してくれた。
私の無理や我が儘を聞いてもらい、融通も利かせてもらった。わかっていたことだけれど私はまだまだ子供で、奥村の娘なんだと実感した。
そんな事情でお手伝いさんが毎日来るのは今月で最後になるが、この家自体は手放さず残したままにすることになっていた。その理由は、お父様の遺したものを全て整理しきれていないことがまず一つ。そしてもう一つは、お父様との記憶と、私の帰ってくる場所をなくしたくなかったから。
私にとって、お父様の死は繋がりを断ち切るだけのものではなかった。不満を感じながらただ生きているだけでは見過ごしていた、見えずともそこに確かにあった絆を浮かび上がらせ、ある感情を呼び起こした。
それは、温かい家族への憧れと渇望だった。
* * *
その日、私たちは馴染みあるいつもの場所に集まっていた。階下から香る深みのある独特の芳香が私の胸の高鳴りを少しだけ静めてくれる。
「つーか遅ぇなあいつら、何してんだ。ったくよー」
竜司くんが椅子を後ろに倒しながら退屈そうに愚痴を溢した。落ち着かない様子ではあるが言葉に怒気は含まれていない。
主役がなかなか現れず、待ち遠しさの強いソワソワした空気が元怪盗団メンバーの間を漂っていた。
「まあ勝手に集まっただけなんだけど、確かに遅いねー。双葉、昼って言ってたんだよね?」
杏ちゃんが竜司くんの言葉に同意し、双葉ちゃんのほうを振り向いた。
「そーだよー。てかわたしもそうじろうから聞いただけだし。他に誰か聞いてないの?」
ずっとスマホを見つめていた双葉ちゃんが顔をあげ首を捻る。
「残念ながら俺は聞いていないぞ」
「同じく。冷たいヤツだぜ」
祐介くんと竜司くんが少し不満げに答えた。
「私も聞いてないわ。春もそうよね?」
「え? あ、うん」
マコちゃんから急に振られ、一瞬戸惑ってしまった。
「やっぱりマスターにしか伝えてないみたいね」
「まあそうかも。忘れ物を取りに帰るだけだってそうじろうに言ってたぽいし。こそっと来てこそっと帰るつもりだったんだよ、あんにゃろー」
さっきの返事を変に思われていないかと気が気でなかったがそれは自意識過剰で、みんな変わらず雑談を続けていたのでホッと胸を撫で下ろした。
昨日双葉ちゃんの提案で、リーダーを除いた元怪盗団のグループチャットがひっそりと作られた。
そこで話し合われたのは、地元に戻った彼が今日帰ってくるらしいから、密かに集まってルブランで迎えてやろうというサプライズのことだった。どうもおじ様が双葉ちゃんも聞いているものと思い込み、彼が帰ってくると口を滑らせてしまったらしい。
彼はおじ様にだけ帰ると告げ、ひっそりとこちらに戻る算段だったようだ。元怪盗団のみんなには連絡がなかったらしいから、会わないつもりだったのかもしれない。
ただし、おじ様と私以外には、ということになる。
実のところ、こればかりはみんなも同じなのかどうかわからないけれど、私は毎日欠かさず彼と連絡を取り合っている。
昨日も他愛もない些細なやり取りをしている最中、急に明日戻るからと連絡を貰っていた。サプライズでみんなで待とうと話し合う少し前のことだった。
『明日そっちに戻るんだけど、会えない?』
その文面を見た瞬間の私はどんな顔をしていたんだろう。あまり想像したくないけど、それはもう緩みに緩んで慌てていたに違いない。
彼に会える。考えるまでもなく、私史上かつてない早さで文章を打ち込み了承の意思を伝えた。
その後、一人少ないほうのグループチャットで計画が練られたわけだが、どういうことなのかよくわからないままの私はみんなに合わせているだけだった。
会えないかと聞いたのはみんなも含めてのことだったのかなとか、そんなことを考えていた。サプライズだとみんなで話している手前、彼に聞くのもおかしい気がして黙っていたけれど───ようやく事の一部始終を理解できたのだった。
予定してたのとは違うけど、会えるから。
彼はみんなに内緒で、二人で会おうとしてくれてたみたいだし、それだけで十分嬉しいもん。
二人でゆっくりは、また今度のお楽しみで。……本音を言えば、ちょっと残念、かな。
「あいつ向こう戻ってガラッと変わってたらどうするよ?」
「短期間でそんな変わるかっ! でもさ、彼、最初に会ったときと比べたら随分雰囲気変わったよね」
「そうなのか? 俺が会ったときとそんなに変わった気はしないが」
「んー、変わったというか、最後まで普段と怪盗のときで露骨に違ってたよね。怪盗になると『ショータイムだ』とか言ってたし。どんだけノリノリなの」
「とにかく不思議な人、だったわね。確実なのは、彼は今も私たちのリーダーってことかしら」
「そうだね、だっていなくなった今でも話題の中心だもの」
私が言うと、「ちがいねぇ」と竜司くんが爽やかに笑った。
「モナちゃんにも会えるね」
「おーそうだ、あいつもいたな。キャットフードちゃんと買っといたか?」
「ここまできてそんなの可哀想でしょ……」
「モナ用の寿司のパック買っといたぞ」
「ガリも大量に取っておいたぞ。無料とは素晴らしいな」
「ああ、そう……」
人付き合いに意味を見出だせなかった私は、友人と呼べる友人などずっといなかった。そんな私が今、損得や利益といったものと無関係な、対等な関係を築いて楽しくお喋りできている。
もし彼がいなければ、私はもちろんこの輪の中には入れていなかった。もしかすると、私だけでなくみんながそう感じているのかもしれない。彼らはみな私と同じように周囲から大なり小なりのレッテルを貼られ、不自由な思いをしてきた仲間たちだから。
だったらやっぱり、あんまり私だけが彼を占しちゃうのも悪いよね。そう思いながらも、私が彼女なんだからという独占欲と密かな優越感も覚えている。
こういうのって、性格悪いのかしら……。
「いらっしゃ……、お前か。久しぶり……でもねぇが、よく来たな」
長く続いていた雑談が途切れ、静寂が訪れたタイミングだった。だから下からの声がみんなの耳に小さく届いた。
祐介くんが「やっとか」と小さく呟いた。同時に、みんな姿勢を変えて階段に視線を注ぐ。
「上行ってきな。部屋、そのままにしてあるからよ」
「助かります」
固唾をのんで階段を見守る。徐々に足音が大きくなってきた。
現れた彼は階段の一番上まで昇りきり、そこでようやく部屋に目を向け、そして固まった。目をゆっくり動かし、全員の顔をまじまじと眺めた。肩にいるモナちゃんも同じように目をぱちくりさせている。
待ち受けた私たちは誰も言葉を発しない。私は大好きな彼の顔に釘付けだったから周りは見えていないけど、みんなニヤニヤしたり優しく微笑んだり、とにかく、笑顔でいた。これはたぶんじゃなくて、絶対。
「……なんでみんないるんだ?」
呆けたように彼が口を開いた。それが合図となって一斉に弾けた。
「なんでじゃねーよ! 戻るんなら言えよなー」
「そうだよもう! こっちこそなんでだよ!」
「お、オマエら……。ワガハイにそんなに会いたかったのかー、そうかー。寂しかったんだなー」
「そうよ、会いたかったわ。貴方は私たちと会いたくなかったみたいだけど?」
マコちゃんの悪戯っぽい物言いに、彼は珍しく焦りの色を見せた。
「い、いや、そうじゃなくて。ちょっと前に送り出してもらったばっかりなのに、すぐまた会うのって気まずくない?」
彼は竜司くんに肩を抱かれながら、部屋に引っ張り込まれるように入ってくる。モナちゃんは鞄から飛び出て双葉ちゃんの膝に飛び乗った。
「そんなことを気にする間柄じゃないだろう、俺たちは」
「そーそー。てかこっちが実家だし? なんも気にすることなくね?」
「そうだな、悪かったよ」
「おおお、スシがあるじゃねーか! 気が利くなー」
「さすが目ざといな、この猫……。いや鼻が利くのか?」
「ネコじゃねーし!」
「いや今さら否定してもね……。喋る以外完璧ネコだよ、もう」
もう懐かしくもある作戦会議を思い起こさせるように、騒がしい声が部屋に響き渡る。
私は見惚れていたせいで流れに乗れず何も喋れないままだった。何を言おうとしてたか忘れちゃったけど、無理に話そうとはあまり思わなかった。
しばらくぽーっとしていると、彼が横までやってきて立ち止まり、真正面から目を合わせた。
胸に温かさが満ちるように感情が広がる。彼は何も言わずゆっくり頷き、微笑んだ。
「おかえりなさい」
自然と口が動いていた。考えていた台詞とは違うけれど、伝えたい想いは短い言葉に全部込めることができた。そんな気がした。
「ただいま」
* * *
とりあえずここまで
そんな長い話じゃないので次で終わりです
またそのうち
柔らかい陽差しの射していた日中とは違い、春の夜はどこか郷愁を含んでいてまだ冷たく感じる。普段より気持ち短めのスカートから出た脚を撫でるように風が通り抜け、おもわず肩を縮めた。
「寒い?」
隣を歩く彼が私を気遣うように顔を覗き込んだ。
「ううん、大丈夫。……ありがとう」
感謝の言葉は蚊の鳴くような声にしかならなかった。こんな些細なことがどうしようもなく嬉しくて、まともに目線を合わせられず上目遣いになってしまう。
「何それ、可愛いな」
「えっ。あ、あの、嬉しい、です……」
もうやだちゃんと喋れない。年下のこの子はなんでこんなに落ち着いてるの。私はこんなにドキドキしてるのに。
「君は、これでよかったの?」
「何が?」
「みんなのこと」
騒がしくも楽しかったみんなとの鍋パーティは夜のいい時間にお開きとなり、その場は各自解散となった。ちなみにモナちゃんは双葉ちゃんに拉致されていった。
そのあと、私はわざわざ彼に送ってもらって帰る振りをしてから引き返し、今こうして落ち合い、また喫茶ルブランへ向かっている。
手を繋いで。
「ああ、いいんじゃないかな。今日は元々春に会いたくて戻ってきたんだから。まあ、みんなの歓迎は嬉しかったけど」
彼は事も無げに、私が言ってほしい台詞を選択しているかのように話す。
それを聞いた瞬間、一人で抜け駆けしている罪悪感は彼への愛しさに転換された。二人きりで会えることの歓喜と愉悦が、後ろめたさをすべて覆い尽くした。
「私も……会いたかったよ」
街灯が少なく周りが暗くなった場所まで進んで立ち止まり、そう言った。顔の赤さを誤魔化したくて。
彼は言葉の代わりに繋いだ手の指をしっかり絡め、強く握った。私は頬の緩みを押さえきれず、照れ隠しに下を向いてまた脚を動かし始めた。
これ、いわゆる、その、恋人繋ぎってやつだよね。
「あ、みんないるのわかってるのにあんなメール送るのは止めてよ……。表情隠すの大変だったんだからね」
「ごめん、でも早く確認したくて。二人で会おうってつもりだったのに、春はそれが嫌でみんなに伝えたのかなと」
「そんなわけないじゃない。私も何がなんだかわからなかったの」
「そう、ならよかった」
鍋の準備をしている最中、トイレに行くと席を立った彼からメールがきたときは驚いた。さらにドキッとさせられたのはその内容だ。
『これ終わったらいったん帰る振りして引き返せない? やっぱり二人で会いたい。泊まっていくよね?』
熱い胸の高鳴りを顔に出さないようにするのに本当に苦労した。みんながいる中で密かに逢瀬の約束を取り付ける。そんなドラマの中のような出来事が自分に起こるなんて考えたこともなかった。
思えば、彼からは私にとって"はじめて"な出来事をもらってばかりだ。彼は私と違って経験豊富そうだけれど、私からもあげられる"はじめて"は何かあるのかな。
そこで、ふと邪な、邪なのかな……?
とにかく、口に出すことなどとてもできない、彼にあげられる……貰ってもらう? 私の"はじめて"が頭をよぎり、握る手に力が入ってしまった。
「どうかした?」
「う、ううん、なんでもない」
明らかに動揺していたけれど、彼はそれ以上聞いてはこなかった。
何かを察したようなのに追求しない彼の優しさに心の中で感謝を送りながら、高くないヒールのついたパンプスでアスファルトを踏み締めた。
過ぎてほしくない時間ほど早く過ぎ去るものだとは聞いていたけれど、喫茶店───彼と二人きりで過ごす部屋───に到着するまでの道のりは、それを最もわかりやすい形で体験できる短い旅路だった。言い過ぎじゃなく感覚的には来たときの半分ぐらいの距離に感じた。
ルブランの扉の前に着くと、どちらからともなく繋いだ手が離れた。最後は指先を伸ばして名残惜しさを彼に伝えた。
営業は終わっているみたいだけど、おじ様がまだ片付けをしているらしく灯りが点いたままだったからだ。別にどうしても隠さなきゃいけない関係ではない(と、少なくとも私は思う)けれど、まだなんとなく恥ずかしい。
「CLOSED」の札がかかった扉を彼が開くと、チャリリンと来客を知らすドアベルが鳴り響いた。カウンターで煙草を吸っていたおじ様が、彼に続いて入る私を見て驚いた目を向ける。
「こ、こんばんは。すみません、夜分遅くに」
「あれ、さっき帰ってたよな? 忘れ物か何か?」
優しく聞いてくるおじ様の顔を見て胸に棘が刺さった気がした。どう返事をしよう、嘘を吐くのはよくないけど……。
「そんなとこ」
考える間もなく、彼が即座に答えた。おじ様は特に疑問に思わなかったのか、「そうか」と呟いて紫煙を吐き出した。
「すみません、ちょっとお邪魔します」
軽く頭を下げてカウンターの前を通ろうとすると、おじ様の声が彼が呼び止めた。
「……ちょっと待て。俺もう帰るから鍵閉めて上がってくれ」
「……わかった」
二人で入り口近くに立ち、おじ様の帰り支度を待った。
「嬢ちゃん、あまり遅くならないようにな。お前にも一応言っとくが……、いや、なんでもねぇ。ごゆっくり」
再度ドアベルの音が静かな店内に響き、おじ様は扉の向こうに消えた。ドアベルの音が消えると片付けも終わった喫茶店には静寂が立ち込め、二人の間にゆっくりと広がった。
おじ様は彼に何を伝えようとしたのだろう。言い方からすると警告のように思えるけれど……。何かを言いかけてやめた、その間が凄く気になった。
「……何言いかけたのかな?」
「さあ? なんだろうね?」
二人で首を傾げ、照れ隠しのように微笑み合った。やだ、なんかまたドキドキしてきちゃった。
妙に落ち着かなくて、部屋に向かう階段を昇りながら彼に話しかけた。
「嘘、吐いちゃったね」
「まあわかってて見過ごしてくれてるんだし、別にいいんじゃない?」
「えっ? バレてるの?」
おもわず足を止めてしまった。
「うん。だって忘れ物を取って帰るだけなら鍵閉めて上がれとは言わないだろ」
思い返してみると、その通りだった。すぐに私が出ていくと考えているならあの台詞は不自然だ。
「どう、思われてるのかな……」
「……さあ? それはわからないな」
本当に、私はおじ様にどんな子だと思われてるんだろう。ああ、どうか嫌われていませんように。でももう引き返す気はないんだけどね。
人のいない屋根裏部屋を見渡すと、さっきまで私もいた同じ場所のはずなのに、お昼とはまったく違う印象を抱いた。ここにあったみんなの優しさとあの喧騒は消え、微かな残り香のみを漂わせている。
誰に話しても信じてもらえないような縁で繋がった私たちも、彼が地元に戻ってしまったように、いずれみんな別々の道を歩み始める。この春からは私とマコちゃんも大学生だから、こうして集まれる機会も徐々に少なくなっていくのだろう。
一瞬だけそんな感傷に浸り、目線を下に落とした。すぐそこに彼の脚が見えた。
「おかえり、春」
彼はそう言いながら私を抱き締めた。
「え、えっと、ただいま?」
私の身体は私より頭一つ分背の高い年下の彼の思いのまま、腕の中にすっぽりおさまった。
おかえり。
ただいま。
私の帰ってくる場所。帰ってこれる場所。ほっとする心地好さ。私の居場所。
「……あったかいね」
「だね。春、ドキドキしてる?」
「あ、当たり前じゃない。というか、いきなりすぎ……。幸せすぎて、死んじゃいそう」
「それは困るな、じゃあ離そう」
私を抱き締める手の力が緩んだ。
「ダメっ。離しちゃ、ヤダ……」
「……女心は難しいな」
また腕に力がこもる。私は彼の胸に額を押し付けた。
「君、わかって言ってるでしょう?」
「さあ。なんのこと?」
彼の声が耳元から私の中に入り、身体中に広がっていく。とぼけたような言い方も全然憎らしくなくて、愛しくてたまらない。
「そんな意地の悪い子には罰を与えないと」
彼の内側におさまったまま、お姉さんとしての僅かな反逆の意思を言葉に込める。
「怖いな、どんな罰?」
全然怖そうにしない彼に、言ってやった。
「もうしばらく、このまま……」
「……ああ。それなら簡単だ」
その間、私の世界はこの世で一番素敵な音だけに包まれた。
それからソファに座り、甘えたり甘えられたりのくすぐったすぎて悶えそうな時間をひとしきり過ごした。
知らなかったことだけれど、長い時間笑顔でいてもそれが自然なものだとあまり疲れないみたい。作り笑いなら慣れてるけど、立食パーティーなんかでずっとそうしていると、終わり際には頬の筋肉がひきつりそうになっていたのに。
「コーヒーでも飲む?」
少し目を閉じて考えていると、彼が魅惑的な提案をしてくれた。
「いいの?」
「もちろん」
「なら、うん。頂きます」
「じゃ、ちょっと待ってて」
言うと、彼はすっと立ち上がり階段へ向かう。
「私も君が淹れてるところ、見たいな」
「またいつでも見せるよ。だから今日は座ってて」
「う、うん……」
まただ。またやり込められた感が……。
たぶん、「いつでも」という言葉がなければ私は強引に見ようとしていた気がする。これから先も二人の時間はある、まだ続くんだよと言われたようで、嬉しくて何も言えなくなった。彼は女の子の扱いに慣れすぎていてちょっとだけ不安になる。
彼の消えた部屋でおとなしく座っていると、新たなコーヒーの芳香が昇ってきた。ああ、いい香り。
と、そこで脳内を既視感が駆け巡った。
何かしら、これ……。
この部屋、この状況……。クリスマスの日かしら? いや、あのときとは違うような。それに、もっと最近に見たことがある気がする。部屋に入ったときはそんな感覚なかったのに、なんでいきなり?
さっきまでと違うこと。
……コーヒーの香り。これが契機?
「あっ」
わかった。朝の夢だ。そこで見たシチュエーションなんだ。
「ええと、夢だと確か……」
コーヒーもそこそこに、私はこのソファに押し倒されるように横になって……。そこで思い出し悶えをしそうになるのを堪え、夢の続きを遡る。確か問題はそこからだったはずだ。
「それから、知らない人がベッドとかにいて……、監視カメラ……」
とりあえずここに私以外誰もいないのは間違いなさそうだけど、急に不安になってきた。もしかするとこの一部始終を誰かに見られているのではないかと。
夢と現実を結びつけるなんて非常識で不条理なことだとはわかっている。けれど、夢と符合するところが多くて不安を拭いきれない。
「…………!」
何気なく顔を上げ、夢では監視カメラのあった天井の隅に目をやると、穴のようなものが見えた。気がした。なんか光った気もしてきた。
「ま、まさかね……」
そう思いながらも、確認しないことには落ち着けない気分になっていた。そろそろとベッドに向かい、靴を脱いでベッドにあがる。
隅の黒い場所に目を凝らすが暗くてよく見えない。仕方なく、おそるおそる手を伸ばす。
「……何してんの、春」
「ひゃうぁっ!?」
慌てて振り返ると、彼がコーヒーを二つ持って階段を昇ってきたところだった。
「いや、あの……監視カメラが!?」
「はい?」
私の頓珍漢な、ともすると被害妄想癖のある電波な人と思われかねない発言に彼は眉をひそめた。
それから彼は私が手を伸ばしていた箇所を一瞥し、安心したように話す。
「何もない、ただの黒ずみだよ。さすがに双葉もそこまではしない」
「な、なんだ……。なら、その……他に誰かいない!?」
まずい、完全に危ない人だ。
「……誰もいないよ。落ち着いて」
彼はコーヒーを机に置いてベッドに歩み寄る。彼に手を引かれベッドを降り、二人で深呼吸をした。
「何があったの? 人の気配でもした?」
「う、うーん……。ま、窓の外とか……」
「ここ二階ですけど」
「だ、だよね。じゃあ、ベッドの下とか……?」
「なにそれこわい。あ、ホラー映画でも見たのか?」
「いや、そうでもなくて……。……笑わないでね?」
落ち着きを取り戻しベッドにちょこんと座ると、今日の朝見た夢の内容を、押し倒されたくだりは伏せて彼に話した。コーヒーの香りが漂う中ここで二人で過ごしていると、いつの間にか知らない女性や知っている子が次々と押し寄せてくるという、話していてもバカらしくなるような無茶な夢を。
「なるほど。それで気になったんだ」
「うん……。そんなバカなことあるわけないのにね」
「はい。これでも飲んで落ち着いて」
彼は淹れたてのコーヒーをそっと私に手渡した。
「ありがとう」
一口飲むと、香ばしい苦味と淹れたての温かさが染み渡った。はぁっと息を吐いてもう一口飲んだ。
「……あったかい」
「味はどう?」
「おいしい。酸味があまりなくてスッキリしてるのにコクがある。スゴいね」
「よかった。これがマスターなら「説明しよう!」とかって豆の種類の講釈を始めたのち挽き方が悪いって説教されてるとこだよ」
彼は大袈裟に肩を竦めぼやく。
「あははっ、おじ様は厳しいね。私も、豆の種類ぐらい当てられるようになんないとね」
味と色と香りから、これまでに飲んだことのあるいくつかの銘柄が頭に浮かんだけれど、具体的にこれというところまでは辿り着けなかった。まだまだだなぁ。
「なんか、懐かしい。……落ち着く」
隣に座る彼に寄りかかり、頭を肩に乗せた。彼は私の腰に手を回して体を密着させた。
「うん。二人で会えてよかった。春、寂しそうだったから」
「え?」
寂しいなんて彼には一言も言ってこなかった。やっと会えた今日だって、みんなの前ではいつも通りの私でいられたと思っている。
「……なんで、そう思うの? そんな素振り、見せてたかな」
「春が無理してるときってなんとなくわかるよ、自分のことに目を向けないで人のことばかり気にしてる。それに家から出て一人暮らしするって言ってたから。あそこだといろいろ思い出しちゃうからじゃないかな、違う?」
彼はコーヒーを啜り、一息で話した。
全部彼にバレてた。何も言わなくても伝わってた。
どうしよう。泣きそう。
「どうしよう。泣きそう」
声に出てた。
「それは、嬉しくて? 悲しくて?」
「嬉しいほう……かな」
「じゃあ……」
彼は私の持っていたコーヒーを半ば奪い取ると、自分のものと並べて机に置く。それからベッドに戻り、
「おいで、春」
と、手を広げた。
その姿に、言い方に、優しかった頃のお父様の幻影を見た。
「っ……!」
外に出さないようにしていたものが堰を切ったように溢れ、彼の胸を濡らす。しがみついたまま、熱の放流はしばらく続いた。
「……私、お姉さんなのになぁ」
涙声を通り過ぎた鼻声のまま、頭を撫でられながらそんなことを呟いた。
「辛いときぐらい甘えたっていいだろ。もっと頼ってほしいしさ」
「もう十分頼ってるよ。支えられてるのは私ばっかりだもん」
私は少なくとも、年下とか年上とか関係なしに彼とは対等でいたいと思っている。彼の後ろを黙ってついていくだけでなく、並んで立ちたい。彼の向いているほう私も向いて、同じものを見て歩き続けたい。
「私もたまには甘えてもらいたいなぁ」
「いいの?」
「うん。君が甘えるなんてあんまり想像できないけど」
甘さとはほど遠い、彼の強いところや優秀なところはこれまでにたくさん見てきた。酷いレッテルや不条理に耐えながら、強靭な心でいくつもの困難を乗り越えてきたのは私もよく知っている。
そんな彼が甘える姿は……たぶん、かわいい。超。すっごく。よしよししてあげたくなる、絶対。
でも怪盗の姿は誰よりもスマートで、どこまでも格好いい憧れのヒーロー。
さっき「おいで」と言ってくれた姿は、男らしくて優しくて、父のような包容力に溢れていた。
「……君って、ほんと不思議だよね。いろんな顔がある。……どれが君の本当の顔?」
すぐ傍にある彼の顔を見上げ、そっと肌に触れた。無意識のうちに初めて触れた彼の頬から体温が伝わる。
「どれってことはないかな、全部本物。春だっていろんな顔があるけど、どれも春だよ」
「私、そんなにいろんな顔あるかな?」
「うん。笑ったり泣いたり、寂しそうにしてたり、天然だったり、たくさんある。それは全部春で、全部好きだよ」
これまでにも何度か聞かせてもらえた、褒められるよりも嬉しい言葉。何よりも聞きたい言葉。
聴く度に私はドキッとして胸も頭も熱くなり、なかなか上手く話せなくなるぐらいなんだけれど、今は、違った。
コーヒーが布に染み渡るように、ミルクが落ちてゆっくりと溶けていくように、私の中に広がっていった。
「私も……すき。大好き。……愛してる」
愛なんて私が口にする日が来ると思わなかった。というより、愛がなんなのかなんて今だって説明はできない。
それでもわかった。知らない言葉が溢れ出た。私はあなたと、これからも、ずっと───。
「愛はさすがに……、少し照れるな」
彼は恥ずかしそうに身を捩ったけれど、私から目を逸らすことはなかった。
「あはっ、ちょっと重いかな、私」
何故か、初めて彼より少し優位に立てた気がする。私の心は完全に奪われちゃってるから、きっと気のせいなんだけど。
「……いや、そんなことない。嬉しいよ」
「……ほんと?」
「本当」
言い終わるや否や、彼は頭を傾けて私を抱き寄せた。音もなく静かに唇が重なった。微かに香る珈琲の匂いの中、私は目を閉じて幸せを噛み締めた。
触れ合ったままだった唇は、離れる際に別れを拒むように引っ張り合い、やがて限界を越えた地点で離れた。息をずっと止めていたから、肺が空気を求めて喘いだ。
「っはぁ……。私、あなたのことが好き」
「知ってる」
「たぶん、君が思ってるよりも、もっとだよ」
「どのくらい?」
「ええとね……」
少しだけ考えて、ちゃんと話しておこうと決めた。すっごくとか海よりも深くとか、そんなありきたりな言葉で伝わるとも思えなかったから。
寄り掛かるのをやめて、姿勢を正してから口を開いた。
「……私ね、お父様が亡くなる前から……、もう何年もずっと、家族らしいことしてなかったの。会話も業務連絡みたいなのとか、私の意思なんか必要ないって感じのただの命令とか、とにかく一方通行で。私は社長の子供で奥村の娘だから、これは仕方のないことなんだって言い聞かせて、我慢してきたの」
沈めていた想いは、淀みなく出てきてくれた。
「お父様は会社でも従業員の人たちにそんな感じになって、私の人生すらも一人で決めちゃって……、辛かった。苦しかった。それでね、怪盗団にでもなんでも、なんとか昔のお父様に戻ってほしいなって思ってたところでモナちゃんに会って、あなたと、みんなと出会って、やっとちゃんと家族になれるって思ってたら……」
そこで、喉の奥で感情の塊がつっかえて言葉が出なくなった。彼はそんな私の手を握り、深く頷いた。
うん。ちゃんと話すよ。
「……あんなお父様でも、私にとってはたった一人の家族だったの。何気ない一言で嬉しかったことも、楽しかったこともあって、それをずっと、ずっと取り戻しかった。やり直せるはずだって思ってたのにそれはもう、叶わないんだなって。君がこっちから地元に戻って、あの家で一人で寝起きしてたら全部が懐かしくて、いい思い出ばかり甦って、寂しくて、私の家族は誰もいなくて……」
また瞳に熱さを感じた。彼の手をぎゅっと強く握った。
「…………私、独りは嫌だよ。寂しいよ……」
耐えきれず嗚咽が漏れた。私はまた彼に包まれた。
「俺でよければずっと傍にいる」
今日だけで二回も泣いた。人目を気にせずこんなに子供のような想いを晒け出すのはいつ以来だろう。
そうだ。お父様のシャドウに言われた、あの日。運動会を見に来てくれなかった、あの日以来なんだ。
もう話すことはできないお父様。もう怒りも笑いもしないお父様。私は、お父様の娘で幸せでした───。
「……伝えたかったなぁ。昔みたいに戻ったお父様に」
泣き止んでから、彼の胸で呟いた。
「なんて、伝えるの?」
「……いろいろ、かな」
胸がしめつけられるような恋をして、心から好きな人ができました、とか。
私の古い記憶のお父様は驚いて、それから……、どんな顔するのかな。悲しむのかな、怒るのかな、喜んでくれるのかな。
どれもあり得ると思うけど、想像できないや。
「あ、私がどれくらい君を好きかって話だったね」
「そうだっけ?」
彼が惚けているのか本気でもう忘れているのか、私にはよくわからなかった。まあ、どっちでもいいよね。
「そうだよ。ええとね……、私、家族が欲しいな……」
やっぱり恥ずかしい。こんなのどう聞いてもプロポーズと変わらないじゃない。私と家族になってくださいって……。
「……大胆だな」
「それぐらい、好きなんだよ。伝わった?」
「うん、伝わった。何人欲しいの?」
彼は真顔で私にそう尋ねた。
「え? 何人?」
「春は女帝だし、子だくさんなイメージあるから三人ぐらいかな?」
「んん? 女帝? ……子だくさん? 三人!?」
ちょっと、なんか勘違いされてる気が……。
「いや、家族ってそういうことじゃ……」
「もっと? それとも子供はいらない?」
「い、いや、そんなことは……。私も三人ぐらいがいいかなぁって……一姫二太郎って言うでしょう?」
「わかった」
「な、何が!? いや、ちょっと待ってー!」
ちょっと違うと彼に勘違いを伝えて、一度はなだめたけれど───結局、行き着く先は変わらなかった。
私が不満だったのは過程とか流れの話で、今日ここに泊まると決めた時点で"そう"なるかもしれないことは覚悟していた。彼にすべてを奪われる覚悟を。
だから、私は彼に身を任せた。
長い夜が更けていく…………。
* * *
動くものを感じて目を醒ますと、最愛の人の顔がすぐ横にあった。彼の腕を枕にしていたことを思い出して頬が緩んだ。
こんな幸せ、あるんだね。
外からは明るい光が部屋に射し込めている。おじ様が店に来る前に抜け出さないといけないから早く起きないとね、と昨夜二人で話したような気がするけど、今は何時だろう。
よく眠る彼を起こさないように静かに体を起こすと下半身のある部分に違和感を覚え、おもわず両手で顔を覆った。顔に火がつきそう。
「……ぅん…………」
彼が身を捩るようにして寝返りをうった。
昨晩あんなに優しくて凶暴だった彼は穏やかな寝息を立てて眠りこけている。
「…………かわいい」
眼鏡をかけていない、普段と違う姿の彼に引き寄せられるように頬にキスをした。
口づけした唇に指をあてて部屋を見回してみたけど、時計のようなものが見当たらない。仕方なく鞄の中に入れてあったスマートフォンを取り出してデジタル表示の時刻を確認する。
「……えぇ!?」
驚きの声をあげる間にまた分の表示が動いた。何度見ても朝の7時になろうとしているところだった。それはつまり、喫茶店の開店時間を考えるとおじ様がいつ来てもおかしくない時間だ。
「……春……もっと……、もっとだ……」
彼は呑気な寝言を発していた。私が夢に出てるみたいでそれは嬉しいけれど、いったいどんな夢を見ているのかしら……。
とりあえず、ぐっすり寝てる彼をこのまま見ていても起きそうな気配はない。起こすのも可哀想だから私一人で帰ってもいいけど、鍵は掛けて貰わないといけないからやっぱり起きてもらわないと。
「ね、ねぇ、起きて、朝だよ」
意を決して、彼の肩を摩るように揺らし声を掛ける。
いいなぁ。いいなぁこれ。一緒に暮らしてるみたい。幸せ。
「じゃなくて、起きてー」
「…………」
彼は目を覚まさない。私もこのまま幸せな朝に身を委ねていたいけれど、さすがに朝帰りするところをおじ様に見られるのは避けないと。
「ねぇ、おーきーてー」
両手で体を掴み少し強く揺さぶると、彼がようやく薄く目を開いた。
「……ああ。春?」
「うん。ねぇ、もうおじ様来るかもしれないから早く起きて、鍵かけて……」
「あと二時間……」
私が言い終える前に彼はそう言い、また目を閉じてしまった。
「えぇー……。もしかして君、朝弱い?」
返事はない。また寝息が聞こえてきた。
完璧だと思った彼にこんな一面があったなんて。可愛いところ、あるんだなぁ。泊まってよかった。
「じゃなくて! おじ様が来ちゃうからぁ!」
それでも起きない彼に、私のお姉さん心が疼いた。
「お寝坊さんには……こうですっ」
掛け布団を剥ぎ取り、今度はおもいっきり揺さぶってみた。
すると、彼は眠そうに目元を擦りながら身を起こし、私がここにいる状況をやっと把握できたように挨拶をする。
「…………。おはよ、春」
「うん、おはよう。さあ、早く着替えて下に降りないと」
「……ふぁい」
大きな欠伸をしながらのそのそと動く彼を尻目に、私は服をちゃんと着て身だしなみを整えた。もうお化粧を直している時間はなさそうだから諦めよう。
「あ、春」
「はい?」
準備を終えて階段を降りる直前、彼が突然立ち止まった。振り返ると彼は私に顔を近付け、唇を重ねる。
「…………」
驚いて何も言えなかった。彼は首をコキコキと鳴らすような仕草をしている。
「っあー、やっと目が覚めた。駅まで送るよ」
「……うん。ありがとう」
手を繋ぎ、ふわふわした足取りで階段を降りる。カウンターを横切ろうとしたところで───扉を開けたおじ様と見事に鉢合わせした。
「…………」
ドアベルの音が止み、場を気まずい静寂が支配する。
なんと言っていいかわからず立ち往生する私を見て、おじ様は諦めたようにため息を吐いた。それから彼に睨むような視線を送り、
「お前な……。責任は取れよ」
と呟いた。彼は、
「任せろ」
と返す。
え? 今なにか決まった?
「嬢ちゃん、おはよう。コーヒー、飲んでくかい?」
責任だとか任せろだとか、気になりすぎる二人の会話は置き去りにされて話は次に進んだ。
これって、もしかして、そういう話なの?
「お、おはようございます。……頂きます……」
そしてもはや急いで帰る必要もなくなった私は、申し訳なさと恥ずかしさから俯き加減にそう答えるのだった。
彼と二人でおじ様のコーヒーを待つ時間は、控え目に言っても幸せそのものだった。
私の知っていた、素朴な温かさ。ほっとする心地好さ。私の居場所。この場の誰一人、血は繋がっていなくとも、私の憧れていた幸せが、家族の姿がここにあった。
「はいよ、お待たせ」
もう一度お礼を言ってから出てきたコーヒーの香りを楽しみ、一口啜る。
「……おいしい。これおいしいです、おじ様」
「そうかい、そう言ってもらえると嬉しいね」
お世辞ではない私の絶賛を聞いて、おじ様は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「こいつのとどっちが旨かった? 飲んだだろ?」
昨晩のコーヒーを思い返しながら彼に目をやると、「正直に言っていい」と私を促した。
「……ごめんね。こっちのほうが美味しかったです」
彼に謝って、正直に思ったことを言った。心に染みたのは彼のほうだけれど、味に関してはこちらのほうが深みがある。そう感じた。
「よっしゃ、まだこいつには負けてらんねぇからな」
彼は珍しく悔しがり、おじ様は得意気な顔を彼に見せつけていた。
「いいなぁ、この雰囲気」
また思っていたことがそのまま口から漏れた。問題のある発言ではないけれど、昨日もあったし気を付けないと……。
「はは。ありがとよ」
「春さえよければいつでも来るといい」
「てめえが言うな。あ、嬢ちゃんがいつでも来ていいのは本当だからな?」
「いつこの店を引き継いでもらえるんだ?」
「アホか、当分くたばってやんねえよ。つかお前にやると決まったわけじゃねえ」
「そうか。だそうだ、春」
「だそうだ、って言われても……」
いったいどういう話の流れなんだかよくわからない。
「朝飯も食ってきな、すぐ用意するから」
「あ、え? 悪いです、そんなの」
「気にすんな。こんな朝から客なんか来やしねえよ」
「えと、じゃあ……。お言葉に甘えさせてもらいます」
この素敵なお店の雰囲気を、私は知っている。
それは、古い記憶の喫茶店。朗らかなお爺様と、穏やかにこだまする笑い声と、コーヒーの香り───。
* * *
朝御飯を頂いて、十分にお礼を言ってからお店をあとにした。次は育てたお野菜を持ってくると、次の約束を取り付けるのも忘れなかった。
朝の陽気な春の陽射しの中、隣には私の好きな人。
こんなに朗らかな気持ちは随分久しぶりな気がする。でも、スッキリするためにもうひとつ、お店での会話のことを尋ねておかないと。
「あの、簡単にあんなこと言ってよかったの? それともただの冗談だった?」
「なんの話?」
「その……。責任、とか。任せろ、とか……」
「ああ、そのつもりだけど……。まあ、その辺は春のまにまに、かな」
"そのつもり"という言葉にドキッとすると同時に、聞きなれない言葉に首を捻った。
「まにまに?」
「まにまに」
なにこれ、禅問答?
まにまに……Money Money? はっ! もしや彼は私のお金目当て!? ってそんなわけないよね。
「神のまにまに、って聞いたことない?」
「百人一首であるよね。……あ、"随(まにま)"?」
「そう」
「神のまにまに、が神の御心のままに、だから、春のまにまには……」
「春の心次第、ってこと」
そこまでわかってようやく得心がいった。実際にどうなるかは私次第、って伝えようとしてたんだ。
「それ、使い方合ってるの?」
「知らない。でも今伝わったから問題ない」
「あははっ。君らしいね。……じゃあ、君はそのつもりで、あとは私次第、なんだ」
「そういうこと」
「じゃあ、安心だ。私は変わらないから」
「そうか、なら大丈夫だな」
「君は?」
「ん?」
「変わらない? 浮気、しない?」
「しない。……これは興味本意の質問だけど、もし浮気したらどうなる?」
「ん~……。そのときにならないとわからないけど……」
「けど?」
「……薪割りの要領で? ズバッと?」
「……何を? あ、いやいい。心に刻んでおく」
「そうしておいてくれると嬉しいな」
長く続いたキャッチボールのような会話が途切れ、駅に向かってゆっくり歩を進める。
信じられない出会いをした、あれからだいたい半年。僅かな期間に過ぎないけれど、その短い間に私の生活も、環境も、想いも、関係も……フィアンセも。全てががらりと変わってしまった。
出会いは、変わってほしいものを変えてくれたけれども、数少ない変わってほしくないものまでをも変えてしまった。かけがえのない繋がりを喪ってしまった。
けれど、それでも、私はこの出会いに感謝しかしていない。裏切ったことを後悔はしていない。裏切りなしに私の自由は存在しなかったから。私の人生は始まらなかったから。
私の心が問い掛けた、私自身の心。
あなたは誰を裏切るの?
「心はとうに決まっています」
「ん?」
唐突に呟いた私の口上が聞こえたみたいで、彼は不思議な顔をして振り向いた。
そうだ。私は裏切るんだ。裏切りで欲しいものを掴み取るんだ。
そう、決まっている。
「……私、裏切るから」
「どういうこと?」
何を言っているのかわからないという表情の彼に、私は告げる。
「君の予想を裏切るの。君が考えてるよりも、ずっと素敵な女性になってみせるから」
「……そう。それは楽しみだ」
「うん。君を絶対離さないために、頑張る。だから、見ててね?」
精一杯の、私が可愛いと思う顔で言ってみた。上手くできてるといいんだけど。
「見てるよ、傍で。これからも、ずっとね」
指をしっかりと絡めて握り、微笑み合う。
心の中でだけ、永遠を誓っておいた。言葉にするのはその時まで、おあずけにしておこっと。
「あ、今日ってすぐ帰っちゃうの?」
「いや、夕方ぐらいに帰ろうかと思ってた」
「じゃあ、二人で出掛けようよ」
「いいけど、どこに行く?」
「どこにしよっか。考えてなかった」
柔らかな心地好い春風が首筋を撫でた。髪が乱れないよう、空いたほうの手で抑えた。
彼が尋ねる。
「行きたいところ、ある?」
私は答える。
「その辺は、あれだね。歩きながら。春のまにまに」
「春の?」
「うん。春の」
「まにまに?」
「まにまに」
お弁当を持ってキレイな公園に行こうかしら。桜並木を歩くのも素敵だね。
普段は私の心のままに行き先を決めるけれど、今はこの風の吹くまま、春の陽気に身を委ねてみよう。
君と一緒なら、私はどこへだって行けるから。
それが今日の、春のまにまに。
了
久しぶりだから疲れました
読んでくれた方、レスつけてくれた方ありがとう愛してる
さあ二周目のスーパー春ちゃんタイムを楽しもう
またどこかで、あでゅー
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