海未「エチュード」 (28)

どこからか澄んだ響きが聞こえる。
歩を進めるにつれ、だんだん輪郭を帯びてきたその音はピアノの音だと海未は知る。

たどり着いたのは大きな洋風の家。
煉瓦造りの赤茶けた色の塀は自分の背丈よりも高く、見上げるとさらに背の高い植木がこちらを見下ろしていた。
自分の住む典型的な和風の家とは様相を全く異にしている。どうやら、ここが目的地らしい。

海未は門の前に立ってこの家の外観を眺めつつ、微かに流れるピアノの音に耳を澄ました。
このピアノは真姫が弾いているのだろうか。透き通った水を湛えた小川のせせらぎにも似た音が、耳に心地よく届く。

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インターホンを押そうとすると、どこか懐かしい感じがした。
他の人の家に行くことはあまりないし、行くとしても幼馴染の家にほぼ限るので、初めて訪れる家のインターホンのボタンを押す時に感じるこの胸の高鳴りは子供の頃以来かもしれない。

ピンポーンと呼び鈴が鳴り、しばらくして真姫の母親だろう、上品で物腰の柔らかそうな人の声がスピーカーから聞こえてきた。

「いらっしゃい」

海未も挨拶をして、家に入れてもらう。
玄関に入った瞬間、いわゆるその家独特のにおいがほのかに香った。淡く、甘い匂い。

真姫の母親は高校生の子を持つ年とは思えないほど若々しく、それでいて品のある、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
海未の目にはとても魅力的に映った。

「ごめんなさいね。真姫、今ピアノ弾いてて」

差し出されたスリッパを履き、連れられて真姫がいるという部屋のドアの前に。
真姫は一度演奏を始めると、最後まで邪魔されず弾き終えないと気が済まない性格で、昔からそうなのだという。
真姫らしい、海未は思った。

真姫の母親がドア引くと、部屋の中で充満していた音があふれ出し、海未の身体を通り抜けた。
何物にも遮られない生の音が耳に届き、すぐそこで誰かが弾いているのがわかる。
どうぞと言われるままに部屋に足を踏み入れると、そこは広いとも狭いとも言えない、ほどほどの広さの部屋。
床には複雑な紋様の赤い絨毯、右手には革のソファとテーブルが置いてある。
正面を向くと庭に面した窓。カーテンは両隅で括られ、かわりにレースが引かれてある。
窓から注がれ、レースを通り抜けた淡い日の光が、部屋をあたたかな陽気で満たしていた。

そして左手には、体をゆったりと揺らしながら、鍵盤の上で指を躍らせる真姫の後ろ姿。
ドアが開く音はしたはずだが、ピアノの音以外の音はまるで聞こえていないようだ。
当然こちらには気づいてない。

「紅茶持ってくるから、あそこのソファに座って待っててね」

そう言うと、真姫の母親は部屋を出てしまった。

言われた通りソファに座って待っていればいいのだが、海未は真姫に目を引かれてドアの前で立ったまま動かない。

ただじっと、真姫の演奏を聴き、真姫の演奏する姿を見ていた。

指先が鍵盤に触れるたびに大きく口を開けたピアノから音が溢れ、部屋の隅から隅までを絶え間なく満たしていく。
繊細でやさしいメロディ。表情豊かにのびのびと演奏する姿は、普段学校では見られないものだ。
真姫の新たな一面を見ることができたことにひそかに満足しつつ、海未は目を閉じ、じっと耳を澄ました。

音が部屋の空気に吸い込まれるようにして消え入り、真姫は一息ついて手を休める。
そんな真姫の背中に、海未は拍手を送った。
真姫はびっくりして後ろを振り向いた。

「き、来てたの?」
「はい。しばらくここにいましたよ」

すると真姫は顔を赤らめて

「来たならちゃんと言ってよね…」
「あまりに素晴らしい演奏で、聴き入ってしまったもので…曲が終わるまで聴いていたかったんです」
「そ、そう。ありがと…」

真姫は照れ隠しに目をそらしつつそう答えた。

「それにしても、いい曲でした」
「でしょ。私も気に入ってるの」
「何という曲なんですか?」
「ショパンのエオリアンハープっていう曲よ。これでも練習曲なの」

海未がなるほどと頷いていると、真姫は

「そ、それはそうと、はやくやる事やりましょ」

と、話題を自分の演奏からそらすかのように言った。

テーブルの上には真姫の母親が淹れてくれた紅茶が置かれている。
薄赤く透明な液体の表面から、湯気が細くゆっくり立ち上って消える。
内側に薄青く小さな花がいくつか描かれた白いカップに、縁に金の装飾のあるソーサー。
海未は若干おぼつかない手取りでカップを口元へ運び、一口含む。
ほのかな苦みと香りが口の中いっぱいに広がって、思わず息を呑んだ。
紅茶を普段口にすることの少ない海未でも、この紅茶は上質なものだとわかる。

テーブルを挟んで向かいにいる真姫は、カップの取っ手を添えるようにしてつまんで持ち、少し口にしてゆっくり下ろす。
さっきピアノを弾く様子を見たからだろうか、振る舞い一つからも育ちの良さのようなものが自然と感じられる。
あるいはこの家の雰囲気のせいだろうか。
どちらにせよ、今日の真姫は、学校で見る真姫とは少しだけ違って見えた。

改めて部屋を見回してみると、あらゆるもの、空気が自分の家のそれとはまったく異なっていて、驚きと新鮮さを感じる。

「もっと楽にしていいのよ」

自然とかたくなってしまっていたようだ。真姫はそう言うが、やはりどこか落ち着かない。

真姫は五線譜ノートを手に取り、ぱらぱらめくる。
綺麗だが、使い込まれてるのが見て取れる。
今までもこのノートを使って曲を書いていたのだろう。

あるページでめくるのをやめて、

「はい、これ」

と、海未に差し出す。
楽譜を受け取った海未の目にまず飛び込んできたのはページの上の方に書かれた、自分でつけた曲の題。
下に目を移すと、五線譜に音符が散りばめられている。
それぞれ五線の上にはE、A、C#mなどのアルファベットや記号が、下にはこれもまた自分が書いた歌詞が、全体的に小さく、まとまった形の字でつづられてある。
五線以外は真姫が直接書いたようで、消しゴムで消した後が何か所もあって、真姫の作曲風景が少し想像された。

「歌詞に曲はつけてみたわ。そこに書いてあるのはメロディーとコードだけだけど」

海未はページをめくりめくり、一通り見てみたが、楽器を演奏した経験の少ない彼女にはよくわからない。
すると真姫は今度はイヤホンのついた音楽プレイヤーをテーブルの上に出した。
ここに録音してあるから聴いて、と。
海未はイヤホンを耳にはめ、再生ボタンを押した。
流れてくるピアノの音はさっき聞いたのとは違って力強い。そこに真姫の声が乗る。
明朗で、エネルギーを感じる凛とした声。海未は楽譜を目で追いながら、今回の新曲を聴いた。

聴き終えると、イヤホンをはずし、プレイヤーを真姫のもとへ返す。

「いいですね」

海未は率直な感想を述べた。

「…でも、まだ納得いかないとこがあるのよね」

真姫は懸命に照れを隠しつつ、困り顔を作りながらそう言った。

「私を呼んだのは、歌詞のイメージをつかむため、でしたか」
「そう。いろいろ聞きたいことあるの」
「私は、いつも通り真姫が解釈して曲を作ってくれればいいと思うのですが」
「今まではそうだったけど……今回は行き詰っちゃって。この際作った本人にいろいろ聞こうって思ったの。その方が早いでしょ?」

海未は、真姫が曲を作る際に自分の歌詞をいつも懸命に解釈し、今回は自分に聞いてまで歌詞に向き合ってくれていることを、嬉しく思った。

真姫は海未に歌詞のあらゆる点についてイメージを尋ね、楽譜にメモしていく。
嬉しそうに、舞い上がる感じで、少しだけ憂いを、……など。まるで取材を受けているかのような感じ。

「……こんなものでしょうか」
「うん、ありがとう。参考になったわ」

歌詞のイメージからメロディーを紡ぎ出すというのは一体どんな作業なのだろう。海未には見当もつかない。

「なにか紅茶に合いそうなもの持ってくるから、ちょっとゆっくりしてて」

そういって真姫は部屋を出て行ってしまった。

海未はこの静かな部屋に一人、ぽつんと残された。

聞こえるのは時計の秒針がカチカチと鳴る音だけ。
その音のする方を向くと、美しい装飾の施された時計が壁に掛けられてあった。
あまりに静かなので身じろぎ一つするのも躊躇われた。

ふと、海未の中で好奇心とでもいうべきものが湧き上がってきた。
迷う気持ちもあったが、ここでは好奇心が勝った。
ソファから腰を上げ、足音を立てずそっと歩く。

ピアノのそばまで来た。黒と白の鍵盤がずらりと並ぶ様は壮観。
光沢があって、つやつやしてるのが見ただけで分かる。
蓋の内側に目を移すと、金色に輝く様々な部品、無数の細い線があらわになっている。
一体どんな構造なのだろう。海未はまるで幼い子がはじめて見るものに興味を示すようにまじまじと見つめていた。

さらに、海未は鍵盤に触りたい衝動に駆られた。
いつもとは雰囲気の全く違うところにいるという感じ、非日常感とでもいうべきものが海未の行動を後押しした。



ポーン



鍵盤を人差し指で軽く押すと、綺麗なファの音が響く。
指を離すと音はスッときれいに消えた。

今度はドレミファと引いてみる。その次はかえるの歌。

そのとき、真姫がドアを開けて部屋に入ってきた。

「海未?」
「ごっ、ごめんなさい、勝手に触ってしまって」

海未は何かいけないことをしてしまったかのように感じ、縮こまってしまった。

「別に、そのくらいいいけど」

真姫はマドレーヌをいくつか乗せた皿をテーブルの上に置くと、海未の方を見て、いつもの鼻にかかったような声でくすりと笑った。

海未は少し気になっていたことを思い出した。

「さっきは、楽譜なしで弾いてたんですか?」
「さっき、って海未が来たとき?」
「はい」
「そうね。何回も弾いたら覚えるわ」

あれだけ複雑に指を動かしてるのでさえ人知を超越しているとしか思えないのに。
海未は表情豊かに、指を自由自在に動かしてピアノを弾く真姫の姿を思い出す。

「……真姫の演奏を見てると、やっぱり羨ましいっておもいます。ピアノが弾けたら楽しいんだろうなって」
「そう?そうかしら」

真姫はマドレーヌを一つ食べ、ティーカップに口をつけていたが、何か思い出したかのようにそれをゆっくりソーサーに置くと、ソファから腰を上げピアノのそばまで近づいた。

「海未」

そう言うと、背もたれのあるピアノの椅子を引く。

「はい、ここ。座って」

海未は突然のことに動揺を隠せなかった。

「私が、ですか?」
「そ。せっかくだし、何か1曲でも弾けるようになりたいと思わない?」
「とはいいましても・・・」

ますます困惑した。第一、楽譜を読むのにも時間がかかるというのに、それを弾くだなんて。

「楽譜なんていらないわ」

さらりとそう言って、真姫はそばに置いてあった小さな丸椅子を、今真姫が引いた椅子の左側に置いて座った。

「さ、早く」

海未は断ることもできず、いわれるがままに椅子におずおずと腰を下ろした。
しかし、左右に広がる白と黒を前に為す術もなく。

「見本、みせてあげる」

そういうと、真姫は身を乗り出して、ゆっくり、とある曲のフレーズを弾いて見せた。
なじみのある曲の冒頭。これ、知ってるでしょ?と真姫は言う。

確かに音は少ないし、左手も一音ずつ弾くだけでいい。

「やってみて」

真姫は相変わらずさらっと言ってしまうが、初心者にそんな簡単にできるはずもない。

でも、やってみることにした。

海未は恐る恐る両手を鍵盤に近づける。そして、真姫がやっていたように鍵盤を押す。
しかしものの数秒でわけが分からなくなった。真姫が奏でていたのとは程遠い、不協和音が耳をつく。
2度目もあえなく失敗。もう一度やってもだめ。

海未はちょっと悔しいと思った。

「む、難しいですね……」
「海未、ちょっといい?」

そういって真姫は海未の右手をとる。海未は突然のことに一瞬びっくりした。
真姫は両手で海未の手をそっと丸める。
真姫の指は細くしなやかで、少しだけひんやりしていた。

「少し力んでたから。こういう手の形で弾くのよ」

真姫がそっと手を離す。
海未は形が崩れないよう手をゆっくりと鍵盤の上に移す。
その形を保ったまま、ドレミと弾いてみた。
こころなしか、弾きやすくなったようなそうでもないような……という感じ。

「見てて」

そういって真姫は同じフレーズを弾いて見せる。
どうして一つのミスもなくこんなにきれいに弾けるのか、不思議でたまらなかった。

「まずは右手だけ弾けるようになりましょ」

そういって、今度は右手だけ弾いて見せた。
海未も真似するように弾いてみる。今度はさっきより簡単にできた。

「いいわね。もう一度」

そうやって、何度も繰り返した。

右手が弾けるようになったら今度は左手だけ。
こちらは割と単純でやりやすく、数回ですぐに弾けた。
でも、両手で弾くとなると話は全然違って、弾いてる途中で頭の中がこんがらがってどこをどう弾いたらいいのかわからなくなってしまう。
こんな単純なフレーズが、ここまで難しいとは思ってなかった。
でも、一度始めたことを投げ出したくない。
諦めず粘り強く、海未は弾きつづけた。


そして。

タッタータタータータータタタター タッタータターター
タッタータタータータータタタター タタタタータタタタター


「……!」

はじめて、ミスなしで最後まで弾けた。
「ススメ→トゥモロウ」の出だしの部分。

天にも舞い上がりそうなほどの、この上ない達成感。

「やりました…!」
「すごいじゃない。海未、ピアノのセンスあるんじゃない?」
「いえ……そんなこと」
「上達早いわ」

海未は嬉しくて、楽しくて、何度も繰り返し弾いた。

「それにしても、どうして私にピアノを?」

海未に尋ねられると、真姫は

「海未が羨ましいって言ってたから……その、教えてあげてもいいかなって。せっかく来てくれたんだし……ていうかごめん、後輩の私が偉そうにして」
「いえ、むしろありがとうございます。自分でも弾ける曲ができたというのは本当にうれしいです」

真姫はそれを聞くと満足したように笑みを浮かべて

「よかった」

 と一言。

「わ、私がピアノ教えてあげたってこと、みんなに言わないでよ」

海未はふふ、と笑って

「はい。ここであったことは二人だけの秘密、ですね」

そう言うと、真姫は口元を緩めてちょっと嬉しそう。
海未はそれを見て、いじらしくて可愛いと思った。

終わり

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