エルヴィン・スミス「花の香り」(17)




調査兵団団長室でエルヴィンの手伝いをしていたミケはすんっと鼻を鳴らした。
開け放れた窓から仄かに甘い香りが鼻孔を抜ける。


「そろそろだな」

「突然なんだ、ミケ」


今まで無言で書類を捌いていた大柄な男が不意に鼻を鳴らしたと思えば主語も付けずに同意を求めてきた。
なんのことだかさっぱりわからないエルヴィンは質問を返事にするしかなかった。



「桂花が咲き始めている」

「? それがどうしたんだ?」


問いに対しての明確な答えではなかった。

桂花。一般的には金木犀と呼ばれるオレンジ色の小さな花をいくつも咲かせ、甘い香りを強く発する植物のことを指す。
だが銀木犀と称する白色の花で香りの弱いものなど他にも幾つかあり、それらは分類上全て桂花と呼ばれていた。

ミケの言う桂花がどれをを指しているのかわからないが甘い香りで総称の桂花と示したのだろう。
強い香りならば金木犀なのかもしれない。

それが咲くからなんだと言うのか、エルヴィンはわからずやはり質問をした。


「わからないか?」


いたずらっ子のような笑顔でそう返され、エルヴィンはわからないと首を振る。



「お前の誕生日だ」


そういえば、と窓の外に目をやった。
そこにオレンジ色の花はまだない。どこの桂花を嗅いだのだろうと少し悩む。

ミケのことだから遠くの花の香りも嗅げるのだろうとすぐに思い、目を室内に戻した。


「……随分と回りくどいお知らせだな」

「そうか?」


忘れている方がおかしいとばかりの返事だ。
「花の香りで思い出せればいいかと思ってな」と取って付けたような理由を述べ、また書類を捌く作業へ戻っていった。





翌日は中央での会議で徴集された。
会議が終わり廊下を歩いていると後ろから声をかけられた。


「おい、エルヴィン」

「ナイルか。なんだ」


ナイル・ドーク。エルヴィンの同期であり、現在は憲兵団師団長だ。
先程の会議のことかと足を止め、振り向く。



「ああ、足は止めなくていい。歩きながら話そう」


エルヴィンの肩に手をやり、進行方向へ向き直させて歩き出した。
それをエルヴィンは追い掛け、並んで歩く。


「お前、今日これから空いてるか?」

「空いているが……何かあったのか?」


ナイルの言葉にエルヴィンが訝しげに彼を見やるときょとんとした顔をした。
それはほんの一瞬で軽く吹き出しながら手をひらひらと振る。



「ああ、違う違う。別に会議の事や兵団の事じゃない。ただ飲みに行かないかと思っただけだ」

「飲みに?」


物理的に距離があるため二人はそれほど会うこともなければ
憲兵団師団長と調査兵団団長という立場ではあまり頻繁に飲み交わすわけにもいかなかった。

仲良さげにし過ぎれば要らぬ穿鑿(せんさく)をされないとも限らないからだ。
それ故に互いにあまり誘いはしなかった。

特にナイルから誘われることは稀だ。エルヴィンは愛妻家である彼がほとんど寄り道をして帰ることがないと聞いていた。



「珍しいな。お前から誘ってくるとは」


外へと続く扉を開きながらそう話しを続けた。開けられた扉から少し冷たい風が通り抜ける。
その時ふわり、とかすかに甘い香りが鼻を擽った。
桂花か、とつい先日ミケに言われたことを思い出す。


「もうすぐお前の誕生日だろ」


思い出した言葉がナイルの声と重なった。


「祝ってやるよ」


ナイルは上からものを言い、にやりと笑った。
その言葉に、たまにはいいかと誘いに乗ることにした。

奢ってやるとのことだったのでエルヴィンは高い酒を頼もうと心に決め、酒場へと足を向けた。





数日後、エルヴィンは団長室でまたも書類と格闘していた。
既に日は傾き、濃い赤色に部屋が染まっていた。そよぐ風には甘い香りが乗ってくる。

あの日のナイルが頭に浮かんでふっとエルヴィンの頬が緩んだ。

高い酒を頼んだ時のナイルの顔は見物だった。
エルヴィンが少しは金を出すと言ったが意地なのか祝いだったからかナイルは受け取らなかった。

ほろ酔いで二人で街を行けば訓練兵だった頃を懐かしく思い出した。
良い思い出と苦い思い出。今はあの頃ほど屈託なく己の考えを互いに口にはできなくなっている。

二人はあの頃の良い思い出だけを語り合った。
苦い思いに今は蓋をして。


物思いに耽っていると扉を叩く音がした。


「入るぞ」

「エルヴィン、仕事終わったー?」

「迎えにきた」


返事をする前にリヴァイが扉を開け、続いてハンジが顔を出し、ミケが不思議なことを言った。


「リヴァイ、返事をしてから開けろ。ハンジ、仕事はまだ残ってる。ミケ、迎えとはなんだ?」


リヴァイをたしなめ、ハンジに答え、ミケに疑問を返してふと思う。ここ最近彼には質問をしてばかりだと。



「桂花の花だ」


あの時のいたずらっ子のような表情をしたミケからの返事に花の香りが吹き抜けた。
そうか、今日は当日だったなと苦く笑う。


「あとサインだけじゃないか」


ハンジが机の上の書類を覗き込み、さっさと書いてしまえと促す。
エルヴィンが急かされて書類を終わらせると祝いの準備はもうできているのだとさらに急げと言われた。

廊下を、食堂に向かって歩く四人の影が伸びている。

今日の分の書類は終わらせたが明日の分にも少しは手をつけたかったなと考えながらも
わざわざ迎えに来てくれた部下を無下にするわけにもいかないかとエルヴィンは足を動かす。


ナイルと飲んだ酒ほどではないかもしれないがきっと良い酒を用意してくれているだろう。
そう思うとナイルと二人で街を歩きながら話した訓練兵時代が浮かんだ。

訓練兵時代、エルヴィンは何度もあの仮説を仲間に話していた。
だが調査兵になってからは口にしていない。つまり今、共にいる彼等は知らないことだ。

苦い思い出が蓋を開けろと内側から叩く音が響いた気がした。
伝えればいい、言ってしまえばいい、騙している彼等に。……自分自身に。
彼等ならもしかしたら、



「エルヴィン、お腹でも痛いの?」


エルヴィンはハッとしてハンジを見る。ハンジは少し心配そうな顔をしている。


「クソならそこに便所があるぞ」


前を見たままリヴァイが追従する。


「いや、違うだろ。……多分」


ミケが少し迷って否定する。
彼等の顔を見た途端にエルヴィンの内でガタガタと揺れていた蓋がぴたりと止まる。

何かを思い出しそうに……言いそうになったがなんであったろうかと思う。
すぐに思い出せないということは今はまだ必要のないことだと決めつけて前を向く。


「腹は痛くない。明日の仕事の量を考えていただけだ」


嘘でもないことを口に出し、肩をすくめる。



「今日くらい明日の仕事は明日に回せ」

「手伝うよ」

「仕事バカが」

「仕事忘れて飲めって言いたいみたいだよ」


ミケはたしなめ、ハンジは協力を申し出て、リヴァイはなじったように見えたがハンジに翻訳された。
それに破顔して「わかった」と告げて再び廊下を歩き出した。

暗闇のその先に光があると信じ、いつか皆で真実に辿り着ければと
どこか奥底でそんな思いが掠めたがエルヴィンは叶わぬかもしれないそれに気づかぬふりをした。

廊下の窓は閉められ、桂花の香りは感じられない。
赤く染まっていたはずの窓の外はいつのまにか夜の帳が降り、行くその先は人の声で賑わっていた。






*念の為注釈

桂花(ケイカ)。学名:オスマンサス
原産は中国なので進撃の世界には多分無いかもしれない
でも何故かヨーロッパの言い伝えに「金木犀の香りは潜在能力を引き出す力がある」とか言われているのでまぁいいかと
それとドイツ語にズューセ・ドゥフトブリューテという金木犀を意味する言葉があるので使った
という言い訳

読んでくれた方いましたらありがとうございました

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