瀧「君の、名前は――」 (64)
*君の名は。のSSです。映画全編に渡ってのネタバレがあります。ご注意ください
*オリキャラとして、瀧と三葉の娘が出てきます。嫌な人はスルーしてください。
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お父さんとお母さんは、いつどこで出会ったの?
と私が両親に聞くと、二人揃っていつも困った顔をする。
一応、たまたま並ぶように走っていた電車の窓越しにお互いの顔を見て、それで……とは言う。
そうなんだけど……でも、うーんと、またはっきりしない口調。
実の娘に対して、取り立てて秘密にするようなものでもないだろうし、お父さんもお母さんも本気でそこら辺は覚えていないようなので、いつもそこでその会話は終わるけど。
私という存在は、二人が出会わなければ、生まれなかった訳で。
そこを曖昧にされるのは、奥歯に何かが詰まったような、そんな気分になるのであった。
お母さんは岐阜の飛騨出身。お父さんは東京生まれの新宿育ち。
糸守という小さな町に住んでいたお母さんが上京して、そこで出会ったお父さんと結婚。
そして生まれた一人娘が私というわけだ。
まぁことさら掘り下げる必要もない、よくある話、なのだろう。お父さんとお母さんの結婚の話は。
だけど、何かこう……もっと何か深いストーリーがお父さんとお母さんの間にはあるような、そんな気がするのだ。
もちろん、それは私の直感だけども。
だけど、それは大して外れてはいないとも思う。
お父さんとお母さんはすごく仲がいい。
お母さんはお父さんといる時、いつもニコニコしているし、お父さんもおんなじだ。
たまに喧嘩や言い争いもしていたりするけど、気付けばすぐに元通りの仲良しこよし。
私の前では二人とも親を演じようとしているけれど、二人っきりになると、イチャイチャしているのを私は知っている。
一回、お父さんに耳かきして貰っているお母さんの顔を、偶然ドアの隙間から見た事があった。
ちなみにその時、私の前ではお父さんと呼んでいる父の事を、瀧君、瀧君、とお母さんは甘えた声で呼んでいた。、
とても幸せそうだった。
お母さんの方が3歳年上だけど、どうやらお母さんの方が、お父さんに甘える事の方が多いようだ。
結婚してから10年以上も経つのに、よくもまぁ飽きもせずイチャイチャ出来るなぁと半分呆れて。
半分羨ましかった。
私はまだ、恋をした事がないから。
物心ついた時から、誰かの事を四六時中考えるようになった事がない。
カッコいいなと思う人は何人かいたけど、それだけだ。
それをお母さんに相談した事がある。
お母さんの初恋っていつ?と。
すると母は、少し顔を赤くして、あなたもそういう年頃になったのね、もう中学一年生だものね、と笑った。
顔を赤くするような年でもないだろうに、と思うが、母は身内贔屓抜きにしても未だに若く見えるし、とても美人だ。
私とお母さんが並んでどこかを歩いていると、少し年齢の離れた姉妹に間違われた事も一度や二度じゃない(私がどうやら大人びた容姿をしているのも原因だろうが)。友達にもお母さん、すっごい美人だね、とよく言われるし。
そしてその美人の母は、うーんと少し考えたあと。
そうね、私の初恋は……お父さんだったかもね。
と、照れたように言った。
……流石にそれは盛りすぎじゃない? だってお父さんとお母さん、出会ったの二十歳過ぎてからでしょ? それまでに恋の一つや二つ、したんじゃないの?
私のその言葉に、母は苦笑して。
うーん、でもお母さんの町は田舎町だったからね、幼いころから見知った人ばかりで、ピンと来る人が居なかったし。だから本当に初恋はお父さんだったのかも。
と言った。
初恋の人と、そのまま結婚……
まるで理想みたいな、今時、幻想みたいな話だ。
そんな事を考えていた私がどんな表情をしていたかは分からないけど……
母は、私の髪を優しく撫でると、微笑んだ。
焦らなくていいわ。大丈夫、いつかきっと、あなたにピッタリな素敵な男の子が現れるから、ね。
……だといいけど。
お母さんに頭を撫でられながら、私は最後に質問した。
じゃあ、お母さんは、いつお父さんの事が好きになったの? 一目惚れだったの?
私の言葉に、お母さんはうーん、としばらく宙に目線をやったあと、
出会う前から、かな?
と言った後、自分での発言が恥ずかしかったのか、自分で言って自分で照れていた。
私はそんなお母さんを見て、なにそれ、と呟いた。
――やっと出会えた。
三葉に『初めて』出会った時、何故か心の底からそう思ったんだ。
目と目が合った瞬間に、ドキリと跳ねた心臓。
目的地の事なんかすぐに忘れて、次の駅で降りて彼女を探した。
アテもないのに、連絡先も知らないのに、彼女も次の駅で降りる確証なんてないのに。
普通に考えれば出会える訳もないのに。
それでも、その衝動には逆らえなかった。
まるで心が体を追い越したみたいだった。
探して探して、汗だくになって、辿り着いたとある路地の階段下。
見上げれば、そこに彼女は居た。
俺は彼女を見て、彼女も俺を見た。
彼女も俺を探してくれていたんだ。
そう思うだけで、飛び跳ねたいくらい嬉しくなった。
俺は階段を登り、彼女は階段を降りていく。
一歩一歩、お互いに近づいていく。
緊張は最高潮に達した。
しかし……
俺たちは、お互いに何でもないような顔をして、すれ違った。
すれ違った。
……おい、しっかりしろ、瀧。
ここで、もし彼女に声をかけなかったら、次に彼女に会える保証は、どこにもないんだ。
ドキドキを超えて、バクバクと高鳴る心臓。
それに身を任せて、俺は口を開いた。
「あの……! 俺、君の事、どこかで……!」
俺が声を掛けると、彼女はすぐに振り向いた。
まるで俺の言葉を待っていたみたいだった。
彼女は感極まったような表情をして、涙を流し、そして顔をくしゃくしゃにした笑顔になって、こう言った。
「……私も」
――ああ。
その声を聞いた時、心の中でガッツポーズした。
あの感覚は、衝動は間違いじゃなかった。
俺は、俺たちは。
「「君の、名前は?」」
――きっと俺たちは、ずっとずっと、お互いを探していた。
お母さんの出身地、飛騨には、十数年前、隕石が落下している。
正確には1200年ぶりに地球に接近した、ティアマト彗星が分裂。その欠片が隕石となって、お母さんの住む糸守町に降り注いだそうだ。
何で私がこんな事を知っているかと言うと、何となく気になって調べたからだ。
ちなみになぜかその日、糸守は町を挙げての避難訓練を実施。村は壊滅したものの、奇跡的に死者は0人。
全国的にニュースになり、週刊誌では町の町長――お母さんのお父さんだから、私にとってのお爺ちゃん――について、預言者ではないかと囃し立てたり、その日偶然起こったらしい変電所での爆発を取り上げたが、十数年経った今ではもう、すっかりみんな覚えていなかった。
……おかしい。絶対に何かある。
私の勘がそう言っているが、私のような平凡な中学一年生に調べられるのは、せいぜいネットに転がっている昔の記事を読み漁るくらいしかない。
そして殆どの記事は憶測と推測ばかりで役に立たなかった。
お母さんに聞いても、私もそこら辺は覚えていないのよね~その日色々と忙しかったから、と言われ。
お父さんに聞いても、その日の事は覚えてないなぁ~……昔、何でか一人で糸守に行った事があるけど、景色がキレイな田舎町だったくらいしか覚えてない、とも言われた。
それで、詰み。
調べようにも、それ以上は調べようがなかった。
悶々とした気分で寝たままだったせいか、私はその日、変な夢を見た。
夢の中の私はどこかの田舎町で、何故か男の子になっていた。
しかも鏡を見ると、結構な美男子だった。背も高いし。
……股間に変な感触はあったけど。
夢の中の私は人気者らしく、学校に付いたら、たくさんの人が寄ってきた。
たくさんの見知らぬ人に親しげに話しかけられたら、流石にワタワタと対応するしかなかった。
その夢の中の男の子の、友達らしき人物が熱でもあるのかと言って、手を額に当てた時は、思わずひゃん、などと言ってしまったし……
しかし、田舎の方が人柄は温かいというのは本当らしく、いつものその男の子らしくないという事で、みんながとても私を心配してくれた。
中々醒めない夢で、所属しているらしいサッカー部の練習にまで参加してしまった。
その練習中、転んで擦り傷をしてしまった子がいたので、保健室にまで連れていき、看護してあげた。
現実の私は保健委員をしているので、その責任感からだ。
消毒したあと、絆創膏を貼る……だけども、それだけだと味気ないので、ちょっとかわいくしようと絆創膏に猫のマークを描いて貼ってあげたら、その男の子はとても妙な顔で私を見ていた。
……そう言えば、今の私は男の子だったな、と思い出して、慌てて保健室から出て、顧問の先生に別れを告げてから家に帰った。
そしてベッド――ではなく、布団に潜り込んで寝た所で。
ようやく、現実の私は目を覚ました。
妙にリアルで、長い夢だったなぁ、と思いながら、顔を洗って着替えた後、台所に行く。
おはよう、とお父さんとお母さんに声を掛けると、二人とも私の顔をまじまじと見たあとに。
良かった。今日はいつも通りね。
とお母さんが言った。
…お母さん。何を言っているの?
と私が聞けば。
だって、昨日すごく変だったじゃない。やたらと元気一杯だし、仕草や口調もちょっとがさつで、まるで男の子みたいだったわよ。
と返ってきた。
…え?
俺と三葉の仲は、トントン拍子で進んでいった。
会話のノリやテンションもドンピシャ。
二人で一緒に行きたい場所や、食べたい物、やりたい事も見事に合致。
まるで、何年も前から知っているみたいに、俺たちは息ピッタリで、そしてお互いがお互いを理解していた。
それだけでもたまらないのに、彼女の顔や雰囲気、会話や表情の何もかもが魅力的で。
我ながらすごい勢いで三葉に惹かれていった。
……一応、彼女は3歳年上なので、本来ならばさん付けで呼ばなければならないだろうけど。
なぜだろうか、彼女と知り合って一週間後には無意識の内に三葉と呼んでいた。
その日は、三葉と出会ってから2週間目の週末。
二人っきりで映画を見て、感想を語り合っていた時、つい勢いで三葉、と呼び捨ててしまった。
呼び捨てにした時は一瞬、怒られるかもと思ったが。
彼女はなぜかとても嬉しそうに笑ったあと、もう一回三葉って呼んでと言った。
「……三葉」
「……もう一回」
「……三葉」
「……えへへ、もう一回」
「三葉三葉三葉」
「えへ、えへへへへ……」
頬に手を当て、顔を真っ赤にして照れる三葉。
正直、抱きしめたい衝動に駆られたが、何とかこらえた。
「それじゃあ、これからは私も立花くんの事、瀧くんって呼ぶから」
瀧君。三葉にそう言われた時、なんとも言えぬ感覚に陥った。
しっくりきた、歯車がはまった、噛み合った、そんな表現達では足りぬほどの、それを待っていた感。
「う、うん」
「どうしたの?瀧君」
「いや……その、うん……」
「? 変な瀧君」
そう言って、彼女と別れたその日。
俺は三葉が愛おしすぎて、枕に顔を埋めて「三葉、好きだー!!!」と叫んでいた。
そうして、三葉と出会って一ヶ月も経たない内に。
俺は三葉に告白する決意を固めた。
今までの人生で一度も告白した事もない俺だが、自然とその決意は固まっていた。
まるで出会う前からそう決まってたみたいに。
しかし、告白するのはいい。いいのだが。
……なんて告白しようか。
告白の仕方に悩んでいた。
普通に告白したら、三葉につまらない男だと思われたりしないだろうか。
かと言って、司達に協力してもらって、サプライズしてからの……というのも何か違う。
どんな形で告白するにせよ、その言葉は、俺と三葉の二人だけのものにしたかった。
手紙……という案も思いついたが、俺にはそんな文才も文章力も無い事は、就活で星の数ほどの企業に書類選考の時点で落とされた時点で証明されている。
ならば、一体どうしたらと、寝る前に考え始め、思いついた言葉を羅列したり、恋愛指南サイトを見たり、ああじゃないこうじゃないと考えに考え抜いたあと。
やっと告白の手段が決まった。
気付けば夜が明けていた。
こんなにも、誰かに自分の気持ちを伝える事を考えたのは、初めての事だった。
そうして、次の週末。
いつも通り、二人でデートをした帰り道。
「……」
「……」
俺と三葉は、お互いに黙っていた。
話題が尽きて気まずい雰囲気、という訳じゃない。
ただ、何か言い出せば、俺と三葉の間にある何かが崩れてしまいそうだから。
もしくはそれを察して、じゃあ今日はこれで、と言って帰るしかなくなってしまうから。
そういう沈黙だった。
「……三葉」
「う、うん? なに? 瀧君?」
だけど、俺はその沈黙を破った。
もう俺は、三葉の傍を離れたくなかったから。
その気持ちを伝えようと思ったから。
出来る限り、真剣な顔をして、三葉の目を見る。
吸い込まれそうなほど、綺麗な目だ。
「伝えたい事があるんだ」
「……は、はい。なに?瀧君」
俺の真剣な雰囲気に驚いたのか、大きな目が、さらに大きく開かれ、純白の肌に朱が差した。
「あのさ……」
「……うん……」
「……これを見て」
俺は、そう言って、自分の手を、三葉の前に差し出した。
好きだ。立花瀧。
そう太く書いてある俺の掌を、三葉の顔の前に晒す。
恥ずかしくて、三葉の反応が怖くて、思わず頭を下げて三葉の方が視界的に見えないようにする。
……告白するにはシンプルすぎるセリフだし、ましてやこれくらい声に出して言えよって思われるかもだし、何でか勢いで俺の名前まで書いてしまったけどさ。
思いついた時、何故か、これだ! これしかない! って、そう思ったんだ。これなら絶対に、三葉もOKしてくれるって。
……そう思ったんだけど。
何故か、三葉からの返事がない。
……やっちまったか、と思う。ここ一番で、俺は外してしまったのかと。
そう思うと、急に冷や汗が出てきた。嫌な感覚。内蔵が全部口から出てきてしまいそうな。足元が割れて地獄に突き落とされたような。
「……瀧君」
「う、うん?」
「まだ顔上げちゃだめ」
そう言われて、俺は上げかけた顔を慌てて下げる。
なんだ。なんだ。なんなんだ。
ひょっとしたら、精一杯俺を傷つけない言葉を探しているのだろうか。
それとも、俺の告白の仕方が寒すぎて幻滅してしまったのだろうか。
「はい。顔上げていいよ」
ネガティブな妄想にテンションが急降下していたところで、三葉の口からそんな言葉が。
恐る恐る。ゆっくりと顔を上げる。
三葉がどんな顔をしているか、怖くて見れず、目をつむったまま。
「目を開けて」
だが、三葉からそう言われれば、目を開けずにはいられない。
ゆっくり、ゆっくりと薄目で三葉がどんな表情をしているのか確認して、覚悟をしてから両目を開けようとまで考えた所で、飛び込んできたのは、俺に幻滅する三葉の顔――ではなく、三葉の掌と……そこに書いてある文字だった。
私も瀧君が好きです。付き合ってください。宮水三葉。
目を開けて、一文字一文字、丁寧に確認する。
……お、おお……? お、おおう……? うお………おおおおお!!!??!?!
「ほ、本当か?」
「うん。私でよければ付き合ってください」
「ほ、本当に……いいんだな!?
「うん、これからは……こ、恋人として、よろしくね、瀧君」
「……三葉あああああ!!」
「きゃっ」
勢いで抱きついてしまった。
初めて抱きしめる、三葉の体の感触。
三葉の体は、暖かくて、柔らかくて。
そして、何でか、とても懐かしかった。
私は、とある田舎の男の子と入れ替わっている。
非現実的だが、その現実を受け入れるには十分すぎるほどの体験をしてしまった。
ここ最近、不定期ではあるものの、週に2~3回入れ替われば、誰でもそれを現実として受け止めることだろう。
あるいはこれ入れ替わりの期間まるごと全部が夢という可能性もあるけど、むしろそっちの方が怖いし……
うぅーん……と、私は頭を抱える。
とりあえず今日の私は、私だ。中学一年生の、女の子の、いつもの私。
そして、スマホを手に取り、日記のアプリを見る。
すると、そこには男の子らしい文章で、昨日の出来事が記されてある。
私達はいつの間にか、どちらからともなく、入れ替わった時の出来事を記す習慣が出来ていた。
そして日記を見れば、どうやら、昨日の私――つまり、入れ替わっている田舎の男の子――は、体育でまた大活躍したらしい。
そのせいで私は毎日、運動部の先輩から勧誘を受けて大変だと言うのに……こっちの迷惑も考えて欲しい。
私は普段あんまり運動しないから、元に戻った時大体筋肉痛だし。
まぁ、私も入れ替わった先で、男の子なのに女子っぽい振る舞いをしてしまうから、多少迷惑はかけてると思うけど……
昨日なんか、男の子に告白されたし……まいった。告白されるのは初めてではないけど、男の子として男の子に告白されるのは初めてだから、ちょっと戸惑ったあと、断って慌てて逃げてしまった。
お互い様だと思うけど……ううん、違う。筋肉痛の分だけ、私の方が被害は大きいはずだ。
あとで文句の一つでも付けてやろう……と思っていたら、とあるいいアイデアが浮かんだ。
今日、寝る時が楽しみだなと思った。
そして、翌日。
今日の私は、男の子の私。
さて、今日はどうしよっかな、と思いつつとりあえず顔を洗おうと、洗面台に行って、鏡を見たら。
顔にアホと書いてあった。
……どうやら、考える事はおんなじのようだ。
私も昨日、自分の顔にバカと書いて寝たし。
……まぁ、ここまではまだ許せた。
しかし、机の上に、ノートに見開きで、大きく
貧 乳
と書かれていたのは許せない。
私はまだ発展途上なのだ。確かに、学校内でも下から数えた方が早いくらい小さいけど……
こっちも仕返ししてやる。
そう思って、次のページをめくり、私は大きくドスケベ! と書いた。
ふと、ちょっとした出来心でこの男のスマホのアルバムを覗いたら、中身は女性の裸だらけだったのだ。
しかも、胸の大きい女性ばっかり。
おっぱい好き! マザコン! ともついでに書いた。
ちょっとだけスッキリした。
その次の日。
今度の私の机の上に、ノートにでかでかと下着が地味!と書かれていた。
そんなんだから彼氏がいないんだろうが!とも。
そこからはもう止まらなかった。
私は彼氏がいないんじゃなくて作らないの! それに彼女がいないのはあなたもでしょ! と私が書けば。
俺だって作らないだけだよバカ!と帰ってくる。
成績が悪い! もっと勉強しろ!
真面目ちゃん乙! つまんねー人生だな!
私は将来をちゃんと考えてるの! あなたみたいな運動バカと一緒にしないで!
運動バカとはなんだ! だったらお前は勉強バカだろうが!
勉強バカってなによ! 意味わかんない! 何であんたなんかと入れ替わらなきゃいけないのよ!
俺だってお前みたいな貧乳な女と入れ替わりたくなんかねーや!
……と、まぁこんな感じで……
お互いにノートやスマホの日記アプリで、口汚く罵り合っていた。
……男の子と、こんな風なやり取りをするのは初めてだから。
ちょっとだけ、楽しかった。
そして今日は休日。
今日は私。いつもの、女の子の、普通の私だ。
この入れ替わり生活にも少々疲れ、友達からの誘いも無く、特に用事もなかったので、夕方くらいまで家でまったりしていると。
久々に家族三人で買い物にでも行こうか、と誘いがあった。
少し遠出して、幕張の巨大ショッピングモールにまで足を伸ばした。
ここに来るのは初めてで、家族3人揃って、おっきいねーと言った。
そしてお父さんは、仕事で使う物、お母さんは食材や台所のものを買うという事で、バラバラに買い物する事になった。
お父さんに、じゃあ一緒に買物しようか、と言われたのでお父さんに付いていこうとする。
が、お母さんが、お父さんは何でも買ってあげて甘やかしちゃうからだめ、お母さんに付いてきなさいと言われ、お母さんと買い物する事に。
お父さんのしょんぼりした背中が印象的だった。
お母さんと二人で、食品売場へ。
流石は国内最大級の売り場面積を誇るとあって、そこも普通のスーパー並……いや、それ以上に広々としていた。
お母さんと、二人でああでもないこうでもないと言いながら、食べ物を物色する。
今日の晩御飯はビーフシチューにでもしましょうか、なんて言いながら玉ねぎを手に取るお母さん。
またビーフシチュー? と私が言う。
うん、だってお父さんが好きだから、とお母さんが何でもないことのように言う。
……そう、と言って、心の中で、ごちそうさま、とひとりごちる。
本当に、お母さんはお父さんが大好きだなぁ、と思う。
勿論、お父さんもお母さんが大好きなんだけど。
……もう、私達の出会った経緯はいいの?
お母さんに唐突にそう聞かれ、え? と私は聞き返す。
最近、あんまり聞いてこないから。とお肉を物色しながらお母さんは言う。
ああ、最近、ちょっと忙しくて、ていうか、色々とあって……と素直にそう返す。
実際、あの男の子との入れ替わりで、それどころじゃ無くなった。
今の私はこの現象の事で頭が一杯なのだ。
まぁ、お母さんもあんまり覚えてないから、聞かれても困るんだけどね、とお母さんは苦笑。
そう言えば、色々あってっていうけど……最近のあなたは男の子っぽかったり元気一杯だったり、だと思ったらいつもの感じに戻ったりで……大丈夫? 学校で何かあったの?
とも聞いてきた。
う……そう言われると、何だかすごく恥ずかしい。
嘘は付きたくないけど、かと言って、実は田舎の男の子と入れ替わってて……なんて言える訳がない。現実と妄想の区別が付かない幼稚園児じゃあるまいし。
だ、大丈夫だから心配しないで。本当に大丈夫だから。
と適当な品を手にとって、適当に誤魔化す。恥ずかしくてお母さんの方が見れない。
全く、この入れ替わり現象の……ううん、あの男の子のせいだ。女の子になったんなら女の子らしい態度をして欲しい。
お母さんは、そう、ならいいけど、困った事があるなら、何でも相談するのよ、と一つ頷くと肉をカゴに入れた。
お父さんの好きな、ちょっと高いけど、いい肉を。
でも、何だか今のあなたを見ていると、すごく懐かしい感じがする。
会計を済ませ、二人で袋に商品を詰め込んでいると、お母さんがそんな事を言った。
懐かしいって、何が?
うーん、わかんないんだけど、何となく。
お母さんの曖昧な答えに、なにそれ、と返す。
……うーん、ごめんね、思い出せないや、とお母さんはまたまた苦笑い。
懐かしいとは何の事だろう。この入れ替わり現象の事だろうか。
……まさか。
そんな事ある訳ない、と紙パックの野菜ジュースをパンパンになった袋にどう詰めようか迷っていると……
あっ、でも一つだけ分かるかも、とお母さんは言った。
何?
最近、ちょっと気になる男の子でも出来た?
は、はぁ? と思わず大声を上げてしまった。
静かに、それと野菜ジュース、潰れちゃうわよ。
とお母さんに指摘されて自分が手に力を入れていた事に気がつく。
多少変形してしまった野菜ジュースを乱暴に袋に突っ込む。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。
で、どうなの? 相手はどんな子?
お母さんが興味ありげにそう聞いてくる。
べ、別に、そんなのいないよ、ていうか、こんな大勢人がいる所で、そんなの聞かないでよ。と私は言う。
これでも思春期、色々と恥ずかしい年頃なのだ。
それもそうね、ごめんなさい、と言うと、お母さんはすぐにその話題を打ち切った。
若いっていいわね~と、最後に一言、余計な事を言いながら。
さて、それで。お父さんはどこかしら。
食品売場から出ると、お母さんが辺りを見渡しながらそう言う。
LINEで連絡取ればいいんじゃない?
という私の言葉に、
う~ん、そうなんだけどね……
と煮え切らない返事した後、お父さんに連絡しないまま、次のお店に向かって歩きだす。
……また始まった。と私は心の中でため息をついた。
家族3人で買い物に行き、効率上、二手に分かれて買い物すると、何故かお父さんとお母さんは連絡を取り合わない。
いや正確には、取りたがらない、だろうか?
どう考えても、連絡を取った方が速く見つかるんだけど、お父さんもお母さんもそれをしない。
というか、二人とも、行き先さえも教えない。
でも、それでも、お父さんは高確率で……というか殆ど必ずと言っていいほど、お母さんを見つけ出す。
初めて言った場所だろうと、どこだろうと、だ。
今日も、巨大なショッピングモールだというのに、端から端まで探すだけでも、誇張抜きで1時間は掛かりそうな場所だというのに、教えなかった。
……流石に今日は無理な気がするけどなぁ。
そう思いながら、お母さんと二人、色んなお店を回る。
台所用品のお店から、それから小物系のお店なんかも。
一通り、全ての買い物が済んだ。
……お父さんと別れてから約一時間。
お父さんは私達の前に現れなかった。
まさかまだ買い物してる訳じゃないだろう。お父さんと二人で買い物する事はそこそこあるけど、そんなに物選びに時間を掛ける人じゃないし。
お母さんも、流石に今日は無理かな、と諦め顔でスマホに手を伸ばそうとした時。
――おっ、居た居た。
お父さんが私達の前に現れた。
いやぁ~、まいったまいった。ここ本当に広いな。ずいぶん探したよ。
と、私達を見ながら、お父さんは本当に嬉しそうに笑った。
……瀧く……お父さん、もう、遅いよ。
そう文句を言いながら、しかし笑っているお母さんもまた、とても嬉しそうだった。
ごめんごめん、まぁこれでも必死で探したから、許してくれ。とお父さんはお母さんの荷物を何でもないように持ちながら言った。
合流した後も、3人でフラフラと洋服を見たり、新装開店したお店のスイーツを食べたりした。
そしてショッピングモールを出て、家の近くの馴染みの飲食店に寄った。
こじんまりしてるけど、店内の落ち着いてまったり出来る雰囲気が、私はすごく好きだ。
ここのオムライスが絶品で、私は毎回それを頼む。
ね、お父さん、この子、最近気になる男の子が出来たんだって。
注文してから待ってる間、他愛もない会話をしていると、お母さんがいきなりそんな事を言いだした。
ちょ、ちょっとお母さん、辞めてよ!
と、私は結構本気でお母さんに怒り、
……マジか。
お母さんの言葉を聞いたお父さんはズーンと一気に沈んだ。
ずっと、お父さん大好きお父さん大好きって言ってたのに……誰だそいつは、今すぐここに連れてこい……よくも俺の娘をたぶらかしやがったな……ぶん殴ってやる……
お父さんは鬼気迫る勢いで何やらブツブツと呟いていた。
いや、そんな最近は……ていうか、ここ2~3年はお父さん大好きなんて言ってないんだけど……
その後も、で? どんな子なの? 背はおっきいの? イケメン? 優しそう? と根掘り葉掘り聞いてくるお母さんの質問を受け流し、
いいか、一生家に居ていいんだからな。お父さんはこれでも結構稼いでるんだ。どこの誰にも嫁がなくていい。一生お父さんが養ってやるからな、とかなり本気の目で言ってくるお父さんに苦笑しながら、私は速く料理が運ばれてこないかなーと思った。
その後、絶品のオムライスに舌鼓を打ったあと、お父さんとお母さんが頼んだ食後のデザート(私はさっきショッピングモールで食べたスイーツで甘い物は満足だったので遠慮しといた)を待っていると、スマホが震えた。
画面を見れば、友達からだった。小学校からの付き合いで、一番仲良しの友達だ。
ついでに言えば、2日ほど前、随分前から好きだった男子に告白し、見事に撃沈し絶賛落ち込み中の子でもある。
声を掛けるのもためらうくらい落ち込んでいて、本人からも一人にして欲しいと言われたので連絡を断っていたのだが、ようやく私に電話出来るくらいには気力が回復したらしい。
店内は通話禁止という訳ではないが、お店の雰囲気を壊したくなかったのと、内容も内容だと思い、お父さんとお母さんに了解を取って、お店の外に出て電話を取った。
好きだった、すごく好きだった、こんなに好きなのに、どうして……と泣きじゃくる彼女をなだめ、落ち着かし、励まし、ちゃんと来週の月曜日学校に来るんだよ、と言って電話を切った。
……羨ましいな、と思う。
私には、一緒になれない事で、泣くくらい好きな相手は、お父さんとお母さん以外にまだいないから。
……お父さんも、お母さんも、お互いの事、まだ泣いちゃうくらい好きなのかな、とぼんやり思う。
世の中の夫婦が全部上手く行っている訳ではない、というのは中1の私でも流石に分かる。友達や知り合いの両親が離婚なんて話も、聞きたくないが嫌でも耳に入ってくるし。
まぁ、実の娘から見ても、ちょっと冷やかしたくなるくらい仲はいいし、私が心配するような事でもないんだろうけど……
そう思いながら、スマホをポッケにしまい、店内に戻る。
そうだ、今日はあの男の子に、今度の授業の宿題の事、しっかり伝えなきゃ……と思いながら席に戻ろうとして
もう、瀧君機嫌戻して……しょうがないよ、そういう年頃なんだからさ……はい、あーん。
嫌だ……絶対に誰にも渡さないぞ……可愛い可愛い俺の娘を、どうしてどこの馬の骨とも知らん奴に……あーん。
未だに不機嫌になってるお父さんに、超ニコニコしながらデザートをあーんしてあげているお母さんの姿が。
……泣いちゃうくらい好きなのかは分からないけど……
なんとなく、お母さんもお父さんもまだまだ若いじゃん、と思った。
その日の夜、宿題をしていると、シャーペンの芯を切らしてしまったので、コンビニへと出かけた。
近いコンビニなので、ささっと買い物を済ませ、ささっと帰ってきた。
ただいまー、と言うと、お父さんが心配そうに私に声を掛けてくる。
おかえり。大丈夫か? 変な奴に会わなかったか? 最近は物騒だしな。
徒歩3分、走れば1分の超近いコンビニで、そんなに心配する必要はないんだけど……
うん、大丈夫だったよ。ていうか、過保護すぎだって、お父さん。
いや、でもな。ほら、前に変な奴に絡まれた事があっただろう? 何故か名前を知ってて怖かったって言ってたじゃないか。
またその話? と私は半分呆れながら言って、ともかく大丈夫だから。とお父さんに告げて自分の部屋に戻っていく。
……3年前くらいだろうか? 友達と遊んで家に帰っていると、いきなり男の子に声を掛けられた事があった。
その男の子は、美男子だったけど、どこか東京の男の子とは違っていた。良く言えば純粋そうで、悪く言えば田舎から出てきた感じのする男の子だった。
そして何故か執拗に、私の名前を呼んでいた。
なぜ、私の名前を知っているのか。さらに、良く言えば照れくさそうに、悪く言えば挙動不審な感じで私に近づいてきた。
私がえっと、あなた誰……? と聞くと、ものすごくショックを受けた顔をして、どこかに言ってしまった。
最後に名前を告げられたけど、正直覚えていない。
そしてそれ以来、その男の子には二度と出会っていない。
どっかで見た顔のような気もするけど、流石に3年も前の事だ。うすらぼんやりとしか覚えていない。
なんだったんだろうなぁ、あの男の子、と思いながら、ベッドに寝転ぶ。
……あの入れ替わっている男の子は、今頃何してるのかな?
ふと、そんな事を思った。別に、大した意味はないけど……
……メール欄に書いてある、昨日の彼の日記を読み返す。
朝も呼んだけど、文章からにじみ出るおおざっぱさと荒々しさを感じて、男の子だなぁ、とぼんやり思う。
しかし、朝は気に留めなかったが、ふと、気になる文章があった。
――台風が近づいてきてるな、せいぜい地味な下着が周りの男に見られないように気をつけろよ、と。
……後半の文章は余計だが、しかしどこかおかしい。
確かに今は台風が発生する季節ではあるが、台風が近づいてきてるなんて予報は出ていなかったはず。
調べてみると、台風が近づいてきてるどころか、今現在、発生している台風すらなかった。
どういう事だろう……後半の文章が書きたかっただけ? いや、そんな回りくどいことをするような男の子ではない、はずだ。
……なんて、入れ替わっていてこそすれ、直接会ったことがないから、私には分からないけど。
――会ってみたいか? と問われれば、首を縦に振るしかない。
会って、話がしてみたいのは確かだった。
……私は、少し勇気を振り絞って、検索ツールにある単語を入れた。
その単語は、彼の――つまり男の子になっている時の私が通っている――学校名だ。
……今まで調べなかったのは、大した理由はない。強いて言えば恥ずかしかったというか、現実的な物にするのが嫌だったのだ。
人格が入れ替わるなんて全人類の誰もが未体験の経験を共有している、この世界で私と、彼だけの……この二人きりの、二人だけの秘密を。
なんて、そう言い換えると、顔が赤くなっている自分に気がつく。
……バカだな、私。少女漫画じゃあるまいし……
そう思いつつ、検索結果を待っていると。
――え?
という声が思わず出た。
彼の学校は、廃校になっていたのだ。3年も前に。
嘘、だって、私、昨日男の子になった時だって、通って………
そう思いながら何度も何度も目をこすったり、ページを更新したりしても、結果は何一つ変わってくれない。
それどころか、もっと衝撃的な記事が私の目に飛び込んできた。
――台風で近くの川が決壊、数十名の死者。1夜にして崩壊した、〇〇村の現在。
そんなタイトルの記事の中にある写真には、無残な姿になっているものの、私が男の子になっている時、いくつか見慣れた風景があった。
ど、どういうこと……と、無意識の内に声が出ていた。
意味が、わからない……何が起こっているの……
そう呟きながら、ネットを彷徨っていると――
――災害時、溺れていた人を助けようとした男子中学生、帰らぬ人に。
という記事があった。
スマホを持つ手が、無意識に震え始めた。
そしてその記事を読み進めると、その男子中学生の名前が、あり。
……名前が、あって……
その、名前は――
三葉と付き合い始めて3ヶ月が過ぎた。
手を繋いで、キスもした。体も、何回か重ね合った。
寝ても覚めても、俺は三葉の事で頭が一杯だ。
今まで離れて過ごして生きていられたのが信じられないくらい、俺は三葉の事が好きみたいだ。
そして今、俺たちは同棲している。
同棲すると、今まで見えてこなかった部分が見えてくる。
いい部分も、そして勿論悪い部分も。
ずっと仲良しこよし、という訳には流石に行かない。ときには口論になったり、お互いにムカついてちょっと気まずい雰囲気にもなったりする。
だけど、三葉の素の部分に触れているようで嬉しいし、俺に対して心を開いているからこその出来事だと思えば……
それになにより、三葉は怒った顔さえも可愛いのだ。全く本当に参ってしまう。
……と、司と電話した時に言ったら、「……一生やってろ、バカップル……」とうんざりした声で言われたが。
そして今、俺は三葉と二人で散歩していた。
今日は休日。ちょっと遠出して、森林のある自然公園にやってきた。
三葉の故郷、糸守は自然豊かな所だったから、こういう場所に連れていけば三葉も喜んでくれるかなと思ったんだ。
「自然豊かっていうか、なんにもないだけだよ」
と三葉は自嘲していたが……それでも、どこか安らいだような顔をしていた。
ゆっくり、まったり、三葉と歩く。
時期は秋。枝についている葉は赤や黄に染まり、もしくは落ち、木々は冬を迎える準備をしている。
暑くて騒がしかった夏から、寒くて静かな冬へと移ろっていく。
何でだろう。
もう人生で何十回目の冬なのに、俺は今まで一番ワクワクしている。
三葉とスキーに行く約束をした。二人でお金を溜めてこたつを買う計画を立てている。この前は、鍋を買った。
今年の冬は、たくさん鍋を作ってくれるそうだ。
……三葉がいるだけで、寒い季節でも暖かく過ごせそうだ、身も、そして心も。
紅葉の絨毯を歩きながら、ちょっと詩人チックな事を思ってると、びゅおお……と一瞬、冬将軍が近づいてきてきてる事を予感させる風が吹いた。
「……寒いね、瀧君」
「カイロでも持ってくれば良かったなぁ……」
俺がそうぼやくと、三葉一瞬何か考えたような顔をしたあと、俺にピッタリとくっついてきた。
「……なに?」
「に、人間ホッカイロ……なんちゃって……」
自分で言っていて照れたのかあっという間に顔を赤くする三葉。
……三葉はたまにこうやってすごく可愛い所も見せるから、ずるい。
仕事に行く時とか、すごくキリっとした顔をして、綺麗だなぁ、と見惚れてしまうんだけど、こんな所も見せられたら、俺はもうどうしたらいいかわからない。
とりあえず肩を引き寄せて、手をグッと握った。
三葉を少しでも多く感じていたかった。
その後、少し歩き疲れたので、おあつらえ向きにあったベンチに二人座る。
さっさっ、と三葉はベンチを軽く手で撫でた。
巫女さんをやってただけあって、そういう所は礼儀正しくて、女の子女の子してる所が、可愛いと思う。
「ねぇねぇ、瀧君」
トコトコと小走りで駆けていったと思ったら、近くの自販機でHOTのココアを買ってきた。
そしてそれを俺に渡すと俺の方をじーっと見つめている。
「なに?」
「あけてー」
甘えた口調、甘えた顔で、そんな事を言ってくる。
……可愛すぎる。
「……この甘えん坊」
「えへへー……」
ココアのフタを開けて三葉に渡す。
三葉はすごくすごく嬉しそうにして、お母さんに大好きな料理を作ってもらった子供のような顔で、ココアを口元に持っていった。
3つ俺より年が上な癖に、こういう時に見せるあどけない表情に、俺の心はどうしようもなくやられてしまう。
……もし、俺が子供……特に娘を持ったら、きっと甘えさせて甘やかして、どうしようもなく過保護に育ててしまうんだろうな、と、思った。
「はい、瀧君もココアどーぞ」
「……寒いんだろ? 全部飲んじゃえよ。ていうか、三葉のお金で買ったココアなんだし、いいよ」
「ダーメ。寒いのは瀧君もおんなじでしょー。お姉さんの言うことを聞きなさい!」
「……へいへい」
たまにこうやって、お姉さんぶるのも、どうしようもなく愛おしい。
一緒に居て、全然退屈しない。
まるで優しく包み込まれているような安らぎと、ラッピングされたプレゼントを開ける時のドキドキ、そのどっちも味わっているような、そんな気分になる。
こんな気分は、他の誰かと居る時では決して味わえない。
「あ、見て見て、瀧君。夕日が、綺麗……」
ココアをちびちび二人で飲みあっていると、三葉が地平線を指差した。
そこには、都会の高層ビルの谷間に、沈んでいく太陽の姿。
夕焼けだ。
――三葉!
――瀧君!
「……?」
何だか、今、一瞬、既視感を覚えた。
忘れちゃいけない記憶を、思い出したような。
俺たちは、前にもこうやって……夕焼けの時に、お互いを……
「――夕方ってさ、黄昏時って言うよね」
「え?」
三葉が急に喋りだして、俺は現実に引き戻された。
「その語源ってさ、誰そ彼って言うんだって。夕方は、昼でも夜でもない時間。人の輪郭がぼやけて、彼が誰だか分からなくなる時間。人ならざるものに出会うかもしれない時間……逢魔が時とも言うよね。糸守じゃあ、かたわれ時って言うんだけど」
「……かたわれ時」
「うん、高校の時の国語の先生が教えてくれたの……なんか思い出したから言っちゃった」
急に変な事言ってごめんね、と笑うと、三葉はもう一度夕焼けに視線を戻した。
「本当に、綺麗……」
そう言って、夕焼けを見つめる三葉の顔は、本当に綺麗で。
俺は夕焼けよりも三葉に見とれていた。
その大きな瞳も、きめ細やかな肌も、さらさらで思わず触りたくなるような黒髪も、全てが、美しすぎて。
三葉をどれだけ見つめても飽きないんだ、本当に。
そりゃあ、恋人補正もあるかも知れないけど……
三葉と共に夕焼けを見つめる。
昼でも夜でもない時間。
黄昏時。
逢魔が時。
かたわれ時。
……人ならざるものに出会うかもしれない、時間。
もう一度三葉を見つめる。
その顔も体つきも声も仕草も香りも性格も、全部、全部が俺にとっては素晴らしすぎて、俺好みすぎて。
だからちょっと、俺は時々怖くなるんだ。
明日朝起きたら、三葉は隣に居なくて、今までのは全部幻影で幻想で、俺の都合のいい妄想だったんじゃないかって。
好きすぎて怖いんだ。
三葉はもう、俺の中じゃあ絶対に居なくちゃいけない存在。
そう、まるで三葉は俺の片割れ。
だからもし、三葉がいなくなったら、俺は、俺は……
「……なに? 瀧君」
じっと見ていたからだろうか。
三葉が俺の手を握り、首をこくんと傾げて、そう聞いてきた。
「……三葉」
俺はその手を静かに、壊れないように、そこにいる事を確かめるように握り返す。
三葉の手の温もりと、柔らかな感触。
……ああ。
そこにいる。三葉が俺の隣にいてくれている。
「……あのさ、三葉」
「うん?」
「結婚しよう」
気がつくと、俺の口は勝手に動いていた。
……バカだな、俺、と頭の中の冷静な部分は思う。
まだ出会って3ヶ月、付き合って2ヶ月だし、まだまだお互いの知らない部分は一杯あるのに。
お金はどうするんだ? とか、指輪とか雰囲気とか、三葉の気持ちを考えてやれよ、とも思ったけど……
それでも、今言わなきゃ駄目だと思った。
「俺にとって三葉は、この世で一番かわいくて、綺麗で、美しい人だ。
その三葉と一緒に居れる、俺は世界で一番の幸せ者だ」
言葉を紡ぐ。慎重に慎重に。
この思いが伝わるように。
力強く、俺は三葉の手を握る。
「……三葉が綺麗すぎて、時々幻みたいにふっと消えちゃうんじゃないか、って思うよ。
でも例え三葉が世界中のどこに行ったって、俺は必ず会いに行くよ」
――いつか言ったような、伝えたかったかも知れない言葉だ、と不意に思った。
何故かは分からない。
でも、絶対に言わなきゃ駄目な言葉だ、とも思った。
「何が何でも幸せにするよ、三葉」
だから。
「ずっと一緒に居よう、三葉。
ずっと二人で生きよう、三葉。
……結婚しよう」
顔が赤い。心臓がバクバクしている。体は震えている。
それでも俺は一世一代のプロポーズを、何とか噛まずに、三葉から目をそらさずに、きちんと言えた。
「……瀧君」
たっぷり30秒は黙ったあと、三葉がゆっくりと口を開いた。
「あのね、瀧君
……ずっと二人は、ちょっと嫌かな」
「……えっ……」
……一瞬、地獄に落とされた人間の気持ちが分かるほどの絶望を感じ……
「……だって私、瀧君の赤ちゃん、欲しいもん」
……そして、地獄から天国に昇った人間の気持ちが分かった。
「……え、って、こ、ここ、ことは……!?」
「うん、プロポーズ、受けます」
「……ほ、本当にいいのか?」
「うん……いいよ。瀧君じゃなきゃ、嫌だよ」
「……お、おお……おおおお……!!」
声にならない声が、口から漏れる。
やった。やった。やった……やった!
嬉しくて嬉しくて、この気持ちはどうしようもなかった。
「幸せにしてね、瀧君。
私も瀧君のこと、うんと幸せにしてあげるから、ね」
そう言って、三葉は俺にキスをしてきた。
……天国にいる女神様からされたような、俺の事を全部全部蕩かしてしまうような。
とても優しいキスだった。
朝、目が覚めると泣いていた。
鏡を見ると、目が真っ赤だった。
そこには、いつもの私。女の子の、中学一年生の、いつもの私だ。
……もう、ずっと、私は私。
あの日から、彼が死んでいる事という事に気付いた時から、入れ替わりはなくなっていた。
今までのは全部夢だったのか、と思う。
あの入れ替わりの日々は全部幻で、取るに足らない空想だったのだろうか。
……彼との入れ替わりの日々の報告をしていた日記のアプリは消えていて。
お互いに罵倒しあっていたノートの文字も、元通り。
彼のちょっと汚い文字は全て消え、まるで何事もなかったかのように真っ白になっていた。
それでも、私は一生懸命、3年前の事件を調べ上げた。
調べずにはいられなかった。
彼の事を絶対に忘れてはならないと、心が叫んでいたのだ。
朝、目が覚めても、朝ごはんを食べてるときも、通学中も、授業中も、友達と喋っている時も、お風呂に入ってる時も、寝る前も。
考えるのは彼の事、彼の髪、彼の声、彼の体、彼の性格。
四六時中彼の事ばかり考えている。
いや、私は彼の事しか考えていなかった。
今日は土曜日。
ネットを彷徨ったり、国会図書館に行ったりして、あの事件について調べていた。
しかし、これと言った収穫はなかった。
これだけ情報化社会になっても、私のような何の力もない中学生が一個人を特定するのはやっぱり難しい。
ましてや彼自身も有名人ではないし、生き残った村の住民も違う地方にバラバラに住んでしまっているようだし……
端的に言って、八方塞がり、手詰まり感は否めなかった。
そして、今、家に帰ってご飯も食べずに、私は一人で考えていた。
そもそもなぜ、私達は入れ替わったのか。
私達の入れ替わりにどんな意味があったのだろう。
彼の死を知った私は一体どうすればいいのか。
彼を忘れて、中学生特有の痛い妄想だったのだと割り切って、これから先も生きていくのか。
彼のいない、世界で。
……そんなのは、絶対に嫌だった。
そして、考えて考えて考えて。
出した結論は、シンプルだった。
いや、初めから答えは決まっていたのだろう。
次の日の朝。
今日も朝起きたら、泣いていた。
どうやら私は、泣いちゃうくらい、彼の事が……その、アレらしい。
……この涙を止めてくれる人は、恐らく一人。この世にたった一人だろう。
そして、今日、私はその人に会いに行く。
会いに行くのだ。
顔を洗って、歯を磨いて、シャワーを浴びる。
そしてなるべく動きやすい、でもちょっと可愛い服装を着て。
昔から溜めていた豚さんの貯金箱を割った。
お母さんの方のお爺ちゃんと、曾おばあちゃんと、そしてお父さんの方のお爺ちゃんがくれたお年玉。
先立つものをくれたお爺ちゃんおばあちゃん達に心から感謝して、大事にお財布にしまった。
そして色々と準備を終えたのが、朝の七時。
さぁ、出発しよう。
……どこに行くの?
靴を履いていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、そこにはお母さんの姿が。
普段は、この時間なら家族全員寝てるのに……ドタバタしていて、起こしてしまったようだ。
ちょ、ちょっと友達と、ネズミーランドに行ってきます。
……我ながら、誤魔化しが下手だ、と思った。
声も震えているし、今の私の雰囲気だって、とてもネズミーランドに行くようなものじゃあないだろうし……
でもお母さんは、そう、と一つ笑って、朝ご飯はいいの? 元気がなきゃ、何も出来ないわよ、と柔らかな口調で聞いてきた。
……私がネズミーランドに行かないであろう事は察しているのだろうけど、何も聞いてこないお母さんの優しさに感謝した。
うん、大丈夫。適当に食べていくから。
……そう、気をつけて行くのよ。
そう言って、私の頭を軽く撫でると、優しく微笑んだ。
……身内びいきかも知れないけど。
こんなに優しく、美しく微笑むお母さんと結婚出来たお父さんは、世界一の幸せ者かもね、と思った。
……あっ、そうだ。ちょっと待っててね。
……?
お母さんは一回居間に引っ込むと、何か赤い紐のようなものを持ってきた。
これ、組紐って言うの……きっとあなたに似合うわ。
そう言うと、私の髪をその紐で結び始めた。
手慣れた感じであっという間に私の髪を結ぶと、最後にそっと一撫でして、髪を整えてくれた。
……うん、やっぱり、よく似合うわ。いつかあなたにあげようと思ってたんだけど、つい渡しそびれちゃってて。
鏡の前に立って、自分の髪型を見る。
お母さんの言うとおり、我ながら良く似合っていた。
……ありがとうお母さん。
どういたしまして……あのね、"ムスビ"っていうのよ。
……?
その組紐に宿る力。神様の呼び名。糸を繋げるのも、"ムスビ"。人を繋げるのも"ムスビ"……その組紐があれば、きっと……きっとね。
……うん。
ありがとう、と私はもう一度お礼を言った。
お母さんは全部理解しているのかもしれないし、何も分かっていないのかもしれない。
でも、娘である私が、何かをしようとしているのは分かってくれたのだろう。
……ん? どうしたんだ二人とも、こんな朝早くから。
お母さんの後ろから、お父さんが寝ぼけ眼をこすりながらそう声を掛けてきた。
どうやらお父さんまで起こしてしまったようだ。
この子、友達とネズミーランドに行くんですって。
お母さんが私の代わりに説明してくれる。
そうか……気をつけて行くんだぞ、お前は超絶に可愛いからな。変な男にナンパされそうになったら、すぐお父さんを呼べ。すっ飛んでく。
……相変わらずの過保護、溺愛具合に、お母さんと二人で顔を見合わせてちょっと笑った。
そして、こんなに愛してくれるお父さんに、私は久々の言葉を口にした。
ここ2~3年、成長してきて、なんだか気恥ずかしくなって言えなかったあの言葉を。
どうしても言わなきゃと思ったから。
ねえ、お父さん。
ん?
大好き。
……おお、俺もだ。愛してる。世界で二番目に、大好きだぞ。
言うのも久しぶりだったが、お父さんのこの返しを聞くのも久しぶりだった。
なんだかそのやり取りも懐かしいわね、とお父さんが世界で一番大好きな人が、それを聞いて嬉しそうに笑う。
私も笑った。
何だか、すごく安らかな気分になった。
そしてお父さんとお母さんの顔をじっくり見たあと、私は口を開いた。
……行ってきます。
行ってらっしゃい。
おう、行ってこい。
両親の声を背中に感じて、私は家を出た。
……ありがとう、お父さん、お母さん。
新幹線に乗って、電車を乗り継いて、タクシーに乗って、彼の住んでいた村の近くへ。
人通りは全くない。
スマホの電波も殆ど入ってこない。
ネットや図書館に行って調べた情報も役に立つかわからない。
ここからは未知の領域と言って差し支えないだろう。
それでもどことなく覚えている。
あの夢の中の景色。入れ替わっていた時の風景。
すっかり荒れていたけど、大分変わってしまっていたけど、原型は残っていた。
それを頼りに、私は彼を探す。
……3年も前に死んでしまった人に、どうやって会うかなんて、知らない。
会った所で、どうやって過去を改変(?)させて、彼を生き延びさせるかなんて、わからない。
それでも、私は何としても彼に会う。
あの入れ替わりの日々を、無かった事になんてさせない。
私と彼の出会いに、意味がなかったなんて言わせない。
……待ってて。
今から行くから。
今すぐ会いに行くから。
疾る心を押さえつけられずに、私は走り出した。
……もし、私に出会ったら、彼はどんな顔をするのかな。
私が彼の名前を呼んだら、彼はどんな表情をするのかな。
笑うかな、照れるかな、それとも照れ隠しに、何しにきたこの貧乳女! とでも言うのかな。
そんな想像をして、一人で笑う。
会える保証なんてどこにもないのに。
それでも、何をしたって絶対に会ってみせる、何があっても諦めない、という気持ち、衝動だけはあった。
この気持ち、衝動には、逆らえそうもない。
私は彼に、諦め方を奪い取られてしまったみたいだ。
走る。走る。ただ走る。
走る足は止まらない。
こんなに走ったのはいつ以来だろうか。
……もし、彼に出会ったら、私はどんな顔をするのかな。
笑うかな、照れるかな、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
そのまっすぐで大きな瞳に見つめられたら、私はどんな気持ちになるんだろう。
……彼の、意外と低くて、ちょっとドキッとするようなかっこいい声。
彼が私の名前を呼んだら、私はどんな表情をするのかな。
……多分私達は、ずっとお互いを探してた。
そうじゃなきゃ、こんな出来事、起きるはずないでしょ?
だからお願い、どうか私の名前を呼んで欲しいな。
あなたの声で、あなた自身の声で、呼んで。
私の、名前――
こんなに走ったのはいつ以来だろうか。
「はぁはぁはぁ……!!」
走る。走る。ただ走る。
走る足は止まらない。
俺の足が向かう先は、三葉が居る所。
病院だ。
こんな日に限ってタクシーが捕まらず、待っていられないので、駅前から病院まで走ることにした。
病院に着いた。
面会時間はとうに過ぎていたが、事情を伝えると看護師さんはすぐに俺を入れてくれた。
満面の笑顔で。
エレベーターを待つのも焦れったく、階段を二段飛ばしで駆け上がり、恐らく俺の人生史上最高のスピードで俺は病院内を走った。
怒られるのは承知の上だが、どうしてもこの衝動は止められそうになかった。
――目当ての病室が、見えた。
急ブレーキで立ち止まり、呼吸を整え、部屋のドアを開ける。
「三葉……!」
「……瀧君」
そこには病院用のパジャマに身を包んだ三葉――と、もう一人。
そう、もう一人、居る。
「……み、み、三葉。そ、そ、その、その、子が……」
「うん、そうだよ、瀧君」
一息置くと、三葉は俺の目を静かに見つめて、笑みをたたえて、ゆっくりと言った。
「私達の、赤ちゃんだよ」
そう伝えられた時の感動を、俺は一生忘れないだろう。
「そう、か……そうか……そうかぁぁ……」
俺達の子供。俺たちの赤ちゃん。
……赤かったという文字通り、その子は赤かった。
今はすやすやと寝ているその子は、何もかもが小さくて、弱々しくて……
――俺は今、心に決めた。
何が何でもこの子を守る。
命に代えても、この子だけは守って、育てて、愛し通すと。
「……三葉」
「うん?」
「ごめんな、こんな日に限って出張で、傍にいてやれなくて……来週だったら出張を入れないよう会社に言っといたから、もっと速く来れたのに」
「しょうがないよ。出産予定日より10日も早かったんだもん。それにお婆ちゃんや四葉が傍にいてくれたから……」
「そうか……」
傍にいれなかったのはすごく残念だが、三葉のお婆さんや四葉ちゃんが居てくれたのなら、三葉も心強かっただろう。
「ん? で、そのお婆さんと四葉ちゃんは?」
「お婆ちゃんは、見てるだけで疲れちゃったみたいで、病院のソファーで多分寝てるかな。四葉は友達や親戚に電話して回ってるみたい。それで、一人静かになった所に今、瀧君が来てくれたの」
「そうか……でも、三葉」
「うん?」
「よく、がんばった」
そう言って、俺は三葉を抱きしめた。
出産直後だから、そんなに強くは抱きしめられなかったけど。
……三葉が妊娠してからというもの、俺はありとあらゆる家事はやれるだけやったし、ともかく三葉が元気にかつ健康に赤ちゃんを産めるように気を使ったつもりだが、それでも出産時の痛み、疲労はどうしても肩代わりできないものだから。
その分の労いを込めて。
「うん、ありがとう。でもね、瀧君。お医者さんもびっくりするくらいの安産だったんだよ」
「……そうなのか?」
「うん、そうだよ。3時間も掛からなかった。この病院での、出産までの最短記録更新だって。それに生まれてからすぐ、元気一杯泣いてた。さっきお医者さんにも私も赤ちゃんも問題なしって言われたよ」
「……そうか……良かった……本当に、良かった」
涙こそ出なかったが、猛烈に感動し、何かに感謝したくなった。
世界中の人たちに、この幸せを伝えたかった。
今ならそこら辺を歩いているハゲオヤジにすら酒の一杯でもおごれそうだった。
「赤ちゃん……可愛いな。目元とか目尻とか、三葉そっくりだ。きっととんでもない美人さんになるな」
「うふふ、瀧君、もう親バカ?」
「親バカじゃない。事実だ」
「もう、瀧君ったら……」
そう言って二人で笑ったあと、三葉が愛おしそうに、赤ちゃんの頭を撫でた。
その表情は、穏やかで安らかで……そんな表情の三葉を、俺は見たことがなかった。
……三葉の事は知り尽くしたと思っていた俺だが、まだまだ知らない三葉がいるようだった。
母親としての三葉。
これからしばらく、三葉は赤ちゃんに付きっきりになって、ちょっと寂しくなるかなと思ったが、新しい三葉を発見出来るんなら、それもいいだろう。
いや、実際の育児は多分そんな事を思う暇もないくらい大変なんだろうけど……
それでも、俺と三葉なら、必ず乗り越えられる。
そんな気が……いや、違う。俺はもう殆ど確信に近い思いを抱いている。
だって、三葉と俺だ。
そしてその俺たちの子供だ。
大丈夫に決まっていると、その小さな、俺の親指くらいしかない手に触れながらそう思う。
「しかし、出産予定日の10日も前に生まれてきたのに、元気一杯で、健康か……強い子だな……きっと、この子は何でも出来るな」
俺のそんな親ばか発言を聞いて、三葉がまたクスクスと笑う。
「瀧君が言うのなら、そうかもね。……でも、瀧君。甘やかしすぎないでよ?」
「……努力するよ」
政治家的な、曖昧な返答しか出来ない。
それくらい愛おしい。
「……それと、たまには私も甘やかしてよ?」
「……おう。任せろ」
頬を赤くして問うてくる三葉に、俺は出来る限り優しく微笑んでそう言った。
勿論、そっちもぬかりはない。
三葉も赤ちゃんも、一生かけて愛しぬくよ、という思いをこめて、三葉の手を優しく握った。
「ありがとう瀧君……それでさ、この子の名前、どうしよっか?」
「あー……どうしようか、本当に」
二人で困ったように笑う。
当然、考えなかった訳じゃない。
ただ、アレコレ考えすぎて逆に決まらなかったのだ。
それに、俺たちだけで命名するものかと思ったら、何故か三葉のお婆ちゃんや俺の親父まで名前に口を出して来て……
「ごめんね、瀧君。うちのお婆ちゃん、色々とうるさくて」
「いや、俺の親父こそさ。初孫だからってギャーギャー騒いで……ったく」
勿論、真剣だからこそなんだろうけども。
しかし、出産予定日である来週中には決めようってことで落ち着いた矢先に生まれてしまったのだ。
これからまた、うるさく口出ししてくる事は間違いない。
面倒だなぁ……と思っていると――天啓とも言えるひらめきが、俺の脳裏にちらついた。
「……三葉」
「うん?」
「今、思いついたんだけど……」
そう前置きして、俺はその名前を口にした。
病室に、俺の声が静かに響いた。
「……いい名前」
それを聞くと、三葉は心の底からそう思っていてくれるであろう表情で、そう言った。
次いで、三葉も俺が言った名前を口に出す。
「……うん、言葉に出すと、なんかすごくしっくり来た」
「だろう? ……その名前に、しないか?」
「……私はいいけど、お婆ちゃんや瀧君のお父さんがなんていうか……」
「いいんだよ、俺たちの子供なんだから。命名権は、俺たちにあるさ」
「……ふふっ、それもそうだね。それに、私もその名前、気に入った。好きだな」
「よし。じゃあそうしよう」
「うん……良かったね。お父さんが、あなたの名前、決めてくれたよ?」
三葉が赤ちゃんに向かって微笑みながらそう言う。
俺は赤ちゃんを見つめる。
……俺が考えた名前。
三葉が賛同してくれた名前。
間違いない、間違いないさ。
いい子で、美人で、可愛くて、そして幸せな女の子になって欲しい。
そんな願いを込めて……付けた名前。
俺は、ゆっくりと口を開く。
比喩ではなく、おおさげな表現ではなく。
これから俺や三葉、その他大勢の人たちから何百回、何千回、何万回と呼ばれる事になるその名前を。
――俺は赤ちゃんに向かって、言った。
「君の、名前は――」
これで終わりです。
君の名は。が素晴らしすぎて、つい作ってしまいました。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
ありがとうございました。
このSSまとめへのコメント
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