※SNKネタ、金庸の武侠小説ネタ、中国古典要素あり。
※フェイフェイがチャイニーズマフィアで
カンフー出来るのを隠しているなど捏造設定多め。
※登場人物はフェイフェイ、村上巴、そして韓国アイドルのジュニーです。
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タールよりもどす黒く重い空気の流れる場所が香港の外れに存在する。
その中でも一際寂れたバーが、降り注ぐ雨の中で
バラッグ同然の店を軋ませながら建っている。
客足が途絶えて随分と経つようなこの店に、ある日、三人の少女が戸を叩いた。
いずれも目深くローブを被ってはいるが、その体からは
骨抜きにするような若い女独特の匂いが隠し切れないでいた。
「……誰だてめぇら」
店に負けず劣らず薄汚いバーの店主が
空になりかけの酒瓶を片手にギロリと三人を睨んだ。
「……重蒼会を潰しにきた」
「!?」
それを聞くと男は持っていた酒瓶を真ん中の女に投げつけた。
彼女が難なくサッと避けた時、男の手にはピストルが構えられていた。
雨の中で銃声が鳴り響く。しかしその銃弾は女性たちには届かなかった。
銃身から弾が出るよりも早く、二個の石つぶてが男の手を強かに打ったからだ。
彼の手からからピストルが離れて床に転がり落ちた。
それと同時に店の壁が数ヶ所、くるりと回り次々に屈強な男たちが中に雪崩れ込んできた。
「……ビンゴじゃな」
「トモエ、気を付けて」
左にいた村上巴に声をかけるやいなや、右の少女は
床を蹴って宙を舞い、立て続けに三人の男の頭を蹴り飛ばした。
男たちは脳震盪を起こしてその場にうずくまる。
巴は父より預かった仕込み杖を構え男たちの間を抜けながら峰打ちを食らわせていく。
「このやろう!」
青竜刀を握った男三人が、真ん中の少女に後ろと左右から斬りかかった。
少女はたおやかな人差し指と中指で左右の凶刃を挟み込んで押さえた。
少女は軽やかに床を蹴ってその体を宙に浮かせる。
男たちの頭上で逆さまになった少女のシニョンを、背中に襲いかかっていた刃がかすめた。
男にはその時の少女の顔を見てあっと叫んだ。だが、二の句はなかった。
少女が破ッ!と叫ぶと左右にいた男たちはそれぞれ店の端まで吹っ飛ばされた。
青竜刀の刃から伝わった内功が波紋となって男を弾き飛ばしたのだ。
少女の手はその二刀から離れると、すぐ三本目の青竜刀の刀背に乗った。
体重を感じさせる間もなく、男の横面に旋回した彼女の細脚が叩き込まれた。
「……ジュニー、トモエ、援護ありがとう」
少女たちは、二十数人の男共を倒してのけた。
真ん中にいた少女が、巴とジュニーの二人に抱拳をして礼を言う。
「なぁに、まだ奥に親玉が控えておる。油断するなよ、フェイフェイ」
件の少女、フェイフェイはその返答にうなづきつつ呼吸を整えた。
「それにしても、こんなみすぼらしい場所がアジトとは、驚いたな」
ジュニーはフェイフェイたちと共に、薄暗い隠し階段を降りていく。
カウンターの真下にあったその入り口からは、地下に向かって
螺旋階段が続いていた。それはまるで地獄への入り口のように思えた。
「だからこそ盲点になるネ」
フェイフェイは言った。
鼠の走り回る薄汚い店の中で、入り口にあたる床板だけ若干新しかった。
上にあった段ボールをずらし、目を凝らして見ないと
まず気づかない巧妙な隠れ階段だった。
戸外の雨音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなって大分経つ。
しかし、まだ地下の底は見えなかった。
ジュニーの履いている黒いシューズに染み込んだ返り血も
今はすっかり染み込んで鉄臭を漂わせていた。
この韓国少女ジュニーはシアトルにいた所をスカウトされ、韓国内で活動していたアイドルだ。
346プロダクション韓国支部にてイム・ユジンや
リュ・ヘナと共に世界に羽ばたくアイドルとなる事を夢見ていた。
今の韓国に346プロはない。
現地の社長は財閥からの天下りで、他国のアイドル戦略を
コピーペーストするしか能力のないお飾り以下の無能だった。
負債ばかりがたまって事務所は立ち行かなくなったという噂が飛び交う中
とうとう2016年の3月、撤退の憂き目に遭った。
どうしてもアイドルを続けたいユジン・ジュニー・ヘナの三人は
ユジンの家に集まって、鍋をつつきながら今後どういった形で
アイドル活動をしていこうか話し合った。
それは苦難の道ではあったが、アイドルの楽しさに目覚めた三人の目には希望があった。
「……その時だ。ユジンの家族と食事をしていた時、家に暴漢が殴り込んできた。
奴らは手に鈍器を持ってユジンたちを襲った。
私は、服を剥ぎ取ってどさくさまぎれにユジンたちを
犯そうとする奴らにテコンドーで応戦した。
やがて警察が来た事を悟ると、奴らは逃げ出した。
……ヘナ、ユジン、そしてユジンの家族は
心身ともに酷い傷を負い、今も病院で治療を受けている」
身の上を話す彼女の声には、静かな怒りの炎が揺らいでいた。
彼女は当分の間治療に困らない金を病院に預けて、単身犯人を探しに行った。
この大事件について妙に沈黙を保っているマスコミの様子から
これは個人、ましてや単なる強盗集団の犯行ではない。
権力者と癒着している組織の犯行だろうと彼女は見当をつけていた。
「トモエとフェイフェイのお陰だ」
ジュニーは語る。
彼女は裏世界に詳しいアイドル村上巴を、346プロの縁故で紹介してもらった。
ジャパニーズマフィアの村上組、そして香港に鎮座する楊ファミリーの組織力を借りて
ホシが重蒼会という新興勢力のチャイニーズマフィアだと突き止めた。
「仇を突き止めてどうする?」
話を聞いていた巴が言った。
彼女の組はこの奇襲作戦でフェイフェイの家族と共に誘導役を買っていた。
このアジトに奇襲できたのは彼女の兵が敵を引き付けているおかげだった。
「相手は堅気じゃない。無事で済むとも限らん。
346プロには海外のアイドルが大勢いる。
このまま帰れば、うちらが口添えしてアイドルを続ける事も……」
「ありがとう、トモエ。でも私は、病院で大人しく待ってなんかいられなかった。
ヘナやユジンを酷い目に遭わせた奴らに、この脚撃を叩き込んでやりたい。
言われずとも、ここから先も足手まといにはならないつもりだ」
フェイフェイも巴も、ジュニーの実力はこの道中で目に焼き付けていた。
足手まといどころか、重蒼会に奇襲をかけるにはなくてはならない戦力だ。
「……そういう事なら、もう何も言わない」
更に下層へと続く階段の向こうを見てフェイフェイが言った。
今回、香港に根を張る楊ファミリーが、格闘技の心得があっても
一般人の域を出ないジュニーに協力したのには訳がある。
――北漢の英雄であり、後に宋に帰順した楊業の血を引いている楊一族は
勇気と忠義に満ち溢れた一族だ。
岳飛軍に身を置いて祖国のために戦った子孫・楊再興の死後
宋の領土は全てモンゴル人の領土となった。
元建国以降、楊家は広東に移住してからというもの
長きに渡って香港をはじめとする中国南部地域の顔役となっていた。
彼ら一族の前では例え三合会の者と言えども無視して通れない。
その楊一族の一人、フェイフェイにとっては叔父に当たる人物が銃殺される事件が起きた。
香港ではイギリス領時代のマフィアと、1997年に中国に返還された際に
流れてきた中央政府の役人連中が未だにいがみ合いを続けている。
1997年に中国本国に返還されたこの行政特別区は、イギリスの傘下にある間
その国民たちの意識を大きく変えていた。
彼らは我が物顔で派遣されてくる中央政府の
役人の横暴を嫌い、激しい憎悪と共に対立していた。
楊一族の勢力にひびが入れば、それをきっかけに立ち回る政府の要人もいる。
これはそんな危うい拮抗状態に楔を打つような事件だった。
楊一族の女傑、フェイフェイの祖母は
すぐに日本に留学していた孫娘を呼び出した。
一族に牙を向けた者は、一族総出で、潰す――
数百年間ずっとこの方法で彼らはこの地を守ってきた。
「しかし、カンフーが出来るとは驚きじゃな?」
この度の戦いでフェイフェイの武術を
目の当たりにした巴は、顔色一つ変えずにそう呟いた。
楊一族は武人の家系でもある。
楊家将演義の娘子軍の例にある通り、この家は代々女も武芸を嗜む。
フェイフェイとて例外ではない。
だがフェイフェイはカンフーの心得がないという事を
あやめや珠美をはじめとする346プロの同期に伝えていた。
なぜ彼女がそのような嘘をついたのか。
それは自らの血に流れるマフィアの匂いを極力消し、一介の
アイドル留学生として346プロに席を置くためであった。
それに加えて身につけたその武功を隠すためでもあった。
南宋の民として元の支配に抗っていた楊一族は
自然、毒の扱いに長ける南方の少数民族と交わりゲリラ活動を展開した。
そして、中国南部にも広まっていた明教、白蓮教といった
様々な邪派とも関係していった。
その武功の多くは邪悪であり、フェイフェイは例え遊びであろうと
その武功の一端を仲間たちに知られたくはなかった。
階段を降り終えた先には重く巨大な鉄扉があった。
三人が扉の前に立つと、それはひとりでに開いた。
(……妙だな。囮を使って手薄になっているとはいえ
こんな所にある扉がザル警備なんて事はありえない)
疑問を抱きつつも三人は誘われるようにしてその扉の向こうへと足を運んだ。
その部屋は九十畳ほどの広い応接間になっていた。
その向こうでソファーに優雅に座ってこちらを見ている女性がいた。
それを見たフェイフェイと巴は我が目を疑った。
「……美城専務!?」
フェイフェイと巴は同時に叫んだ。
女の、後ろで束ねた髪は闇に溶け込むように黒く
アイシャドウの下にある切れ長の眼は冷たい光を放っている。
「こんな所まで来て何をしている、楊菲菲、村上巴」
「それはこっちの台詞じゃ」巴が啖呵を切った。
「フェイフェイ、ジュニー……ようやく遇えたぞ。黒幕にな」
「黒幕!? つまり私たちの探していたのは……っ!」
「そう、うちらの探していた重蒼会のドンとは、こいつの事じゃ」
親指で巴は美城専務を指差した。
「……やはりお前たちの存在は早めに消しておいた方が良かったな……」
「そうじゃな。あんたの組織にはうちのシマも荒らされとる。
そのツケ、ここで精算してもらう」
「……貴様が、ユジンたちを襲ったというのか!」
ジュニーが進み出た。
「……だったら、どうするつもりだ?」
「知れたこと! その首をもらい受け、ユジンらの手向けにする!」
ジュニーは言い様、専務の元に駆け寄り、跳躍しながら蹴りを食らわせる。
しかし、相手は難なく彼女のその細く強靭な脚を掌で防いだ。
それに合わせてフェイフェイと巴も動く。
巴の仕込み刀がキラリと光り、右から美城の腕を叩き切ろうと振り落とされた。
しかし、専務はジュニーに当てていた手をくるりと反転し、半身避けてその斬撃を回避する。
その隙を狙って、フェイフェイが練った混元功を美城の背中に叩きつける。
当たればを二本の指で押さえながら、半身を翻した専務は
もう片方の手でフェイフェイの掌に自らの掌をぶつけて防いだ。
フェイフェイは『北冥神功』を発動させ、美城の発する気を全て飲み込もうとした。
しかし、美城の放った『寒冰真気』による冷感が途端に全身に回りかけ
あえなく離脱する。
「……人を殺したこともない小娘三人に、負けるものか」
三人は構えを解かなかったが各々ひりつくような緊迫感に身を焦がしていた。
常務はほとんどその場を動いていない。
それどころか、呼吸すら乱れてはいなかった。
あの攻撃により、美城の実力を嫌になるほど知ってしまった三人は
第二刃を打つ事も出来ずに構えて様子を伺うだけで精一杯だった。
「この場所に来た度胸は褒めてやろう。だが、ここは私の庭も同然だ。
おおかた私の兵を誘導して、その隙をついたのだろうが……
そのうち兵がお前たちの仲間を蹴散らしてここにやって来るはずだ。
万が一私に傷を負わせたとて、無事には済むまい?」
美城専務が嗤った。
「お前たちと私の功夫には天地ほどの差がある。
だがせっかくここまで来たのだ。私も多少は労ってやらねばならん」
美城は手元のリモコンを押すと
背後に在った精密機械の化け物が産声を上げるように光り始めた。
「これを使って私と勝負をしてもらいたい」
「これは……」
「中央政府が世界に誇るスーパーコンピューターのプロトタイプ
『神威太湖之光 零式』だ。演算処理に関しては
スリムにしているオリジナルよりも高性能だ。
これを用いて仮想現実空間を構築し
その中で私と麻雀勝負をしようじゃないか」
「麻雀じゃと?」
「そう、そうして初めてお前たちの打撃は私に届くというものだ」
「ふざけるな! 私たちは貴様を倒しに来たんだ!
麻雀などという遊びで誤魔化されるものか!」
「待って、ジュニー」
フェイフェイがジュニーの肩に手をやった。
「フェイフェイ、まさかあのふざけた提案に乗るつもりじゃ……!」
「ジュニー、あの数手でワタシたち、専務の実力が分かったネ。
あの武功を崩す事は容易じゃないヨ。今のワタシたちでは無理に等しいネ」
「でも!」
「……しかし、もしチャンスがあるとしタラ……それは
専務に在る己への慢心、ワタシたちへの侮り……その一点。
その一点を必ず突く。……ジュニー、ワタシの言葉をのんでホシイ。
ワタシだって、叔父を殺されているノ……」
「……。分かった。共闘なしにあの年増を倒せるとは思えない。条件をのむ」
「ありがとう」
「決まりじゃな。で、麻雀のルールはどうするんじゃ。日本式か」
「ああ、不服か?」
「……いや、いい」
フェイフェイにとってはフリテンありドラなしリーチなしの中国式麻雀がやり易い。
だが、他の二人はそうではない。
それにそんな提案をする以上、専務はどちらの麻雀にも長けているはずだ。
日本式麻雀以外に選択肢はないとフェイフェイは思った。
「ワタシが起家ネ」
緑色の河の中から東を掬い上げたフェイフェイは静かに席に着いた。
下家は巴、対面はジュニー、そして仇の美城専務は上家に座る。
こうして、不夜城都市香港の薄暗い地下室で命を賭けた麻雀勝負が始まった。
席に座った各人が頭にVRを装着すると、彼らの意識はすぐに電脳世界へとワープする。
暗黒の中に光り張り巡らされた無数の緑の格子線。
そこにフェイフェイ、巴、ジュニーは立っていた。
やがてそこに専務の意識がやって来る。
「さぁ、始めようか。先に言っておくが、この世界では
麻雀のアガリに応じたダメージが、現実世界の肉体に
電撃として走るようになっている」
フェイフェイたち三人は黙って聞いていた。
和了点相応のダメージが肉体に来るという事が問題だった。
つまり、高い手を直撃で和了られたら
最悪トビを待たずに戦闘不能になる可能性がある。
それだけは何としても避けなければならない。
「……聞きたい事がアル」
理牌の最中にフェイフェイは専務に聞いた。
「何だ?」
「何故、叔父を殺しタ?」
専務は山牌から一枚ツモって自分の手牌に引き入れた。
「楊菲菲、お前は五毒教と関わりがある」
専務の顔をフェイフェイはじっと見た。
江湖の民にとってその名は今も恐ろしい響きを保っている。
明代から清代にかけて中国南部を本拠として活動した秘密結社の名前だ。
その組織は正確には五仙教といい、蛇、蜈蚣(ムカデ)
蠍、蜘蛛、蟾蜍(ヒキガエル)これら五つの有毒の生物を崇めたカルト教団である。
彼らはそれらの毒物から様々な毒と薬を作っていた。
だが、正々堂々とした戦いを重んじる正派の人間は
卑怯な毒を生産し戦いに用いるこの集団を邪派と蔑んだ。
そして、その組織は異民族の侵略と共に南下してきた楊家とも無縁ではなかった。
余所者の楊家がこの地で迫り来る異民族を退けるためには
五仙教と結託して邪魔者を消し去る必要があったからだ。
「だからどうしたノ。正派気取りをする御時世でもないネ」
「……日月神教の東方不敗はお前の何に当たる?」
その問いを聞いたフェイフェイのツモが宙で止まった。
「……何?」
明代において、江湖を震撼させた日月神教……
東方不敗はその教主の座にいた人物である。
東方不敗は日月神教に伝わる奥義書・葵花宝典を手にし
先代教主・任我行を幽閉して実権を握った。
「葵花宝典は実権を取り戻した任我行によって処分された。
しかし、その写本は愛人だった楊蓮亭の手から五毒教教主・藍鳳凰に渡ったそうだ。
男があの奥義書をマスターしようとするならば多少無理をしなければならない。
……だが、女の私なら難なく使える。九陽真経、神照経、金蛇秘笈……
その多くが、文化大革命の際に失伝の憂き目に遭った。
江湖に残存する奥義書は多くはない。
南に逃げのびた残党の中にはいくつかの武術書を手にしていた者もいたという。
そして、その人間の多くが庇護を求めてその土地の顔役だった楊家に手渡した」
「……物知りだネ」
「葵花宝典だけではない。お前の家にはまだまだ奥義書が残されているだろう。
それをことごとく会得し、私は江湖に覇を唱える。
元々有り余る土地を持ちながら無計画に蔓延る能無しどもだ。
奪った所で何の支障もあるまい?」
「何故ユジンたちを狙った! 奥義書だかなんだか知らないが
お前の蒐集癖と私たちは関係ないだろう!」
吼えるジュニーに、専務は冷たい視線を向けた。
「直接はな。あれは九陰真経の一部を所持していた某財閥が望んだ事だ。
それを譲り受ける時の条件が346プロ韓国支部の早期撤退と所属アイドルたちの再起不能だった。
その財閥はAグループのスポンサーで、どうも外資系の346プロは邪魔だったらしい」
「……奥義書の一部の為に、韓国支部を丸々捨てたという訳か?」
巴の言葉に、専務は嗤った。
「アイドルなど、世界に腐るほどいる。アイドル候補生ならその数倍は下らん。
スーパーランクのアイドルに成り得る人材は確かに多くはないが
代わりが作れないという訳ではない。だが唯一無二の奥義書はそうもいかない。
天秤がどちらに傾くかは火を見るより明らかだ」
「……っ! だから襲ったというのかっ! ユジンたちが……!
どれだけ酷い、恐ろしい目に遭ったかっ、分かっているのかっ!!」
「……大統領ですらただの人になれば暗殺される。
そんな国のアイドルがただの娘に戻ったのだ。
犯されようと殺されようと、一体私に何の問題がある?」
「くっ……! この悪魔……っ!」
血気盛んなジュニーを巴が制した。
「よさんか、ジュニー! 麻雀でこの人でなしを殺れば済む事じゃ!」
「……っ!」
電脳空間で、ジュニーは電子の波から一対の鉤爪を創り出した。
それを左右の手に嵌め込む。
(先生、どうか力を貸してください……!)
――テコンドー道場。
「ジュニーちゃん、今日の所はこれで終わりにするでヤンス」
道着の襟元をソフト帽で扇ぎながら、小柄な中年男は言った。
丸く黒いサングラスは道場内の熱気で少し曇っている。
「しかし先生、私はまだ……」
やや息切れ気味のジュニーが姿勢を正して彼と向き合った。
その肩を小柄な師範代はポンポンと叩く。
「キムの旦那も言ったでヤンしょ?
若いからと言って無理は禁物でヤンスよ」
ジュニーはテコンドーを、この道場で習っていた。
彼女にはテコンドーの先生が三人交代で付いているが
その中でこの小柄な師範代が一番好きだった。
コミカルでお調子者な性格でありながら
実戦形式になると驚くほどのスピードで相手を翻弄し
素早い身ごなしで懐に飛び込み、脚撃を繰り出す。
格闘技の祭典に出た時は、彼へのブーイングの嵐の中で
ジュニーだけは熱いエールを送っていた。
そして帰国する時には山ほどの土産話を持って帰り、門下生たちを楽しませるのだった。
彼もまた、純粋に自分を応援してくれるジュニーをありがたく思い、特別目をかけていた。
そんなある日、彼はジュニーにしばらく道場を離れると聞かされた。
道場内では更正に嫌気が差した彼ともう一人の髭面で巨体の師範代が
師範から逃げようとしていると噂が立っている。
事実その後、キム師範はハワードコレクションという組織から
派遣された二人の格闘家と共に格闘技の祭典に参加した。
そして、あの先生とは参加しなくなった。
寂しさを隠せないジュニーに、彼はそっと鉤爪を手渡した。
これは格闘技大会の時、彼がいつも装着していた愛用の武器だった。
「先生、これは……!」
「あっしの宝物でヤンス。ジュニーちゃん、先生は
今度の大会を最後に旦那から独立するつもりでヤンス。
元の肉屋を経営して、あっしは自分の歌を収めたCDを売りながら
真人間に戻ると、そう決めたんで」
ソフト帽を目深に被って彼は続けた。
「旦那からは聞いていないと思うでヤンスが、あっしは大層手癖の悪い人間で
今まで不幸にしてきた人間は少なくないでヤンス。
しかし、キムの旦那の下で心を入れ替えて今まで更正に勤しんでおりやした。
そして今日、やっとお暇をもらった訳でヤンス」
「先生……」
「ジュニーちゃん、これはあっしの人生そのものでヤンス。
血塗られた過去も、更正の日々も、技の鍛練も、みんな刻み込まれているでヤンス。
この事は秘密でヤンスよ。もしこんな物騒なものを君に渡したと知ったら
あの地獄より恐ろしい旦那がきっとあっしを捕まえに来るでヤンス。
いつもあっしの課す稽古に熱心で、温かい応援を向けてくれたジュニーちゃんには
これくらいしか返せるものがないでヤンスよ。
あっしのこれを見せれば、地底王という人間を除いて、大抵の裏の人間は
話を聞いて便宜を図ってくれるでヤンスよ。
どうしても困った時にだけ、これを使うでヤンス」
「ぐすっ……はいっ、先生!」
「うんうん、やっぱ女の子は泣いている顔よりも笑顔が一番でヤンスねー」
(ごめんなさい、先生……少しだけ、今の私に力を貸してください……)
ジュニーはその両手にはめた鉤爪を見つめた後
専務に向かってひとにらみをし、持っている武器を構えた。
この鉤爪があったからこそ、彼女は裏の人間から
暴漢の背後にいる組織の情報や村上巴・楊菲菲の家業を知る事が出来た。
東一局、四巡目。親はフェイフェイ。ドラは七筒
二二二三四五六⑤⑥⑦567
早速専務はこの聴牌を四巡目でものにした。
ジュニー以外はまだ字牌を整理している途中という状況だ。
「リーチ!」
この空間では麻雀のアガリ手がそのまま技に反映される。
専務は激しい掌打の雨を三人に向けて放つ。
掌の残影は二つが四つに、四つが八つに分かれ
その一つ一つが波紋を放ちながら向かってくる。
これぞ少林寺七十二絶技の一つ、『千手如来掌』である。
三四①②③④⑤⑦⑧⑨789 ツモ七
「くっ……!」
開幕からの猛攻に耐えていたジュニーはここで七萬をつもった。
ドラ絡みの一気通貫だが、専務の当たり牌である七萬が浮いてしまっている。
焦りを抑え、彼女は軽く目を瞑って一筒を切り、一気通貫を崩した。
(まだ四巡……一旦下がり、相手との距離を図って体勢を立て直す!)
三四七九③④⑤⑦⑧⑨789
二巡目、ジュニーはここに八萬をツモってきた。
三萬か四萬を切れば、単騎待ちの聴牌だ。
しかし彼女は仮テンをとらず、ここで三・四・五筒の順子を潰していった。
(あの年増の掌打はただ乱れ打っている訳ではない。
めくらましの中に隠れて、十数手が私に狙いをつけて
放たれている……この萬子は切れない)
更に数巡して専務の手牌から五筒が溢れ出た。
三四五七八九⑤⑦⑧⑨789
「……ロン。悲猿懺!(三色ドラ1)」
専務の掌撃をかいくぐって、ジュニーは下方から鋭い宙返りをして蹴りを放った。
肩にその衝撃を受けた専務はすぐさま後退りをする。
(苦しい形だが、手応えはあった。確かに現実で技を出すより
和了すれば必ず当たるこの場所なら、追い詰める事が出来る……!)
三千九百とはいえ、専務にダメージを与えた喜びを
噛み締め、ジュニーは第二の刃を研いだ。
東二局、五巡目。親は巴。ドラは六萬
二三四五五八八八八九⑨⑨⑨
ジュニーはこの手を五巡目にものにし、更に七巡目で七萬をツモ和了った。
(この程度の和了では致命傷は負わせられない。ここは三暗刻を狙う……)
彼女はそれをそのまま切り捨てた。
それから四巡はツモ切りが続いたが、十二巡目にようやく五萬をツモってきた。
「カンッ!」
二三四五五五九⑨⑨⑨ 八八八八
待っていたかのように八萬をカンするジュニー。
ネリチャギ、トラチャギ、ヨプチャギと蹴りの応酬で彼女は相手の間隙を窺った。
ジュニーは嶺上牌からドラの六萬をツモるが
そのまま切り捨ててリーチをかける。九萬単騎である。
2234567⑤⑥⑦五七九
その時の専務の手だ。新ドラは二枚控えている二索で、鳴き三色でも満貫になる。
鳴いて一発も消せると、かわし手としても申し分ない。
専務はその六萬を鳴いて九萬を切った。
「ロンッ、超絶竜巻真空斬(リーチ一発三暗刻裏ドラ2)!」
宙に浮いた専務に、ジュニーの繰り出した風刃竜巻が炸裂し、更に天へと彼女の体を駆け昇らせた。
流石の専務も立て続けに打撃を喰らってよろめいた。
東三局、七巡目。親はジュニー。ドラは二萬
「チー!」
ジュニーは立て続けに巴と専務から鳴いた。
■■■■■■■ ⑥⑥⑥ ③④②
彼女は何度となく先生から教わった技『旋風飛猿刺突』で
専務に突進を繰り返して、堅いその守りに僅かな綻びを産み出そうと努めた。
「ふん、そんな見え透いた染め手になど……当たるものかっ!」
ジュニーは『骸突き』で相手の懐に飛び込んだ。
専務が六索を切り、ガードを崩して攻め手に転じる。
しかし、ジュニーの細い体は羽根のように軽く彼女の傍から離れた。
その掌を彼女はへそ先一ミリというギリギリのラインでかわした。
(からの……!)
専務が一瞬見せたその綻びを、彼女は見逃さなかった。
「……っ!?」
「鳳凰脚ッッッ!(タンヤオ三色同刻ドラドラ)」
二二六六六66 ⑥⑥⑥ ③④②
肉体を抉るようにしてジュニーの脚撃と爪突は
鬼神にとりつかれたかのように襲いかかる。
気がつけば専務の残り点数は二千点を割っていた。
(これで終わりだ……終わりにしてやるッッ!)
――東三局、六巡目。親はジュニー。ドラは七筒
聴牌したジュニーは鉤爪のついた両手をだらんと真下に向けて、脱力する。
しばらく彼女はゆらゆらとただ腕を暖簾のようにして揺らしているだけだった。
しかし、その脱力が極限まで達したその時――!
「――杓死ッッ!」
一陣の風が電脳空間に吹き、ジュニーの姿がかき消えた。
その疾風からいち早くその意志を感じ取ったのは、巴だった。
「いかん! ジュニーは……うちらごと殺るつもりじゃ!」
二三三三⑤⑤⑤⑥⑥⑥⑦⑦⑦
熱い火花の迸る手牌を、ジュニーはしっかりと見据えていた。
(この手なら直撃でも安めツモでもあの女は沈む。
……二萬ツモの場合、親の役満ツモだから一万六千
……両脇の二人も死ぬかもしれない。……ごめんフェイフェイ、トモエ。
私を誘ってくれて、仇討ちに協力してくれてありがとう。
でも、あの女はどうしても今……この私の手で……ッッ!)
「いかんジュニー! 奴は……!」
巴の忠告は最早ジュニーには届かない。
彼女は電脳空間における無数の鎌鼬となって三人に襲いかかった。
不可視の高速斬撃を繰り出され、それは少しずつ的を搾っていった。
(喰らえッッ!)
専務の背中に潜り込んだジュニーは、間髪入れずに
仇の背中へとその禍々しく光る鉤爪を刺し貫いた。
「……やったか!?」
背中から胸にかけて貫通した鉤爪から血が滴り落ちている。専務は動かない。
動きを止めた二人を、フェイフェイと巴は固唾を飲んで見守っていた。
「ふっ……効いたぞジュニー」
「……ッッ!?」
不敵な専務の声が空間に響いた。ジュニーは抜いて逃げようとした。
だが鉤爪は専務の手と胸から逃れられなかった。
「心臓が右になかったら、即死だったか……カンッ!」
■■■■■■■■■■ 一一一一
力強い宣言と共に王牌に現れたドラ表示牌は九萬。
つまり、新ドラは専務のカンした一萬だった。
「リーチ!」
専務は嶺上牌を引き入れて生牌の中を切った。
「くっ、この……」
鉤爪ごと握られたジュニーは逃れようと必死にもがく。
だが深手にもかかわらず鉤爪のついた手はびくりとも動かない。
「……教えてやろうか、お前の敗因を」
背中越しに、ジュニーは専務の禍々しい笑みを見た気がした。
「それは……己の背丈以上の技を用いた事だ!」
(まだだ! まだ勝負は分からない! ここで四萬か二萬をつもれば……!)
ジュニーは神にすがり付くような思いで山牌からツモをした。
しかし、彼女がつもってきたのは無情にも三萬だった。
彼女の手から、それが河の中へと落ちていった。
「――ロンッッ! 化骨綿掌(リーチ一発チンイツドラ4)!」
■一一■二二二四四四四五六七 ドラ一
「キャアアアアアアア!」
耳を裂くようなジュニーの悲鳴が電脳空間に響き渡った。
美城の掌から放たれた気が手から腕、腕から肩、肩から全身に
彼女を駆け巡り、筋という筋、肉という肉を断ち切っていく。
この化骨綿掌は、五臓六腑に至るまでことごとく破壊する蛇島由来の凶技である。
「ジュニー!」
フェイフェイと巴は、すぐに戦友の下に駆け寄った。
横たわったジュニーは既に気息奄々としていた。
「トモエ……フェイフェイ……ごめんなさい。
私、ドジ踏んで……報いだね、これ……」
「しゃべったらいかん! うちらじゃ、うちらに任せい!」
「ジュニーしっかり! 今ここで貴方が倒れタラ、ユジンたちはどうなるノ!」
「……ユジン、ヘナ……。ごめん、みんなの仇、討てなかった……」
ジュニーは大粒の涙を流す。
その目には自らの魂が消え行く姿が見えていたに違いない。
「巴、フェイフェイ……手を握って……」
二人はジュニーの手を握ると涙が止まらなかった。
「きっと、きっと勝ってね……」
「ああ、約束じゃ。だから気をしっかりと、……! ジュニー!」
「……」
「……。ジュニー……」
フェイフェイと巴の前で今、短いながらも共闘したジュニーの閃光が消えていく。
最後に彼女の見せた笑みが目蓋に焼き付き、二人の涙腺を馬鹿にした。
「どうした? いい加減別れは済んだろう?」
二人の後ろから冷たい言葉が投げられる。
振り向くと専務が退屈げに卓に肘をついてじっとフェイフェイたちを見ていた。
その時、開きっぱなしのドアから入って来た人物がいる。
それはまたもや意外な人物だった。
「……プロデューサーさん!」
「ここにいたのか、フェイフェイ、巴」
ツアー中に巴とフェイフェイがいなくなったと聞き
プロデューサーは地元警察と一緒に上海中を探し回っていた。
そのうち、巴たちに似た女の子が香港に行ったという目撃情報を耳にした。
行動力に関しては346プロ随一と言われる彼は
そんな情報一つを頼りに、異国の地・香港へと車を飛ばし
その街中を単身で探索していたのだ。
「……専務、これはどういう事です?」
プロデューサーは微動だにしない韓国籍の少女の遺体を見て専務に問うた。
専務は不敵に笑って応えない。見れば分かるだろうとでも言いたげだ。
「……いや、もう野暮な事は聞きません。
ただ、この怪しいゲームに私も参加させて下さい」
「!」
まさかの申し出にフェイフェイたちだけでなく、専務も驚きの色を隠せない。
「……いいのか? 私たちが賭けているのは、はした金ではないぞ?」
「でしょうね。ですが、こんな危ないゲームにフェイフェイたちを
参加させたままではいられません……ここは早く切り上げましょう」
「プロデューサーさん、止めテ! これは尋常なゲームじゃないヨ!」
フェイフェイに続いて巴も言った。
「フェイフェイの言う通りじゃ。プロデューサー、この勝負は
そっちには関係のない世界の、関係のない決め事じゃ」
「ふっ。アイドルを守るのに、関係あるもないもないさ。
心配せずとも、お前たちは俺が守る。
お前たちに覚悟があるように、俺にも覚悟というものがある」
フェイフェイと巴は互いの顔を見つめる。
普段は自分たちのわがままをどこまでも聞いてくれるプロデューサーだが
一旦こう言いだすと、例え誰が忠告しようと聞かない頑固な所がある。
結局三人はプロデューサーで麻雀のメンツを補充し、ゲームを再開させる事にした。
「ジュニー……ここで待っていテ。きっと、勝ってみせるカラ……」
三人は部屋の端にジュニーの遺体を移し、その目を閉じさせた。
南一局、十巡目。親はフェイフェイ。ドラは三萬。槓ドラは四筒
■■■■ ①①① 999 ⑨⑨⑨⑨
これは専務の手牌だ。ジュニーから三倍満を和了して勢いをつけた彼女は
その後も満貫を立て続けに和了っていった。
今辛うじて二万点を持っているのはプロデューサーだけだ。
彼女にしてみれば何の武芸もない彼など脅威でもなんでもない。
目下の所、巴とフェイフェイにのみ的を絞り
致命傷に至らないまでも徐々にその点棒を削っていった。
専務の猛攻は止まらない。巴とフェイフェイは防ぐので精一杯だ。
「リーチ!」
一一二二三三七九③④⑤東東
七巡目の途中でフェイフェイが九萬を引いてきた。
七萬をひっつけて十一巡目にリーチをかけた。
リーチの直前、専務は八萬を切っている。
ここまで来ると専務も引こうとせず
フェイフェイのリーチに対して脂の乗った無筋の中張牌を何枚も切っていく。
八萬さえ専務が手にすれば絶対に切ってくるに違いない。
専務の手はホンロートイトイ、ともすれば清老頭まで見える手だ。
(一萬はワタシが対子にしている……
ストレートに読むナラ、専務の待ちは九萬絡み。
九萬・一索・一萬のどれかのシャボテン……
もしくは一索暗刻の九萬単騎。あっ……!)
その時フェイフェイは、巴がツモった時に
ぶつかった山から牌が転がり落ちるのを見た。
その牌は――九萬だった。
しかもそれは専務のツモ山だった。
あれをツモられたら最後、ほぼ確実に専務が清老頭を和了る。
そうなれば、残り一万程度のフェイフェイと巴は、同時に飛んでしまって終了となる。
二人が再起不能になれば、後は武芸の出来ないプロデューサーだけだ。
専務ならどのようにも料理出来る。
(……お願い、トモエ!)
②④④⑤⑥⑦⑦⑦⑧五六122
(どれじゃ……フェイフェイに差し込める牌は!)
巴も九萬がこぼれたのを見ている。
そしてそれが専務の手に渡れば、ほぼ間違いなく和了ると見ていた。
彼女は六萬を切ったが、フェイフェイはうなだれて首を振るばかりだ。
一一③③78南南西西中中九8
頼みのプロデューサーもまた、巴の鳴けるような牌を引く事が出来なかった。
万事休す――巴とフェイフェイがトビを覚悟したその時――。
いきなり、フッ、とバーチャル空間が消えて暗闇が広がる。
一体何事かと三人はVR装置を外す。
そこで見た物は、河の牌をムチャクチャに薙いだプロデューサーの左腕だった。
それは雀の卵を丸飲みした青大将のように大胆にも河にでんと寝そべっていた。
「……済まないな、チョンボだ」
「プロデューサーさん!」
あの九萬は牌山の中に埋もれてどこにあるのかも分からない状態だった。
少女二人を同時に血祭りに上げる機会を潰された専務は
こめかみに青筋を浮かばせてプロデューサーを睨みつけていた。
「貴様、わざと……ッッ!」
「いえ、この妙な空間にどうも慣れていなくてね、手元が狂いました」
「……言いたい事はそれだけか?」
美城の鋭い手刀の先が、プロデューサーの喉元に食い込む。
いつでも首を切り、喉仏を抉り取る事が出来るという意思表示だ。
「プロデューサー、真剣勝負に水を差した君には落とし前をつけてもらう」
「元よりそのつもりです」
「待てッッ! 介錯ならうちに任せてもらおう!」
巴が仕込み刀を河にドスと刺し、プロデューサーの左手首を掴んだ。
「トモエッッ!!」
「プロデューサー……歯ァ食い縛れッッ!!」
伸びた指に向けて彼女は息を止めたままその刃を垂直に落とした。
――キンッッ!
刀が冷たいコンクリートの上に落ちた。
巴が痺れる右手を抱いて専務を見つめている。
スッと伸びた指先から放たれた鋭い剣気が、巴の刀を弾き飛ばしたのだ。
これぞ姑蘇慕容家に伝わる絶技『参合指』である。
「……村上巴、気持ちはありがたいが
仲間に自ら手を下すのは忍びないだろう?
介錯は私がやろう……そのふざけた左腕を、丸ごと切り落とす!」
「!!!」
巴もフェイフェイも、プロデューサーがどうしてこのような
愚行に走ったのか分かっていた。
もし専務が九萬をツモれば、巴とフェイフェイは同時に飛ぶ。
しかし、誰も鳴かせたり差し込ませたりする牌がなかった。
あの和了を完全に阻止するためには、この錯和しかなかったのだ。
元よりこの故意の代償は、指一本詰めただけで済む話ではない。
左指を全部詰めさせるくらいの覚悟は要る。
だから巴は、心を鬼にして先にそれをこちらでやってしまおうとした。
悪魔のような専務に任せれば、間違いなくプロデューサーの
片腕を切り落とすはずだと察していたのだ。
「覚悟はいいな?」
「ええ」
プロデューサーは諸肌脱ぎになると、酒場からくすねてきた酒を
一口煽ると、残りを左腕に全てかけ流した。
「ですが専務、その手を煩わせるつもりはありません」
プロデューサーは地面に落ちていた巴の刀を拾い上げると
巴の制止する間もなく、声を短く張り上げて左肘を一刀両断した。
凄惨な光景に三人は固唾を飲みこんだ。
彼の肘から迸った鮮血は、離れた河にまで飛散した。
だが彼は存外涼しい顔をして切り落とした己の腕を血の海から拾い上げ
そのまま専務の顔めがけて投げつけた。
専務はパシッとそれを受け取る。その頬に血飛沫が数点散った。
「――これで、足りますか?」
汗一つ見せない不敵な笑みを向けてプロデューサーは言った。
「……見事だ」
その漢気溢れる行動に、専務は侮蔑も忘れてただただ賞賛の声を漏らした。
頬に付着した返り血は、まだ温かみがあった。
「プロデューサーさん!」
フェイフェイはすぐさまプロデューサーの左肘に点穴を施して止血した。
斬れた骨の断面が見える所が血の生臭さを一層生々しくしていた。
傷口に特殊な秘薬をかけ、フェイフェイは破いたシャツで丁寧に縛った。
「何で……あんな無茶な事を……っ!」
「それはな……俺がプロデューサーだからだ」
瞳に滲んだフェイフェイの涙が右頬に流れた。
それを、プロデューサーが右手の親指で優しく拭った。
「アイドルがピンチに陥れば救う。それがプロデューサというものだ」
彼の額にはようやく脂汗が浮き出てきた。
巴がその額に手をやると熱を持ち始めている。
「いつまで待たせる」
椅子に座り、脚を組んでいた専務は冷ややかな口調で三人に言葉を投げかけた。
自分で自分の腕を切り落とした時は正直目を見張ったが
どうせ彼女には三人ともこの地下から生かして返す気はないのだ。
「ああ、そろそろ始めましょう……」
まだ痛みの消えない腕を抑えてプロデューサーが立ち上がる。
心配そうに見つめるフェイフェイと巴を促して、彼は椅子に腰を掛けた。
そして残った右腕で箱から一万二千点を取り出して
四千点ずつ残りのメンバーの前に差し出した。
「フェイフェイ」
椅子に戻る際、巴はうつむいたままのフェイフェイの手を握った。
「トモエ……」
「プロデューサーがうちらに渡したあの四千点棒は、ただの点棒じゃない。
魂じゃ。腕一本潰してまで、うちらに託した未来そのものじゃ。
……うちらがこれを無下に扱う事は許されん」
「……そうだネ、この点棒はプロデューサーさんの命も同然。
……絶対に勝ってみせるッッ!」
必ず専務を下すと誓ったフェイフェイは
眉を吊り上げて専務を見据え、着席した。
南一局、九巡目。親はフェイフェイ。ドラは七筒。
「リーチじゃ」
九巡目、巴は九萬を切ってリーチを仕掛けた。
彼女の捨て牌は次の通りである。
⑤⑦23西9中中九
(早々にドラを切り捨てるし、典型的な染め手の捨て牌……。
中の二枚切りは手牌から……すると村上巴は混一色から清一色に移行した?)
三四五六七八4566678
同巡、専務は五萬を引いてきた。
(四千点を手にしたとはいえ、倍満一発で飛ぶ巴なら
当然大物手を狙うはず……しかし
そのような見え透いた手などには振らん!)
専務は当然のように五萬を引き入れ、六索を切った。
二二二三四五五六六七七57 ロン6
「――ロン。メンタン一発イーペーコー。裏ドラが一つで満貫じゃ」
(……何? そのまま中を二枚持っていればホンイツじゃないか。
一発裏ドラがなければ跳ね満まであるその手を……)
訝しむ専務の手から巴は奪うように一万二千点を受け取った。
「ふん……赤(ち)を流してこそ、得られるもんもあるんじゃ」
南二局、五巡目。親は巴。ドラは西。
②③④⑤⑤⑥⑥⑦⑦⑦西西西
これだけの放銃があってもなお、悪運が桁違いなのか
専務の手には枯れる事なく大物手が入ってくる。
筒子の一四五六七の五面待ちを五巡目に早くもものにして彼女はリーチをかけた。
専務の捨て牌には字牌と端牌の二種類くらいしか出ていない。
一二八①③122357南南北
(しまった! 余剰牌が多すぎて躱しきれん!)
とりあえずその場は北を切り捨てて巴は凌いだ。
だが、捨て牌からは染め手かどうかすらも判別出来ない。
安全とは言えないが端牌を切っていこうかと思案していた時だった。
「はっ!」
電脳空間で専務と渡り合うフェイフェイ。
彼女はプロデューサーの牌を鳴いて専務のツモを先送りにし
六萬、四索、五索と危険牌を立て続けに切り捨てて専務に向かった。
衡山剣法奥義『百変千幻衡山雲霧十三式』を用いて
専務は敵の穴道を執拗に鋭い速さで狙う。
対してフェイフェイは逍遥派の軽功『凌波微歩』をもって
それを髪一本分の間合いで回避している。
いずれもその魔手を巴に向けないように立ち回っていたのだ。
(……! フェイフェイ、プロデューサー! 恩に着る!)
――十四巡目。
①②③八八13 一二三 南南南 ツモ2
「――ツモ。南、三色」
ゴットーを引き和了り、巴は専務の倍満手を阻止した。
フェイフェイの果敢な攻めと協力して初めて成し得た連携だった。
「くっ……ちょこざいなっ!」
南二局、一本場。八巡目。親は巴。ドラは五筒。
二二二④④⑤⑤⑥⑥6777
専務の手である。
彼女はここに六筒をツモった。六索を切ればツモり四暗刻の聴牌となる。
だが彼女はそれをツモ切りして三面待ちのまま次に回した。
七八九⑥⑦⑦⑧⑧⑨⑨788
同巡のフェイフェイの手だ。
ここで彼女は九索をツモり、七八九の三色イーペーコーを聴牌した。
彼女は八索をトントンと叩いてじっと見つめる。
(この八索は狙われている……なら、コレ!)
フェイフェイはピンフを捨てて三色確定の八索待ちにした。
しかし八索は場に一枚出ているから後一枚しかない。待ちとしては最悪だ。
二二二④④⑤⑤⑥⑥6777
(獲物はすり抜けたか……だが、逃がしはしない)
次巡、七筒をツモった専務は、六索を切って四七筒待ちにシフトした。
七八九⑦⑦⑧⑧⑨⑨7889
同巡、フェイフェイは七筒をツモった。
七筒の模様が、鎌首を持ち上げているとぐろ状の蛇のように思えた。
(……八索を切れば待ちは良くなるケド、八筒、九筒では和了れないし
九筒は場に二枚出ている。……だけど、リーチをかけないト……)
フェイフェイは八索を切って不本意ながらリーチをかけた。
二二二④④⑤⑤⑥⑥⑦777 ツモ⑧
(まだ粘るか……今度はこっちが追い込まれたか?
フリテンになるから、この八筒は切れない。
かといって七筒も危ない。ここは……)
十巡目に六筒を切って、専務は四・五筒のシャボテンに受けた。
フェイフェイは祈るような気持ちで牌をツモり
通っていないスジ牌を切った。
二二二④④⑤⑤⑥⑦⑧777
十一巡目にして専務はフェイフェイのアタリ牌である八筒をツモった。
これを手にすればフェイフェイにはもう勝ち目はない。
ほくそ笑んで彼女は五筒を切った。
「――ロン」
その時、対面の巴が牌を倒した。
三四五五五五⑤⑤555中中
「三色同刻ドラ3じゃ。一人だけ見とったら足下を掬われるぞ」
南四局。親は美城専務。ドラは西。
一一二五五六⑦2368中發白
これは南四局のラス親に入った専務の手牌だ。
放銃が続いたためか流石に今までと比べて牌勢は確実に落ちている。
しかし、ここから彼女は白と發を自引きして怒涛の伸びを見せた。
「ポン」
一一一二五五六發發中 白白白
プロデューサーから出た白をポンした時、彼女の手牌は既に二向聴だ。
無論、彼女はこの手を満貫ぽっちで終わらせる事は考えていない。
やがて、その白と發に吸い寄せられるように彼女は中をツモった。
一一一二五五發發中中 白白白
(これで跳ね満……。だが……!)
「……カンッ!」
一一一二五五中中發發 白白白白 ツモ發
白を引いてカンした専務が嶺上牌から拾ってきたのは發だった。
ドラこそ乗らなかったが二萬を捨てて
五萬と中のシャボとし、大三元聴牌をものにする。
五萬は巴の捨て牌に一枚、中はまだ捨てられていない。
大三元和了の可能性は充分にあった。
「ポンじゃ!」
その時、フェイフェイから出た七筒を巴がポンした。
彼女は続けてプロデューサーから出た七索をカンする。
二枚目のカンドラはその七索だった。
■■■■■■■ 7777 ⑦⑦⑦ ドラ7
(……)
次巡、専務は七萬をツモった。巴は直前に三枚目の六萬を切っている。
死んだジュニー、そして巴の和了った三色同刻が彼女の脳裏にちらついた。
まさか一日でそう何度も物珍しい三色同刻を和了られてたまるものか。
そう専務は思ったが、あの六萬を見ていると
巴の当たり牌が七萬の気がしてならなかった。
(巴はタンヤオ三色同刻ドラ4……一万二千の直撃で私は飛ぶ……)
専務は臍を噛みながら五萬を切ってカン六萬に受けた。
しかし、この消極的な打ち方が災いした。
その二巡目にツモってきた牌は、あろうことか中だったのだ。
彼女が悔しがったのも無理はない。
そのままのシャボテンなら親の役満ツモで一万六千オールのダメージを
この忌々しい三人組に叩き込む事が出来たのだ。
とにかく彼女は五萬を切って大三元確定の七萬単騎に受けた。
「チー」
プロデューサーが巴の手から出た八萬と六萬を鳴いた。
■■■■■■■ 六五七 八七九
(……! 三色同刻ではなかった! くっ……あのガキが……!)
奥歯を擦り減らすくらいに食い縛って、専務は巴をにらみつけた。
「ポンッ!」
■■■■■■■ 西西西 南南南
更にフェイフェイがプロデューサーから出た南と西を立て続けに鳴いた。
彼女の捨て牌は中張牌に溢れていて、まず間違いなくチャンタ手と読めた。
おまけに東も北も場に一枚も出ていない所が不気味だった。
(……)
一一一七中中中發發發 白白白白
ここに専務は北をツモってきた。北は生牌だ。
(あの小娘の事だから、小四喜、大四喜の可能性はある……)
そう判断してもはや不要となった七萬を切り、北単騎にチェンジした。
だが同巡、フェイフェイは南をカンする。新しくめくられた新ドラは一萬だ。
その次巡で、専務はあろうことかドラの一萬をツモってきた。
一一一北中中中發發發 白白白白 ツモ一
これをカンすれば四槓算了となってこの局は流れてしまう。
しかしこのドラをそのまま切り、万が一フェイフェイが
萬子の一・四の両面待ちで当たればどうなるか。
しかし、北は小四喜、大四喜警戒から依然として切れない。
(くっ……! この二つを切るくらいなら……!)
悩み抜いた専務は苦肉の策で暗刻の中を切った。
「――ロンッッ!! 天下五絶(大四喜字一色)!」
東東東北北北中 西西西 南南南南
『東邪』黄薬師
『西毒』欧陽鋒
『南帝』段智興
『北丐』洪七公
そして全真教教主である『中神通』王重陽の五人は宋代に崋山の頂で武を競い合った。
いずれも卓越した武功を持ち、万夫不当の腕前をぶつけ合った
この戦いを『崋山論剣』という。
「これはプロデューサーの分ッッ! 神駝雪山掌ォッッ!」
フェイフェイが牌を倒したその時、専務の体に強烈な電撃が走った。
電脳空間ではフェイフェイの小さな体が宙を舞い、掌が風を切って専務に襲いかかる。
半身の一撃を食らった彼女はすぐに後方へと飛んだ。
だが、フェイフェイはそれを許さない。
(ごめん、ヒロミ! 今だけ力を貸しテっ!)
関裕美が作ってくれたビーズ製のシュシュをバラバラにし、前方の宙に散らせる。
「これはジュニーの分ッッ!」
混元功のこもった指によって弾かれたビーズが
さながらマシンガンのように専務に向かってくる。
(これは……桃花島の絶技“弾指神通”っ!!)
専務は軽功『神行百変』を駆使して回避に専念するも
流石に全てをさばききれない。
その乱撃に混じって一筋の無形の剣が
専務の“巨骨”“天突”“神封”の三穴を捕らえて動きを封じた。
大理国の段王家に代々伝わっていた絶技『一陽指』だ。
弾指神通、神駝雪山掌、一陽指……楊家が長きに渡り保護し
伝承してきた江湖の絶技の数々が、フェイフェイの小さな掌に乗って
次々と仇敵・美城専務に襲いかかり、打ち込まれていく。
「喰らエエエッッ!!! これが叔父の分ッッ――降龍十八掌、“亢龍有悔”ッッ!!!」
フェイフェイの掌から放たれた重厚な内気は
剛猛たる風波を纏うみずちとなって
専務の腹部へと抉るように食らいついた。
専務は喀血し、その気功と共にはるか後方へと飛ばされた。
これらの技はいずれも本来の三割ほどの威力しか発揮されていない。
しかしそれでも、眼前の魔女を潰すには充分過ぎた。
「はぁ……はぁ……! どうやら……力尽きたようネ」
膝をつき、床に伏して途切れ途切れの息を漏らす専務に
内力を出し切ったフェイフェイは頭上から話しかけた。
VRを取り除いたら、そこには椅子にもたれて苦しげに息を吐く仇の姿があった。
フェイフェイの渾身の一撃をまともに食らった専務は
類稀なる内力の高さゆえか気を辛うじて保っていた。
しかし、その内傷は決して軽くはなかった。
最早その体には、フェイフェイと巴の二人を相手に戦う力すら残ってはいなかった。
「待て、お前たち」
せめてとどめでもと掌に気を溜めて構えているフェイフェイに、専務はその手を向けた。
「取り引きをしようじゃないか」
「今さら何を……」
フェイフェイは専務の左手にある妙なものに目をやった。
それは丁度掌に収まる程度の筒状のもので、彼女はその先端に親指をかけている。
専務はニッと笑った。
「これはここの起爆装置だ。親指を離したら最後
私も貴様たちも爆風に飲まれ、助からない。そして……」
フェイフェイは耳を澄ました。
階段を降りる数人の足音が、この地下室まで響いた。
「大勢の足音が聞こえるだろう? 私の兵隊だよ。
少々時間はかかったが、格闘経験のない人間を抱えて
銃弾の雨をかいくぐれる自信はあるか?」
フェイフェイはちらりとプロデューサーを一瞥する。
自分は助かるかもしれない。巴もあるいは。
だが彼を守って銃弾の中を抜ける自信はなかった。
「……。何が言いたい?」
「私を活かしてくれたら、お前たちを活かしたまま地上に帰そうというのだ。
兵隊にもお前たちに危害は加えさせない。
それとも、ここで戦友の遺体と心中するか?」
「……トモエ、あの起爆装置は本物だと思うカ?」
フェイフェイが聞くと、巴は目を瞑った。
その額には重い汗を掻いている。
「……ただ、一つ言える事がある。
それは、あの年増が食えない奴という事じゃ。
自身の実力を信頼しとるが、過信はしとらん。
万が一うちらに負けたなら、道連れの一人や二人、余裕で巻き込むじゃろう」
「……なるほど」
フェイフェイは一歩進んで言った。
「条件が三つあるネ。
まず一つ、ここから出ていくのはワタシたち三人とジュニー。
そして地上に出るまでの間はワタシの手をずっと握ってもらうネ。
地上に出た後、韓国アイドルをはじめ他のアイドルにはもう手を出さない。
それを誓ッテ」
「……ああ、誓うとも」
専務がそう言うと、扉が開いて私兵が雪崩れ込んできた。
「巴ちゃんたち何かやったの?」
「上海ツアーをドタキャンしたとは聞いたけど……」
346プロではフェイフェイたちの話題で持ちきりだった。
フェイフェイと巴は上海ツアーにこそ間に合わなかったが日本の地を踏む事が出来た。
事務所のアイドルたちはツアー直前になって
行方を眩ませた二人とプロデューサーをずっと心配していた。
やっとツアー最終日のプログラムが終わった後に、三人は黒い外国車から降りて姿を表した。
腕に酷い傷を負ったプロデューサーを見て、誰もが何か凶悪な事件に巻き込まれたと感じた。
だがフェイフェイも、巴も、プロデューサー自身も、みな口を閉ざしていた。
そして、帰国後――三日ほどして異例の人事が発表された。
楊菲菲と村上巴は担当プロデューサーと共に即日解雇するとの通達があった。
この人事にあの専務が絡んでいるのは言うまでもない。
「どうじゃフェイフェイ、いっそ不服を申し立てるか?」
「……いや、このまま出ていくネ」
「そうじゃろ。敵の手中に胡座をかいたままでいるのも腰が落ち着かん」
事務所の皆が二人の送別会として豪華なパーティを開いてくれた。
櫻井家と西園寺家の合同パーティという事で、有り余るほどの豪華な食事があった。
だがフェイフェイたちの空腹を何より満たしたのは
アイドルたちの寄せ書きと、労いの言葉だった。
「……!」
櫻井家の豪邸を去る時だった。邸宅の前に一人の女性が立っていた。
美城専務だ、彼女は護衛一人つけずに壁にもたれていた。
「涙の送別会は済んだか?」
巴は専務をギンと睨んで返した。
「……ずいぶんとフザケタ事をしてくれたもんじゃのう?」
「約束は守った。今度の人事はファンの総意だ」
専務は顔色一つ変えずに返す。
「ツアーを楽しみにして世界から集まったファンの信用を、お前たちは裏切った。
アイドルとしてあるまじき事だ。
そしてそれは、346プロダクションの信用崩壊にも繋がり得る。
だからこちらとしても相応の処分をしたまでだ」
フェイフェイは黙って聞いていた。
相手は今まで生きたままあの地下室から出すという約束を守った。
アイドルに手を出すなという約束も。
だが、解雇されて二人はもうアイドルじゃなくなった。
今の二人を生かしておく約束は交わされていない。
この世界のどこに行こうと、この悪魔は容赦なく彼女らを暗殺するだろう。
「一つダケ」
「……何だ」
「……貴様は毒に冒されている」
専務の片眉がピクリと動いた。
「……数日前の握手でか? 生憎だったな、私はこの通り
ピンピンしている。今更こけおどしにもならん」
「……五仙教には、百種の毒百足と
二百種の毒蝮を使った、無味無臭の劇毒があるネ。
苗族の血を引く五仙教教主・藍鳳凰の作ったその毒は
一度皮膚に付着するとすぐに皮下に浸透し、二、三日の間だけ症状は出ない」
「話にならんな。皮膚に浸透するならその時素手で触っていた貴様も……」
そう口にした専務だったが、五仙教とかかわりのあった楊家の事だ。
一族の女が毒に対して耐性を持っていたとしても不思議ではないとも考えた。
「嘘だと思うナラ、“合谷”と“淵腋”の双穴を突いてみるといいネ。
毒が回っていれば“曲池”辺りが炎のように熱くなり、紫の斑点が出るハズ」
それまでフェイフェイの言葉を歯牙にも掛けなかった専務も
言われたツボを人差指で軽く突くと、顔からサッと血の気が引いていった。
左肘にじわと浮かび上がる斑点をみるや否や、彼女はすぐさま
点穴で左腕の血流を断ち、肘を隠し持っていた懐刀で切り落とした。
アスファルトの地面に真紅の血が噴き散って
中央に人間の腕を据えた大きな花を描いていく。
「無駄ヨ。その印が出る頃には既に内臓まで毒が及んでいる」
「……言えっ! 解毒剤はどこにあるっ!」
「かかりつけの薬剤師に処方してもらえばいい。
だがそれまでもつかどうかは分からない。
言っておくが、五仙教の毒は特殊ヨ。
生半可な服薬をすれば、毒が刺激されて効能が飛躍的に高まる。
……喉が潰れて血を吐くまで泣き叫べ」
「待て、フェイフェイ!」
背中を向けて立ち去ろうとするフェイフェイを専務は哀願に似た声色で呼び止めた。
「頼む! 解毒剤をくれっ! 薬をくれたら望みの品をやる!」
「望み? 貴方に望んで、優しかった叔父様が生き返るカ?
ジュニーが生き返って笑ってくれるとデモ?」
「悪かったっ! 頼むっ! 世界のどこにいようと
金輪際お前たちを狙ったりはしないっ! だから……」
フェイフェイは胸から黙ってアンプルを取り出した。
それを投げつけられた専務はすぐに爪で容器を切ると服薬した。
「……その薬は特殊な毒虫から調合している。
だが、それも一時的なもので、服薬しても三ヶ月しかもたないネ。
……長生きしたけれバ薬が切れる度に毎回香港に来い。
そして、お婆様に薬を乞え」
それだけ言ってフェイフェイは去った。
残された専務は歯噛みをしながら残された手で地面に爪を立てて
去っていく二人をにらんでいた。
この日から今日まで、専務は三ヶ月に一度、香港の楊ファミリーを訪れるようになった。
無論、只で怨敵を許す楊一族ではない。
彼らは、フェイフェイの言った薬が到着するまで
スラムの中央にある酒場で裸になってじっと待っていろという条件を彼女に呑ませた。
彼女は言われた通り、待った。何度も、ひたすら待った。
万が一近寄る人間に危害を加えれば、薬の受け渡しを拒否するというので
例え奴らが派遣したスラムの汚ならしい男たちに裸身をベタベタと触られ
組み敷かれて犯されようとも、武芸の出来なくなった彼女は
抵抗する事も出来ずに阿呆のように待つしかなかった――この話はここまでとする。
≪そうかそうか。ようやく重蒼会の頭を潰し得たか。
よくやったのう、フェイフェイ≫
病院まで向かう途中、フェイフェイはスマートフォンの向こうにいる祖母の声を聞いていた。
現役を引退したとはいえ、祖父の傍でずっと江湖の荒くれ者相手に渡り合ってきたこの女傑は
老いてもなお内力の衰えぬその声色をもってファミリーの中心にいた。
小さな背中一面に百花の入れ墨を刻み、若い頃は『百花羅刹』として
暗黒街に恐れられてきた彼女の言葉には
例え楊家の当主――フェイフェイの父でも逆らえない。
「はい、お婆様」
≪ふふ、優秀な孫を持ってわしも鼻が高いわ。
小賢しいあの売女さえ言いなりになれば、後に残った輩など烏合の衆に過ぎん。
この楊家に牙を向けた報いを、存分にきゃつらの体に叩き込んでくれよう。
フェイフェイ、薬もそうじゃが後はわしらに任せておくと良い≫
「……。それでお婆様……アイドル事務所は……」
≪辞めさせられたのじゃろう。あの雌狐なら当然その手の事はしてのける。
いつ寝首をかかれるか分からんからのう。
幸い、アイドルを続ける方法など幾らでもある。
もし悩んだら、またわしを頼って来い≫
「お婆様……ありがとう」
≪ああ、そうそう。今度来る時には、話に出て来た
例のプロデューサーも一緒に連れて来てくれんか。
時間の都合でこちらの病院では会えなんだが、楊家の主としては
孫娘を守ってくれた婿殿に御礼をしたいからのう≫
「……! あ、あのっ、プロデューサーさんはそんなのじゃ……!」
≪ほっほっほ、照れずとも良いではないか。
その男に惚れているのはお前の口振りで分かる。国籍や歳などどうだって良い。
フェイフェイも結納を交わすなら、自分のために
命を張ってくれるような男がいいじゃろう。
昔とは違うんじゃ。やはり女は好きになった男と一緒になるのが一番じゃよ。
その方が二人の気も乗って元気な子を授かるからのう?≫
「……お婆様!」
≪とにかくそちらが落ち着いたらでいい。
隻腕になってまでお前を助けたその漢の顔を
はようこの婆にも見せてくれや。頼んだぞ?≫
フェイフェイが答えるより早く楊婆は携帯を切ってしまった。
プロデューサーを香港に連れていったら、間違いなく楊家の人間は
婚約の祝宴をととのえて待ち構えている。そしてなしくずし的に婚約するのだ。
祖母はこの方法で生涯に三人の男妾を得て一人を夫に据えた。
フェイフェイは心こそ定まってはいないが、もし夫婦になるなら
と思いを巡らすと、真っ先にプロデューサーの横顔がちらついた。
「家族からか?」
隣に座っている巴がフェイフェイに尋ねた。
とりあえずフェイフェイはうなづき、それ以上の事は話さなかった。
巴もワケアリの事情に深くはかかわるまいと話の内容までは探らなかった。
「……しかし、フェイフェイも大概甘いのう」
巴は言った。村上組の黒く塗り固めた車に乗り込み、フェイフェイと巴は
プロデューサーのいる病院に向かっていたのだ。
その途中で、二人は話し合った。
「そう?」
「ああ、何も解毒剤を恵んでやらんでもよいもんじゃ」
「……解毒剤? そんなもの、渡した覚えはないネ」
「しかし、さっき、……まさか……」
その時のフェイフェイの横顔は冷たかった。
「ワタシはあの薬を『特殊な毒虫から調合した』と言っただけダヨ。
解毒剤だとは一言も言ってない。
向こうが勝手に勘違いをしただけのこと……」
「……。最初の毒は何なんじゃ。斑点が浮かび上がったあれは」
「あの手の小細工、五仙教にかかれば何の事はないネ。
確かに毒には違いないケド、見た目が毒々しくなるだけで効能はないも同然ヨ。
……だが五仙教を知る者が、五仙教の劇毒と聞いて何もしない道理はない」
フェイフェイが本当に飲ませたかった毒は、後に渡したものだった。
その激毒は無味無臭とはいかないが、解毒剤と言えば
毒に怯える専務はすすんで飲んでくれると踏んだのだ。
「そして一度服用したが最後、あれは決して体外に排出されナイ。
下手に内力を用いればすぐ全身に毒が回って血を吐いて死ぬより先に
手足も動かせない廃人となる。もう一生、あの女は武芸を使えないヨ。
そのままにしておいても、じわじわと苦しみ抜いて死ぬダケ。
生きるためには、香港に貯蔵してある秘薬を一生服用し続けるしかナイ。
……例えどんな辱しめを受けようトモ」
車がやっと病院の駐車場に到着した。
「……トモエ、ワタシのした事は甘いカ?」
「……。ふっ。いや、構わん。ただ、そうやって長生きしたとしても
生きた心地はしないじゃろうな……」
「やぁ、フェイフェイ、巴」
病室にいたプロデューサーの姿は思ったよりも元気そうだった。
しかし、命に別状はなかったとはいえ、肩先から途絶えた隻腕の姿はやはり痛々しい。
「プロデューサー、うちらは……」
「解雇されたんだろ?こっちにも通達が来たよ」
「……知っとったのか」
「ああ」
プロデューサーは右腕を伸ばして机に置いていた缶コーヒーを一口飲んだ。
「あんな事があったんだ……例え向こうが解雇しなくても
二人共、あの事務所にはもう居られないだろうさ」
巴とフェイフェイがうなづいた。
プロデューサーのいる部屋の外には、昼夜問わず
村上組から派遣された人間が数人、入院当初からずっと彼を守っていた。
フェイフェイがアイドルたちの書いた寄せ書きと退職祝いを渡す。
しばらくの間、三人は重苦しい雰囲気の中うなだれていた。
「とにかく、お前たちが無事でいたのは何よりだ。
それだけが心配だった。ひょっとすると、二人と
もう会えないと思っていたんだ」
「プロデューサーさん……」
フェイフェイは申し訳ないという思いで胸が詰まりそうだった。
この争いにカタギの人間である彼を巻き込み
取り返しのつかない深手を負わせてしまったのだ。
数々の絶技を手中に収めていた美城専務。
そしてそんな怪女を下した稀代の女仙も
彼の前ではどこにでもいる一人の乙女になった。
「……フェイフェイ、巴。少し聞いてほしい。
俺は近々新しいアイドル事務所を立ち上げようと思う。もし良ければでいい。
俺と一緒に来て、もう一度トップアイドルを目指してくれないか?」
「!」
フェイフェイと巴は互いの顔とプロデューサーの顔を交互に見た。
プロデューサーは続ける。
「流石に最初から大手の346プロのようには、いかないと思う。
俺も勉強を始めたばかりの新米だ。
だから最初は二人に苦労をかけるかもしれない。
だが、二人をスカウトした時に交わした、トップアイドルにする
という約束を俺は守り続けたい。
解雇された今もその気持ちは変わらないし、その夢を諦めたくはないんだ」
「プロデューサーさん……!」
「大事な事だから、すぐに返事をくれとは言わない。
しっかり考えた後から返事をしてくれたらいい……」
「答えなんぞ、決まっとる!」
思わず病院である事も忘れて、巴が叫んだ。
「巴……」
「うちのプロデューサーは世界中探したってお前しかおらん!
そのお前が望むなら、うちはどこにだってついていく!」
「プロデューサーさん!
フェイフェイも、ずっとプロデューサーさんについていくヨ!
これからずっと……プロデューサーさんの腕になってそばに居るヨ!」
「ありがとう、二人共」
片手を温かく握る二人の手に、プロデューサーはじんと熱いものが込み上げた。
「……おう、もうついとったか」
静かだった病室に厳めしい表情をした男たちが数人、入ってきた。
その中央にいるがたいのいい中年の男が三人を見やる。
「何しに来たんじゃ、おとん」
巴は椅子から立ち上がり、父を見つめた。
「ふっ……広島から足を運んできたのに何しに来たもないじゃろう」
巴の父はフェイフェイに軽く会釈すると
部下の用意した椅子にどかりと腰を下ろす。
「娘の命の恩人が怪我をしとるんじゃ。見舞いに行かないでどうする」
「ご足労をおかけしました、巴のお父さん」プロデューサーが頭を下げた。
「こうして面と向かって話すのは初めてですね。
ベッド上からで申し訳ございません」
「ふむ、お父さんか……」
煙草を吸おうとする彼の手を、巴が払った。
「……おとん、言っておくがうちは……」
「分かっとる。あんな目に遭わせやがった人間の下にいる事はねぇ。
辞めろ、辞めろ。まぁ、346プロには後々落とし前をつけさせてもらうがな……」
「申し訳ございません。お父さん。
娘さんにはこれから、別の形でアイドルを続けられるようにいたします」
「おう、そうしてくれ」
巴の父は身を乗り出して、プロデューサーの顔をまじまじと見た。
(どれ……ふむ……良い眼をしているな。
芯の通った漢の眼は、丁度南海のように澄んでいて心まで見透せるもんだ。
こんな男を美城の所で見つけたのなら……
中国くんだりまで遠征したのも全くの徒労とは言えねぇか……)
「……プロデューサーさんよぉ」
「はい」
「新しい事務所でも、娘をよろしく頼む。
あと、事務所新しく立ち上げるってんなら金もスポンサーもいるだろう。
わしらにも何口かかませい。
そして困った事があれば、これからもこの村上に任せばええ」
「それは、助かりますが……そこまでしていただいては……」
「なぁに、遠慮は無用じゃ。娘を助けてくれた礼と、孫を見るための投資と思えばな」
「……?」
巴は我慢が出来ず、頬を朱に染めて父に詰め寄った。
「……おとん! それ以上余計な事を言うと、もう口をきかんぞ!」
「おっと、それはいけねぇ。なら、今日はここらでおいとまするか」
それだけ言うと巴の父は去っていった。
「プロデューサーさん、一つ頼みがあるんダケド……」
「何だ、言ってくれ」
プロデューサーが退院すると、フェイフェイたちはすぐに韓国のソウルへと向かった。
空港では、一命をとりとめたイム・ユジンとリュ・ヘナ
そしてジュニーの身元引受人が集まっていて彼らを出迎えた。
ジュニーの遺骨を手渡した時、ユジンが堪えきれずに慟哭する。
「ジュニー……私たちの仇なんか、討たなくても良かったのに……!
私は、ただ……また三人一緒に、アイドルが出来るだけで……ううっ……!」
「ユジン……」
車椅子に座ったまま、ユジンは遺骨の入った袋を抱えていつまでも泣いていた。
まだ完治していない左目に眼帯をつけたヘナが
その車椅子の後ろから彼女の肩に手を掛けて慰めた。
戦友ジュニーを丁重に葬った後、フェイフェイは彼女らを新事務所へと誘った。
ジュニーの遺志を引き継いだ彼女は、新しいアイドルたちと
手を握り合って、再びアイドルの道を歩んでいく。
以上です。フェイフェイ誕生日おめでとう!
シリアスでかっこいいフェイフェイが書きたかったんだ
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