【モバマス】まゆ「ママゆ」 (49)
唐突にママゆという単語が頭に浮かんでしまったので、書いてしまいました。
読みづらかったり、誤字、脱字など諸々あると思いますが、見ていただけるとありがたいです。
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強い雨が降っている日だった。
時間帯が夜に入りかけということもあってか気温は下がる一方で、吹き抜ける風は秋を少し通り越したような寒さを感じさせる。
佐久間まゆはその寒さに少し震えながらも、しかし明るい足取りで事務所に向かっていた。
「天気予報を見ていて正解でしたねぇ」
年相応の薄いピンク色の傘は、空から落ちてくる水滴を受け止め、ボツボツと音を立てている。
しかし、今日のまゆはその音すらもひとつの楽器のような印象を受ける程、気持ちが舞い上がっていた。
「今日は一体どこに連れて行ってくれるのか楽しみですねぇ。ふふっ」
別にまゆは雨の日が誰よりも好きというわけではない。
それであればなぜ、まゆのその足取りが明るく陽気なのかというと、それは彼女のプロデューサーが、ディナーに誘ってくれたからであった。
「さ、早く事務所に向かわなきゃ……あらっ?」
しかし、そんな明るい足取りがはたと止まる。
それはバッグにしまっていた携帯のバイブレーションに気づいたからだ。
「プロデューサーさん?」
画面には彼女のプロデューサーの名前が表示されており、指のスライドを求めて、振動を繰り返している。
その要求に従い、指を滑らして耳に合わせる。
「もしもし?どうしたんですか?」
『ああ、急にすまんな。今どのあたりにいる?』
携帯越しのプロデューサーの声に少しだけ心が躍りそうになるが、彼の少し申し訳なさそうな声色を敏感に聴き取ってしまったまゆはある程度、次の展開を察してしまった。
「もしかして、急用ですか?」
『わかるか……すまん、急に仕事が入ってしまって。今から出ないといけなくなってしまったんだ』
「そうですか……」
思っていた以上にがっかりとした声が出たことにまゆ自身も驚いたし、それはもちろん携帯越しの彼にもばっちりと伝わってしまったようだ。
『本当、誘った側だっていうのに申し訳ない……』
「お仕事ならしょうがないですよぉ」
『今度必ず埋め合わせするから、何かまゆのしたいことはあるか?』
「ほんとですか?それなら、今度のオフ、一緒に買い物に行ってもらいたいです」
『ああ、今度のオフだな。予定空けておくよ。それとさっきも聞いたんだが今どのあたりだ?もしも事務所の近くならついでに寮まで送っていくぞ。雨ひどいだろ』
それが彼なりの謝意の現れであることがわからないほどまゆも鈍感ではない。
「雨、確かに降ってますね……ちなみにですけど、仕事ではどちらに行かれるんですか?」
『ん?ああ、場所は――――だが』
(寮とは方向が違いますねぇ……)
しかし、彼の仕事の支障になるようなことをしないのはまゆの信条でもある。ゆえに彼女は嘘をつくことにした。
「いえ、大丈夫です。ちょうど駅付近なので。このまま寮に戻りますねぇ」
『……ほんとう、申し訳ない。今度のオフにしっかり埋め合わせるからな』
「今日の分も含めて期待してますね。じゃあ、大変そうですがお仕事頑張ってください」
『ああ、お疲れ様。気を付けてな』
通話の終了音が無慈悲に響いた。小さなため息が自然に漏れてしまう。
「まあ、お仕事ですもんね……」
唐突に予定が空いてしまったが、まさか今からの時間帯に何かをするという気はまゆにはなかった。
仕事に集中して欲しいがために駅近くにいるなんて言ったが、実際のところ事務所の近くまでは来ていたのだ。
(しょうがありませんが、事務所で少し雨宿りして少し弱まったら帰りましょうか)
とりあえず今回に限ってはプロデューサーと鉢合わせるわけにもいかないので、少しだけ足取りを遅くするとまゆはゆっくりと事務所に向かいだした。
しかし
「……まさか、事務所がこんなに早く閉まるなんて」
傘を開いたまま扉の前でまゆは呆然と佇んでいた。いつもは明るい事務所からその明かりは消え失せており、いつもの活気さを微塵も感じさせない様相を醸し出していた。
「今日に限って合鍵は部屋に置いてきてしまいましたし……」
雨は弱まる気配もない。なるほど、今日はどうやらこういう日らしい。とまゆは考えを完結させため息をひとつついた。
「帰りますか……今日は大人しくしたほうがよさそうですし」
流石に気分も落ち込んでしまったが、このまま事務所前にずっと待機しているわけにもいかない。
そして、なにより
「さむい……」
雨と時間帯による気温の低下は激しいものだった。おまけに風も出始めるときた。ここにいたところで風邪を引いて寝込むのがオチであるのは誰の目から見ても明らかである。
帰りましょう。そう思った瞬間であった。
ピチャッ……
「っ……!?」
音と同時に反射的に背筋が張ってしまったのは生理的な現象か。
明らかに誰かが水たまりを踏む音であったのは背中越しでも十分に感じ取れた。
そして、その音が自分の後ろで止まったことも。
(……誰?)
突然の緊張に体が強張り固まってしまう。事務所の明かりが消えているとこの通りは電灯だけで妙に薄暗くなってしまうのだ。
ただでさえアイドル事務所だということが周知されている場所でもあるし、所謂『そうした人間』がこうした機会を狙っている可能性も十分にあった。
「はぁ、はぁっ……」
「ひっ……」
後ろから聞こえる息を切らしたような呼吸音に思わず悲鳴があがりそうになるのをまゆは何とか抑え込んだ。とにかく恐怖しているのを相手に感じ取られてしまったら駄目だという事は、学校のそうした授業で習っていた。
(さ、最悪このバッグで……)
厳しいレッスンも乗り越えられる分、体力に自信がないわけではない。
が、護身となれば話は別である。モデル時代もアイドルになってからも事務所の意向でそうした講習は受けさせられたが、実際にそれを発揮できるかどうかなんていうのは今の足の震えからして難しいものである。
「はぁっ、はぁっ」
後ろから聞こえる少し高めの呼吸音はまだ聞こえている。
(……あら?)
だが、その声の妙な高さにまゆは変な違和感を覚えた。
そして、それに気づいた瞬間、恐怖からの緊張感が別のものに変わっていく。
「は、はぁっ……」
(高い、声?それに少し……)
レッスンは一人ですることもあれば、グループですることもある。
それはまゆよりずっと年上の人達とであったり、逆に年端もいかない子達とすることもある。
そのレッスンが終わって息を切らさない人間を今までまゆは見たことがなかった。だからこそ年齢特有の息切れの感じを知らずのうちになんとなく覚えていたのだ。
(この呼吸の感じは……!)
慌ててまゆは振り返った。傘についていた水滴が周りに飛び散ったが気にしている余裕はない。
「に、仁奈ちゃん!?」
「あ、ま、まゆおねーさん……」
いつものうさぎの着ぐるみをぐっしょりと濡らして、立ちすくむ市原仁奈がそこにいた。
「ど、どうしたんですか!?傘もささないでこんな濡れちゃって!」
まゆは慌てて駆け寄ると仁奈を自分の傘の内にいれる。対する仁奈は俯いており、小さな身体を震えさせていた。
「と、とりあえず拭けるところだけでも……」
「わ、わぷっ」
まゆはバッグからタオルを取り出し中腰になると、仁奈の顔を拭いてあげる。が、服全体が濡れているため一部を拭いたところであまり意味はない。
「駄目ですね……どっちみち服を着替えないと」
「だ、だいじょーぶですよ!仁奈はこれぐら、い……へ、へくちっ!」
「あ、あーあー……このままじゃ風邪を引いちゃいますね……」
こんな時に事務所が空いていればと、恨み気な視線を後ろに送るが事務所の明かりが着くことはもちろんない。
「とりあえず理由とかは後で聞くとして、とりあえずタクシーですね……」
まゆは携帯を取り出すと、登録してあるタクシー会社に連絡を入れる。
「すいません、――事務所前まで、はい。お願いします」
そのまま携帯をしまうと、呆気にとられた顔をしている仁奈の手を握って事務所入り口の屋根があるところまで誘導する。
「タクシーがすぐ来ますからね。それよりもどうしてここに?」
とりあえず着ぐるみのフードから頭を出させるとすっかり濡れそぼった髪を拭く。最初は傘がわりになっていたであろうフードも水を吸い込みすぎて逆効果になり、髪はひどく濡れていた。
仁奈は髪を少し強めに拭かれているせいか、目をぎゅっと閉じながら返事をする。
「仁奈、今日はママが迎えにきてくれるはずだったんですが、急に仕事がはいったみてーで……」
「なるほど……それで、事務所まで?」
聞くところによると、そこでどうしようか悩み、一度事務所に戻ることにしたらしい。
「そうでごぜーます。でも途中で雨がすげー降ってきて、事務所も真っ暗で……」
そんな時に事務所の扉の前に立つまゆに気が付いたらしい。
「あら?ということは仁奈ちゃん今家には……?」
「今日も誰もいねーです……」
まゆも仁奈の家の事情のことは詳しく知らないが、母も父も多忙な方だとは小耳に挟んだことがある。
そのせいで寂しい思いをしていることも知っていたし、高垣楓や三船美優がたまに一緒にいることももちろん知っている。
(タクシーを呼んで、お金を渡して家まで帰れば安心かと思ったけど、こんな濡れちゃって風邪なんか引いたら……)
家に一人だけで寝込んでしまう仁奈を想像して、まゆはなんとも言えない嫌な気持ちに苛まれてしまう。
(流石に仁奈ちゃんの家に勝手にあがりこむわけにもいきませんし、外泊の申請書なんて出してないですし……)
となれば、導き出せる答えはひとつしかなく。
「仁奈ちゃん、仁奈ちゃんさえよければまゆの部屋に来ますか?こんな状態じゃ帰っても大変でしょうし……」
「えっ!?いいんですか!?」
「もちろんですよぉ。それにまゆも今日は予定がなくなっちゃったので暇してましたから」
「やったー!まゆおねーさんと一緒だー!」
ぱぁっと顔が明るくなった仁奈を見て、幾分かまゆの心が軽くなる。こうして喜んでもらえれば誘った甲斐もあるというものだった。
(しかし、もしも誰もいなかったらどうなっていたのでしょうか……)
そう考えて、恐ろしい答えに辿り着いてぶんぶんと首を振る。
(やめましょう。こんな考え方は)
「あ、タクシーきたですよ!」
先程よりもずっと元気になった仁奈の声にまゆは考えるのをやめた。手を上げてタクシーを止め、開いたドアから運転手に声をかける。
「すいません、少し濡れてるんですけどタオルを敷きますから大丈夫ですか?」
「あー、構いませんよ。今日はひどい雨ですからね」
「ありがとうございます」
そういうとまゆは座席にさっきまで仁奈の顔と髪を拭いたタオルを敷いた。それも多少は濡れてはいるが仁奈が直接座るよりは被害は抑えられるだろう。
「はい、仁奈ちゃん。どうぞ」
「ありがとうごぜーます!」
「すいません、――女子寮まで」
「――女子寮まで、はい」
運転手は後部座席に座る彼女らをちらと見ると、車を走らせる。
隣でうきうきとした表情をしている仁奈を目にかけながらまゆは、小さく息を吐いた。
事務所から女子寮はそこまで距離が離れているわけではない。歩こうと思えば少し時間はかかるものの不可能ではなかった。
つまりタクシーを使った寮までの移動時間は短いものであった。
「わぁ、すげぇひれーお風呂だー!」
とにかく冷えた身体を冷やさねばとまゆは仁奈を連れてまずは女子寮にある浴場に向かった。
仁奈は広い脱衣所とそこから見える広い浴室に興奮しているようで跳ねている。ひとまず元気そうな彼女にまゆは安堵した表情を浮かべていた。
「まゆは着替えを持ってきますから、先に入っててください。すぐ来ますけどひとりでも大丈夫ですか?」
「だいじょうぶですっ!一人でも身体洗えるでごぜーますよ!」
「すぐ戻ってきますから、温かくして待っててくださいねぇ」
そのまま脱衣所から早足気味でまゆは寮の自室に急ぎ、部屋の鍵を開けると一直線にタンスに向かい中にある服を確認する。
(確か昔着ていた服がまだ……)
まゆも成長期であるがゆえに寮に入ったころに着ていた服も何着かは着れなくなってしまっていた。
それを一度整理しようと思った時もあったのだが、妙に愛着もあるしで中々捨てることもできなく取ってあったのだ。今回はそれが幸いした。
「これでもまだ大きいでしょうけど、まあ大丈夫でしょう」
そのままバスタオルだとか洗面用具を用意すると再び浴場までの道のりを急いだ。
まゆは脱衣所に着くと急いで服を脱ぐ。そのまま身体にタオルを巻いて、浴場へ足を踏み入れた。
この浴場は女子寮ということもあってか、設備も広さも申し分ないほど整っていた。年頃の少女達にとってそれは非常にありがたいことである。
「さて、仁奈ちゃんは……」
湯気が立ち込めているせいで視界があまりよくない。しかし、はしゃいでいる声がまゆの耳に届いた。
「あははっ、く、くすぐってーです!」
「わっ、ちょ、ちょっと暴れたら目に入っちゃうよ!」
その声はひとつは仁奈の声だとわかったが、もう一つ違う声が含まれている。
「仁奈ちゃんと……美穂ちゃん?」
「あ、まゆちゃん!」
「まゆおねーさんですか?あ、いたいっ!」
「あ、今目開けたらだめだよっ。待って、お湯流すからね」
時間帯的にまだ誰もいないと思っていたのだが、自室までの移動の間に会わなかったことを考えると先に入っていたらしい。
「うぅっ、いたかったでごぜーます……」
「ご、ごめんね?大丈夫?」
「もうだいじょうぶでごぜーます!」
「はー、よかった……」
「うふふ、でもよかったです。ちょうど美穂ちゃんがいてくれて」
洗面用具を所定の場所において、まゆも身体を洗う準備を始める。
そして、一度桶に湯を溜めるとゆっくりと肩からかけていく。
「……ふぅ」
ぶるっ、と反射的にまゆの身体が震えた。
仁奈ほどではないが彼女も雨と寒い外気に晒され続けていたたせいで身体が冷え切っていたのだ。
しかし、仁奈のことに精いっぱいで自分のことを気にかけていなかったせいか、お湯を浴びて漸く身体の状態に気が付き、自分のことながら少し驚いた。
「だいじょうぶでごぜーますか?」
「え?」
震えたまゆをちょうど見てしまったのか仁奈が心配そうに声をかける。それを悟られまいと微笑みを返す。
「ふふっ、大丈夫ですよぉ。それよりもまだ身体は洗ってないみたいですね」
「あ、まだ髪だけなんだ。仁奈ちゃん髪長いからちょっと時間かかっちゃって」
「じゃあ、あとはまゆが変わりますよ。美穂ちゃんもう身体洗い終わっちゃってるんですよね?」
「えっ、よくわかったね!?」
「だって周りに美穂ちゃんの洗面用具見当たりませんから。てっきり湯船から上がってきたものだと思ったんですけど」
まゆがそう言うと美穂は、あーなるほど、というように何度か頷いて納得したようだった。
「じゃあ、後はお任せしちゃおうかな」
「はい、お任せください」
「美穂おねーさんもう上がるですか?」
「ううん、また湯船に戻るね。仁奈ちゃんも身体洗ってもらったらおいで」
それじゃ、と美穂はまゆに目配せすると立ち上がり湯船に向かっていった。
まゆはそれを見届けると仁奈の後ろに膝立ちの姿勢で座り込む。
「じゃあ、身体を洗いましょうか。仁奈ちゃんは前のほうをこれで洗ってください。背中のほうはまゆが洗いますから」
そういってボディシャンプーをつけたタオルを仁奈に渡す。仁奈は元気よく返事をするとゴシゴシという擬音がぴったしのように身体を拭きはじけた。
その子供らしい仕草に少し微笑みながら小さな背中をまゆは優しく洗っていった。
「きもちーでごぜーますー……」
「痛かったら言ってくださいねぇ」
子供特有の柔らかい肌を傷つけないようにゆっくりと洗っていく。といってもあまり念入りに洗って冷えてしまっては意味がないのである程度洗ったところでシャワーを手に取る。
「じゃあ後ろから流しますから、大丈夫でしょうけど目を閉じていてくださいねぇ」
「はーいっ」
そのまま身体についた泡を洗い落としていく。
「はい、いいですよ」
「ありがとうごぜーます!」
「じゃあ、先に美穂ちゃんの方に行っていてください。まゆも洗ったら行きますから」
「……うーん」
「どうしました?」
そのまま元気よく湯船に駆け寄っていく姿を想像していたまゆだったが、仁奈は何故か立ち上がらなかった。
もしかして意外と痛かったかと嫌な予感が胸をよぎったが仁奈は全く別のことを考えていた。
「仁奈もしてーです」
「えっ?」
「仁奈もまゆおねーさんの背中ながしてーです!」
「え、ええ……まゆは大丈夫ですよ?先に湯船に入ってていいんですよ?」
しかし、仁奈の決意は固いようで、まゆの提案を受け入れるような感じではない。
「だめでごぜーますか……?」
その懇願にもとれる瞳を見てしまったまゆは、それを断る術をもつわけもなく
「……まぁ、それならお願いしちゃいますか」
「えっ、いいですか!?」
無下に断ってしまうよりもこっちのほうがいいかとまゆも考えを改めた。
「じゃあ、背中をお願いしますねぇ」
「おまかせくだせー!」
後ろからうんしょうんしょと声が聞こえそうな力加減でタオルがまゆの背中を擦っていく。
(誰かに洗われるっていつぶりかしら……)
その懐かしいような感触に、まゆの脳裏には実家のお風呂が浮かんでいた。
(ああ、もうそんな昔だったんですねぇ……お母さん)
それはアイドル活動のために東京の寮に移ってから、久しく忘れていた感触だった。
「まゆおねーさん、どうですか?」
「とっても気持ちいいですよ。ありがとうございます」
「ほんとですか!?ならよかったでごぜーます!」
まゆは仁奈が背中を洗っているうちに後ろに飛ばないように器用ながら簡単に髪を洗うと、次に身体の正面も洗っていく。
それが終わったタイミングとほぼ同時で背中のほうも大体終わったらしい。
「ながすでごぜーますよ!」
「優しく、お願いしますね」
そうは言ったものの、まゆが洗面用の椅子に座っていても仁奈の身長では頭から流していくのは中々に難しいものであった。
(身長ばかりはしょうがないですよねぇ……)
不器用なシャワーがあてられる。別に不快を感じているわけでもない。一生懸命やっていることはわかっているし、必死に泡を洗い落とそうとしている動きを感じられてむしろ微笑ましい。
(でも、頭に泡が残ったまま入浴するわけにもいきませんし、かといって今シャワーを取り上げることも……)
どうしたものか。と少しまゆは悩む。
(あ、こうすれば)
しかし、意外にも答えはすぐに導き出すことはできた。
「仁奈ちゃん、ちょっといいですか?」
「?」
「よいしょ、と」
まゆは椅子をずらすと、正座するように腰を下ろした。
「おー!まゆおねーさん小さくなりやがりました!」
「ふふっ、それじゃあ上からお願いします」
「はーいっ!」
多少荒くはあるが、頭のてっぺんから心地よい湯がまゆを包み込んだ。
「あ、終わったんだ!」
「美穂おねーさん!」
「あ、仁奈ちゃん。滑ったら危ないですからゆっくりいきましょう」
まゆに制止されて仁奈は駆け出しそうになっていた姿勢を整え歩き出す。そのまま美穂の浸かっている湯船にゆっくり入ると、ふぁぁと気持ちよさそうな声をあげる。
「この世の極楽でごぜーますー……」
「それ誰かの真似なのかな?」
「ふふっ、でも確かに気持ちいですねぇ」
時間帯によっては少し混んでしまうこともある湯船は今日はほぼ貸し切りである。賑やかなのもいいが広く使えるのはやはり嬉しい。
仁奈も広い湯船に興奮が抑えられないのかうずうずしている様子が見て取れた。
「あんまりはしゃいじゃダメですけど、少しぐらいなら動いてもいいですよ」
誰もいないならいいかと、まゆがそう言うとぱーっと仁奈の顔が輝く。そして次の瞬間には泳ぐように動き始めた。
「うおー、ひれー!」
はしゃぐ仁奈をちらと目にかけながら、まゆも漸く全身の力を抜いた。
「ふあ、ああぁ……」
普段まゆから聞けなさそうな声がしたことに美穂が驚いた表情をする。
美穂は少しだけまゆに近寄ると少し声の音量を下げて口を開いた。
「えっと、まゆちゃん。今日って仁奈ちゃん連れてきたのって……」
「ええ、まゆが連れてきました。実は事務所前で……」
「へぇ、それで……」
「流石に一人になるとわかっていて帰すわけにもいきませんでしたし……」
「うーん、そうだよね……あ、でも連絡とかプロデューサーさんにしないとね。ってまゆちゃんならもうしてるかな」
「…………」
「まゆちゃん?」
「まゆとしたことがすっかり忘れてました……それに仁奈ちゃんのお母さんにも何かしら連絡いれとかないと、もしも早く帰ってきたりしたら大変です!」
慌てたように湯船から立ち上がったまゆを美穂は慌てて止めた。
「だ、大丈夫だよ!お風呂からあがってからすぐ連絡すれば!」
「で、ですが……!」
「それに仁奈ちゃんのお母さんの連絡先はたぶん仁奈ちゃんしか知らないし、お風呂あがりにするしかないんじゃないかな」
そう聞いて、まゆは少し間をおいて再び湯船に身体を沈める。
「……そう、そうですね。すいません、慌ててしまって」
「どうしたでごぜーますか?」
そんなやり取りを知るか知らずか仁奈は泳ぐように二人に近づいてきた。美穂は何事もなかったかのようにしながら仁奈に返事をする。
「ううん、なんでもないの。それよりも熱くない?大丈夫?」
「ちょうどいい湯加減でごぜーます!」
「それじゃ、もう少ししたら上がりましょうか。のぼせちゃうと大変ですし」
そうだね、と美穂が相槌を打つ。それと同時に仁奈が口を開いた。
「あっ、じゃあ仁奈が数を数えるでごぜーますよ!」
「わ、懐かしいなぁ。私も昔は上がる前に数えてたっけ」
「懐かしいですねぇ……」
仁奈はまゆと美穂の間に入り込むような形で背中を預けるようにひっついてきた。
まゆは髪の長さゆえに湯船に広がるように浮いている仁奈の髪の毛に気づくとそれを櫛ですくような動きで触り整えていた。
「いーちっ!にーっ!」
浴室にはおよそ一分間、元気な声が響き渡った。
「ふぅ、いいお湯でしたね……」
「ぽかぽかでごぜーますー」
「ドライヤー熱くないですか?」
「だいじょうぶでごぜーます!」
脱衣所にドライヤーの音が響いていた。仁奈の長い髪が温風に流されながら乾いていく。
「服のほうはどうですか?」
「ふりふりですげーかわいいです!」
「うん、すごい可愛い!ちっちゃなまゆちゃんみたい」
「まゆおねーさんの気持ちになるですよ!」
「元の服は洗濯して乾かしますから明日までそれで我慢してくださいねぇ」
実際のところ服の大きさの点について意見を求めたまゆであったが、返答のベクトルは少し違う方を向いていた。
(まあ、不満が出てないなら大丈夫ということでしょう)
昔着ていた寝巻はそれでも仁奈にとって少しぶかぶかではあるものの、移動するのに困ることはなさそうだ。
「プロデューサー、仁奈だけを見るですよ……」
「あらあらまあまあ……」
「ふふっ、まゆちゃんの真似かな?」
ドライヤーを止めて髪に櫛を通す作業に入りながら、意外にも仁奈が自分を見ていたことに少し関心する。
「これでよし、と。はい、仁奈ちゃんもういいですよ」
肩を軽く叩いて髪の乾かしが終わったことを知らせてあげる。
「ありがとうごぜーました!」
「じゃあまゆも髪を乾かしますから、少し待っていてくださいね」
「仁奈ちゃん、ここ牛乳あるんだよ。飲む?」
「おー、瓶がたくさんだー!」
備え付けの冷蔵ショーケースを美穂が示すと仁奈は目を輝かせた。
「こういう設備、地味に嬉しいですよねぇ」
「ね。私はコーヒー牛乳にしようかなぁ」
「仁奈は牛乳が飲みてーです!」
会話を聞きながらまゆは髪を乾かしていく。
「んぐんぐっ」
「あ、仁奈ちゃんそんなに一気に飲んだらっ」
「ぷはーっ!この一杯がたまんねーっ!」
「す、すごいね。でもだいじょうぶ?」
(大体誰の影響かわかりますねぇ……)
ある程度乾いたことを確認して、ドライヤーを止める。髪を本格的に整えるのは自室に戻ってからするのがまゆ流であった。
ドライヤーをしまうと椅子を立ち、仁奈たちのもとに向かうと自身もショーケースを開けコーヒーの瓶を取り出してゆっくりと飲む。
「それじゃ、一度戻りましょうか」
「そうだね。あ、それとよかったら後で遊びに行ってもいいかな?」
「美穂おねーさん来るですか!?」
「もちろん、いいですよ。お待ちしてます」
じゃあまた後で。と美穂は先に脱衣所から出ていくのを見送り、まゆも同じように出ようとしたその時であった。
「仁奈ちゃん?」
「うぅ……」
さっきまで元気だったはずの仁奈がお腹をおさえてうずくまっている姿がまゆの視界に飛び込んできた。
「仁奈ちゃん!?」
さっと血の気が引いていく感覚が生々しくまゆを襲う。
「どうしたんですか!?大丈夫ですか!?」
慌てて小さな背中に手を置いて声をかける。仁奈は先程とは真逆の弱々しい瞳をまゆに向けると口を開いた。
「おなか、すいたです……」
「……へっ?」
その瞬間、きゅうぅ、とお腹が鳴る音をまゆは確かに聞いた。
(さっきは心臓が止まるかと思いました……ほんとうに)
二人の姿は食堂にあった。お盆の上には空になった食器が置かれている。
「ごちそうさまでした」
「ごちそーさまでした!」
いつも賑やかな食堂は今は閑散としていた。時間帯によってこの食堂も少し寂しい様相になってしまう。
しかし、とにかく空腹を満たしかった二人にとってはその寂しさはあまり感じていなかった。
「たくさん食べましたね……」
「お腹いっぱいでごぜーますよ……」
まゆも実際にはそれなりに空腹ではあったが、いつも満腹になるまで食べることはしない。しかし、今日に限っては目の前であまりにも仁奈が美味しそうに食べ、あげくおかわりまでするものだから、ついつい釣られて同じくおかわりをしてしまった。
その時の食堂で配膳してくれたおばちゃんの少し意外そうにしている顔が妙に印象に残っている。
(まぁ、たまには、たまになら大丈夫でしょう……たぶん)
ふぃー、と息をついている仁奈と同じように小さく息を吐くと席を立つ。
「じゃあ、戻りましょうか」
「まゆおねーさんの部屋たのしみですよ!」
「期待するようなものはないと思いますけど……さ、行きま――」
「あ、まゆおねーさんちょっと待ってくだせー!」
「はい?」
仁奈はまゆの横までちょこちょこと移動するとその右手を小さな左手でぎゅっと握る。
「えへへ……」
「じゃあ、行きましょうか」
そのまま横並びで2人は自室まで歩いて行った。
「おー!すげーまゆおねーさんの服みたいな部屋だー!」
「その評価のされ方は初めてですねぇ」
自室まで着くとまゆは厚めの座布団を仁奈に差し出した。それに彼女がちょこんと座るのを確認するとまずはほったらかしになっていた髪を整えていく。
「何をしてるですか?」
「髪をちょっと整えてるんですよ。あ、そうでした。仁奈ちゃんは連絡用の携帯を持っていますか?」
「持ってるでごぜーますよ!」
そういうと仁奈は小さなポーチから携帯を取り出す。
「お母さんに連絡したいんですけど、できますか?」
「……たぶんでれねーとおもいます。お仕事中はいそがしーですから」
「そう……あ、じゃあちょっと貸してもらってもいいですか?」
「え?いいですけど……なにするですか?」
まゆは携帯を受け取ると断りを入れてから電話帳を開く。
連絡用ということもあってかそこには「プロデューサー」と「ママ」という二行だけ表示されていた。
「ショートメッセージ機能は、ありますね」
「???」
横から仁奈が携帯を覗き込む。
「これ、なんでごぜーますか?」
「ここを押すと、こうやって文章が送れるんですよ」
「へー!まゆおねーさんすげー!」
「えへん、です」
むしろこの機能は最初の段階で説明するものではと思ったまゆだったが、とにかく今はメッセージを送るのが先決だった。
「じゃあ、ちょっと打ちますから待っててくださいね」
まゆは簡単な自己紹介と仁奈と一緒にいることや今晩泊めることも含めて簡潔にまとめるとそれを送信した。
「はい。ありがとうございました。これで仁奈ちゃんのお母さんも仕事終わりに見てくれると思います」
「ほんとですか!?」
「ええ、きっと見てくれますよ。それとまゆの番号も登録しておきましたから」
「この番号でごぜーますか?」
「そう、それです。もしも今日みたいな時だとか何かあったら連絡していいですからね」
「おー、まゆおねーさんの番号だー!」
携帯を仁奈に返すと今度はまゆ自身の携帯を取り出す。
(プロデューサーさんも今はちょうどお仕事中でしょうし……)
先程と同じような内容でまゆはメールを作成すると送信した。
「これでとりあえずは大丈夫ですかね」
ふぅ、とまゆがひと段落のため息をついたのと部屋にノック音が響いたのはほぼ同時だった。
「まゆちゃん、仁奈ちゃん、いる?」
「あ、美穂おねーさんでごぜーます!」
「今開けますねぇ」
鍵を開けドアを開けると買い物袋を手に持った美穂が立っていた。
「ごめんね、ちょっと買い物行ってて遅れちゃった」
「まゆ達も夕食を頂いてましたから、ちょうどよかったです」
「美穂おねーさん、こんばんは!」
「はい、こんばんは、さっきぶりだね」
「入り口でなんですから、どうぞあがってください」
お邪魔します。と返事をして美穂も部屋に上がると持っていた買い物袋を床に下ろした。
「せっかくだからと思ってお菓子とかちょっと買ってきちゃった」
「お菓子ですか!?」
「まぁ、わざわざ雨の中を?」
「いやぁ、私の部屋の『お菓子』ってちょっと仁奈ちゃん向けじゃないかなぁと思って……」
「あぁ……」
そういえばそういう『お菓子』を好んでいたことを思い出してまゆは納得する。確かにあれは仁奈にはまだ早い。
机に広がっていくお菓子の群れに仁奈の表情は輝かんばかりに明るくなっていく。
「今日は夜更かししてもいいですか!?」
「まあ、あまり遅くならない程度ならいいんじゃないかな」
「そうですね、まゆも明日はオフですから少しぐらいは……」
「やったー!」
(といっても仁奈ちゃん……)
(気が付いたら寝てそうですねぇ)
「すー、すぅ……」
「あはは……」
「まあ、今日は疲れたでしょうしねぇ」
まゆに膝枕をされる形で横になっている仁奈から小さな寝息が漏れていた。
その姿に苦笑しながら美穂は音をたてないように立ち上がる。
「じゃあ私もそろそろ戻ろうかな。明日レッスンだし」
「美穂ちゃん、今日は色々ありがとうございました。おかげですごく助かっちゃいました」
「ううん、私も楽しかったよ!ところで仁奈ちゃんは今日泊まっていくんだよね?」
「ええ、そのつもりですが……?」
美穂の問いかけの本意が読めず、まゆは軽く首を傾げる。美穂の表情は若干陰りがある。
「いや、その、私も人伝で聞いた話だから何とも言えないんだけど……」
そういって途中で話を切らしてしまう美穂だったが、まゆもその話したい内容を彼女の表情から若干察することができた。
「仁奈ちゃんのご両親についてですよね。まゆもそこまで詳しくは知らないのですが……」
「うん……」
俯いてしまう美穂にまゆも少し同調して俯くと膝の上で眠る仁奈の頭を優しくなでる。うぅん、仁奈は少しだけ声を漏らした。
仁奈の家庭環境が少し複雑であることは誰も口にはしないが周知されていることでもあった。
ただ、今日は迎えに来てくれる予定であったようだし、何より仁奈自身が両親を嫌っている様子がないこともまゆはわかっていた。
それを美穂に説明すると彼女もいくらかは安心したようで表情も少し和らぐ。
「それに、私達が話し合ってもどうしようもないことでもありますから……」
「そうだね……ごめんね、なんか変な感じになっちゃった」
「いえいえ、心配なのはまゆも同じですから……」
そこまで言って、しばらくお互いに沈黙が続いた。少しだけ気まずい空気が流れる。
その沈黙に耐え切れずに先に口を開いたのは美穂だった。
「でも、今日のまゆちゃんなんかお母さんみたい、かも」
「まゆがですか?まだ16歳ですが……」
「いや、まゆちゃんってずっと大人っぽいし、私のほうが年下に見えてもおかしくないかも、うん」
「そうでしょうか……」
「だから仁奈ちゃんも安心して寝てるんじゃないかな」
もう一度膝に視線を落とすと、心地よさそうな表情で寝ている仁奈が目に映る。
(子を持つ母の気持ちはわかりませんが、こんな感じなのでしょうか?)
「あっ、もうこんな時間になっちゃった。じゃあ部屋に戻るね」
「はい。さっきも言いましたが今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
何かあったら連絡してね。出ていく前にそう言葉を残して美穂は戻っていった。
(美穂ちゃんも相当面倒見が良いほうだとは思いますが……)
そんなに大人っぽく見えるのだろうかと考えてはみたが、自身の思考では答えを得ることができなかったのでひとまず隅に置いておくことにした。
(とりあえず仁奈ちゃんを一度起こして、ベッドに移らないといけませんね)
心地よさそうに寝ている彼女を起こすのは少々心が痛いがこのまま寝かせるわけにもいかない。
まゆは軽く仁奈を揺する。
「仁奈ちゃん、仁奈ちゃん」
「ん、んぁ……?」
呼びかける声に反応したのか、うっすらと目を開ける。焦点があってないところをみるとよっぽど熟睡していたらしい。その瞳は虚ろ気にまゆを見上げていた。そのままゆっくりと口を開くと
「ま、まま……?」
「えっ?」
その言葉にまゆは一瞬固まってしまった。が、すぐに持ち直して仁奈に軽く微笑む。
そのあたりで漸く意識がはっきりしてきたらしく仁奈はまゆを認識できた。
「…………あ、あれ?まゆ、おねーさん?」
「仁奈ちゃん、起きましたか?」
「あれ、美穂おねーさんはどこにいきやがりましたか?」
「美穂ちゃんは明日レッスンみたいで戻っちゃいました。私達もそろそろ寝ましょうか」
そういって仁奈を軽く抱き起こすとベッドまで誘導する。一度起きたとはいえまだ眠いようで仁奈も特に抵抗することなくベッドに潜っていった。
「まゆおねーさんも一緒に寝てくれるですか?」
「仁奈ちゃんと私なら一緒でも大丈夫そうですね」
そういうとまゆも同じように布団をめくりベッドに入っていった。仁奈の体温は温かい。
「んぅ」
仁奈はまゆが入ってくるのを確認すると、もぞもぞとまゆの胸元に顔を埋めるような姿勢で丸くなりながらひっついてくる。
まゆも最初はどうしたものかと思っていたが、軽く抱くように仁奈の身体に手をまわしてあやすように優しく身体をぽんぽんと叩く。
「あったけーです……」
「狭くないですか?」
大丈夫でごぜーますよ。と胸元でしゃべられそのくすぐったさに少しだけまゆは身をよじった。
「仁奈、いつの間に眠ってましたか?」
「美穂ちゃんとお話をしているときに、いつの間にか眠っちゃったみたいですね」
「そうでごぜーますか。もっとお話ししたかったなー」
「また次にたくさんお話ししましょうね」
頭を撫でてあげると仁奈は気持ちよさそうな声をあげる。
「まゆおねーさんの手はあったかくてやわらけーです」
だいぶ仁奈の声が眠たげな声からはっきりしたものに変わっていることにまゆは気が付いた。
どうやら少しだけ目が覚めてしまったようである。
「仁奈、いつもはひとりで寝ることが多いですから、今日はまゆおねーさんがいてくれてうれしーです!」
「…………」
さっき膝枕から起きた時、仁奈から発せられた言葉がまゆの中で思い起こされていた。
(声からはあまり感じませんが、寂しくない。なんてことはありませんよね……)
「仁奈ちゃんはひとりで寝ることが多いんですか?」
「ママがいねーときはひとりでごぜーます」
少しだけ仁奈の声のトーンが下がる。
「仁奈ちゃんのお母さんてどんな方、なんですか?」
まゆの声に少しだけ緊張感が含まれていた。正直、聞きづらい話ではあるが聞かないわけにもいかなかったのだ。
てっきりトーンが下がったままかと思ったが、仁奈の声は一転、明るいものになる。
「ママはすげーですよ!休みの時は一緒に遊んでくれますし。編み物もできるですよ!それに破れた着ぐるみも直してくれるでごぜーます!」
「へぇ、すごいんですねぇ」
「でも、やっぱり忙しいときが多くて一緒にいれねーことが多いからさみしーです……」
「仁奈ちゃん……」
胸元に軽くうずくまっているのでその表情は窺えないが、声のトーンから想像するのは難しくない。
(やっぱり聞かなかったほうがよかったでしょうか……)
軽率な発言だったと、まゆが後悔したときだった。部屋に突然音楽が鳴り響いた。
仁奈は突然の聞きなれない音に困惑する。しかし、まゆには聞きなれたものであった。
「な、なんでごぜーますか?」
「まゆの携帯ですね……えっと、誰から――プロデューサーさん?」
机の上に置いてある携帯電話にまゆは手を伸ばし、発信者を確認するとそれはプロデューサーからであった。
「プロデューサーでごぜーますか!」
「どうしたんでしょうか……はい、もしもし」
『あ、まゆか!?すまん、今やっと打ち合わせが終わってメールを見たんだが、仁奈は近くにいるのか?』
電話から漏れるプロデューサーの声は仁奈にも聞こえているようで興奮気味に返事をする。
「仁奈はここにいるですよ!」
『お、おお、元気そうだな。いや、本当メールを見て心底驚いたよ……』
「まゆも驚きましたよぉ、すごく」
『いや、本当まゆがいてくれてよかった。でもどこで会ったんだ?今日は事務所まで来てなかったはずだが』
「え!?えっと、それは……」
まゆは言葉に詰まってしまった。
そういえば気をつかわせないために事務所の近くにいないと本来伝えていたことを思い出したからだ。
どう返答したらいいかと迷っていると話を聞いていた仁奈は首を傾げながら代答してしまう。
「まゆおねーさん事務所の前にいたですよ?」
「に、仁奈ちゃん……!」
『……まゆ、やっぱり近くまで来てたんだな。気をつかってもらったみたいですまん』
「いえ、そんな……」
『埋め合わせだけじゃ足りないな、まゆがいてくれて本当によかった』
「プロデューサーさん……」
「まゆおねーさん、仁奈もプロデューサーと話してーです!」
「あ、そうですね。じゃあこうしましょうか」
そういうとまゆは携帯の画面のスピーカーのボタンを押す。
「プロデューサーさん、何か話してみてもらってもいいですか?」
『ん?どうした?』
「おー!さっきより声がでけーです!」
ああ、スピーカーに変えたのか。とプロデューサーの納得する声。
「プロデューサー、今日仁奈、まゆおねーさんと美穂おねーさんにすんげー遊んでもらったですよ!」
『お、美穂もいたのか。よかったなー』
「それでですね、でけーお風呂といっぱいのご飯とお菓子が――――」
「すぅ、すぅ……」
「デジャヴってこういう感覚なんですねぇ」
再び寝息を立てている仁奈の背中をゆっくり撫でながらまゆは感嘆したように呟いた。
『ん、どうした?仁奈の声が聞こえなくなったんだが……』
「寝ちゃったみたいです」
『そうか……電池切れしちゃったか』
ふぅ、と携帯の奥でプロデューサーが息を吐く音が聞こえる。
まゆも仁奈を起こすといけないと思い、スピーカーモードを切ると携帯を耳に近づけた。
「プロデューサーさんは今どこにいるんですか?」
『ああ、今ビジネスホテルなんだよ。実は』
「ビジネスホテル?どうしてまた……」
『取引先で食事が出てな。大事な取引だったしお酒を断るわけにもいかず……』
「それで車で帰れずホテルに……?」
『まあよくあることだ』
領収書面倒なんだよなぁ、とぼやくプロデューサーにまゆも苦笑で返す。
『とにかく今日は本当にありがとうな。まゆは明日はオフか』
「はい、プロデューサーさんはお仕事ですか……?」
埋め合わせにオフの日に一日付き合ってもらうと約束はしたものの、流石に今日の明日というわけにはいかないということもまゆはわかっていた。
『ふはは、なんと休みなんだなこれが』
「ほ、ほんとですか!?」
思わず声を出してしまい慌てて口を手で押さえる。幸いにも仁奈の寝息が崩れることはなかった。
『ああ、本当だ。まゆの都合さえよければ明日出掛けるか?』
「プロデューサーさん、嬉しいです……」
まゆとプロデューサーのオフの日が被ることは滅多にない。お互い多忙な身であるし、まゆの平日のオフは学校もあるからだ。
だからこそ、休日の被りは貴重なもので、さらに一日をプロデューサーと二人きりで過ごせることはまゆにとって至福でもあった。
しかし、今のまゆの中には『二人きり』ではない、別の思惑が浮かんでいた。
『いや、元はといえば悪いのはこっちだからな。これぐらいは』
「あの……それじゃもう一つだけお願いしてもいいですか?」
『ん?できることならなんでもいいぞ』
ちら、と横向きの姿勢で寝ている仁奈をまゆは見つめた。
ま、ママ……?
仁奈、いつもはひとりで寝ることが多いですから――
やっぱりさびしーですよ……
「…………」
『まゆ?どうした?』
「あの、よかったら仁奈ちゃんも一緒に行ってもいいですか?」
二人きりで過ごしたいというのはまゆの素直な願望の一つであった。
しかし、何よりも今横で穏やかに寝ている仁奈をひとりにするのはもっと辛いものであった。
それだったら三人で遊んだほうが何倍も良い。というのがまゆの出した結論である。
「んん……」
もぞ、と仁奈は蠢くとまゆに密着するように小さく抱き着いてきた。寝惚けているようである。まゆは慈しむような表情でゆっくりと頭を撫でると再び静かな寝息が聞こえだしてきた。
『あー、確か仁奈もオフだったな。それぐらいなら全然いいぞ』
「ありがとうございます。それじゃ楽しみにしてますねぇ」
『また明日の朝、そうだな……10時ぐらいに連絡するからそれぐらいに』
「はい、お待ちしていますね」
『じゃあ、明日に備えてそろそろ寝るか?』
「はい。それではおやすみなさい、プロデューサーさん。今日もお疲れ様でした」
『まゆこそ、お疲れ様。じゃあ、おやすみ』
通話の終了音が流れ、部屋がシンと静まりかえった。
「まゆらしくない、ですかねぇ」
そう言いながらも穏やかに微笑みながらまゆもゆっくりと目を閉じた。
「え!?プロデューサーさんとおでかけですか!?」
「仁奈ちゃんの都合にもよるんですけど、行けますか?」
「もちろんいくでごぜーますよ!」
そこそこの時間に起きたまゆと仁奈は寝惚け眼ながら食堂で朝食を済まして、出掛ける準備を始めていた。
もちろん、昨夜話していた件に向けての準備である。
「服もしっかり乾いてますし、これなら大丈夫でしょう。はい、どうぞ」
「ありがとうござーます!」
洗濯した仁奈の服は乾燥機のおかげかすっかり乾いていた。若干皺が気になったものの今はアイロンをかける時間はなさそうであった。
「たのしみだなー!」
「うふふっ、そうですねぇ」
そして、準備が完了したときだった。
部屋の中に携帯の着信音が響いた。
「あら?」
「あれ?この音は……」
それはまゆの携帯の着信音、ではなかった。
「仁奈ちゃんの携帯ですか?」
「そうみたいです!えっと、あっ、ママだ!」
そういうと仁奈は慌てながらも通話ボタンを押した。
「もしもし、ママですか!?うん、うん、え、お仕事終わったですか!?」
嬉しそうな仁奈の声が響く。しかし、それはすぐに困惑した表情に変わった。
「迎えにきてくれるですか!あ、でも……」
なんとなく仁奈の言葉からまゆはある程度察することができていた。その本人はというと困ったような表情でまゆを見つめる。返答に困ったのはまゆも同じである。
まさか、このタイミングでこのような事態になるとは思ってもいなかったからだ。
「まゆおねーさん、仁奈どーしたら……」
さっきまでの明るい表情からおろおろと泣きそうな顔になってしまった仁奈に、まゆは微笑んだ。
「仁奈、どうすればいいですか?まゆおねーさんとプロデューサーとも遊びてーですけど……でも」
まゆは小さい仁奈の頭に手を置いた。
「いいんですよ。今、仁奈ちゃんがどうしたいか。っていうことが大事ですから」
「まゆおねーさん……」
しばらく間が空いたが、仁奈は意を決したように携帯に向けて口を開いた。
「それで、もう帰っちゃったのか」
「ええ、仁奈ちゃんのお母さん初めて見ました。あとお礼も凄い言われて……」
「美人だったろ、あ、いてっ、ちょ、運転中だって!」
ペチとプロデューサーの肩を叩いたまゆはふっと息を吐いた。
「プロデューサーさんは仁奈ちゃんのご両親についてどこまで知ってるんですか?」
「個人的な情報の部分は詳しくは話せん。というか俺自身詳しく知らないのも事実だ。凄い多忙な方達だっていうことは知ってるんだけどな」
信号待ちで車が止まる。助手席からまゆはプロデューサーを見つめるが彼は前を向いたままであった。
「色々事情があるのはわかってるんだ。でもどっちみち仁奈を見守ってあげるのは変わらん」
「そう、そうですね……」
信号が青に変わり車が動き出した。
「まあ、仁奈と俺らはいつでも会えるからな。今は母親との時間のほうが大事だとは思うし」
その前提が逆な気もするけどな、と渋い顔をするプロデューサーにまゆは何も言えない。
「今日ぐらいは、親子水入らず楽しく過ごすだろうよ、うん」
「仁奈ちゃんは強い子ですね。まゆなんかよりずっと……」
「まゆも強いだろ。地元から離れて寮に一人で入って、不安もあっただろうし」
「でも、私にはプロデューサーさんがいますから」
そう言われた彼は苦笑で返事をした。
「まあ、色々思うところもあるだろうけど、一番大事なのは仁奈の気持ちだしな。
だからこそ、昨日はまゆのことを凄く頼れるお姉さんだと思ってくれたんじゃないか」
プロデューサーがそういうとまゆは昨日の美穂との会話を思い出していた。
「そういえば、美穂ちゃんにはお母さんみたいって言われました」
「お母さん、か。なるほど、まさしく『ままゆ』だったわけだ」
聞きなれない言葉に、まゆの頭上に疑問符が浮かぶ。
「なんですか?そのままゆ、って?」
「あれ?知らない?ファンの間でまゆのこと、ままゆって愛称で呼んでるらしいぞ」
「へぇ……それは知りませんでした」
そういうとプロデューサーは冗談混じりに笑う。
「まあ、本来は苗字と名前のつながりでのままゆ、ってことだろうけどな」
「流石にお母さんはまだ早いですしね……」
「そうか?まゆは今からでもきっと良い母親になると思うけどな」
プロデューサーがそういうとまゆはハッとしたように彼を強く見つめた。
「プロデューサーの『P』はパパの『P』でもありますか?」
「……アハハ」
誤魔化し方がヘタクソです。
その意を込めた視線をまゆは送りつけたが運転中の彼は前を見ながら若干目を逸らすという器用なことをやって逃れていた。
「はぁ……」
「さ、さぁ、もうすぐ着くぞー!楽しみだなぁ!」
「まぁ、今はいいですよ。いつか、一緒になってくれたらまゆはそれで……」
「アハハ……」
下手な苦笑を返す彼の肩が弱く叩かれた。
「それで、今は編み物を教えてもらってるんだ?」
「ママに作ってプレゼントするですよ!」
「へー、えらいなぁ」
「仁奈ちゃん飲み込みも早いですから、すぐにできますよ」
事務所の一角で、まゆと仁奈と美穂の姿があった。
「あ、ここはこの部分を通してください」
「こうですか?」
「そうそう、上手ですよぉ」
時折まゆが難しいところは細かく指示を出しながら作っていく。その光景を美穂はじっと見つめていた。
「……?どうしました?」
「えっ?あ、えっと、前も言ったけどお母さんみたいだなぁって。ちょっと思っちゃった」
「え?まゆおねーさん、ママなんですか!?」
「あ、ちが、えっと、言葉の綾というか……」
「ふふっ……」
完璧な思い違いをしてしまった仁奈に慌てながら美穂は説明しようとするが中々上手い説明が見つからずあたふたしている。
そんな二人を見ながらまゆはにっこり微笑んで、こう言った。
「だって、まゆは『ままゆ』らしいですから、ね」
読んでいただきありがとうございました。
また何か書いたときはよろしくお願いします。
このSSまとめへのコメント
心がほっこりしました。ありがとう。