「そろそろ、いいんじゃないですか」
「何がだよ」
俺は笑ってそう言い、幸子の言葉を流した。
空は青い。ずいぶんと涼しくなった9月の風が、彼女の香りを運ぶ。
俺の向かいに座った幸子は、無表情のまま少しだけ目を細めて俺のほうを見た。
怒ったかな。
「べつに、なんでもありません」
そう言って、彼女はテーブルに広げた参考書とノートへと目を戻す。
俺はそんな彼女を見ている。
輿水幸子、17歳、か。ずいぶんと背が伸びた。顔立ちも変わった、んだろうな。ずっと一緒にいると、どう変わっていくか忘れそうになる。
俺は喫茶店のテラス席で、彼女の勉強につきあっていた。……と言っても、中学生の頃とは違う。
さすがに大学受験の問題となれば、スラスラと教えるとはいかないので、実質座っているだけだ。
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「俺も勉強しようかな」
「そんな必要、あなたにはないでしょう」
幸子は顔を上げることなく、問題集に目を落としたまま返す。数学。特に覚えていない教科だった。
使わない知識は忘れてしまう。だから勉強は無駄なのだ、などと思うのも子供っぽい。むしろもったいないことをしたというのが、俺ぐらいの年齢の考えだろう。
大人の仕事と人生には、教養はいくらあっても足りない。
「俺も勉強すれば、幸子の輝かしき学生生活にもっと貢献できるかと思ってさ」
そんな俺の健気な言葉に、幸子は少しだけ目を動かして、ちょっと馬鹿にしたように笑う。
「余計なことは考えなくていいんです。こうして、私と気をまぎらわせるおしゃべりをしてくれていれば」
「俺はお前のラジオかよ」
ずいぶんな言われ方だったが、俺は大して気にしなかった。幸子の言い方が、エラそうなのはいつものことだ。
そしてそれは、彼女の信頼の証でもあった。これくらいの軽口を許してくれるだろう、というかわいい甘えだ。
「私のラジオになってくれているくらいですから、ヒマなんですよね?」
「今日は休みだからな」
「調子はいいんですか。あの……なんとかという人たちは」
なんとか、って。
俺の担当アイドルに、ずいぶんな言葉だ。
「ああ、次のライブが決まったよ。日程は……」
「それはいいです。私は行きませんから」
ああそうですか。
確かにまだあいつらは未熟だし、お前ほどの才能があるわけでもないんだけどよ。
「どうせ、私……ボクほどのパフォーマンスを見せてくれるわけではないんでしょう?」
あえて昔の一人称を使ってみせて、幸子は余裕のある笑いをしてみせる。
言われっぱなしでは担当アイドルたちに申し訳ないので、言い返す。
「どーかな。最近はぐんぐん良くなっている。いずれあの頃の幸子を追い抜くかもしれんぞ」
「へえ、楽しみですね。売れっ子プロデューサーさんにご馳走していただけるのが」
「結局ライブはどうでもいいのかよ」
……幸子が引退してから、もう一年は経つのか。
だから彼女はこうして、難関大学への入学を目指して日々勉学に励めているわけだ。
そんな彼女に、俺はこうして今もたまに……いや、割と頻繁に会っている。短い時間でも、週に一回、多いときは二回、三回。
いいのかな、とか思わないでもないんだが。すでに、引退した幸子は過去の人となっている。業界の流れは今もまだ加速中だ。だから、こうして二人でいても、誰かに騒がれることもない。それはありがたい。
けれど。
アイドルでなくなったはずの彼女は……今のほうが、綺麗だ。
恥ずかしいから言わないけど。
やっぱり引退は早かったかな。そんなことを思えば、普段は忘れたフリをしている疑問が湧き上がってくる。
どうして突然、やめる、なんて言い出したんだ?
……結構ショックだったし、傷ついたんだぜ。でも、こうして会っているくらいだから、俺を嫌いになったってわけじゃないんだよな。
みんなも一生懸命説得した。俺も止めた。お前となら、いくらでも上に行けるって思ってた。でも。
「……んー……。ここで使う公式は、なんでしたっけ……」
俺の内心も知らぬ気に、幸子はノートに書き写した数式に集中している。長いまつ毛の下の大きな瞳。すっきりしたあごの下に、シャープペンシルをくっつけている。……随分と、髪も伸びた。
……まあ、今は聞かないでやるよ。
俺は空気が読める男。空気を適切に段落分けし、濁点と半濁点、句読点を打ち込み、行間すら解してみせるのが名プロデューサーというもの。
ま、あの時のお前の気持ちは読み取れなかったわけだが。仕方ない。人の心までは誰もわからない。そういうことにしておく。
「……どうしたんですか、黙ってしまって」
「ん? いや、勉強の邪魔をしちゃ悪いかなって」
「わかっていますよ。私に見とれていたんでしょう」
「そういうところあんまり変わってないよな」
合ってるんだけど。
いつまでも子供だなんて、考えてはいなかったつもりだったけどさ、……大きくなるのはあっという間だな。
俺は氷水に近づきつつあるアイスコーヒーをすすった。……もう少しだけ、アイスの季節が続くはずだ。
また一つ問題の答えにたどりつき、ペンを走らせ終えた幸子が、コーヒーのおかわりを頼んだ。彼女はホットを飲んでいた。
「まだ暑くないか?」
「私は受験生ですから。身体を不用意に冷やしてはいけないんです」
「ふむ」
じゃあ、もういいか。残暑が過ぎ去ってからと思っていたけど。
俺は身体を反らせて、カバンの中に入れておいたアレを取り出す。
なにごとかと顔を上げた幸子に、軽く片手で手渡した。
「ほい、どうぞ」
受け取ってから、きょとんとした顔をしている幸子。その手にあるのはプレゼント用にラッピングされた、紙袋。サプライズの甲斐があるというものだ。
丸くした目を俺と紙袋を交互に向けて、なんだか笑いをこらえているような顔で口を開く。
「私の誕生日、まだですよ」
「そうだったかな? 忘れちゃった」
「……じゃあ、別カウントですからね」
「がめついな、君は」
幸子の声は弾んでいる。紙袋を急いでがさがさと開けはじめた。中に何が入っているのか気になって仕方ない様子だ。
袋の中身は、薄く赤みがかった白のマフラーだ。
気の早い、冬物を扱う店で見かけて、彼女に似合うかな、と思ったら何となく買っていた。
すぐに幸子はマフラーを首に巻いて、その手触りと暖かさを確かめるように、やわらかに撫でる。
「……ありがとうございます。とても嬉しいですよ」
「どういたしまして。うん、よく似合ってる」
こんな風に、彼女が素直にお礼を言えるようになったのは成長だな。照れてお礼だか自慢だかよくわからない言葉をまくしたてる幸子も、カワイかったけどね。
……俺もな、こうしてプレゼントを受け取ってくれて、喜んでもらえるのが嬉しいよ。
なんちゃって。
またそのうちにつづきを投稿します
読んでくださった方ありがとうございました
「でも、どうしたんですか? 急に」
嬉しそうな幸子が、当然の疑問を俺に。言い訳をする必要もないので、正直に答える。
「特に理由はないかな……。なんとなくだ」
なんとなくでプレゼント、か。
……言い訳する理由ないとか言ったけど、アレだな。このまま深くつっこまれると、余計なことを言ってしまいそうだ。
少し笑って軽口に移行することにした。
「だから、なんとなくなお返しも期待している。あ、参考用にレシートもあるぞ」
財布から取り出したレシートを、ひらひらと振ってみせる。まあこれは冗談だが。……冗談のつもりだった。
「見せてください」
幸子が素早く身を乗り出し、反応する前にレシートをひったくられた。
取り返す間もなく、レシートに目を通される。……結構、いい値段がしたのがバレてしまった。
どんな顔をされるかと一瞬身構えたが、その表情は変わらなかった。穏やかで嬉しそうな微笑のまま。
「ふーん、参考になりました」
「あー、いや、冗談だからな」
幸子がもう用済みという風に、レシートをテーブルの上に差しだしたので、受け取る。しまったな……。
「お待たせしました」
幸子が頼んだコーヒーのお代わりを、ウェイターが運んできた。
笑顔で受け取って、そのまま一口。幸子はコーヒーをブラックで飲むようになったんだな……。あれ、前にも思ったっけ、これ。
「……これを飲んだら、出ましょうか」
「ん? ああ、そうか」
二人で喫茶店に入ってから、一時間半ほど過ぎていた。
さて、この後はどうするか。図書館とかがいいんだろうけど、あまり大きな声で話すと注意されるからな。
……って、今の幸子には不要な気遣いか。
いかんな、まだ昔の彼女のつもりでいる自分がいた。軽く頭を振る。
「どうかしましたか?」
これを悟られると、多分幸子は怒る。少しだけ声が低くなって、妙に言葉と言葉の間が空いて。
昔みたいに、大きな声を出さない分怖いんだよ。
なので、なんでもないという風に答える。
「いや、これからどうしようかと思ったんだ。図書館にでも行くか」
「そうですね。でも、少し公園に寄り道させてください」
公園……ああ、あそこか。図書館まで行く道の途中に、大きな公園がある。
幸子はなにやら、意味ありげな顔をしている。企みがあるのか。受けて立とう。
楽しみにしながら、ただの水になりつつあるアイスコーヒーに口をつける。この日差しの中を歩くなら、水分補給は大切だ。
……やっぱりマフラーは早まったかな、と思ったけれど、幸子は着けたままで気にした様子もない。
「歩いていくなら、マフラーは外したほうがいいんじゃないか」
「そんなもったいないこと、しませんよ」
そう言って幸子は、その名前の通りに幸せそうに笑うのだった。
……熱中症には気をつけないとな。
「ごちそうさまでした」
コーヒーを飲み終わった幸子がすぐに立ち上がる。よし、行くか。
俺が自分のカバンをつかんで口を閉じていると、幸子はすでに自分の大きなカバンを持って、レジに向かっていた。
ん、おいおい、まさか俺の分まで払うつもりか。
「お願いします。三千円で」
さっと支払いを済ませて、幸子は外に出てしまった。俺は慌てておいかける。
ありがとうございます、というウェイターの声を背に俺が扉を開けると、そこに彼女は立っていた。
こっちを見て楽しそうに微笑む、マフラーの女の子。
彼女の背は、俺の顔……口を少し超えて、鼻にさしかかるあたりの高さか。初めて会った時は、俺の胸あたりまでしかなかったのにな。
……参ったな。何が参ったのか自分でもわからん。でもまいった。
「さあ、行きましょうか」
「その前に、俺のぶんくらいは払わせてくれ」
「いりません。一度、男の人の分まで支払うのをやってみたかったんです。いい気分ですね」
「……じゃ、ご馳走になるよ」
幸子は、少しだけ声を出して笑って、俺と並んで歩き始めた。
優しくなった目が、弓を描く。……笑顔に、鼓動が少し早くなる。
俺だけにそんな顔を向けて……もったいないとは思わないのか、おい。
まだそんなことを考える俺は、女々しいかな……。
幸子と並んで歩いていると、未だに人目が気になる。
注目を集めていることはないはずなんだが、一種の職業病だ。変装もしていないアイドルと一緒に出歩くなんてことは、まずないからな。
何よりも、今、俺と歩いてる彼女は輿水幸子なのだ。
「……そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。三ヶ月くらいで、顔を出しても声をかけられることはなくなりました」
「ああ、それはわかっているんだけどな……」
もっとも、それもあまり納得はできない話だ。あんなに顔と名を知られたはずの幸子が、こんな速さで忘れられていいものか。実際に注目されない事実には悔しさがある。
普段使っている自分の車が壊れてなければ、こんな気分を味あわなくても済んだのだが。
「悪いな、歩かせてしまって」
そんな俺の言葉に、幸子は不満な様子もなくおかしそうに笑っている。
「構いません。実は私もこうして、アナタと街を歩いてみたかったんです」
「そ、そうなのか」
彼女は急にこういうことを言うので困る。適切な距離をはかりかねている俺がいる。
……並んで歩く俺達は、どんな風に見えているんだろうな。
父と娘、兄と妹、親戚同士。……いや、俺と彼女に血縁関係を見出すのは難しいか。となると……。
「ちゃんと恋人同士に見えていますかね」
俺は足を踏み外して倒れそうになった。
「冗談ですよ、冗談」
そんな俺を見て、また幸子は、なんとも楽しそうに笑っているのだった。
いよいよストックがないのでまたいつかです
「そういう冗談はあまりよくない気がする」
「そうですか? 硬いところ、変わってないですね」
……もう幸子はアイドルじゃないんだし。恋愛関係に敏感になってしまうのも職業病か。
実際、今の担当アイドルがそういう事情を抱えてしまったらどうしようか、とはいつも思う。自重を呼びかけても、完璧にはいかない。人間だから当然なのだ。
そういう意味では幸子は楽だったな。自分のカワイイに一生懸命な様子で、そういう気配は微塵もなかった。
今も多分、ない。
……いや、俺は別にそこに思うところはない。本人がよいならよいことだ。うん。
我ながら下世話なことを考えていると、幸子が思い出したように呟いた。
「そういえば、車のことですけど」
「……ん?」
車の話? 幸子がそんな話題を持ち出すのは珍しい。車に興味を持つ年頃か。
と思っていたら、全く予想外の話が出てくる。
「私と一緒に新しいものを買いませんか」
「……何言ってんだ? 冗談かな」
常識的に考えたらジョークだよな。なんだか当然のように普通の顔で言いだしたからびっくりした。
ところが、幸子はどうも真面目な顔のまま、真面目な話題として切り出したつもりらしかった。
「いえ、本気です。よかったら、半分お金を払います。なんでしたら、7割くらいをお支払いしても」
「まてまてまて、急に何を言い出すんだ」
幸子が、俺の車を買い替えるお金を出す? 確かに、俺の車はずいぶんと年季が入ってはいるし、買い替えを考えていると話したこともあったが。
なんで幸子が半分も支払うつもりになっているのか。
「二人でお金を出せば、よりいいモノを買えるんじゃないですか?」
「そりゃそうかもしれないが、いや、だからそれ以前の問題として、なんでお前が出してくれるって話になるんだよ。俺の車だよ?」
俺は当然のことを言ったつもりだが、幸子もそれこそ自明の理であろう、とばかりに答える。
「だって、アナタの車に一番いっしょに乗っているのは私ですから」
「……それは、まあそうだけど」
仕事の時は会社の車を使うからな……。確かに、週に一回は会っている幸子が俺の車の一番の同乗者であることは間違いない。というか、他に乗せる相手がいるわけでもない。
しかしな、だからといって何も俺の車に金を払う必要まではあるまい。
と、思ったのだが、幸子は真面目な顔を、俺にずいと近づけるのだった。
「あの車とも長いお付き合いですけど、そろそろ私にはふさわしくはないと思うんです。背が伸びたからか少し狭いですし、道路の状態次第で揺れすぎます」
「ま、まあな……」
俺は割と愛着があるんだが、そんな風に思われていたのか。
そういえば、数回ほど幸子を乗せていた時にエンストしてしまったこともあった。色々な積み重ねで、幸子に不満が溜まっていたのか。
「だから今度はもっと大きくて、カワイイ車を買いましょう。私がそのお手伝いをするのも当然です」
「当然か……?」
「さっき言いましたよね。お返しも期待している、って」
そう言って幸子はマフラーに手を触れた。ひどく大事で、尊いもののような触れ方だった。気軽に贈ったものを喜んでもらえるのは、何だか申し訳ないけど嬉しくもある。
しかし、さすがに値段が違いすぎる。安価なマフラーではなかったとはいえ、車とは比較にならない。
「そんなに高いものはもらえないよ」
「気にしないでください。お金はあるんです。それも、半分はアナタが私にくれたようなものですから」
嬉しい言葉だが、それは買いかぶりだ。
幸子のアイドルとしての活動時期は二年半ほどだが、その間に幸子個人が得た額はこの国の平均年収と比較しても、はるかにそれを超えているだろう。
でも、それは幸子が自分の力でつかみとったもの、そのひとつだ。
彼女はヒット、幸運に恵まれたのではない。輿水幸子という恵みとして我々の前に現れたのだ、というのが俺の考えだった。
「それは幸子が自分のために、大切に使うべきだ。大学の学費も自分で出すんだろ? 立派だ」
俺の言葉に幸子はくいっと顎を上げて、自慢げに唇を寝そべった月のように形作る。
「ふふん、当然です。私はもう子供じゃないんですから。少なくとも、気持ちでは」
普段のおしとやかな笑みとは違う、自信にあふれた力のある笑顔。多くのファンたちを魅了した表情だ。俺も彼女のこの顔に惹かれていた。
懐かしさと感慨深さを感じる。……そんなに昔を懐かしんでどうするという話だが。
「だから、私も軽はずみな使い方をしているつもりもありません。アナタが私にふさわしい車を持つというのは、QOLの向上のための投資というものです」
「そこまでか」
それだけ、俺の車に乗っている時間に価値を見出している、ということか。……心が少し動く。
「わかった。半分とは言わないけど、少しだけ一緒に払ってもらってもいいかな、と思ったよ」
「ふふ、なんでしたら私が全部払ってもいいんですよ。とても気持ちがいいでしょうからね」
俺は苦笑する。
「リムジンでも買うか?」
「いいですね。運転手さんも雇いましょうか」
「……冗談だよ」
結構本気で言っている雰囲気なので、釘をさしておく。
中断です
読んでくださった方ありがとうございます
さて、そんな話をしながら歩けば公園にも着く。
木々の中に遊歩道がある自然公園。昼時の公園は気持ちのいい木陰に包まれているが、大して人もいなかった。
なぜなら今日は平日だ。みんなあくせく働いているんだろう。資本主義経済の戦士たちのために祈ろう。
「いい雰囲気ですね」
「そうなのか?」
確かに木陰は涼しそうだけれど、ごく普通の公園だ。いや、人が少ないのがいいのかな。
ちなみに幸子は、俺と会うために学校をさぼっている……わけではなく、学校行事の振り替え休日なのだそうだ。
そして俺は彼女の休みに合わせて休みを取っている。日が合わない週も、一回以上は午前や午後、夜にちょっと会うくらいはする。……我ながら熱心なことだ。
「ほら、あそこです」
「どこだ? ……ああ、あのベンチか」
ちょっとした広場の真ん中に噴水があり、その周囲にベンチが設置されている。なんとも、らしい場所に連れてこられたものだ。
四人ほどが座れそうなベンチの右側に、くっついて座る。
俺の左に座った幸子が、膝に乗せたカバンを開けた。さて鬼が出るか蛇が出るか。
「さあ、どうぞ」
「きたな」
幸子が取り出して俺に渡したのは、かわいらしい布包みだった。割と大きめか。
予想通り、幸子は手作りのお弁当を作って持ってきていたらしい。保冷をしていたらしく、残暑の中、カバンに収まっていた割には冷たい。
お弁当を受け取った俺の顔を、幸子が覗き込んでいる。
「驚いていませんね。予想してました?」
「まあ、公園にわざわざ寄り道してやることと言えば、そんなに選択肢もないかとは思っていた」
動物も連れていないし、まさかスカートの幸子がアクティブな遊具を持っているってこともないだろう。
昔は彼女に付き合って運動をしたことはあったが、最近はそういうこともないし。
ただ、全く意外でないかと言えばそうでもない。
「でも、幸子の料理は久しぶりだ……」
「この前に食べてもらったのは……二年以上前でしたっけ」
まだ幸子がアイドルをしていた頃だな。
……あの時は確か、肉じゃがとカレーだった。車の中、別れ際に突然でかいタッパーを二つ渡されてびっくりしたものだ。
なんだこれ、と聞いたら、
「作りすぎてしまったので、あげます! ボクの料理を食べられるなんて、最高に幸せものですね! 感想とか聞かせてくださ……くれてもいいんですよ!」
と言って、幸子は急いで車を降り、走って行ってしまった。
とりあえず家に持ち帰りおそるおそる食べてみると普通の味で、毒などは入っていなかったので安心した旨を伝えたら、不機嫌になったのを覚えている。
「あの時のリアクションの薄さは忘れられない想い出です……」
「……職業柄かな」
アイドルのプロデューサーというのは、女の子が作った何かを受け取る機会が多い方の職業ではあるのだ。
大して美男子でも口が上手いわけでもない俺でもそうだ。
「いや、あの時も言ったけど嬉しかったのは本当だったんだ」
「怪しいですね。せっかく私がアナタのために作ってきたのに……」
「作りすぎたんじゃなかったのか」
「そんなのウソに決まっているでしょう。本気でわかってなかったんですか」
「鈍感だとはよく言われる」
もちろんわかっていた。
わかってはいたけど、俺はプロデューサーなので、わかってないフリも仕事のうちなのだ。
幸子は目を細めて俺を見ている。
「どうですかね。余計なことを考えていたんじゃ?」
「……俺はいつでも幸子のことを考えてたよ」
「ぬ……。……当然です、アナタは私のプロデューサーだったんだから」
幸子が顔をそらした。……いけたかな。
最近、幸子は鋭い。昔はもう少し簡単にごまかされてくれたのだが。スカイダイビングとかもやってくれた。
「……まあ、いいです。今日はあの時のリベンジなのですから。私にあれほどの屈辱を味あわせたことを泣いて後悔してもらいますからね」
「何を入れたんだよ……」
今度は本当に毒でも入れられたのか。俺が泣いて謝らない限り解毒剤を貰えないとか、そういうやつか。
中断です
読んでくれた方、ありがとうございす
ありがとうございす……
ありがとうございます、です
「ヘンなものは入れていませんよ。その目で確かめてください」
幸子はそう言って俺をうながすので、包みを開いてみる。
ピンクと黄色の布に包まれた弁当箱は、意外にもステンレス製の光沢を放つ無骨なもので、可愛さをアピールしてはこなかった。
「もっとかわいい箱かと思ってたな」
「実用性も大切ですから。何よりも大切なのは、中身ですよ」
それだけ本気ということなのかもしれない。少し期待しながら、箱の留め金を外して開く。
そこにあったのは、まさしく色と菜の饗宴だった。
色とりどりの葉とトマト、きゅうりとにんじんが入ったポテトサラダ、数種類の海草のサラダ。
白と赤の二種類のソースがかかったハンバーグ、一口サイズに切られた揚げ物が3種類、オムレツも中の具が違うものが3種類。
そして俵型のごはんたち。これも白、茶、黄色と色が三種類……。
「……すごいな、これは」
これだけの数の料理を全部手作りしたのか? ひとつひとつは小さいけれど、材料を揃えて違った調理をする手間を考えると……。
出来合いのものを使っているわけじゃないのに、この数はすさまじいと言ってもいい気がする。
しかも、ただ雑然とたくさんの料理を詰めているわけでもない。
非常に見栄えよく配置されている。仕切りを使っていない部分も、隣り合う料理同士が干渉して、味に影響を与えすぎない配慮もしている、とみた。
なるほど。リベンジというのは、本気なのかもしれない。
驚いた俺の様子を見て、幸子は満足げにふふふ、と含み笑いをもらす。
「どうです? ちょっとしたものでしょう」
「ああ、圧倒されたな」
手作りのお弁当も何度か見てきたけれど、これだけのお弁当はなかったかもしれない、と思う。
素直な賞賛に、幸子はますます嬉しそうに笑顔を深くして、顔を近づけてくる。
「次は、実際に食べて味をホメてくれてもいいんですよ」
「そうさせてもらおうか。いただきます、……って、あれ」
ぜひそうしたいところだが、お箸もフォークもないのに気づいた。
「幸子、箸がないぞ」
「あれ? そうでしたか?」
幸子はあわてた様子でカバンの中をごそごそと探した後、少し落ち込んだ風な顔でこちらを見た。
「ごめんなさい、私としたことが……お箸を忘れてしまったようです」
「ありゃ、そうなのか」
仕方ない、そういうこともあるだろう。その辺のコンビニで割り箸を……。
「なので」
幸子が、いつの間にか赤い箸を手にしている。俺が持っていた弁当箱に箸が伸び、彩り美しいサラダをつまんで持ち上げた。
そして、俺の口元へと近づけてくる、この、動き。
「私が食べさせてあげます。よかったですね」
「……おまえ」
「はい、どうぞ。あーんしてください」
どういうことだこれは。
彼女の一瞬のためらいもない、流れるような動き。この展開。まさか。
「思わぬハプニングでしたが、私に食べさせてもらえるんですから、アナタにとってはラッキーな展開です! そうでしょう?」
「わ、わざとだな」
「なんのことだかわかりません。さあ、口を開けてください」
……この人気の少ない公園。すでに計画は始まっていたのか?
「そ、その箸を貸してくれればいいだろう」
「だめです。これは私のお箸です」
「……じゃ、俺がコンビニで箸をもらってくるから……」
「この近くにはコンビニやスーパーはないんです。わざわざそんな手間をかけさせてしまうのは申し訳ありません!」
完全にはめられてるじゃねーか!
俺が内心絶叫、実際には絶句していると、だから、と彼女は更に前に出てくる。俺はのけぞる。
「私が食べさせてあげますね! 遠慮はいりませんよ!」
いやしかし、と思う。
が、ここで俺は気づいた。幸子の声がだんだんと、大きくなってきている。その目も少し潤んで、肌も少し赤くなって、汗が浮かんでいるような……。
……そうか、そうか。
それがわかってしまうと、急につっぱねる気持ちがへこんだ。
「わかったよ」
「……だから、私が、え?」
「……口をあければいいんだろ、ほら」
そういうわけで、口を開けた。……他人に口の中を見せるのは、恥ずかしい。
また中断です
一気に書き上げるのはなかなか難しいですね
読んでくださった方、ありがとうございました
(フフーン、最初からそうすればいいんですよ!)
……なんてセリフを予想していたんだが。
幸子は目に見えてわかるほど、顔を赤くして固まっていた。目を大きく開けて、どうすればいいのかわからない、という風に俺の口に目を……だから、照れるだろ。
恥ずかしいので、俺は自分から動いた。箸の先に顔を寄せて、含む。
「……あっ」
幸子がびっくりしたように箸を引いた。つまんでいたサラダは俺の口に残ったので、だまって咀嚼する。
……ん! うまい!
緊張で味なんかわかんないんじゃないかって思ってたが、案外そうでもないな。
一見、何もかかっていないシンプルな生野菜だったけど、酸味とわずかな塩で味がついている。うまみもある。浅漬けに近いか? だし汁に酢と塩、そして香りづけの何かを入れて、サラダを入れた後に水気を取ってつめたのかな、と想像する。
「おいしいよ、幸子」
俺は思わず微笑んでいた。
それを見て、固まっていた幸子がはっとしたように動き出した。顔はまだ赤い。
「と、当然です! 私の料理なんですからね!」
幸子はあわてたように次の料理を箸で取った。海草サラダだ。
「またサラダか」
「野菜から食べたほうが健康にいいんです! 知ってました!?」
焦った口調の幸子が差し出した箸に、俺はまた口を開けた。一度やったからか、もうあまり恥ずかしくない。
むしろ恥ずかしがっているのは幸子のほうで、その動きは初レッスンの時よりガチガチだった。
ただ、今度は箸を俺の口に幸子が自分で入れた。
これもうまい。驚くべきことに、さっきのものと恐らく同じ技法、しかし違う味だ。わざわざ別のだしをこのために取ったのか?
「おいしい……。幸子、もっと食べさせてくれないか」
「わ、わわ……。もう、しょうがないですね、アナタは……」
幸子に限界が来たのは、それから三口ほど後のこと。
恐らく50メートル離れてもわかるほど顔を赤くした幸子は、「あっ! そういえばここにお箸を入れていたのを忘れてました私ってオチャメでカワイイですね!」と、鞄のポケットからケースに入った箸を取り出し、顔を伏せて俺に押し付けた。
そういうわけで、俺と幸子は並んでお弁当を食べている。幸子は自分の分のお弁当を取り出し、……俺の口へと料理を運んでいた箸を長い間見つめた後、ケースにしまって別の割り箸を取り出した。あきれるほど用意がいい。
幸子は自分のお弁当に手をつけることなく、何かぶつぶつ言っている。
「……違うんですよ」
「うまいな、このハンバーグ。二種類のソースごとに野菜の切り方を変えてるんだな」
「わ、私じゃなくて、アナタが先に折れて……そういう予定で……」
「このフライはヒラメかな。下味に何か香辛料を使っている……山椒か? うまい」
「なのに、こんなに私のほうが恥ずかしくなるなんて、思ってなかったから……」
「ご飯もただ味をつけるだけじゃなくて、おかずと一緒に食べた味を計算して……」
「聞いてるんですか!」
「……お前こそちゃんと聞いてるのか、せっかく褒めてるのに……」
せっかく聞こえないフリをしてやっていたというのに、男心のわからないやつだ。俺が女心がわからないやつみたいじゃないか。
「まあ、幸子のたくらみは大体わかったよ。どういうリアクションをすればいいかはわからんが」
「……何かフォローをしてください」
「あー、そうだな」
さっきまでの、幸子が俺に箸を差し出す光景を思い出す。
……ああいうのをやったことはなかったが、悪くないものだ、と感じていた。
「俺はなかなか楽しかったよ、うん。嬉しかった」
思いもよらない言葉だったのか、幸子の目が丸くなって。すぐに顔をそむけるように、自分の手の中の弁当へと目を戻した。
「……ふ、ふーん。じゃあ、いいです……」
小さな声で、ぽつり。
何がいいんだろ。思わず少し笑ってしまうと、幸子はなぜか悔しそうな顔をした。
しばらく、二人で無言で箸を動かす。本当にうまい。
職業柄、仕事で高級店に入ることも多いが、これだけ多くの手間をかけた料理はなかなかない。しかもそれを一人で作るとは。
「幸子は実は料理人を目指してたのか?」
幸子が首をかしげる。
「……何のことですか?」
俺の言葉に、幸子は本気で何を言っているのかわからない、という風だった。違うかもしれないとは思ったが、そんな顔をされるとは思わなかったぞ。
「何のことって、この弁当だよ。これだけのものを作るんだから、そういう将来も考えてるのかと思ったんだ。違ったみたいだが」
「ああ……」
そこまで説明して、やっと俺の言葉を理解できたようにうなずく。
……本気で、全くそんなことは考えもしていなかったようだ。
幸子は事もなげにさらりと答えた。
「……このくらいはやって当然なんですよ。私ですから」
「そ、そうか」
あまりにも自然に自分を賛ずる姿には、風格すら感じる。大きくなったのは見た目だけじゃないのか?
ずいぶんと一緒に過ごしていたはずなのに、彼女はこうして、ときたま俺が知らなかった顔をのぞかせる。
こうは言っているが、多分幸子は最初に俺にカレーと肉じゃがを渡した後から、ずっと料理の練習をしていたのだろう。それも、ごく普通の頻度ではなかったはずだ。
料理人を目指しているわけでもない幸子が、なぜそこまでしたのか。
「……ところで、提案があるのですが」
「……ん? なんだ」
「……ところで、提案があるのですが」
「……ん? なんだ」
幸子は不気味ににっこりと笑った。
いや、すごく綺麗な笑顔なんだけど、こんな顔を俺に向けること自体が不気味だ。
「そんなに私の料理を気に入ってくれたのなら、今度、ごちそうしましょうか」
「あー、それはありがたいんだけど、なにその顔」
「ありがたいんですね。じゃあOKということで。約束ですよ」
「いや、そうは……」
「そうは言っていないんですか。ふーん、へー」
「わかった、わかったよ。でも、それが……」
俺の言葉を途中でさえぎるように、幸子が立ち上がった。
「では、図書館に行きましょう」
「いやいやいや、ちょっとまって」
「でももいやもありません。お腹もいっぱいになったので、受験勉強の時間です」
そのまま幸子は歩き出した。俺は呆然とした。
なんだかわからんが、幸子がかつてないほどに強引だ。
何かを企んでいるのは間違いないが、俺はどうすればいいのかわからないまま、幸子の後をあわてて追いかけていく。
……あいつが辞めてから、ずっとそうだったかもしれないな。
翌日、幸子からメールが来た。
件名:昨日の約束についての打ち合わせ
次の来週の日曜日、私の家に来ていただいてもよろしいですか?
両親も改めてご挨拶したいと言っています。
もちろん私がそちらに伺っても構わないのですが。
つづきはまたそのうちにです(短い…)
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