【ARIA】水の星の偶像たち【モバマス・アイマス】 (167)

・ARIA×モバマス、アイマス
・地の文
・独自設定および独自解釈有
・推敲しながらのんびり更新予定

よろしければお付き合いください

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Prologue


かつて火星と呼ばれた惑星がテラフォーミングされてから150年――

極冠部の氷の予想以上の融解で地表の9割以上が海に覆われた星
火星と呼ばれていたその星は、今では水の星として親しまれている

アクアと呼ばれるようになったその星に、とある港町がある

ネオ・ヴェネツィア

かつての地球《マンホーム》に存在した街を再現して造られたその街は
季節を問わず、観光客で賑わっている


水先案内人《ウンディーネ》

水の精霊と同じ名を冠するその人々は
観光客を専門とする伝統的な舟の漕ぎ手であり
街のイメージを代表する、アイドルのような存在でもあった

水無灯里、15歳、ARIAカンパニー所属、半人前
藍華・S・グランチェスタ、16歳、姫屋所属、半人前
アリス・キャロル、14歳、オレンジぷらねっと所属、見習い

会社も立場も年齢もバラバラな三人
ひょっとしたら出会うこともなかったかもしれない三人

けれど、彼女らはいくつかの縁によって結ばれ
日々、互いを磨き合っている

憧れの一人前《プリマ》を目指して



Navigation01 姫の苦悩とだらだら妖精


藍華・S・グランチェスタは焦っていた。

その原因を紐解けば、今朝の合同練習にさかのぼる。

とは言っても、特別何かがあったわけではない。
いつものように集まって、いつものようにオールを手にして。

波だ日差しだカモメだと、目移りばかりの灯里をたしなめ。
気を抜くと仏頂面になるアリスの様子に気を遣い。
離れ小島でカンツォーネの練習をした。

ただ、それだけ。


『灯里、あんたはもうちょっと技術的なものをね……』

水無灯里は常人には及びもつかない才能を秘めている。
少なくとも、藍華はそう思っている。

あの逆漕ぎを見せられて、それを独学で身につけたと聞かされたその日。
例えそれが実務では使えないものだったとしても。
尊敬や羨望が入り混じった感情をおぼえずにはいられなかった。

『ほら、後輩ちゃん。また顔が険しくなってる』

アリス・キャロルを一言で言い表すなら、天才少女、だろう。
ミドルスクールに通う年齢でありながら、その技術は見習いのそれではない。

彼女のオールさばきに目を奪われたことも、一度や二度ではない。
悔しいし恥ずかしいので、面と向かって認めたことはないが。


そんな二人とのカンツォーネの練習。

灯里はとても楽しそうだった。
でも、そこにはまだ技術が追いついていない。

アリスは固くなっていた。
誰が聞いているでもないのに、声がどんどん小さくなって。

藍華はまさにお手本だった。
二人から寄せられる賞賛の拍手がこそばゆくて。

それはとても嬉しくて誇らしくて。
同時に、一つの問いかけを連れてきた。

だから、藍華は焦っていた。


***************************


「お手本、かあ」

ウンディーネを志してからというもの、努力を欠かしたことはない。
優しくも厳しい先輩に恵まれたこともあって、着実に実力をつけている。
藍華自身、そのことに自負を持っている。

「私の武器ってなんだろ」

お手本と言われた時にふとよぎった疑問。
ほかの誰でもない、自分だけの特別なものはなんだろう。

灯里のような、人を和ませ惹きつける魅力。
アリスのような、圧倒的な技術。
そういう『何か』が、自分にはあるのだろうか。


「あー、もう! 弱気禁止!!」

落ちていく気持ちを奮い立たせるような、きっぱりとした声。
その『何か』が見つからないからといって、諦めるという選択肢はない。
ずっと憧れてきたのだから。

「そうと決まれば練習あるのみっ」

その言葉にわずかな空しさが混ざっている。
藍華は、それを承知の上で前を向く。

そうできる強さがどれほど眩しいものか。
本人にその自覚はない。


――――――
――――
――

姫屋に戻ってからどうするか。
そんなことをのんびりと考えていた藍華の目が、異常を伝える。

水路に面した小さな広場。
木陰になったベンチに、何かがいる。

「……何あれ」

まず目についたのが、ひどくくたびれた、ウサギのような何かのぬいぐるみ。
そのすぐ横に、横たわる小さな影が見える。
ベンチからだらりと垂れさがった手が、妙に気にかかる。
その手は、明らかに子供のものだったから。

「(落ち着きなさい藍華。こういう時こそ冷静に)」

慌てることなく、けれど迅速に。
ゴンドラをつけて駆け寄る。

先輩の仕込みがいい、ということもあるのだろう。
けれど、こうした時に落ち着いて行動できることもまた、藍華の才能を感じさせる。
……やはり、本人にその自覚はないが。


「ちょっと、だいじょう、ぶ……」

よく通るその声が、次第に小さくなっていく。
今藍華の目の前にいるのは小さな女の子。

規則正しく上下する胸元。
眉間にわずかなしわが寄っているものの、呼吸に乱れは見えない。

要するに、ただ寝ていただけだった。

「何事もなくてよかった、のよね?」

小さく胸をなでおろしながら、周囲を見渡す。
周りには誰もいなかった。

まだミドルスクールに通っていると思わしき背格好。
ちょっと近所に買い出しに、という雰囲気の服装。
くたびれたぬいぐるみ以外に荷物は見当たらない。

普通に考えれば、連れがいるはず。
待っているうちに寝てしまったと考えるのが妥当だろう。

分かっていても放っておけない辺り、藍華も大概お人好しなのだった。


「…………んん、ぅ……ん?」

どうしたものか、という思考は小さな声に遮られた。
声の主に視線を送ると、ぱちりと開いた真っ直ぐな目が待っていた。

「………誰?」

特に表情を変えるでもなく少女が問いかける。
声に動揺の色はなく、寝起きの鈍さも感じられない。

「私? 私はたまたま通りかかっただけだけど」

「あー、こんなとこで寝てたからわざわざ声かけてくれたんだ。いい人だねぇ」

「それはいいんだけど」

「ん? ああ、別に体調不良とかじゃないから大丈夫」

藍華の顔に浮かんだ心配の色を読み取ったのか、先回りして少女が答える。
随分と頭の回転が速いらしい。


「いやー、歩いて帰るのがめんどくさくなっちゃってさ」

「面倒くさいって……」

およそ予想していなかった言葉に、藍華の顔に呆れが浮かぶ。
外見と発言内容が全く噛み合っていない。
その話し方も妙に老成していて、実に掴み所がない少女だった。

「親切な誰かが送ってくれたりしたら、楽でいいんだけどねぇ」

ふてぶてしいというかなんというか。
藍華と、その後ろのゴンドラを見比べながらそんなことを言う。

決してほめられた態度ではない。
それなのに、妙な愛嬌がある少女だった。
浮かべる表情が自然で、嘘が見えないからだろうか。


「うーん、そうしてあげたいのは山々なんだけど……」

言いながら、その両手を少女にかざす。

「私、まだ半人前なのよね」

「あーウンディーネのルールだっけ? 世知辛いねぇ」

手袋をはめたままの右手を見ながら答える少女。
少し思案顔をしたと思ったら、唐突に口を開いた。

「じゃあ私は、荷物ってことでいいよ」

「………………へ?」


荷物という、突拍子もない単語に藍華の思考が止まる。
どうやら、自分を荷物扱いしてでも楽がしたいらしい。

「荷物ならお客さんじゃないしね、問題ないじゃん」

軽い言葉とフニャッとした笑顔に毒気が抜かれてしまう。
断られたとしても、こだわることなく次の一手を考えるのだろう。
あるいはもう一眠りするのか。

遠慮がないようでいて、絶妙な距離感を保っている。
何とも不思議で、何とも憎めない少女だった。

藍華の顔を笑いが彩る。

「……練習に付き合ってくれる友達ってことなら」

「よしきた。よろしくね……えっと」

「藍華よ。姫屋の藍華」

「私は双葉杏。よろしくね、藍華」

「ふふ、ではお手をどうぞ、杏ちゃん?」

「へへ、ありがと」

少しだけ重くなったゴンドラが鮮やかな軌跡を描く。
藍華の心に差したわずかばかりの影は、いつの間にか消えていた。


***************************


その日の藍華は自主練習に精を出していた。
先輩のゴンドラに同乗して見たこと、感じたこと。
それを、忘れないうちに自分のものにしたかったから。

貰ったアドバイスを思い返しながら、その動きをトレースするように。
お客様を乗せているところをイメージしながらオールを操る。

記憶の中の動きと自分のそれには、大きな隔たりがあったけど。
それでも、感じた手応えを大切にして。

少しずつ、少しずつ、積み重ねていく。


「……ふぅ」

日陰を選んでゴンドラを止め、小さく息を吐く。
ひょっとしたら、ただの自己満足かもしれない。
そんな弱気が脳裏をかすめ、振り払うように視線を上げる。

そこには、既視感のある光景が待っていた。

藍華の視線の先には小さな橋が架かっていた。
ネオ・ヴェネツィアの至る所にある、何の変哲もない橋。

その欄干に鎮座するのは、くたびれたウサギ。
傍らには、辛うじて引っかかっている何か。

藍華の口からため息がこぼれた。
多分に呆れが混じったそれとは対照的に、顔には笑みが広がっている。

オールを握り直し、橋のたもとに漕ぎ寄せる。
その音に反応したのか、欄干に引っかかった何かがピクリと動いた。

「……や」

藍華と杏。
二人の再会は何とも気の抜けたものだった。


「しょうがないなぁ藍華は。そんなに杏に練習付き合って欲しいの?」

ひとしきり挨拶が終わったと思ったら、杏がそんなことを言い出した。
藍華がその意味を理解する頃には、ゴンドラの脇まで移動を完了している杏。

図々しいにもほどがあるその振る舞いを、藍華はなぜか不快には感じなかった。
それはおそらく、今まで藍華の周りにこういう人間があまりいなかったから。

老舗で大手の水先案内店の跡取り娘ともなれば、その扱いはおおよそ知れる。
ちやほやされるか、腫物のように扱われるか、あるいは上辺だけの付き合いか。
もちろん、そんな人だけではなかったが。

だから、こうも自分の欲求をストレートにぶつけられることには慣れていなくて。
無遠慮に見えて押しつけがましくない、そんな矛盾に満ちた杏の態度が新鮮だった。

「まあ、いいけどね」

一人で練習するよりも得るものは多いに違いない。
そんな打算もあって、杏に手を差し伸べる。

もっとも、杏への純粋な興味も背中を押していたようだが。


「よろしくね、藍華」

「こちらこそ、杏ちゃん」

「あー、呼び捨てでいいよ。藍華も私も同じくらいの歳でしょ」

「……………………へ?」

何気ないその一言に、藍華が固まる。
ポカンと口を開け、見開いた目を向ける。

「双葉杏、17歳でっす」

そんな視線をものともせず、杏は見事なドヤ顔を決めていた。
人を食ったような話だが、嘘を吐いているようには見えない。

「……あれ、外した? おーい藍華?」

いつまでも反応がない藍華に、声をかける。
次第に藍華の目の焦点が合ってきて。

「えーーーーーーーーーーーーーっ!!」

辺り一面に、藍華の声が響き渡った。

「……まあ、そういう反応は慣れっこだけどね」

小さくつぶやいた杏の声は、残念ながら藍華には届かなかった。


――――――
――――
――

「………………ゴメン」

「いーよいーよ、いつものことだし」

落ち着きを取り戻した藍華が頭を下げる。
対面の杏はヒラヒラと手を振っている。
そこに特別なこだわりはないようだった。

「でも……」

「藍華の面白い顔も見れたことだし、ホント気にしないでいいよ」

なおも言い募る藍華に対して、出し抜けに言い放つ。
いつの間に撮ったものか、驚く藍華の写真を見せながら。
清々しいくらいに悪い顔をしている。


これでおあいこ、お互い様。
軽い笑い話で済ませようよ。

そんな杏の本心が目に表れている。
藍華もまた、そういう機微には比較的敏感な方で。

「……もう」

結局藍華は何も言えなくなってしまった。

「それじゃ、よろしくねー」

そして次の瞬間、杏は気の抜けた状態に戻っていた。

やる気がなくて面倒くさがりな杏。
他人を気遣う優しさを見せる杏。

果たしてどちらが本当の姿なのだろうか。
藍華は、湧き上がる興味を抑えられなかった。

「今日はどこまで?」

「んーとね……」

二人を乗せ、ゴンドラが進みだす。

一先ずここまで
こんな調子で、藍華の話はあと2、3回の投下で終わる予定です

お楽しみいただけたなら幸いです


***************************


郊外にある大きな公園にゴンドラをつける。
観光案内に力が入った結果、空の端が赤く燃えだしていた。

思いのほか長くゴンドラに乗っていたせいか、陸に上がった途端杏は草地に腰を下ろす。
その隣に座って、藍華が問いかける。

「もしかして、疲れた?」

「というか、まだ地面が揺れてる」

「あ……ゴメン」

「いーのいーの、友達じゃんか」

「ありがと」

「杏一人だったら、どうせまたどっかで寝てたんだから」

「……ぷっ」

「あー、ひどいなぁ藍華」

容易に想像できるその光景に、藍華は思わず吹き出してしまった。
それに抗議する杏も笑っている。


「それでさ、私のゴンドラに乗ってどうだった?」

「んー、そうだねぇ」

杏は、表情を引き締めた藍華が何を求めているか感じ取っていた。
他人の目で見た時に、自分にどんな良さがあるのか。
それを藍華は知りたがっている。

練習の合間合間に交わした何気ない会話。
その端々から、藍華が抱えるある種の悩みが見えていたから。

劣等感。

憧れの人を、敬愛する先輩を、高め合う仲間を。
嬉しそうに話すその陰で、見え隠れする焦りの感情。
本人にどこまで自覚があるのかはわからないけれど。
ならば、敢えてそこに触れるのも優しさだろうか。


双葉杏は怠惰な人間だ。
だが同時に誠実であり、情に厚い人間でもあった。

「普通、かな」

自分の言葉が侮辱と取られるかもしれない。
そんなことは承知の上で言葉を重ねる。

「操船も丁寧だし、観光案内も分かりやすいし、いいと思うよ」

目の前の相手が求めているのはもっと違う言葉だと知っていてなお。
伝えたいことがあった。

「このまま努力していけば、いつかは一人前としてもやっていけるんじゃないかな」

「……そっか」


「それじゃ満足できない?」

聞くまでもなく答えは分かっている。
小さく頷いた後、藍華はポツリポツリと話し出した。

「私、いつかはウンディーネの一番星になるんだ、って」

この世界を志すきっかけになった人。
厳しさと優しさで導いてくれる人。
共に歩む人たち。

そんな人たちの輪の中にある藍華にとって、それは自然なことだった。
でも、そんな人たちに囲まれているからこそ、落ち着かなくなることがある。

「でも、時々不安になって」

杏は待っていた。
藍華が抱え込んでいるものを吐き出すのを。

「私だけの、胸を張れる良いところってどこだろうって」

親しい人だからこそ話せないことがある。
それでも、自分くらいの距離感なら。
だから杏は、わざわざあんな言い方をした。


「杏がマンホームから来たって話したっけ?」

「………………うん」

流れを断ち切るように杏が口を開く。
藍華が何に悩んでいるのか、それがちゃんとわかったから。

藍華は小さく頷いて視線を上げた。
隣に座る杏は、見たこともない真剣な表情をしていた。

「杏ね、マンホームでアイドルやってるんだ」

「アイドル?」

「そ。それで今回は、はるばるアクアに来てここで特別ライブってわけ」

藍華が公園の中央に目をやると、そこにはステージが組み上がっていた。
杏はそのステージで歌うらしい。


「だからまあ、藍華の悩みも分かるんだよ」

杏は真剣な表情のまま視線を外し、懐かしむような目で遠くを見る。
彼女もまた、同じような壁を越えてきたのだろうか。

「周りと比べて自分が見劣りするんじゃないかってね」

夕日に向けられたその瞳は、もっと遠くの何かを見ているようだった。
そこにはやっぱり、普段の上手く力を抜いているような杏はいない。

「でもね、結局は自分にできることをするしかないんだよ」

杏の顔に広がったのは、苦みを含んだ笑い。
でもそれは、失意や諦めとは違う、もっと前向きな笑いだった。

杏の視線が、再び藍華を捉える。

「だから、藍華は今のままでいいと思う」

「…………いいのかな」

「杏からすると、悩みを抱えながらでも努力を続けられる藍華は凄いと思うよ」

「……私は、それくらいしかできないから」

「そんな藍華を、双葉杏は尊敬する」

照れも淀みもなく、真っ直ぐに言い切る。
だからこそ、直接心に響いた。

二人の間を、強い風が吹いて行った。


「あー、ガラにもないことをするもんじゃないね」

風が止むと、そこにいたのはいつもの杏だった。
面倒くさがりで、だらしなくて、でも、とても優しい。

「……ぷっ、ふふ……あははは」

さっきまでとのギャップに堪え切れず、藍華が吹きだす。

「もー。ひどいなぁ藍華は……ふふふ」

その様子に、杏もつられて笑い出す。
すっかり赤く染まった空に、二人の笑い声がこだまする。


――――――
――――
――

「随分と遅い到着で」

二人の笑いが収まると、すぐ近くに男性が立っていた。
清潔感のある短めの髪に、隙なくスーツを着こなしている。
皮肉交じりの言葉に反して、その顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。

「あ、プロデューサー」

その聞きなれない単語に、藍華は首を傾げる。
そんな彼女に向かって、プロデューサーと呼ばれた男性が話しかける。

「コイツのお守りをしてもらったみたいで、ありがとうございます」

「担当アイドルをコイツ呼ばわりはどうかと思うな」

「そう思うなら、日頃の行いを改めるんだな」

「お前のペースで進めばいい、って言ったのは誰だったかなぁ」

「怠けていいと言った覚えはないんだが?」

親密さを感じさせるやり取り。
仕事の相棒……というよりもう少し近しい関係に見えた。


「そうだ。ライブのチケット一枚余ってない?」

「ん? 珍しいな」

言いながら、プロデューサーは手にした書類入れの口を開く。
出てきた手には封筒が握られていた。

「はい」

杏は、受け取った封筒を藍華に手渡す。
僅かに赤く染まった頬は、夕日のお陰で誰にも気づかれずに済んだ。

「私に?」

「藍華にはお世話になったからね」

ありきたりな封筒の中には、一枚のチケットが入っている。
落ち着いた意匠で装飾されたそれは、杏が出演するライブへの招待状だった。


「……ありがとう。絶対行くから」

「それじゃ、終わったら楽屋に来てよ」

「え、いいの?」

「いいでしょ、プロデューサー?」

「……いいんだな?」

「もちろん」

その短いやり取りに、他人には分からない何かがあった。
言葉以上に、目で分かりあっているような雰囲気。
それが、二人の間の確かな信頼を感じさせる。

藍華は少し羨ましかった。
自分と先輩も、外から見るとこんな風に映っているんだろうか。
そんな疑問が浮かび、なぜか少し恥ずかしくなった。


「ということらしいので、ライブが終わったら迎えに行きますね」

「いいんですか?」

「友達に遠慮はいらないよ」

「とのことです」

「わかりました。よろしくお願いします」

勢いよく頭を下げる藍華。
その顔には、隠しきれない好奇心が輝いていた。

「よし。杏、リハ行くぞ」

「えー、杏疲れてるんだけどなぁ」

「友達に不格好なライブを見せるのか?」

「うぐっ…………わ、わかった」

「頑張ってね、杏」

「ありがと、藍華。またね」

「うん、また」

ぶつくさ言いながらステージに歩を進める杏。
帰途に就くべくオールを握る藍華。

二人とも、背中が笑っていた。

本日分はここまで
次の投下で藍華の話はまとまると思います

お楽しみいただけたなら幸いです


***************************


ステージを中心に扇状に広がる客席のエリア。
大雑把に区切られただけのそこには、腰かけるべき椅子などない。
それは、藍華にとっては初めての経験だった。

貰ったチケットを提示すると、比較的ステージに近いブロックに案内された。
オペラの観劇なら、それなりに経験がある。
けれど、ここでその経験が役立つとは思えなかった。

会場を覆う熱気の質が、まず違う。
ステージと客席の境界を曖昧にするような、形容しがたい興奮。
体の芯が疼きだすような会場の雰囲気。

藍華は、その熱にあてられていた。


『おー、すごいねぇ』

会場の熱を前にしてもなお、揺らぐことのないのんびりとした口調が響く。
ステージの中央に、一人、杏が立っている。

『いっぱい来てくれてありがとねー。後ろの人、杏のこと見えるー?』

大きなステージの中央で、小さな杏がピョコピョコと飛び跳ねていた。
そのユーモラスな光景に返ってきたのは、地鳴りのような声。

『今からそんなに飛ばすとバテるよー?』

華やかな衣装に身を包んでいるとはいえ、そこにいるのは双葉杏だ。
それなのに、藍華には初めて見る人のように映っていた。

『まあいっか。それじゃ、もうちょっとだけ待っててねー』

ヒラヒラと手を振りながら舞台袖に去っていく姿は、紛れもなく双葉杏なのに。
別人のような存在感を放っていた。

「あれが、アイドル……」

会場は今にも爆発しそうなほどの熱に支配されている。
気付けば藍華も、その熱に引き込まれていた。

そして、幕が上がる。


――――――
――――
――

それは、永遠に続かと思われる熱狂だった。
一瞬の出来事かと錯覚する高揚だった。

ステージの照明が落ちても、会場の熱が冷める気配はない。
藍華の中にもまた、興奮の熱が灯ったままだった。

「藍華さん」

「あ……プロデューサーさん」

そんな藍華に、スーツ姿のプロデューサーが声をかける。
藍華の返答はまるで熱に浮かされているようだった。


促されるままにプロデューサーの後に続く。
辿り着いたステージ裏では、会場の熱気とはまた別の喧騒が待っていた。
ライブの成功による興奮と、撤収に取り掛かる活気。

そんな独特の空気に取り残されたように、簡素なテントがあった。

「杏、いいんだな?」

「……うん」

何かを確かめるようなプロデューサーの声と、精彩を欠いた杏の返答。
そこに漂う不穏な空気に、藍華が現実に引き戻される。

「私はここにいます。何かあったら呼んでください」

まるで、何かが起こるかのような口ぶりだった。
脇に立つプロデューサーを横目に、藍華が足を踏み出す。
その足取りには怯えの影が見て取れた。

「……来てくれて、ありがとね」

テントの中の簡易ベッド。
杏はそこに横たわっていた。


荒い呼吸に上下する胸。
血の気を失った肌の色。

そんな尋常でない状態で、杏はなお笑っていた。

「……へっ!? あ、杏、大丈夫なの?」

藍華は弾かれたように杏に駆け寄り、その手を取った。
握りしめたその手が、嘘のように冷たい。

「大丈夫……だよ。藍華は心配性、だねぇ」

握り返す手の力が弱々しい。
それなのに、しょうがないなぁと笑うその表情は、いつもの彼女のものだった。


「で、でも……!」

「ホントに大丈夫……いつものこと、だから……」

「いつもって……どこか悪いの?」

「……うん、当たらずしも、遠からず……かな」

否定の言葉が返ってきてくれれば。
淡い期待は打ち砕かれて、思わず藍華はテントの入り口に目をやる。

藍華の手を握る力がほんの少し強くなった。

「藍華はホントに、優しいね。大丈夫、プロデューサーも、知ってること……だから」

「そんな……」

杏の目には感謝と慈しみが溢れている。
その目を前に何も言えなくなった藍華は、ただ、杏の手を両手で包み込むようにした。


詳しい事情も知らず、何をどうしたらいいのかもわからない。
藍華は、こんなことしかできない自分が情けなかった。

不意打ちでこんなものを見せられたら動転して当たり前だ。
それなのに、藍華は自分にできる精一杯のことをしてくれている。
杏には、それがたまらなく嬉しかった。

「……ありがと」

先ほどよりは幾分呼吸が落ち着いてきたようだ。
言葉にも力が戻ってきている。

安心から緊張の糸が切れたのか、藍華は涙ぐんでいた。

「なんで、藍華が泣くのさ」

「だって……」

言葉が続かない藍華の頭に、重みが加わる。
もう一方の杏の手が、艶やかな黒髪を優しく撫でる。

あたたかな沈黙が二人を包んだ。


***************************


「入って大丈夫か?」

「うん。とりあえず落ち着いた」

返事を待ってから、プロデューサーが入ってくる。
気遣わしげに眼を走らせた後、安心したように息を吐いた。

今、藍華と杏の二人はベッドに並んで腰掛けている。
杏は呼吸も落ち着いて、顔色もいつものそれに戻っていた。

探るような目つきの藍華に苦笑を返して、杏が口を開く。

「ちゃんと話すよ。元々そのつもりだったし」

視線を外して虚空を見つめる杏は、いつも以上に大人びて見えた。


「杏ってさ、体小さいでしょ」

「まぁ…………うん」

今度は藍華が苦笑する番だった。
何しろ、初めて見た時に年下だと思い込んでいたのだから。

「まあそれは、アイドルとしては売りの一つにもなるんだけど、やっぱり問題があってね」

杏は簡単に言う。
コンプレックスであるだろうそれを認め、自分の売りであると。
その強さが、藍華には眩しかった。

「問題?」

「そ。根本的に体力がないんだよね」

「でも、ステージでは……」

「そこはプロだからねー。でも、終わったらこの通り」

自嘲的な笑みが浮かぶ。
どうしようもないことだ、とでも言うように。


「日常生活はまあ大丈夫なんだけど、アイドルやるには結構なハンデを背負ってるんだよ」

「トレーニングとかは?」

「体質的なものでさ、私が一歩進む間に普通の人は十歩進んじゃうんだよね」

本人はとっくに受け入れているのか、口調はむしろ軽かった。
けれどそれは、決して笑って話せる内容ではない。

「進んだ一歩を維持するのも一苦労だしさ」

「じゃあなんで……」

「アイドルになったかって? そこの人の口車に乗せられたんだよ」

「あんな状態のお前を放っておけるわけないだろ」

「うん………ありがと」

割って入ってきたぶっきらぼうな声。
声の主は苦虫を噛み潰したような顔になっている。

杏が笑っていられる理由は、そこにあるのかもしれない。
目の前の男性を見て、藍華はそんなことを考えていた。


「マンホームだとさ、そんなんでも何とかなっちゃうんだよね」

現在のマンホームでは、美観化とともに徹底した合理化も進められている。
そういう意味では、マンホームにおいて、体力的な問題はもはやハンデとなりえない。

「杏の場合はそれが災いして、全部諦めちゃったんだよ」

「夢も希望も、そのための努力も放棄して。俺は、あんな杏は二度と見たくないからな?」

「何にも感じないから、楽っちゃ楽だったんだけどねー」

「冗談でも怒るぞ」

「………ごめん」

そこには明らかな怒気が含まれている。
だからこそ、二人の絆が見えるようだった。


「……まぁ要するに、杏はまともに『生きて』なかったんだよ」

後悔、自責、嫌悪。
様々な感情が、噛み締めた唇の隙間から漏れている。

けれど、そんな負の感情の渦は笑顔とともに溶けていった。

「そんな時この人に見つかってね。俺が面倒見るから付いて来い、って」

大切な宝物を前にしたような笑顔。
藍華が知る中でも、一番輝いて見える笑顔だった。

「杏はてっきりプロポーズでもされたのかと思ったよ」

「……おい」

「でも、昔の杏を知ってたから放っておけなかったんでしょ、兄ちゃん?」

「兄ちゃんはやめろ」

「はいはい。わかったよ、プロデューサー」

からかうような表情と渋い表情。
二つの表情がじゃれあうように踊っていた。

「もしかして、二人って……」

「あー、うん。歳の離れた幼馴染ってやつ」

「単なる腐れ縁だ」

微笑ましいような、羨ましいような。
そんな二人の空気に、気付けば藍華も相好を崩していた。


「杏の小さい頃かぁ」

「どこにでもいる、普通の子どもだよ」

「アイドルに憧れる、な」

「そうなの?」

「まぁ、ね。色々あったけど、今の杏があるのはこの人のお陰かな」

信頼と感謝をのせて、杏が柔らかく笑う。
それを見るプロデューサーが目を細めている。

そんな二人を見つめる藍華の脳裏に、先輩の顔が浮かんだ。
形も違えば想いも違うのかもしれない。
けれど、こんな風にありたいと、そう思えたのだ。

「一度全部捨てちゃったし、ハンデもあるしで大変だけどね」

「染みついたサボり癖も抜けないしな」

「そっちはハッパかけてくれる人がいるから大丈夫でしょ」

茶化すような言葉に、すぐさま反論が飛ぶ。
気安いやり取りの中に、互いへの信頼が見えるようだった。


「だからさ、杏は杏のやり方で頑張るって決めたんだ」

少し羨望の色が滲む声で、懐かしい何かを見るような目で。
その言葉は藍華に届けられた。

「杏の……やり方?」

「激しいパフォーマンスは出来ない。歌一本で行けるわけでもない。じゃあどうするの、って」

その言葉に、ステージでの光景がフラッシュバックする。

杏のステージには不思議な引力があった。
他のアイドルと比べても、明らかに動きは少ない。
歌にすべてを込める、という風でもない。

ちょっとした仕草や、客席への声のかけ方。
そういったものが積み重なっていくうちに、双葉杏の世界へと引き込まれていくのだ。
小さな体で会場全てを掌握するようなステージ。
そこには、言葉では言い表せない何かがあった。

「結局は自分にできることをするしかないんだよ」

それは、いつかの言葉だった。
藍華の胸に淀んでいたものを吐き出した時、かけられた言葉だった。
そして藍華は、その意味をようやく理解した。

杏もまた、周囲との差という壁にぶつかっていたのだ。
そして彼女は壁に向き合い、答えを出した。

藍華にとっての杏が、歳の差以上に大人に見えたのは、だからなのかもしれない。


「ま、杏の場合は自分一人じゃ何もしなかったと思うけど」

軽く肩をすくめたあと、杏は改めて藍華と視線を合わせる。

「でも藍華は違う。悩んで、迷って。でも、頑張ることを止めなかった」

その瞳を彩るのは、羨望と親愛と。

「私にはできなかった」

悔恨だった。


「悔しいので、藍華をライバル認定したいと思いまーす」

「…………へ?」

さっきまでの真面目な雰囲気が一変していた。
真剣な表情は露と消え、だらけきった杏がそこにいた。

「照れてるんだ、察してやってくれ」

「プロデューサーは余計なこと言わない」

分かっているのかいないのか、プロデューサーがそんなことを言う。
杏の突っ込みを受けて口元が緩んでいるのを見るに、分かっていてやっているのかもしれない。

「……ぷっ、あはははっ」

堪え切れずに藍華が吹きだす。
その笑いはあっという間に残る二人も飲み込む。

狭いテントに、明るい声が満ちた。


「……はぁ。締まらないなぁ」

「それくらい力を抜いてる方がお前らしくていい」

「じゃあレッスンとか手加減してよね」

「それとこれとは話が別だ」

「ぶー、杏は週休八日を希望するぞー」

「週休八日って……」

「ほら、呆れられてるぞ?」

「わかってないなぁ、杏は褒められて、甘やかされて伸びるタイプなんだよ?」

深刻な雰囲気は微塵も残っていなかった。
真面目な杏は格好いいけど、やっぱりこっちの方が好きだな。

何の脈絡もなく、藍華はそんなことを考えていた。


「でも杏、私のライバルなんでしょ?」

「そうだな。自分の発言には責任を持って、行動で示さないとな」

「ぬぐっ。ここで二人が結束するとは……」

「私は負けないように頑張るけど、杏は?」

「そういうのはあんまりキャラじゃないんだけどなー…………まあ、杏も頑張るよ」

「よし。言質は取った」

プロデューサーが懐から手のひら大の機械を取り出す。
どうやら今の発言を録音したらしい。

「くっ、卑怯な!」

「何言ってんだ。わざわざ逃げ道を作ってやったってのに」

「あの……どういうことですか?」

「これがあれば、頑張らないといけないからな」

プロデューサーに脅されているから頑張らざるを得ない。
そういう言い訳として、録音機が機能するらしい。

「杏って、結構面倒くさい性格?」

「分かってくれるか」

「もー、二人で分かり合わないでよ」

「ふふっ」

杏は、口で言うほどには嫌がっていない。
その表情が如実に物語っている。

藍華の口から、笑いがこぼれた。


「私は、ウンディーネの一番星を目指して」

「杏はまあ、トップアイドル?」

「負けないからね?」

「ふふん、杏が本気を出せばあっという間だよ」

不敵な顔で言い放つ。
あながち冗談ではないと、藍華は感じていた。

体力というハンデを持ちながら、杏はあれだけのステージを見せてくれた。
その杏が、この先自身のハンデを克服したら。
見てみたいと、素直にそう思えた。

「楽しみにしてる」

「杏も。今度来たときは、一人前になった藍華のゴンドラに乗せてね」

「お客様として?」

「多分どっかで寝てるから見つけて欲しいな」

「トップアイドルなのに?」

「いいの。杏は働かないトップアイドルになるんだから」

「何それ」


互いに笑顔を交わし、どちらからともなく手を差し出す。
固く結ばれた手を通じて互いの想いを知る。

自らの才能に疑問を感じ、悩みを抱えた少女。
自分の限界を突き付けられ、一度折れた少女。

互いの存在が支えになるように、しっかりと胸に刻みつける。
その背中を、決して見失わないように。

目に見える何かがなかったとしても。
目の前に厳めしい壁が立ちふさがっても。

刻んだ熱が、前に進む力になるから。





<幕>

当初の想定より長くなってしまいましたが、以上で藍華の話はお仕舞いです
一つのお話としてちゃんと形になっていればいいのですが

お読みいただきましてありがとうございます
続く話にもお付き合いいただけましたなら幸いです



Navigation02 アクアマリンの瞳


アリス・キャロルは自己嫌悪に陥っていた。

その原因を紐解くと、今朝の合同練習にさかのぼる。

とは言っても、特別な何かがあったわけではない。
いつも通りと言えばいつも通りの練習。

視界に入るすべてに目移りするかのような灯里に呆れ。
的確なアドバイスをくれる藍華に感謝し。
離れ小島でカンツォーネの練習をした。

ただ、それだけ。


『後輩ちゃん、もっと声を出す!』

我知らず小さくなっていく声を、藍華に指摘される。
なぜ自分はこうなのか。
そんな疑問が頭をよぎった。

『アリスちゃん、素敵な声だよねー』

きっちり歌えているとは言い難い自分。
そんな自分にでさえ、灯里は輝くものを見ているようだ。
本当に、自分にそんなものがあるのだろうか。


藍華が真剣に考えてくれていることも。
灯里にまったく悪気がないことも。

そんなことは百も承知だった。
だからこそ、アリスは二人が好きなのだ。

けれどどうしても。
アリスは自分を表に出すということが苦手だった。
だから、思い切った声を出して歌うということができない。

二人が優しくしてくれるからこそ。
それに応えられない自分が不甲斐無くてたまらなかった。


***************************


「……ふぅ」

何気なくついた溜め息が、思いのほか大きく自分の耳を打つ。
思っていたよりも引っかかっているらしい。

どこか他人事のような感覚で、アリスは視線を上げた。

アリス・キャロル。
業界でも大手のオレンジぷらねっとに所属する見習いウンディーネである。


彼女はその存在がそもそも異例だった。
ミドルスクールに在学中でありながら、その腕を買われてスカウトされたという経歴。
見習いでありながら、一人前のそれに比肩するとも言われる操船技術。
そんなアリスは、本人の好むと好まざるとに関わらず、こう呼ばれている。

天才少女。

アリスは確かに、その名に恥じぬ実力を持っている。
そんな彼女に向けられるのは、羨望と、ほんの少しの嫉妬が混ざった視線だった。
そこに生まれる周囲との微妙な距離感。
それを彼女は、腫物扱いと受け取ってしまっている。

いつしかその孤独を、当たり前と受け止めるようになっていたころ。
そんなものを全く意に介さない人物の登場によって、彼女の世界は変わった。

すると今度は、そんな人たちへの感謝や親愛を素直に表せない自分に気付く。
自身のその不器用さが、悩みの種になっていた。


「なんででしょうか」

水路に伸びる航跡が揺れている。
主の心境をそのまま映すように。

別に、今日のカンツォーネに限った話ではない。
大きな声を出すとか、自分の心情を素直に表に出すとか。
そういったことがアリスは苦手だった。

恥ずかしい?

ふと浮かんだ心の声に、けれど首を振る。
間違いではないが正解でもない。
何となくそう感じられた。

「灯里先輩の方がでっかい恥ずかしいこと言ってますし」

明確な答えが出せないまま、ゴンドラは進む。
それもまた、いつも通りと言えばいつも通りだった。


――――――
――――
――

特に理由はなかった。
ただ何となく気が向いたからそうしただけ。

アリスはゴンドラを止め、それほど大きくはない広場に足を踏み入れる。
周辺に住む人の憩いの場となっているのだろう。
大きな老木と、その下にあるベンチが印象的だった。

買い物に出かける時間ではないが、子供たちが遊ぶにはいい時間のはずなのに。
なのに、誰もいない。

緩やかに吹く風を感じるだけで、物音がしない。
降り注ぐ日の光が視界を白く染める。
日陰とのコントラストが妙に目に残った。


どこからか漂う奇妙な雰囲気。
時間の感覚が分からなくなっていく。
まるで、幻の中に迷い込んでしまったような……

そんなことを考えていると、脇の小道から人影が一つ現れた。

「あの……」

この非現実的な考えを振り払いたかったのか。
言い様のない不安から逃げたかったのか。

ともかくアリスはその人物に声をかけた。
それは、人見知りする彼女には珍しいことだった。

「はいです?」

しっかりとした返事が返ってきたことに安堵する。
そしてすぐに自分の子供じみた想像が恥ずかしくなった。

「い、いえ……」

そこでアリスの言葉が途切れる。


腰のあたりまで伸びた、柔らかそうな金髪。
寮で同室の先輩を思わせる、褐色の肌。
そして何より目を引いたのは、その瞳の色。

アクアマリンという宝石がある。
それは海の女神の象徴として、航海のお守りとされていた。
ウンディーネは、それと同じ青い瞳を持つ猫を店の象徴とし、仕事の安全を祈願している。

目の前の少女は、まさにそのアクアマリンの瞳を持っている。
吸い込まれるようなその瞳に、アリスは釘付けになっていた。

「どうかしましたですか?」

丁寧で、のんびりとしていて、それでいてどこか抜けているような口調。
ふんわりと響いたその声に、アリスは我に返った。

「あ、いえ、すみません。別に何か用があったわけでは……」

「おー、そうなのですか。では、わたくしからお聞きしたいことがあるのでございますが」

「……えと、どうかしましたか?」

いつの間にか、神秘的な雰囲気が消え去っている。
残されているのは、人懐こい表情。
その特徴的な話し方も相まって、ひどく親しみやすく感じられた。


「わたくしはここに行きたいのでございますよ」

そう言って手に持った地図を示す。
どうやら手書きのようだ。
残念ながら、ネオ・ヴェネツィアの複雑な地理の前には無力なようだったが。

「住所は分かりますか?」

「あー、それでしたらこちらに書いていただきましたですねー」

「見せていただいても?」

「はいですよ」

メモを受け取り、地図と見比べる。
どこをどう間違ったのが、目的地は真逆の方角のようだった。

「お分かりになりますですか?」

「……はい、大丈夫です」

「おー、スゴイでございますねー」


示された目的地は、ありふれた小道の一角だった。
今の場所から案内するのは、地元の人でも一苦労だろう。

でも。
ウンディーネとしての知識がある自分なら、大丈夫。
趣味の散歩で色んなところを巡っている自分なら、大丈夫。

何となく、それが嬉しかった。

「説明するのも難しいので、どうぞ乗ってください」

「乗る……でございますか?」

アリスは傍らに止めてあるゴンドラを指さす。
何故、という疑問も浮かんでは来なかった。
それが当然だと、そう思ったのだ。

その感じ方は、少し前までのアリスとは違っている。
本人にその自覚はなかったが。


「ええ。これでもウンディーネの端くれですので」

「おー、ご親切にありがとうございますですよ」

花が咲くような笑顔で答えた少女が、目を見開く。
少しだけ真面目な色を帯びた瞳がアリスを射抜いた。

「申し遅れましたです。わたくし、マンホームから来ましたライラさんと申しますですよ」

「ライラさんですか。私はアリスと言います」

「アリスさん……素敵な名前でございますねー」

「……あ、ありがとうございます」

アリスの瞬きの回数が増えた。
やがて、その口元がわずかにほころんでいく。

ライラは相変わらずニコニコと笑っている。
唇の隙間からのぞく白い歯が印象的だった。


「ですが、一つ問題がありまして」

「何でございましょうか」

「私はまだ見習いなので、お客様をお乗せできないんです」

初対面の相手なのに、それほどの抵抗を感じてない。
その理由が、朧げながらに掴めたような気がしていた。

「ですので、ライラさんは私の練習に付き合ってくれる友人ということで」

「おー、アリスさんとライラさんはお友達でございますか」

アリスには、ライラがとある人物に重なって見えていた。
不思議な魅力があって、でもどこか間が抜けていて。
一緒にいると妙に居心地がいい、そんな先輩ウンディーネ。

水無灯里に。

「それではライラさん、お手をどうぞ」

だからこんな風に接することができるんだろう。
特別な人に、どこか似ているから。

そんなことを考えながら、ライラをゴンドラに導く。

「ありがとうございますですよー」

アリス自身にも、変化の兆しは見えている。
ただ、本人が気付いていないだけで。


***************************


時間の重みを感じさせる木製の扉。
飴色になるまで人々と触れ合ってきたドアノブ。
路地裏にひっそりと佇むその建物には、優しく落ち着いた存在感があった。

「ここ、のようですね」

「おー、聞いていた通りのお店でございますねー」

「無事に着けてよかったです。では、私はこれで」

「アリスさん、せっかくですのでご一緒しませんですか?」

踵を返そうとしたアリスを、その一言が引き止める。
声の主は笑顔だった。

「ライラさんは送っていただいたお礼がしたいのですよ」

押しつけがましさの欠片もないのに、その言葉には抗いがたい力がある。
アリスには、そこに込められた気持ちを蔑ろにできなかった。


耳に心地よいドアベルの音が響く。

店内は、まさに楽園だった。
少なくともライラにとっては。

「ジェラート屋さんだったんですね」

「おーーーーっ、素晴らしいでございますねーー」

アリスの確認に答えはなかった。
子どものように瞳を輝かせたライラは、ショーケースに吸い寄せられていく。
もし彼女に尻尾が生えていたのなら、ちぎれんばかりに振っているに違いない。


店内にはテーブルセットが数脚あり、そのうちの一つに先客がいた。
近所の主婦が二人、昼下がりのお喋りに興じているようだ。
その内の一人と目が合う。
その視線がアリスの背後に移ると、驚いたように口を開いた。

「あら、ライラちゃんじゃない」

「ほぇ?」

差して大きくない声でも、静かな店内では十分に届いたようだ。
我を忘れてショーケースに噛り付いていたライラが振り返る。

「さっそく来たのね」

「えへへー、ライラさん我慢できませんでしたですよ」

「迷わなかった?」

「あー、しっかり迷子になってしまいましたです」

照れるように笑いながら、ライラが答える。
悪戯を咎められた子供のようだった。

「ほら、やっぱりあなたの地図じゃ無理だったのよ」

「そんなこと言ったって……」

話の矛先が婦人の連れに向けられる。
あれこれと言い合いが始まってしまった。


一方のアリスは、突然の会話に取り残されていた。
話の流れからすると、ライラとこの二人は面識があるようだ。
この店のことも、二人から教わったらしい。

それは薄々伝わってくるのだが、その接点が分からなかった。

マンホームから来たライラと、明らかに地元民の二人。
それがなぜこうも親しげなのだろうか。

「でも、お陰様でアリスさんとお友達になれましたですよ」

たった一言。
それが、喋り続ける二人に沈黙を提供し、一人で思い耽っていたアリスを現実に引き戻した。

もっとも、二人の沈黙はすぐに破られたが。

「もー、ライラちゃんってほんっといい子ねー」

「あなたがアリスちゃん?」

「なんとアリスさんはウンディーネさんなのでございます」

「へー、可愛らしいウンディーネさんね」

「その服、ひょっとしてオレンジぷらねっとじゃない?」

飛び交う言葉を前に、アリスはただ立ち尽くしていた。
何か答えなければ、と思っているうちに話題が別の方向へ飛んで行ってしまうのだ。

ただ、のんびりして見えるライラが、平然と会話に加わっている様が不思議だった。


――――――
――――
――

「バニラとイチゴ、どちらになさいますですか?」

「……イチゴでお願いします」

「はいですよ」

ニコニコ顔のライラとは対照的に、アリスは憔悴していた。
先客の二人は喋るだけ喋って満足したのか、すでに店を後にしている。

アリス自身は何もしていない。
止むことのない言葉の奔流に圧倒され続けただけだ。
結果、アリスは謎の疲労の真っただ中にいる。

「でも、本当に奢ってもらっていいんですか?」

「いいのですよ。これはお礼でございますので」

いつまでも疲れた顔をしてはいられない。
そう思い直して話しかけると、ライラの柔らかい笑顔が返ってきた。

「それに美味しいものを二人で食べると、幸せが二倍になるのですよー」

そのお日様のような表情に、アリスが言葉を失う。
アリスがライラに感じていた、灯里の面影が薄くなっていく。

それはアリスが、ライラという個人と向き合い始めたという証拠だった。


「それでは、いただきますですよ」

「いただきます」

「えへへー、幸せでございますー」

頬に手を当て、感動の息を吐く。
その仕草には何の飾りもなく、つられてアリスの表情も柔らかくなっていった。

「ライラさん、少し交換しませんか?」

「おお、いいのですか?」

「はい。そちらの味も気になります」

自然にそんなことを言う自分に、アリス自身が驚いていた。
会って間もない相手にこうも気を許すというのは、滅多にないことだった。

それだけライラが特別なのだろう。
その時にアリスはそう考えていた。

「おー、イチゴも美味しいですねー」

「ええ。実に良い仕事をしています」

「二人で分けて、幸せ二倍でございますねー」

「はい。でっかい二倍です」

それは、アリスがその日初めて見せた、年相応の笑顔だった。


***************************


ミドルスクールからの帰り道、アリスは裏道を歩いていた。
なぜなら、それが今日の自分ルールだから。

アリスは、水先案内業界では天才少女と言われている。
そんな彼女は、学校から会社の寮まで自分で決めたルールを守って帰る、と言う遊びをしている。
彼女曰く、ルールは絶対であり、難しいほど燃える、だそうだ。

今日のルールは、分かれ道では狭い道に入る、というもの。
わざわざこんな面倒くさいルールになったのは、先日の出来事が色濃く影響している。

アリスは散歩を趣味としており、街の様々なところを巡っている。
けれど、ライラを案内した場所のことは全く知らなかった。
当然と言えば当然のことなのだが、それが悔しかったらしい。

存外子供っぽいところがある。


「ここは……右ですね」

初めて通る小道が、馴染み深い表通りに繋がっていたり。
今まで気づかなかった、可愛い小物を扱っている店を見つけたり。
見知っていたはずの街が、新しい表情を見せてくれるようだった。

傍から見ると、単なる散歩にしか映らないのだが。
当の本人は、ちょっとした冒険をしている気分だった。

だがしかし、そんな回り道を繰り返していれば、当然ながら時間がかかる。
既に日は傾きはじめ、空の色が変わり始めていた。

ちょうどそんな時、歌が聞こえてきた。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm18188546


アリスの足が無意識に動く。
歌に誘われるように。
小さく切り取られていた空が、急に大きくなった。

嬉しそうに、楽しそうに。
幸せな喜びに満ちた光景が広がっていた。

おそらく、近所の人々なのだろう。
小さな男の子も、赤子を抱いた母親も。
杖を曳く老人も、スーツ姿の青年も。
それぞれに笑顔の花を咲かせていた。

その輪の中にいたのは、初めて見る見知った顔。
神秘的な雰囲気を纏い、親しみやすい無邪気な笑顔を浮かべたライラだった。

ライラは自由だった。

手拍子に応えて即興の踊りを披露し。
はしゃぐ子ども達と一緒になって歌い。
全ての人と手を取り合って、幸せを分かち合っていた。


――――――
――――
――

空が一面、茜色に染まっている。
ライラは最後まで残っていた幼い姉妹に手を振っていた。

「ライラおねえちゃん、またねー」

「またねー」

「はいですよ。またお会いしましょー」

アリスは少し離れたところから、そんなやり取りを見守っていた。
アクアマリンの瞳が、所在なく佇む人影を捉える。

「おー、アリスさん」

「ど、どうも」

「またお会いしましたですねー」

丁寧で、のんびりとしていて、それでいてどこか抜けているような口調。
それは、アリスがよく知るライラだった。


「今日のアリスさんはウンディーネさんではないのですねー」

「ええ。今日は学校でしたので」

「制服のアリスさんは可愛らしいのでございます」

「…………へ?」

「ウンディーネさんの時は格好良かったのですよ」

「あの……」

「ライラさんも、あの素敵なお洋服を着てみたいですねー」

ライラの顔には何一つ含むものは浮かんでいない。
思ったことをありのままに口にしているのだろう。

それが、余計にアリスを混乱させた。


「そ、そういえば!」

照れと恥ずかしさと、そのほかよく分からない感情でアリスの頭がいっぱいになる。
それでも、なんとか話の方向を変えようと回らない頭で考えた結果。

「ライラさんって、何をされているんですか?」

咄嗟に出たのは、そんな質問だった。
気にはなっていても、何となく言い出せなかったことが言葉になっていた。

ライラと出会うのは、なぜか観光名所でもなんでもない街中。
観光客というには、それはちょっと普通ではないだろう。
そういう旅行、という可能性もあるのだろうが、それにしては旅慣れている様子はない。

そして何より、先ほどの出来事。
そこには歌が好き、踊りが好き、というだけでは説明できない力があった。

「ライラさんはアイドルなのですよー」

「アイドル?」

「はいです。ステージで歌ったり踊ったりするのです」


空に、ほんの少し紫色が混ざり始めていた。
広場にあるベンチに腰掛け、嬉しそうなライラの話が続く。

「皆さんに幸せをお裾分けできる、とても素敵なお仕事なのでございますよ」

「ということは、アクアには仕事で?」

「はいです。プロモーションビデオの撮影なのですよー」

それがどういうものなのか、アリスには今ひとつピンとこなかった。
けれど、目の前にある柔らかい笑顔が何より雄弁に物語っている。

ライラにとってのアイドルというものが、自分にとってのゴンドラと同じ存在なのだと。

「ライラさんは、どうしてアイドルになったんですか?」

「プロデューサー殿にスカウトされたのですよ」

質問に答える口調は、実に軽いものだった。

曰く、父親に結婚を強いられ、それが嫌で家出した。
曰く、近くにいてはすぐ捕まるので、国外逃亡することにした。
曰く、家出には成功したが、仕事で失敗して家賃が払えなくなった。
曰く、とりあえず野宿しようとしたら、声をかけられた。

何故そんな深刻な内容を明るく話せるのだろうか。
信じられない思いで顔を上げても、そこにあるのはのんびりとした笑顔だった。


「……なんで」

疑問、驚き、義憤。
そのすべてが含まれていて、そのどれでもない感情。
そんな得体の知れない強い感情に突き動かされて、アリスの口から言葉が漏れる。

「なんでそんな風に笑っていられるんですか?」

「うーん、そうでございますねー」

視線を外して、ライラは空を見上げる。
紫色の気配が少しずつ強くなって、夜の足音が聞こえるようだった。

「全部つながっているから、でございましょうか」

「つながっている?」

「確かに嫌なこともありましたです。でも、それがなければ今ここにはいないと思うのですよ」

苦みを伴う懐かしさと、不安を伴う自由。
箱の中での恵まれた生活と、大空の下での薄氷を踏むような生活。
そのどちらにもあった喜びと悲しみ。

全てを肯定して、ライラは笑みを浮かべる。

「それに、こうしてアリスさんとお友達になれましたので、問題ないのです」

微塵の屈託もない笑顔だった。
呆れるほどに前向きで、けれど、それがライラらしいと頷いてしまうような。


「ライラさんはすごいです」

「そうでございますか?」

「はい。でっかい尊敬です」

「えへへー、なんだか照れますですねー」

ついさっきまで大人びた表情をしていたライラが、無邪気に笑っている。
それもまた彼女の魅力の一つなのだろうと、自然と腑に落ちた。

「でもライラさん。アイドルの仕事はいいんですか?」

「はいです?」

「お仕事とは関係ないところでばかり会っている気がしますが」

「あー、これは空いた時間でお散歩なのですよ」

照れたようにライラがはにかむ。

「いろんな人に出会って、お話をして。ライラさんはそういうのが幸せなのです」

「幸せ、ですか」

「はいですよ。そうやってもらった幸せを、アイドルのお仕事でみんなにお返しするのです」

ベンチから立ち上がり、二歩三歩と前に進む。
振り返ったライラは、夕日を受けて輝いていた。


「幸せは、みんなで分けると何倍にもなるのですよ」

それは、すべてを肯定する笑顔だった。
嬉しいこと、楽しいことを分かち合いたい。
その、たった一つの想いがライラを支えている。

辛いことや悲しいことも受け入れて、より大きな幸せを芽吹かせるために。
ありのままの自分で前へと進んでいく。

どうすればそんな風に考えることができるのだろうか。
ただ強いだけでは到底たどり着けない場所に、ライラがいる気がした。

アリスには、それが眩しく見えて仕方なかった。

「でっかいすごいです」

「ほぇ?」

「ライラさんは、でっかいすごいです」

見え隠れするのは憧れと羨望とわずかな自嘲。

気軽に人の輪に飛び込んでいくことも。
肩肘張らずに誰かと付き合うことも。
そんなこと、到底できない。

自分が他人にどう思われているのか。
そんなことも怖くて確かめられないのに。

怖い。

あくまで自然体のライラを前にして、アリスは気付いていた。
自分は怖いのだ。
正直な気持ちを表に出すことが。

それを他の人がどう受け止めるかわからないから。
いつも傍にいる孤独が、いつの間にかアリスにそう思わせていた。


飲み込んだ弱音が、アリスの瞳を揺らしていた。
そんなアリスを見たライラの眉が、はっきりと八の字になる。

「ライラさんは、特別なことをしているつもりはないのですよ」

見上げたライラの視線の先では、太陽が沈む準備を始めていた。

アリスの表情になぜ影が差すのか、はっきりとは分かっていなかった。
けれどそれは、ライラにとっては何の足枷にもならない。

分からないから言葉を交わし、分からないから知ろうとする。
知りたいから、ありのままの自分を示す。
いつも、そうしてきたのだから。

「自分の心に従っているだけなのでございます」

そして、目の前の誰かが応えてくれたなら。
ライラにとってそれは、何物にも代えがたい幸せだった。

「きっと、アリスさんも心に素直になればいいのですよ」

人はそれぞれに違う。
自分が当たり前にできることが、他人にとってはそうではないかもしれない。
そんなことは百も承知で、それでも伝えたかった。


視線を戻して歩み寄る。
眉間に寄ったしわは、すっかりほぐれていた。

手袋をはめた手に、褐色の手が重ねられる。

「わっ」

手に力が加わったかと思うと、アリスもまたベンチから立ち上がっていた。
突然のことに目を見開くと、視界いっぱいの笑顔。

「それだけで、たぶん大丈夫なのでございます」

なぜ笑顔を浮かべるのか。

嬉しいから、楽しいから。
幸せを感じているから。

そして、笑顔になって欲しいから。


「わたくしが知っているアリスさんは、とっても素敵な方でございますから」

笑顔だけで伝わらないのなら。
生まれたままの気持ちも一緒に。

それが、ライラにできる精一杯だった。

「……ライラさん」

「はいです?」

「でっかい恥ずかしいセリフです」

アクアマリンの瞳に、笑顔が映る。

果たしてライラの想いが伝わったのかどうか。
それを知るのは、アリスただ一人だけ。

手渡された想いをどうしていくのか。
それを決められるのも、アリスただ一人だけ。

穏やかに咲いた二輪の花を、その日を締めくくる光が照らしていた。




<幕>

アリスの話は以上でお仕舞いです
藍華の話と、次の話に比べて少々短めになってしまいました。

お読みいただきましてありがとうございます

なお、次の話は来週くらいには投下できるようにしたいと思います
併せてお付き合いいただけましたなら幸いです



Special Navigation エンドレス・ワルツ


あずさ「あらあら」

アリシア「あらあら」

晃「あらあら禁止っ!」

あずさ「うふふ」

アリシア「うふふ」

晃「うふふも禁止ーっ!」

あずさ「あらあら」

アリシア「うふふ」

晃「………………」

晃「すわーーーーーっ!」

アリシア「あらあらあらあら」

あずさ「うふふふふふ」





アテナ「…………みんな楽しそう」

律子「…………そう、なの?」


<D.C.>

修正に手間取っております
ARIAとのクロスを考えて真っ先に浮かんだネタでお茶を濁させてください

閑話休題



Navigation03 ありのままで


水無灯里は悩んでいた。

その原因を紐解くと、今朝の合同練習にさかのぼる。

とは言っても、特別な何かがあったわけではない。
いつものように三人で集まって。
いつものように練習をしただけ。

二人をお客様に見立てての観光案内。
入り組んだ流れの中での操船練習。

知り合いに会うたびに挨拶を交わして。
移り変わるネオ・ヴェネツィアの表情に心を奪われ。
その度にアリスに呆れられ、藍華にたしなめられた。
そして、締め括りとして離れ小島でカンツォーネの練習をした。

ただ、それだけ。


『灯里先輩、でっかい楽しそうです』

アリスはただ見たままに呟く。
嬉しそうな、羨ましそうな、そんな胸の内が滲み出るような声だった。

『それはいいんだけど。灯里、あんたはもうちょっと技術的なものをね……』

一方の藍華は、厳然として横たわる課題に言及する。
それが藍華の優しさであることは、誰に言われずともわかっていた。


それは、以前にも言われていたことだった。
自分なりに練習もして、少しずつではあるが手応えも感じている。
でもどうしても気移りしてしまうのだ。

精神的に未熟と言ってしまえばそれまでの話である。
けれど同時に、それこそが灯里らしさであり、彼女の魅力でもある。
だからこそ二人も、仕方がないという顔こそすれ、怒りはしないのだ。

でも、本当にこのままでいいのか。
そのことが少し、引っかかっていた。


***************************


「うーん」

伸び始めた自分の影が首を傾げている。
ゴンドラの舳先が、迷うように揺れていた。
合同練習を終えてから幾度目の光景だろうか。

「どうすればいいんでしょうか、アリア社長?」

「ぷい?」

答えたのは白い火星猫。
アリアは、灯里が所属するARIAカンパニーの社長である。
その青い瞳が灯里を捉えた。


「ぷいにゅ」

ポンポンと。
励ますように灯里の足を軽く叩く。
火星猫は話すことこそできないが、言語を理解する人間並みの知能を持っている。
だから、アリアはアリアなりに灯里に応えたのだろう。

たったそれだけで、灯里は自分の心が軽くなるのを感じた。

「あはっ、ありがとうございます」

焦る必要はない、少しずつでいいんだと。
言葉は通じなくとも、心はしっかりと伝わってきた。

オールを掴み直し、水面に差し込む。
真っ新な水面を行くゴンドラを、真っ直ぐな航跡が追いかけてきた。


「アリア社長、ちょっと寄り道しますね」

「ぷいにゅ!」

気分転換を兼ねて、回り道を選ぶ。
何か素敵なものに出会えるような、そんな予感がしていた。

もっとも、藍華あたりに言わせると、灯里は何でもかんでも素敵に捉えてしまうらしい。
マンホームからやってきたというのも一因だろうが、本人の感性によるところが大きいようだ。

ネオ・ヴェネツィアの街の外れ、とある小島に差し掛かった時だった。

歌が、聞こえてきた。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm20817819



どこまでも響き渡るような澄んだ歌声。
その歌声には、どこか物憂げな色が漂っているようにも思えた。

灯里の乗るゴンドラがその小島に引き寄せられる。
半ば無意識に小島に降り立ち、歌声の下へと足を運ぶ。

小さな丘の上に一軒の小屋と風車が建てられていた。
歌声の主は、回る風車の向こうで海に向かって歌っている。

夕日に輝く海を前にするその姿はまるで。

「まるで、物語から抜け出てきたみたい……」

ポツリとこぼれた呟きは、風に乗って飛ばされていった。

短いですが本日はここまで
ようやく、作業に目途が立ったような気がしています

お楽しみいただけたなら幸いです


――――――
――――
――

歌声の主は少女だった。
整った顔立ちにスラリと伸びた手足。
腰まで伸びた艶やかな黒髪は、やや青みがかった色をしていた。

灯里に向かって、正しくは小屋に向かって進む少女と目が合う。
灯里は歌の余韻で声も出なかった。
口を開け、パチパチと瞬きを繰り返す。

束の間の沈黙。
それを破ったのは、少女の怪訝そうな瞳と。

「誰?」

不審と警戒が等しく混ざり合った声色だった。


灯里が呪縛から解放される。
そして自分が、不躾な訪問者であることを理解した。

「ご、ごめんなさいっ!」

勢いよく、けれど誠意を込めて頭を下げる。
自分の存在が彼女の世界を壊してしまったのではないか。
そんな考えが灯里の頭をよぎる。

「私、水無灯里って言います。その、すごく綺麗な歌声が聞こえてきて、それで……」

「そう」

灯里の弁解は、短く無感動な言葉に遮られた。
少女は視線を切ると、その足を小屋の方へと向け直す。

例え灯里が招かれざる客だったとしても。
少女の態度も、お世辞にも褒められたものではない。

「あ、あの!」

勇気を振り絞って声を出す。
けれどその声も、少女の足を止めるには至らなかった。


まるで空気に重さがあるような。

「ぷいにゅーっ!」

一足先に夜が来たかのような空気を、素っ頓狂な声が切り裂いた。
あまりにも場にそぐわないその声が少女の足を止める。

そういえばゴンドラに置いてけぼりだったような……

駆け寄ってくる白い影を見ながら、灯里は今更思い出していた。
一つのことに夢中になると他が見えなくなる、悪い癖が出たようだ。

「ぷ、ぷい……にゅうぅ」

「はわわ、ごめんなさいアリア社長」

目に涙を浮かべたアリアが、一直線に灯里の元にやってくる。
迎えるように手を広げた灯里がアリアを抱きとめた。

「にゅっ、にゅっ」

「本当にごめんなさい」

相当に寂しかったのだろう。
しがみついて離れない白い背中を、優しく撫で続けた。


言葉もなくその光景を見つめる少女。
灯里に向ける瞳に、初めて感情の色が乗っていた。

やがて落ち着きを取り戻したアリアが、傍らの少女に興味を示す。
琥珀色の瞳に、好奇心に満ちた青い瞳が飛び込んできた。

「……この猫は?」

その妙に人間臭い仕草が、少女の口を開かせた。

「アリア社長です」

「アリア…………社長?」

名前の後に付けられた社長という肩書に、少女が困惑の表情を浮かべる。

ウンディーネは、青い瞳を持つ猫を店の象徴として仕事の安全を祈願する。
彼女はその習慣を知らない、ということだ。

それはつまり、少なくともネオ・ヴェネツィアの住人ではないということを示している。


「はいっ、我がARIAカンパニーの社長です!」

「ぷいにゅっ!」

胸を張る灯里と、それに合わせてしきりに頷くアリア。
嘘を言っているわけではないらしい。

そんな理解が少女の頭に閃いた。
同時に、当然ともいえる疑問も。

「どういうことかしら?」

「あ、えっとですね…………」

目の前の少女と普通に会話が出来ている。
たったそれだけのことが、灯里にはたまらなく嬉しかった。

アリアのお陰、なのだろう。
少女の顔からは警戒の色が消えていた。


「…………そうなの、変わってるわね」

「えへへ、私も最初はびっくりしちゃった」

「最初は?」

「あ、私、ウンディーネになるためにマンホームからこっちに来たんだ」

「……そうだったの」

他愛のない会話の最中、少女は不意にハッとした表情を浮かべる。
まるで、忘れ物に気付いたような。

「ごめんなさい。私、自己紹介もしてなかったわね」

声のトーンを少し下げ、申し訳なさげに言葉を繋ぐ。

「私の名前は如月千早。あなたを同じマンホーム出身よ」

「へー、千早ちゃんかー。なんだか格好いい名前だねっ」

「にゅっ!」

笑顔の灯里と、それに同意するように手を挙げるアリア。
そのアリアの振る舞いがユーモラスで、千早の表情がわずかばかり緩む。


どこかほんわかとした空気に、千早の心も少し柔らかくなっていたのだろうか。
彼女は言うつもりもないことを口にのぼせていた。

「こっちへは観光……ではないわね。休養に来た、というところかしら」

そこまで口にして、千早はぎこちなく視線を切る。
ついさっきまでのそれとも違う、どこか気まずげな表情。

なぜそんなに顔で俯くのか。
ついさっき名前を知ったばかりの灯里にうかがい知ることはできない。

「……ごめんなさい」

取り繕うような声だった。


丘を吹き抜ける風に、夜の気配が感じられる。
見上げた空には、気の早い星が瞬き始めていた。

「ううん。こっちこそ、急にお邪魔しちゃってごめんなさい」

アリアを抱き上げ、灯里は笑みを浮かべる。
アリアは、自分を抱くその腕がいつもより少しだけ強張っているのを感じていた。
青い瞳に映る少女は、それでもいつものように笑っている。

「また……来てもいい、かな?」

これで終わりにしたくはないという、灯里の意思表明だった。

琥珀色の瞳が見開かれる。
瞳の奥で揺れているのは、驚きと、戸惑いと。


千早にも、自分が壁を作っているという自覚はあるのだろう。
彼女の経験上、こんな態度を取られて、なおも踏み込んでくる相手は数えるほどしかいなかった。

「なんで……」

自分の意思とは関係なく、言葉がこぼれた。
灯里はその小さな呟きをしっかりと拾い上げる。

「同じマンホーム出身で同年代の人と、アクアで知り合えたのが嬉しくて」

灯里は想いをそのまま声にする。
何一つ飾りのない真っ直ぐな言葉が千早を打つ。

「こんな風に出会えたのって、すっごく素敵なことだと思うんだ。だから」

その真っ直ぐすぎる言葉に、千早の頬がわずかに染まる。
見開かれた瞳が次に捉えたのは。

「お友達になれたらなって」

その日一番の輝きを見せる笑顔だった。


***************************


翌日の昼下がり。
また、風に乗って歌が聞こえていた。

透き通るような歌声。
心に響く切ないメロディ。
そこには、聞くものを惹きつけずにはいられない力があった。

それがどれだけ素晴らしいものか。
自身もカンツォーネを練習中の灯里には、身にしみてよく分かった。

けれど。

その歌声の向こうには、昨日硬い表情をしていた千早がいるような。
そんな気がしていた。

「何があったんでしょうね、アリア社長」

「ぷい?」

特に答えを期待しているわけではない、ただの独り言だった。


自分にできることなんてないのかもしれない。
それはただのお節介で、迷惑に思われるのかもしれない。

そんなことは承知の上で、それでも灯里は思ってしまった。

楽しそうに歌う千早が見たいと。
笑っている千早が見たいと。

「まずはお話してみないと、ですよね!」

「ぷいにゅっ!」

そんな灯里を励ますように、アリアが力強く頷く。

ゴンドラを降り、歌声に向かって歩みを進める。
今度はアリアと一緒に、しっかりと足を踏みしめて。


目指す少女は、今日も海に向かって歌っている。
長い髪を風に任せて一心に歌うその姿は、何かに捧げているように映った。

歌声が過ぎ去った丘に、ぱちぱちと手を打つ音が響く。
振り返った千早の瞳に映ったのは、昨日言葉を交わした少女の笑顔。
その傍らには、彼女をまっすぐに見つめる青い瞳。

「こんにちは、千早ちゃん」

「ええ。こんにちは、水無さん」

「ぷいにゅ!」

「アリア社長も」

あたたかな風が丘を吹き抜ける。
丘の上は柔らかな日差しに包まれていた。


「本当に来たのね」

「ひょっとして……迷惑だった?」

「いいえ、これといってすることもなかったから」

そっけない物言いだったが、その表情は幾分柔らかかった。
膝を折った千早がアリアと目線を合わせる。

「アリア社長も、ありがとうございます」

「ぷいっ、ぷいっ」

アリアがイヤイヤをするように首を振る。
助けを求めるように隣を見上げると、灯里がおかしそうに笑っていた。

「アリア社長は、もっと普通に話して欲しいみたい」

「……そうなの?」

千早にしてみれば、猫とはいえ社長。
だから灯里に倣って丁寧な言葉遣いをしたのだが。

「アリア社長、千早ちゃんとお友達になりたいんだよ」

「……私と?」

「ぷいにゅっ!」

視線を戻すと、アリアが大きく頷いていた。


千早は、他人との距離の取り方が下手だった。
どうやって踏み込んだらいいのか分からないから、一歩引いてしまう。
自信が持てないから、壁を作ってしまう。
そんな千早だから、心を許せる相手はそう多くはなかった。

だからこそ、驚いていた。
少し言葉を交わしただけの相手が、こんなにも無造作に距離を詰めてくることに。

一方で、嬉しくもあった。
目の前にあるのは打算も何もない、開けっ広げな好意だと分かったから。

「ふふ。こちらこそよろしくね、アリア社長」

千早の頬を微笑が彩る。
返事代わりに飛びついたアリアを支え切れず、千早は地面に倒れ込んでいた。


――――――
――――
――

「観光案内?」

「うん。千早ちゃんがよければ、練習に付き合ってもらえないかなって」

「まあ………構わないけれど」

「ホント!? やったぁ!」

「そんな大げさな」

「ううん。千早ちゃんとなら楽しそうだなって」

「練習なのに?」

「うん。どうせなら楽しいほうがいいよね」

「……水無さんがそれでいいなら、まぁ」

「だよねっ」

少々含むところがありそうな千早の言葉も、灯里には影響がないようだった。
というより、灯里の頭の中は別のことでいっぱいだった。

この機会にネオ・ヴェネツィアのことを好きになってもらいたい。
せっかく知り合えたんだから、楽しい思い出を作りたい。

灯里は、そんなことを考えていた。


「それじゃあお願いするわね、ウンディーネさん?」

何やら意気込んでいる灯里に声をかける。
その提案が純粋に練習の為ではないことは、薄々気づいていた。

ただ、ここに至るまでの灯里に裏表がないことも分かっていた。
だから、これは純粋な好意なのだろう。
それを無下にすることは、できそうもなかった。

「はひっ、お願いされました」

胸を叩く灯里の姿に、千早の口元に微笑が滲んだ。


***************************


「右手に見えますのがマルコポーロ国際宇宙港で――」

日頃の修行の賜物というべきだろう。
灯里の観光案内は、なかなかに堂の入ったものだった。
観光らしいことは何もしてこなかった千早にとっては、文句のつけようがない。

「……人は見かけによらないものね」

小島の出発した時は、まだいつもの灯里だった。
ところが、営業モードで案内を始めるや、印象がガラリと変わる。

特段振る舞いが変わったというのではないのだが。
ゴンドラを漕ぐその姿に、一本の芯が通って見えた。

「にゅ?」

そんな千早の独り言を、膝の上で聞いていたアリアが顔を上げる。

「水無さんって、立派なウンディーネさんなんですね」

「ぷいにゅっ!」

アリアの返事は弾んでいた。
自らの社員を誇るように。
あるいは、家族を自慢するように。

そんなアリアの様子が、千早の心に波紋を投げかける。


いつも近くに感じているあたたかさと、届くことがない懐かしさ。
両方に手を伸ばすには、千早はあまりにも不器用で。

その選択に後悔はないけれど。
時折、後ろ髪を引かれる思いが去来する。

だから今、千早はこうしてアクアにいる。

「ほへ? どうしたの?」

ほんの少し零れた心の揺らぎを、灯里が掬い上げていた。
今の今まで案内を続けていたのに、である。

不意打ちのような問いかけに驚きつつも、千早は無意識に誤魔化していた。
穏やかで優しいこの時間を壊してしまいたくないと、そんな風に感じたのかもしれない。

「水無さんは十分一人前として通用するんじゃないかしらって、ね?」

「ぷいっ」

「ふぇ!? そ、そんな、私なんてまだまだで……」

顔を真っ赤にした灯里がワタワタと手を振っている。
隠しきれない嬉しさと恥ずかしさが溢れていた。

その一方で、その瞳はどこか遠いところを見つめているように感じられた。
灯里が目指す憧れの対象は、はるか高いところにある、ということなのだろう。


眩しく映る灯里の姿に、なぜか悪戯心が湧き上がってきた。

「……そういえば、知り合いに会うたびに案内が途切れていたような」

「そ、それはその……」

途端に灯里がシュンとなる。
自分で練習に付き合って欲しいと言い出したのは自分なのに。
それなのに、相手を置いてけぼりにしてしまったと。

そんな心の声が顔に書いてあるようだった。

「まあ、上辺だけじゃないネオ・ヴェネツィアが見られて、私はいいと思うけれど」

予想外に大きな反応を引き出してしまったことを取り繕うような言葉だった。

ただ、それは千早の本心でもあって。

灯里が交わす短い会話の中には、ネオ・ヴェネツィアの日常があった。
ただ名所を回っているだけでは知ることのできない、生きた暮らしがあった。
そんな人々の息遣いを少しでも感じられたことを、どうしてか嬉しく感じていた。

「ほへ?」

それは灯里にとっては予想外の言葉だったのだろう。
呆けたように千早を見たまま、口を開けて固まってしまった。

千早の表情が微笑に染まる。
いつも自然体で、まっすぐで、掴み所がない一面もあって。
そんな灯里が、千早には好ましいものに映っていた。

一先ずここまで
あと一、二回の投下で最後までいけると思います

お楽しみいただけたなら幸いです


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――――
――

観光スポットとしてはもっとも有名なネオ・ヴェネツィアの中心街。
その案内を一通り終えると、不意に何かを思いついたように灯里が口を開く。
その瞳は楽しげに輝いていた。

「千早ちゃん、お茶にしない?」

一面の青空に浮かぶ太陽は、少し傾き始めていた。

「……別にかまわないけれど」

「えへへー、とっておきのところを紹介するねっ」

笑顔の灯里が案内したのは、サン・マルコ広場のオープンカフェだった。

「いらっしゃいませ」

そんな彼女たちを出迎えたのは、大柄でやや強面の男性。
一見して厳めしい様子とは裏腹に、その物腰は柔らかなものだった。
帽子の影からのぞく眼差しには親しみが溢れている。

「お久しぶりです、店長さん」

「お待ちしていましたよ、灯里さん」

「えへへー」

灯里はこの店の常連で、店長とも親しいらしい。

少女と大男。
傍目には奇妙なその二人が、なぜかよく馴染んで見えた。


「そちらの方は?」

「初めまして。如月千早といいます」

「千早ちゃんはマンホームから来たんです。ぜひこのお店を紹介したくて」

「そういうことであれば、当店自慢の一品をお持ちしましょう」

丁寧な一礼を残し、店長がその場を後にする。
テラス席に腰かけると灯里が口を開いた。

「このカフェ・フロリアンはね、マンホームにあったものと同じお店なんだよ」

「……どういうこと?」

「マンホームのヴェネツィアが水没する前に、内装を全部解体して保存したんだって」

「へぇ」

「それで、ネオ・ヴェネツィアが造られる時にアクアまで持ってきたの」

「全部を? わざわざ?」

「すごいよね。時間も星の海も越えて、大切な想いが詰まったお店がここにあるんだもの」

灯里は、夢を見るような目で空を見上げる。
その視線は、遥か遠くにある何かを見ているようだった。

ひょっとすると、灯里には在りし日の光景が見えているのかもしれない。
そんなことを感じさせる、満足げな表情だった。


「お待たせいたしました」

その言葉とともに運ばれてきたのは、三つのカップ。
アリアの為に用意されたミルクと。

「これが、自慢の一品……」

灯里たちの為のカフェラテだった。
けれど、先ほどの灯里の話を聞いた後だったからだろうか。

何の変哲もないカフェラテが、少しだけ特別なものに見えた。

口の中に広がる苦みと甘み。
それはまさしく千早が知っているカフェラテの味だった。

「にゅっ?」

カップに口をつけた千早をアリアが見つめている。
千早が気に入ったのかどうか、それが気になって仕方がないらしい。

「うん……とても美味しいわ」

千早にはそれくらいの言葉しか出てこなかった。
けれどそれでは足りないと、続けて口を開く。

「初めて口にするのに懐かしいというか、ホッとするというか……」

「えへへー」

何とかして感じたことを伝えようとする千早。
そんな千早の様子に、灯里の口から笑いが漏れた。


「カフェ・フロリアンはね、カフェラテの発祥のお店なんだよ?」

「……ああ、だからかしら」

まだ地球と呼ばれていた時代から受け継がれてきたものだから。
だからこんなにも自然に、心まで満たされるような優しさを感じるのだろう。

「このカフェラテも、お店と一緒に星の海を渡ってきたのね」

千早の小さな呟きに、灯里の満面の笑みが答えた。

余韻を楽しむような、静かな時間が流れる。
その静寂は二人にとって心地よいものだった。

偶然の出会いはまだ昨日のこと。
にもかかわらずこんなにも穏やかな時間が共有できている。

千早に言わせれば、それは驚くべきことであるだろう。
灯里に言わせれば、それもまた素敵な奇跡なのだろう。


「そういえば」

周囲の人々の話し声がひときわ大きく聞こえる中、千早が口を開いた。

「水無さんはなんでウンディーネに?」

「私、ゴンドラが漕ぎたくて」

そんなありふれた身の上話も、初めて交わすものだった。

「女性の場合はウンディーネになるしかなかったから」

ネオ・ヴェネツィアは水の街である。
入り組んだ細かな道が張り巡らされたこの街では、車の通行が禁止されていた。
そうなれば、交通手段としては水路か、あるいは空を使うことになる。

そして、ゴンドラの漕ぎ手は伝統的にそのほとんどが男性の領域となっており。
女性の場合は、ウンディーネの他に道が開かれていなかった。

結果として、ウンディーネはネオ・ヴェネツィアを象徴するアイドルのような存在になっていった。

「それではるばるアクアまで?」

「うんっ」


灯里はただ一つの夢を胸に、星を超えてやってきたという。
いくら星間旅行が一般に浸透しているとはいえ、それは口で言うほど簡単なことではない。
どれほどの強い想いが彼女を支え、駆り立てたのだろうか。

目の前のほんわかとした少女がどれほど強いものを持っているのか。
初めて気付くその側面に、千早の目が丸くなる。

「不安じゃなかった?」

「うーん。どっちかと言うと、ワクワクの方が大きかったかな。それにね――」

そうして灯里は語りだした。

初めてオールを握った時のこと。
尊敬し、理想とする先輩や、かけがえのない友人との出会い。
これまでに巡り合った様々な人、もの……

灯里がここでの生活をどれほど大切に思っているのか。
弾む声が、その表情が、何より雄弁に物語っていた。


――――――
――――
――

地面に落ちる影が少しずつ背丈を伸ばしている。
すると、カフェの店員が広場のテーブルを移動させ始めた。

「え? 何?」

「ふふっ、影追いだよ」

サン・マルコ広場に面したこのカフェではワインも扱っている。
だから日の光でワインの味を損なわないよう、影に合わせて席を移動させるのだ。

それは、自然に合わせて人が動くという当たり前の、けれどマンホームでは忘れられた営みだった。

「面倒ね」

「でも、それがこの街のいいところなんだよ」

「……なんとなく、分かる気がするわね」


千早は、風の吹く丘で歌っていた時の感触が言葉になるのを感じていた。
目の前に広がる雄大な自然と、ちっぽけな自分。

そんなちっぽけな人間が自然とコントロールし得ると信じている歪さ。
それを実現してしまったマンホームの、どこか味気ない生活。
煩わしく不便なことばかりのアクアの、なぜかあたたかい日々。
人は本来、もっとゆったりとした生き方をするべきなんじゃないだろうか。

そこまで考えて、千早の表情が自嘲に染まる。
そんな生き方は今までの自分の対極にあるようなものだったから。

「……私も聞いていいかな、千早ちゃん」

移動が終わったテラス席に改めて腰かけると、灯里が口を開いた。
遠慮がちが声とは対照的な、確かな光がその瞳に宿っていた。

「何かしら」

影追いのあと、なぜか千早の膝の上に陣取ったアリアを撫でながら答える。
ついさっきまでとは打って変わって、穏やかな表情になっていた。

「初めて会った時に言ってた、休養に来たっていうの、どういうことなのかなって」


これまでの千早に、何かを患っているような素振りはなかった。
ひょっとすると上手く隠しているのかもしれない。
だが、灯里はそれとは違う可能性を感じていた。

初めて会った時に聞こえてきた歌。
交わした言葉、その表情。

千早が抱えているのは心の問題なのではないか、と。

そんな灯里の胸の内を肯定するように、千早は苦い笑みを浮かべていた。

「私、マンホームでアイドルをしているのだけど」

その瞳に浮かぶのは、後悔とは違う何か。

「スランプ……って言うと大げさかしら。自分がどうやって歌っていたのか、よく分からなくなっちゃって」

それは、諦めに似ていた。


***************************


千早の視線がとこか遠くへ飛んだ。
彼女が何を見ているのか。
それを知るための一端が明らかにされようとしていた。

「元々、私はアイドルになりたかったわけじゃないの」

「え、そうなの?」

合理化と美観化が進んだマンホームでは、一種の『渇き』のようなものがあった。
天候すらも自動制御するようになった結果、人々は刺激を求めるようになったのである。

ネオ・ヴェネツィアをはじめとした星間旅行の普及も、その結果の一つと言える。
そして、過去に隆盛したアイドルという存在が、再び注目されるようになった原因にもなっている。


「私は歌が歌えるなら何でもよかったの。ただ、アイドルにって声をかけられただけで」

だから、千早のその言葉は意外に聞こえた。

「私の歌を好きだと言ってくれた人の為に歌えるなら、なんでも」

ごく自然に出てきた過去形の言葉に、灯里は違和感を覚える。
けれど、今それを問うて良いのかは分からなかった。

「世界中に私の歌が響くようになれば、あの子にも届くんじゃないかって」

そんな灯里の内心を知ってか知らずか、千早は決定的な言葉を口にする。
その目元に漂っているのは、諦めと、決別と、哀しみと。

「もう、二度と会えないのにね」

「千早ちゃん……」

「ぷぃ……」

アリアが瞳を潤ませながら千早を見上げる。
目の前の灯里もまた、その顔を曇らせていた。

「……ありがとう、二人とも」

そうやって千早が微笑を浮かべる。
その表情は、なぜか泣いているように見えた。


「でも、あの決意があったから今の私がいるんだと思うの。だから後悔はないわ」

悲しそうで嬉しそうで、少し切ない笑顔。
けれどそこには、確かな強さも感じられた。

「そうやって歌の為だけにアイドルをしていたんだけれど、ある日気づいたの」

「ぷい?」

青い瞳と目が合う。
アリアが何を聞きたいのか、千早は自然に理解していた。

「いつの間にか、私はアイドルそのものが楽しいと感じていたのよ」

目的の為にたまたま選んだ手段だったはず。
いざとなれば別の手段を取るつもりだったはず。

それなのに、ふと我に返るとアイドルという手段に価値を見出していた。
もはやただの手段と割り切れないくらいに。

「きっと事務所のみんなや、引っ張ってくれる人のお陰ね」

千早の笑顔が嬉しいような、くすぐったいようなものに変わる。
それは、灯里が初めて見る歳相応の表情だった。

強く結ばれた信頼が眩しくて、少し羨ましかった。


「素敵な人たちなんだね」

「……ええ、私には勿体ないくらい」

そんな大切な人たちがいたからこそ。
千早は変わっていった。

それが伝わってくる笑顔だった。

「でも、変わるっていうことは、あの子との約束を違えるっていうことだから」

「そんな……!」

膝に座るアリアを優しく撫でながら、千早はそっと目を閉じた。

「『全力じゃないお前の歌で、その子は喜ぶのか?』」

「え?」

「散々悩んで、どうしたらいいかわからなくなっていた時に、そう言われたの」

困ったように眉を寄せながら、千早はどこか嬉しそうにも見えた。

想いの強さは、時に何も見えなくさせてしまう。
視界が広がることが想いを薄めることになると、そう思わせてしまう。
だから、見えているものまで見ないフリをしてやり過ごそうとする。

そんな千早に正面からぶつけられた言葉には、何の遠慮もなかった。


「約束にしがみついて、誤魔化して……そんな歌じゃあの子は喜んでくれないから」

なぜ歌おうと思ったのか。
その想いがどこから来たものなのか。

原点を問い質すその言葉に、千早は一つの答えを見つけていた。

「あの子が喜んでくれたのは、きっと、私が歌うことを楽しんでいたから」

その光景はいつも心の中にあったはずなのに。
いつの間にか千早はそれを振り返らないようになっていた。

楽しい記憶は、得てして辛い記憶も連れてくる。
そういうことなのだろう。

「私の歌で誰かが笑ってくれるのがただ嬉しかった。だから私は、歌が好きになった」


変わっていくということは、成長していくということでもある。
それによって何かが零れ落ちてしまうこともあるだろう。
それによって何かを拾い上げることも出来るだろう。

「そこまで思い出した時に、何となくわかった気がしたの」

手に入れた強さは、何かとの決別を意味するのかもしれない。
けれど、すべてを受け入れることも出来るようになるかもしれない。

「私は、私が好きな歌を誰かに聴いてもらいたいと、そう思っているんだって」

今はまだ、囁きかける心の声が聞こえるようになっただけ。
この先どう変わっていくのかは誰にもわからない。

それでも。

自分に嘘を吐くのはやめようと。
千早はそう心に誓った。

「えへへ、じゃあ千早ちゃんはもう大丈夫だね」


その笑顔を見れば、一番の問題は解決しているように見えた。
だから灯里はそう言ったのだが。

「それが……」

「へ?」

「頭では分かっていても、どうしてもあの子のことが頭をよぎっちゃって」

俯いて、表情に苦いものを漂わせる。
長い間こだわり続けてきたものをそう簡単には切り替えられない、ということだろうか。

「それで、少し歌から離れるためにアクアに来たの」

「そうだったんだ」

「でも、観光する気にもなれないし、結局私には歌しかないんだなって」

「ぷい?」

寂しげな顔をした千早を心配するように、アリアの青い瞳が千早を捉える。
その視線に応えるように、千早は優しくアリアを撫でた。

「……ありがとう」

千早は真面目で、それでいて不器用だった。
今までの自分とこれからの自分を、どう受け入れればいいのかが分からなかった。


そんな千早の話を聞いていて、どうにも納得できないところがあった。
なぜ千早は、今までとこれからを別々に考えようとするのだろうか。

例え悩みの中にあっても、千早の歌は聞くものを惹きつける力があった。
歌っている本人の想いが伝わってくるような力が。

ならば、難しく考える必要はないのではないか。

「そのままでいいんじゃないかな」

「え?」

「私は千早ちゃんの歌、好きだよ?」

すれ違うこともなかったかもしれない二人を結びつけたのは、間違いなく千早の歌だった。
だから、それでいいんじゃないか。

「私が千早ちゃんとお友達になれたのは、千早ちゃんの歌のお陰」

それが少しずつ茜色に染まっていく。
その空に負けないくらい、印象的な笑顔だった。

「そんな素敵な歌が歌えるんだから、千早ちゃんはそのままでいいと思う」


例え道に迷いながらでも。
それでも歌いたいと思うのなら。

その歌は、きっと誰かに届く。

「無理に答えを出さなくても、そのまま歌えばいいんじゃないかな」

その証拠に、自分には届いたから。
人里離れた小島にあっても、届いたから。

「きっと大丈夫だよ」

一歩を踏み出せば、きっと何かに出会えるから。

そこには何の根拠もないけれど。
琥珀の瞳に映る笑顔には、それを信じさせる力があった。


***************************


茜色に輝く海を、まっすぐな航跡が切り裂いていく。
目指す小島まではまだ少し距離があった。

オールを手にした少女が、猫を抱いた少女に問いかけた。

「私の歌、聞いてもらっていいかな?」

「ええ、是非」

掴んでいたオールから手を放し、胸の前で組み合わせる。
そっと目を閉じると、少女は歌いだした。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm12255531



それは、彼女たちが幼いころにマンホームで流行した歌だった。
歌っていたのは、何よりも旅を愛した女性。
彼女は、行く先々で見たもの、感じたものを歌にした。

その歌は、アクアから帰った女性が生み出した歌だった。

少女の歌は、技術的には未熟と言っていい。
けれど、歌に込められた想いは、しっかりと届いていた。

「えへへ、聞いてくれてありがとう」

「いいえ。お礼を言うのは私の方」

「ほえ?」

「ここに来てよかったって、そう思えたから」

「そっか…………うん」


その言葉は、歌い終えた少女を肯定する言葉だった。
自分の想いに正直に。
ただ、ありのままの姿で。

そんな少女を受け入れ、感謝する言葉だった。

「向こうに帰っても、ここまで私の歌が届くように歌うわ」

「うんっ。楽しみにしてるね!」

花が咲くような笑顔と、それを見つめる穏やかな微笑み。
二つの輝きを、青い瞳が優しく見守っていた。



<幕>



Epilogue


かつて火星と呼ばれた惑星がテラフォーミングされてから150年――

極冠部の氷の予想以上の融解で地表の9割以上が海に覆われた星
火星と呼ばれていたその星は、今では水の星として親しまれている

アクアと呼ばれるようになったその星に、とある港町がある

ネオ・ヴェネツィア

かつての地球《マンホーム》に存在した街を再現して造られたその街は
季節を問わず、観光客で賑わっている


そのネオ・ヴェネツィアに、三人の少女がいる

水無灯里、15歳、ARIAカンパニー所属、半人前
藍華・S・グランチェスタ、16歳、姫屋所属、半人前
アリス・キャロル、14歳、オレンジぷらねっと所属、見習い

彼女たちはいくつかの縁によって結ばれ
日々、互いを磨き合っている

三人の少女は、今日も合同練習に精を出す
目指すは一人前の水先案内人《ウンディーネ》
憧れの先輩と肩を並べられるような存在になるために


藍華は、いつもより少しだけ自信を持ってオールを握る
アリスは、いつもより少しだけ柔らかい表情で声を出す
灯里は、いつもより少しだけ注意深く心の声を聞く

彼女たちには、時を同じくして小さな奇跡が訪れていた
いつもより少しだけ前向きになれるような、小さな奇跡

やがて、地球《マンホーム》からの便りが届くころ
お互いの奇跡の存在を知る

けれどそれは、もう少し後の話


<了>

というわけでこのお話はおしまいです
改変・捏造などを含む内容の為、受け入れていただけるか些か心配です

ともあれ、お付き合いいただきましてありがとうございました
お楽しみいただけたなら幸いです

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