・地の文有りです。
・微エロ有りです。
・シリアス系で雰囲気は暗いです。
それでもいいというかたは、読んでいただけたら嬉しく思います。
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夜の海岸。
砂浜にはまだ、昼間の熱が残っているでしょう。
でも海沿いの道を車で飛ばす私たちは、二人とも風に髪をなびかせています。
夏の陽射しが残した熱さとは、無縁。
この道には電灯がほとんどなく、私たちが乗る車の前照灯だけが路面を明るく照らし続けています。
隣でハンドルを握る西住殿へ少し視線を向けました。
明るく照らされている道路とは反対に、その姿は暗く、まるで影のようです。
西住殿の横顔はその輪郭が見えるだけ。
表情なんて全然分かりません。
声をかけてみました。
「西住殿」
「何?」
「私たちが乗ってる、このシュビムワーゲン」
「うん」
「“シュビムワーゲン”って、どういう意味か知ってますか?」
「うん、もちろん」
「ドイツ語で…」
「シュビムが“泳ぐ”。ワーゲンが“車”」
「だから訳すと…」
「“泳ぐ車”」
「はい。何だかそのまんまですね」
「そうだね。ふふふ」
あ。笑ってくれました。
でも、本当は笑っていないのかもしれません。
目は笑っていないのかもしれません。
私には、その表情は分かりません。
西住殿の御実家に様々な戦車があることは聞いていました。
でもその種類の多さは想像以上で、昼間、格納庫の中を見学させてもらった私は興奮しっぱなし。
しかし、このシュビムワーゲンがあることは完全に予想外でした。
キューベルワーゲンを基に開発された水陸両用の四輪駆動車。
丸っこい車体へ四つのタイヤが付いていて、まるで走るボート、走るバスタブです。
私はこの車両を実際に見るのが初めて。その可愛い姿を前にして興奮が頂点でした。
でも御実家でこの車を使うことはほとんどないそうです。
西住殿は格納庫でこう話していました。
「この子はね、ちょっとクセがあるの。
シフトレバーの動かし方とか、アクセルペダルの踏み加減とか。
微妙にクセがあって、それが合わない人は乗ってるとイライラしちゃうみたい。
それに元々、使う機会がそんなに多い車じゃないし。
みんな自然と、もっと簡単に扱えるほかの車両ばっかり乗るようになっちゃった。
そのうち私が一番、この車のクセをよく分かって、うまく乗るようになっちゃったの。
この子に乗るのは私だけになっちゃったの」
シュビムワーゲンはキューベルワーゲンより操作が難しい、という話は聞いたことがありました。
でもどんな車両にだってみんな個性というか、特徴があります。
このシュビムワーゲンはそれがちょっと強かったのでしょう。
西住殿は黙ってこの車を運転し続けています。
もう一度、横顔へ視線を向けてみました。
やっぱり表情は何も分かりません。
~~~~~~~~~~
「優花里さん、私の実家へ遊びに来ない?」
数日前、西住殿からいきなりこう言われた時、私は心臓が止まるかと思うほど驚きました。
まさか、本当に御実家へ招待してくれるとは。
「いっ、いいいいんですか?」
「優花里さん、“い”が多過ぎ」
「あ。すみません……」
西住殿はあの時の言葉を憶えていてくれたのでした。
学園艦を下ろされて共同生活をした時の言葉、「また今度、遊びに来てね」。
西住殿はあの言葉を憶えていて、ちゃんと約束を守ってくれたのでした。
感激でした。こういうのが天にも昇る気持ちっていうんだと思いました。
でもどうして今なのでしょう。理由を訊くと、西住殿はこう答えました。
「今度、家族が集まって話合いをすることになったの」
「はあ」
「それで、優花里さんに一緒に来てほしくて……」
「それって、家族会議が開かれるってことですか?」
「うん」
「そんな大事な時に私なんかが行っていいんでしょうか。私なんか連れて行ったら…」
「ううん」
西住殿が首をかすかに横へ振りました。
「優花里さんに一緒に来てほしいの」
私の目をまっすぐに見ています。
「うちには言っておくから、大丈夫」
「そうですか……」
私を御実家へ連れて行きたい理由。
結局、それが何なのか西住殿は言いませんでした。
私もそれ以上、訊きませんでした。
御実家へ向かう間、西住殿はずっと無口でした。
私は自分なりに気を遣って、できる限りはしゃがないようにしていました。
本当は期待と興奮でずっとハイになっていたのですが。
西住殿はそんな私の様子に気付いて「気を遣わせてごめんね」と何度も謝っていました。
御実家と一番近い駅との間は、ちょっと距離があるということでした。
駅に、やはり家族会議のために帰省した姉上殿の西住まほ殿が迎えに来てくれるそうです。
私たちが着いたのは午後、一日で最も暑い時間を過ぎた頃でした。
それでもまだ陽射しは強く、駅舎を出た途端にそれが一斉に襲いかかってきます。
少しクラクラしながら駅前の広場を見ると、変わった形のオートバイが停まっていました。
私は一目でそれが何か分かりました。
BMW R75。ドイツのサイドカーです。
そしてすぐそばに、スタイル抜群の女性がサングラスをかけて立っていました。
その姿とサイドカーとの組合せは惚れ惚れするようなカッコ良さ。女の私でもグッときます。
西住殿が女性に近づき、私も後に続きました。
「お姉ちゃん」
女性がサングラスを外しました。
「みほ。お帰り」
姉上殿の西住まほ殿です。
「うん、迎えに来てくれてありがとう」
「お安い御用だ」
「でもお姉ちゃん」
「何だ」
「R75なんかで来て……」
西住殿がサイドカーを見て言いました。
「それがどうかしたか」
「これで来たってことは、側車に乗るのは優花里さんで…」
「ああ。みほは後ろに乗れ」
「これの後部シートって座りにくいの」
「だがお前が側車で、お客様が後ろというわけにはいかないだろう」
「そうだけど……」
「私だってたまにはこういう物を乗り回したくなるんだ」
姉上殿はそう言うと、私の方を見ました。
「ようこそ。みほの姉の西住まほだ」
「は、初めまして、秋山優花里です! 西住みほ殿の車両で装填手を務めさせていただいてます!」
私は背筋を伸ばし、できるだけ元気良く大きな声で挨拶しました。
姉上殿にはこれまで試合の時に会ったことがありますが、直接話をするのは初めてです。
「君のことは聞いている。妹が世話になっているな」
「とっ、とんでもありません! 私こそいつも御指導いただいてます!」
「ここまで来るのに疲れたと思う。暑いし早速うちへ行こう」
「はいッ! ありがとうございます!」
「そんなに硬くならないでくれ。ずっとその調子だと疲れてしまうぞ」
「はッ。しかし西住みほ殿の姉上殿に対して失礼があっては…!」
「姉上殿? ずいぶん馬鹿丁寧だな」
「は…」
「お姉さん、くらいでどうだ」
「えーと……よろしいので?」
「それも妙な言い方だな。もっと普通に喋ってくれないか」
「はあ」
「そういう場合は“いいんですか?”と言うんだ」
「優花里さん。うちのお姉ちゃん、別に怖くないから」
西住殿がこう言うと、姉上殿がそれへ答えました。
「みほ。お前も、そういう場合は言い方が違うだろう」
「え? 言い方が違う?」
「そういう場合は…」
「うん」
「“うちのお姉ちゃん、噛みませんよ?”と言うんだ」
西住殿が、くふっと少し笑いました。
この日、初めて見た笑顔でした。
「お姉ちゃんがそんなこと言うの、初めて聞いた」
「この子はお前の友達で、うちの大事なお客様だ」
「うん」
「その子の前なんだからこれくらいのサービスは当然だ」
私は、ものすごく驚いていました。
姉上殿は西住流の後継者であるとともに、我が国の戦車道界でその未来を担う最重要人物の一人です。
そんな人でもこういう冗談を言ったりするとは。
私はそれまでの緊張が解けて、何だか体が軽くなるような気がしました。
私たち3人の乗ったBMW R75が、田んぼの中にまっすぐのびた道を走って行きます。
サングラスをかけた姉上殿が運転。
私が側車。これの後部にはトランクがあり、西住殿と私の荷物はそこへ入れました。
そして西住殿は後部シートにちょこんと横座り。座りにくいと言っていたのに、慣れた感じでした。
ふと見ると西住殿は車体ではなく、姉上殿の服の裾に掴まっています。
その様子から姉妹の仲の良さが分かるような気がしました。
周りは見渡す限り田んぼで、一面の緑。
遠くの空に入道雲が沸き立っています。
街なかにしか住んだことのない私には、とてもまぶしい景色でした。
西住殿の御実家は想像していたとおり、とても大きなお屋敷でした。
自分の部屋へ行く西住殿と別れて、私は建物の中をお手伝いさんに付いて行きました。
泊りがけで来るお客さん専用の部屋があるそうで、そこを使わせてもらうのです。
「秋山様、こちらでございます。ごゆっくりお寛ぎください」
そう言われて入った部屋の中を見て再び、ものすごく驚きました。
まるで高級ホテルです。
いえ、高級ホテルなんて泊まったことありませんが、多分それと同じです。
広い部屋にあるのは巨大なベッド、大画面テレビ、冷蔵庫、エアコン、専用のバス・トイレ。
窓を開けると庭を眺めることができて、池にたくさんの錦鯉が泳いでいます。
私なんかがこの部屋を使っていいんでしょうか。
机があるので引出しを開けてみると、部屋の使い方について注意書きのような紙が入っています。
日本語と英語で書かれていました。外国の人も来るようです。
もう一つ別の言葉もあります。何語でしょうか。
少し考えて分かりました。それはドイツ語でした。
シャワーを浴びて、部屋に備え付けのバスタオルを使わせてもらいました。
全開にした窓のそばへ椅子を置いて座り、外をぼーっと眺めます。
エアコンは必要ありませんでした。暑いですが、街なかで感じるような嫌な暑さではないのです。
街なかの暑さとは違う、うまく言えませんが、爽やかな暑さでした。
私は肩にバスタオルをかけたまま。
こんなに大きなバスタオルは初めて見ました。きっと外国からのお客さん用でしょう。
遠くで蝉の声がします。ヒグラシです。生で聞くのは初めてかもしれません。
それを聞きながらぼーっと外を眺めていました。
陽が傾いてきたようです。
ドアがノックされました。開けると、西住殿でした。
「私、この部屋に泊まらせてもらっていいんでしょうか」
こう言うと、西住殿が微笑んで答えました。
「もちろんだよ。優花里さんはお客様なんだから」
「でも自分にはもったいないような……」
「ほかにもお客様用の部屋はあるけど、みんなこういう感じだよ」
「そうなんですか」
「うちにいる間は自分の部屋だと思って自由に使ってね。何か必要な物があったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「それで優花里さん、これからうちの戦車を見に格納庫へ行かない?」
それを聞いて私はテンションが一気に上がりました。
「いっ、いいいいんですか!?」
「優花里さん、また“い”が多過ぎ」
「す、すみません……」
「優花里さんがうちへ遊びに来て一番したいことって、それじゃないかなと思ったの」
「は、はい! そのとおりです! さすが西住殿、お見通しです!」
「じゃあ今日はこの後、うちが持ってる戦車を見に格納庫へ行こう」
「あ。でも…」
「何?」
「私がそんなことして問題ないんですか?」
西住殿が怪訝な顔をしました。
「どうして?」
「だって私は今、確かにこのおうちのお客さんでしょうけど…」
「うん」
「西住流にとって完全に部外者です。ただの西住殿の友達ってだけですから」
「大丈夫だよ。お母さんには前もって伝えてあるの」
「母上殿へ?」
「うちへ連れて行く友達は戦車が大好きですごく詳しいから、持ってる車両を見せたいって」
「了解いただけたんですか」
「返事は、なかった」
「えっ? それならやっぱり…」
「でも全然問題ないよ。お母さんは駄目なら駄目って言うから。それに…」
「はい」
「これが、最後だから」
「え? 最後?」
思わず訊き返しましたが、西住殿は答えませんでした。
「今日は、戦車を見てもらって…」
何も言わなかったみたいに喋り続けます。
「明日は、そのうちの何両かへ乗ってみよう」
「ええっ!?」
私は今まで以上にものすごく驚きました。
「どうしたの?」
「ほ……ほ、ほっほっほっ。ほっ」
「優花里さん?」
「ほっ、本当ですかっ!?」
「優花里さん、今度は“ほ”が多過ぎ。何だか笑ってるみたい」
「す、すみません……でもそんな、それこそ本当にいいんですか!?」
「うん」
「まさか、西住流の戦車へ乗せてもらえるなんて…!」
「だって優花里さん、見たら乗りたくなるんじゃないかなと思って」
「はっ、はい! そうです! きっとそうです!」
「優花里さんがうちへ遊びに来て次にしたいことって、それだと思ったの」
「はい! そのとおりです! さすが西住殿、何でもお見通しです!」
こうして私は格納庫へ案内されました。
その中を見学させてもらった私は、興奮しっぱなしでした。
「晩御飯の用意ができたらお手伝いさんが呼びに来るから、それまで待ってて」
格納庫から私の部屋に二人で戻ると、西住殿はそう言ってどこかへ行きました。
それにしてもすごいおうちです。
西住殿やお手伝いさんが案内してくれなかったら、私はすぐ迷子になってしまうでしょう。
そのくらいお屋敷が大きくて、敷地が広大なのです。
少し離れた場所には専用の練習場も持っているということでした。
もちろん射撃の練習をするはずですから、そこも半端じゃない広さに違いありません。
それらが全て、西住家の持ち物。
大地主。地方の名家。土地の有力者。いろいろな言葉が思い浮かんできます。
世の中にはすごい家があるんだなあと心の底から思いました。
晩御飯の時には意外なことがありました。
私はてっきり、西住殿の御家族の皆さんと食事をするものと思っていました。
でも私が一緒に御飯を食べたのは、西住殿と姉上殿だけだったのです。
和風とも洋風とも、食堂とも応接間とも区別がつかない、不思議な感じの大きめの部屋。
そこで3人が丸いテーブルを囲み、ほかに食事の世話をするお手伝いさんが一人います。
部屋にいる人は、それだけ。
西住殿の母上殿、つまり西住流家元にいよいよ会えると意気込んでいた私は、拍子抜けでした。
結局このおうちにいる間、西住殿の御家族で会ったのは姉上殿だけでした。
晩御飯を食べている間、西住殿は無口でした。私は姉上殿とばかり話していました。
西住殿は駅前で「うちのお姉ちゃん、怖くないから」と言っていましたが、その意味が分かりました。
姉上殿はすごくいい人だったのです。
確かに見た目というか、雰囲気はかなり怖いです。
すごい美人ですが見下ろすような目で人を見ます。ほとんど笑わず、表情があまり変わりません。
声が低くて迫力があります。余計なことを一切喋りません。言葉に無駄が全くありません。
話しかけづらいどころか、周りに人を寄せ付けないようなオーラさえ感じます。
でも実際に話してみると話題が豊富で面白く、会話していてとても楽しいのです。
西住殿の小さい頃のこと、二人で遊んだことなどをたくさん教えてもらいました。
そして姉上殿は、自分が喋るばかりではないのです。
私へ大洗の学園艦の様子を訊いてきたりして、こちらが話すきっかけを何度も作ってくれました。
だから、どちらか一方だけが喋りまくるということにならないのです。
会話のバランスの取り方がすごく上手なのです。
友達が少なくて人と話すのがそんなに得意じゃない私には、逆立ちしてもできません。
おそらく姉上殿は、私へかなり気を遣ってくれたのだと思います。
西住殿が無口な分、自分が会話を盛り上げなくてはと考えてくれたのでしょう。
姉上殿は黒森峰の隊長です。あの超実力校の頂点にいて、大勢の隊員を統率する人です。
やっぱり人の上に立つ人は、気配り一つにしても全然違うんだなあと感じました。
お料理はすごく美味しいものばかりでした。
楽しいお喋りと、美味しい食事。
今日は戦車も見学させてもらったし、最高の一日です。
食事が終わり、お手伝いさんが淹れてくれたお茶を3人で飲みました。
会話が途切れました。私は黙ってこの場の雰囲気に浸っていました。もう大満足でした。
お茶を飲みながら西住殿へ訊きました。
「西住殿、この後は何を?」
沈黙が流れました。
あれ? 西住殿?
もう一度名前を呼ぼうとした時。
その顔を見て言葉を呑み込みました。
こんな顔の西住殿を見たのは初めてです。
笑っているような、でもちょっと困っているような、曖昧な表情。
ほかの幾つもの表情も混ざり合って、結局どの表情にもなっていない顔。
西住殿はそんな顔をしていたのです。
私の声は聞こえているはず。でもそれには答えないで、顔に曖昧な表情を浮かべているだけなのです。
姉上殿を見ました。今度も言葉が出ませんでした。
姉上殿も同じような顔をしていたからです。
すぐにその理由が分かりました。
そうか。
この後。
この後なんですね。
家族会議。
私は急いで立ち上がりました。
「ご、ごちそうさまでした。すごく美味しかったです。部屋に戻ります」
「お粗末様でございました」
お手伝いさんが言いました。私はもう一度西住殿を見ました。
曖昧な表情のままです。こちらを全く見ません。
そして、呟くように言いました。
「ごめんね」
私は西住殿と姉上殿、お手伝いさんにお辞儀をして、その部屋を出ました。
姉上殿は食事が終わった時から、ずっと無言でした。
自分の部屋へは何とか一人で辿り着けました。
明かりを点けてドアを閉めると、ベッドの上に倒れて大の字になりました。
ぼーっと天井を見上げます。
私は、うっかりしていました。
今回、西住殿が帰省した理由。
それはあくまで、家族会議のためです。
西住殿へ付いて来た私は、それを決して忘れてはいけなかったのです。
私が付いて来たことは、本当はこのおうちにとって余計なことかもしれないのです。
私へのおもてなしという、余計な仕事を増やしているだけかもしれないのです。
私は、調子に乗っていました。
西住殿と姉上殿、お手伝いさんたちが親切にしてくれるので、つい図々しくなっていました。
これからは出しゃばらず、控えめでいるようにしようと思いました。
しばらく天井をぼーっと眺めていました。
すると、何だか眠くなってきてしまいました。
まだ寝るにはかなり早い時間ですが、無理もないと思いました。
今日は大洗からここまでやって来て、戦車を見せてもらって興奮し、たくさんお喋りもしました。
きっと私は今、かなり疲れてるんだと思いました。
でもこのまま眠ってしまうことはできません。寝るならちゃんと準備しなくては。
着替えたり歯を磨いたりしなくてはいけません。
それにしても私が寝転がっているこのベッドは、何て大きいのでしょう。
我があんこうチームの5人が並んで横になれそうです。
いや、さすがに無理か。両端のどちらかの人がはみ出して落ちるかも。
その場合、落ちるのは私か冷泉殿になりそうです。
寝る場所はもちろん西住殿が真ん中。武部殿と五十鈴殿はその両脇のポジションを強引に確保しそうです。
こんなどうでもいいことをぼーっと考えていたらますます眠くなってしまうかもしれません。
せっかくベッドがこんなに大きいのだから、その大きさを楽しむことにしました。
ゴロゴロ転げ回ったり、ジタバタしたり。
うつ伏せになって泳ぐ真似をしてみたりしました。
「さあ女子200メートル平泳ぎ決勝。秋山優花里は第5レーン」
平泳ぎの恰好をします。
「今スタート! 秋山速い! 秋山が先頭です! ターンはどうか? 秋山先頭でターン! 1分44秒23!」
体の向きを反対側へ変えます。
「残り15メートルを切った! 秋山まだリードしている! あと5メートルだ! 今フィニッシュ!」
寝転がったままガッツポーズをします。
「秋山やりました!! 秋山金メダル!! 秋山優花里、ついに金メダルを獲得しましたーっ!!」
そのまましばらくじっとしていました。
そして、アホか私はと思いながら起き上がりました。
次に、テレビを観ることにしました。
このテレビも巨大です。家電量販店で見かける物で一番大きいのがこれくらいでしょうか。
机の上にあったリモコンを手に、ベッドの上でディスプレイへ向かってあぐらをかきました。
リモコンの電源ボタンを押します。
『続いて九州・沖縄地方のニュースです!!!!!!』
大音響が轟き、私はあぐらをかいたまま数センチ飛び上がりました。
超大慌てでボリュームを下げます。
音量が最大になっていました。このテレビを直前に観た人が仕掛けたトラップに違いありません。
私としたことが見事に引っ掛かってしまいました。心臓がでんぐり返るかと思いました。
これはケーブルテレビでした。数え切れないくらいのチャンネルがあります。
ジャンルも豊富で、言語だって日本語だけでなく、どこの言葉か分からないものもあります。
どんどんチャンネルを変えていきますが、いつまでたってもそれが尽きません。
試しに「999」と入力してみるとそこは真っ暗でした。そこまでのチャンネル数はないようです。
西住流のおうちにあるテレビだから戦車道のチャンネルがあるのでは、と思って探していきました。
でもなかなか見付けられません。面倒臭くなって番組一覧みたいな画面を出す機能を調べました。
あるボタンを押すとそれが映ることが分かりましたが、表示が英語だけのようです。
何だかテレビに「英語くらい分かるよな? 普通だよな?」と言われているようでムカつきました。
それならチャンネルボタンを押しまくり、丹念に探し続けるまでです。
次々にチャンネルを変えていきました。
でも自分が興味のないものばかり映ります。だんだん飽きてきました。
一瞬、画面全体が肌色になりました。
え?
何ですか今のは?
目の錯覚じゃありません。確かにディスプレイが一面、肌色だけになったのです。
ボタンを逆に操作してそのチャンネルを探します。
あれは……。
もしかして……。
その画面をもう一度観たいような、でも観てはいけないような、そんな気持ちが自分の中にあります。
でも観たい欲求がもう一方の気持ちを簡単に撃破しました。瞬殺でした。
そして、ついに見付けました。
やっぱり考えたとおりでした。
それはいわゆる、ムフフな内容のチャンネルだったのです。
画面の中では外国人らしいお兄さんとお姉さんがその真っ最中でした。
二人とも金髪の白人です。さっきの肌色はどちらかの体が大写しになったのでしょう。
音が部屋の外へ洩れないようにボリュームをできるだけ下げ、画面を凝視しました。
うわあ……。
すごい。
こういうふうにするんですね……。
あっ。
そ、そんな。口で?
口でそんな所を? 汚くないんでしょうか。
よく洗えば問題ないんでしょうか。それとも、好きな人のものなら気にしない?
あ……でもこの人たちは本物の恋人同士じゃないですね。
よく考えれば、これはお芝居です。この二人は男優さんと女優さんなんですね。
でもいくらお芝居とはいえ、口で……。
こういうことをするのが、この人たちのお仕事なんですね……。
その時突然、音が消えて画面が真っ暗になりました。
「あっ!?」
思わず声が出てしまいました。
故障かと思ってほかのチャンネルへ変えましたが、どこもちゃんと映ります。
もう一度そのムフフな所へ戻りました。無音で画面が真っ暗なままでした。
どういうことでしょう。お試し時間を過ぎたからこの後は有料とか?
でもこのおうちが、こんなことでお金を取るとは思えません。
いや、これは……。
これは、このおうちがムフフなチャンネルの視聴を制限しているのかもしれません。
今夜泊まっている私は未成年。だからこうして特定のチャンネルへ規制をかけているのです。
ふーん……そうですか。
これが、このおうちのやり方ですか……。
これが、西住流……。
よーっく分かりました。そっちがその気ならこちらにも考えがあります。
こんなにチャンネル数が多いのです。ムフフなのはこれ一つだけじゃないに違いありません。
今から徹底的にそれを探し、見付け出してやります。
再度、丹念にチャンネルを変え続ける作業に取り掛かります。
ムフフなチャンネル…。
ムフフなチャンネル…。
心の中で呪文のように唱えながら、変わっていく画面を見つめ続けます。
必ずあるに違いありません。さっきのは白人のお兄さんとお姉さんが出てきました。
それなら、日本人が出てくるチャンネルもきっとあるはずです。
戦車道のチャンネルを見付けました。でも今はそれどころじゃありません。
ムフフなチャンネル…。
ムフフなチャンネル…。
何だか、そこを見付けるまでそんなに時間が掛からないという気がしてきました。
そこへ辿り着くまでもう少し、そういう予感がするのです。もはや確信に近いです。
どうしてそんなことが分かるのか、って?
そんなの“女の勘”ってヤツに決まってるじゃないですか!
ムフフなチャンネル…!
ムフフなチャンネル…!!
もう少し…!!
その時、ドアがノックされました。私はあぐらをかいたまま再び数センチ飛び上がりました。
超大慌てでテレビを消し、ベッドから転げ落ちるようにしてドアの所へ行きました。
開けると、西住殿でした。
「西住殿……」
「うん」
「また心臓がでんぐり返るかと…」
「え? でんぐり?」
「あ、いえ。こっちの話で……」
自分がリモコンを握りしめたままでいることに気付き、それを背後に隠します。
西住殿が不思議そうな顔で私を見ました。
「優花里さん、何してたの?」
「べ、別に、何も……」
テレビでエロいチャンネルを血眼になって探してました、なんて言えるわけありません。
「ふぅん…?」
西住殿の視線が疑わしいものを見る目つきに変わりました。
私は話をそらそうとしました。
「もう家族会議は終わ…」
言いかけて、やめました。
これからは出しゃばらないと、さっき決めたのです。
私がこんなことを訊くなんて大きなお世話です。
それより、西住殿の服が少し妙だと思いました。
下はショートパンツですが、上はパーカーを着ています。
夏の夜にどうしてこんな厚着なのでしょう。
「優花里さん」
「はい」
「これから車でドライブしない? で、花火を見に行くの」
私はその話に飛び付きました。
「いいですね! 行きましょう!」
「じゃ、仕度して。オープントップの車で行くから、寒くならないようにして」
なるほど、そのためにパーカーを着ているんですね。
「了解です! 私、ウインドブレーカーを持って来てます!」
冷房が効いた場所へ長時間いるような場合に備えて、荷物へ入れていました。
「今日どこかで花火やってないかなぁ、って調べたの」
「はい」
「そしたら、少し遠い所で花火大会があるのが分かった。車で行けば間に合うと思う」
「そうですか。誘ってもらえて嬉しいです。あ、でも…」
「何?」
「ドライブですよね。運転は?」
姉上殿が車を出してくれるのかと思いましたが、西住殿が微笑んで言いました。
「私がする」
~~~~~~~~~~
こうして私たちはこのシュビムワーゲンで走り始めたのでした。
昼間はこの車を実際に見ることができて、その上、今は乗ることができるなんて。
私はテンションが上がりまくっていました。
だけど西住殿は、車を運転している最中も無口でした。
私は興奮しているのがバレないよう、できる限り気を配りました。
御実家へ来るまでの間と同じように、西住殿へ逆に気を遣わせてしまうと考えたからです。
車が闇の中を飛ばして行きます。
目に映る物で明るく見えるのは、前照灯で照らされた道だけ。
西住殿の姿は影のようです。
表情は全く分かりません。
西住殿が唐突に喋り始めました。
「さっきは…」
私は黙っていました。
「さっきは、ごめんね」
「いえ……」
それだけ答えました。
気にしないでください、などと言うのも余計なことに思えたからです。
本当は、訊きたいことがたくさんありました。
なぜ家族会議が開かれたのか。何を話し合ったのか。西住殿に関係あることなのか。どんな結論が出たのか。
そして。
どうして家族会議の時に、私を御実家へ連れて来たのか。
訊きたいことはたくさんありました。でも、訊きませんでした。訊けませんでした。
他人の私が詮索するなんて、とんでもないことだからです。
多分、最後の一つを除いては。
前方に赤い光が見えました。
何でしょう。たくさんの赤い光がチカチカしてます。
あっ、あれは…。
「西住殿、赤色警光灯です」
「うん、分かってる」
「パトカーです! パトカーの回転灯ですよ!」
私は焦り始めました。
「検問みたいだね。赤色灯が振られてる」
反対に西住殿は落ち着き払っています。
「西住殿!?」
「ここでは検問なんてすごく珍しい。何かあったのかなぁ」
西住殿はそう言いながら赤い光へ向かって車を走らせ、そこで停まるために減速を始めました。
私が持っている運転免許証は、戦車道連盟公安委員会から交付された物です。
「種類」の所には「大特」「原付」と書かれています。
操縦手の冷泉殿の免許では、これに「け引」が加わります。牽引のことです。
そして「免許の条件等」として、「大特車は戦車に限る」とあります。
視力の弱い武部殿の免許では、ここに「眼鏡等」とも書かれています。
要するに、この免許で公道を走れるのは戦車と原動機付自転車だけなのです。
私たちが今乗っているこのシュビムワーゲンは、普通自動車に該当するはず。
西住殿は以前、黒森峰にいた時にもう免許を取得したと言っていました。
私たちと違って、この人の免許だと普通自動車で公道を走れるんでしょうか。
西住殿が赤色灯の誘導に従って検問所で車を停め、前照灯を消しました。
すいません、今日はここまでにします。
もう書き終わっているので明日で終了です。
期待してくださっているかたもいるようですが、
明晩に味わう読後感はかなり微妙だと思います……。
一人のお巡りさんが近づいて来ました。
車両をライトで照らし「何だこの車は」と呟いているのが聞こえます。
突然、目の前が真っ白になりました。
お巡りさんが私の顔へライトを向けたのです。思わず手をかざしてその光を防ぎました。
西住殿の顔にもライトが当てられました。西住殿は少しも動かず光を真正面から見ています。
お巡りさんが「子供じゃねえか」と言いました。
「君たち、何年生だ?」
若い男の人のお巡りさんです。呆れたような、怒ったような声でした。
「高校生です」
西住殿が答えました。
「高校生? 免許証は?」
「これです」
西住殿の差し出した免許がちらっと見えましたが、私たちの物と特に違いはないようでした。
「何だこの免許証? 車にナンバープレートがないし、お前たちは一体…」
お巡りさんが言い終わらないうちに、西住殿が口を開きました。
「私は西住しほの次女、西住みほです」
「何だと?」
「知りませんか? 知らなければほかのお巡りさんに訊いてください」
「何を言ってるんだ。とにかく…」
「ほかのお巡りさんに訊いてもらえば分かります」
西住殿は相変わらず落ち着き払っています。お巡りさんが黙りました。
「エンジンを切れ。二人ともそこを動くな。免許証を預かる」
お巡りさんはそう言うと、車のそばを離れました。
「西住殿……」
私は不安でいても立ってもいられません。胸がドキドキして苦しいくらいです。
「大丈夫」
西住殿が前を見たまま言いました。お巡りさんから指示されたのにエンジンを止めようとしません。
この人はどうしてこんなに冷静なんでしょう。
相手は大人の男の人、しかもお巡りさんなのに。
遠くで「知らんのか貴様」「馬鹿もん」「今すぐ謝ってこい」という怒鳴り声が聞こえました。
見ると、あの若いお巡りさんがほかのお巡りさんと話をしているようです。
若いお巡りさんが「は、はいっ!!」と大声で言いました。
お巡りさんはこちらへダッシュして来て、次の瞬間にはもう西住殿の隣に立っていました。
私は人間がこんなに速く走るのを見たことがありません。
「もっ、申し訳ありませんでした!! 西住さんのお嬢さん!!」
お巡りさんが警察の敬礼をしようとして、やっぱりやめて、腰を折り曲げて最敬礼しようとしました。
でもやっぱりそれもやめて、警察の敬礼をしようとしました。この動作を繰り返しました。
気が動転して焦りまくって、自分が何をしているのか、どうすればいいのか全然分からないみたいです。
その姿はもう見ていられないくらいでした。
「行っていいですね? 免許証を返してください」
西住殿が前照灯を点けながら言うと、お巡りさんは頭を深く下げて両手でそれを差し出しました。
「どど、どうぞ!! 大変失礼いたしましたっ!!」
免許を受け取った西住殿が車をゆっくり発進させました。
シュビムワーゲンが加速を続けて元の巡航速度に達した時、私は後ろを振り返りました。
検問所の警光灯がどんどん小さくなっていきます。やがて見えなくなりました。
私は叫びたい気持ちを我慢することができませんでした。
「やりましたね西住殿! 見事に検問通過、検問突破です! やっぱり西住殿はすごいです!!」
西住殿は黙っていました。
「あの若いお巡りさん、西住殿へ謝るために車の所へすっ飛んで来ましたよ!?」
私は構わず叫び続けました。
「人間があんなに速く走るのを初めて見ました! ボルト選手より速かったんじゃないですか!?」
夜の海沿いの道に私の声と、この車が走る音だけが響いています。
「あのお巡りさん、走り去ってく西住殿の後ろ姿へも頭を下げてたでしょうね!!」
すると、西住殿が小さな声で言いました。
「違うの」
「え?」
思わず訊き返しました。
「それは、違うの」
「違う?」
「うん」
「何がですか?」
「あの人は、あの人たちは、私へ頭を下げてるんじゃないの」
何を言っているのかさっぱり分かりません。
「それはどういう意味…」
「私じゃないの。あの人たちは、私のお母さんに頭を下げてるの」
「えっ?」
「私に頭を下げる時、あの人たちは私の向こうにお母さんの姿を見てる。
西住流家元・西住しほに対して頭を下げてるの。
少なくとも、西住みほっていう一人の人間に対してじゃなく…」
西住殿が言葉を区切りました。
「“西住しほの娘”“西住家のお嬢さん”、それに対して頭を下げてるの」
私は何も言えませんでした。
「お母さんと西住のうちのことを知らない人って、ここにはいない。
だからあのお巡りさんにはちょっと驚いた。ほかの所から最近来た人なのかなぁ」
私は昼間、お屋敷や広大な敷地を見た後に頭へ浮かんだ言葉を思い出していました。
大地主。地方の名家。土地の有力者……。
「西住殿……」
私は思い切って、免許証について訊いてみることにしました。
「何?」
「あの、失礼かもしれませんが…」
「何? 訊きたいことがあるなら何でも訊いて?」
「西住殿の免許は、このシュビムワーゲンみたいな普通自動車で公道を走れる物なんですよね?」
「私の免許? ううん、違うよ」
西住殿があっさり否定しました。
「多分みんなのと同じだよ。戦車と原付しか動かせない。あ、小型特殊は大丈夫だったかな」
「そうなんですか?」
私は驚きました。
「お姉ちゃんはほかの学園艦の人たちみたいに四輪の免許を持ってるけど。
私は黒森峰から転校しちゃったから。もう少しあそこにいたら、そういう免許を取ってた」
それなら、私たちが今こうしているのは何なのでしょう。
さっき検問突破できたのは何だったのでしょう。
どうして警察は、私たちへ何も言わなかったのでしょう。
「優花里さん」
「はい……」
「優花里さんが今考えてること、分かるよ」
西住殿が話し始めました。
「免許無しで車を運転するのって犯罪だよね。しかもこの車にはナンバープレートがない。
普通の人がそんなことしたらすぐ捕まっちゃう。逮捕されちゃう。
それなら、どうして私は無免許で車を運転できるのか。どうしてナンバーがない車に乗れるのか。
お巡りさんたちにそれを見付かっても、どうして何も言われないのか。
優花里さんが今考えてることって、こうだよね?」
影のような姿が動き、こちらへ顔を向けました。私はうなずきました。
「それは、私がその“普通の人”じゃないからなの。ここで、お姉ちゃんと私は普通じゃないの」
何を言い出すんでしょうか。
「そんな……普通じゃなかったら、一体何だって言うんです?」
「それはさっき言ったのと同じ。お姉ちゃんと私は“西住しほの娘”“西住家のお嬢さん”なの」
私はまた、何も言えませんでした。
「晩御飯の最中、お姉ちゃんが私たちの小さい頃の話をしたよね。二人で魚釣りに行ったこととか」
「はい」
「その時、お姉ちゃんは私たちがどうやって釣りに行ったか喋らなかった」
そう言えばそうでした。魚を釣って楽しく遊んだ様子を話してくれただけです。
「私たち、どうやって行ったと思う?」
この問いに対する答えはすぐに分かりました。
でも、その話は二人が小さい頃のことです。
小さい子供がそういうことを……そんなのあり得るんでしょうか。
私は言葉が出ず、「まさか…」とだけ言いました。
「うん、その“まさか”。戦車で行ったの。Ⅱ号戦車をお姉ちゃんが操縦した。
その時は二人とも、10歳にもなっていない。そんな私たちが二人だけで戦車で外出したの」
じゃあ…。
「その時の私たちが免許なんて、持ってるはずないよね。ふふふ」
西住殿が笑いました。自嘲気味のような、奇妙な印象の笑い方でした。
「で、でも……戦車道を始めるのって、小さい頃の方がいいんでしょうね」
私はやっと、それだけ言いました。
「うん、小さければ小さいほどいい。お姉ちゃんと私が初めて戦車に乗ったのは5歳だった」
「そんなに小さい時……」
「島田流の愛里寿ちゃんはもっと小さい頃からだと思う」
「島田殿が?」
「あの子は3歳くらいでもう操縦桿を握ったり、照準器を覗いたりしてるんじゃないかな」
「3歳!?」
「愛里寿ちゃんの今の歳と実力を考えれば、戦車道を始めたのって間違いなくそのくらいだよ」
確かにそう言われればそうかもしれません。
「優花里さんってこういうことには詳しくないの? ちょっと意外だなぁ」
「いえ、私は……戦車の知識ばっかりで、戦車道競技者の育成の事情までは……」
「ほかのスポーツと同じだよ。水泳、体操、テニス、卓球……みんな同じ」
「そうか……。考えてみればスポーツ以外でもそうですね」
「うん、音楽とか。ピアノやバイオリンのプロの人たちも3歳くらいからみたい」
「どの分野でもすごく小さい頃から始めないと、世界で通用するプレーヤーに育たないんですね」
「お姉ちゃんと私はそれぞれ、5歳の時に戦車道を始めた。
最初は練習場の中で操縦や射撃の練習をするだけだった。
でもそのうち、そこを出ていろいろな場所で戦車を乗り回すようになった。
普通の子供が自転車に乗り始めて、だんだん遠くへ行けるようになっていくみたいに。
練習場以外の所で行動するのは状況把握とかの訓練にもなった」
「でも……そんなのって…」
「うん、危ないよね」
この“危ない”は、戦車に乗る西住殿たちが危険な目に遭うという意味ではありません。
その正反対です。まるで逆です。
ほかの人たち、周囲の人たちが危ないのです。もし戦車に接触でもしたら……。
「だから私たちはものすごく気を付けて戦車を動かした。
周りに人や乗り物がいたら絶対に道を譲るか、私たちが別の道へ行った。
相手がこっちよりどんなにゆっくりでも、絶対に警笛を鳴らしたりしなかった。
お年寄りとか、体が不自由な人とか、田んぼの中の道を走るトラクターとか」
「母上殿からそう指導されていた…」
「うん、そうしなかったらすごく怒られた。その時のお母さんはほかのどんな時より怖かった」
西住殿が話し続けます。
「ここではこういうことが当たり前だった。そして今でも当たり前。
誰も何も言わなかったし、今でも言わない。近所の人も、警察も何も言わない。
ここの人たちもみんな、それが当たり前だと思ってるの」
西住殿がまたこちらへ顔を向けました。
私にその先を言うように促してるんだと思いました。
「その理由は……二人が、母上殿の、西住流家元の子供だから…」
「そのとおり。私たちが“普通の人”じゃないから誰も何も言わないの。
私たちは“西住しほの娘”“西住家のお嬢さん”。だから、誰も何も言わないの」
車は闇夜を走り続けています。
「私は、ここでは普通じゃない。
だから小さい時、公道で戦車を乗り回せた。
今は無免許なのに、公道で自動車を乗り回せる」
風が西住殿と私の髪をなびかせ続けています。
「ここではこれが当たり前。
だから私もそれが当然って思ってた。
それが普通って思ってたの」
西住殿が車の速度を落とし始めました。
「でも私は戦車や西住のうちを避けて、大洗へ行った。戦車道から離れた。普通の女の子になった。
そうして、初めて分かったの。
私は、ここでは普通じゃなかったんだ、って。
初めて分かったの。
戦車道や西住のうちから離れた時、初めてそれが分かったの」
車が海沿いの道を外れ、細い道へ入って行きます。
その細い道から、海側の舗装されていないもっと細い道へ入りました。
「西住殿、どこへ……」
車1台がやっと通れるような道。両脇は背の高い草ばかりで、私たちへ覆い被さりそうです。
「花火の見える場所」
西住殿はこう答えて車を更に減速、今までの後輪駆動から四輪駆動へ移行させました。
その時、いきなり視界が開けました。
周りが草ばかりの道が終わって、広い場所に出たのです。そこは…。
「砂浜です……!」
夜空の下、目の前に広がっているのは一面の砂と、海。
もちろん人なんていません。周りに家もありません。
明かりは、私たちが乗っている車の前照灯だけ。
そしてこの広い砂浜にいるのは、私たちだけ。
西住殿が車を停めました。
「優花里さん」
「はい」
「私たち、シュビムワーゲンでこういう場所へ来た」
「え? はい、そうですね」
「だから今、どうしてもやってみたいことがあるんじゃないかな?」
西住殿が含み笑いをしたような声で言います。
何のことなのか分かりません。
でも一瞬の後、私は「いいんですか!?」と叫んでいました。
「もちろんだよ。せっかくこの車に乗ったんだから、それをやらなくちゃ」
「はい!!」
もし私にテンションのメーターがあったら、その針は振り切れていたでしょう。
「西住殿! 私、後部座席に移ります!」
「うん。ここから先は車が揺れるから気を付けて」
シュビムワーゲンが砂浜の上を進み、海の中へ入って行きます。
しばらくの間は四つのタイヤが水底に着いている感覚がありました。
やがてそれがなくなり、車体が水へ浮いている状態になりました。
「優花里さん、お願い」
「はい!」
この水陸両用車の車体後部には跳ね上げ式のスクリューが付いています。
そこから後部座席の方へ伸びている棒を押して、跳ね上がった状態のスクリューを下げました。
棒をもっと強く押し、エンジンのシャフトへスクリューを接続させます。
「完了です、西住殿!」
「了解。水上走行開始」
車体後部付近の海面が音を立てて泡立ち、車が前進を始めました。
私はもう興奮を抑え切れません。
「進んでます! シュビムワーゲンが水の上を進んでますよ、西住殿!!」
「そうだね、優花里さん」
「ヒヤッホォォォウ! 最高だぜぇぇぇぇ!!」
私は夜の海でガッツポーズをしながら絶叫しました。
「最高で時速10キロ程度しか出ないんだけど。ジョギングくらいの速さ」
「お言葉ですが大事なのは速度じゃありません!」
私は助手席に戻りながら力を込めて言いました。
大事なのはこの走るボート、走るバスタブで水上走行を体験できているという事実なんです。
私たちを乗せたシュビムワーゲンが海面を進んで行きます。
ふと気が付くと、空にお月様が出ていました。
遠くに5秒に1回くらいの間隔で光る物があります。灯台でしょうか。
ハイテンションだった私も徐々に、周りが目に入るようになってきました。
スクリューを操作できたのは、お月様の明かりがあったからだと分かりました。
影のようだった西住殿の姿も、今では月明かりに照らされて顔の表情が見えます。
「優花里さん、落ち着いた?」
西住殿が微笑みながら言いました。
「はい。はしゃいじゃってすみません」
「ううん、気にしないで」
「でも西住殿」
「何?」
「花火大会へ行くんですよね。海に出ちゃったりしたら…」
「ここが花火の見える場所なの」
「ここ?」
「うん。待ってて、もう少し……」
ハンドルを切って進路を変えました。
前方に目を凝らすと、岬が見えます。それを迂回しようとしているみたいでした。
やがて、その岬の陰から…。
「あっ! 見えます! 花火です!」
はるか遠くに打ち上げ花火の光がありました。
「ここは湾になってて、この岬の反対側で花火大会が開かれてるの」
エンジンを停止させ、前照灯を消しながら西住殿が言いました。
「打ち上げ場所も、私たちがいるのも海の上。だから間に邪魔になる物が全然ない」
「そうですね」
遠くできらめく花火を見るのなんて初めてです。
近くで見物するのも迫力があって楽しそうですけど、こういうのもいいなあ、と思いました。
「ずっと前、お姉ちゃんと一緒にこのシュビムワーゲンで花火大会へ行こうとしたことがあったの」
西住殿が再び口を開きました。
「私が運転したんだけど、道に迷っちゃって」
「はい」
「お姉ちゃんが、陸を走っていたら花火が終わってしまうぞって言って…」
「はあ」
「砂浜に出て海の上をショートカットしろ、って強引に行かせたの」
「それで、この場所が分かった…」
「うん。海を進んでるうちに、ここから花火が見えるって分かったの」
海の上で、波に揺られながら眺める花火。
何だかとても不思議な気分です。
「私、西住殿が羨ましいです」
「羨ましい? どうして?」
「あんなにすごい姉上殿がいて」
花火を眺めながら言いました。
「私は一人っ子ですから。きょうだいがいるのって羨ましいです。
しかも西住殿は、あんなにすごい姉上殿がいる。
その姉上殿と小さい頃から仲が良くて、一緒に魚釣りをしたり、花火を見に行ったり……。
私、すごく羨ましいです。私にもきょうだいがいたらなあ、って思ってしまいます」
西住殿は無言でした。
「きょうだいがいるってどんな感じなんだろう、って思います。
仲良く一緒に遊んだり、たまにはケンカしたり……そうやって一緒に大きくなっていく。
きょうだいがいるのってどんな感じなんでしょう。全然想像がつきません」
無言のままの西住殿を見ました。
すると…。
その横顔はなぜか、とても寂しそうに見えました。
ひときわ大きな花火が打ち上げられました。
「わぁ…!」
「今まで一番大きいです!」
私たちはそろって歓声を上げました。
でもその後、何もありません。花火の見えていた場所が暗い夜空に戻りました。
「あれ……?」
「西住殿。ひょっとして…」
「うん……」
「あれで…」
「終わり、なのかなぁ」
「最後に一番大きなのを打ち上げたんですね」
西住殿が溜息をついて「ごめんね、優花里さん」と言いました。
「え? どうして謝るんですか?」
「花火をほんの少し見られただけになっちゃった」
「そんなことは別に…」
「うちを出た時間が、遅かったから……」
シートにもたれて呟きました。
「家族の話合いが、あったから……」
小さな、力のない声でした。
「優花里さん」
「はい」
「優花里さん、何も訊かないんだね」
「訊く?」
「私の家族が話し合ったこと」
今度は私が無言になる番でした。
「話合いのこと。何も訊かないんだね、優花里さん」
沈黙が流れました。
波の静かな夜です。お月様が波に映ってゆっくり揺れています。
「それは、私が…」
「うん」
「他人の、私なんかが……立ち入っていい話じゃありませんし……」
「優花里さんはこんなことに興味ない? 他人の家のことだから全然関心ない?」
私はまた黙りました。
「優花里さんに、聞いてほしいの」
西住殿は私の方を見ずに話し続けます。
「今日、家族が集まった理由。それは私の最終意思確認なの」
「最終……?」
「私が西住流に戻るか、それとも完全にお別れするか」
完全にお別れ?
どういうことでしょう。
「私たち、大学選抜と試合をしたよね」
「はい」
「あれは西住流と島田流との対決でもあったの」
「島田流との、対決……」
「私たち大洗のバックにいたのはお母さん、西住流。
そして大学選抜の方は島田先生、島田流だったから」
「島田殿の…」
「うん、愛里寿ちゃんのお母さん。島田流家元・島田千代先生」
西住殿はハンドルとペダルから体を離し、ただシートへ座るだけになっています。
「あの試合は最後、まさにその対決になった。
西住流の娘二人と島田流後継者・島田愛里寿との勝負。
だからあれは、西住流と島田流の対決だったの」
「二つの流派って仲が悪いんですか?」
「ううん、そんなことない。お母さんと島田先生は昔から知合いで、すごく仲良しなの」
「そうなんですか」
「でも戦車道では違う。お互いに自分たちの流派が上だと思って絶対に譲らない。
いつか必ず相手を徹底的に叩きのめす、って二人とも思ってる」
「勝負の世界だからそれが当然でしょうね」
「で、今回の試合があった。
二つの流派が真正面から直接ぶつかったわけじゃないけど、流派同士の対決になった。
そして西住流が勝った」
西住殿が私の顔を見ました。
「優花里さん、島田流はどうすると思う?」
「それは……やっぱり再戦、リベンジじゃないですか?」
「そうだね」
「お互いに自分の方が上だと思ってる。それならどちらも、負けたままでいるのなんて不可能です」
「うん。そのうち絶対、島田流は西住流に直接対決を申し込んでくる。全力で倒しにくる」
「はい」
「だからお母さんは今、それに備えて流派内の結束強化と体制の引締めをしてるの」
「あの…」
「何?」
「それと家族会議にどういう関係が…」
「西住流にとって、そしてお母さんにとって、私は敵か味方か分からない中途半端な存在。
だからお母さんは話合いで、私が西住流に戻るか、完全に出て行くかはっきりさせようとしたの」
西住殿が中途半端?
敵か味方か分からない?
「私にはどういうことなのか……」
「私は西住のうちを飛び出して戦車道から離れた。でも大洗でまた戦車道を始めた。
全国大会に出て、黒森峰に勝った。西住流後継者の西住まほが隊長の黒森峰に勝った。
そして今度は島田流に勝った。でもその時は、自分が破った西住まほを味方につけてた」
「だから西住殿は、敵か味方か分からない……」
「島田流は必ず再戦を挑んでくる。今度は二つの流派が真正面から戦う試合になる。
だからお母さんは今、流派内の結束を強くして、体制の引締めを図ってる。
そのためには、私っていう中途半端なものを何とかする必要があるの」
私の耳に聞こえるのは西住殿の言葉だけ。波も風もすごく穏やかです。
「今、流派の中には私について二つの考え方があるみたい。
一つは、私に戻って来てほしいっていう考え方。
あの妹は姉と島田愛里寿を倒す実力を持ってる。だから戻って来れば戦力になる、って考え。
もう一つは、私と絶縁するっていう考え方。
大洗は黒森峰が叩き潰すべき相手。そこの隊長と西住流が今後も関係を持ち続けるのはあり得ない、って考え。
私について意見が割れてるの。お母さんはそれが流派内の結束に影響するって思った」
「だから、最終意思確認を…」
「私が西住流に戻るか、それとも完全にお別れするか。
話合いのためにうちへ来るよう伝えてきた時、どちらを採るか尋ねられた。
そして、話合いの場で答えを聞かせなさいって言われた」
その答えを訊くべきかどうか、迷いました。
でも、訊かないわけにいきませんでした。
「西住殿」
「うん」
「西住流に戻るっていう場合、それは黒森峰に再転校するってことですね?」
「うん、そして西住流を修め直す。一回離れたから、最初からやり直す」
「反対に、西住流と完全にお別れってことは…」
「大洗に残る。そして西住流とは無関係になる。西住流に対して、ただの部外者になる」
「そんな…」
「もちろん、それは戦車道に関することだけ。
家族の縁は切れない。私は西住って名前のままだし、うちにも帰れる」
少しホッとしました。
「でも西住流戦車道とは絶縁。うちに帰っても戦車には触ることも見ることも許されない」
「西住殿」
私は訊かないわけにいきませんでした。
「どっちを選んだんですか?」
「もちろん、後の方だよ」
全身の力が抜けていくのを感じました。
思わず「良かった……」と声に出してしまいました。
西住殿はそんな私を優しく見つめています。
でも…。
でも同時に、何だか奇妙な感覚が自分の中で生まれてくるのに気付きました。
それは苛立ちのような、怒りのような感覚でした。
「西住殿」
「優花里さん、心配しないで」
西住殿が優しい、穏やかな顔で言いました。
「心配?」
何のことでしょうか。
「明日、うちの戦車に乗ることだよね。それなら心配しないで」
何を言ってるんでしょう。
「今夜の話合いで私は西住流とは関係ない人になった。でもお母さんに言ったの。
連れて来た友達に明日、うちの戦車へ乗せてあげる約束をしてるって。
そしたら、それだけは許してくれた」
この人は何の話をしてるんでしょう。
「ただし門下生の人が二人、一緒にいることになっちゃったけど。
監視役だね。部外者の私たちが戦車に変なことをしないか見張るための」
私はそんなのを気にしてるんじゃありません。
「私も、最後にうちの戦車たちにお別れを言いたい。うちの子たちにちゃんとお別れを言ってあげたい。
だから明日はできるだけたくさんの戦車に乗ろう」
「西住殿! もうやめてください!」
「えっ? どうしたの優花里さん?」
「そんな……そんなことはどうでもいいんです!」
西住殿が目を丸くしています。
「それは……確かに、明日そうさせてもらえるのは嬉しいですが…!
それに、赤の他人の私が、こんなこと言うのは出過ぎた真似だって分かってますが…!」
私はまくし立てました。
「どうしてこんなことになっちゃうんですか!?
どうして今のままでいたらいけないんですか!?
どうしてこんなに白黒をはっきりつける必要があるんですか!?」
西住殿が驚いた顔をしています。
でもすぐに、元の優しい表情に戻りました。
「それは、さっき言ったとおりだよ。
お母さんは私の母親だけど、同時に、西住流の総帥でもある。
お母さんの立場だとこうしなくちゃいけないの」
私の感情は昂ぶったままです。
「そ、それじゃあ……姉上殿! 姉上殿の西住まほ殿も家族会議にいたんでしょう?」
西住殿がうなずきました。
「姉上殿はどうなんですか? 西住殿を助けてくれないんですか? 姉上殿は何て言ったんですか?」
「お姉ちゃんの考えはお母さんと同じ」
穏やかな声で答えが返ってきました。
「お姉ちゃんは西住流の後継者。将来の師範、将来の家元。
今の家元の考え方を受け継ぐ。少しくらい違いがあっても、対立することは絶対にない。
お姉ちゃんの意見はお母さんと同じ。お姉ちゃんにもお姉ちゃんの立場があるの」
「それなら……西住殿の父上殿。父上殿の話って全然出ませんが…」
「そうかな。言われてみればそうかも」
「父上殿も、もちろん家族会議にいたんですよね? 父上殿は何て?」
「お父さんはいつも、何も言わないの」
「は?」
「うちではお母さんが全ての実権を握ってる。お父さんはいつも黙ってるの」
「何も言わない…?」
「お父さんはお母さんの言うことにいつも従ってる。いつも黙って自分のやるべきことをやってる。
本当に必要なこと以外、何も喋らない人なの。
お姉ちゃんと私にもほとんど何も言わない。私がうちを飛び出した時も、何も言わなかった。
今も、何も言わないで私を見守ってくれてる。私が家族の中で一番感謝してるのは、お父さんなの」
「感謝、ですか?」
「私は家出同然で大洗へ行ったけど、そこで普通に生活してる。それはお父さんのお陰なの」
「それって…」
「うん、お父さんが仕送りしてくれる。もちろん贅沢なんて何もできない程度だけど。
転校する時だって全部お父さんが面倒を見てくれた。
何も言わずにそうしてくれて、その後も、何も言わずに仕送りを続けてくれてる。
今の私の生活を支えてくれてるのは、お父さんなの」
「だから、一番感謝してる…」
「うん」
“金は出して口は出さない”父親……失礼な言い方かもしれませんが。
ある意味、理想の親には違いないでしょうけど……。
「お母さんも、お姉ちゃんも、お父さんもそれぞれの立場を持ってる。
そして、その立場どおりのことをしてる。
私だけなの、自分の立場なんかお構いなしに好き勝手なことをしてるのは」
「そんな…」
「ううん、私だけ。何も考えないでやりたい放題にしてるのは私だけなの。
だから今、その責任を取らされてる。今まで好き勝手にしてきた結果を突き付けられてる。
私にも自分の立場にちゃんと向き合って、立場どおりにする時が来たの」
でも…。
でも、その結末が西住流との絶縁なんて。
そんなのひどい。
ひど過ぎます。
私は呆然と前を見ました。
波がますます静かになってきました。車がほとんど揺れません。
海がこんなに静かになることがあるのを初めて知りました。
「優花里さん」
西住殿が私の顔を覗き込んで言いました。
「そんなに悲しそうな顔しないで」
「だって……」
海面にはかすかなうねりがあるだけです。
「だって……あんまりです……」
海を見ながら呆然と言いました。
「こんなの、あんまりです……。
西住殿は何も悪くないのに。
好き勝手でも、やりたい放題でもありません。
学園が廃校になるかもしれなかった。
それを防いだ。
それだけなんです。
私たちの学園艦を2度も救ってくれた人なんです。
私たちの大事な隊長なんです。
私たちの大好きな、尊敬する隊長なんです。
それなのに……。
西住殿は、何も悪くないのに……」
「でもね、優花里さん。
大洗での私と、西住のうちでの私は違う。私の立場は全然違うの。
だけど、どっちでも立場どおりのことをしなくちゃならないのは同じ」
西住殿の表情と声は穏やかなままです。
「大洗での私は戦車隊の隊長。
私が指揮して、戦車隊が試合に勝てば学園が廃校にならない。だから私は戦った。
そして私たちは何とか勝てて、学園艦を守れた。
大洗での私はその立場どおりのことをできたの。
だから、優花里さん。
西住のうちでの私も、立場どおりにしなくちゃならない。
私はその立場どおりのことをするだけなの」
そう言う顔は、微笑んでいました。
「だから、そんなに悲しそうな顔しないで」
私はもう何も言いませんでした。
波のない暗い海面にお月様が映っています。
その姿がほとんど揺れません。
水面が鏡のようです。真っ暗な鏡です。
「優花里さん」
「はい……」
「今の海、海じゃないみたいだね」
「はい……鏡みたいです。すごく平らです」
「まるで、この上を…」
西住殿が歌うような声で言いました。
「まるでこの上を、どこまでも歩いて行けちゃうみたい」
声が夜空へ消えていきます。
「そう思わない? 優花里さん?」
「はい……。でもやっぱり、海ですから……」
「そうかなぁ。やってみなくちゃ分からないかも」
「無理ですよ……」
「足を水に着けると、当然、沈んじゃう」
西住殿が喋り続けます。
「だから沈む前にもう片方の足を前に出す。その足が沈む前に反対側の足を前に出す」
私は黙っていました。
「これを繰り返したら、水の上を歩いて行けるんじゃないかな?」
「西住殿……」
「何?」
「そんなの、パラドックスとか詭弁ってヤツですよ……」
「“ウサギはカメに追い付けない”って話や“飛んでいる矢は止まっている”っていうのと同じだね」
「分かってるじゃないですか……」
「ふふふ。ごめんね、ちょっとふざけちゃった」
西住殿が両腕を上げてうーん、と伸びをしました。
「でも何だか、海に入りたくなっちゃった。泳ぎたくなっちゃったなぁ」
私は妙な胸騒ぎを覚えました。
「暑くない? 優花里さん」
「はい、少し……。風が止まっちゃいましたから」
「それなのに私たち、こんな長袖の服着てる」
西住殿がパーカーを脱ぎ始めました。その下はTシャツ姿です。
靴を脱ぎ始めました。スニーカーを素足に履いていたのです。
「西住殿?」
胸騒ぎは不安と動揺に変わりました。
「やめてください西住殿。着てるのは水着じゃなくて普通の服なんです。それに夜の海なんて」
「大丈夫だよ」
西住殿が運転席の上に立ち上がろうとします。
「服を着たまま海に入るなんて危ないです! やめてください! そこから下りてください!」
私は悲鳴に近い声で叫びました。
「やめてください!! 今すぐ下りてください!!」
「大丈夫だよ。だって私…」
立ち上がった西住殿が普段と同じ声で答えました。
「服を着たまま水に飛び込むのは、2度目だから」
「西住殿!?」
水音とともに姿が見えなくなりました。波紋が広がって車が揺れます。
すぐ浮き上がって泳ぎ始めると思いました。
でも西住殿は海の中にいるままです。
波紋が収まっていきます。
「西住殿? 西住殿!?」
急いで立ち上がろうとしたら車体が大きく傾きました。慌てて身を低くしました。
水面を見つめました。
全身から音を立てて血の気が引いていきました。
私は一体何をしていたんでしょう。
早く止めれば良かった。
無理にでも止めれば良かった。
抱き付いてでも、座席から引きずり下ろしてでも止めれば良かった。
後を追って飛び込もうかと考えました。
でも助けられなかったら共倒れになってしまうかもしれない。
そうなったら私たちのことを気付いてもらうのが遅くなる。永久に発見されなくなるかもしれない。
じゃあ人を呼ぶか。でもここは電波が届くのか。
それに救助を頼んでも、こんな海の上へ到着するまでには時間が掛かるかもしれない。
「西住殿!? 西住殿!?」
私は結局どうすることもできず、再び鏡のようになりつつある水面へ叫び続けるだけでした。
暗い海面に色の変わった部分を見付けました。
それが大きくなって人が顔を出しました。
「ぷはっ」
西住殿が水面から頭だけ出して立ち泳ぎを始めました。
「はぁっ。はぁっ。10メートルくらいしか潜れなかった。もっといけると思ったけど。はぁっ」
「西住殿…!」
私の目から涙があふれてきました。大声で叫びました。
「西住殿! 早く! 早く戻って来てください!」
「はぁっ……え? どうしたの優花里さん?」
西住殿が怪訝な顔をしながら車の方へ泳いで来ます。私は泣きながらわめき続けました。
「いいから早く! 早く戻って来てください! 早く! 戻って来てください!」
涙が止まりません。
「変な優花里さんだなぁ。……よいしょ、っと」
全身から水を滴らせて西住殿が後部座席に上りました。
「西住殿! お願いですからもうあんなことしないでください!」
助手席で後ろ向きになり泣き叫びました。
「あんなこと、って……。ちょっと海に飛び込んだだけだよ」
「お願いです! 約束してください! もうあんなことしないって約束してください!」
「いいけど……私も、Tシャツがこんなに体に貼り付くなんて思わなかったから」
私は叫び続けました。
「約束してくれますね!? 急に私の前からいなくなったりしないって約束してくれますね!?」
「え? 優花里さん……」
「私からいなくなったりしないでください! 約束してください! 西住殿!」
「うん、分かった。約束する」
「私……二度と……」
自分の顔が涙でグシャグシャになっているのが自分で分かりました。
「二度と……浮いて来ないんじゃないかって……」
西住殿は黙って聞いています。
「二度と、西住殿に……会えなくなるんじゃないかって……」
「分かった。ごめんね優花里さん、もうあんなことしない。約束する」
西住殿が優しく言いました。
「濡れたTシャツがこんなに貼り付く物だなんて知らなかったなぁ。うー気持ち悪い」
そう呟く様子を私は泣き顔で見ていました。
「もう脱いじゃお。下着も取っちゃおう。……ん?」
西住殿が服を脱ぎかけた時、私たちの目が合いました。
「み、見てません。見ません」
慌てて前を向きました。
「ふふふ。優花里さんになら別に見られてもいいけど」
な、何を言ってるんでしょうこの人は。
「優花里さん、パーカー取ってくれる?」
「あ。はい」
後ろを向かないようにしながら運転席に脱ぎ捨てられた服を渡します。
でもほんの一瞬だけ、横目で後部座席を盗み見ました。
暗闇の中に西住殿の白い体が浮かび上がっていました。
私はまた慌てて前を向きました。気が付くと、涙はもう出ていませんでした。
「上はパーカーだけ。下はもうこのままでいいや」
そう言いながら西住殿が運転席へ戻ります。
並んで座席に座った後、私たちはしばらく無言でした。
「西住殿」
「うん」
「帰りましょう」
「うん……」
「風邪、引くかもしれませんから」
「そうだね……」
こう答えたのに西住殿は動こうとしません。
シートへただ座るだけになっています。
「優花里さん」
「はい」
「優花里さんが、さっき言ったこと」
「何ですか?」
「さっき“私からいなくなったりしないで”って、言ってくれたよね」
西住殿は私の返事を待たずに話し始めました。
「私は絶対に優花里さんの前からいなくなったりしない。
大洗のみんなの前からいなくなったりしない。
私にはもう帰る場所がないから。大洗しか帰る場所がないから」
帰る場所がない?
「でもさっき、親子の縁は切れない、おうちへは帰れるって…」
「もう、うちへ行ったってどうしようもないもの」
私は黙りました。
「何か特別な用事でもない限り、もう行ったってすることなんか何もない。
もうあそこは私のうちじゃない。私の部屋はあるけど、もう行くことはない。
あそこにある荷物はお手伝いさんに頼んで大洗へ送ってもらう。
大洗の私の部屋へ。大洗が今の私のうち。あの学園艦が、今の私のうちだから」
こう言うと西住殿はキーを回してエンジンを始動させました。
スクリューが回り、シュビムワーゲンが前進を始めます。
「あの学園艦が今の私のうち。だから私はあそこを守る」
ハンドルを大きく切って、元来た方向へUターンしました。
「優花里さん。文部科学省が大洗を廃校にするのを諦めてないかもって話、知ってる?」
「はい。どこまで本当か分かりませんが」
「うん、ただの噂かもしれない。廃校騒ぎで不安になった人たちから自然に生まれたデマかもしれない」
「だけど廃校の危機は2回も本当にありました。3回目がやって来る可能性だって……」
「私もそう思う。文部科学省から目をつけられてるらしいのは事実だから」
まっすぐ前を見て西住殿が話し続けます。
「それはただの噂かもしれないけど、私たちにはこれから勝負を挑んでくる相手が、確実にいる」
「確実に、ですか?」
「うん。まず愛里寿ちゃん」
「島田殿……。そうですね、いつか必ず戦うことになるでしょう」
「あの子は高校へ入ってみたいって私たちの学園艦に来た時、結局、大洗への入学を断った」
「はい。その理由は…」
「同じ学校のメンバーになっちゃったら私と戦えなくなる、ってことだった」
「西住殿とは大切な友達同士だけど、戦車道ではライバルでいたいんですね」
「愛里寿ちゃんは確実に将来、前の試合の借りを返そうとしてくる」
「じゃあ西住殿。間違いなく私たちを叩き潰しにくるもう一つは、黒森峰ですね」
「うん、全国大会の雪辱をするため。黒森峰はお姉ちゃんがいる間に再戦の機会を作ると思う」
「姉上殿にそれを実現させるのが目的ですか」
「もしその機会を作れなくても、エリカさんが必ず私を倒しにくる」
「今の副隊長殿ですね。来年度、隊長に就任する最有力候補でしょう」
「前に会った時、“あなたを倒すのはこの私。憶えときなさい”って言ってた」
「西住殿、望むところなんじゃないですか?」
「うん。また戦うことはあの人との約束」
砂浜へ近づいて来ました。
「私には確実に勝負を挑んでくる相手がいる。私はその相手と戦って、その全部に勝つ。
そしてもし、もう一度廃校の危機があって、また試合に勝つことで学園艦を守れるなら私は戦う。
そして勝つ。学園艦を守る。今の私のうちを守る」
「西住殿。何だか…」
「何?」
「今、試合中みたいな顔してますよ」
「優花里さん。私、分かったの」
「何をですか?」
「さっき、私はここでは普通じゃないっていう話をしたよね」
「はい……」
「ここから離れてそれが分かった。そして私は、もう一つのことも分かったの。
それは、私は戦いから逃れられない女だってこと。そう分かったの」
「戦いから、逃れられない……」
「私はここを離れて戦車を避けたのに、やっぱり戦車に乗って戦うことになった。
その戦いの後には、もっと強い相手と戦うことになった。
そして、これからも戦いは続いていく。私は戦車で戦い続ける運命だって分かったの。
私は戦うことを運命付けられた、戦いから逃れられない女。
だって私は“西住しほの娘”“西住家のお嬢さん”だから。
お姉ちゃんと私にはお母さんから受け継いだ、戦う女の血が流れてるの」
西住殿の表情は試合中と全く同じです。
「島田流も同じだと思う。
愛里寿ちゃんにも同じ血が流れてる。島田先生から受け継いだ戦う女の血が流れてる。
私も、お姉ちゃんも、愛里寿ちゃんも、戦うことを運命付けられた女なの。
私はこれからも戦い続ける。
そして私に戦いを挑んできた相手を、必ず倒す」
浜辺が目の前です。私は後部座席へ移りました。
シートの上に西住殿の濡れたTシャツと下着があるのに気付きました。
そっちの方をなるべく見ないようにしながらスクリューを操作する棒を持ちます。
「優花里さん、お願い」
「了解!」
スクリューを上げた少し後に、タイヤが接地する感覚がしました。
四つのタイヤがスクリューに代わり動力を得て、シュビムワーゲンが上陸を開始します。
完全に陸へ上がったところで西住殿が車を停めました。
私たち二人だけしかいない砂浜に戻って来ました。
「西住殿、ありがとうございました!」
私は助手席へ座りながら大きな声で言いました。
「え? どうしてお礼なんか言うの?」
「水上走行っていう、とっても貴重な経験をさせてもらいました!」
西住殿は静かに私を見つめています。
「西住殿、ありがとうございました!」
西住殿は、しばらく黙っていました。
やがて、私から視線を外しながら「ううん……」と言いました。
「お礼を言うのは私の方」
小さな声でした。
「これでもう、私がこのシュビムワーゲンに乗ることはなくなっちゃった。
この子に乗るのは私だけだった。だからもう、この車が使われることはなくなっちゃう。
今が多分、この車をこんなに使ってあげられる最後」
海の上で見たのと同じ、寂しい横顔をしています。
「この子を今こんなに使ってあげられたのは、一緒に乗ってくれた優花里さんのお陰。
優花里さんのお陰で、最後にこの子がこんなに活躍できたの」
私はどう言えばいいのか分かりませんでした。
「いろいろなことが、これで最後」
西住殿が力のない声で呟きます。
「これでもう、終わり……」
私は何も言えないまま、寂しい横顔から目をそらしました。
「これで、もう……」
西住殿が小さな声で呟き続けます。
突然、強い力が私の顔を横に向かせました。
唇に何か柔らかい物の感触がしました。
「んっ!?……んむっ!?」
口を塞がれているので声にならない声しか出ません。
西住殿が両手で、私の顔を横へ向けさせているのです。
そして、唇を私の口へ押し当てているのです。
潮の味がしました。
私は慌てて自分をその柔らかい物から引き剥がしました。
「にっ、西住殿!? 何を…!?」
意外なものを見るような視線が、私へ向けられています。
その瞳は潤んだように光っていました。
「優花里さん……どうして……?」
瞳に私が映っています。
「私のこと、嫌い……?」
西住殿がゆっくり、私の顔へ手を伸ばしました。
私は抵抗できませんでした。
唇にもう一度、柔らかい物の感触がしました。
そこで滑らかな何かが動きました。
舌でした。
私は戸惑いながら唇を少し開きました。
滑らかな物が口の中へ入って来ました。
私は勇気を出してぎこちなく舌を動かし、それに応えました。
その間、西住殿は私の髪に両手を添え、優しく撫でていました。
西住殿がキスをしながら私の片手を取り、パーカーの裾へ入れました。
自分の胸を触らせようとします。
下着を着けていないそれが、手に触れました。
手の平で包み、先端を指の間で少し挟みました。
「んっ…」
西住殿の体がかすかに震え、息のような声が洩れました。
私たちの舌はずっと絡み合ったまま。
西住殿も私の服の下へ手を入れ、胸を触ってきます。
下着の上から胸へ手の平を当てて、ゆっくり動かし始めました。
初めて味わう感覚でした。
気持ち良さ。
快感。
でもその快感を味わいながら、私はこう考えていました。
西住殿は、初めてじゃない。
こういうことをするのが初めてじゃない。
もう誰かとこうした経験があるのです。
今の、舌の絡ませ方。胸の触り方。
誰かとの経験でそれを憶えたのです。
今、それを思い出しているのです。
今、その誰かを思い出したから、私とこうしているのかもしれないのです。
さっき寂しい顔で呟いた言葉、「これでもう、終わり」。
それは、その誰かのことなのかもしれません。
私は、その誰かの代わりなのかもしれません。
でも…。
でも、今だけは。
今だけは、西住殿は私のものです。
今の西住殿は、私だけのものです。
快感で何も考えられなくなっていく頭の隅で、結局、訊けなかったなあと思いました。
西住殿が私を連れて来た理由。結局、訊けなかったなあと思いました。
これからも訊くことなんて、ないのかもしれない。
でもそんなこと、今はどうでもいい。
今の、この瞬間。
西住殿が私だけのものになっている、この瞬間。
夏のある日に、不意に訪れた瞬間。
それが、ずっと続けばいいのにと思いました。
この夏の瞬間が、永遠に続けばいいのに。
この夏が、終わらなければいいのに。
終
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