真奥「性欲を持て余す」 (36)

※エロはないよ!

真奥「じゃあ、行ってくるわ。遅くなるかもしれないから鍵かけといていいぞ」

芦屋「畏まりました。では、行ってらっしゃいませ」

漆原「行ってらー」

後ろ手にドアを閉め、アパートの階段を降りる。
目的地は新宿。
歩くにはやや遠く、電車を使うか迷うところだったが、真奥は徒歩を選択した。
金が勿体無いということもあるが、何よりも、緊張をほぐす時間が欲しかった。

異世界で魔王として世界征服を成し遂げかけた程の彼をして、そこまでの緊張を強いられる問題。
それはただの人間と化した今の身体に理由があった。
人としての身体が求める、抑えがたい欲求。
すなわち——

真奥(恐れることはない。行ってやるぜ……風俗店!!)

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最初は驚いた。魔王たる彼もそれはもう驚いた。
朝起きると感じた不思議な違和感。
確かめたところ、下着に深刻な汚れが発生していた。
恐慌した彼と悪魔大元帥である芦屋が必死で調査した結果、人間には夢精という現象が起こり得ることが判明した。

真奥(いや、性欲は知ってるけど……発散しないと勝手にああなるもんなんだなあ。すげえな人間)

人間となり食事を取らなければ生きていけなくなったことと同じく、
どうやら性欲も処理が不可欠になってしまったらしい。
それ以来、真奥は芦屋が買い物や図書館に行っている間に、
芦屋は真奥がバイトに行っている間に、それぞれ適切に処理することとした。
お互いその話題には触れない。それで上手くいっていた。
だが——

真奥(漆原のことは誤算だったな)

最初は二人暮らしだった部屋に加わった新しい住人、漆原は、一言で言えばニートであった。
彼の行動はパソコンに向かうか寝転がってゲームをするかの二択だ。
そのため、部屋で一人になれる時間が存在しなくなってしまった。
故に真奥は、湧き上がる衝動を発散する術を持たず、耐える日々を送ってきたのだ。
だがそれも最早限界に近かった。

真奥(あのね、魔王の意地で顔には出さないようにしてるけどね)

真奥(ぶっちゃけちーちゃんの胸とか刺激が強すぎるわけです、はい)

彼のバイトの後輩である佐々木千穂は、十六という若さにして至宝とも言うべき肢体に恵まれていた。
本来悪魔であり、人間に性を感じることなどなかったはずの真奥だったが、
身体の変化と同時に趣味まで変化したのか、それとも飢えてきたのか、
バイトできびきびと動く千穂の身体に、揺れる胸に、抑えがたい欲求を感じていた。

このままでは再び寝ている間に醜態を晒しかねない。
そう察した真奥は、最後の手段を取ることにした。
蛇の道は蛇。自分でできないのなら、プロに頼めば良いのだ。

漆原がゲームに集中している間に、パソコンで店の目安は付けた。
幸い、自宅から近い新宿の歌舞伎町にはその手の店が散乱していた。
家人には、知り合いと約束があると言い訳した。問題は何もない。
なけなしの小遣いを貯めた軍資金を手に、彼は新宿へ向かう。
己の性欲を打ち消すために。

……魔王としてどうだろう、という内心の思いは無視した。

真奥「……うーむ」

時刻は深夜に差し掛かる頃。
花の金曜日ということもあり、酒に酔う人々で溢れる中、彼は目的の店の前に立っていた。
あらかじめ目星をつけていた店。あとは入店するだけだったが、彼の足は動かなかった。

真奥(……なんだこの、得体の知れないプレッシャーは)

まず店構えが怪しい雰囲気だ。
店は雑居ビルの一角にあり、看板がなければ外からは何の店か分からない。
店であるはずなのに、まるで人を寄せ付けないようだ。
それは業種の特性上当然のことだったが、初心者の真奥にそんなことは分からなかった。
ただただプレッシャーだけを感じる。

加えて、本当にこの店で良いのかという疑念もある。
短い時間の中で、ではあるが検討に検討を重ねたはずだ。
良心的な料金、そして見目好い嬢のラインナップ。
しかしそれでも、ここで正解だと断じるには迷いがあった。

その理由は噂に聞く、パネルマジック。
マジック、というから魔術の類かと最初は思った真奥だったが、どうやら違うらしい。
だがその効用はまさに魔術と言っても過言ではない。
何でも機械の力を使い、不細工を美人に見せる魔性の業であるとか。
魔力も聖法気も持たないこの世界の住人が幻覚魔術に類する術を使うことに驚いた真奥だった。

真奥(本当にここでいいのか……? リーズナブルなだけあって、サイトに載ってた嬢の顔写真はぼやけていた)

真奥(向こうだって客商売なんだ、あからさまに騙すようなことはしないはず……だが確証はない)

真奥(なけなしの小遣いを使ってババ掴まされました、なんてことになりゃしないか……!?)

エンテ・イスラの征服計画を練ったときに匹敵するほど、ともすればそれ以上に頭を回転させる。
だが所詮答えの出ない悩みであり、入るか、入らないか、選択肢はそれだけだ。

そして何よりも彼を悩ませるのは、

真奥(……俺、魔王だよな?)

こうしている間にもなくなっていっている感がある自らの威厳が、
店に入ることで決定的な崩壊を起こす気がしないでもなかった。

悩んでいたのは一瞬か、数分か、数十分か。
その間俯いていた真奥が、ふと顔を上げた。
その表情は晴れやかで、だがどこか寂しげだった。

真奥(……やめよう)

そう決めて、ため息をつく。
進退のかかった戦なら、恐れず飛び込むこともしよう。
だが所詮は余興だ。何も代替手段がない訳ではない。
漆原の隙をついて、トイレででも手早く処理すれば済むことだ。

真奥(これは敗北ではない。将として、勝ち筋の見えない戦場に飛び込む愚を犯すことはない)

そう自分に言い聞かせる。

これで用件は白紙となったが、このまま帰宅する気にもなれなかった。
それなりに気合を入れて家を出てきたのだ。
せめて、何かしら他の楽しみを見つけて帰りたかった。

真奥(どうすっかな。コンビニで何か買い食いでもするか?)

思案しながら辺りを見回すと、周囲には居酒屋の類も多かった。

真奥「……そうだな、どうせ金使っちまうつもりだったし、たまには一杯飲んでくか」

酒は嫌いではなかった。
この世界に来てからバイトの歓迎会などで何度か飲んだことがある。
金のことを考えれば、スーパーで酒とつまみを買い家で飲んだほうが安上がりだが、
以前一度試したところ、芦屋が下戸だったのだ。
そして漆原は戸籍上十八歳であり、保護者として飲ませるつもりはない。
飲めない人間に囲まれて一人で飲むのも少々気が引ける。
ならば店の喧騒に包まれながらゆっくり飲むのも悪くない。
そう考え、真奥は適当に選んだ店に入った。

店員「申し訳ありません、ただ今カウンターも満席でして……」

真奥「あ、そうですか。えーと……」

さすがに週末だけあり、入った店は満席だった。
だが先ほど見渡した限り、居酒屋は何軒でもありそうだ。
別の店に行こう、そう考えその旨を店員に伝えようとした瞬間——

「魔王おおおおおおおおおお!!」

「ちょ、恵美っ……」

大声で真奥を呼ぶ者がいた。
辺りは騒がしく、それを気にする者はいなかったが、真奥は顔をしかめた。
自分を「真奥」ではなく「魔王」のアクセントで呼ぶ可能性のある人間。
それは一人しか心当たりがなかった。

嫌な予感、というか確信をしながら声の方向を見やると、そこには果たして、宿敵の姿があった。

店員「あ、待ち合わせでしたか? ではあちらのお席へどうぞ」

笑顔で店員に席を薦められ無視するわけにもいかず、ため息を一つついて真奥は奥へ向かった。
向かった先の席には女性が二人。
勇者……いや、今はテレアポの遊佐恵美と、その同僚である鈴木梨香だった。
梨香は驚きの表情。そして恵美は、般若の如き表情で真奥を見つめていた。

真奥「……鈴木さんだっけ? あの、何なのこれ」

真奥は立ったまま、憂鬱な顔で梨香に向かってそう言った。
恵美の顔は真っ赤に紅潮しており、目は虚ろだ。明らかに出来上がっていた。
どうにも嫌な予感しかしない。

梨香「ごめん、何か今日は悪い酔い方しちゃったみたいで……」

梨香の方は酔ってはいるものの正常な意識を保っており、話が通じそうだった。
真奥に申し訳なさそうな顔を見せる。

恵美「あなたねえ、あなた……本当、いい加減にしなさいよ……」

梨香「……ってな感じで、ずっと真奥さんの悪口言ってるんだけど」

真奥「ああ、そう……」

手で顔を覆う。
梨香にも同情したが、一番同情されて然るべきなのは自分だと思う真奥だった。
何の気なしに入った店で偶然恵美に出くわすとは思ってもいなかった。
これ以上絡まれないうちに店を変えるか。
だが下手をすると恵美が追って来かねない。
そう思案する真奥に、梨香が話しかけてきた。

梨香「ね、丁度いいから聞くんだけど。真奥さんの会社って恵美と争って潰れちゃったのよね?」

真奥「ん、ああ……まあ、そうだな」

以前、真奥と恵美の関係を勘ぐる梨香に、芦屋がそう説明したことは聞いている。
概ね間違ってはいなかった。

梨香「それで真奥さんは恵美のこと嫌ってるって聞いたんだけど。今でも実際そうなの?」

そう問う表情は真面目だった。
何を考えているのかこの女、と思いつつも真奥が返答する。

真奥「そう思ってもらっていいよ。こいつも俺のこと嫌ってるし」

梨香「それがさあ、私にはどうもそう思えないのよねえ」

真奥「はあ?」

恵美は話を聞いている様子もなく、枝豆の皮を剥く作業に熱中していた。
手がすべり落下する枝豆を見て、それでいいのか勇者と敵の心配をする真奥。

梨香「恵美のことどう思ってる?」

真奥「……どういう意味の質問か知らんが、見たまんまだろ。怒りっぽくてうるさい」

梨香「それがね、恵美がそんなにムキになるのって真奥さん関係のときだけなのよね」

梨香「会社じゃ人当たりも良くって皆から人気なんだから」

梨香「だから私は、敵とか言いつつも真奥さんに思うところがあるんじゃないかな? と考えてるワケなんだけど」

真奥は思う。それは、誤りだ。
なるほど確かに、真奥と恵美が普通の日本人同士ならその可能性もあろう。
人間、本当に嫌う相手には関わる気も起きないものだ。
嫌いと言いながら相手に付きまとう様は、好意の裏返しと見えてもおかしくはあるまい。

だが真奥と恵美の場合、それは当てはまらない。
真奥は恵美の世界を征服しようとした魔王であり。
恵美は真奥に父親を殺され復讐を誓った勇者である限り。
恵美が真奥から離れないのは、いつか真奥をその手で殺すためなのだから。

真奥(……いや、でも。確かに)

深く考えたことはなかった。
否、考えることを半ば放棄していた。どうせ人間の考えなど分からないのだからと。

真奥(何故こいつは、……俺を殺さないんだ)

残存魔力のほとんどない今の真奥を殺すのは、恵美にとって容易いことだ。
だが行きがかり上共闘し、馴れ合いのような関係になり、いつのまにか争い合うような空気はなくなった。
口喧嘩はするものの、本気の殺し合いなど日本に来てからしていない。
それは改めて指摘されれば、確かに腑に落ちないことだった。

口を閉じ、真剣な表情を浮かべ恵美を見つめる真奥を見て何を考えたか。
納得したように頷いて梨香が立ち上がった。

梨香「うん。じゃあ私帰るね。恵美は任せた」

真奥「……は?」

梨香「大丈夫、ここまでの支払いはしとくから」

真奥「いやそういうことじゃなく、ちょ、おい!」

梨香「終電までには帰したげてねー!」

引き止める真奥を気にかけることなく、梨香は手を振り笑顔で店を出た。
先ほど抱いた同情が露と消える。
ひとしきり呆然としてから恵美を振り返った。

真奥「……どうするよ、おい。お友達は帰っちゃったぞ」

恵美「あ?」

恵美は座った目で、皮から剥き終わった枝豆を一つずつ箸で食べようとしていた。
箸からこぼれた枝豆が皿に落ちる。再び箸で掴む。それを繰り返す恵美を見てから、

真奥「……はあ」

今日何度目か分からないため息を深くついて、恵美の向かいの席に座った。

真奥「お前らよくこの辺で飲むの?」

恵美「たまにね。このクズ」

真奥「……お前実年齢十七だよな? 酒いいのか?」

恵美「日本人の私は二十歳よ。このゲス」

真奥は注文したビールを飲みながら嘆息した。
呂律が回らないながらも受け答えはしっかり、悪口もしっかり付け加えて返答が帰ってくる。
どこまで酔っ払っているのかも定かでない。
そもそも、自分は何故こんなことをしているのだろうか。

真奥「すいません、日本酒、熱燗で。あとタコわさ」

恵美「ハイボールと、軟骨から揚げ」

店員「はい畏まりましたー」

考えてみれば、酒の席で二人きりで話す共通の話題などあまり思い当たらない。
真奥は特別趣味はなかったし、恵美の趣味など知らなかった。
というか、目の前の相手にどこまで会話が通じるのかも疑わしい。
勢い、酒の量ばかりが進んでいった。

真奥「今日仕事だったのか? 最近どうよ調子は」

恵美「駄天使ニートからいたずら電話が来る以外は至って順調よ」

真奥「……俺らが悪かったから、根に持つなよ」

ああ、やはり大して興味もない話題など振るんじゃなかった。
そう頭を抱える真奥だったが、意外にも恵美が会話を繋いだ。

恵美「……どうせ、私は根に持つ女よ」

真奥「いや、それは俺らが悪かったって——」

恵美「でも、しょうがないじゃない」

真奥の言葉を聞いていないのか無視しているのか、独白するように恵美が語り続ける。

恵美「お父さんを殺された怨みを、どうやって忘れろっていうの」

恵美は、テーブルに肘をついて俯いていた。
真奥からその表情は窺えない。

真奥(こいつの口から親父の死のことが語られたのは、二度目だな)

一度目は真奥の部屋で。
そのときには、初めて彼女の涙を見た。
未だ人間の死生観については共感できるとは言い難い真奥だったが、
……その涙に狼狽え、思わず謝罪めいた発言をしたことを覚えている。

だが今日は、そういう気分ではなかった。
酒のせいか。訳も分からず流されたシチュエーションのせいか。
特別気にしていないつもりだった、だが胸を過ぎったことがある考えが口をつく。

真奥「戦争責任って言葉があるよな」

真奥「なるほど確かに、俺らは侵略者だ。お前ら人間には恨む権利があるし、俺らは文句を言える立場じゃない」

真奥「だがな、そういうことを全部置いといたとしたら——」

真奥「お前がぶっ殺したアドラメレクもマラコーダも、たくさんの悪魔達も、俺の大事な部下だった」

それを言葉にした理由は、真奥自身にも定かではなかった。
自分で言ったとおり、エンテ・イスラにとっての侵略者である悪魔を
エンテ・イスラの人間が憎み、倒すのは筋が通っている。そこに遺恨はない。

真奥(……俺はこんなことを言って、こいつに何を言わせたいんだ)

真奥(……こいつのどんな顔を見たいんだ?)

恵美がゆっくり顔を上げて、頬杖をついた。
その顔は無表情で、目は店のメニューを見つめており、真奥には向いていなかった。

恵美「……そうね」

それだけを、ぽつりと言った。

恵美「梅酒。ロックで」

真奥「梅酒ロックもう一つ。あとナスの漬物。……なあお前、飲み過ぎじゃね?」

恵美「何が……余裕に決まってる、でしょ」

真奥「頭ふらついてるからな?」

ぽつぽつと中身のない話を続けながら、気づけば随分飲み続けていた。
恵美は真奥が来る前から飲んでいたのだから、一体どれだけ飲んだのか知れない。

恵美「ああもう、疲れた……」

言いながら恵美がテーブルに伏せる。

真奥「そりゃ仕事のあとにこんだけ飲んでりゃそうだろうよ」

恵美「違うわよ……そうじゃなくて。……色々」

その声色は、珍しく敵対心抜きの純粋な弱音に聞こえた。
そのせいか。真奥の手が、うつ伏せた恵美の頭に伸びた。
無意識に、髪を梳くように頭を撫でる。

真奥「よしよし。……」

真奥(……じゃねえ! 何やってんだ俺!)

一瞬にして真奥の顔が青ざめる。
この女が珍しく甘えるような声を出すから、まるで小動物にするようにしてしまった。
罵倒か、最悪鉄拳を受ける覚悟を決めて待つが——恵美は動かない。

真奥「…………寝とる」

静かな寝息が聞こえた。手を置いたままの頭がわずかに上下している。

真奥「……はあ」

安堵の溜息をついた。
ふと携帯を取り出し時計を見れば、すでに終電は終わっていた。

真奥「……とりあえず、出るか」

恵美の触り心地の良い頭を撫でたまま、残った酒を飲み干した。

真奥「くっそ、起きろよお前……つーか金払えよ! 割り勘だからな!」

恵美「んー……」

真奥は恵美の腕を自分の肩に回し、無理やり立たせていた。
意識があるのかないのか、恵美は目を閉じたままうわ言のようなうめき声だけを出している。

真奥(あー、どうしよこれ……)

恵美を家まで送ろうにも彼女の家の場所は永福町ということしか知らなかった。
魔王城に連れて行くのも無しだ。芦屋と漆原に何を言われるか知れない。
それ以前に、肩を貸したままそれほど歩けもしない。

真奥(最悪、どっかファミレスとかで朝を待つハメになるのか……ゆっくり寝たいんだけどなあ)

考えながら辺りを見渡す。
あとになって思えば、歌舞伎町という場所がいけなかったのかもしれない。
そもそも真奥がここまで来た目的がいけなかったのかもしれない。
久しぶりだというのに飲み過ぎた酒がいけなかったのかもしれない。
忘れていた疼きが真奥を襲う。
密着している恵美の体温がやけに熱く感じられる。
彼の目に映っていたのは、ホテルだった。

理性が彼の口を開かせる。

真奥「……恵美、どうする。自分でタクシー乗って帰れるか」

恵美「んぅ……」

相も変わらず、要領を得ない返事しか帰ってこない。

真奥「……朝まで、休むだけだ」

聞く者もいない言い訳めいた言葉が出る。
二人の姿がホテルに吸い込まれていった。

真奥はこの手のホテルなど泊まったことがなく、部屋を取るのに少々苦労したが、無事部屋まで辿り着いた。
やたらと大きなベッドに、ひとまず恵美を寝かせる。
その端に自分も座った。
ようやく肩の荷が下りたことで一息つく。

真奥(……何やってんだ俺?)

街の喧騒から離れ、聞こえるのは恵美の吐息と自分の心臓の鼓動だけ。
やけに大きく聞こえるそれらに反比例するように、頭の中は静かになっていった。
魔王が宿敵である勇者に対して、あろうことか欲情するなど……

真奥(……いや、悪の魔王の所業としたら、むしろアリなのか?)

この世界のフィクションでの魔王の扱いを思い出し、場違いに吹き出す。
横を向き、ベッドに寝そべる恵美を見てみた。

その正体を知って以来、敵として、勇者としてしか意識したことはなかったが——
改めて客観的に見れば、美しい女性だと思った。
顔立ちは整っており、若さに見合わぬ人生経験のせいか大人びた印象を受ける。
あの人間離れした立ち回りも、実際には聖法気でブーストした身体能力のおかげであり、
素の身体つきは程よく締まった女性らしいものだ。
本人は気にしているらしい胸の大きさも身体のバランスには似合っていた。
戦闘のたびに振り回されているはずの長い赤毛も手入れがされており、さらさらと綺麗に光っている。
そして酒のせいで紅く染まったその表情は、どことなく色気を醸し出している。

真奥は、身体が熱くなるのを感じた。
その熱に突き動かされるように、恵美との距離を縮める。
無心のまま、その手を恵美の頬に添えようとして——

恵美「……おとう、さん……」

手が、止まった。

少しの間そのまま固まる。
恵美が起きた様子はない。

やがて真奥は立ち上がると、部屋のできるだけ隅に——恵美から離れた場所に、無造作に寝そべった。

真奥(……今、何を思ったんだろう、俺は)

触れたいと思った。
だが触れられないと思った。
いや、今の自分には、触れる資格がないように——

真奥(……馬鹿らしい)

今日は自分も恵美も、少しおかしくなっている。
何も考えずに眠ろう。朝になれば全て元通りだ。
身体の疼きはそのまま、真奥は目を閉じた。

触れて欲しいと思った。
だが触れてくれなかった。
もしあのまま触れてくるようなら、その場で聖剣を取り出し貫いてやったものを。
それは半ば本気の思いだった。

恵美(……なんて、嘘ね)

どこかで分かってしまっている。
彼はそんなことをしないから彼なんだと。

意識ははっきりしている。だが酔いは抜けず、頭がぼうっとする。
その熱に浮かされたまま、取り留めのない考えを巡らせる。

恵美(あいつが、想像通りの、物語に出てくるような、単純な悪であれば良かった)

恵美(この手で殺めることに何の躊躇いも覚えないような相手なら良かった)

恵美(……そうだったなら。こんな、もどかしさも、苦しみもなかったのに)

恵美(こんな中途半端な思いをするくらいなら、いっそ何も知らなければ)

恵美(何の因縁もない、ただの真奥貞夫と遊佐恵美なら、もしかしたら……)

律儀に部屋の隅で、壁にくっつくようにして寝息を立てる真奥を見る。

恵美(……馬鹿らしい)

自分とあの男には、勇者と魔王としての関係しかないのだ。
どうせ互いの身内を殺しあった仲。それしか、要らないのだ。
それ以上は何も考えず、恵美は目を閉じた。

真奥が目を覚ますと、辺りには誰もいなかった。

真奥(……先に帰ったか?)

酒の抜け切らない頭で考えながらしばしぼうっとしていると、ドアを閉める音が聞こえた。
その方向には、微妙に髪が濡れている恵美の姿。
どうやらシャワーを浴びてきたらしい。
服は昨夜のままだった。

恵美「あら、起きた?」

真奥「……おう」

見たところ、昨夜の酔いは残っていないようだった。

真奥「……一応言っとくがな、これは——」

恵美「昨夜のことは、途中から覚えていないんだけど」

遮るようにして恵美が言う。

恵美「大体想像付くわよ。終電なくなっちゃって仕方なく泊まった。そうよね?」

真奥「……そんなとこだ。お前ベロンベロンだったぞ」

恵美「まったく、勇者としてあるまじき失態だわ。今後深酒は控えないと」

真奥のほうは見ずにそう言い切る。

真奥(……怒ってんのかな? まあ、いきなり俺とホテルにいりゃ怒るよな)

真奥(でも自分にも非があるから何も言わんってとこか。助かった……と思うべきかな)

そのまま視線も言葉も交わさず、二人はホテルを出た。
隣り合って新宿駅に着くまでその状態は変わらなかった。

それなりに早い時間ではあるが、土曜ということもあり新宿駅東口にはすでに多くの人通りがあった。
改札に降りる前に、恵美が財布を取り出し真奥に数枚の札を渡そうとする。

恵美「これ。昨日のホテル代と、酒代。割り勘ね」

真奥「ん? ああ、んー……」

借りは作りたくないということなのだろう。
無論真奥としても貸すつもりはなかった。なかったが……

真奥「……酒代だけもらおう。ホテル代は俺持ちでいい。連れ込んだのは俺だし」

恵美「はっ? 何よそれ」

恵美が表情を崩し驚く。それはそうだ。
爪に火を灯すような生活の真奥にとって、千円単位の金となれば大金だった。
真奥自身も同じ認識である。貰えるものは貰うつもりだった。
だが——

真奥(なんか分からんが、貰いたくない気がする)

その感情は真奥にとって分類不可能なものではあったが、あえて名を付けるとすれば……
男の意地とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。

真奥「というわけで、いらん」

恵美「どういうわけよ! あなたに借りを作るなんて真っ平御免なんだから、とっとと受け取りなさい!」

真奥「言ったろ、連れ込んだのは俺なんだから俺が払う! 意地でも受け取らねえ!」

言い合いが始まる。邪気のないケンカが。
その二人の姿に昨夜の面影はなく、また二人とも——認めはしないだろうが——安心のようなものを感じていた。

真奥(ああ、そういや俺と恵美はこんな感じに話してた気がする)

恵美(やっぱりこいつは私の敵だわ。不倶戴天の敵だわ)

真奥(今は、これでいい)

恵美(今は、これでいい)

ぎゃあぎゃあといい年をした男女が言い合っているのを歩きながら横目で見ていく通行人達。
その中に、立ち止まり凝視している人影があったことに、二人は気づかなかった。

千穂「……真奥さん、遊佐さん……?」

真奥「え」

恵美「え」

振り返れば、驚愕に固まった顔の千穂がいた。

真奥「あれ、おはようちーちゃん……な、何故こんな早く?」

千穂「友達と、遊ぶ約束があったんですけど……」

恵美「へ、へぇー」

真奥と恵美の顔が引きつる。千穂の表情が変わらない。

千穂「あの、今」

千穂「ホテルって……」

びくん! と二人の肩が跳ねた。

真奥(やべえ! なんかやべえぞ恵美!)

恵美(わ、分かってるわよ!)

咄嗟にアイコンタクトで意思を伝える。
恵美としても千穂を悲しませること、誤解させることは不本意だった。

恵美「あ、あのね、千穂ちゃん、それは誤解で、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」

千穂「……はい」

恵美「えーと、つまり……お酒って怖いのよ! ワケ分かんなくなっちゃうから、千穂ちゃんも大きくなったら気をつけて——」

真奥「恵美ぃぃぃぃぃぃぃ!?」

真奥が絶望の雄叫びを上げる。
駄目だこの女、混乱してやがる。
何か、今のセリフは、どこかを致命的に間違えている。

千穂「……ふ、二人とも、やっぱり……」

千穂の顔が驚きから悲しみに変わり、目に光るものが溢れだし——
そのまま後ろを振り向き駆け出した。

千穂「ごめんなさああああああああい!!」

真奥「ちーちゃあああああああああん!!」

恵美「千穂ちゃあああああああああん!!」

その後、二人が全力疾走する千穂に追いつき説得するまで、実に小一時間を要した。

真奥「……帰ったぞー」

漆原「おかえり。昨夜はお楽しみでしたね」

真奥「んなわけあるか、馬鹿。知り合いと朝までファミレスで話してたんだよ」

パソコンに向かう漆原の微妙に的を射た冗談を流し、畳に座る。
部屋の隅を見れば、畳に横たわって眠っている芦屋がいた。

真奥「あれ、芦屋まだ寝てんのか? 珍しいな」

漆原「まだっていうか、さっき寝たよ。魔王様がお戻りにならないが何かあったのだろうか……とか昨夜ずっとうるさかった」

真奥「……そりゃ悪かった。お前に連絡入れときゃ良かったな」

それにしてもやたらと疲れた、と嘆息する。
ふと漆原に聞いてみたいことが思い出された。

真奥「なあ、漆原」

漆原「何さ」

真奥「なんで恵美って俺らを殺さないんだろな?」

漆原「また唐突だね。それは僕が聞きたいけど」

身体をパソコンに向けたまま漆原が言う。

漆原「正直僕、オルバと組んだときは失敗したら死ぬと思ってたよ? 何せ魔王と勇者にケンカ売るんだし」

真奥「俺のやり方は分かってんだろ。倒した敵は味方だ。芦屋だって誰だって、そうして味方にしてきた」

漆原「まあ、真奥がそういう奴だってのは知ってたけどさ」

漆原が苦笑した。

漆原「でも勇者の方はほら、あいつの村を滅ぼしたのは僕の軍なわけで」

漆原「どっちかっていうと仇としては真奥より僕じゃない? だから生きてるのが不思議なくらいだよ」

真奥「……言われてみりゃ、そうか」

悪魔大元帥ルシフェルを勇者の故郷がある西大陸に送ったのは魔王だが、西大陸で暴虐の限りを尽くしたのはルシフェル軍だ。
大元が一番の仇、と考えているのかもしれないが、それにしても不思議なところではあった。

漆原「多分真奥が僕を引き取ったからかな、って思ってるんだけど」

真奥「それが何の理由になるんだ。俺だって無茶苦茶嫌われてんぞ」

漆原が珍しく、少し考えこんでから言葉を続けた。

漆原「人間の感情について、個人的に考えたことがあって」

漆原「感情の制御において一番難しいのって、『持続』じゃないかと思うんだ」

真奥「持続?」

漆原「そ。それが簡単なら、愛がなくなって別れる恋人たちも、明日から頑張ろうなんて言うやつもぐっと減ると思うよ」

真奥「……つまり?」

漆原「つまりさ。遊佐の場合は父親が殺された怒りを糧に戦い続けてきたって聞いたけど……」

漆原「それは、昔ほど強い感情じゃなくなってるんじゃないかなって」

にわかには信じ難かった。
真奥はその怒りのあまり、涙まで流して自分を罵る恵美を見ている。

漆原「そりゃあ、怒りは残ってはいるだろうね。けどそれはもう、問答無用で相手を八つ裂きにするほどじゃない」

漆原「例えば、仇が遵法精神旺盛で、人間のために頑張って働く一社会人になってたら殺す気が萎える程度に」

漆原「今の遊佐の、敵対するけど戦うでもないって中途半端な位置はそれの表れじゃないかな、と」

真奥「……要するに、俺が真面目に働いてるからとりあえず見逃してて、その俺が保護してるからお前も見逃してるってことか?」

漆原「推測だけどね」

真奥は天を仰ぐ。
もしも漆原の言うとおりだとしたら、あの年端もいかない少女の想いは、一体どこに向かえばいいのだろう。
彼女に苦しみを与えている自分の思うことではないが、不毛さを感じずにはいられなかった。

真奥「……俺、やっぱり普通に暴力で世界征服してたほうが良かったのかな?」

漆原「それが真奥のやりたいことならいいけど。心にもないこと言わないほうがいいんじゃないの」

実際、そうするつもりも起きなかった。
今の世界、立場で新しく得たものを捨てる気はないし、彼女が敵であることに変わりはない。

漆原「で、だ。今の話を踏まえて」

漆原「分かりやすく言えば、遊佐は真奥に対して態度が緩んできてると言えると思うんだけど」

真奥「お、おう?」

なんだ。そういう話なのだろうか?
というか、急に漆原の雰囲気が変わった。
先ほどまでのそれなりに真面目な雰囲気から、いつものニート臭溢れる雰囲気に。

漆原「真奥は知らなかったみたいだけど、パソコンには検索履歴というものがあってね」

真奥「お……おう?」

言葉の意味は真奥には分からなかった。
だが、何か不穏な空気が漂ってきていることは分かった。

漆原「そこにきて不明瞭な外出、そして帰るなり遊佐の話題と来た」

漆原が振り向いた。
ニタリと嫌らしい笑顔を浮かべて、言う。

漆原「勇者の抱き心地はどうだった? 性に目覚めた魔王様」

真奥「ヤってねえええええええええええ!!」

芦屋「ハッ! ま、魔王様! もしや遊佐を殺ったのですか!?」

真奥「それも違う! 寝てろ! てめえも寝てろ漆原ああああ!」

梨香「おはよー! こないだ真奥さんとどうだった? 恵美」

恵美「……どうもこうもないわよ、置いて帰るなんてひどいじゃない」

梨香「何、なんかあったの?」

恵美「そんな顔を輝かすような良いことなんてないわよ……おかげであいつとホテルに泊まる、ハメ、に……」

梨香「……」

恵美「……」

恵美「……違うのよ? これはね、」

梨香「え、恵美! ちゃんと避妊した!? 良いことじゃないって、もしかして失敗、」

恵美「し、ししししてないわよそんなこと!?」

梨香「避妊しなかったの!?」

恵美「そ、そうじゃなくて! ああもう、梨香あああああああ!!」


おしまい

物語にツッコむには無粋な点ですが、他の描写がリアルなだけに気になります。
彼ら一体どうやって性欲処理してるんでしょうね。
というか、性欲あるんですかね。個人的にはたらく魔王さま!最大の謎だと思います。

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