音で撫でられた。
優しい調が耳朶に滑り込んできて、あまりにも美しかったものだから自然と心に染み入るようで、それが誰かの歌声だと気付くのに暫くの時間を要した。
どうやら、いつの間にか寝ていたようだ。
目を覚ます。ぼんやりと視界が滲んでいて、幾度か目を擦ると徐々に冴えてきた。辺りを見渡すと流しに立つ女性の後ろ姿を見つける。指で梳くに抵抗のなさそうな、美しい髪を腰まで伸ばした女子生徒。どうやら紅茶の用意をしているらしいと一目で察することができたのは、すでにそれが馴染みの光景となっていて、いつもの奉仕部の日常であったからだ。
雪乃「写真には写らない、美しさがあるから」
何か良いことでもあったのだろうか。
小さく歌いながら紅茶の準備をすすめる雪ノ下の後ろ姿を眺めながら、今、その顔は綻んでいたりするのだろうかと好奇心が鎌首をもたげた。けれど、声をかけることはしない。そのために歌が途切れては勿体ないと思ったからだ。
えらく機嫌の良さそうな雪ノ下を見つめながら、耳心地のよい彼女の歌声を楽しむ。
雪ノ下「ドブネズミみたいに誰よりもやさしい、ドブネズミみたいに何よりもあたたかく」
俺が望んだ通り、それから暫く歌は続いたが、いよいよ紅茶の準備も整ったという段になって雪ノ下が振り返る。それが唐突だったもので、目を反らすことも狸寝入りをすることもできず、ばっちりと雪ノ下と目が合ってしまった。
雪乃「……あ、え、あの、比企谷くん?」
八幡「……おう。その、なんだ、すまんかった」
雪乃「いえ、比企谷くんが寝ているものと思って油断していた私が悪いのだから、謝られても困るのだけれど……。でも、そうね、理不尽を承知で言わせてもらうと、こっそり黙って聞き耳を立てられていた私の気持ちを慮ってくれても良かったのではないかしら。……とても、恥ずかしいもの」
最後の方は、ほとんど消え入るような声音で雪ノ下が言う。羞恥に耳まで朱に染めながら、落ち着きなさそうに制服の裾を握り締めている。
そして、少しの間、両の頬を紅潮させていたが、自分の中で折り合いをつけることに成功したのか、平時の凛とした佇まいに戻った雪ノ下が既に定位置となった席に着く。席に着いたところで、「で、歌なんか歌ってなんかいいことでもあったのか?」と問いを投げかけると、雪ノ下がガタッと椅子から転げ落ちそうになる。……雪ノ下も丸くなったなぁ。
雪乃「比企谷くん。苦辛の末、ようやく羞恥の波を鎮めることができたというのに、まだその話題を続けるつもりなの? 些か思いやりの心に欠けるのではないかしら」
ありったけの非難を声に乗せて雪ノ下が言う。
八幡「まあ、思いやりの心とか俺に期待する方が間違ってる。そんなもん持ち合わせちゃねぇよ」
雪乃「何を自慢気に言っているのかしら、この男は。本当にダメ幡ね。あなたに思いやりの心がないはずないでしょ。そのことに関しては、私と由比ヶ浜さんが保証するわ。誰が否やを唱えようと絶対的に保証する。だから、そうね、あなたを正確に評するのであれば、思いやりの心がないのではなくて、たまに思いやりの方向性を間違えてしまうということになるのでしょうね。わかったかしら、思いやりの方向音痴さん?」
そう語った雪ノ下の瞳の色は複雑だ。
呆れたような、少し怒ったような、寂しそうな、どこか諦めたような、けれど、どこか暖かで、確かにそれは慈しみの瞳だった。
はあ、と溜め息をつくと、華奢な体の内側で混ざり合っていた種々雑多な感情も一緒に切り離したようで、静かな面持ちでティーカップに口をつける雪ノ下。それから、ちろっ、とこちらに一瞥をくれる。
雪乃「さっきの比企谷くんの質問だけれど……。その、気恥ずかしかっただけで、答えるに吝かではないわ。あのね、べつに機嫌が良い方に傾いていたというわけではないの。至って普通だったわ」
八幡「そうなのか? そのわりには、雪ノ下が鼻歌まじりに紅茶を淹れているところなんて見たことがないぞ」
雪乃「それは……まあ、やはり油断していたのでしょうね。あなたが眠っていると誤認していたものだから。それに数日前から繰り返し聴いていた歌だったから、自然と口をついて出たというのも一因」
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