夏向けショートショート3本立 (28)
第一話/バチン
もう夏本番と言っていい暑さなのに今のところ梅雨が明けたという発表はなく、夜の10時が迫っても一向に過ごしやすくならない。
決して断熱性が良いとは言えない1kアパート、しかも二階だからなおさら暑いのかもしれない。
この部屋がある棟は女性専用で、玄関には電子式のオートロックが備えられていたりとセキュリティ性は多少工夫されている。
その代わり玄関を開けっ放しにはできない仕様だし、その面に備えられたシンク奥の窓は10cm程しか開かないようになっているから、部屋全体の通気性はあまり良くなかった。
それでも先週までは我慢できた。だけどもう駄目、もう無理。
あまりに不快な湿度と厳しい暑さに苛まれ、今週からは遂にエアコンを使い始めていた。
だって日曜の夕方一緒に出かけた向かいの棟のNちゃんが『まだ使ってないの? 私、6月の終わりからエアコンかけてるよ』なんて、呆れたように言うんだもの。
涼風の誘惑に負けたのは彼女のせい、私は悪くない。
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やっぱり文明って素敵。エアコンを発明した人にはノーベル賞を贈るべきだと思う。
私は伸びたTシャツの下にはブラジャーも着けず、下は脚のつけ根までたくし上げたハーフパンツという決して人に見せられない服装で、決して人に見せられないだらしない体勢をとりラタンのラグに寝そべっていた。
たぶん身体の下になっている左腕にはラグの目の型がついてしまっているだろう、知った事か。
グラスの麦茶には寝そべったまま飲めるよう、ストローを差してある。視線はTVに向けたままそれを手にとり、何度かストローを咥えるのを失敗しながら口をぱくぱくしていると不意に画面が消えた。
画面だけではない、TVの音はもちろん部屋の明かりも冷蔵庫の音も、そして私にこの快適を与えてくれていた愛しきエアコンまでも動作を停めている。
もしかして停電? でも雷も鳴ってないし、この時間に工事とかするわけもない。という事は──
──やっぱり、壁に耳を当てると隣の部屋からはTVの音が聞こえてる。
つまりこの部屋のブレーカーが落ちたんだ。
懐中電灯とか、たしか独り暮らしを始める時にお父さんが色んな工具と一緒にどこかに備えてくれたけど……うん、頭を捻ってもだめだ覚えてない。
どうしよう、真っ暗。怖いよ……嘘、怖くない。むしろ快適な寛ぎタイムを阻害されて不機嫌モード。
なんとか早く台所のブレーカーを上げなきゃ室温が上がってしまう、でも家具の角に小指をぶつけるのは嫌だなぁ。
あ、そうだ。家の電源とは切り離された電気製品が、すぐ手元にあるじゃない。
私は愛用のスマートホンを手探り、ホーム画面を下からスワイプして懐中電灯のアプリを起動した。
慣れた自室内を歩くには充分な明るさ、足元ばかりを照らしてて室内の物干しワイヤーに吊るしたタコ足を頭に喰らったのは内緒。
冷蔵庫の横の壁、ちょうど近くに置いている踏み台を寄せて上るとブレーカーのボックスに手が届いた。
開けてみるとやはり一番左のレバーが下を向いている。それをパチンと上げると『ピッ』という音と共にリビングのシーリングライトが点灯した。
エアコンもまたフラップを動かし始め、僅かに遅れてTVの音声が流れた。
ちょっとホッとする。強がりながらも、やっぱりほんの少しだけ怖かったらしい。
踏み台から足を下ろし、それを元の位置に戻そうとした、その時──
「えっ」
──バチンと音がして、またブレーカーが落ちた。再び部屋は闇に閉ざされる。
手に持ったままのスマートホンをすぐに点灯する。踏み台に上がり再びブレーカーを戻すと、さっきと同じ順序で電気製品が息を吹き返した。
今度は踏み台から降りずに数秒待つ。ブレーカーボックスの蓋も閉めない。バチン、しつこくも三度目の闇は訪れた。
電気製品を使い過ぎているのだろうか。でも思いつくのはTV、エアコン、冷蔵庫……今は洗濯機は動いていないはず。これらは今週、毎晩同時に使用する機会はあった。
暗闇の中でしばらく考えて、またブレーカーを上げる。数秒、やはり同じ繰り返し。視界は漆黒に染まった。
せめてTVを消してみようと考え、闇の中リビングへ戻る。既に電源を失ったそれにリモコンを向けても無駄だろうから、コンセントからプラグをひっこ抜いた。
もう一度リビングを抜け、台所の踏み台に上がる。ブレーカーを上げる時、心の中で『お願い』と唱えた。でも数秒後、無情にも黒いレバーはまた同じバチンという音と共に下を向いてしまった。
きっと故障に違いない。何かがよほど電気を喰っているか、それともブレーカーそのものの不具合か……そうしか考えられない。
それでも、認めないわけにはいかなかった。
このレバーが下がる時の無機質な音に、しつこく訪れ続ける闇に、私は恐怖を感じている。
視界がきかないからかもしれないけれど、耳には鼓動がやけに大きく伝わっていた。
スマートホンの照明は点けたままで、私は通話アプリの連絡帳を開いた。遅い時刻に構わず、向かいのNちゃんに発信する。
お願い、出て。願いながらゴクリと唾を飲み込んだ。
《もしもし? どしたの、こんな時間に》
5回のコール音を経てNちゃんは通話に応じた。私は強い安堵感を覚え、無意識にため息をついていた。
「ごめんね、寝てなかった?」
《うん、まだ起きてたよ》
「なんか家の電気がすぐ消えちゃうの。ブレーカーがおかしいのかもしれない」
《電気製品使い過ぎてない?》
「エアコンと冷蔵庫だけなんだよ、TVを消してみてもダメだった」
「ほんとごめんね、さすがにちょっと怖くなっちゃって……」
《ううん、気にしないで。どうしてもダメならウチにおいでよ》
「ありがと、でももうちょっと試してみる。あの……」
《わかってる、通話したままでいいよ》
私がかなり怖がっている事を察したのだろう、Nちゃんはクスクス笑っているようだった。すごくホッとしてしまったのが悔しい。
通話を繋いだまま、少し考える。
冷蔵庫を切るわけにはいかない。エアコンのプラグを抜き、またブレーカーを上げてみるしかないと思った。
それで今度こそレバーが落ちなければ食料品を無駄にする事は防げる。その後は申し訳ないけれどNちゃんの厚意に甘えるしかないだろう。
エアコン用のコンセントは高いところにあるから踏み台を持っていかないといけない。
通話は繋いでいたいけど、明かりも必要になる。スマートホンを耳から離して通話画面の右上にあるスピーカーのマークを押した。
「ハンズフリーにしたよ」
《そっちの棟の他の部屋は大丈夫なのかな》
「隣のTVの音はしてたと思う。それにウチのブレーカーが落ちてるのは間違いないし……」
両手に物を持ち、ささやかな灯りを頼りにまたリビングを戻る。私は踏み台を床に置いて上がり、エアコンのプラグを引っこ抜いた。
スマートホンのスピーカーから、Nちゃんが部屋のカーテンを開ける音が聞こえた。
《うん、他の部屋は安定して電気が点いてるみたい》
すぐに台所に戻り、また踏み台からブレーカーに手を伸ばした。レバーを持ち上げ、今度は聞く人がいるから「お願い」と声に出して言った。
リビングが明るくなり、冷蔵庫が小さくモーター音を発し始める。そして数秒後、またバチンと音がしてそれらは絶えた。
「だめだ……食べ物どうしよう。とりあえず暑いからベランダの窓を開けるよ──」
またリビングを振り返った。その時、Nちゃんはさっきまでとは明らかに違う怯えた声で言った。
《──ダメ、部屋から出て》
「え?」
《早く》
「なんで、どうしたの」
《いいから、隣の部屋に逃げ込んで!》
その時、私は気づいた。
うっすらと向かいの棟の明かりが注ぐリビングの窓、そのカーテンの隙間から片目で部屋を覗き込む人影に──
──その後、私はNちゃんの言った通り隣の部屋に助けを求め匿ってもらった。
Nちゃんはすぐ110番に通報し、間も無く警察が駆けつけた。
私が慌てて部屋から出た事に気づいた侵入者は逃げていたけど、残された梯子から割り出され翌日に捕まったらしい。
あの夜、現場を調べた警察官は私に「見て下さい」と言ってベランダの壁にある屋外コンセントを指差した。
それはところどころが黒く焦げ、縁のプラスチックが部分的に溶けて歪んでいた。その場には銅線の切れが残されており、それを差し込みショートさせていたのだという。
何度も停電させエアコンを効かなくして、私が暑さに耐えかねる事を狙っていたのだろう。
もしあの時、Nちゃんに止められる事なくベランダの窓を開け放っていたら──
第一話/おわり
第二話/空っぽの帰港
明け方と言うにもまだ早い午前四時、僕はこの小さな港に係留している自前の釣り船に荷物を積み込んでいた。
釣り船といっても客を乗せるようなサイズではない。
せいぜい友人を2~3人も乗せれば、よく考えてスペースを残さねば釣り道具の積みようがなくなるくらいのささやかなものだ。
しかし今日は一人きりでの釣行、荷物の積み方に気を遣う必要は無い。
なぜ友人を誘わなかったか、それはこの船の調子に些かの不安があったからだ。
別に深刻な不具合が出ているわけではないが、前回の釣行時なんとなくバッテリーが弱々しく感じられた。
だから今日は『もしかしたら本当に釣りに臨む事はできないかもしれない』と覚悟をした上でここを訪れたのだ。
キーを挿しスターターを捻ると、やはり前回以上にモーターが回る音は遅く弱い。
古いエンジンとはいえ寒い時期に比べればかかりやすいはずなのだが、それでも始動は叶わなかった。
まあいい、そうじゃないかとは思っていたから充電器も積んできてある。
朝まずめの出船は諦めざるを得ないが、完全にバッテリーが死んでさえいないなら時間をかければ息を吹き返すはずだ。
誰を待たせるわけでもない。
陽が昇ればキャビンの日陰に憩い、湾内の緩い波に心地よく揺られながらうとうとするのもいい。
そうしている内にチャージもできるだろう。
「──お早いですね」
キャビンに向かって屈みこんでいた僕に、斜め後ろから声が掛けられた。
振り返ると隣の船のオーナーだろう男性が、タラップを降りてくるところだった。
「やあ、おはようございます」
「これから釣りに?」
「そのつもりだったんですが……こいつが言う事をききませんでね、なにせポンコツですから」
頭を掻きながら船のコンソールあたりを小突いてみせると、隣の船の男性は「なるほど」と苦笑いした。
「おーい、降ろすぞー」
男性には数人の連れがいた。
これから荷物を降ろすのだろう、その内の一人が波止の上から手助けを求めている。
「ああ、悪い。下にもう一人は欲しいな」
「わかった」
現在はちょうど満潮で、船に降りるにはタラップ三段ほどの高低差しかない。
しかし彼らが降ろそうとしている荷物には大きなクーラーボックスが含まれる。
「せーのでいくぞー」
恐らくレジャー用としては最大級の150Lサイズ、氷の入った特大のそれはさぞ重い事だろう。
タイミングを合わせ、四人がかりで船に積み込んだ彼らは揃って大きく息をついていた。
「アンカーは?」
「最初に積み込んだよ」
「じゃあみんな乗り込もう」
隣の船は僕のものに比べればとても立派で、スターターの音も軽やかにエンジンは一発始動した。
かなり外洋にも出られそうな船だが、アンカーを気にしていたという事は今日は浅場で釣るつもりなのかもしれない。
「お気をつけて、良い釣果を」
「ありがとう、そちらも早く船が機嫌を直してくれるといいですね」
「ははは……まあ気長に待ちますよ」
エンジンの回転が上げられ、白い船体が後進する。
ゆっくりと係留の列を脱し、舵を握る男性は僕に軽く会釈をしてサングラスをかけた。
僕も会釈を返し、湾内を徐行しつつ出てゆく彼らを見送った。
港の出入り口があるその先、東の空は僅かに明るくなり始めていた。
それから三時間ほど経った頃、僕は早朝に目論んだ通りキャビンの日陰にマットを敷いて寝そべっていた。
充電が満足なレベルに達するには今しばらくかかるだろう。
まだ涼しいこの時間、こうして待つのはなんら苦ではない。
時おり港を出てゆく船の音に目を覚まし、その度にチャージャーのLEDが何色になっているかだけを確認してまた瞼を閉じる。
潮の香りと心地よい波音に包まれ、いくらでも寝ていられそうだ。
また船が通りかかった。薄く目を開け、相変わらず黄色のままのランプを確かめる。
たとえこのまま釣りには出られなかったとしても、これはこれで良い休日だ──そんな事をぼんやりと考えていると、今度のエンジン音はやけに近づいてくる事に気付いた。
その主は明け方に出て行った隣の船だった。
少し戻りが早すぎる気がするが、なにかトラブルでもあったのだろうか。
僕はむくりと上半身を起こした。
「お帰りなさい」
「ああ、どうも。まだ船の機嫌は直りませんか」
「ええ今のところね、持ち主と同じく寝ぼけたまんまです」
一人がロープを手にタラップを登り、波止に備えられたビットにそれを舫った。
どうやら忘れ物を取りに戻っただけではなく、本当に引き上げるようだ。
「お早い戻りでしたね」
「散々の釣果でしたよ、雑魚も掠らない。こんな大袈裟なクーラーを持ってきたのが恥ずかしいくらいです」
決まりが悪そうに顔を曇らせる男性。
他の仲間達はいそいそと積荷を纏め始めた。
「まったく、新品のアンカーも根掛けて無くすし踏んだり蹴ったりだ」
「そんな日もありますよ」
「そちらはこれから釣りに出るというのに、景気の悪い事で申し訳ない」
潮の加減や水温、様々な要因はあれど結局のところ釣果は時の運というもの。
残念ながら今日の彼らは豊漁の神に加護を受ける事は叶わなかったようだ。
「渡すぞー」
「はいはい、掴んだよ」
波止の上に立つ一人がさほど重くもなさそうにクーラーボックスを片手で引き上げる。
人間でも入りそうなそれが空っぽとは、なんとも切ない事だ。
第二話/おわり
第三話/交替人員
──ある日を境に、高山さんは変わった。
戦後間もなく開院し、現在では特に心臓手術について定評のある鏡尾病院。
私たちは看護師としてそこに勤めている。
経験が豊富であれば当然技術レベルは向上する。
確かにこの病院は他の追随を許さない程の数、心臓手術をこなしてきた。
でもそれが全て成功するわけは無いし、術後にトラブルが発生した事例も一定の頻度では存在する。
たくさんの手術を行い多くの命を救ってきたという事は、それに比例してその病院で亡くなった患者も多数に上るという事に他ならない。
それらの中で特にレアケースだった例として、突発性の心疾患で運び込まれた患者の胸を開けると内臓逆位だったという話を聞いた事がある。
心臓も他の臓器も、鏡に映したように左右逆の配置・形状だったのだ。
そういった症例の患者を診た事の無い医師は思うように施術を進める事もできず、残念ながらその患者さんは亡くなってしまったという。
病院名に『鏡』とつくのに鏡映しの命を救えなかったとは皮肉な話だ。
しかし今の私はそれとはまた別の『鏡』に悩まされていた。
私たち女性の看護師の内で独身の者の一部は、その病院の福利施設である女子寮に住まっていた。
『ねえ、やっぱりチーフの時も鏡に落書きがあったって』
今日の夕方、同じシフト上がりだった吉沢さんは私の部屋で雑誌を読みながらそう言った。
『やめてよ、このあとお互い一人で寝るんだから』
『ごめん、どうしても考えちゃうんだよ』
築20年が迫るお世辞にも綺麗とは言い難い寮。
噂によればこの施設を新築する頃、同時に改築された病院の北棟から発生した廃材を多数再利用しているという。
確かにこの寮には目に見える範囲でもいくつか建物の年代にも増して古いと思われる構造物があった。
例えば廊下の電灯、食堂のシンク、そして吉沢さんが口にした『共同洗面所の鏡』もそのひとつだった。
吉沢さんが自室に戻ったあと独りきりになった私は、それらの会話とここ最近の出来事を思い出して得体の知れない恐怖に襲われていた。
2ヶ月ほど前の夜、同僚の金切り声が廊下に響いた。
何人かが慌てて駆けつけてみると、声の主は鏡の前に屈み込み震えていた。
そして鏡を見ると、そこにはまるで血を指でひいたかのような文字でこう書いてあった。
《助けて そこにいる私は偽者です》
皆、その文字を読み取るに多少の時間を要した。
なぜならそれは字の向きも並びも左右反対だったからだ。
あまりの不気味さに誰も言葉を発する事ができない中、一人だけ前に歩み出る者がいた。
『馬鹿馬鹿しい悪戯ね……「私」って誰の事よ』
彼女こそ『高山』さんだった。
美人というタイプではないけれど、おっとりとした性格とそれに見合った可愛らしい容姿で誰からも好かれる人だった。
高山さんは洗面台に備え付けられた化粧落としのシートを2枚引き出し、それで鏡を拭こうとした。
『つまらない事で大声なんか上げないで頂戴』
屈み込む同僚にそう吐き捨てた高山さんの声や表情は、今まで誰も見たことのないものだった。
そう、それはまるで──
『あら? ちっとも落ちないわ、どうしたのかしら』
『ねえ……これ、鏡のガラス内面に書かれてるんじゃ……』
『ふん、手の込んだ悪戯ね』
──正反対の性格をした別人のように感じられた。
それから今までの間に4回も同じような出来事があった。
鏡に現れる悪戯、裏面から書いたとしか思えない血糊の文字。
でも鏡というものは、ガラス板の裏側に不透明なメッキを施して作られている。
つまり表から透けて見える落書きは、誰も触れないはずの境界面に書き込まれている事になる。
そしてその文字は誰も見ていない内に消え去ってしまうのだ。
度重なる人の仕業と思えない悪戯に怯え、鏡を撤去しようと言い出す者もいた。
しかし鏡はコンクリートの壁に埋め込むように施工されていて、業者でなければ外す事は叶いそうになかった。
2度目の悪戯の時、『益田』さんがおかしくなった。
3度目には後輩の『谷』ちゃんの雰囲気が変わった。
4度目の時は皆が怖がっていた『金森』チーフが、別人のように優しくなった。
そしてそれらの人には、ある共通した変化が現れていた。
『あの、チーフ……ここの字が違います』
『あらごめんなさい。嫌だわ、歳かしらねぇ』
字が下手に、不正確になっている。
そして幼稚園児のように箸の使い方が不器用になっている。
それはまるで『慣れない左手』でその動作を行っているかのようだった。
もう随分前から私の中には、ある仮説が立っていた。
もしかして、変わってしまった人たちは──
「──そんなわけない、か」
わざと声に出して仮説を否定する。
あくまで恐怖を紛らわせただけと解っていても、そうしなければならなかった。
何故ならこれから就寝する私は、その洗面所に向かうつもりだったから。
だって冷静に考えれば有り得ないようなオカルト仮説なのに、その馬鹿げた恐怖に縛られて歯も磨かず髪も梳かずに寝るなんて嫌だった。
できるだけいつもと同じ動作と心持ちで部屋のドアを開ける。
少し薄暗い廊下を歩き、洗面所を目指す。
途中、いくつもの個室の前を過ぎ、中から聞こえるTVの音に少しだけホッとした。
吉沢さんの部屋の前、影山さん、矢吹さん……その次が谷ちゃんの部屋。
彼女は少し暗い性格の地味な子だったのに、今はやけによく喋るようになった。
藤崎さんの部屋を過ぎ、小島さんの部屋を過ぎた……その次が──
「こんばんは」
──心臓が止まりそうになったけれど、声を上げる事はなんとか堪えた。
目を遣っていた扉が突然開いたのだ。
そこから現れたのは部屋の主、最初に変わってしまった高山さんだった。
「……こんばんは、こんな時間からお出かけ?」
「ええ、今日は準夜勤だったから。もう食事もコンビニ物で済ませようと思って」
「それはお疲れ様、いってらっしゃい」
努めて自然に言葉を交わし、彼女の前を通り過ぎる。
彼女もこちらに背中を向けた……そう思った時、高山さんは思わぬ言葉を発した。
「今夜は鏡に何事も無ければいいわね」
「どういう意味?」
「別に、あと一度だけ悪戯が起きそうだと思ったのよ」
なんの根拠があっての発言かは解らなかった。
ましてや彼女は最初の悪戯の日、それを馬鹿馬鹿しいと言い放った人だ。
「気にしないで。おやすみなさい『天田』さん」
「……おやすみ」
疑念は解けなかったけれど、私は気にするのをやめた。
真意の掴めない言葉に少し気分を害した私からは、幸いにも恐怖心が失せていた。
たぶん今の私は不貞腐れたような顔をしているだろう。
口を尖らせて、眉間に少し皺を寄せていると思う。
わざわざまた弱気な顔に戻る必要はない。
私は敢えて表情を変えもせず、そのまま例の鏡に向き合った。
そこに映る私は、笑っていた。
その時、私は理解した。
鏡映しで正反対、鏡映しで対称形。
さっき高山さんが言ったあと一度だけの悪戯、変わってしまう最後の一人は──
第三話/おわり
投下は以上です
伝わりますように…
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