【モバマス】 I believe... (46)
幸子の話
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三月とは思えない、暑い日だった。
埼玉県のとあるショッピングモール。そこの常設ステージで、アイドルたちによるライブが行われていた。
ライブを終えた二組のアイドルユニットが観客に手を振りそれぞれ両サイドへ捌け、入れ替わりで新たに数人のアイドルがステージへ上がる。観客たちは、新たに登場したアイドルを歓声で迎える。
今時別段珍しくもない、アイドルによる興行ステージの一幕であった。
その様子を、ステージ最後方のフェンスの、更に後ろから眺める男が二人。
一人は片手でひさしを作り、目を細めステージを眺め、もう一人の男はフェンスに寄り掛かり、温くなった缶コーヒーを静かに口に運んでいた。
「出て来ましたよ、先輩」
熱心にステージを眺めていた男が、隣に向けて言う。ステージの上では、入れ替わりで登場したアイドルたちが笑顔で挨拶をしている。
「ああ、そうだな。出てきた」
先輩と呼ばれた男は、欠伸を噛み殺しながら呟く。
「観ててやらなくても良いんですか?」
「見ているさ。普段レッスンしている姿を、嫌という程な」
今度は人目も憚らず大欠伸をし、力なく答える。その両目の下には、濃い隈が出来ていた。
「練習通りに出来ていれば問題無い。どうせ、勝ち負けに拘るもんでもないしな」
「まあ、それはそうですが」
彼は再び手でひさしを作り、ステージへ目を向ける。
この興行は、ただのライブステージではない。ライブバトルと呼ばれる、競技の要素を含めたものである。一度に二組以上のアイドルユニットがステージに登り、それぞれ歌とダンスを披露して競い合う。
勝敗を決めるのは、会場へ来た観客たちであった。彼らは、より優れたパフォーマンスを行ったと思うアイドルユニットへ票を投じる。
だがしかし、単純な実力勝負というものではない。ライブバトルはあくまでも興行であり、大差のつく決着は暗黙の了解として禁じられていた。重要なのは、今そのアイドルが、どの程度の相手とライブができるか、という点である。それが、先程の『勝ち負けに拘るもんでもない』という言葉の真意である。
今回のステージは、プロダクション対抗の形式を取っている。そのため、対戦相手の選出には一段と気が配られていた。
ステージの上ではアイドルたちの自己紹介とトークが終わり、いよいよ本命の歌とダンスが始まろうとしている。ステージに立つアイドルユニットの片方、今まさに歌を歌い始めようとしている少女たちが、彼が『先輩』と呼ぶ男が担当し、プロデュースしているアイドルであった。
滅茶苦茶読みづらいから改行して再投稿
三月とは思えない、暑い日だった。
埼玉県のとあるショッピングモール。そこの常設ステージで、アイドルたちによるライブが行われていた。
ライブを終えた二組のアイドルユニットが観客に手を振りそれぞれ両サイドへ捌け、入れ替わりで新たに数人のアイドルがステージへ上がる。観客たちは、新たに登場したアイドルを歓声で迎える。
今時別段珍しくもない、アイドルによる興行ステージの一幕であった。
その様子を、ステージ最後方のフェンスの、更に後ろから眺める男が二人。
一人は片手でひさしを作り、目を細めステージを眺め、もう一人の男はフェンスに寄り掛かり、温くなった缶コーヒーを静かに口に運んでいた。
「出て来ましたよ、先輩」
熱心にステージを眺めていた男が、隣に向けて言う。ステージの上では、入れ替わりで登場したアイドルたちが笑顔で挨拶をしている。
「ああ、そうだな。出てきた」
先輩と呼ばれた男は、欠伸を噛み殺しながら呟く。
「観ててやらなくても良いんですか?」
「見ているさ。普段レッスンしている姿を、嫌という程な」
今度は人目も憚らず大欠伸をし、力なく答える。その両目の下には、濃い隈が出来ていた。
「練習通りに出来ていれば問題無い。どうせ、勝ち負けに拘るもんでもないしな」
「まあ、それはそうですが」
彼は再び手でひさしを作り、ステージへ目を向ける。
この興行は、ただのライブステージではない。ライブバトルと呼ばれる、競技の要素を含めたものである。一度に二組以上のアイドルユニットがステージに登り、それぞれ歌とダンスを披露して競い合う。
勝敗を決めるのは、会場へ来た観客たちであった。彼らは、より優れたパフォーマンスを行ったと思うアイドルユニットへ票を投じる。
だがしかし、単純な実力勝負というものではない。ライブバトルはあくまでも興行であり、大差のつく決着は暗黙の了解として禁じられていた。重要なのは、今そのアイドルが、どの程度の相手とライブができるか、という点である。それが、先程の『勝ち負けに拘るもんでもない』という言葉の真意である。
今回のステージは、プロダクション対抗の形式を取っている。そのため、対戦相手の選出には一段と気が配られていた。
ステージの上ではアイドルたちの自己紹介とトークが終わり、いよいよ本命の歌とダンスが始まろうとしている。ステージに立つアイドルユニットの片方、今まさに歌を歌い始めようとしている少女たちが、彼が『先輩』と呼ぶ男が担当し、プロデュースしているアイドルであった。
しかし、当のそのプロデューサー本人は、フェンスに寄り掛かったまま、うつらうつらと船を漕いでいる。
「随分とお疲れみたいですね」
「この時期は特にな。デビューの準備やら、挨拶回りやらで、毎日大わらわだ」
「どうなんですか、新しく担当する事になった子たちは?」
「そりゃあもう。俺が手ずからスカウトしてきたアイドルだからな。間違いなくトップに立てる」
一切の躊躇なく言い切る。
彼には、その自信が心底羨ましかった。現に、この男が去年デビューさせたアイドルユニットは1年目にして大きく名を上げ、たった今も、彼の眼前のステージで見事な歌とパフォーマンスを披露しているのだ。
「それはそうと、お前の方はどうなんだ?」
唐突に話を振られる。彼は、返事の代わりに、大きな溜息をついた。
「オーディションの審査用紙とビデオは全部渡しただろ? 良い子はいたか?」
「それは、まあ」
思わず口ごもる。
「担当アイドルのいないプロデューサー、ってのもおかしなものだな」
隣で愉快そうに笑う男の姿を、恨めしげに睨む。
彼もまた、アイドルのプロデューサーであった。しかし、肝心要の担当するアイドルがいない。
他プロダクションより数組のアイドルユニットが彼の所属するプロダクションへと移籍をする、という話が昨年末から存在していた。だが、話も殆ど纏まったと思われたつい一ヶ月ほど前、これが急に立ち消えてしまった。
理由は、双方の上層部同士での揉め事らしい、としか伝わってきていない。
自然、玉突き的に発生するはずだったアイドルたちの再配置も行われなくなり、移籍の話を前提としてアシスタントから昇格した彼は、担当するアイドルのいないプロデューサーとなってしまった。
「上はなんて言っているんですか?」
「つい最近までは、どうにかして新年度合わせでもう一ユニットくらいはデビューさせてくれ、なんて言っていたさ。でもまあ、やっぱり厳しい」
今年のアイドルは不作である。これは、彼らのプロダクションに限った話ではなく、業界全体の話であった。
空前のアイドルバブルを前にアイドルの卵の獲得競争は激化し、少しでも見込みのありそうな者はとにかく囲い込む、という状態がここ数年続いてきた。苛烈な青田買いの影響は急激に表れ、ついには新人アイドルをデビューさせたくともロクな候補生が存在しない、という惨状となってしまっていた。勿論これは、最低限度の質を求めるならば、という話であるが。
そのような時勢の煽りを受け、彼の所属するプロダクションも、新年度のデビューを目処として何度かオーディションを開催したが、しかし合格者はゼロであった。今年デビューする数組のユニットは、所属するプロデューサーたちが自らスカウトしてきた者たちである。
「当然、そんな提案は、下のプロデューサー連中が猛反対したよ。アイドルの質を下げるのは信用問題だし、何より、明日は我が身の話だ」
「どういうことですか?」
「誰も、見込みの持てないアイドルなんて担当したくない、って話さ。プロデューサーなんてものはアイドルと違って所詮サラリーマン、みたいに言う奴もいるが、こっちだって結果を出さないと首が飛ぶんだ。それに――」
彼は顔を上げ、言葉を続ける。
「こんな仕事やってると、思うんだよ。どうせアイドルのプロデュースなんて仕事をするなら、担当している奴らをトップまで登り詰めさせてやりたい、ってな。一度そう思ったら、もう適当な子を担当するなんてことは考えられない」
視線の先はステージ。彼も釣られてそちらへと目を向ける。
「どうやら、勝ったようだな」
「はい。そうみたいですね」
ステージ上では、ライブバトルの結果が背後の巨大なモニタに表示されていた。
横を見る。男の顔は、先程の言葉とは裏腹に、満足げに綻んでいた。
彼に、その気持ちはいまいち理解出来ない。いや、頭では想像できるが、心が追いついていなかった。
――俺が、大した理由も野望もなく、アイドルのプロデューサーなんてものになったからかもな。
彼は自嘲気味に、心の中で呟く。
「いずれわかるさ」
彼の考えを読み取ったかのように言う。
「いずれ、ですか?」
「俺だって、別に元からこんな風に考えていたわけじゃない。最初は、世のサラリーマンらしく、ただ単に食いっぱぐれないために仕事をしていたんだ」
「じゃあ、どうしてそう思うようになったんですか?」
「そりゃあ勿論、決まっているだろ」
男は残ったコーヒーを一息で飲み干すと、少し照れたように言う。
「そう思わせるような子に、出会ったからだ」
そう思わせるような子。
一人の男の、生き様を変えたと言っても過言ではない子、である。
「――プロデューサーになればいつか、会えるんですかね。そんな子に」
そんな劇的な出会いが本当にあるのか。それは一体いつなのか。考えただけで気の遠くなる話だった。
「いっその事、街中にスカウトにでも出てみたらどうだ? 案外、そういう所で見付かるかもしれないぞ?」
「スカウト、ですか。経験ゼロの若造が連れて来た子を、採用してくれるんですか」
「そりゃあ、普通に考えたら厳しいが、今回は事情が別だ。もし反対されたらこう言ってやれ。『そういえば、俺の担当するアイドルはどこにいるんですかね? 確か今年、他からのアイドルの移籍の話があったような』ってな」
「そんな事、言えるはずが無いじゃないですか」
無茶な事を言う、と彼は呆れる。
「まあ、そう慌てる事もないさ。上の方も、時期的に新年度合わせのデビューは殆ど諦めている。どうやら、もうさっさと頭を下げてお前をアシスタントに戻そう、なんて話になっているみたいだぞ」
事実上の降格である。だが、彼は別段、悔しいとも思わなかった。
「なら来年に期待しますよ。それより、そろそろ最後のステージが始まるみたいです」
「ん。そうみたいだな」
ステージの上では、司会者が観客に向け、最後のライブバトルの開始を宣言し、客席の興奮を煽っていた。
左手首の時計を見る。何か手違いがあったか、先ほどまでタイムシート通りに進んでいた進行が、少し遅れている。
「さて、そろそろ戻るか。撤収作業も始まる頃だろ」
「そうですね」
フェンスに預けていた身体を起こし、大きく伸びをして、最後にステージを一瞥する。
そこで、異常に気付いた。
「先輩。あれ――」
「ああ」
彼が声を掛けた時には、既に男はポケットから携帯電話を取り出し、何処かに電話を掛けようとしていた。
再び、ステージを見る。壇上には、二人の少女。
片方のアイドルは、当然彼も良く知る人物である。マイクを手にしたその少女は、明るくお決まりの挨拶をする。
「こんにちはー! ウサミン星からやってきた、ウサミンこと安部菜々です! 皆さん、ナナに続いて、叫んで下さいね! せーの、ウーサミン!」
会場から一斉に歓声が上がると、少女は嬉しそうに客席に向け手を振る。場慣れした、見事な振る舞いであった。
永遠の十七歳を自称するアイドル、安部菜々である。彼の所属するプロダクションの中でも、稼ぎ頭の人気アイドルだ。彼女目当てに遥々このステージを観にきたという観客も多いであろう。
当然、ライブバトルの相手も、相応の者が求められる。実際、彼女からすれば少々格は落ちるものの、人気アイドルといっても差し支え無いアイドルの出演が予定されていた。
だがしかし、ステージに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
少女は緊張しているのか、マイクを両手で固く握り締め、ステージをキョロキョロと見回している。とてもではないが、ステージ慣れしている様子には見えない。
安部菜々による挨拶と軽いトークが終わり、会場に、出演者変更のアナウンスが流れた。表向きは出演者急病のためとのことであったが、実際はどうであろうか。
「どうしかしたんですか、先輩?」
「どうもこうもない。アナウンスの通りだと」
電話を切り、吐き捨てるように言う。
「ワケアリ、ですか?」
「恐らくな。そうでもなきゃ、こんなデタラメな組み合わせにならない」
「まさか、あの子、新人ですか?」
ステージの上でガチガチに緊張している少女を横目で見る。
「それならまだマシだ。今年の春、デビューする予定の子らしい」
思わず閉口する。デタラメなどというレベルの話ではない。
再びステージに目を向けると、司会者に促され、アイドル未満の少女が口を開くところであった。
「え、えー。皆さん!」
緊張のためか、声が裏返る。
少女はざわめく観客に一瞬気圧されたような表情をするが、すぐに気を取り直し、言葉を続ける。
「ボクの名前は輿水幸子です! 一番カワイイボクは、当然世界一カワイイアイドルになる予定ですので、是非覚えておいて下さいね!」
会場のざわめきが一段と大きくなる。しかし、今度は怯むことなく、少女は堂々と会場を見回す。
「おいおい。あの子、勝つつもりらしいぞ?」
驚きを超え、感心したように言う。
「小学生、ですかね?」
改めて見ると、かなり小柄な子であった。身長一四六センチ、小柄で知られる安部菜々と較べても、更に小さい。
「いや。話によると、今年で中二になるらしい」
「へぇ…」
ステージでは、先攻の安部菜々が歌を披露し始める。人気と名声に恥じない、見事なステージであった。予想外の事態にざわめいていた客席も、彼女のパフォーマンスを食い入るように見詰めている。
だが、ただ一人。会場最後方に立つ一人の新米プロデューサーの視線だけは、舞台の端で所在なさ気に佇む少女へと向けられていた。
再び会場を不安げに見回す少女の目が、会場の彼の姿を捉える。少女は少し困ったような顔をし、すぐに視線を逸らした。
少なくとも、彼にはそのように見えた。
「輿水幸子ちゃん、か…」
小さな声で呟く。
「気になるのか?」
「いえ、そういう訳では…」
僅かに言い淀む。
嘘をついた。原因が、彼自身にもわからなかったからだ。
「なんなら、ステージが終わったら声でも掛けてみたらどうだ?」
「そんな事言われても、一体なんて声を掛けろって言うんですか」
口を閉じた後になって、先ほどの問いを言外で肯定してしまっていたことに気付く。
「そりゃあ当然、口説き文句だ。スカウトのな」
「…相手はもう、他のプロダクションに所属しているんです。そんな、他所様のとこの子を横から掠め取るみたいな真似、できません」
「引き抜きだって、今時珍しいが、無い話でもないだろう。それに――」
一旦間を置き、厳しい声色で言う。
「どう考えてもワケアリだ。それも、きっと碌でもないやつだな」
安部菜々のステージが終わる。会場からは割れんばかりの拍手が送られるが、しかしその音には、若干の遠慮のようなものが込められているようだった。
このライブのトリを飾る、小さな少女が原因である。
安部菜々は去り際、遠慮がちに、ステージに立つもう一人の少女へと声を掛け、言葉短に何事かを伝える。その声はマイクを通さず、観客へは聞こえない。
少女は緊張で強張った面持ちのまま、その言葉に対してコクコクと頷く。あまりのいたたまれない気持ちに、励ましの言葉でも掛けたのかもしれない。
既に、場にいる全ての人間が、不安げにこの輿水幸子という少女を見つめていた。
入れ替わりに、少女がステージの中央に立つ。普通ならばここで、歌の前に、イベントや新作CDの告知、来場したファンへのお礼など、軽いトークをするところである。
だが彼女は、改まった挨拶もそこそこに、小さく司会者へと合図を送る。トークを締めるためのものだ。
司会者から、彼女が歌う曲が告げられる。往年の有名アイドルの代表曲のカバーであった。恐らく、会場に知らない人間はいないであろう。
少女の歌が始まる。
「どう思う?」
彼はその問いに答えられない。
新米プロデューサーの彼からしても、どう見ても練習不足であった。声量は足りない、ダンスのキレも無い、体力も足りていない、笑顔もぎこちない。観客への視線の向け方や指先の伸ばし方一つを取っても、まともなレッスンを受けていない事がわかる。
「先輩はどう思うんですか?」
答えに窮し、逆に問いかける。
「才能はある」
男は端的に答えると、背を向け歩き出す。
「少し、手を回して調べてみる。何かわかったら教える」
そう言い残し、曲も半ばながら足早に立ち去る。彼はしばらく驚いた顔でその背中を見送った後、慌ててステージに目を戻す。
確かに、声は良い。外見も、多少主観の含まれる問題であるだろうが、十分美少女といえるだろう。少なくとも、両方とも並ではない。その奥の、アイドルとしての伸び代、などという話になると、いまだ彼にはわからない領域であるが。
やがて、歌が終わる。少女は、額に大粒の汗を浮かべ、肩で息をしていた。
会場からは、困惑したようにパラパラと拍手が起こる。
しばらくして、観客の投票により、勝敗が決まった。当然、勝者は安部菜々。しかし票数に大差はついていない。だが、誰から見ても、敗者に投じられた票が同情票であることは明らかであった。
少女は俯き、足早に舞台袖へと下がる。去り際、指の腹で目元を拭う姿が一瞬だけ見えた。
http://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira112192.jpg
あの子はきっと、票の集計が終わり、結果が発表されるその瞬間まで、自分が勝利する可能性が存在すると信じていたのだろう。彼にはそう思えた。そうでなければ、敗北に涙など流さないはずだ。それほどの実力差であった。
ステージの上では、司会者が努めて明るく振る舞い、締めの挨拶をしていた。彼はステージの上の司会者を眺めながらも、その実、何も見てはいなかった。
彼の頭の中では、先ほどまでステージに立っていた少女への、言葉では言い表せない奇妙な感情が渦巻いている。それはやがて、重しのように胸の中でわだかまった。
撤収作業を手伝いに向かうため、人も疎らになった会場を歩く最中、ふと思う。
――あの少女が最後に見せた涙は、悔しさではなく、悲しみの涙だったのではないか。
理由はわからない。ただ、言い知れぬ確信だけがあった。
あのライブから二日。彼は、所属するプロダクションの事務所の一室で暇を持て余していた。
なにせ、担当アイドルのいないプロデューサーである。仕事などは当然無い。既に何度も見たオーディションの審査用紙とビデオとを穴の空くようにして見返し、軽く他所の事務仕事を手伝った他は、日がな一日中、ぼんやりと個室の窓から外を眺めていた。
会社側も、厳しくは言えない。原因がプロダクションの上層部にあるからである。
だがしかし、それも今日までだ。先日行われたオーディション。その応募者の中から採用者が出なければ、彼は否応なしに元のアシスタントへと戻されるであろう。
オーディションの選考は今日までである。そして既に、彼以外のプロデューサー全員が、見込み無しとして採用見送りを表明していた。回答を先延ばしにしているのは、彼ただ一人である。
最後にもう一度、ファイルを開き審査用紙を眺める。内容は全く頭に入って来ない。
二日前、輿水幸子という少女を見て抱いた胸のわだかまりは消えていなかった。だが、彼の中では、既に折り合いが付けられていた。
きっと、あの少女を見る直前に聞いた話が原因であろう。彼はそう己の中で結論づけた。
この子をトップアイドルにしてやりたい。一目見てそう思えるような存在との出会いを望む心が、ステージで拙いながらも必死に歌う少女を見て勘違いを引き起こしたのだ。彼はそう思い、頭では納得した。しかしそれでも、胸のわだかまりは残り続けた。
その後の話は、若干ながら伝え聞いた。ライブの翌日、つまり昨日、相手方のプロデューサーが菓子折りを持って詫びを入れに来たらしい。曰く、急な出演者の変更で現場が混乱したため、との事である。
ライブの日に現場にいたこちらのプロデューサー全員の元へと来たという話であるが、しかし担当アイドルも持たない彼の元には来なかった。当然の話ではあるが。
「どうも、胡散臭い奴だった」
現場にいたプロデューサーの一人として謝罪を受けた彼の先輩は、詫びの菓子の一つを彼に向けて放りながら、不快げに言った。
だがしかし、一応の筋は通したのだから、これ以上表立って責めることはできない。第一、こちらは大した不利益を被っていないのである。相手方のプロダクションが少し信頼を失った、というだけだ。
窓の外を眺める。そろそろ日も傾き始める時間だった。雲行きが怪しく、雲の合間から赤く染まり始めた太陽が僅かに顔を覗かせていた。彼は目に痛い日差しを避け、ブラインドを下ろす。
ふと、個室のドアを控え目に叩く音が響いた。返事をすると、ゆっくりとドアが開かれる。現れたのは、奇抜な緑色のスーツを着た女性だった。
「えっと…」
奇妙な来客に若干戸惑うが、しかしすぐに思い当たる。
「もしかして、新しいアシスタントの方ですか?」
「はい。アシスタントの千川ちひろです」
三つ編みの女性はそう言って微笑む。
彼の後任として新たにアシスタントが採用された、という話は聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。これからよろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ。一日中暇していたんですから、こちらから挨拶に行くべきでした」
そう答えると、ちひろは少し困ったように笑う。
「話は聞いていますよね?」
「ええ、はい…。プロダクションの方の問題で、担当するアイドルが見付からなかった方がいる、とは…」
「そういう訳なんで、すぐに同僚に戻りますよ。だからそんなに改まらないで下さい」
「やはり、アシスタントに戻られるんですか?」
「なんたって、担当アイドルがいないプロデューサーですからね。しかし――」
彼は、ちひろの頭の先から足元までじっくりと見る。
「まさか、新しいアシスタントさんが、こんな美人な方だとは思いませんでしたよ。どうです? せっかくですし、アイドルになってみませんか?」
「もう。プロデューサーの方は、そうやって軽々しくアイドルをスカウトしてくるものなんですか?」
ちひろは照れながらも、少し怒ったような声色で言う。
「いえ、半分くらい本気ですよ? きっと良いアイドルになれると思います」
「でも、半分は冗談なんですよね?」
「それは、まあ…。すみません」
曖昧に笑って誤魔化す。彼のそんな様子がおかしかったのか、ちひろも釣られて表情を崩す。
「けど、いつか見付かると良いですね、担当アイドル。冗談半分じゃなくて、心の底からアイドルにしたいって思える子が」
「――そうですね」
一瞬、あの少女の顔が脳裏に浮かぶ。彼は慌てて話題を変える。
「そういえば、千川さん。何か用事があったんじゃあないですか? それとも、ただ挨拶だけですか?」
要件の内容は、大方予想がついていた。彼の想像通り、ちひろは少し困ったように言い淀む。
「もしかして、事務仕事の人手が足りないんですか?」
彼の元へ手伝いを求めに行く役回りは、事務員たちの中でも敬遠されていた。彼自身は特に気にはしていなかったのだが、事務方は要らない気を回しているのだろう。恐らく、それが新人のアシスタントに言伝を頼んだ理由だ。
ちひろは申し訳なさそうな顔をして肯定する。
「どうせ定時まで暇ですし、丁度良かったです。俺が事務室まで出向いた方が良いですか?」
「いえ。私が書類を持って来ますので、待っていて下さい」
じゃあお願いします、と言い残し、そそくさと部屋を後にする。部屋には再び彼一人である。
椅子に深く腰掛け、目を瞑る。胸の中に、あの少女への未練が、いまだにわだかまっているのがわかる。
彼自身、どうしてそこまであの少女に心惹かれたのか、理解できない。
確かに、アイドルとしての素質はあった。だが、彼が見た中で、飛び抜けてという程ではない。そして、今まで、ここまで他所様のアイドルに執心することなどなかった。
――せめて、この気持ちの理由がわかれば。
彼は何度もそう思った。だが、答えは出ない。
彼の思考を乱すように、机の上の携帯電話が鳴る。鬱陶しそうに手に取る。出ないつもりだった。勤務時間中ということもあるが、何より誰かと話をする気分ではなくなっていた。
発信元を見ると、先輩、とだけ表示されていた。彼がそう呼べる者は何人かいたが、この名前で登録している人間はただ一人だ。
流石に、出ない訳にはいかない。彼は再び目を瞑り、通話ボタンを押す。
「輿水幸子ちゃんがアイドルを辞めるらしい」
開口一番、電話先の男はそう言う。
彼は言葉の意味を図りかね、しばし呆然とした後、跳ね起きる。
「どういう事ですか?」
電話口に向けて、怒鳴り付けるようにして問いかける。
「言葉通りの意味だ。それどころか、今日限りでこっちを離れて地元に帰るらしい」
「あの、順を追って説明を」
彼は思わず立ち上がる。だがしかし、何をすることもない。ただ、じっとしていられないという気持ちだけが逸っていた。
「要点をつまむとだな。どうやら、件の輿水幸子ちゃんと担当プロデューサーが揉めていたらしい。それで、一昨日のライブでもしも勝ったらプロデューサーは輿水幸子ちゃんの要求を飲む。そして――」
「負けたらクビ、ですか」
「一応は自首的な引退。いや、デビュー辞退だな」
細かい顛末を語り始める。その話を聞きながら、手元にカバンを引き寄せ、携帯電話や身の回りの物を放り込む。
「行くのか?」
カバンを掴み、ドアノブに手を掛けたところで、こちらの状況を察したのか、電話先の男はそう言う。
「…ダメ、ですかね?」
ドアノブに手を掛けたまま、訊く。
「自分でも、どうしてなのか、よくわからないんです」
自分の胸のわだかまりを、上手く言葉にすることができない。こんな中途半端な気持ちで不本意ながらアイドルを辞めた彼女の前に立って良いのだろうか、という思いもあった。
「まあ、そんなもんさ」
答えは、ひどく気の抜けるものだった。
「はっきりした理由が見付かる方が珍しい」
「…そんなものなんですか?」
「ああ。最後に、自分の直感が間違っていなかったと証明できれば、それで良いんだ。しかし、実物に会ってみたらがっかりした、なんてこともあるから覚悟しておけよ」
「そうならない事を祈ります」
ドアノブを下ろす。ドアの先には書類を抱えたちひろが立っていた。
「プロデューサーさん、一体何を――」
「丁度良いところにいました。少しお願いがあります」
引き続き電話口からの話を聞きながら、手短にちひろに指示を出す。彼女は真面目な顔でコクコクと数度頷き、抱えていた書類を放り投げるようにして彼の机に置くと、廊下を走り去る。
「ところで」
彼もまた廊下を駆けながら、電話口に向けて言う。
「ここまで煽ったんですから、当然居場所はわかっているんですよね?」
少し待て、と言い、電話口から声が遠ざかる。代わりに、微かに話し声が聞こえてきた。相手は、件のプロダクション所属のアイドルのようだ。どうやら、そのアイドルが情報提供者らしい
やがて、電話口に声が戻る。
「急げ。さっきまで事務所に挨拶に来ていたらしいが、もう駅に向かって歩き出したみたいだ」
教えられた駅名と便をメモにとり、手短に礼を言って電話を切る。まだなんとか間に合う時間だろう。
彼が事務室の受付窓口へ駆け込むと、受付嬢は面食らったような顔をした。
「社用車の使用申請書を」
彼の鬼気迫る表情に圧され慌てて申請書を取りに消え、再び戻ってくる。その時間ですら、彼にはもどかしく思えた。
ようやく差し出された申請書に、手早く必要事項を書き込んでいく。申請日、申請者名、所属、使用車番号、使用目的――
不意に、彼の手元へ、真っ白な封筒が差し出される。顔を上げると、ちひろが立っていた。胸に手を当て、肩で息をしている。
「スカウト用の書類、まだ数部はありましたよ」
「ありがとうございます、千川さん」
使用目的の欄に『スカウト』とのみ記入し、押し付けるようにして受付嬢に渡すと、鍵と封筒を掴み、再び走り出す。
――にわか雨が来るらしいですよ。
ちひろの声に手を振って答え、事務所を後にする。頭上には今にも降り出しそうな、真っ黒な雲が浮かんでいた。
雨脚は徐々に強くなっていく。春先とは思えない、冷たい雨だった。
皆、にわか雨を避けたのか、街に人気はない。彼女が歩く狭い路地裏も同様だった。
酷く水はけの悪い土地なのか、雨水は排水溝へと向かわず、アスファルトで舗装された路上は水たまりに覆われていた。一歩歩くたびに、溜まった水が容赦なく彼女の履くローファーを水浸しにする。だが、少女は気にも留めず歩き続ける。
少女は、急な雨に、傘すら差していなかった。俯きながら、彼女の体格には不釣り合いなほど大きなキャリーバッグを片手で引き、冷たい雨で身体を濡らしながら黙々と歩く。
ふと、彼女の前方から足音が響いた。少女は少しだけ顔を上げる。先ほどまで猫の子一匹いなかったはずの路上、彼女の目の前に立ちはだかるように、スーツ姿の男が立っていた。
スーツ姿の男は、ハッとしたように彼女の姿を見た後、少しだけ表情を崩した。
「――輿水幸子ちゃん、だね?」
少女 ――輿水幸子は答えず、足を止め、男の姿をまじまじと見る。どう見ても尋常の様子ではない。その男もまた傘も差さず、髪も、スーツも、カバンも、全てが水濡れである。
「あなたは、誰なんですか?」
警戒したように言う。身体を向けたまま目だけで辺りを見回すが、やはり、彼ら二人以外に人気はない。
「ああ、いや。別に怪しい者じゃあないんだ」
彼はそう言うと、胸元から名刺ケースを取り出し、湿った名刺を一枚差し出す。幸子はそれを、怖怖と受け取る。
「プロデューサー…? このプロダクションの名前は…」
幸子の瞳に、暗い翳が落ちる。
「…アイドルのプロデューサーさんが、一体ボクに何の用ですか?」
「用、っていうか、少し話でもしてみたくてな。雨宿りがてら、どうだ?」
幸子は、目を伏せたまま、黙って首を振る。
「…すみませんが、電車の時間が近いので」
「十八時六分発、甲府行特急、だろ? 随分、余裕を持って出たんだな」
幸子は言葉に詰まる。電車の時間は、先ほど事務所で同僚に漏らした。どのようなルートかは彼女には想像もつかないが、目の前の男には伝わっているらしい。
「ダメか?」
彼は困ったように言う。
「…わかりました。いいですよ」
「そうか。ありがとうな」
彼は適当な家屋の軒下に入り、幸子を手招く。潰れた商店らしい。そのシャッターの前の、小さな石段に腰掛けた。幸子は躊躇した後、少し距離を置き、隣に座る。
「…それで。一体、ボクになんの話があるんですか?」
膝を抱えて座る幸子は、彼の方を見ようともせずに言う。
「そうだな…。具体的には考えていなかったな」
「なんですか、それ…」
幸子は表情を変えずに答える。視線は相変わらず、正面の路地である。
「じゃあ、とりあえず。一つ気になっていた事があるんだが、いいか?」
幸子は小さく頷く。彼はそれを認めると、口を開く。
「一昨日のライブの話なんだが。ステージが終わった後、泣いていたよな」
「泣いていません」
即答だった。幸子は、少し不貞腐れたような顔でそっぽを向く。その表情がなんとなく可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「いや、泣いていた」
「いません」
同じやり取りを繰り返す。
「俺の目が節穴じゃなければ、泣いていた。袖に捌ける時だ」
「…泣いたらダメなんですか」
そっぽを向いたまま、不機嫌そうに答える。
「あなたも、勝てるはずがなかったって言うんですか? 悔しがる方がおかしいって言うんですか?」
「そう言われたのか?」
誰に言われたのか、とは訊かなかった。幸子は渋々といった様子で頷く。
「まあ、普通は、勝てるはずがないよな。そもそも、勝負が成り立つようなカードじゃない」
彼は、何故か、だんだんと愉快な気持ちになってくる。彼の心中を口調から察したのか、幸子は不機嫌そうに言う。
「何がそんなに可笑しいんですか?」
「別に、馬鹿にしているわけじゃない」
彼は努めておどけたように言う。
「ただ、君はあの時、本気で勝とうとしていた。誰が見ても、勝ち目の無い勝負に、だ」
「それが可笑しいんですか?」
「どうだろうな」
事実、彼の中に、あの日の少女の行動を滑稽だと思う心はなかった。ただ、あの日のライブを思い出すと、言葉にできない高揚感のようなものが湧き上がって来るのであった。それが、彼には楽しくて仕方なかった。
彼はたっぷりと思案の時間を空け、再び口を開く。
「普通は、心が折れる。ステージから逃げ出しても、きっと誰も文句は言わないだろう。でも、君はステージに立って、歌った。しかも、勝てるつもりで、だ」
そこまで言って、ふと疑問に思う。一体、この少女は、何故あの絶望的なステージに立つことができたのだろうか。勝てるはずもなく、負ければ事務所を辞めざるを得ない状況ならば、逃げ出すという選択肢を取るのが当然ではないだろうか。
万に一つの可能性に賭けたのか、最後にアイドルとしてステージに立ってみたかっただけなのか、彼に計り知ることはできなかった。
「…あの日、君はなんでステージに立てたんだ?」
言葉が口をついて出る。
「そんなの決まっています。勝って、ボクの要求を、プロデューサーに飲ませるためです」
「勝って、要求を飲ませるため?」
その言葉で一つ、可能性を見落としていた事に気付く。この少女は勝てると思い、勝つためにステージに立った、という可能性である。
勝てるつもり、などではなく、勝つつもり、だったのだ。
「それで、あんな風に――」
彼の言葉が、途切れる。脳裏に過ぎったのは、目元を拭いながら袖へと小走りに下がる少女の顔と、その表情を見た時に抱いた言い知れぬ確信だった。
「…でも、泣いている君の顔は、悲しそうだったよな」
幸子は俯き、膝に顔を埋める。
「あれは、やっぱり悔しさの涙じゃあなかった」
「…あなたに、一体何がわかるんですか?」
幸子は、膝に顔を埋めたまま、掠れた声で答える。
「わからない。だから、教えてくれ」
「嫌です」
「頼む」
「絶対に嫌です」
そこからは、教えてくれ、嫌だ、の押し問答であった。
しばらくは強情に突っぱねていた幸子も、最終的には折れた。
「…誰にも話さないですか?」
「ああ」
彼は大仰に頷く。
「幸子ちゃんはこのまま山梨に帰るんだろ? 旅の恥は書き捨て、じゃないが、何を言ってももう関係のない話だ」
幸子はほんの少しだけ顔を上げ、雨に濡れる路地裏を眺める。彼女もまだ迷いがあるのか、なかなか口を開こうとしない。彼が黙って待つと、ようやく言葉を選ぶように、慎重に話し始めた。
「…ボクは昔から、みんなからカワイイと言われて育ってきたんです」
少女は、雨音にかき消されそうな、か細い声で続ける。
「ボクの両親は、一人娘のボクを物凄く可愛がってくれました。何かあるたびに、幸子はカワイイ、幸子が一番だ、って。パパの仕事の関係の人も、幼稚園や小学校の先生も、出会う大人たちは、みんなみんな、ボクを褒めてくれました」
幸子の言葉は続く。
「だからボクは、自分がこの世で一番カワイイと信じていました。自分は選ばれた人間で、特別なんだと思い込んでいました。でも――」
一旦言葉を区切り、絞り出すように言う。
「でも、本当は違ったんです」
辛そうに顔を歪める。堰が壊れるように、次々と言葉が溢れ出す。
「大きくなると、少しずつ気付きました。本当は、ボクは特別でも一番でもなかったんです。パパとママがカワイイと言ってくれたのは、ボクが一人娘だったからです。パパの仕事関係の人が褒めてくれたのは、ただの社交辞令だったんです。先生たちが話を合わせてくれたのは、ボクが無邪気に勘違いをしていたからだったです」
――気付きたくなんてなかった。
少女は再び顔を膝に埋め、消え入りそうな声でそう呟いた。
きっと、世ではありふれた話なのだろう。子供特有の無知さから、自分が特別であると勘違いをしてしまい、そして、これくらいの年頃で理想の自分と現実とのギャップに悩んでしまう。
だが、この少女の場合、大きな問題が二つあった。一つの問題は、彼女の思い込みが、一般的なものよりも強く深かったこと。そして――
「だから、ボクはアイドルになろうと思いました。ボクが一番のアイドルになれば、それで問題はなかったんです。ボクがトップアイドルになって、ボクが本当に一番だと証明すれば、今まで周りの人たちが掛けてくれた言葉は、本物になるんです。そしてボクはアイドルのオーディションを受けて、採用されました」
そしてもう一つの問題は、この輿水幸子という少女が、その思い込みを現実にする第一歩を踏み出してしまった事だろう。
「事務所に入ったら、ダンスの上手い子も、歌の上手い子も、可愛い子も沢山いました。でも、心の隅では、きっとこの中でもボクが一番カワイイに違いないと思っていました。本当は、あんな小さな事務所の中でも、ボクは一番じゃなかったのに」
幸子の言葉は、尚続く。
「それを突き付けられたのは、具体的なデビュー案が知らされた時でした。ボクに用意されたポジションは、何十人もいるユニットメンバーの中の、端の端の方。本当にライブに出れるのかもわからない、CDデビューしてもその他大勢に紛れるような、そんな、要らない存在だったんです」
そこからの話は、既に彼が電話で聞いた通りだった。
この少女は一人で担当プロデューサーに何度も抗議をし、それを疎んだプロデューサーは、常識的には勝てるはずもない賭けを提示し、彼女はそれを飲んだ。
勝てると信じて。
なお、彼女の立場では知り得ぬ話ではあったが、他のアイドルやプロダクションの上層部も、類を見ない大規模ユニットに懐疑的であったらしく、デビューの話は遅々として進まなかったらしい。彼の見立てでは、あのライブのセッティングには、他のアイドルへの見せしめや八つ当たりなども多分に含まれていた。
「それでもボクは、自分が一番だと信じて ――いえ、信じようとしました。だから、あのライブバトルにも絶対に勝たないといけなかったんです。勝てないはずがないと、思い込んだんです。でも、ダメでした。ライブに負けて、アイドルもクビになって、それで全部終わりでした。ボクは――」
声が震える。
「ボクはやっぱり、一番カワイくなんてなかったんです」
路地裏に雨の音が響く。いつの間にか、雨足は大分弱まってきていた。雨の止む時も近いだろう。
二人は何も言わず、目の前の路地を眺めている。無言の時間が、しばらく続いた。
「…ボクは、一体何を言っているんですかね」
唐突に、幸子が口を開いた。
「さっき会ったばかりの人に、こんなみっともない話をして」
彼は答えない。彼の頭の中では、様々な思いが交錯していた。それは少女への同情でもあったし、哀れみでもあった。だが、それだけではない、何かわからない感情が確かに渦巻いていた。
幸子は唐突に立ち上がると、キャリーバッグを手元に引き寄せる。
「…何か、ボクに話があったんじゃないですか?」
幸子は彼の方へと向き直り、最初の問いを繰り返す。
「…ああ」
幸子の、涙で上気した顔を見つめる
「そういえば、そうだった」
彼は姿勢を正し、咳払いを一つする。
「――輿水幸子ちゃん。アイドルにならないか」
やはり、この子しかいない。
いまだにそう思う理由はわからない。だが、だからといって、ここで何も言わずにいるなどということはできなかった。理由もわからないまま、彼は自分の中の何かを信じることにした。彼はそれほどまでに、この少女に惹かれていた。
幸子は一瞬、きょとんとした顔をした後、あからさまに狼狽える。
「な、何を言っているんですか? ボクの話、聞いていたんですよね? ボクはアイドルを辞めて――」
「辞めたから、心置きなくスカウトに来たんだ。それとも、アイドルのプロデューサーが女の子に会いに来た理由が、他にあるのか?」
「それは、その…」
幸子は口ごもり、俯く。
「…ボクに、文句を言いに来たんじゃないのですか?」
「文句?」
あまりに予想外な返答に、素っ頓狂な声が出る。
「ぼ、ボクが、一昨日情けないステージをして、迷惑を掛けたから…」
「俺だって、そんなに暇じゃあないさ」
彼女の言葉に、思わず吹き出してしまう。幸子は、むっとした表情で彼を睨む。
「な、何がおかしいんですか? ボクだって、何を言われるか怖かったのに…」
「そうか、悪かったな。それで――」
幸子の顔を、真っ直ぐに見詰める。彼の決意は些かも変わっていない。
「返事を聞かせて欲しい」
幸子はさっと目を逸し、唇を噛む。悩んでいる様子ではない。答えを口に出せないようだ。
「…嫌です」
彼女はようやく、そっと一言だけ呟くように言う。
「…そうか」
彼は深く息を吸い、吐く。
「できれば、理由を教えてくれないか?」
「…もう、あんな思いはしたくないんです」
幸子は奥歯を噛み締め、顔を背ける。その肩が小刻みに震えていた。
「もう二度とあんな思いはしたくありません。またアイドルになって、また挫折して、そんなの嫌なんです…」
幸子は背を向けたまま、何度も目元を拭う。
「ライブに負けて、全部が終わって、凄い悲しかったんです。まるで、ボクがボクじゃなくなったみたいで。ボクが信じていたものが、全部ウソだったみたいで」
彼女にとっては、残酷な誘いかもしれなかった。本来ならばきっと、こうして自分の限界を学びながら現実と向き合い、少しずつ大人になっていくものなのだろう。二度目の挫折は、彼女の心により大きな傷を負わせてしまうに違いない。
しかし、それでも彼は、諦めることができなかった。それ程までに彼は、無責任ながらも、この少女の可能性を信じ切っていた。
「…終わりじゃあなかった」
少女の背中に向け、ゆっくりと、自分自身へと確かめるように言う。
「君のあの日のライブは、内容はどうであれ、俺の心を動かした。だから俺は、こうして君の前までやってきた。だから、終わりなんかじゃない」
気付けば、雨脚は大分弱まってきていた。この雨宿りも、もう長くは続かないだろう。電車の時間も、近い。
「…どうして、ボクなんですか?」
しばらく間を置き、幸子はポツリと漏らすように言った。
「一昨日のステージもロクにこなせていなかったのに、どうしてボクにそんなに拘るんですか?」
「そこのところだが、実は俺にもよくわからないんだ」
彼は、率直に答える。
「あのステージを見てから、ずっと君の事が気になっていた。自分でも、何度もその理由を考えていたんだが、残念ながら見当もつかない」
「なんですか、それ…?」
「ただ、今日、君がアイドルを辞めて実家に帰ると聞いた時、居ても立ってもいられなかったんだ。この子をアイドルにしたい、この子がアイドルを辞めるなんてダメだ、って思った。そして、気付いたら、君の前に立っていた」
二人の間に、沈黙が流れる。雨脚はいよいよ弱まり、西の空には薄い雲越しに夕日が赤く映っていた
「…無責任ですね」
「そうかもな」
「せめてもう少し、気の利いた事を言えないんですか?」
「そうだな。じゃあ例えば、ステージで歌う君が一番可愛いと思ったから、とかはどうだ?」
幸子は、小さく息を呑む。
彼自身、それが答えだとは思っていなかった。だが少なくとも、アイドルにするならこの子しかいない、と思ったことは確かである。案外、当たらずとも遠からず、なのかもしれない。
なにより、彼女をアイドルにする上で、この話は避けて通ることはできない。
もしかしたら、一番なんて目指さなくてもいい、などと言って上手く丸め込めば、彼女はあっさりと了承してくれるかもしれない。せっかくのチャンスなのだから、青春の思い出に、と適当な言葉を掛ければ、踏みとどまってくれるかもしれない。そう考えなかったと言えば嘘である。
だが、それではダメだと、彼の中の正体不明の確信が告げていた。彼が惹かれたのは、初めてのステージで自分が一番可愛いと豪語するあの姿だと、心の中で理解していた。
「…ボクに、またその言葉を信じろって言うんですか?」
「いいや、違う。君がアイドルになってくれるなら、俺がそう信じる。君が一番可愛いアイドルで、絶対にトップに立てると信じる」
「それに、何の意味があるんですか?」
「無い。ただ、輿水幸子が一番可愛いと信じる人間が、一人から二人に増えるだけだ」
雨は、ほとんど止んでいた。随分と小さくなった雨粒が、時折思い出したかのように水たまりを揺らしている。
――まだ、もう少しだけ気付かないで欲しい。
彼のその願いをあざ笑うように、雲の切れ間から西日が狭い路地裏へと差し込む。真っ赤な陽の光に、彼は目を細める。
「…雨が、止みましたね」
「ああ」
「…あなたは、本気でボクが一番カワイイだなんて信じているんですか?」
「…ああ」
迷いを気取られないように言ったつもりだった。
幸子は、いまだ彼から目を逸らしたままである。
「…ボクは一度、アイドルを辞めたんですよ?」
「だけど、またチャンスが来た」
「…今からデビューなんて、今年は間に合わないんじゃあないですか?」
「なんとしてでも、俺がねじ込む。なんなら新年度合わせじゃなくてもいい」
「…学校の転校手続きも、始めてしまったんですよ?」
「俺が、親にでも学校にでも、いくらでも頭を下げてやる」
「…寮だって、引き払ってしまいました。住むところがありません」
「プロダクションにも寮がある。部屋くらい今日にでも確保できる」
幸子は、口をつぐむ。
この男は本気で、輿水幸子という少女に賭けているのだと、とうとう認めざるを得なかった。
嬉しくないはずがない。だが、同時に怖くもあった。再び挫折を味わうことになるかもしれない、というだけではない。いつか、彼の無邪気な期待を裏切ってしまうのではないかという恐怖だった。
「必要な事はなんだって俺がやる。だから――」
続きは聞きたくなかった。聞いたら返事をしなければならない。
「アイドルになって、俺と一緒に、輿水幸子が一番可愛いと証明しないか」
幸子は彼から顔を逸らしたまま、無言で夕焼けの空を見詰める。
雲の流れが速い。この調子ならば、上空にわだかまっている雲も、すぐに晴れるだろう。
幸子はゆっくりと彼へ向き直り、震える口を動かす。
「…そろそろ、電車に間に合わなくなってしまいます」
それだけが精一杯だった。彼女はかろうじてそれだけ言うと、軽く頭を下げ、キャリーバッグに手を掛けて夕日が照らす路地裏へと歩き出す。
彼は西日の中に消えていく少女を一瞥すると、軽く目を瞑る。急激に身体の熱が冷めていく。雨に濡れたスーツが今になって重たく感じた。胸の中の高揚感は消え去り、抱えきれない程の喪失感だけが残る。
結局、彼の胸の中の言い表せないわだかまりは解けなかった。ただただ、原因も知れぬ思いが、心の底へ澱のように沈殿する。彼女へ惹かれた理由すらわからないまま、少女は彼の元から去ってしまった。
彼は小さく溜息をつき、そして気付く。
少女の足音が消えていた。彼が目を開き、路上を見ると、小さな影がポツンと佇んでいる。
夕日を背に立つ幸子は、意を決し振り返る。だが俯いた顔は、陰になり伺えない。
「一つ、いいですか?」
か細い声で問いかける。彼は、無言で頷く。
「――あなたは、そんなにボクをアイドルにしたいんですか」
太陽に、薄い雲がかかる。眩い赤のスポットライトを背後から浴び、少女は立っていた。その両頬に、二筋の透明な雫が流れ、落ちる。
糸のように細い雨が、光を反射して煌めく。彼はしばし言葉を失う。
「…ああ」
ようやく、言葉を絞り出す。迷いは無かった。やはり、この子しかいない。
彼は、他ならぬ彼女自身の口から出た言葉で、彼を悩ませていた心の中のわだかまりがあっさりと消えてしまったことに気付いた。
いや。きっと、最初はそんなわだかまりなんてものはなかったのかもしれない。
あの日、彼が抱いたものは、予感などという曖昧なものではなかった。直感などという思考の外のものでもない。この子しかいない、という確信だった。彼はその確信に無理やりに理屈を付けようと躍起になり、それが彼の抱いたモノを霞ませ、胸の中に言い知れぬしこりを残したのだ。
ただ、彼自身の意思が、この輿水幸子という少女こそをアイドルにしたいと思ったというだけの、単純なことだったと、ようやく気付く。
『まあ、そんなもんさ』などという、投げやりに思えたあの先輩の言葉は、嘘でも冗談でも無かったのだろう。
「俺は、君をアイドルにしたい。君をトップアイドルにして、輿水幸子という女の子が、世界で一番可愛いと証明したいんだ」
それが、彼の中にのみ存在する確信が間違いではないと証明する、ただ一つの方法だ。
幸子は、小さく目元を拭う。彼もまた腰を上げ、同じく道路の真ん中に立つ。
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「…それが、できるって言うんですか?」
「俺はできると思う。君は、できないと思うのか?」
「…できるに、決まってます」
消え入るような声で答える。
「できるに決まってます!」
幸子は、叫ぶように繰り返した。
「だってボクは――」
「一番可愛いから、だろ」
「…よくわかっているじゃないですか。褒めてあげます」
俯き、何度も目元を拭いながら気丈に言う。
「いいですか!」
幸子は勢い良く顔を上げ、真正面から彼を睨むように見つめる。
「ボクのプロデューサーになりたいなら、条件が三つあります!」
返答を待たず、幸子は彼を指差すように、人差し指を立てる。
「一つ目! あなたはボクのプロデューサーになるんですから、ボクのために毎日毎日馬車馬のように働かないとダメなんです! ボクがトップアイドルになるまで、休みなんてないと思って下さい!」
人差し指に続けて、中指も立てる。
「二つ目! ボクのプロデューサーなら、一年三六五日、ボクのカワイさを証明する方法を考え続けないとダメなんです! ずっとずっと、ボクの事だけを考え続けるんです!」
最後に、薬指も立てる。
「三つ目! ボクは褒められて伸びる子です! だから、あなたはボクを毎日褒めないとダメなんです! ボクが一番カワイイと証明できる日まで何度でも、輿水幸子が一番カワイイと言い続けるんです!」
幸子は、肩で息をしながら、まくし立てるように言った。
「ああ。わかった」
短く答える。幸子は少し戸惑ったように、声を詰まらせる。
「…本当にわかったんですか? 全部、守れるんですか?」
「それでアイドルになってくれるんだよな?」
幸子は小さく頷く。
「親御さんにはどうする?」
「…大丈夫です。ボクから話をすれば、きっと認めてくれます」
「一度、実家には帰るのか?」
「いいえ、このまま残ります。寮の部屋を用意してくれるって言いましたよね?」
「なら、このままプロダクションまで来てくれるか? 話は早い方が良い」
幸子は再び無言で頷く。
「じゃあ、タクシーでも呼ぶから待っていてくれ。流石に、初対面の男の車に乗るのは不安だろ」
「別に、構いませんよ」
「遠慮するな。タクシー券なら腐るほど支給されたんだ」
携帯電話を取り出すためカバンを開く。そこで、中に入っているものに気付いた。
「ああ、そうだ。一応、スカウト用の書類を持ってきたんだが…」
水に濡れてふやけた封筒を取り出す。
「まだ残っていたらしいし、戻ったら新しいのを――」
彼の言葉を遮り、幸子は封筒をひったくるようにして奪う。
「これでいいです」
「でも――」
「いいんです!」
幸子はそう言うと、封筒を大事そうに胸に抱える。
「…そうか。じゃあ、とりあえず駅前まで行くか。この時間でも、タクシーの一台二台は捕まるだろ」
先導して歩き始める。二歩目を踏み出したところで、袖を引かれる。
振り返ると、片手で封筒を抱えた幸子が、指を引っ掛けるように彼のスーツの袖を掴んでいた。
「どうした?」
小さく俯きながら、幸子は何かを言いたげに小さく口を動かしている。彼はただ黙って待つ。
「…もう一つ、条件がありました」
ようやく口を開く。
「まだあるのか?」
「あなたは黙って頷けばいいんです!」
「それで。なんだ?」
「…ボクは、絶対にトップアイドルになってみせます。だから――」
幸子は顔を上げ、涙で上気した顔で彼の瞳を見詰める。
「だから、ずっとずっと、ボクのプロデューサーでいて下さい」
彼は大きく頷くと、袖に掛けられた彼女の手を取り、夕日を背に歩き始める。これから全てが始まる。そんな予感が彼の足を早める。
もっと優しく手を引いて下さい、という幸子の言葉に苦笑し、逸る気を抑えて頭上を見上げる。先ほどまでの雨が嘘のように、空は真っ赤に燃えていた。
おわり。
一度も転びも躓きもしなかった人生での初めての挫折が、自分の存在を全否定するような大きなもので、辛くて悲しくてどうしようもない。そんな時、自分を全肯定し、一番欲しかった言葉を掛けてくれる人が現れてしまい、後々重依存になってしまうという、割と闇の深い話。
一体この後、幸子はどうなってしまうのか? 諸々の伏線や設定は全て投げ出して終わり。だって長いし。
とりあえず、縦書き対応の某所にも載せる。横書きはダメだ。
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