【ガルパンSS】西絹代(30)「恋って、したことないんだよなぁ」 (41)

 高校を卒業したのち、女子大学へ進学し、そこを卒業すると、見合い結婚をした。
 世間並みに言って、夫は誠実な人だった。私もまた、この何年間か世間並みに誠実な妻を務めた。子どもも二人いる。一人は小学校へ入学したばかりだが、もうほとんど手のかからない良い子だ。もう一人は、今、幼稚園へ通っている。上の子と比べると少々落ち着きのないわんぱくものだが、食べてしまいたいほど可愛い息子だ。

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 きっと私は幸せ者だった。誠実な夫、可愛い子どもたち、退屈なほどの日常。朝起きて、朝食を作り、家族を起こして、子どもを送り届け、家事をして……しかし、そうして日々の雑事に追われているとき——その隙間に、ふっ、と思うのだ。私は恋をしたことがなかった、と。
 学生時代、男性と交際する機会はないでもなかった(実際、恋人のいる同級生は多かった)が、私はなんとなく、そういうものから距離をおいてしまった。それは、恋愛という不純なものへの恥じらいからで——もっとも私は恋愛に対して少女らしい憧れを抱いてもいたが——当時はそれよりも戦車のことで頭がいっぱいだったのだ。いや、そう言い聞かせていたのかしらん……。

 この頃、戦車の写真なんかを見ると「私は恋をしたことがないのだ」と考えこんでしまう。戦車と恋になにか関係があるだろうか?  きっと、私の青春が戦車とともにあったからなのだ。幼い時分から続けていた戦車道は、結婚を機にふっつり辞めてしまった。今は、家事の合間に録画していた試合を観たり、資料を読む程度で、もう何年も戦車には乗っていない。
 思わずため息をつくと、居間の時計が鳴った。子どもを迎えに行く時間だ。私は簡単に身づくろいをして、車へ乗りこんだ。私の家には車が三台ある。
 エンジンの震えはまるで物足りない。公道を走るのは、退屈だった。また、ため息が漏れる。

 同じことの繰り返し——螺旋階段をのぼるように歳だけは重なっていく。私はすでに三十歳になっていた。
「もっと、なにかあったんじゃないか?」
 バックミラー越しに自問するが、答えは出ない。
 いつもの息子は、私を見つけるやいなや腕の中に飛び込んでくるのだが、今日はなかなか帰ってこなかった。どうしたことだろうと、親子の群れの中で立ちすくんでいると、やっと息子が園内から出てきた。彼は女の子と手を繋いで歩いていた。

 私はつい頬を緩ませ、息子の名前を呼んだ——と、傍の男性が同じ方向へ(恐らくは女の子の名前を)呼びかけていた。私と彼は、顔を見合わせると苦笑した。
 男性は女の子の父親だった。
 私は息子を、彼は息女を、それぞれ抱きかかえて、簡単に挨拶をした。
「ませたものですね」
「ええ、ウチの子どもが……」
 自己紹介、というよりも、子どものことを紹介して、その日は別れた。彼の息女の名前や、私の息子の名前を知り合っただけで、互いのことはなにも知らずにいた。

 それから数日後、やっとお互いの名前を知り合った。彼は私の名前を聞いて「どこかで聞いたことのある名前ですな」と、はにかんだ。学生の時分から戦車道のファンだという——私が戦車道をやっていたことは話さないでおいた。
 彼の息女と、私の息子は、順調な交際を続けているようだった。息子は少しだらしないとこもあったのだが、この頃はきちっと制服を着こなしてから登園するようになった。夕方になって迎えに行くと、恋人の手を取って門まで帰ってくる。彼ら二人の仲が良くなるにつれ、自然、女の子の親と話す機会が増えた。

 彼は(彼の息女は、というべきか)片親だった。幼稚園が終わる頃に迎えに来て、息女を家へ帰すと、また仕事へ戻るという。遅くまで預かってくれる保育園を探しているそうだが、未だ見つからないらしい。
「よければ私の家で預かりましょうか?」
 我ながら思い切ったことを言ったと思う。彼は「いえ、ご心配には及びません」と慇懃に断ったものの、しかしやはり息女を一人で留守番させるのは不安らしく、三度目の申し出には首を縦に振った。
 私の夫は先も書いた通り誠実な人だった。事情を説明すると、息女を預かることに何の異議も唱えなかったばかりか、まるで自分の娘のように息女を可愛がった。

 その頃、私に恋の自覚はなかった。というよりも、まだ、恋をしたことがないままの自分だった。私はまったく善意で彼の息女を預かり、私の生活に多少の彩りが添えられた——その程度のことと考えていたのだった。下心もなにもなく、誠実かつ退屈な螺旋階段と思っていた。


 それが変わったのは、ずいぶん経ってからのことだ。
 季節は夏、バーベキューに誘われた。私は一も二もなく了承したが、夫は仕事があり参加できなかったため、私と下の息子、彼と彼の息女の四人でのバーベキューになった。彼の運転する車で河原へと出かけた。他人の運転する車に、なんとなく戦車道に躍起になっていた頃を思い出した。

 私の息子と彼の息女は後部座席で仲良く手を繋いでいたので、私も彼も、二人に構わず話ができた——とは言え、彼らの親として話すだけで、それ以上踏み込むことはなかったが。
 目的地へ着いてからも、それは大して変わらなかった。
 ところで、私はバーベキューは初めてだった。肉を焼く行事だということは知っていたが、具体的になにをどうすればいいか、まったくわからなかった。食材はすでに調理済みで、あとは焼くだけのものが用意されていたため、私はただ馬鹿みたいに突っ立っている他になかった。一方、彼は手際良く鉄板や炭を準備した。私の夫はこうしたことに非常に疎いので——今だからこう形容できるが——少しばかりときめいたのだった。

 いいだけ食べて、微かに眠気の纏う昼下がり。河原を走り回る子どもたちを横目に、私と彼は笑みを交わした。
「いつも、ありがとうございます。本当に、助かっています」
「気にしないでください」と私は答えた。「夫も、もう一人子どもができたようだと、喜んでいますから」
 彼は寂しそうに笑って「そうですか」と言った。私は、しまった、と思った。
「私個人はさっぱりしたものなんですけどもね、娘のことを考えると」
 彼は頭を掻くと息女のほうへ目をやり、寂しそうな表情を固めてしまった。
「やはり、妻に戻ってきてもらったら、と考えずにいられないんですよ」
 私は不意に、私と彼が一緒に暮らしている様子を思い浮かべた。下の子は、彼の息女と仲良しだ。上の子もきっと仲良くできるだろう。子ども三人と、私と彼との——悪くない。
「今でも、奥様のことは?」
「いえ……」
 彼は自嘲気味に笑った。私はつい、ほっとため息をついた。
 いや、と目を伏せる。なにを考えているのだ。
 それから訊きたいことはフツフツと湧いてきたが、息子が勢い余って川に飛び込んだために機会は絶たれてしまった。叱る私をニコニコと見やる彼に、なにか胸の熱くなる想いがした。


 それ以来、ぼんやりすることが多くなった。家事はいつも通りにこなしていたから夫に訝られることもなかったけれど、そのことが却って私を苛立たせた。
 朝起きて、朝食を作り、家族を起こして、子どもを送り届け、家事をして……ぼんやりしているうちに幼稚園へ子どもを迎えに行く時間が来る。すると、私の心は華やぐ。
「こんにちは」と、私は彼に挨拶をした。
「やあ、こんにちは。今日は、預かっていただかなくても平気です」

 この頃は仕事が落ち着いているらしい。以前のように彼自身が迎えに来て、そのまま帰ることが多い。息女と食事をすることは素直に楽しみだったが、今はそれよりも彼と話せることが嬉しかった。彼の表情や、身体の動き、一つ一つにくすぐるような切なさを感じた。驚くほど初心で、純粋な、桜色の気持ちを。まるで、処女だった頃のように——しかし、当時、その処女は戦車に乗ってもいたのだった。あの頃の私なら、突撃一辺倒——そんなアプローチができていただろうか。
 いや、今だって——指先を震わせるも、すぐに目を伏せた。出会うのが遅すぎた。私は夫を愛してはいないけれど、それでも夫は誠実な私の夫で、私もまた誠実な妻だった。
 そして彼は? シングルファーザーという立場に置かれているのを、単に同情しただけなのだ。

 なんてことない世間話の途切れに、口の中で呟いた。
 Pity is akin to love.
 可哀想だた惚れたって事よ。
 しばらくして、彼の息女が門から出てくると、一目散に父親に抱きついた。
 はて、と私は思った。息子の姿がない。身を乗り出して見ると、息子は少し離れたところに仏頂面で立ち止まっていた。
「どうした?」
 息子の傍へ歩み寄り、目線を合わせ、笑いかけても、息子はぎゅっと口を結んだままだった。

「喧嘩でもしちゃったか?」
 訊くと、息子はこっくりと頷いた。
「あんなに仲が良かったじゃないか」
 私は息子を抱き上げて門を出た。そして、同じように息女を抱いていた彼へ別れの挨拶をすると、そそくさと家に帰った。


 その夜、ずいぶん久しぶりに夫から求められた。セックスの回数はもともと多くなかった。お互いに淡白な性分で、今では月に一回あれば多いほうだ。私から求めたことは一度もないが、夫から求められたときは断らなかった。しかし、今夜は身体を離し、私は夫に背を向けてしまった。夫が小声で謝るのへ曖昧に返事をしたが、むしろ、私の身体は火照りさえ覚えていた。しかし、この火照りは夫のためではなく、別の男のためであった。微かに浮かぶ罪悪感を見たくなくて、私は目をつむった。


 息子はなかなか、彼の息女と仲直りしなかった。しかもこの頃は、別の女の子と手を繋いで門を出てくる。
「羨ましいな」
 私は半ば本気にそう思って、苦笑混じりに呟いた。
 息女はと言えば、ひとり逞しく園内から父の腕の中へと走ってくる。彼は息女を家へ帰したあと、また仕事へ戻るのだろう。私の家で息女を預かるのは、彼のほうから断られた。つまり結局、以前の状態へ戻ったのだった。ただひとつ以前と違うことは、彼と話す機会さえ私から奪われたことだ。息子が他の子と仲良くなれば、自然、その親御さんと話すことになる。
 彼とはすれ違って挨拶する程度になってしまった。

 他人からすれば、なにも変化などないと見えるだろう。けれど、違うのだ。確かにあった繋がりが、断たれた。私は、息子が彼の息女と仲直りするのを、祈る他なかった。本当に、ただ、祈っていたのだ。

 ある日の昼下がり、ふいと万年筆を取った。便箋を撫でつけ、ためらいがちに筆先を落とした。極端に記号化された文句から書き始め、それから私の息子と彼の息女について書き、彼の仕事や体調の心配を——私は手を止めた。迷惑だろうかと、そう思う以前に私は人妻なのだ。
 不意に、胸の底の奔流にむせた。どうしてだろう。誰が私を連れてきたのか。

「これが恋なのでしょうか」
 ため息を書き写して、手紙を結んだ。その一文が宛先を奪ってしまった。
 私は上着の内ポケットへ手紙を入れておいて、彼を見かけたときどきに胸元さすってみた。それで少しは具合がよかった。

 そんなお遊びを続けているあいだに、彼は幼稚園へ姿を見せなくなった。彼だけじゃない、彼の息女も登園していないようだ。それとなく息子に訊くと「ビョーキ」と短い答えが返ってきた。
 私は家へ帰ると、すぐに彼へ電話をした。
「入院しているんです」
「えっ……」
 彼の言葉に一瞬気を失いかけたが、どうにか持ちこたえた。悪い想像とどこかで耳にした病の名前がぐるぐると頭に渦巻いた。彼は電話口にも私の様子を察したらしく、軽く笑って「胃潰瘍ですよ、すぐに治ります」と言った。それを聞いて、ひとまずほっとした。遅れて息女のことを訊くと、入院のあいだだけ預かってもらっているそうだ。

「大事でなくてよかったです……」
 それから明日にも見舞いへ行くと告げて、私は電話を切った。
 居間のほうから、私を呼ぶ息子の声がした。
「今は、仲良しじゃないもんな」
 苦笑しつつ、居間へ向かった。


 窓辺の花は微かに乾いていた。吹き込む風にかさかさとこすれ合った花びらが一つ離れ、シーツの上に落ちた。花を持ってこなくてよかった、と私は思った。
「お気遣いいただいて……」
 紅茶の箱を棚へ置くと、彼は照れくさそうに頭を掻いた。顔色はあまり良いと言えないが、思っていたよりも元気そうで安心した。
 傍の椅子へ腰掛けたはいいものの、なかなか言葉が思い浮かばなかった。

「入院と言うので、驚きました」
「本当に、大したことはないんです」
 そう言って、彼は笑った。笑い返してすぐ、なぜだか耳のあたりがくすぐったくなり、私は目を伏せた。柄にもなく、もじもじと手遊びが止まなかった。
「貴方は……」
 言いかけて、内ポケットの手紙に意識が集まった。

 目を上げると、彼と視線がぶつかった。胸の底にある奔流が、喉元へせり上がるような気がした。それは悲しい音を纏っていた。
「もっと、早くに出会っていたらよかった」
 独り言のように呟いて、私は再び目を伏せた。
 風が吹いて、沈黙を攫っていった。

「西絹代隊長」彼は言った。「かっこよかった」
 私は顔を伏せたままだったけれど、頬が熱くなるのを感じていた。同時に、代えがたい寂しさも。
「もう、戦車には乗らないのですか?」
 彼は無邪気な子どものように訊いた。私もまた、無邪気に笑ってみせた。

「貴方は、ずっと前から私を知っていたのですね」
「すみません、僕が勇気を出していたら」
「いえ、いいんです」私はようやく顔を上げた。「いい思い出ができました」
 胸元の手紙は、捨ててしまおう——彼を責める気には、とてもなれなかった。
「貴方が好きです。だから、さようなら」
 私は腰を上げた。
「ええ、さようなら。また」
「また……」

 私は感情の氾濫を悟られまいと、足早に病室を出た。
 ドアを閉め、少し離れたベンチに身体を投げ、それからやっと涙を手放した。堰を切って、感情が指先へ巡った。
 私は泣いた。行き場を失くしたことごとを、涙が押し流して、それで赦しを乞うように。

 ようやく頬が乾いた頃に、傍を母娘が通り過ぎた。二人は、彼の病室のドアをノックした。
 そこに私の入る隙間は、少しだってなかった。
 悲しくも嬉しい彼の幸福は、私の願いに消えてしまうがいい。


 私は涙を拭いた。恋は音速で通り過ぎたことを知った。
 そして私は私の幸福へと帰った。
 だから、これからの私は、不幸にも恋をしたことがないと言うことはないだろうに。

以上です。お付き合いいただき、ありがとうございます。

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