スイーツ・ファンタジー(ハヤテのごとくSS)(8)

 遠く、真空を隔てた先の地球は、どこまでも蒼く命の色に染まっていた。
 たったそれだけのことで、瀬川泉はふと月の重力の少なさ以上に体が軽くなるのを感じた。ごわつく上に汗臭いパイロットスーツの重苦しさを一時忘れてしまった。
 我ながら単純にできていると思う。だがたった今、「ただそれだけ」のことの価値に、気づくことが出来た。命と秤にかけるに足るものであると、ようやく心の底から思えた。
「瀬川准尉、準備できました」
 最後の点検を終えた整備兵が、泉に敬礼しながら報告する。
 形だけではなく、その眼差しには真実の熱い敬意と希望が籠っていた。
「うん。ありがと」
 泉は照れくさくなって、崩した敬礼で応じる。自分は、そんな大層な人間ではない。きっと、勘違いされている。だが、それは言わずにおいた。今は、たとい偶像でも英雄が必要だ。
「……では、行ってきます」
 らしくもなく凛然と胸を張って、相棒となる巨人を見据える。カーボンファイバーを多用したフレームは強靭さと軽さを併せ持ちながら、触れれば金属の冷たさよりも無機質な手触りを返してくる。エアスラスターをリミットなしで使えば、その加速度だけでコックピットのハラワタをひき肉に出来る実に便利な調理器具だ。
 訓練の時は間近で見るといつも空恐ろしさがあったが、こうして見ると頼もしさを感じる。なにせ、これは兵器なのだ。敵を討つための弾丸。ならば仰々しいくらいで丁度良い。
「ヒナちゃ……桂少佐によろしく頼むわ。きっと、怒っているだろうから」
 言い置いて、返答を待たずにタラップを上る。
 怖くないと言えば、勿論嘘だ。暴力を振われるのだって嫌だし、振う側に立つことすらそうだ。とくん、とくん、と心臓が大きな音を立てている。今にも張り裂けてしまいそうだが、不思議と足が震えたりはしなかった。
 狭苦しい胸部コックピットに捻じ込むようにして体を滑り込ませ、自分の目で機体のコンディションをざっと確認していく。見てくれこそ散々カッコつけてはいるが、中身は案外チョロいもんである。要は、スイッチが沢山あるだけのコンピューターだ。基本的に本格的にヤバければ一目で解るし、一瞥する程度のチェックでもとりあえずは飛ばせるようには設計されている。基礎的な制御を学ぶだけなら、数日シミュレータにカンヅメにすれば事足りる。その容易さを歓迎すべきどうかかは、生き残ってから考えることにする。
 ハッチを閉めて、サムズアップを地上整備員に見せる。タラップが、外れる。第二エアロックが完全に基地内の気密を確保する。カタパルト室内減圧開始。唾を呑んで耳抜きしようとして、びっくりするほど口の中が乾いていたのに気づく。今日何度目かもわからない深呼吸。怖い。だって、どうやったって勝てない。自分なんかよりよっぽどすごい人たちが総出で負けたんだ。あるいはコックピットを撃たれて悲鳴を上げる暇すらなく死にあるいは制御を失って永遠に干からびるまで宇宙をさまよって死にもしかしたらそれ以上に未熟な自分には想像もできないくらいに痛くて苦しい結末が待っているのかもしれなくて
「ヒナちゃん」
 友人の名を、呼んだ。勿論答える声は、無い。
 奇跡なんか起きなくて、今でも彼女はあの時のままで、今ここに駆けつけて止めてくれたりなんかしない。泉と変わってくれたりなんか、しない。
 ままならないことばかりだったけれど、それだけがただ一つ、泉の望む戦果。
 弱音を唾と一緒に呑みこむ。
 第一エアロックフルオープン。射出。青き星に向かって、落ちていく。
 地球の重力を利用して加速するスイングバイ軌道。
 見納めの時だった。


 兵器の技術の進歩は著しく、最早一兵卒で十全にすべてを理解することは不可能だ。見かけ上容易く動作する機器というのは、どうしてもブラックボックスが増えるモノである。
 煩雑で専門的な知識を兵士に取得させるより、上っ面の取り扱い方だけ教えて後は戦場にばら撒いた方が実戦経験を積ませる観点から見てもよほど有意義だ。
 食い物を温めるのに、電子レンジのノウハウをまともに勉強する奴なんていない。壊れたら修理に出すか、それでも直らなければ廃棄するだけである。
 果たして、桂ヒナギクはボタンが無くなっても電子レンジが使えるヤツの一人だった。
 だから、上層部は優秀な彼女を異例の若さで佐官の席に抜擢した。戦死される前に、デスクに縛り付けるために。幸いにして、戦時中の書類なんてとりたてて用意するまでもなく湯水のように湧いて出る。ちょっとした備品の補充以来とか、ぶっこわれたトイレを直してくれだの、好きです結婚してくださいだの、このクソアマうざったいんだよどっかいけだの、あらゆる書類を処理した。それは、まだいい。ただ、仲間の戦死を認める書類にサインをするときは、未だにいわく言い難い気持になる。慣れない、というより慣れたくなかった。目を背けなければ心がやられる。そう解っていたからこそ、生きている彼女は、その痛みを享受した。一つ一つの死を心に刻みつけた。ヒナギクは、今でも部下の名前と顔、生年月日、身長、予想される戦死時刻、個々人のちょっとした癖に至るまで死ぬかもしれなかった奴の情報は、死ぬ気で頭に叩き込んである。そしてもちろん、心にも。
 最初のころに目に入ってきたのは勇猛果敢な男どもの名前だった。
 多くが、気を抜けば風呂は覗いてくるわ、尻を撫でてくるわ、挙句には胸を触った挙句物足りねえと文句を言ってくるわの、アホな連中であった。木刀でシバいた回数は足の指まで使ってで数えても足りない。見た目通り頭の中まで甘々の、掛け値なしの糞野郎どもであった。
 そして、年少故浮いていたヒナギクを、オヤジたちらしいおせっかいさとデリカシーのなさと、クソガキのような照れ隠しをもって、家族にしてくれた……同じ釜の飯を食った仲間たちだった。皆気に食わない、気の置けない連中だった。
 そこから先は、おおよそ年次順に名前を見ることになった。出世を恨んで嫌がらせをしてきたヤツとか、きったねえ字の手紙を残していったやつとか、そばかすをやたらと気にしてるやつとか、同期のいつも座学訓練中は眠りこけていたやつとか、ついには後輩の名前を見た時なんかには、余りに自分が違うところに来たのだと思い知って、愕然とした。
 宇宙で戦えば、当たり前だがほとんどの場合遺体すら見つからない。そも、遺体を探す指示を出す余裕さえ、ヒナギクがデスクに着くころにはなかった。苦悶の表情が浮かんだ死相を見るのと、空の棺桶に手を合わせるのとは、果たしてどちらが気が楽なのか、未だにその答えは出ていない。
 そのせいか、書類にサインをする瞬間まで実はその人間は生きていて、彼女こそがギロチンの縄を切る執行者なのかもしれないと錯覚することがある。いや、あるいは万が一の生存の可能性を諦めるという意味では同義とさえいえる。

 はい。この人は実に勇猛果敢に戦い死にました、ええ。はい。私が保証致します。ご愁傷様です。誠に残念です。つきましては彼の偉業を讃え遺族の方々にはせめてもの手向けとして立派な棺を用意したく――そう書くためにペン先を1ミリ走らせるか、5キロのウェイトを付けて10キロ走るかと言われたら、迷いなく後者を選択するだろう。なんなら、その倍のウェイトを付けてさらに倍を走るとしても喜んでやってやる。
 ……破綻するのは、時間の問題だった。
 そして、それより早く破滅は――敗北は訪れた。
 もう、まともに戦えるような人間は誰も残っていなかった。 そう。 ただ一人、この決定的瞬間にまで机の上の書面とあっぷっぷしていた不貞物を除いて。
 ふと、体が軽くなった気がした。涙が溢れそうになる。ただただ、嬉しかった。ようやく、みんなを追いかけられる。臆病でゴメン、みんなを救ってあげられる指揮をしてあげられなくてごめん。と謝れる。バカ野郎負けてんじゃねえよと固い軍靴でケツを蹴り上げてもらえる。やったなこのやろうと殴り返せる。蛇ののたくったラブレターにごめんなさいを出来る。こわかったんですようと泣きわめく後輩の頭をくしゃくしゃにしてやれる。そうやってもみくちゃになって、大笑いして泣くことができる。死んでしまったら、どうせ何もかもが仕方のないことになってしまう。
 絶望に固まる管制室の中で、ヒナギクだけが椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「私が、行きます。戦える機体がまだ一機ドックにいたはずです。整備を急がせれば、敵が到達する前にまだ一太刀浴びせるだけの余裕はあります」
 返事は、無かった。唖然とする木偶人形をしり目に、早々とヒナギクは備品管理室を目指す。まさか、止める者は居まい。この期に及んでは、自分こそが唯一の希望の筈だから。
 遺書を書く暇はなさそうだなとヒナギクは思った。別に、今更今わの際まで鉛筆を握っていたいとも思えなかった。

 ところで、誠に残念ながら、月には人が住める土地が少ない。したがって、風呂とかトイレとかは基本的に共用で、一兵卒の部屋は部屋というよりようするにカプセルホテルのそれである。幸いなことに最近は空きも目立ってきたため、やろうと思えば色んな私物を他人の部屋に押し込むこともできるし、気まぐれに部屋を変えてみたり、うっすい壁を蹴破れば二部屋分のスペースを一部屋として使うことも不可能ではないかもしれない。おそらく、大した問題にもならないまま看過されるはずだ。だが、その割には、どこも前の住人が使ったまま放置されている。清掃員もシーツを変えることすらしない。生活の色が濃く残ったまま、埃だけが積もらないように密閉されて保存されている。
 そのせいで、余計不気味だ。と言うものもいる。そんな場所で眠る連中の神経が理解できない。とも。……アホか。本当に状況を保存したいなら、自分もまた、そこから除外し得ないことが、どうしてわからない。
 おそらく、ここが月の基地内部で戦争を肌で感じ取れる場所だろう、とヒナギクは思う。それが、佐官としての地位を得て個室を得る権利を得ながらも、敢えてここを休息地として選び続けてきたなによりの理由だった。
 霊安室に片足を突っ込んだような場所に、ヒナギクは糊のきいた制服を脱ぎ捨てていく。この堅苦しい服ともようやくおさらばなわけだが、これもまたヒナギクの過去であるのには違いない。だから、ここに遺しておこうと思った。ケツを拭くのにも使えない、ただの紙切れ一枚をしたためるより手軽で済むという利点もある。
「ヒナちゃん」
 完全に油断していた。まさか、こんな場所に他にまだ誰かがいようとは。鈍っている。「ヒナ」の時点でようやく脊髄が反射し、「ちゃ」で地を蹴った。「ん」が言い切られた時には、相手の背後をとっていた。まさしく白兵にも長けたヒナギクならではの電光石火の早業であった。そして、そこでようやく、相手が学生以来の友人であることに気付いた。
「桂少佐よ。瀬川准尉」
「ううん、ヒナちゃんは、ヒナちゃんだよ。私がいつまでたっても瀬川泉なのとおんなじ」
「臆病者が何をしに来たの?」
 ころころと、泉は笑った。最近多少は軍人らしくなってきたと思っていたら、これだ。
「決まってるじゃない。無茶する友達を止めてあげられるのは、もう私だけだから。ヒナちゃんは、生き残らなきゃダメなの。皆の、私たちの為に」
「どうやって。もう、戦う力もないのに。ただみんなして手をこまねいて死を待つだけよ」
「力なら、ここにあるでしょ?」
「今更……!!」
 戦いたくないと、泣き叫んだのは誰だったのか。怯えて逃げ出したくせに、ようやくヒナギクが得た死に際を、しゃしゃり出てきて奪うというのか。
「ヒナちゃんは、みんなの標だから。ヒナちゃんが居たから、みんな頑張れた。ヒナちゃんが覚えていてくれたら、ずっと私たちは無くならない」
「勝手なことを」
「私は、もう逃げないよ。ヒナちゃんも逃げちゃ、ダメ」
 我慢の限界だった。今すぐにでも、ぶん殴ってでも首を絞めてでもこの耳障りな言葉を囀る口を、黙らせ
「が……ッ……!?」
「らしくないよ。ヒナちゃんはいつだって冷静だから、強かったの。そんな生き急いでる状態だから、私にさえ後れを取ることになる」
 全く、鈍っている。後ろをとった優位にかまけて、相手の武装を確認するのを怠るなんて。インスタントカメラを改造した簡易スタンガン。まさか、よりにもよって泉がそんなものを用意しているなんて。らしくないのはどっちよ。と言い返すより先に、ヒナギクの意識は闇の中へと落ちて行った。

 今や小さな点と成り果てた友。余りにも遠く、決して触れることは叶わない。だから、桂ヒナギク中佐は、ただ敬礼に無意味な祈りと懺悔を乗せて立ち尽くすしかなかった。
 本来なら、出撃するのは自分の筈だった。腕にも自信はある。泉になんか、ひゃっぺんやったって負けない。そもそも操縦の仕方を教えたのだってじぶんだし、訓練のたびにびゃーびゃー泣きわめくのを、時には友人としてなだめ、時には軍人として発破をかけ、激励していたのだって自分だ。
 自分なら、泉がやるよりぜったいに上手くやれる。泉より一機でも多く敵を蹴散らし、一秒でも早く回避し、だが決して逃げ得ぬ死の定めに捕らわれたであろう。
 どうあがいたって負け戦だ。一騎当千がまかり通る時代はとっくの昔に過ぎている。一騎当千の猛者が決定的に優劣を示せるのは一騎打ちの時くらいで、それ以外のおおよそほとんどの戦争では、つまるところ数が一番重要なファクターなのだ。
「みんな、勝手なんだから」
 皆の墓標たれと、泉は言った。託すしか出来ることのないと思っていたヒナギクに、託していたのはむしろ皆の方なのだと。
 そういえば、ヒナギクの後を継ぎ、泉の教官を担当していたのは人の良いあの軍曹だったなと思い出す。やっぱり頭の中まで甘ったるくて、見た目の割にやることに穴が無いしたたかな人を。

 コンバット。敵影は30。ありきたりの人型汎用戦闘スーツ。
 こちらは1機。笑ってしまう。たかが30倍の戦力差くらい、ピクニックも同然だ。
 武装はミサイルが4発に両腕に携えもつ口径35ミリのアサルトライフルが二挺。装填段数は各12発。変えのマガジンが4つ。
 さて、宇宙空間で発砲した場合、作用反作用の法則をモロに受ける。
 発砲後も姿勢を維持するとなると、必然反対方向にも同じ力を与えなければならないわけだ。これが二挺ライフルの所以なわけだ。
 つまり、実質戦闘に使えるのはライフル一挺と言い換えることが出来る。
 それでは、どうやっても押し負ける。マガジンを換装する間なんて、ある筈がない。
 しかし、一度の射撃で二人を倒せるなら、換装することなく28の敵を殲滅できる計算だ。
 どうだ、多少は数学も得意になったでしょ? ヒナちゃん。
 反対方向に放たれる2つの弾丸を、須らく必中させるためには、要するに敵のド真ん中に立てばいいだけの話なのだ。
 一番スポットライトの明るいところでハードラックとダンス出来るのは、主役冥利に尽きるというものである。
「おおおおおおおおおおおおおお!!」
 力の限り吠えた。女の覚悟の、叫びだった。敵の位置を把握し敵の動きを予測し、もっとも効率的な位置を割り出し、遮二無二殲滅する。スラスターフル出力。過大なGに視界がブラックアウト、問題ない。目に見えずとも、予測のうちにある限り、泉の一撃は必中する。
 マスクの中は、すっかり鉄の味だった。さむい。でも、最後の血の一滴まで、死ぬわけには――
 ああ、私もすぐに向かいますから。もう少し待っていてください。
 ドーナツ軍曹。


「……ふにゃ?」
「……ふぇっ?」
「二人して随分とゆかいな夢を見ていたようだな」
「本当に良いやつだなドーナツ軍曹」
 ヒナギクと泉が、寝ぼけ眼で目を見合わせる。
 それから視線を理沙と美希へ。ニタニタと笑う二人を目に収めた瞬間、同時に顔を真っ赤にする。
 ヒナギクがほっぺたに服の後を付けたまま立ち上がった。
「ーーーーーーーーッ!!」
 声にならない叫びを上げるヒナギクを余所に、泉はただ照れてにははと笑うだけだ。


 夢の内容は、もう二人にも思い出せない。
 今日も今日とて、白鳳学院生徒会室は平和なのである。


 完

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